2012-01-02 15:56 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
大胆な改訂ですが表題も2015年10月10日をもってして変更としました。原文の印象が強いものと思いますが、その効果も狙って全面的な改訂とします。もちろんシンボリズム的にはカトリック、イルミナティの影響が濃いものとなっていますが、それが2017年の記念すべき年に向けての作業という事になるかと思われます。以前のキャッシュと比較しながら検討されればまた面白味もあるかもしれません。ロータリークラブのシンボリズム(2015/10/21追記:Ronaldで現在のスコティッシュライトのグランドコマンダーブラザーロナルド・シールと同じ名前となり、またRそのものでRegina、女王の意味ともなり、女王の紋章、の意味の暗喩ともなるかと思われます。ブラザーロナルド・シールの名前そのものが、女王の紋章の意味にかかっているのですね。もちろんブラザーロナルド・レーガンもスコティッシュライトの名誉表彰を受けています。)の入ったロナルド・レーガンの横須賀お披露目もあり、ブログも更新となります。

冒頭ですがフリーメイスンリーについての日本における基礎知識です。このブログを読まれる方は先にこれらすべての本を読まれることをお勧めします。

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(追記2013/3/15:上記5冊は付け加えました。後述のフリーメイスンリーの本について その2で解説しています。参照してください。)
(追記2013/4/30:さらに3冊付け加えました。)
さて横須賀のフリーメイスンリーのシンボルと言えばまずはなんと言ってもブラザーヴェルニー公園でしょう。
場所は京急だと汐入、JRでは横須賀駅から徒歩数分、ダイエーまたはショッパーズプラザと呼ばれる横須賀で最も大きな商業施設、ショッピングプラザの横にある米軍と自衛隊の駆逐艦、潜水艦が常時見られる公園です。もともとただの臨海公園だったそうですが、平成13年になってブラザーヴェルニー公園となったそうです。横須賀ドックを江戸時代に建設したフランス人ブラザーフランソワ・レオンス・ヴェルニーを記念した公園です。

$kosuzumekyokiuのブログ-夜のヴェルニー公園
夜のブラザーヴェルニー公園
$kosuzumekyokiuのブログ-赤いバラ
赤いバラ
$kosuzumekyokiuのブログ-黄色いバラ
黄色いバラ
$kosuzumekyokiuのブログ-ピンクのバラ
ピンクのバラ
$某秘密結社の横須賀での活動について-紫のバラ
紫のバラ
$某秘密結社の横須賀での活動について-白いバラ
白いバラ
$某秘密結社の横須賀での活動について-ブラザー鳩山一郎が愛したバラピース
ブラザー鳩山一郎が愛したバラ ピース

美しいバラ園になっていて時期は5-6月頃が一番よいかと思われます。
園内の中心にある日本でいうところの休みどころの形がまさにフランス様式のフリーメイスンリーのシンボル(アンティークエプロン参照)そのままの形です。近くに見晴らしの良いスターバックスカフェ等もありますのでぜひお立ち寄りの際は一服して開港から日米安保の現在までの歴史に思いをはせてはいかがでしょうか。
$某秘密結社の横須賀での活動について-フランスのアンティークエプロン
フランスのアンティークエプロン
$某秘密結社の横須賀での活動について-抹茶フラペチーノ
スターバックスからの光景、抹茶フラペチーノと駆逐艦
(追記:ブラザーヴェルニー公園の隣にある海上自衛隊の基地の入り口にも碇があります。碇はフリーメイスンリーのシンボルです。)

最近はバラもつる薔薇がかなり成長して、赤いバラの連なる部分もかなり見事に咲く状況のようです。赤いバラで日の丸のようでもあり、またスコティッシュライトのようでもあります。潮風でたびたび枯れてしまう部分もありなかなか安定しない生育状況もあるようです。

(2015/11/20追記:2015年11月15日にブラザーヴェルニー公園で横須賀製鉄所着工150周年を祝う式典が日仏関係者が集まり催されたそうです。パリでの同時多発テロの直後で、小雨の天気であったようですが、粛々と駐日大使なども祝辞を述べて祝われたという事です。関係記事のリンクを置きます。Yahoo!毎日市長ブログNHK
インターネットの横須賀地域の掲示板によると小泉元総理の自宅のある三春町の京急線の駅である、堀之内駅の駅前に横須賀メソニックセンターというおそらく横須賀の基地外ロッジができる状況であるようです。こちらも私は現在のところは詳しくは知りませんが、このブログの当初の主旨と一致した成果と考えることができるかと思います。パリでのテロという悲惨な事件の後ではありますが、日本のフリーメイスンリーの歴史としては極めて輝かしいマイルストーン、一里塚であるかと思われます。ぜひこのままフランス人住居の再建からメソニックロッジが活況を帯びる都市へと進展を遂げてほしいかと思います。猿島のオベリスクやYRP野比の観覧車など私の腹案もブログで披露できればと考えています。
堀之内もHoly Nouch聖なる宝飾または、聖なる否定的な感嘆という意味に、古語や感嘆句ではあるようですがなるようです。まあなかなかの土地ですがいかがになるでしょうか。かつてのブラザーデッカーの司令長官邸などもあったようですが。)

潮風に 揺れるバラの葉 春を待ち
2012-01-03 08:54 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー

ペリー公園

日本の開国といえばブラザーペリー来航ですが、実際には種子島にポルトガル船が来航して以来常に欧米諸国は江戸幕府を通じて接触を持っていました。和歌山県にもブラザーペリー以前にアメリカ人の日本への上陸がありオベリスクが建っているそうです。

ところで横須賀、三浦半島でのブラザーペリー上陸の地といえば浦賀が有名ですが、浦賀は奉行所があった場所で、現在は造船所の跡地がありますが、もともと天然の良港であり蒸気船が近付くのに適した場所でした。実際に上陸した場所は案外知られていませんが久里浜という砂浜です。
この辺のいきさつは来航から上陸までの様々な駆け引きがあり、またそこに至るまでの欧米諸国の情報交換や欧州での政治状況など様々な要素が絡み合い極めて複雑な情勢です。

少なくともマルコポーロのジパング伝説から始まって、東方に智恵や光を求める伝統をもったキリスト教、フリーメイスンリーでは鎖国した日本という国に対して想像以上の期待をしていたことは考えられます。

上の写真が久里浜のブラザーペリー公園です。伊藤博文公の達筆な記念碑の碑文があります。伊藤博文公の人物像もなかなか興味深いところですね。碑を取り囲むようにおかれた錨(碇)はフリーメイスンリーとキリスト教のシンボルであり、まさにこの地が日米の歴史上最初にがっちりと結びついた地であることを示していると思われます。

ペリー公園

いろいろな感情があるとは思われますが、下手ないたずらは品がありませんね。その後のペリー祭りの際には修正されていました。

奥にある列柱をもった建物がブラザーペリー記念館で来航時の解説が聞けます。ヴェルニー公園の休み処と似た作りになっていることに気づいていただけると少しありがたいのですが。
周辺は松林になっていて、松林は防砂林ということもあるのでしょうが、明治維新以降は一応天皇家の象徴ととらえて差し支えないのではないでしょうか。開国の経緯が様々に絡み合うものと思われます。まあこの辺はシンボリズムの絡みでなかなか難しいですね。
(2018/10/28追記:久里浜も発電所の3本の煙突が、建て直しで1本の煙突になるとのことですが、このブラザーペリー公園の松でも気づいたことがあったので追記します。松とブラザーペリーのファーストネームのマシューと駄洒落なんですね。まあアメリカンメイスンって感じです。四福音書最初のマタイ伝です。松の英語名pine, 学名pinusも樹脂から由来する、分泌するという意味を含んでいるようで、脳下垂体とも同じ語源となるようでなかなか象徴的であるようです。)

ペリー公園ラフアシュラー

戦後にブラザーペリーを記念して出身地から送られた石。
最近ではブラザーペリー提督がフリーメイスンであったことはテレビや専門書などでもよく言われているので、多くの人が知っていることだと思います。彼はそもそもアメリカ海軍の名門の出身で、兄弟が南北戦争での海戦で活躍したのでそちらがアメリカでは有名だそうです。彼が日本に来た時にはアメリカでは伝統の大統領選挙で政権交代がありブラザーペリーはかなり宙ぶらりんな立場になってしまったため、功を焦ってかなり強引な形で日本を開国させる形となったそうです。
そのためでしょうか、本来ならばフリーメイスンを象徴する立方体の磨かれた石(パーフェクトアシュラー)ではなく明らかにごつごつとした磨かれていない石(ラフアシュラー)で示されています。

これは一つのフリーメイスンに対するフリーメイスンたちの評価を現すシンボリズムであり、時代や歴史の正当な評価というものに極めて厳密な意味付けをするフリーメイスンリーのいわゆる秘密に相当する部分だと思われます。(追記2/19:このラフアシュラーの意味については色々あるかと思います。むしろざっくばらんなブラザーペリーの人間性や日本人の評価を反映したものかもしれません。なかなかラフアシュラーの意味も難しいですね。)ここは本当に難しいですね。

ブラザーペリーは蒸気船の中で徳川幕府の役人に船内で行っていたフリーメイスンリーの儀式を見学させたそうですが、徳川幕府のお侍さんにしたら西洋の黒魔術のように思われたのかもしれません。いずれにしてもワシントンへの訪問団も後に結成されていることですし、日米友好の懸け橋になったことは確かであり、功罪あるとはいえ偉大な業績であることは間違いないでしょう。

ブラザーペリー公園の目の前には久里浜海岸が広がりバーベキューをする人たちや釣りをする人などがいます。隣には黒船食堂という食事どころもありますが、なかなかこの場所はフリーメイスンリー的には極めて重要な場所なのですが、そもそも相当のどかな寒村であったと思われ現在の状況は複雑そうです。

東京電力久里浜発電所

久里浜の現在のシンボルと言えば東京電力の横須賀発電所の煙突です。
3本の煙突がフリーメイスンリーのロッジに常にある3つの小さな光を意味すると思われます。
意味は太陽と月と地球であるとか、様々に言われています。その他にも3つの列柱や3つの偉大な光など3で代表されるシンボルは多数ありますが、頂点が正三角形の配置にみえることからもシンボルとしては3つの小さな光ではないかと思います。ロッジで一番最初に目につくフリーメイスンリーのシンボルです。電力というブラザーペリーがもたらした文明の利器を象徴するのにふさわしいものではないでしょうか。

もちろんどこに行っても確かめようはないと思います。
その場に行き勉強してそれぞれの意味を考えたときに出る結論がそれぞれのシンボルなのです。

現在原発事故後の節電の影響で、営業停止予定であったものが再開され稼動しています。

久里浜自体には少し離れたところにあるごみ焼却場の熱を利用したプールや花の国という公園もあります。久里浜公園とあわせて家族連れが好ましいかもしれません。発電所のわきにはブラザーペリー通りもありますがなかなかこちらも雰囲気が複雑です。久里浜には現在も海上自衛隊の学校があり、過去には海軍の通信学校があり終戦間際には回天特別攻撃隊などの特攻訓練や様々な通信技術の訓練が行われていたようです。その事も現在の久里浜に様々に影響しているかもしれません。

ブラザーペリー来航で久里浜よりも有名な浦賀はかなり落ち着いた高齢者の多い街です。奉行所跡や渡し船、江戸時代の灯台跡などもあり、江戸の風情を現在に残し、かつ造船ドック跡と微妙にマッチしたこれもまた散策するには面白い町です。

日本の近代史を知るうえで知らないではいられないブラザーペリー来航の地久里浜、浦賀は是非一度は訪問して損はない土地だと思います。



最近は浦賀も久里浜もめったに行くことはなくなりましたが、なかなかブログの影響もあるでしょうし、できることなら記念碑的な建築が一層進行することが望ましいですがどうでしょうか。
(2016 2/20追記:最近は浦賀のキリスト教禁教以前のフランシスコ修道会の存在や徳川家康の関係などが具体的に日本で発表されているようです。浦賀での奇跡の海渡の話などはその関連のようです。なかなかドラマチックな話であります。詳細はリンクを参照してください。)
2012-01-04 09:55 | カテゴリ:全国の市章
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
横須賀市のネタを中心としたブログなのですが、あまりに横須賀のローカルな話ばかりだと日本全国の人に共有の話題を提供できないので、今回は横須賀市のシンボルそのもの、いわゆる市章についての話にします。

横須賀市章
いわゆる八芒星という形をしています。コンパス(方位磁針)を二つ重ねたようともとれるでしょうか。中の文字はヨコを組み合わせた形となっています。
コンパスの方位を示す形はフリーメイスンリーの建物などにも良く認められる一つのシンボルです。
英語でcompassを調べるとまず最初に①方位磁針、羅針盤②製図用のコンパス③境界、区域④声域などと出てきます。つまり羅針盤そのものでもいわゆるGeographyで大事なコンパスとしてのシンボルとなるのですが、綴りが同じでありCompassだけでもいわゆる製図用のコンパスと二重にシンボルとして掛かってくるということなのでしょう。
ヨコの形はいまいちよくわかりませんが、横浜市の市章ハマの形と対をなしているのかもしれませんね。
あとは八芒星の形というのは日本全国的にも他になく、8という数字が日本や東洋で吉兆とされる数字であること、星がフリーメイスンリーのシンボルであり、五芒星や六芒星がそれぞれにシンボルとして歴史があり様々な絡みがあるのに比べて、八芒星はBlazing Starとして適切でシンボリズムとして正当であると考えられます。以上からフリーメイスンリーのシンボルとして見た際にかなりシンボリズムを良く理解してうまく作られてまとめたものだと考えられます。
ヨコの形にしてもΛと∨の組み合わせに認められるように、いわゆる接合を意味するとも考えられ、ヨの形もシンボルの一つであるAnchor(碇)を横向きにした形にも認められなかなか良くできています。

またコンパスの北の位置にNの字があるのが通常ですが、横須賀市の市章では北の位置に小さな点があります。これは恐らく北極星に相当するのではないでしょうか。北極星に相当する日本でのシンボルは天皇陛下と思われます。これだけフリーメイスンリーのシンボルが目立つ中で小さな点一つで天皇の存在を誇示するところはなかなか優れたシンボルと思われます。

以上ですが、これらはすべて推測といえるものであり、市のホームページには説明として市章の中央は市名の頭文字「ヨコ」を三浦一族の家紋「丸に三つ引」風に抱き合せてあり、周囲は港を象徴して艦船の羅針盤をデザインしました。[明治45年(1912年)3月16日制定]、とあります。三浦一族の家紋ともかかっているのですね。なかなか市章も奥が深いです。

横浜市章

で、私の出身地横浜の市章ですが、ご存じのとおりハマのカタカナをひし形にしたものです。

菱の形もいろいろと意味があるのでしょうが、日本の伝統の文様としてかなり古くから存在する形のようです。Λと∨が重なり合う形は一つのシンボリズムのパターンだと思われます。

この形で重要なのはやはりアルファベットのGの形に模していることだと思われます。Gの頭文字はフリーメイスンリーのシンボルではかなり大事なもので、God(神)、Great Architect of the Universe(宇宙の偉大な創造主)、Geometry(幾何学)、Geography(地理学)、Gnosis(グノーシス主義)などの頭文字をあらわし、アメリカ系のフリーメイスンリーではコンパスと直角定規の中心にGの文字を入れるのがフリーメイスンリーの象徴とされています。

これについても横浜市のホームページでは横浜市き章は,明治42年の開港50周年を記念して,市民から募集してつくられたもので,ハマの2字をデザインしたものが採用されました公示は同年6月5日 地質は白,き章は赤です。と書かれています。

赤や青や白の色についてもそれぞれフランスの三色旗と同じくフリーメイスンリーのシンボルでは意味があるのですが、ここでは置いておきましょう。


さてここまで見てくると日本全国それぞれお住まいの場所の市章が気になってくることだと思います。


有名どころで気になる市章、県章などを挙げていきましょうか。あくまで個人の推察であり参考にしていただければ幸いというところですが。


やはり思い入れの強いところで横浜市のシンボルについて市章以外のものを見ていきましょう。

市の花はバラだそうです。

横浜市の花
これについてももうバラがフリーメイスンリーのシンボルとして重要なことはみなさん納得されると思われます。バラについては英国貴族のシンボルであったほか、ナポレオンの妻ジョセフィーヌが栽培に傾倒し現在の品種のもとになったそうです。日本でいうところの桜みたいなものでしょう。

横浜市の新しいシンボルマーク

横浜市新しいシンボル

これについては市のホームページでは2009年、開港150 周年という記念すべき年に、ヨコハマでは、市民同士が横浜の未来を語り合い、横浜の未来像を描く「市民参加型都市ブランド共創プロジェクト"イマジン・ヨコハマ"」が行われました。市民の想いを基に、「横浜の未来像」を表したステートメントと、未来像を短い言葉や図柄で表すスローガンとロゴマークが生まれました。開港200 周年に向けて市民の皆様と共有し様々な場面でご活用いただくとともに、国内外への横浜のイメージ発信に活用していきます。ステートメントに書かれている横浜に吹く自由で開放的な風をイメージし、風車の羽をモチーフにYOKOHAMAの「Y」を表したものです。3つの異なる四角形は、横浜の多様性を表しています。様々なヒト、モノが出会い、交差する場所。横浜のシンボル的な色である青を、3つの濃さで使用することで、マークに動きを与えています。とあります。


このシンボルはもう少しシンボリズムに詳しくないとちょっと分からない形なのですが、いわゆるピタゴラスの定理 直角三角形の二辺のそれぞれの二乗の和は斜辺の二乗の和に等しい というシンボルをあらわしています。 これはいきなり言われるとなんのこっちゃという感じでしょうが、図で表すとこんな感じです。

ピタゴラスの定理
この形はフリーメイスンリーの一つの重要なシンボルであり、マスターメイスンのシンボルの一つです。数秘術とも呼ばれる、数字にそれぞれ意味を込め、回文数や象徴的な数字に重要性を持たせるフリーメイスンリーでのピタゴラス学派や古代エジプトでの建築学への意味を込めたシンボルです。

ここまででだいぶみなさんおなかいっぱいと思われますが、ここから全国的な市章と県章などの話に移ろうと思います。

と思いましたがとりあえずここまでで本日はいったん終了とします。

シンボルについていろいろホームページから画像をお借りしました。問題あればご連絡ください。


2012-01-05 09:56 | カテゴリ:全国の市章
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さてでは日本の市章について特徴あるものについてフリーメイスン的考察を加えていきましょう。
まず良く挙げられるのが豊田市の市章ですが、私としては長崎市の市章から見ていきたいです。

全国の市章はYahoo Japanで市章を検索すると出てくるサイトなどで見ることができます。

長崎市の市章

長崎市市章
いわゆるペンタグラム 五芒星ですね。内部にペンタゴン 五角形を配置しています。五芒星はウィキペディアで調べると下向きに配置すると悪魔のシンボルだとか、安倍清明のシンボルだとかいろいろと書かれています。フィフスエレメントなんて映画もありましたが、そういうものの象徴というものもあります。ダヴィンチコードでも異教のシンボルとして解説されていました。さかさまに表記することで子宮を意味するとか、東方の星を意味するとかあったと思います。
フリーメイスンリーでは五芒星はまず思い浮かべるのがOrder of the Eastern Starといういわゆるフリーメイスンリーの付属組織としての女性団体の象徴です。さかさまの五芒星でそれぞれ5つの三角形に5つのGや5つのシンボルをあてはめて象徴としています。
正統派フリーメイスンリーでは五芒星はフリーメイスンリーの特定のシンボルではないとされ、Blazing Starの一つとされています。ただしフランスのGrand Orient系では五芒星はGに対応するシンボルとして良く認められ、エプロンやイラスト、ロッジの象徴として古いものや現在のものにも認められています。
長崎市の歴史をひも解くとキリシタン大名による開港から出島、大浦天主堂の建築、隠れキリシタンの歴史、グラバー邸、原爆投下とキリスト教や開国と密接にかかわっていて、その中でもカトリック、特に明治維新後はフランス系のカトリックとの関連が認められます。
五芒星自体はアメリカ星条旗や中国の紅色旗、ベトナムや北朝鮮、旧ソ連の国旗にも認められ、これらを押し並べて考えるとフランス大東社が建国に関与した国または共産主義国に共通するようでもあります。

ペンタゴンの中にある5つの市の形についてですが、おそらくキリスト教とフリーメイスンリーに共通するAnchor 碇の変形なのではないかと思われます。(2015/8/12追記:フルールドリス、フランス王家を象徴する百合の紋章の形ですね。伝統的なキリスト教を象徴する紋章です。五芒星と5の数字と合わせてフランス系カトリックの強調であるかと思われます。フルールドリスfleur-de-lis についてはいずれ記事に取り上げたいかと思います。)


一応長崎市のホームページの正式な解説は外形は草書の「長」をデザインし、鶴の港を象徴して折り鶴の形を星状に配しています。中の5つの市の字は、安政年間に開港した5港の一つであることを表わしています。とあります。

五芒星については特にフリーメイスンリーに興味のある一般人にとっては非常に普及したシンボルであり手軽に身につけることのできるものでしょうがそれらが普及した意味というものを考えるとやはりシンボルとして奥深いものがあります。日本の高齢者にとっては日本陸軍の徽章として有名で、これらについても後に解説しようと思いますが、日本陸軍がフランスの軍制を模倣したために導入されたものだと推測されます。

また星がシンボルとして重要であるのは、天文学や占星学が古代より極めて重要な学問であり、現代の物理学、科学、宗教の基礎となる体系であることからです。星や太陽、月の周回は暦や時間の概念のもととなるものであり、時間や空間を制御するものはすなわち神の存在を証明するものとして認識されていたと思われます。

シンボルについては一朝一夕の勉強では困難でこのブログではあくまで導入として個人的意見として書かせていただいていますので、興味ある方はさらに深く勉強されるのが良いと思いますし、間違いや異論がある方は率直にコメントしていただきたいと思います。

では次に長崎に近いところで横須賀と同じく米軍基地のある佐世保の市章について見たいと思います。

佐世保市市章
これはやはり菱のマークですね。菱のマークは古来皇室で伝統的に使われてきた装飾のシンボルであるそうです。片仮名のサセホの形になっているそうです。中心には十字架があり、キリスト教のシンボルになるのだと思われます。Λと∨が組み合わさる形は一つのシンボルの形です。
佐世保市のホームページを見ると明治44年制定と書いてあります。

明治44年とか明治45年頃の市章の制定が多いですね。大正初期も多いかと思いますが、市章の制定時期も時代背景として色々興味深いところです。坂の上の雲などあり、乃木将軍の殉死等ありますが、司馬史観で知られる司馬遼太郎も元陸軍であることを鑑みると日本の現代史を再考するきっかけともなりそうです。

星のマークの市章についていろいろ興味を持って見ていくとある傾向に気付くことと思います。
それについては次回にしたいと思います。

色々疑問や異論があることと思います。率直なコメントを期待していますのでよろしくお願いいたします。

2012-01-06 10:02 | カテゴリ:横浜
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
ディアブロ(Diablo)、ディアボロ(Diavolo, Diabolo)は、イタリア語で悪魔の意。ボローニャの方言はディアベル(Diavel)。
アサシン (Assassin) は、暗殺者、暗殺団、刺客という意味を指す英単語。語源は、ハシーシュ(大麻)、差別的に大麻中毒者、ハシシン老人、ハサス(原理)など諸説ある。語源については暗殺教団を参照。
元々の意味合いとしては重要な人物を殺害した人物または団体を指す言葉である。また歴史の文脈では the Assassins は11世紀から14世紀、大シリアにおいて十字軍やザンギー朝などの諸勢力に対し暗殺を一つの手段として勢力を築いたイスラム教ニザール派を指すが、これに伴う逸話はほとんどが誤解や偏見による伝説である。同義に assassinator 、動詞形に assassinate などがある。また assassin bug と言う言葉もあり、これは吸血昆虫のことを指す。
秘密結社としてのアサシンは、イスラム教イスマイル派から分離した分派である。ペルシアのコーラサン出身のハサン・サッバーフによって作られ、東方のイスマイル派と呼ばれた。
(2013/5/11追記:assasinというハンドルネームでコメントが付いたのでブログを書き始めた最初の頃だったのですごく過剰に反応してこの内容を転記したのでした。ご了承ください。内容は赤間剛氏の著作についての紹介であったと思います。赤間剛氏の著作も陰謀論ベースではありますが、その後の約20年間の日本人のフリーメイスンリー観を規定した方だと思われます。ところどころ非常に参考になる部分がありました。)
とりあえずコメントがついたはいいんですが、内容的にやはりかなりフリーメイスンリーの秘密に触れる部分が多く、現実問題として今市町村は民主主義の最小単位であり、大阪市や阿久根市の問題でも認められるとおり実際の日本の社会での民主主義は理念と実際に乖離や矛盾が多く認められ、なかなかこのような表現の場でも色々と難しいことがあると思われます。
みなさんが色々と考えたり勉強するきっかけになることを期待しています。
で、色々なフリーメイスンで検索して出てくるブログでこのページの宣伝をさせていただいた結果、壇原照和さんという作家の方のコメントをいただきました。http://yokohamamerry.jugem.jp/?eid=192#sequel そしてブログで横浜外国人墓地でのフリーメイスンリーのシンボルの入った墓碑について触れているのでここでも取り上げることとしましょう。

カトリック墓地の中のピラミッド
横浜外国人墓地カトリック墓地にあるピラミッド

外人墓地説明
フリーメイスンリーのシンボルの解説

外人墓地1
約2年前でしょうか 盛夏に訪問した際に最も新しく作られていた墓 まだ亡くなられていない方です。 
壇原照和さんのブログでは私の知らない新しいものもあり、かなりその後多くの墓もでききれいになったのではないでしょうか。

外人墓地2

オベリスクはフリーメイスンの墓として最もポピュラーな形です。オベリスクそのものでフリーメイスンの墓、記念碑を象徴します。

外人墓地4
ロータリークラブのシンボルと一緒に併記してあります。比較的新しいですね。

外人墓地3

オベリスクはメイスンです。手前の碇のシンボルはキリスト教とフリーメイスンリー共通のシンボルです。

外人墓地5

外人墓地7外人墓地6
かなりこの当時は草が生えて整備されていませんでした。ちょうど横で造園屋さんが草刈り機で整備していました。

外人墓地8

外人墓地10
墓地の下のほうに生麦事件の犠牲者二人のお墓もありました。これはフリーメイスンリーのシンボルはありません。薩英戦争のきっかけになった事件です。極めて興味深い維新の事件です。英海軍が実質敗北したのはこの戦争くらいしかないのではないでしょうか。

外人墓地9
変形オベリスクですね。

外人墓地11
十字の入ったものもあります。

外人墓地12
ピラミッドにより近い形もあります。

外人墓地13外人墓地14

外人墓地15外人墓地16

外人墓地17外人墓地18

外人墓地20外人墓地19

外人墓地21
おそらく日本全国でフリーメイスンリーのシンボルが最も認められるところだと思います。そこには横浜での開港以来のフリーメイスン達の歴史と思いがすべて集約されているわけで、彼らの生きた証しとしての墓石とシンボルがあるわけです。現在の横浜の状況はこれらの伝統と様々に絡み合い難しい状況にあることは確かだと思われます。当時の整備されていない状況は一つのそれらの表れだったと思います。
(追記:横浜外国人墓地の公式ホームページでオベリスクのいくつかは各国の代表のシンボルだということを確認しました。個人のものではないものがあります。また事前に許可を得ず使用したことをお詫びいたします。よろしくお願いいたします。各国の代表ということはグランドロッジのものということになるのでしょう。横浜外国人墓地のフリーメイスンリーにとっての重要さが改めて理解されました。オネイダ号事件というのもあったのだと知りました。)

外国人墓地の近くにはメンバーの経営するオシャレな飲み屋もあるのでぜひ探して立ち寄ってみてはいかがでしょう。

さて横浜といえばみなとみらい地区が現在最もオシャレで発展している場所だと思われますが、この場所での最近のフリーメイスンリーの象徴を見てみましょう。

横浜みなとみらい遠景1
横浜みなとみらいの象徴と言えば何といってもランドマークタワーと観覧車でしょう。インターコンチネンタルホテルの帆を模した形も際立っていますし、その後ろのクイーンズタワーの3つに連なる形も一つのシンボルでしょう。
観覧車は英語でFerris wheelといい、パリ万国博覧会でエッフェル塔に対抗するシンボルとしてジョージ・ワシントン・ゲイル・フェリス・ジュニアという方が現在の形で最初に作ったそうです。一つのシンボルだと思います。ドコモの電波塔もシンボルではないでしょうか。ドコモについてはYRP野比の関連で後に触れる機会があると思います。

横浜みなとみらい遠景2大桟橋
象の鼻パークの風景と、大桟橋ふもとの11枚の黒い壁
11という数字はユダヤ教関連で何か大事な数字のようです。ちょっとこれはよくわかりません。フリーメイスンリーのシンボルとはわかりませんでした。

たねまる
たねまるの石碑 黒い丸石は時々認められます。横須賀にもありますがシンボルとして教わった事はありません。これから教えてもらえるかもしれません。(追記:バロットの黒ボールかもしれませんね。これは個人的には由々しき事ですが。)


イベント会場用のベンチの石 これはよくあるラフアシュラーのシンボルですね。フリーメイスンでないまだ磨かれていない人間を示しています。


喜ばしい事にパーフェクトアシュラーのシンボルもありました。やはり日本の開国後のフリーメイスンリーの盛んな横浜ならではのシンボルだと思います。わずかに積み上げられているところが象徴的です。


象の鼻パークの形です。Gの形を模しているのですがわかるでしょうか。

なかなかフリーメイスンリーのシンボリズムは説明するのは非常に難しく、かつ勉強しなければいけないことが多々あるので私自身もなかなか大変でありますが、皆様のコメントや反響を糧として今後もできるだけ続けていきたいと思います。

問題や不備、間違いなどありましたら指摘してください。


2012-01-07 18:51 | カテゴリ:その他 雑記
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
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2012-01-08 11:39 | カテゴリ:横須賀
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 らせん階段というと何を思うでしょうか?

映画「らせん」なんてのもあった気がします。

とりあえずウィキペディアから引用しときましょうか。

象徴としての螺旋

 螺旋は、運動性や生命力を感じさせる面があるので、芸術作品などにおいては、様々な意味を込めた象徴、シンボルとして用いられることも多く、作品のタイトルとなっている例も多い。また、基本的には繰り返しの構造でありながら、同じ位置をたどらず、例えば無限に上昇する構造を歴史や生命になぞらえる例もある。

螺旋階段(らせんかいだん)は、階段の中でも特に回転形のものを指し、上部からみると円形になっており、中心の柱の回りを回転しながら上昇あるいは下降する構造の階段を特に螺旋階段と呼んでいる。

現代建築においては、多く取り入れられている。デザイン性に優れ、機能的でもあることから、最近は人気が高い。

らせん階段がシンボルとなることはウィキペディアにも書かれているとおりですが、フリーメイスンリーのシンボルとしては単なるらせん階段ではなく色々な条件や意味が込められています。

ヤコブのらせん階段

ウィリアム・ブレイク ヤコブの階段

ヤコブの梯子でピンと来る方は聖書をよっぽど良く読んでおられる方か、ユダヤ教の知識がある方、もしくはフリーメイスンリーについて勉強されている方だと思います。

そもそもヤコブって誰っていうのが普通の日本人だと思います。Jacobと書くので、英語ではジェイコブ、ハリウッドの俳優などでもいる名前だと思います。

ウィリアム・ブレイクをご存じの方もあまり日本人ではいないと思われます。

ウィリアム・ブレイク(William Blake, 1757年11月28日 - 1827年8月12日)は、イギリスの画家、詩人、銅版画職人。

ウィリアム・ブレイク
ウィキペディアにある作品をいくつか転載いたします。問題あれば教えてください。

ニュートン
ニュートン

日の老いたる者

日の老いたる者

作品を見ると一目瞭然だと思いますが、彼もフリーメイスンです。現在国立西洋美術館で、同館収蔵のブラザーウィリアム・ブレイク版画展2011年10月22日(土)~2012年1月29日(日)で開催中です。主にヨブ記のエッチングです。様々なご意見評価あると思いますが、貴重な実物が見られる機会であり是非ご覧になってはと思います。同時にプラド美術館所蔵 ゴヤ 光と影2011年10月22日(土)~2012年1月29日(日)も開催中です。貴重な作品群をご覧ください。

話がだいぶずれましたが、ヤコブの梯子というのは旧約聖書の創世記28章12節でヤコブが夢に見た、天使が上り下りしている、天から地まで至る梯子、あるいは階段とウィキペディアにあります。そもそもらせん階段ではなく梯子なんですね。
らせん階段は有名なところではローマにあるトラヤヌス帝の記念柱にありますが、西暦113年にできたそうで、私も実物は見たことないですが、その後にローマの建築法として広まったということです。
一応該当部分の旧約聖書を引用します。

ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」そして恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、その場所をベテル(神の家)と名付けた。ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた。ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神が私と共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主が私の神となられるなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたが私に与えられるものの十分の一をささげます。」

聖書を読んだことが無い人にとってはこれだけでもう勘弁という気持ちでしょう。
このブログの内容は戦時中であれば確実に発禁になるような内容だと思います。
念のために言いますが、わたしはキリスト教徒ではありませんし、教会に礼拝に行ったこともありません。神社に初詣に行くような典型的な日本人の宗教観を持っています。
基本的にフリーメイスンリーのシンボリズムは特に旧約聖書の世界からシンボルを道徳的教訓として抽出してきていることがほとんどなので、聖書の通読は深い理解のためには必ず必要となります。それは必ずキリスト教、ユダヤ教への理解とつながるのですが、日本人にとってそれらは歴史的にかなり困難な要求となることは確実なので、内容をおおざっぱであれ理解していれば十分かと思います。

さて旧約聖書の解説はここではかなり困難なので、一応アブラハムとかイサクとかヤコブとかそういうユダヤ人とかアメリカ人に多く認められる名前のいわゆるユダヤ人のご先祖とされる伝説的な人々の活躍が描かれていて、その中でユダヤ人が大きく発展するきっかけとなるときに夢というのが神様からのメッセージとして非常に重要であるという話があるということが分かればよいかと思います。
この場合の階段、梯子は天につながる上昇するものの象徴として描かれ、ピラミッドや塔が高みに登り天、神に近付くという事を概念的に目指すということと同じく、フリーメイスンリーでは道徳的、人間的に高みを目指すという事で様々な必要とされる知識や振る舞いを覚えて、試練や困難を日々乗り越えることで、着実に一歩一歩高みに近付いて行く象徴ということになるかと思います。
特にらせん階段となることで、日々同じ場所を同じペースで上っているといつの間にか高い場所に達するというらせんの心理的効果を反映し、毎日同じ様な事を繰り返していながらも道徳的に一歩一歩着実に必要とされる事をマスターしていくことで、いつの間にか高い所に達するという意味もあるのだと思われます。

長くなりましたが、これでもだいぶ端折ってわかりやすくしている訳で、実際にはそれぞれマスターすべき階段の学科(いわゆる自由七科、リベラルアーツ)をそれぞれ学習する事とか、学習すべき美徳と一致した階段を上る事とかそういうのがフリーメイスンリーでは人間的修養として必須とされるのです。

ここではとにかくらせん階段がフリーメイスンリーのシンボルとして良く認められるので、それがシンボルとしてどのような意味があるのかという事をわかりやすく概説するために要約しているわけで、さらに深い勉強をしたい方はそれぞれフリーメイスンリーの英語のホームページを読まれる事をお勧めします。

で、本題の横須賀に認められる象徴なわけですが、最初はおそらくだいぶ一部で有名になってきている感じがする横須賀美術館のそれです。

横須賀美術館1横須賀美術館2

横須賀美術館3横須賀美術館4
らせん階段でシンボリズムとして大事なのはやはり1階~2階~3階へつながる形で、これはフリーメイスンであれば当たり前の話なのですが、いわゆる3階級、Entered Apprentice(徒弟)第一階級、Fellow Craft(職人)第二階級、Master Mason(親方)第三階級というブルーロッジと呼ばれるフリーメイスンリーの最も基本的なロッジ(集会場、集団)での階級を示しています。
白い色はフリーメイスンリーではCandidate 入会希望者、EA(Entered Apprentice)徒弟を意味する色とされ純白、無垢などを意味し、白と黒の対比はロッジの床のタイルに使われるものですが、世の中が善と悪や男と女が混沌と混じり合って存在している象徴とされています。
円形の窓も円で象徴するものなのでしょうが、こちらはあまり詳しくありません。世の中のものには始まりも終わりもないという意味だとか、永遠を象徴するだとかあります。特にフリーメイスンリーに特徴的ではなく、日本の国旗などにも認められるもので、この円はフリーメイスンリー特有のものではないかと思われます。(2015/2/7追記:文章も分かりづらいものとなっていますが、円のシンボリズムがフリーメイスンリー特有のものではないのではないかという意味で書いているかと思います。後述するように円のシンボリズムは新字体の円の漢字自体がトリプルタウの象徴そのものですし、円環はグノーシスの象徴であり、またスコティッシュライトでも円は多角形で象徴される階級の最上位の33階級の象徴が下向きの三角形、または上向きの三角形または円環であるようです。まあ普通に考えてもコンパスで描ける最も基本的な図形であり、象徴学の基本であり、フリーメイスンリー特有ではないかもしれませんが、フリーメイスンリーの基本的で最も象徴的な形という事を言う事ができるでしょうか。まさにグノーシスだと思われます。)

個人的には二度ほど訪問し、二度目に訪問した時はサルバドール・ダリの奇妙なマネキンが展示してありました。シュールリアリズムもシンボリズムの一つの極致であり、ダリの作品にもフリーメイスンリーと関係するものがあります。興味があれば色々と調べられるのがよろしいかと思います。

横須賀の他の場所のらせん階段については次回お話しすることとして、今回はこれで終わりとします。

2012-01-09 08:54 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
引き続き横須賀のらせん階段の続きです

前回触れたのはらせん階段の象徴としての意味と、おそらく最も新しい建物であり1-2-3階と続く形の白と黒にコントラストされた典型的なフリーメイスンリーの象徴である横須賀美術館のらせん階段についてでした。

横須賀にはこの他にもらせん階段があり、おそらくライオンズクラブかロータリークラブの中で何か語り継がれているものがあるのではないかと推測されるような、極めて強いこのシンボルへのこだわりがあります。

横須賀にはいくつかシンボリックな山があります。
最も象徴的なのは衣笠山でしょうか。春には桜並木が満開となり花見客や出店で賑わう、三浦氏の往時の居城であり数々の伝説が残されています。

私はここは春に一回訪問しただけで、桜以外には海軍海堡の建築にかかわる明治頃の記念碑が認められるだけでこれといったフリーメイスンリーのシンボルを認めることはできませんでした。(Google Earthで確認したところ展望台が3階層になっていて、一番上に羅針盤の形の方位があるようでした。十分フリーメイスンリーのシンボルですね。)

横須賀にはフリーメイスンリーと直接関係ない形でも展望台や公園などのシンボリックな公共の建築物が多く、武山という低い山にも頂上に見晴らしの良いアザレアハウスという展望台があります。武山不動もあり鐘を突くこともできますが、アザレア=ツツジはフリーメイスンリーのシンボルではなく、アザレアで検索するとその名前のロッジが認められました。

さてらせん階段なのですが、ここまで来れば横須賀在住の方はすぐにわかるわけなのですが、横須賀の最も高い山である大楠山の山頂にそれはあります。

大楠山山頂
ホームページより無断借用です。問題あれば連絡ください。
かなり変形のらせん階段です。途中の分岐が3つあり、2階の展望デッキにもつながっており、形としては3階層でしょうか。軸が二本ある形になっているようです。この軸が二本というのも実は日本にかかった一つの象徴の形だと思われます。これは実は日本=二本=ツインタワーというすごいところにも繋がるのですが。。。。 ここまで来るとさすがに普通の人はどん引きですね。
ここでは日中必ず車で上がって番をしているおじさんがいて、カップヌードルや缶ジュースを売っています。そのおじさんに聞いたところ築50年程経っているそうで、かなりさびていて登るのはかなり恐ろしいです。頂上からの富士山の光景は絶景ですが、風をかなり感じるので天候状態により登るのを検討したほうがよいかと思われます。

大楠山からの富士山
大楠山から富士山

大楠山からの葉山方面
葉山方面

なかなかの絶景ですが、登り口から頂上まで徒歩で約40分はかかり、登り口までバスくらいしか移動手段がありません。頂上には駐車場もあり車で登ることもできますが途中はかなりの急勾配で一台しか通れない道が続いています。天気の良い日でも100~200人程度しか登らないと思われます。

大楠山の頂上にも方位を示すものはありましたが、特にコンパスや羅針盤の形はしていなかったと思います。まあこれだけらせんにこだわった展望台は日本全国他にないと思います。

さて大楠山なのですが実は最近下からこの山を見ていてある事に気付きました。

大楠山遠景
矢印は後から加工したものです。青矢印が気象庁のレーダー、白矢印がらせんの展望台、赤矢印がNTTドコモの電波塔です。らせんの展望台を中心としてきれいな対称を成しているのがわかるでしょうか。これは実はある建物から撮った写真なのですが、これも後に説明します。

この図を出すとフリーメイスンリーに詳しい方であればすぐに気付くと思われます。


フリーメイスンリーのEMBLEMATIC CHART
フリーメイスンリーのシンボルを図柄として配置しそれぞれの意味を確認する目的で作成されたポスターです。この図の中での左右の柱はヤキンとボアズといい聖書の中でソロモン宮殿を作った際に神殿の入り口の左右に配置した象徴的な柱とされています。

聖書の該当部分を引用してみましょう。列王記上7章より

ソロモンは十三年の年月をかけて宮殿を築き、その宮殿のすべてを完成させた。彼の建てた「レバノンの森の家」は、奥行きが百アンマ、間口が五十アンマ、高さが三十アンマで、レバノン杉の柱を四列に並べ、その柱の上にレバノン杉の角材を渡した。各列十五本、計四十五本の柱の上にある脇廊の上にもレバノン杉で天井を造った。三列の窓枠にはめられて、窓が三段に向かい合っていた。すべての扉と枠組みの柱は四角形であり、窓は三段に向かい合っていた。彼の建てた柱廊は奥行きが五十アンマ、間口が三十アンマであり、その前にも前廊があり、柱とひさしがあった。また、彼が裁きを行う所として造った「王座の広間」「裁きの広間」には、床全面にレバノン杉の板が張り詰められていた。彼が住居とした建物は、この広間の後方の別の庭にあり、これと同じ造りであった。またソロモンは妻に迎えたファラオの娘のために、この広間と同じ建物を造った。これらの建物はすべて内側も外側も、土台から軒まで、また外庭から大庭まで、寸法を合わせて石のみで切り整えられた貴重な石で出来ていた。土台には八アンマ、十アンマもある貴重で大きな石が用いられ、その上には、寸法に合わせて切り整えられた貴重な石とレバノン杉が用いられた。大庭の周囲にも、主の神殿の内庭や前廊と同様に、切り石を三列、レバノン杉の角材を一列重ねて据えた。ソロモンは人を遣わしてティルスからヒラムを連れて来させた。その母はナフタリ族出身でやもめであった。父はティルス人で青銅工芸の職人であった。ヒラムは智恵と洞察力と知識に満ち、青銅にかけてはどんな仕事にも通じていた。彼はソロモン王のもとに来て、ゆだねられたあらゆる仕事をした。彼は青銅の柱を二本作り上げた。一つの柱の高さは十八アンマ、周囲は十二アンマ、もう一つの柱の周囲も同様であった。柱の頂には、青銅を鋳て作った柱頭を据えた。一方の柱頭の高さが五アンマ、もう一方の柱頭の高さも五アンマであった。柱の頂にある柱頭に格子模様の浮き彫りを作り、網目模様の房を一方の柱頭に七つ付け、もう一方の柱頭にも七つ付けた。このように彼は柱を作ったが、柱の頂にある柱頭を覆う一方の格子模様の浮き彫りの周りにざくろを二列に並べた。もう一方の柱頭にも同じようにした。前廊の柱の頂にある柱頭はゆりの花の形になっていて、四アンマあった。二本の柱の上にある柱頭には、格子模様の浮き彫りの側面の膨らみより上にも、二百個のざくろが列をなして取り巻いていた。もう一つの柱頭も同様であった。この柱は外陣の前廊の前に立てられた。一本は南側に立てられて、ヤキンと名付けられ、もう一本は北側に立てられて、ボアズと名付けられた。ゆりの花の形が柱の頂に出来上がって、柱の製作は完了した。彼は鋳物の「海」を作った。直径十アンマの円形で、高さは五アンマ、周囲は縄で測ると三十アンマであった。縁の下をひょうたん模様が取り巻いていた。すなわち、「海」の周囲には、「海」と共に鋳造されたひょうたん模様が、一アンマにつき十の割合で二列に並べられていた。「海」は十二頭の牛の像の上に据えられていた。三頭は北を向き、三頭は西を向き、三頭は南を向き、三頭は東を向いて「海」を背負い、牛の後部はすべて内側を向いていた。「海」は厚さが一トファ、その縁は、ゆりの花がかたどって、杯の縁のように作られた。その容量は二千バトもあった。彼はまた青銅で十台の台車を作った。各台車の長さは四アンマ、幅は四アンマ、高さは三アンマであった。その構造は次のとおりである。台車には枠の横木の間に鏡板があり、その横木の間の鏡板には獅子と牛とケルビムが描かれ、上の横木にもそうされていた。また獅子と牛の下には唐草模様が彫りこまれていた。一つの台車に四つの青銅の車輪が付いており、車軸も青銅であった。また四つの脚があり、支えがそれに付いていて、支えは唐草模様の傍らで洗盤の下に鋳込まれていた。その口は冠の内にあって、そこから一アンマ高く出ており、その口は円形で同様の作りで一アンマ半であった。口の上にも彫刻がなされていた。鏡板は四角であって丸くはなかった。鏡板の下に四つの車輪があり、車軸が台車に取り付けられていた。車輪の高さはそれぞれ一アンマ半であった。車輪は戦車の車輪と同じ作りで、車軸も縁も輻も轂もすべて鋳物であった。それぞれの台車の四隅にある支えは台車と一体になっていた。台車の頂に高さ半アンマの輪があって、台車の頂でその支柱と鏡板は一体となっていた。その支柱の表面と鏡板にはケルビムと獅子となつめやしが、そのそれぞれに空間があれば周りに唐草模様が彫りこまれた。彼はこのように同じ鋳型で、同じ寸法、同じ形に台車十台を作った。彼はまた青銅の洗盤を十作った。容量はそれぞれ四十バト、直径は四アンマ。十台の台車それぞれに洗盤が一つずつ載せられていた。五台は神殿の右側に、五台は左側に配置し、「海」は神殿の右側、すなわち南東の方向に置いた。ヒラムは洗盤、十能、鉢を作って、ソロモン王のために主の神殿でしようとしたすべての仕事を終えた。彼の作ったものは、二本の柱、柱の頂にある柱頭の玉二つ、柱の頂にある柱頭の玉を覆う格子模様の浮き彫り二つ、格子模様の浮き彫り二つに付けるざくろの実四百、そのざくろの実は、柱の頂にある二つの柱頭の玉を覆う格子模様の浮き彫りのそれぞれに、二列に並べられていた。台車十台、台車に載せる洗盤十、「海」一つ、それを支える十二の牛の像、壺、十能、鉢。ソロモン王のためにヒラムが主の神殿で製作したこのすべての祭具は青銅製で、磨き上げられていた。王は、ヨルダンの低地、スコトとツァレタンの間の粘土の豊かな所でこれらを鋳造した。ソロモンがこの祭具のすべてを並べると、それはあまりにも多く、その青銅の重さは量ることができないほどであった。ソロモンは主の神殿に置くためのあらゆる祭具を作った‐‐金の祭壇、供えのパンを載せる金の聖卓、内陣の前に左右に五つずつ置かれる純金の燭台、金の花、ともし火皿、火ばし、純金の皿、芯切り鋏、鉢、柄杓、火皿、また神殿の奥の間すなわち至聖所の扉と外陣の扉のための金のちょうつがい。ソロモン王は、主の神殿で行われてきた仕事がすべて完了すると、父ダビデが聖別した物、銀、金、その他の祭具を運び入れ、主の神殿の宝物庫に納めた。

なぜこれだけ長い部分を抽出したかというと、ヤキンとボアズという柱の名前が出てくるのはこの部分の何百倍という内容がある聖書のたったこの場面だけなのですね。しかもフリーメイスンリーの柱では柱頭の上に天球儀と地球儀が載っているのですが、聖書に出てくるヤキンとボアズでは全く違うざくろの実の装飾と格子模様の浮き彫りが描かれていて、格子模様が天球儀とか地球儀とかいう事は全く出て来ないのです。しかもなぜ、この柱がヤキンとボアズという名前であるかは謎のままなのです。ヤキンと、ボアズという名前は人名として聖書の他の部分に出てくる事はあります。それらを検討するのはこれからになりそうです。しかしこのヤキンとボアズという柱の名前はフリーメイスンリーでは世の中の二元性、対称性を象徴する最も重要なシンボルであり、入会儀式の際のリチュアルにも認められるものなのです。(9/18追記:ヤキンが基礎、ボアズが力というヘブライ語の意味であるかと思います。そもそもユダヤ王国の繁栄を願っている言葉なのですね。)フリーメイスンリーにおける聖書研究の重要性を少しでも感じ取っていただければとこれだけの長い部分を抽出して、皆さんに聖書を読む体験を感じていただければと思ったわけです。

聖書の活版印刷がグーテンベルクによって始まり、ルネッサンスが始まったとは日本人の多くが高校の世界史で教わるおそらく常識のようなものでしょうが、果たしてなぜ聖書を皆が読むことでルネッサンスが始まるのかという所は多くの日本人が本質的には理解しがたい事なのではないかと思います。それはやはり聖書を読むことでしか体験できない、実感できないものなのではないかと思われます。

キリスト教やユダヤ教という宗教の枠を超えたところにフリーメイスンリーという教えがあり、それらは戦後の日本をとらえる上で非常に重要な考え方なのですが、果たしてキリスト教やユダヤ教への理解抜きで、日本の伝統宗教の教えを守ることでフリーメイスンリーの教えに行きつくかというと非常に疑問が多いところです。この点についてはまだまだ日本においては時間と労力が必要とされる部分だと思われます。

さて横須賀のシンボルとして多いらせん階段ですが、こんなものもありました。

大楠山低い展望台低い展望台階段
大楠山の気象庁の観測レーダーの横にキノコのような形の展望台がありますが、これもまた三階層の円形ではない方形のらせん階段でした。色々念が入ってますね。上部の傘は若干ですが蜂の巣を意識した形になってるのかわかりませんが、おそらくあまり意識的ではなくこの形になったのかもしれませんね。
まあこのあたりに入るとシンボリズムもほとんど意識下の世界に入るのかもしれません。
またこのようなものもありました。

らせん非常口1らせん非常口2らせん非常口3

これらは大楠山の近くにある某病院にあるらせん階段とらせんの非常口なのですが、ここまで来るとさすがにおみそれしますね。この某病院は市内の繁華街に近いところにあったものが昭和30年代に焼け出されこちらに移ってきたそうです。同時期には衣笠病院の火事や少し離れた聖母の園というカトリックの老人ホームでも火事があったもので、多くの人命が失われたそうです。なかなか戦後の横須賀の歴史というものは壮絶なものを感じます。

市民病院バラ園
中二階にバラ園があったのですが、現在はわずかにバラを残すのみで縮小しています。(追記2/10 らせん階段もほとんどが非常用で上から下にスルスルと滑り落ちる形なのですね。シンボリズムは奥が深いです。)

また私自身は行ったことないのですが田浦梅の里の展望台もらせん階段の構造をしているようです。


ブログより借用いたしました。問題あればお知らせください。


2012-01-10 10:25 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さて新年早々からかなりディープなネタを無料で提供してきたこのブログなわけですが。

さすがに疲れてきました。

基本的にフリーメイスンリーは砂時計や大鎌で象徴されるように、人生は短く常に全力で充実して生きることを目的とするのが基本なので、フリーメイスンリーの内容そのものでいくと結構疲れます。
フリーメイスンの人が書いた文章や、フリーメイスンの人と話すと常に頭の動きが普通の人の10倍くらいで動いている感じなので私なんかにとっては心地よくもありますが、やはり通常に比べると疲労が強いです。

みなさんの疲れも相当なものだと思います。
ブラザーモーツァルトが短命なのもむべなるかなと思います。そう思っていただければ十分だと思います。

さてそういうわけで、少しフリーメイスンリーからは離れた息抜きと言ってはあれですが、YRP野比という横須賀にあって横須賀らしくない日本の情報産業の研究のかなり重要な拠点らしいところについてフリーメイスン的考察を加えていきましょうか。

実はYRP野比は横須賀市の地理的にほぼ中心部にあるので近くなのですが、ほとんど用事がないのでめったに近寄ることはありません。しかしこういうブログも始めたので、日本の情報産業に深い関わりを持ってしまった素人としては一度は見ておこうと思いつい先日のみなさんがお休みの間に自主的に見学してきました。その時に思ったことなどを書こうかと思います。
YRP野比でウィキペディアやアンサイクロペディアなど見るとなかなか歴史もあるようで、一時代前のクリントン政権時代のIT革命とは何かと言っていたような時代が懐かしく思われる内容でした。


通研通りというまあまさに城下の桜並木の通りを登っていくとまさに現代のお城のごときNTTの通信研究所が見えてきます。お城という表現がまさにふさわしい作りとなっています。組織ができたのは電電公社時代だそうですが、バブル真っ盛りの時代に建物は出来たのでしょうか。実質的に日本のCIAやMI6のような感じでしょうか。桜並木に石垣で本丸という並びはおそらく江戸時代に出来た封建制の象徴なのでしょうが、日本人の平和ボケというかなんというか美意識というか、少なくとも合理的ではない事は確かだと思われます。ソメイヨシノの桜並木はバブル期に非常に日本的という事でもてはやされた一つの形ですが、果たしてどうなのでしょう。


テニスコートにつながるらせん階段。テニスコートといえばフリーメイスンリー的にはテニスコートの誓いは三部会結成で重要なシンボルでしょうね。もちろんフランス革命にまつわるものですから正統派フリーメイスンリーとは異なります。まあこのらせん階段にそこまでの意味があるとはどうでしょうか。


二の丸方向より見た本丸の景色。ランニングの中高年の方が多いですね。
まさにお城という格好でしょうか。しかし入り口からすぐに本丸で、二の丸三の丸が後ろに控えるおかしなお城ですね。


本丸の下にある控えの間でしょうか。All Seeing Eyeを模そうとしてなんだか分からなくなってしまった、日の丸の丸を象徴としているようななんだかぼやけた形です。
シンボルの木は一つの自然の象徴なのだと思います。フランス革命時のジャコバン派全盛期にロベスピエールが敢行した理性の祭典で一つのシンボルとされたのが自然の象徴としての樹木でした。

後ろに控える二の丸三の丸でしょうか。


ヨハネの黙示録1章8節 神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」
まあ最初という意味でしょうね。ヨハネの黙示録は聖書の聞きかじりの人はあまり気にしないほうがよいかと思います。黙示録文学というのはひとつの標語や目標のようなもので、がんばろう日本みたいなものです。


へんてこな形の三角形。ドコモに近付いてきます。


突然気の抜けた感じのバラの花壇が現れます。


オシャレなカフェも突然出てきます。Rose Cafeと名前もバラにかかっていますね。
このバラの感じはなかなかフリーメイスンリーの様々な勉強をしていないとわからないと思いますが、わたしがすぐ直感的に思いついたのはフィンセント・ファン・ゴッホの白バラです。国立西洋美術館にあるおそらく日本で日本人が一番実物を見ているファン・ゴッホの作品です。


いわゆる松方コレクションを代表するものとされるでしょうか。
ついこの前まで国立新美術館で行われていたワシントンナショナルギャラリー展で最後に置いてあったファン・ゴッホの白バラがこちらです。


ファン・ゴッホの作品といえばバブル期に史上最高値で大昭和製紙の会長が買い求めた医師ガシェの肖像が日本では有名でしょうか。


手に持つのはジギタリスですかね。
この先生がファン・ゴッホの最後を看取ることになるわけですが、彼はフリーメイスンだそうです。
ファン・ゴッホ自身もオランダのプロテスタントの牧師の長男として生まれ、牧師学校で語学が不得意で牧師の道を諦め画家を志したそうです。ファン・ゴッホの絵には多くに聖書の題材をモチーフとしたものがあります。
ファン・ゴッホのバラの絵はいくつかありますが、やはり白バラの絵が有名で数も多く、サン・レミの精神病院に入院する前後に多く描かれています。彼がその後にいわゆるファン・ゴッホの代名詞ともいわれる大胆な筆致のスタイルを確立していく転換期です。
そういえば最近でもオリンパスや大王製紙などで日本企業の世襲や内部監査が入りづらい体質などが問題となっていますね。ファン・ゴッホもキリスト教社会の伝統的な風習と生涯にわたって反目しあう運命にあった人生だったのでしょうか。

さて横須賀に戻ります。


中華料理の店もあります。光の丘にかけた名前なのでしょう。


白バラの中に紅い原種のバラも少しあります。ドコモのマークや日本の国旗にあわせているのでしょうか。


パナソニックの建物が一番近くにあります。その他富士通など携帯電話機のメーカーがあるようです。


奥に行くと散歩の人が多い水辺公園があります。光の丘という名前は光ファイバーの研究とかけた名前なのでしょうか。
光というとフリーメイスンリーでは創世記1章1節

初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

この天地創造の第一日の様子から転じて光を智恵や理性のきらめきととらえ、封建制や従属から離れた啓蒙や理性の象徴ととらえます。

さて水辺公園の様子です。


全体が龍の落とし子か小型犬のような形でしょうか。


冬なのであまり生き物の気配は多くないです。


ベンチに四つのラフアシュラーがありました。


春から秋にかけて奥まで開放されているようです。


水仙が咲いていました。根に毒があるのでしょうか。
ギリシア神話のナルシスの生まれ変わりともウィキペディアにはありました。

全体に極めて小雀公園と同じ感じになっていました。なかなかどうなんでしょうか。


管理事務所の上に島津の紋所がありました。キリスト教の十字というよりは薩摩島津の紋といった感じです。


フランス料理のラ・ルーヴルです。ルーヴルといえばルーヴル美術館の前庭にあるガラスのピラミッドの照明が東芝のLEDに変更されたとやっていましたね。またルーヴルといえばレオナルド・ダヴィンチのモナリザが有名ですが、これを題材としてダヴィンチ・コードでは最後の晩餐のΛ∨に込められた謎というテーマでした。なかなか面白いですね。

最後に反対側のトンネルを抜ける前にお稲荷さんがありました。横須賀はお稲荷さんがそこらじゅうにあります。やはり日本のアイヌ系の農村地帯にはお稲荷さんは欠かせません。未開の地で最後に頼りになるのは身近な家畜というのは世界共通でしょう。

日本の情報産業の中心地は一種の護送船団方式がそのままの形で残るものでもありました。横須賀には戦前にも海軍の通信学校があった伝統もあり、現在この地でも様々な教育が行われていると思います。シンボリズムとしてはかなりあいまいなフリーメイスンリーからは外れたものであったことがお分かりいただけたでしょうか。
この地でもやはり最も印象的だったのはラフアシュラーです。これはフリーメイスンリーのシンボリズムですが、以前にも示した通りあまり好ましいものではありません。今後もいくつもの場所で認められますが、是非ラフアシュラーとパーフェクトアシュラーの教えを良く理解してパーフェクトアシュラーとなるべく努力するのがフリーメイスンの日々の勤めでもあります。

シンボリズムはひとつの言葉の定義が文脈で変わるようなものと近いところもありますが、人によって解釈が異なるようなものからは遠いものです。あくまで厳密な一神教的なものに近いのです。恣意的な解釈や悪意が感じられるような言葉遊びのようなものではなく、フリーメイスンリーのプロヴィデンスの目に象徴されるような、どの時代、どの場所、どのような状況であっても同じ意味をもつようなものとして常にシンボルとして設定され選ばれているものなのです。

そのうえで見るとやはりYRP野比にあるようなシンボリズムもどきのようなものは情報産業がバブル期以降に発達の萌芽が認められる日本的な一種の言葉遊びのようなものでしょうか。それがまたシンボリズムとして印象派の絵画に似たものとなり、小雀公園を模倣したような中にラフアシュラーが自然とおかれてしまっているのは皮肉という他言いようがありません。
ただただそこを散歩する中高年の方々の時代を思う他に特に感想を抱きませんでした。
横須賀の戦後がそこにあるという感じでしょうか。横須賀中央公園も後に触れるつもりですが、似たものを感じました。バブルという時代、ラフアシュラーで象徴されるような時代でしょうか。

ご意見ご感想をお待ちしております。陰謀論は勘弁してください。

2012-01-11 09:39 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
題名の意味がわかるでしょうか。

ここまでも何度か出ていますが、フリーメイスンリーのシンボリズムは常にフリーメイスンリー的なものに対して、常に評価するものに対して記念碑としてシンボルを残すだけではないのです。

ラフアシュラーがその典型的なものであることはここまで読んでくださった方なら分かるはずと思います。


ラフアシュラーとパーフェクトアシュラー 左はフリーメイスンの道具 直角定規、水平儀、垂直儀、二十四インチ定規、コテ、ガベル

フリーメイスンリーは15~16世紀のスコットランド、イングランドでのいわゆる実務的メイスンリーの時代よりその起源をピラミッドやソロモン神殿の石工に求めることが多く、その際に最も役に立つ石としてパーフェクトアシュラーの形の切り石が重要な石材として象徴されたものと考えられます。
つまりラフアシュラーの形には原石、材料としての意味と、まだ建築材料として準備されていない段階であるという事、これらの事が意味として含まれ、また社会や全人類、およびフリーメイスンリーの歴史や営みを一つの建築途中の神殿とたとえ、そこに対して一つの建築材として必要な形に自らを整え、永遠の神殿の資材として奉仕することを十分に建築に準備された切り石として、パーフェクトアシュラーとして表現し評価するものなのです。

この事からも単純にフリーメイスンリー的でない、フリーメイスンリー的であるという表現は実際ではないのですが、シンボリズムとしてはやはりラフアシュラーとパーフェクトアシュラーに象徴されるようなフリーメイスンリー的であるかないかという価値観での、フリーメイスンリー的な評価になってしまうのがフリーメイスンリー的なシンボリズムです。

以上を踏まえてこれまで紹介しなかった横須賀におけるフリーメイスンリー的でないフリーメイスンリー的なシンボルを見ていきましょう。もちろん私自身の独断と偏見によるフリーメイスンリー的評価であり、それらが公的に日本グランドロッジのものであるとか、そういうものではない事は十分ご理解いただきたいところであります。


観音崎の横須賀美術館などから東京湾沿いに北上していくと走水の漁港があります。
走水は地元でもきれいな湧水がある場所として古くから有名らしく、湧水をタンクに入れられる場所もあるそうです。走水漁港自体も東京湾の海流が特徴な場所でアジなどの釣り船が有名です。

ここからさらに北上します。


街並みでわかりますでしょうか。ここ最近でとてもきれいに整備された馬堀海岸という場所です。
ここは来ると非常に驚きますが、車線が広くなっていてヤシの木みたいな木が大きく茂っていて、まるでカリフォルニアかハワイの海岸線のようです。一軒家の住宅街が続いていて、横須賀横浜道路の高速道路のインターも新しく接続し人気の住宅地であろうことがすぐにわかる感じです。

さてここの目玉の海岸線の遊歩道なのですが。こんな感じです。




これをラフアシュラーというのは何ともシンボリズムとしても大胆な解釈なのでしょうが、驚くほど大量のラフアシュラーという他に表現が無いのも事実で、あまりの壮大さに唖然としてしまうものです。大小様々な大きさの切り石というよりは岩石そのままという石が整然と美しい人工的な道路の脇に圧倒的な沈黙をもって並んでいました。

これをどう解釈するかは人それぞれになるのでしょうが、フリーメイスンリーとしてはラフアシュラーであり、大量のラフアシュラーなのです。今後パーフェクトアシュラーになるかどうかは別として、そこに数え切れぬほどのラフアシュラーがある。それがフリーメイスンリーとしてのシンボリズムの解釈として正しいのだと思いました。

日本におけるフリーメイスンリーの現実、それがある意味この表現であろうと、最も新しい横須賀のシンボリズムであろうこの海岸は私に教えてくれたと思います。

フリーメイスンリーのシンボリズムは常に過去、現在、未来にわたってそれを知ろうとする者に明快な解答をもって答えてくれます。しかしそれによって知る事実は恐ろしいほどの現実であり、トルーマン大統領の言葉のようにこの世が地獄と変わらぬものであるという事と同時にフリーメイスンリーの教えの変わらぬ正しさとフリーメイスンとしての生き方のみがその解決であるという変わらぬ真理を示しています。

シンボリズムについて学ぶ事はそういったフリーメイスンリーの智恵を身につけるための基本であり、生きていく上での重要な鍵となるものであります。

さてさらに北上して横須賀の中心部に入っていきましょう。


三春町にある釣り公園です。私も釣りは好きで三浦や佐島などで釣りをしたこともあるのですが、ここは回遊しているサバなどが結構釣れる人気の公園のようですが、人の多さに驚かされました。ほとんどの人が投げサビキかサビキ釣りで釣っている状況で、ほとんどパチンコ屋さんのお魚が景品みたいな感じでしょうか。

実は知っている人は知っていると思いますが、ここにもフリーメイスンリーの貴重なシンボリズムが隠されています。


クジラのオブジェです。その他にもいくつかのオブジェがありますがその中でも日本人に一番なじみが強く、愛嬌のある形で釣り公園にぴったりの形だと思います。この形のどこにフリーメイスンリーのシンボリズムがあるのでしょうか。


わかりますでしょうか。
ラフアシュラーがありますね。さらに噴水を模した形が重要です。

かなりはっきりとしたシンボリズムできれいな黒いピラミッドが完全に転倒した形となっています。

これは捕鯨とも一部かかっているのでしょうが、やはり日本の独特の文化という点でなかなか外国人が中心のフリーメイスンリーでは釣りや魚食や捕鯨の文化は非合理的であり受け入れがたいものになるのだと思います。私自身はこのオブジェを見て、また三浦半島での釣りの現状を鑑みて陸地からの釣りは特に神奈川県ではあまり積極的にやるのはやめようと思いました。
地球温暖化や気象変動のために魚自体の数が極めて減少している事と、海洋汚染が都市部の沿岸では極めて深刻である事、また積極的に船釣りで遠出するのに比べて陸からの釣りはまさにパチンコ屋でパチンコをやっているに等しい時間を浪費する作業である事を痛感したからです。
船釣りに関しては似たような事はあっても色々産業となっている事からそういう評価は少ないようです。そもそもフリーメイスンリーでは海釣りをやるような人は少数派のようです。

いずれにしても転倒したピラミッドというのは極めてまれですが、フリーメイスンリーのシンボルの中では特殊な極めて印象の悪いものであり、横須賀で他にピラミッドのシンボルが無い分強烈な印象を残すものでした。


2012-01-12 09:43 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
東と西、日本では東日本西日本という言い方をしますが、世界では洋の東西を問わずというように、主にユーラシア大陸の西岸側、東岸側で比較の対象とされるのだと思います。

ああ、東は東、西は西、二つが共に出会うことはない、/大地と空とが神の大いなる審判の座の前に立つに到るまでは。/しかし、東も西も、境も、人種も、生まれもない、/地のそれぞれの果てから来た二人の強者が顔を合わせるそのときには。--ラドヤード・キップリング「東と西のバラード」

Oh, East is East, and West is West, and never the twain shall meet,
Till Earth and Sky stand presently at God's great Judgment Seat;
But there is neither East nor West, border, nor breed, nor birth,
When two strong men stand face to face, though they come from the ends of the earth!

大英帝国絶頂期のノーベル賞作家、英文学を代表するJoseph Rudyard Kipling の詩です。インドのボンベイで育ち、清王朝の中国、明治初期の日本を経由してロンドンに戻り、その後インド時代の乳母の子守り話などをヒントにインドの伝承などを題材に小説を書き当時の人気作家となった方です。当時の、シルクハットをかぶりステッキを持った英国紳士にとって、明治維新から20年の着物に散切り頭で西洋風を気取った日本の様子などは、まさに東と西の違いをまざまざと感じさせずにはいられない光景だったと思われます。
彼もインドにあったフリーメイスンリーのロッジに、20代の若さで加わりフリーメイスンとなって、フリーメイスンリーにかかわる詩も多数残しています。

The Mother Lodge
抜粋~Outside -- "Sergeant! Sir! Salute! Salaam!"
Inside -- "Brother", an' it doesn't do no 'arm.
We met upon the Level an' we parted on the Square,
An' I was Junior Deacon in my Mother-Lodge out there!

ロッジの外では大英帝国の植民地での階級社会があり、役職や爵位で呼び合い、敬礼など面倒くさいやり取りがあるのに比べて、ロッジの中に入ればお互いを「ブラザー」と呼び合い、仲間となれるそういうフリーメイスンリーの交わりは、イギリスの植民地では息抜きや有効な現地に関する情報交換の場であり、また本国やその他の次に移動する場所などについての情報を容易に得られる場でもあったのだと思われます。

さて東と西についてはフリーメイスンリーでは良く知られるシンボルとしてこのようなものがあります。

双頭の鷲は古来シュメール文明にも認められるシンボルだそうで、主に東ローマ帝国で国章として採用され、その後ギリシャ正教会、神聖ローマ帝国、ハプスブルク家、ロシア帝国などにも使用され、現在ではアルバニア、セルビア、モンテネグロの国旗やロシアのシンボルとしても使用されています。もともと東ローマ帝国時代に東と西の支配権を意味して双頭であったそうですが、フリーメイスンリーではヨークライトと並ぶフリーメイスンリー内の最大の団体である多段階位団体である、スコティッシュライトのシンボルとして使用されています。

スコティッシュライトは、フランスにおいてフリーメイスンリーが流行した初期にいくつもの多段階位が生まれ、それらをアメリカにおいて統合し三十三階位のスコティッシュライトとしてまとめたもので、これを行ったのがネットの陰謀論では黒い教皇と呼ばれたり、第一次大戦から第三次大戦までを予言したとされるブラザーアルバート・パイクです。彼の主要な著書がいわゆる「Morals and Dogma」で、三十三階位までのそれぞれの階位の意義が説明されているそうです。私はこれはまだ詳しく読んでいませんが、ネットでもPhoenix Masonryなどで無料で読むことができると思います。どこかで読みましたが、三十三階位を授与されたフリーメイスンのほとんどがこの本を読んでいないし理解していないというフリーメイスンリーのネットでのフリーメイスンによる批評がありました。
33という数字は3がそもそもフリーメイスンリーでは三階級に示される象徴的な数字で、それらが組み合わさりなおかつキリストの生涯が33年であったとか、ソロモン神殿が33年間保たれた(2014/8/29追記:ソロモン宮殿は第1にしても第2にしても33年保たれたという事は無いようです。確か英語の文章の説明を訳したのだと思いますが、もしかするとユダヤ戦争の開始から神殿の破壊まで33年であるのかもしれません。)とかそういう聖書からの引用が関わっているそうで、いわゆるフリーメイスンリーの多段階位の中で、陰謀説などを絡めて多くの人の注目を集める物となっているものです。
下に書かれたラテン語のモットーはDEUS MEUMQUE JUSとあり、英語にするとGod and my rightだそうで、イングランドの王室軍のモットーに由来するそうで、リチャード獅子心王のノルマンディーでの戦いなどに関係するそうです。それぞれ深い逸話から道徳的な教訓を得るフリーメイスンリーの中のさらに深い部分のスコティッシュライトのシンボリズムであり、多くの英語の本を読みこなして理解されるシンボルなのだと思います。

さて導入として長くなりましたが、横須賀における東と西の邂逅を意味するシンボルはどんなものでしょうか。
それは何と三浦海岸にあるようです。


三浦海岸は厳密には横須賀ではなく三浦市ですが、三浦の中でももっとも横須賀寄りで、夏になるとかなりの数の海水浴客で賑わう砂浜です。湘南に比べて東京湾側といっても比較的きれいに保たれている海岸で、その他にも三浦には雰囲気のあるきれいな海水浴場が多いのですが、この海岸が最も人気があると思います。かなり道が混むので車で来る際は渋滞が必至です。 
三浦市にはここ以外にこれといったフリーメイスンリーにまつわるシンボルはわかりませんが、そもそも城ケ島灯台はヴェルニーが建設したものであり、剣崎灯台もお雇い外国人のリチャード・ブラントンが建設したものであり、関東大震災で台替わりしているとはいえ灯台そのもののシンボルとしての意味は変わらないと思われます。彼らがフリーメイスンであるかは現時点では私は知りませんが、同時期に日本にいた多くのお雇い外国人はフリーメイスンであったりフリーメイスンとかかわりのあった人々であり、フリーメイスンリーにかかわるシンボルと考えて差し支えないかと思っています。


さて東と西の邂逅ですが、トイレですね。
三浦という土地柄、市の端っこでトイレという形になるのは致し方ないことだと思います。私個人は三浦市はマグロもおいしいし、野菜もおいしいし、景色もいいし、良い場所だと思いますが、フリーメイスンリー的には横須賀に比べて格段に日本的で古い価値観の地域である事は否めないでしょう。
ピラミッドはルーブル美術館の前にあるものや日本の各地のバラ園のある場所や、色々なビルなどにシンボリックに建設されることが多いものですが、この頂点がずれた形のピラミッドは日本で数か所に認められるピラミッドとして特殊な変形のものです。
なぜ三浦海岸なのかというと色々諸事情があるのだと思われますが、本来は久里浜海岸が最も場所としては適していたと思われますが、人が多くあつまるこの地が選ばれたのかもしれません。もしかすると三浦海岸にペリー来航時に様々な逸話があるのかもしれません。
頂点のずれたピラミッドがなぜ東と西の邂逅を意味するかというと、これはこのシンボルを見たときの解釈というだけで、どこかに説明があったという事はありません。
ピラミッドのシンボリズムと頂点がずれた意味、久里浜海岸や三浦海岸の歴史的意味や現在の状況を考え、それが東と西がこの場所で結びついた事を象徴するという意味が解釈として現れるという事なのです。
ただどうしても西が上で東が下とかどっちの頂点がどっちを意味するとかいう事になるのだと思いますが、それはそれぞれ違いという意味であって、どちらが優劣という事ではないのだと思います。ブラザーキップリングが言うように「東は東、西は西」まさにそれをあらわしたのがこのピラミッドの形なのだと思います。

まあそれがトイレになるという所も現実的なメリットや情勢を踏まえるとそうなることなのだと思います。トイレとして使った事はありませんが、なかなかシンボリズムとして面白いと思います。


満月とピラミッドのトイレ
なかなかシュールな写真ですが、わたしは釣りをしたり城ケ島の様々な思い出もあり、三浦市は個人的になかなか思い入れもあるのでこうしたちょっと場違いな感じのシンボルも愛着を感じます。
あまり多くの人が気付く事は少ないタイプのシンボルではありますが、これを見つけた時の感じは平易な柔らかな感動を与えてくれるものです。

月もシンボルとして重要なものであることを付け加えておきます。

さて東と西の邂逅というテーマのシンボルですがこれには実は有名なものがあります。
横須賀では西武グループ関連の建築物に良く目立つシンボルが多いのですが、これは極めて有名なものです。シンボルとしてこのブログでいう事に問題があれば伝えてください。


ネット上からの無断借用です。問題あれば教えてください。
八景島シーパラダイスの水族館と富士山の夕景


八景島シーパラダイス水族館

手前の休み処もヴェルニー公園と似た作りになっていますね。
周囲の展望台やアトラクションもオベリスクを模したものとなっているかと思われます。
この地は実は金沢区の歴史などからわかるのは、ブラザーペリーが日本に来航し、徳川将軍あてに親書を黒船の船上で使節に手渡した後に、上陸に関して水深調査をボートを出して詳しく行っている際に、アメリカの独立記念日(7月4日)に江戸城に向けて空砲を撃った場所なのだそうです。つまり江戸湾、現在の東京湾で水深が最も深く保たれている内奥部という事なのです。(2013/11/4追記:これは独立記念日7月4日ではなく、ブラザーワシントンの誕生日であるグレゴリオ暦の2月22日であったようです。横浜市のホームページを参照しました。)

ブラザーペリーの日本上陸に関しては、それ以前にもアメリカ艦船の乗組員が和歌山県に上陸した事例があり、その近くでその後トルコ艦船の座礁遭難事故があり、その地には現在オベリスクが建っています。
Kushimoto-toruko-ireihi1.jpg
その地にある日米修好記念館の説明です。
1791年(寛政3年)、ブラザーペリーの黒船来航より62年も前のこと、レイディ・ワシントン号とグレイス号の2隻のアメリカ商船が大島に上陸しました。これが公文書に記録された初めての日米間の接触であるとされています。同館では、当時の様子を解説したジオラマや写真、船の模型などが展示されています。 

このように様々な形で徳川幕府と接触を繰り返していた欧米諸国は、この強引とも思われるブラザーペリーの外交によって、徳川幕府も開国やむなしと判断し、久里浜から上陸を許可し、ブラザーペリー一行は江戸城で将軍と謁見し、後に伊豆下田、神奈川、麻布十番に米国総領事を置き、日米和親条約での開港二港、さらに日米修好通商条約での開港五港と外国人居留が認められていったのです。

このブラザーペリーの上陸に関しては様々な江戸幕府による日本的な駆け引きがあり、最初は鎌倉の地に上陸を勧めたそうですが、ブラザーペリーは遠浅の海で黒船が座礁する事を見越しており、それを拒否したそうです。鎌倉由比ヶ浜の海には源実朝が大型船を建造し直接中国との通商を行おうとして、座礁してしまったという逸話もあります。そもそも金沢八景の地は鎌倉時代より武家政権の中心である鎌倉の港として機能し、千葉からの塩を運び入れたり、中国からの通商もこの地を通してなされたそうです。
すでにシーボルト事件などを通して伊能忠能の地図などがヨーロッパに流出していたと考えられ、綿密に計算された上でフリーメイスンとして使命を帯びてブラザーペリーは来航したのでしょう。

水族館に関しては最近全国にシンボリックな観光目玉として建設されていますが、この水族館もまさにシンボリックであり、同様に品川水族館なども建物の上にピラミッドが認められ、水族館の意味、維持管理にかかわる技術や水棲生物の研究やアミューズメント施設としての存在がシンボリックな位置づけとなっているのだと思われます。これらのルーツにもフリーメイスンが関わっている事が示唆されます。

さてこの八景島のシンボルについてですが、実は面白い秘密が隠されていますが、それは次回といたします。

2012-01-13 10:06 | カテゴリ:鎌倉
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
金沢区のシンボルについて触れたので、一旦横須賀から離れて鎌倉にあるフリーメイスンリーのシンボルについて触れましょう。

八景島のシンボルについての話はまた後々話す事にします。

鎌倉といえば現在世界文化遺産登録に申請中の武家政権時代の中心地であったところです。

鎌倉のシンボルといえば一番に鶴岡八幡宮の銀杏の木が挙がったと思いますが、最近になって突風で倒れてしまったのは記憶に新しいところです。
その他には鶴岡八幡宮そのものや、段葛の桜並木、鶴岡八幡宮の鳥居や、鎌倉大仏、由比ヶ浜など観光地だけあって様々なものがシンボルとして思いつくと思います。
鎌倉駅そのものもシンボリックな時計塔の形をしていて、屋根がきちんとピラミッド型をしています。

私個人としては鎌倉のシンボルとしてはやはり鎌倉宮を挙げたいと思います。
鎌倉宮は南北朝時代に建武の新政をおこなった後醍醐天皇の皇子、護良親王が足利尊氏方に捕えられ幽閉されていた場所とされ、おどろおどろしい土牢跡が奥にありますが、実際のものではないそうです。大きな菊の御紋があり、七五三などで人気のようです。南朝の正統性など、明治天皇のお気に入りの逸話であったようで、明治維新後に復興されたり改変された神社の一つです。

同様のものに頼朝の墓の横にある大江広元の墓のさらに横にある島津と毛利の祖の墓があり、これらも明治維新後に改変されたようです。ネットで検索するとどちらも江戸時代の整備と強調してあります。私が以前訪問した際には横にある説明の石碑を直接削っている人がいてびっくりしたものでした。日本の史跡紹介の石碑の記録などはかなり怪しいものが多いですね。

さてこの他にも鎌倉には天皇家にまつわる地名が残されています。鎌倉の西口の江ノ電の乗り場がある方は小町通りとは逆側になり、若干さびれた感じとなっていますが、こちらの通りの名前は御成(おなり)通りといい、時期によっては武将の名前を書いたのぼりが電柱ごとに飾られたりとなかなか独特の雰囲気を醸し出しています。通りを過ぎると御成小学校という古めかしい門と体育館があるいかにも鎌倉らしい伝統を感じる鎌倉市立の小学校があったりします。この御成という地名なのですが、何も考えずにいると特に気付かないでいる地名ですが、実はそこに明治維新後から終戦まで天皇家の御用邸があったためについた名前と知るといかにもといった感じで納得がいきます。御成小学校の門や建物も部分的に御用邸のものを利用しているそうです。

鎌倉にはその他にも旧宮家の別荘や文人の住居、戦後の首相達の別荘などもあり、それらが現在は公開されているものや、料亭や文学館のような施設となっているなど様々なものがあり、細かく訪問するとそれぞれ現代につながる日本の歴史の多くの舞台と、その子孫の人々が多く現在も関わっている事を感じることができるので、鎌倉時代の歴史やそれ以前、それ以降のものと合わせて歴史そのものを勉強する事ができます。

ところでこのブログのテーマであるフリーメイスンリーのシンボルですが、鎌倉駅のそれもまた非常に気付きにくいものだと思いますが明らかにそういうものだと思われます。またその他にも非常に気付きにくく目立たない形で存在するのですが、それもまたこの鎌倉という日本の歴史上京都・奈良に続く古都として重要な存在である町の特徴なのだと思います。

フリーメイスンリーの歴史的には前回取り上げたブラザーキップリングが日本を訪問した際に鎌倉大仏を訪れ、それを記録しているので、ここに転載したいと思います。


往時の鎌倉大仏

「キプリングの日本発見」より

 さて、横浜から田や畑を抜けて二十マイルばかり行ったところにある海に面した町、鎌倉のことを記そう。鎌倉には青銅で造った大きな仏像、すなわち鎌倉の大仏がある。大仏は幾百年もの歳月の過ぎゆく音に耳をかたむけつつ、海に向かって、じっと座っている。この大仏についてはこれまで多くの人が、その荘厳さと、世を超越したさま、その他もろもろの側面、たとえば像の内側にある灰色の小さな聖所、像の背後にある綺麗に刈り込まれた木々の茂る小高い丘などについて、繰り返し語ろうと試みてきた。そして大仏は今もなお昔と同様に、その姿を描写したいと願う人間の思いの届き得ない彼方に座しておられる。すっかり新しくなってしまった風景の中で、目に見える神として。
 大仏の親指の爪の上に観光客が乗っている写真が絵葉書になって売られている。教養のない人間が男に限らず女も、この大仏を作り上げている巨大な青銅板の裏に、恥知らずにも自分の名前を落書きしている。考えても見たまえ、それがどんなに軽薄で、侮辱的な行為であるか!
 古風な庭園を想像してほしい。そこでは、植木の枝はさっぱりと刈り込まれ、苔はつやつやと輝き、静かな池の面からは水蒸気が立ちのぼっている。雨の降ったあとに太陽が強く照りつけているからだ。そして青銅の緑色に身を包んだ、法の師である大仏は、香の煙の中に半分隠れるように、揺らめく空気の中に座っておられる。大仏にとってそのとき大地はそのまま香炉となる。何百万といる蛙どもは、その空気をどよめかせる。
 あまりにも暑い日なので、わたしは何もせず、ただ石の上に座って大仏の目を見ている。大仏の目は伏し目である。それはすべてのものを見尽くした末に、もはや何も見ようとはしていない目で、頭は前に軽くうなだれ、単純な線の流れに表された巨大な衣の襞が、その腕と膝とを蔽っている。遠い昔、弟子の阿難陀が数々の問いを投げかけた時も、釈迦は今私が見ている姿と同じ姿勢で座っておられたはずである。その後におもむろに唇が動き始める。そしてその瞑想家はもっと遠い昔の日々のことを夢想し始める。仏典は「彼は語られた」と記すが、釈迦はきっとこのように夢想の後に語り始められたのだ。今も東洋の瞑想家たちはそのように語り出す。
 「遠い昔、提婆達多がベナレスの王であった頃、徳の高い象と、邪な牡牛と、物分かりの悪い王が住んでいた――」、そして釈迦はこの話から、阿難陀に一つの教訓を引き出して諭されたあと、次のように締めくくられる。「さて、邪な牡牛とは、だれそれ、物わかりの悪い王とは、だれそれ、そして徳の高い象とは、阿難陀や、私のことなのだよ」
 釈迦はその昔、このような話を竹の林の中でされたのだが、その竹の茂みは鎌倉に今もそのままある。青色や灰色や青味をおびた灰色の衣をまとった小柄な人々が今日もその蔭をよぎり、線香を数本買っては、聖所へと入っていき――その聖所とは大仏の身体の中の事だ――、しばらくするとにこにこしながらまた現れて、木立の向こうへ消えていく。池の中では、まるまると肥えた鯉が上から落ちてきた木の葉をぱくっと呑みこむ。まるで世の男がかわいい娘から接吻を盗むときのように邪な音を立てて。大地は静寂のなかで蒸されて、水蒸気をあげている。そこに、羽を広げると十五センチは優にあるような、絢爛たる巨大な蝶が一羽、極彩色の線をジグザグに描きながら、御仏の額のあたりに向かって、ひらひらと舞い上がっていく。
 仏陀は言われた、すべてのものは仮象であると。光さえも、色さえも。幾星霜を経た青銅の大仏の青鈍色も、その背後にある松の濃い青緑色も、竹の淡いエメラルド色も、少女の着ている着物のシナモン色も、帯のレモン色も、その娘が髪に挿している髪飾りの珊瑚色も、その娘が寄りかかっている、風雨にさらされた石の色も、茶店の藁葺き屋根の蜂蜜色も、その店の畳の黄金色も、畳の上の瓶に挿してある一枝の躑躅の、血のような真紅の色も、仏陀によればすべて仮象なのだ。
 たしかに、金銀への執着は、しばしば邪悪な思いを誘うこともあろうから、断ち切らねばなるまい。そのことは、わかる。しかし、人間の心を楽しませてくれる色、心を明るくしてくれる光、最も奥深い胸の憧れを満たしてくれる線の流れ、こうした目の喜びを、なぜ放棄しなければならないのだろうか。ああ、菩薩よ、あなたがご自身の姿を一度ご覧になるべきではないのですか!

 庭の入り口には古びた立て札があって、そこには少しく悲壮感がただようが、なかなか堂々たる訴えの言葉が書いてある。それはこの寺の僧が書いたもので、この寺を訪れる観光客に向かって、仏像に対する敬意と良識ある振舞いを求めるものである。それを私は詩の形に直してみた。こんな具合に――。

トペテの谷の脇を抜け、最後の審判の日をめざし
細い道を行くきみたちよ
「異教徒」たちが鎌倉の御仏を拝んでも
寛容な心で見守ってほしい

れっきとした道にして、法――きみたちのとは違うだろうが
母なるマヤ夫人の懐にいたお方
お弟子アーナンダにとっては主、また菩薩
鎌倉の大仏はそのようなお方

自分は鎌倉の子らのごとく、罪人ではないと
きみがきみらの神に感謝しようと
御仏は憤りもなさらず
見ようとも、聞こうともなさらない

だが、西洋流の嘲笑だけはやめたまえ
鎌倉の御仏を拝む小さな人々の小さな罪が
線香によってよい香りのする煙へと
変わっていくのを見るとき

灰色の衣に、明るい色の帯を締めた人たちが
伏目の御仏の蔭を蝶のように行き来する
御仏は神秘の彼方に居ますお方だが
鎌倉の子らを愛しておられる

高慢という罪に捉われず
他の宗教の教義と僧侶を貶めない者なら
広い東洋を蔽う東洋の魂を
この鎌倉で、この御仏に感じることができよう

然り、アーナンダがその昔、主から聞いた物語
偉大なる師が、魚や獣や鳥の姿をかりて
この世での輪廻転生を経られたという物語を
暖かい風は鎌倉まで運んでくる

一緒に聞こえてくるのは
デーヴァダッタの支配力が強くならないうちにと
鎌倉で御仏を拝みながら、輪廻転生の梯子を
一段、また一段と上りつつある人々の魂の声

半眼の瞼は見ておられるようだ
遠いシュエ・ダゴンの黄金の塔の頂から
燃える炎が発して東方に向かい
ビルマから鎌倉までの道を渡ってくるさまを

濃密な空気は世界の果てから鎌倉までの隔たりを
越えて運んでくる
チベットの太鼓の響きと
ゆるやかな「蓮華のなかに宝珠がある」という呪文を

だがバラモンはいまだにベナレスを支配し
ブダガヤ丘の仏跡は荒れるがまま、そして
牛肉を貪り食う狂信者たちは
鎌倉へと迫り、御仏を脅かす

大仏などは観光用の見世物、たんなる伝説
黄金の剥げかかった青銅の塊
それだけ、いやそれ以下としか、きみたちには
鎌倉の意味は映らないのか

だが朝の祈りを終え
法外な儲けを狙う戦へと出かけて行く前に、考えてみたまえ
きみらが崇める神の子のほうが
鎌倉の大仏より身近だと、きみには確信できるのか
――「鎌倉の大仏」


抹茶アイスを食べるオバマ大統領

さてここからが本題のフリーメイスンリーのシンボルについてですが、鎌倉ライオンズクラブの記念碑が日野俊基の墓の近くの葛原岡神社にありました。源氏山公園の近くです。

これとは違うものですがかなり有名な場所にありました。

次回にしようと思います。


2012-01-14 08:30 | カテゴリ:テレビ
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
テレビの話などしましょうか。

最近はテレビCMでもフリーメイスンリーを意識したものが多いですね。
きゃりーぱみゅぱみゅとか非常に意識したPVみたいですね。
スズキの車の宣伝も非常に意識されているみたいです。ジャニーズは全体に意識が強いですね。

その他あまり気付く人は少ないかもしれませんが、住友林業のCMでもロゴが出る際に出る音がモーツァルトの魔笛の笛の音を意識されているようです。

年末も紅白やTV東京の歌番組などが強烈に意識したセットでしたが、
ダウンタウンのバラエティーも結構意識したもののようです。

フリーメイスンリーに関する知識はデザインやマスメディアの中では汎用されているのが実際なので色々知っていると様々な機会で気づかされる事があり、何かのきっかけになるかもしれませんね。

(追記2/21:高須クリニックのCMもヤキンとボアズの柱を意識してるみたいですね。まあ何なんでしょうか。)
2012-01-15 17:15 | カテゴリ:その他 雑記
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
いろいろ教えてくださった公園管理の方々ありがとうございます。
このブログを読んで全国から色々な人が来て質問するかもしれませんが申し訳ありません。
2chにブログの宣伝を書き込むと小学生から老人まで様々な人が見るようですが、
フリーメイスンリーは基本的にきちんと働いていて世間的に評判の良い成人男性に向けた存在です。
Wikipediaより抜粋します。
入会資格として何らかの真摯(しんし)な信仰を要求しており、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教(以上アブラハムの宗教)の信徒はもちろん、仏教徒などであっても入会できるが、無神論者、共産主義者は入会できない。たとえ信仰する宗教があったとしても、社会的地位の確立していない宗教(例として新宗教各派)である場合は入会できない。ただし、特定の宗教を信仰していなくても、神(あるいはそれに類する創造者)の存在を信じるものであれば、入会資格はある。これらの信仰を総称して、「至高の存在への尊崇と信仰」と呼ぶ。

そのほかの入会資格として、成年男子で、世間での評判が良く、高い道徳的品性の持ち主であり、健全な心に恵まれ、定職と一定の定収があって家族を養っていること、身体障害者でないことが求められる。

またロータリークラブ、ライオンズクラブとは直接の関係はありません。それらと関連したような建物にフリーメイスンリーの教えや考え方が反映されているというだけです。人類にはさまざまな育ちや環境、能力や宗教などがありますが、人類として共通の感情や理解、知性や理性をもちうる事もまた事実であります。個々人の能力や特性をお互いに向上しあう事で、それらをつなぎ人類共通の課題や問題に対して協力して取り組む事が出来るような洗練されたやり方、それの一つでありかつもっとも歴史的に古く、世界で最大のものがフリーメイスンリーだと思われます。よって日本ではさまざまな偏見や誤解が存在する事も事実でありますが、それに対して具体的に関心を持って正しい認識をもっていただくことはフリーメイスンリーにとってもそうでない人にとってもお互いにとって価値のある事だと思いこのブログを始めました。
さまざまな利害関係や権利関係がどの建物や作品群にも関係している事と思います。具体的に問題がある際にはいつでも連絡ください。


2012-01-16 14:03 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
ウィリアム・アダムスという人を知っているでしょうか?

三浦按針というと知っている人は知っているかもしれません。
毎回ですがウィキペディアで調べてみましょう。

ウィリアム・アダムス(William Adams, 1564年9月24日 - 1620年5月26日(元和6年4月24日))は、江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイギリス人航海士・水先案内人・貿易家。日本名の三浦 按針(みうら あんじん)としても知られる。

按針の墓は長崎県平戸市の崎方公園にある。また神奈川県横須賀市西逸見(にしへみ)町の「塚山公園」には按針夫妻の慰霊碑があり、1923年3月7日、国の史跡に指定された。

イングランド南東部のケント州ジリンガムの生まれ。船員だった父親を亡くして故郷を後にし、12歳でロンドンのテムズ川北岸にあるライムハウスに移り、船大工の棟梁ニコラス・ディギンズに弟子入りする。造船術よりも航海術に興味を持ったアダムスは、1588年に奉公の年限を終えると同時に英国海軍に入り、フランシス・ドレークの指揮下にあった貨物補給船リチャード・ダフィールド号の船長としてアルマダの海戦に参加した。翌1589年にはメアリー・ハインと結婚し、娘デリヴァレンスと息子ジョンを儲けている。しかし、軍を離れてバーバリー商会ロンドン会社の航海士・船長として北方航路やアフリカへの航海で多忙だったアダムスは、ほとんど家に居つかなかったといわれている。

航海で共に仕事をする中でオランダ人船員たちと交流を深めたアダムスは、ロッテルダムから極東を目指す航海のためにベテランの航海士を探しているという噂を聞きつけ、弟のトマスらと共にロッテルダムに渡り志願する。航海は5隻からなる船団で行われることになっていた。
司令官のヤックス・マフはアダムスをホープ号の航海士として採用する。こうして1598年6月24日、船団はロッテルダム港を出航した。
だが航海は惨憺たる有様で、マゼラン海峡を抜けるまでにはウィリアムとトマスの兄弟はリーフデ号に配置転換されていたが、トマスが最初乗船していたトラウ号は東インド諸島でポルトガルに、フライデ・ボートスハップ号はスペインに拿捕され、1隻はぐれたヘローフ号は続行を断念してロッテルダムに引き返した。生き残った2隻で太平洋を横断する途中、ホープ号も沈没してしまい、極東に到達するという目的を果たしたのはリーフデ号ただ1隻となった。その上、食糧補給のために寄港した先々で赤痢や壊血病が蔓延したり、インディオの襲撃に晒されたために次々と船員を失っていき、トマスもインディオに殺害されてしまう。こうして出航時に110人だった乗組員は、日本漂着までには24人に減っていた。 
1600年4月29日(慶長5年3月16日)、リーフデ号は豊後の臼杵に漂着した。自力では上陸できなかった乗組員は、臼杵城主太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏んだ。太田は長崎奉行の寺沢広高に通報。寺沢はアダムスらを拘束し、船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収したのち、大坂城の豊臣秀頼に指示を仰いだ。この間にイエズス会の宣教師達が訪れ、オランダ人やイギリス人を即刻処刑するように要求している。
5月12日(慶長5年3月30日)、家康は初めて彼らを引見する。イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船だと思い込んでいた家康だが、路程や航海の目的、オランダやイギリスなど新教国とポルトガル・スペインら旧教国との紛争を臆せず説明するアダムスとヤン=ヨーステンを気に入って誤解を解いた。しばらく乗組員達を投獄したものの、執拗に処刑を要求する宣教師らを黙殺した家康は、幾度かにわたって引見を繰り返したのちに釈放し、城地である江戸に招く。

江戸でのアダムスは帰国を願い出たが、叶うことはなかった。代わりに家康は米や俸給を与えて慰留し、外国使節との対面や外交交渉に際して通訳を任せたり、助言を求めたりした。また、この時期に、幾何学や数学、航海術などの知識を家康以下の幕閣に授けたとも言われている。帰国を諦めつつあった彼は、1602年頃日本橋大伝馬町の名主で、家康の御用商人でもあった馬込勘解由の娘、お雪(マリア)と結婚した。彼女との間には、息子のジョゼフと娘のスザンナが生まれている。
やがて江戸湾に係留されていたリーフデ号が沈没すると、船大工としての経験を買われて、西洋式の帆船を建造することを要請される。永らく造船の現場から遠ざかっていたアダムスは、当初は固辞したものの受け入れざるを得なくなり、伊東に日本で初めての造船ドックを設けて80tの帆船を建造した。これが1604年(慶長9年)に完成すると、気をよくした家康は大型船の建造を指示、1607年には120tの船舶を完成させる(この船は1610年になって、房総の御宿海岸で遭難し地元民に救助された前フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベロに家康から貸し出され、サン・ブエナ・ベントゥーラ号と名付けられた)。

この功績を賞した家康は、更なる慰留の意味もあってアダムスを250石取りの旗本に取り立て、帯刀を許したのみならず相模国逸見(へみ)に采地も与えた。また、三浦 按針("按針"の名は、彼の職業である水先案内人の意。姓の"三浦"は領地のある三浦半島に因む)の名乗りを与えられ、異国人でありながら日本の武士として生きるという数奇な境遇を得たのである。のち、この所領は息子のジョゼフが相続し、三浦按針の名乗りもジョゼフに継承されている。
家康に信頼された按針だが、1616年(元和2年)4月に家康が亡くなり、後を継いだ徳川秀忠をはじめ幕臣たちの方針で貿易を平戸のみに制御し鎖国体制を敷いたため、按針の立場は不遇となった。以降の按針の役目は天文官のみとなり、幕臣や次期将軍候補の徳川家光らに警戒されながら、按針は憂鬱の状態のまま、1620年(元和6年)5月26日に平戸で没した。57歳であった。 


さて長々と転載いたしましたが、関連項目として以下のものがありましたのでこれも転載いたします。


ヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン(Jan Joosten van Loodensteijn , 1556年? - 1623年)は、オランダの航海士、朱印船貿易家。日本名は耶楊子(やようす)。

来歴
オランダ船リーフデ号に乗り込み、航海長であるイングランド人ウィリアム・アダムス(三浦按針)とともに1600年豊後に漂着。

徳川家康に信任され、江戸城の内堀内に邸を貰い、日本人と結婚した。屋敷のあった場所は現在の八重洲のあたりだが、この「八重洲」の地名は彼自身に由来する。「ヤン=ヨーステン」が訛って「耶楊子」(やようす)と呼ばれるようになり、これがのちに「八代洲」(やよす)となり、「八重洲」(やえす)になったのである。


さて長々とコピペしましたが、ウィキペディアは権利関係は大丈夫なんでしょうか。まあ悪意もあるわけでも商用目的でもないので大丈夫だとは思いますが、この内容のポイントがいくつかあります。まずイギリス人として初めて日本に上陸した記録の残る人物が彼であること。バーバリー商会に勤めていたこと。ドレーク船長麾下の半国軍の船であったこと。弟の名前がトマス、日本人妻の名前がマリア、子供の名前がヨセフとすべて新約聖書の重要人物の名前であること。激しい新教と旧教の対立が極東の日本でもあったこと。三浦半島に所領を与えられて住んだこと。家康死後は不遇の後に平戸で死亡し墓があることでしょうか。
また息子のジョセフについてもウィキペディアに項目があったのでこれも転載いたします。

ジョセフ・アダムズ / 三浦 按針(二代目)(Joseph Adams, /みうら あんじん、1605年 - 没年不詳)は、江戸時代初期に徳川秀忠、徳川家光に仕えた旗本(禄高は相模国三浦郡逸見250石)。

徳川家康・秀忠に外交顧問として仕えたイギリス人船員・ウィリアム・アダムス / 三浦按針(初代)の息子で、イギリス人(イングランド人)としては「ジョセフ・アダムズ」と名乗る。母は馬込勘解由の娘の雪。妹にスザンナがいる。また、父の故郷のイングランドのケント州ジリンガムには、義理の母のメアリー・ハインと、異母姉のデリヴァレンスと異母兄のジョンがいる。叔父はトマス・アダムスである。

慶長10年(1605年)ごろ生まれる。元和6年(1620年)5月16日、父が57歳で没すると家督と所領を相続し、名乗りを継いで二代目三浦按針となる。父からは佩刀の大半も相続した。ジョセフは父の手によって航海士としての訓練を施されており、船員として航海にも参加していた。 元和10年(1624年)と寛永12年(1635年)にはコーチシナへと航海している。

そのころには、海外貿易にも積極的だった家康が既に没し、消極的な秀忠の治世になっており、次代の家光に至っては排他的な鎖国主義者のために、朱印船貿易は徐々に制限が強化されるようになっていた。しかし、ジョセフは最後まで朱印状・奉書を給付され活動を保証されていた。寛永9年(1632年)まで貿易を行っていた記録が残り、また同13年(1636年)付けの棟礼が現存するといわれ、鎖国直前までは活動が確認できる。

その後の消息は定かでない。死後は領地の三浦に埋葬されたというが、詳しいことは不明である。

うーん。三浦に白人の血が残っているのでしょうかね。
いずれにしても安針塚という場所があります。そこがこの三浦按針の所領だったところ、逸見に当たるところです。

さて今回の場所はこの安針塚、塚山公園になるわけですが、三浦按針の逸話ですが、これにはいくつかの重要な要素が欠けています。彼が日本にたまたま来た時代はまさに1600年という日本史的に非常に重要な時代です。まさにこれから関ヶ原の合戦が始まろうと、石田三成以下西軍方と徳川家康以下東軍方で小早川秀秋に代表されるような裏切りと策謀の駆け引きが真っ最中の只中に放り込まれた訳です。この時世界はいわゆる大航海時代終盤であり、いわゆるポルトガルとスペインによる世界の分割がなされたのちに、イギリス海軍がスペイン海軍を破りエリザベス一世配下の海賊ドレーク船長が世界一周を成し遂げ、まさにその後の大英帝国の礎を築き始めたそんな時なのです。イエズス会の修道士たちは織田信長から豊臣秀吉、果ては豊臣家と徳川方との争いを全てを知りつくし、伊達や島津、琉球からフィリピン、上海、香港、インドまで全て知り尽くしていた状況です。そこにまさにウィリアム・アダムスは血気盛んな船乗りとして放り込まれるわけです。お気づきかもしれませんが、状況としては極めてジョン・万次郎に似ている感じですね。
按針という名前は水先案内人という意味とありますが、まさに羅針盤を操るコンパスを手にした人間ということです。当時はもちろんフリーメイスンリーのグランドロッジ結成前の時代で、ウィリアム・アダムスの経歴からいって、それ以前のロッジに加入するようなフリーメイスンである可能性はほとんどないわけですが、彼が行った行動、その他を見るに典型的なキリスト教精神に基づく不屈の精神で日本で生涯を全うしていることが分かると思います。彼らの存在により、今日に至るまで続くような日本の伝統宗教である仏教・神道とキリスト教との宗教対立のもとになるような江戸鎖国体制を促進した影響はあるものと思われます。

さてウィキペディアではあえて書かれていないのだと思いますが、この人の日本史史上の最大の功績はジェームズ1世に親書を送り、大阪冬の陣で徳川方にイギリス製の最新の大砲を売ったということでしょうか。この事はあまり日本史で述べられることはありませんが、実際には日本の歴史をほぼ決定するような重要な活躍をしたと言えると思います。彼の存在によって当時難攻不落を誇っていた大坂城が和睦に応じ、その後の大坂夏の陣での豊臣氏の滅亡につながり、徳川幕藩体制の確立につながるわけです。

これに関してと言ってはあれですが、実は豊臣氏の日本統一に関してもこれと似たような事例があります。豊臣氏の日本統一といえば一般には小田原城での北条氏の滅亡をもって全国統一とされていますが、実はこの時に籠城戦で小田原城は何年も持ちこたえる構造をしていました。小田原城はそもそも特産のかまぼこで知られるように相模湾の海流の関係で目の前の漁場が非常に豊かであり、また当時の戦国時代の築城技術の粋を集めていたために、広大な城の範囲と内部での耕作や井戸をもち合わせ、難攻不落というよりもいわゆるヨーロッパの城郭都市と同じ形で、内部で循環する経済があり長期戦を維持する補給があったのです。このためいくら籠城戦を戦おうともお互いに疲弊するのみで、いわゆる食料や水が足りなくなることが無いのでした。ただ籠城戦自体神経戦の部分が強く、籠城する側は圧倒的に不利であり、小田原城攻城はすでに北条氏が仲間が全くいない状態で、頼りの伊達氏や島津氏にも包囲されている状況だったので、落ちるのは時間の問題であったのです。その際に最後の決め手になったのが石垣山一夜城の出現であったといわれています。小田原城を見降ろす石垣山の頂上に、日本で最初の西洋流の石組をもった石垣城を建築し、一夜で建築したように隠していた幕を取って小田原城に見せつけることで、その築城技術や建築技術の高さを誇り、そこから弓矢や鉄砲を打ちおろすことで、完全に籠城方は戦意を失い当主が切腹することで敗北を決したということです。(4/1追記:北条氏と交渉にあたったのは後にこのブログでも取り上げた黒田官兵衛だそうです。)豊臣氏、徳川氏ともに天下統一の決定的な瞬間で宣教師や三浦按針がもたらした西洋の進んだ軍事技術が決め手となっているのが実は日本の戦国時代の真実なのです。(追記:石垣山一夜城については、ウィキペディアなどでも編集がすすんで、基本的には関東で最初の本格的な石組というところで落ち着いているようです。実際は豊臣秀吉は織田信長以来の宣教師との関係が密であり、安土城でも西洋建築の影響が大きく認められるところであり、この石垣山一夜城においてそういう西洋建築の影響が大きく認められ、それが威嚇効果を良くもたらした事は想像できます。なかなか日本史の常識は簡単には変わらないという一つの例だと思われます。)

石垣の技術なんていうとまさに石工の技術そのものであり、フリーメイスンリーの源流を感じさせる出来事だと思います。

次回はそのウィリアム・アダムスを記念した安針塚のある塚山公園の現在についてフリーメイスンリー的考察を加えます。

2012-01-17 12:58 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
安針塚の続きです。


塚山公園は人がいません。


神奈川県民には懐かしい長洲一二さんの揮毫があります。


公園はこんな感じです。

海の見える丘からの風景はこんな感じです。金沢文庫方面


横須賀本港方面


久里浜方面 建物の上にらせんが見えますね。


見晴らし台からの金沢文庫方面


見晴らし台付近からの大楠山方面


園内の休み処


チェッカーの床と三角の椅子


保存会の看板


安針塚です。奥さんの墓と並んでいます。実際にはお骨は入っていないそうです。


戦前の漢文の石碑が見えない方向を向いていました。


坂を下りたところにある弘法大師の碑。荒れ放題でした。


とんがり屋根の民家。YRP野比のラ・ルーヴルそっくりです。


鹿島神社があります。


並んで浄土寺があります。


港の見える丘からの八景島方面。他のブログよりお借りしました。
綺麗に重なる角度で撮っていますね。実際にはここまで重なりません。
これが八景島のシンボルの秘密ですが、安針塚からみるとちょうどずれたピラミッドが重なるような角度になっています。安針塚から江戸を見た時にそれがちょうど東洋から西洋を見たようにウィリアム・アダムスが望郷の念を抱いたように、横須賀から東京を眺めるとそうなるのか、なかなか確実な説明はないでしょうが、ずれたピラミッドが一体に見える場所が安針塚であるという事は、歴史と共に我々に一つの答えを与えてくれるのではないでしょうか。東西の邂逅、それは偶然でもなく必然であり共に同じ形を作っていたのだということでしょうか。

三浦按針がフリーメイスンでないことは恐らく異論はないところだと思います。彼がフリーメイスンとして考えてふさわしいかどうか、それはこの公園に答えが一部あったのだと思います。
彼が実際には平戸に移り、そこで望郷の内に死亡し墓があることと、この安針塚が現在まで墓として奥さんの碑と共に横に並んで保存されている事は、蝶々夫人の逸話を見るまでもなく、東と西、この遠くて古い関係が現在に至るまで本質的には変わらずにあり続けるという事を端的にあらわしているのかもしれません。

神社と寺と碑の関係、および周辺の谷津の寒い環境なども日本の封建時代と現代の状況を鑑みるのに非常に示唆的なものだと思われます。日本の国際化、それを考える時、この三浦按針の足跡はわれわれ日本人に大きな教訓を与えてくれるものだと思います。

多くの方に訪問していただきたい場所ではありますが、周辺に駐車場などはあまりなく横須賀は駅からの徒歩が基本の場所が多いので、是非訪問する際はよく調べて来られることをお勧めします。

ウィリアム・アダムスは紀行記を本国に送っていて、それを基にしてガリバー旅行記の日本の部分は描かれたそうです。またガリバー旅行記で描かれたラピュータと呼ばれる天空に浮かぶ島の話はニュートンを代表とするフリーメイスンリーの啓蒙科学に対する批判のようです。天空の城ラピュタのもとになったお話ですね。「バルス」は特に秘密の暗号としては知りません。(2/13追記:ガリバー旅行記の作者はブラザースイフトでフリーメイスンです。)(4/1追記:バルスという呪文は恐らく昴とかかっているダジャレではないでしょうか。昴はプレアデス星団という肉眼で6-7の星が集まって見える星団で、集まるという意味で統べるという和語からすばるという名前が付いたようです。そういう意味でラピュタの映画は意味の解釈ができるのかと思います。日本のアニメも教訓的ですね。)

次回は鎌倉のフリーメイスンリーのシンボルをやります。


2012-01-18 10:24 | カテゴリ:鎌倉
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
鎌倉のフリーメイスンリーのシンボル

これを言われて想像がつく人はいるでしょうか。
前に鎌倉駅の時計台について触れました。あれもそれをフリーメイスンリーのシンボルと考える人はほとんどいないと思います。

それ以外でそれらしいものが鎌倉にあったでしょうか。

詳しい人は江の島の展望台や灯台がそうなのではないかと考えるのではないでしょうか。江の島の植物園はサムエル・コッキングさんというイギリスからの横浜外国人居留地の方が造られたそうです。奥さんが日本人で、フリーメイスンかどうかは全くわかりません。私はこの植物園は行ったことがありません。カナダ、ウィンザー市から送られたバラ園があるそうです。

しかし御存じのとおり江の島は藤沢市です。

明治天皇の歌碑がある場所があります。

明治天皇御製
新田義貞

投げ入れし剣の光あらわれて
千尋の海もくがとなりぬる

海軍大将岡田啓介謹書

他のブログからのコピペです。

鎌倉・南北朝時代の武将、新田義貞は、元弘三年(一三三三)五月、一族を集めて討幕の挙兵をし、
二十二日、干潟になった稲村ヶ崎の海岸線を突破して鎌倉になだれ込んだ。
鎌倉中が戦場と化し、幕府軍の善戦及ばず、東勝寺へ逃れた北条高時ら一門は自害し、幕府は滅亡した。
「太平記」(巻第十 稲村崎干潟と成る事)に次のように記されている。
げにもこの陣の寄手、かなはで引きぬらんも理なりと見給ひければ、義貞馬より下りたまひて、
冑を脱いで海上を遥々と伏し拝み、龍神に向かつて祈誓したまひける。
(略)みつから佩きたまへる金作りの太刀を抜いて、海中へ投げたまひけり。
まことに龍神納受やしたまひけん、その夜の月の入り方に、
先々さらに干る事も無かりける稲村崎にはかに二十余町干あがって、平沙渺々たり。
横矢射んと構へぬる数千の兵船も、落ち行く塩に誘はれて、遥かの沖に漂へり。不思議と云ふもたぐい無し。

実際には満潮干潮でそれほどの砂浜が出現することもなく、膝をつかりながら磯伝いに侵入は可能だが防御される可能性は高く、内通者や地元の人の手引きがあって山越えで突破したのではないかというのが事実みたいです。いずれにしても南朝びいきの明治天皇お気に入りの逸話であったようで、明治以降太平記の最も有名な部分として巷間に知れ渡っているエピソードだと思います。剣を投げ込んで海が割れたというと、聖書を知っているとすぐにモーセの出エジプトのエピソードに結び付くと思います。

出エジプトの該当部分を転載します。

出エジプト記14章
主はモーセに仰せになった。「イスラエルの人々に、引き返してミグドルと海との間のピ・ハヒロトの手前で宿営するよう命じなさい。バアル・ツェフォンの前に、それに面して、海辺に宿営するのだ。するとファラオは、イスラエルの人々が慌ててあの地方で道に迷い、荒れ野が彼らの行く手をふさいだと思うであろう。わたしはファラオの心をかたくなにし、彼らの後を追わせる。しかし、わたしはファラオとその全軍を破って栄光を現すので、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」彼らは言われたとおりにした。民が逃亡したとの報告を受けると、エジプト王ファラオとその家臣は、民に対する考えを一変していった。「ああ、我々は何ということをしたのだろう。イスラエル人を労役から解放して去らせてしまったとは。」ファラオは戦車に馬をつなぎ、自ら軍勢を率い、えり抜きの戦車六百をはじめ、エジプトの戦車すべてを動員し、それぞれに士官を乗り込ませた。主がエジプト王ファラオの心をかたくなにされたので、王はイスラエルの人々の後を追った。イスラエルの人々は、意気揚々と出て行ったが、エジプト軍は彼らの後を追い、ファラオの馬と戦車、騎兵と歩兵は、ピ・ハヒロトの傍らで、バアル・ツェフォンの前の海辺に宿営している彼らに追いついた。ファラオは既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、また、モーセに言った。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓が無いからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入ってきた。朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍はかき乱された。戦車の車輪をはずし、進みにくくされた。エジプト人は言った。「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」主はモーセに言われた。「海に向かって手を差し伸べなさい。水がエジプト軍の上に、戦車、騎兵の上に流れ返るであろう。」モーセが手を海に向かって差し伸べると、夜が明ける前に海は元の場所へ流れ返った。エジプト軍は水の流れに逆らって逃げたが、主は彼らを海の中に投げ込まれた。水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んだが、そのとき、水は彼らの右と左に壁となった。主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。

太平記の描写とそっくりなのがよくわかると思います。恐らく太平記の作者に聖書のこの話のアイディアが伝わったのではないでしょうか。明治天皇も明治維新後に欧州に留学したブラザー西周やブラザー津田真道らから聖書やユダヤ教、キリスト教について当時の日本における最新の知識を吸収していたことだと思われます。そして新たな明治維新で生まれた日本がキリスト教やユダヤ教における一神教を模した天皇を中心とした一神教的国家としてつくる際に、それら神の所業のいわれが日本の古典においても同様に認められ、どの時代、どの地域においても普遍的な歴史や宗教の伝承について統治者として啓蒙され、一種の啓蒙専制君主としてこのような歌碑を残したものと思われます。実際新田義貞の鎌倉攻めは極楽寺方面でも激烈で、十一人塚などの碑も残されていますが、鎌倉幕府の滅亡の戦いにおいて十一人の死者がポイントになったとすると、今の戦争や争いと比べると鎌倉時代のそれは相当に違ったものだったのだろうと容易に想像されます。

また内通者や、城攻めでの内部崩壊の話としてはやはり旧約聖書ではヨシュア(ジョシュア)記でのヨシュア(ジョシュア)がカナンの地に攻め上がる際にエリコの城壁の話が有名です。聖書の話ばかりでくどくなりますが、この辺は聖書を通読した人にとっては印象深い一つの重要なエピソードであり、これについても初めて知る人々のために転載することとします。

ヨシュア記6章
エリコは、イスラエルの人々の攻撃に備えて城門を堅く閉ざしたので、誰も出入りすることはできなかった。そのとき、主はヨシュアに言われた。「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。七日目には、町を七周し、祭司たちは角笛を吹きならしなさい。彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、その音があなたたちの耳に達したら、民は皆、鬨の声をあげなさい。町の城壁は崩れ落ちるから、民は、それぞれ、その場所から突入しなさい。」ヌンの子ヨシュアは、まず祭司たちを呼び集め、「契約の箱を担げ。七人は、各自雄羊の角笛を携えて主の箱を先導せよ」と命じ、次に民に向かって、「進め。町の周りを回れ。武装兵は主の箱の前を行け」と命じた。ヨシュアが民に命じ終わると、七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携え、それを吹き鳴らしながら主の前を行き、主の契約の箱はその後を進んだ。武装兵は、角笛を吹き鳴らす祭司たちの前衛として進み、また後衛として神の箱に従った。行進中、角笛は鳴り渡っていた。ヨシュアは、その他の民に対しては、「わたしが鬨の声をあげよと命じる日までは、叫んではならない。声を聞かれないようにせよ。口から言葉を発してはならない。あなたたちは、その後で鬨の声をあげるのだ」と命じた。彼はこうして主の箱を担いで町を回らせ、一周させた。その後、彼らは宿営に戻り、そこで夜を過ごした。翌朝、ヨシュアは早く起き、祭司たちは主の箱を担ぎ、七人の祭司はそれぞれ雄羊の角笛を携え、それを吹き鳴らしながら主の箱の前を進んだ。武装兵は、さらにその前衛として進み、また後衛として主の箱に従った。行進中、角笛は鳴り渡っていた。彼らは二日目も、町を一度回って宿営に戻った。同じことを、彼らは六日間繰り返したが、七日目は朝早く、夜明けとともに起き、同じようにして町を七度回った。町を七度回ったのはこの日だけであった。七度目に、祭司が角笛を吹き鳴らすと、ヨシュアは民に命じた。「鬨の声をあげよ。主はあなたたちにこの町を与えられた。町とその中にあるものは、ことごとく滅ぼし尽くして主にささげよ。ただし、遊女ラハブおよび彼女と一緒に家の中にいる者は皆、生かしておきなさい。我々が遣わした使いをかくまってくれたからである。あなたたちはただ滅ぼし尽くすべきものを欲しがらないように気をつけ、滅ぼし尽くすべきものの一部でもかすめ取ってイスラエルの宿営全体を滅ぼすような不幸を招かないようにせよ。金、銀、銅器、鉄器は全て主にささげる聖なるものであるから、主の宝物倉に納めよ。」角笛が鳴り渡ると、民は鬨の声をあげた。民が角笛の音を聞いて、一斉に鬨の声をあげると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした。ヨシュアは、土地を探った二人の斥候に、「あの遊女の家に行って、あなたたちが誓ったとおり、その女と彼女に連なる者すべてをそこから連れ出せ」と命じた。斥候の若者たちは行って、ラハブとその父母、兄弟、彼女に連なる者すべてを連れ出し、彼女の親族を全て連れ出してイスラエルの宿営のそばに避難させた。彼らはその後、町とその中のすべてのものを焼き払い、金、銀、銅器、鉄器だけを主の宝物倉に納めた。遊女ラハブとその一族、彼女に連なる者はすべて、ヨシュアが生かしておいたので、イスラエルのなかに住んで今日に至っている。エリコを探る斥候としてヨシュアが派遣した使者を、彼女がかくまったからである。ヨシュアは、このとき、誓って言った。「この町エリコを再建しようとする者は主の呪いを受ける。基礎を据えたときに長子を失い城門を建てたときに末子を失う。」主がヨシュアと共におられたので、彼の名声はこの地方一帯に広まった。

モーセの出エジプトやヨシュアのエリコ攻略に関して明治から現在に至るまでどれだけの日本人が知っていたでしょうか。少なくとも明治天皇は詳しく知っていたと思われます。

さて稲村ケ崎には他にも京都大学出身の日本の哲学の権威でもある西田幾多郎の碑もあります。この地で著作と家族との幸せな時間を過ごしたそうです。西田幾多郎といえば「絶対矛盾の自己同一」や京都の観光名所である哲学の道で有名です。わたしは詳しくは知りません。

また稲村ケ崎は白樺派で「一房の葡萄」で有名な有島武郎の作品の「溺れかけた兄妹」の舞台でもあります。彼の作品は一房の葡萄などの聖書の話をベースとしたものがあります。七里ガ浜~稲村ケ崎にはこうした関連でかキリスト教系の病院や教会や施設が多数あります。七里ガ浜には日本バレエ発祥の地として旧パブロワ記念館と記念碑も残っています。ここにも二つのアーチが残っています。

稲村ケ崎公園には明治天皇の歌碑のほか、逗子開成中学校のボート転覆事故を慰霊する銅像も建っています。恐らく有島武郎の「溺れかけた兄妹」を意識して作られたのだと思われます。

さてこのような稲村ケ崎なのですが、フリーメイスンリーのシンボルはどこでしょう。


西田幾多郎の記念碑





七里ガ浜にある日本バレエ発祥の地として旧パブロワ記念館と記念碑


逗子開成中学ボート遭難慰霊碑


実は最初のものは稲村ケ崎公園のすぐわきにある極楽寺川の橋と川の護岸です。
単に白黒のチェッカーになっているだけです。

この稲村ケ崎周囲は万葉集にも歌われていて、奈良時代より人々が住む地域であったことがわかります。

鎌倉の見越しの崎の岩崩えの君が悔ゆべき心は持たじ
ま愛しみさ寝に我は行く鎌倉の水無瀬川に潮満つなむか

さてこれだけではフリーメイスンリーのシンボルとはちょっと確信しがたいと思います。
稲村ケ崎公園を三段ある一番上まで登って行きましょう。


中央の休み処と手前の芝と石とのチェッカーがよくできています。
ヘキサゴンの形になっていて景色がよく見えます。

ここには「近代細菌学の祖」といわれるコッホと北里柴三郎が訪れたことを記念する碑があります。



コッホはフリーメイスンではないでしょうが、ここを訪れて二年後にドイツのバーデン・バーデンで66歳で死亡しました。

さてこの地の最大のフリーメイスンリーのシンボルは実は二本の松の木と借景でした。



二本の松の木がヤキンとボアズの柱、富士山が神様を意味する三角形、手前のベンチが祭壇altarで、その手前がわれわれ日本人としてのラフアシュラーでしょう。
二本の松の木は日本を象徴する意味でもかかっているのだと思います。それは極めて日本的で、極めて日本の象徴でありながら、フリーメイスンリーの象徴を自然と取り込み、しかしながらラフアシュラーで締めくくられるような、極めて鎌倉的なシンボルでありました。

この地では最近では姉歯設計事件に関して建築事務所の社長が自殺して流れ着くといういわくつきの有名な事件もありました。

[追記:恐ろしい話で終わりましたが、お詫びに非常にためになる情報を付け加えます。稲村ケ崎公園から歩いてすぐにイタリアンでとてもおいしく品があり比較的リーズナブルな店があります。ミシュランガイドにも出てきませんが、それはフランス料理の源流といわれるメディチ家伝来のイタリア料理を自負するが故でしょうか。


タベルナ・ロンディーノと言います。食べるなという意味ではなく、食堂という意味だそうです。ロンディーノはロンド調のとかいう意味だそうで、ロンギヌスの槍とは関係ありません。平日昼のランチコースが一番のおすすめです。駐車場は稲村ケ崎温泉の横の駐車場が提携しているそうです。]



2012-01-19 09:24 | カテゴリ:シンボリズム
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
日本と言えば富士山

しかしこれは関東山梨静岡あたりでの話であって、それ以外の地域ではほとんど見られないので実はそうではありません。
富士山は文献的には紀貫之とかその位から霊山としてあがめられてきたのか、主に東日本、もともとアイヌ民族の方での象徴であったのだと思われます。
日本の象徴とされてきたのはやはり静岡、駿府を拠点とした徳川家康の影響が大きいのでしょうか。

横須賀でも大楠山や荒崎公園、立石公園からの眺めは晴れていれば美しいですし、葉山は長者ヶ崎、国際村の給水塔の上や、鎌倉であれば稲村ケ崎公園、ちょっと変わったところでは安国論寺の富士見台などの絶景ポイントがあります。

東海道沿いでは北斎の冨嶽三十六景が構図としては有名でしょうか。江戸時代は東海道を整備して人の往来を盛んにし街道の経済を潤わせる効果があったのだと思われます。


冨嶽三十六景七里ガ浜


北斎の冨嶽三十六景と稲村ケ崎からの現在の富士山


明治期の富士山の写真 白黒に着色


横山大観の富士山
著作権の問題あれば教えてください。

日本のフリーメイスンリーでも富士山はグランドロッジのシンボルマークに取り入れられています。



もうひとつ日本の信仰の象徴としての鳥居ですが、これについてはいくつかのロッジで象徴として取り入れられているようです。


国際ロッジは座間基地の中にあるロッジです。名古屋のロッジは鳥居メソニック・ロッジという名前です。

富士山に関しては過去に大東亜戦争盛んなころに富士山に向けた直線の参道の都市計画(9/2追記:丹下健三氏の最初のコンペ受賞作品のようです。大東亜建設忠霊神域計画というそうで、参考となるホームページホームページ2がありましたのでリンクしておきます。丹下健三氏といえばこのブログでも横須賀の芸術劇場やフジテレビの本社社屋などフリーメイスンリーのシンボルとしての建築を行っている日本の代表的な建築家であり興味深い逸話だと思います。カトリックの洗礼を受けていて受洗名がマリアの夫の大工のヨセフだそうです。)や様々な逸話もあり、また米軍が本気で原爆を落とすことを考えたとかいう逸話も聞いたことがあります。最近でもオウム真理教が上九一色村にサティアンを築いたりということもありました。

フリーメイスンリー的には富士山は三角形の形に頂点付近で白く色が変わり、また頂点部分が若干欠けていることなどもピラミッドや、それをデザイン化したAll Seeing Eyeの図柄と似た形になることなどからもシンボルとして認められやすかったのだと思われます。


ギザの三大ピラミッド


スフィンクスとカフラー王のピラミッド

階段状ピラミッド


一ドル札の後ろのピラミッドとAll Seeing Eye


鳥居に関しては国家神道の象徴とされた歴史や、明治以降につくられた国家神道の疑似キリスト教の体系などからも、果たして万物に霊が宿るとするアニミズムの一つともいえるものがキリスト教やユダヤ教と比肩できる宗教たるのかといった議論などもあります。一般的には日本人の信仰の表れと認められますが、国家神道と絡んで異論があるのが現状です。


厳島神社の鳥居 明治期 白黒写真に着色


靖国神社の鳥居


鎌倉 熊野神社の鳥居


横須賀 長井の熊野神社の鳥居

鳥居は神社の神域に入る門としての象徴であり、パリの凱旋門に認められるように(追記:パリの凱旋門は明らかにフリーメイスンリーのシンボルです。)門自体もフリーメイスンリーに限らない象徴です。墓などで使われると天国への門という意味になるようです。


国立西洋博物館にあるダンテ「神曲」からのロダンの「地獄の門」(追記:「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」の銘文があります。神曲から由来するものと思われます。アウシュビッツ収容所の門の銘文とは異なるようです。)


その他私個人としては日本のフリーメイスンリーのシンボルとして是非菊紋を加えたいと期待するのですが、天皇陛下がフリーメイスンでない現状では不可能なものだと思われます。本来のフリーメイスンリーのあり方としてはそれがふさわしいのだと思われます。(2015/10/10追記:菊紋に関してはそもそもルーツがインド伝来の仏教由来の蓮華紋であり、それらのルーツがオリエントやエジプトでの普遍的な文様であったこともあり、また欧米ではそのまま薔薇紋と共通であることなどからなかなかシンボリズムとしてあえて天皇家のシンボル、日本のシンボルとして強調するのはどうかというところのようです。逆に言うと普遍的なシンボルであり、あえて強調する意味はないという事でもあるようです。)

さてシンボルとしての富士山ですが、都心からは常に見られるわけではありません。
で、車で近くまで行って思う存分眺めるのが良いと思いますのでお勧めのスポットをお知らせします。
それは西湘バイパスを超えて、現在無料化された箱根新道を越えて芦ノ湖湖畔に至り、芦ノ湖スカイライン(片道600円、途中でUターンで往復料金1200円)の途中にある三国峠です。


三国峠からの富士山


三国峠からの駿河湾、芦ノ湖
さてフリーメイスンリーのシンボリズムですが、こんなところにもあります。


All Seeing Eye


ぜひいらしてください。帰りは湯本で日帰りの湯でもサッと入れます。おいしいおそばや豆腐料理もいただけます。

2012-01-20 10:22 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さて横須賀のフリーメイスンリーのシンボルもそろそろネタが尽きて来る頃ですが、おそらくその最大のもので、市民であれば多くの人が最も横須賀の象徴と考えているであろう三笠公園に触れなかったので、ほぼ横須賀については最後に近いと思うのですがここで取り上げることにしましょう。

その他に横須賀でフリーメイスンリーについて最も考えたり触れることができるのは残りはベースの中ということになると思います。ベースの中には日本グランドロッジ管轄下のNo.20 Yokosuka Lodgeがあり、ホームページでも写真を豊富に掲載しており、ベースの市民開放の際には出店したりしています。

さて三笠公園ですが、横須賀在住の方は戦艦三笠の歴史や、三笠公園の歴史について私よりかなり詳しい部分もあるかと思います。私としてはフリーメイスンリーの視点から、具体的には三度の訪問のみでその他はウィキペディアやフリーメイスンリーの教えなどから学んだ知識に基づいて三笠公園の普通の人が謎に思われそうな事について論評していきたいと思います。

三笠公園はベースの横にあります。ベースと言うと横須賀以外の方は何だと思うかもしれませんが、横須賀では横須賀港にある米軍基地のことをベースと言います。恐らく米軍人がBaseというのをそのまま使用するのでしょう。ベースには日本側からの入り口が三つあるそうです。(三つ目の三笠公園内ゲートというのはよくわからなかったです。)一つはソロモン宮殿を模した形の芸術劇場側の大きな入り口で、目の前にはホテルの上に自由の女神のシンボルがある目立つところです。後ろにはドブ板通りの入り口があり、こちらにはエンパイアステートビルを模したものがあります。


米軍基地正面ゲート たくさんの外国人がいます。軍人さんに限らず、その家族や一般人も多いのでいろんな人が出入りしています。あまり写真を撮っている人はいないですね。日本の警官と米軍のSPがいます。


ホテルの自由の女神
ベースの中は一般の日本人は開放日でなければ基地の知り合いの人がいない限り入れません。
入り口で日本人の警官の方に優しく止められます。
どぶ板通りとその周辺には海軍カレーとネイビーバーガーの店がありますので勇気のある方は観光で食べていかれるとよいと思います。観光商品なので比較的高めの値段設定になっていますが、大きなコーラや英語とドルの料金表示が軽い海外旅行の気分にさせてくれます。ただしアメリカ人も現在は日本の文化に慣れているのがほとんどなので、以前よりも米兵のケンカや騒動は全然少ないようですし、怖い感じの雰囲気よりもSPが夜間も多い感じです。軍人さんも大変そうです。

さてベースの前を過ぎて少し日本的な雑然とした駐車場が多い方になってくると三笠公園入り口です。ここは緊張に耐えかねてちょっとご高齢の方がホッとしたついでにわめいていたりすることもあるので若干注意が必要です。


アーチはRoyal Arch MasonryというYork Riteの団体の一つにも認められる、フリーメイスンリーのシンボルです。Rainbowと共にキリスト教の一つの象徴から生まれたシンボルのようです。有名な所ではブラザー・ジョージ・ワシントンのエプロンなどにも認められます。ゲート、門自体も前回にも言ったとおりフリーメイスンリーに限らずシンボルであり、お墓などでは天国への門という意味になるようです。米軍基地の門としての意味と、三笠公園への入り口、日米協調、友愛、国際化社会への門としての意味がかかっているものと思われます。


ブラザー・ジョージ・ワシントンがブラザー・ラファイエットより贈られたエプロン。彼がYork RiteのRoyal Arch Masonryで活動していたことを強く意識してか二組の二柱に加えて大きなアーチが認められます。これはWashington D.C.近郊のAlexandriaにあるThe George Washington Masonic Memorial(ワシントン記念石塔)で見られるようです。私が訪問した際は時間が無く閲覧ツアーに参加できず見られませんでした。
Royal Arch Masonryはトリプルタウで象徴される団体で、York Riteなので基本的にキリスト教の団体で、タウ十字自体は旧約聖書に認められるシンボルなので六芒星もシンボルとなっています。テンプル騎士団(Knight Templar)やマルタ騎士団もYork Rite内の階級や団体として認められます。私自身はキリスト教徒ではないので詳しくはわかりません。York Riteのシンボルの斜めの十字自体は東京タワーの下のメソニックビルディングにも認められています。


トリプルタウ タウ十字はいわゆるTの形をとる

さていきなり物々しいフリーメイスンリーのシンボル三昧ですが、アメリカのシンボルなんだろうなーと平和にくぐれば問題ありません。
ベースの前には海軍基地の象徴で碇があります。もちろんフリーメイスンリーのシンボルです。


碇はお台場やその他色々な所にひっそりとフリーメイスンリーの足跡を示すシンボルとして置かれています。ベースに入らないようにしながら歩くと右手に駐車場、左手にカトリック教会や短大や歯科大が並び、歩道が広くなってきて三笠公園通りとなります。最初にあらわれるのがこれです。


ちょっと写真が悪いですが、駐車場などの建物の上から見るとすぐわかります。仏教の蓮の花、蓮華を象徴しているのですね。いわゆる南無妙法蓮華経、日蓮宗に代表されるような仏教の象徴です。カトリック教会と仏教の象徴、しかも日蓮宗となるとちょっと宗教的な対立を感じます。

奥に行くと横須賀学院の十字架も大きく認められています。学院なのでこちらはプロテスタント系と思われます。このプロムナードは水を基調として船にまつわるものが描かれていたりします。日本丸の復元かのマスト部分だけを切り取ったものも置いてあります。あまりベンチにいる人は多くありません。


三笠公園のホームページによると未来への六分儀と言うそうです。六分儀は一種のコンパスで、フリーメイスンリーを連想させますが、同時に実は六分儀では有名な話があります。六分儀のデザインが東ドイツの国旗に取り入れられています。

東ドイツの国旗 ハンマーと六分儀と麦の穂 良く六分儀とコンパスを混同してる事が多くありますが、コンパスと六分儀は全く異なり、いわゆる円を描くコンパスと、同じコンパスでも方位磁針と、さらに測量に用いる六分儀は皆似ている形だが事なるということが重要になってくるのです。
ちなみに東ドイツと言えば共産主義の優等生と呼ばれ、一党独裁でシュタージによる国民の相互監視国家であり、ベルリンの壁で分断されていたのが崩壊でソ連崩壊の呼び水を作った国というのは有名ですね。若干ながら横須賀をシンボライズするものとは感じられます。シンボルはそのもの自身からわずかにずれると正反対の意味にもなりうることもあるのです。フリーメイスンリーがリチュアルの正確な暗記や保存にこだわる理由がここにも認められると思います。

また上のオブジェは正方形であり、パーフェクトアシュラーも連想させますが、中身が空っぽで石材ではなく、また単純な正方形でもありません。


柱も若干ピラミッド型をしています。(追記:ピラミッドも11段の形になっていますね。11はこの公園ではどうもユダヤを象徴する数のように現れます。これについては具体的にはわからないのですが611のモーセのミツワーからきているのかもしれません。11とか111という数字が現れるようです。)良く見ると碇のマークと知っている人は知っている昔のテレビCMで良く見たシンボルの日本船舶振興会のマークみたいなのが見えてきます。笹川さんですね。


ちょん切られた日本丸の一部みたいなのが無造作にあります。恐らく日本の分断を象徴するのでしょうが、あまりに怖いのでよろしくありません。


これもパーフェクトアシュラーを意識した形になっていますが中身が空っぽです。金属製です。
徐々にいやな予感がしてくるところだと思います。それが横須賀のフリーメイスンリーの現実です。

まだ戦艦三笠に到達しませんが、次回にします。

[追記:周囲の状況のグーグルアースの画像を載せます。最初の小さな蓮華の形から大きな日本丸周囲の蓮華の一部へつながる形は小乗と大乗を意味するのでしょうか。

いずれにしても日本丸は分断されていて変な形です。間に三角があるのはフリーメイスンリーの意味でしょうか。何かしらの意味があるのでしょうがあまり喜ばしいものではなさそうです。恐らく現在の状況への示唆でしょう。]


2012-01-21 09:54 | カテゴリ:全国の市章
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
一旦やめにした全国の市章ですがこの辺でもう一度再開してみましょう。

以前取り上げたのは横須賀市、横浜市、長崎市、佐世保市でした。共通項は港でしょうか。
長崎市と横須賀市で認められたのは星のマークがフリーメイスンリーのシンボリズムだという事でした。さらに横浜市、佐世保市で認められたのはΛ∨の組み合わせが接合のシンボリズムの一つの形だという事、菱自体は古くからの日本の固有のシンボルである事、またGの形を模したものはフリーメイスンリーのシンボリズムである事でした。

これらの事を踏まえると自然といくつもの市章とフリーメイスンリーとの関係が浮かび上がってくるものと思います。シンボリズムは一種の数学であり、法則を発見する事で、多くのシンボルやデザインの中に法則を見出し、その作者の意図や歴史、共通性を導く事が出来るという事なのです。これがいわゆるフリーメイスンリーの秘密や暗号と呼ばれるもので、それらのシンボルの意味や歴史を知る事で身の回りの物事の意味や歴史を捉えなおし、さらにそれを最終的には自分自身の存在に置き換えていく事で、自らの人生の意味や歴史を捉えなおして生き方に反映するという事になっていくのです。

さてそれでは市章についてですが、まずは星のマーク、五芒星、六芒星について見ていきましょう。
五芒星(ペンタグラム)五角形(ペンタゴン)の市章の市

旭川市釧路市田辺市

芦別市貝塚市江別市

札幌市帯広市室蘭市

多治見市大垣市北九州市

日光市大野市

さてここまで見ていって気づくことはあるでしょうか。
次に六芒星(ヘキサグラム)六角形(ヘキサゴン)の市章の市

稚内市大牟田市西宮市

鹿沼市旧 萩市水戸市

和歌山市彦根市新庄市

近江八幡市宇都宮市松本市

豊田市高知市須坂市
歌志内市夕張市美濃市

根室市
どうでしょうか。六角形だけでなく、六分割の円まで最後は加えました。
全体に五芒星、六芒星、五角形、六角形の市章が北海道に多い事に気づかれましたでしょうか。
五稜郭、雪の結晶、石炭黒ダイヤなど色々な表現があるかと思いますが、この傾向はあるかと思います。
あとは県庁所在地や、シンボルとなる国宝の城がある市や世界遺産のある市、工業地域や創価学会が選挙で強い市などでしょうか。一概には傾向は言えないと思いますが、それなりに個性がある市が多いかと思います。
萩市の市章は変更されていてこれも興味深いのですが、新しいものは


城下町の壁の模様の様ですが、中国の中と読めますね。
また豊田市の市章がコンパスと直角定規とよく似てるのは良く言われますが、それと似たものが他にもあります。


沼津市の市章です。松葉を表現しているようです。沼津市にはスルガ銀行があるようです。

さてこの次はかなり直接的で内容も政治的なので問題がありそうですが、市章にGのシンボルを模した市が横浜市の他にもあります。見れば誰でも気づくのですがなかなか市章を見ないので知らない人が多いと思います。

苫小牧市能美市
いずれも総理大臣を輩出した選挙区なのですね。
(追記1/29、御殿場市もGの形そのものでした。

御殿場は岸信介元首相の別邸があったようですね。)
(追記2/21、倉敷市、大野市、美濃市の市章もGの形を含んでいるようです。


倉敷市 しかしこれはまだまだありそうですね。倉敷市、大野市は街並みが江戸時代の風情を残した都市、美濃市には三菱日立ホームエレベーターがあるようですがこれはどうなんでしょう。)


最後に他の星型の市章をあげます。

防府市盛岡市米子市
半田市蓮田市岡山市(追記2/21:アンク、エジプト十字と碇が中にあるようですね。)
青森市呉市福島市

何となく市章のイメージは出来たでしょうか。

北海道に星の市章が多いという事は一体どうしてなのでしょう。
北海道自体が明治時代に開拓された歴史がある事、榎本武揚らの幕府軍が明治維新で最後に五稜郭にとどまった事、クラーク博士などの影響でキリスト教の伝道が行われたためでしょうか。クラーク博士はマサチューセッツ出身でネットにはグランドマスターであったとか見たことはありますが、特にフリーメイスンリーから彼をフリーメイスンと特定している内容の情報はありませんでした。ただし彼の行った業績やその影響を考えてもそう考えて差し支えないかもしれません。また榎本武揚はブラザー西周やブラザー津田真道とともにオランダに留学しており、また幕府軍には後に日英同盟に尽力したブラザー林董も参加しており、またラスト・サムライで有名になったフランス人武官達もいました。彼らは蝦夷共和国を建設し日本で初の選挙によって統領を選んで政府を作ったそうです。
その他北陸地方は浄土真宗系の影響が強いなどあるのでしょうか。

さてその他に特徴的な市章として次のものがあります。

京都市
京都市はもともと戦前は車輪は無かったそうですが、戦後に付け加えたようです。
いずれにしてもそもそも車輪の形から六芒星型に抜き出したようでした。これはまた他のシンボルと類似しています。

国際ロータリークラブのシンボル

仏教のシンボルとしての法輪
六本なのでよりロータリークラブのシンボルに近いのだと思います。これに関してと言ってはあれですが、三笠公園の内容とも絡めて後々芥川龍之介の絶筆「歯車」について考察したいと思います。八本になると横須賀市の市章とも似てきます。八が仏教で重要とされる数字という事が連想されます。

さて最後ですが、市章のみでなく都道府県章についても考察したいと思います。
まず概観するとやはり北海道が最初に目につくと思います。

北海道章
七芒星は青森市の市章とともに珍しいです。フリーメイスンリーのBlazing Starの定義からするとシンボリズムとして正しい形になるのだと思います。星のシンボルにこだわる北海道らしいものとなるのだと思います。

京都府章
六芒星ですね。市章と同じく京の形をモチーフとしているようです。日本のシンボルの都市なのでさまざまな歴史があったと考えられます。

千葉県章
六芒星の北極星ですね。チバの重ね合わせとされています。横須賀市章を見ると良く似ている事がわかると思います。千葉はブラザー林董の出身地でもあります。現在の総理の出身地でもあるようです。

岩手県章
六芒星ですね。岩手は石川啄木や宮沢賢治の出身地でしょうか。平泉が世界遺産に指定されたのも記憶に新しいところです。小沢一郎さんの地元でしょうか。今回の東北大震災の被災地でもあります。

さて実はここまで来て市章、都章でフリーメイスンリーに極めて関わりが深くありながら、まだ出てきていない市、都があります。

東京市章
亀の子マークの六芒星に目玉印ですね。良く言うようにフジサンケイグループのマークのデザインの原型になったような形だと思われます。All Seeing Eyeをモチーフとしていると思われます。

東京都章
現在の東京都章です。TokyoのTをモチーフとしているようです。実はこれと近いものが市章であります。

神戸市章
こちらはカタカナのカウベのカをモチーフとしているそうです。神戸は市章山に碇山といって夜になると市章と碇のマークが山に映し出されるシンボルマーク好きな都市です。
さてこの二つの共通点はこのブログを最初から読まれている方はすぐわかると思います。
十字の原型と言われるタウ十字のTの字です。この部分の旧約聖書の引用は後々行いたいと思います。Tの字に関しては前述の榎本武揚に関してもう一つのシンボルのエピソードがあります。

郵便マーク
逓信省のテの字にかかっているようです。当初逓信省のTの字をそのまま使おうと公示したそうですが、数日後に一本線を加えた形の現在のものに変更されたそうです。ウィキペディアによると初代逓信大臣の榎本武揚が一本線を加えたという逸話が書いてありますが、果たして真相はどうなのでしょうか。小泉さんの郵政民営化などとも絡めるとなかなか面白いエピソードだと思います。逓信省はNTTのもとでもあるのですね。横須賀には近代郵便の祖と言われる前島密の墓があります。前島密はブラザー西周やブラザー津田真道らが結成した明六社、現在の日本学士院の祖、に参加していたそうです。明治という時代の文明開化、啓蒙運動を感じられるものがありますね。

日本という若い国に印された数多くの文明開化、啓蒙のシンボリズムが市章の話から感じられたでしょうか。色々現実の利害関係、さまざまな歴史や経緯がある事とは思いますが、シンボリズムに込められた理想への願いが現実のものとなる事を祈念します。

[追記:今話題の大阪市ですがここの市章はなかなかいわくが深く、他の市章と比べても特徴的なものです。現在の動きも考え合わせて何かあるとは思うのですがわかりませんでした。


もともとは船の標識としての澪つくしから採用したそうです。
澪つくしは私はお醤油の銘柄として知っていましたが、百人一首にこうあります。
わびぬれば今はたおなじ難波なるみをつくしても逢はむとぞ思ふ

さてこのシンボルですが、実はタウ十字の確認をしていて、こんなものを見つけました。

XP.png
ラバルムという十字の一種で、キリスト教をローマ帝国で公認したコンスタンティヌス帝が戦闘の途中で啓示を受けてΧριστος(キリストのギリシア語表記)の最初の二文字である「キー・ロー」XPを重ねたものだそうです。XPと言うと有名なのはWindowsXPでしょうか。実はこの神OSは現在のクラウドやらすなわち全てのコンピューターのネットワーク化を達成したOSでもあります。
澪つくしの海運の標識としての意味からも方位磁針としてのコンパスともかかっているものと考えられます。
京都の六芒星の形と組み合わせてなかなか深いものがあります。]


2012-01-22 08:56 | カテゴリ:その他 雑記
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
陰謀論は消え去ったでしょうか?
ユダヤ人は毎日勉強しています。
日本人も毎日勉強が必要でしょう。
光陰矢の如し 少年老い易く学成り難し
故きを温ねて新しきを知れば 以て師為るべし
2012-01-23 16:49 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さて三笠公園に入るとすぐ目につくのは東郷平八郎元帥の銅像と戦艦三笠です。


夏の三笠公園


冬の夕景の三笠公園


皇国の興廃この一戦にあり


お盆の時期で読経のテープが流れてお線香を燃やしてました。


戦艦三笠はあまり知られていませんがイギリス製なんですねえ。ヴェッカースという戦艦とか飛行機とかイギリスの軍需産業を一手に担っていた企業で造られたそうです。現在はロールスロイス社の傘下になっているそうです。いわばイギリスの半国営企業でしょうか。


主砲とはためく日章旗


夏の猿島


マスト


艦橋司令塔からの眺め


東郷平八郎元帥の直筆
鎌倉などにも多くの石碑が残されています。掛け軸なども現在も最も人気があるようです。
東郷平八郎元帥の墓は多摩墓地にあり、山本五十六元帥の墓の近くにあります。いわゆる軍神です。渋谷には東郷神社もあります。もともと薩摩藩加治木村の出身だったと思います。(2015/1/24訂正:加治木町ですね。西郷隆盛と同郷です。)(2015/8/7訂正:加治屋町です。)薩摩藩と言えば生麦事件と薩英戦争ですね。86歳まで生きたそうで当時の維新の人物の中では最長寿ではないでしょうか。日露戦争の講和条約を結んだアメリカのポーツマスは奇しくも東郷平八郎が留学したイギリスのポーツマスと同名なのでした。


明治天皇御製歌 東郷平八郎元帥筆
世の中の人におくれをとりぬべし すすまむときに進まざりせば


軍艦マーチが頭の中を鳴り響く感じでしょうか。


コンパスがありましたね。船自体もフリーメイスンリーではノアの箱舟にちなんでシンボルとなります。特に海に浮いていない状態になるとシンボルと認められるようです。

日露戦争に関しては日英同盟とポーツマス条約がフリーメイスンリーの話としては重要でしょうか。前回も話したブラザー林董、ブラザーセオドア・ルーズベルト、ブラザージェイコブ・シフでしょうか。日英同盟が日露戦争となり、ひいては第一次世界大戦からロシア革命となる壮大な世界の流れは、日本にとっては明治帝の死と大正デモクラシー、関東大震災、大正天皇の死と5・15事件、2・26事件と連なっていくわけです。

ちなみに最近までNHKでやっていた司馬遼太郎の坂の上の雲のドラマではドラマの最後のシーンで象徴的に海図とコンパス(筆記具)を映していました。(画像ありません)

これは非常にフェルメールの絵画と似ていました。


フェルメールは名誉革命前の新教国のオランダを代表する画家であり、フェルメールの絵画にはその後フリーメイスンリーで象徴として取り上げられるシンボルが様々な形で写りこんでいます。

当時のプロテスタントの国々でそういったシンボリズムと自由の考えが結びついて、新たな芸術や科学や思想の発達と結びついていった過程が見てとれます。
日本のマスメディアもまさにそのような時代なのかもしれませんね。
あのドラマももしかするとこのブログと連動しているのかもしれませんね。
さて三笠公園の謎ですが、戦艦三笠に謎はあるのでしょうか?
戦艦自体がノアの箱舟に象徴される充実した生活と十分地に足のついた希望だということでしょうか。恐らくそういうことだと思います。
次回は日英同盟に尽力したブラザー林董についてFar East Lodge No.1のホームページにあるBrother James L. Johnston Past Grand Master, Japanの英文を翻訳して紹介したいと思います。 


2012-01-24 09:36 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さて戦艦三笠にはあまりこれといった謎はなさそうでした。
間に怪しげなラフアシュラーの並ぶ水路があり、怪しげな半アーチのあるシンボルの橋を渡って隣の公園に行くとこんな感じです。


またアーチですねえ。どう見てもシンボルです。


そしてあからさまに重厚な石で造られた不可思議な幾何学構成の噴水の池。


こんな感じの音楽噴水をやっているそうです。怪しいですねえ。


正面がオリンピック競技場のスタンドのようになっています。怪しい壁画があります。
ほとんどの日本人は怪しさにあまり接近しませんね。
どう見ても石工の神殿ですからね。
しかしそれにしてもラフアシュラーが多すぎます。

かなり見事な噴水のコンピュータ制御です。音楽もなかなか音響が考えられていて聞こえない事はありません。しかしお金のかかっている公園の割にはあまりに怪しすぎて人気がありません。

謎めいています。

しかし暑い夏でしたね。


2012-01-25 09:26 | カテゴリ:横浜
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
ブラザー林董について日本人はどれほど知っているでしょうか。
日本人で最初にフリーメイスンとなったのはウィキペディアなどでもブラザー西周、ブラザー津田真道がライデン大学に留学中になったという事で有名ですが、どちらもオランダ語のレベルはかなり低く、留学先の教授の言うがままに入会の儀式を済ませたようです。その後の儀式や会合などへの参加はほとんどなかったようです。彼らは哲学や科学に関する基本的な考え方を日本に輸入し、その最大の業績は日本学士院につながる明六社の設立とされるようです。

ブラザー林董はいわゆる現在につながる日本の外務省方の英米方面のフリーメイスンリーの流れの源流を作った方かと思われます。簡単に言うと現在の日本の国際社会での立ち位置を決定した方かと思われます。

山手にあるFar East Lodge No.1のホームページのHistoryのサイトにブラザー林董についてBrother James L. Johnston 
Past Grand Master, Japanが文章を載せていましたので、英文を翻訳しここに転載いたします。非常に拙い直訳で申し訳ありません。興味のある方は英文を直接お読みください。


林董 イングランドのフリーメイスンとなった日本の外交官 By James L. Johnston PGM, Japan
様々に表現される偉大で、立派な外交官であり政治家であり、英国びいきの、世界的に有名な存在で、愛国的で、高潔なフリーメイスンリーの教えに従って生きた林董という男は、生涯にわたって普通でない専心と献身をもって日本に奉仕した。
彼は1850年2月22日に下総国(現在千葉県の一部)の佐藤家に幼名しんごろうとして生まれた。彼の父親は当時先進的だった蘭方医(西洋医学者)で指導もしていた。幼少期に彼は江戸(現在の東京)に住む代々将軍御典医の家である林家に養子に入った。彼はそのため林董と名乗った。
林は12歳で横浜のジェームス・C・ヘボン、医師・宣教師であり、日本語のローマ字綴りを作り、聖書を日本語に翻訳し、最初の和英辞書を作ったアメリカ人、のもとで英語を勉強するために送られた。ヘボン医師は日本人から「君子」、優れた人を意味する言葉、と言われていて、夫人と共に日本で最初の男女共学校を作った。ヘボンは林を彼の家族として受け入れ、それを通して彼は英語を徹底的に基礎から教え込まれた。
1866年―マシュー・C・ペリー提督(ニューヨーク市No.8オランダロッジのメンバー)が最初に日本に来てから13年後―林はロンドンで英語やイギリスの習慣を学ぶための14人の徳川将軍家の若者たちの留学生に選ばれた。最初に生徒たちは下宿に住み込んだが、林はこのやり方を好まなかった。(彼はヘボン家での経験があったため。)なぜなら彼らは皆大学の講義に出るときだけ英語を話しそれ以外では日本語しか話そうとしなかったからであった。彼は頼み込んでグループから分けてもらい、受け入れてくれた私的な家族と一緒に過ごした。
1868年になり徳川将軍家が大政奉還の過程に入ると、彼らは日本に戻された。林は榎本武揚提督によって編成された徳川幕府軍に参加し、北海道函館五稜郭の戦いで捕まり、多くの囚人が処刑された悪名高い東京日本橋伝馬町の監獄に収監された。ヘボン夫人は彼を訪れ、彼の釈放を請願し1870年になってようやく受け入れられた。
1871年に林はアメリカやヨーロッパの政治システムや物質的な文化を学ぶための岩倉使節団(世界史で最も注目すべき旅行の一つと考えられた)で第二秘書として通訳に選ばれた。使節団がロンドンに到着したとき、林は木戸孝允と共に日本に戻った。
陸奥宗光伯爵(後にアメリカ大使となり伊藤博文の下で外務大臣になった。)が林の大きな潜在性を認め、彼のその後の数年の官僚経験を行うのを助けた。林は工部省、宮内省事務局、逓信省、神奈川県知事、兵庫県知事に1888年と1889年に任命された。1891年頃彼は外務省の事務次官になった。この役職で林は三国干渉による遼東半島の放棄をうまく調整し、日清戦争を終結させた下関条約の締結に立ち会った。
林は中国公使に1895年に任命され、男爵を綬爵された。1897年に彼はスウェーデンとデンマークの公使となった。二年後に彼はロシア公使となり、ハーグ国際平和会議の使節となり、1900年に英国公使の任命を受けた。
林の仕事の中で最も重要なのは1902年に日英同盟に署名したことで、彼はその際に子爵に綬爵された。
彼はまた1905年に同盟の拡大更新に責を負った。1905年にロンドンの英国公使館が大使館に格上げされる際には、林は英王室裁判所に最初の日本の大使とされた。彼は英国と欧州の政治学と政治経済に関するいくつかの古典を日本語に訳したことと、「For His People」を英語で書いたことで、オックスフォードとケンブリッジの名誉学位を受けた。
1906年に林は日本に戻され外務大臣に着任し、満州、アメリカ移民問題、そして日露戦争に続く問題を手掛けた。彼はまたフランスとロシアとこのままの状態で維持する協定を結んだ。彼は1907年に公爵を綬爵された。1911年彼は引き続いて外務大臣を中間まで、その後逓信大臣となった。この頃までに林は急性の糖尿病になり1912年に彼の希望で辞任した。一般的な場合に対する例外的に、彼は他の政治家のような幸運を受けなかった。彼は東京の彼の家を売り、葉山に移り住んだ。1913年の間に林は人力車の事故で足を骨折し、切断が必要であった。彼は回復せず、7月10日に死亡した。日本政府は死後に彼に従二位を授け、五千円を彼の墓前に捧げた。(当時の非常に高価な額)
ブラザー林のフリーメイスンとしての経歴は実に立派なものであった。彼はロンドンE.C. No.2108エンパイアロッジで1903年2月24日に入会した。150人以上の出席者が儀式とその後に引き続いてあり、それにはグランドロッジの役員やロンドン市の使節、アイルランド、スコットランド、ウェールズ、チャンネル諸島の使節、多くの国会議員がいた。彼は3月24日に第一階級となり、5月29日に第二階級となり、1904年1月20日に第三階級となった。1905年に彼はもっとも尊崇すべきグランドマスター、コンヌート公にイングランド連合グランドロッジのパストシニアウォーデンの役職を授与された。彼は1907年にロッジを辞めた。彼のロンドン滞在中のフリーメイスンリーの活動によって、(元ロイター東京通信員A・M・プーリーによると)ブラザー林は彼の長年の功績に対する報酬として約束されていた枢密院議員、または天皇陛下の相談役から、青木周蔵と総理大臣桂太郎の政治的小細工によって締め出されてしまった。
明らかにブラザー林はフリーメイスンの先駆者であり、それは日本でのフリーメイスンリーへの加入が外国人に限られており、日本人が入らないとする紳士協定があったためである。今日、もし我々の尊敬するブラザー林が日本のフリーメイスンリーの集まりを訪問したならば、どんな事になるだろうか。フリーメイスンリーが抑圧されておらず、日本グランドロッジに全体として構成する一般ロッジが北海道から沖縄にまである事だけでなく、イングランド、スコットランド、マサチューセッツ、フィリピンを構成する一般ロッジがあることも知るだろう。彼はリチュアルや関連するものが日本語に翻訳されていて、何百人もの日本人がフリーメイスンになり、その中には総理大臣東久邇宮稔彦と鳩山一郎も含まれていると知るであろう。彼はフリーメイスンリーの付随組織や団体、それにはスコティッシュライト、ヨークライト、コンスタンティンの赤十字、イースタンスター、デモレー、レインボー、シュライン、そしてハイトゥエルブクラブが含まれる、これらの幅広い分布を知るであろう。彼は1984年のイングランド連合グランドロッジの前グランドマスターコーンウォリス卿が東京青山墓地の彼の墓を訪問し、現在の東京メソニックセンターを訪問しそこのロビーにある栄誉名簿に彼の名前を見たことを喜び名誉に思う事だろう。

青木周蔵さんというのはペルーの大使館立てこもりで有名になった青木盛久ペルー大使の曾祖父なのですね。その後のドイツとイギリスの関係を考えても興味深いエピソードですね。
ブラザー林がもし天皇の直接の相談役になっていたならば大正天皇も違った道を辿ったでしょうし、その後の日本もだいぶ違った事になっていたのでしょうね。人力車のエピソードも合わせて、葉山で没した事なども、様々に想像されます。最初に教わったヘボン医師が専門が眼科で、足切断手術を日本で行ったなどのエピソードも合わせると複雑さが増します。いずれにしても日露戦争とその後の第一次世界大戦、ロシア革命の歴史の壮大な流れの大きな一翼を担った人物であった事は間違いないでしょう。日露戦争後の東郷平八郎元帥の人生と比較するとフリーメイスンの生き方とは何かという事を感じさせてくれるかもしれません。私自身が気になったのは彼がキリスト教徒であったかという事です。恐らく五稜郭の戦いに参加したことも含めてそうではなかったのだと思います。明治のフリーメイスンの生き方は現代の日本人に直結する部分を感じます。キリスト教徒になった方も明治時代には多数いらっしゃいますが、フリーメイスンはそれとはまた違ったアプローチである所がまさに宗教とは異なるフリーメイスンリーなのだと思います。

いずれにしても彼のフリーメイスンとしての活動、語学力、日本人としてのブレの無さが結果として戦艦三笠が今日保存されるような日露戦争の勝利につながった事は、その後の東郷平八郎元帥の軍神としての評価などと絡めて、日本人が良く知っておくべき本当の歴史なのではないかと思います。


青山墓地 ブラザー林董の墓 フリーメイスンリーのシンボルは無いようです。 


2012-01-26 09:57 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さてでは三笠公園の謎ときを始めましょう。

まず最初のヒントになるのは何と言っても噴水池ですね。
基本的にフリーメイスンリーのシンボルでは最もわかりやすいのがラフアシュラーとパーフェクトアシュラー、そしてピラミッド、三の象徴になるわけですが、それらの内隠されているものと、あからさま過ぎて気づかないものとがあり、ほとんどの場合はあからさま過ぎて気づかないというのが秘密と呼ばれるものだという事はこのブログを読んできた方はわかっていると思います。

三笠公園では戦艦三笠がすごく目立っている訳ですが、それとセットの噴水池もなんだか意味がわからないので明らかに謎めいているのです。謎がここにあるよと主張しているような感じがわかると後は出された謎を解くためにはいろいろ細かく観察するだけという事になります。


まず水が池に流れる水路が八つあるのに気付いたでしょうか。八つあってそれぞれ違う形をしています。これは怪しい。


さてごてごてとしたラフアシュラーと半地下のパーフェクトアシュラー?の踏み石みたいなのが並んだ八個のいびつな形の水の流出口です。
まず最初に印象を抱くのはあまり美しくないという事。流出口が周囲に八個もある池というのはそもそも美的に言ってもあまりないと思います。それだけこの公園は八という数字にこだわっているという事なのでしょう。あまり美しくない。これは率直にフリーメイスンリー的でないという事でもあります。フリーメイスンリーでは良く知られた合い言葉にスコティッシュライトの十四階級でVirtus Junxit Mors Non Separabit(Whom virtue unites, death will not separate).美徳が結びつけた者たちを死が分かつことはない。とあり、美徳や美は基本的に建築や生き方として求められるものなのです。

ここでポイントになるのはカシオペア座と北斗七星を刻印された石が一つある事ですね。あとの星座はよくわかりませんが、恐らくこれが北極星を意味するものと思われます。

八つと北極星という事で、これは以前やった横須賀市の市章と対応するという事でシンボルで合致します。どうもこの大きな噴水で市章を意味させているらしいです。しかも北極星にポイントを置いているようです。どうにも天皇陛下を強調したいようです。シンボリズムについて良く勉強していながらも、八というフリーメイスンリーよりもアジア的な要素を強調し、しかも表現には適当さや無駄が垣間見れます。そんなプロファイリングができてきます。なんとなく仏教的ですね。

さて怪しい半地下のパーフェクトアシュラーはなんでしょう。

2012-01-27 10:01 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー


グーグルアースの音楽噴水池付近の衛星画像です。水の流れ込むところが四つ映っています。
これは季節や時間によって変更しているようであまり規則性は無いようです。
これと前回の写真を比較して、さらに現地で数を数えると流出口の半地下のパーフェクトアシュラーの数は以下のようです。段差によって桁を変える、大きいものも一とするといった数え方をしています。その他にもいくつにも数えるやり方はあるかと思います。色々やってみてください。

北極星と考えられる流出口から反時計回りに行きます。
122
1332
122
12322
22221
2251
1212
1213
となります。
これを見て思う所はあるでしょうか。ヒントはやはり北斗七星とカシオペア座にあります。

入り口のところで電柱のピラミッドが11段あり、それがユダヤを象徴するという所もヒントかと思います。ユダヤ教では特に11という数字が大事なわけではありませんが、最近の阪神淡路大震災1995年1月17日、アメリカ同時多発テロ2001年9月11日、郵政選挙2005年9月11日、そして記憶に新しい東北大震災2011年3月11日の11という並びからネット上などでも陰謀論の中では11がユダヤ教の特別なものと解釈されている傾向にあります。
フリーメイスンリーの数字のシンボリズムの項目を見ると大概10や12が完全数であるのに対して、11は時にマスターの数字、12時に足りない急がないといけない11時とか変な説明があったりとはっきりとはしませんが、あとは12に1足りない不安定な数字であり、罪な数字であるというのもありました。私の理解としてはフリーメイスンリーやユダヤ人の何か力を結集するための日時や数字のシンボリズムのようです。
11でウィキペディアで出てくるのが最初の回文数であること、第一次世界大戦が終わったのが1918年の11月11日午前11時であった事、フリーメイスンリー関連では自由の女神の台座が十一芒星である事などがあります。陰謀論では11でツインタワーを意味するなどもありました。
ユダヤ人の数字のシンボリズムでは11はヨセフの兄弟の数が11人で夢占いで11の星がヨセフに向かってひれ伏したとあります。これはヨセフの話はフリーメイスンリーでもユダヤ教でも極めて大事なもので、少し勉強するとこのヨセフという名前は何度も見ることになります。
また111はあえて調べると回文数であり、三位一体を象徴する数字であり、1から36までの数字を含む魔法陣で列の6個の数字を足すと111になるとありました。
いずれも3をかけて33や333となるとフリーメイスンリーの33階位や東京タワーの333メートルとなるなど重要な数字であるらしい事は感じられると思います。あえて言うと11がユダヤ教よりで、111がキリスト教カトリックよりなのでしょうか。

で、三笠公園の噴水池になるわけですが、こう解釈されます。
122=121+1=11*11+1
1332=1331+1=11*11*11+1
122=121+1=11*11+1
12322=12321+1=111*111+1
22221=・・・・
2251=・・・・
1212=・・・・
1213 =・・・・
ここでポイントになるのが北極星を示す石の北斗七星とカシオペア座以外の二つの星座のような形になり、これは星座を調べてもこの形のものは無いようです。
すなわち真と偽を示しているものと思われます。そして真の側、北極星の石も含めて右側四つに11と111の二乗、三乗に1を足した数、安定と真実、秩序を象徴し、その反対側四つに意味のない数四つを配置し不安定と虚偽、混沌を象徴させているのだと思います。
すなわち八つの方位を様々な形のラフアシュラーで象徴し、それが太極旗のごとく陰と陽、秩序と無秩序の存在が共存している世の中の象徴として、11と111の回文数とさらにそれプラス1で表現しているものと思われます。良く見れば周りの床石も白と黒の微妙なモザイクになっているのですね。
フリーメイスンリーではスコティッシュライトの言葉だと思うのですが、Ordo Ab Chao(Order from Chaos、混沌から秩序へ)というものがあります。
すなわちフリーメイスンリーで象徴される白黒タイルのモザイクを北極星と数字のシンボリズムで複雑にアジア的に表現したものかと思います。もしかすると天皇家の起源が太極旗に象徴される韓国にあるということも表現しているのかもしれません。

あとはメインの噴水は六角形の形になっていますね。
何とか説明できそうなのはその位でしょうか。池の形や植え込みの形など何かあるのかもしれませんがわかりません。(追記:池の形は木靴でしょうか?スリッパだとフリーメイスンリーでは友愛の象徴となるのですが、木靴だとアナーキスト(無政府主義者)のシンボルになるようです。木靴をフランス語でSabotといいサボタージュと似ているからのようです。やはり、フリーメイスンリーに指示されてサボりながらシンボルをアジア風に改変している光景が浮かんできます。)
いずれにしてもフリーメイスンリーのシンボリズムを知っていて、その上でそうではない八という数字にこだわった複雑な構成になっている池です。この八という数字なのですが、まず市章の話からも名古屋の市章を思い出しました。


変わった市章ですが、尾張のオハリのハを採ったとか書いてあります。
八というのがアジア的で良いという事なのだと思いますが、これも名古屋という土地柄、中日本の中心という事を考えると、東と西の邂逅、ずれたピラミッドのかなりくだけた図表の意味もあるのだと思われます。名古屋も鳥居メソニックロッジを含めてフリーメイスンリーが盛んですから。

さて八という数字はこの後も三笠公園で認められるのですが、果たして市章の八芒星の意味だけなのでしょうか。この強いこだわりを認めると他にも意味があると考えられます。
まず仏教系という事で八正道、四苦八苦など仏教の教えの表現と考えられます。特に八正道は仏教の修行における最も大事な教えであり、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定の、8種の徳とウィキペディアにあります。
しかしどうも北極星(天皇陛下)にもこだわるし、それがキーになっているので次に浮かぶのがこれです。


八紘一宇ですね。これもウィキペディアで調べると八方(世界)を一つにまとめるというまさに横須賀の市章と意味もシンボルも一致する言葉となってくるのです。入り口の蓮華の形とも合わさり、八紘一宇の思想自体も日蓮宗から出てきたもののようですし、戦時中も東北出身の日本陸軍の軍人を中心に日蓮宗は広がっていたようです。八紘一宇の塔と三笠公園の石の壁はなんとなく印象も似ているようです。


さてここまででだいぶフリーメイスンリーからは外れてきている感じですが、実際大意としてはそれほどずれていないものかと思って書いている訳ですが、明らかに間違っていたりするようであればご指摘をお願いします。


2012-01-28 09:33 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
この言葉で何を思い浮かべるでしょう。
このブログを最初から読んでいる人は「ローターリークラブのシンボル」と答えるかもしれません。

普通の人は機械を思い浮かべるでしょう。

文芸の世界では芥川龍之介の絶筆になると思います。

芥川賞が話題を提供する事に終始して作品は誰も読まないという時代が続いて久しいと思います。
芥川龍之介の絶筆は彼の最期が自殺であったことなどからも精神分析の対象ともなったりしています。彼の早すぎる死を悼んで友の菊池寛の呼びかけで芥川賞は設立されました。

さてこの歯車という作品。彼の姉の夫が列車への飛び込み自殺をしてから彼が自殺する直前までの、数多くの暗示、さまざまな周りの人たちとの華麗な交遊、そして最後は妻の呼びかけで終わるまさに神経症者の自殺までの過程がある程度リアルに描かれています。

芥川龍之介は母親が精神病院に入院していてそこで死んでいます。本人は養父母のもとに預けられ、そこで中国、日本の古典の素養を身につけ、その結果として羅生門や鼻、有名なところでは蜘蛛の糸などの短編小説を残しています。夏目漱石、森鴎外が明治の文豪で、彼らがいわゆるイギリスとドイツへの留学を通して学んだ小説という文化を日本にもたらしたわけですが、彼は夏目漱石に師事し、その後の大正デモクラシーの時代の空気を反映した、今でいえばエッセイストの様な短編小説で当時の世の栄光を勝ち得、その結果として自殺に到った、まさに日露戦争の勝利に沸く日本の空気をそのまま反映した作家と言えるのではないかと思います。

彼の作品には極めて強く東洋の古典の素養が反映されているわけですが、実は彼の実家自体が隠れキリシタンの家系であった話があるらしく、また将軍家のお茶や雑事を行う家柄であったそうで、彼自身も特に歯車の作品の中ではキリスト教への接近が感じられます。
彼の名前の龍之介は辰年の辰の日の辰の刻生まれに由来するそうで、十二支の唯一の神獣である辰に由来するまさに東を背負って小説という西欧からもたらされた文化を咀嚼しようとしていたものかと思われます。

彼と同時代の人では歯車にも出てくる「暗夜行路」の島崎藤村、白樺派の人々、そのうちには稲村ケ崎の話で触れた有島武郎などがいるでしょうか。いずれもキリスト教の影響が強く認められるのが大正時代の特徴ではないかと思います。

さてこの「歯車」という作品なのですが、小品なので一読されるとよいかと思われます。聖書よりはかなり読みやすいのではないでしょうか。気取った大正の空気が濃密に感じられ、現代の平成の世との強い相似を感じられれば十分なのではないかと思います。

この作品中にはさまざまな暗示、ほのめかしや繰り返される言葉が認められます。そしてそれらが神経症である作者を苦しめていると表現されています。もちろんそれは漱石やトルストイの長編小説の様な厳しさや平易な日常が描かれるような日常性は薄く、むしろ現代の都会的な浮ついた甘えたそれでいて無為で表面的な、大正時代の最先端の流行作家の内省に近い心模様が描かれています。それぞれの暗示やほのめかしについて全ての由来を述べることは難しそうですが、フリーメイスンリーに関係のありそうなものだけピックアップしていく事にしましょう。

まず題名の「歯車」ですが、これはあまり象徴的な光景ではなく、一種の片頭痛の前兆のような形で出現します。ただし題名にも歯車と採用され、その当時恐らく日本にあった彼が接近しうる一番のフリーメイスンリー関連の存在は歯車に象徴されるロータリークラブであった事は間違いないでしょう。京都の市章に象徴されるように、ロータリークラブの存在は日本の仏教や伝統とフリーメイスンリーをつなぐ歴史の上で重要な役割を果たしている事は疑う余地が無いようです。

スリッパが起きると無くなるという逸話があります。ホテルで寝ている間にスリッパの片方が無くなり、給仕に探してもらうとバスの部屋にあったという話です。これに彼は自身が夢遊病の様にギリシアの王子の逸話の様に自らが寝ている間に動いているのではと不安になるようです。これには後に大きなネズミが出てきてネズミが動かしたのではないかという答えの様な表現があります。
小説中では連関させていませんが、彼がそこまではっきりと認知していたかは不明です。その頃にはだいぶ多くの睡眠薬を飲んでいたようです。

スリッパは実はフリーメイスンリーの友愛の象徴です。実はこの作品中に認められる最大の象徴かもしれません。いずれにしても武家の家系に生まれた彼が流行作家になってホテルでスリッパをはいた生活をしているというのはまさに大正ロマンを感じさせる逸話だと思われます。

さて最初に義兄の死とレインコートの逸話などがあるのですが、これは直接はフリーメイスンリーのシンボルとは関係なさそうです。一つの死との関連の象徴かと思われます。ひげが父性との関連など精神分析学的にはいくつもの象徴が認められそうです。

フリーメイスンリー関連ではその後ナポレオンの話が出てきます。最後に幽閉されたセントヘレナ島の話が出てきます。またその後ベートーヴェンの話も出てきます。ベートーヴェンも痔で坐浴をしていたという話が出てきて、その直後にモールmoleもぐらという言葉が電話を通して語られます。
moleにはスパイという意味もあるそうすが、恐らくここはベートーヴェンの話の直後なのでモーツァルトだと思います。彼は結局モールからフランス語のラモールを連想し、死に近づいていきます。
彼の中ではアメリカ人、フランス人、ドイツ人、その他日本人の多くの人々がささやき、ほのめかし、彼を落ち着かせ不安にさせ、結局彼は死に近づく事になります。

後半になり彼は聖書会社の屋根裏に住む老人に近づき、一角獣と麒麟の相似を思います。自らが麒麟(坂本龍馬の逸話で有名ですね。)に例えられた話を思い出します。一角獣はオベリスクのモチーフでしょうか。彼は光と闇の話を老人とし、結局ドストエフスキーの罪と罰の作品を借りて帰ります。ドストエフスキーも恐らくフリーメイスンだと思われます。当時のロシアは知識階級や貴族階級はほとんどがフリーメイスンであったそうです。 文中引用すると、僕はこの屋根裏の隠者を尊敬しない訣には行かなかつた。しかし彼と話してゐるうちに彼も亦親和力の為に動かされてゐることを発見した。とあり、彼との出会いがフリーメイスンリーに関わるものであった事を彼自身自覚していたようです。結局この罪と罰の読み始めた項目はカラマーゾフの兄弟の乱丁で悪魔に苦しめられるイヴァンを描いた部分だったようでまた彼は苦しみます。彼はその後ウイスキーの銘柄のBlack and Whiteから白と黒のシンボルにとらわれます。これはもちろんフリーメイスンリーのシンボルですね。その後彼はストリントベリと同名のスウェーデン人が白と黒のネクタイをして居るのを見かけます。スウェーデンは有名なフリーメイスン国家です。これは鎌倉でしょうか。もしくは藤沢鵠沼かもしれません。恐らく鎌倉だと思われます。その前に喜雀堂に入るというのもあります。これは小雀局とは関係ないと思いますよ。

いずれにしても自ら選択した死を目前としたこの大正の文人の周囲に現れる事象や人々は非常に国際的であり、さまざまな暗示を投げかけ、彼自身がそれを悪魔や死として受け止め、自ら死を選択していくのです。最後には彼は妻に声をかけられ、お父さんは死にそうな気がすると言われ小説は終わります。彼の妻の父親は日露戦争で戦死した海軍軍人でした。

芥川龍之介は帝国大学卒業後三笠公園の隣にあった海軍機関学校で英語教師として就職し、そこで羅生門を出版し作家としてデビューしました。現在海軍機関学校跡は横須賀学院となっています。


Virtus Junxit Mors Non Separabit


2012-01-29 11:05 | カテゴリ:東京
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
昨日1月28日に東京タワーのふもとでブラザーモーツァルトのコンサートがあったので行ってきました。2年前に行けなかったので今回は楽しみにしていました。


コンサートチケット
一緒に来てた横浜ロッジのブラザーとはチケットの色がちょっと違いましたね。
場所は東京メソニックセンターの地下2階のスコティッシュライトホールです。
ブルーロッジの横にあるバンケットなどをやる広いところで、スコティッシュライトの双頭の鷲のシンボルが飾ってあります。
その手前のロビーにピンバッチとかエプロンの古いものが飾ってあるのですが、その中にブラザー林董の肖像画もありました。


ちょっとカメラが埃で曇ってますね。
デフォルメしている訳ではなく明治の日本人はこんな感じだったのだと思います。
コンサートはこんな感じです。


さすがに王子ホールに比べると音響はあまり良くありません。内装はロンドンのグランドロッジやフランスのグラントリアンのグランドロッジに比べるとさすがに近代的で、ネットの定礎の写真を見ると昭和56年出来たようで比較的新しい感じですが、特にスコティッシュライトホールは日本人のスコティッシュライトのメンバーが少ないこともあってか米軍のクラブ的な雰囲気が強い感じでしょうか。今回のコンサートは比較的日本人が多い感じでした。久々に会うロッジのメンバーがたくさんいたのでほとんどフリーメイスンリーの会合みたいな感じでした。
内容は歌劇「魔笛」より序曲K.620 二つのヴァイオリンのためのコンチェルトーネK.190 交響曲第40番ト短調K.550でした。大体三曲くらいなんですが選曲と並び、曲の紹介なんかが絶妙で毎回素晴らしいです。楽団との呼吸も素晴らしく、場所も今回は非常に良かったのですが、毎回素晴らしいコンサートです。この場所は普通の日本人にはなじみが薄く、周りも大使館があったりしていかつい警察官の警備があったりしますが、色々イベントがあるときには入る事ができるので興味があれば色々調べて予約を取って訪問してみてください。2月11日の建国記念日ももちつき大会をやるみたいです。恐らく前の駐車場でやるのだと思います。東京タワーが間近で見られるので家族連れに良いかと思います。


隣のブルーロッジの写真
ネット上で良く出てくる方ですね。こんな光ったヤキンとボアズの柱は見た事はありませんでした。
ここでは日本語で全て儀式を行う有名なNo.11東京友愛ロッジが儀式を行っています。ブラザー鳩山一郎がマスターをつとめたロッジの流れを受け継いでいると思います。


ホールのある地下二階のエレベーター前にかけてある墨跡 荘子の言葉「規矩準縄」(2016/5/6訂正:孟子ですね。検索した元もすべて訂正されているようです。)
意 味: 物事や行為などの標準となるもの。規準・法則のたとえ。
解 説: 「規」はコンパス、「矩」は物差し・定規のこと。「準」は水平器、水準器。「縄」は墨縄のこと。「規矩」「準縄」ともに規則、法則の意で、同じような語を重ねて、意味を強めた言葉。
四字熟語データバンクより
まさにフリーメイスンリーのシンボルを用いた言葉が中国古典にもあるのですね。日本グランドロッジらしいものかと思われます。


入り口付近にあるシンボルの彫刻
Gravestone Symbolismによりますと、Father Time and the Weeping Virginというフリーメイスンリー特有のシンボルで、折れた石柱は一般に夭逝を意味するのですが、それを嘆く乙女とそれを後ろから優しくなでる大鎌をもった天使という構図のようです。シンボルの説明は次の通りです。片手にアカシアをもち、もう一方に骨壷をもった処女が泣いていて、その前に折れた石柱があります。彼女の後ろに父なる時間がいて、彼女の巻髪を解こうとしています。これは全体として時間や忍耐や我慢することが全ての物事を達成するという象徴です。
物事を成すにはまず耐える事、我慢する事、そして時間が解決するという事なのでしょう。神様、天使を意味する男性の顔が幾分日本人らしいのがやはり日本グランドロッジらしいのだと思います。


ロシア大使館方面からみた東京タワー
外は寒いです。東京タワーはいつ見てもきれいでした。まだ先が曲がっているんですね。 
警備の警察官も大変そうでした。


2012-01-30 09:20 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さてでは池については大体検討したと思うのでそれ以外の所を見ていく事にしましょう。
間がちょっと空いたのでおさらいすると、八つの入水口がありそれらが横須賀の市章の八芒星に対応する事。一つが北極星を表し、八紘一宇の思想をあらわしている事。周囲のモザイクと、入水口の四角い石の数と合わせて秩序と無秩序、陰と陽、善と悪の二元対立をあらわしている事でしょうか。
11と111のユダヤ教やキリスト教の関連はあまり詳しくないのでほどほどにお聞きください。

次にやはり気になるのはパーフェクトアシュラーがどこかにないかという事になるかと思います。フリーメイスンリーのシンボリズムに詳しいのであればどこかに必ずパーフェクトアシュラーを示して、そこにフリーメイスンがいたよという証しを残すはずだからです。

パーフェクトアシュラーの例 日本グランドロッジのシンボル
そこで正方形に意識を集中して探すとありました。


スピーカーですね。またもや金属製で中身はスピーカーですが、まごうことなき正方形でラフアシュラーをあらわしているものと思われます。石じゃないから厳密にはシンボルではないのですが、ここまでの流れでわかると思いますが、ここ三笠公園は明らかにフリーメイスンが直接かかわったものではなく、フリーメイスンリーの知識を持った人が一部フリーメイスンリーに対抗意識というか共通点を見出だして作り上げたという感じなのだと思います。なのでむしろ八紘一宇を表現するラフアシュラーに重点を置き、この音楽噴水の主役ともいえるスピーカー群をパーフェクトアシュラーを示す正方形の金属で象徴しているのです。実はこの公園にはこの他にもパーフェクトアシュラーを示すものがあって、それが街灯なのです。


こちらもこった街灯が並んでいます。
スピーカーのパーフェクトアシュラーは数を数えると27個あります。
街灯は池の周囲で16本、途中の小さなアーチの周囲で5本、東郷平八郎元帥の銅像の周囲で一本に2個ついたものが8本、16個であります。

さて27という数字ですが、これは何を連想するでしょうか。説明しなくてもわかると思いますが、3×3×3で3^3ですね。東京タワーの高さが333メートルという所と深く関係するのではないでしょうか。光と音、電気によってもたらされるその部分にパーフェクトアシュラーを模した金属の正方形を配置し、それらがフリーメイスンリーがもたらした電気という文明の利器で供されている事を我々にそれとなく伝えているのだと思います。

さてこの27という数字はこの公園で他にも認められます。それはどこでしょう?


実は石の壁に上る左右の階段が下面の高さから一番上までちょうど27段なのですね。
スピーカーと階段で3つの27を表現しています。ちょっとくどいような感じですが、恐らく東京タワーの333メートルの意味から意趣返しみたいな感じではないでしょうか。昭和33年の現在の天皇陛下の誕生日12月23日に建設されたのですね。

さてその他にもこの公園には数にまつわる秘密があります。それはどこでしょう?
それはグーグルアースで良くわかるのですが、四角の模様ですね。


横須賀市の市章を模したものが池以外の流水口でも認められ、さらに池の左側の床にも認められます。そしてその他にいくつもの四角い模様が床にあるのですが、この数を数えると面白い数字が出てきます。
まず石の壁の上部の部分の床に12個あります。
そして池のまわりに左側に21個の四角と一個の市章のマークがあり、右側には四つの四角と一個の二重四角、二つの丸があります。これらは何を意味するのでしょうか?答えはやはり北極星と関係しています。

実はさらに怪しげな石の組が石の壁の前の池の中にあります。


この数を数えるとちょうど23個になるのです。
石の壁の上と組み合わせると12と23です。この数字で何を思い浮かべるでしょうか?
実はこの公園にはこの他にも12と23の数字の組み合わせがあります。


東郷平八郎元帥の銅像の周囲の四角の模様を数えると普通の四角が11個、二重の四角が12個、合計23個あるのですね。12と23、さらにユダヤ教の11でしたっけか。さてでは12と23は何を意味するのでしょうか?

だいぶくどい気がしますが、12月23日は平成の時代の今上天皇陛下の天皇誕生日ですね。
12月23日はその他にはA級戦犯の東条英機が絞首刑になった日でもあります。
さてそれでは池の周りの四角は何を意味するのでしょうか。二重四角一つに丸二つ、右と左を合わせると四角が25個です。これも自明だと思いますが12月25日はクリスマスですね。

さてこの辺から話が本題になってくるわけです。



2012-01-31 12:53 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さて佳境に入ってきた三笠公園の謎シリーズですが一応八紘一宇にあわせて八回で終わる予定です。

12月23日の天皇誕生日にまつわる数字の暗号ですが、果たしていかなるメッセージなのでしょうか。
まず仏教を象徴する8とキリスト教、ユダヤ教を象徴する111や11といった数字が認められることから、一つは平成の今上天皇陛下の誕生にまつわりキリストの生誕日とされる12月25日のクリスマスに合わせて必然的なめぐりあわせがあったように示唆しているというメッセージでしょうか。
これに関して明治維新以降の天皇家に関してキリスト教の祝祭日と天皇陛下の生誕、崩御の日が関連するものがあります。

まずキリスト教がかなり普及した大正時代の大正天皇ですが、崩御日は1926年12月25日のクリスマスの日で、生母である柳原愛子に抱かれた状態で葉山御用邸で亡くなられました。現在の皇太子ご夫妻の一人娘が愛子さまという名前であるのも関連があるのでしょうか。
また大正天皇に関しては誕生日が8月31日であったそうですが、この翌日のほぼ正午ちょうどに関東大震災は発生し東京は壊滅状態となりました。余談ですが大正天皇の陵墓は昭和天皇の陵墓とともに高尾山の麓にあります。昭和天皇の陵墓より一段高くなっているのが大正天皇に対する昭和天皇の一つの評価なのではないかと私は思っています。
昭和天皇は1989年1月7日に崩御されましたが、これはキリスト教で公現祭というキリストが神性をあらわした事を記念する日の翌日であり、公現祭自体はローマ帝国のオシリスの誕生日として祝われていたそうです。またこれはあまり日本では有名ではありませんが、8月15日の終戦記念日はカトリックの聖母被昇天の日とされ、カトリックの祝日です。終戦記念日となったことで日本ではあまり有名ではなくなったということだそうです。
ちなみに戦陣訓を作りながら自決に失敗しA級戦犯として巣鴨プリズンで絞首刑に処せられた東条英機は、1948年12月23日の平成の今上天皇陛下の誕生日に処刑されました。彼の誕生日は明治天皇が崩御した7月30日だそうです。彼が自決しようとした日は9月11日であったそうですがこれは深読みでしょうか。東条英機自体は巣鴨プリズンの中で浄土真宗に帰依して笹川良一と交友をもったそうです。彼が権力を握るに至った2.26事件や5.15事件のきっかけとなる日本陸軍(徽章は五芒星)の内部対立である皇道派と統制派の最初の出来事は第一次世界大戦後のドイツ留学中のバーデンバーデンの誓いと呼ばれるものでした。バーデンバーデンはモーツァルトの妻が療養に出かける有名な温泉保養地でありました。(3/3追記:モーツァルトの妻が療養に出かけたのはバーデン・バイ・ウィーンで別の療養地のようです。)
クリスマス自体がミトラ教の冬至を祝う祭日から転用した事は今日では有名な話だと思います。

フリーメイスンリーに関する日としては1717年にイングランド合同グランドロッジが結成した日が聖ヨハネの日6月24日です。ウィキペディアで見てもジャコバン憲法の発布くらいしか目立ったものはなさそうです。(追記2/19:夏至だそうです。もう一人の使徒ヨハネの日が冬至の12月27日に当たるそうです。)2月14日のバレンタインデーはローマ帝国時代のキリスト教迫害時代の伝説の司教である聖ヴァレンティアヌスの殉教日とされるようですが、これもクリスマスと同じく、もともとローマ帝国の女神の祝日であったようです。

さてでは三笠公園に戻るわけですが、結局12月23日の天皇誕生日とクリスマスとの関連を示唆することで天皇家(国家神道)、キリスト教、ユダヤ教、仏教との関連を示してそれらが皆究極的にはつながるという事を示しているのではないかと思われます。もちろん三笠公園が整備されたのが昭和62年でまだ昭和天皇が御健在であったことなどを考えると、笹川良一さん達の様々なメッセージも垣間見える事は出来るかと思います。ちなみに昭和62年5月24日、「三笠保存会」は公園の完成にあわせて、「日本海海戦80周年記念行事」を挙行したそうですが、この5月24日という日はウィキペディアで調べると1903年に日本初のゴルフ場・神戸ゴルフ倶楽部が開業とあります。この神戸ゴルフ倶楽部を作った人はトーマス・グラバーの友人のアーサー・ヘスケス・グルームという人で、六甲山を開発した神戸外国人居留地に居た方ですが、ウィキペディアを見ると最後は日蓮宗に帰依した珍しい人で、最後は転倒して頭を打って亡くなっており、様々な宗教的な逸話が書かれています。フリーメイスンであったかどうかは知りませんが、六甲山開発にまつわる逸話として非常に興味深い人物であり、三笠公園の話と絡めても非常に示唆的であるかと思います。

さてでは数字の日付にまつわる話以外の、その他のシンボルに話を移しましょう。


これはなかなか気づきづらいと思いますが、ヤキンとボアズの二本の柱ですね。恐らく作られた方は意識していないと思いますがフリーメイスンリーのシンボルですね。


横須賀のふるさとの音楽が流れる正三面体のピラミッド、上から見るとヘキサゴンになっていますが、正四面体ではなく正三面体です。ユダヤ教の本質が民族教、日本の郷土信仰と一緒だという事を示すのでしょうか。(追記:作曲者は團伊久磨さんで、三井の総裁に上りつめて血盟団事件で暗殺された團琢磨さんの孫だそうです。正三面体なのは恐らく三井を象徴する珍しいピラミッドではないでしょうか。横須賀と縁が深い三井系電気会社の東芝が関わっているのでしょうか。)この周辺は植木が5本であったり、戦艦三笠側と噴水側の間をつなぐ階段が8段であったり、街灯が5本であったり、床の正方形が5+3=8となっていたり、3,5,8という数字が繰り返されます。恐らく8は仏教、アジアの象徴、5は五芒星などからカトリック、キリスト教の象徴、3はフリーメイスンリーの象徴かと思われます。間にある小さなアーチはやはりRoyal Arch Masonryからもキリスト教のアーチの象徴かと思います。


シドニーのオペラハウスのような形をした舞台があります。これはよくわかりませんが、神戸にも似たようなものがあり象徴の一種なのかもしれません。(4/1追記:Gloryになるのかと思います。All Seeing Eyeの周囲でしょうか。)背中に3つのアーチがあります。三笠公園の入り口のアーチと、真ん中とこの後に紹介するアーチを意味するのではないかと思います。

ベンチに不思議な記号が書かれています。これはよくわかりません。配置も変わっています。
カシオペア座のように見えるものもあり、直角定規のようにも見えますがわかりません。配置も星座でしょうか?御前会議や何か意味するのでしょうか。屋根は上から見るとSの形のようです。(昭和天皇を意味するのでしょうか?笹川のSかもしれません。周囲のギリシア語のファイの字やその他の記号はちょっと意味がわかりません。わかりそうな方は教えてください。)(追記:カシオペアは北極星、天皇陛下を示すものと思います。隣のファイはギリシア語のφで黄金比を示すものらしく、黄金比=五芒星だと思われます。カトリック信仰なのだと思います。すなわちこのブログにある通り昭和天皇のカトリック信仰を示すのだと思います。)


アーチと舞台の間は三笠山をモチーフとしているのだと思います。奈良にある三笠山ですね。
天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも 阿倍仲麻呂


この公園のメインモニュメントであるアーチですね。
入り口、途中、最後にこのアーチで3つのアーチでキリスト教系のRoyal Arch Masonryの3つのシンボルとなるのだと思います。これはなかなか日本人には分かりません。


世界につながるという事を象徴しているのだと思います。
気づけば三笠公園の噴水池の石の壁の後ろには横須賀米軍基地の三つの入り口の一つの三笠口があります。2月には清掃のボランティアを募集していました。(追記5/20:横須賀米軍基地の入り口はダイエー口、正面ゲート、三笠口、三笠公園口と4つあります。3つではありません。)


三笠公園は特別に横須賀みかさライオンズクラブが関わっているのですね。All Seeing Eyeのようでもあります。横須賀みかさライオンズクラブと三笠記念会が具体的に建設に関わり、米軍を含めたフリーメイスンリーがそれを監督したのだと思います。全体にライオンズのLの形を象徴しているようです。


2012-02-01 09:29 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さて最後です。
三笠公園の本当の秘密は何でしょうか?
日本の天皇家にまつわるキリスト教との接点でしょうか?
しかし明治維新後に王政復古しドイツやイギリスの立憲君主制をまねした事は義務教育で教わります。その上で国民のほとんどがキリスト教徒の国であるアメリカと戦争して統治され、その後民主主義憲法のもとで現在の日本が成り立っている事は常識人であれば皆知っている事です。
天皇家がミッションスクールなどを通して深くキリスト教とつながりをもっている事は誰もが漠然とは知っている事ではないでしょうか。

では三笠公園に本当に秘められたメッセージとは何でしょうか?
それは三笠公園がアメリカ軍が重要な基地をもち、フリーメイスンリーのロッジが基地内にあり、ロータリークラブやライオンズクラブが盛んな横須賀のシンボルとして、真にフリーメイスンリーのシンボルを表すことで、フリーメイスンリーとは何かという事を人々に知らしめるという所なのではないでしょうか。

そういう意味ではこれまでのいかにも謎めいたおどろおどろしい戦前の軍国主義を引きずったようなシンボルもどきのようなものではなく、これぞシンボルというまさに見えていながら秘密にされているそのものというものが三笠公園にあるのではないでしょうか。もちろんそれは日米の対立をあおるようなものではなく、日米協調、友愛の精神にあふれ、両国の発展に寄与する形の象徴となるものかと思われます。

果たしてそれは何でしょうか?
それにはやはりフリーメイスンリーの教えの基本に立ち返って見る事が必要かと思います。
明らかに謎めいた噴水池や、ごつごつしたラフアシュラーの石の壁、軍国主義を強調するような銅像やその周囲の権力への媚びるような誕生日の数字遊び、これらはフリーメイスンリーの哲学とは明らかに異なります。人々に自由と民主主義、平等と博愛を広めるような力強い変わらぬ信念、そして未来に向かって希望と堅忍不抜と慎重さ、そして変わらぬ信仰と奉仕の精神をもつものがフリーメイスンリーの美徳であり目指すべき高みなのです。

それを思うときやはりいかに三笠公園が仏教と強い結びつきがあった笹川氏の影響があったとしても、アメリカを主体とするキリスト教の影響が全体を通して象徴とされるに違いないと思わざるを得ないわけです。その視点に基づいてもう一度入り口から整理していくと、最初は見えなかったものが見えてくるように思われます。


入り口にあるのはRoyal Arch Masonryの象徴であるアーチですね。さて虹というのは聖書のどの場面で出てくるものなのでしょうか。
それでは再び聖書を引用いたします。

創世記9章 祝福と契約
神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食料とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流す者は人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。あなたたちは産めよ、増えよ地に群がり、地に増えよ。」神はノアと彼の息子たちに言われた。「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえに私が立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中に私の虹を置く。これは私と大地の間に立てた契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものを全て滅ぼすことは決してない。雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」神はノアに言われた。「これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」

さてここまでで大体この三笠公園の主旨は出てきたのではないでしょうか。旧約聖書のノアの箱舟の一節に基づいた人類の救済と繁栄を願った神との契約のしるしなのです。
そういう目で見ていくとその後の入り口のモニュメントの意味が明らかになっていきます。


最初にあらわれる蓮の花のモチーフからつながって三つの三角があります。これは恐らく1.17の神戸の震災とオウム事件、9.11同時多発テロ、3.11東北大震災などの大きな天災や災害を表すかと思います。そしてそこを越えて大きな蓮の花、しかしこれは実は蓮の花に見せたバラの花で、三分の一になった日本丸のマストと合わせて薔薇十字団のシンボルになるのです。これは恐らく日本がキリスト教国になり3分の1ほどの人口か国の規模になるということなのだと思います。そしてその後にノアが神と契約した豊穣と安定が訪れるということなのだと思います。もしかするとこれは戦前の血盟団事件、5.15事件、2.26事件といった日本国内のテロの後に現在の民主主義国家になったという事を表しているのかもしれません。(追記:恐らく東京大空襲に続く一連の空襲と、広島、長崎の原爆後に日本が復興したと考えるのが公園の整備の時期からいっても適切なのだと思います。それ以上の意味があるかどうかは御想像にお任せします。)このあたりは黙示録や予言的に解釈するか、歴史書として解釈するかとなるのかで異なるかもしれません。いずれにしても三笠公園の真実の秘密は旧約聖書創世記第9章に示されたノアの箱舟と神との契約の逸話なのです。

その目で見ると三笠公園最大のシンボル戦艦三笠がより一層ノアの箱舟としてのシンボルとして鮮やかにリアルになっていきます。


ノアの箱舟としての戦艦三笠 十字架としてのマスト

それは人類共通の願いである不戦、平和の象徴としてのシンボルとなるのです。


さてこれは三笠公園の入り口付近のグーグルアースの画像です。薔薇十字団のシンボルから豊饒のシンボルを越えていくとうろこの模様のような柄を認めます。恐らくこれは菊の紋所で天皇家を意味するものと思います。(2014/5/4追記:うろこのシンボルはそのままで魚の意味となり、キリスト教の象徴となるようです。場所を考えても菊の紋というよりもうろこのシンボルという方が正しいと思われます。フリーメイスンリーも具体的な活動としては最終的には宗教となるという所は現実なのかと思われます。ブラザーリストの一生などもそういう典型かもしれません。)そしてそれらが横須賀学院を囲むような形になっています。そして横須賀学院を上から見ると十字が浮き彫りになっています。天皇家がキリスト教の信仰に帰依している事を象徴しているかと思われます。実は誰もが入り口まで歩いて感じるように設計されているのですね。面白い事に入り口わきにはヴェルニーの設計した灯台をモチーフとした電話ボックスがあります。三笠公園とヴェルニー公園が英仏としても正統派フリーメイスンリーとフランス大東社としても対になっていて、共に友好を結んでいることも象徴されているのですね。

以上をもって三笠公園については終わりたいと思いますが、何か不足や間違いがあれば是非教えてください。

それとこれは完全に余談になりますが、日付の話に関してはクリスマスについて面白い話があります。クリスマスに関してというか、クリスマスに絡めたエピソードなのです。4月1日のエイプリルフールというのはウィキペディアなどで見ても由来や起源が不明で16世紀ころのフランスで始まったとされています。誰でもその日は嘘をついて良い日とされていますが、そもそも東洋ではなくキリスト教国での発祥で、それもカトリックの強いフランスとされています。(追記:フランスではエイプリルフールの事を4月の魚(Poisson d'Avril)と言うそうです。魚はキリスト自身を示すキリスト教のシンボルです。)クリスマスとどんな関係があるのでしょうか。それはいわゆるフランス小話の世界になるかと思われます。

おあとがよろしい様で。


2012-02-02 10:03 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
自由の女神像

実はこれに関してはフリーメイスンリーにおいてフランス革命における歴史があり非常に複雑です。
いわゆる右手に松明をもち、左手に聖書にあたる銘板をもっているニューヨーク、パリ、最近ではお台場にあるものが有名かと思います。ウィキペディアでは青森にもあるそうです。聖書を持ってるとなるとやはりユダヤ教かキリスト教と言う事になり宗教性が問題になるのだと思います。鶴見のホテルの上にもあったと思います。
作者はブラザー・バルトルディとブラザー・エッフェルになるのかと思います。


パリの自由の女神像 エッフェル塔と共に


ニューヨーク リバティー島の自由の女神像 かつては周囲に星の形や月の形のシンボルが描かれていました。


お台場にある自由の女神像 レインボーブリッジと共に 東京タワー、東京スカイツリー、六本木ヒルズなどが見られるフジテレビお台場社屋のふもと シンボルとしての碇やグランドロッジを模した自動販売機などがあります。


ラスベガスの自由の女神像


青森にある自由の女神像


札幌にある自由の女神像


鶴見にある自由の女神像(追記:その他にも赤羽、茨城、グアム、大阪などにもあるようです。その他多数あるかと思われます。)

コロンビアピクチャーズ オープニングの自由の女神


もともとフランスのジャンヌ=ダルクの逸話からフランスの象徴となり、フランス革命期には女神としてミスコンテストみたいに女性を選んでお祭りみたいな事をしたそうです。ドラクロワの絵が有名かと思います。


ドミニク・アングルによるジャンヌ・ダルク(ルーブル美術館)


ワシントンD.C. Scottish Rite House of the Templeの北にあるメリディアンヒルパークにあるジャンヌ・ダルク像 剣が折れてます。


ドラクロワ 民衆を導く自由の女神 (ルーブル美術館)


フランス革命期に行われた自由の女神、理性の祭典 左手にアカシアの枝を持っているのでしょうか。


ジャコバン派ブラザーロベスピエール絶頂期の象徴的な祭典だったようです。自然の象徴としての樹木でしょうか。最後が200人のギロチンだったそうで、このギロチンを考えたのが当時のフランスフリーメイスンリーのグランドマスターであったそうです。(10/27追記:フランス大東社の創設メンバーであるブラザーギヨタンです。最初のグランドマスターはブラザーオルレアン公です。後述しますが、ブラザーギヨタンはギロチンを考えたわけではなく、理性的な死刑執行装置として提案しただけだそうです。)ジャコバン派の起源はブルターニュ地方だそうで、ブルターニュ地方自体がブルトン人、イングランドのケルト人と先祖が一緒でフランスの中でも特徴があるようです。英仏関係はまさに親戚か兄弟です。


フランス大東社のマリアンヌ像


マリアンヌ像 いわゆるフリーメイスンリーのマリアンヌ像というとこれが出てきます。フランス大東社の博物館のサイトによるとJacques Franceの作とあります。検索してもJacques Franceは人名では出てきません。何やら意味がありそうです。フランス大東社のおみやげで売っているようです。小さな帽子をかぶっているのが最大の特徴でしょうか。

パリ ナシオン広場にあるマリアンヌ像


パリ レピュブリック広場にあるマリアンヌ像


フランス政府のシンボルとしてのマリアンヌ


さてこういった歴史のある自由の女神像ですが、横須賀にも実は二つの自由の女神像があります。一つはベースの前にあるホテルゴッデスの上にある自由の女神ですね。


市民の人は皆知っていると思いますがもう一つは中央公園にあります。

中央公園にある自由の女神像 有名な「長崎平和記念像」の制作者でもある北村西望先生の作品だそうです。

どうなんでしょうか。


恐らく名作なんでしょうが、フリーメイスンリーとは関係なさそうです。

小栗上野介像と栗本鋤雲像とラフアシュラー YRP野比にあるラフアシュラーのベンチと一緒の形ですね。業者が一緒なんでしょうか。その他にもホームページを見るとシオンなんて女性の像もあるようです。なんかもう混乱してきますね。

中央公園には博物館もあったりします。


いきなりこんなものがあったりします。
どうなんでしょうか。


2012-02-03 10:11 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
中央公園には無料の博物館があります。
前回載せた闇に浮かぶ三角の光は実は竪穴式住居の入り口を示したものでした。


どうなんでしょうか。

博物館や百科事典、辞書や動物園、水族館などは特にフランス革命以降、百科全書派という学問学派があったほど新たな知識やイノベーションの元になるものとして隆盛しました。百科事典を編纂したフリーメイスンが多数います。逆に百科事典にフリーメイスンリーの事は必ず書いてあるともいえます。自然科学の原点として観察する事、特徴をとらえて分類する事、それらのつながりを整然と説明する事は、イギリス経験主義の学問形態からいっても重要な事です。フリーメイスンリーでも生き方の基本として学びます。なんでもまずやってみる事、経験していく事は人生を豊かにし、多くの予期せぬ宝物を我々にもたらしてくれるものと教えてくれます。



三浦半島の歴史


三浦按針









ペリー来航にまつわる展示


ヴェルニーと小栗上野介 どうも三浦半島は会津寄りといい薩長と幕軍となると幕軍の方らしいです。陸海軍の薩長閥とその後の東北閥の影響もあるんでしょうか。


明治維新


いつ頃の半纏でしょうか?市章のマークに近いですが六芒星ですね。千葉県の県章に似ています。コンパスや八紘一宇との関連は皆無のようです。


これはもう終わったセミナーの広告ですね。横浜ロッジともわずかにつながるのでしょうか。

なかなかためになる正統派の地域史博物館ですがいかんせん利用者は少ないようです。ブラザーヴェルニーやブラザーペリーの人気や知名度がいまいちな事に由来するのでしょうか。妙に立派すぎるというのもポイントかもしれません。


2012-02-04 10:37 | カテゴリ:本について
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
アマゾンのアフィリエイトの本の宣伝も置いているので、少しフリーメイスンリーについて書いている本で読んでいるものについて分かりやすいように紹介と個人的な感想を書かせていただきます。

まず最初は宣伝でも最初に置いているブラザーPGM 片桐三郎による入門フリーメイスン全史―偏見と真実でしょうか。
入門フリーメイスン全史―偏見と真実/片桐 三郎
¥2,310
Amazon.co.jp
実はこれにはDVDバージョンも存在します。FREEMASONRY フリーメイスン -開かれる扉- [DVD]
FREEMASONRY フリーメイスン -開かれる扉- [DVD]/フリー・メイスン
¥3,800
Amazon.co.jp

わたしがこの本に出会ったのは横浜のFar East Lodge No.1で広報担当のブラザー渡邊から紹介されてです。それまでそれなりにアマゾンで検索して出てくるものは手に入れていたので、内容的にそれほど目新しいわけではありませんでしたが、日本人メンバーが自らの言葉で書いているということと、その出来るだけ客観的に記述の残っているものについてだけ取り上げるという本の姿勢がそれまで読んでいたものの内容とは異なり、極めて好印象を持ちました。ブラザー片桐三郎は直接お見かけした事はありませんが、DVDでは普通に出演されていますので内容が気に入られた方はDVDも購入する事をお勧めします。
その他英語の本やDVDについてはブログfreemasonry FAQ
http://freemasonry.blog.shinobi.jp/が詳しいと思いますのでそちらで見ていただくと良いかと思います。

入門フリーメイスン全史―偏見と真実 についてはフリーメイスンリーの源流が実務的メイスンリーにあり、それらがヨーロッパの石材加工と建築の職人たちであった事、貴族階級や科学的知識と結びついて思索的メイスンリーとなり、清教徒革命や名誉革命を経たイングランドで合同ロッジとして今日の形に成立し、その後フランス革命やアメリカ独立戦争を通してヨーロッパやアメリカに広がり、様々な変遷を経て今日の組織の形に整った事が書かれていて、中でも注目はやはり現役のメンバーとして現在の日本での活動につながる部分になるわけですが、これについてはあまり書いていない、書けないのだと思いますがそういう形で終わっているという所でしょうか。

具体的にどんな活動を行っているかという所は結局のところ、個人が自発的にフリーメイスンリーに参加して自ら体験し、お互いに向上させる過程で経験するものであって、他人に説明されるものではないという事になるのだと思います。興味のある方はブラザー・モーツァルトや、ブラザー・ワシントンなど有名どころのメンバーの一生をつぶさに研究していかれるのが最もフリーメイスンリーの具体的な活動として参考になるのではないかと思います。ブラザーの周囲には当然フリーメイスンリーを通してブラザーのつながりがあるわけで、それらをわかる限り調べていけば自然とフリーメイスンリーとは具体的にどういうものであるかという事が理解されていくのではないかと思います。

2012-02-05 08:18 | カテゴリ:本について
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
ロスト・シンボルは皆さん読まれましたでしょうか。
ロスト・シンボル 上・下 2冊セット/ダン・ブラウン
 
¥3,780
Amazon.co.jp

以前は成田空港などでもベスト・セラーで一通りフリーメイスンリーについて日本人に紹介するのにかなり役立ったのではないかと思われますが、その後映画化の話などが微妙に消えてきていたりと実際の認知という点ではあまりうまく理解されなかったのではないかと思っています。映画化はウィキペディアによれば2012年には行われるようです。

私はこの本についてもロッジで紹介されアマゾンで購入したものです。限定販売のものにはバッチが付いていて、これがEntered Apprenticeを示すものだとの事でひとしきりロッジで話題になっていました。この辺は非常に誤解を生みやすい話かもしれませんが、フリーメイスンリーの入会についてはいくつもの逸話があり誤解しないようにしないといけません。入会条件の宇宙の至高の存在を信じるなど大事なところなのです。

さてロスト・シンボルについてですが、題名のロスト・シンボルはどういう意味でしょうか。一応あらすじを言うとソロモン家というアメリカの中枢にいる一家の主である、33階級のソロモン氏の失踪に関して象徴学者のラングドン教授が呼ばれて、ソロモン氏の妹の認知心理学者のキャサリンと一緒に、CIA長官の日系人サトーと犯人探しが始まります。事件は秒単位で全てワシントンD.C.、議事堂周辺で起こるわけですが、すさまじく凶悪でCIAとお互いにあらゆる権力を使い合ってやりあう、マラークという全身刺青で去勢している人物があらわれて、どうやらその人が犯人で、実はソロモン家にまつわる悲劇の話に原因があり、マラーク自体がソロモン氏の一人息子で、彼は母親も殺しソロモン氏も殺そうとしていて、結局ソロモン氏によって彼は殺されて、ラングドン教授とキャサリンが良い感じになってワシントン記念塔で夜明けを確認して終わりという感じでしょうか。

読んでからだいぶ時間が経っているので中身に関してはいささか自信がありませんが、最後の結末に関してはこんな感じであったと思います。色々謎があるそうなのですが、それらについてはあまり詳しくありません。実際読んだ感想としてはまず似たような下敷きになる何らかの逸話がフリーメイスンリー関連であったのではないかと思った事でした。似たような事例があったのではないかなと想像しました。アメリカの政治の中枢にいる登場人物のほとんどがフリーメイスンであり、お互いの信じるところに従ってあらゆる権力を自在に操る様子や、ワシントンD.C.を庭のようにしてそれぞれの建築物の歴史や逸話を紹介しながら縦横無尽に移動する様は、ワシントンD.C.の観光案内のようであり、同時にフリーメイスンリーへの自然な誘いという感じになると思います。ストーリーについては結局ロスト・シンボルの意味はソロモン氏にとっては息子を失うという事であり、息子のマラークについては自分のシンボルを失う、去勢するという事であり、最後もワシントン記念塔で夜明けをみて終わるところからも、権力、財産の相続について、ワシントン記念塔に象徴される男根主義ともいうべき男系主義の不毛さがあるかと思われます。これは男性のみで基本的に構成されるフリーメイスンリーにとってはかなり重要なテーマであり、友愛とは何であるか、理性による欲望のコントロールとは結局いかなるものかというところで、宗教、理性の本質に関わる人類永遠のテーマになるのだと思います。その意味で象徴的にソロモンという名前が出てくるのでしょう。女王陛下のもとで繁栄したイギリスで生まれ世界に広がったフリーメイスンリーと、その落とし子とも言える巨大なアメリカという国家、そこに共通するレディーファーストの思想などの根底にあるのが実は、こういったイギリス経験主義の結果と言える革命と民主主義の理念と男系相続の不毛さという所なのだと思います。そういう意味では日系女性が矛盾的にCIA長官として登場するのも日本に対する一つのわかりやすいメッセージなのだと思います。

それに関してというかいわゆるワシントンD.C.建設の謎などとよく言われる話についてですが、ロスト・シンボルの話の伏線はそれなんだと思います。すなわちワシントンD.C.に込められた謎、三笠公園の謎で鍛えられたこのブログの読者であればだいぶ理解できるところだと思います。


House of the TempleにあるワシントンD.C.建設の礎石を置く儀式の図、ほとんど同じものが東京の日本グランドロッジにもあります。


ホワイトハウス―ジェファーソン記念館 リンカーン記念館―議事堂の二つの線が交わるところにワシントン記念塔があり、これが男根だとするとキリスト教のシンボルとしての十字とともに欲望をコントロールする理性の信仰の象徴としての十字が浮き上がってきます。それは男性を示す人間が横たわった形となり、その頭脳が議事堂に当たり、右手がホワイトハウスになるわけです。

そしてその右手と結ぶように北に逆さの五芒星が現れます。五芒星はカトリック、キリスト教の象徴であると同時に、フランス大東社系の神のシンボルでもありました。フリーメイスンリーではまさに男性と手を取る女性の団体であるイースタン・スターの象徴であります。五芒星自体が子宮を意味するなど「ダヴィンチ・コード」でも言われていましたね。五芒星、十字ともに通常の表示とは逆さまなのが重要ですね。ピラミッドと同じく正反対の意味を示しているのではないでしょうか。すなわち男性と女性が手に手を取って仲良く横たわる姿がワシントンに大きく描かれているのです。そしてワシントン記念塔とホワイトハウスを結んだ線の延長にある北西16番街路にあるのはHouse of the Templeいわゆるスコティッシュライト南部管轄区最高法院、世界のスコティッシュライトの33階級を統轄する場所なのです。(追記2/21:その他議事堂を頂点としたピラミッドや、そもそものブラザーランファンの計画では議事堂を頂点とした直角三角形のシンボル、議事堂を頂点とした∨とΛのシンボルや、やはり議事堂周囲で六芒星のシンボルなどが考えられるようです。議事堂を頭とした体に対応させるシンボルもあるようです。いずれもシンボルとしてあるのだと思います。)

ワシントンD.C.の都市計画自体はフリーメイスンであるブラザー・ランファンによって行われ、彼の墓はポトマック川を渡った対岸のアーリントン墓地の小高い丘の上にあります。アーリントン墓地自体が南北戦争での南軍のリー将軍の邸宅跡でありました。リー将軍のもとで南軍の将として南北戦争を戦った一人にスコティッシュライトを後に確立したブラザー・アルバート・パイクもいました。またアーリントン墓地の横には五角形のもっとも有名なペンタゴンがあります。シンボリズムで考えると9.11テロの意味もまた徐々に明らかになるものかと思います。

ワシントンD.C.自体がフリーメイスンリーの教えそのもの、シンボルそのものを表しているのですね。



ブラザー・ジョージ・ワシントンのマーサへの求婚

彼は忙しい戦争のさなかにお見合いで二人の子持ちの寡婦であった裕福なマーサと結婚したのでした。ワシントンD.C.に隠された秘密とは初代大統領の偉大なるフリーメイスンとしての人生そのものであると思います。


ワシントンの神格化 アメリカ国会議事堂の天蓋にある天井画です


ポセイドンがケーブルをもっていて、大西洋横断電信ケーブルの敷設を記念しているそうです。

ロスト・シンボルについては解説書なども成書が多数あるようなのでそちらを参考にしていただきたいと思います

2012-02-06 15:29 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
中央公園の謎

こう書くと三笠公園のようにいろんな謎が込められているように思うかもしれませんが、単純に中央公園の存在自体が謎と言うだけです。たぶんこれは多くの訪れた人が思う感想なんじゃないかと思います。




中央公園からの猿島の眺め ペリーアイランドとブラザーペリーは名付けたそうです。
見るからに謎のモニュメントですね。書いてある説明も全く謎だらけです。(追記:当時の市長は横山和男さんと言う方で三笠公園の整備やYRP野比の開発を行い、広島県出身だったようです。5期20年にわたり横須賀市長を務め、1993年が最後の年で、広島の原爆投下に関して非核宣言都市のモニュメントが悲願であったようです。)
一つ関係ありそうな気がしたのはソ連の国旗のハンマーと鎌でしょうか。


ハンマーは直接はフリーメイスンリーのシンボルではありませんが、ガベルと言って同じ形の木槌になるとフリーメイスンリーのシンボルです。木槌のガベルはロッジでWorshipful Master(ロッジの主宰者、選挙で選ばれる)が開会や閉会、議決を取るときに音を鳴らすもので、もともとはノミ打ちの木槌だと思います。恐らく金槌でも石材を直接たたく役割でシンボルになるようです。いずれにしてもソ連の国旗ではあくまでHammerでありGavelではないようです。また鎌もSickleといって手鎌であり、Scytheとなると大鎌でよく悪魔が手にしてる図柄で有名なものですが、あちらはフリーメイスンリーのシンボルとなり魂の収穫として、死や生きている時間が短い事を象徴するようです。
いずれにしても東ドイツの国旗の六分儀と同じように、フリーメイスンリーのシンボルとそっくりでありながら名前や定義がわずかに異なり、シンボルではないという形になるようです。
この中央公園のモニュメントもそういうことで、何やら横須賀で最大のモニュメントでありフリーメイスンリーの関わりがあるのかなと思いきや実は一切ない、イメージとしてはソ連のハンマーと鎌が一緒になったようなものなのではないかと思います。このモニュメントができた1993年には既にソ連も崩壊して無くなっている訳ですが、東西冷戦の存在が横須賀が基地の町として存在意義を発揮した理由でもあるでしょうから、何らかの関連があるものと思われます。共産主義の成立や、共産革命にもフリーメイスンリーが関わっているようによく言われますが、公式には関係ないようです。(追記2/21:レーニンはドイツで一応入会し第一階級まではいったようです。これはかなり現代史的には重要な情報だと思うので深く追求しないようにしてください。)
ちなみに現在のロシア軍旗は下のようだそうです。


双頭の鷲でスコティッシュライトを意識しているのかもしれません。もともとロシアの国章だったのでしょうね。


岡田屋モアーズの二つのピラミッドが目立ちますね。
中央公園自体は梅と桜と松の木がたくさん植えられている感じでしょうか。衣笠山とよく似た感じです。


これはよくわかりません。(追記:平和モニュメントの解説のようですね。)


ブラザーデッカーの胸像 横須賀の基地司令官を長く務め、日本人と協力して横須賀市の再建に貢献したそうです。詳しくは

黒船の再来―米海軍横須賀基地第4代司令官デッカー夫妻回想記/ベントン・ウィーバー デッカー
¥3,150
Amazon.co.jp
を銅像。ブラザーデッカーは色々日本を周遊して回ったようです。息子さんが後に岩国基地で墜落して亡くなったりしているそうです。胸像はもともと市役所の前のあたりにあったようですが再開発でこの公園に移ってきたようです。


ご本人はフリーメイスンなんでしょうが、あまりこの胸像自体はフリーメイスンリーとは関係なさそうです。


戦没者慰霊の塔
戦前戦後も含めて現代につながる以上、なかなか史実は描かれなさそうです。
(追記:デッカー司令官は深田台にあった横須賀市民病院の整備にも力を入れたそうで、結局横須賀市民病院は一連の炎上事件の結果長坂に移ったようです。なかなか恐ろしいですね。)


2012-02-07 14:05 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
ヴェルニー公園のヴェルニーが作った灯台は横須賀では城ケ島灯台と観音埼灯台です。
レンガを作る工場を作り、最初に観音埼灯台を作ったそうですが、観音埼灯台には水棲動物の博物館があるくらいで、それがまたやたら豪華ですが古いもので、確か一応入場料も取ったと思います。
フリーメイスンリーの思想に基づく博物学の名残だと思います。
ヴェルニーの後に来たスコットランド出身のリチャード・ブラントンが作ったのが剣崎灯台で、地元ではけんざきと言うそうですが、正式にはつるぎざきというらしくウィキペディアでも書いてあります。

なんで正式名称が大事かは知りませんが、剣崎と言うと何やら逸話がありそうですが、剣の形をしているからだけみたいです。近くの走水が日本武尊の妃が身を投げて海が静まったという場所だそうです。源頼朝も平家に追われて真鶴半島から房総半島に渡った逸話もありますし、一種の海を渡る裏技の伝統があるみたいですね。
私は観音埼灯台と城ケ島灯台は実は行った事がありません。剣崎灯台だけ釣り場が近いこともあり見に行った事があります。シンボルとしてわずかに認めるのは風見鶏でしょうか。これの意味はコンパスに近いのかと思いますが、神戸の洋館に代表されるように風見鶏は一つのシンボルのようです。(追記:鶏は夜明けを告げる鳥として啓蒙のシンボルとなります。めったに出てきませんが、シンボルの絵でたまに認められます。)

日本の灯台の初代のものはほとんどがヴェルニーやリチャード・ブラントンに代表されるお雇い外国人が建設したようです。これらに代表されるように明治維新に入ってきた技術の最初のものはすべて彼らのようなお雇い外国人、ほとんどがフリーメイスンだと思いますが、彼らが作り、日本人に提供したものだと思います。日本人は真似るのが得意だとされますが、果たしてそれらがどこまで真似られるか、学びとれるかは今後にかかってくるのかと思います。このブログを続けて読まれてきた方々はそれがどういう意味かはよくわかるかと思います。

まだしばらく続けますが、一応横須賀地域のフリーメイスンリーのシンボルについては一連のものを紹介しきったと思われます。その他にも様々な話題を提供していくかと思いますが、一月から始めて毎日更新してきましたが、今後は間があいたり内容もあまり関係ないものや個人的なものになるかと思います。


某病院から見た横須賀市上下水道局西浄化センター 屋上にヴェルニーの建設した観音埼灯台を模した建築物があります。


2012-02-08 10:09 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
恐らくベースの中のロッジにはあるかと思います。
それ以外でどこにあるか御存じの人は少ないかと思います。

それはほとんど横須賀ではない所にあります。しかしながら実は横須賀の実体を担っている場所でもあります。

私はネットでたまたま発見いたしました。

横須賀には数多くのフリーメイスンリーのシンボルがあり、ロータリークラブやライオンズクラブの活動が盛んでありながら、溢れんばかりのラフアシュラーと極めつけは逆さまのピラミッドと八紘一宇と天皇陛下のキリスト教信仰の象徴でした。

これでは汐入の実質ソロモン宮殿である横須賀芸術劇場でのモーツァルトのフィガロの結婚や魔笛の公演はとてもではないですが遠い未来でしかなさそうです。

しかしやはりそんな横須賀で、ほとんど人が来ない場所に、恐らく日本でも他にないほぼ完璧なパーフェクトアシュラー、ジョン万次郎のコンパスと直角定規を持った像に匹敵する記念碑がありました。

次回に引き延ばすので場所だけ写真をお示しします。


2012-02-09 09:53 | カテゴリ:東京
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さてまた話題が途中で変わりますが大丈夫でしょうか?

日本の伝統宗教である神道や仏教にキリスト教やユダヤ教の文化の中で生まれたフリーメイスンリーのシンボルを認める事は可能でしょうか?
フリーメイスンリーの思想はそもそも人類は共通の思考や考え方を持ちうるという所にあると思われ、宗教や文化の違いを乗り越えて共通の意識を持ちうるという所だと思います。その際に大事になるのが、そもそもそれが可能であるのは人類が共通の祖先から派生したに違いない、または多少違いがあってもほぼ共通の条件、共通の歴史の結果で現在のような多様性を示しているに過ぎず、元をたどっていけば必ず多くの共通点を見出だすからであるということなのだと思います。それが友愛の精神の根底にある理論的背景であり、聖書の逸話でいえばバベルの塔や、アダムとイブの話になるのだと思います。

さてでは現実問題としてインドで紀元前500年ころに生まれ、その後幾多の変遷を経て、中国や東南アジアを経由して日本にもたらされ、さらに日本の中でも幾多の変遷を経て現代に伝わる仏教の教えの中にフリーメイスンリーで共有されるようなシンボルの教えは認める事ができるのでしょうか?

それは国立博物館で開催されていた空海と密教美術展で展示されていました。


真言密教の教えを表す曼荼羅図です。いわゆる両界曼荼羅の胎蔵曼荼羅です。
釈迦の教えとそれの表す世の中を図式化しているものです。


こちらはカタログにあった東寺に伝わるものであったと思います。同じ図のやや接写です。
遍知院という部分の中心に火焔を象徴する形としての一切如来智印の三角形が認められます。迷いを全て焼き尽くす光としての炎を象徴するようです。ネットで調べると経典などでは逆の三角形を使うこともあるようです。


いわゆる卍も認められますね。大日如来の上部において真知が大事である事を象徴しているのかと思われます。△は▽と対になり✡を形作る事やΛと∨で接合のシンボルともなり、シンボリズムの最も普遍的で重要なものとなります。
これに似たものが以下のものになるでしょうか。


フランス人権宣言に認めるAll Seeing Eye

また卍はシュメール文明で認められる双頭の鷲などと同じ由来の古いもので、エジプトではアンクやタウ十字が使われ、旧約聖書にあらわれる十字の原型とされますが、十字がキリスト教の象徴である十字となりシンボルとなったのはむしろそれらの起源とされる卍、英語ではswastikaがインド、シュメールで用いられ、結果としてローマ帝国でアンクやタウ十字と一緒になって象徴となったようです。この辺の起源については様々な学説があるかと思いますが、現在ではナチスドイツのハーケンクロイツとして採用された事から世界的に表現を忌避する傾向となっています。シュメール、メソポタミアとエジプトの文明の衝突は現在においても延々と引き継がれているのでしょうか。

日本人はあまりそういう事を意識せず極東で伝えられたものを知らずに保存していたものかと思います。それらが第二次世界大戦という形で現実に現れたとき、それらシンボルの持つ歴史や意味を間近に感じさせられるのです。


ワシントンD.C. スミソニアン博物館にあるブラザーリンドバーグが大西洋単独無着陸飛行に成功した際のスピリットオブセントルイスの先端の内側に描かれたswastika。吉兆を意味するシンボルとして当時流行したようです。

さて仏教と言えばやはり仏様を拝む事になるわけですが、この仏像製作と言う美術は教科書でも教わる通りアレクサンダー大王の東征の結果にガンダーラ美術として始まりました。


アフガニスタン バーミヤン遺跡の仏像 現在は身体もありません。


カンボジア アンコール・トム遺跡の仏像


東大寺 盧舎那仏


広隆寺 弥勒菩薩半跏思惟像


薬師寺 薬師如来像


興福寺 阿修羅像


高徳院 阿弥陀如来像
鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな 与謝野晶子


大船観音寺 巨大白衣観音像

これらはすべて源流をエジプトのスフィンクスに求められるようです。スフィンクスはピラミッドより起源が古いとされ、もともとファラオの顔を模した神様の造形であるようです。


ギザの大スフィンクス
スフィンクスの逸話としては次の神話が有名です。ウィキペディアの引用です。オイディプスの神話によれば、ヘーラーによってピキオン山に座し、テーバイの住人を苦しめていた。旅人を捕らえて「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足。これは何か」という謎を出し、間違った者を食べていた。なお、答えずに引き返すことは可能だった。この謎はムーサに教わったとされている。しかし、オイディプスに「人間は赤ん坊の時はハイハイで四つ足、成長して二足、老年で杖をつくから三足だ」と答えられ、岩の台座から飛び降り、海に身を投げて死んだという。
この逸話は人生を青年期、壮年期、老年期に分けて考えるフリーメイスンリーの教えの元になったものと考えられます。人生を朝、昼、晩のように三つに分ける考え方はそれぞれ三階級の教えとしても反映されています。


ベルリン ネフェルティティの胸像(ツタンカーメンの義母)


ツタンカーメンの黄金のマスク


ラムセス二世のアブ・シンベル神殿


ギリシアのスフィンクス像


ミケランジェロ ピエタ像(聖母子像)


ワシントンD.C. House of the Templeのスフィンクス像


サウスダコタ州ラシュモア山 ブラザージョージ・ワシントン ブラザートーマス・ジェファーソン ブラザーセオドア・ルーズベルト エイブラハム・リンカーン(追記:リンカーンは入会申請を出したそうです。)

仏教に関してはインドではほぼヒンドゥー教とイスラム教が多数となりほとんどすたれてしまっているようです。ブラザーキップリングが指摘したように当地のカースト制度やバラモンの権力、釈迦の悟りへの過程などは日本人が日本で想像するものとはまた別の現実があるのでしょうし、それらはまたブラザーキップリングが感じたフリーメイスンリーの平等の教えの良さにも繋がり、また現在の経済発展著しいインドでフリーメイスンリーが盛んになっている事とも全て繋がるのではないかと思います。

またこれらの元となる東と西を結びつけた大帝国を一代で築いたアレクサンダー大王を生み出した国ギリシアが、いわゆるユダヤ人問題を第二次世界大戦後にイスラエルの建設によって解決し、統合ヨーロッパを生み出したEUにおいて経済的問題を抱え、現在の世界の重要な問題となっている事は、哲学や宗教を生み出し多くの智恵をはぐくんだ人類がさらにグローバル時代においてより偉大な智恵を必要としている表れではないかと思われます。ネオプラトニズムがルネサンスの原動力になったように歴史を見つめなおし現在に対処する事がすなわち新しい未来に対して扉を開く最善の方法になる事かと思われます。


上野 不忍の池の蓮


土偶ですね。


クールベ 波と罠にかかったキツネ


ファン・ゴッホ 白バラ


マックス・エルンスト

博物学はフリーメイスンリーの思想の重要なものです。


2012-02-10 09:17 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
パーフェクトアシュラーの話はとりあえず引き延ばして、非常に個人的な横須賀についての感想をフリーメイスンリーに関して述べさせていただきます。

私が初めて横須賀に来たのは確かJR横須賀駅からどこかへ遠足みたいに行った事か、JR久里浜駅からフェリー乗り場か何か用事かで行った事があった事が最初だったと思います。横須賀が港である事は知っていましたし、三浦に行く途中で通ったりしたこともあったと思います。

小泉さんは高校生の頃町のポスターで知りました。知っている人の名前とほとんど一緒だったのでそんな人がいるんだという意識でした。

初めて京急線で横須賀中央まで来たのが大学時代でした。京急線に初めて乗ったのが高校時代でその頃の能見台だったと思いますが駅を降りてびっくりした思い出があります。横須賀中央に来たのはソフトバンクの派遣で東芝の電球をラオックスで売る仕事でした。JR横須賀駅の印象しかなかったので横須賀中央を見てまたびっくりしました。どぶ板通りの端っこにあったカバン屋さんが閉店セールをしていて、当時イチローが使い始めていたdj hondaのカバンを格安で買った思い出があります。

世の中もバブル経済、昭和から平成、冷戦終結、湾岸戦争、イラク戦争、テロとの戦いと大きく変化し、身近でも都市化、地球温暖化、個人主義、メディアの発達など変化の兆しはいたるところで進んだ時代でした。

その中で横須賀におけるフリーメイスンリーのシンボルはどのようなものであったのかと考えました。わたしが個人的に最も好きで恐らく多くのライオンズクラブやロータリークラブの方々も好きであろうシンボルは大楠山のらせん階段の展望台ではないかと思われます。いささかの陰りもなく、日本の自然と牧歌的な田舎の良さを体現し、象徴するものではないかと思います。しかしそれ以外の三笠公園や三浦海岸のずれたピラミッド、中央公園のそれらや横須賀美術館のものに至るまで、横須賀のフリーメイスンリーのシンボルにはどことなく呪詛やいま生きる人間たちの恨みの感情を感じさせるものがあります。フリーメイスンリーの教えでは光を求める事が一つの使命であるという命題がありますが、光は常に闇から生じ闇を照らすことで光があるのです。それはすなわち光あるところには闇が必然的にあるという事でもあります。

人間の心の中や人間社会には常に闇があります。それは意識や言葉が始まり、ものを考える人間として始まった時から自覚されるものです。横須賀の闇、それはフリーメイスンリーにとっては一つの日本全土を見る際の同じモデルケースなのだと思われます。日本人の心の闇、日本社会の闇、そういったものを照らし明らかにしていくことで、心を明るくし、社会を明るくしていくことがフリーメイスンリーの日本における役割であるかと思われます。

智恵の力、言葉の力、考える事の大事さ素晴らしさ、それらを新たに感じさせてくれるのがフリーメイスンリーの側面でもあります。またそれらは行動することが考えるよりも大事とする気風の横須賀のものとはやや異にするものでもあります。確かに開国の地において吉田松陰や福沢諭吉など先人たちは考えるよりも行動すること、恐ろしがるよりも試してみる事で結果として名声や名誉を残すこととなりました。しかし果たして彼らの成した事は世界で評価されるものでしょうか。日本で永遠に評価され続けるものでしょうか。わたしの知る限り行動しなかったユダヤ人で記述の残された人はいないでしょうが、ものを考えずに行動だけして評価された人はいません。ものを深く考え発言し評価するのがユダヤ人でしょう。

シンボリズムは一つの行動だと思います。言葉と一緒かそれ以上の言葉であります。しかしそれは多くの考えと考証、明確な認識に基づいていなければなりません。横須賀のシンボリズムにはそれらが弱いと思います。それを最も表しているのはYRP野比のものと中央公園だと思います。大楠山のものは出来が良すぎたのだと思います。そういう事はよくあります。

実際横須賀ロッジには日本人はわずかしかいません。世界の人々は良く勉強しています。日本人もかつては良く勉強していたかと思います。ロッジの扉を叩くのはあなた自身です。


2012-02-11 08:20 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
横須賀唯一のパーフェクトアシュラーは夏島にあるとのことでした。

夏島の名前が出れば少し歴史に詳しい人であれば何がそれを意味するかはすぐにわかる事かと思われます。

本日2.11でさかのぼることちょうど123年前の1889年明治22年2月11日に日本では大日本帝国憲法が発布されたのでした。太陰暦から太陽暦に暦がかわり、旧暦の神武元年の1月1日が2月11日に当たる事から紀元節の祝日が始まりました。これについては当初は単純に旧暦の元旦を紀元節として1月29日にあてたそうですが、孝明天皇の命日が1月30日(旧暦12月25日)であった事からずらしたようです。孝明天皇の命日も旧暦ですがクリスマスなのですね。


夏島では123年前に発布された日本最初の憲法の草案が伊藤博文の別邸で作られ、それを記念して草案作成者の金子堅太郎、伊藤巳代治と有志によって大正15年に最初の記念碑が建てられました。


当初はこのような形で条文の数を表す76枚の御影石と、伊藤博文の別邸の間取り図を示した銅板が上部にあったようです。その後敗戦後には富士自動車の敷地内にあった記念碑は銅板がはぎ取られていたそうです。そのため富士自動車の社長達有志によって昭和26年2月11日に現在の姿に作り上げられたそうです。



碑文の内容は他のホームページに全文あげている人がいましたのでそのままコピペさせていただきます。
明治憲法草案起草の跡 金森徳次郎書
SITE OF ORIGINAL DRAFTING OF THE MEIJI CONSTITUTION
IN THE YEAR  MEIJI 20 ― AD.1887
    明治憲法起草遺跡記念碑
この記念碑は, 現在地から南方200メートルの場所に, 大正15年11月に建立されたものである。当時、明治憲法草案起草の関係者であり記念碑の建立発起人の一人であった金子堅太郎の言によれば, その場所は、 伊藤博文の別荘の草庵起草の室にあてられた12畳半の部屋であったという。記念碑は、太平洋戦争後荒廃していたが、当時この地で創業していた富士自動車株式会社の手によって、一部原形を変えて改修され昭和26年2月再度除幕された。このたび、元の位置を含む一帯が、日産自動車株式会社に帰属することとなったので同社と協議のうえ現在地に移設させ, 明治憲法草案起草の遺跡を示す唯一の記念碑として永く後世に伝えようとするものである。
ちなみに、この碑の外面は、76個の石からなるが、これは明治憲法の76箇条を意味し、基石の縦横各22尺2寸1分1厘の長さは、憲法発布の明治22年2月11日を示したものである。
昭和50年4月26日 横須賀市

金澤之爲地負山瀕海波光與嵐影相
映自古稱武相第一之名區伊藤春※   ※=「畝」の旁が「卜」 
公愛其勝構別墅於夏島将就此而審
議憲法典範之草案屋宇無輪奐之美
柱楹不加雕飾一棟六房纔凌風雨耳
明治二十年三月起工六月落之也公
乃徃焉陪従者三人予與金子堅太郎
寓東家井上毅別居公日夾臨東家從
事調査予專管機秘草案一夕有偸兒
入予室奪行李而去翌朝覺之百方捜
索偸兒唯取銭而棄行李干圃中草案
則幸無恙矣公乃命二人移居夏島島
孤懸干海心非※舟不可渡居此者宛   ※=「イ」+「就」
如謫客距島数百武有烏帽子巖巖以
形名焉時際盛夏晨夕討論之暇徃徃
游泳至巌下其快洵不可名状也顧夏
島既爲憲法發祥之處而物換星移今
則為海軍飛行場併烏帽子巖無復※   ※=「厂」+「示」
影滄桑之燮足喫一驚也於是刻文而
誌遺跡以告後人云
  大正十五年十月
  正二位勲一等伯爵伊東巳代治撰并書
  発起人               PROMOTORS  
内山岩太郎            IWATARO UCHIYAMA 
山本惣治              SOUJI YAMAMOTO 
メーヨー エス シルビー      MAYO S. SILVEY 
ジェームス エイチ ドローン   JAMES H. DRAUGHON 
  昭和26年2月11日 再建   REBUILT ON 11TH FEBRUARY 1951
   協賛
  神奈川県
  横浜市
  横浜商工会議所
  横須賀市
  横須賀商工会議所
  富士自動車株式会社

継ぎ目はあるもののほぼ完璧なパーフェクトアシュラーですね。恐らく記念碑としては日本にここだけなのではないかと思います。それだけ明治憲法を制定したという業績は確固たるものであり、日本で日本人による政治的偉業としてフリーメイスンリーとして最も評価されるものであったと考えられます。明治憲法制定については、草案作りに参加した中心人物として伊藤博文とさらにその他の3人の内金子堅太郎の経歴がフリーメイスンリーとして興味深いところです。さらにこの記念碑の発起人である山本惣治氏、内山岩太郎氏の関連も注目されます。

まず伊藤博文についてですが、こちらは初代内閣総理大臣、夏目漱石の前の旧千円札のお札の肖像に採用されていたことで有名です。ウィキペディアで見ると初代兵庫県知事をされています。いわゆる長州ファイブの一人としてブラザートーマス・グラバーの仲介でイギリスに留学し、下関戦争の前に帰国し、その後岩倉使節団の一員として海外を歴訪し、ブラザービスマルクとも面会しています。その後は憲法調査のためドイツに留学しました。彼について有名なのは妻も元芸者であったように芸者遊びが激しかったことで、明治憲法草案についてもなじみの芸者が経営する金沢八景にあった東屋で草案の盗難事件にあった逸話もあります。現在金沢文庫には当時の料亭の面影を残した唯一の老舗千代本が往時の雰囲気をわずかに残しています。彼はイェール大学の名誉博士号なども取っており、ブラザー林董も伊藤博文の指示でフリーメイスンリーに加入したという話もあるようですし、日露戦争に関わり様々な注目を集めていたと考えられます。結局韓国併合目前の1909年にカトリック教徒の安重根にハルビンで暗殺されるわけですが、この事も彼が女性関係も含めた素行の点で芳しくなかった事によるのかもしれません。ユダヤ教によれば人間の評価は食べ物と性的生活でなされるということです。長州出身のほぼ百姓の息子であった明治の元老伊藤博文と山縣有朋の二人の死に伴って政府での長州閥の影響は弱まり、東北出身の旧士族の子供たちである陸軍や海軍の軍人たちの影響が強くなっていくのです。明治憲法に示された天皇大権に基づく議会制は、大正天皇の死と軍閥の出現、統帥権の干犯や軍部大臣現役武官制などを通して当初の立憲政治は無視されるようになり、結局はテロリズムの嵐の中日本は軍国主義の道を進むようになるのですが、憲法の理念、伊藤博文らの啓蒙と立憲政治の思想が守られたなら明治維新の成果は太平洋戦争で残骸となることなく現在までより多く引き継がれていたかもしれません。いずれにしても伊藤博文の死と韓国併合への植民地への欲望がこれら維新当初の日本人による憲法の策定という功績を駄目にしてしまった事は歴史の教訓かと思われます。


金沢八景野島に復元された伊藤博文別邸 これは品川にあった下賜された邸宅を移築したものだそうです。夏島のものとは関係ないそうですが、当時のものを修復し再現していて、明治の元老の美意識を感じることができます。山縣有朋の別邸なども箱根にありますが、現代の日本人の美意識の琴線に通じるものがあるかと思います。お茶会など良くやっていますので一度訪問されることをお勧めします。


伊藤博文の直筆 達筆ですね。江戸時代末期の庶民の教育水準の高さがうかがわれます。人柄もあるのでしょうが、恐らく明治期の志士の中で最も達筆なのではないでしょうか。中国に留学して仏教の真髄を学び伝えた弘法大師の逸話を思い起こさせるものではないでしょうか。


別邸の中庭 山縣有朋も庭づくりで有名だったそうですが元老や皇室での競い合いを感じます。江戸初期の戦国武将たちの隠居後の庭づくりに通じるものもありそうです。


野島別邸からの八景島の景色 伊藤博文は何を思うでしょうか。

次に金子堅太郎についてです。彼は福岡出身で藩主の黒田長知に同行して團琢磨と共に岩倉使節団の一員としてアメリカに留学し、ハーバード大学のロースクールに在学しています。さらにそこでブラザーセオドア・ルーズベルトの知己を得て、その後ブラザーエドマンド・バーグの著作に親しむようになります。帰国後に「フランス革命の省察」を明治天皇に奉呈して、それの抄訳を作成しています。日露戦争後は日米協会の会長を務め、最後まで日米開戦を憂慮していて開戦前の5月に亡くなったそうです。「フランス革命の省察」はいわゆる保守主義のバイブルと呼ばれる名著であり、イギリス保守主義、伝統主義の真髄を表した著作と言われています。ブラザーバーグはアイルランドの生まれで父は国教徒、母はカトリックだったそうです。本人は国教徒となり、ダブリンのトリニティ―カレッジで美学について論文を出して注目されたそうです。その後政治家となり、フランス革命のさなかに熱狂的なフランス革命支持者のフランスの青年からの手紙に答える手紙をしたため、その中でフランス革命がいかに理念が先行し現実が伴わないものであるか、確実に失敗するであろう現実的な評価、形而上的な権利や理念を追い求めることの虚しさ、相続についての自然権について述べてイングランドにおける名誉革命の成果を継続することがイングランドにフランス革命を輸入しないための最重要の事であると説いています。わたしは邦訳をまだ3分の1ほどしか読めていませんが、内容は極めて難しくそれでいて現実の評価や論理は単純明快で簡潔であり、ただ革命や革新に情熱を持った若者の情熱を完全にさめさせるには確かに十分な説得力を持ったものであると感じられます。彼もグランドロッジのホームページに名前を挙げられる重要なフリーメイスンの一人であり、この著作は実質フランス大東社に対する正統派英米フリーメイスンリーの評価であるとも考えられます。一種の現代の政治論文の最重要のものであると考えられ、フランス革命や共和制、王制や天皇制を少しでも考えたい人はすべからく読むべき著作、むしろ読んでから発言すべき著作であると考えます。


ブラザーエドマンド・バーグの肖像画

さて金子堅太郎については出身地が福岡であることも一つのポイントであるかと思われます。これについては後に取り上げる予定です。


発起人の山本惣治氏についてはウィキペディアではもともと日産の社長で、その後富士自動車の社長となり、追浜工場で米軍の車両の修理など行っていたとあります。日産ではダットサンの設計開発など行い、富士自動車では三輪自動車フジキャビンなど開発したようです。恐らく黎明期の日本の自動車産業の開発主導の立役者となった方かと想像されます。アメリカでいうとタッカーとかそういうのではないでしょうか。山本氏の死後重機メーカーのコマツとなって事業は継続されているようです。コマツの商標にパーフェクトアシュラーを模した正方形を認めるのは関係あるのでしょうか。

またもう一人の日本人発起人の内山岩太郎氏は戦時中の外交官、戦後の神奈川県知事の方です。ウィキペディアでは戦後日本の国連加盟に当たってフィリピンとの関係を調整され尽力されたとあります。また神奈川県の鎌倉にある県立近代美術館の設立にも関係されたようです。フィリピンとの関係修復はそのまま日本のフリーメイスンリーにとってグランドロッジの設立にかかわる重要な功績であり、恐らくここに名前を残された四名の方はフリーメイスンであったかと思われます。本人はカトリック信者でありながらフィリピンの寺院の復興に個人的に尽力されるなどフリーメイスンリーの汎宗教性を感じさせる逸話だと思います。鎌倉、葉山にある県立近代美術館は前者は八幡宮境内にあり、後者は葉山御用邸と通路でつながる場所にあり、美術館でありながら様々な背景を感じさせる立地にあります。特に葉山のものは2003年に出来たもので直接の関係はないようですが、ユダヤ人芸術家のものなど近代美術でもこだわりのある展示を行っており、興味深いものがあります。建築自体は六本木にある国立新美術館の原型とも思われる形ではないかと思います。

ざっと概観しましたが恐らく年間100人も訪れないであろう夏島の現在日産自動車の敷地内にあるこの日本で唯一であろうパーフェクトアシュラーの記念碑は、横浜の港の見える丘の外国人墓地に匹敵する、日本におけるフリーメイスンリーの歴史の記念碑であり、横須賀における最高のフリーメイスンリーの象徴であるように思われました。多くの人に訪れていただき、フリーメイスンリーとは何かをその象徴から感じていただければこのブログの意味がわずかでもあるように感じられます。
(追記:ちなみに現在のブラザーマッカーサーの下でつくられた日本国憲法の公布日は明治天皇の誕生日の11月3日であり、施行した5月3日はポーランドでヨーロッパ初の成文憲法が成立した日であるようです。明治憲法の施行日の11月29日は元旦から333日目という事はあるようです。)


2012-02-12 10:57 | カテゴリ:神戸
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
日本でのゴルフ発祥の地を知っている人は少ないのではないでしょうか。
戦後に外国人が導入したように思いそうですが、実は明治時代にやってきています。
太平洋戦争のさなかでも近衛首相や天皇陛下はゴルフをしていたそうです。石川出身の某首相はそれで非難を浴びましたがまあ昔からあまり変わらないのですね。

さてテニスやゴルフ、ラグビーやサッカーなどイギリス発祥のスポーツは多いのですが、スポーツはそもそもオリンピックや世界大会に象徴されるように平和のための疑似戦争、一つの社交や外交の目的があります。その中でもゴルフはスコットランドの羊飼いが暇つぶしに始めたという起源もあるもので、ポロと並んでイギリス紳士の社交としての地位が高いかと思います。ゴルフの起源の地とされる全英オープン開催地のセント・アンドリュースはフリーメイスンリーのスコティッシュライトの29階位に聖アンドリューのスコットランド大騎士として認め、そもそも聖アンデレは12使徒の一人なわけですが、都市には美しい石造の建築が多く認められ、しかも現在は多くが廃墟になっているようですが、これらはスコットランド、イングランドが宗教や王権の争いの中で繰り返し激しい戦争が行われていた証しでもあり、またその中で実務的メイスンリー、いわゆる教会や城を建築する戦争や宗教の請負職人としての石工が活躍していた証しでもあります。



セントアンドリュースの風景 ウィキペディアよりそのまま借用です。

さて日本最初のゴルフコースですがそれは題名で示した通り神戸の六甲山中にあります。
作った方はアーサー・ヘスケス・グルームというイギリス人の方で、恐らくフリーメイスンだと思います。ブラザーグラバーの友人であったそうです。非常に興味深いので毎度毎度ですがウィキペディアを引用いたします。
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アーサー・ヘスケス・グルーム(Arthur Hesketh Groom、1846年9月23日 - 1918年1月9日)は、幕末から明治にかけて日本で活躍したイギリス出身の実業家。六甲山の開発と景観保護に力を注ぎ、「六甲山開祖」と呼ばれた。

経歴 
1846年9月22日、イギリスのロンドン郊外で生まれた。トーマス・ブレーク・グラバーとともにグラバー商会を設立した兄のフランシス・グルームの勧めで同商会に勤務することになり、訪日。長崎での勤務を経て1868年4月に支店を開設するための出張員として開場したばかりの神戸外国人居留地を訪れた。
1870年にグラバー商会は倒産し、グルームは元同僚と共同出資して居留地101番地にモーリヤン・ハイマン商会を設立。日本茶の輸出、中国紅茶の輸入などを手掛けた。1883年には横浜居留地へ移住し、生糸の輸出を行ったが業績が思わしくなく、10年ほどで神戸へ引き返し居留地内播磨町34・35番地に商社を構え茶の輸出を続けた。
1897年、神戸外国人居留地内にあったオリエンタルホテルをエドワード・ハズレット・ハンターらと共同で買収し、社長に就任した。1908年には居留地6番地に同ホテルの新館を建設。ゲオルグ・デ・ラランデの設計したこの新館は「東洋一の洋館ホテル」と呼ばれ、高級ホテルとして繁盛した。しかし同時期に起こった恐慌のあおりを受けてオリエンタルホテルの経営状態は悪化し、1916年に経営権を日本人実業家の浅野総一郎に売却した。
1917年末、神戸外国倶楽部(神戸倶楽部)で開かれたクリスマスパーティーに出席したグルームは泥酔して玄関の石段で転倒し、脳震盪を起こした。翌1918年1月2日、同じ神戸倶楽部で開かれた新年会に出席したグルームはまたもや泥酔した挙句玄関の石段で転倒し、頭部を強打。傷口から破傷風に感染したことが原因で9日に死亡した。遺言により葬儀は仏式(日蓮宗)の家族葬で営まれ、遺体は火葬されて春日野墓地にあった妻の実家・宮崎家の墓に葬られた。戒名は英知院具理日夢居士。

六甲山の開発
グルームは六甲山の開発に力を注いだ。きっかけとなったのは五男がろう者であったことを趣味の狩猟で多くの動物を殺した報いと感じ、罪滅ぼしに狩猟をやめ、動物が多く住んだ六甲山の自然を守ろうとしたことにあったとされる。
1895年、グルームは長男亀次郎の名義で六甲山上の1万坪あまりの土地を畑原村など3つの村から納涼遊園場敷地として借りた。グルームはまず三国池付近の45坪ほどの土地に自分の別荘を建て、その後別荘地を外国人に分譲した。グルームが建てた別荘は六甲山上に建てられた最初の人家であり、「101番屋敷」「百壱」と呼ばれた。
グルームはスポーツマンとして知られ、神戸外国人居留地内に発足したスポーツクラブ(神戸クリケットクラブ・神戸レガッタアンドアスレチッククラブ(KRAC)の設立に深く関与していた。グルームはKRACに高齢のメンバーを勧誘するため、土地の安い六甲山にゴルフ場を建設することを思い立った。工事は1898年頃に開始され、1901年に4ホールのコースが完成した。このコースをもとに1903年、会員制のゴルフ場神戸ゴルフ倶楽部が発足した。
グルームは植林や桟道の整備開発に私財を投じ、六甲山が避暑地・リゾート地として繁栄する礎を築いた。明治末には建てられた別荘は60戸、住人の外国人は100人以上を数え、別荘地一帯は「神戸外国人村」と呼ばれた。六甲山を開発した功績からグルームは「六甲市長」と呼ばれた。

逸話
六甲山を巡って、グルームにはいくつかの逸話が残されている。
白髭神社の狐 
ある日、グルームは猟師に追われ別荘の敷地へ逃げ込んできた狐を匿った。狐は付近に住みつくようになり、グルームの膝の上で眠るほどに懐くようになった。狐はグルーム以外にはまったく懐かず、グルームが死ぬと姿を見せなくなった。1919年、グルームに匿われた狐が乗り移ったという男が中山手通に住んでいた家族のもとを訪れた。この出来事をきっかけに家族は六甲山に祠を作って狐を祀ることにした。グルームが匿った狐の尾が白かったことから祠は白髭神社と名付けられた。この祠は現在六甲山ホテルの西にある。
グルーム地蔵 
グルームがゴルフ場の建設工事を行っていた頃、外国人の子供が建設予定地の近くにあった地蔵にいたずらをして首を折った。グルームはこの地蔵に新しい首をつけて別荘内に安置するとともに、新しい地蔵を作って元の場所に置いた。この地蔵はグルーム地蔵と呼ばれ、後に近くから出た湧水は味が良いと評判になった。この湧水はグルームの末期の水に用いられた。
記念碑 
1911年、グルームの六甲山開発における功績をたたえて記念碑を建てる計画が持ち上がった。グルームは「私は神様ではない。死んでからにしてくれ」と断ったが計画は実行に移され、高さ3メートルの石碑「六甲山開祖之碑」が後に記念碑台と呼ばれるようになる山上に設置された。この石碑は太平洋戦争中の1942年に「敵国人の顕彰碑」として軍部の手によって破壊されたが、終戦後の1955年に「六甲山の碑」として再建された。
家族
グルームは神戸を訪れて間もなく、下宿先であった善照寺の住職・佐々木先住の紹介で大阪玉造の士族の娘、宮崎直と結婚した。夫婦仲は娘の柳が「50年一日の如く、いたわり合い信じ合っていた」と振り返るほど良好で、グルームがオリエンタルホテルの経営で苦しんだ際に直は手持ちの資産をすべて提供した。
夫婦の間には15人の子供が生まれ(うち6人は早世)、全員が妻の実家である宮崎姓を名乗った。
長男:亀次郎(1872年(明治5年) - 1931年(昭和6年)、神戸生まれ)
長女:千代(1874年(明治7年) - 1937年(昭和12年)、神戸生まれ)
次男:米吉(1880年(明治13年) - 1944年(昭和19年)、横浜生まれ)
三男:末吉(1883年(明治16年) - 1952年(昭和27年)、横浜生まれ)
四男:久吉(1885年(明治18年) - 1952年(昭和27年)、横浜生まれ)
次女:花(1887年(明治20年) - 1960年(昭和35年)、横浜生まれ)
五男:英悟(1888年(明治21年) - 1960年(昭和35年)、横浜生まれ)
六男:鶴之助(1890年(明治23年) - 1964年(昭和39年)、神戸生まれ)
三女:柳(りう)(1894年(明治27年) - 没年不詳(昭和)、神戸生まれ)
長男亀次郎は昭和6年に死んだが、次男の米吉夫妻が中心となって、六甲山の開発で追われた鳥獣虫・草木の慰霊を願った父の志を継ぎ、三国池の横道を登りつめた丘の上に、法華経8巻を納めたグルームの宝塔を立てた。その他グルームに関係する史跡として、前述の白髭神社、グルーム地蔵、チェンバー標識石がある。

この中で出てくる神戸外国倶楽部と言うのが現存する神戸にあるフリーメイスンリーのロッジで、イングランド系のRising Sun Lodge No. 1401とスコットランド系の Hiogo and Osaka No. 498が使っているそうです。Rising SunというとEXILEの曲であったような気が。1872年と1870年に結成されたそうで戦時下では一旦引き揚げたそうですが、戦後に継続しているので連続したものとしては最古のものになるのかと思います。神戸は横浜と並んで明治維新後よりフリーメイスンリーの盛んな土地で、現在日本グランドロッジの管轄下のものは京都で無くなってしまったそうですが、関西地域で今後増えることも予想されます。その中でアーサー・ヘスケス・グルームの逸話は非常に重要なものになるのではないかと思われます。

私は神戸は二度しか行った事がありませんが、二度とも六甲山に登りました。関西自体その他に大阪、淡路島に一度しか行ったことが無く、京都は二度くらい行きましたがあまり関西について詳しく知っているとは言えません。ただまあ有馬温泉でダライ・ラマの夢まで見たのはいい思い出でしょうか。二度目に行った3日後にアキレス腱を切ってしまいイギリスとフランスのグランドロッジに訪問する機会を逸してしまいました。

とまあ色々逸話の多い関西地域のフリーメイスンリーの話です。孝明天皇の死にまつわる逸話もあり次回より写真と共に見聞録をまとめたいと思います。


2012-02-13 10:40 | カテゴリ:神戸
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
大阪のシンボルと言えば大阪城でしょうか。豊臣時代の石垣は埋もれているそうですが、恐らく城郭の石垣としては最も大きな石が入り口付近にあります。徳川時代のものとされますが、大きな石は権力の象徴として豊臣時代の石垣から再利用されたと推測されます。(追記:どうも徳川時代に切り出したもののようです。豊臣時代のものへ見せつけたものでしょうか。)大きな石へのそれは西洋の優れた築城技術をキリシタンから学んだ豊臣秀吉の大陸や世界への憧れをそのまま反映したものかと思います。治世の途中からキリシタン弾圧を開始した秀吉ですが、信長後に日本統一を果たし、その過程で多くのキリシタン大名やイエズス会の宣教師と懇意にし、西洋の知識や知恵を利用したものと考えられます。漢字がほとんど書けなかった百姓出身の秀吉の人心をつかみ取る筆まめな様子が、数多く残された手紙から直接伝わってきます。関西の美意識、権力と政治に対する考え方が若干反映されているのではないでしょうか。秀吉がキリシタン弾圧を開始してすぐに亡くなられている事は後の孝明天皇や伊藤博文の死にも何やらつながりがありそうです。

私は行った事はないのですが通天閣というこれまた大阪の象徴とされる塔にあるビリケン様というのは実はフリーメイスンリーの象徴です。正確にはスコティッシュライトの32階級で構成されるシュライナーズというアメリカで有名な友愛団体の内に存在するRoyal Order of Jestersの象徴とされています。アメリカ人の芸術家の女性の夢に現れたのがこの形の悪魔のような子供のようなものだったのですが、これを神様として造形したようです。のちに当時の大統領のブラザーウィリアム・タフトの愛称をとってビリケンとしたようです。ピエロの図は以前ポール・マッカートニーが無意識に描いたものといったのが、テレビ東京の鑑定団で出ていたりしていましたが、関連あるかはわかりません。


通天閣のビリケン像


Royal Order of Jestersのピエロのマーク バットマンのロビンみたいですね。

さて明治維新に関わる関西の逸話と言えば緒方洪庵適々斎塾の話は欠かせません。私は手塚治虫の遺作である「陽だまりの樹」で知ったたちですが、福翁自伝や大阪大学医学部の関連で知った方も多いかと思います。(追記:手塚治虫については彼は大阪帝国大学附属医学専門部出身で大阪大学医学部とは直接関係ないようです。彼自身は外科の勉強をしたようです。平成元年に胃癌で亡くなられています。同じ遺作である「アドルフに告ぐ」ではヒトラーがユダヤ人であったというフィクションを題材にしています。その中で神戸のユダヤ人についての話があります。ライオンキングのオマージュは一つのディズニーやフリーメイスンリーの彼に対する評価であるかと考えます。)司馬遼太郎の作品にも良く出てきているようです。適塾の卒業生には後の陸軍軍医や、榎本武揚と共に戦った陸軍奉行の大鳥圭介、官軍の指揮官で後に日本陸軍を創設した大村益次郎、安政の大獄で処刑された橋本左内、慶應義塾の創始者の福沢諭吉、手塚治虫の曾祖父の手塚良仙らがおり、当時珍しかった蘭和辞典のヅーフ辞書があり、これの複写で生活費を稼ぐのが主な学生の勉強であったようで、その他は洪庵が訳したドイツの医師フーフェランドの内科学の著書の蘭語訳書の暗誦があったようです。その他は牛の解剖などやっていたようです。


緒方洪庵肖像


適々斎塾跡 周囲は中之島の南側のオフィス街で、銀行や保険会社のオフィスビルが立ち並びタイムスリップしたような印象です。地図で見ると今話題の大阪市役所の目の前に当たりますね。XPの大阪市です。



中庭もある勝手のいい作りになっており、集団生活であってもある程度快適に過ごせる作りになっています。当時の大阪商人たちのかなりの援助があったものと思われます。茶を大成した堺の商人の千利休などと同じく、いわゆる大阪商人のギルド、組合のようなものが積極的に当時の先進科学であった蘭学教育と蘭方医学に対して緒方洪庵個人を通して支援していた様子が想像されます。


ヅーフ辞書と塾生部屋の刀傷 辞書や百科事典の作成にはフリーメイスンリーの思想が強く反映されています。辞書を筆写することで学習する事は当時外国人と接する機会の極めて少なかった日本において可能な限られた外国文化の学習法であり、どれほどの効果があったかは不明ですがその後の彼らの活躍を見れば、学習の機会や姿勢、西洋文明に対する受容という点では当時における最高の学習法であった事は間違いなさそうです。

緒方洪庵自体は誰からも尊敬されて患者の評判も良く、また夫婦仲も良い家庭であったらしく、その雰囲気もヘボンの家庭のように同居人であった弟子たちに良い影響を与えたものかと考えられます。緒方洪庵の最大の業績はブラザージェンナーが発明した種痘の方法を種痘所を開設して行ったことで、これらは結局お玉が池種痘所となり、大阪大学医学部、東京大学医学部の元となったとされています。(追記:種痘を日本に伝えたオランダ人医師オットー・モーニッケはフリーメイスンかどうかはわかりませんが、博物学の本を残しているそうです。恐らくフリーメイスンではないでしょうか。)緒方洪庵が種痘を開始したのが1849年で、その後種痘は全国に広がりましたが、1862年に江戸城奥医師に任ぜられ江戸に上京して後すぐ1863年に喀血して死亡しました。恐らく結核だったのだと思います。色々な派閥争いがあったようで、種痘で全国的に名を売った緒方洪庵には敵が多かったようです。それから4年後の1867年に孝明天皇は天然痘で急死しており、当時の皇族は種痘を忌避していたものと考えられます。

ブラザージェンナーによる種痘はいわゆる牛飼いに伝わる天然痘よけに牛の天然痘にかかると人の天然痘に罹らないという言い伝えを実用化したもので、これに関連してか牛を神として崇める文化は旧約聖書にも異教として認められ、現在ではヒンドゥー教などで認められます。


ブラザーエドワード・ジェンナーの肖像画 彼は開業医でしたが種痘の業績により免疫学の祖とされています。
その他に医者や医学に貢献したフリーメイスンとしては有名なところで次の人々がいます。


マラーの死 ブラザージャン・ポール・マラーはジャコバン派の領袖であり開業医でした。彼はジャコバン派が権力を握っている時期に、自宅でアトピー性皮膚炎の治療のため入浴していたところを地方からわざわざ訪問した神がかりの女性に暗殺されました。


ブラザーサーアレキサンダー・フレミング 彼はペニシリンの発見によってノーベル医学生理学賞を受賞しました。抗菌薬の発見によって近代医学は劇的な進歩を遂げました。
近代外科学の手術を可能にした消毒の考えを著したブラザージョゼフ・リスターもフリーメイスンです。彼の名前を残した口腔消毒薬リステリンは有名ですね。その他アメリカの有名な病院であるメイヨークリニックの設立者(ブラザーウィリアム・メイヨー)もフリーメイスンでありました。フリーメイスンリーの世界に限れば医師であるブラザーアルバート・マッキーはフリーメイスンリーの辞書や歴史書を編纂し、フリーメイスンリーのシンボルや歴史を整理するのに貢献しました。

ブラザーエドワード・ジェンナーが始めた種痘によって、人類の長年の大きな敵であった天然痘は現在地球上に存在しません。かつてはアメリカ大陸でコロンブス以下のヨーロッパ人が持ち込み、多くのネイティブアメリカンがこの病気で死亡しました。(追記:ネイティブアメリカンは侵略者に喫煙の習慣を教えたそうです。喫煙による死亡者はご存じのとおりです。ネイティブアメリカンにもフリーメイスンが多数いるそうです。フリーメイスンの喫煙率も相当なものです。)

医学の歴史は旧約聖書のユダヤ人の戒律に認める通り宗教と科学の歴史そのものであり、解剖学、生理学を含めて今日のフリーメイスンリーの教えの体系の基礎を成すものでもあります。


2012-02-14 09:49 | カテゴリ:神戸
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
長崎は今日も雨だった

フリーメイスンリーの話題も所変われど中身は一緒なので横須賀の話を一通り読まれていれば神戸になってもほとんど内容は一緒です。恐らく世界中どこへ行っても同じだと思います。

やはり神戸も開港5港の一つであり、現在NHKで絶賛放映中の大河ドラマ「平清盛」である通り、神戸は平安時代より天然の良港として近畿圏の海運の中心であり、現在では神戸港や神戸空港や鉄道を中心に物流や人の流れが盛んです。外国人居留地がありましたのでやはり近代になり異国情緒豊かな東と西の邂逅が認められたわけです。

神戸にある東と西の邂逅、これは八景島シーパラダイスの水族館と、三浦海岸の公衆トイレで認められたずれたピラミッドのテーマでしたがこれとほとんど同じものが神戸にもありました。


神戸空港からすぐの神戸ポートピアホテル前にあるずれたピラミッドですね。
私はこのポートピアホテルは学会で行ったわけですが、大体ロータリークラブが定例会を開いておりました。タクシーの運転手さんに聞くとあまり年寄りは近付かないとか言っていました。もともとポートピアランドなどがあったのでしょうか。中の雰囲気はフリーメイスンリーについて知っているとすぐに関連が感じられる作りになっていました。八景島と同じく恐らく大阪城に徳川家茂がいて、御所に孝明天皇がいた第二次長州征伐の際に、四カ国連合艦隊の外国船が駐留したのがこのあたりだったのではないでしょうか。


隣にある国際展示場には明らかにヤキンとボアズの柱がありました。


ホール前には星印がたくさんあります。


ホテルの方はこんな感じみたいです。




シンボルが描かれた絵画があります。作者の方はフリーメイスンではないようです。(追記:石阪春生さんというそうです。)砂時計やグランドロッジのような建物が認められます。この他にもブラザーキップリングの名前を冠したブランドか店がありました。(追記:バッグのブランドで大丸で売っているようです。大丸は現在神戸外国人居留地跡にあります。東京だと東京駅でしょうか。)テーマはやはり東と西の邂逅のようです。


国際免疫学会だったのですね。基調講演だけ聴きました。MHC発見者のオーストラリアの外科医Peter C. Dohertyです。(2018/3/7追記:獣医師ですね。)この時の国際免疫学会の会長だったのでしょうか。ノーベル賞受賞者ですね。フリーメイスンかどうかは知りません。たぶんフリーメイスンじゃないでしょうか。


David Baltimoreです。ノーベル賞受賞者ですね。NIHの捏造騒ぎで法廷にも呼ばれたのでしょうか。奥さんが中国人ですがユダヤ人の人でフリーメイスンかもしれません。


岸本忠三先生ですね。IL-6を発見した大阪大学元総長です。
実は私の親戚にも西塚泰美先生という神戸大学の元学長がいてノーベル賞候補でしたが2004年に脳卒中で急逝されました。ノーベル賞受賞者には横須賀出身者もいて物理の小柴昌俊先生がそうですね。
この時に来ていた中でJules A. HoffmannとRalph M. SteinmanがTLRの発見で翌年のノーベル賞を受賞しました。


金聖響氏の指揮による大阪フィルハーモニー交響楽団のコンサートが行われました。
曲目は; グリンカ 歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲 ドヴォルザーク 交響曲第 9 番ホ短調「新世界より」op. 95だったようです。(追記:どちらもフリーメイスンのようです。)まあなんだかちょっと場違いな空気でしたね。


会場にいた世界中の免疫学者?もしくはその卵でしょうか。


日本の免疫学の歴史の展示


以前上野の国立科学博物館で展示されていたノーベル賞の本物の複製品 確か医科生理学賞のものではなかったかと思います。(追記:物理学、化学賞のもののようです。)ノーベル自身はフリーメイスンではなかったようですが、ノーベル財団のあるスウェーデンは国自体がフリーメイスンリーの国ですし、王立アカデミーもフリーメイスンリーの組織だと思います。学術の振興や学会組織の運営、学会の開催なども基本的には英国科学アカデミーで始まったフリーメイスンリーの思想を元にしています。日本では日本学士院なども最初のフリーメイスンであるブラザー西周やブラザー津田真道らによって設立されました。科学技術の発展は人類の未来に資するものであり、同時に人類の共有財産として適切に管理され維持されなければなりません。現代科学は常に政治や宗教と共に密接な関係を持っており、正しく健全な発展を必要としています。


会場を出るとずれたピラミッドの低い方に水が流れていました。水は日本のシンボルです。やはり低い方が日本側、東側なのですね。まだまだ高みは上にありそうです。


2012-02-15 10:29 | カテゴリ:神戸
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
私も実は二度しか神戸に行っておらず、二度とも有馬温泉に行ったため、実質三宮の駅周辺や元町商店街を歩いたのは半日くらいしかないのです。それなので神戸に何があるとかそういう事はその限りでしかわかりません。

とりあえず三宮の駅を出るとバラ園があってニワトリの風見鶏のシンボルがありました。


まあフリーメイスンリーのシンボルとしては十分なのですが、最近話題のような新宿みたいにピラミッドをあっちもこっちも立てるのとはやはり歴史が古いようでシンボルの見せ方も穏やかみたいです。そうは言っても関東大震災後の都市の直下型地震である阪神大震災を平成になって被災した神戸なわけで何かしらシンボルへのこだわりはあるものと思われます。関東大震災当時は横浜の外国人居留地などを含めてかなりのフリーメイスンリーの部分が神戸へ移動した歴史もあったようです。

さて神戸と言えば異人館と言うことでとりあえず最初は行ったわけですが人も少ないしあまり目立ったシンボルもとんがり屋根と風見鶏以外に認められないので帰ります。
北野町から下っていくとインド人などを見かけていきますが、あまり白人や黒人は多くありません。生田神社に参拝していきます。生田神社周辺は神戸の中心地と言う感じです。後で説明しますが昔の神戸外国倶楽部はこの辺にあった様で、大正時代くらいのロッジの住所はこの辺から西へ行ったところのNHKや神戸女子大大学院のあるところだったようです。

元町通り商店街は花時計や地球儀の地面のレリーフなどがあったと思います。一応フリーメイスンリーのシンボルともなります。(追記:花時計は最初に分類学の父リンネが作ったそうで、彼もフリーメイスンなんだと思います。確実にそうかどうかはわかりませんが、リンネの分類学の思想はフリーメイスンリーの科学思想の源流であるかと思います。神戸の花時計が日本最初だそうで、そういう意味で非常に意味深いシンボルなんだと思います。)ブラザーモーツァルトの名前を冠した店などが散見されたかと思います。結構長い商店街です。中華街も小規模ながら密集して活気のある感じでした。郵便局の横を抜けて旧外国人居留地の方に行く所でホテルかマンションのような新しい建物が屋根にピラミッドを多数つけていました。阪急などの方へ行く所で、モザイクという名のモールがあるようです。旧居留地の方へ行くと震災で石造りの古い建物は倒壊したものが多いらしく、元町駅の駅舎に遺構がなっていたりします。震災の後にマンションが増えたようでした。大丸の所まで行くと旧居留地で最初に目立つのはNTTの建物です。その他はブティックなどが並び特に目立ったシンボルのようなものはありませんでした。


メリケン波止場より旧居留地を望む
旧居留地で唯一シンボルらしいのはプラダの壁画だけでした。


縄の結び目はミラノの市章みたいですがフリーメイスンリーの友愛の象徴ですね。(追記:縄の結び目はイタリア統一運動で中心に活動したサヴォイア王家の紋章のようです。P2ロッジ事件でも名前が出てくるかと思います。)


生田神社裏中山手通りにある恐らく昔のロッジがあったあたりにある写真館の人形。
恐らく最初のロッジがあったという一番という意味ではないでしょうか。まあ普通の人には関係ありません。ここの北側には孫文の記念館などありこの地域がかつてのフリーメイスンリーの日本での活動の中心地の一つであった事が想像されます。現在の神戸外国倶楽部はここをさらに北上し北野町の少し閑静な所に入った関係者以外立ち入り禁止の敷地のカービーホールと言う所のようです。


メリケンパークの地図 直角定規などととれるのでしょうか。神戸ポートタワーはそのままシンボルだと思います。展望室ではテディベアとバラの絵柄のものを売っていました。映画の宇宙戦艦大和で使われた船など3つの船が展示してあったのはそのまま戦艦三笠と同じくノアの箱舟のシンボルだと思います。(追記:グーグルアースで見ると全体がチェッカーの模様になっていますね。)


神戸海洋博物館の形はシドニーのオペラハウスの様で恐らくシンボルなのだと思いますがちょっとわかりません。その前にある碇はシンボルとなりますが川崎重工のものではなく三菱重工のもののようです。横浜ロッジのホームページにありましたが何やらフリーメイスンが明治時代に作った神戸の造船ドックだか製鉄施設はその後川崎重工に取られてしまったとか歴史はあるみたいです。ちょっとかなり複雑みたいです。

メリケンパークにはちょっと変わった石の彫刻もありました。


淀川長治さんを記念したもののようです。パーフェクトアシュラーの空洞ですね。生涯独身で結婚せず映画を評論した淀川さんを象徴するものでしょうか。丸い磨かれた石は観客を意味するのでしょうか。


一応この二人はフリーメイスンです。たぶん本人たちとは直接関係ないものでしょう。


大きな魚の塑像と手前にある魚を狩る鷲の彫刻。出来たのは阪神大震災の前みたいです。
魚はキリスト教のシンボルでキリスト自身を表すものです。日本の魚食の習慣もありキリスト教化した日本を象徴するのかもしれません。手前の鷲が魚を狩る図はそのままの印象でアメリカが日本をキリスト教化した所で捕えると考えてよいのではないでしょうか。三笠公園の意味とほとんど同じかと思われます。シンボルの意味がこうして確認されることにもなるわけです。(追記:モザイクガーデンの信号所が三笠公園のマストに当たる十字になるのですね。全く一緒ですね。)


近くにあったメリケン地蔵尊 日本の伝統宗教の意地だと思われます。アーサー・ヘスケス・グルームの逸話を思い出させます。シンボルはどこでも同じ事です。


2012-02-16 11:06 | カテゴリ:神戸
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
神戸と言えば有馬温泉と言うことでフリーメイスンリーとは本質的には関係ありませんが、最初に泊まった「ねぎや陵楓閣」という所の前にはロータリークラブもあったりなんかして、まあ温泉と言うのは我が日本のフリーメイスンリーは親睦を兼ねて温泉旅行とか比較的多いようです。
そもそもフリーメイスンリー発祥の地イングランドではストーンヘンジの近くにローマ時代の温泉地バースなんてのもありまして、ローマ帝国では公衆浴場が一般的であったこともあり裸の付き合いということでReliefということにはなるのかと思います。(追記:バースには2005年から高級スパが開業しているそうです。お出かけの際にはぜひご利用ください。)ただ公衆浴場と言うのが欧米では一般的ではない事からあくまで日本的なものと言うことになるかと思います。

有馬温泉の由来がどうとかいう事はいろんなところに書かれていますし、あえて宣伝してもしょうがないので立ち寄り湯(金の湯、銀の湯)にあった由来の写真を載せます。


この中であえてフリーメイスンリーと関係ありそうな名前をあげれば孫文と蒋介石くらいですかねえ。二度目に泊まった旅館には細川護煕元首相の春暁の揮毫がありました。恐らく神戸にいたフリーメイスンや日本全国のフリーメイスンやロータリーやライオンズの人も大体一度は来てるんじゃないかというくらいな単に温泉として有名なんじゃないでしょうか。
まあ温泉観光地として面白かったのは太閤秀吉が作らせた露天風呂の遺構が残っていて、それが非常に粗末に見えるので天下とってもやっぱり娯楽はその位かって印象を持つくらいですかねえ。実際は金の茶室の人ですからそんなわけないでしょうが。


寺とか神社が多いですね。有名だから全国から人が来ますからやはり参拝客が多くなりますからね。教会はちょっとわかりませんでした。
道後温泉がここよりも古いところと言う事らしいですが温泉のお湯は毎日新しいものですからねえ。

こういう所へ来るとやはり歌とか俳句を詠みたくなりますね。

有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする 大弐三位

百人一首は欠かせませんね。

しなが鳥猪名野を来れば有馬山夕霧立ちぬ宿は無くて 万葉集

花吹雪兵衛の坊も御所坊も目におかずして空に渦巻く 与謝野晶子

有馬温泉は神戸からだと地下鉄と電車を乗り継いで3-40分でしょうか。間の風景が日本的でよろしいのではないでしょうか。個人的にはおみやげに売っている八つ橋に似てる金泉焼ってのはおいしかったですが、炭酸煎餅もポピュラーみたいです。松茸昆布なんかもあるようです。

これ以上有馬のネタはありません 小雀局


2012-02-17 10:52 | カテゴリ:神戸
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
正式には六甲有馬ロープウェーのようです。有馬温泉駅から極楽寺や温泉寺を越えて炭酸泉の源泉を上っていくとロープウェーの駅があります。途中には一時期テレビでも取り上げられた豪華なかんぽの宿もあります。


ロープウェーは若干高めの値段ですが面白そうなので乗る事にしましょう。


二度目に行った時にはこういうポスターがありました。最初に行った時は出来たばかりでした。


ロープウェーは乗客は多くなく手つかずの森が認められなかなかよい景色です。似たようなもので箱根のロープウェーもありますが、あちらは結構乗客も多く休日は大行列となったりします。赤松の森が認められます。




20分くらいでしょうか。六甲山山頂に到着します。なだらかな曲線の山々は関東のそれとは違い日本の絵画のイメージにあるような郷愁を思わせるのでしょうか。


山頂はこんな感じです。二度目に行った時は霧が濃かったです。奥にあるのが最初に行ったとき出来たばかりであった六甲枝垂れというランドマークです。出来たばかりの時は恐らく製作にかかわったようなロータリークラブかライオンズクラブの方々が大勢集まっていました。
まあ要するにこのブログのテーマであるフリーメイスンリーのシンボルですね。一体なんでしょう?

これは結構難しいのですがフリーメイスンであれば簡単です。これには今度の大統領選挙が関係しているようなのですがどうでしょうか。オバマ大統領の対立候補になりそうな共和党の有力候補のウィラード・ミット・ロムニー氏はモルモン教の信者という事です。モルモン教は1830年アメリカ合衆国にてブラザージョセフ・スミス・ジュニアによって立ち上げられた新興宗教で、世界まるごとハウマッチなどのテレビ番組で解答者になっていた外国人タレントなどがその信者で宣教師だったので有名でしょうか。モルモン教はかつて一夫多妻制で有名でしたが、現在はそのようなことはないようです。ユタ州ソルトレークシティーに本部がありかつてはブラザーサー・アーサー・コナン・ドイルの有名なシャーロック・ホームズシリーズの最初の作品であるA Study in Scarlet(緋色の研究)で取り上げられているように過激な活動で特殊な集団として認識されていた歴史があります。そのユタ州の州旗に同じフリーメイスンリーのシンボルが認められます。


真ん中にあるのがわかりますでしょうか。ミツバチの巣なのですがあまり見たことなければ分からないと思います。英語ではBeehiveとなりますが、フリーメイスンリーのマスターメイスン、共同で協力して作業する事のシンボルであり転じて工業や人間社会の発展のシンボルとなります。蜂蜜は古代エジプトで重要な食品や医薬品、ミイラを作るときに必要な材料であり、養蜂の技術は既に確立されていたそうです。糖分の貴重な時代ですから現代の最新の医薬品のような効果や秘薬として扱われたと考えられます。養蜂の技術はフリーメイスンリーでも重要とされ、養蜂に関する本を出したり現代の養蜂技術を確立された方はフリーメイスンのようです。Mason beeという蜂の種類もあるようです。最近でもアメリカでミツバチが突然絶滅するなどの話題がありました。ミツバチの蜜の収集に関する情報交換の研究でノーベル賞を受賞した方もいたかと思います。ファーブル昆虫記などの話と絡めて学校教育で学んだ記憶もあるのではないでしょうか。ファーブル昆虫記やシートン動物記のような生物の観察記録はフリーメイスンリーの科学思想と密接に関係するもので、彼らがフリーメイスンに近い存在であった事はあるようです。

まあ毎度毎度なのですが、ミツバチの巣がシンボルとしてある事はわかってもらっても、この六甲枝垂れがミツバチの巣のシンボルを示しているかはちょっとわからないかと思います。シンボルとはそういうものでありそれが秘密でもあります。それはやはり六甲山の開発の歴史とその後の神戸の発展、最近の阪神大震災の出来事などを理解して初めてシンボルとして認識されるものなのだと思います。


石ころ亭というお土産屋さんがありました。特にオベリスクとかピラミッドは売っていません。パーフェクトアシュラーも売ってはいません。なかなか関西流と言うか暗黙の了解という感じがなじんでる感じでしょうか。

次回更に詳しく六甲山頂のシンボルについてみていきます。


2012-02-18 07:59 | カテゴリ:その他 雑記
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
ブログもそのような感じです。そろそろ皆さんに提供するようなネタも枯れてきたので不定期になるかもしれません。何か質問や情報提供ありましたらお願いします。

このブログで触れた住友林業の魔笛の音を使ったCMが見なくなったのは残念です。
基本的にフリーメイスンリーのシンボリズムはその背景にある深い歴史とフリーメイスン達とそれ以前の人々の格闘の歴史を抱えていますから、暗黙の著作権というようなものがあります。安易に商業目的で利用する事は良い結果を生じません。日々勉強し階段を登り友と切磋琢磨しシンボルや儀式の意味を深く理解していって伝えていくという事になります。

安易な商業目的や利益目的には考えないようにしましょう。
2012-02-19 09:06 | カテゴリ:その他 雑記
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
休みなんでフリーメイスンリーとはあまり関係ないいい加減な話をします。

このブログでも少し触れましたが私はかつては免疫学をかじってやっていました。いろいろと煮詰まってきた学問ですが、やはりノーベル賞と絡めてピロリ菌による発がんやパピローマウイルスや肝がんなどウイルスと発癌のメカニズムは注目かと思われます。未知のウイルスについてはアメリカあたりは全て把握してしまっているようで一研究者レベルで出来ることはほとんどないかもしれません。慢性疲労症候群に関してレトロウイルス感染の論文が賑わせたのもついこの前の事かと思われます。

このブログの宣伝も含めて2ちゃんねるという某巨大掲示板では免疫学やフリーメイスンリーのテーマで匿名の書き込みでさまざまなやり取りが行われています。私自身も「小雀局」というハンドルネームを使用して日本のインターネット環境に画期的な影響を与えた事が約10年ほど前にありました。それから時代も様々に変化した事は実感されているかと思います。

ブログというものに対して私も当初は否定的でありました。しかしこの2か月弱の期間で確実に影響は認められるかと思います。情報発信の意味、そういったものを皆さんが実感され日々の生活の中で生かされていかれる事を期待します。
2012-02-20 15:09 | カテゴリ:神戸
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
六甲山頂のフリーメイスンリーのシンボルである六甲枝垂れの中はこんな感じです。
最初に行った時は完成直後だったらしく白木が非常にきれいでした。


お決まりの三階層のらせん構造になっています。


地下部分です。水琴になっているのでしょうか。非常によくわかりませんが、自然を感じるというのがコンセプトだったと思います。椅子部分に座ると冷たいとかそういうのだったと思います。


謎の番号があります。最初は神戸がロッジの一番だよと言うことかなとか想像してしましましたが、何やら番号が振ってあってそれぞれのテーマがある番地みたいなものみたいです。1の所は見晴らしがいいのかな。


棚田みたいになってる入り口です。解説を見ると氷を作るみたいです。天候によって色々違うみたいです。


隣にある六甲山ガーデンテラスの塔から六甲枝垂れをみるとこんな感じです。六角形の三つの建物がジンギスカン焼肉の店です。アンテナなどはよくわかりません。六甲山ガーデンテラスの方が六甲枝垂れより前にあるフリーメイスンリーのシンボルのようです。こんな感じの物見の塔があります。


物見の塔もフリーメイスンリーのシンボルのようです。新興宗教団体のエホバの証人、物見の塔の創始者もフリーメイスンと関わりがあるようです。公的には否定されているそうですが、エホバの証人の創始者Charles Taze Russellの墓の近くにはこんなピラミッドがエホバの証人によって建てられているそうです。


フリーメイスンリーの本にものみの塔がフリーメイスンリーのシンボルと言うのは出てきませんので、もしかするとエホバの証人がお金を出してこのシンボルを建築したのかもしれませんね。
六甲山ガーデンテラスはイギリスの建物をイメージしているようで、植木にバラを使っています。




バラがあるからフリーメイスンリーのシンボルと言うのはやや安易だと思いますが、塔の形とその他からシンボルかと思われます。
塔はこんな感じです。


やはりらせん構造になっています。


塔の上にはコンパスの図があります。これが重要になります。


塔からの眺め。霧が濃くて見えません。


塔から見た六甲山ガーデンテラスの全景はこんな感じです。眺めの良いカレーと紅茶の店があります。奥に見えるのが神戸ゴルフ倶楽部です。お土産屋ではローズの香りのするものを中心に、イギリス産のものを売っていました。カレー屋さんからの景色が素晴らしいので是非天気のいい日に行くとよいかと思われます。