FREEMASONRY
戦後に外国人が導入したように思いそうですが、実は明治時代にやってきています。
太平洋戦争のさなかでも近衛首相や天皇陛下はゴルフをしていたそうです。石川出身の某首相はそれで非難を浴びましたがまあ昔からあまり変わらないのですね。
さてテニスやゴルフ、ラグビーやサッカーなどイギリス発祥のスポーツは多いのですが、スポーツはそもそもオリンピックや世界大会に象徴されるように平和のための疑似戦争、一つの社交や外交の目的があります。その中でもゴルフはスコットランドの羊飼いが暇つぶしに始めたという起源もあるもので、ポロと並んでイギリス紳士の社交としての地位が高いかと思います。ゴルフの起源の地とされる全英オープン開催地のセント・アンドリュースはフリーメイスンリーのスコティッシュライトの29階位に聖アンドリューのスコットランド大騎士として認め、そもそも聖アンデレは12使徒の一人なわけですが、都市には美しい石造の建築が多く認められ、しかも現在は多くが廃墟になっているようですが、これらはスコットランド、イングランドが宗教や王権の争いの中で繰り返し激しい戦争が行われていた証しでもあり、またその中で実務的メイスンリー、いわゆる教会や城を建築する戦争や宗教の請負職人としての石工が活躍していた証しでもあります。
セントアンドリュースの風景 ウィキペディアよりそのまま借用です。
さて日本最初のゴルフコースですがそれは題名で示した通り神戸の六甲山中にあります。
作った方はアーサー・ヘスケス・グルームというイギリス人の方で、恐らくフリーメイスンだと思います。ブラザーグラバーの友人であったそうです。非常に興味深いので毎度毎度ですがウィキペディアを引用いたします。
アーサー・ヘスケス・グルーム(Arthur Hesketh Groom、1846年9月23日 - 1918年1月9日)は、幕末から明治にかけて日本で活躍したイギリス出身の実業家。六甲山の開発と景観保護に力を注ぎ、「六甲山開祖」と呼ばれた。
経歴
1846年9月22日、イギリスのロンドン郊外で生まれた。トーマス・ブレーク・グラバーとともにグラバー商会を設立した兄のフランシス・グルームの勧めで同商会に勤務することになり、訪日。長崎での勤務を経て1868年4月に支店を開設するための出張員として開場したばかりの神戸外国人居留地を訪れた。
1870年にグラバー商会は倒産し、グルームは元同僚と共同出資して居留地101番地にモーリヤン・ハイマン商会を設立。日本茶の輸出、中国紅茶の輸入などを手掛けた。1883年には横浜居留地へ移住し、生糸の輸出を行ったが業績が思わしくなく、10年ほどで神戸へ引き返し居留地内播磨町34・35番地に商社を構え茶の輸出を続けた。
1897年、神戸外国人居留地内にあったオリエンタルホテルをエドワード・ハズレット・ハンターらと共同で買収し、社長に就任した。1908年には居留地6番地に同ホテルの新館を建設。ゲオルグ・デ・ラランデの設計したこの新館は「東洋一の洋館ホテル」と呼ばれ、高級ホテルとして繁盛した。しかし同時期に起こった恐慌のあおりを受けてオリエンタルホテルの経営状態は悪化し、1916年に経営権を日本人実業家の浅野総一郎に売却した。
1917年末、神戸外国倶楽部(神戸倶楽部)で開かれたクリスマスパーティーに出席したグルームは泥酔して玄関の石段で転倒し、脳震盪を起こした。翌1918年1月2日、同じ神戸倶楽部で開かれた新年会に出席したグルームはまたもや泥酔した挙句玄関の石段で転倒し、頭部を強打。傷口から破傷風に感染したことが原因で9日に死亡した。遺言により葬儀は仏式(日蓮宗)の家族葬で営まれ、遺体は火葬されて春日野墓地にあった妻の実家・宮崎家の墓に葬られた。戒名は英知院具理日夢居士。
六甲山の開発
グルームは六甲山の開発に力を注いだ。きっかけとなったのは五男がろう者であったことを趣味の狩猟で多くの動物を殺した報いと感じ、罪滅ぼしに狩猟をやめ、動物が多く住んだ六甲山の自然を守ろうとしたことにあったとされる。
1895年、グルームは長男亀次郎の名義で六甲山上の1万坪あまりの土地を畑原村など3つの村から納涼遊園場敷地として借りた。グルームはまず三国池付近の45坪ほどの土地に自分の別荘を建て、その後別荘地を外国人に分譲した。グルームが建てた別荘は六甲山上に建てられた最初の人家であり、「101番屋敷」「百壱」と呼ばれた。
グルームはスポーツマンとして知られ、神戸外国人居留地内に発足したスポーツクラブ(神戸クリケットクラブ・神戸レガッタアンドアスレチッククラブ(KRAC)の設立に深く関与していた。グルームはKRACに高齢のメンバーを勧誘するため、土地の安い六甲山にゴルフ場を建設することを思い立った。工事は1898年頃に開始され、1901年に4ホールのコースが完成した。このコースをもとに1903年、会員制のゴルフ場神戸ゴルフ倶楽部が発足した。
グルームは植林や桟道の整備開発に私財を投じ、六甲山が避暑地・リゾート地として繁栄する礎を築いた。明治末には建てられた別荘は60戸、住人の外国人は100人以上を数え、別荘地一帯は「神戸外国人村」と呼ばれた。六甲山を開発した功績からグルームは「六甲市長」と呼ばれた。
逸話
六甲山を巡って、グルームにはいくつかの逸話が残されている。
白髭神社の狐
ある日、グルームは猟師に追われ別荘の敷地へ逃げ込んできた狐を匿った。狐は付近に住みつくようになり、グルームの膝の上で眠るほどに懐くようになった。狐はグルーム以外にはまったく懐かず、グルームが死ぬと姿を見せなくなった。1919年、グルームに匿われた狐が乗り移ったという男が中山手通に住んでいた家族のもとを訪れた。この出来事をきっかけに家族は六甲山に祠を作って狐を祀ることにした。グルームが匿った狐の尾が白かったことから祠は白髭神社と名付けられた。この祠は現在六甲山ホテルの西にある。
グルーム地蔵
グルームがゴルフ場の建設工事を行っていた頃、外国人の子供が建設予定地の近くにあった地蔵にいたずらをして首を折った。グルームはこの地蔵に新しい首をつけて別荘内に安置するとともに、新しい地蔵を作って元の場所に置いた。この地蔵はグルーム地蔵と呼ばれ、後に近くから出た湧水は味が良いと評判になった。この湧水はグルームの末期の水に用いられた。
記念碑
1911年、グルームの六甲山開発における功績をたたえて記念碑を建てる計画が持ち上がった。グルームは「私は神様ではない。死んでからにしてくれ」と断ったが計画は実行に移され、高さ3メートルの石碑「六甲山開祖之碑」が後に記念碑台と呼ばれるようになる山上に設置された。この石碑は太平洋戦争中の1942年に「敵国人の顕彰碑」として軍部の手によって破壊されたが、終戦後の1955年に「六甲山の碑」として再建された。
家族
グルームは神戸を訪れて間もなく、下宿先であった善照寺の住職・佐々木先住の紹介で大阪玉造の士族の娘、宮崎直と結婚した。夫婦仲は娘の柳が「50年一日の如く、いたわり合い信じ合っていた」と振り返るほど良好で、グルームがオリエンタルホテルの経営で苦しんだ際に直は手持ちの資産をすべて提供した。
夫婦の間には15人の子供が生まれ(うち6人は早世)、全員が妻の実家である宮崎姓を名乗った。
長男:亀次郎(1872年(明治5年) - 1931年(昭和6年)、神戸生まれ)
長女:千代(1874年(明治7年) - 1937年(昭和12年)、神戸生まれ)
次男:米吉(1880年(明治13年) - 1944年(昭和19年)、横浜生まれ)
三男:末吉(1883年(明治16年) - 1952年(昭和27年)、横浜生まれ)
四男:久吉(1885年(明治18年) - 1952年(昭和27年)、横浜生まれ)
次女:花(1887年(明治20年) - 1960年(昭和35年)、横浜生まれ)
五男:英悟(1888年(明治21年) - 1960年(昭和35年)、横浜生まれ)
六男:鶴之助(1890年(明治23年) - 1964年(昭和39年)、神戸生まれ)
三女:柳(りう)(1894年(明治27年) - 没年不詳(昭和)、神戸生まれ)
長男亀次郎は昭和6年に死んだが、次男の米吉夫妻が中心となって、六甲山の開発で追われた鳥獣虫・草木の慰霊を願った父の志を継ぎ、三国池の横道を登りつめた丘の上に、法華経8巻を納めたグルームの宝塔を立てた。その他グルームに関係する史跡として、前述の白髭神社、グルーム地蔵、チェンバー標識石がある。
この中で出てくる神戸外国倶楽部と言うのが現存する神戸にあるフリーメイスンリーのロッジで、イングランド系のRising Sun Lodge No. 1401とスコットランド系の Hiogo and Osaka No. 498が使っているそうです。Rising SunというとEXILEの曲であったような気が。1872年と1870年に結成されたそうで戦時下では一旦引き揚げたそうですが、戦後に継続しているので連続したものとしては最古のものになるのかと思います。神戸は横浜と並んで明治維新後よりフリーメイスンリーの盛んな土地で、現在日本グランドロッジの管轄下のものは京都で無くなってしまったそうですが、関西地域で今後増えることも予想されます。その中でアーサー・ヘスケス・グルームの逸話は非常に重要なものになるのではないかと思われます。
私は神戸は二度しか行った事がありませんが、二度とも六甲山に登りました。関西自体その他に大阪、淡路島に一度しか行ったことが無く、京都は二度くらい行きましたがあまり関西について詳しく知っているとは言えません。ただまあ有馬温泉でダライ・ラマの夢まで見たのはいい思い出でしょうか。二度目に行った3日後にアキレス腱を切ってしまいイギリスとフランスのグランドロッジに訪問する機会を逸してしまいました。
とまあ色々逸話の多い関西地域のフリーメイスンリーの話です。孝明天皇の死にまつわる逸話もあり次回より写真と共に見聞録をまとめたいと思います。
私は行った事はないのですが通天閣というこれまた大阪の象徴とされる塔にあるビリケン様というのは実はフリーメイスンリーの象徴です。正確にはスコティッシュライトの32階級で構成されるシュライナーズというアメリカで有名な友愛団体の内に存在するRoyal Order of Jestersの象徴とされています。アメリカ人の芸術家の女性の夢に現れたのがこの形の悪魔のような子供のようなものだったのですが、これを神様として造形したようです。のちに当時の大統領のブラザーウィリアム・タフトの愛称をとってビリケンとしたようです。ピエロの図は以前ポール・マッカートニーが無意識に描いたものといったのが、テレビ東京の鑑定団で出ていたりしていましたが、関連あるかはわかりません。
Royal Order of Jestersのピエロのマーク バットマンのロビンみたいですね。
さて明治維新に関わる関西の逸話と言えば緒方洪庵の適々斎塾の話は欠かせません。私は手塚治虫の遺作である「陽だまりの樹」で知ったたちですが、福翁自伝や大阪大学医学部の関連で知った方も多いかと思います。(追記:手塚治虫については彼は大阪帝国大学附属医学専門部出身で大阪大学医学部とは直接関係ないようです。彼自身は外科の勉強をしたようです。平成元年に胃癌で亡くなられています。同じ遺作である「アドルフに告ぐ」ではヒトラーがユダヤ人であったというフィクションを題材にしています。その中で神戸のユダヤ人についての話があります。ライオンキングのオマージュは一つのディズニーやフリーメイスンリーの彼に対する評価であるかと考えます。)司馬遼太郎の作品にも良く出てきているようです。適塾の卒業生には後の陸軍軍医や、榎本武揚と共に戦った陸軍奉行の大鳥圭介、官軍の指揮官で後に日本陸軍を創設した大村益次郎、安政の大獄で処刑された橋本左内、慶應義塾の創始者の福沢諭吉、手塚治虫の曾祖父の手塚良仙らがおり、当時珍しかった蘭和辞典のヅーフ辞書があり、これの複写で生活費を稼ぐのが主な学生の勉強であったようで、その他は洪庵が訳したドイツの医師フーフェランドの内科学の著書の蘭語訳書の暗誦があったようです。その他は牛の解剖などやっていたようです。
適々斎塾跡 周囲は中之島の南側のオフィス街で、銀行や保険会社のオフィスビルが立ち並びタイムスリップしたような印象です。地図で見ると今話題の大阪市役所の目の前に当たりますね。XPの大阪市です。
中庭もある勝手のいい作りになっており、集団生活であってもある程度快適に過ごせる作りになっています。当時の大阪商人たちのかなりの援助があったものと思われます。茶を大成した堺の商人の千利休などと同じく、いわゆる大阪商人のギルド、組合のようなものが積極的に当時の先進科学であった蘭学教育と蘭方医学に対して緒方洪庵個人を通して支援していた様子が想像されます。
ヅーフ辞書と塾生部屋の刀傷 辞書や百科事典の作成にはフリーメイスンリーの思想が強く反映されています。辞書を筆写することで学習する事は当時外国人と接する機会の極めて少なかった日本において可能な限られた外国文化の学習法であり、どれほどの効果があったかは不明ですがその後の彼らの活躍を見れば、学習の機会や姿勢、西洋文明に対する受容という点では当時における最高の学習法であった事は間違いなさそうです。
緒方洪庵自体は誰からも尊敬されて患者の評判も良く、また夫婦仲も良い家庭であったらしく、その雰囲気もヘボンの家庭のように同居人であった弟子たちに良い影響を与えたものかと考えられます。緒方洪庵の最大の業績はブラザージェンナーが発明した種痘の方法を種痘所を開設して行ったことで、これらは結局お玉が池種痘所となり、大阪大学医学部、東京大学医学部の元となったとされています。(追記:種痘を日本に伝えたオランダ人医師オットー・モーニッケはフリーメイスンかどうかはわかりませんが、博物学の本を残しているそうです。恐らくフリーメイスンではないでしょうか。)緒方洪庵が種痘を開始したのが1849年で、その後種痘は全国に広がりましたが、1862年に江戸城奥医師に任ぜられ江戸に上京して後すぐ1863年に喀血して死亡しました。恐らく結核だったのだと思います。色々な派閥争いがあったようで、種痘で全国的に名を売った緒方洪庵には敵が多かったようです。それから4年後の1867年に孝明天皇は天然痘で急死しており、当時の皇族は種痘を忌避していたものと考えられます。
ブラザージェンナーによる種痘はいわゆる牛飼いに伝わる天然痘よけに牛の天然痘にかかると人の天然痘に罹らないという言い伝えを実用化したもので、これに関連してか牛を神として崇める文化は旧約聖書にも異教として認められ、現在ではヒンドゥー教などで認められます。
ブラザーエドワード・ジェンナーの肖像画 彼は開業医でしたが種痘の業績により免疫学の祖とされています。
その他に医者や医学に貢献したフリーメイスンとしては有名なところで次の人々がいます。
マラーの死 ブラザージャン・ポール・マラーはジャコバン派の領袖であり開業医でした。彼はジャコバン派が権力を握っている時期に、自宅でアトピー性皮膚炎の治療のため入浴していたところを地方からわざわざ訪問した神がかりの女性に暗殺されました。
ブラザーサーアレキサンダー・フレミング 彼はペニシリンの発見によってノーベル医学生理学賞を受賞しました。抗菌薬の発見によって近代医学は劇的な進歩を遂げました。
近代外科学の手術を可能にした消毒の考えを著したブラザージョゼフ・リスターもフリーメイスンです。彼の名前を残した口腔消毒薬リステリンは有名ですね。その他アメリカの有名な病院であるメイヨークリニックの設立者(ブラザーウィリアム・メイヨー)もフリーメイスンでありました。フリーメイスンリーの世界に限れば医師であるブラザーアルバート・マッキーはフリーメイスンリーの辞書や歴史書を編纂し、フリーメイスンリーのシンボルや歴史を整理するのに貢献しました。
ブラザーエドワード・ジェンナーが始めた種痘によって、人類の長年の大きな敵であった天然痘は現在地球上に存在しません。かつてはアメリカ大陸でコロンブス以下のヨーロッパ人が持ち込み、多くのネイティブアメリカンがこの病気で死亡しました。(追記:ネイティブアメリカンは侵略者に喫煙の習慣を教えたそうです。喫煙による死亡者はご存じのとおりです。ネイティブアメリカンにもフリーメイスンが多数いるそうです。フリーメイスンの喫煙率も相当なものです。)
医学の歴史は旧約聖書のユダヤ人の戒律に認める通り宗教と科学の歴史そのものであり、解剖学、生理学を含めて今日のフリーメイスンリーの教えの体系の基礎を成すものでもあります。
フリーメイスンリーの話題も所変われど中身は一緒なので横須賀の話を一通り読まれていれば神戸になってもほとんど内容は一緒です。恐らく世界中どこへ行っても同じだと思います。
やはり神戸も開港5港の一つであり、現在NHKで絶賛放映中の大河ドラマ「平清盛」である通り、神戸は平安時代より天然の良港として近畿圏の海運の中心であり、現在では神戸港や神戸空港や鉄道を中心に物流や人の流れが盛んです。外国人居留地がありましたのでやはり近代になり異国情緒豊かな東と西の邂逅が認められたわけです。
神戸にある東と西の邂逅、これは八景島シーパラダイスの水族館と、三浦海岸の公衆トイレで認められたずれたピラミッドのテーマでしたがこれとほとんど同じものが神戸にもありました。
神戸空港からすぐの神戸ポートピアホテル前にあるずれたピラミッドですね。
私はこのポートピアホテルは学会で行ったわけですが、大体ロータリークラブが定例会を開いておりました。タクシーの運転手さんに聞くとあまり年寄りは近付かないとか言っていました。もともとポートピアランドなどがあったのでしょうか。中の雰囲気はフリーメイスンリーについて知っているとすぐに関連が感じられる作りになっていました。八景島と同じく恐らく大阪城に徳川家茂がいて、御所に孝明天皇がいた第二次長州征伐の際に、四カ国連合艦隊の外国船が駐留したのがこのあたりだったのではないでしょうか。
隣にある国際展示場には明らかにヤキンとボアズの柱がありました。
シンボルが描かれた絵画があります。作者の方はフリーメイスンではないようです。(追記:石阪春生さんというそうです。)砂時計やグランドロッジのような建物が認められます。この他にもブラザーキップリングの名前を冠したブランドか店がありました。(追記:バッグのブランドで大丸で売っているようです。大丸は現在神戸外国人居留地跡にあります。東京だと東京駅でしょうか。)テーマはやはり東と西の邂逅のようです。
国際免疫学会だったのですね。基調講演だけ聴きました。MHC発見者のオーストラリアの外科医Peter C. Dohertyです。(2018/3/7追記:獣医師ですね。)この時の国際免疫学会の会長だったのでしょうか。ノーベル賞受賞者ですね。フリーメイスンかどうかは知りません。たぶんフリーメイスンじゃないでしょうか。
David Baltimoreです。ノーベル賞受賞者ですね。NIHの捏造騒ぎで法廷にも呼ばれたのでしょうか。奥さんが中国人ですがユダヤ人の人でフリーメイスンかもしれません。
岸本忠三先生ですね。IL-6を発見した大阪大学元総長です。
実は私の親戚にも西塚泰美先生という神戸大学の元学長がいてノーベル賞候補でしたが2004年に脳卒中で急逝されました。ノーベル賞受賞者には横須賀出身者もいて物理の小柴昌俊先生がそうですね。
この時に来ていた中でJules A. HoffmannとRalph M. SteinmanがTLRの発見で翌年のノーベル賞を受賞しました。
金聖響氏の指揮による大阪フィルハーモニー交響楽団のコンサートが行われました。
曲目は; グリンカ 歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲 ドヴォルザーク 交響曲第 9 番ホ短調「新世界より」op. 95だったようです。(追記:どちらもフリーメイスンのようです。)まあなんだかちょっと場違いな空気でしたね。
以前上野の国立科学博物館で展示されていたノーベル賞の本物の複製品 確か医科生理学賞のものではなかったかと思います。(追記:物理学、化学賞のもののようです。)ノーベル自身はフリーメイスンではなかったようですが、ノーベル財団のあるスウェーデンは国自体がフリーメイスンリーの国ですし、王立アカデミーもフリーメイスンリーの組織だと思います。学術の振興や学会組織の運営、学会の開催なども基本的には英国科学アカデミーで始まったフリーメイスンリーの思想を元にしています。日本では日本学士院なども最初のフリーメイスンであるブラザー西周やブラザー津田真道らによって設立されました。科学技術の発展は人類の未来に資するものであり、同時に人類の共有財産として適切に管理され維持されなければなりません。現代科学は常に政治や宗教と共に密接な関係を持っており、正しく健全な発展を必要としています。
会場を出るとずれたピラミッドの低い方に水が流れていました。水は日本のシンボルです。やはり低い方が日本側、東側なのですね。まだまだ高みは上にありそうです。
とりあえず三宮の駅を出るとバラ園があってニワトリの風見鶏のシンボルがありました。
まあフリーメイスンリーのシンボルとしては十分なのですが、最近話題のような新宿みたいにピラミッドをあっちもこっちも立てるのとはやはり歴史が古いようでシンボルの見せ方も穏やかみたいです。そうは言っても関東大震災後の都市の直下型地震である阪神大震災を平成になって被災した神戸なわけで何かしらシンボルへのこだわりはあるものと思われます。関東大震災当時は横浜の外国人居留地などを含めてかなりのフリーメイスンリーの部分が神戸へ移動した歴史もあったようです。
さて神戸と言えば異人館と言うことでとりあえず最初は行ったわけですが人も少ないしあまり目立ったシンボルもとんがり屋根と風見鶏以外に認められないので帰ります。
北野町から下っていくとインド人などを見かけていきますが、あまり白人や黒人は多くありません。生田神社に参拝していきます。生田神社周辺は神戸の中心地と言う感じです。後で説明しますが昔の神戸外国倶楽部はこの辺にあった様で、大正時代くらいのロッジの住所はこの辺から西へ行ったところのNHKや神戸女子大大学院のあるところだったようです。
元町通り商店街は花時計や地球儀の地面のレリーフなどがあったと思います。一応フリーメイスンリーのシンボルともなります。(追記:花時計は最初に分類学の父リンネが作ったそうで、彼もフリーメイスンなんだと思います。確実にそうかどうかはわかりませんが、リンネの分類学の思想はフリーメイスンリーの科学思想の源流であるかと思います。神戸の花時計が日本最初だそうで、そういう意味で非常に意味深いシンボルなんだと思います。)ブラザーモーツァルトの名前を冠した店などが散見されたかと思います。結構長い商店街です。中華街も小規模ながら密集して活気のある感じでした。郵便局の横を抜けて旧外国人居留地の方に行く所でホテルかマンションのような新しい建物が屋根にピラミッドを多数つけていました。阪急などの方へ行く所で、モザイクという名のモールがあるようです。旧居留地の方へ行くと震災で石造りの古い建物は倒壊したものが多いらしく、元町駅の駅舎に遺構がなっていたりします。震災の後にマンションが増えたようでした。大丸の所まで行くと旧居留地で最初に目立つのはNTTの建物です。その他はブティックなどが並び特に目立ったシンボルのようなものはありませんでした。
メリケン波止場より旧居留地を望む
旧居留地で唯一シンボルらしいのはプラダの壁画だけでした。
縄の結び目はミラノの市章みたいですがフリーメイスンリーの友愛の象徴ですね。(追記:縄の結び目はイタリア統一運動で中心に活動したサヴォイア王家の紋章のようです。P2ロッジ事件でも名前が出てくるかと思います。)
生田神社裏中山手通りにある恐らく昔のロッジがあったあたりにある写真館の人形。
恐らく最初のロッジがあったという一番という意味ではないでしょうか。まあ普通の人には関係ありません。ここの北側には孫文の記念館などありこの地域がかつてのフリーメイスンリーの日本での活動の中心地の一つであった事が想像されます。現在の神戸外国倶楽部はここをさらに北上し北野町の少し閑静な所に入った関係者以外立ち入り禁止の敷地のカービーホールと言う所のようです。
メリケンパークの地図 直角定規などととれるのでしょうか。神戸ポートタワーはそのままシンボルだと思います。展望室ではテディベアとバラの絵柄のものを売っていました。映画の宇宙戦艦大和で使われた船など3つの船が展示してあったのはそのまま戦艦三笠と同じくノアの箱舟のシンボルだと思います。(追記:グーグルアースで見ると全体がチェッカーの模様になっていますね。)
神戸海洋博物館の形はシドニーのオペラハウスの様で恐らくシンボルなのだと思いますがちょっとわかりません。その前にある碇はシンボルとなりますが川崎重工のものではなく三菱重工のもののようです。横浜ロッジのホームページにありましたが何やらフリーメイスンが明治時代に作った神戸の造船ドックだか製鉄施設はその後川崎重工に取られてしまったとか歴史はあるみたいです。ちょっとかなり複雑みたいです。
メリケンパークにはちょっと変わった石の彫刻もありました。
淀川長治さんを記念したもののようです。パーフェクトアシュラーの空洞ですね。生涯独身で結婚せず映画を評論した淀川さんを象徴するものでしょうか。丸い磨かれた石は観客を意味するのでしょうか。
一応この二人はフリーメイスンです。たぶん本人たちとは直接関係ないものでしょう。
大きな魚の塑像と手前にある魚を狩る鷲の彫刻。出来たのは阪神大震災の前みたいです。
魚はキリスト教のシンボルでキリスト自身を表すものです。日本の魚食の習慣もありキリスト教化した日本を象徴するのかもしれません。手前の鷲が魚を狩る図はそのままの印象でアメリカが日本をキリスト教化した所で捕えると考えてよいのではないでしょうか。三笠公園の意味とほとんど同じかと思われます。シンボルの意味がこうして確認されることにもなるわけです。(追記:モザイクガーデンの信号所が三笠公園のマストに当たる十字になるのですね。全く一緒ですね。)
近くにあったメリケン地蔵尊 日本の伝統宗教の意地だと思われます。アーサー・ヘスケス・グルームの逸話を思い出させます。シンボルはどこでも同じ事です。
そもそもフリーメイスンリー発祥の地イングランドではストーンヘンジの近くにローマ時代の温泉地バースなんてのもありまして、ローマ帝国では公衆浴場が一般的であったこともあり裸の付き合いということでReliefということにはなるのかと思います。(追記:バースには2005年から高級スパが開業しているそうです。お出かけの際にはぜひご利用ください。)ただ公衆浴場と言うのが欧米では一般的ではない事からあくまで日本的なものと言うことになるかと思います。
有馬温泉の由来がどうとかいう事はいろんなところに書かれていますし、あえて宣伝してもしょうがないので立ち寄り湯(金の湯、銀の湯)にあった由来の写真を載せます。
この中であえてフリーメイスンリーと関係ありそうな名前をあげれば孫文と蒋介石くらいですかねえ。二度目に泊まった旅館には細川護煕元首相の春暁の揮毫がありました。恐らく神戸にいたフリーメイスンや日本全国のフリーメイスンやロータリーやライオンズの人も大体一度は来てるんじゃないかというくらいな単に温泉として有名なんじゃないでしょうか。
まあ温泉観光地として面白かったのは太閤秀吉が作らせた露天風呂の遺構が残っていて、それが非常に粗末に見えるので天下とってもやっぱり娯楽はその位かって印象を持つくらいですかねえ。実際は金の茶室の人ですからそんなわけないでしょうが。
寺とか神社が多いですね。有名だから全国から人が来ますからやはり参拝客が多くなりますからね。教会はちょっとわかりませんでした。
道後温泉がここよりも古いところと言う事らしいですが温泉のお湯は毎日新しいものですからねえ。
こういう所へ来るとやはり歌とか俳句を詠みたくなりますね。
有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする 大弐三位
百人一首は欠かせませんね。
しなが鳥猪名野を来れば有馬山夕霧立ちぬ宿は無くて 万葉集
花吹雪兵衛の坊も御所坊も目におかずして空に渦巻く 与謝野晶子
有馬温泉は神戸からだと地下鉄と電車を乗り継いで3-40分でしょうか。間の風景が日本的でよろしいのではないでしょうか。個人的にはおみやげに売っている八つ橋に似てる金泉焼ってのはおいしかったですが、炭酸煎餅もポピュラーみたいです。松茸昆布なんかもあるようです。
これ以上有馬のネタはありません 小雀局
ロープウェーは若干高めの値段ですが面白そうなので乗る事にしましょう。
二度目に行った時にはこういうポスターがありました。最初に行った時は出来たばかりでした。
ロープウェーは乗客は多くなく手つかずの森が認められなかなかよい景色です。似たようなもので箱根のロープウェーもありますが、あちらは結構乗客も多く休日は大行列となったりします。赤松の森が認められます。
20分くらいでしょうか。六甲山山頂に到着します。なだらかな曲線の山々は関東のそれとは違い日本の絵画のイメージにあるような郷愁を思わせるのでしょうか。
山頂はこんな感じです。二度目に行った時は霧が濃かったです。奥にあるのが最初に行ったとき出来たばかりであった六甲枝垂れというランドマークです。出来たばかりの時は恐らく製作にかかわったようなロータリークラブかライオンズクラブの方々が大勢集まっていました。
まあ要するにこのブログのテーマであるフリーメイスンリーのシンボルですね。一体なんでしょう?
これは結構難しいのですがフリーメイスンであれば簡単です。これには今度の大統領選挙が関係しているようなのですがどうでしょうか。オバマ大統領の対立候補になりそうな共和党の有力候補のウィラード・ミット・ロムニー氏はモルモン教の信者という事です。モルモン教は1830年アメリカ合衆国にてブラザージョセフ・スミス・ジュニアによって立ち上げられた新興宗教で、世界まるごとハウマッチなどのテレビ番組で解答者になっていた外国人タレントなどがその信者で宣教師だったので有名でしょうか。モルモン教はかつて一夫多妻制で有名でしたが、現在はそのようなことはないようです。ユタ州ソルトレークシティーに本部がありかつてはブラザーサー・アーサー・コナン・ドイルの有名なシャーロック・ホームズシリーズの最初の作品であるA Study in Scarlet(緋色の研究)で取り上げられているように過激な活動で特殊な集団として認識されていた歴史があります。そのユタ州の州旗に同じフリーメイスンリーのシンボルが認められます。
真ん中にあるのがわかりますでしょうか。ミツバチの巣なのですがあまり見たことなければ分からないと思います。英語ではBeehiveとなりますが、フリーメイスンリーのマスターメイスン、共同で協力して作業する事のシンボルであり転じて工業や人間社会の発展のシンボルとなります。蜂蜜は古代エジプトで重要な食品や医薬品、ミイラを作るときに必要な材料であり、養蜂の技術は既に確立されていたそうです。糖分の貴重な時代ですから現代の最新の医薬品のような効果や秘薬として扱われたと考えられます。養蜂の技術はフリーメイスンリーでも重要とされ、養蜂に関する本を出したり現代の養蜂技術を確立された方はフリーメイスンのようです。Mason beeという蜂の種類もあるようです。最近でもアメリカでミツバチが突然絶滅するなどの話題がありました。ミツバチの蜜の収集に関する情報交換の研究でノーベル賞を受賞した方もいたかと思います。ファーブル昆虫記などの話と絡めて学校教育で学んだ記憶もあるのではないでしょうか。ファーブル昆虫記やシートン動物記のような生物の観察記録はフリーメイスンリーの科学思想と密接に関係するもので、彼らがフリーメイスンに近い存在であった事はあるようです。
まあ毎度毎度なのですが、ミツバチの巣がシンボルとしてある事はわかってもらっても、この六甲枝垂れがミツバチの巣のシンボルを示しているかはちょっとわからないかと思います。シンボルとはそういうものでありそれが秘密でもあります。それはやはり六甲山の開発の歴史とその後の神戸の発展、最近の阪神大震災の出来事などを理解して初めてシンボルとして認識されるものなのだと思います。
石ころ亭というお土産屋さんがありました。特にオベリスクとかピラミッドは売っていません。パーフェクトアシュラーも売ってはいません。なかなか関西流と言うか暗黙の了解という感じがなじんでる感じでしょうか。
最初に行った時は完成直後だったらしく白木が非常にきれいでした。
地下部分です。水琴になっているのでしょうか。非常によくわかりませんが、自然を感じるというのがコンセプトだったと思います。椅子部分に座ると冷たいとかそういうのだったと思います。
謎の番号があります。最初は神戸がロッジの一番だよと言うことかなとか想像してしましましたが、何やら番号が振ってあってそれぞれのテーマがある番地みたいなものみたいです。1の所は見晴らしがいいのかな。
棚田みたいになってる入り口です。解説を見ると氷を作るみたいです。天候によって色々違うみたいです。
隣にある六甲山ガーデンテラスの塔から六甲枝垂れをみるとこんな感じです。六角形の三つの建物がジンギスカン焼肉の店です。アンテナなどはよくわかりません。六甲山ガーデンテラスの方が六甲枝垂れより前にあるフリーメイスンリーのシンボルのようです。こんな感じの物見の塔があります。
物見の塔もフリーメイスンリーのシンボルのようです。新興宗教団体のエホバの証人、物見の塔の創始者もフリーメイスンと関わりがあるようです。公的には否定されているそうですが、エホバの証人の創始者Charles Taze Russellの墓の近くにはこんなピラミッドがエホバの証人によって建てられているそうです。
フリーメイスンリーの本にものみの塔がフリーメイスンリーのシンボルと言うのは出てきませんので、もしかするとエホバの証人がお金を出してこのシンボルを建築したのかもしれませんね。
六甲山ガーデンテラスはイギリスの建物をイメージしているようで、植木にバラを使っています。
バラがあるからフリーメイスンリーのシンボルと言うのはやや安易だと思いますが、塔の形とその他からシンボルかと思われます。
塔はこんな感じです。
塔から見た六甲山ガーデンテラスの全景はこんな感じです。眺めの良いカレーと紅茶の店があります。奥に見えるのが神戸ゴルフ倶楽部です。お土産屋ではローズの香りのするものを中心に、イギリス産のものを売っていました。カレー屋さんからの景色が素晴らしいので是非天気のいい日に行くとよいかと思われます。
六甲枝垂れの横のリフトで移動すると六甲山カンツリーハウスになります。
これはあまり関係ない六甲枝垂れからの景色ですね。二度目に行った時で霧は濃いながらも山下の景色はよく見えました。
ローズウォークというバラ園があります。品種が非常に多く珍しいものが多い印象です。かなり力の入ったバラ園ですが来園者が少なそうです。フランス関係とイギリス関係の名前が多いです。バラは肥料が相当必要なので維持費が高そうです。
人工降雪用の小規模スキー場もあります。リフトもあります。ゴーカートやバーベキュー場、釣り堀などもあり時期によるでしょうが家族連れが一日いても飽きないようになっています。
バラ園がフリーメイスンリーのシンボルっぽいですが、それ以外はバーベキューとかでしょうか。
六甲山ガーデンテラスからの景色です。グラニットカフェというカレーと紅茶のお店からの景色と塔からの景色です。神戸ゴルフ倶楽部の全景と瀬戸内海神戸港、西宮、大阪港が一望できます。比較的すいていますが天気のいい日は多いのではないでしょうか。景色もお店もすばらしいです。
関西はやはり関東に比べて文化も深みが違うし時間の流れも少しゆっくりで優雅な感じです。ただしフリーメイスンリーに限って言えばやはり外来の文化で保守的な関西ではかなり目立たない感じのシンボルになっている様です。
神戸のシンボルは今回で終了です。他にも何かありましたら教えてください。
このブログを通して知った神戸出身の赤間剛と言う方の著作もいくつか読みました。フリーメーソンの秘密などはかなり詳しく、現在の日本の陰謀論やフリーメイスンリーに関する知識の全て元になっているようでした。ロストシンボルと合わせて教科書のようなものと思われます。