FREEMASONRY
ええと、福岡へは学会の後で単身赴任中の家族を見に行ったわけです。
観光旅行といえ大変でした。こんなところで報告する事になるとは夢にも思いませんでした。
福岡についてはこれまで行った事はなく初めてで、たいして基礎知識もありませんでした。
ただ一点、フリーメイスンリーに関してだけは注目していました。
一応黒田官兵衛については、最初はやはりゲームでしょうか、光栄(本社ビルが面白いらしいですが。)の「信長の野望」の世代なので、それで知っていたという所になるかと思います。軍師で優秀であったという印象を持っていた程度で、具体的に知ったというのはやはりウィキペディアだと思います。それでは再びウィキペディアを転載します。
今回はやめておきます。長いですからね。
ポイントだけをまとめます。播磨の出身で姫路城なども居城とした。裏切りの説得に行き土牢に閉じ込められたりして後遺症が残るほどのひどい目にあった。秀吉に仕え中国大返しを献策した。高山右近らと親しくなりキリシタンとなった。秀吉がバテレン追放を行った後はすぐに棄教した。小田原攻めでも北条氏の降伏を説得した。福岡に居城を持ち家康に恐れられた。
その他数多くの逸話に彩られていますが、結局武将から大名となり今日の福岡の基礎となる江戸時代の治世の元となった人物かと思います。
彼の人生の最大のポイントはキリスト教との出会いであり、キリスト教との出会いはまた茶人や茶の湯の文化との出会いでもありました。利休七哲、十哲(千利休の直弟子)のうちキリシタンであったのは、蒲生氏郷、高山右近、牧村利貞、織田有楽斎であり、細川忠興は妻ガラシャがキリシタンでした。また織田信長に謀反し、黒田官兵衛が交渉に行って土牢に閉じ込められた荒木村重も茶人としてこれに含まれます。この時代のキリシタン大名に多いのは九州地方であることと、やはり裏切りが非常に多いのと、支配地域での神社仏閣への迫害でしょうか。
茶の湯は後に千利休の切腹により大成され今日まで日本文化の伝統として天皇家や三井家とも密接につながる形で継続しています。イエス・キリストの磔とも相似のものがあるかと思います。
いずれにしても茶の湯は戦国から安土桃山にかけての戦乱と裏切り、下剋上の中で心の平穏を求める諸大名の求めで拡大隆盛し、江戸の安定の中で町人、商人の文化と共に明治維新を迎えることとなりました。黒船来航の狂歌「太平の眠りを覚ます上喜撰たった四はいで夜も寝られず」と歌われるほど茶の文化は浸透するのでした。もちろん茶の文化は中国が発祥で、後にイギリスでは紅茶の習慣となり、中国ではウーロン茶をはじめとした各種の茶が今でも盛んで、三国志の時代から茶は薬として珍重されていたようです。
フリーメイスンリーはもともと紅茶の普及が始まる前のコーヒーハウスで始まり、現在でも定例会ではコーヒーがふるまわれるのが通例となっています。コーヒーや紅茶の栽培や取引は各国の通商や経済を発達させる役割を通じて、世界の一体化や今日に至る各国の文化や習慣の共通化を果たしました。フランス革命後のナポレオン帝政期における大陸封鎖令によるイタリアでのコーヒー豆の供給不足からエスプレッソの方法が生まれ、今日ドトールコーヒーやスターバックスコーヒーなどのコーヒーチェーンの拡大で日本でもここ数年で急速にそうした習慣が生まれてきているかと思います。また英国の伝統である紅茶の習慣に関しても、アールグレイをはじめとした様々な銘柄を楽しむ習慣も近年極めて一般的に認めらるかと思います。ブラザーリプトン卿のティーバックは有名ですが、フォートナム・アンド・メイソンのような英国の老舗ブランドも日本に進出してきているようです。
アメリカ独立戦争では東インド会社の茶税の増税に対するボストン茶会事件をきっかけとして大きく独立運動として動き出しました。ボストン茶会事件をきっかけとしてアメリカではコーヒーを飲むのが主流となったそうです。ボストン茶会事件とフリーメイスンリーが直接関係した事はないようですが、その後に独立戦争ではボストンではブラザーポール・リビアが活躍しその名を留めています。私は個人的には紅茶は茶葉を中国から英国に運ぶ途中で発酵してしまうために、英国では普及したのではないかと思っていますが、これは非常に強く否定されます。紅茶も緑茶も抹茶もコーヒーも良く飲み好きですが、やはり日本人にとって抹茶を飲むとその爽快感は日本的な独特なものがあるかと思います。最近では先ほど挙げたチェーン店で抹茶ミルクの製品が多くなりましたので抹茶飲料を飲む機会も増えているかと思います。
日本人にとってのお茶は現在でも生活の中で密接に関わっていますが、日本の象徴としての天皇家とお茶の関係はまた天皇家とキリスト教の関係のように密接なものがあるかと思います。天皇家に限らずお茶会というものは正式な形からくだけた形のものまで様々に親交を深めたり情報を交換したりする機会であり、キリスト教のミサやフリーメイスンリーの会合のような役割があるかと思います。ウィキペディアでもあまり解説が無くなりましたが、東京にある有楽町という皇居前の地名は、いわゆる八重洲(ウィリアム・アダムスの同僚のヤン・ヨースデン由来)と似て、織田有楽斎の名前と関係しているそうですが、はっきりした根拠はないそうです。織田有楽斎は織田信長の兄弟でありながら武士から茶人に転じ、当時にしては長命したキリシタン大名で、茶人としても大成し明治まで続く織田家の家流と、有楽流という茶道の一派を残しました。
このように戦国末期の安土桃山時代の戦国大名たちにとってキリスト教と茶道というものは絶対に無視できない要素であり、そのうちの一方のキリスト教とかなり深く接触していたのが今回紹介する福岡・博多とかかわりの深い黒田官兵衛(如水)です。(当然黒田如水も相当に茶の湯に親しみ、千利休に師事していたそうです。)
次回以降この黒田官兵衛を一つのテーマとして福岡・博多にあるフリーメイスンリーのシンボルについて考察していきたいと思います。
この如水という号ですが二重の意味が掛かっています。
一つは老子道徳経の八章にある「上善如水」という老子の思想を端的に示した一節からの引用です。その部分を転載します。
上善若水。水善利萬物而不爭、處衆人之所惡。故幾於道。居善地、心善淵、與善仁、言善信、正善治、事善能、動善時。夫唯不爭、故無尤。
上善は水の若し。水は善く万物を利して而も争わず、衆人の悪む所に処る。故に道に幾し。居には地が善く、心には淵が善く、与には仁が善く、言には信が善く、正(政)には治が善く、事には能が善く、動には時が善し。それ唯だ争わず、故に尤め無し。
最上の善とはたとえば水の様なものである。水は万物に恵みを与えながら万物と争わず、自然と低い場所に集まる。その有り様は「道」に近いものだ。住居は地面の上が善く、心は奥深いのが善く、人付き合いは情け深いのが善く、言葉には信義があるのが善く、政治は治まるのが善く、事業は能率が高いのが善く、行動は時節に適っているのが善い。水の様に争わないでおれば、間違いなど起こらないものだ。(訳文は他のブログからのコピペです。)
上善如水という日本酒の銘柄があったかと思います。老子の表現としては最も良い生き方は孔子のいうような徳が高いという生き方ではなく、人々の中で自然のままに争わず無理せず流れに逆らわず生きる生き方であるという事となります。もちろん老子自体実在が怪しい存在であり、老子の思想自体がアンチ儒教、いわゆるキリスト教に対するグノーシス主義の様な存在であり、聖人君子の様な生き方を理想とするのではなく、あくまで自然に大衆の中で生きる事こそ実は真に知恵のある生き方であるという、矛盾に満ちた表現の中に生き方の指針を提示する内容となっているかと思います。
もちろん黒田如水が老子の思想を良しとしたかどうかは別として、その人生を見るにつけ、特にキリスト教と出会って後の主君によるバテレン追放という大いなる矛盾、多くの戦地を戦い生き抜きながらも裏切りと主従や同胞との関係の中で、自らも傷つきながらさらに秀吉による日本統一と衰えぬ欲望の働きを目の前にし、これらが彼をして水のごとく流れのまま生きるのを良しとする、英語にすればlet it beでしょうが、一つの諦観の中で隠居し一歩引いた状況で今後の人生に対応しようという心構えがこの如水という号に認められるのではないかと思います。
また一方でキリスト教棄教後でありながらも如水にはもう一つの意味、旧約聖書でモーゼ後の指導者としてのジョシュアの意味が込められているようです。洗礼名のドン・シメオンも原義は「聞く、耳を傾ける」という意味で黒田如水が宣教師とよく話をして聖書の内容に耳を傾けた様子が想像されます。新約聖書以降では複数の聖人がこの名前ですが、旧約聖書ではヤコブの二番目の子供シメオンが有名です。シメオンは他民族の若者による妹への乱暴に対して、割礼にかこつけて集落の絶滅を行うという一つの聖絶の例があり、またジョシュアもカナンの地を攻めのぼる過程でのいわゆる典型的な聖絶の中心的な人物であり、どちらも共通するのが他民族や敵を徹底的に滅ぼしつくす戦略家という一面があるようです。
ヨシュア記(ジョシュア記)は圧倒的に旧約聖書の中でも内容が日本人では知らない人が多いかと思いますのでヤコブの子シメオンの部分も合わせて、聖書本文ではなく若干読みやすい内容にまとめてあるウィキペディアの文をコピペします。
トーラーによると、シケムという名のカナン人によってシメオンの妹のディナが強姦された際、シメオンと彼の兄弟のレビは町の住人を騙して割礼させ、割礼の傷で弱っている間に町の男性全員を剣で殺害するという激しい報復を行った。
古典的なラビ文学においては、シメオンは非常に怖いもの知らずであるが著しく妬み深く、そしてヤコブのお気に入りであるヨセフに対しては常に敵対的で悪意を抱いていたとされる。セーフェル・ハイ=ヤーシャールでは、創世記第37章でヨセフが羊を飼っている兄弟たちの後を追ってドタンの町に来た際に、ヨセフを殺さなければならないと主張したのはシメオンであるとしている。また、他の古典的なラビ文学では、シメオンはヨセフを荒野の穴に落とし、ユダがヨセフを殺さずにイシュマエル人の商隊に売ったと分かった際に激怒したとしている。古典的なラビ文学によれば、シメオンはこの残忍さに対する神の罰によって右手が萎えて苦しんだが、彼が後悔したため手は1週間後に回復したとされる。
エジプト脱出時に20歳を超えていた者のうち、ヨルダン川を渡ることを許されたのはヨシュアとカレブの2人だけである。モーセはヨルダン川を渡ることを許されなかった。また、ルベン、ガド、マナセの半部族はヨルダン川東岸に定住することを決めるが、仲間を助けるためにヨルダン川西岸に渡って共に戦うことをモーセに確約する。
ヨシュアはルベン、ガド、マナセの半部族の戦士たちを郷里へと帰らせるが、彼らがヨルダン川のほとりに大きな祭壇を築いたことが伝えられ、ヨルダン川東岸の部族に対する軍事行動が検討される。ピネハスらが派遣され、彼らにヨルダン川西岸へと移住するよう勧めるが、彼らの説明する祭壇を築いた目的は好ましいものであったため、軍事行動は起こされなかった。ヨシュアは長老たちを呼び、モーセの律法を守り行うよう諭す。ヨシュアは全イスラエルをシケムに集め、彼らに神の言葉を伝える。民はヤハヴェに仕え続けることを誓い、その証拠として大きな石が立てられる。ヨシュアの死と埋葬。エジプトから運ばれてきたヨセフの骨はシケムに埋葬される。エレアザルの死と埋葬。
まあヨセフのエジプトでの出世の話とモーゼの出エジプトとヨシュアのカナン攻略のあたりは常識として日本の義務教育でも教えた方が良いのではないかと思いますが、なかなか宗教の絡みもあり難しいのだと思います。ヨセフの物語がユダヤ人の伝統としての人間の深層意識の表れとしての夢占いの知恵、そしてそれらの最大の罪としての性欲、いわゆるフロイト心理学の原型となるというか、恐らくオリジナルで現代心理学より高等なのかもしれませんが、そういうものが旧約聖書のエピソードとしてあり、その後のモーゼの出エジプトは奇跡による大衆の誘導の方法であり、さらにヨシュア記に至っては東洋では恐らく孫子の兵法に匹敵し、さらにそれらの具体的な戦術書としての意味がある、宗教的指導者としてよりは軍略家としてのヨシュアが描かれ、また具体的知略としての宗教の知恵が示されているかと思います。ヨシュアのカナン攻略とその後のイスラエル王国の統治体制を見ると明らかに共産主義、社会主義の一つの理想形、それらの発想の原型が見てとれるかと思います。とにかくこのブログの一つのテーマでもある聖書を実際に読むことを勧める事になるのかと思います。
黒田如水が聖書を実際に読んだのかどうかはわかりませんし、その当時に日本語訳の聖書があったとは思われませんが、彼の洗礼名、隠居後の号を考えるにつけ、彼と洗礼に関わった宣教師たちが濃密に接触し、旧約聖書について十分理解していた宣教師によって、彼が自らのこれまでの人生を反映する聖書中の人物、さらにその人物の所業や聖書での描写をある程度伝えられて、その上でそれらの名前を選択した過程が推測されます。つまり黒田如水が聖書に描かれた物語をかなりリアルな過去の見知らぬ土地での人間達の所業か、それに近いものとして受け止め、つまり聖書の内容について漠然とながらも物語として理解しながら、洗礼を受け、さらに主君の禁教令の後も教訓として心に刻んでいた事が見てとれるわけです。
また黒田如水は他のキリシタン大名たちとは異なり宣教師たちの意向に沿うような所領の神社仏閣を迫害するような所業は一切行わなかったようで、そういう意味でキリスト教の教えを部分ながらも聖書の内容のレベルで理解していて、これは実は聖書を実際に読む事で生じた宗教改革、その後にさらにプロテスタントの文化の中で生まれたフリーメイスンリーの宗教的寛容にも通じるものでもあるのではないかと、戦国時代の武将という点を差し引いて過大に評価できるかと思います。またそういう理解していた聖書の部分が旧約聖書の重要な部分であったであろうことも他のキリシタン大名たちとは異なるものではないかと思います。
また逆に言うとそう思われる部分が今日の黒田官兵衛伝説とも言われるような様々な逸話、天下取りの野望や虚々実々の駆け引きの逸話を残す事になっているというのも事実ではないかと思います。実際このブログでも登場した明治憲法草案作成に関わり、ブラザーエドマンド・バーグを抄訳して明治帝に献上した、福岡黒田藩出身の金子堅太郎氏はこれら黒田如水にまつわる多くの野心的な逸話を創作した張本人であるようです。金子堅太郎氏は黒田藩からハーバード大学に留学し、彼の地でブラザーセオドア・ルーズベルトとの知己を得、またブラザービスマルクとの面会を果たし、帰国後に明治帝にブラザーエドマンド・バーグの「フランス革命の省察」の抄訳を献上し、さらに日露戦争後に自らの出自である福岡藩の藩祖である黒田如水について「黒田如水傳」を記し、その後の吉川英治や司馬遼太郎の黒田如水像に繋がる伝説の元となったようです。しかしそこには確かに誇張があったかもしれませんが、実際その理解は旧約聖書の理解と合わせて藩士にとっても非常に納得されるような部分があったために、そのような伝記を作る動機となったのではないかと想像されます。
以上私自身による黒田如水とキリスト教との接点の解説でしたが、私自身黒田如水については上述した吉川英治の著作や司馬遼太郎の著作など読んだことは無く、黒田如水傳についても全く知りませんので、全てウィキペディアの内容をもとにした推測となっており、一切責任は持ちませんのでご了承ください。
ヨシュア記の聖絶のエピソードで出てきた神によって禁止されていた略奪を行っていた人物の名前がアカンというのも、なにやら最近のテレビ番組で「アカン、アカン」と音が鳴るのと同じで面白いですね。これと似た話では、ユダヤ教の教えを大成したラビの名前としてアキバというラビがおり、これが現在の秋元康プロデュースのアイドルグループAKB48の名前と一致するのもこれまた面白い話かと思います。
旧約聖書の内容は非常に多岐にわたり、登場人物も複雑で、相当のエネルギーを注がないと読みこなすことは難しいと思いますが、読めば読んだなりに現実に反映する何かはあるかと思いますので、多くの日本人の方が読まれる事を期待します。内容の理解はフリーメイスンリーと一緒で全ての人が出来るものでは無いかと思います。全ての人はフリーメイスンになる可能性をもっているが、全ての人がフリーメイスンに成れるわけではないという標語の様な言葉がありました。
さて黒田如水に戻りますが、黒田如水がフリーメイスンに近いような存在であった事が伝わったでしょうか。
現在の福岡・博多にそういう黒田如水の存在の反映は認められるでしょうか。
それは博多の駅前にあります。もちろん横須賀と同じく地元のライオンズクラブやロータリークラブの方々が当然そういう藩祖の逸話など詳しく知って、その上でそういう考えの象徴として建設されたものかと思います。
筑紫口の方なので人通りが少なく、地元の方もあまり意識していないようです。
博多山笠の祭りの様子を表しているようです。黒い部分はちょんまげでしょうか。実はこちら側出口には都ホテルがあり、ここが実はフリーメイスンリーと関係しているようです。
次回黒田如水の建築物である福岡城周辺を探索します。
まあフリーメイスンリーの参加者も減ってきて、ライオンズクラブやロータリークラブの参加者も減ってきているというのはそういう事も関係しているのかもしれませんが、しかし全国津々浦々を徘徊しその都市の特徴を記録し伝えるというのはかつては乱破や素破といって非常に情報戦では重要な仕事だったのですが、最近はインターネット時代も成熟してきて誰でもスマートフォンでネットにどこからも投稿できる時代で、あまりわざわざ重要性を強調する事もなくなりました。
一応まあ黒田如水というのは聖書の聖絶を行うジョシュアから来ているのだよという所が基礎知識として強調した所で、その後いわゆる文禄・慶長の役のウィキペディアを読んだのですが、まさに日本版聖絶であって、これを読むと実は秀吉なんかも強烈にキリスト教に影響されていた可能性があるかもしれないと思いました。宣教師にしたらキリスト教化された日本が朝鮮から中国まで攻め込んで中国をキリスト教化すれば世の中もっと良くなると考えていたかもしれません。信仰や宗教の力というものは量り知れません。フリーメイスンリーでもやはり信仰や宗教を物事の中心とする、基本に置くという所は絶対的であり、それはすなわち自らの基本や根本を見つめる、出自や教育、考え方、自らという人間を知るという事に尽きるかと思います。
さてでは福岡城の探訪記です。
大濠公園のグーグル・アース図です。大濠公園の横には美術館や日本庭園、かつての平和台球場と福岡城の天守閣に当たる舞鶴公園、移築した建物、運動場などがあります。やはり桜の時期はきれいなようです。
アメリカ領事館があります。やはり黒田如水を顕彰しているのでしょうか。
公園の脇にはかなり良くできた日本庭園があります。やはり戦国大名は太平の時代には京都の寺社のような日本庭園を造形して楽しんだのでしょうか。一種の箱庭療法でしょうね。(追記:一応念のため書きますが、もちろんこの日本庭園は黒田如水とは一切関係ありません。由来はホームページには書いてありませんが、もちろん大名家の住まいでしょうから日本庭園くらい江戸時代からあったでしょうが、それと現在のものが関係あるかは知りません。ここに書いたのは当時の心境とかその他庭造りと戦国大名を重ねて書いた感想のようなものです。)
確か入場料が300円くらいでした。お茶会でもあると雰囲気も絶妙なのだと思いました。
大濠公園は外周を回っていくとスターバックスがあります。ここは非常に込んでいました。暑い夏だったので非常にクーラーが効いていた印象があります。スターバックスのシンボルマークは自由の女神でしたね。(訂正3/13:スターバックスのシンボルマークはセイレーンという海の半魚人の女神であり、もともとはダーゴンとかアプカルルとかメソポタミア由来の古い異教のシンボルみたいです。キリストのシンボルとしての魚とも共通するのかもしれません。ブラザーハイネがローレライの詩にしているようです。)マックは3の転倒だと思います。
非常に良い公園なのでライオンズクラブの方々が整備されているようです。
石垣の作りがやはり日本全国で最もきれいな部類なのだと思います。そこがやはり黒田如水とフリーメイスンリーの接点ではないでしょうか。熊本城もきれいで有名だそうなのでそのうち見に行きたいと思います。やはりフリーメイスンリー発祥の地エディンバラ城は相当きれいなのではないでしょうか。エジプトのピラミッドとかはまあそれらの全てオリジナルなのだと思います。エルサレムの嘆きの壁なんてのもあります。
天守閣 当時は天守閣再建とかで盛り上がっていたようで、立ち入り禁止になっていましたがやはり人もいないし登りました。
こんな想像図のようです。確か名古屋城は木造で再建とかあったと思います。この後でどっかで出しますが、皇居東御苑の江戸城天守閣は江戸時代初期に明暦の大火で焼失して以降再建しなかったそうで、それに準じてか福岡城も取り壊したようです。名古屋城は空襲がたまたま当たって燃えてしまったようです。姫路城は大改修を今やっているのではなかったでしょうか。お城も都市のシンボルなのだと思いますが、同時に封建時代の象徴でもあり複雑です。西洋の城も保存に色々お金をかけているようですね。
福岡ドームが見えます。この後に小諸城など行きましたが、あれは穴城でなかなか興味深かったです。小諸も島崎藤村などと関係が深く、キリスト教の影響もあるのかと思いました。
建造物はこれくらいでしょうか。要するに弾薬庫とか武器庫とかそれくらいで、実質江戸時代は封建制で戦争はあり得なかったので立てこもる必要はなかったようです。
文禄・慶長の役でも最後は朝鮮半島に日本式の城を作って交替で大名家が番をして朝鮮半島に植民地を置くみたいな発想があったそうですが、豊臣秀吉の死亡で撤退したようです。秀吉の死因も良くわからないかと思います。いずれにしてもいきなり攻めて来られた方は本当にいい迷惑だったのかと思います。その後300年して伊藤公を総督として日韓併合が行われるわけですが、現在では南北に分裂して南ではキリスト教徒が増えたりしていてアジアの歴史も色々です。福岡城は朝鮮の石積みを参考に作られたとウィキペディアにも書いてありますが、実際は宣教師に教わったのではないでしょうか。石垣の整然さを見て個人的には江戸城や大阪城よりもきれいだと思いました。
文禄・慶長の役で南蛮から渡来した唐辛子が朝鮮半島に入り、現在の韓国の代表的な食文化であるキムチが生まれ、また一方では朝鮮人陶工が日本に連れて来られ江戸時代の日本の陶器の文化も発展するわけです。日本が対外的な水軍で戦ったのもこの時代がやはり最初でしょうか。
やはりライオンズクラブの碑があります。そういえば平和台球場はかつての西鉄ライオンズの本拠地だと思います。現在は福岡ソフトバンクホークスです。
やはり非常に石組が美しいですね。曲輪というのでしょうか、縄張りというのかもしれませんが、迷路のような構造から一種の実用的な美的な美しさが感じられます。他の城跡とはちょっと違う感じを受けます。
実用的というか、いわゆる実務的メイスンリーというものかと思います。恐らくそういう感じが日本で一番感じられるものなのではないかと思います。如水という号と合わせて、400年前の日本人の智恵を間近に認められる日本の貴重な建造物かと思いました。
是非福岡・博多に立ち寄りの際には福岡城址、大濠公園を自分の目で確認してください。私は非常に感心しました。もちろんフリーメイスンリーに関連した目で見てです。
次回九州大学の新しいキャンパス内にあるフリーメイスンリーのシンボルと、太宰府天満宮にあるフリーメイスンリーのシンボルです。
私が現在住む横須賀はそれこそ政治的には小泉家の牙城ですが、米軍基地もありキリスト教と鎌倉系の仏教やお稲荷さんや熊野神社などの民間信仰が拮抗している感じですが、九州は特に訪問した伊都キャンパスの周囲などは見るからに古墳の形の丘陵地帯を控えた田園と海岸の地帯で、巨大建築という点ではピラミッド信仰に近いものが基本的な心象風景としてあるのかもしれない感じを受けました。また横須賀も看護大や歯科大、政策大など国公立大や有名私大ではないですが、大学の形をした学校を数多く新設しています。この辺は恐らく政治家個人の学歴や学問に対する考え方、というか偏見が現れているかと思います。福岡は国立の九州大学をすごく拡充しているようでした。
近代日本の大学はそもそもギリシアでソクラテスに始まるプラトン、アリストテレスの実証的な学問を追及する人々が集まり議論する場であるアカデミアをルーツとし、それらは特にルネサンス以降の西欧において神学から独立した形の哲学や科学、医学を研究する場として様々な人々に研究の機会を与え、さらにその研究成果を社会に還元する目的で次々と建設されて行きました。特に新大陸のアメリカではハーバード大学をはじめとして、キリスト教思想、フリーメイスンリーの哲学に基づいてリベラルアーツの教育法が普及し、それらは明治維新後の日本にお雇い外国人やキリスト教の宣教師らを通じて日本にも国公立、私立を問わずもたらされました。
ラファエロ アテナイの学堂 右下には天球儀と地球儀をもつゾロアスターとプトレマイオス、コンパスを持って製図するアルキメデスが描かれる。
全体としてギリシア十字の聖堂となっている。
フリーメイスンリーのシンボリズムと研究機関や大学、博物館や美術館、芸術劇場のような公共施設とは密接に関係しています。それらが大学に代表されるように科学知識や学問の自由や解放の考え方と密接に結びつき、フリーメイスンリーの掲げる理想やフリーメイスンリーの求める力である科学知識と強力に関係しているからです。日本の政治家の方々にこのような考え方が広く認められるとは考え難い状況ですが、基本的には憲法に基づいてこのような理念での大学を含めた公共施設の建設がなされるべきでしょう。フリーメイスンリーのシンボリズムとしては、これら博物館や芸術劇場や大学、美術館のような知を追及する建物はソロモン宮殿に例えられるようです。フリーメイスンリー、ユダヤ教、キリスト教では智恵の象徴としてソロモン王が挙げられます。日本では天神様、菅原道真公になるのかと思われます。
ソロモン宮殿想像図 ソロモン宮殿については以前ヒラムの聖書での登場部分を抜粋しました。列王記に描かれています。フリーメイスンリーのロッジは基本的にソロモン宮殿を模してつくられています。
さてお説教が長くなりますが、一応そのような見地に立って九州大学のキャンパスを見渡してみてフリーメイスンリーのシンボルを認めるのでしょうか。
キャンパスのHPからもってきた航空写真です。実際行くと周りが明らかに古墳の山々で九州の歴史の深さを感じます。キャンパスのあるところも古墳の跡らしく、地元の感情も様々であるとは思われました。やはり関東とは違い山も低く平野が広がっていて、住みやすいのではないかという印象を受けました。
新しいキャンパスが非常にきれいで高層住宅のような研究棟でした。内部で具体的にどのような事をしているかは全くわかりませんでしたが、研究活動自体はなかなか大変だという感じがしました。日本のそういう知的活動はアメリカなどと比べてやはり楽しさという面で非常に遅れた印象ですね。知的活動、科学の力というものへの歴史が浅いのだと思います。
入り口付近には周囲の古墳を模した築山の造形があります。ピラミッドを意識しているかと思われました。
これは実際見ませんでしたがフーコーの振り子があるそうです。下の図柄はコンパスですね。上野の国立科学博物館にもありますが、どうもこのモニュメントを好きな方が重鎮なのでしょうか。錘は水平儀や垂直儀とも関係し、地球の自転や天行とも関係しているのでフリーメイスンリーとの関連に象徴的なのでしょうが、あまり系統的ではないようです。(フーコーはフリーメイスンかどうかわかりませんが、エッフェル塔の72の名前に記されているようです。十分フリーメイスンに成る資格はあったのかと思われます。下げ振りの錘はそれ自体でもシンボルになるようです。)(2014/4/29追記:ブラザーフーコーもフリーメイスンであったようです。お墓が以下のような立派なオベリスクでした。
先端の形がやや典型的なオベリスクとは違いますが、まあフリーメイスンで良いのだと思われます。ちなみにブラザーフーコーの振り子の裸の形の下げ振りも特に大陸系のフリーメイスンリーでシンボルとなるようです。主にこのブラザーフーコーの振り子の逸話が影響しているのかもしれません。)
これも実際に見ませんでしたが上面だけ磨かれたラフアシュラーがあるようです。かなりパーフェクトアシュラーに近いですがいただけません。
原石の水晶が展示されているようです。水晶もやはり磨かれなければ価値がありません。しかしやはり水晶だけあって原石でもそれなりの美しさがあります。
ありました。フリーメイスンリー、キリスト教のシンボルです。写真を撮った時は気づきませんでしたが、奥にやはりラフアシュラーが置いてあります。フリーメイスンが直接関わったわけではないという事です。碇は充実した生活、地に足のついた希望の象徴です。キリスト教由来のシンボルで、やはり宣教師や海外での伝道にまつわる歴史から生じたものかと思われます。
なかなか設備が充実していても実際の成果となると難しいものです。
では次は太宰府天満宮に移ります。太宰府へは博多から電車に乗って30-40分くらいで、特にすごい情緒があるとかそういうことはあまりなかったかと思います。神社前の参道沿いはすごいお土産屋と食事処で、やはり有名な神社仏閣にはこういうものは付き物なのだなと思いました。
牛を祭ってありました。牛を祭るのは聖書の中では異教のシンボルであり、一部フリーメイスンリーのシンボルともかかっています。ニューヨーク証券取引所の前にも証券用語「bull」買いのシンボルとして牡牛の銅像がありますが、これも一部フリーメイスンリーのシンボリズムであるかと思われます。モーゼの出エジプトで象徴的に描かれる異教のシンボルであり、これと対比的なのが天使のケルビムの像かと思われます。
普通にお参りです。フリーメイスンリーのシンボルは牛なんでしょうか?
黒田如水の直筆 黒田如水は大宰府天満宮の再建に努め、晩年は天満宮内で草庵を作り過ごしたそうです。まさにフリーメイスン的です。
菅原道真の像と直筆
フリーメイスンリーのシンボルは太宰府天満宮にはなく、その横にあるこれまた新しくできた国立博物館にあるようです。実はこれは時間がなく訪問できませんでした。
展示物にフリーメイスンから注文を受けて作成した長崎青貝細工の漆器があるようです。ただ図柄を見るとヤキンとボアズの柱と3つの小さな光を混同しており、明らかにフリーメイスンリー的には間違いのシンボルです。多分間違っていたので受け取らなかったか、そういう事にして残したのかもしれません。いずれにしてもフリーメイスンリーにかかわる工芸品が日本の国立博物館で展示されているのはここくらいではないでしょうか。(7/8追記:全く同じフリーメイスンリーが依頼した螺鈿細工の漆器がアイルランドやオランダのフリーメイスンリーの記念品の展示であるようです。実際に輸出されたデザインのようで、恐らくデザイン的にあえてヤキン・ボアズの柱として二本のろうそくになっているようです。恐らく注文の通訳の時点で混同されてこの形になり、仕方ないという事で受領されたのではないでしょうか。色々歴史がありそうです。)
是非大宰府を訪問の際は見学してください。
博多駅前の都ホテル この他天神の地下街もフリーメイスンリー的な雰囲気を作っていました。これは最近の横浜駅西口の一部も似ています。一番はっきりしているのはロンドンのセント・ポール大聖堂みたいです。もともとプロテスタント系のゴシック建築、いわゆる実務的メイスンリーの建築物に認められるもののようです。そういう中ではアンダーソン憲章にも認められるイニゴ―・ジョーンズの存在は重要なようです。実務的メイスンリーの歴史も興味深いものがあります。
以上で九州篇は終わりです。今年の冷たい冬も終わり、暖かい春を迎え関東でも梅の花が咲く季節となりました。梅は太宰府天満宮の祭神である菅原道真公のシンボルでもあります。田浦の梅林も恐らく満開になっている事かと思います。去年の春はなかなか大変なものがありそこから一年たっただけですが、凍てついた日本経済も動き出しているように感じます。梅は日中を結ぶ文化の懸け橋のシンボルであり、日本古来からの固有のシンボルでもあります。九州博多・福岡は大陸との距離も近く様々な文化が古来より混じり合う土地と思われました。フリーメイスンリーは様々な文化が触れ合い、溶け込みあう中で、一つの真実を核として生じる結晶のようなものかと思われ、こうした異文化が接触する地域では今後とも盛んであるかと思います。
東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ








福岡城 本丸に 井戸三つ
如水の城 入れるとすれば IHSの刻印
(訂正:福岡城に刻印石は少数ですがあるようです。卍や十字、△、〇、◇などだそうです。この時は見つけられなかったので刻印がないとしました。)(11/30訂正:刻印少なきとしました。)