FREEMASONRY
Blue Lodge, Scottish Rite & York Rite in Japan
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セントパンクラス駅はラッセルスクエアから歩いて10分位の、地下鉄の駅で一駅のところです。
隣に大英図書館がありました。
セントパンクラス駅はこんな感じで、ユーロスターはいわゆる新幹線といった感じでしょうか。大分窓越しの写真は写り込んでいます。乗り心地は普通といった感じでしょうか。やはりアムトラックが一番だったと思います。
これはイギリスの風景でしょうか。
こちらはフランスの風景でしょうか。良い天気でした。イギリスは牧草地みたいになっているのが、フランスになると農耕地になるのが印象的であったかとも思います。
農地を撮っているのでしょうかね。
高圧線の鉄塔の形が印象的です。
ゴシック建築の尖塔があります。恐らく教会なのだと思います。
高圧線の鉄塔が面白い形です。悪魔の形のようです。恐らく意識的にこのデザインなのだと思いますが目立ちます。
こういう普通の形もあります。
ゴシックの尖塔を撮っているのですね。フリーメイスンリーのシンボルとなります。まあまさに実務的メイスンリーの時代のフリーメイスンリーのシンボルだと思います。集落ごとに一軒ゴシック建築の尖塔を備えた教会があるようです。日本における神社の神木や鎮守の森のようです。
ゴシックの尖塔と高圧線の悪魔型の鉄塔が一緒にあるとなかなかシュールな光景です。まさにフランスを象徴しているようです。
あっという間に曇ってきました。
空港でしょうか。
郊外の集合住宅が出てきます。
なんだか品川駅みたいな落書きがたくさん出てきます。
さて後すぐでパリにつきます。
日本では良く花の都と言いますが、あちらでは光の都と表現するそうです。ヤフー知恵袋の受け売りです。
まあいずれにしろ到着しました。パリ北駅はやや雑然としていて、トイレが地下にあって有料で匂いがきついというなかなかパリの洗礼とも言うべき駅ですが、ロンドンと違って色々な人種の人が多い感じがします。
なにはともあれ三色旗を見ると感慨深いです。完全に曇ってますね。北駅はタクシー待ちは大行列です。
きょろきょろしているとすぐに白タクの運転手らしきアラブ系の男性が英語で喋りかけてきます。しょうがないので大きな荷物を持ったままホテルまで歩く事を決意します。
パリはとにかく車が騒然としています。空気も少しロンドンより汚れています。駅前にはなぜか大型バイクが多数置いてあります。通勤の駐車なのでしょうかなかなか理解しがたい光景です。
歩くと決めたのですが、なかなかGPSが定まってくれず難しいです。ワシントンD.C.だけでしたかねスマートフォンがスムーズに動いたのは。歩いて20分くらいでオペラ座の北側の通りに面したホテルに到着します。パリは坂になっていて北駅から緩やかな下りです。横断歩道がたくさんあって赤信号で渡る人がたくさんいますが交差点がまっすぐではないので車もそれほどスピードは出せません。日本人料理店などがすぐに目立つ感じでしょうか。
泊まったホテルはホテルミレニアムです。結構高いですが部屋はそれほどではありません。浴槽はありませんでした。
まあ写真で床がこの模様だったので選んだのでした。フランス大東社のグランドロッジも比較的近い場所です。
部屋は7階でしたかね。特に部屋番号とかでは何もない感じでした。廊下の絵画が上の写真です。目隠しして石を垂らしていてちょっとフリーメイスンリーっぽいですがなんとも遠いようです。じゃれてる感じでしょうが、指の形なんかとか見ても何かしら意味がありそうです。ちょっとわかりませんね。
床はこんな感じです。パリを離れるときにカウンターにすごい美人がいたくらいで特にフリーメイスンリーを感じさせるような出来事はありませんでした。夫がベトナム人で妻がフランス人の中年のカップルがいた位でしょうか。
さてまあロンドンでの教訓を踏まえてとりあえず最初にグランドロッジに行くべきだという事です。やはりツアーが午後は14時くらいかららしいのでその前に通りにあったRestaurant Au Petit Richeというところに入ってコースを食べました。4000円位でしょうか。生ガキはあとでちょっと調子があれでしたが、豚足みたいな牛のアキレス腱料理を食べました。中国人みたいな料理人が味の評価を気にしていました。もちろんアキレス腱を養生しろという事かと思われます。平日の昼間だったのですがとにかく奥の方が非常に中高年のカップルや近所の恐らくフリーメイスンばかりでしょうが、そういう人たちで込んでいて、一人でアジア人が入ってくる雰囲気ではありませんでしたが、入口付近で食事は食べさせてくれました。ちょっとまあ同じ人間扱いはされてないかもしれませんがしょうがありません。
食事をとってからグランドロッジ方面に向かいます。もちろんこのブログでも触れたとおりイギリス系のロッジであるGrand Loge Nationale Francaiseもありますが、とりあえず博物館に行くだけなのでGrand Orient de Franceのグランドロッジに行きます。Grand Loge Nationale Francaiseにも博物館があるようなのでどうも良くないようですが、とにかく大きな方に行く感じでしょうか。まあなんかGLNFが破産したとかどっちかのロッジが火事になったとか対立があったみたいですが、良くわかりません。そういうのはどこでも常にあるのではないでしょうか。とにかく良くわかったのがフランスはフリーメイスンリーの非常に進んだ国で上位位階であるスコティッシュライトの大元の国であり、組織の人数や資金などの話では小さいのかもしれませんが、形而上の部分や過去の歴史の業績の面で恐らく最も巨大な組織なのだという印象でした。そしてこの後のグランドロッジの近くの本屋で念を押されたのがスコティッシュライトは一緒だという事のようでした。そこがまたキリスト教が基本のヨークライトとそうではないスコティッシュライトの違いのようです。
次回そのフランス大東社の博物館を訪問します。
まあいずれにしろ到着しました。パリ北駅はやや雑然としていて、トイレが地下にあって有料で匂いがきついというなかなかパリの洗礼とも言うべき駅ですが、ロンドンと違って色々な人種の人が多い感じがします。
なにはともあれ三色旗を見ると感慨深いです。完全に曇ってますね。北駅はタクシー待ちは大行列です。
きょろきょろしているとすぐに白タクの運転手らしきアラブ系の男性が英語で喋りかけてきます。しょうがないので大きな荷物を持ったままホテルまで歩く事を決意します。
パリはとにかく車が騒然としています。空気も少しロンドンより汚れています。駅前にはなぜか大型バイクが多数置いてあります。通勤の駐車なのでしょうかなかなか理解しがたい光景です。
歩くと決めたのですが、なかなかGPSが定まってくれず難しいです。ワシントンD.C.だけでしたかねスマートフォンがスムーズに動いたのは。歩いて20分くらいでオペラ座の北側の通りに面したホテルに到着します。パリは坂になっていて北駅から緩やかな下りです。横断歩道がたくさんあって赤信号で渡る人がたくさんいますが交差点がまっすぐではないので車もそれほどスピードは出せません。日本人料理店などがすぐに目立つ感じでしょうか。
泊まったホテルはホテルミレニアムです。結構高いですが部屋はそれほどではありません。浴槽はありませんでした。
まあ写真で床がこの模様だったので選んだのでした。フランス大東社のグランドロッジも比較的近い場所です。
部屋は7階でしたかね。特に部屋番号とかでは何もない感じでした。廊下の絵画が上の写真です。目隠しして石を垂らしていてちょっとフリーメイスンリーっぽいですがなんとも遠いようです。じゃれてる感じでしょうが、指の形なんかとか見ても何かしら意味がありそうです。ちょっとわかりませんね。
床はこんな感じです。パリを離れるときにカウンターにすごい美人がいたくらいで特にフリーメイスンリーを感じさせるような出来事はありませんでした。夫がベトナム人で妻がフランス人の中年のカップルがいた位でしょうか。
さてまあロンドンでの教訓を踏まえてとりあえず最初にグランドロッジに行くべきだという事です。やはりツアーが午後は14時くらいかららしいのでその前に通りにあったRestaurant Au Petit Richeというところに入ってコースを食べました。4000円位でしょうか。生ガキはあとでちょっと調子があれでしたが、豚足みたいな牛のアキレス腱料理を食べました。中国人みたいな料理人が味の評価を気にしていました。もちろんアキレス腱を養生しろという事かと思われます。平日の昼間だったのですがとにかく奥の方が非常に中高年のカップルや近所の恐らくフリーメイスンばかりでしょうが、そういう人たちで込んでいて、一人でアジア人が入ってくる雰囲気ではありませんでしたが、入口付近で食事は食べさせてくれました。ちょっとまあ同じ人間扱いはされてないかもしれませんがしょうがありません。
食事をとってからグランドロッジ方面に向かいます。もちろんこのブログでも触れたとおりイギリス系のロッジであるGrand Loge Nationale Francaiseもありますが、とりあえず博物館に行くだけなのでGrand Orient de Franceのグランドロッジに行きます。Grand Loge Nationale Francaiseにも博物館があるようなのでどうも良くないようですが、とにかく大きな方に行く感じでしょうか。まあなんかGLNFが破産したとかどっちかのロッジが火事になったとか対立があったみたいですが、良くわかりません。そういうのはどこでも常にあるのではないでしょうか。とにかく良くわかったのがフランスはフリーメイスンリーの非常に進んだ国で上位位階であるスコティッシュライトの大元の国であり、組織の人数や資金などの話では小さいのかもしれませんが、形而上の部分や過去の歴史の業績の面で恐らく最も巨大な組織なのだという印象でした。そしてこの後のグランドロッジの近くの本屋で念を押されたのがスコティッシュライトは一緒だという事のようでした。そこがまたキリスト教が基本のヨークライトとそうではないスコティッシュライトの違いのようです。
次回そのフランス大東社の博物館を訪問します。
さてフランス大東社のグランドロッジでしたっけか。
その前のRestaurant Au Petit Richeも非常に感じは良かったわけですが、さらにiPhoneの地図を見て近づくと感じの良い歩行者天国風の小道があり、オープンカフェの椅子がそこらじゅうに置いてある通りに入ります。
そこを歩くとすぐに写真で見たグランドロッジがあります。非常に近代風の建物でガラスでオープンな雰囲気で日本で言うと美術館のような雰囲気でしょうか。受付には中年の女性がいますがもちろん英語よりフランス語が良さそうです。見学は30分後からという事で何となくルーズな感じです。フランスのフリーメイスンの感じはその前のRestaurant Au Peitit Richeの感じもそうですが、若干日本のヤクザ屋さんみたいなちょっと舐めんなよ風な空気が微妙にある感じでしょうか。英仏の対立の空気があるのかもしれませんが、むしろ日本のヤクザ屋さんがその空気の影響を受けているという方が恐らく正しいのだと思います。それは日本陸軍の徽章が五芒星である事も証明になるのかと思います。
威圧感は全くなく街に溶け込んでいます。この通りの一番のポイントはユダヤ人のシナゴーグ、集会所が目立つ事でしょうか。2軒ほど近くにあったかと思います。明らかにユダヤ人の人は近くにはいませんでした。
時間が少しあったので近くに明らかにフリーメイスンリーの本を売っている本屋が2軒あったのでこちらも巡ります。一軒は少し店主が疲れてる感じでほとんど品数が無いレガリア(装飾具、エプロンなど)を主に売っている本屋で、もう一軒が写真に撮った大量に本が売っている、奥で少しレガリアも売っている店でした。
この出版物の種類を見るとさすがにフランスフリーメイスンリーの裾野の広さと歴史の深さを思い知りましたね。もちろんフランス語は全くわからないので推測も全くできないのですが、後でグランドロッジ推薦の入門用のマンガと星の王子様を本は買いましたが、その種類が様々にある事を見てもその知識や広がりの多様さが感じ取れました。イングランドのグランドロッジもその多さに感動しましたが種類はこちらの方が多いですし、ワシントンD.C.は一般の本屋ではほとんどフリーメイスンリー関連はなかったかと思います。
で時間になってもう一度グランドロッジに入りますが、今度は受付の女性がいなかったと思います。しょうがないので博物館の中の方に入って行って、なんか受付の人を呼んだりして、とにかくルーズな感じでとにかく英語がわざとかどうかわかりませんが通じない感じで、なんとか6ユーロか払って後は勝手に博物館を見ろと言われて写真を撮りまくりました。ツアーはお前はフランス語がわからないから駄目って事でした。後でそのツアーに来ていたのはフランスの地方から来た高齢者の10人位のツアーでした。基本的には博物館を説明して回るだけみたいでしたが、もしかすると恐らくロッジの中も少し見学させてくれるのかもしれません。その辺はイギリス系フリーメイスンリーと大東社系フリーメイスンリーとの筋があるのかもしれません。
さてそういうわけでとにかく写真を撮りまくって、説明はフランス語なので全くわからないのですが、それ以前に日本に来るオランダの大東社系のブラザーとも色々やり取りがあったので、そういう絡みも多少はあったのかもしれません。
フランス語がわからないとちょっとほとんどわかりませんが、実務的メイスンリーの時代の本とその過渡期の本とがごっちゃになってる感じでしょうか。
イオニア式、ドーリア式、コリント式後は何でしたっけか。それぞれ教訓が含められて5つの様式であったと思います。リチュアルにあったかと思います。トスカナ式と、コンポジット式ですね。いずれリチュアルもやりましょう。
この辺は完全に実務的メイスンリーの本ですね。
これはなんか曼荼羅のようですが、ヘブライ文字とかと対応させているようです。タロットの大アルカナと対応したり、12星座や太陽系の惑星などと対応しているのではないでしょうか。
これは実務的メイスンリーの本か間位でしょうか。
これはもちろんアンダーソン憲章ですね。恐らく初版本だと思います。
こちらはブラザーデザグリエですね。フランスから亡命したプロテスタント、ユグノーだと思います。
学術書のようですね。百科全書派を始めとしてフランスの科学分野はフランス革命期前後は特にすごいですからね。
これはミルクジャグなんでしょうが、実際はワインを入れたりするんでしょうね。大きな器にパーティードリンクを作るマニュアルなんかもフリーメイスンリーでもあるようです。
上の画像は良くわかりませんが恐らくフリーメイスンリーの儀式の行列の様子を示したものでしょうか。日本の朝鮮通信使や大名行列の解説のようです。下は確かイギリスのフリーメイスンリーの版画かなんか初期のものの資料だと思います。初期のアンダーソン憲章に関わったレガリアをデザインしたりしている方の手による絵ではないでしょうか。
これはだいぶ思索的メイスンリーの時代に入ってきた感じでしょうか。このブログでも使ったりしている現代のポスターの元になる版画だと思います。
やはりエプロンが多いですね。フランスのものはデザインも美しく様式も様々にあって、特に貴族が関わっているものが多いせいか古くても質が良いものが多い印象です。多段階位もあるせいか同じデザインのものが少なく美術品として十分成立するものです。上の船の模型はわかりませんが、恐らくノアの箱舟のシンボルになるのだと思います。
上の陶器の人形にしても一番いいものを置いてありますね。まあこういうフリーメイスンリーにまつわるアンティークの物を集めるのも一つのフリーメイスンリーの文化だと思われます。そういうのを紹介する意味もこのグランドロッジの博物館にはあるのかと思います。懐中時計などと同じく当時から貴族の慰みなのでしょうが、そういう中でもロストシンボルのピラミッドではないですが知性に影響を与えるような秘密が隠されている事も多いのでちょっと面白いものです。
まあこういう本が実は一番のメインな訳ですが、実際インターネットの時代になると出版や直接の伝達というものの価値もまた違ってきます。
これは恐らくマイセンのものなのでしょう。マイセンのシンボルマークも慶応大学や外国人記者クラブなどのマークのように、ロッジで言うとセクレタリーのシンボルと似た聖アンデレ十字の形になるのかと思います。
この辺りは完全にフランス革命期でしょうか。アジテーションの意味もあったのでしょうね。
これはアメリカのワシントン記念石塔にもイングランドグランドロッジにもコピーがありました。恐らく原版が皆揃っているのはこのフランス大東社なのではないでしょうか。初期のイングランドのグランドロッジ傘下のロッジのシンボルを描いた版画ですね。
普通に時代物の陶器としても価値があるのでしょうが、由来がわかるとさらに価値が出るのかと思います。
良いものをおいてある感じです。
ちょっとわかりませんね。ルイ16世とかの周辺だと思いますが、わかりません。フィリップ・エガリテのブラザーオルレアン公ではなさそうです。
フランスは貴族の加入が多いせいかなんかいちいちものが良い感じですね。
エプロンの柄も流行があって面白いです。色も多様です。階級とか意味づけがそれぞれ異なるようです。
こういうシンボルがたくさん描かれている完品は価値が高そうです。
エプロンも多様です。
やっぱり素材もちょっと良いせいか保存も良いんですよね。
大した解説ではありませんが、写真が多いので3回に分けてアップします。
その前のRestaurant Au Petit Richeも非常に感じは良かったわけですが、さらにiPhoneの地図を見て近づくと感じの良い歩行者天国風の小道があり、オープンカフェの椅子がそこらじゅうに置いてある通りに入ります。
そこを歩くとすぐに写真で見たグランドロッジがあります。非常に近代風の建物でガラスでオープンな雰囲気で日本で言うと美術館のような雰囲気でしょうか。受付には中年の女性がいますがもちろん英語よりフランス語が良さそうです。見学は30分後からという事で何となくルーズな感じです。フランスのフリーメイスンの感じはその前のRestaurant Au Peitit Richeの感じもそうですが、若干日本のヤクザ屋さんみたいなちょっと舐めんなよ風な空気が微妙にある感じでしょうか。英仏の対立の空気があるのかもしれませんが、むしろ日本のヤクザ屋さんがその空気の影響を受けているという方が恐らく正しいのだと思います。それは日本陸軍の徽章が五芒星である事も証明になるのかと思います。
威圧感は全くなく街に溶け込んでいます。この通りの一番のポイントはユダヤ人のシナゴーグ、集会所が目立つ事でしょうか。2軒ほど近くにあったかと思います。明らかにユダヤ人の人は近くにはいませんでした。
時間が少しあったので近くに明らかにフリーメイスンリーの本を売っている本屋が2軒あったのでこちらも巡ります。一軒は少し店主が疲れてる感じでほとんど品数が無いレガリア(装飾具、エプロンなど)を主に売っている本屋で、もう一軒が写真に撮った大量に本が売っている、奥で少しレガリアも売っている店でした。
この出版物の種類を見るとさすがにフランスフリーメイスンリーの裾野の広さと歴史の深さを思い知りましたね。もちろんフランス語は全くわからないので推測も全くできないのですが、後でグランドロッジ推薦の入門用のマンガと星の王子様を本は買いましたが、その種類が様々にある事を見てもその知識や広がりの多様さが感じ取れました。イングランドのグランドロッジもその多さに感動しましたが種類はこちらの方が多いですし、ワシントンD.C.は一般の本屋ではほとんどフリーメイスンリー関連はなかったかと思います。
で時間になってもう一度グランドロッジに入りますが、今度は受付の女性がいなかったと思います。しょうがないので博物館の中の方に入って行って、なんか受付の人を呼んだりして、とにかくルーズな感じでとにかく英語がわざとかどうかわかりませんが通じない感じで、なんとか6ユーロか払って後は勝手に博物館を見ろと言われて写真を撮りまくりました。ツアーはお前はフランス語がわからないから駄目って事でした。後でそのツアーに来ていたのはフランスの地方から来た高齢者の10人位のツアーでした。基本的には博物館を説明して回るだけみたいでしたが、もしかすると恐らくロッジの中も少し見学させてくれるのかもしれません。その辺はイギリス系フリーメイスンリーと大東社系フリーメイスンリーとの筋があるのかもしれません。
さてそういうわけでとにかく写真を撮りまくって、説明はフランス語なので全くわからないのですが、それ以前に日本に来るオランダの大東社系のブラザーとも色々やり取りがあったので、そういう絡みも多少はあったのかもしれません。
フランス語がわからないとちょっとほとんどわかりませんが、実務的メイスンリーの時代の本とその過渡期の本とがごっちゃになってる感じでしょうか。
イオニア式、ドーリア式、コリント式後は何でしたっけか。それぞれ教訓が含められて5つの様式であったと思います。リチュアルにあったかと思います。トスカナ式と、コンポジット式ですね。いずれリチュアルもやりましょう。
この辺は完全に実務的メイスンリーの本ですね。
これはなんか曼荼羅のようですが、ヘブライ文字とかと対応させているようです。タロットの大アルカナと対応したり、12星座や太陽系の惑星などと対応しているのではないでしょうか。
これは実務的メイスンリーの本か間位でしょうか。
これはもちろんアンダーソン憲章ですね。恐らく初版本だと思います。
こちらはブラザーデザグリエですね。フランスから亡命したプロテスタント、ユグノーだと思います。
学術書のようですね。百科全書派を始めとしてフランスの科学分野はフランス革命期前後は特にすごいですからね。
これはミルクジャグなんでしょうが、実際はワインを入れたりするんでしょうね。大きな器にパーティードリンクを作るマニュアルなんかもフリーメイスンリーでもあるようです。
上の画像は良くわかりませんが恐らくフリーメイスンリーの儀式の行列の様子を示したものでしょうか。日本の朝鮮通信使や大名行列の解説のようです。下は確かイギリスのフリーメイスンリーの版画かなんか初期のものの資料だと思います。初期のアンダーソン憲章に関わったレガリアをデザインしたりしている方の手による絵ではないでしょうか。
これはだいぶ思索的メイスンリーの時代に入ってきた感じでしょうか。このブログでも使ったりしている現代のポスターの元になる版画だと思います。
やはりエプロンが多いですね。フランスのものはデザインも美しく様式も様々にあって、特に貴族が関わっているものが多いせいか古くても質が良いものが多い印象です。多段階位もあるせいか同じデザインのものが少なく美術品として十分成立するものです。上の船の模型はわかりませんが、恐らくノアの箱舟のシンボルになるのだと思います。
上の陶器の人形にしても一番いいものを置いてありますね。まあこういうフリーメイスンリーにまつわるアンティークの物を集めるのも一つのフリーメイスンリーの文化だと思われます。そういうのを紹介する意味もこのグランドロッジの博物館にはあるのかと思います。懐中時計などと同じく当時から貴族の慰みなのでしょうが、そういう中でもロストシンボルのピラミッドではないですが知性に影響を与えるような秘密が隠されている事も多いのでちょっと面白いものです。
まあこういう本が実は一番のメインな訳ですが、実際インターネットの時代になると出版や直接の伝達というものの価値もまた違ってきます。
これは恐らくマイセンのものなのでしょう。マイセンのシンボルマークも慶応大学や外国人記者クラブなどのマークのように、ロッジで言うとセクレタリーのシンボルと似た聖アンデレ十字の形になるのかと思います。
この辺りは完全にフランス革命期でしょうか。アジテーションの意味もあったのでしょうね。
これはアメリカのワシントン記念石塔にもイングランドグランドロッジにもコピーがありました。恐らく原版が皆揃っているのはこのフランス大東社なのではないでしょうか。初期のイングランドのグランドロッジ傘下のロッジのシンボルを描いた版画ですね。
普通に時代物の陶器としても価値があるのでしょうが、由来がわかるとさらに価値が出るのかと思います。
良いものをおいてある感じです。
ちょっとわかりませんね。ルイ16世とかの周辺だと思いますが、わかりません。フィリップ・エガリテのブラザーオルレアン公ではなさそうです。
フランスは貴族の加入が多いせいかなんかいちいちものが良い感じですね。
エプロンの柄も流行があって面白いです。色も多様です。階級とか意味づけがそれぞれ異なるようです。
こういうシンボルがたくさん描かれている完品は価値が高そうです。
エプロンも多様です。
やっぱり素材もちょっと良いせいか保存も良いんですよね。
大した解説ではありませんが、写真が多いので3回に分けてアップします。
さてどうも評判はよろしくないような博物館巡りです。やはり文章が多い方が内容が伴っている印象でしょうか。
グラスはそれぞれ一揃いあるのでしょうね。良いものを見つくろってバンケットなどで使うのでしょうか。フランスはワインがおいしいですからグラスも種類が多いです。
フリーメイスンリー式の結婚式の様子でしょうか。この他フリーメイスンリーには葬儀の式次第などもあります。有名なモーツァルトのフリーメイスンのための葬送行進曲はこれらに合わせて書かれているかと思われます。
下のエプロンは珍しいですね。フランス大東社特有のシンボルの木のエプロンです。ロンドンオリンピックが印象深かったかと思われます。最高存在の式典が歴史的には有名です。上はやはり女性の存在を重要視するフランス大東社特有の陶器でしょうか。フランス革命時も女性の存在は非常に重要かと思われます。
タペストリーの一種でしょうか。この後ルーブル美術館でもフランスカトリックの宗教美術として巨大なタペストリーがいくつも出てきます。それに合わせたフランスフリーメイスンリー特有のものではないでしょうか。
古書は多量に認めます。こうした挿絵が現在販売されているようなポスターの原画のようです。
アダムとイブと智恵の木も象徴として描かれます。アダムの手の動きがニュートンの肖像画とよく似ています。
ESQUISSEはそのまま下絵やスケッチという意味だそうです。ロッジで使う証明書や版画の下絵集といったところでしょうか。
誰だか分りませんが、三色旗のベルトをしていますので共和派と思われます。
勇ましい顔をしています。ブラザーナポレオン関係でしょうか。
レガリアも勲章も衣装も凝っています。
マルタ騎士団の十字と下にあるのがスコティッシュライトの33階級の頸飾でしょうか。ブラザーナポレオンはマルタ騎士団と関係が深いようです。
一見して美しいエプロンですね。中央のロッジを意味するドームはジャコバン派のロッジの形のようです。まさにフランス革命はロンドンの革命協会による壮大な実験であったのだと思われます。
古書は多数ありますがフランス語は全くわかりません。
シールですかね。封蝋に押す封印です。証明書の発行に良く認めます。
生命の木でしょうか。ユダヤ教のセフィロトの木とはまた異なるようです。
これは有名なテニスコートの誓いですね。
All Seeing Eyeを中央に据えたポスターのようです。
誰でしょうか。ルイ16世とかそのあたりかもしれません。
わかりませんねえ。集会所ではありそうですが。
一輪差しみたいですね。
やっぱり指の形なんでしょうけど、女性が持ってる下げ振りなんかはホテルにあった絵の感じと似ています。
こう言うのは全般にRegaliaと言いますが、日本語にすると頸飾で良いのでしょうかね。勲章とはまた違うかもしれません。幾何学模様を強調したものとキリスト教のシンボルを強調したものと二手に分かれるようです。
マルタ十字が多いですね。ヨークライトの第12位階がマルタ騎士団です。ナチスドイツも使用していたかと思います。マルタ島はイタリアのシチリア島に近いところにあり地政学的に地中海世界のちょうど中心に位置する島のようです。マルタ騎士団は第一次十字軍で占領したエルサレムを統治した聖ヨハネ騎士団を源流とした現在もローマに存続する騎士団で国際的な地位を占めていて、カトリックの中でも特別な地位を占めています。1798年にブラザーナポレオンの侵攻で領土を失ったとされるようですが、実際にはブラザーナポレオンはマルタ島でフリーメイスンとして初めて認証されたなどあるようです。マルタ騎士団は正式名称をロードスおよびマルタにおけるエルサレムの聖ヨハネ病院独立騎士修道会というそうです。聖ヨハネ騎士団はホスピタル騎士団ともいい、アマルフィの商人が十字軍に参加する人々を支援する病院を兼ねた巡礼宿泊所を設立したところに始まるそうです。
剣と血もしくは骨のイメージでしょうか。他では認めない独特のシンボルです。
スコティッシュライト、House of the Templeのシンボルマークの源流でしょうか。
この版画はフランス革命の登場人物が相当人数描かれていそうです。いつ頃のものかわかりませんが、恐らくフランス革命が落ち着いた後の共和政時代に描かれたのではないでしょうか。中心にマルタ十字が描かれていたり、個々人の顔の特徴が良くわかるように描かれていたり見る人にフランス革命での登場人物とフリーメイスンリーとの関連に興味を抱かせるものとなっているかと思います。フランス革命史の専門家が見ると様々な意見がありそうです。いずれ詳しくわかればこのブログでもとりあげたいかと思います。
デザインが独特で面白いですね。価値はいかほどのものでしょう。
エプロンのデザインが非常に独特で他に見たことがないものが多いですね。宗教画の要素もあり、シンボルも目新しいものが多くまた色彩も美しく美術品としても価値が高いかと思います。
最終的にはフランス革命に行きつくのでしょうが、これらの陶磁器がどの時期のものかはわかりませんが、貴族文化の延長である事はわかります。非常に華やかで華麗で面白いですね。
これも恐らくテンプル騎士団の儀式になるのだと思いますが、フリーメイスンリーの位階としてではなく、騎士団の復興として行われた可能性があります。
筆致を見ても時代が下っていることを感じさせます。
胸像の名前があるので後で調べてみましょう。
ベルギーの大東社のシンボルでしょうか。
上はCertification証明書でしょうか。下は青と黄色の染付が鮮やかで日本の陶器のようです。
これもシール封印でしょうかね。
感じのよさそうなものですね。
これは恐らく日本製の漆器でしょうね。もしかするとこの並びは日本関連なのかもしれません。東京国立博物館にあるもののようです。
本の挿絵か何かでしょうか。マリアンヌの象徴が成立した頃のようです。その端緒などでしょうか。第二共和制とかその位のようです。
これはセフィロトの木ですね。三角形のシンボルとの融合が面白いですね。革命や政権の交代が一段落した後でユダヤ教が出てきた感じでしょうか。ユダヤ陰謀論の元ネタみたいです。旧約聖書は常にあるんですけどね。
やっぱりマリアンヌで統一されてきた感じでしょうか。
自由の女神像になっていくのかと思います。フリジア帽のようですが、これが甲冑となるとローマの女神ミネルヴァ神となります。知識の神として欧米の大学で象徴として像が建てられるようです。フリジア帽をかぶっている自由の女神はミトラス神とミネルヴァ神の折衷なのでしょうね。日本の大黒様のようなものでしょうか。
これもユニークですね。現代からみるとチョコレートか何かの包装のデザインのようですが、フリーメイスンリーのシンボルのエプロンです。もともとがここにあってそれからデザインになったというのが歴史のようです。
儀式で使う剣もシンボルなのですが、やはりその剣も変わった形をしています。
それぞれの階級でのトレーシングボードを使ったレクチャー、儀式の様子を示した版画です。参加者の恰好がいかにも革命以前の貴族の恰好をしているところが特徴ではないでしょうか。
かつてのフランスのグランドロッジでしょうか。急に照明が暗くなっていますね。一種のイニシエーション効果を狙っているのでしょうか。
Mark MasterもしくはMaster Masonのエプロンでしょうか。赤を基調としているので上位位階のエプロンになるかと思います。
この博物館のシンボルマークのようなシンボルの重ね合わせです。
これはブルーロッジの見習いのエプロンでしょうか。
この辺は装飾の少ないブルーロッジの源流でしょうか。
トロフィーでしょうか。直接は飲めなさそうです。儀式で使うのでしょうか。
フランス大東社の総会でしょうか。
どこかのロッジのシンボルマークでしょうか。褐色の肌で描かれていて、有色人種のロッジのようです。
美しいですね。
さてさて入口の暗号などで視聴調整をしているような状況の当ブログですが、秘密の暴露のようなものになっているのでしょうか。フリーメイスンリーでは秘密はほとんど残されていないというのがフリーメイスンでは常識のようですが、一般には秘密結社、陰謀団体という認識は未だに普遍的であるようです。秘密とは実は自身の秘密にしておきたい偏見や間違った考え方、真実でない事のようです。
さてそういうわけであまり目にする事ができないフランスフリーメイスンリーの代表であるフランス大東社のグランドロッジの博物館です。
これはエプロンでしょうか。壁に掛ける装飾でしょうか。わかりませんが異常に美しい絵画のようなデザインとなっています。貴族趣味やフランス革命時代のナポレオン軍の戦勝を思わせる雰囲気となっています。
スコティッシュライトの31階級なのでしょうか。マルタ十字が象徴的です。指の形は何でしょうね。陰謀論では出てこない指の形ではないでしょうか。
何かのパンフレットか認証状でしょうか。フランス語がわからないのでわかりません。
略語の一文字がたくさん出てきますが良くわかりません。ぜひ調べてみてください。
スコティッシュライトの30階級になるのでしょうか。レクチャーボードなのでしょうね。
難しそうです。
テンプル騎士団総長ジャック・デ・モレーでしょうか。
高位位階についての解説のようです。
ブラザーアルバート・パイクのような高位位階の作成に貢献した人々ではないでしょうか。
自由の女神の原型でしょうか。
トゥールーズのロッジのフラッグでしょうか。
グランドロッジのフラッグのようです。
歴代のグランドマスターでしょうか。
画家でしょうか。
グランドロッジの様子ですが、女性が普通に描かれているのが特徴的だと思います。
私もいくつか持っている時計のコレクションが無造作に置いてありました。Dudleyの時計もあります。
手書きのパンフレットのようです。
切手のコレクションでしょうか。
記念メダルのコレクションでしょうか。
イラスト入りのはがきでしょうか。
写真やイラスト、ポスターなどでしょうか。
シンボルのポスターや証明書、暴露記事などでしょうか。
集合写真や記念メダルと思われます。
この後受付でお土産のマリアンヌ像の小さいものなどを買いました。
ロッジの中を見せてくれというとそれはだめという事でした。
(追記:以前にフェイスブックでロシアの現在グランドマスターをしているブラザーがフランス大東社を訪問した際のロッジの内部の様子を写真にしてアップしていましたのでそれをお借りしてここに出します。参考としてください。
)
コレクションのカタログなど売っていました。写真のはがきなどたくさん売っていました。
外に出ると若干晴れていたのでしょうかね。
この後先ほどの本屋で本とペンなどを買いました。フリーメイスンかという事で、スコティッシュライトは一緒だと強調していました。友愛の結び目のピンバッジをおまけしてくれました。
さてこの後はお土産をホテルに置きに戻ってからバスティーユ広場に向かいます。
さてそういうわけであまり目にする事ができないフランスフリーメイスンリーの代表であるフランス大東社のグランドロッジの博物館です。
これはエプロンでしょうか。壁に掛ける装飾でしょうか。わかりませんが異常に美しい絵画のようなデザインとなっています。貴族趣味やフランス革命時代のナポレオン軍の戦勝を思わせる雰囲気となっています。
スコティッシュライトの31階級なのでしょうか。マルタ十字が象徴的です。指の形は何でしょうね。陰謀論では出てこない指の形ではないでしょうか。
何かのパンフレットか認証状でしょうか。フランス語がわからないのでわかりません。
略語の一文字がたくさん出てきますが良くわかりません。ぜひ調べてみてください。
スコティッシュライトの30階級になるのでしょうか。レクチャーボードなのでしょうね。
難しそうです。
テンプル騎士団総長ジャック・デ・モレーでしょうか。
高位位階についての解説のようです。
ブラザーアルバート・パイクのような高位位階の作成に貢献した人々ではないでしょうか。
自由の女神の原型でしょうか。
トゥールーズのロッジのフラッグでしょうか。
グランドロッジのフラッグのようです。
歴代のグランドマスターでしょうか。
画家でしょうか。
グランドロッジの様子ですが、女性が普通に描かれているのが特徴的だと思います。
私もいくつか持っている時計のコレクションが無造作に置いてありました。Dudleyの時計もあります。
手書きのパンフレットのようです。
切手のコレクションでしょうか。
記念メダルのコレクションでしょうか。
イラスト入りのはがきでしょうか。
写真やイラスト、ポスターなどでしょうか。
シンボルのポスターや証明書、暴露記事などでしょうか。
集合写真や記念メダルと思われます。
この後受付でお土産のマリアンヌ像の小さいものなどを買いました。
ロッジの中を見せてくれというとそれはだめという事でした。
(追記:以前にフェイスブックでロシアの現在グランドマスターをしているブラザーがフランス大東社を訪問した際のロッジの内部の様子を写真にしてアップしていましたのでそれをお借りしてここに出します。参考としてください。
)
コレクションのカタログなど売っていました。写真のはがきなどたくさん売っていました。
外に出ると若干晴れていたのでしょうかね。
この後先ほどの本屋で本とペンなどを買いました。フリーメイスンかという事で、スコティッシュライトは一緒だと強調していました。友愛の結び目のピンバッジをおまけしてくれました。
さてこの後はお土産をホテルに置きに戻ってからバスティーユ広場に向かいます。
さてミレニアムホテルにいったん戻ってから外に出ますが、とりあえずパリと言えばフランス革命という事で、ユダヤ教会がかつては数多くあったというバスティーユ監獄があったバスティーユ広場に向かいます。
ホテルを出るとすぐにロシア人の中年女性が私に道を尋ねてきてルーヴル美術館はどっちだと聞いてくるハプニングがありましたが、もちろん明らかにチャイニーズの私に尋ねてくる不自然さはとてつもないわけですが、すぐにルーヴルに向かえという意味であったという事はあとでわかる事です。まあそんな事がフリーメイスンリーはあるわけです。
とりあえずパリの雰囲気を味わうという意味でもバスティーユ広場に向けて歩き始めます。途中自由の女神像についてで触れたレピュブリック広場のマリアンヌ像なども観ていこうと計画します。
パリも一応グーグルアースの概要図です。今回の2泊3日滞在した間に把握した場所を記載してあるだけなのでなかなか大雑把なものですがこのくらいがわかっておけば訪問するときにそれほど困らないのではないでしょうか。まあ行けばすぐわかるレベルだと思います。
15分ほど歩くとサンドニ門というのがあります。かつてのパリ市を取り囲む城壁の一部であったそうですが、1988年に補修されているそうです。ルイ十四世の凱旋門であったそうです。最初のものは14世紀のシャルル4世の治世に建てられたものだそうです。オベリスク状の壁画があります。
もう少し行くとまたもう少し小さな門がありサンマルタン門というそうです。やはり同じくルイ14世の戦勝を記念した凱旋門で元々市を取り囲む城壁の門があったそうです。
またもう少し行くとブラザーヨハン・シュトラウスⅡ世の胸像があります。明らかに髭にいたずらがしてあったり、落書きがあったりとフリーメイスンの胸像でもこれだけ自由ないたずらがあるのがパリらしい感じでしょうか。さすがに近所の子供がバツが悪そうな表情をしていますが、やはりフリーメイスンリーがわかるのだと思われます。
ブラザーイシドール・テイラー卿です。基本的にパリも胸像や銅像がある方は皆フリーメイスンだと思われます。演劇や絵画の分野で貢献し、特に各分野の学術団体の成立に貢献したそうです。コンコルド広場のオベリスクにも関係し、フランスの芸術アカデミーの会員となっているようです。
レピュブリック広場のマリアンヌ像は非常に残念ながら全面改修中でした。そこで撮った最初の写真が奇跡の一枚なのですが、いかにもな感じの高齢のユダヤ人男性に甲斐甲斐しく手を貸す孝行なお孫さんらしきキッパーを被るユダヤ人少年の姿がバッチリ映っています。まあまさにパリらしい、バスティーユ広場に近い場所という事、しかもフリーメイスンリーらしい写真という事になるのだと思います。まさに表題の通り革命の馬鹿騒ぎ、その名にふさわしいそれらの民衆の騒動の底流で見守るユダヤ人達の静かな変わらぬ哲学を見せつけるものではないかと思われました。
三つの円が重なるtriquentaや車輪の形のIchthys Wheelの形があったりします。もちろんロータリークラブではなく元のイクトゥスホイールだと思われます。カトリックの教会かその関連なのだと思われます。
これは小さくてわかりにくいですが眼医者か眼鏡屋だと思いますが、いわゆるAll Seeing Eyeのモチーフの看板があったので撮りました。フリーメイスンリー関連なのだと思われます。
まあハーレー・ダビッドソンもフリーメイスンリー関連ですね。
これは三色旗ですね。美しい国旗です。
すっかり曇ってしまったバスティーユ広場の革命記念柱の写真です。ロンドンのピカデリーサーカスの天使の像のような形です。ウィキペディアの写真で見ると裸の男性の天使で頭部に六芒星があります。この場所で1789年7月14日にフランス革命の口火が切られたわけですが、この7月14日というのはまさにフリーメイスンリーのグランドロッジ結成の6月24日の洗礼者ヨハネの日の20日後、アメリカ独立宣言の1776年7月4日の10日後であり、やはり洗礼者ヨハネの日のちょうど切りが良い日数の後である事は関連がある事かもしれません。現在は新たなオペラ座が出来たりとしているようですが、いずれにしてもフランス革命の象徴的な場所である事は変わりないかと思われます。
通りの看板を写したのですね。バスの後ろに写るのが新しいオペラ座のようです。
なかなかさみしいと言えばさみしい感じですが、フランス革命の評価というのも難しいものがありますし、革命は1789年以降現在まで進行しているという考え方もあるそうで、この街自体がその象徴であるという考え方もあるのかもしれません。ブラザーナポレオンはこの地に巨大な象の像を置く計画を考えていたそうで、その形などからもエトワール凱旋門のモデルともなるようなアイディアであり、アレクサンダー大王の伝説のインドでの象を使った軍隊という故事にもその元があったのかも知れません。またそれ以前にはエジプト様式の胸から水を出す女性の像のある泉があったそうです。
美容室のようですが、ブラザージャック・ルイ・ダヴィッドの名前に近い店名です。ジャックとジャンで異なるようですが、明らかに意識した店名だと思われます。美容業界では有名なチェーン店のようです。
次回はシテ島のノートルダム寺院に向かいます。
ホテルを出るとすぐにロシア人の中年女性が私に道を尋ねてきてルーヴル美術館はどっちだと聞いてくるハプニングがありましたが、もちろん明らかにチャイニーズの私に尋ねてくる不自然さはとてつもないわけですが、すぐにルーヴルに向かえという意味であったという事はあとでわかる事です。まあそんな事がフリーメイスンリーはあるわけです。
とりあえずパリの雰囲気を味わうという意味でもバスティーユ広場に向けて歩き始めます。途中自由の女神像についてで触れたレピュブリック広場のマリアンヌ像なども観ていこうと計画します。
パリも一応グーグルアースの概要図です。今回の2泊3日滞在した間に把握した場所を記載してあるだけなのでなかなか大雑把なものですがこのくらいがわかっておけば訪問するときにそれほど困らないのではないでしょうか。まあ行けばすぐわかるレベルだと思います。
15分ほど歩くとサンドニ門というのがあります。かつてのパリ市を取り囲む城壁の一部であったそうですが、1988年に補修されているそうです。ルイ十四世の凱旋門であったそうです。最初のものは14世紀のシャルル4世の治世に建てられたものだそうです。オベリスク状の壁画があります。
もう少し行くとまたもう少し小さな門がありサンマルタン門というそうです。やはり同じくルイ14世の戦勝を記念した凱旋門で元々市を取り囲む城壁の門があったそうです。
またもう少し行くとブラザーヨハン・シュトラウスⅡ世の胸像があります。明らかに髭にいたずらがしてあったり、落書きがあったりとフリーメイスンの胸像でもこれだけ自由ないたずらがあるのがパリらしい感じでしょうか。さすがに近所の子供がバツが悪そうな表情をしていますが、やはりフリーメイスンリーがわかるのだと思われます。
ブラザーイシドール・テイラー卿です。基本的にパリも胸像や銅像がある方は皆フリーメイスンだと思われます。演劇や絵画の分野で貢献し、特に各分野の学術団体の成立に貢献したそうです。コンコルド広場のオベリスクにも関係し、フランスの芸術アカデミーの会員となっているようです。
レピュブリック広場のマリアンヌ像は非常に残念ながら全面改修中でした。そこで撮った最初の写真が奇跡の一枚なのですが、いかにもな感じの高齢のユダヤ人男性に甲斐甲斐しく手を貸す孝行なお孫さんらしきキッパーを被るユダヤ人少年の姿がバッチリ映っています。まあまさにパリらしい、バスティーユ広場に近い場所という事、しかもフリーメイスンリーらしい写真という事になるのだと思います。まさに表題の通り革命の馬鹿騒ぎ、その名にふさわしいそれらの民衆の騒動の底流で見守るユダヤ人達の静かな変わらぬ哲学を見せつけるものではないかと思われました。
三つの円が重なるtriquentaや車輪の形のIchthys Wheelの形があったりします。もちろんロータリークラブではなく元のイクトゥスホイールだと思われます。カトリックの教会かその関連なのだと思われます。
これは小さくてわかりにくいですが眼医者か眼鏡屋だと思いますが、いわゆるAll Seeing Eyeのモチーフの看板があったので撮りました。フリーメイスンリー関連なのだと思われます。
まあハーレー・ダビッドソンもフリーメイスンリー関連ですね。
これは三色旗ですね。美しい国旗です。
すっかり曇ってしまったバスティーユ広場の革命記念柱の写真です。ロンドンのピカデリーサーカスの天使の像のような形です。ウィキペディアの写真で見ると裸の男性の天使で頭部に六芒星があります。この場所で1789年7月14日にフランス革命の口火が切られたわけですが、この7月14日というのはまさにフリーメイスンリーのグランドロッジ結成の6月24日の洗礼者ヨハネの日の20日後、アメリカ独立宣言の1776年7月4日の10日後であり、やはり洗礼者ヨハネの日のちょうど切りが良い日数の後である事は関連がある事かもしれません。現在は新たなオペラ座が出来たりとしているようですが、いずれにしてもフランス革命の象徴的な場所である事は変わりないかと思われます。
通りの看板を写したのですね。バスの後ろに写るのが新しいオペラ座のようです。
なかなかさみしいと言えばさみしい感じですが、フランス革命の評価というのも難しいものがありますし、革命は1789年以降現在まで進行しているという考え方もあるそうで、この街自体がその象徴であるという考え方もあるのかもしれません。ブラザーナポレオンはこの地に巨大な象の像を置く計画を考えていたそうで、その形などからもエトワール凱旋門のモデルともなるようなアイディアであり、アレクサンダー大王の伝説のインドでの象を使った軍隊という故事にもその元があったのかも知れません。またそれ以前にはエジプト様式の胸から水を出す女性の像のある泉があったそうです。
美容室のようですが、ブラザージャック・ルイ・ダヴィッドの名前に近い店名です。ジャックとジャンで異なるようですが、明らかに意識した店名だと思われます。美容業界では有名なチェーン店のようです。
次回はシテ島のノートルダム寺院に向かいます。
さてさてまあ色々とこだわりのブログですが、実際はボンヤリとパリを歩いているだけの話です。
一応革命の最初の場所を見た後は一番有名なキリスト教の教会を巡ろうとノートルダム大聖堂に向かいます。フランスは有名なカトリックの国だと思っていましたので最初に教会に向かうのは大事かなと思っていました。フリーメイスンリーのロッジの後は教会に向かうのが良いかなという考えです。歩きながらフリーメイスンリー関連のものが無いか探していきます。
とりあえずそれっぽいものを一生懸命写真に撮っているというところでしょうか。
いわゆるセーヌ川ですね。橋の名前はちょっとわかりません。
教会ですね。ちょっと詳しくはわかりません。お調べください。
こちらも教会でしょうかね。
ゴシックの尖塔が見えてきます。あれはノートルダム寺院ですね。
サンルイ島からみたセーヌ川ですね。こちらがブルボン通り、反対がオルレアン通りです。もちろん革命後につけた名前だと思われます。
橋の名前もサンルイ橋でしたね。ブルボンとオルレアンが交わってルイっていうのは一つの歴史でしょうか。まあそういう意味があるのだと思われます。
サンルイ橋からのセーヌ川の様子です。
ノートルダム大聖堂が見えてきます。
裏側から近づくと大分有名な形と違います。
ブラザーカルロ・ゴルドーニの胸像です。喜劇作家だそうです。85歳まで長生きしたそうです。
あれあれなんだか変な教会ですね。鬼瓦みたいなガーゴイルが乱立しています。
入り口は教会っぽいですがどうも雰囲気がおかしいですね。三角形がどうも目立ちます。
入り口のフランス語を見てフランスに来た事を実感します。しかしガーゴイルがなんだかとても教会とは思えませんし、その割には入口に教会を強調してキリスト像があったりなんだかどうもおかしな雰囲気です。彫像なんかを見て荘厳な教会なんだろうなと思いつつ入場します。無料であったと思います。
恐らく古い時代の聖人なのでしょうね。ちょっと詳しくはわかりません。
入り口の白黒のモザイクを確認して、やはりフランスは全てフリーメイスンリー関連なのだなと確認して入場します。入場してあっと驚く状況となります。11月30日に合わせて内容はちょっと薄いですがこれでその1は終わりです。
一応革命の最初の場所を見た後は一番有名なキリスト教の教会を巡ろうとノートルダム大聖堂に向かいます。フランスは有名なカトリックの国だと思っていましたので最初に教会に向かうのは大事かなと思っていました。フリーメイスンリーのロッジの後は教会に向かうのが良いかなという考えです。歩きながらフリーメイスンリー関連のものが無いか探していきます。
とりあえずそれっぽいものを一生懸命写真に撮っているというところでしょうか。
いわゆるセーヌ川ですね。橋の名前はちょっとわかりません。
教会ですね。ちょっと詳しくはわかりません。お調べください。
こちらも教会でしょうかね。
ゴシックの尖塔が見えてきます。あれはノートルダム寺院ですね。
サンルイ島からみたセーヌ川ですね。こちらがブルボン通り、反対がオルレアン通りです。もちろん革命後につけた名前だと思われます。
橋の名前もサンルイ橋でしたね。ブルボンとオルレアンが交わってルイっていうのは一つの歴史でしょうか。まあそういう意味があるのだと思われます。
サンルイ橋からのセーヌ川の様子です。
ノートルダム大聖堂が見えてきます。
裏側から近づくと大分有名な形と違います。
ブラザーカルロ・ゴルドーニの胸像です。喜劇作家だそうです。85歳まで長生きしたそうです。
あれあれなんだか変な教会ですね。鬼瓦みたいなガーゴイルが乱立しています。
入り口は教会っぽいですがどうも雰囲気がおかしいですね。三角形がどうも目立ちます。
入り口のフランス語を見てフランスに来た事を実感します。しかしガーゴイルがなんだかとても教会とは思えませんし、その割には入口に教会を強調してキリスト像があったりなんだかどうもおかしな雰囲気です。彫像なんかを見て荘厳な教会なんだろうなと思いつつ入場します。無料であったと思います。
恐らく古い時代の聖人なのでしょうね。ちょっと詳しくはわかりません。
入り口の白黒のモザイクを確認して、やはりフランスは全てフリーメイスンリー関連なのだなと確認して入場します。入場してあっと驚く状況となります。11月30日に合わせて内容はちょっと薄いですがこれでその1は終わりです。
さてまあ題名がセンセーショナルなんですが、正統派フリーメイスンリーである英米フリーメイスンリーでは入会の条件として認められる宇宙の創造主の存在を信じるという神への信仰、真摯な信仰というものが、非正規のフランス大東社系では入会条件として撤廃されたということに由来するものとなっています。ウィキペディアによればそのきっかけはアメリカルイジアナ州でのスコティッシュライトのブルーロッジに対する管轄権の要求であったという事であったそうです。それはすなわちアメリカの通常のブルーロッジに対してスコティッシュライトが管轄権を持ち、さらにそのスコティッシュライトに対してフランス大東社が管轄権を持っていたという、まあイギリスグランドロッジが世界中のブルーロッジに対して認証を行うという前提という、平等と一方で正反対の管轄権や認証という良く陰謀論で言われるピラミッド構造の矛盾を意味する部分になるのだと思います。実際には上位階級や付帯組織といったものはフリーメイスンリーの中においては何度も言うようにさらなる精神的向上や様々な楽しみとしての人のつながり、色や傾向といったものでしかないのだと思われます。
まあいずれにしても正統派フリーメイスンリーが真摯な信仰を条件として挙げているのに対して、大東社系フリーメイスンリーではそれらは良心の自由と人間性の確立とされており、それが無神論者や共産主義者を受け入れ、またかつての共産国や共産国圏での影響力として傾向の違いとして表れているというところもあるかと思います。それらは本質的な違いというものではなく、大陸から離れ、王権と神権を一致させて大英帝国を築いたイギリスのフリーメイスンリーの歴史と、常にカトリックの影響を受けつつフランス革命によってフリーメイスンリーが一気に花開いたヨーロッパ大陸の歴史と地理的条件の経緯の違いであり、ユーロスターで繋がる今日において地理的にもその差異は極めて小さいものでありかつそれらが別の組織として存在する事は互いの歴史を尊重し合う現れなのだと思われます。
まあかなり難しい問題を極めて簡潔にまとめているわけですが、実際にはこの話の関連でアキレス腱が切れて渡航が難しくなった事もあるかと思われ、様々な具体的な問題は現在もあり続けているものかと想像されます。
さてノートルダム大聖堂はパリで最も有名なキリスト教カトリックの大聖堂だと思われるのですが、ウィキペディアによれば最初に建築されたのは12世紀で1345年に完成したそうで、歴史も相当古いわけですが、1789年のフランス革命時にはやはりカトリックの象徴として民衆の襲撃を受けて彫刻などは破壊されて、司教もその際にギロチンをかけられてしまったそうです。結局現在のノートルダム大聖堂の形になったのは恐らくフリーメイスンだと思われるウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクによって19世紀に修復された結果だそうで、恐らく革命からそれまでの間は廃墟に近い形で存在していたのではないかと思われます。
そういう歴史を知ってしまうとなるほどなあとわかるわけですが、良く知らないでカトリックの教会と思って訪問して私はかなり衝撃を受けました。
まあ写真撮影禁止で無いのがこのフランスのパリらしいというところだと思われます。この辺りが非常に良くアメリカと似ています。
いかにもな感じで十字架にかかったキリストの像が置かれています。うんうんいかにもカトリックの教会だという印象でしょうか。
おやあきれいなステンドグラスだなあと撮影可なのでどんどん撮ろうと全てのステンドグラスを撮影していきます。まあ結局ほとんどうまく写っていませんでしたね。
うーんきれいなステンドグラスですが、どうもなんか変だなと。あれ六芒星とかキリスト教の教会か?なんか幾何学模様が多いような。あれもしかして。
どうもここは教会らしくないぞと。マリア様の像があったりいかにもな感じにシンボルが配置されていますが、最も目立つステンドグラスはどうも聖書の内容を語ったりはしていないぞと。幾何学で完全に構成されていてカトリックであれば絶対に示されないような六芒星やそれに似た形が繰り返し強調されていると。まあ解説すればそんな感じになりますが、実際は印象ですね。
慣れ親しんだシンボルの形に似た形や三角形の形や床のゴシックの白黒のモザイクなど見ていてわかりました。そうかここはブラザーナポレオンが教皇の手を借りず自らの手で皇帝の戴冠を行った場所なんだなと。それを考えれば明らかにその時代にこのフランスの象徴とも言えるカトリックの大聖堂はフリーメイスンリーのロッジに変えてしまったのだと。後で知るわけですがもちろんフランス革命で司祭もギロチンにかけられてしまったという事です。それはしょうがないなと。
うまく写っていませんがとにかく美しい幾何学模様の繰り返しです。幾何学模様という事でそのままシンボルのGeometryのGの強調という事になるのかと思います。GodとGeometryの一致という事でまさにフリーメイスンリーのシンボルの表現という事になるのだと思います。
十字や菱形を構成し床には白黒のモザイクです。斜め十字の聖アンデレ十字もあります。まさにフリーメイスンリーのシンボル尽くしでどう考えてもフリーメイスンリーのロッジです。入場している人もフリーメイスン以外は誰もわからないのではないでしょうか。
マルタ十字やシェブロンなど明らかにフリーメイスンリーを象徴するシンボルが満載です。さすがに革命のあったところは違うなあという感慨を通り越してあきれてしまうような圧倒的なフリーメイスンリーのシンボリズムです。しかしこれだけ大胆だとほとんどの人は気付かないだろうなと。
垂直儀のような形、五芒星の形、All Seeing Eyeの形、三角形の形などいかにもなこのブログの市章の話のまさに実際編というシンボルの百花繚乱です。キリスト教の逸話を強調したような絵もあります。こういう教訓が大事だという教えなのでしょうね。
教会に入ったと思ったらロッジだったわけですね。聖アンデレの磔の様子を描いたような絵もあります。もしかするとシンボルのヒントを書いた絵なのかもしれません。All Seeing Eyeのデザインのようないかにもなステンドグラスもあります。これはさすがに他所には無いのではないでしょうか。
さすがにコンパスと直角定規をもろに書いたものはありませんでしたが、ほぼそれに近い表現を繰り返し表していました。それでいてきちんとカトリックの祭壇の形式や聖書の逸話を示したような絵画を飾ってありそれなりの知識が無いと全く気付かないでしょうね。
なにか象徴画のようなものもありますね。この時は非常に急いでいたのでとにかく写真だけ全部撮ったという感じです。まあフリーメイスンリー博物館と同じなのですが、細かい内容や教訓についてはまた何度かいけたらそれぞれ個別に検討するという事になるのかと思います。その位の膨大な内容や示唆を含んだ印象です。それだけの歴史と蓄積がこのノートルダム大聖堂を舞台として過去にあったという証明なのだと思われます。
Vesica Piscisになるのでしょうか。いずれにしても幾何学模様が同じ形はなく繰り返されています。様々な彫刻や絵画がありますが最後まで直接的なコンパスと直角定規の表現はありません。
まあここまでこのブログを全て読んでいる方であれば、この場所がほぼカトリックの教会ではなくフリーメイスンリーのロッジである事をご理解いただけるかと思います。そしてそうなった理由が革命に始まるフランスのフリーメイスンリーの歴史でありまた現代に至るその後の歴史がこうした知識があるものにとっては驚くべき建築となっている装飾を生み出しているという事がわかってくるのではないかと思います。そしてそれがフランスフリーメイスンリーの歴史と象徴であるのかと思われます。
次回はシテ島周辺です。
まあいずれにしても正統派フリーメイスンリーが真摯な信仰を条件として挙げているのに対して、大東社系フリーメイスンリーではそれらは良心の自由と人間性の確立とされており、それが無神論者や共産主義者を受け入れ、またかつての共産国や共産国圏での影響力として傾向の違いとして表れているというところもあるかと思います。それらは本質的な違いというものではなく、大陸から離れ、王権と神権を一致させて大英帝国を築いたイギリスのフリーメイスンリーの歴史と、常にカトリックの影響を受けつつフランス革命によってフリーメイスンリーが一気に花開いたヨーロッパ大陸の歴史と地理的条件の経緯の違いであり、ユーロスターで繋がる今日において地理的にもその差異は極めて小さいものでありかつそれらが別の組織として存在する事は互いの歴史を尊重し合う現れなのだと思われます。
まあかなり難しい問題を極めて簡潔にまとめているわけですが、実際にはこの話の関連でアキレス腱が切れて渡航が難しくなった事もあるかと思われ、様々な具体的な問題は現在もあり続けているものかと想像されます。
さてノートルダム大聖堂はパリで最も有名なキリスト教カトリックの大聖堂だと思われるのですが、ウィキペディアによれば最初に建築されたのは12世紀で1345年に完成したそうで、歴史も相当古いわけですが、1789年のフランス革命時にはやはりカトリックの象徴として民衆の襲撃を受けて彫刻などは破壊されて、司教もその際にギロチンをかけられてしまったそうです。結局現在のノートルダム大聖堂の形になったのは恐らくフリーメイスンだと思われるウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクによって19世紀に修復された結果だそうで、恐らく革命からそれまでの間は廃墟に近い形で存在していたのではないかと思われます。
そういう歴史を知ってしまうとなるほどなあとわかるわけですが、良く知らないでカトリックの教会と思って訪問して私はかなり衝撃を受けました。
まあ写真撮影禁止で無いのがこのフランスのパリらしいというところだと思われます。この辺りが非常に良くアメリカと似ています。
いかにもな感じで十字架にかかったキリストの像が置かれています。うんうんいかにもカトリックの教会だという印象でしょうか。
おやあきれいなステンドグラスだなあと撮影可なのでどんどん撮ろうと全てのステンドグラスを撮影していきます。まあ結局ほとんどうまく写っていませんでしたね。
うーんきれいなステンドグラスですが、どうもなんか変だなと。あれ六芒星とかキリスト教の教会か?なんか幾何学模様が多いような。あれもしかして。
どうもここは教会らしくないぞと。マリア様の像があったりいかにもな感じにシンボルが配置されていますが、最も目立つステンドグラスはどうも聖書の内容を語ったりはしていないぞと。幾何学で完全に構成されていてカトリックであれば絶対に示されないような六芒星やそれに似た形が繰り返し強調されていると。まあ解説すればそんな感じになりますが、実際は印象ですね。
慣れ親しんだシンボルの形に似た形や三角形の形や床のゴシックの白黒のモザイクなど見ていてわかりました。そうかここはブラザーナポレオンが教皇の手を借りず自らの手で皇帝の戴冠を行った場所なんだなと。それを考えれば明らかにその時代にこのフランスの象徴とも言えるカトリックの大聖堂はフリーメイスンリーのロッジに変えてしまったのだと。後で知るわけですがもちろんフランス革命で司祭もギロチンにかけられてしまったという事です。それはしょうがないなと。
うまく写っていませんがとにかく美しい幾何学模様の繰り返しです。幾何学模様という事でそのままシンボルのGeometryのGの強調という事になるのかと思います。GodとGeometryの一致という事でまさにフリーメイスンリーのシンボルの表現という事になるのだと思います。
十字や菱形を構成し床には白黒のモザイクです。斜め十字の聖アンデレ十字もあります。まさにフリーメイスンリーのシンボル尽くしでどう考えてもフリーメイスンリーのロッジです。入場している人もフリーメイスン以外は誰もわからないのではないでしょうか。
マルタ十字やシェブロンなど明らかにフリーメイスンリーを象徴するシンボルが満載です。さすがに革命のあったところは違うなあという感慨を通り越してあきれてしまうような圧倒的なフリーメイスンリーのシンボリズムです。しかしこれだけ大胆だとほとんどの人は気付かないだろうなと。
垂直儀のような形、五芒星の形、All Seeing Eyeの形、三角形の形などいかにもなこのブログの市章の話のまさに実際編というシンボルの百花繚乱です。キリスト教の逸話を強調したような絵もあります。こういう教訓が大事だという教えなのでしょうね。
教会に入ったと思ったらロッジだったわけですね。聖アンデレの磔の様子を描いたような絵もあります。もしかするとシンボルのヒントを書いた絵なのかもしれません。All Seeing Eyeのデザインのようないかにもなステンドグラスもあります。これはさすがに他所には無いのではないでしょうか。
さすがにコンパスと直角定規をもろに書いたものはありませんでしたが、ほぼそれに近い表現を繰り返し表していました。それでいてきちんとカトリックの祭壇の形式や聖書の逸話を示したような絵画を飾ってありそれなりの知識が無いと全く気付かないでしょうね。
なにか象徴画のようなものもありますね。この時は非常に急いでいたのでとにかく写真だけ全部撮ったという感じです。まあフリーメイスンリー博物館と同じなのですが、細かい内容や教訓についてはまた何度かいけたらそれぞれ個別に検討するという事になるのかと思います。その位の膨大な内容や示唆を含んだ印象です。それだけの歴史と蓄積がこのノートルダム大聖堂を舞台として過去にあったという証明なのだと思われます。
Vesica Piscisになるのでしょうか。いずれにしても幾何学模様が同じ形はなく繰り返されています。様々な彫刻や絵画がありますが最後まで直接的なコンパスと直角定規の表現はありません。
まあここまでこのブログを全て読んでいる方であれば、この場所がほぼカトリックの教会ではなくフリーメイスンリーのロッジである事をご理解いただけるかと思います。そしてそうなった理由が革命に始まるフランスのフリーメイスンリーの歴史でありまた現代に至るその後の歴史がこうした知識があるものにとっては驚くべき建築となっている装飾を生み出しているという事がわかってくるのではないかと思います。そしてそれがフランスフリーメイスンリーの歴史と象徴であるのかと思われます。
次回はシテ島周辺です。
いろいろ検索するとパリの観光案内は実に多彩に認められますね。
私は行きませんでしたが7.5ユーロを払うと左側に塔への登り口があって螺旋階段を登ったりしてシメールやガーゴイルが見られる屋上に出られるそうです。ぜひ再び訪問する際には行ってみたいものです。
ちょっとその後のルーブル美術館に向けて急かされていたのかもしれません。
ノートルダム大聖堂を再び外から眺めています。Vesica Piscisの形と三角形の形が入り混じっている感じでしょうか。対称形で塔を持つのはゴシックの様式なのだと思われます。
シャルルマーニュ、カール大帝の像です。カールの戴冠などでカトリック教会に利用されていた感の強いフランク王国統一のゲルマン人の王ですが、文盲であるといってもラテン語が話せるなどそれなりの学問の素養はあったようです。カールの戴冠で意図せずしてカトリック教会の教皇権の優位を示すこととなったわけですが、その後カノッサの屈辱の時期を経て、アヴィニョン捕囚などで教皇権の低下を認め徐々に宗教改革の機運が高まり、やがてはプロテスタントとカトリックの対立からピューリタン革命やユグノー戦争となり、それらはまたフリーメイスンリーの勃興へと繋がっていくのかと思います。
ちょっとずつ離れていきます。
近くのゴシックの尖塔です。
さらに離れて行きます。また雨が降ってきましたね。
パリの最高裁判所のようです。
シャンジュ橋のようです。両替商が多くいたそうです。もうひとつ先がポンヌフ橋です。ポンが橋の意味なので本当はヌフ橋です。
こちらも橋の上から見た最高裁判所でしょうか。
フォンテーヌ·デュ·パルミエというブラザーナポレオンのエジプト遠征での勝利を記念した泉と塔のようです。意味はヤシの木の泉という意味だそうです。右手に見えるのがサンジャックの塔というかつて天文台としても利用された塔です。教会の塔であったそうですが、革命で教会部分が取り壊されて塔だけが残ったそうです。やはりガーゴイルが目立ちます。
ポンヌフからエッフェル塔を望みます。
ブラザーナポレオンはマルタ島を経由してアレクサンドリアに上陸しエジプト遠征を開始します。オスマントルコ軍に対して圧倒的な戦力で勝ち進みますが、実質十字軍の役割であったためかシリア、パレスチナを攻略した際にペストが流行し発病者を見捨てていったそうです。結局ナイルの海戦で補給を断たれたフランス軍はブラザーナポレオンら少数の将官のみでフランスに帰国し、後の1万5千人もの将兵は結局イギリス・オスマン帝国連合軍に降伏し、本国に送還されたそうです。ブラザーナポレオン軍のエジプト遠征の最大の成果はロゼッタ・ストーンの発見と王家の谷やルクソールのカルナック神殿を記録しヨーロッパに報告してエジプト学の発展に寄与した事で、ヨハネ騎士団の根拠地であるマルタ島で始まり、パレスチナの地のペストで終わるこれらの活動はキリスト教やユダヤ教の様々な因縁が複雑に絡んだ結果の一種の十字軍運動であったのかもしれません。平然とスフィンクスが水を吐いている噴水がなんともパリを象徴している感じです。これらの歴史からスフィンクスがフリーメイスンリーの象徴となり、ライオンズクラブなどに取り入れられているのかと思われます。
アンネの日記のアンネ・フランクの舞台の宣伝のようです。
サンジャックの塔です。とても不気味ですが非常に魅力的な建築です。私はパリの中ではエトワール凱旋門やエッフェル塔を除けばこの塔が最も印象的でした。塔の下の内部にパスカルの定理で有名なブレーズ・パスカルの像があるそうです。パスカルはフリーメイスンリー結成以前の哲学者、数学者であり、カトリックの異端とされたカルバン派の影響を受けたジャンセニズムの信者であり、極端な禁欲主義を貫いたそうです。パンセの人間は考える葦であるというフレーズは有名です。
ブラザーナポレオン三世の時代にスクウェアの公園に残されたそうです。ちょっと見るとワシントンD.C.のワシントン記念塔のような印象でしょうか。
リヴォリ通りを歩いていきます。雨もだいぶ降ってきています。
途中にあったブランドのブティックでしょうか。入口で白黒になっていたので撮りました。
さてやっとこルーブル美術館に近づきます。
私は行きませんでしたが7.5ユーロを払うと左側に塔への登り口があって螺旋階段を登ったりしてシメールやガーゴイルが見られる屋上に出られるそうです。ぜひ再び訪問する際には行ってみたいものです。
ちょっとその後のルーブル美術館に向けて急かされていたのかもしれません。
ノートルダム大聖堂を再び外から眺めています。Vesica Piscisの形と三角形の形が入り混じっている感じでしょうか。対称形で塔を持つのはゴシックの様式なのだと思われます。
シャルルマーニュ、カール大帝の像です。カールの戴冠などでカトリック教会に利用されていた感の強いフランク王国統一のゲルマン人の王ですが、文盲であるといってもラテン語が話せるなどそれなりの学問の素養はあったようです。カールの戴冠で意図せずしてカトリック教会の教皇権の優位を示すこととなったわけですが、その後カノッサの屈辱の時期を経て、アヴィニョン捕囚などで教皇権の低下を認め徐々に宗教改革の機運が高まり、やがてはプロテスタントとカトリックの対立からピューリタン革命やユグノー戦争となり、それらはまたフリーメイスンリーの勃興へと繋がっていくのかと思います。
ちょっとずつ離れていきます。
近くのゴシックの尖塔です。
さらに離れて行きます。また雨が降ってきましたね。
パリの最高裁判所のようです。
シャンジュ橋のようです。両替商が多くいたそうです。もうひとつ先がポンヌフ橋です。ポンが橋の意味なので本当はヌフ橋です。
こちらも橋の上から見た最高裁判所でしょうか。
フォンテーヌ·デュ·パルミエというブラザーナポレオンのエジプト遠征での勝利を記念した泉と塔のようです。意味はヤシの木の泉という意味だそうです。右手に見えるのがサンジャックの塔というかつて天文台としても利用された塔です。教会の塔であったそうですが、革命で教会部分が取り壊されて塔だけが残ったそうです。やはりガーゴイルが目立ちます。
ポンヌフからエッフェル塔を望みます。
ブラザーナポレオンはマルタ島を経由してアレクサンドリアに上陸しエジプト遠征を開始します。オスマントルコ軍に対して圧倒的な戦力で勝ち進みますが、実質十字軍の役割であったためかシリア、パレスチナを攻略した際にペストが流行し発病者を見捨てていったそうです。結局ナイルの海戦で補給を断たれたフランス軍はブラザーナポレオンら少数の将官のみでフランスに帰国し、後の1万5千人もの将兵は結局イギリス・オスマン帝国連合軍に降伏し、本国に送還されたそうです。ブラザーナポレオン軍のエジプト遠征の最大の成果はロゼッタ・ストーンの発見と王家の谷やルクソールのカルナック神殿を記録しヨーロッパに報告してエジプト学の発展に寄与した事で、ヨハネ騎士団の根拠地であるマルタ島で始まり、パレスチナの地のペストで終わるこれらの活動はキリスト教やユダヤ教の様々な因縁が複雑に絡んだ結果の一種の十字軍運動であったのかもしれません。平然とスフィンクスが水を吐いている噴水がなんともパリを象徴している感じです。これらの歴史からスフィンクスがフリーメイスンリーの象徴となり、ライオンズクラブなどに取り入れられているのかと思われます。
アンネの日記のアンネ・フランクの舞台の宣伝のようです。
サンジャックの塔です。とても不気味ですが非常に魅力的な建築です。私はパリの中ではエトワール凱旋門やエッフェル塔を除けばこの塔が最も印象的でした。塔の下の内部にパスカルの定理で有名なブレーズ・パスカルの像があるそうです。パスカルはフリーメイスンリー結成以前の哲学者、数学者であり、カトリックの異端とされたカルバン派の影響を受けたジャンセニズムの信者であり、極端な禁欲主義を貫いたそうです。パンセの人間は考える葦であるというフレーズは有名です。
ブラザーナポレオン三世の時代にスクウェアの公園に残されたそうです。ちょっと見るとワシントンD.C.のワシントン記念塔のような印象でしょうか。
リヴォリ通りを歩いていきます。雨もだいぶ降ってきています。
途中にあったブランドのブティックでしょうか。入口で白黒になっていたので撮りました。
さてやっとこルーブル美術館に近づきます。
さてここからはパリに来た事がある方であれば必ず来られる場所になるかと思います。ただしもちろんフリーメイスンリーにまつわる視点という事で知っている方でも新たな気付きが得られるかと思います。
パリに来た事が無い方も雰囲気が味わえると幸いかと思います。
ルーヴル美術館の裏側だと思います。
パリの市庁舎の鐘楼のようです。やはりガーゴイルが目立ちます。パリの象徴ですね。
ルーヴル美術館のセーヌ川沿いから見たところです。
ルーヴル美術館のすぐわきのセーヌ川ですね。
ルーヴル美術館の中庭に入ったところですね。何やらイベントのテントが設営されていました。
やっと着きました。ルーヴル美術館のピラミッドです。パリという感じですねえ。しかしえらい雨でほとんど人がいません。いろんな状況があるんですねえ。ちょうどここに来たところですごい雨です。ロンドンでも相当降られたのでパリでは少し良いかと思いましたがそんな事はないです。
東芝のLEDを使っているとわざわざ看板がありました。
まあ一生懸命写真を撮るわけですが、結局あまりの雨に撤退です。
普通は立ち入り禁止の場所ですがあまりの驟雨に雨宿りの人がいましたので一緒に回廊に入ります。
驟雨のルーヴル美術館です。なかなか無い写真かもしれません。
やっと少し雨が減ったのですかね。人もほとんどいない珍しい光景かもしれません。
20分位雨宿りした後でしょうか。急速に空が晴れてきました。カルーゼル凱旋門です。足元が砂地なので雨の後は水たまりがそこらじゅうに出来ます。なかなか石畳のロンドンとも大分違います。降雨の状況も違うのでしょうか。
あれあれまた虹です。
パリに来た事が無い方も雰囲気が味わえると幸いかと思います。
ルーヴル美術館の裏側だと思います。
パリの市庁舎の鐘楼のようです。やはりガーゴイルが目立ちます。パリの象徴ですね。
ルーヴル美術館のセーヌ川沿いから見たところです。
ルーヴル美術館のすぐわきのセーヌ川ですね。
ルーヴル美術館の中庭に入ったところですね。何やらイベントのテントが設営されていました。
やっと着きました。ルーヴル美術館のピラミッドです。パリという感じですねえ。しかしえらい雨でほとんど人がいません。いろんな状況があるんですねえ。ちょうどここに来たところですごい雨です。ロンドンでも相当降られたのでパリでは少し良いかと思いましたがそんな事はないです。
東芝のLEDを使っているとわざわざ看板がありました。
まあ一生懸命写真を撮るわけですが、結局あまりの雨に撤退です。
普通は立ち入り禁止の場所ですがあまりの驟雨に雨宿りの人がいましたので一緒に回廊に入ります。
驟雨のルーヴル美術館です。なかなか無い写真かもしれません。
やっと少し雨が減ったのですかね。人もほとんどいない珍しい光景かもしれません。
20分位雨宿りした後でしょうか。急速に空が晴れてきました。カルーゼル凱旋門です。足元が砂地なので雨の後は水たまりがそこらじゅうに出来ます。なかなか石畳のロンドンとも大分違います。降雨の状況も違うのでしょうか。
あれあれまた虹です。
さてまあ様々に反響がありそうな奇跡シリーズですが、どうもブログのアクセスに問答を置くと逃げてしまう心掛けの良くない訪問者が多いようで、色々考えた結果不明なプロキシを使ったようなアクセスはアクセス拒否の対象とさせていただいております。今後もどうも色々公開に問題があるようであればパスワードや有料化も考えております。
そういうわけでいかがわしい訪問客が普通に多くなりやすい当ブログの話題ですが内容的には基本的には旅ブログやちょっとした豆知識、人生でためになるような教訓を得るための話題を提供するブログです。
今回のロンドン・パリ旅行の一応クライマックスに近いわけですがどうもつまらない話題で始まってしまうのがフリーメイスンリーといったところでしょうか。ブログの変更点としてはブログのBGMのYouTubeでブラザーマンリー・P・ホールの講話とブラザーヘンリー・クラウゼンのモラル・アンド・ドグマの解説シリーズをそれぞれ一つを残して削除しました。興味のある方はご自分でYouTubeをご覧になってください。当ブログは紹介のみとさせていただきました。かわりにブラザーモーツァルトの有名な曲、その他利用可能な楽曲を付け加えました。またその他のベートーヴェンの楽曲などについても演奏時間の長いものに変更しています。
さて本編ですがルーヴル美術館で今回の旅の二度目の虹を見たというところでした。では虹のルーヴル美術館の写真をお示ししていきます。
台湾から来たような女性のグループが興奮してちょっと絡んできたので、"I already saw that at St. Paul's Cathedral."と伝えましたがキョトンとしていました。
ちょっと今回の旅は背景が曇り空なのがいまいちですが、まあ虹である事は間違いありません。ちなみにMSN産経ニュースにイギリスの虹の風景の記事がありましたので比較というわけではありませんがリンクを置きます。
虹の一端がちょうどピラミッドにかかるように計算されているのですね。まあちょっとにわかには信じがたい光景かもしれません。フリーメイスンリー、特にスコティッシュライトで体験できる光景と説明すればよいのでしょうか。
検索すると案外に出てきますね。パリで虹は多いようです。若干大気汚染の影響もあるのでしょうが、虹がキリスト教、フリーメイスンリーのシンボルであり科学現象としてニュートンの光の解析から連なる科学の進歩の象徴であり、神の恩寵と人類の発展を象徴するシンボルであることからも好まれ、またそうしたかつては自然現象であったものが現在はある程度自由にコントロールして演出する事が出来るようになった事を示すものでもあるのかと思います。
強く英仏のフリーメイスンリーの連携を感じさせる大胆なシンボルの顕示でした。
ちょっと弱ってきて晴れ間も見えてきたりします。まあ水滴がある上空に光が当たると虹が発生するのですね。晴れ間と水滴と光の角度の加減が最も大事なのだと思います。
凱旋門を通しての虹のショットです。なかなか珍しい写真だと思います。
さて堪能できましたでしょうか。ルーヴル美術館はもう入館には遅いのでこの後はコンコルド広場に向けて歩きます。
そういうわけでいかがわしい訪問客が普通に多くなりやすい当ブログの話題ですが内容的には基本的には旅ブログやちょっとした豆知識、人生でためになるような教訓を得るための話題を提供するブログです。
今回のロンドン・パリ旅行の一応クライマックスに近いわけですがどうもつまらない話題で始まってしまうのがフリーメイスンリーといったところでしょうか。ブログの変更点としてはブログのBGMのYouTubeでブラザーマンリー・P・ホールの講話とブラザーヘンリー・クラウゼンのモラル・アンド・ドグマの解説シリーズをそれぞれ一つを残して削除しました。興味のある方はご自分でYouTubeをご覧になってください。当ブログは紹介のみとさせていただきました。かわりにブラザーモーツァルトの有名な曲、その他利用可能な楽曲を付け加えました。またその他のベートーヴェンの楽曲などについても演奏時間の長いものに変更しています。
さて本編ですがルーヴル美術館で今回の旅の二度目の虹を見たというところでした。では虹のルーヴル美術館の写真をお示ししていきます。
台湾から来たような女性のグループが興奮してちょっと絡んできたので、"I already saw that at St. Paul's Cathedral."と伝えましたがキョトンとしていました。
ちょっと今回の旅は背景が曇り空なのがいまいちですが、まあ虹である事は間違いありません。ちなみにMSN産経ニュースにイギリスの虹の風景の記事がありましたので比較というわけではありませんがリンクを置きます。
虹の一端がちょうどピラミッドにかかるように計算されているのですね。まあちょっとにわかには信じがたい光景かもしれません。フリーメイスンリー、特にスコティッシュライトで体験できる光景と説明すればよいのでしょうか。
検索すると案外に出てきますね。パリで虹は多いようです。若干大気汚染の影響もあるのでしょうが、虹がキリスト教、フリーメイスンリーのシンボルであり科学現象としてニュートンの光の解析から連なる科学の進歩の象徴であり、神の恩寵と人類の発展を象徴するシンボルであることからも好まれ、またそうしたかつては自然現象であったものが現在はある程度自由にコントロールして演出する事が出来るようになった事を示すものでもあるのかと思います。
強く英仏のフリーメイスンリーの連携を感じさせる大胆なシンボルの顕示でした。
ちょっと弱ってきて晴れ間も見えてきたりします。まあ水滴がある上空に光が当たると虹が発生するのですね。晴れ間と水滴と光の角度の加減が最も大事なのだと思います。
凱旋門を通しての虹のショットです。なかなか珍しい写真だと思います。
さて堪能できましたでしょうか。ルーヴル美術館はもう入館には遅いのでこの後はコンコルド広場に向けて歩きます。
さてさてまあ虹ももう見終わっちゃったわけですが、パリ観光としては大体メッカの場所ではないでしょうか。光の都パリ、日本で言うところの花の都パリの由縁となっているであろうところがこのルーヴル美術館前のカルーゼル広場、テュイルリー広場、コンコルド広場、シャンゼリゼ通りに繋がる一連の広場ではないでしょうか。
パリの歴史軸とも言うこの直線のセーヌ川沿いに連なる通りは14世紀から各王の時代でルーヴル宮殿、テュイルリー宮殿、テュイルリー庭園を軸として開発が進められ、ルイ14世の時代にシャンゼリゼ通りが延伸されました。その後ブラザーナポレオンがカルーゼル凱旋門とエトワール凱旋門を建設し、さらにその後の7月王政下でブラザームハンマド・アリーから贈られたコンコルド広場のオベリスクが建てられました。ブラザーナポレオン三世の第二帝政期にエトワール凱旋門周囲の12本の道路が整備され、普仏戦争末期のパリコミューンの時代にテュイルリー宮殿が放火により焼失しました。その後二つの大戦を経て、ミッテラン大統領、彼もフリーメイスンでしょう、の時代にラ・デファンスに超高層ビル群とともに新しい凱旋門となるグランダルシュが完成し一応ここまでが一通りの直線を形作っています。
まあまた親切なブログなのでグーグルアースの地図を載せます。実際にはグランダルシェまで歩いたらすごい距離になって帰れなくなるのでエトワール凱旋門でホテルに戻りました。パリの夜景を見る位余裕があれば良かったのですが、なんせ2泊3日でヴェルサイユまで行く計画でいましたから地下鉄やタクシーを効率よく利用しなければこの位なものではないでしょうか。テュイルリー広場は天気が悪かったせいか虹を二回も観た後のせいか感動もありませんでした。上野公園と日比谷公園をミックスしたようなやたら一直線にオベリスクと凱旋門が連なる通りは何というか幾何学と言うよりもその直線性を強調した感じでしょうか。エッフェル塔が斜めに見える事で恐らく直角三角形を構成するのだと思いますが、あまり謎と言うよりはちょっと不可解な景色という印象なのだと思います。ヴェルニー公園で慣らされていると全く違和感はないのでしょうかね。やはりワシントンD.C.の造形はこれらパリの都市建設と極めて一致して作られているのかと思いますが、どうもやはりワシントンD.C.の作りが良くできていすぎてあれを見た後だとなかなか感慨は薄いのでしょうか。
雨上がりのパリの夕景です。またこの後で降ってきます。フリーメイスンリーを良く知らない人はパリと言うだけで情緒的に思われるかもしれませんが、パリの中心を構成する直角三角形の長辺を移動するという表現が適切ではないでしょうか。
エッフェル塔です。
水辺のガルリーというかつてのテュイルリー宮殿とルーヴル宮殿を結ぶためにアンリ4世によって作られた廊下です。庭園には銅像が立っています。
現代芸術が多く認められます。
これが反対側でしょうか。
黄金のジャンヌ・ダルク像があります。
銅像は人間よりも何か動物のものが多い感じでした。
雨の後は非常に歩きづらいですが、泥が酷いという事はありません。水たまりがそこらじゅうに出来てそれで歩きづらいという感じです。
噴水が二つあってその最初の噴水ですね。後で訪問するヴェルサイユ宮殿の庭園を意識した形になっているのだと思いますが、噴水を囲む像の意味はわかりません。
コンコルド広場のオベリスク側ですね。
ルーヴル美術館側です。
さらに移動します。
こういう現代アートがあります。
二つ目の噴水があります。オベリスクが近くなり噴水ときれいに重なります。ヴェルサイユ宮殿のオベリスクという噴水の名とかかるのかと思われます。
今度はエッフェル塔と重ねてみました。
コンコルド広場につきました。ここでもやはりネットで見つけた写真の通りオベリスクとエッフェル塔の重ね合わせです。コンコルド広場は想像していたよりもかなり騒々しく車が行き交っていて、車が少ない夜や朝方が良いようです。写真を撮っていると危ないかもしれません。
まあ曇天で何を撮ってもうまくありません。
台座には移送と建立の経緯を描いているようです。冠石は紀元前にエジプトで失われて、新しい金のものは1998年にシラク大統領のもとで復元されたようです。
フランス国民議会であるブルボン宮です。
曇天では冴えませんね。
ゴシックの尖塔です。
コンコルド広場の表示です。かつて革命前はルイ15世の騎馬像が置かれていたそうです。革命時期は壮絶なギロチン会場であったそうです。
グラン・パレです。1900年のパリ万国博覧会の主会場です。ロンドンのクリスタルパレスを模したつくりなのでしょうか。手前がド・ゴール初代大統領の銅像です。ド・ゴールはフリーメイスンかどうかはわかりませんが、11月22日生まれで2mの長身であったそうです。父親がイエズス会学院の校長でミドルネームがジョセフで11月9日に亡くなったそうです。まあこれだけの情報でフリーメイスンであったかどうかは断定できませんが、フリーメイスンリーが盛んなフランスで象徴的な大統領であるだけにフリーメイスンリーとの関わりは否定できません。
先にブラザーナポレオンの柩がある廃兵院、アンヴァリッドがあります。この時は訪問しませんでしたねえ。フランスフリーメイスンリーの記念碑的な場所であるようです。アメリカ合衆国議事堂のモデルとなったようです。数多くのフリーメイスンと思われるフランス軍人が葬られているようです。
ブラザーフランクリン・デラノ・ルーズベルト通りです。このシャンゼリゼ通りの入り口のロータリーの道の事を指すようです。
この辺でやっぱり大雨ですかね。シャンゼリゼ通りは相当美しい華やかな通りでしたね。まず目につくのがシトロエンのダブルシェブロンですね。
ディズニーは何を売っているんでしょうね。まあ高級お土産物屋に近いのでしょうか。
ヴァージンはイギリスの元々音楽業界の会社ですが、2000年に創業者のリチャード・ブランソンがナイトの称号を受けています。
ルノーですね。
セフォラという化粧品メーカーだそうです。ルイ・ヴィトングループの一つだそうです。白黒の入り口でした。
ルイ・ヴィトンの看板が目立ちます。
シャンゼリゼ通りの歩道はこんな感じです。大雨ですね。
ゴシック建築の尖塔があります。
ジョージ五世というカフェがありました。ロンドンでもあったようです。エリザベス二世の父親のフリーメイスンですね。
Gのシンボルはヨーロッパではかなり珍しいです。眼鏡屋さんでしょうか。シンボルありきでここに店があるようです。
スワロフスキーはさいか屋の白鳥と同じSをかたどった白鳥のシンボルです。恐らく創業者がフリーメイスンなのでしょうね。
モンブランは万年筆で有名な高級文房具メーカーですが、白黒と六芒星のシンボルです。店に歯車が書いてあるのでロータリークラブなのでしょうか。
まあなんかフリーメイスンかロータリークラブ、ライオンズクラブのメンバーに対する教育の道のようなシャンゼリゼ通りです。実際そういう場所であるようです。
次回エトワール凱旋門に到達します。
パリの歴史軸とも言うこの直線のセーヌ川沿いに連なる通りは14世紀から各王の時代でルーヴル宮殿、テュイルリー宮殿、テュイルリー庭園を軸として開発が進められ、ルイ14世の時代にシャンゼリゼ通りが延伸されました。その後ブラザーナポレオンがカルーゼル凱旋門とエトワール凱旋門を建設し、さらにその後の7月王政下でブラザームハンマド・アリーから贈られたコンコルド広場のオベリスクが建てられました。ブラザーナポレオン三世の第二帝政期にエトワール凱旋門周囲の12本の道路が整備され、普仏戦争末期のパリコミューンの時代にテュイルリー宮殿が放火により焼失しました。その後二つの大戦を経て、ミッテラン大統領、彼もフリーメイスンでしょう、の時代にラ・デファンスに超高層ビル群とともに新しい凱旋門となるグランダルシュが完成し一応ここまでが一通りの直線を形作っています。
まあまた親切なブログなのでグーグルアースの地図を載せます。実際にはグランダルシェまで歩いたらすごい距離になって帰れなくなるのでエトワール凱旋門でホテルに戻りました。パリの夜景を見る位余裕があれば良かったのですが、なんせ2泊3日でヴェルサイユまで行く計画でいましたから地下鉄やタクシーを効率よく利用しなければこの位なものではないでしょうか。テュイルリー広場は天気が悪かったせいか虹を二回も観た後のせいか感動もありませんでした。上野公園と日比谷公園をミックスしたようなやたら一直線にオベリスクと凱旋門が連なる通りは何というか幾何学と言うよりもその直線性を強調した感じでしょうか。エッフェル塔が斜めに見える事で恐らく直角三角形を構成するのだと思いますが、あまり謎と言うよりはちょっと不可解な景色という印象なのだと思います。ヴェルニー公園で慣らされていると全く違和感はないのでしょうかね。やはりワシントンD.C.の造形はこれらパリの都市建設と極めて一致して作られているのかと思いますが、どうもやはりワシントンD.C.の作りが良くできていすぎてあれを見た後だとなかなか感慨は薄いのでしょうか。
雨上がりのパリの夕景です。またこの後で降ってきます。フリーメイスンリーを良く知らない人はパリと言うだけで情緒的に思われるかもしれませんが、パリの中心を構成する直角三角形の長辺を移動するという表現が適切ではないでしょうか。
エッフェル塔です。
水辺のガルリーというかつてのテュイルリー宮殿とルーヴル宮殿を結ぶためにアンリ4世によって作られた廊下です。庭園には銅像が立っています。
現代芸術が多く認められます。
これが反対側でしょうか。
黄金のジャンヌ・ダルク像があります。
銅像は人間よりも何か動物のものが多い感じでした。
雨の後は非常に歩きづらいですが、泥が酷いという事はありません。水たまりがそこらじゅうに出来てそれで歩きづらいという感じです。
噴水が二つあってその最初の噴水ですね。後で訪問するヴェルサイユ宮殿の庭園を意識した形になっているのだと思いますが、噴水を囲む像の意味はわかりません。
コンコルド広場のオベリスク側ですね。
ルーヴル美術館側です。
さらに移動します。
こういう現代アートがあります。
二つ目の噴水があります。オベリスクが近くなり噴水ときれいに重なります。ヴェルサイユ宮殿のオベリスクという噴水の名とかかるのかと思われます。
今度はエッフェル塔と重ねてみました。
コンコルド広場につきました。ここでもやはりネットで見つけた写真の通りオベリスクとエッフェル塔の重ね合わせです。コンコルド広場は想像していたよりもかなり騒々しく車が行き交っていて、車が少ない夜や朝方が良いようです。写真を撮っていると危ないかもしれません。
まあ曇天で何を撮ってもうまくありません。
台座には移送と建立の経緯を描いているようです。冠石は紀元前にエジプトで失われて、新しい金のものは1998年にシラク大統領のもとで復元されたようです。
フランス国民議会であるブルボン宮です。
曇天では冴えませんね。
ゴシックの尖塔です。
コンコルド広場の表示です。かつて革命前はルイ15世の騎馬像が置かれていたそうです。革命時期は壮絶なギロチン会場であったそうです。
グラン・パレです。1900年のパリ万国博覧会の主会場です。ロンドンのクリスタルパレスを模したつくりなのでしょうか。手前がド・ゴール初代大統領の銅像です。ド・ゴールはフリーメイスンかどうかはわかりませんが、11月22日生まれで2mの長身であったそうです。父親がイエズス会学院の校長でミドルネームがジョセフで11月9日に亡くなったそうです。まあこれだけの情報でフリーメイスンであったかどうかは断定できませんが、フリーメイスンリーが盛んなフランスで象徴的な大統領であるだけにフリーメイスンリーとの関わりは否定できません。
先にブラザーナポレオンの柩がある廃兵院、アンヴァリッドがあります。この時は訪問しませんでしたねえ。フランスフリーメイスンリーの記念碑的な場所であるようです。アメリカ合衆国議事堂のモデルとなったようです。数多くのフリーメイスンと思われるフランス軍人が葬られているようです。
ブラザーフランクリン・デラノ・ルーズベルト通りです。このシャンゼリゼ通りの入り口のロータリーの道の事を指すようです。
この辺でやっぱり大雨ですかね。シャンゼリゼ通りは相当美しい華やかな通りでしたね。まず目につくのがシトロエンのダブルシェブロンですね。
ディズニーは何を売っているんでしょうね。まあ高級お土産物屋に近いのでしょうか。
ヴァージンはイギリスの元々音楽業界の会社ですが、2000年に創業者のリチャード・ブランソンがナイトの称号を受けています。
ルノーですね。
セフォラという化粧品メーカーだそうです。ルイ・ヴィトングループの一つだそうです。白黒の入り口でした。
ルイ・ヴィトンの看板が目立ちます。
シャンゼリゼ通りの歩道はこんな感じです。大雨ですね。
ゴシック建築の尖塔があります。
ジョージ五世というカフェがありました。ロンドンでもあったようです。エリザベス二世の父親のフリーメイスンですね。
Gのシンボルはヨーロッパではかなり珍しいです。眼鏡屋さんでしょうか。シンボルありきでここに店があるようです。
スワロフスキーはさいか屋の白鳥と同じSをかたどった白鳥のシンボルです。恐らく創業者がフリーメイスンなのでしょうね。
モンブランは万年筆で有名な高級文房具メーカーですが、白黒と六芒星のシンボルです。店に歯車が書いてあるのでロータリークラブなのでしょうか。
まあなんかフリーメイスンかロータリークラブ、ライオンズクラブのメンバーに対する教育の道のようなシャンゼリゼ通りです。実際そういう場所であるようです。
次回エトワール凱旋門に到達します。
さて好評なのかどうなのか反響は大きそうな奇跡シリーズ最後の締めの第三弾です。
なんで3にこだわるのかというところかもしれませんが、今回の虹に限って言えば3回繰り返せば偶然じゃない必然であるという事なのではないでしょうか。
プロテスタントのカルバン派の有名な教義が「予定説」と呼ばれるもので、実際にはキリスト教の救済に関わる非常に専門的な教義なのですが、これは第一に旧約聖書と新約聖書を通読した際に誰もが感じられる一つの考え方である、この世界は様々な運命がもつれ合って成り立っていて、それらは必然であり大きな流れの前には一人の人間の存在は非常にちっぽけなものであるが、それでも信じるものを持って生きなければ人生は虚しいというものかと思いますし、それをキリスト教の教義に当てはめて説明したものが上記の予定説かと思われます。運命と自由意志の命題は哲学の有名な命題でもありますが、基本的には被造物については運命論が当てはまり、意志とは創造者の意志という事になるのかと思います。そこに理神論を当てはめる事によって自由意志というものが仮定されるわけですが、果たしてそれが仮定以上のものであるかというとそれはまさにパスカルの言う神なき人間の不幸となるのかもしれません。
そういうわけでというかかなりいい加減な説明かと思いますが、3という数字と創造者の存在、理性と自由意志への信仰は一致するという説明になるのかと思います。
ではまあなんともいい加減な説教を付けくわえた怪しげなブログですが、御託を繰り返すようですが欧米においてフリーメイスンリーが広まったきっかけとして読める聖書の普及による宗教改革があったわけで、仏教や神道が伝統宗教として存在する日本においてもやはりフリーメイスンリーを理解するためには一度は旧約聖書、新約聖書を通読する必要性があるという非常に当たり前の理論なのですが、異文化の象徴としての聖書は日本ではそれを読む事それ自体が日本人である事を否定する存在ともなっておりそういう行動を起こす事は欧米に海外旅行したり留学したりすること以上に困難な事かと思われます。まあその位フリーメイスンリーは敷居が高いという事になり、それがそのまま現在の日本のフリーメイスンリーの状況に反映していると思われます。フリーメイスンリーに興味をお持ちの方はそのまま旧約聖書・新約聖書を通読する事をお勧めします。ロスト・シンボルにしても結論としてそういう内容になっていたものかと思われます。私自身もそれを読んだ後にワシントンD.C.を旅行しながら聖書を飛行機の中で読んだりしました。
さてでは本編です。
シャンゼリゼ通りを歩いていくとエトワール凱旋門があります。かつてはエトワール広場といったそうですが、巨大なロータリーとなっているここは現在はシャルル・ドゴール広場というそうです。非常に交通量が多いので凱旋門に渡るには地下道を通って行く形となります。なかなかこれは現地に行かないとわかりません。
写真を見ると上を渡っている人もいますね。まあ世界的な観光地は色々な人がいます。非常に危険ですね。
地下道の途中で入場券売り場があります。確かそんなに高くなかったと思います。9.5ユーロのようです。私が行った時は大雨であった事もあり込んではいませんでしたね。それほどきれいな感じはありませんが、それほど汚れている事もありません。パリっぽい感じです。地下道から坂道で凱旋門の下に出たと思います。下面や壁面の名前の詳しい表示は英語版のエトワール凱旋門のサイトに載っていました。恐らくほとんどがフリーメイスンの名前だと思われます。
螺旋階段が非常に美しいです。この螺旋階段は登り心地と言い美しさと言い適度な感じが非常に良かったです。イギリスのものとはやはり少し螺旋階段もそれぞれ個性が違います。(2013/3/2追記:それぞれ階段が284段あるそうです。これは最小の友愛数を意味するようです。)
内部は中空に部屋があります。売店もあったかと思います。トイレもあった気がします。いわゆる三階層構造になっています。フリジア帽をかぶった像がありますが外にあったものかどうかはわかりません。
恐らく軍人のフリーメイスンの方なのだと思いますがちょっとわかりません。
こちらは無名戦士の墓の象徴なのだと思います。良く見ると足元にパーフェクトアシュラーがありますね。
精巧な模型があります。
確か普通の階段を登って屋上に出ます。出たところで再び虹です。
なんで3にこだわるのかというところかもしれませんが、今回の虹に限って言えば3回繰り返せば偶然じゃない必然であるという事なのではないでしょうか。
プロテスタントのカルバン派の有名な教義が「予定説」と呼ばれるもので、実際にはキリスト教の救済に関わる非常に専門的な教義なのですが、これは第一に旧約聖書と新約聖書を通読した際に誰もが感じられる一つの考え方である、この世界は様々な運命がもつれ合って成り立っていて、それらは必然であり大きな流れの前には一人の人間の存在は非常にちっぽけなものであるが、それでも信じるものを持って生きなければ人生は虚しいというものかと思いますし、それをキリスト教の教義に当てはめて説明したものが上記の予定説かと思われます。運命と自由意志の命題は哲学の有名な命題でもありますが、基本的には被造物については運命論が当てはまり、意志とは創造者の意志という事になるのかと思います。そこに理神論を当てはめる事によって自由意志というものが仮定されるわけですが、果たしてそれが仮定以上のものであるかというとそれはまさにパスカルの言う神なき人間の不幸となるのかもしれません。
そういうわけでというかかなりいい加減な説明かと思いますが、3という数字と創造者の存在、理性と自由意志への信仰は一致するという説明になるのかと思います。
ではまあなんともいい加減な説教を付けくわえた怪しげなブログですが、御託を繰り返すようですが欧米においてフリーメイスンリーが広まったきっかけとして読める聖書の普及による宗教改革があったわけで、仏教や神道が伝統宗教として存在する日本においてもやはりフリーメイスンリーを理解するためには一度は旧約聖書、新約聖書を通読する必要性があるという非常に当たり前の理論なのですが、異文化の象徴としての聖書は日本ではそれを読む事それ自体が日本人である事を否定する存在ともなっておりそういう行動を起こす事は欧米に海外旅行したり留学したりすること以上に困難な事かと思われます。まあその位フリーメイスンリーは敷居が高いという事になり、それがそのまま現在の日本のフリーメイスンリーの状況に反映していると思われます。フリーメイスンリーに興味をお持ちの方はそのまま旧約聖書・新約聖書を通読する事をお勧めします。ロスト・シンボルにしても結論としてそういう内容になっていたものかと思われます。私自身もそれを読んだ後にワシントンD.C.を旅行しながら聖書を飛行機の中で読んだりしました。
さてでは本編です。
シャンゼリゼ通りを歩いていくとエトワール凱旋門があります。かつてはエトワール広場といったそうですが、巨大なロータリーとなっているここは現在はシャルル・ドゴール広場というそうです。非常に交通量が多いので凱旋門に渡るには地下道を通って行く形となります。なかなかこれは現地に行かないとわかりません。
写真を見ると上を渡っている人もいますね。まあ世界的な観光地は色々な人がいます。非常に危険ですね。
地下道の途中で入場券売り場があります。確かそんなに高くなかったと思います。9.5ユーロのようです。私が行った時は大雨であった事もあり込んではいませんでしたね。それほどきれいな感じはありませんが、それほど汚れている事もありません。パリっぽい感じです。地下道から坂道で凱旋門の下に出たと思います。下面や壁面の名前の詳しい表示は英語版のエトワール凱旋門のサイトに載っていました。恐らくほとんどがフリーメイスンの名前だと思われます。
螺旋階段が非常に美しいです。この螺旋階段は登り心地と言い美しさと言い適度な感じが非常に良かったです。イギリスのものとはやはり少し螺旋階段もそれぞれ個性が違います。(2013/3/2追記:それぞれ階段が284段あるそうです。これは最小の友愛数を意味するようです。)
内部は中空に部屋があります。売店もあったかと思います。トイレもあった気がします。いわゆる三階層構造になっています。フリジア帽をかぶった像がありますが外にあったものかどうかはわかりません。
恐らく軍人のフリーメイスンの方なのだと思いますがちょっとわかりません。
こちらは無名戦士の墓の象徴なのだと思います。良く見ると足元にパーフェクトアシュラーがありますね。
精巧な模型があります。
確か普通の階段を登って屋上に出ます。出たところで再び虹です。
もうさすがに虹は見飽きたかもしれませんが、私もさすがに三度目はあきれてしまって「一体いくらお金がかかっているんだ」とつぶやいてしまいましたが、スコティッシュライトはそんなお金がどうとか不謹慎な団体ではありません。
そういうわけで虹の写真です。
曇天で夕刻という事もあり晴れやかという光景ではありませんが、場所が非常に景色が良くパリを一望できる所ですから格別です。まさに絵のような光景というところでしょうか。ロンドンよりも多少大気汚染の影響があるせいか虹も見えやすいようです。
まあ虹も見えるわけですがそもそもエトワール凱旋門には12本の街路が集まってきているわけでその風景だけでもなかなか珍しい風景な訳です。ラ・デファンスのグランダルシェもなかなか面白い写りをしています。しかしまあ面白い写真ですね。それ自体が絵画のようです。
まあ面白い天気ですよね。シャンゼリゼ通りにかかる虹はそのまま絵になるかと思います。やっぱり角度も計算されているのでしょうかね。エッフェル塔の夜景を撮ろうかと思いましたがちょっとさすがに足がヘトヘトでやめました。
なんだかやっぱり3度目が一番出来がいいような大輪ですね。これだけ立派で長い時間出ていたのでパリにいた多くの人が確認したのだと思います。私も3度も出るとは思っていませんし、しかもロンドン・パリで連携して出るとは思いもしませんでしたから圧巻でした。まあそれで訪問前に想像していたようなフランスとイギリスのフリーメイスンリーの対立のようなものは全く存在しないという事を理解しました。
雲と晴れ間の境界が明瞭なのでやはり電磁波みたいなので水蒸気を雲にして雲を水蒸気にするのでしょうね。いずれにしてもすごい技術です。
いったん弱まって消えたような感じになったのでしょうかね。
また強くなってきました。
ここの虹が一番長かったのでしょうかね。
また強くなってきています。一旦下に降りる事にします。
中空階にはAll Seeing Eyeのようなステンドグラスがあります。
下りの螺旋階段は上りのものとはまた別にあります。
下に降りてもやっぱりまだ大きな虹が見えていました。
少し明るくなったのでしょうかね。絵にかいたような光景です。
無名戦士の墓にここが最初であるようですが永遠の火があります。ウィキペディアによるとこのモニュメントを模してJFKの墓にも同じ火があるようです。
永遠の火と虹とシャンゼリゼ通りです。あまりない写真かもしれません。
結局一番はっきり見える虹でした。
エトワール凱旋門の正面です。
まあせっかく長く出ているのでエトワール凱旋門と虹のツーショットが欲しいとロータリーを渡って撮りました。エトワール凱旋門の上から虹を見る事は稀にあるようですが、なかなかエトワール凱旋門と虹のツーショットは合成写真でもない限り無いようです。まさにフリーメイスンリーでしょうか。検索しやすいようにRainbow on Arc de Triomphe de l'Étoileと入れておきます。
虹のショットの幕切れは何とiPhoneの電池が切れたのでした。220Vの電圧の充電がいけないのでしょうか?まあそんな事は無いでしょう。大接待だったのでもう今日はその位にしてホテルに帰れという事だと思います。まあ帰りはまた結構な雨でした。道も間違えてしまってモンソー公園についてしまい大きく迂回してしまいました。なかなか大波乱のパリ一日目でした。モンソー公園というのもフランス革命期のレンガ造りのピラミッドがあったりする場所であるそうです。夕食はまた結局取らずにホテルに帰ったと思います。
(追記:実はこれを掲載した12月6日の朝にもヴェルニー公園から虹が見えていました。奇跡でも何でもなくフリーメイスンリーの挨拶のようです。)
(追記:もちろん3つの虹は三笠公園の3つの虹のアーチを意味するものと思われます。3つのアーチについても入口のものは虹の形ですが、2つ目の小さなものは恐らく33度の角度で切れているのだと思われます。最後の3つめのメインモニュメントのものは舟形をしている、恐らくブラザーヴェルニーの作ったドックを意識した形なのではないでしょうか。いずれにしてもそれらシンボルが豊穣と繁栄を意味する神との契約の印である事には変わりありません。今回の虹はそれの特別バージョンでしかないのだと思われます。)
さて本日12月8日は釈迦牟尼が悟りを開いた日として仏教では成道会としてそれぞれの寺で法要が行われているかと思います。キリスト教ではカトリックで無原罪の御宿りの記念日とされるようです。この日はまた日本では真珠湾攻撃の太平洋戦争開戦の日として記憶されているかと思います。この日にまつわる誕生日や忌日については色々あり、活躍中の日本の芸能人で比較的多いなどあります。真珠湾攻撃の際に特殊潜航艇で出撃しそのまま航行不能となり戦死した太平洋戦争最初の軍神の稲垣清と、国民的アイドルSMAPの稲垣吾郎の名字が一緒なのも偶然ではないかもしれません。慶應義塾塾長・横浜正金銀行支配人であった小泉信吉や、日露戦争時の海軍大臣、その後の総理大臣を歴任した山本権兵衛、麻生財閥の創業者である麻生太吉、初代国連大使の沢田廉三など、海外との繋がりの深い日本のためにも貢献した実業家や政治家、外交官がこの日に亡くなっているのも偶然ではないのかもしれません。
さてまあロンドン・パリの旅行記ですがパリの2日目になります。ボンジュール・ムシューの挨拶にやっと反応できるようになってきた頃でしょうか。宿泊したホテルは前にも言った通りミレニアムオペラというホテルなのですが、パリでは日本人は一般にこのホテルのようなオペラ座付近で宿泊する事が多いようです。まあ私などはホテルの床が白黒のモザイクになっているので選んだりしているわけですが、実際泊まって後から写真でも見て色々なフリーメイスンリーのシンボルに気付く事もあるのではないかと思います。その位恐らくオペラ座付近のホテルはフリーメイスンリー関連のものが多いのかと思います。
そういうわけでパリ全体がフランス革命、フリーメイスンリー結成後の2つの大事業の一つの象徴な訳ですが、それのさらに第二帝政のブラザーナポレオン3世によって整備された目玉の一つであるオペラ座建築の都市計画によって出来たのがそのオペラ座周辺地域であり、現在も進行中のロンドンで言うところのセントポール大聖堂付近のシティーと同じような地域になるのではないかと思われます。という事でオペラ座付近はそれ単独でフリーメイスンリー関連のスポットとして紹介していくこととします。
結構な曇天ですが、ロンドンでの雨降りに比べれば全くどうってことはありません。むしろフランスは優しいな位な印象です。しかしブラザーラファイエットの名前そのものの百貨店です。日本だとブラザー鳩山一郎商店みたいな感じでしょうか。まさにフランスフリーメイスンリーという感じです。ブラザーラファイエットのフランス革命、アメリカ独立戦争での活躍はなかなか本人の個性とも相まって非常に興味深いです。他のフリーメイスンによる評価もありますが、いずれにしてもポイントポイントで重要な役割を担ったのは間違いないかと思われます。
オペラ座がすぐ見えてきます。やはりアンネフランクの舞台の宣伝が目立ちます。いずれアンネの日記についても読んだら報告しようかと思います。
パリオペラ座です。角々にオベリスクがありウェストミンスター寺院の周りの柵のような感じでしょうか。垂れ幕の絵は観覧車のような形でしょうか。
ソシエテ・ジェネラルです。第二帝政期に創業したフランスの有力な金融グループです。最近のユーロ危機で株価が下がるなどあったようです。まさにロンドンシティーと似ています。
不思議な円形の空間がありますが実は後で説明しますが大事な意味があります。
ギャラリー・ラファイエット百貨店があります。こちらが旧店舗のようです。
北側の正面になります。もしくは裏の正面でしょうか。なかなか勇壮華麗な建築です。ガルニエ宮ともいい建築設計者のシャルル・ガルニエの名前をとったそうです。もちろんフリーメイスンだと思われます。
現在では大規模オペラはバスティーユにある新オペラ座で行われる事が多いようです。小規模オペラやバレエなどが多いそうです。YouTubeで検索して出てきたパリオペラ座でのオペラの公演を置きます。
(ブラザーモーツァルトの魔笛は著作権の関係で削除されました。オペラ関係の動画の削除が多いので見に来てほしいという事のようです。)
ブラザーヴィクトル・ユーゴーによるノートルダムの鐘です。
検索するとやはり圧倒的にブラザーモーツァルトの魔笛が出てくるようです。もしかすると小規模オペラしかやらないのではなく、パリオペラ座は格が高くなりすぎて特別な公演以外できなくなっているのかもしれません。
正面、南側に周っているのですね。
ブラザーガルニエの胸像です。後ろはオペラ座の徽章でしょうか。シェブロンの逆さまの形になっています。直角定規のまさにフリーメイスンリーのシンボルです。
左から順にジョヴァンニ・パイジエッロ、ニコロ・ピッチンニ、フランソワ=アンドレ・ダニカン・フィリドール、ジャン=ジャック・ルソーの胸像です。音楽に直接関わった方もそうでない方もあるようです。要するに全員フリーメイスンだと思われます。ルソーもフリーメイスンなのですね。絶句ですね。そういえば中江兆民も12月8日生まれでした。
アンドレ・カンプラ、ロベール・カンベールです。
ウジェーヌ・スクリーブです。立派なオベリスクの墓があるそうです。
ジョアキーノ・ロッシーニ、フランソワ・オーベール、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンです。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、ガスパーレ・スポンティーニ、ジャーコモ・マイアーベーア、ジャック・アレヴィです。
正面から南側を見た光景です。
フィリップ・キノーです。
こちらの面の方は字が読みづらく判別困難です。中には名札の無い方もいます。いかにもフリーメイスンリーといった感じの謎です。
これだけの女性の裸の像は日本では街中になかなか並べられないでしょうか。
アップルのショールームもとてもオシャレです。確かユニクロもありました。
曇天が冴えません。
ヴァンドーム広場のアウステルリッツ戦勝記念柱が見えます。
正面からの像です。ここも結構交通量が多く、歩道には物乞いがいます。
一応内部の画像を検索してきたものを載せます。天井画はブラザーマルク・シャガールによるものです。YouTubeの動画にも使用していますがオペラ座の怪人の舞台となっている場所です。一度は訪れて観劇をしたいものです。ちなみにウィキペディアの情報によるとガルニエ宮では定番の蜂の飼育をやっているそうで、フォションから蜂蜜として売り出されているそうです。フリーメイスンリーの定番ですがNTTの屋上でやるものとはだいぶ異なりそうです。
オペラ座のホームページのリンクをおきます。現在公演中の演目がわかりチケットの予約もできるようです。
さてオペラ座から離れてヴァンドーム広場に向かいます。
交通量が多いので交差点は地下道があります。パリの交通方式は相当変わっています。先に放射状の道路があるので車の動きは相当変則的です。基本的にあまり横断歩道はありませんし、信号も変則的です。
ショパンも住んでいたというヴァンドーム広場です。とにかく工事中のところが多くて曇天です。アウステルリッツ戦勝記念柱はトラヤヌス記念柱を模した典型的な螺旋階段で登れる記念柱のようですが、現在は全く登れません。解体されたり像が付けかえられたり相当ないわくつきの記念柱のようです。クールベが解体を指揮して結局再建されたときに資金を提供させられて破産したなど何というかいわくがあり過ぎるもののようです。
息詰まるほどのフランスフリーメイスンリーの象徴に満ちた空間でした。実はこの地には再び典型的なフランスフリーメイスンリーの象徴があります。
グーグルアースの画像です。明らかにフリーメイスンリーのスクエアアンドコンパスの形になっています。コンパスの頂点に先ほどの円形の場所があるのですね。オペラに総合芸術の頂点を見いだしたフランス音楽界の至宝とも言うべき存在がこのパリオペラ座、ガルニエ宮である事を象徴するシンボルの建築と思われます。
さてまあロンドン・パリの旅行記ですがパリの2日目になります。ボンジュール・ムシューの挨拶にやっと反応できるようになってきた頃でしょうか。宿泊したホテルは前にも言った通りミレニアムオペラというホテルなのですが、パリでは日本人は一般にこのホテルのようなオペラ座付近で宿泊する事が多いようです。まあ私などはホテルの床が白黒のモザイクになっているので選んだりしているわけですが、実際泊まって後から写真でも見て色々なフリーメイスンリーのシンボルに気付く事もあるのではないかと思います。その位恐らくオペラ座付近のホテルはフリーメイスンリー関連のものが多いのかと思います。
そういうわけでパリ全体がフランス革命、フリーメイスンリー結成後の2つの大事業の一つの象徴な訳ですが、それのさらに第二帝政のブラザーナポレオン3世によって整備された目玉の一つであるオペラ座建築の都市計画によって出来たのがそのオペラ座周辺地域であり、現在も進行中のロンドンで言うところのセントポール大聖堂付近のシティーと同じような地域になるのではないかと思われます。という事でオペラ座付近はそれ単独でフリーメイスンリー関連のスポットとして紹介していくこととします。
結構な曇天ですが、ロンドンでの雨降りに比べれば全くどうってことはありません。むしろフランスは優しいな位な印象です。しかしブラザーラファイエットの名前そのものの百貨店です。日本だとブラザー鳩山一郎商店みたいな感じでしょうか。まさにフランスフリーメイスンリーという感じです。ブラザーラファイエットのフランス革命、アメリカ独立戦争での活躍はなかなか本人の個性とも相まって非常に興味深いです。他のフリーメイスンによる評価もありますが、いずれにしてもポイントポイントで重要な役割を担ったのは間違いないかと思われます。
オペラ座がすぐ見えてきます。やはりアンネフランクの舞台の宣伝が目立ちます。いずれアンネの日記についても読んだら報告しようかと思います。
パリオペラ座です。角々にオベリスクがありウェストミンスター寺院の周りの柵のような感じでしょうか。垂れ幕の絵は観覧車のような形でしょうか。
ソシエテ・ジェネラルです。第二帝政期に創業したフランスの有力な金融グループです。最近のユーロ危機で株価が下がるなどあったようです。まさにロンドンシティーと似ています。
不思議な円形の空間がありますが実は後で説明しますが大事な意味があります。
ギャラリー・ラファイエット百貨店があります。こちらが旧店舗のようです。
北側の正面になります。もしくは裏の正面でしょうか。なかなか勇壮華麗な建築です。ガルニエ宮ともいい建築設計者のシャルル・ガルニエの名前をとったそうです。もちろんフリーメイスンだと思われます。
現在では大規模オペラはバスティーユにある新オペラ座で行われる事が多いようです。小規模オペラやバレエなどが多いそうです。YouTubeで検索して出てきたパリオペラ座でのオペラの公演を置きます。
(ブラザーモーツァルトの魔笛は著作権の関係で削除されました。オペラ関係の動画の削除が多いので見に来てほしいという事のようです。)
ブラザーヴィクトル・ユーゴーによるノートルダムの鐘です。
検索するとやはり圧倒的にブラザーモーツァルトの魔笛が出てくるようです。もしかすると小規模オペラしかやらないのではなく、パリオペラ座は格が高くなりすぎて特別な公演以外できなくなっているのかもしれません。
正面、南側に周っているのですね。
ブラザーガルニエの胸像です。後ろはオペラ座の徽章でしょうか。シェブロンの逆さまの形になっています。直角定規のまさにフリーメイスンリーのシンボルです。
左から順にジョヴァンニ・パイジエッロ、ニコロ・ピッチンニ、フランソワ=アンドレ・ダニカン・フィリドール、ジャン=ジャック・ルソーの胸像です。音楽に直接関わった方もそうでない方もあるようです。要するに全員フリーメイスンだと思われます。ルソーもフリーメイスンなのですね。絶句ですね。そういえば中江兆民も12月8日生まれでした。
アンドレ・カンプラ、ロベール・カンベールです。
ウジェーヌ・スクリーブです。立派なオベリスクの墓があるそうです。
ジョアキーノ・ロッシーニ、フランソワ・オーベール、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンです。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、ガスパーレ・スポンティーニ、ジャーコモ・マイアーベーア、ジャック・アレヴィです。
正面から南側を見た光景です。
フィリップ・キノーです。
こちらの面の方は字が読みづらく判別困難です。中には名札の無い方もいます。いかにもフリーメイスンリーといった感じの謎です。
これだけの女性の裸の像は日本では街中になかなか並べられないでしょうか。
アップルのショールームもとてもオシャレです。確かユニクロもありました。
曇天が冴えません。
ヴァンドーム広場のアウステルリッツ戦勝記念柱が見えます。
正面からの像です。ここも結構交通量が多く、歩道には物乞いがいます。
一応内部の画像を検索してきたものを載せます。天井画はブラザーマルク・シャガールによるものです。YouTubeの動画にも使用していますがオペラ座の怪人の舞台となっている場所です。一度は訪れて観劇をしたいものです。ちなみにウィキペディアの情報によるとガルニエ宮では定番の蜂の飼育をやっているそうで、フォションから蜂蜜として売り出されているそうです。フリーメイスンリーの定番ですがNTTの屋上でやるものとはだいぶ異なりそうです。
オペラ座のホームページのリンクをおきます。現在公演中の演目がわかりチケットの予約もできるようです。
さてオペラ座から離れてヴァンドーム広場に向かいます。
交通量が多いので交差点は地下道があります。パリの交通方式は相当変わっています。先に放射状の道路があるので車の動きは相当変則的です。基本的にあまり横断歩道はありませんし、信号も変則的です。
ショパンも住んでいたというヴァンドーム広場です。とにかく工事中のところが多くて曇天です。アウステルリッツ戦勝記念柱はトラヤヌス記念柱を模した典型的な螺旋階段で登れる記念柱のようですが、現在は全く登れません。解体されたり像が付けかえられたり相当ないわくつきの記念柱のようです。クールベが解体を指揮して結局再建されたときに資金を提供させられて破産したなど何というかいわくがあり過ぎるもののようです。
息詰まるほどのフランスフリーメイスンリーの象徴に満ちた空間でした。実はこの地には再び典型的なフランスフリーメイスンリーの象徴があります。
グーグルアースの画像です。明らかにフリーメイスンリーのスクエアアンドコンパスの形になっています。コンパスの頂点に先ほどの円形の場所があるのですね。オペラに総合芸術の頂点を見いだしたフランス音楽界の至宝とも言うべき存在がこのパリオペラ座、ガルニエ宮である事を象徴するシンボルの建築と思われます。
自由の女神がアメリカの象徴というとそれを贈ったフランスからはどう思われるかわかりませんが、一般に世の中の認識はそうなっていると思います。フランスにはレプリカではなく大型化する前の原型といえる自由の女神の像がリュクサンブール公園内にあり、また今回訪問する予定のセーヌ川沿いの自由の女神はパリに住むアメリカ人たちがフランス革命100周年記念にフランスに贈ったものだそうです。結局設計したブラザーバルトルディを始めとして、ニューヨークにある自由の女神を建設したブラザーエッフェル、その他設置にあたってそれぞれの地のフリーメイスンリーが主に関わっているのは明らかなので、主にフランスとアメリカの間でやり取りされたフリーメイスンリーのシンボルというのが最も正しいのかと思われます。
結局1775年‐1783年のアメリカ独立戦争と1789年‐1815年のフランス革命は6年の違いがあるとしてもほぼ同時代に起こった当時の最先進国で起こった啓蒙思想のもたらした世界を揺るがす大社会現象であり、それらが結果的に様々な紆余曲折を経て現在に繋がる市民社会をもたらす安定に至った際に、自由の女神はそれらを集約する形の象徴となり主に両国の間でやり取りされたものかと思います。
まあとにかくこのブログでも自由の女神について取り上げたりしましたので、その発祥の地フランスパリでの有名な第二の自由の女神とも言えるセーヌ川沿いの自由の女神像は是非実物を見ておきたいと思いパリ二日目に徒歩で訪問しました。全て徒歩で移動したので地図上で計測してみたところホテルからセーヌ川沿いに自由の女神に到達して帰るルートでおよそ15kmあり、徒歩の時間だけで早足で歩いて3時間はかかる計算となり、ロンドンの移動と同じくあまり一般の観光では参考にならないかもしれません。
フランス・パリに訪問して実際に自由の女神像を訪問する方も少数であると思いますので、ぜひまあ参考までにご覧ください。
テュイルリー庭園を横切ってセーヌ川を横切る新しいレオポール・セダール・サンゴール橋を渡ります。1999年に出来たそうですが、日本の景色のよいところの柵などに認められる南京錠のおまじないがあったりします。元々橋もかかっていたそうですが、船が衝突して掛け替えたそうです。恐らくロンドンのミレニアムブリッジとの競作なのかと思われます。個人的にはこちらのパリの橋は非常に美しい橋で渡りにくさのようなものは多少感じましたが、美しさではこれまで見た橋の中で最も美しいのではないかと思います。日本にも様々な木造や石造、鉄筋コンクリート造などの橋の建築がありますが、近年では特に街の象徴として横浜ベイブリッジやお台場レインボーブリッジ、東京湾ゲートブリッジ、瀬戸大橋など巨大な橋の建築が盛んであった時代がありましたが、パリやロンドンでもかつては盛んに石造の橋の建築があり、それを現代的に鉄造でシンプルな建築というテーマで作られたのがこれらの橋なのかと思います。個人的には非常に美しい橋でした。日本でも岩国基地にある錦帯ロッジは岩国市のシンボルである木造の錦帯橋をフリーメイスンリーのロッジの名前としており、橋の建築というそのものがフリーメイスンリーの重要なシンボルであり教訓を伴ったものであるということになるのだと思います。サイモンアンドガーファンクルの明日に架ける橋などの歌もあります。
奥がオルセー美術館でしょうか。手前がレジオン・ドヌール宮、勲章博物館でホワイトハウスのモデルともなったそうです。フイヤン派のサロンであった事もあるそうです。勲章博物館は常時開放されています。
ブラザートーマス・ジェファーソンの像があります。ヘッダーの画像にも使用しています。まああまり普通の人は意識しないかもしれませんが、ブラザージェファーソンの像の前がいわゆる安全地帯の表記の白黒になっています。もちろんフリーメイスンリーのシンボルです。まあこの場所がそういう場所であるという強調なのだと思います。
レオポール・セダール・サンゴール橋全景です。ちなみに橋の名前はセネガルの大統領の名前だそうです。もちろんフリーメイスンでしょう。
オベリスクが見えてきます。
コンコルド橋です。最も交通量が多いそうです。バスティーユ監獄の解体で残った石材を使用したそうです。
ブルボン宮です。
アレクサンドル3世橋です。奥がグランパレです。
アンヴァリッドですね。今回訪問しなかったので今度は是非訪問しなければなりません。
アレクサンドル3世橋のたもとのペーガソス(天馬)の像です。
エッフェル塔が近づいてきます。
アンヴァリッド橋からゴシックの尖塔が見えます。
エッフェル塔が近づいてきます。セーヌ川沿いの道は雨の後でやはり砂地で水たまりが相当出来ていて歩きづらかったです。
三色旗を模したオブジェがあります。
エッフェル塔のふもとまで来ました。
シャイヨ宮です。現在は国立海軍博物館、人類博物館、国立フランス文化財博物館、シャイヨ国立劇場となっているそうです。国際人権宣言を国連総会がこの場所で開かれて採択したそうです。
エッフェル塔の真下ですね。
メリーゴーラウンドが真下にあったりします。
曇天のエッフェル塔です。なかなか無い写真かもしれません。
こんな歩道です。
突然一本だけ明らかに桜の木があります。ソメイヨシノではありませんがちょうど散りかけでした。
ちょっとわかりません。
パリ日本文化会館というのがあります。このために桜があるようです。同様の建物が日本では恵比寿ガーデンプレイスの近くにある日仏会館です。
ディエゴ・ブロセットという軍人の方でド・ゴールとともに戦いヴィシー政権のもとで処刑されたそうです。フリーメイスンと思われます。
エッフェル塔からまた離れていきます。
一重の薔薇があります。
この辺は道がかなりごちゃごちゃで観光地の雰囲気は全くありません。川沿いに船着き場があります。
細い給水塔でしょうか。様々な形の高層アパートが出てきます。
この辺りは道が面倒です。
グルネル橋からのエッフェル塔です。
自由の女神像です。白鳥の島というそうですがとにかく観光地ではなく住宅地に近く、しかもパリっぽくない高層アパートに囲まれています。アメリカって感じでしょうか。
船上カフェかレストランか、営業しているのかよくわかりませんが、一応屋根にピラミッドがあります。
近くの道路は歩道もほとんどなく全く写真をとる形には出来ていません。唯一良く見るネット上の写真は全て船上から撮られているようです。セーヌ川下りをするようにできているのですね。
なんとか自由の女神とエッフェル塔との写真を撮ろうとしますがいまいちです。なかなか良くできていますねえ。歩道はほとんどなくそもそもここで撮れないようにできているようです。
ちょっと晴れ間が出ています。
まあ虹のショットと同じくらい貴重なよそでは見られない写真かもしれません。パリの中のアメリカです。
交通量が相当多く非常に危険です。望遠レンズで撮るのかも知れません。ポイントのところは橋のたもとで決まっているようでした。
ミラボー橋からのショットです。ギヨーム・アポリネールの詩「ミラボー橋」の舞台です。YouTubeの動画に加えました。
対岸にはいかにもシンボルといった碇と聖アンデレ十字の重なった印の恐らく川下りとレストランを兼ねた船着き場のクラブのような場所がありました。川下りは良いのでしょうが、まあなんというかでした。商売っ気が強い感じでしょうか。
もう一度グルネル橋から自由の女神に近づきます。
ちょうどまさに自由の女神の周辺を妙な工事をしていて変な感じの立ち入り禁止でしたがささっと入って写真を撮ってきました。まあ貴重なショットだと思いますが、周りに誰も観光客はいませんでした。
島に遊歩道がありアーチがあります。
パリ日本文化会館で開催中の展示です。まあシュールな感じでしょうか。あまり日本人は歩いていませんでした。地下鉄の移動が良いようです。この辺りでもうヘトヘトです。この後はエッフェル塔に上り、オルセー美術館を巡りルーブル美術館に行き着きます。
結局1775年‐1783年のアメリカ独立戦争と1789年‐1815年のフランス革命は6年の違いがあるとしてもほぼ同時代に起こった当時の最先進国で起こった啓蒙思想のもたらした世界を揺るがす大社会現象であり、それらが結果的に様々な紆余曲折を経て現在に繋がる市民社会をもたらす安定に至った際に、自由の女神はそれらを集約する形の象徴となり主に両国の間でやり取りされたものかと思います。
まあとにかくこのブログでも自由の女神について取り上げたりしましたので、その発祥の地フランスパリでの有名な第二の自由の女神とも言えるセーヌ川沿いの自由の女神像は是非実物を見ておきたいと思いパリ二日目に徒歩で訪問しました。全て徒歩で移動したので地図上で計測してみたところホテルからセーヌ川沿いに自由の女神に到達して帰るルートでおよそ15kmあり、徒歩の時間だけで早足で歩いて3時間はかかる計算となり、ロンドンの移動と同じくあまり一般の観光では参考にならないかもしれません。
フランス・パリに訪問して実際に自由の女神像を訪問する方も少数であると思いますので、ぜひまあ参考までにご覧ください。
テュイルリー庭園を横切ってセーヌ川を横切る新しいレオポール・セダール・サンゴール橋を渡ります。1999年に出来たそうですが、日本の景色のよいところの柵などに認められる南京錠のおまじないがあったりします。元々橋もかかっていたそうですが、船が衝突して掛け替えたそうです。恐らくロンドンのミレニアムブリッジとの競作なのかと思われます。個人的にはこちらのパリの橋は非常に美しい橋で渡りにくさのようなものは多少感じましたが、美しさではこれまで見た橋の中で最も美しいのではないかと思います。日本にも様々な木造や石造、鉄筋コンクリート造などの橋の建築がありますが、近年では特に街の象徴として横浜ベイブリッジやお台場レインボーブリッジ、東京湾ゲートブリッジ、瀬戸大橋など巨大な橋の建築が盛んであった時代がありましたが、パリやロンドンでもかつては盛んに石造の橋の建築があり、それを現代的に鉄造でシンプルな建築というテーマで作られたのがこれらの橋なのかと思います。個人的には非常に美しい橋でした。日本でも岩国基地にある錦帯ロッジは岩国市のシンボルである木造の錦帯橋をフリーメイスンリーのロッジの名前としており、橋の建築というそのものがフリーメイスンリーの重要なシンボルであり教訓を伴ったものであるということになるのだと思います。サイモンアンドガーファンクルの明日に架ける橋などの歌もあります。
奥がオルセー美術館でしょうか。手前がレジオン・ドヌール宮、勲章博物館でホワイトハウスのモデルともなったそうです。フイヤン派のサロンであった事もあるそうです。勲章博物館は常時開放されています。
ブラザートーマス・ジェファーソンの像があります。ヘッダーの画像にも使用しています。まああまり普通の人は意識しないかもしれませんが、ブラザージェファーソンの像の前がいわゆる安全地帯の表記の白黒になっています。もちろんフリーメイスンリーのシンボルです。まあこの場所がそういう場所であるという強調なのだと思います。
レオポール・セダール・サンゴール橋全景です。ちなみに橋の名前はセネガルの大統領の名前だそうです。もちろんフリーメイスンでしょう。
オベリスクが見えてきます。
コンコルド橋です。最も交通量が多いそうです。バスティーユ監獄の解体で残った石材を使用したそうです。
ブルボン宮です。
アレクサンドル3世橋です。奥がグランパレです。
アンヴァリッドですね。今回訪問しなかったので今度は是非訪問しなければなりません。
アレクサンドル3世橋のたもとのペーガソス(天馬)の像です。
エッフェル塔が近づいてきます。
アンヴァリッド橋からゴシックの尖塔が見えます。
エッフェル塔が近づいてきます。セーヌ川沿いの道は雨の後でやはり砂地で水たまりが相当出来ていて歩きづらかったです。
三色旗を模したオブジェがあります。
エッフェル塔のふもとまで来ました。
シャイヨ宮です。現在は国立海軍博物館、人類博物館、国立フランス文化財博物館、シャイヨ国立劇場となっているそうです。国際人権宣言を国連総会がこの場所で開かれて採択したそうです。
エッフェル塔の真下ですね。
メリーゴーラウンドが真下にあったりします。
曇天のエッフェル塔です。なかなか無い写真かもしれません。
こんな歩道です。
突然一本だけ明らかに桜の木があります。ソメイヨシノではありませんがちょうど散りかけでした。
ちょっとわかりません。
パリ日本文化会館というのがあります。このために桜があるようです。同様の建物が日本では恵比寿ガーデンプレイスの近くにある日仏会館です。
ディエゴ・ブロセットという軍人の方でド・ゴールとともに戦いヴィシー政権のもとで処刑されたそうです。フリーメイスンと思われます。
エッフェル塔からまた離れていきます。
一重の薔薇があります。
この辺は道がかなりごちゃごちゃで観光地の雰囲気は全くありません。川沿いに船着き場があります。
細い給水塔でしょうか。様々な形の高層アパートが出てきます。
この辺りは道が面倒です。
グルネル橋からのエッフェル塔です。
自由の女神像です。白鳥の島というそうですがとにかく観光地ではなく住宅地に近く、しかもパリっぽくない高層アパートに囲まれています。アメリカって感じでしょうか。
船上カフェかレストランか、営業しているのかよくわかりませんが、一応屋根にピラミッドがあります。
近くの道路は歩道もほとんどなく全く写真をとる形には出来ていません。唯一良く見るネット上の写真は全て船上から撮られているようです。セーヌ川下りをするようにできているのですね。
なんとか自由の女神とエッフェル塔との写真を撮ろうとしますがいまいちです。なかなか良くできていますねえ。歩道はほとんどなくそもそもここで撮れないようにできているようです。
ちょっと晴れ間が出ています。
まあ虹のショットと同じくらい貴重なよそでは見られない写真かもしれません。パリの中のアメリカです。
交通量が相当多く非常に危険です。望遠レンズで撮るのかも知れません。ポイントのところは橋のたもとで決まっているようでした。
ミラボー橋からのショットです。ギヨーム・アポリネールの詩「ミラボー橋」の舞台です。YouTubeの動画に加えました。
対岸にはいかにもシンボルといった碇と聖アンデレ十字の重なった印の恐らく川下りとレストランを兼ねた船着き場のクラブのような場所がありました。川下りは良いのでしょうが、まあなんというかでした。商売っ気が強い感じでしょうか。
もう一度グルネル橋から自由の女神に近づきます。
ちょうどまさに自由の女神の周辺を妙な工事をしていて変な感じの立ち入り禁止でしたがささっと入って写真を撮ってきました。まあ貴重なショットだと思いますが、周りに誰も観光客はいませんでした。
島に遊歩道がありアーチがあります。
パリ日本文化会館で開催中の展示です。まあシュールな感じでしょうか。あまり日本人は歩いていませんでした。地下鉄の移動が良いようです。この辺りでもうヘトヘトです。この後はエッフェル塔に上り、オルセー美術館を巡りルーブル美術館に行き着きます。
フリーメイスンリーの記念碑や建築というともちろん石造りが多いわけですが、それが決定的に変わったのはこのエッフェル塔が建ってからになるかと思います。いわゆる鉄筋や鉄筋コンクリートの建築が20世紀を代表する建築となる際に最初の鉄の強度を示す見本となったのがこのエッフェル塔であると思われますし、画期的にその後の建築が変化していく分岐点にあった記念碑的な建築であると思われます。
日本人は東京タワーの原型としてのエッフェル塔を思い浮かべます。その際には333mの東京タワーに対してそれよりも低い建物と考えがちですが、実際には展望台の高さは高くエッフェル塔273mに対して東京タワー223mとなっているので、東京タワーに上った事があれば、それよりおよそ70年前に建てられた建築がほぼ当時のままの姿で現在もその高さに登れる事はすごい事だと思われるかと思います。東京タワーが主に当時普及が図られていたテレビのための電波塔として建築された事に比べると、エッフェル塔はまさにフランス革命100周年を記念した第4回万国博覧会での目玉の建築として建てられた、鉄の建築と高さを競う見せるための建築であり、その後電波塔としての機能を付加されたとはいえそもそも建築の目的が微妙に異なる事がわかるかと思います。実際に登ると階段からは細かい鉄骨の組み上げが良くわかりますし、当時最新であったエレベーターの仕組みやスムーズな動きがはっきりと体感できるようにできていますし、そしてそれらが大量の観光客に均等に実感できるような設計でその通りに建築後100年以上稼働してきた事がわかります。日本では新東京タワーとも言うべきスカイツリーが建築されその高さを誇っていますが、建築後100年以上もその高さと美しさで世界中の観光客を展望台に集めてきたエッフェル塔の偉大さというものが実際に登ると歴史とともに体感されます。
では実際の写真を見ていきます。
エッフェル塔の下には庭園があります。トイレが外にあるのですが、雨も降りだして大渋滞でした。ちょうど小便をするときに奥さんがネックレスにフリーメイスンリーのシンボルをしているブラザーと隣になったんですが、犬のようにどうのこうのと言っていて、それも何かしらの意味があったかと思います。まあ人間なら待てという意味だと思われます。
4つの足の2つがエレベーターの入り口で2つが階段の入り口となっているそうです。
エレベーターは空気圧で上がる仕組みで赤と黄色のポンプが上下動してスムーズにエレベーターが上がっていきます。
第二展望台からみたシャン・ド・マルス公園とエコール・ミリテールです。エコール・ミリテールは陸軍士官学校のようです。
エッフェル塔のエレベーターの動画がありましたので置きます。
かつては第二展望台から最上階までは螺旋階段で100m以上上る構造であったようで、建築当時は最上階まで上がるのは相当大変であったようです。
第二展望台から上を見たところです。第二展望台では大渋滞で結構待ちます。
入場券も良くできています。二か所で角を取るとちょうどオベリスク型になります。エッフェル塔がオベリスクと同じ意味であるという事です。
最上階からの眺めです。
最上部の模型です。螺旋階段で上にいけますが通常はいけません。
解説があります。
反対側の眺めです。
大正天皇のブラザーエッフェルへの勲三等の表彰状があります。面白いですね。
なぜかブラザーエッフェルとエジソンの蝋人形があります。エジソンも発明した電球をゾロアスター教の神であるアフラ・マズダからマズダと名前を付けたなどフリーメイスンリーにまつわるような話もあります。ブラザーフォードとも親友であったなどありますが、一日16時間働き続け、高等教育を受けていないエジソンにフリーメイスンリーの活動をする時間はなかったようです。
途中で大分渋滞したのと天気が悪くなって寒かったのでどうもこれは登ったところでまた虹じゃないかと思ったんですが、そんな事はありませんでした。4になってしまいますからね。
ブラザーエッフェルの写真です。
上から下りてきたところの第二展望台からのラ・デファンス方面です。天気が気になって撮っています。
結局降りてきて下から撮っています。やっぱり虹は3回で打ち止めです。出たところで寄付を求められたりしましたがスルーしました。天気が気になってしょうがない感じでしょうか。
まあ色々あるフリーメイスンの旅です。
次回オルセー美術館です。
日本人は東京タワーの原型としてのエッフェル塔を思い浮かべます。その際には333mの東京タワーに対してそれよりも低い建物と考えがちですが、実際には展望台の高さは高くエッフェル塔273mに対して東京タワー223mとなっているので、東京タワーに上った事があれば、それよりおよそ70年前に建てられた建築がほぼ当時のままの姿で現在もその高さに登れる事はすごい事だと思われるかと思います。東京タワーが主に当時普及が図られていたテレビのための電波塔として建築された事に比べると、エッフェル塔はまさにフランス革命100周年を記念した第4回万国博覧会での目玉の建築として建てられた、鉄の建築と高さを競う見せるための建築であり、その後電波塔としての機能を付加されたとはいえそもそも建築の目的が微妙に異なる事がわかるかと思います。実際に登ると階段からは細かい鉄骨の組み上げが良くわかりますし、当時最新であったエレベーターの仕組みやスムーズな動きがはっきりと体感できるようにできていますし、そしてそれらが大量の観光客に均等に実感できるような設計でその通りに建築後100年以上稼働してきた事がわかります。日本では新東京タワーとも言うべきスカイツリーが建築されその高さを誇っていますが、建築後100年以上もその高さと美しさで世界中の観光客を展望台に集めてきたエッフェル塔の偉大さというものが実際に登ると歴史とともに体感されます。
では実際の写真を見ていきます。
エッフェル塔の下には庭園があります。トイレが外にあるのですが、雨も降りだして大渋滞でした。ちょうど小便をするときに奥さんがネックレスにフリーメイスンリーのシンボルをしているブラザーと隣になったんですが、犬のようにどうのこうのと言っていて、それも何かしらの意味があったかと思います。まあ人間なら待てという意味だと思われます。
4つの足の2つがエレベーターの入り口で2つが階段の入り口となっているそうです。
エレベーターは空気圧で上がる仕組みで赤と黄色のポンプが上下動してスムーズにエレベーターが上がっていきます。
第二展望台からみたシャン・ド・マルス公園とエコール・ミリテールです。エコール・ミリテールは陸軍士官学校のようです。
エッフェル塔のエレベーターの動画がありましたので置きます。
かつては第二展望台から最上階までは螺旋階段で100m以上上る構造であったようで、建築当時は最上階まで上がるのは相当大変であったようです。
第二展望台から上を見たところです。第二展望台では大渋滞で結構待ちます。
入場券も良くできています。二か所で角を取るとちょうどオベリスク型になります。エッフェル塔がオベリスクと同じ意味であるという事です。
最上階からの眺めです。
最上部の模型です。螺旋階段で上にいけますが通常はいけません。
解説があります。
反対側の眺めです。
大正天皇のブラザーエッフェルへの勲三等の表彰状があります。面白いですね。
なぜかブラザーエッフェルとエジソンの蝋人形があります。エジソンも発明した電球をゾロアスター教の神であるアフラ・マズダからマズダと名前を付けたなどフリーメイスンリーにまつわるような話もあります。ブラザーフォードとも親友であったなどありますが、一日16時間働き続け、高等教育を受けていないエジソンにフリーメイスンリーの活動をする時間はなかったようです。
途中で大分渋滞したのと天気が悪くなって寒かったのでどうもこれは登ったところでまた虹じゃないかと思ったんですが、そんな事はありませんでした。4になってしまいますからね。
ブラザーエッフェルの写真です。
上から下りてきたところの第二展望台からのラ・デファンス方面です。天気が気になって撮っています。
結局降りてきて下から撮っています。やっぱり虹は3回で打ち止めです。出たところで寄付を求められたりしましたがスルーしました。天気が気になってしょうがない感じでしょうか。
まあ色々あるフリーメイスンの旅です。
次回オルセー美術館です。
要するにオルセー美術館な訳ですが、やはり多いのは印象派です。
印象派は主にマネにルーツを置き、モネの第一回印象派展の「印象、日の出」の作品に由来する写実主義から脱した絵画独自の表現に徹した新しい表現法を追求した画家のグループであるということです。
ロンドンでブラザーウィリアム・ターナーの作品を見た直後だと明らかにその関連を感じるわけですが、画家や芸術アカデミー会員でセントポール大聖堂に葬られた方が多い事を知ると絵画芸術不毛の地イギリスでフリーメイスンリーによって追及された絵画の手法、象徴性と写実性が翻って芸術の都パリでそれらから脱して印象主義、よりリアルな漠然としたものとして新しい表現法として確立された事が理解されるかと思います。特に印象派の名前の由来ともなったモネが第一回印象派展の前にロンドンに滞在しその画風を確立した事と、ブラザーウィリアム・ターナーの画風を明らかに取り入れた事と、後にロンドンのウェストミンスター宮殿を印象派の画風で何度も書いている事がこれらの印象派のムーブメントを象徴する、すなわちジャポニズムなどとも絡めたフリーメイスンリーとの芸術の関連ではないかと思います。
さてまああまり素人が余計な事を言うと火傷をしますが、ワシントンナショナルギャラリー展のフィンセント・ファン・ゴッホの白バラで感じたフリーメイスンリーと印象派との関連に引き続いた現代における絵画芸術の理解について、フリーメイスンリーの最も盛んな都市であるパリのオルセー美術館で、ロンドンでの美術館巡りに引き続いて見学する事で思いを強くしたという事になるかと思います。
では実際に撮った写真です。オルセー美術館は内部は撮影禁止ですので絵画の写真は主にサルヴァスタイル美術館というサイトからお借りしています。あとはウィキペディアです。内部の様子を写したYouTubeの動画がありましたので参考にしてください。
セーヌ川沿いの道をエッフェル塔から戻ります。
ブルボン宮、国民議会の前のアンリ・フランソワ・ダゲッソーの像です。フリーメイスンと思われます。
オルセー美術館に到着します。少し人が集まっています。
待っている間に一気に晴れてきました。
中で撮った写真はこれだけです。鉄道駅であった名残の大時計です。
オルセー美術館は美術館として見てかなり変わった駅の再利用の美術館であり、ルーブル美術館と比べると大分変な感じです。それはそのまま上述した印象派が主にあるという事とも関連しているようですし、題名としたフランスの良き時代、ベルエポックの空気を反映しようとした感じかもしれません。日本で言うとバブル時代みたいな感じでしょうか。駅の再利用が美術館なんて言うのもそういう時代の空気を反映しているのではないでしょうか。
内部の動画です。絵画を見て回るには不釣り合いな開放的な空間ですが、唯一クールベの大作は映えていました。クールベはパリコミューンで美術大臣を務めたりした美術とともに社会的な活動家であり、フリーメイスンリーとは対極にいた人物かと思われます。セザンヌやミレー、マネ、モネといういわゆる印象派の巨匠たちは4階といった大時計の小部屋の方にあったのがまあそれなりかなといった感じでした。ファン・ゴッホやゴーギャンは右手の分けられた部屋の方にありました。作品もタヒチのものやファン・ゴッホは星月夜や教会のものなど強くフリーメイスンリーのシンボルを意識したものでした。オルセー美術館の位置づけとしてはロンドンのナショナルギャラリーに近いものなのかもしれません。
ではオルセー美術館で展示されている絵画の、ネット上で拾ってきた画像を並べます。
オルセー美術館の一階で最も目立つのはやはりルーヴル美術館でもそうですがドミニク・アングルの作品かと思います。聖餅の聖母(オスティアのマリア)といいラファエロの作品から着想を得た、カトリックの教義の象徴を印象的に配した絵です。アングルはフランスアカデミーの院長を務めており、師がブラザーダヴィッドでありフリーメイスンと思われます。
パフォスのヴィーナス
泉
ジャン=レオン・ジェロームの闘鶏です。ジャン=レオン・ジェロームは典型的なアカデミズム美術の中心的な存在であり、主にオリエンタルをテーマとした画題を描いたそうです。まさにグラントリアンのフランスフリーメイスンリーです。
トマ・クチュールの退廃期のローマ人達です。マネの師であり、サロンから徐々に離れていき批判する本を出版したそうです。
テピダリウム。テオドール・シャセリオーです。アングルの弟子でロマン主義に属し、やはりオリエンタリズムが認められます。
マクベス
サッフォー
ジュール・ジョゼフ・ルフェーブルの真実です。一人の女性を描いた絵を多く認め、アカデミーで教師を務めていたようです。この絵はフリーメイスンリーの第一階級で教わる三つの基本的な教えの兄弟愛、救済、真実の一つを示しているようです。
アレクサンドル・カバネルのヴィーナスの誕生。ブラザーナポレオン3世が購入したそうです。当時のフランス画壇でアカデミック絵画としてサロンの中心にいて教え子が多数いました。印象派達のサロンでの展示を拒否したため、結果として落選者の作品を集めた展覧会が評判となりサロンの評判は地に落ちたそうです。恐らく題材や正統派の写実性などからフリーメイスンと思われます。
カイン一族の逃亡。フェルナン・コルモンです。アレクサンドル・カバネルの弟子で、フランス芸術家協会会長を務めたそうです。新しい芸術にも寛容でファン・ゴッホやロートレックにも教えたそうです。1845年12月24日生まれだそうです。
バルブ・ドゥ・リムスキー=コルサコフ夫人の肖像、フランツ・ヴィンターハルターです。主に王侯貴族の肖像画を描き、特に美しい王女の肖像画で各国の美術館に作品が収蔵されています。はっきりした根拠はありませんが、当時の英仏独の王族は多くがフリーメイスンであったことからも、この画家もフリーメイスンであったのではないでしょうか。
象徴主義の画家であるギュスターヴ・モローのイアソンです。聖書や神話に題材をとった幻想的な作風で知られ、印象派と同時代の方ですが、フリーメイスンのようです。
ガラテイア(ガラテア)です。チェコのグランドマスターを務めたブラザーミュシャの作品を思わせます。
オルフェウスの首を運ぶトラキアの娘です。死したオルフェウスの顔面はルーヴル美術館収蔵のミケランジェロの彫刻作品瀕死の奴隷に基づいているそうです。
目を閉じて(閉じられた目、瞑目)、オディロン・ルドンです。象徴主義に分類される作家です。印象派と同時代の画家ですが、実際には独自の画風で孤高の画家のようです。当初建築家を目指していたり、All Seeing Eyeを思わせるモチーフの作品が認められたり、題材などからもフリーメイスンのようです。
アポロンの二輪馬車(アポロンの馬車と竜)
キリストの磔刑
エジプトへの逃避
仏陀
聖母の窓(ステンドグラス)
イエスの御心
エヴァ(イブ)
笑う蜘蛛
ポール・ゴーガンの肖像(ポール・ゴーギャンの肖像)
ギュスターヴ・クールベの代表作オルナンの埋葬です。3.1m×6.6mの大作です。実物を見ると圧巻でなんだか訳がわかりません。ただオルセー美術館の中での存在感は圧倒的です。実際は写真で見るほど写実的な印象を受けずただただ巨大な自我を印象付ける作品です。実物と写真の印象が全く異なるのが特徴かもしれません。
こちらも大作の画家のアトリエです。3.6m×6mです。クールベの作品は実物よりも写真写りが良い印象でしょうか。それだけ写真を意識したものであり、その結果として写真写りが良いのかもしれません。
嵐の海
リンゴの木の花
源泉
世界の起源
眠る子、ジュリエット・クールベの肖像
ピエール・ジョセフ・プロ―ドンの肖像
プレイシールの泉の流れの鹿の群れ
エトルタの崖、嵐のあと
隠れ沢
クールベの作品ではドレスデン爆撃で失われた石割人夫という作品があります。フリーメイスンリーにまつわるようなテーマですが、労働者を描いた社会主義的作品とされたようです。クールベは名声を得たのちに、普仏戦争後のパリコミューンの時にオペラ座の回で触れたようにヴァンドーム広場のアウステルリッツ戦勝記念柱の解体を提唱して結果として破産し、国外追放となったそうです。なかなかいわくが深いような石割人夫の画像はヘッダーに加えました。
アンリ・ファンタン=ラトゥールのドラクロワ礼賛(ドラクロワへのオマージュ)です。ラトゥールはクールベのアトリエで学び、サロンで活躍した画家です。後にアメリカ人画家のホイッスラーと親交を結んだそうです。印象派の絵画手法には否定的でありつつも、印象派の画家たちと知り合いで、ベルト・モリゾにマネを紹介して両者を引き合わせたそうです。恐らくフリーメイスンではないでしょうか。
バティニョールのアトリエです。当時のアカデミズムに挑戦的であったマネを中心としてオットー・ショルデラー、ルノワール、エミール・ゾラ、エドモン・メートル、フレデリック・バジール、クロード・モネを認めます。机の上には女神ミネルヴァの像を認めています。
デュブール家の人々
シャルロット・デュブール
ジェームズ・マクニール・ホイッスラーの灰色と黒のアレンジメント-母の肖像です。アンリ・ファンタン=ラトゥール、アルフォンス・ルグロと三人会を結成したそうです。イギリス美術家協会会長になっておりフリーメイスンと思われます。
ギュスターヴ・カイユボットの床削りの人々です。カイユボットは遺産を元に印象派の画家たちを支援しつつ自身も描いていて、1950年代になって初めて子孫が絵画を市場に売ったそうです。
エドガー・ドガのアプサントを飲む人(カフェにて)です。ドガは反ユダヤ主義者であったそうです。
ベレッリ家の肖像、ドガの初期の作品です。
舞台のバレエ稽古です。ガルニエ宮の様子だそうです。
アイロンをかける女たち
オペラ座の稽古場(ル・ペルティエ街のオペラ座のバレエ教室、踊りの審査)
オペラ座のオーケストラ
舞台の2人の踊り子
ダンス教室(バレエの教室)
浴盤(たらいで湯浴みする女)
エドゥアール・マネのバルコニーです。マネは印象派の先駆者として有名です。父は法務省の高級官僚でレジオンドヌール勲章をもらうブルジョア出身であり、両親の意向で海軍に入るところを受験で失敗し画家になったそうです。画題や活動などからもフリーメイスンと思われます。この絵ではマネの弟ウジェーヌと結婚したベルト・モリゾが描かれています。
胸をはだけたブロンドの娘
笛吹く少年
ガラス花瓶の中のカーネーションとクレマティス
草上の昼食
すみれのブーケをつけたベルト・モリゾの肖像(黒い帽子のベルト・モリゾ)
オランピア、様々な象徴を取り込みながら、娼婦を描いた事でスキャンダルになった作品だそうです。
エミール・ゾラの肖像、ゾラはマネやセザンヌなどの印象派の擁護者であった小説家ですが、後に彼らをモデルとした小説を書いて絶交しています。フランス文芸家会長も務めており、フリーメイスンと思われます。ドレフュス事件に絡んでロンドンに亡命し、帰国後に自宅で一酸化炭素中毒による不審死をしたそうです。ドレフュス事件は普仏戦争後のフランス軍の対独諜報活動におけるユダヤ人のスパイ冤罪事件であり、この事件をきっかけとしてフランス軍は決定的に弱体化したそうです。またユダヤ人差別が顕在化した事でシオニズム運動のきっかけともなったという事です。まあいわゆるフリーメイスンリーの陰謀でしょうか。
マネの弟子であるエヴァ・ゴンザレスによるオペラのロッジです。その名の通りというわけではありませんが、ロッジはオペラ座の特別席の事で、普通に見るとオペラ座の様子を描いているわけですが、もちろんオペラ座にもフリーメイスンリーのロッジがあったと思われ、女性の会員が存在した事を誇示している事と思われます。同じエヴァ・ゴンザレスの作品の秘密というものは白黒の服を着た女性がピアノを練習している図で、これはピアノ自体がフリーメイスンリーが開発した楽器でありその白黒の象徴性を秘密としている含意と思われます。本人の肖像画はロンドンのナショナルギャラリーにあるそうです。
マネの弟子でありモデルであったベルト・モリゾのゆりかごです。女性的な表現に満ちています。
蝶々捕りです。フリーメイスンリーを思わせる表現はありません。
睡蓮の池、バラ色の調和(太鼓橋)、クロード・モネの作品です。この辺りの印象派の作品はオルセー美術館の確か4階だったと思いますが、奥の方のエレベーターで昇る変な場所にある印象派の作品を集めたところにあります。非常に驚くほど有名な印象派の作品が美術館の構造上端っこの一番上に集められているので見逃すと大変です。モネは普仏戦争の兵役を逃れてロンドンでブラザーターナーの絵を学んだそうですが、その後ジャポニズムとの絡みからか良く睡蓮を題材としています。蓮の葉を東洋の仏教の思想の体現ととらえていたのでしょうか。マネを始めとしてフリーメイスンリーとの明らかなつながりが感じられるモネがどこまでフリーメイスンリーの影響があったかは解釈が分かれるところかもしれません。
アルジャントゥイユの鉄道橋(鉄橋)
舟遊び(ノルヴェジエンヌ号で)
戸外の人物習作(左向きの日傘の女)
睡蓮の池、緑の調和
戸外の人物習作(右向きの日傘の女)
サン・ラザール駅
かささぎ
モネの家の庭、アイリス
ロンドンの国会議事堂、霧を貫く陽光。ロンドンのナショナルギャラリーにも1871年のビッグベンを中心としたウェストミンスター宮殿の霧の中の構図があります。光の画家という呼び名はこの辺りからも求められるのでしょうか。
アルジャントゥイユのレガッタ
アルジャントゥイユの橋
ルーアン大聖堂、扉口とアルバーヌの鐘塔、充満する陽光
死の床のカミーユ・モネ、子宮癌で夭逝する妻を描いた作品ですが、この後にパトロンの妻であった女性と再婚します。モネは86歳まで生きますが、最後まで国家の要請によって白内障で視力を失いながらも睡蓮の絵を描き続けました。
カミーユ・ピサロの羊飼いの娘(小枝を持つ少女、座る農家の娘)です。カミーユ・ピサロは印象派の中で最も年長で、全ての印象派展に出品した印象派の中の中心的な人物でした。当時デンマーク領であった西インド諸島のサン・トマ島でスペイン系ユダヤ人(セファルディム)の父とその妻の間に生まれ、ほぼその島で育ったそうです。モネとともにロンドンでブラザーターナーについて学んだそうです。
白い霜
赤い屋根、冬の効果(赤い屋根の家々、村の一角、冬景色)。カミーユ・ピサロは1903年11月13日に73歳でパリで亡くなったそうです。墓を見るとちょっと特徴的ですがフリーメイスンかどうかは難しいです。
ピエール=オーギュスト・ルノワールの大きな裸婦です。ルノワールは日本では喫茶店で有名かと思います。労働者階級の出身でパトロンの好みに応じて作風を変化させていったそうです。幼少期にフリーメイスンと思われる作曲家グノーの元で聖歌隊をやっていたそうです。グノーもバッハの平均律にアヴェマリアの歌詞を載せたグノーのアヴェマリアで有名ですが、ファウストのオペラやバチカンの国歌、ロミオとジュリエットのオペラを作成しており、フリーメイスンのようです。ルノワールの作品においてもやはりオペラ座の桟敷席を描いた作品で女性が明らかに白黒を強調した服を着て、連れの男性があらぬ方向の恐らく女性をオペラグラスで覗いている興味深い画題があり、恐らくマネと弟子のエヴァ・ゴンザレス、もう一人の女性的な画家である弟の妻であるベルト・モリゾとの三角関係を揶揄したものではないでしょうか。彼自身も数多くのモデルの女性たちと恋仲であったようです。晩年にはリウマチ性関節炎を患います。ルノワールもフリーメイスンであったようです。
浴女たち(ニンフ)
ぶらんこ
アルジェのアラブの祭日(モスク)
フレデリック・バジールの肖像
絵筆を持つクロード・モネ
ピアノに寄る娘たち
陽光の中の裸婦(エテュード:トルソ、光の効果)
後ろ姿の横たわる裸婦
田舎のダンス
ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場
都会のダンス
少女アルフォンジン
草原の坂道(夏の田舎道)。やはり印象派コーナーではルノワールが最も華やかであるかと思います。それはまさにフランス大東社の華やかな雰囲気と労働者階級から芸術家になったルノワールのフリーメイスンリー的に理想的な明るさが好ましいものであったからではないでしょうか。
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックの踊るジャンヌ・アヴリルです。ロートレックは伯爵家の生まれであり、足の成長が止まる障害者でありましたが、ジャポニズムについての知識や、ムーランルージュでの生活など、フランス上流階級の人間でした。36歳で1901年9月9日亡くなったそうです。
ジュスティーヌ・ディール嬢
黒い羽毛のショールの女(黒いボアの女)
ベッド
女道化師シャ=ユ=カオ
赤毛の女(身繕い)
ひとり。ロートレックもかなりの変わりものであったようですが、クールベなどもそうですが、芸術家では個性が強い人物の方がやはり絵画も際立つものがあるようです。
ジャン=フランソワ・ミレーの落穂拾いです。落穂拾いは旧約聖書のユダヤ人の戒律において重要なテーマであり、土地を持てない同胞のために落穂は残さなければならないという戒律があり、それを示しているものと思われます。
晩鐘。敬虔なキリスト教徒の様子です。
羊飼いの少女。聖書のダヴィデなどの羊飼いに象徴される指導者、人間を導く神としての存在と、フランスの象徴であるマリアンヌを一致させているのかと思われます。
ポール・セザンヌのオーヴェール=シュル=オワーズの首吊りの家です。
リンゴとオレンジ
ギュスターヴ・ジェフロワの肖像、フリーメイスンなんだと思います。
台所のテーブル(籠のある静物)
カード遊びをする人々
青い花瓶
女とコーヒーポット(婦人とコーヒー沸かし)
水浴の男たち
画家アシル・アンプレールの肖像、セザンヌが非常に尊敬していたそうでフリーメイスンかもしれません。
マンシーの橋
牧歌(バルバリア河畔のドン・キホーテ)
モデルヌ・オランピア(近代のオランピア、新オランピア)
セザンヌはエミール・ゾラと同級生で友人であったそうです。彼に絵画の特に印象派の手法を伝えたのはカミーユ・ピサロであったそうです。皆フリーメイスンなのでしょう。
セザンヌの作品でフリーメイスンリー関連で特徴的なのがヘッダーにも利用しましたが、メメントモリを題材とした絵がある事と、いわゆるピエロ、アルルカンの絵がある事でしょうか。黒と赤の格子模様の服を着た道化師の様子はこのブログでもビリケンの解説で触れたスコティッシュライトの32階級で構成されるシュライナーズと同様の付帯組織であるRoyal Order of Jesters のシンボルであるという事になります。シンボリズムから推察してセザンヌもフリーメイスンであったと思われます。
彼の後進への手紙の中で「自然を円筒、球、円錐として捉えなさい」と書いた言葉がのちのキュビスムの画家たちに大きな影響を与えたそうです。
ジャン=バティスト・カミーユ・コローの鎧を着て座る男です。コローの作品は風景画などが多く、写実主義に分類されます。パリ万国博覧会でグランプリも取っているそうです。78歳まで長生きし生涯未婚であったそうです。1875年2月22日に亡くなっています。サロンでも人気でブラザーナポレオン3世の買い上げなどを受けています。作品の多くがルーヴル美術館にあるようです。ミレーと親交があったそうで彼もフリーメイスンと思われます。
網の引き上げ
朝、ニンフの踊り
ニンフと戯れるアムール
ポール・ゴーギャンの扇面のある静物です。ゴーギャンは神学校に通った後海軍に務めたそうです。その後証券会社の社員として働き5人の子供を持つ普通の勤め人でしたが、突然安定した生活を捨て画家となります。その後のファン・ゴッホとの共同生活やタヒチへの渡航などは有名かと思います。作品の評価は没後に高まったようです。他のフリーメイスンと思われる画家とのつながりからもフリーメイスンと思われますが、死後に高い評価を受けた画家です。旅人であった事は間違いなく、タヒチなど南の島の情景を色彩豊かな表現で哲学的なテーマで描いています。
白い馬
アレアレア
タヒチの女たち
自画像(1893年)
黄色いキリストのある自画像
ゴーギャンとファン・ゴッホの共通点は何と言っても元々神学校の出身で職業的な画家の訓練を受けていないというところだと思われます。彼らの存在が絵画文化の大衆化に大きく影響しているというところがあるかと思われます。
フィンセント・ファン・ゴッホのウジェーヌ・ボックの肖像です。ベルギー出身の職業画家を描いているそうです。オルセー美術館にあるファン・ゴッホの絵画は比較的シンボリズムが認められているものが多い印象でした。この絵も星を象徴として恐らくフリーメイスンを描いたものなのだと思われます。
アルルのファン・ゴッホの寝室(画家の寝室、ファン・ゴッホの部屋)
アルルのダンスホール
ポール・ガシェ医師の肖像(ガッシェ博士の肖像)
オーヴェールの教会、背景が青を強調しているのも一つの特徴かと思います。
アルルの女(ジヌー夫人)
自画像(渦巻く青い背景の中の自画像)
星降る夜、アルル
ファン・ゴッホはオランダの牧師の長男で神学校を卒業しており、十分な聖書の素養と新教国でのフリーメイスンリーの知識を有していたと思われますし、それらのシンボリズムが多く絵に反映されている事は明らかであり、ガシェ医師を始めとして、印象派やパトロンたちの数多くのフリーメイスンに囲まれていたと思われます。また彼自身の親戚や親たちを見てもオランダのプロテスタントの要職を務めており、多くがフリーメイスンであったようです。彼の死の直前に至るまでに完成されていく彼自身の独特の表現法とともにちょっとずつ示されるシンボリズムが彼のそうした素養から意識的にせよ無意識にせよ自然に表わされて、それが彼の絵画の隠された意味になるのかと思われます。
ちなみにファン・ゴッホの死は一般に自殺とされていますが、耳そぎ事件と同様に真相は不明です。ファン・ゴッホの死からわずか半年足らずで理解者であった弟テオは神経梅毒の診断で死んでいます。もちろんこのブログの読者の方は印象派のスターとも言えるファン・ゴッホの死が単なる悲劇であったと考える程単純ではないと思われます。
ジョルジュ・スーラのサーカスです。スーラは新印象派とも呼ばれ、アングルの弟子に学び、印象派のピサロとも出会い影響を与えたりしています。科学的手法を推し進めた点描の手法を美術学校中退後より作品として発表し、その後第8回目の最後の印象派展で大作を出品し注目されます。31歳の若さで感染症で亡くなりました。スーラの点描画に集約されるように実は印象派の絵画が実は極めて綿密に計算された絵画芸術の革命であった事を語る象徴的なものであるかと思われます。絵画芸術がモナリザの絵画に示される計算された美、黄金比に表されるような科学的な美である事を象徴する画家であるかと思われます。
ポール=タン=ベッサンの外港、満潮
ポール・シニャックの緑の帆船、ヴェネツィアです。スーラの亡き後の新印象派を継承した画家です。性格的にはスーラと正反対であったようです。スーラの死後ロンドンに渡りやはりブラザーターナーの絵画に影響を受けているそうです。シニャックは1863年11月11日生まれで、71歳で1935年8月15日にやはり感染症で亡くなっています。彼の書いた理論書は後のキュビズムなどの芸術家に影響を与えたそうです。
赤い浮標
井戸端の女たち(井戸端のプロヴァンス嬢)
レ・ザンドリー、河堤(プティ・タンデリの土手)
アンリ=エドモン・クロッスの夕方の大気(夕べのそよ風、夕風)です。スーラの死後にシニャックとともに新印象派を引き継ぎ、後のフォービズム(野獣派)と呼ばれるアンリ・マチスらへ影響を与えたそうです。
カーニュの糸杉
豊かな髪
女性の肖像
黄金島(金色の島)
午後の情景
アドルフ・モンティセリの白い水差しのある静物画です。アドルフ・モンティセリはファン・ゴッホやセザンヌに影響を与えたそうです。ファウストなどを画題に描いておりフリーメイスンかと思われます。
ウジェーヌ・ブーダンのトゥルーヴィルの海岸です。ウジェーヌ・ブーダンは元々絵画・画材店を経営していてミレーらと知り合い絵を教えられ、戸外制作についてモネに教えたそうです。
トゥルーヴィルの海岸
トゥルーヴィルの浜辺
アルマン・ギヨマンのアゲーの眺めです。アルマン・ギヨマンは労働者階級の出身で働きながら夜間に絵を描いていたそうです。当初は印象派展への参加を拒否されましたがピサロの擁護で参加できたそうです。後に宝くじに当選して画業に専念するようになり印象派の中では最長の86歳まで生きました。
雪の中の小道
イヴリーの夕暮れ
静物-花、陶器、書物
裸婦
ベルシー河岸-雪の印象
釣り人たち
アルフレッド・シスレーのモレジーの競艇です。アルフレッド・シスレーはフランス在住の裕福な商人のイギリス人の子供でクールベやコローに絵を学び印象派として活動しますが積極的に売り込まなかったそうで、後に父親の破産により経済的に困窮します。フランス国籍を申請して却下されたそうです。ピサロがマティスに典型的な印象派とは誰かと聞かれて挙げたのがシスレーだったそうで、まさに印象派とは英仏のフリーメイスンリーの合作による絵画芸術の革命であったようです。
アルジャントゥイユの広場
エミール・ベルナールの愛の森のマドレーヌ(ボワ・ダムールのマドレーヌ)です。エミール・ベルナールはゴーギャンとともに総合主義と呼ばれる象徴主義の一つを始めたそうですが、個性が強いようで後にゴーギャンとも絶交しているようです。ジャポニズム、現代で言うところのマンガの手法を絵画に導入したようです。
陶器と壷とリンゴのある静物
日傘をさすブルターニュの女たち
水浴する女たちと赤い雌牛
ピエール・ボナールの水の戯れ、旅です。ナビ派と呼ばれる後期印象派の後の画家で、セザンヌやジャポニズムの影響が強いそうです。
男と女
砂遊びをする子供
けだるさ(ベッドでまどろむ女、しどけない女)
ポール・セリュジエのにわか雨です。ナビ派をモーリス・ドニ、ピエール・ボナールらと共に結成しました。
護符(タリスマン、ポン・タヴェンの愛の森)
モーリス・ドニの天国です。モーリス・ドニは20歳のときに芸術論文に「絵画とは軍馬や裸婦、或いは何かの逸話である以前に、本質的には一定の秩序の上に集められた色彩で覆われる平面であることをまずは認識すべきである」という絵画理論を発表しその後のキュビズムやフォービズム、抽象絵画の理論的支柱となったそうです。フリーメイスンらしい逸話です。
ミューズたち(ムーサたち、公園、樹の下で)
セザンヌ礼賛(セザンヌ頌)。セザンヌとナビ派の画家とのフリーメイスンリーでの繋がりを端的に示した絵と思われます。
フェルディナント・ホドラーの木を伐る人です。フェルディナント・ホドラーはスイス人で象徴主義の画家とされます。パリとは直接関係ないようですが恐らくフリーメイスンなのでしょう。
アンリ・ルソーの戦争です。アンリ・ルソーは印象派と同時代の画家ですが素材派とも呼ばれ元々税関職員でほとんどの絵が退職後の50歳以降に描かれたそうです。ゴーギャンやピカソに影響を与えました。家庭生活ではあまり恵まれず二度目の妻がジョセフィーヌというそうですがこの方にも1903年に先立たれているそうです。1908年にピカソやミラボー橋の作詞したアポリネールらに茶化したようなパーティーを開かれたそうです。1909年には手形詐欺事件で拘留されたそうです。1910年に66歳で亡くなっています。作風はその後のキュビズムやシュルリアリスムを先取りしたといえる先進的なもので、もともと日曜画家でありながらその後の20世紀の芸術を示したものであったようです。
蛇使いの女
田舎の結婚式(婚礼)
さてこのブログ中最長の回になってしまったわけですが、印象派論としてフリーメイスンリーと若干絡めてなんとか形になったでしょうか。実際には大急ぎで上記のような知識も持たず1時間弱でオルセー美術館を周ったというのが現地での様子でした。まあ日本の美術館もそうですが美術館のカフェの客の方が展示場よりも多く客の滞在時間も長い時代ですので、オルセー美術館もそうした傾向にもれずカフェの方が人も多く充実している印象でしたが、少なくともここに書いたような事を知ってからオルセー美術館を訪問すると少し違った時間を得られるのかもしれません。
オルセー美術館は写真撮影禁止なので上記のような内容になりましたが、ルーヴル美術館は写真がありますのでそれに基づいたものとしようと思います。ルーヴル美術館の方がよりフランス全体の象徴という形になるのだと思いますが、フリーメイスンリーとの関係はさらに濃厚でありながらはっきりとはしないかと思います。
上記以外にもロダンの彫刻など多くの彫刻作品やその他の画家の作品が多数あります。詳細はカタログや実際に訪問して確認してください。(追記:オーギュスト・ロダンも神曲をテーマとした地獄の門を制作し、1840年11月12日に生まれ、1917年11月17日に亡くなったそうで、カミーユ・クローデルとの三角関係は有名と思われます。フリーメイスンだと思われます。ちなみに考える人はちょうど三角関係でどちらを選ぶか考えていた時に作られたそうです。)
YouTubeの音楽をクリスマスソングに全面的に変更しました。不評のようですが、クリスマス期間中は継続する予定です。
印象派は主にマネにルーツを置き、モネの第一回印象派展の「印象、日の出」の作品に由来する写実主義から脱した絵画独自の表現に徹した新しい表現法を追求した画家のグループであるということです。
ロンドンでブラザーウィリアム・ターナーの作品を見た直後だと明らかにその関連を感じるわけですが、画家や芸術アカデミー会員でセントポール大聖堂に葬られた方が多い事を知ると絵画芸術不毛の地イギリスでフリーメイスンリーによって追及された絵画の手法、象徴性と写実性が翻って芸術の都パリでそれらから脱して印象主義、よりリアルな漠然としたものとして新しい表現法として確立された事が理解されるかと思います。特に印象派の名前の由来ともなったモネが第一回印象派展の前にロンドンに滞在しその画風を確立した事と、ブラザーウィリアム・ターナーの画風を明らかに取り入れた事と、後にロンドンのウェストミンスター宮殿を印象派の画風で何度も書いている事がこれらの印象派のムーブメントを象徴する、すなわちジャポニズムなどとも絡めたフリーメイスンリーとの芸術の関連ではないかと思います。
さてまああまり素人が余計な事を言うと火傷をしますが、ワシントンナショナルギャラリー展のフィンセント・ファン・ゴッホの白バラで感じたフリーメイスンリーと印象派との関連に引き続いた現代における絵画芸術の理解について、フリーメイスンリーの最も盛んな都市であるパリのオルセー美術館で、ロンドンでの美術館巡りに引き続いて見学する事で思いを強くしたという事になるかと思います。
では実際に撮った写真です。オルセー美術館は内部は撮影禁止ですので絵画の写真は主にサルヴァスタイル美術館というサイトからお借りしています。あとはウィキペディアです。内部の様子を写したYouTubeの動画がありましたので参考にしてください。
セーヌ川沿いの道をエッフェル塔から戻ります。
ブルボン宮、国民議会の前のアンリ・フランソワ・ダゲッソーの像です。フリーメイスンと思われます。
オルセー美術館に到着します。少し人が集まっています。
待っている間に一気に晴れてきました。
中で撮った写真はこれだけです。鉄道駅であった名残の大時計です。
オルセー美術館は美術館として見てかなり変わった駅の再利用の美術館であり、ルーブル美術館と比べると大分変な感じです。それはそのまま上述した印象派が主にあるという事とも関連しているようですし、題名としたフランスの良き時代、ベルエポックの空気を反映しようとした感じかもしれません。日本で言うとバブル時代みたいな感じでしょうか。駅の再利用が美術館なんて言うのもそういう時代の空気を反映しているのではないでしょうか。
内部の動画です。絵画を見て回るには不釣り合いな開放的な空間ですが、唯一クールベの大作は映えていました。クールベはパリコミューンで美術大臣を務めたりした美術とともに社会的な活動家であり、フリーメイスンリーとは対極にいた人物かと思われます。セザンヌやミレー、マネ、モネといういわゆる印象派の巨匠たちは4階といった大時計の小部屋の方にあったのがまあそれなりかなといった感じでした。ファン・ゴッホやゴーギャンは右手の分けられた部屋の方にありました。作品もタヒチのものやファン・ゴッホは星月夜や教会のものなど強くフリーメイスンリーのシンボルを意識したものでした。オルセー美術館の位置づけとしてはロンドンのナショナルギャラリーに近いものなのかもしれません。
ではオルセー美術館で展示されている絵画の、ネット上で拾ってきた画像を並べます。
オルセー美術館の一階で最も目立つのはやはりルーヴル美術館でもそうですがドミニク・アングルの作品かと思います。聖餅の聖母(オスティアのマリア)といいラファエロの作品から着想を得た、カトリックの教義の象徴を印象的に配した絵です。アングルはフランスアカデミーの院長を務めており、師がブラザーダヴィッドでありフリーメイスンと思われます。
パフォスのヴィーナス
泉
ジャン=レオン・ジェロームの闘鶏です。ジャン=レオン・ジェロームは典型的なアカデミズム美術の中心的な存在であり、主にオリエンタルをテーマとした画題を描いたそうです。まさにグラントリアンのフランスフリーメイスンリーです。
トマ・クチュールの退廃期のローマ人達です。マネの師であり、サロンから徐々に離れていき批判する本を出版したそうです。
テピダリウム。テオドール・シャセリオーです。アングルの弟子でロマン主義に属し、やはりオリエンタリズムが認められます。
マクベス
サッフォー
ジュール・ジョゼフ・ルフェーブルの真実です。一人の女性を描いた絵を多く認め、アカデミーで教師を務めていたようです。この絵はフリーメイスンリーの第一階級で教わる三つの基本的な教えの兄弟愛、救済、真実の一つを示しているようです。
アレクサンドル・カバネルのヴィーナスの誕生。ブラザーナポレオン3世が購入したそうです。当時のフランス画壇でアカデミック絵画としてサロンの中心にいて教え子が多数いました。印象派達のサロンでの展示を拒否したため、結果として落選者の作品を集めた展覧会が評判となりサロンの評判は地に落ちたそうです。恐らく題材や正統派の写実性などからフリーメイスンと思われます。
カイン一族の逃亡。フェルナン・コルモンです。アレクサンドル・カバネルの弟子で、フランス芸術家協会会長を務めたそうです。新しい芸術にも寛容でファン・ゴッホやロートレックにも教えたそうです。1845年12月24日生まれだそうです。
バルブ・ドゥ・リムスキー=コルサコフ夫人の肖像、フランツ・ヴィンターハルターです。主に王侯貴族の肖像画を描き、特に美しい王女の肖像画で各国の美術館に作品が収蔵されています。はっきりした根拠はありませんが、当時の英仏独の王族は多くがフリーメイスンであったことからも、この画家もフリーメイスンであったのではないでしょうか。
象徴主義の画家であるギュスターヴ・モローのイアソンです。聖書や神話に題材をとった幻想的な作風で知られ、印象派と同時代の方ですが、フリーメイスンのようです。
ガラテイア(ガラテア)です。チェコのグランドマスターを務めたブラザーミュシャの作品を思わせます。
オルフェウスの首を運ぶトラキアの娘です。死したオルフェウスの顔面はルーヴル美術館収蔵のミケランジェロの彫刻作品瀕死の奴隷に基づいているそうです。
目を閉じて(閉じられた目、瞑目)、オディロン・ルドンです。象徴主義に分類される作家です。印象派と同時代の画家ですが、実際には独自の画風で孤高の画家のようです。当初建築家を目指していたり、All Seeing Eyeを思わせるモチーフの作品が認められたり、題材などからもフリーメイスンのようです。
アポロンの二輪馬車(アポロンの馬車と竜)
キリストの磔刑
エジプトへの逃避
仏陀
聖母の窓(ステンドグラス)
イエスの御心
エヴァ(イブ)
笑う蜘蛛
ポール・ゴーガンの肖像(ポール・ゴーギャンの肖像)
ギュスターヴ・クールベの代表作オルナンの埋葬です。3.1m×6.6mの大作です。実物を見ると圧巻でなんだか訳がわかりません。ただオルセー美術館の中での存在感は圧倒的です。実際は写真で見るほど写実的な印象を受けずただただ巨大な自我を印象付ける作品です。実物と写真の印象が全く異なるのが特徴かもしれません。
こちらも大作の画家のアトリエです。3.6m×6mです。クールベの作品は実物よりも写真写りが良い印象でしょうか。それだけ写真を意識したものであり、その結果として写真写りが良いのかもしれません。
嵐の海
リンゴの木の花
源泉
世界の起源
眠る子、ジュリエット・クールベの肖像
ピエール・ジョセフ・プロ―ドンの肖像
プレイシールの泉の流れの鹿の群れ
エトルタの崖、嵐のあと
隠れ沢
クールベの作品ではドレスデン爆撃で失われた石割人夫という作品があります。フリーメイスンリーにまつわるようなテーマですが、労働者を描いた社会主義的作品とされたようです。クールベは名声を得たのちに、普仏戦争後のパリコミューンの時にオペラ座の回で触れたようにヴァンドーム広場のアウステルリッツ戦勝記念柱の解体を提唱して結果として破産し、国外追放となったそうです。なかなかいわくが深いような石割人夫の画像はヘッダーに加えました。
アンリ・ファンタン=ラトゥールのドラクロワ礼賛(ドラクロワへのオマージュ)です。ラトゥールはクールベのアトリエで学び、サロンで活躍した画家です。後にアメリカ人画家のホイッスラーと親交を結んだそうです。印象派の絵画手法には否定的でありつつも、印象派の画家たちと知り合いで、ベルト・モリゾにマネを紹介して両者を引き合わせたそうです。恐らくフリーメイスンではないでしょうか。
バティニョールのアトリエです。当時のアカデミズムに挑戦的であったマネを中心としてオットー・ショルデラー、ルノワール、エミール・ゾラ、エドモン・メートル、フレデリック・バジール、クロード・モネを認めます。机の上には女神ミネルヴァの像を認めています。
デュブール家の人々
シャルロット・デュブール
ジェームズ・マクニール・ホイッスラーの灰色と黒のアレンジメント-母の肖像です。アンリ・ファンタン=ラトゥール、アルフォンス・ルグロと三人会を結成したそうです。イギリス美術家協会会長になっておりフリーメイスンと思われます。
ギュスターヴ・カイユボットの床削りの人々です。カイユボットは遺産を元に印象派の画家たちを支援しつつ自身も描いていて、1950年代になって初めて子孫が絵画を市場に売ったそうです。
エドガー・ドガのアプサントを飲む人(カフェにて)です。ドガは反ユダヤ主義者であったそうです。
ベレッリ家の肖像、ドガの初期の作品です。
舞台のバレエ稽古です。ガルニエ宮の様子だそうです。
アイロンをかける女たち
オペラ座の稽古場(ル・ペルティエ街のオペラ座のバレエ教室、踊りの審査)
オペラ座のオーケストラ
舞台の2人の踊り子
ダンス教室(バレエの教室)
浴盤(たらいで湯浴みする女)
エドゥアール・マネのバルコニーです。マネは印象派の先駆者として有名です。父は法務省の高級官僚でレジオンドヌール勲章をもらうブルジョア出身であり、両親の意向で海軍に入るところを受験で失敗し画家になったそうです。画題や活動などからもフリーメイスンと思われます。この絵ではマネの弟ウジェーヌと結婚したベルト・モリゾが描かれています。
胸をはだけたブロンドの娘
笛吹く少年
ガラス花瓶の中のカーネーションとクレマティス
草上の昼食
すみれのブーケをつけたベルト・モリゾの肖像(黒い帽子のベルト・モリゾ)
オランピア、様々な象徴を取り込みながら、娼婦を描いた事でスキャンダルになった作品だそうです。
エミール・ゾラの肖像、ゾラはマネやセザンヌなどの印象派の擁護者であった小説家ですが、後に彼らをモデルとした小説を書いて絶交しています。フランス文芸家会長も務めており、フリーメイスンと思われます。ドレフュス事件に絡んでロンドンに亡命し、帰国後に自宅で一酸化炭素中毒による不審死をしたそうです。ドレフュス事件は普仏戦争後のフランス軍の対独諜報活動におけるユダヤ人のスパイ冤罪事件であり、この事件をきっかけとしてフランス軍は決定的に弱体化したそうです。またユダヤ人差別が顕在化した事でシオニズム運動のきっかけともなったという事です。まあいわゆるフリーメイスンリーの陰謀でしょうか。
マネの弟子であるエヴァ・ゴンザレスによるオペラのロッジです。その名の通りというわけではありませんが、ロッジはオペラ座の特別席の事で、普通に見るとオペラ座の様子を描いているわけですが、もちろんオペラ座にもフリーメイスンリーのロッジがあったと思われ、女性の会員が存在した事を誇示している事と思われます。同じエヴァ・ゴンザレスの作品の秘密というものは白黒の服を着た女性がピアノを練習している図で、これはピアノ自体がフリーメイスンリーが開発した楽器でありその白黒の象徴性を秘密としている含意と思われます。本人の肖像画はロンドンのナショナルギャラリーにあるそうです。
マネの弟子でありモデルであったベルト・モリゾのゆりかごです。女性的な表現に満ちています。
蝶々捕りです。フリーメイスンリーを思わせる表現はありません。
睡蓮の池、バラ色の調和(太鼓橋)、クロード・モネの作品です。この辺りの印象派の作品はオルセー美術館の確か4階だったと思いますが、奥の方のエレベーターで昇る変な場所にある印象派の作品を集めたところにあります。非常に驚くほど有名な印象派の作品が美術館の構造上端っこの一番上に集められているので見逃すと大変です。モネは普仏戦争の兵役を逃れてロンドンでブラザーターナーの絵を学んだそうですが、その後ジャポニズムとの絡みからか良く睡蓮を題材としています。蓮の葉を東洋の仏教の思想の体現ととらえていたのでしょうか。マネを始めとしてフリーメイスンリーとの明らかなつながりが感じられるモネがどこまでフリーメイスンリーの影響があったかは解釈が分かれるところかもしれません。
アルジャントゥイユの鉄道橋(鉄橋)
舟遊び(ノルヴェジエンヌ号で)
戸外の人物習作(左向きの日傘の女)
睡蓮の池、緑の調和
戸外の人物習作(右向きの日傘の女)
サン・ラザール駅
かささぎ
モネの家の庭、アイリス
ロンドンの国会議事堂、霧を貫く陽光。ロンドンのナショナルギャラリーにも1871年のビッグベンを中心としたウェストミンスター宮殿の霧の中の構図があります。光の画家という呼び名はこの辺りからも求められるのでしょうか。
アルジャントゥイユのレガッタ
アルジャントゥイユの橋
ルーアン大聖堂、扉口とアルバーヌの鐘塔、充満する陽光
死の床のカミーユ・モネ、子宮癌で夭逝する妻を描いた作品ですが、この後にパトロンの妻であった女性と再婚します。モネは86歳まで生きますが、最後まで国家の要請によって白内障で視力を失いながらも睡蓮の絵を描き続けました。
カミーユ・ピサロの羊飼いの娘(小枝を持つ少女、座る農家の娘)です。カミーユ・ピサロは印象派の中で最も年長で、全ての印象派展に出品した印象派の中の中心的な人物でした。当時デンマーク領であった西インド諸島のサン・トマ島でスペイン系ユダヤ人(セファルディム)の父とその妻の間に生まれ、ほぼその島で育ったそうです。モネとともにロンドンでブラザーターナーについて学んだそうです。
白い霜
赤い屋根、冬の効果(赤い屋根の家々、村の一角、冬景色)。カミーユ・ピサロは1903年11月13日に73歳でパリで亡くなったそうです。墓を見るとちょっと特徴的ですがフリーメイスンかどうかは難しいです。
ピエール=オーギュスト・ルノワールの大きな裸婦です。ルノワールは日本では喫茶店で有名かと思います。労働者階級の出身でパトロンの好みに応じて作風を変化させていったそうです。幼少期にフリーメイスンと思われる作曲家グノーの元で聖歌隊をやっていたそうです。グノーもバッハの平均律にアヴェマリアの歌詞を載せたグノーのアヴェマリアで有名ですが、ファウストのオペラやバチカンの国歌、ロミオとジュリエットのオペラを作成しており、フリーメイスンのようです。ルノワールの作品においてもやはりオペラ座の桟敷席を描いた作品で女性が明らかに白黒を強調した服を着て、連れの男性があらぬ方向の恐らく女性をオペラグラスで覗いている興味深い画題があり、恐らくマネと弟子のエヴァ・ゴンザレス、もう一人の女性的な画家である弟の妻であるベルト・モリゾとの三角関係を揶揄したものではないでしょうか。彼自身も数多くのモデルの女性たちと恋仲であったようです。晩年にはリウマチ性関節炎を患います。ルノワールもフリーメイスンであったようです。
浴女たち(ニンフ)
ぶらんこ
アルジェのアラブの祭日(モスク)
フレデリック・バジールの肖像
絵筆を持つクロード・モネ
ピアノに寄る娘たち
陽光の中の裸婦(エテュード:トルソ、光の効果)
後ろ姿の横たわる裸婦
田舎のダンス
ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場
都会のダンス
少女アルフォンジン
草原の坂道(夏の田舎道)。やはり印象派コーナーではルノワールが最も華やかであるかと思います。それはまさにフランス大東社の華やかな雰囲気と労働者階級から芸術家になったルノワールのフリーメイスンリー的に理想的な明るさが好ましいものであったからではないでしょうか。
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックの踊るジャンヌ・アヴリルです。ロートレックは伯爵家の生まれであり、足の成長が止まる障害者でありましたが、ジャポニズムについての知識や、ムーランルージュでの生活など、フランス上流階級の人間でした。36歳で1901年9月9日亡くなったそうです。
ジュスティーヌ・ディール嬢
黒い羽毛のショールの女(黒いボアの女)
ベッド
女道化師シャ=ユ=カオ
赤毛の女(身繕い)
ひとり。ロートレックもかなりの変わりものであったようですが、クールベなどもそうですが、芸術家では個性が強い人物の方がやはり絵画も際立つものがあるようです。
ジャン=フランソワ・ミレーの落穂拾いです。落穂拾いは旧約聖書のユダヤ人の戒律において重要なテーマであり、土地を持てない同胞のために落穂は残さなければならないという戒律があり、それを示しているものと思われます。
晩鐘。敬虔なキリスト教徒の様子です。
羊飼いの少女。聖書のダヴィデなどの羊飼いに象徴される指導者、人間を導く神としての存在と、フランスの象徴であるマリアンヌを一致させているのかと思われます。
ポール・セザンヌのオーヴェール=シュル=オワーズの首吊りの家です。
リンゴとオレンジ
ギュスターヴ・ジェフロワの肖像、フリーメイスンなんだと思います。
台所のテーブル(籠のある静物)
カード遊びをする人々
青い花瓶
女とコーヒーポット(婦人とコーヒー沸かし)
水浴の男たち
画家アシル・アンプレールの肖像、セザンヌが非常に尊敬していたそうでフリーメイスンかもしれません。
マンシーの橋
牧歌(バルバリア河畔のドン・キホーテ)
モデルヌ・オランピア(近代のオランピア、新オランピア)
セザンヌはエミール・ゾラと同級生で友人であったそうです。彼に絵画の特に印象派の手法を伝えたのはカミーユ・ピサロであったそうです。皆フリーメイスンなのでしょう。
セザンヌの作品でフリーメイスンリー関連で特徴的なのがヘッダーにも利用しましたが、メメントモリを題材とした絵がある事と、いわゆるピエロ、アルルカンの絵がある事でしょうか。黒と赤の格子模様の服を着た道化師の様子はこのブログでもビリケンの解説で触れたスコティッシュライトの32階級で構成されるシュライナーズと同様の付帯組織であるRoyal Order of Jesters のシンボルであるという事になります。シンボリズムから推察してセザンヌもフリーメイスンであったと思われます。
彼の後進への手紙の中で「自然を円筒、球、円錐として捉えなさい」と書いた言葉がのちのキュビスムの画家たちに大きな影響を与えたそうです。
ジャン=バティスト・カミーユ・コローの鎧を着て座る男です。コローの作品は風景画などが多く、写実主義に分類されます。パリ万国博覧会でグランプリも取っているそうです。78歳まで長生きし生涯未婚であったそうです。1875年2月22日に亡くなっています。サロンでも人気でブラザーナポレオン3世の買い上げなどを受けています。作品の多くがルーヴル美術館にあるようです。ミレーと親交があったそうで彼もフリーメイスンと思われます。
網の引き上げ
朝、ニンフの踊り
ニンフと戯れるアムール
ポール・ゴーギャンの扇面のある静物です。ゴーギャンは神学校に通った後海軍に務めたそうです。その後証券会社の社員として働き5人の子供を持つ普通の勤め人でしたが、突然安定した生活を捨て画家となります。その後のファン・ゴッホとの共同生活やタヒチへの渡航などは有名かと思います。作品の評価は没後に高まったようです。他のフリーメイスンと思われる画家とのつながりからもフリーメイスンと思われますが、死後に高い評価を受けた画家です。旅人であった事は間違いなく、タヒチなど南の島の情景を色彩豊かな表現で哲学的なテーマで描いています。
白い馬
アレアレア
タヒチの女たち
自画像(1893年)
黄色いキリストのある自画像
ゴーギャンとファン・ゴッホの共通点は何と言っても元々神学校の出身で職業的な画家の訓練を受けていないというところだと思われます。彼らの存在が絵画文化の大衆化に大きく影響しているというところがあるかと思われます。
フィンセント・ファン・ゴッホのウジェーヌ・ボックの肖像です。ベルギー出身の職業画家を描いているそうです。オルセー美術館にあるファン・ゴッホの絵画は比較的シンボリズムが認められているものが多い印象でした。この絵も星を象徴として恐らくフリーメイスンを描いたものなのだと思われます。
アルルのファン・ゴッホの寝室(画家の寝室、ファン・ゴッホの部屋)
アルルのダンスホール
ポール・ガシェ医師の肖像(ガッシェ博士の肖像)
オーヴェールの教会、背景が青を強調しているのも一つの特徴かと思います。
アルルの女(ジヌー夫人)
自画像(渦巻く青い背景の中の自画像)
星降る夜、アルル
ファン・ゴッホはオランダの牧師の長男で神学校を卒業しており、十分な聖書の素養と新教国でのフリーメイスンリーの知識を有していたと思われますし、それらのシンボリズムが多く絵に反映されている事は明らかであり、ガシェ医師を始めとして、印象派やパトロンたちの数多くのフリーメイスンに囲まれていたと思われます。また彼自身の親戚や親たちを見てもオランダのプロテスタントの要職を務めており、多くがフリーメイスンであったようです。彼の死の直前に至るまでに完成されていく彼自身の独特の表現法とともにちょっとずつ示されるシンボリズムが彼のそうした素養から意識的にせよ無意識にせよ自然に表わされて、それが彼の絵画の隠された意味になるのかと思われます。
ちなみにファン・ゴッホの死は一般に自殺とされていますが、耳そぎ事件と同様に真相は不明です。ファン・ゴッホの死からわずか半年足らずで理解者であった弟テオは神経梅毒の診断で死んでいます。もちろんこのブログの読者の方は印象派のスターとも言えるファン・ゴッホの死が単なる悲劇であったと考える程単純ではないと思われます。
ジョルジュ・スーラのサーカスです。スーラは新印象派とも呼ばれ、アングルの弟子に学び、印象派のピサロとも出会い影響を与えたりしています。科学的手法を推し進めた点描の手法を美術学校中退後より作品として発表し、その後第8回目の最後の印象派展で大作を出品し注目されます。31歳の若さで感染症で亡くなりました。スーラの点描画に集約されるように実は印象派の絵画が実は極めて綿密に計算された絵画芸術の革命であった事を語る象徴的なものであるかと思われます。絵画芸術がモナリザの絵画に示される計算された美、黄金比に表されるような科学的な美である事を象徴する画家であるかと思われます。
ポール=タン=ベッサンの外港、満潮
ポール・シニャックの緑の帆船、ヴェネツィアです。スーラの亡き後の新印象派を継承した画家です。性格的にはスーラと正反対であったようです。スーラの死後ロンドンに渡りやはりブラザーターナーの絵画に影響を受けているそうです。シニャックは1863年11月11日生まれで、71歳で1935年8月15日にやはり感染症で亡くなっています。彼の書いた理論書は後のキュビズムなどの芸術家に影響を与えたそうです。
赤い浮標
井戸端の女たち(井戸端のプロヴァンス嬢)
レ・ザンドリー、河堤(プティ・タンデリの土手)
アンリ=エドモン・クロッスの夕方の大気(夕べのそよ風、夕風)です。スーラの死後にシニャックとともに新印象派を引き継ぎ、後のフォービズム(野獣派)と呼ばれるアンリ・マチスらへ影響を与えたそうです。
カーニュの糸杉
豊かな髪
女性の肖像
黄金島(金色の島)
午後の情景
アドルフ・モンティセリの白い水差しのある静物画です。アドルフ・モンティセリはファン・ゴッホやセザンヌに影響を与えたそうです。ファウストなどを画題に描いておりフリーメイスンかと思われます。
ウジェーヌ・ブーダンのトゥルーヴィルの海岸です。ウジェーヌ・ブーダンは元々絵画・画材店を経営していてミレーらと知り合い絵を教えられ、戸外制作についてモネに教えたそうです。
トゥルーヴィルの海岸
トゥルーヴィルの浜辺
アルマン・ギヨマンのアゲーの眺めです。アルマン・ギヨマンは労働者階級の出身で働きながら夜間に絵を描いていたそうです。当初は印象派展への参加を拒否されましたがピサロの擁護で参加できたそうです。後に宝くじに当選して画業に専念するようになり印象派の中では最長の86歳まで生きました。
雪の中の小道
イヴリーの夕暮れ
静物-花、陶器、書物
裸婦
ベルシー河岸-雪の印象
釣り人たち
アルフレッド・シスレーのモレジーの競艇です。アルフレッド・シスレーはフランス在住の裕福な商人のイギリス人の子供でクールベやコローに絵を学び印象派として活動しますが積極的に売り込まなかったそうで、後に父親の破産により経済的に困窮します。フランス国籍を申請して却下されたそうです。ピサロがマティスに典型的な印象派とは誰かと聞かれて挙げたのがシスレーだったそうで、まさに印象派とは英仏のフリーメイスンリーの合作による絵画芸術の革命であったようです。
アルジャントゥイユの広場
エミール・ベルナールの愛の森のマドレーヌ(ボワ・ダムールのマドレーヌ)です。エミール・ベルナールはゴーギャンとともに総合主義と呼ばれる象徴主義の一つを始めたそうですが、個性が強いようで後にゴーギャンとも絶交しているようです。ジャポニズム、現代で言うところのマンガの手法を絵画に導入したようです。
陶器と壷とリンゴのある静物
日傘をさすブルターニュの女たち
水浴する女たちと赤い雌牛
ピエール・ボナールの水の戯れ、旅です。ナビ派と呼ばれる後期印象派の後の画家で、セザンヌやジャポニズムの影響が強いそうです。
男と女
砂遊びをする子供
けだるさ(ベッドでまどろむ女、しどけない女)
ポール・セリュジエのにわか雨です。ナビ派をモーリス・ドニ、ピエール・ボナールらと共に結成しました。
護符(タリスマン、ポン・タヴェンの愛の森)
モーリス・ドニの天国です。モーリス・ドニは20歳のときに芸術論文に「絵画とは軍馬や裸婦、或いは何かの逸話である以前に、本質的には一定の秩序の上に集められた色彩で覆われる平面であることをまずは認識すべきである」という絵画理論を発表しその後のキュビズムやフォービズム、抽象絵画の理論的支柱となったそうです。フリーメイスンらしい逸話です。
ミューズたち(ムーサたち、公園、樹の下で)
セザンヌ礼賛(セザンヌ頌)。セザンヌとナビ派の画家とのフリーメイスンリーでの繋がりを端的に示した絵と思われます。
フェルディナント・ホドラーの木を伐る人です。フェルディナント・ホドラーはスイス人で象徴主義の画家とされます。パリとは直接関係ないようですが恐らくフリーメイスンなのでしょう。
アンリ・ルソーの戦争です。アンリ・ルソーは印象派と同時代の画家ですが素材派とも呼ばれ元々税関職員でほとんどの絵が退職後の50歳以降に描かれたそうです。ゴーギャンやピカソに影響を与えました。家庭生活ではあまり恵まれず二度目の妻がジョセフィーヌというそうですがこの方にも1903年に先立たれているそうです。1908年にピカソやミラボー橋の作詞したアポリネールらに茶化したようなパーティーを開かれたそうです。1909年には手形詐欺事件で拘留されたそうです。1910年に66歳で亡くなっています。作風はその後のキュビズムやシュルリアリスムを先取りしたといえる先進的なもので、もともと日曜画家でありながらその後の20世紀の芸術を示したものであったようです。
蛇使いの女
田舎の結婚式(婚礼)
さてこのブログ中最長の回になってしまったわけですが、印象派論としてフリーメイスンリーと若干絡めてなんとか形になったでしょうか。実際には大急ぎで上記のような知識も持たず1時間弱でオルセー美術館を周ったというのが現地での様子でした。まあ日本の美術館もそうですが美術館のカフェの客の方が展示場よりも多く客の滞在時間も長い時代ですので、オルセー美術館もそうした傾向にもれずカフェの方が人も多く充実している印象でしたが、少なくともここに書いたような事を知ってからオルセー美術館を訪問すると少し違った時間を得られるのかもしれません。
オルセー美術館は写真撮影禁止なので上記のような内容になりましたが、ルーヴル美術館は写真がありますのでそれに基づいたものとしようと思います。ルーヴル美術館の方がよりフランス全体の象徴という形になるのだと思いますが、フリーメイスンリーとの関係はさらに濃厚でありながらはっきりとはしないかと思います。
上記以外にもロダンの彫刻など多くの彫刻作品やその他の画家の作品が多数あります。詳細はカタログや実際に訪問して確認してください。(追記:オーギュスト・ロダンも神曲をテーマとした地獄の門を制作し、1840年11月12日に生まれ、1917年11月17日に亡くなったそうで、カミーユ・クローデルとの三角関係は有名と思われます。フリーメイスンだと思われます。ちなみに考える人はちょうど三角関係でどちらを選ぶか考えていた時に作られたそうです。)
YouTubeの音楽をクリスマスソングに全面的に変更しました。不評のようですが、クリスマス期間中は継続する予定です。
さてさてだんだんロンドン・パリ篇もネタが尽きてくるわけですが、まあなんだか虹の辺りはそれなりに好評のようで良かった感じでしょうか。
前回オルセー美術館篇が本人の予想外にまとめるのに時間がかかってしまい、まあ専門家にかかれば恐らくフランス芸術界とフリーメイスンリーとの繋がりは有名な話になるのかもしれませんが、印象派と絡めてこれだけ一般人向けに色々書いたものというのはそう多くは無いと思います。まあそれほど芸術に関心が多くない人でも印象派やその後の抽象芸術はそれなりに常識として知っているところがあると思い、そうした人がフリーメイスンリーと芸術との繋がりを少しでも知識として持って、そうしたものを実物を見た時や実生活の中で感じていただければ、このブログの存在価値もあるかなと思われると、いつもながら皆さんの直接の反応が無いので自画自賛するわけです。
まあちょっと内容的にも観た感想を書くだけではないので、色々専門分野ではない事について字面や写真を見て書くのは非常に疲れるので、また美術品の分野といえばその取引に関わる額が大きいのもみなさんご存じかと思いますし、フランスという国が芸術の都という名前もあってそれらの美術、芸術の分野にそれなりのプライドと歴史と労力とコストをかけているのは有名だと思いますし、それらについていわば虹の報酬として紹介するような立場になるわけで、まあなかなか大変だという事です。
まあロンドン・パリ篇の一つのテーマになるのだと思いますが、要するにヨーロッパの1717年以降の歴史はすなわちフリーメイスンリーの歴史そのものであり、ほとんどの登場人物がフリーメイスンリーと繋がりを持っており、それはそのまま現代に拡大し続けて存在するという事であり、逆にいえば日本の歴史が明治維新以降フリーメイスンリーとの接点を中心としてあり続けながら未だに国内で化学反応の抑制とも言うべき作用が働いてむしろ時代によっては反動の歴史の方が打ち勝っているという事すらありうるというものであります。私自身坂本龍馬に例えられたり、明治維新がまた始まる歴史になったりと、キリスト教の文化や知識も加えるとまさに日本ではフリーメイスンリーにおいては1717年のグランドロッジ結成以前の英国と同様の環境とも言えるものであり、300年の歴史というものがまさにフリーメイスンリーと東洋と西洋の違い、ピラミッドの頂点の差なのかもしれないという実感を抱くところです。
さて愚痴のような前置きが長くなりましたが、こういった彼我の差をあらためて強くするのが恐らく多くの東洋人にとってはかつては大英博物館であり、パリに人が集まるようになった現在では今回から数回に渡って書く事になるこのルーヴル美術館なのではないかと思います。私もかつて台湾の故宮博物院を見学して、その収蔵品の貴重な中華文明の粋とも言えるものを見て、東洋の美術の粋とも言えるそれらに感慨を抱き、それが収蔵品に比べて非常に現代的なみすぼらしい施設に入っている事に中国の近現代史の不幸を感じましたが、今回ルーヴル美術館を見て回り、正直に言ってもちろん東が優れている分野がいくつもあるとはいえ東西を比較した際に総合力ではやはり西洋の力が結集したところではやはり差を感じるというところがまあ単純な博物館比較というところになるのだと思います。
そういう差、それを直接体感した際にその原因を追及していくとやはりキリスト教からフリーメイスンリーに行き着くというのが自然の道であり、それが横須賀ではまさに数多くの施設やアメリカ軍が戦後設置したモニュメントや旧海軍、明治維新後の開港の歴史であり、それらがまさに近現代の日本人が通る光に至る小道と呼ばれるものではないでしょうか。
まあとにかくオルセー美術館の内容が予想以上に重くなりすぎて疲れたのでちょっと気分転換にガス抜きのような長文でした。実際はルーヴル美術館は展示品の数や歴史、重要性はオルセー美術館の何倍もあるわけですが、こちらは写真撮影可でそれこそ日本人の何十倍もいる中国人がところかまわずフラッシュ撮影している状況なのですが、それを一切フランス人は咎めず、彼らはその差をすでに知っているという態度で、かつて大英博物館で日本人が通過した状況を現代のツアーの中国人がまさに体感している状況であるという状況であったわけです。という事で私もチャイニーズの一人としてフラッシュはたきませんが全く持って所かまわず写真撮影する東洋人として恥も外聞もかき捨ててこのブログのためとは言いませんが、実際そういう感じで大量のルーヴル美術館の収蔵品を可能な限り写真撮影してきたというところです。
この写真撮影可、スケッチも解説も可という博物館の中の博物館、それでいて美術館という名前の一種の美の王宮がもちろんフランス革命とその後のブラザーナポレオンの治世以降可能になったという事、これをさらに全世界の人々に開放しているという事実が、まさにフランス革命とは何であったのかという事の体感でありブラザーエドマンド・バーグが消極的に否定した事柄の現代に繋がる事象なのかと思われました。
オルセー美術館においても主要な収蔵品の写真は多くがインターネットで検索する事ができ、図書館と同じく博物館、美術館においてもその存在意義が様々に問われる時代になるとはいえ、フリーメイスンリーの体験と同じく、図書館、博物館、美術館のそれぞれその場に行かないと味わえない感覚、本を手にとって読む感覚、博物館、美術館の実際に本物を見ないとわからない感覚、これらは人類の知能がいかに発達しようとも本質的には変わらないと思われ、それはまさに古代の英知の発見と同じ感覚を保ち続けるフリーメイスンリーとなんら変わらないものではないかと思われます。
というわけでちょっとブログの言い訳のような感じですが、写真撮影可というフランス革命以降のありえないほど多くの血と努力によって与えられた基本的権利を最大限に行使してこの後のブログを構成していこうと思います。もちろん神様はそういう打算を見ているわけで、ルーヴル美術館で写真撮影をしまくっていて下を見ずに歩いて、足元の鉄の柵に足の脛を強打して骨にひびが入るかと思われるほど痛かったという事もあり、またそれを見ていた中国人に酷く笑われたという旅にありがちな思い出もありました。
まあ美術館の写真を出す事によってそれを見た人々の行動を喚起できればそれだけ意義があるという事になるという事で良いのではないでしょうか。見ただけ得という考えもあるかもしれませんが、それくらいは問題ないという太っ腹精神なのがまさに人間の本質を操るフリーメイスンリーというところだと思われます。つまり人間を深く理解した結果博物館は開放した方が良いし、美術館は写真撮影可とした方が良いとしたのが現実のルーヴル美術館であり、フランスフリーメイスンリーの象徴といえる美術館なのだと思われます。
このくらいで良いでしょうか。まあちょっとオルセー美術館篇みたいに調べるのはもうちょっと勘弁という事です。興味がある人は写真を見て、調べて、実際行って見てください。ああ疲れた。
そういうわけでオルセー美術館からルーヴル美術館に移動します。雨が降ってないとは言えちょっと曇りですね。まあその位で雨が降っていなければこのくらい人が集まるようです。テュイルリー庭園の噴水です。
ルーヴル美術館方面に歩きます。鳩もきれいに写っちゃったりして天気さえよければ写真なんてきれいに写るもんなんです。
パリは黒人の人が確実にお土産物売りをしています。ロンドンでは有色人種の人が必ずコンビニで働いていました。どちらも日本人と中国人は料理屋と観光客です。
なかなかきれいに撮れていますね。このくらいの曇り空だとまだまだ大丈夫です。
これもまあなかなか良く撮れています。しかしまあ酷い雨でした。
わかりやすい写真ですねえ。
カルーゼル凱旋門ですね。天気がどうも何やら窺がっているようです。この旅のブログの文脈から行くと天気の表情も面白いですね。この写真自体が寓意画かもしれません。
これも良い写真ですね。
まあ取り合えず初めてルーヴル美術館に入ります。入口で金属探知機のゲートを通ります。チケットを持っているとスムーズな入場ができるようです。実際に入るとその多国籍な雑然とした雰囲気に期待を裏切られます。三部会のテニスコートのような感じでしょうか。美術館というよりも東京駅と上野公園をミックスしたような感じでしょうか。入口のところにはしっかり螺旋階段があります。螺旋階段を通るのは出る時だけだったと思います。
ミッテラン大統領の時代に作られたそうです。ミッテラン大統領もフリーメイスンだったのでしょうね。設計したのは中国人の芸術家だそうですが、まあ念には念を入れてなのでしょうね。何しろフランスフリーメイスンリーの象徴的なルーヴル美術館にそのもののガラスのピラミッドを作るという計画ですから。この写真にあるのは恐らくVesica Piscisなのだと思われます。ダヴィンチ・コードでは666枚のガラスで構成されるとかあったそうですが、実際には無いとかなんとか、まあこのVesica Piscisの事を言っているのではないでしょうか。666はCafe NEROで十分じゃないでしょうか。黙示録のニガヨモギがチェルノブイリとかありますが、予言や黙示録は数字の3、11と言ったところで十分じゃないでしょうか。
チケットが千円くらいでしたかね。非常に安い印象でした。私が最初に買った時はどうもまた東洋人の一人旅だという感じでフランス人の大学生のバイトという感じの子が露骨にそういう態度をしましたが、まあ色々民族的な感情が入り混じる広場と言う感じでした。日本人は女性の一人旅が多いのでしょうかね。
とりあえずモナリザは見ておこうと思ったのでしたかね。何翼だか忘れましたが、四つの場所があってそのうちの一つで、一番人がいるところです。
サモトラケのニケの像です。ナイキがライオンズクラブでこれをモチーフにしたんでしたね。まあなんつうか非常に俗物な目です。
まあこんな遺物じゃなく実際に建築して街に置いていたギリシア人の時代というのはすごかったんだなとそれはあらためて思わされます。ユダヤ人も一目置いたギリシア人と言うヤクザじゃないですが世界の民族の歴史というものはすごいものがあります。ギリシア危機もそういうのがあるわけですね。
やっぱり日本人からは遠いですが、キリスト教の宗教画がすぐに有ります。この辺はやはりヨーロッパ人の感覚なのでしょうね。フリーメイスンリーの象徴的美術館でも異教の神のニケの後はやはりちょっと口直しのような十字架があります。イタリア、ルネッサンスの展示だったのでしょうか。
建築にシンボルのような感じがありそうなので撮ったのでしょうか。まあ建築自体は非常にバッキンガム宮殿に似ています。時代的にはあちらが似せたのだと思いますが。
メインロードみたいなモナリザ、ダヴィンチの作品などに繋がる展示室です。結構な混みようです。
宗教画も床が白黒のモザイクで撮っているのですね。時代的にはどうなんでしょう。1717年以降であればフリーメイスンリーとの関わりがあるのでしょうが、この絵はどうもそれ以前のようですね。
これはダヴィンチなのでしょうかね。青色がやたらきれいなのは恐らく復元しているのだと思われます。聖アンナと聖母子というそうです。なにやらフロイトの分析が色々あるようです。
岩窟の聖母でしょうか。はっきり言ってルーヴルではモナリザ以外のダヴィンチ作品を見ている人はいません。ダヴィンチの周辺にもダヴィンチそっくりの同時代の作品が多数あり、それらも宗教画を見ている人も写真を撮る人もほとんどいません。わざとらしく中国人がフラッシュをたいているくらいです。
これも基本的にはダヴィンチの作品とされるようですが、ラ・ベル・フェロニエールというそうです。まあ同時代の人は大体同じような絵を描くみたいです。
この辺は良くわかりませんが宗教画なんでしょうねえ。ミケランジェロの天地創造みたいですが、良くわかりません。解説もフランス語ですから大体良くわかりません。まあなんかきれいなんで写真を撮った感じです。その他にも写真を見るとわかると思いますが、あまり写真を撮っている人もいません。
モナリザの前は100人以上の人が集まってフラッシュたきまくりで写真を撮っている状況です。芸能人の来た時の空港みたいな感じでしょうか。ちょっとわけがわかりません。しかもガラスで覆われていて普通に見るとほとんど絵がわかりません。ルーヴル美術館はその雰囲気自体がルーヴル美術館なのですね。一番前でモナリザと一緒に写真に写るのが中国人のステイタスのようでした。復元もしていますし写真で見た方が本物を見た事になるような感じでしょうか。
これは誰の作品かわかりませんが、画題は洗礼者ヨハネの首を持つサロメだと思われます。まあちょっとまだ死海文書もユダヤ古代誌も全部読んでいませんが、恐らくキリストのモデルはこの洗礼者ヨハネなのでしょうね。
聖母子像でしょうか。
ゴリアテの首を取るダヴィデでしょうか。恐らく修復の際に青が際立っているのだと思います。
これも誰かが死んで嘆いているのですね。こちらは赤が際立っています。
神様の象徴画でしょうか。
こちらも誰かが死んだ場面ですね。
ちょっと暗いですね。何の場面かはわかりません。
これはなかなか美しいですね。古代からの石造建築のカタログのような絵でしょうか。
これもなかなか美しいですね。画題がわからない事にはなんだかわかりません。
ヴァチカンのサンピエトロ広場を描いた絵なのですね。ブラザージョセフ・ターナーも描いていましたが、古今東西でこの広場を画題とする事は非常に多いようです。恐らく最も象徴として認められたオベリスクはこのサンピエトロ広場のオベリスクなのでしょうね。キリスト教の歴史も奥が深いです。
これも美しいですが、ピンボケがしょうがないです。
バルトロメ・エステバン・ムリーリョの蚤をとる少年です。スペイン、バロック画家のセビーリャ派に分類されるようです。
アンリ4世でしょうか。スペインの画家でしょうか。
エル・グレコのキリストの磔刑と2人の寄進者です。
これも同時代の画家のものでしょうか。直角定規と聖書と髑髏が認められます。
スペインの画家でしょうか。王様を描いたものと思います。
これもわかりませんね。
ブラザージョセフ・ターナーの風景画です。
ポンペイの噴火でしょうか。火山の溶岩を描いた絵のようです。
これはイギリスの芸術アカデミーの会長の方が描いたものだと思われます。セントポール大聖堂のお墓のところで出てきたのかと思います。
オベリスクが描かれていて撮っているのですね。
カサノヴァという名前だけで写真を撮ったのですね。どうも有名なブラザーカサノヴァとは違うようです。
ブラザードミニク・アングルによるシャルル7世の戴冠式でのジャンヌダルクです。いわゆるオルレアンの乙女として知られる作品です。
ブラザーポール・ドラローシュによるナポレオンのアルプス越えです。
ブラザーウジェーヌ・ドラクロワによる(第四回)十字軍のコンスタンティノープルへの入城です。
ブラザーウジェーヌ・ドラクロワによる民衆を導く自由の女神です。いわゆる最初の自由の女神像の絵でしょうか。
アントワーヌ=ジャン・グロのヤッファのペスト患者を訪れるナポレオン・ボナパルトです。アントワーヌ=ジャン・グロはルーヴル美術館の略奪した収蔵品を鑑定する委員に任命されたそうです。この作品が出世作となりましたが、実際にはブラザーナポレオンはパレスチナ攻略の際に発生したペスト患者に毒を飲ませて死なせたそうです。アントワーヌ=ジャン・グロはブラザーナポレオン失脚後に名声を失い1835年6月25日にセーヌ川に身を投げて死んでいるところを発見されたそうです。恐らく自殺したのは6月24日だと思われます。後に男爵位を授けられたり、フランス芸術協会の協会員であったりと、フリーメイスンだと思われます。
アントワーヌ=ジャン・グロのアイラウの戦いにおける、野戦場のナポレオン1世です。
ブラザーポール・ドラローシュによる若き殉教者の娘(殉教した娘)です。
ブラザードミニク・アングルによるグランド・オダリスク(横たわるオダリスク)です。
ブラザージャック・ルイ・ダヴィッドによるテルモピュライのレオニダスです。300なんて映画もありましたが、スパルタの王様がペルシアの大軍勢から死守した逸話を題材にしているようです。しかし本当に裸で戦ったとはちょっと思えません。
ピエール=ポール・プリュードンのマルメゾンの庭に腰掛けるジョゼフィーヌです。ブラザーナポレオンの最初の妻として有名なジョセフィーヌですが、フリーメイスン達に囲まれたその人生もフランスの激動の時代を合わせて非常に興味深いです。
ブラザージャック・ルイ・ダヴィッドによるレカミエ夫人の肖像です。ブラザーナポレオンを魅了した当時の有名な美女であったそうですが、最後は全財産を失い修道院に入ってサロンの男性達が通ったそうです。フランス革命での女性達の活躍は相当のものがあります。
ブラザージャック・ルイ・ダヴィッドによる自画像です。ブラザーダヴィッドはジャコバン党員でブラザーロベスピエール失脚後に逮捕拘留され、その間に描いた絵だそうです。ブラザーアングルなどの弟子も多く、ナポレオン失脚後はベルギーに亡命し77歳まで生きたそうです。ブラザーダヴィッドのベルギーの墓は四角錐ではなく前面の壁面だけのオベリスク型をしています。ルイ16世をギロチンにかけた事でフランスに戻れなくなったそうですが、パリの墓地には心臓だけの墓があるそうです。なかなか死後もフリーメイスンとして認められるのは相当大変なようです。
ブラザージャック・ルイ・ダヴィッドによる皇帝ナポレオン一世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式です。恐らくブラザーナポレオンの肖像画とともに最もブラザーダヴィッドで有名な絵だと思われます。この戴冠式の場所がノートルダム大聖堂なのですね。フランス人にとってカール大帝の騙し打ちとも言えるローマ教皇による戴冠はその後のカトリック教会の隆盛をもたらし、それが一般人の生活の困窮とも言える中世の暗黒をもたらしたとの意識があったのかもしれません。フランス革命において教会勢力の抑圧は一つのテーマであったかと思われます。
ブラザージャック・ルイ・ダヴィッドによるブルートゥス邸に息子たちの遺骸を運ぶ刑吏たちです。主題であるブルートゥスはローマの王国時代の共和制に移行する際に国王を追放した最初の執政官だそうです。息子たちが王政復古を企図していたため死刑判決を下し、その遺骸が自宅に戻ってきた時の様子を描いた絵のようです。ローマの共和制に当時のフリーメイスン達が多くの理想を投影していた事が考えられます。
ブラザージャック・ルイ・ダヴィッドによるサビニの女たちです。ローマ建国の際に近隣のサビニなどの都市から女性を略奪し子供を産ませ、その女性達をサビニの男性達が取り返しに来た際にすでに結ばれて出産した女性たちが仲裁している図だそうです。新古典主義の典型的な絵柄とされるようです。
ブラザージャック・ルイ・ダヴィッドによるホラティウス兄弟の誓いです。古代ローマの歴史家ティトゥス・リウィウスによる著書ローマ建国史中に記される逸話に基づいているようです。
ブラザーダヴィッドによる絵なのだと思いますがどうでしょう。
ブラザーダヴィッドによるヘクトールの死を嘆くアンドロマケです。古代ギリシアの吟遊詩人ホメロスを代表する長編叙事詩イリアスに登場する同時代のトロイアの英雄ヘクトールの戦死を嘆き悲しむ妻アンドロマケを主題とした作品です。
ブラザーダヴィッドによるパリスとヘレネの恋です。最高女神ユノ、美の女神ウェヌス(ヴィーナス)、戦争の女神ミネルヴァの3人の女神の中で最も美しい者を選定する大役に任命された逸話パリスの審判でも著名な、トロイア王の息子であった羊飼いパリスが、美の女神ウェヌスを選んだ褒賞としてスパルタ王の娘で絶世の美女として名高いヘレネを妻として授かるパリスとヘレネを主題とした神話的歴史画作品です。
これもちょっとわかりません。
ドームの天井画は恐らくヤコブの大天使との格闘を描いているのではないでしょうか。
アポロンの間があります。下が白黒のモザイクになっています。アポロンの間はルイ14世の使った品々などがあったかと思います。多くはフランス革命時に略奪されてしまったそうです。次回以降はオリエント、エジプトの関連の展示品です。解説は絵画よりさらに少なくなります。
前回オルセー美術館篇が本人の予想外にまとめるのに時間がかかってしまい、まあ専門家にかかれば恐らくフランス芸術界とフリーメイスンリーとの繋がりは有名な話になるのかもしれませんが、印象派と絡めてこれだけ一般人向けに色々書いたものというのはそう多くは無いと思います。まあそれほど芸術に関心が多くない人でも印象派やその後の抽象芸術はそれなりに常識として知っているところがあると思い、そうした人がフリーメイスンリーと芸術との繋がりを少しでも知識として持って、そうしたものを実物を見た時や実生活の中で感じていただければ、このブログの存在価値もあるかなと思われると、いつもながら皆さんの直接の反応が無いので自画自賛するわけです。
まあちょっと内容的にも観た感想を書くだけではないので、色々専門分野ではない事について字面や写真を見て書くのは非常に疲れるので、また美術品の分野といえばその取引に関わる額が大きいのもみなさんご存じかと思いますし、フランスという国が芸術の都という名前もあってそれらの美術、芸術の分野にそれなりのプライドと歴史と労力とコストをかけているのは有名だと思いますし、それらについていわば虹の報酬として紹介するような立場になるわけで、まあなかなか大変だという事です。
まあロンドン・パリ篇の一つのテーマになるのだと思いますが、要するにヨーロッパの1717年以降の歴史はすなわちフリーメイスンリーの歴史そのものであり、ほとんどの登場人物がフリーメイスンリーと繋がりを持っており、それはそのまま現代に拡大し続けて存在するという事であり、逆にいえば日本の歴史が明治維新以降フリーメイスンリーとの接点を中心としてあり続けながら未だに国内で化学反応の抑制とも言うべき作用が働いてむしろ時代によっては反動の歴史の方が打ち勝っているという事すらありうるというものであります。私自身坂本龍馬に例えられたり、明治維新がまた始まる歴史になったりと、キリスト教の文化や知識も加えるとまさに日本ではフリーメイスンリーにおいては1717年のグランドロッジ結成以前の英国と同様の環境とも言えるものであり、300年の歴史というものがまさにフリーメイスンリーと東洋と西洋の違い、ピラミッドの頂点の差なのかもしれないという実感を抱くところです。
さて愚痴のような前置きが長くなりましたが、こういった彼我の差をあらためて強くするのが恐らく多くの東洋人にとってはかつては大英博物館であり、パリに人が集まるようになった現在では今回から数回に渡って書く事になるこのルーヴル美術館なのではないかと思います。私もかつて台湾の故宮博物院を見学して、その収蔵品の貴重な中華文明の粋とも言えるものを見て、東洋の美術の粋とも言えるそれらに感慨を抱き、それが収蔵品に比べて非常に現代的なみすぼらしい施設に入っている事に中国の近現代史の不幸を感じましたが、今回ルーヴル美術館を見て回り、正直に言ってもちろん東が優れている分野がいくつもあるとはいえ東西を比較した際に総合力ではやはり西洋の力が結集したところではやはり差を感じるというところがまあ単純な博物館比較というところになるのだと思います。
そういう差、それを直接体感した際にその原因を追及していくとやはりキリスト教からフリーメイスンリーに行き着くというのが自然の道であり、それが横須賀ではまさに数多くの施設やアメリカ軍が戦後設置したモニュメントや旧海軍、明治維新後の開港の歴史であり、それらがまさに近現代の日本人が通る光に至る小道と呼ばれるものではないでしょうか。
まあとにかくオルセー美術館の内容が予想以上に重くなりすぎて疲れたのでちょっと気分転換にガス抜きのような長文でした。実際はルーヴル美術館は展示品の数や歴史、重要性はオルセー美術館の何倍もあるわけですが、こちらは写真撮影可でそれこそ日本人の何十倍もいる中国人がところかまわずフラッシュ撮影している状況なのですが、それを一切フランス人は咎めず、彼らはその差をすでに知っているという態度で、かつて大英博物館で日本人が通過した状況を現代のツアーの中国人がまさに体感している状況であるという状況であったわけです。という事で私もチャイニーズの一人としてフラッシュはたきませんが全く持って所かまわず写真撮影する東洋人として恥も外聞もかき捨ててこのブログのためとは言いませんが、実際そういう感じで大量のルーヴル美術館の収蔵品を可能な限り写真撮影してきたというところです。
この写真撮影可、スケッチも解説も可という博物館の中の博物館、それでいて美術館という名前の一種の美の王宮がもちろんフランス革命とその後のブラザーナポレオンの治世以降可能になったという事、これをさらに全世界の人々に開放しているという事実が、まさにフランス革命とは何であったのかという事の体感でありブラザーエドマンド・バーグが消極的に否定した事柄の現代に繋がる事象なのかと思われました。
オルセー美術館においても主要な収蔵品の写真は多くがインターネットで検索する事ができ、図書館と同じく博物館、美術館においてもその存在意義が様々に問われる時代になるとはいえ、フリーメイスンリーの体験と同じく、図書館、博物館、美術館のそれぞれその場に行かないと味わえない感覚、本を手にとって読む感覚、博物館、美術館の実際に本物を見ないとわからない感覚、これらは人類の知能がいかに発達しようとも本質的には変わらないと思われ、それはまさに古代の英知の発見と同じ感覚を保ち続けるフリーメイスンリーとなんら変わらないものではないかと思われます。
というわけでちょっとブログの言い訳のような感じですが、写真撮影可というフランス革命以降のありえないほど多くの血と努力によって与えられた基本的権利を最大限に行使してこの後のブログを構成していこうと思います。もちろん神様はそういう打算を見ているわけで、ルーヴル美術館で写真撮影をしまくっていて下を見ずに歩いて、足元の鉄の柵に足の脛を強打して骨にひびが入るかと思われるほど痛かったという事もあり、またそれを見ていた中国人に酷く笑われたという旅にありがちな思い出もありました。
まあ美術館の写真を出す事によってそれを見た人々の行動を喚起できればそれだけ意義があるという事になるという事で良いのではないでしょうか。見ただけ得という考えもあるかもしれませんが、それくらいは問題ないという太っ腹精神なのがまさに人間の本質を操るフリーメイスンリーというところだと思われます。つまり人間を深く理解した結果博物館は開放した方が良いし、美術館は写真撮影可とした方が良いとしたのが現実のルーヴル美術館であり、フランスフリーメイスンリーの象徴といえる美術館なのだと思われます。
このくらいで良いでしょうか。まあちょっとオルセー美術館篇みたいに調べるのはもうちょっと勘弁という事です。興味がある人は写真を見て、調べて、実際行って見てください。ああ疲れた。
そういうわけでオルセー美術館からルーヴル美術館に移動します。雨が降ってないとは言えちょっと曇りですね。まあその位で雨が降っていなければこのくらい人が集まるようです。テュイルリー庭園の噴水です。
ルーヴル美術館方面に歩きます。鳩もきれいに写っちゃったりして天気さえよければ写真なんてきれいに写るもんなんです。
パリは黒人の人が確実にお土産物売りをしています。ロンドンでは有色人種の人が必ずコンビニで働いていました。どちらも日本人と中国人は料理屋と観光客です。
なかなかきれいに撮れていますね。このくらいの曇り空だとまだまだ大丈夫です。
これもまあなかなか良く撮れています。しかしまあ酷い雨でした。
わかりやすい写真ですねえ。
カルーゼル凱旋門ですね。天気がどうも何やら窺がっているようです。この旅のブログの文脈から行くと天気の表情も面白いですね。この写真自体が寓意画かもしれません。
これも良い写真ですね。
まあ取り合えず初めてルーヴル美術館に入ります。入口で金属探知機のゲートを通ります。チケットを持っているとスムーズな入場ができるようです。実際に入るとその多国籍な雑然とした雰囲気に期待を裏切られます。三部会のテニスコートのような感じでしょうか。美術館というよりも東京駅と上野公園をミックスしたような感じでしょうか。入口のところにはしっかり螺旋階段があります。螺旋階段を通るのは出る時だけだったと思います。
ミッテラン大統領の時代に作られたそうです。ミッテラン大統領もフリーメイスンだったのでしょうね。設計したのは中国人の芸術家だそうですが、まあ念には念を入れてなのでしょうね。何しろフランスフリーメイスンリーの象徴的なルーヴル美術館にそのもののガラスのピラミッドを作るという計画ですから。この写真にあるのは恐らくVesica Piscisなのだと思われます。ダヴィンチ・コードでは666枚のガラスで構成されるとかあったそうですが、実際には無いとかなんとか、まあこのVesica Piscisの事を言っているのではないでしょうか。666はCafe NEROで十分じゃないでしょうか。黙示録のニガヨモギがチェルノブイリとかありますが、予言や黙示録は数字の3、11と言ったところで十分じゃないでしょうか。
チケットが千円くらいでしたかね。非常に安い印象でした。私が最初に買った時はどうもまた東洋人の一人旅だという感じでフランス人の大学生のバイトという感じの子が露骨にそういう態度をしましたが、まあ色々民族的な感情が入り混じる広場と言う感じでした。日本人は女性の一人旅が多いのでしょうかね。
とりあえずモナリザは見ておこうと思ったのでしたかね。何翼だか忘れましたが、四つの場所があってそのうちの一つで、一番人がいるところです。
サモトラケのニケの像です。ナイキがライオンズクラブでこれをモチーフにしたんでしたね。まあなんつうか非常に俗物な目です。
まあこんな遺物じゃなく実際に建築して街に置いていたギリシア人の時代というのはすごかったんだなとそれはあらためて思わされます。ユダヤ人も一目置いたギリシア人と言うヤクザじゃないですが世界の民族の歴史というものはすごいものがあります。ギリシア危機もそういうのがあるわけですね。
やっぱり日本人からは遠いですが、キリスト教の宗教画がすぐに有ります。この辺はやはりヨーロッパ人の感覚なのでしょうね。フリーメイスンリーの象徴的美術館でも異教の神のニケの後はやはりちょっと口直しのような十字架があります。イタリア、ルネッサンスの展示だったのでしょうか。
建築にシンボルのような感じがありそうなので撮ったのでしょうか。まあ建築自体は非常にバッキンガム宮殿に似ています。時代的にはあちらが似せたのだと思いますが。
メインロードみたいなモナリザ、ダヴィンチの作品などに繋がる展示室です。結構な混みようです。
宗教画も床が白黒のモザイクで撮っているのですね。時代的にはどうなんでしょう。1717年以降であればフリーメイスンリーとの関わりがあるのでしょうが、この絵はどうもそれ以前のようですね。
これはダヴィンチなのでしょうかね。青色がやたらきれいなのは恐らく復元しているのだと思われます。聖アンナと聖母子というそうです。なにやらフロイトの分析が色々あるようです。
岩窟の聖母でしょうか。はっきり言ってルーヴルではモナリザ以外のダヴィンチ作品を見ている人はいません。ダヴィンチの周辺にもダヴィンチそっくりの同時代の作品が多数あり、それらも宗教画を見ている人も写真を撮る人もほとんどいません。わざとらしく中国人がフラッシュをたいているくらいです。
これも基本的にはダヴィンチの作品とされるようですが、ラ・ベル・フェロニエールというそうです。まあ同時代の人は大体同じような絵を描くみたいです。
この辺は良くわかりませんが宗教画なんでしょうねえ。ミケランジェロの天地創造みたいですが、良くわかりません。解説もフランス語ですから大体良くわかりません。まあなんかきれいなんで写真を撮った感じです。その他にも写真を見るとわかると思いますが、あまり写真を撮っている人もいません。
モナリザの前は100人以上の人が集まってフラッシュたきまくりで写真を撮っている状況です。芸能人の来た時の空港みたいな感じでしょうか。ちょっとわけがわかりません。しかもガラスで覆われていて普通に見るとほとんど絵がわかりません。ルーヴル美術館はその雰囲気自体がルーヴル美術館なのですね。一番前でモナリザと一緒に写真に写るのが中国人のステイタスのようでした。復元もしていますし写真で見た方が本物を見た事になるような感じでしょうか。
これは誰の作品かわかりませんが、画題は洗礼者ヨハネの首を持つサロメだと思われます。まあちょっとまだ死海文書もユダヤ古代誌も全部読んでいませんが、恐らくキリストのモデルはこの洗礼者ヨハネなのでしょうね。
聖母子像でしょうか。
ゴリアテの首を取るダヴィデでしょうか。恐らく修復の際に青が際立っているのだと思います。
これも誰かが死んで嘆いているのですね。こちらは赤が際立っています。
神様の象徴画でしょうか。
こちらも誰かが死んだ場面ですね。
ちょっと暗いですね。何の場面かはわかりません。
これはなかなか美しいですね。古代からの石造建築のカタログのような絵でしょうか。
これもなかなか美しいですね。画題がわからない事にはなんだかわかりません。
ヴァチカンのサンピエトロ広場を描いた絵なのですね。ブラザージョセフ・ターナーも描いていましたが、古今東西でこの広場を画題とする事は非常に多いようです。恐らく最も象徴として認められたオベリスクはこのサンピエトロ広場のオベリスクなのでしょうね。キリスト教の歴史も奥が深いです。
これも美しいですが、ピンボケがしょうがないです。
バルトロメ・エステバン・ムリーリョの蚤をとる少年です。スペイン、バロック画家のセビーリャ派に分類されるようです。
アンリ4世でしょうか。スペインの画家でしょうか。
エル・グレコのキリストの磔刑と2人の寄進者です。
これも同時代の画家のものでしょうか。直角定規と聖書と髑髏が認められます。
スペインの画家でしょうか。王様を描いたものと思います。
これもわかりませんね。
ブラザージョセフ・ターナーの風景画です。
ポンペイの噴火でしょうか。火山の溶岩を描いた絵のようです。
これはイギリスの芸術アカデミーの会長の方が描いたものだと思われます。セントポール大聖堂のお墓のところで出てきたのかと思います。
オベリスクが描かれていて撮っているのですね。
カサノヴァという名前だけで写真を撮ったのですね。どうも有名なブラザーカサノヴァとは違うようです。
ブラザードミニク・アングルによるシャルル7世の戴冠式でのジャンヌダルクです。いわゆるオルレアンの乙女として知られる作品です。
ブラザーポール・ドラローシュによるナポレオンのアルプス越えです。
ブラザーウジェーヌ・ドラクロワによる(第四回)十字軍のコンスタンティノープルへの入城です。
ブラザーウジェーヌ・ドラクロワによる民衆を導く自由の女神です。いわゆる最初の自由の女神像の絵でしょうか。
アントワーヌ=ジャン・グロのヤッファのペスト患者を訪れるナポレオン・ボナパルトです。アントワーヌ=ジャン・グロはルーヴル美術館の略奪した収蔵品を鑑定する委員に任命されたそうです。この作品が出世作となりましたが、実際にはブラザーナポレオンはパレスチナ攻略の際に発生したペスト患者に毒を飲ませて死なせたそうです。アントワーヌ=ジャン・グロはブラザーナポレオン失脚後に名声を失い1835年6月25日にセーヌ川に身を投げて死んでいるところを発見されたそうです。恐らく自殺したのは6月24日だと思われます。後に男爵位を授けられたり、フランス芸術協会の協会員であったりと、フリーメイスンだと思われます。
アントワーヌ=ジャン・グロのアイラウの戦いにおける、野戦場のナポレオン1世です。
ブラザーポール・ドラローシュによる若き殉教者の娘(殉教した娘)です。
ブラザードミニク・アングルによるグランド・オダリスク(横たわるオダリスク)です。
ブラザージャック・ルイ・ダヴィッドによるテルモピュライのレオニダスです。300なんて映画もありましたが、スパルタの王様がペルシアの大軍勢から死守した逸話を題材にしているようです。しかし本当に裸で戦ったとはちょっと思えません。
ピエール=ポール・プリュードンのマルメゾンの庭に腰掛けるジョゼフィーヌです。ブラザーナポレオンの最初の妻として有名なジョセフィーヌですが、フリーメイスン達に囲まれたその人生もフランスの激動の時代を合わせて非常に興味深いです。
ブラザージャック・ルイ・ダヴィッドによるレカミエ夫人の肖像です。ブラザーナポレオンを魅了した当時の有名な美女であったそうですが、最後は全財産を失い修道院に入ってサロンの男性達が通ったそうです。フランス革命での女性達の活躍は相当のものがあります。
ブラザージャック・ルイ・ダヴィッドによる自画像です。ブラザーダヴィッドはジャコバン党員でブラザーロベスピエール失脚後に逮捕拘留され、その間に描いた絵だそうです。ブラザーアングルなどの弟子も多く、ナポレオン失脚後はベルギーに亡命し77歳まで生きたそうです。ブラザーダヴィッドのベルギーの墓は四角錐ではなく前面の壁面だけのオベリスク型をしています。ルイ16世をギロチンにかけた事でフランスに戻れなくなったそうですが、パリの墓地には心臓だけの墓があるそうです。なかなか死後もフリーメイスンとして認められるのは相当大変なようです。
ブラザージャック・ルイ・ダヴィッドによる皇帝ナポレオン一世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式です。恐らくブラザーナポレオンの肖像画とともに最もブラザーダヴィッドで有名な絵だと思われます。この戴冠式の場所がノートルダム大聖堂なのですね。フランス人にとってカール大帝の騙し打ちとも言えるローマ教皇による戴冠はその後のカトリック教会の隆盛をもたらし、それが一般人の生活の困窮とも言える中世の暗黒をもたらしたとの意識があったのかもしれません。フランス革命において教会勢力の抑圧は一つのテーマであったかと思われます。
ブラザージャック・ルイ・ダヴィッドによるブルートゥス邸に息子たちの遺骸を運ぶ刑吏たちです。主題であるブルートゥスはローマの王国時代の共和制に移行する際に国王を追放した最初の執政官だそうです。息子たちが王政復古を企図していたため死刑判決を下し、その遺骸が自宅に戻ってきた時の様子を描いた絵のようです。ローマの共和制に当時のフリーメイスン達が多くの理想を投影していた事が考えられます。
ブラザージャック・ルイ・ダヴィッドによるサビニの女たちです。ローマ建国の際に近隣のサビニなどの都市から女性を略奪し子供を産ませ、その女性達をサビニの男性達が取り返しに来た際にすでに結ばれて出産した女性たちが仲裁している図だそうです。新古典主義の典型的な絵柄とされるようです。
ブラザージャック・ルイ・ダヴィッドによるホラティウス兄弟の誓いです。古代ローマの歴史家ティトゥス・リウィウスによる著書ローマ建国史中に記される逸話に基づいているようです。
ブラザーダヴィッドによる絵なのだと思いますがどうでしょう。
ブラザーダヴィッドによるヘクトールの死を嘆くアンドロマケです。古代ギリシアの吟遊詩人ホメロスを代表する長編叙事詩イリアスに登場する同時代のトロイアの英雄ヘクトールの戦死を嘆き悲しむ妻アンドロマケを主題とした作品です。
ブラザーダヴィッドによるパリスとヘレネの恋です。最高女神ユノ、美の女神ウェヌス(ヴィーナス)、戦争の女神ミネルヴァの3人の女神の中で最も美しい者を選定する大役に任命された逸話パリスの審判でも著名な、トロイア王の息子であった羊飼いパリスが、美の女神ウェヌスを選んだ褒賞としてスパルタ王の娘で絶世の美女として名高いヘレネを妻として授かるパリスとヘレネを主題とした神話的歴史画作品です。
これもちょっとわかりません。
ドームの天井画は恐らくヤコブの大天使との格闘を描いているのではないでしょうか。
アポロンの間があります。下が白黒のモザイクになっています。アポロンの間はルイ14世の使った品々などがあったかと思います。多くはフランス革命時に略奪されてしまったそうです。次回以降はオリエント、エジプトの関連の展示品です。解説は絵画よりさらに少なくなります。
さて写真の数が多いので準備のために時間が空いてしまうルーヴル美術館編ですが、もちろん年末年始の単なる休みモードと言うところもあります。本日クリスマスイブで今年ももうすぐ終わりですが、一年を振り返ると私自身はもちろんこのブログありきで、皆さんにすれば直近の選挙が一番の印象に残るものでもあるかもしれませんし、メディアの方たちにすればこういうブログ発信の情報などの個人発の情報に世の中が本格的に移行してきた時代という印象かもしれません。日本人のノーベル賞受賞などもありましたが、スカイツリーが開業したり、ロンドンオリンピックがあったりと、地震からの復興と原発問題と言った話もあり続けましたが、比較的明るい話題が多かったように思われます。
さてまあ時候の挨拶はほどほどにして本日はまたクリスマスイブという事で、欧米では家族で過ごす日だとか日本ではカップルで過ごす日だとか、ケーキを食べる日だとか、プレゼントを交換する日だとかまあ地域や文化によって異なりますが、いずれにしても本質的には宗教的な意味のある日という事で、元々キリスト教が国教化された後にローマ帝国のミトラ教の冬至の祝日であった日にキリストの誕生日を重ねてきたという事があるそうで、私個人としては聖書を通読し、カトリックの教えなどに少し触れたり、ユダヤ古代誌など読んだりして色々考えると、キリスト自身は恐らくそれに該当するような人間としては存在しなかったのではないかというのが確信されるようになってきており、要するにユダヤ教というエジプト文明から続く人類の知恵の教えが生み出した存在であるというのが真実であるのではないかという、まあ典型的なフリーメイスンリーの考え方に至っているというところなのだと思います。
まあそういう事でもう少しクリスマスに関わる話をするわけですが、昨日が天皇誕生日で今上天皇陛下の誕生日であったわけですが、もちろんクリスマスイブから一日ずれた日と言う事で、それが色々な必然から生じた日であるという事であるらしいという事は三笠公園の回などで特に大正天皇の命日や孝明天皇の旧暦の命日などと絡めてまあ陰謀論とも言える話を展開したわけですが、まあ生誕日はなかなかクリスマスとエイプリルフールとの関係ではないですがなかなか関係性が難しい話で、明治天皇などは新暦の11月3日になるわけですが、生誕日はペリー来航の前年でありなかなかそこまで日付を指定する事は困難だと思いますので、もちろん生誕日がいい加減な時代であった事がポイントであるかと思います。ちなみにペリーが久里浜に上陸した7月14日はまさにバスティーユ監獄が襲撃された日であるようです。
そうなるとやはり昭和天皇の生誕日である4月29日の意味が気になるわけですが、どうもこれは5月1日に近い日、実際には2日ずれと言う事しかないようです。5月1日は何の日であるかというと、現在は一般にはメーデーであり、労働者の日という事になりますが、どうもこれは元々やはりローマ帝国の五月祭という祝日に由来するとウィキペディアにあるわけですが、もちろん時代的にはそちらが先になるわけですが、陰謀論に火に油を注ぐような話ですが、実は陰謀論者が大好きなあのバイエルン王国で1776年にインゴルシュタット大学の実践哲学教授ブラザーアダム・ヴァイスハオプトがイルミナティ結社を結成した日だそうです。まあ良く言われるように日本の敗戦はコミンテルンの陰謀だとかそういうのを自衛隊関連の方が真面目にのたまわっていたりしましたが、コミンテルンというのはそもそもパリコミューンに象徴されるようにフランスフリーメイスンリーの理想をもとに作られているものであり、それらがそもそもブラザーアンドリュー・ラムゼイの有名な演説や、ブラザーヴァイスハオプトのイルミナティ結社の思想に基づいているという事がまあ確実なものであるというところなのだと思われます。ちなみにもちろんそれらの思想や結社内結社の構成は現在のフリーメイスンリーの上位階級や付帯組織として位置づけられるスコティッシュライトに集約されるのだと思われます。また5月1日を中心とした日本のゴールデンウィークという存在もそういう意味が出てくるものと思われます。
さてそうなると昭和天皇の兄弟などの皇室の方々の誕生日が気になるわけですが、そもそも明治天皇には成人した男子は大正天皇しかいなかったという事があり、大正天皇の存在がそれだけ重要であるという事があります。ではその大正天皇の子供の成人男子は4人おり、長男が昭和天皇ですが、次男が秩父宮であり、6月25日生まれの1月4日亡くなっています。もちろんこれはわかるかと思います。三男の高松宮は1月3日生まれの2月3日亡くなっています。四男が現在もご健在の三笠宮です。まあそういう時代であったのかなという昭和11年の話でも触れたようなそういう時代の雰囲気というものがあるのだと思います。ちなみに現在の皇室の皇太子殿下などの誕生日を見ても特にフリーメイスンリーを連想されるような数字は認められません。唯一悠仁親王殿下の誕生日が2006年(平成18年)9月6日と回文数の3の倍数になっているだけかもしれません。回文数の数字がすでに元号ではないのがポイントかもしれません。
ちなみにちなみにですが横須賀では昨日は日米の軍艦がともに万国旗を並べて天皇誕生日を祝っておりました。またこれもまさにちなみにですが私個人の感覚として4月29日の昭和の日が最も横須賀が平和で落ち着いた日であるようです。フリーメイスンリーが感覚として染みついた街と言えるかもしれません。
さてでは本題に移ろうと思います。
ギリシアのフェニキア文明などでしょうか。
非常にコレクションとして大きさや形がそろっている感じがします。ギリシア・ローマのものだと思いますがなかなかコレクションと言った感じが際立ちます。
いわゆるコレクションとして集まる事で価値を高める効果でしょうか。
そもそも作られた当初もコレクションや並べられる為に作られていたという事なのだと思います。
美術館と言う名前がそのあたりに由来するものかと思われます。
有翼の天使でしょうか。ニケの像かもしれません。後に出てくる有翼日輪と関連しているものと思われます。
白黒のタイルとともになかなか美しいスフィンクス像が出てきます。ルーヴル美術館のスフィンクスは美しいです。もちろんエジプトから持ってきているので、もしかすると一番良いものを持ってきてしまっているかもしれません。
ハヤブサの神様であるホルス神ですね。All Seeing Eyeのホルスの目の神様です。イルミナティ好きの方はフクロウの目にこだわるのでしょうが、まあ猛禽類でも地域によって種類が異なるのでしょう。湘南地域ではトンビがこれでしょうか。
恐らく純金なのでしょうね。エジプトの秘宝は本当に価値が高いものばかりです。
有翼日輪の石碑が出てきます。
有翼日輪の石碑が続きます。
ヒエログリフを読みたくなってきますね。以前も出したヒエログリフの読み方のリンクと新たなリンクを加えておきます。
美しいですね。3000年から4000年前のものとは思えません。
ヒエログリフの石碑が続きます。お墓ではなく看板や告知文書、記念碑なのでしょうね。
色々なタイプがあります。
やはり有翼日輪があります。ワシントンD.C.のワシントン記念塔の内部にもこの彫刻があるそうです。現在は修復中で入れないそうです。
微妙に印象は異なりますが、基本的には同じ様式で書かれています。現在で言うところのブログや出版物のようなものでしょうか。
美しいですねえ。仏像の原型のようです。
コレクションとして美しいですね。昔の写真のようなものなのでしょうが、完成度が高いですね。まあ日本であったら確実に国宝級ですね。もちろんこちらでも国宝級です。
日本でも携帯できる仏像とか集められたらこんな感じでしょうが、質量ともに圧倒的で違いすぎます。
ネコの神様でしょうか。バステトというそうです。ウィキペディアに項目と写真もありました。なかなか奥が深いです。現代彫刻でも通用するものかと思われます。
お棺でしょうか。
こういう小さいものはコレクションとして価値が高そうです。一つくらい欲しいと思いますが、ルーヴル美術館にあるようなものは金額にすると億単位なのでしょうね。
なかなかアニメのようで面白い構図です。左はアンクを手にするホルス神でしょうか。右目で太陽、左目で月であると思いますので、そのままフリーメイスンリーのシンボルを描いたポスターの構図そのままとなります。むしろフリーメイスンリーの方が真似したわけですが、この辺りからフリーメイスンリーのエジプト起源説が生じるのではないでしょうか。アクエンアテンの宗教改革なども後のユダヤ教の成立、キリスト教の成立と同じ流れである事が想像されます。エジプト神話の数々の逸話も聖書の話や日本の古代の神話と同じく数々の祖先の逸話や教訓を含んだ語り継がれた知恵の結集なのですね。
美しいですねえ。弁当箱の蓋の図柄とかに日本の企業も取り入れたりしないでしょうか。
ヒエログリフが読めないとなかなかわかりませんが、恐らく一族ごとに何らかの節目に神への祈願としてお願いしたい事や出来事などを記録として刻んで奉納したり飾ったりしたのでしょうね。日本だと絵馬や奉納文など木片や紙片で残されたものが多いような感じでしょうか。
ホルス神やその他のエジプトの多神教の世界の豊かさは日本だと江戸時代の町人文化のような感じでしょうか。もちろん規模は全く違いますが、平和な時代に多神教や様々な信仰と多様な神話が生まれるのは人類の歴史の法則のようです。
美しいですね。ブラザーシャンポリオンを始め多くのエジプト学者が碑文の文字を読みたいと思う情熱が理解される気がします。
リアルな彫像です。写真よりもリアルな印象を与えます。現在は写真や動画などの平面のデジタルメディアが主流ですが、後には再びエジプトのように立体的な記録メディアが主流となるかもしれません。
日本の祠のようでもあり、アンデスやインカの彫像のようでもあります。しっかりとヒエログリフが刻まれているのがエジプトの特徴でしょうか。
読めると面白いのでしょうねえ。
ツタンカーメン展でもありましたが、エジプトの立像は特徴的な前掛けをしているものがあります。フリーメイスンリーとの類似を指摘するようなものもありましたが、まあ前掛けは色々装飾の一つであるのだと思います。
まあ写真はいまいちですが、彫刻は美しいです。
読めない事には始まらない感じです。
こちらも祠みたいな感じです。まあブラザーナポレオンのエジプト遠征のわずか3年間で買い集めたという事のようですがしかしこれだけここに集まっているとエジプトにはどのくらい残っているのでしょうか。まあそれでもこれよりたくさん残っている位エジプトには普遍的に残されているのだと思いますが、エジプト本国への興味も増してきます。
このコレクションの統一性というか、分類の仕方が非常に巧みですね。さすがに百科全書派の発祥の地である気がします。博物館がフランスを中心として始まった必然というものが感じられます。
牛の神様も出てきますね。アピスというそうで、メンフィスの守護神でプタハ神の化身だそうです。ヒンドゥー教の牛の信仰が有名ですが、聖書でも金の子牛の逸話やその後もイスラエル王国でも信仰の対象とされたりと、いわゆる一神教のヤハウェ信仰と対照的な異教の神の偶像として牛の神としての信仰が出てきます。古代においても現代でもそうですが牛乳や食肉をもたらしてくれる牛は最高に貴重な生き物であったのですね。ちなみにこのシンボルマークを使った会社がインシュリンや成長ホルモンを製造するデンマークの製薬会社ノボノルディスク社です。また牛のシンボルはアメリカでもウォール街の近くに買いの象徴として銅像が認められたり、シカゴブルズのチーム名やレッドブルの商品名と言ったところで認められます。ちなみにアピスで検索すると日本では最初にパチンコ屋の名前が出てきます。しょうがないですねえ。
これはあまり写真が良くないですね。
まあこんな感じで大量の石碑があります。
夫婦の像でしょうか。恐らくお墓の入り口なのでしょうが、そういうのを持ってきていいのでしょうか。しかし美しく良いものです。
こういうのも美しいですね。素材は良くわかりませんが七宝焼きのような光沢です。恐らく価値にすると何千万という感じでしょうね。
石像の一部のようです。
エジプト部門の通路は皆白黒のチェッカーになっています。フリーメイスンリーの象徴ですね。このエジプト部門がルーヴル美術館の主要な展示である事を象徴する意味であるかと思われます。
王の政治とかそういうのを描いているのでしょうね。昔の新聞のようなものでしょうかね。
碑文が読めないと全くわかりません。
頭像ですね。現代のものよりうまくできている印象でしょうか。
やはり前掛けがあります。現代美術展に出ても一等賞ではないでしょうか。
ルーヴル美術館は良い完品がそろっています。こういう黒い石材の彫刻は映えますね。
恐らくお墓の入り口なのでしょうね。
しかし色々持ってきちゃってるようですが大丈夫ですかねえ。
美しい持ち運びやすい部分を持ってきている感じでしょうか。
リアルな彫像ですね。現代彫刻でも十分通用するようです。むしろ現代彫刻がこういう古代美術を模倣しているという事なのでしょう。
アメンホテプ4世の像のようです。こうした遺物を見て最終的にツタンカーメンの墓も発見されたのでしょうね。現在もエジプトでは発掘が続けられているようです。最近では吉村作治教授の太陽の船の再発見があったようです。
全体像がわかりにくいですね。
太陽神とその光であるアテン神信仰を意識させるものです。フリーメイスンリーやキリスト教ではGloryとされる、光明のシンボルが描かれています。科学的には太陽エネルギーと言う事になるのだと思います。Gのシンボルの意味の一つがGloryなのでしょうね。
こういうのもきれいですね。価値にしたら億は行くのではないでしょうか。
ルーヴル美術館は本当にきれいなものがそろっていますね。美術館と言う名称が良くわかります。趣味が悪いと思われるものは一切ありません。
翡翠製なのでしょうか。
本物が一つ欲しくなりますね。
エジプト文明が長く続いたのも極めて豊かであったからで、これらの遺物は全てそれらを証明しているにすぎないのですね。そしてその文明の知恵を集めたものが聖書であり、その他の莫大な量のパピルスや碑文、現代に残された太古の知恵の数々なのですね。
芸術ですね。
モデルの本人がまだ生きているかのような表情です。数千年前の製作者の意図がそのまま現代まで生き続けているというものでしょう。
なかなかかわいらしい像です。
そういえば最近都内ではこの一番上のホルスの目のような、歌舞伎の隈を縁取った注意を喚起する警察のビラのようなものが貼ってありましたね。明らかにホルスの目を意識した形なのだと思われます。全体として非常に美しいです。現代のポスターとしても十分遜色ないです。
やはり夫婦の像なのでしょうね。
これは有名な像のようですね。ラムセス二世の胸像でしょうか。花崗岩でできています。
こちらも様々な岩でできた頭像です。
こちらもそうです。小さなスフィンクスがオシャレな感じでしょうか。
こちらも小さなスフィンクスです。
こちらもリアルな全身像です。ルーヴル美術館は良いものがありますね。
日本で同時代の同様のものが発掘されたら捏造か国宝指定の大発見のどちらかでしょうね。以前に載せた東京国立博物館の有名な土偶などもこれらより明らかに1000年ほどは時代が下るようです。
この辺りは有翼日輪ではなく日輪とホルスの両目が流行のようです。なんせ紀元前5000年から紀元前後までの5000年以上の歴史がありますから流行も相当あるのだと思われます。そう考えると現代のフリーメイスンリーであっても流行のほんの一瞬であるのかもしれません。
こちらもそうです。Rのシンボリズムで触れたかと思います。後にローマ帝国のRとなり歴史に刻まれていくのかもしれません。
これもやはり小さなスフィンクスなどでしょうか。
小さなセト神のようです。
こちらも美しい彫像ですね。ブラザーロダンなども真似たのでしょうか。
完品に近い状態のものがいくつもあります。ルーヴル美術館は完品に近いものが多いですが、比較的大きさは運びやすい小さなものが数多くある印象でしょうか。
これなどもリアルですねえ。一つくらい東京国立博物館に常設展示できないでしょうか。
良いですねえ。日本の根付が束になってもちょっとかなわない感じです。
ちょっと逆光ですがまあこんな感じです。
上エジプトの王の冠であったかと思います。王の頭部なのでしょうね。(追記:オシリス神ではないでしょうか。)
有翼日輪でもホルスの目でもなく壺が上部に描かれていますね。エーゲ海文明から良質な壺が流れてきた時代なのでしょうかね。
ヒエログリフの刻印の仕方も微妙に異なるようです。パソコンのフォントみたいなもんでしょうかね。
こちらはやはり有翼日輪のようです。ホルス神ではなくアヌビス神のようですね。
色々なバージョンがありますが、基本的な形は数千年保持されたようです。まさにフリーメイスンリーの理想とする形の世界ですね。
こちらもまたちょっと形が異なりますね。彫りの強弱が付けられていて、ホルス神の目がデザインとして強調されています。日本だと鳥居の形のようです。感嘆ですね。
青が鮮やかですね。陶器の世界のようです。
日本の石碑のように原型を残した形で削るやり方は無いようです。やはり石の素材の違いなのでしょうね。石灰岩が多いのだと思われます。日本だと玄武岩や安山岩でしょうか。
方形に切りだしてそののちに文字を刻むというまさに実務的メイスンリーの思索的メイスンリーで象徴とされる作業をそのまま何度も何度も繰り返し行っていたのですね。
時代が下ってきているのでしょうね。最初のものよりデザイン的でなく写実的で写真を伴ったブログか新聞のような印象になってきています。この当時の人々の批評も厳しかったに違いありません。
読めませんが現代の聖教新聞や赤旗のように様々な論調の内容のものがあったのでしょうね。
学術的な内容のものや一般大衆向けのものなど様々なものがあったに違いありません。
小学校や大学、教育機関や役所のようなものもあったのでしょうね。
しかしこんなに持ってきてエジプトにはどのくらい残っているのでしょう。
しかし皆同じ帽子をかぶっていますね。現代のネクタイのような感じでしょうか。そのうちネクタイをやめてこちらの帽子が主流になるかもしれませんね。
まあしかしすごいコレクションです。恐らくフランス革命後ですから基本的に個人で収蔵しないで全て国家に供出したのでしょうね。そうでなければこれだけ良いものが美術館に集まりません。
全くすごいコレクションです。ブラザーシャンポリオンの偉業になるのだと思われます。この石碑の部分に関しては全くフランスフリーメイスンリーの圧巻ですが、なぜかポイントのロゼッタストーンだけは大英博物館にあります。そのあたりが英仏フリーメイスンリーの鍵でしょうか。
日本のこれらのうち一つでもあれば国宝の一番になるのですが、まあもちろんこれらはフランスの地の紀元前の文明ではなく現在観光で国を成り立たせているエジプトのものです。
しかしすごいですねえ。日本に文字が無かった時代ですからねえ。言葉はあったんでしょうが、その時代の日本人は何を考えて話していたのでしょうか。
だんだんデザインが消えてきて文字ばかりになっていく感じでしょうか。ブログみたいですね。
お棺にもぎっしり文字が書き込まれています。ミイラの文化ですから葬儀の際には言葉が溢れるように表現されるのでしょうね。
やっぱりその時にはホルスの目が大事になるのだと思います。まあ結局ホルスに限らず描かれた目を見る事による精神への作用を重要視するのでしょうね。一種のフリーメイスンリーのシンボルと一緒だと思われます。
やはりはっきりと刻印された字が増えてきます。
伝えたい事がたくさんたくさんあるのだと思われます。
そうなるとやっぱり象嵌になるのですね。目が強調されますからね。
表情はどんどんリアルになっていきますが、一方で体つきなどは抽象的な強調された表現になります。目や表情などが体の表現よりも大事という精神性が表現されるのでしょうね。
モディリアーニの絵のようですね。
働く女性でしょうか。ブラザーゴーギャンのタヒチの女性のようです。
アフリカ大陸ですから黒人文化との接点も濃いのでしょうね。
青い素材は何なのでしょうね。確かツタンカーメンのマスクでもエジプト青としてあったかと思います。下の蚊取り豚のような動物はカバなのでしょうね。
こういう像はやはり表現の流行があるようです。
素材も様々ですし、モデルのポーズや大きさ、表現するものも色々あるようです。
どうも官僚や神官の像のようなものが多いようです。実際に席順を決めたり、ローマの胸像のように過去の役人や神官の記念と言う意味があるのかもしれません。
夫婦の像はやはり墓に入れたり、記念で作ったりするものなのでしょうかね。基本的に仲睦まじい、夫に妻が従う姿が多いようですが、現代的に考えてどんなもんでしょう。
建物の柱でしょうか。
こちらも夫婦の像でしょうか。兄妹の像のようでもあります。微妙な空気感があります。
書記座像という有名な像のようです。胡坐をかいていますが、椅子も直座りもどちらもある文化だったのでしょうかね。座布団みたいなクッションもあったのでしょうか。日本のお坊さんの像は大概このポーズです。
だんだんお坊さんみたいな像が増えてきます。ちょっとなかなか社会が閉塞してきた感じでしょうか。まあ5000年もあればいろんな時代があると思います。
夫婦の像が増えてくるのも嘘くさいですね。まあいつの時代も変わらないという事です。
徐々に印象派の絵画みたいになってきますね。文字も内容の量よりも詩的な印象でしょうか。
新古典主義の絵のようになってくる感じでしょうか。まあ芸術の世界はいつの時代も自由ですから。
建築技術の進歩もあるのでしょうかね。柱や門のようなものの碑文が増えてきます。
ローマやギリシアの建築の基礎がここにあるのでしょうね。ソロモン神殿の建築ももちろんエジプト文明にあるわけです。もちろんその系譜はセントポール大聖堂から現代建築としてルーヴル美術館のピラミッドまで引き継がれています。
なんかもうデザインはなく字だけの楽譜みたいになってきます。
壺なんかは基本副葬品や骨壷が多いのでしょうね。1000年も使っていたら壊れますからね。
グランドロッジの正門のような形です。恐らくお墓の天国への門の象徴なのでしょう。
オリエントやギリシアの影響を受けたような感じでしょうか。
オリエントの影響などが出ているのだと思われます。
色々流行があるのですね。
ブラザーワシントンのポスターのようですね。古代エジプトのそういう活躍をした人物を描いているのかもしれません。ヒエログリフもシンボルのように見えてきます。
髪の毛が縮れ毛なのでしょうか。アフリカ系の血があるのでしょうね。似たような彫像が現代でも多くある気がします。恐らくそれらより良くできているものなのでしょう。
細工も浮かし彫りになってきて時代が進んできている感じでしょうか。オリエントなどとの文化の融合が進んでいるのだと思います。
中学生か高校生に解説していました。ちょっとでも難しいのではないでしょうか。もちろんフランス語なので全くわかりませんが、あちらの子供は恵まれています。
字が大きくなってきたりして多くの人に見せる目的になってきたのでしょうね。
表現されるものも神々から何やら政治や税金の事などそういう事になるのでしょうね。
女性でしょうかね。王妃や女王でしょうか。
ハヤブサの表現なのでしょうが、ホルス神の形ではありません。エジプト人にも「神は死んだ」とかいう人がいそうです。
実務的メイスンリーの仕事も切石に描かれておらず徒弟制度が崩れてきたりしているのでしょうか。玄関の表札や店の看板のようなものでしょうか。
ナイフのようです。石を削る道具かもしれません。
魚の形ののこぎりです。恐らく石を切る道具だと思われます。
なかなかかわいい形をしています。
筆か何かでしょうかね。筆記具などの道具だと思われます。装飾性が強いですね。
これもやはりのこぎりですかね。しかしすごいコレクションです。
壺ですが、インク壺や道具や材料を入れる壺のようです。
食器や調理用、保存用の壺でしょうか。装飾がやや凝っていますが基本的には日本の弥生時代のものと変わらないようです。やはりその後陶磁器が東アジアで発展したように歴史の始まりでもそういう傾向は認めるのではないでしょうか。
鏡とか洗濯板でしょうか。道具の展示の場所なので何かの道具なのだと思います。
コップや食器ですね。これはさすがに洗練されていて、後のローマ帝国やフランス王国のグラスや食器に通じるものがあるのではないでしょうか。
さて皆さん大分お疲れだと思いますが、この辺で品の良いスフィンクスがある通路になります。床の白黒のチェッカーが冴えています。
模造品ならちょっと悪趣味ともとられかねないスフィンクスですが本物ですから安心です。
これはさすがに現代芸術のようです。植物か電燈をモチーフとしたようですが、よくわかりません。Daniaeと書いてあるのでしょうか。どうも巻貝にタコの足みたいなのを伴った生き物の学名のようです。下に重なっているのが本をモチーフとしていて、学術の本の貝殻から延びる軟体動物のイメージでそれが電燈のように光を照らすというテーマなのではないでしょうか。しかしいびつなフランスらしい抽象芸術です。
ルーブル美術館ではこの白黒のシンボルを印象的にエジプト文明のコーナーで使用しています。
こちらにも何やら抽象芸術があります。
踊り場にも皆シンボルが強調されています。
さすがに皆さん気付かれるでしょう。
実はこの辺りでその次が地下になっていたり、閉鎖した部屋があったりと、係員がたむろしている場所なのですが、翌日回った時はこの辺りで何度も迷ってしまって、さすがにフランスフリーメイスンリーのシンボルを強調した象徴的な空間となっていました。まあルーヴル美術館は非常に広いですし、複雑な構造となっていますので気持ちを引き締めてあまり写真を取らずに時間をかけてじっくりとフランス語を勉強して周ってください。
さて最初のルーヴル美術館の訪問の記録はまだまだ続きます。結局前日のエトワール凱旋門と同じく記録が残っているのはiPhoneの電源が残っているところまでですが、実際にはこの後のエジプト文明部門の残り以上にフランスの中世キリスト教文化やオリエントの部門、さらに実際私は見学もしなかったイスラム文明の分野があり、はっきり言ってブログで全部紹介するのは無理があります。実際に訪問しても1週間は毎日じっくり見て回らないと全て見たとは言えないと思う程収蔵品があり、それぞれ一個一個が重要なものしかありません。
写真撮影自由とは言えこれだけ全て写真を撮っている人間もいませんでしたので、これだけ紹介するのは初めてだと思います。もちろんフランス語が読めないので収蔵品の展示の解説が一切読めていません。実際にはフランス語の勉強が必要なのだと思います。
次回は残りのエジプト文明分野の写真がある限りの解説です。翌日のヴェルサイユ宮殿の訪問の後に再びルーヴル美術館を訪れるので、その際に出来るだけ写真を撮ったものについて説明していきます。
まあ何かしらの皆さんの糧になれば幸いです。
今日はクリスマスイブです。教皇ベネディクト16世も言われるように聖書でも手にとって開いてみてはいかがでしょうか。
さてまあ時候の挨拶はほどほどにして本日はまたクリスマスイブという事で、欧米では家族で過ごす日だとか日本ではカップルで過ごす日だとか、ケーキを食べる日だとか、プレゼントを交換する日だとかまあ地域や文化によって異なりますが、いずれにしても本質的には宗教的な意味のある日という事で、元々キリスト教が国教化された後にローマ帝国のミトラ教の冬至の祝日であった日にキリストの誕生日を重ねてきたという事があるそうで、私個人としては聖書を通読し、カトリックの教えなどに少し触れたり、ユダヤ古代誌など読んだりして色々考えると、キリスト自身は恐らくそれに該当するような人間としては存在しなかったのではないかというのが確信されるようになってきており、要するにユダヤ教というエジプト文明から続く人類の知恵の教えが生み出した存在であるというのが真実であるのではないかという、まあ典型的なフリーメイスンリーの考え方に至っているというところなのだと思います。
まあそういう事でもう少しクリスマスに関わる話をするわけですが、昨日が天皇誕生日で今上天皇陛下の誕生日であったわけですが、もちろんクリスマスイブから一日ずれた日と言う事で、それが色々な必然から生じた日であるという事であるらしいという事は三笠公園の回などで特に大正天皇の命日や孝明天皇の旧暦の命日などと絡めてまあ陰謀論とも言える話を展開したわけですが、まあ生誕日はなかなかクリスマスとエイプリルフールとの関係ではないですがなかなか関係性が難しい話で、明治天皇などは新暦の11月3日になるわけですが、生誕日はペリー来航の前年でありなかなかそこまで日付を指定する事は困難だと思いますので、もちろん生誕日がいい加減な時代であった事がポイントであるかと思います。ちなみにペリーが久里浜に上陸した7月14日はまさにバスティーユ監獄が襲撃された日であるようです。
そうなるとやはり昭和天皇の生誕日である4月29日の意味が気になるわけですが、どうもこれは5月1日に近い日、実際には2日ずれと言う事しかないようです。5月1日は何の日であるかというと、現在は一般にはメーデーであり、労働者の日という事になりますが、どうもこれは元々やはりローマ帝国の五月祭という祝日に由来するとウィキペディアにあるわけですが、もちろん時代的にはそちらが先になるわけですが、陰謀論に火に油を注ぐような話ですが、実は陰謀論者が大好きなあのバイエルン王国で1776年にインゴルシュタット大学の実践哲学教授ブラザーアダム・ヴァイスハオプトがイルミナティ結社を結成した日だそうです。まあ良く言われるように日本の敗戦はコミンテルンの陰謀だとかそういうのを自衛隊関連の方が真面目にのたまわっていたりしましたが、コミンテルンというのはそもそもパリコミューンに象徴されるようにフランスフリーメイスンリーの理想をもとに作られているものであり、それらがそもそもブラザーアンドリュー・ラムゼイの有名な演説や、ブラザーヴァイスハオプトのイルミナティ結社の思想に基づいているという事がまあ確実なものであるというところなのだと思われます。ちなみにもちろんそれらの思想や結社内結社の構成は現在のフリーメイスンリーの上位階級や付帯組織として位置づけられるスコティッシュライトに集約されるのだと思われます。また5月1日を中心とした日本のゴールデンウィークという存在もそういう意味が出てくるものと思われます。
さてそうなると昭和天皇の兄弟などの皇室の方々の誕生日が気になるわけですが、そもそも明治天皇には成人した男子は大正天皇しかいなかったという事があり、大正天皇の存在がそれだけ重要であるという事があります。ではその大正天皇の子供の成人男子は4人おり、長男が昭和天皇ですが、次男が秩父宮であり、6月25日生まれの1月4日亡くなっています。もちろんこれはわかるかと思います。三男の高松宮は1月3日生まれの2月3日亡くなっています。四男が現在もご健在の三笠宮です。まあそういう時代であったのかなという昭和11年の話でも触れたようなそういう時代の雰囲気というものがあるのだと思います。ちなみに現在の皇室の皇太子殿下などの誕生日を見ても特にフリーメイスンリーを連想されるような数字は認められません。唯一悠仁親王殿下の誕生日が2006年(平成18年)9月6日と回文数の3の倍数になっているだけかもしれません。回文数の数字がすでに元号ではないのがポイントかもしれません。
ちなみにちなみにですが横須賀では昨日は日米の軍艦がともに万国旗を並べて天皇誕生日を祝っておりました。またこれもまさにちなみにですが私個人の感覚として4月29日の昭和の日が最も横須賀が平和で落ち着いた日であるようです。フリーメイスンリーが感覚として染みついた街と言えるかもしれません。
さてでは本題に移ろうと思います。
ギリシアのフェニキア文明などでしょうか。
非常にコレクションとして大きさや形がそろっている感じがします。ギリシア・ローマのものだと思いますがなかなかコレクションと言った感じが際立ちます。
いわゆるコレクションとして集まる事で価値を高める効果でしょうか。
そもそも作られた当初もコレクションや並べられる為に作られていたという事なのだと思います。
美術館と言う名前がそのあたりに由来するものかと思われます。
有翼の天使でしょうか。ニケの像かもしれません。後に出てくる有翼日輪と関連しているものと思われます。
白黒のタイルとともになかなか美しいスフィンクス像が出てきます。ルーヴル美術館のスフィンクスは美しいです。もちろんエジプトから持ってきているので、もしかすると一番良いものを持ってきてしまっているかもしれません。
ハヤブサの神様であるホルス神ですね。All Seeing Eyeのホルスの目の神様です。イルミナティ好きの方はフクロウの目にこだわるのでしょうが、まあ猛禽類でも地域によって種類が異なるのでしょう。湘南地域ではトンビがこれでしょうか。
恐らく純金なのでしょうね。エジプトの秘宝は本当に価値が高いものばかりです。
有翼日輪の石碑が出てきます。
有翼日輪の石碑が続きます。
ヒエログリフを読みたくなってきますね。以前も出したヒエログリフの読み方のリンクと新たなリンクを加えておきます。
美しいですね。3000年から4000年前のものとは思えません。
ヒエログリフの石碑が続きます。お墓ではなく看板や告知文書、記念碑なのでしょうね。
色々なタイプがあります。
やはり有翼日輪があります。ワシントンD.C.のワシントン記念塔の内部にもこの彫刻があるそうです。現在は修復中で入れないそうです。
微妙に印象は異なりますが、基本的には同じ様式で書かれています。現在で言うところのブログや出版物のようなものでしょうか。
美しいですねえ。仏像の原型のようです。
コレクションとして美しいですね。昔の写真のようなものなのでしょうが、完成度が高いですね。まあ日本であったら確実に国宝級ですね。もちろんこちらでも国宝級です。
日本でも携帯できる仏像とか集められたらこんな感じでしょうが、質量ともに圧倒的で違いすぎます。
ネコの神様でしょうか。バステトというそうです。ウィキペディアに項目と写真もありました。なかなか奥が深いです。現代彫刻でも通用するものかと思われます。
お棺でしょうか。
こういう小さいものはコレクションとして価値が高そうです。一つくらい欲しいと思いますが、ルーヴル美術館にあるようなものは金額にすると億単位なのでしょうね。
なかなかアニメのようで面白い構図です。左はアンクを手にするホルス神でしょうか。右目で太陽、左目で月であると思いますので、そのままフリーメイスンリーのシンボルを描いたポスターの構図そのままとなります。むしろフリーメイスンリーの方が真似したわけですが、この辺りからフリーメイスンリーのエジプト起源説が生じるのではないでしょうか。アクエンアテンの宗教改革なども後のユダヤ教の成立、キリスト教の成立と同じ流れである事が想像されます。エジプト神話の数々の逸話も聖書の話や日本の古代の神話と同じく数々の祖先の逸話や教訓を含んだ語り継がれた知恵の結集なのですね。
美しいですねえ。弁当箱の蓋の図柄とかに日本の企業も取り入れたりしないでしょうか。
ヒエログリフが読めないとなかなかわかりませんが、恐らく一族ごとに何らかの節目に神への祈願としてお願いしたい事や出来事などを記録として刻んで奉納したり飾ったりしたのでしょうね。日本だと絵馬や奉納文など木片や紙片で残されたものが多いような感じでしょうか。
ホルス神やその他のエジプトの多神教の世界の豊かさは日本だと江戸時代の町人文化のような感じでしょうか。もちろん規模は全く違いますが、平和な時代に多神教や様々な信仰と多様な神話が生まれるのは人類の歴史の法則のようです。
美しいですね。ブラザーシャンポリオンを始め多くのエジプト学者が碑文の文字を読みたいと思う情熱が理解される気がします。
リアルな彫像です。写真よりもリアルな印象を与えます。現在は写真や動画などの平面のデジタルメディアが主流ですが、後には再びエジプトのように立体的な記録メディアが主流となるかもしれません。
日本の祠のようでもあり、アンデスやインカの彫像のようでもあります。しっかりとヒエログリフが刻まれているのがエジプトの特徴でしょうか。
読めると面白いのでしょうねえ。
ツタンカーメン展でもありましたが、エジプトの立像は特徴的な前掛けをしているものがあります。フリーメイスンリーとの類似を指摘するようなものもありましたが、まあ前掛けは色々装飾の一つであるのだと思います。
まあ写真はいまいちですが、彫刻は美しいです。
読めない事には始まらない感じです。
こちらも祠みたいな感じです。まあブラザーナポレオンのエジプト遠征のわずか3年間で買い集めたという事のようですがしかしこれだけここに集まっているとエジプトにはどのくらい残っているのでしょうか。まあそれでもこれよりたくさん残っている位エジプトには普遍的に残されているのだと思いますが、エジプト本国への興味も増してきます。
このコレクションの統一性というか、分類の仕方が非常に巧みですね。さすがに百科全書派の発祥の地である気がします。博物館がフランスを中心として始まった必然というものが感じられます。
牛の神様も出てきますね。アピスというそうで、メンフィスの守護神でプタハ神の化身だそうです。ヒンドゥー教の牛の信仰が有名ですが、聖書でも金の子牛の逸話やその後もイスラエル王国でも信仰の対象とされたりと、いわゆる一神教のヤハウェ信仰と対照的な異教の神の偶像として牛の神としての信仰が出てきます。古代においても現代でもそうですが牛乳や食肉をもたらしてくれる牛は最高に貴重な生き物であったのですね。ちなみにこのシンボルマークを使った会社がインシュリンや成長ホルモンを製造するデンマークの製薬会社ノボノルディスク社です。また牛のシンボルはアメリカでもウォール街の近くに買いの象徴として銅像が認められたり、シカゴブルズのチーム名やレッドブルの商品名と言ったところで認められます。ちなみにアピスで検索すると日本では最初にパチンコ屋の名前が出てきます。しょうがないですねえ。
これはあまり写真が良くないですね。
まあこんな感じで大量の石碑があります。
夫婦の像でしょうか。恐らくお墓の入り口なのでしょうが、そういうのを持ってきていいのでしょうか。しかし美しく良いものです。
こういうのも美しいですね。素材は良くわかりませんが七宝焼きのような光沢です。恐らく価値にすると何千万という感じでしょうね。
石像の一部のようです。
エジプト部門の通路は皆白黒のチェッカーになっています。フリーメイスンリーの象徴ですね。このエジプト部門がルーヴル美術館の主要な展示である事を象徴する意味であるかと思われます。
王の政治とかそういうのを描いているのでしょうね。昔の新聞のようなものでしょうかね。
碑文が読めないと全くわかりません。
頭像ですね。現代のものよりうまくできている印象でしょうか。
やはり前掛けがあります。現代美術展に出ても一等賞ではないでしょうか。
ルーヴル美術館は良い完品がそろっています。こういう黒い石材の彫刻は映えますね。
恐らくお墓の入り口なのでしょうね。
しかし色々持ってきちゃってるようですが大丈夫ですかねえ。
美しい持ち運びやすい部分を持ってきている感じでしょうか。
リアルな彫像ですね。現代彫刻でも十分通用するようです。むしろ現代彫刻がこういう古代美術を模倣しているという事なのでしょう。
アメンホテプ4世の像のようです。こうした遺物を見て最終的にツタンカーメンの墓も発見されたのでしょうね。現在もエジプトでは発掘が続けられているようです。最近では吉村作治教授の太陽の船の再発見があったようです。
全体像がわかりにくいですね。
太陽神とその光であるアテン神信仰を意識させるものです。フリーメイスンリーやキリスト教ではGloryとされる、光明のシンボルが描かれています。科学的には太陽エネルギーと言う事になるのだと思います。Gのシンボルの意味の一つがGloryなのでしょうね。
こういうのもきれいですね。価値にしたら億は行くのではないでしょうか。
ルーヴル美術館は本当にきれいなものがそろっていますね。美術館と言う名称が良くわかります。趣味が悪いと思われるものは一切ありません。
翡翠製なのでしょうか。
本物が一つ欲しくなりますね。
エジプト文明が長く続いたのも極めて豊かであったからで、これらの遺物は全てそれらを証明しているにすぎないのですね。そしてその文明の知恵を集めたものが聖書であり、その他の莫大な量のパピルスや碑文、現代に残された太古の知恵の数々なのですね。
芸術ですね。
モデルの本人がまだ生きているかのような表情です。数千年前の製作者の意図がそのまま現代まで生き続けているというものでしょう。
なかなかかわいらしい像です。
そういえば最近都内ではこの一番上のホルスの目のような、歌舞伎の隈を縁取った注意を喚起する警察のビラのようなものが貼ってありましたね。明らかにホルスの目を意識した形なのだと思われます。全体として非常に美しいです。現代のポスターとしても十分遜色ないです。
やはり夫婦の像なのでしょうね。
これは有名な像のようですね。ラムセス二世の胸像でしょうか。花崗岩でできています。
こちらも様々な岩でできた頭像です。
こちらもそうです。小さなスフィンクスがオシャレな感じでしょうか。
こちらも小さなスフィンクスです。
こちらもリアルな全身像です。ルーヴル美術館は良いものがありますね。
日本で同時代の同様のものが発掘されたら捏造か国宝指定の大発見のどちらかでしょうね。以前に載せた東京国立博物館の有名な土偶などもこれらより明らかに1000年ほどは時代が下るようです。
この辺りは有翼日輪ではなく日輪とホルスの両目が流行のようです。なんせ紀元前5000年から紀元前後までの5000年以上の歴史がありますから流行も相当あるのだと思われます。そう考えると現代のフリーメイスンリーであっても流行のほんの一瞬であるのかもしれません。
こちらもそうです。Rのシンボリズムで触れたかと思います。後にローマ帝国のRとなり歴史に刻まれていくのかもしれません。
これもやはり小さなスフィンクスなどでしょうか。
小さなセト神のようです。
こちらも美しい彫像ですね。ブラザーロダンなども真似たのでしょうか。
完品に近い状態のものがいくつもあります。ルーヴル美術館は完品に近いものが多いですが、比較的大きさは運びやすい小さなものが数多くある印象でしょうか。
これなどもリアルですねえ。一つくらい東京国立博物館に常設展示できないでしょうか。
良いですねえ。日本の根付が束になってもちょっとかなわない感じです。
ちょっと逆光ですがまあこんな感じです。
上エジプトの王の冠であったかと思います。王の頭部なのでしょうね。(追記:オシリス神ではないでしょうか。)
有翼日輪でもホルスの目でもなく壺が上部に描かれていますね。エーゲ海文明から良質な壺が流れてきた時代なのでしょうかね。
ヒエログリフの刻印の仕方も微妙に異なるようです。パソコンのフォントみたいなもんでしょうかね。
こちらはやはり有翼日輪のようです。ホルス神ではなくアヌビス神のようですね。
色々なバージョンがありますが、基本的な形は数千年保持されたようです。まさにフリーメイスンリーの理想とする形の世界ですね。
こちらもまたちょっと形が異なりますね。彫りの強弱が付けられていて、ホルス神の目がデザインとして強調されています。日本だと鳥居の形のようです。感嘆ですね。
青が鮮やかですね。陶器の世界のようです。
日本の石碑のように原型を残した形で削るやり方は無いようです。やはり石の素材の違いなのでしょうね。石灰岩が多いのだと思われます。日本だと玄武岩や安山岩でしょうか。
方形に切りだしてそののちに文字を刻むというまさに実務的メイスンリーの思索的メイスンリーで象徴とされる作業をそのまま何度も何度も繰り返し行っていたのですね。
時代が下ってきているのでしょうね。最初のものよりデザイン的でなく写実的で写真を伴ったブログか新聞のような印象になってきています。この当時の人々の批評も厳しかったに違いありません。
読めませんが現代の聖教新聞や赤旗のように様々な論調の内容のものがあったのでしょうね。
学術的な内容のものや一般大衆向けのものなど様々なものがあったに違いありません。
小学校や大学、教育機関や役所のようなものもあったのでしょうね。
しかしこんなに持ってきてエジプトにはどのくらい残っているのでしょう。
しかし皆同じ帽子をかぶっていますね。現代のネクタイのような感じでしょうか。そのうちネクタイをやめてこちらの帽子が主流になるかもしれませんね。
まあしかしすごいコレクションです。恐らくフランス革命後ですから基本的に個人で収蔵しないで全て国家に供出したのでしょうね。そうでなければこれだけ良いものが美術館に集まりません。
全くすごいコレクションです。ブラザーシャンポリオンの偉業になるのだと思われます。この石碑の部分に関しては全くフランスフリーメイスンリーの圧巻ですが、なぜかポイントのロゼッタストーンだけは大英博物館にあります。そのあたりが英仏フリーメイスンリーの鍵でしょうか。
日本のこれらのうち一つでもあれば国宝の一番になるのですが、まあもちろんこれらはフランスの地の紀元前の文明ではなく現在観光で国を成り立たせているエジプトのものです。
しかしすごいですねえ。日本に文字が無かった時代ですからねえ。言葉はあったんでしょうが、その時代の日本人は何を考えて話していたのでしょうか。
だんだんデザインが消えてきて文字ばかりになっていく感じでしょうか。ブログみたいですね。
お棺にもぎっしり文字が書き込まれています。ミイラの文化ですから葬儀の際には言葉が溢れるように表現されるのでしょうね。
やっぱりその時にはホルスの目が大事になるのだと思います。まあ結局ホルスに限らず描かれた目を見る事による精神への作用を重要視するのでしょうね。一種のフリーメイスンリーのシンボルと一緒だと思われます。
やはりはっきりと刻印された字が増えてきます。
伝えたい事がたくさんたくさんあるのだと思われます。
そうなるとやっぱり象嵌になるのですね。目が強調されますからね。
表情はどんどんリアルになっていきますが、一方で体つきなどは抽象的な強調された表現になります。目や表情などが体の表現よりも大事という精神性が表現されるのでしょうね。
モディリアーニの絵のようですね。
働く女性でしょうか。ブラザーゴーギャンのタヒチの女性のようです。
アフリカ大陸ですから黒人文化との接点も濃いのでしょうね。
青い素材は何なのでしょうね。確かツタンカーメンのマスクでもエジプト青としてあったかと思います。下の蚊取り豚のような動物はカバなのでしょうね。
こういう像はやはり表現の流行があるようです。
素材も様々ですし、モデルのポーズや大きさ、表現するものも色々あるようです。
どうも官僚や神官の像のようなものが多いようです。実際に席順を決めたり、ローマの胸像のように過去の役人や神官の記念と言う意味があるのかもしれません。
夫婦の像はやはり墓に入れたり、記念で作ったりするものなのでしょうかね。基本的に仲睦まじい、夫に妻が従う姿が多いようですが、現代的に考えてどんなもんでしょう。
建物の柱でしょうか。
こちらも夫婦の像でしょうか。兄妹の像のようでもあります。微妙な空気感があります。
書記座像という有名な像のようです。胡坐をかいていますが、椅子も直座りもどちらもある文化だったのでしょうかね。座布団みたいなクッションもあったのでしょうか。日本のお坊さんの像は大概このポーズです。
だんだんお坊さんみたいな像が増えてきます。ちょっとなかなか社会が閉塞してきた感じでしょうか。まあ5000年もあればいろんな時代があると思います。
夫婦の像が増えてくるのも嘘くさいですね。まあいつの時代も変わらないという事です。
徐々に印象派の絵画みたいになってきますね。文字も内容の量よりも詩的な印象でしょうか。
新古典主義の絵のようになってくる感じでしょうか。まあ芸術の世界はいつの時代も自由ですから。
建築技術の進歩もあるのでしょうかね。柱や門のようなものの碑文が増えてきます。
ローマやギリシアの建築の基礎がここにあるのでしょうね。ソロモン神殿の建築ももちろんエジプト文明にあるわけです。もちろんその系譜はセントポール大聖堂から現代建築としてルーヴル美術館のピラミッドまで引き継がれています。
なんかもうデザインはなく字だけの楽譜みたいになってきます。
壺なんかは基本副葬品や骨壷が多いのでしょうね。1000年も使っていたら壊れますからね。
グランドロッジの正門のような形です。恐らくお墓の天国への門の象徴なのでしょう。
オリエントやギリシアの影響を受けたような感じでしょうか。
オリエントの影響などが出ているのだと思われます。
色々流行があるのですね。
ブラザーワシントンのポスターのようですね。古代エジプトのそういう活躍をした人物を描いているのかもしれません。ヒエログリフもシンボルのように見えてきます。
髪の毛が縮れ毛なのでしょうか。アフリカ系の血があるのでしょうね。似たような彫像が現代でも多くある気がします。恐らくそれらより良くできているものなのでしょう。
細工も浮かし彫りになってきて時代が進んできている感じでしょうか。オリエントなどとの文化の融合が進んでいるのだと思います。
中学生か高校生に解説していました。ちょっとでも難しいのではないでしょうか。もちろんフランス語なので全くわかりませんが、あちらの子供は恵まれています。
字が大きくなってきたりして多くの人に見せる目的になってきたのでしょうね。
表現されるものも神々から何やら政治や税金の事などそういう事になるのでしょうね。
女性でしょうかね。王妃や女王でしょうか。
ハヤブサの表現なのでしょうが、ホルス神の形ではありません。エジプト人にも「神は死んだ」とかいう人がいそうです。
実務的メイスンリーの仕事も切石に描かれておらず徒弟制度が崩れてきたりしているのでしょうか。玄関の表札や店の看板のようなものでしょうか。
ナイフのようです。石を削る道具かもしれません。
魚の形ののこぎりです。恐らく石を切る道具だと思われます。
なかなかかわいい形をしています。
筆か何かでしょうかね。筆記具などの道具だと思われます。装飾性が強いですね。
これもやはりのこぎりですかね。しかしすごいコレクションです。
壺ですが、インク壺や道具や材料を入れる壺のようです。
食器や調理用、保存用の壺でしょうか。装飾がやや凝っていますが基本的には日本の弥生時代のものと変わらないようです。やはりその後陶磁器が東アジアで発展したように歴史の始まりでもそういう傾向は認めるのではないでしょうか。
鏡とか洗濯板でしょうか。道具の展示の場所なので何かの道具なのだと思います。
コップや食器ですね。これはさすがに洗練されていて、後のローマ帝国やフランス王国のグラスや食器に通じるものがあるのではないでしょうか。
さて皆さん大分お疲れだと思いますが、この辺で品の良いスフィンクスがある通路になります。床の白黒のチェッカーが冴えています。
模造品ならちょっと悪趣味ともとられかねないスフィンクスですが本物ですから安心です。
これはさすがに現代芸術のようです。植物か電燈をモチーフとしたようですが、よくわかりません。Daniaeと書いてあるのでしょうか。どうも巻貝にタコの足みたいなのを伴った生き物の学名のようです。下に重なっているのが本をモチーフとしていて、学術の本の貝殻から延びる軟体動物のイメージでそれが電燈のように光を照らすというテーマなのではないでしょうか。しかしいびつなフランスらしい抽象芸術です。
ルーブル美術館ではこの白黒のシンボルを印象的にエジプト文明のコーナーで使用しています。
こちらにも何やら抽象芸術があります。
踊り場にも皆シンボルが強調されています。
さすがに皆さん気付かれるでしょう。
実はこの辺りでその次が地下になっていたり、閉鎖した部屋があったりと、係員がたむろしている場所なのですが、翌日回った時はこの辺りで何度も迷ってしまって、さすがにフランスフリーメイスンリーのシンボルを強調した象徴的な空間となっていました。まあルーヴル美術館は非常に広いですし、複雑な構造となっていますので気持ちを引き締めてあまり写真を取らずに時間をかけてじっくりとフランス語を勉強して周ってください。
さて最初のルーヴル美術館の訪問の記録はまだまだ続きます。結局前日のエトワール凱旋門と同じく記録が残っているのはiPhoneの電源が残っているところまでですが、実際にはこの後のエジプト文明部門の残り以上にフランスの中世キリスト教文化やオリエントの部門、さらに実際私は見学もしなかったイスラム文明の分野があり、はっきり言ってブログで全部紹介するのは無理があります。実際に訪問しても1週間は毎日じっくり見て回らないと全て見たとは言えないと思う程収蔵品があり、それぞれ一個一個が重要なものしかありません。
写真撮影自由とは言えこれだけ全て写真を撮っている人間もいませんでしたので、これだけ紹介するのは初めてだと思います。もちろんフランス語が読めないので収蔵品の展示の解説が一切読めていません。実際にはフランス語の勉強が必要なのだと思います。
次回は残りのエジプト文明分野の写真がある限りの解説です。翌日のヴェルサイユ宮殿の訪問の後に再びルーヴル美術館を訪れるので、その際に出来るだけ写真を撮ったものについて説明していきます。
まあ何かしらの皆さんの糧になれば幸いです。
今日はクリスマスイブです。教皇ベネディクト16世も言われるように聖書でも手にとって開いてみてはいかがでしょうか。
クリスマスにルーヴル美術館の特集のようになるのもまたこれ必然のような感じでしょうか。(追記:クリスマスに書き始めたのですね。ご了解ください。)
まあヒストリーチャンネルでちょっとクリスマスの変遷の歴史みたいなのをやっていて、これが一番のクリスマスの詳しい内容で、結局全面的にフリーメイスンリーがクリスマスのイベントに関わっているという話であったという事になるのだと思いますが、まあ日本では伝統的に年末年始、正月を祝うというのが最大のイベントと言う事で、このブログでも一応クリスマスソング特集でYouTubeの音楽をまとめていましたが、明日からは年末用と言う事で全面的に変更する予定です。
さてまあ色々問題がありそうなルーヴル美術館の紹介の内容ですが、まあそもそも解説についてはきちんとした公式ホームページの日本語解説があるものについては読んで下さいとしか言いようがありません。
主にこのホームページで博物館や美術館を紹介する目的は横須賀市自然・人文博物館や横須賀美術館、東京国立博物館、国立西洋美術館と同じく、それらの博物館、美術館がフリーメイスンリーの考え方を現わす重要なものであり、フリーメイスンリーとは何ぞやという問いに対して端的に解答を示す身近な施設であり、ロンドンやパリのそれはそれらの最も歴史あり権威ある代表的なものであり、行く機会のある人にはぜひ行って欲しいのと、行く機会のない方にはできるだけ内容を身近に感じてほしいという考えで連載しているわけです。
ルーヴル美術館と聞くとお高くとまっているとかおフランスの象徴と言った印象があるかもしれませんが、実際にはそういった考え方とは対極の、誰もがそういう不公平や不平等を感じずに、可能な限り自由に平等にお互いに尊重し合い博愛の精神を持ってというのがまさにフランス革命から始まるフランスフリーメイスンリーの大事な思想であり、それらは本質的には英仏ともまたがる世界中のフリーメイスンリーの理想でもあるわけです。まあそういう考え方を体現するものとして博物館や美術館があるべきなのですが、実際には経営のためいろいろ制限があったり、政治家や地域の体面を象徴していたり、博物学と言っても実際には研究者やその他の様々な条件に左右されて偏ったものとなっていたりするのがあるわけですが、そういったものを長年かけて最もより良く改善する努力し続けている美術館というのがこのルーヴル美術館と言う事になるのだと思います。
まあ二度訪問して写真をブログに無料でアップしているだけでそんなにルーヴル美術館を擁護しなければならない事はないと思いますが、そもそもこのブログにフリーメイスンリーの考えを表す美術館として紹介している以上は、そういうものであるという事について解説を加える必然があるのかと思います。
ではまあなかなか大変な内容だと思いますが写真をアップしていくこととなります。そもそも博物館の展示というものは実物があるとは言っても、解説があってその解説に則って展示されているものですから、解説があるものに対してさらに解説を加えていくという事がとても難しいという事と、さらにはそもそも解説のフランス語を全くわからないのでそもそもの展示がフランス語がわかる人より理解の程度が著しく低いのでそれらについて解説を加えていく事がまあ難しいという事はわかっていただけるかと思います。そのあたりはそういう事でご容赦いただき、それであってもこの美術館がフランスフリーメイスンリーの象徴であり、モナ・リザなどを含めて世界の美術館・博物館の象徴的存在であり紹介しないわけにはいかないという事もあるという事をご理解いただきたいと思います。
これなんかは土偶みたいで日本のものに近いでしょうか。
この辺りはエジプトの博物学のコーナーで生活に必要な道具を復元したりして陳列しているのですね。木工や狩りの道具、装身具やスリッパの一部などだと思います。
これは庶民のお棺とかなんでしょうかね。
枕とかですが、恐らく庶民の葬儀の副葬品とかなんでしょうね。庶民と言ってもそれなりに裕福なのだと思いますが。
こういうのも書いてある内容が全くわかりませんのでねえ。
お棺のチェック柄が非常にきれいですね。文字も少なく大分違います。恐らく全て副葬品なのでしょうが、相当豊かであった事は確かだと思います。
この辺もお棺ですねえ。昔から色々な人間がいたということの証明でしょうね。
現代より豊かかもしれませんね。
やっぱり石造の方がランクが高いのでしょうね。
黒いものはまたさらに良いものでありそうです。しかし持ってくるのも大変ですね。
これはまた細かいですね。内容もそうですが、これを刻む職人さんも構図とか大変ですね。しかも人生30年とか40年の時代ですから。
これは夜の女王にそっくりな構図ですね。まあこういう数千年後の美術館に残るようなモチーフは当時の最先端最高のものであって、エジプト・オリエント共通のものである事は当たり前なんでしょうね。
これも有翼日輪なんだと思います。
お棺のヒエログリフですね。ぜひどなたかに読んでいただきたい。
美しいお棺ですね。中身も恐らくあるのでしょうが、ほとんどミイラの展示はありませんでした。
なんとかヒエログリフを撮ろうとしているのですね。まあもちろん展示してあるものは全て解読済みだと思います。
まあ記念撮影を撮るようなものではないのですが、それだけ圧巻なので記念撮影でもしない事にはという心理が働くのですね。
表情も形も素材も様々なものがあります。
黒いものは良いのでしょうね。
ピラミッドのキャップストーンとお棺です。
これは先ほどあった青いもののそれほど美しくないもの大量ですね。これだけあると価値が全くわかりません。副葬品なのでしょうね。
これはパピルスですかね。展示してある最大のものでしたが、この他にもたくさんあるのでしょうね。内容は全くわかりません。恐らく辞書とか百科事典みたいなものなのでしょうね。
太陽の船でしょうかね。
青鷺とかミイラの作り方みたいなのとか、梯子があったりと死後の世界の説明なのでしょうかね。
こちらも副葬品なのでしょうかね。しかしすごい数です。全てが3000年以上前のものとすると日本で出土したら確実に国宝級です。
なんか色々書いてありますがわかりませんね。バーとかじゃないでしょうか。結局古代の重要な文書と言うと聖書なんかと同じように世の成り立ちから生命の仕組みとかそういう全部が書いてある、今で言う図鑑や辞典のような事が書いてあるのではないでしょうか。
恐らく王名表だと思われます。要するに世界の歴史なのですね。旧約聖書で言うとアブラハム、モーゼからダヴィデ、その後の士師記に至る部分なのでしょうね。
やはり梯子が目立ちます。ヤコブの梯子の原案がこちらなのでしょうね。
これだけ文書があってモーゼの出エジプトの記録が無いのであれば、それはやはり無かったのでしょうねえ。まあ民族の移動や衝突は日常的だったのかもしれません。
日本だと江戸時代位でしょうかね。実に3000年の差がある事になるのでしょうか。
まあ完全に光っちゃってますね。
何について書いているのでしょうねえ。
いわゆるカノポス、骨壷ですね。ミイラがあるのに骨壷というという事はまあミイラになれない人用でしょうか。ではなくて内臓を入れるようですね。ヒヒのものやホルス神のものやアヌビス神のものがあります。
色々な事書いてますね。
まだまだあります。
だんだん図鑑みたいな感じでしょうか。
ソロモン宮殿の図みたいですね。
神の化身の動物の図でしょうか。
なんの鳥でしょうか。
あんまり写真に写らないようになっているのでしょうかね。
太陽と生命の樹でしょうか。
まだ続きます。こんな感じの展示です。
これも副葬品ですかね。
太陽の船でしょうかね。
こちらもやはり王名表ですかね。
動物は皆神様なのでしょうね。
こちらも王名表でしょうか。
マスクや装身具ですね。
なんでしょうかマンガみたいですがわかりません。
柱のようです。墓の一部でしょうか。
色々な神様の解説のようです。
牛の神様みたいなのが3種くらいいますね。
副葬品でしょうか。アンクとは異なる、駒沢オリンピック公園の塔のようなモチーフがあります。
これは何でしょうか。悪魔に近いような神様でしょうか。
ワニとか動物が描かれているのでしょうかね。
マントヒヒの像や蛇のモチーフでしょうか。
ハヤブサの像でしょうか。神様としてやそうでないものなのでしょうか。
ネコも愛玩動物として珍重されたようです。
カノプスでしょうか。内臓だけにしては大きいので恐らく全身入れる柩の一種なのでしょうね。手前は犬ですね。
アピスですね。
牛ですね。
アピスの特集です。金の子牛の逸話はモーゼの出エジプトの際のクライマックスシーンでもあり、偶像崇拝やその当時普遍的であった牛などの動物を信仰の対象とする異教に対して、聖書のヤハウェの神はユダヤ人への制裁としてなんと3000人を一夜で殺してしまったそうです。それだけインパクトのある聖書の場面なので、それに対してエジプトでのそういう信仰が普遍的であった事を示しているのだと思われます。
まさに金の子牛です。フリーメイスンリーでも金の子牛そのものをシンボルとする事もあるようです。
蜂の巣の養蜂箱でしょうか。シンボルを集めた一画なのでしょうか。
こちらは飼っていたペット達のミイラのようです。
大英博物館にもありましたが、こちらの方が数も多く面白い展示になっているようです。やはりそのあたりが美術館の美的感覚なのだと思います。基本的には同じものを展示しているわけです。
ミイラにしたものを加工したのか、ミイラや遺骨を中に収めたのかよくわかりませんが、遺骸と何かしら関係しているようです。
こちらも基本的にはミイラなんでしょうが良くはわかりません。お土産のこけしのようです。
こちらはまあ亡骸を形にした像なんでしょうね。骨壷の形になっているのかもしれません。
アピスと有翼日輪です。日本で言うところの十二支みたいなもんでしょうか。
再び有翼日輪の石板ですね。アピスが書かれたものがあります。
白黒の模様があるものもありますね。有翼日輪のエジプト古代宗教と牛への信仰がかなり密接なものであった事を説明しているようです。まあ要するに農耕民族であればその二つが非常に大事というわかりやすい事だと思われます。
まあ同じですね。
お牛様~って感じでしょうか。徐々に牛の頭に日輪がのっかってきています。太陽と牛が一緒になっているんですね。後にセラピス信仰としてギリシア・ローマに伝わっていくそうです。要するにブラザージェンナーによる種痘として復活するのですね。ワクチンセラピーのルーツですね。
やっぱり人間は太陽を浴びて牛乳や牛肉を食べたり、農業をしたりしないと駄目という事でしょうかね。
これはウィキペディアにも使用されてる写真の像ですね。神様の設定ですが、どうも頭の太陽は半円で物置のようです。果物でも入れるのでしょうか。
こちらもアピスを描いた石板です。
カノプスですね。
アピスを描いた石板とその他でしょうか。
これも同じものですね。
有翼日輪ですね。
アヌビスですかね。
スカラベの形をした装身具ですね。
スカラベやアヌビス、ホルスの目ですね。小さい石板は家に飾るのでしょうか。
こちらは再び石棺です。
これもお棺ですね。
これもお棺ですね。
一体だけミイラがありました。
保存状態が良いのでしょうね。
お棺の表情も色々あります。
かなりユニークなものが目立ちます。
有翼日輪にスカラベにアヌビス、イシス、オシリスにバーにホルスとエジプトの神様が全員集合だと思われます。その他の神様もウィキペディアなどで同定してみてください。
死者の書というやつですね。
デザイン的に人の顔のようなものになっていますね。太陽の船になるのだと思われます。
神様が整列しています。
大分手ぶれしていますが同じ構図の石板です。
墓の壁面なのでしょうね。
オシリスでしょうかね。
なかなか難しそうです。
新しい構図ですね。
良くわかりません。
これは立派なお棺ですね。
副葬品でしょうか。
しかし色々ありますねえ。段々の塔が気になりますが、恐らく駒沢のオリンピック公園の塔はこちらをイメージしたものなのでしょうね。意味はわかりません。
これも美しい像です。ルーヴル美術館は完品のものが多いです。
これも副葬品でしょうか。オシリス像ですね。
日本であったら間違いなく国宝ですね。
しかしこんなにお棺を持ってきて良いのでしょうか。
副葬品でしょうか。珍しく欠けた部分ばかりです。
多いですねえ。
こちらも死者の書でしょうか。
これも立派なお棺ですね。
立派なお棺がいくつもあります。
お墓の壁なんでしょうかね。
柱ですかね。
太陽の船の模型ですね。
神様の像でしょうか。
ピンボケですね。
読めそうですね。
こっちは読めませんね。
やはり壁面ですかね。
花崗岩が多いですね。
オベリスクの先端部みたいです。
なんでしょうね。
壁や柱の一部のようです。
やはり花崗岩ですかね。
刻印が深いですね。
やはり有翼日輪ですね。
やはり入口の門なのですかね。ワシントン記念塔の頂上はこうなっているそうです。
こちらも刻印がはっきりで読めそうです。
神を象徴しているのでしょうか。
やっぱり牛が出てきます。
スカラベが線で囲まれているのは王名でしょうか。クレオパトラとかですかね。
字がはっきりしているのは時代が下っているのでしょうね。
墓の中の配置があるのでしょうね。
壁面のようです。
やはり囲んでいるところは王名なのでしょうかね。
羊の神様ですが、恐らくアメン神なのだと思われます。陰謀論でサタンの化身とか出されるやつですね。アーメンの語源らしいアメン神みたいですよ。
入り口の壁面みたいですね。
こっちは牛の神様ですね。アピスでしょうか。
こちらも神様なんでしょうね。
やはり柱や壁面みたいです。
壁ですね。
現地に行けば壁面に残ったものがたくさんあるのでしょうね。
柱持ってきても構造は保たれるのでしょうか。
大分かけている像です。
ほとんどわかりません。
時代が下っている感じでしょうか。
ヒエログリフではないようです。民衆文字なんでしょうか。ヒエラティックという筆記体に近いようです。
石碑があります。
こちらも壁面の一部でしょうか。
柱もあります。ロスリン聖堂の柱に似ていますかね。
タウ十字みたいなアンクですね。
刻印がはっきりしていますね。
ヒエログリフも彩色されています。
グノーシスのシンボルの形の文字でしょうか。
アピスでしょうかね。
夜の女王の顔のような感じです。
アピスのようですが要は牛ですね。
一面の壁ですね。ヒエログリフで埋まっています。
何について書いているのでしょうね。
大きな壁面ですが、残ったところはどうなったのでしょう。
神々が並んでいますね。
ラムセス二世の王名のようです。
立派な柱ですね。
彩色されています。
これは美しいですね。ウラエウスを示す王に対してホルス神がアンクを渡しているのでしょうか。王権神授説を示しているのかもしれません。
囲っているのでやはり王名でしょうか。
この足は公式ホームページで解説があったと思います。
王の頭部でしょうか。
柱の方でしょうか。
獅子の顔の女神のようです。
神官でしょうかね。お坊さんの像と雰囲気が似ています。
獅子の頭部の女神は恐らくセクメトだと思われます。公式ホームページにも解説があります。
アメンホテプ4世の王権を示しているようです。アマルナの宗教改革を行った王ですね。この辺りからライオンズクラブが由来しているようです。
この祠を抱いた感じの像も決まりなのでしょうか。
前掛けがありますね。
ラムセス二世の像でしょうか。
たくさんあります。
獅子の像です。
スフィンクスの参道というようです。もともと墓にこれだけのスフィンクスがいたのだと思われます。相当の財力と権力があったのだと思われます。
なかなか美しいですね。
マントヒヒもいます。
美しいスフィンクスがあります。
角度違いですね。
大英博物館のマウソロス霊廟付近の獅子像よりこちらが古いのでしょうね。
遺跡の場所の解説がありますがフランス語で読めません。
これはかなり美しい器ですね。相当豪華な副葬品であったのだと思われます。トータルで見るとやはりエジプト・ヨーロッパの文明の流れは圧倒的のようです。
きれいです。
この辺りは農耕具などの道具でしょうか。
副葬品だと思われますが笛でしょうか。なかなかわかりづらいです。
チェスや将棋の原型の駒とボードでしょうか。
こちらも何かゲームの道具でしょうか。
孫の手みたいですが、祭祀の時に使う道具でしょうか。
何か道具を使っている図でしょうか。
ロウソク立てか何かでしょうか。
横笛ですかね。魔笛のルーツですかね。
お盆とか水道の蛇口みたいなのでしょうか。
これは鏡でしょうね。日本にあったら完全に神器ですね。
約6000年前からの装飾具のようです。ファッションの流行もあるのでしょうね。しかしエジプト文明と当時の日本が接点があったら確実に出エジプトじゃないですが魔術か妖術か神の業の連発でしょうね。
しかし豪華ですね。エジプト文明の発展は地理的な必然だったのでしょうが、しかしすごい時代が続いたのですね。
筆記具ですかね。その他の多くの地域で文字が無い時代にこれだけ自由に字を書いて表現していたのですからその差は圧倒的です。しかもその時代が1000年以上も継続したのですから聖書のような表現になるのも必然かもしれません。
細工が細かいですね。
衣装も貴族のものでしょうが、日本の近現代と変わりない位でしょうか。
これも筆記具ですかね。筆皿に当たるのでしょうか。
家の模型ですかね。副葬品なんだと思います。
ゴザや家具が副葬品で残っていたのでしょうね。ほとんど現代と変わりないかもしれません。
副葬品でしょうが、現代家具と変わりありません。
前掛けがありますね。
手の形も意味があるのでしょうね。
大工道具でしょうかね。
色々な壺ですね。
これは何でしょうね。
副葬品なんでしょうね。
以上で一日目のルーヴル美術館の写真は終了です。準備から二日に渡ったのでクリスマスから一日経ってしまいました。解説もかなり不十分だとは思いますが、できるだけルーヴル美術館の公式ホームページを参照にして正確な知識を得るようにしてください。ルーヴル美術館の展示はまだまだたくさんあります。現地では以前も言った通りiPhoneの電源が切れたのでした。この後も見学をして数多くの宗教的なタペストリーを見て、中世フランスのキリスト教への信仰心の高さを目の当たりにして非常に大きな感慨を得ました。まあ結局それだけのものがあったから革命になったのだという事だと思います。フリーメイスンリーの起源としてのテンプル騎士団説もそういうのを目にすると納得されるものだと思われます。次回日付が変わってヴェルサイユ宮殿を見学します。その後再びルーヴル美術館を見学してこの旅も幕となります。
何かしら皆さんの参考になっているでしょうか。すでに行った事がある人でもフリーメイスンリーの視点でこれだけの著名な観光地を見る事はそうそうないかと思われます。旧約聖書、エジプト文明にルーツを求めるフリーメイスンリーの知恵が極東の日本に根付く事が出来れば幸いかと思います。
まあヒストリーチャンネルでちょっとクリスマスの変遷の歴史みたいなのをやっていて、これが一番のクリスマスの詳しい内容で、結局全面的にフリーメイスンリーがクリスマスのイベントに関わっているという話であったという事になるのだと思いますが、まあ日本では伝統的に年末年始、正月を祝うというのが最大のイベントと言う事で、このブログでも一応クリスマスソング特集でYouTubeの音楽をまとめていましたが、明日からは年末用と言う事で全面的に変更する予定です。
さてまあ色々問題がありそうなルーヴル美術館の紹介の内容ですが、まあそもそも解説についてはきちんとした公式ホームページの日本語解説があるものについては読んで下さいとしか言いようがありません。
主にこのホームページで博物館や美術館を紹介する目的は横須賀市自然・人文博物館や横須賀美術館、東京国立博物館、国立西洋美術館と同じく、それらの博物館、美術館がフリーメイスンリーの考え方を現わす重要なものであり、フリーメイスンリーとは何ぞやという問いに対して端的に解答を示す身近な施設であり、ロンドンやパリのそれはそれらの最も歴史あり権威ある代表的なものであり、行く機会のある人にはぜひ行って欲しいのと、行く機会のない方にはできるだけ内容を身近に感じてほしいという考えで連載しているわけです。
ルーヴル美術館と聞くとお高くとまっているとかおフランスの象徴と言った印象があるかもしれませんが、実際にはそういった考え方とは対極の、誰もがそういう不公平や不平等を感じずに、可能な限り自由に平等にお互いに尊重し合い博愛の精神を持ってというのがまさにフランス革命から始まるフランスフリーメイスンリーの大事な思想であり、それらは本質的には英仏ともまたがる世界中のフリーメイスンリーの理想でもあるわけです。まあそういう考え方を体現するものとして博物館や美術館があるべきなのですが、実際には経営のためいろいろ制限があったり、政治家や地域の体面を象徴していたり、博物学と言っても実際には研究者やその他の様々な条件に左右されて偏ったものとなっていたりするのがあるわけですが、そういったものを長年かけて最もより良く改善する努力し続けている美術館というのがこのルーヴル美術館と言う事になるのだと思います。
まあ二度訪問して写真をブログに無料でアップしているだけでそんなにルーヴル美術館を擁護しなければならない事はないと思いますが、そもそもこのブログにフリーメイスンリーの考えを表す美術館として紹介している以上は、そういうものであるという事について解説を加える必然があるのかと思います。
ではまあなかなか大変な内容だと思いますが写真をアップしていくこととなります。そもそも博物館の展示というものは実物があるとは言っても、解説があってその解説に則って展示されているものですから、解説があるものに対してさらに解説を加えていくという事がとても難しいという事と、さらにはそもそも解説のフランス語を全くわからないのでそもそもの展示がフランス語がわかる人より理解の程度が著しく低いのでそれらについて解説を加えていく事がまあ難しいという事はわかっていただけるかと思います。そのあたりはそういう事でご容赦いただき、それであってもこの美術館がフランスフリーメイスンリーの象徴であり、モナ・リザなどを含めて世界の美術館・博物館の象徴的存在であり紹介しないわけにはいかないという事もあるという事をご理解いただきたいと思います。
これなんかは土偶みたいで日本のものに近いでしょうか。
この辺りはエジプトの博物学のコーナーで生活に必要な道具を復元したりして陳列しているのですね。木工や狩りの道具、装身具やスリッパの一部などだと思います。
これは庶民のお棺とかなんでしょうかね。
枕とかですが、恐らく庶民の葬儀の副葬品とかなんでしょうね。庶民と言ってもそれなりに裕福なのだと思いますが。
こういうのも書いてある内容が全くわかりませんのでねえ。
お棺のチェック柄が非常にきれいですね。文字も少なく大分違います。恐らく全て副葬品なのでしょうが、相当豊かであった事は確かだと思います。
この辺もお棺ですねえ。昔から色々な人間がいたということの証明でしょうね。
現代より豊かかもしれませんね。
やっぱり石造の方がランクが高いのでしょうね。
黒いものはまたさらに良いものでありそうです。しかし持ってくるのも大変ですね。
これはまた細かいですね。内容もそうですが、これを刻む職人さんも構図とか大変ですね。しかも人生30年とか40年の時代ですから。
これは夜の女王にそっくりな構図ですね。まあこういう数千年後の美術館に残るようなモチーフは当時の最先端最高のものであって、エジプト・オリエント共通のものである事は当たり前なんでしょうね。
これも有翼日輪なんだと思います。
お棺のヒエログリフですね。ぜひどなたかに読んでいただきたい。
美しいお棺ですね。中身も恐らくあるのでしょうが、ほとんどミイラの展示はありませんでした。
なんとかヒエログリフを撮ろうとしているのですね。まあもちろん展示してあるものは全て解読済みだと思います。
まあ記念撮影を撮るようなものではないのですが、それだけ圧巻なので記念撮影でもしない事にはという心理が働くのですね。
表情も形も素材も様々なものがあります。
黒いものは良いのでしょうね。
ピラミッドのキャップストーンとお棺です。
これは先ほどあった青いもののそれほど美しくないもの大量ですね。これだけあると価値が全くわかりません。副葬品なのでしょうね。
これはパピルスですかね。展示してある最大のものでしたが、この他にもたくさんあるのでしょうね。内容は全くわかりません。恐らく辞書とか百科事典みたいなものなのでしょうね。
太陽の船でしょうかね。
青鷺とかミイラの作り方みたいなのとか、梯子があったりと死後の世界の説明なのでしょうかね。
こちらも副葬品なのでしょうかね。しかしすごい数です。全てが3000年以上前のものとすると日本で出土したら確実に国宝級です。
なんか色々書いてありますがわかりませんね。バーとかじゃないでしょうか。結局古代の重要な文書と言うと聖書なんかと同じように世の成り立ちから生命の仕組みとかそういう全部が書いてある、今で言う図鑑や辞典のような事が書いてあるのではないでしょうか。
恐らく王名表だと思われます。要するに世界の歴史なのですね。旧約聖書で言うとアブラハム、モーゼからダヴィデ、その後の士師記に至る部分なのでしょうね。
やはり梯子が目立ちます。ヤコブの梯子の原案がこちらなのでしょうね。
これだけ文書があってモーゼの出エジプトの記録が無いのであれば、それはやはり無かったのでしょうねえ。まあ民族の移動や衝突は日常的だったのかもしれません。
日本だと江戸時代位でしょうかね。実に3000年の差がある事になるのでしょうか。
まあ完全に光っちゃってますね。
何について書いているのでしょうねえ。
いわゆるカノポス、骨壷ですね。ミイラがあるのに骨壷というという事はまあミイラになれない人用でしょうか。ではなくて内臓を入れるようですね。ヒヒのものやホルス神のものやアヌビス神のものがあります。
色々な事書いてますね。
まだまだあります。
だんだん図鑑みたいな感じでしょうか。
ソロモン宮殿の図みたいですね。
神の化身の動物の図でしょうか。
なんの鳥でしょうか。
あんまり写真に写らないようになっているのでしょうかね。
太陽と生命の樹でしょうか。
まだ続きます。こんな感じの展示です。
これも副葬品ですかね。
太陽の船でしょうかね。
こちらもやはり王名表ですかね。
動物は皆神様なのでしょうね。
こちらも王名表でしょうか。
マスクや装身具ですね。
なんでしょうかマンガみたいですがわかりません。
柱のようです。墓の一部でしょうか。
色々な神様の解説のようです。
牛の神様みたいなのが3種くらいいますね。
副葬品でしょうか。アンクとは異なる、駒沢オリンピック公園の塔のようなモチーフがあります。
これは何でしょうか。悪魔に近いような神様でしょうか。
ワニとか動物が描かれているのでしょうかね。
マントヒヒの像や蛇のモチーフでしょうか。
ハヤブサの像でしょうか。神様としてやそうでないものなのでしょうか。
ネコも愛玩動物として珍重されたようです。
カノプスでしょうか。内臓だけにしては大きいので恐らく全身入れる柩の一種なのでしょうね。手前は犬ですね。
アピスですね。
牛ですね。
アピスの特集です。金の子牛の逸話はモーゼの出エジプトの際のクライマックスシーンでもあり、偶像崇拝やその当時普遍的であった牛などの動物を信仰の対象とする異教に対して、聖書のヤハウェの神はユダヤ人への制裁としてなんと3000人を一夜で殺してしまったそうです。それだけインパクトのある聖書の場面なので、それに対してエジプトでのそういう信仰が普遍的であった事を示しているのだと思われます。
まさに金の子牛です。フリーメイスンリーでも金の子牛そのものをシンボルとする事もあるようです。
蜂の巣の養蜂箱でしょうか。シンボルを集めた一画なのでしょうか。
こちらは飼っていたペット達のミイラのようです。
大英博物館にもありましたが、こちらの方が数も多く面白い展示になっているようです。やはりそのあたりが美術館の美的感覚なのだと思います。基本的には同じものを展示しているわけです。
ミイラにしたものを加工したのか、ミイラや遺骨を中に収めたのかよくわかりませんが、遺骸と何かしら関係しているようです。
こちらも基本的にはミイラなんでしょうが良くはわかりません。お土産のこけしのようです。
こちらはまあ亡骸を形にした像なんでしょうね。骨壷の形になっているのかもしれません。
アピスと有翼日輪です。日本で言うところの十二支みたいなもんでしょうか。
再び有翼日輪の石板ですね。アピスが書かれたものがあります。
白黒の模様があるものもありますね。有翼日輪のエジプト古代宗教と牛への信仰がかなり密接なものであった事を説明しているようです。まあ要するに農耕民族であればその二つが非常に大事というわかりやすい事だと思われます。
まあ同じですね。
お牛様~って感じでしょうか。徐々に牛の頭に日輪がのっかってきています。太陽と牛が一緒になっているんですね。後にセラピス信仰としてギリシア・ローマに伝わっていくそうです。要するにブラザージェンナーによる種痘として復活するのですね。ワクチンセラピーのルーツですね。
やっぱり人間は太陽を浴びて牛乳や牛肉を食べたり、農業をしたりしないと駄目という事でしょうかね。
これはウィキペディアにも使用されてる写真の像ですね。神様の設定ですが、どうも頭の太陽は半円で物置のようです。果物でも入れるのでしょうか。
こちらもアピスを描いた石板です。
カノプスですね。
アピスを描いた石板とその他でしょうか。
これも同じものですね。
有翼日輪ですね。
アヌビスですかね。
スカラベの形をした装身具ですね。
スカラベやアヌビス、ホルスの目ですね。小さい石板は家に飾るのでしょうか。
こちらは再び石棺です。
これもお棺ですね。
これもお棺ですね。
一体だけミイラがありました。
保存状態が良いのでしょうね。
お棺の表情も色々あります。
かなりユニークなものが目立ちます。
有翼日輪にスカラベにアヌビス、イシス、オシリスにバーにホルスとエジプトの神様が全員集合だと思われます。その他の神様もウィキペディアなどで同定してみてください。
死者の書というやつですね。
デザイン的に人の顔のようなものになっていますね。太陽の船になるのだと思われます。
神様が整列しています。
大分手ぶれしていますが同じ構図の石板です。
墓の壁面なのでしょうね。
オシリスでしょうかね。
なかなか難しそうです。
新しい構図ですね。
良くわかりません。
これは立派なお棺ですね。
副葬品でしょうか。
しかし色々ありますねえ。段々の塔が気になりますが、恐らく駒沢のオリンピック公園の塔はこちらをイメージしたものなのでしょうね。意味はわかりません。
これも美しい像です。ルーヴル美術館は完品のものが多いです。
これも副葬品でしょうか。オシリス像ですね。
日本であったら間違いなく国宝ですね。
しかしこんなにお棺を持ってきて良いのでしょうか。
副葬品でしょうか。珍しく欠けた部分ばかりです。
多いですねえ。
こちらも死者の書でしょうか。
これも立派なお棺ですね。
立派なお棺がいくつもあります。
お墓の壁なんでしょうかね。
柱ですかね。
太陽の船の模型ですね。
神様の像でしょうか。
ピンボケですね。
読めそうですね。
こっちは読めませんね。
やはり壁面ですかね。
花崗岩が多いですね。
オベリスクの先端部みたいです。
なんでしょうね。
壁や柱の一部のようです。
やはり花崗岩ですかね。
刻印が深いですね。
やはり有翼日輪ですね。
やはり入口の門なのですかね。ワシントン記念塔の頂上はこうなっているそうです。
こちらも刻印がはっきりで読めそうです。
神を象徴しているのでしょうか。
やっぱり牛が出てきます。
スカラベが線で囲まれているのは王名でしょうか。クレオパトラとかですかね。
字がはっきりしているのは時代が下っているのでしょうね。
墓の中の配置があるのでしょうね。
壁面のようです。
やはり囲んでいるところは王名なのでしょうかね。
羊の神様ですが、恐らくアメン神なのだと思われます。陰謀論でサタンの化身とか出されるやつですね。アーメンの語源らしいアメン神みたいですよ。
入り口の壁面みたいですね。
こっちは牛の神様ですね。アピスでしょうか。
こちらも神様なんでしょうね。
やはり柱や壁面みたいです。
壁ですね。
現地に行けば壁面に残ったものがたくさんあるのでしょうね。
柱持ってきても構造は保たれるのでしょうか。
大分かけている像です。
ほとんどわかりません。
時代が下っている感じでしょうか。
ヒエログリフではないようです。民衆文字なんでしょうか。ヒエラティックという筆記体に近いようです。
石碑があります。
こちらも壁面の一部でしょうか。
柱もあります。ロスリン聖堂の柱に似ていますかね。
タウ十字みたいなアンクですね。
刻印がはっきりしていますね。
ヒエログリフも彩色されています。
グノーシスのシンボルの形の文字でしょうか。
アピスでしょうかね。
夜の女王の顔のような感じです。
アピスのようですが要は牛ですね。
一面の壁ですね。ヒエログリフで埋まっています。
何について書いているのでしょうね。
大きな壁面ですが、残ったところはどうなったのでしょう。
神々が並んでいますね。
ラムセス二世の王名のようです。
立派な柱ですね。
彩色されています。
これは美しいですね。ウラエウスを示す王に対してホルス神がアンクを渡しているのでしょうか。王権神授説を示しているのかもしれません。
囲っているのでやはり王名でしょうか。
この足は公式ホームページで解説があったと思います。
王の頭部でしょうか。
柱の方でしょうか。
獅子の顔の女神のようです。
神官でしょうかね。お坊さんの像と雰囲気が似ています。
獅子の頭部の女神は恐らくセクメトだと思われます。公式ホームページにも解説があります。
アメンホテプ4世の王権を示しているようです。アマルナの宗教改革を行った王ですね。この辺りからライオンズクラブが由来しているようです。
この祠を抱いた感じの像も決まりなのでしょうか。
前掛けがありますね。
ラムセス二世の像でしょうか。
たくさんあります。
獅子の像です。
スフィンクスの参道というようです。もともと墓にこれだけのスフィンクスがいたのだと思われます。相当の財力と権力があったのだと思われます。
なかなか美しいですね。
マントヒヒもいます。
美しいスフィンクスがあります。
角度違いですね。
大英博物館のマウソロス霊廟付近の獅子像よりこちらが古いのでしょうね。
遺跡の場所の解説がありますがフランス語で読めません。
これはかなり美しい器ですね。相当豪華な副葬品であったのだと思われます。トータルで見るとやはりエジプト・ヨーロッパの文明の流れは圧倒的のようです。
きれいです。
この辺りは農耕具などの道具でしょうか。
副葬品だと思われますが笛でしょうか。なかなかわかりづらいです。
チェスや将棋の原型の駒とボードでしょうか。
こちらも何かゲームの道具でしょうか。
孫の手みたいですが、祭祀の時に使う道具でしょうか。
何か道具を使っている図でしょうか。
ロウソク立てか何かでしょうか。
横笛ですかね。魔笛のルーツですかね。
お盆とか水道の蛇口みたいなのでしょうか。
これは鏡でしょうね。日本にあったら完全に神器ですね。
約6000年前からの装飾具のようです。ファッションの流行もあるのでしょうね。しかしエジプト文明と当時の日本が接点があったら確実に出エジプトじゃないですが魔術か妖術か神の業の連発でしょうね。
しかし豪華ですね。エジプト文明の発展は地理的な必然だったのでしょうが、しかしすごい時代が続いたのですね。
筆記具ですかね。その他の多くの地域で文字が無い時代にこれだけ自由に字を書いて表現していたのですからその差は圧倒的です。しかもその時代が1000年以上も継続したのですから聖書のような表現になるのも必然かもしれません。
細工が細かいですね。
衣装も貴族のものでしょうが、日本の近現代と変わりない位でしょうか。
これも筆記具ですかね。筆皿に当たるのでしょうか。
家の模型ですかね。副葬品なんだと思います。
ゴザや家具が副葬品で残っていたのでしょうね。ほとんど現代と変わりないかもしれません。
副葬品でしょうが、現代家具と変わりありません。
前掛けがありますね。
手の形も意味があるのでしょうね。
大工道具でしょうかね。
色々な壺ですね。
これは何でしょうね。
副葬品なんでしょうね。
以上で一日目のルーヴル美術館の写真は終了です。準備から二日に渡ったのでクリスマスから一日経ってしまいました。解説もかなり不十分だとは思いますが、できるだけルーヴル美術館の公式ホームページを参照にして正確な知識を得るようにしてください。ルーヴル美術館の展示はまだまだたくさんあります。現地では以前も言った通りiPhoneの電源が切れたのでした。この後も見学をして数多くの宗教的なタペストリーを見て、中世フランスのキリスト教への信仰心の高さを目の当たりにして非常に大きな感慨を得ました。まあ結局それだけのものがあったから革命になったのだという事だと思います。フリーメイスンリーの起源としてのテンプル騎士団説もそういうのを目にすると納得されるものだと思われます。次回日付が変わってヴェルサイユ宮殿を見学します。その後再びルーヴル美術館を見学してこの旅も幕となります。
何かしら皆さんの参考になっているでしょうか。すでに行った事がある人でもフリーメイスンリーの視点でこれだけの著名な観光地を見る事はそうそうないかと思われます。旧約聖書、エジプト文明にルーツを求めるフリーメイスンリーの知恵が極東の日本に根付く事が出来れば幸いかと思います。
年を越してのパリ・ロンドン旅行記ですがいかがでしょうか。正月をパリ・ロンドンで過ごした方もいるかもしれません。稀にはブログを読んで現地で確認した方もいるかもしれません。まあお金のかかっている内容なのでそれなりに興味深いかもしれませんがもうすぐ終わりです。
さて日付が変わってフランス、パリ最終日です。前日はホテルのレストランで夕食を取りました。まあロンドンよりは料理が凝っているんでしょうがやはり日本人は日本やアジアで食べるのが良いようです。ダシが無い感じというのを感じました。フォンドヴォ―というのもあるんでしょうが、やはり和食や中華とは基本が異なるようです。
まあ余計な事は言わないようにしてヴェルサイユ宮殿訪問の回です。
ヴェルサイユはパリから鉄道で20分位のところでしょうか。サンラザール駅と言うオペラ座の近くの駅からわずか3駅で到着するのでぜひパリに来た際には訪問されると良いのではないでしょうか。サンマルトルの丘やモンパルナスへ行かれる方も多いのだと思いますが、私はなぜかヴェルサイユに行く事に決めていました。やはりロンドンと一緒で革命の都市であり王権の象徴を確認したかったのだと思います。
オペラ座や泊まったホテルからはサンラザール駅へは歩いて10分ほどでパリ北駅より全然近い場所でした。
朝7時半くらいには出たんでしょうかね。これはギャラリー・ラファイエットのショーウィンドウですね。まあ凝ったディスプレイだと思います。パリらしい感じじゃないでしょうか。モナ・リザなどの肖像画を意識しているのだと思われます。
こちらが非常に面白かったですね。ルイ・ヴィトンのディスプレイなんだと思いますが、コシノジュンコの小さなマネキンがたくさん置いてあります。パリならではと言った感じではないでしょうか。(2014/4/27訂正:コシノジュンコではありませんでしたね。草間彌生という松本出身の方で文化功労賞受賞者の前衛芸術家をモチーフとしたディスプレイでした。ルイ・ヴィトンとコラボレーションをしていたそうで、2014年にも東京新宿に記念館ができるようです。)
これがサン・ラザール駅ですね。非常に豪華な感じの駅で、中は非常に合理的な感じにできています。1837年開業の最も古い駅だそうです。建物はいつの建築かわかりませんが、マネやモネなどの印象派の絵画にも描かれていたりと歴史は古いようです。
出発ホームは窓口で丁寧に教えてくれました。カードでキップを買おうとしましたがうまくいかず窓口で買ったのでしたね。まあロンドンとの対比かもしれませんが、どちらもそれほど難しくはありません。ヴェルサイユ宮殿訪問とのセット割引などはちょっとわかりません。検索すると現在は無いようです。その代わりヴェルサイユ宮殿と離宮の入場のセットなどがあり、これはヴェルサイユ宮殿の方で購入するのだと思われます。乗車券とのセットは無くなったようです。
車内はこんな感じで完全に通勤電車ですがそれほど混雑しているわけでもありません。
これはまあ車窓の風景ですかね。
朝焼けのエッフェル塔ですね。
まあ同じですね。
ちょっと珍しい光景かもしれないので全て載せていきます。
まああんまりブログの主旨と関係ありませんね。
どうでしょう。
路線図はこんな感じです。日本語版ウィキペディアでも詳しく載っていました。日本人の滞在者や観光客が多いのでしょうね。
またゴシックの尖塔があったので撮っています。
あちらのテレビ番組のポスターでしょうかね。司祭の手にAll Seeing Eyeの刺青のようなものがあります。
ヴェルサイユ駅です。地図があります。結局この形が再び忘れかけていたフリーメイスンリーの謎なんですね。大きな十字に3本の放射線で謎も何もないようですが一応謎です。
ヴェルサイユではちょうどバザールをやっていたのですね。もちろんフランス語ではマルシェと言うそうです。
まああまり見ていませんがチーズやハムなども売っていました。大体チーズやハムがおいしいのではないでしょうか。
フランスの花壇は面白いです。小さい花が無造作な感じを演出して丁寧に計算されて植えられている感じです。
良くあるかすみそうをアレンジした花束と言った感じに花壇の花がなっています。そういう流儀があるようです。
こういうのは日本では見た事ありませんね。
ルイ=ラザール・オッシュというブラザーナポレオンの最初の妻であったジョセフィーヌの監獄での愛人であった人だそうで、ブラザースタンダールの「パルムの僧院」などのフランス革命での男女の出会いの逸話になったような話ではないかと思われます。軍人として優秀でヴァンデの王党派の反乱などを鎮圧しますが、ポール・バラスの腐敗ぶりを告発して暗殺されたようです。まあ皆フリーメイスンなんでしょうが、フランス革命にまつわる人間模様は日本の神話の世界のようなおっちょこちょいと奔放で機微に長けたそれでいて明らかにイギリスフリーメイスンリーの手のひらで転がされているなんとも言い難い箱庭の世界のような逸話だらけです。まあフランス王制転覆が最大の目的であった壮大な社会実験であった事は間違いないのでしょうか。
ヴェルサイユ宮殿前の広場ですね。遠くに見えるのがルイ十四世の騎馬像です。
ヴェルサイユ宮殿です。
地図ですね。
こちらも街の地図です。まあこれらを見ると大体分かるわけですが、最初にヴェルサイユ宮殿を建築したルイ十四世とその建築家達は全てフリーメイスンリーの理念でこれら都市と宮殿を建築しているのですね。十字と上下の菱形、そしてその下部に当たる方形の庭園がそれぞれ学習すべき理念を象徴としていて、太陽信仰を中心に置き、その光明が3本の線となって民衆に行きわたるというまさにフランス絶対王政において行き着いた帝王学、イギリスのクイーンズハウスにおいて象徴されていた帝王学とほぼ同じ理念がさらに華麗で壮麗な建築として表現されているのがここヴェルサイユ宮殿と言う事になるのだと思われます。ただ実際にはフランスとイギリスの絶対王政という点ではルイ十四世の時代はヘンリー八世やエリザベス一世の時代より若干下りますし、もちろんイギリスにおいてはその後二度の社会革命を経て流血と内戦により王権とカトリックの抑圧が図られたという事で、そこが結果としてその後の急進的な改革であるフランス革命になったという事でもあるかと思われます。翻って現代の日本は社会的にはまさにフランス革命期の社会情勢のような感じなのでしょうね。誰がポール・バラスで誰がブラザーナポレオンで誰がブラザーロベスピエールで誰がブラザータレーランなのかなど興味深い話です。
ルイ十四世騎馬像とヴェルサイユ宮殿です。天気は上々ですね。どうもこういう王権の象徴と今回の旅行の天気は相性が良いようです。
なかなか壮麗な騎馬像です。
ヴェルサイユ宮殿全景です。
ほぼ対称形に近い形になっています。一部わざと非対称なのでしょうか。
まだ時間も早いのでそれほど人は集まっていません。こちらも入場時間となるとルーヴル美術館の次に人が集まっていた印象でした。
この辺は完全な対称形です。こういう金の使い方は中国の王宮やイスラムの建築から影響を受けているのでしょうかね。ロンドンのものとはこの辺りが違います。
ちょっとわかりませんがヴェルサイユの歩き方みたいなポスターではないでしょうか。VVでデザインとしているのだと思われます。
ここは良く撮っていませんが、神殿なんだと思います。床に星のシンボルがあって、一階には良く見るとAll Seeing Eyeと三角形のヤハウェの神の象徴があります。(2013/3/30追記:All Seeing Eyeはありません。YHWHを意味するヘブライ語のテトラグラマトン(聖なる四文字)יהוהがあります。)ネットで検索すればヴェルサイユ宮殿の写真としてあるかと思われます。確かYouTubeのヴェルサイユ宮殿の紹介動画では解説していました。ルイ十四世の死の数年前にはこの象徴を掲げた礼拝堂が完成していたそうです。
ポイントの床は白黒のタイルになっています。これも微妙ですが、恐らくクイーンズハウスの建築よりも後ですし、床のタイルを革命後に補修するというのもまあありえない事ではないですが、先進のバロック建築のデザイン諸々としてルイ十四世時代からあったのではないかと思われます。つまりまあルイ十四世が王として成人する時代までには宮廷にはフリーメイスンリーの考えを持った建築家や政治家が王の周囲に数多く存在し、彼らがシンボルとして王にこれらの建築を勧めたり、帝王学としての教育を行っていたという事があった証拠なのだと思われます。その代表的人物はかの偉大なルーヴル美術館にもその名を残すリシュリュー卿やマザラン卿なのだと思われます。グーテンベルクの活版印刷聖書の再発見はマザラン卿のコレクションからだそうです。
ヴェルサイユ宮殿の模型です。
ブルボン王朝の家系図ですかね。ルイ十四世はまあ横須賀で言うと小泉又二郎さんみたいなもんでしょうかね。強烈な皮肉ですが。
肖像画が続きます。ルイ十四世の愛妾などだと思います。黒ミサ事件などルイ十四世期のフランスも興味が尽きません。1666年のロンドン大火などと比べるとその文化の違い、ヨーロッパの文化風土が感じられるかもしれません。
ヴェルサイユの建築前の風景でしょうか。ピンボケですね。
この模型は非常によくできています。後々の庭園の解釈の部分で取り上げるかもしれません。
ルイ十四世の銅像のミニチュアとナポレオン三世のヴェルサイユ入場の騎馬像ですね。フランスフリーメイスンリー的解釈で行けばナポレオン三世とルイ十四世の存在は非常に極めて似ているという事を象徴しているのではないかと思われます。
やはり床が白黒のモザイクになっています。
恐らく改修した部分もあるのでしょうが、元々こうであった部分もあったのかもしれません。いずれにしても現在はこのヴェルサイユ宮殿がフランスフリーメイスンリーの象徴である事は確かだと思われます。(どうも床のモザイクは改修はしてはいないようです。王権とフリーメイスンリーがほぼ一致していたまさに啓蒙専制君主の時代を象徴する建築のようです。)
まあフランスではノートルダム大聖堂と並んでこのヴェルサイユ宮殿が白黒のモザイクの床が多いのかもしれません。
どちらも王権と神権の象徴ですね。
恐らくルイ十四世時代の重臣たちの石像が並ぶ通路です。どうもフリーメイスンらしい人物は少ないようです。革命期に相当変わったのか、もしくはルイ十四世時代の絶対王政期には逆に王権以外のフリーメイスンリーの活動は抑圧されたのかもしれません。これは専制啓蒙君主では良くある話のようです。(訂正:やはりここにある石像はほとんどがフリーメイスンのようです。ルイ十四世時代からの改変や増築があるのでしょうが、その辺の整合性は歴史という点できちんと繋がるようです。つまりフランス歴史博物館としてのフランスフリーメイスンリーの歴史博物館と言う意味であるようです。)
アンリ・フランソワ・ダゲッソーの石像です。ブルボン宮の前にもあったかと思いますが、フリーメイスンだと思われます。基本的にはパリもロンドンのウェストミンスター宮殿付近と変わらず石像や銅像がある人物は皆フリーメイスンのようです。
これは誰でしょうねえ。
こんな感じです。なんせ電気のない時代ですからガラスを使って屋内に光を取り込むという事が非常に先進的であったのですね。
これも恐らくフリーメイスンなのでしょうね。誰かはわかりません。
中庭の装飾でしょうか。
フリーメイスンリー博物館でくつろぐ人々でしょうか。
似たような天井画がフランス大東社のグランドロッジにもありましたね。
ルイ・フィリップの時代に歴史博物館として改修されたそうです。ブルボン朝はそうして幕を閉じたのですね。
バッキンガム宮殿とは異なる若干寂れたようなそれでいて永続的な安定感、信頼感を与えるような場所となっています。
絵画もやはりフランス的で優美な線と写実的な面が合わさった、イタリア半島のものとブリテン島の間な感じでしょうか。
騎馬のルイ十五世でしょうか。
まあ華やかですね。バッキンガム宮殿の厳粛な感じとも対称的で面白いです。
これはルイ十四世ですね。太陽王と自称していましたが、太陽王という名称は子供のころに自身が出演したバレエで太陽神の役をやったからであるそうです。まさにフリーメイスンですね。帝王学をそのまま実践した人物であったという事です。
ルイ十六世でしょうか。
ここからが有名な鏡の間ですね。まあイルミネーション全盛の現代ではがっかりする事はこの上ないわけですが、夕陽が差し込む際の夕方にかけてはロウソクの炎だけでは得られない明るい時間が得られたのではないでしょうか。ちょうど舞踏会や夕食会が始まる時間であり、そういう催しものに向けて必須の演出であったのでしょうね。まあ日本では障子紙と戸板の時代ですからね。気候が違うとは言え文化、文明の差異は感じずにはいられません。
鏡の間ですね。手ぶれしています。
朝方なので暗いのですね。訪問するのであれば夕方か午後が良いようです。
窓からの風景です。
透かしたところですね。ワシントンのリフレクティングプールの原型があるようです。
まあ結局このヴェルサイユ宮殿の謎はルイ十四世がフリーメイスンであったという証拠を確認するという作業になるわけですが、まあこのブログを読んできた人は理解できると思うのですね。太陽王ですから。
そしてまあそれを暗に説明しているのがこのヴェルサイユ宮殿の観光施設としての役割なのですが、どうでしょうか。ワシントンD.C.のワシントン記念塔のようにフリーメイスンリーを理解するための施設として良いでしょうか?ルイ十五世なども天然痘で亡くなっていたりと相変わらずフリーメイスンリーにまつわるような逸話には事欠かないこのブルボン王朝最後の3代ですが、後に解説しようと思うエリザベス一世はフリーメイスンであったかどうかというテーマとも重なって、このヴェルサイユ宮殿の項目ではルイ十四世がいかにフリーメイスンであったかというところにポイントを絞って解説していこうと思っています。もちろんエリザベス一世がそうであったという話と同じレベルで、現在のフリーメイスンリーとはまた形式や状況的には異なるが、フリーメイスンリーの理念に基づいた生き方であったかどうかという点に基づいた話となる事はご承知願いたいところです。
欧州の王室とフリーメイスンリーとの関係については以前も触れた湯浅慎一氏の「秘密結社フリーメイソンリー」にこれでもかという位主にやはり大東社系の文書を出典として描かれていましたが、基本的にこのブルボン王朝最後の三代のルイ十四世からルイ十六世までは異なると記していましたが、これはもちろんフリーメイスンリーに対する理解が極めて浅いものから来るものだと思われます。
フリーメイスンリーの始原をテンプル騎士団やソロモン宮殿の建築者、果てはピラミッド建築の石工にまで求めるのはやはりフリーメイスンリーの本質を儀式や書物や記録だけではなく、その残された建造物や様々な社会情勢から総合的に求める姿勢から必然的に至る結論であり、イングランドにおけるフリーメイスンリーの一つの標準点として1717年のグランドロッジ結成を据えるのは多くの人が同意するところな訳ですが、もちろんそれ以前に思索的メイスンリーに至る1666年のロンドン大火などの事象があるわけで、それらにフランスで当たるのが啓蒙専制君主であるとはいえユグノー戦争などの混乱後のフランスを安定に導いたルイ十四世になるのだと思われます。少なくとも明確にシンボルを伴って現在に残された建築として存在するものがこのルイ十四世が残した最大の建築であるヴェルサイユ宮殿とその街並みであるという事なのだと思われ、それが実際明らかなフリーメイスンリーの思想を表現しているものである以上は彼の時代からフランスフリーメイスンリーが始まっていると考えざるを得ないと思われます。彼の70年以上の治世がもちろんその後のフランス革命によるイギリスのヨーロッパ覇権の揺籃であったとする考えもできない事は無いでしょうが、王権を持つものとしてその後のルイ十五世、ルイ十六世の治世を見るまでも無く、必然的にフリーメイスンリーとの接触は避けがたいものであり、本人が積極的にそれを取り込んだか発展させたかは言うまでも無く、その時代の王として生まれた人間としてフリーメイスンリーに必然的に力を注いだ事は否定しがたいかと思われます。
YouTubeの動画などで取り上げた音楽家の一生などとも相まって、そういう時代の欧州、啓蒙思想の波の中で多くの王や音楽家、画家、作家などがフリーメイスンとなっていったのは必然であり、それにまつわる折れた石柱のシンボルで表現される夭折の事実があったのもまた事実なのだと考えられます。それがまた今日の3.11後の日本の現状を考える上での説明になるのかと思われます。
ヴェルサイユ宮殿はその3までやってその後再びルーヴル美術館を巡ってこの旅もおしまいです。
さて日付が変わってフランス、パリ最終日です。前日はホテルのレストランで夕食を取りました。まあロンドンよりは料理が凝っているんでしょうがやはり日本人は日本やアジアで食べるのが良いようです。ダシが無い感じというのを感じました。フォンドヴォ―というのもあるんでしょうが、やはり和食や中華とは基本が異なるようです。
まあ余計な事は言わないようにしてヴェルサイユ宮殿訪問の回です。
ヴェルサイユはパリから鉄道で20分位のところでしょうか。サンラザール駅と言うオペラ座の近くの駅からわずか3駅で到着するのでぜひパリに来た際には訪問されると良いのではないでしょうか。サンマルトルの丘やモンパルナスへ行かれる方も多いのだと思いますが、私はなぜかヴェルサイユに行く事に決めていました。やはりロンドンと一緒で革命の都市であり王権の象徴を確認したかったのだと思います。
オペラ座や泊まったホテルからはサンラザール駅へは歩いて10分ほどでパリ北駅より全然近い場所でした。
朝7時半くらいには出たんでしょうかね。これはギャラリー・ラファイエットのショーウィンドウですね。まあ凝ったディスプレイだと思います。パリらしい感じじゃないでしょうか。モナ・リザなどの肖像画を意識しているのだと思われます。
こちらが非常に面白かったですね。ルイ・ヴィトンのディスプレイなんだと思いますが、コシノジュンコの小さなマネキンがたくさん置いてあります。パリならではと言った感じではないでしょうか。(2014/4/27訂正:コシノジュンコではありませんでしたね。草間彌生という松本出身の方で文化功労賞受賞者の前衛芸術家をモチーフとしたディスプレイでした。ルイ・ヴィトンとコラボレーションをしていたそうで、2014年にも東京新宿に記念館ができるようです。)
これがサン・ラザール駅ですね。非常に豪華な感じの駅で、中は非常に合理的な感じにできています。1837年開業の最も古い駅だそうです。建物はいつの建築かわかりませんが、マネやモネなどの印象派の絵画にも描かれていたりと歴史は古いようです。
出発ホームは窓口で丁寧に教えてくれました。カードでキップを買おうとしましたがうまくいかず窓口で買ったのでしたね。まあロンドンとの対比かもしれませんが、どちらもそれほど難しくはありません。ヴェルサイユ宮殿訪問とのセット割引などはちょっとわかりません。検索すると現在は無いようです。その代わりヴェルサイユ宮殿と離宮の入場のセットなどがあり、これはヴェルサイユ宮殿の方で購入するのだと思われます。乗車券とのセットは無くなったようです。
車内はこんな感じで完全に通勤電車ですがそれほど混雑しているわけでもありません。
これはまあ車窓の風景ですかね。
朝焼けのエッフェル塔ですね。
まあ同じですね。
ちょっと珍しい光景かもしれないので全て載せていきます。
まああんまりブログの主旨と関係ありませんね。
どうでしょう。
路線図はこんな感じです。日本語版ウィキペディアでも詳しく載っていました。日本人の滞在者や観光客が多いのでしょうね。
またゴシックの尖塔があったので撮っています。
あちらのテレビ番組のポスターでしょうかね。司祭の手にAll Seeing Eyeの刺青のようなものがあります。
ヴェルサイユ駅です。地図があります。結局この形が再び忘れかけていたフリーメイスンリーの謎なんですね。大きな十字に3本の放射線で謎も何もないようですが一応謎です。
ヴェルサイユではちょうどバザールをやっていたのですね。もちろんフランス語ではマルシェと言うそうです。
まああまり見ていませんがチーズやハムなども売っていました。大体チーズやハムがおいしいのではないでしょうか。
フランスの花壇は面白いです。小さい花が無造作な感じを演出して丁寧に計算されて植えられている感じです。
良くあるかすみそうをアレンジした花束と言った感じに花壇の花がなっています。そういう流儀があるようです。
こういうのは日本では見た事ありませんね。
ルイ=ラザール・オッシュというブラザーナポレオンの最初の妻であったジョセフィーヌの監獄での愛人であった人だそうで、ブラザースタンダールの「パルムの僧院」などのフランス革命での男女の出会いの逸話になったような話ではないかと思われます。軍人として優秀でヴァンデの王党派の反乱などを鎮圧しますが、ポール・バラスの腐敗ぶりを告発して暗殺されたようです。まあ皆フリーメイスンなんでしょうが、フランス革命にまつわる人間模様は日本の神話の世界のようなおっちょこちょいと奔放で機微に長けたそれでいて明らかにイギリスフリーメイスンリーの手のひらで転がされているなんとも言い難い箱庭の世界のような逸話だらけです。まあフランス王制転覆が最大の目的であった壮大な社会実験であった事は間違いないのでしょうか。
ヴェルサイユ宮殿前の広場ですね。遠くに見えるのがルイ十四世の騎馬像です。
ヴェルサイユ宮殿です。
地図ですね。
こちらも街の地図です。まあこれらを見ると大体分かるわけですが、最初にヴェルサイユ宮殿を建築したルイ十四世とその建築家達は全てフリーメイスンリーの理念でこれら都市と宮殿を建築しているのですね。十字と上下の菱形、そしてその下部に当たる方形の庭園がそれぞれ学習すべき理念を象徴としていて、太陽信仰を中心に置き、その光明が3本の線となって民衆に行きわたるというまさにフランス絶対王政において行き着いた帝王学、イギリスのクイーンズハウスにおいて象徴されていた帝王学とほぼ同じ理念がさらに華麗で壮麗な建築として表現されているのがここヴェルサイユ宮殿と言う事になるのだと思われます。ただ実際にはフランスとイギリスの絶対王政という点ではルイ十四世の時代はヘンリー八世やエリザベス一世の時代より若干下りますし、もちろんイギリスにおいてはその後二度の社会革命を経て流血と内戦により王権とカトリックの抑圧が図られたという事で、そこが結果としてその後の急進的な改革であるフランス革命になったという事でもあるかと思われます。翻って現代の日本は社会的にはまさにフランス革命期の社会情勢のような感じなのでしょうね。誰がポール・バラスで誰がブラザーナポレオンで誰がブラザーロベスピエールで誰がブラザータレーランなのかなど興味深い話です。
ルイ十四世騎馬像とヴェルサイユ宮殿です。天気は上々ですね。どうもこういう王権の象徴と今回の旅行の天気は相性が良いようです。
なかなか壮麗な騎馬像です。
ヴェルサイユ宮殿全景です。
ほぼ対称形に近い形になっています。一部わざと非対称なのでしょうか。
まだ時間も早いのでそれほど人は集まっていません。こちらも入場時間となるとルーヴル美術館の次に人が集まっていた印象でした。
この辺は完全な対称形です。こういう金の使い方は中国の王宮やイスラムの建築から影響を受けているのでしょうかね。ロンドンのものとはこの辺りが違います。
ちょっとわかりませんがヴェルサイユの歩き方みたいなポスターではないでしょうか。VVでデザインとしているのだと思われます。
ここは良く撮っていませんが、神殿なんだと思います。床に星のシンボルがあって、一階には良く見るとAll Seeing Eyeと三角形のヤハウェの神の象徴があります。(2013/3/30追記:All Seeing Eyeはありません。YHWHを意味するヘブライ語のテトラグラマトン(聖なる四文字)יהוהがあります。)ネットで検索すればヴェルサイユ宮殿の写真としてあるかと思われます。確かYouTubeのヴェルサイユ宮殿の紹介動画では解説していました。ルイ十四世の死の数年前にはこの象徴を掲げた礼拝堂が完成していたそうです。
ポイントの床は白黒のタイルになっています。これも微妙ですが、恐らくクイーンズハウスの建築よりも後ですし、床のタイルを革命後に補修するというのもまあありえない事ではないですが、先進のバロック建築のデザイン諸々としてルイ十四世時代からあったのではないかと思われます。つまりまあルイ十四世が王として成人する時代までには宮廷にはフリーメイスンリーの考えを持った建築家や政治家が王の周囲に数多く存在し、彼らがシンボルとして王にこれらの建築を勧めたり、帝王学としての教育を行っていたという事があった証拠なのだと思われます。その代表的人物はかの偉大なルーヴル美術館にもその名を残すリシュリュー卿やマザラン卿なのだと思われます。グーテンベルクの活版印刷聖書の再発見はマザラン卿のコレクションからだそうです。
ヴェルサイユ宮殿の模型です。
ブルボン王朝の家系図ですかね。ルイ十四世はまあ横須賀で言うと小泉又二郎さんみたいなもんでしょうかね。強烈な皮肉ですが。
肖像画が続きます。ルイ十四世の愛妾などだと思います。黒ミサ事件などルイ十四世期のフランスも興味が尽きません。1666年のロンドン大火などと比べるとその文化の違い、ヨーロッパの文化風土が感じられるかもしれません。
ヴェルサイユの建築前の風景でしょうか。ピンボケですね。
この模型は非常によくできています。後々の庭園の解釈の部分で取り上げるかもしれません。
ルイ十四世の銅像のミニチュアとナポレオン三世のヴェルサイユ入場の騎馬像ですね。フランスフリーメイスンリー的解釈で行けばナポレオン三世とルイ十四世の存在は非常に極めて似ているという事を象徴しているのではないかと思われます。
やはり床が白黒のモザイクになっています。
恐らく改修した部分もあるのでしょうが、元々こうであった部分もあったのかもしれません。いずれにしても現在はこのヴェルサイユ宮殿がフランスフリーメイスンリーの象徴である事は確かだと思われます。(どうも床のモザイクは改修はしてはいないようです。王権とフリーメイスンリーがほぼ一致していたまさに啓蒙専制君主の時代を象徴する建築のようです。)
まあフランスではノートルダム大聖堂と並んでこのヴェルサイユ宮殿が白黒のモザイクの床が多いのかもしれません。
どちらも王権と神権の象徴ですね。
恐らくルイ十四世時代の重臣たちの石像が並ぶ通路です。どうもフリーメイスンらしい人物は少ないようです。革命期に相当変わったのか、もしくはルイ十四世時代の絶対王政期には逆に王権以外のフリーメイスンリーの活動は抑圧されたのかもしれません。これは専制啓蒙君主では良くある話のようです。(訂正:やはりここにある石像はほとんどがフリーメイスンのようです。ルイ十四世時代からの改変や増築があるのでしょうが、その辺の整合性は歴史という点できちんと繋がるようです。つまりフランス歴史博物館としてのフランスフリーメイスンリーの歴史博物館と言う意味であるようです。)
アンリ・フランソワ・ダゲッソーの石像です。ブルボン宮の前にもあったかと思いますが、フリーメイスンだと思われます。基本的にはパリもロンドンのウェストミンスター宮殿付近と変わらず石像や銅像がある人物は皆フリーメイスンのようです。
これは誰でしょうねえ。
こんな感じです。なんせ電気のない時代ですからガラスを使って屋内に光を取り込むという事が非常に先進的であったのですね。
これも恐らくフリーメイスンなのでしょうね。誰かはわかりません。
中庭の装飾でしょうか。
フリーメイスンリー博物館でくつろぐ人々でしょうか。
似たような天井画がフランス大東社のグランドロッジにもありましたね。
ルイ・フィリップの時代に歴史博物館として改修されたそうです。ブルボン朝はそうして幕を閉じたのですね。
バッキンガム宮殿とは異なる若干寂れたようなそれでいて永続的な安定感、信頼感を与えるような場所となっています。
絵画もやはりフランス的で優美な線と写実的な面が合わさった、イタリア半島のものとブリテン島の間な感じでしょうか。
騎馬のルイ十五世でしょうか。
まあ華やかですね。バッキンガム宮殿の厳粛な感じとも対称的で面白いです。
これはルイ十四世ですね。太陽王と自称していましたが、太陽王という名称は子供のころに自身が出演したバレエで太陽神の役をやったからであるそうです。まさにフリーメイスンですね。帝王学をそのまま実践した人物であったという事です。
ルイ十六世でしょうか。
ここからが有名な鏡の間ですね。まあイルミネーション全盛の現代ではがっかりする事はこの上ないわけですが、夕陽が差し込む際の夕方にかけてはロウソクの炎だけでは得られない明るい時間が得られたのではないでしょうか。ちょうど舞踏会や夕食会が始まる時間であり、そういう催しものに向けて必須の演出であったのでしょうね。まあ日本では障子紙と戸板の時代ですからね。気候が違うとは言え文化、文明の差異は感じずにはいられません。
鏡の間ですね。手ぶれしています。
朝方なので暗いのですね。訪問するのであれば夕方か午後が良いようです。
窓からの風景です。
透かしたところですね。ワシントンのリフレクティングプールの原型があるようです。
まあ結局このヴェルサイユ宮殿の謎はルイ十四世がフリーメイスンであったという証拠を確認するという作業になるわけですが、まあこのブログを読んできた人は理解できると思うのですね。太陽王ですから。
そしてまあそれを暗に説明しているのがこのヴェルサイユ宮殿の観光施設としての役割なのですが、どうでしょうか。ワシントンD.C.のワシントン記念塔のようにフリーメイスンリーを理解するための施設として良いでしょうか?ルイ十五世なども天然痘で亡くなっていたりと相変わらずフリーメイスンリーにまつわるような逸話には事欠かないこのブルボン王朝最後の3代ですが、後に解説しようと思うエリザベス一世はフリーメイスンであったかどうかというテーマとも重なって、このヴェルサイユ宮殿の項目ではルイ十四世がいかにフリーメイスンであったかというところにポイントを絞って解説していこうと思っています。もちろんエリザベス一世がそうであったという話と同じレベルで、現在のフリーメイスンリーとはまた形式や状況的には異なるが、フリーメイスンリーの理念に基づいた生き方であったかどうかという点に基づいた話となる事はご承知願いたいところです。
欧州の王室とフリーメイスンリーとの関係については以前も触れた湯浅慎一氏の「秘密結社フリーメイソンリー」にこれでもかという位主にやはり大東社系の文書を出典として描かれていましたが、基本的にこのブルボン王朝最後の三代のルイ十四世からルイ十六世までは異なると記していましたが、これはもちろんフリーメイスンリーに対する理解が極めて浅いものから来るものだと思われます。
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フリーメイスンリーの始原をテンプル騎士団やソロモン宮殿の建築者、果てはピラミッド建築の石工にまで求めるのはやはりフリーメイスンリーの本質を儀式や書物や記録だけではなく、その残された建造物や様々な社会情勢から総合的に求める姿勢から必然的に至る結論であり、イングランドにおけるフリーメイスンリーの一つの標準点として1717年のグランドロッジ結成を据えるのは多くの人が同意するところな訳ですが、もちろんそれ以前に思索的メイスンリーに至る1666年のロンドン大火などの事象があるわけで、それらにフランスで当たるのが啓蒙専制君主であるとはいえユグノー戦争などの混乱後のフランスを安定に導いたルイ十四世になるのだと思われます。少なくとも明確にシンボルを伴って現在に残された建築として存在するものがこのルイ十四世が残した最大の建築であるヴェルサイユ宮殿とその街並みであるという事なのだと思われ、それが実際明らかなフリーメイスンリーの思想を表現しているものである以上は彼の時代からフランスフリーメイスンリーが始まっていると考えざるを得ないと思われます。彼の70年以上の治世がもちろんその後のフランス革命によるイギリスのヨーロッパ覇権の揺籃であったとする考えもできない事は無いでしょうが、王権を持つものとしてその後のルイ十五世、ルイ十六世の治世を見るまでも無く、必然的にフリーメイスンリーとの接触は避けがたいものであり、本人が積極的にそれを取り込んだか発展させたかは言うまでも無く、その時代の王として生まれた人間としてフリーメイスンリーに必然的に力を注いだ事は否定しがたいかと思われます。
YouTubeの動画などで取り上げた音楽家の一生などとも相まって、そういう時代の欧州、啓蒙思想の波の中で多くの王や音楽家、画家、作家などがフリーメイスンとなっていったのは必然であり、それにまつわる折れた石柱のシンボルで表現される夭折の事実があったのもまた事実なのだと考えられます。それがまた今日の3.11後の日本の現状を考える上での説明になるのかと思われます。
ヴェルサイユ宮殿はその3までやってその後再びルーヴル美術館を巡ってこの旅もおしまいです。
さてさて大分間があいて固定の読者の方もほとんど散り散りばらばらになってしまったかもしれませんが、色々この間に世の中の動きもあり、何よりフリーメイスンリーのロッジはインストレーションといって役員が決まる事があり、現在私は全然ロッジに通っていないので関係ないようなものでありながら実は色々あるようなないようなと、まあとにかくそろそろこの旅の旅行記は最後までやっちまおうという事でヴェルサイユ宮殿の謎のシリーズを再開します。
その前に色々パリのフリーメイスンリー関連で検索していて、私がちょうどパリに滞在していたまさにその時に何とフランス大東社のグランドロッジの、私が一生懸命頼んでも入れてくれなかったロッジの部屋の方にすんなり入ったというバックパッカーの女性の方のブログを発見して驚いてしまって、まあまたこの辺りがフリーメイスンリーのウィットというか面白いところなんだと思いますが、アキレス腱を切って一年待って行ったロンドン・パリ旅行だけあって色々あります。
そういうわけで一応そのブログに載っていた写真をコメントで断って転載させていただきます。もちろんそちらのブログの方を見ていただく方が早いのですが、一応フリーメイスンの眼という事でコメントしていきます。
これは入口のところなんですが、確か同じだったと思います。フリーメイスンリーの紹介のマンガでこのキャラクターを使っているようです。マンガを買ったのですが、なんせフランス語なんで良くわかりません。
この方のブログでは博物館が休みだったけど頼み込んだら最初に屋上に連れて行ってくれたという事でした。その後それぞれのロッジの部屋に案内されてそれぞれ写真を撮っています。一番有名なホールには入っていないようでした。この部屋も観た事ある部屋ですね。
確か私が訪問したのはこの前日かなんかだったのでまあそういう関係もあるのだと思います。しかしまあその辺がフランス大東社とイングランドグランドロッジの関係性なのでしょうかね。面白い話だと思います。
この人権宣言の上にある三角形にAll Seeing Eyeを組み合わせた形はフランス大東社に特徴的なんだと思われます。英米系ではGのシンボルになるところなのだと思われます。面白いですね。
なかなかフランスのものはやはり色彩やデザイン的に美しいですね。素晴らしい。
美術館のようでもあります。
マリアンヌもフランス大東社に特徴的なのだと思われます。レピュブリック広場のマリアンヌが見られなかったのも残念でした。
こういうのも美術館のようです。
パーフェクトアシュラーもオベリスクの形をしていて、一時流行った形のようです。有澤玲氏の新しい本では説明があったかと思われます。
なかなかロッジ自体が一つの芸術作品のようです。
こういう指紋のような形の暗号の並びのようなものがあるようです。
この裏側が博物館側だそうです。
博物館と同様の展示もあるようです。
これはロスト・シンボルでも強調されていた「反省の小部屋」のようです。精巧に出来ていますね。
なかなかサイケデリックなデザインですね。儀式やそれにまつわる小道具や設備は大陸の大東社系の方が凝っていたり複雑である事が多いそうです。上位位階やそれにまつわる付随結社やそれらと社会情勢の動きがヨーロッパ大陸での方が激しく複雑であった歴史によるものかもしれません。
さて以上で貴重なフランス大東社のロッジの様子は終了です。ヤキンとボアズの柱の二元論のように、英米フリーメイスンリーとフランス大東社系フリーメイスンリーとは表裏一体の関係であり続けるのかもしれません。
では本題のヴェルサイユ宮殿の紹介です。
ええとその2なんですね。鏡の間まで行ったところでした。概略としては要するに王権の象徴であるヴェルサイユ宮殿にも予想に反して床の白黒のタイルや三角形のAll Seeing Eyeの象徴やフリーメイスンリーの象徴がたくさんありどうもルイ十四世時代からフリーメイスンリーを意識したものであったのではないかというところですね。そしてどうもその太陽王というルイ十四世の呼び名にしても太陽信仰、アポロン神やギリシア神話といったキリスト教以前のローマ帝国時代やそれ以前の宗教を意識したものであるようで、当時の帝王学がイギリスでのクイーンズハウスの建築に認められるように十分フリーメイスンリーの考え方に基づいたものであったものであったらしいという事かと思います。
では写真を挙げていきます。
寝室でしょうかね。しかしまあ大分間があいて冷静に写真を見るわけですが、こういう古いシャンデリアに電気を通して電燈にする作業は大変ですね。かつてのロウソクでシャンデリアであった時代はもっと大変ですが、いずれにしても明かりをともす作業というのは実際にも大変です。ロウソクであった時代にはロウソクを家来が全部消す作業を見ているだけで眠くなるでしょうね。
ルイ十六世でしょうかね。
マリー・アントワネットかそれ以外の王妃でしょうね。机の上にある海老の人形はなんだか当時展示してあった前衛芸術の一つだそうで料理の具材とか家事の道具とかなんかそういうのをメルヘンチックに巨大な展示で置いてありました。家事がやりたくないという強烈なメッセージは伝わってきました。
タペストリーがすごいですね。これは題材は最高存在の祭典のような感じでしょうか。いずれにしてもお祭りを描いているのでしょうね。
幾何学模様が美しいですが、菱形はそれっぽいですね。前のライオンはやはり一連の前衛芸術がライオンズクラブ関連という事を示しているのでしょうか。
ブラザーナポレオンの戴冠ですね。ブラザーダヴィッドの恋人がピンクの服になっているとかいないとか。
やっぱりこれもブラザーナポレオンですかね。
完全に逆光ですが、鏡の間の最後の方は肖像画が並べてあります。
これもそうですが、皆フリーメイスンの肖像なのだと思われます。
ブラザーラファイエットはわかりますね。その他は全くわかりません。アップで撮れば全部下に名前が入っているのでしょうね。ここは頑張るべきでしたが、ルーヴル美術館を周るつもりでしたのでスピードアップしています。次回周ったときには撮ってきましょう。
もしかするとこのヴェルサイユ宮殿がフランスフリーメイスンについて最も情報を公開している場所かもしれません。この時はそこまでは予想していませんでした。
白黒の床ですね。ルーヴル美術館でエジプト関連の展示だけであれだけだったので、そこから考えるとこちらの方がフリーメイスンリー的には重要という事なのでしょうね。
本当はヴェルサイユ宮殿とその周辺に一日以上かけた方が良いという事でしょうね。
ここは主にフランス革命以来のフランスの戦争の絵画を置いた部屋とされていますが、どうも見学の人はほとんどいません。雰囲気がまずいのか皆よく知っているのかわかりませんが、フリーメイスンリーの博物館のようです。三笠公園に近いかもしれませんが、ちょっとどうでしょう。
アウステルリッツの三帝会戦とかでしょうか。まあちょっともう少し勉強してから周らないとわからなそうです。
ブラザーダヴィッドの絵なのでしょうか。
ジャンヌ・ダルクなのだと思います。色々入り混じっています。フリーメイスンリー的には自由の女神の象徴なのだと思われます。
エジプト遠征などでしょうか。下の胸像も全員フリーメイスンだと思われます。パンテノンと合わせてフランスフリーメイスンリーをもう少し詳しく知るには相当巡らないと駄目なようです。
ブラザールイ・フィリップでしょうか。とにかくフランス革命史と合わせて最もややこしく複雑なフランスフリーメイスンリーは世界で最も複雑なフリーメイスンリーである事は間違いなさそうです。それこそがフランスの国旗に認めるフリーメイスンリーの精神を象徴した三色旗なのでしょう。
ブラザールイ・フィリップの戴冠でしょうか。髭のあるブラザーナポレオン三世ではなさそうです。
これがヘッダーの画像に使用している最後の部屋のシンボルを多量に描いた装飾です。この部屋はすごいです。全てフリーメイスンリーのシンボルで彩られています。恐らくフランスや世界中でもこれほどシンボルで埋め尽くされた部屋は無いのではないでしょうか。ほとんど観光客はいませんでした。絵画の流れから行くとフランス革命と復古王政を繰り返して完全にフリーメイスンリーの国になったという意味なんだと思います。
写真が汚くて申し訳ありませんが、ぜひ一度自分の目で確認される事をお勧めします。
いやあまあこれはすごかった。フランスフリーメイスンリーの総力を結集した感じでした。
ブラザールイ・フィリップの時代にフランスの歴史博物館として改修したと説明がありましたが、フランスフリーメイスンリーの博物館というのが正しいのだと思います。この部屋がそれらのまとめのところなのでしょうが、いやあすごかった。革命の馬鹿騒ぎとはとてもじゃないが言えません。
望遠で一個一個のシンボルについてきちんと見ないと駄目でしょうね。House of the Templeの感じと変わりませんし、それ以上です。こちらが本家本元という事なのでしょうね。
圧巻ですがホントにほとんど人がいません。早い時間であった事もあるのでしょうが、フランスにおけるフリーメイスンリーの感じも微妙に感じます。
こちらは再びオルレアンの少女です。これがまたワシントンDCのメリディアンパークのジャンヌ像にもつながるのですね。すごい歴史です。
イクトゥスホイールもあるし、これらのシンボルを全部図解した本もフランス語なら売っているのでしょうね。しかしすごい。
再び白黒の床です。
1階はブラザーナポレオン三世の居室として改修されたものが展示されているのでしたかね。
オーディオガイドがあったかと思います。さっきのフリーメイスンリーのシンボルの間はどう説明されているのでしょうね。
ブラザーナポレオン三世のものはルイ十四世らのものより派手さは控えてあって、英国王室に近いような感じでしょうか。失脚後に亡命しており親近感が元々あったようです。
ルイ十五世の愛人でしょうかね。ポンパドゥール夫人ですかね。王女たちのようでもあります。
これがまあ中庭ですが美しい白黒のタイルになっています。
この日は珍しく天気が良かったんですね。いやあしかし大分間を置いたせいで大分思い出になっていますね。英国がEUを脱退する国民投票なんてやってるそうですね。なんだか色々懐かしい位な感じです。まあ色々あって間が空いたみたいです。しかしまあフランスを初めてにしては一生懸命勉強した方だと思いますが、まだまだたくさん勉強しないといけないでしょうね。
庭園に出る前に再び白黒の床です。
当時は良くわかっていませんでしたが、これから出る庭園がそういう意味だよという意味なのです。
つまりヴェルサイユ宮殿の庭園はフリーメイスンリーの教えに基づく庭園な訳ですね。
それで次回はヴェルサイユ宮殿の最大の謎、有名なヴェルサイユ宮殿のブラザールイ十四世が愛した庭園です。
その前に色々パリのフリーメイスンリー関連で検索していて、私がちょうどパリに滞在していたまさにその時に何とフランス大東社のグランドロッジの、私が一生懸命頼んでも入れてくれなかったロッジの部屋の方にすんなり入ったというバックパッカーの女性の方のブログを発見して驚いてしまって、まあまたこの辺りがフリーメイスンリーのウィットというか面白いところなんだと思いますが、アキレス腱を切って一年待って行ったロンドン・パリ旅行だけあって色々あります。
そういうわけで一応そのブログに載っていた写真をコメントで断って転載させていただきます。もちろんそちらのブログの方を見ていただく方が早いのですが、一応フリーメイスンの眼という事でコメントしていきます。
これは入口のところなんですが、確か同じだったと思います。フリーメイスンリーの紹介のマンガでこのキャラクターを使っているようです。マンガを買ったのですが、なんせフランス語なんで良くわかりません。
この方のブログでは博物館が休みだったけど頼み込んだら最初に屋上に連れて行ってくれたという事でした。その後それぞれのロッジの部屋に案内されてそれぞれ写真を撮っています。一番有名なホールには入っていないようでした。この部屋も観た事ある部屋ですね。
確か私が訪問したのはこの前日かなんかだったのでまあそういう関係もあるのだと思います。しかしまあその辺がフランス大東社とイングランドグランドロッジの関係性なのでしょうかね。面白い話だと思います。
この人権宣言の上にある三角形にAll Seeing Eyeを組み合わせた形はフランス大東社に特徴的なんだと思われます。英米系ではGのシンボルになるところなのだと思われます。面白いですね。
なかなかフランスのものはやはり色彩やデザイン的に美しいですね。素晴らしい。
美術館のようでもあります。
マリアンヌもフランス大東社に特徴的なのだと思われます。レピュブリック広場のマリアンヌが見られなかったのも残念でした。
こういうのも美術館のようです。
パーフェクトアシュラーもオベリスクの形をしていて、一時流行った形のようです。有澤玲氏の新しい本では説明があったかと思われます。
なかなかロッジ自体が一つの芸術作品のようです。
こういう指紋のような形の暗号の並びのようなものがあるようです。
この裏側が博物館側だそうです。
博物館と同様の展示もあるようです。
これはロスト・シンボルでも強調されていた「反省の小部屋」のようです。精巧に出来ていますね。
なかなかサイケデリックなデザインですね。儀式やそれにまつわる小道具や設備は大陸の大東社系の方が凝っていたり複雑である事が多いそうです。上位位階やそれにまつわる付随結社やそれらと社会情勢の動きがヨーロッパ大陸での方が激しく複雑であった歴史によるものかもしれません。
さて以上で貴重なフランス大東社のロッジの様子は終了です。ヤキンとボアズの柱の二元論のように、英米フリーメイスンリーとフランス大東社系フリーメイスンリーとは表裏一体の関係であり続けるのかもしれません。
では本題のヴェルサイユ宮殿の紹介です。
ええとその2なんですね。鏡の間まで行ったところでした。概略としては要するに王権の象徴であるヴェルサイユ宮殿にも予想に反して床の白黒のタイルや三角形のAll Seeing Eyeの象徴やフリーメイスンリーの象徴がたくさんありどうもルイ十四世時代からフリーメイスンリーを意識したものであったのではないかというところですね。そしてどうもその太陽王というルイ十四世の呼び名にしても太陽信仰、アポロン神やギリシア神話といったキリスト教以前のローマ帝国時代やそれ以前の宗教を意識したものであるようで、当時の帝王学がイギリスでのクイーンズハウスの建築に認められるように十分フリーメイスンリーの考え方に基づいたものであったものであったらしいという事かと思います。
では写真を挙げていきます。
寝室でしょうかね。しかしまあ大分間があいて冷静に写真を見るわけですが、こういう古いシャンデリアに電気を通して電燈にする作業は大変ですね。かつてのロウソクでシャンデリアであった時代はもっと大変ですが、いずれにしても明かりをともす作業というのは実際にも大変です。ロウソクであった時代にはロウソクを家来が全部消す作業を見ているだけで眠くなるでしょうね。
ルイ十六世でしょうかね。
マリー・アントワネットかそれ以外の王妃でしょうね。机の上にある海老の人形はなんだか当時展示してあった前衛芸術の一つだそうで料理の具材とか家事の道具とかなんかそういうのをメルヘンチックに巨大な展示で置いてありました。家事がやりたくないという強烈なメッセージは伝わってきました。
タペストリーがすごいですね。これは題材は最高存在の祭典のような感じでしょうか。いずれにしてもお祭りを描いているのでしょうね。
幾何学模様が美しいですが、菱形はそれっぽいですね。前のライオンはやはり一連の前衛芸術がライオンズクラブ関連という事を示しているのでしょうか。
ブラザーナポレオンの戴冠ですね。ブラザーダヴィッドの恋人がピンクの服になっているとかいないとか。
やっぱりこれもブラザーナポレオンですかね。
完全に逆光ですが、鏡の間の最後の方は肖像画が並べてあります。
これもそうですが、皆フリーメイスンの肖像なのだと思われます。
ブラザーラファイエットはわかりますね。その他は全くわかりません。アップで撮れば全部下に名前が入っているのでしょうね。ここは頑張るべきでしたが、ルーヴル美術館を周るつもりでしたのでスピードアップしています。次回周ったときには撮ってきましょう。
もしかするとこのヴェルサイユ宮殿がフランスフリーメイスンについて最も情報を公開している場所かもしれません。この時はそこまでは予想していませんでした。
白黒の床ですね。ルーヴル美術館でエジプト関連の展示だけであれだけだったので、そこから考えるとこちらの方がフリーメイスンリー的には重要という事なのでしょうね。
本当はヴェルサイユ宮殿とその周辺に一日以上かけた方が良いという事でしょうね。
ここは主にフランス革命以来のフランスの戦争の絵画を置いた部屋とされていますが、どうも見学の人はほとんどいません。雰囲気がまずいのか皆よく知っているのかわかりませんが、フリーメイスンリーの博物館のようです。三笠公園に近いかもしれませんが、ちょっとどうでしょう。
アウステルリッツの三帝会戦とかでしょうか。まあちょっともう少し勉強してから周らないとわからなそうです。
ブラザーダヴィッドの絵なのでしょうか。
ジャンヌ・ダルクなのだと思います。色々入り混じっています。フリーメイスンリー的には自由の女神の象徴なのだと思われます。
エジプト遠征などでしょうか。下の胸像も全員フリーメイスンだと思われます。パンテノンと合わせてフランスフリーメイスンリーをもう少し詳しく知るには相当巡らないと駄目なようです。
ブラザールイ・フィリップでしょうか。とにかくフランス革命史と合わせて最もややこしく複雑なフランスフリーメイスンリーは世界で最も複雑なフリーメイスンリーである事は間違いなさそうです。それこそがフランスの国旗に認めるフリーメイスンリーの精神を象徴した三色旗なのでしょう。
ブラザールイ・フィリップの戴冠でしょうか。髭のあるブラザーナポレオン三世ではなさそうです。
これがヘッダーの画像に使用している最後の部屋のシンボルを多量に描いた装飾です。この部屋はすごいです。全てフリーメイスンリーのシンボルで彩られています。恐らくフランスや世界中でもこれほどシンボルで埋め尽くされた部屋は無いのではないでしょうか。ほとんど観光客はいませんでした。絵画の流れから行くとフランス革命と復古王政を繰り返して完全にフリーメイスンリーの国になったという意味なんだと思います。
写真が汚くて申し訳ありませんが、ぜひ一度自分の目で確認される事をお勧めします。
いやあまあこれはすごかった。フランスフリーメイスンリーの総力を結集した感じでした。
ブラザールイ・フィリップの時代にフランスの歴史博物館として改修したと説明がありましたが、フランスフリーメイスンリーの博物館というのが正しいのだと思います。この部屋がそれらのまとめのところなのでしょうが、いやあすごかった。革命の馬鹿騒ぎとはとてもじゃないが言えません。
望遠で一個一個のシンボルについてきちんと見ないと駄目でしょうね。House of the Templeの感じと変わりませんし、それ以上です。こちらが本家本元という事なのでしょうね。
圧巻ですがホントにほとんど人がいません。早い時間であった事もあるのでしょうが、フランスにおけるフリーメイスンリーの感じも微妙に感じます。
こちらは再びオルレアンの少女です。これがまたワシントンDCのメリディアンパークのジャンヌ像にもつながるのですね。すごい歴史です。
イクトゥスホイールもあるし、これらのシンボルを全部図解した本もフランス語なら売っているのでしょうね。しかしすごい。
再び白黒の床です。
1階はブラザーナポレオン三世の居室として改修されたものが展示されているのでしたかね。
オーディオガイドがあったかと思います。さっきのフリーメイスンリーのシンボルの間はどう説明されているのでしょうね。
ブラザーナポレオン三世のものはルイ十四世らのものより派手さは控えてあって、英国王室に近いような感じでしょうか。失脚後に亡命しており親近感が元々あったようです。
ルイ十五世の愛人でしょうかね。ポンパドゥール夫人ですかね。王女たちのようでもあります。
これがまあ中庭ですが美しい白黒のタイルになっています。
この日は珍しく天気が良かったんですね。いやあしかし大分間を置いたせいで大分思い出になっていますね。英国がEUを脱退する国民投票なんてやってるそうですね。なんだか色々懐かしい位な感じです。まあ色々あって間が空いたみたいです。しかしまあフランスを初めてにしては一生懸命勉強した方だと思いますが、まだまだたくさん勉強しないといけないでしょうね。
庭園に出る前に再び白黒の床です。
当時は良くわかっていませんでしたが、これから出る庭園がそういう意味だよという意味なのです。
つまりヴェルサイユ宮殿の庭園はフリーメイスンリーの教えに基づく庭園な訳ですね。
それで次回はヴェルサイユ宮殿の最大の謎、有名なヴェルサイユ宮殿のブラザールイ十四世が愛した庭園です。
大分間が空きましたがやはりこちらの話は秘密の度合いが濃いのだと思われます。
ヴェルサイユ宮殿は観光地としても人気だと思われ、日本人も年間万単位で訪れているのではないでしょうか。ただしその観光客のうちフリーメイスンリーの歴史博物館、思想を表す庭園だという認識を持った方はもしかすると誰もいないかもしれません。
というわけでヴェルサイユ宮殿の最大の秘密はその有名な庭園がフリーメイスンリーの思想を表す象徴で形作られているというところにあります。かつてフジテレビの人気番組「トリビアの泉」でヴェルサイユ宮殿の庭園にはミッキーマウスの顔があるという内容をやっていたそうですが、それもライオンズクラブやロータリークラブを通じた、特にフジテレビの場合はお台場のシンボルやフランスから贈られた自由の女神像の関係もあり、そうした中でのフランスフリーメイスンリーから伝えられた秘密のやや変わった形での暴露であったのかもしれません。
それでは実際の写真を見ていきます。まずわかりやすいように全景のグーグルマップの写真を出してしまいましょう。とにかく微に入り細に入りわかりやすいブログです。
まあ庭園の南北は大体日の沈む方向が鏡の間に一番光が入るように設計されているんですね。恐らく夏至にあたる6月24日ころに最も長く沈む夕日が鏡の間を照らし明るく太陽の恩恵が感じられるように作られていると思います。そういうわけでこの写真で上に当たる方向が北西の方角となります。まあそれだけで大体太陽信仰、フリーメイスンリーの結成にまつわる夏至と冬至の〇に二重線のシンボルとも重なるわけですが、まあそれだけでもフリーメイスンリーと言って過言ではないわけです。
上部に十字の形の大運河があるわけですが、これがもちろんGodのGと同じシンボル、宗教、キリスト教を示すものである事は良いかと思います。それを囲むように上下に菱形の∧∨で囲む形はシンボリズムの基本です。右側のところをルイ十四世とルイ十五世の愛人用の邸宅と、マリー・アントワネットのイギリス風の村の建築、いわゆるトリアノン宮殿でシンボルの造形を壊してしまっているのはいただけません。もしかするとシンボリズムに対する罪でマリー・アントワネットはギロチンにかけられたのでしょうか。
その下になるいわゆるヴェルサイユ宮殿の庭園とされる常に開放されている歩ける部分に関してはそれぞれ実際の写真を見ながら解説していきます。最初にミッキーの顔といわれるとそう見えるかもしれませんが、もちろん庭園の配置にフリーメイスンリーのシンボリズムの意味が込められているのだよという示唆に他ならないかと思われます。
ユネスコの世界文化遺産第一号に認定されているそうで、そういう意味でもユネスコも、世界文化遺産もフリーメイスンリーの規格で選定されているという事で良いのだと思います。鎌倉も世界文化遺産の登録申請などあったかと思いますがその辺どうでしょうか。白黒のタイルのところから外に出るとこんな感じでした。かなり早い時間から開放されているようで、庭園自体は入場無料なので朝早くはランニングで走る人が数多くいる感じでした。とにかく整備が大変という感じで、また意味のわからない前衛芸術は置かないといけないというフランスの思想というか、現代と過去を常に繋ぐ象徴なんだと思いますが、日本のように古いもののところには新しいものを置いてはいけないというものとは対照的なんだと思いました。
なんだかよくわかりませんが前衛芸術が中心にあります。3段の形だしフリーメイスンリーと関係あるのかもしれませんが良くわかりません。電波塔みたいです。水庭と訳される二つの池で鏡の役割をしているようです。
ちょうど秋分に近い頃でしたが大体入口の方から太陽が昇ってくる感じになります。恐らく夏至の太陽に合わせた建築になっていると思われます。その辺りはフランス語の論文が当たればあるのではないでしょうか。翻訳して日本語で出せばすぐに博士論文でしょうね。
ラトナの泉というようです。ローマ神話の女神の名前のようです。その先が緑の絨毯、さらにアポロンの泉で大水路の十字となります。緑の絨毯は335メートルあるそうで、まあメートル法がまだ確立されていなかった時代ですが、大体手頃な巨大なものという事で東京タワーの333mのモデルになったのかもしれませんね。
太陽王の神殿を占める人々の図でしょうか。まあ完成当時から庭園は基本的に国民に開放される空間であったようで、この様な姿になるのが完成当時からのあるべき姿であるのだと思われます。撮った時はベストショットと思ったのですがまあ色々内容が濃いのでそれほどの意味はありませんね。
まあいずれにしてもここまでで示されているのは左右対称の対称性の象徴だと思います。フリーメイスンリーで基本的に示されるヤキンとボアズの柱の二元性の象徴を表しているのですね。
ラトナの泉から先に行くと左右がまたフランス風の花壇になっていますね。フランスの象徴的なヴェルサイユ宮殿でフランス風というのもおかしいですが、かすみ草を加えた花束みたいなアレンジの花壇ですね。日本ではあまり見かけません。植え込みの植栽も幾何学的な感じに刈り込んであります。当初からこういう形なのかはわかりませんが、恐らくそういう指示もあるのだと思われます。要するに幾何学模様なのですね。Geometryという事だと思います。
右の方に歩いてきたのですね。ケレースの泉というようです。四季を表す4つの泉が配置されていて、小麦の収穫する夏を象徴しているようです。
こんな感じです。あまり情緒はありません。
訳の分からない野球場のような広場があります。フィールドオブドリームスの映画のようです。星の木立と訳されるようで、いわゆるペンタゴンの形をしています。庭園で最初に設計されたという事で、恐らく象徴の中で最も重要とされるのだと思います。すなわち国防総省のペンタゴンであり、五稜郭のシンボリズムです。キリスト教のベツレヘムの星に取られる五芒星の内側であり、ピタゴラス学派の象徴でもあります。黄金比を示し、美と数学と法、神の存在の究極の姿ととらえられるのかと思われます。まあ実際には造成前の広場みたいなところで、恐らくいつでも誰もいないかと思われます。
なんじゃこりゃという疑問符が付きながらその周囲を巡ります。ここは迷路にはなっていないのですが迷いそうです。かつてはこの庭園の王妃の木立のところに有名な迷路があったそうですが、恐らく本当に迷ってしまっていやな思いをする人が続出であったので後にはローマ・ギリシア風の木立となったようです。その当時は迷路にイソップ物語をモチーフとした39の像があったそうです。イソップ物語といえば三本の矢の話の元だそうですが、ギリシアの寓話集ですが、教訓に富んでいるとはいえ知らないと恐ろしいので不評だったでしょうね。
まあある意味あの時代のディズニーランドみたいなものであったのかもしれません。イッツアスモールワールドのような教訓めいた遊園地のような役割であったのかもしれません。しかし率直に言ってこの庭園のこの造形を見ると王様は気が狂ったとか訳がわからないと思うのが正直なところだと思います。一種の帝王学なのでしょうが、まあ実際のところはフリーメイスンリーなので王様だけではなくあらゆる技術者と建築家が設計して様々なアイディアを結実したものなのです。
そのものずばりのオベリスクの噴水とその周囲の泉とアポロンの泉のところです。本当は噴水があるわけですが無いとさっぱり美しくないし意味がわかりませんが、まあピラミッドの泉やオベリスクの泉はそのもののエジプト文化を意味していて、キリスト教、ユダヤ教の源流としてのギリシア・ローマ文明、エジプト文明を意味している、いわゆるフリーメイスンリーの考え方を表しています。アポロンを中心に置いて太陽神信仰を示しているのですね。ルイ十三世の時代は白鳥の泉であったそうです。まあ自身の愛称であった太陽王の名前から太陽信仰を追求したのですね。
アポロンの泉からヴェルサイユ宮殿を望む図です。完全に逆光です。
大水路の方向でしょうか。まあこんな感じでこれを整備するのはくたびれそうです。
像が並んでいます。まあ個別に見ていたら日が暮れてしまいます。ローマ・ギリシア神話の神々の像だと思われますが、それぞれに逸話があるのだと思われます。
ちょうど朝で整備していたので撮りました。こういう専用の機械で刈り込んでいくのですが、こういうのが無い時代は恐ろしく手間がかかったかと思います。まあしかし整備するのは大変そうです。ただ革命後も保存されたという事はそれがフリーメイスンリーの象徴であったからという他に無いのだと思われます。
これはヘッダーの画像にも使っていますがなかなか壮観です。意味がわからないと恐怖を感じると思われます。
これは鏡の泉から見たバッカスの泉でしょうか。ブドウを収穫する秋を象徴しているようです。まあちょっと怖くなって印象的な写真を撮って早く回っちゃおうと思っていたようです。
列柱の回廊があるのですが閉鎖されていました。恐らくローマのコロッセオをイメージしているのだと思います。イオニア式の列柱だそうです。代表的なものがギリシア・トルコのエフェソスのアルテミス神殿だそうで、有名なマウソロスの霊廟の作者と同じ人が柱に彫刻したそうです。つまり言いかえればワシントンD.C.のHouse of the Templeの原型がここヴェルサイユ宮殿にあるという事なのでしょうね。しかし当時は立ち入り禁止でした。まあ実際現地ではそんな事露とも思っていません。
で、ここに来て初めて気付きます。あれ明らかにAll Seeing Eyeの形じゃないかと。まあつまりそういう事です。庭園でフリーメイスンリーのシンボリズムを表して教えを伝えていたのですね。鏡の泉というそうです。明らかにAll Seeing Eyeの形をして、Gloryを伴っていますのでわかる人も多いかと思います。
鏡の泉とGloryに当たる木立の道です。先ほどの威圧する木立ではなく背丈が低くなり見通しができるようになり印象が異なっています。見渡せる事で先が広がるAll Seeing Eyeの全てを見通す事や開かれた印象の効果を狙ったものかと思われます。庭園で実際に受ける印象がそのまま教えとなっているのだと思われます。啓蒙の印象といったところでしょうか。
王妃の木立というそうです。かつてはここにイソップ物語にちなんだ像を置いた迷路があったそうです。恐らくあまりに混乱を引き起こすのでこの形の開かれた空間に変更したのだと思われます。象徴としての一本の木とそれを囲むようにギリシア・ローマ風の庭園となっており非常に整った落ち着いた空間となっています。先ほどのペンタゴンの空間の星の木立などとは対照的です。
木立に疲れて広いところに出て行っているのですね。
アポロンの水浴の木立ちの方に来たのですが改修中でした。非常に改修中で立ち入り禁止のものが多かったです。
また背の高い木立を抜けていきます。
ネプチューンの泉とドラゴンの泉ですがまだ誰もいません。噴水も出ていないしちょっとこの時は駄目ですね。この辺りはその他に三つの泉の木立や凱旋門の木立、ピラミッドの泉があり、いわゆるフリーメイスンリーの象徴が集まっています。ネプチューンが海王星で海神である事を考え、またドラゴンがロンドンの象徴である事を考えるとフリーメイスンが主体のイギリス海軍との連携で戦争に勝った事を意味しているのではないでしょうか。もちろん三つの泉の木立はブラザールイ十四世がフリーメイスンとなった事を意味すると思われます。三つの泉の木立はブラザールイ十四世が設計したそうです。画像は実物を見るか写真を検索してください。
この先に三つの泉の木立があったようですがこれもまた改修中でした。結構ポイントのものが改修中でしたね。また来いという事だと思われます。
これは何の泉かわかりません。左右で対称をなす泉のネプチューン側のものです。放射状の炎条を伴っており星の形なのだと思われます。
この右に写っているのがピラミッドの泉です。この時は噴水も出ていないし全く注目していませんね。この辺りがフランスフリーメイスンリーの奥深さなのでしょうね。まあ完全に歩き疲れていますし噴水を待つほどの余裕もありません。
最初の前衛芸術は要するにヤキンとボアズの柱を象徴していたのですね。まあ全体にフリーメイスンリーの象徴と合わせた解説が無ければ全然わかりませんね。まあそういう役割をこのブログがしているわけです。これを読んでヴェルサイユ宮殿に行く人が増えますかね。
いわゆるヴェルサイユ宮殿の写真として紹介される際に最も美しい光景として出てくるオランジュリー、花壇になるのでしょうか。(追記:オランジュリーはオレンジと月桂樹を多く植えた温室や花壇という事だそうで、主に地中海世界の豊かな収穫を意味するのだと思われます。カトリックを中心とした世界の豊かな華やかな安定した生活を意味しているとして差し支えないと思います。)幾何学模様で美しい模様ですが、反対がネプチューンとドラゴンの泉でしたがどういう意味になるのでしょうか。
オランジュリーは美しい花壇という事で写真を撮っている人が多いです。その後方にスイスの水の一部と名前を付けられた池があります。つまりそういう事ですね。イギリス海軍と永世中立国のスイスに挟まれたフランスの外交の基本姿勢を示しているという事でしょう。それがすなわち象徴化されたフランスの地理と地政学という事です。
で写真は終わりというところでヴェルサイユ宮殿の庭園についてフリーメイスンリー的考察をまとめましょう。
まず対称性の象徴として水庭が二つあり中心の二つ揃いがそれぞれ対称性を象徴しています。ネプチューンとドラゴンの泉とスイスの水の一部はそれぞれイングランドのフリーメイスンリーとスイスなどに象徴されるカトリックと密接に関わったフリーメイスンリーを地政学的に対称としているのだと思われます。ピラミッドや三つの泉の木立と凱旋門の泉で戦争の勝利や王がフリーメイスンとなる事でイギリス海軍の助けを受けて戦争に勝利する事を示していると思われます。そこから反時計回りに右側からパーフェクトアシュラーをかたどった広場と、ごつごつとしたラフアシュラーを示したアポロンの水浴の木立、これは英国式と中国式の折衷の庭園という事です。そしてそこからペンタゴンのキリスト教とピタゴラス学派の象徴を通ってオベリスクの象徴へと行きます。エンケラドス、ドームの木立はそれぞれジュピターに関わるローマ神話の逸話とドームの建築の教訓であると思われます。そこからアポロンの泉は基本的に全てを見通す目の形となり、王権がそれらを見守っているという事となっているのかと思われます。イオニア式列柱の列柱廊とマロニエの木立はそれぞれ教訓を示しているのだと思われます。そこから左の王の庭園はエジプトのスカラベの形であると思われます。
その下の鏡の泉が再びAll Seeing Eyeでエジプトの王権の歴史を教訓としているものと思われます。そこから下の王妃の木立がかつてはイソップ物語に基づいた迷路であった事と一本の木、もちろんこれはユダヤ教の生命の樹を意味するわけですが、そこにたどり着くローマ・ギリシア風の庭園という事になるのだと思われます。同時に舞踏場の円形劇場が、それらがオペラや当時ブラザールイ14世が自ら太陽王と名乗る事になった演劇や芸術によってそれらを伝える教訓となるという意味になるかと思われます。自由七科のリベラルアーツを象徴していると考えられます。そしてスイスの水の一部とともに美しい幾何学のオランジュリーが、その反対側のネプチューンとドラゴンとピラミッドの泉と三つの泉の木立が戦争とフリーメイスンの修業を意味するのと対照的に王としての平和と安定した優雅な生活を象徴しているものと思われます。もちろんこれは逆に時計回りに回って王としての優雅な生活からエジプトの王権の逸話に至って、オベリスクからフリーメイスンのイギリス海軍に至るというのでもよいのだと思います。
すなわちワシントンD.C.の秘密がブラザーワシントンの波乱の一生であったのと同じく、ヴェルサイユ宮殿の庭園の謎はブラザールイ14世の波乱に満ちたフリーメイスンとしての一生を後のルイ15世らに伝えるべく帝王学としてしるしたものかと思われます。それはすなわちその後の全てのフリーメイスンに示したフリーメイスンとしての教訓、ブラザールイ十四世の一生を示した教訓なのだと思われます。
さらに加えるとそれらが集約して庭園の反対側の都市側に3本の威光として認められ、王権の安定が人民に三位一体のキリスト教や三権分立としてもたらされるという事なのだと思われます。啓蒙専制君主の時代のフリーメイスンの王としてこれ以上の表現は無いのだと思われます。(追記:もちろんナントの勅令の廃止でプロテスタントを弾圧し宗教的寛容を中止した事は全くフリーメイスンリーとは相容れない政策ですが、その事がユグノー教徒のイングランドやネーデルランドやドイツへの亡命を促し、ひいてはブラザーデザグリエのようなフランス文化をもたらす重要なフリーメイスンを多く生み出すことにもつながる事になったわけで、むしろナントの勅令の廃止の意図はそこにあったと言っても過言ないのだと思われます。)
外の石畳が石工の細かい仕事を象徴しています。まさに石工の宮殿と庭園であったわけです。ごつごつした周辺と道の部分の平らな石が象徴と認められるかと思います。まさにそれも教訓ではないでしょうか。教えの道を歩む事が最も早く正しく目的地に行きつく事ができるという事でしょう。
まあそうは言っても観光地で毎日せっせと観光客が来る土地です。そういうところを開放して秘密としているところが価値があり世界遺産とされている所以なのだと思われます。
観光バスと車の駐車場が左右にあります。ゴシックの尖塔もあります。
地図があるので撮りましたがこの地図自体が教えになっているのですね。
ブラザールイ14世像です。
正面にかなり古い建築の郵便局があります。郵便制度が非常に重要である事を象徴しているのだと思われます。やはり対称形で三を強調した建築となっています。
日本のブランドだと思いますが、フリーメイスンリーのシンボルを意識したポスターのようです。
再びマルシェですね。花やチーズを売っていました。
いわゆる普通の左官職人さんが働いていました。
帰りの列車からお墓が見えたので撮りました。オベリスクもいくつかあったのですが、写真には写りませんでした。フリーメイスンリーの活動が恐らく最も盛んな国であってもフリーメイスンの数自体はそれほど多くなく、その象徴も明らかに認めながら一般には認められてはいないというのがまさにフリーメイスンリーというところであるかと思われます。
パリ、サンラザール駅に戻ってきました。その後は再びルーヴル美術館です。
しかし長いですねえ。付いてこれてますか~?
ヴェルサイユ宮殿は観光地としても人気だと思われ、日本人も年間万単位で訪れているのではないでしょうか。ただしその観光客のうちフリーメイスンリーの歴史博物館、思想を表す庭園だという認識を持った方はもしかすると誰もいないかもしれません。
というわけでヴェルサイユ宮殿の最大の秘密はその有名な庭園がフリーメイスンリーの思想を表す象徴で形作られているというところにあります。かつてフジテレビの人気番組「トリビアの泉」でヴェルサイユ宮殿の庭園にはミッキーマウスの顔があるという内容をやっていたそうですが、それもライオンズクラブやロータリークラブを通じた、特にフジテレビの場合はお台場のシンボルやフランスから贈られた自由の女神像の関係もあり、そうした中でのフランスフリーメイスンリーから伝えられた秘密のやや変わった形での暴露であったのかもしれません。
それでは実際の写真を見ていきます。まずわかりやすいように全景のグーグルマップの写真を出してしまいましょう。とにかく微に入り細に入りわかりやすいブログです。
まあ庭園の南北は大体日の沈む方向が鏡の間に一番光が入るように設計されているんですね。恐らく夏至にあたる6月24日ころに最も長く沈む夕日が鏡の間を照らし明るく太陽の恩恵が感じられるように作られていると思います。そういうわけでこの写真で上に当たる方向が北西の方角となります。まあそれだけで大体太陽信仰、フリーメイスンリーの結成にまつわる夏至と冬至の〇に二重線のシンボルとも重なるわけですが、まあそれだけでもフリーメイスンリーと言って過言ではないわけです。
上部に十字の形の大運河があるわけですが、これがもちろんGodのGと同じシンボル、宗教、キリスト教を示すものである事は良いかと思います。それを囲むように上下に菱形の∧∨で囲む形はシンボリズムの基本です。右側のところをルイ十四世とルイ十五世の愛人用の邸宅と、マリー・アントワネットのイギリス風の村の建築、いわゆるトリアノン宮殿でシンボルの造形を壊してしまっているのはいただけません。もしかするとシンボリズムに対する罪でマリー・アントワネットはギロチンにかけられたのでしょうか。
その下になるいわゆるヴェルサイユ宮殿の庭園とされる常に開放されている歩ける部分に関してはそれぞれ実際の写真を見ながら解説していきます。最初にミッキーの顔といわれるとそう見えるかもしれませんが、もちろん庭園の配置にフリーメイスンリーのシンボリズムの意味が込められているのだよという示唆に他ならないかと思われます。
ユネスコの世界文化遺産第一号に認定されているそうで、そういう意味でもユネスコも、世界文化遺産もフリーメイスンリーの規格で選定されているという事で良いのだと思います。鎌倉も世界文化遺産の登録申請などあったかと思いますがその辺どうでしょうか。白黒のタイルのところから外に出るとこんな感じでした。かなり早い時間から開放されているようで、庭園自体は入場無料なので朝早くはランニングで走る人が数多くいる感じでした。とにかく整備が大変という感じで、また意味のわからない前衛芸術は置かないといけないというフランスの思想というか、現代と過去を常に繋ぐ象徴なんだと思いますが、日本のように古いもののところには新しいものを置いてはいけないというものとは対照的なんだと思いました。
なんだかよくわかりませんが前衛芸術が中心にあります。3段の形だしフリーメイスンリーと関係あるのかもしれませんが良くわかりません。電波塔みたいです。水庭と訳される二つの池で鏡の役割をしているようです。
ちょうど秋分に近い頃でしたが大体入口の方から太陽が昇ってくる感じになります。恐らく夏至の太陽に合わせた建築になっていると思われます。その辺りはフランス語の論文が当たればあるのではないでしょうか。翻訳して日本語で出せばすぐに博士論文でしょうね。
ラトナの泉というようです。ローマ神話の女神の名前のようです。その先が緑の絨毯、さらにアポロンの泉で大水路の十字となります。緑の絨毯は335メートルあるそうで、まあメートル法がまだ確立されていなかった時代ですが、大体手頃な巨大なものという事で東京タワーの333mのモデルになったのかもしれませんね。
太陽王の神殿を占める人々の図でしょうか。まあ完成当時から庭園は基本的に国民に開放される空間であったようで、この様な姿になるのが完成当時からのあるべき姿であるのだと思われます。撮った時はベストショットと思ったのですがまあ色々内容が濃いのでそれほどの意味はありませんね。
まあいずれにしてもここまでで示されているのは左右対称の対称性の象徴だと思います。フリーメイスンリーで基本的に示されるヤキンとボアズの柱の二元性の象徴を表しているのですね。
ラトナの泉から先に行くと左右がまたフランス風の花壇になっていますね。フランスの象徴的なヴェルサイユ宮殿でフランス風というのもおかしいですが、かすみ草を加えた花束みたいなアレンジの花壇ですね。日本ではあまり見かけません。植え込みの植栽も幾何学的な感じに刈り込んであります。当初からこういう形なのかはわかりませんが、恐らくそういう指示もあるのだと思われます。要するに幾何学模様なのですね。Geometryという事だと思います。
右の方に歩いてきたのですね。ケレースの泉というようです。四季を表す4つの泉が配置されていて、小麦の収穫する夏を象徴しているようです。
こんな感じです。あまり情緒はありません。
訳の分からない野球場のような広場があります。フィールドオブドリームスの映画のようです。星の木立と訳されるようで、いわゆるペンタゴンの形をしています。庭園で最初に設計されたという事で、恐らく象徴の中で最も重要とされるのだと思います。すなわち国防総省のペンタゴンであり、五稜郭のシンボリズムです。キリスト教のベツレヘムの星に取られる五芒星の内側であり、ピタゴラス学派の象徴でもあります。黄金比を示し、美と数学と法、神の存在の究極の姿ととらえられるのかと思われます。まあ実際には造成前の広場みたいなところで、恐らくいつでも誰もいないかと思われます。
なんじゃこりゃという疑問符が付きながらその周囲を巡ります。ここは迷路にはなっていないのですが迷いそうです。かつてはこの庭園の王妃の木立のところに有名な迷路があったそうですが、恐らく本当に迷ってしまっていやな思いをする人が続出であったので後にはローマ・ギリシア風の木立となったようです。その当時は迷路にイソップ物語をモチーフとした39の像があったそうです。イソップ物語といえば三本の矢の話の元だそうですが、ギリシアの寓話集ですが、教訓に富んでいるとはいえ知らないと恐ろしいので不評だったでしょうね。
まあある意味あの時代のディズニーランドみたいなものであったのかもしれません。イッツアスモールワールドのような教訓めいた遊園地のような役割であったのかもしれません。しかし率直に言ってこの庭園のこの造形を見ると王様は気が狂ったとか訳がわからないと思うのが正直なところだと思います。一種の帝王学なのでしょうが、まあ実際のところはフリーメイスンリーなので王様だけではなくあらゆる技術者と建築家が設計して様々なアイディアを結実したものなのです。
そのものずばりのオベリスクの噴水とその周囲の泉とアポロンの泉のところです。本当は噴水があるわけですが無いとさっぱり美しくないし意味がわかりませんが、まあピラミッドの泉やオベリスクの泉はそのもののエジプト文化を意味していて、キリスト教、ユダヤ教の源流としてのギリシア・ローマ文明、エジプト文明を意味している、いわゆるフリーメイスンリーの考え方を表しています。アポロンを中心に置いて太陽神信仰を示しているのですね。ルイ十三世の時代は白鳥の泉であったそうです。まあ自身の愛称であった太陽王の名前から太陽信仰を追求したのですね。
アポロンの泉からヴェルサイユ宮殿を望む図です。完全に逆光です。
大水路の方向でしょうか。まあこんな感じでこれを整備するのはくたびれそうです。
像が並んでいます。まあ個別に見ていたら日が暮れてしまいます。ローマ・ギリシア神話の神々の像だと思われますが、それぞれに逸話があるのだと思われます。
ちょうど朝で整備していたので撮りました。こういう専用の機械で刈り込んでいくのですが、こういうのが無い時代は恐ろしく手間がかかったかと思います。まあしかし整備するのは大変そうです。ただ革命後も保存されたという事はそれがフリーメイスンリーの象徴であったからという他に無いのだと思われます。
これはヘッダーの画像にも使っていますがなかなか壮観です。意味がわからないと恐怖を感じると思われます。
これは鏡の泉から見たバッカスの泉でしょうか。ブドウを収穫する秋を象徴しているようです。まあちょっと怖くなって印象的な写真を撮って早く回っちゃおうと思っていたようです。
列柱の回廊があるのですが閉鎖されていました。恐らくローマのコロッセオをイメージしているのだと思います。イオニア式の列柱だそうです。代表的なものがギリシア・トルコのエフェソスのアルテミス神殿だそうで、有名なマウソロスの霊廟の作者と同じ人が柱に彫刻したそうです。つまり言いかえればワシントンD.C.のHouse of the Templeの原型がここヴェルサイユ宮殿にあるという事なのでしょうね。しかし当時は立ち入り禁止でした。まあ実際現地ではそんな事露とも思っていません。
で、ここに来て初めて気付きます。あれ明らかにAll Seeing Eyeの形じゃないかと。まあつまりそういう事です。庭園でフリーメイスンリーのシンボリズムを表して教えを伝えていたのですね。鏡の泉というそうです。明らかにAll Seeing Eyeの形をして、Gloryを伴っていますのでわかる人も多いかと思います。
鏡の泉とGloryに当たる木立の道です。先ほどの威圧する木立ではなく背丈が低くなり見通しができるようになり印象が異なっています。見渡せる事で先が広がるAll Seeing Eyeの全てを見通す事や開かれた印象の効果を狙ったものかと思われます。庭園で実際に受ける印象がそのまま教えとなっているのだと思われます。啓蒙の印象といったところでしょうか。
王妃の木立というそうです。かつてはここにイソップ物語にちなんだ像を置いた迷路があったそうです。恐らくあまりに混乱を引き起こすのでこの形の開かれた空間に変更したのだと思われます。象徴としての一本の木とそれを囲むようにギリシア・ローマ風の庭園となっており非常に整った落ち着いた空間となっています。先ほどのペンタゴンの空間の星の木立などとは対照的です。
木立に疲れて広いところに出て行っているのですね。
アポロンの水浴の木立ちの方に来たのですが改修中でした。非常に改修中で立ち入り禁止のものが多かったです。
また背の高い木立を抜けていきます。
ネプチューンの泉とドラゴンの泉ですがまだ誰もいません。噴水も出ていないしちょっとこの時は駄目ですね。この辺りはその他に三つの泉の木立や凱旋門の木立、ピラミッドの泉があり、いわゆるフリーメイスンリーの象徴が集まっています。ネプチューンが海王星で海神である事を考え、またドラゴンがロンドンの象徴である事を考えるとフリーメイスンが主体のイギリス海軍との連携で戦争に勝った事を意味しているのではないでしょうか。もちろん三つの泉の木立はブラザールイ十四世がフリーメイスンとなった事を意味すると思われます。三つの泉の木立はブラザールイ十四世が設計したそうです。画像は実物を見るか写真を検索してください。
この先に三つの泉の木立があったようですがこれもまた改修中でした。結構ポイントのものが改修中でしたね。また来いという事だと思われます。
これは何の泉かわかりません。左右で対称をなす泉のネプチューン側のものです。放射状の炎条を伴っており星の形なのだと思われます。
この右に写っているのがピラミッドの泉です。この時は噴水も出ていないし全く注目していませんね。この辺りがフランスフリーメイスンリーの奥深さなのでしょうね。まあ完全に歩き疲れていますし噴水を待つほどの余裕もありません。
最初の前衛芸術は要するにヤキンとボアズの柱を象徴していたのですね。まあ全体にフリーメイスンリーの象徴と合わせた解説が無ければ全然わかりませんね。まあそういう役割をこのブログがしているわけです。これを読んでヴェルサイユ宮殿に行く人が増えますかね。
いわゆるヴェルサイユ宮殿の写真として紹介される際に最も美しい光景として出てくるオランジュリー、花壇になるのでしょうか。(追記:オランジュリーはオレンジと月桂樹を多く植えた温室や花壇という事だそうで、主に地中海世界の豊かな収穫を意味するのだと思われます。カトリックを中心とした世界の豊かな華やかな安定した生活を意味しているとして差し支えないと思います。)幾何学模様で美しい模様ですが、反対がネプチューンとドラゴンの泉でしたがどういう意味になるのでしょうか。
オランジュリーは美しい花壇という事で写真を撮っている人が多いです。その後方にスイスの水の一部と名前を付けられた池があります。つまりそういう事ですね。イギリス海軍と永世中立国のスイスに挟まれたフランスの外交の基本姿勢を示しているという事でしょう。それがすなわち象徴化されたフランスの地理と地政学という事です。
で写真は終わりというところでヴェルサイユ宮殿の庭園についてフリーメイスンリー的考察をまとめましょう。
まず対称性の象徴として水庭が二つあり中心の二つ揃いがそれぞれ対称性を象徴しています。ネプチューンとドラゴンの泉とスイスの水の一部はそれぞれイングランドのフリーメイスンリーとスイスなどに象徴されるカトリックと密接に関わったフリーメイスンリーを地政学的に対称としているのだと思われます。ピラミッドや三つの泉の木立と凱旋門の泉で戦争の勝利や王がフリーメイスンとなる事でイギリス海軍の助けを受けて戦争に勝利する事を示していると思われます。そこから反時計回りに右側からパーフェクトアシュラーをかたどった広場と、ごつごつとしたラフアシュラーを示したアポロンの水浴の木立、これは英国式と中国式の折衷の庭園という事です。そしてそこからペンタゴンのキリスト教とピタゴラス学派の象徴を通ってオベリスクの象徴へと行きます。エンケラドス、ドームの木立はそれぞれジュピターに関わるローマ神話の逸話とドームの建築の教訓であると思われます。そこからアポロンの泉は基本的に全てを見通す目の形となり、王権がそれらを見守っているという事となっているのかと思われます。イオニア式列柱の列柱廊とマロニエの木立はそれぞれ教訓を示しているのだと思われます。そこから左の王の庭園はエジプトのスカラベの形であると思われます。
その下の鏡の泉が再びAll Seeing Eyeでエジプトの王権の歴史を教訓としているものと思われます。そこから下の王妃の木立がかつてはイソップ物語に基づいた迷路であった事と一本の木、もちろんこれはユダヤ教の生命の樹を意味するわけですが、そこにたどり着くローマ・ギリシア風の庭園という事になるのだと思われます。同時に舞踏場の円形劇場が、それらがオペラや当時ブラザールイ14世が自ら太陽王と名乗る事になった演劇や芸術によってそれらを伝える教訓となるという意味になるかと思われます。自由七科のリベラルアーツを象徴していると考えられます。そしてスイスの水の一部とともに美しい幾何学のオランジュリーが、その反対側のネプチューンとドラゴンとピラミッドの泉と三つの泉の木立が戦争とフリーメイスンの修業を意味するのと対照的に王としての平和と安定した優雅な生活を象徴しているものと思われます。もちろんこれは逆に時計回りに回って王としての優雅な生活からエジプトの王権の逸話に至って、オベリスクからフリーメイスンのイギリス海軍に至るというのでもよいのだと思います。
すなわちワシントンD.C.の秘密がブラザーワシントンの波乱の一生であったのと同じく、ヴェルサイユ宮殿の庭園の謎はブラザールイ14世の波乱に満ちたフリーメイスンとしての一生を後のルイ15世らに伝えるべく帝王学としてしるしたものかと思われます。それはすなわちその後の全てのフリーメイスンに示したフリーメイスンとしての教訓、ブラザールイ十四世の一生を示した教訓なのだと思われます。
さらに加えるとそれらが集約して庭園の反対側の都市側に3本の威光として認められ、王権の安定が人民に三位一体のキリスト教や三権分立としてもたらされるという事なのだと思われます。啓蒙専制君主の時代のフリーメイスンの王としてこれ以上の表現は無いのだと思われます。(追記:もちろんナントの勅令の廃止でプロテスタントを弾圧し宗教的寛容を中止した事は全くフリーメイスンリーとは相容れない政策ですが、その事がユグノー教徒のイングランドやネーデルランドやドイツへの亡命を促し、ひいてはブラザーデザグリエのようなフランス文化をもたらす重要なフリーメイスンを多く生み出すことにもつながる事になったわけで、むしろナントの勅令の廃止の意図はそこにあったと言っても過言ないのだと思われます。)
外の石畳が石工の細かい仕事を象徴しています。まさに石工の宮殿と庭園であったわけです。ごつごつした周辺と道の部分の平らな石が象徴と認められるかと思います。まさにそれも教訓ではないでしょうか。教えの道を歩む事が最も早く正しく目的地に行きつく事ができるという事でしょう。
まあそうは言っても観光地で毎日せっせと観光客が来る土地です。そういうところを開放して秘密としているところが価値があり世界遺産とされている所以なのだと思われます。
観光バスと車の駐車場が左右にあります。ゴシックの尖塔もあります。
地図があるので撮りましたがこの地図自体が教えになっているのですね。
ブラザールイ14世像です。
正面にかなり古い建築の郵便局があります。郵便制度が非常に重要である事を象徴しているのだと思われます。やはり対称形で三を強調した建築となっています。
日本のブランドだと思いますが、フリーメイスンリーのシンボルを意識したポスターのようです。
再びマルシェですね。花やチーズを売っていました。
いわゆる普通の左官職人さんが働いていました。
帰りの列車からお墓が見えたので撮りました。オベリスクもいくつかあったのですが、写真には写りませんでした。フリーメイスンリーの活動が恐らく最も盛んな国であってもフリーメイスンの数自体はそれほど多くなく、その象徴も明らかに認めながら一般には認められてはいないというのがまさにフリーメイスンリーというところであるかと思われます。
パリ、サンラザール駅に戻ってきました。その後は再びルーヴル美術館です。
しかし長いですねえ。付いてこれてますか~?
さてさて大分間があいてしまって、間に色々入ったので何が何やらわからなくなった方が多いのかもしれませんが、まだロンドン・パリ編の最後が終わっていなかったのですね。まあパリもヴェルサイユ宮殿を周るといかにもフリーメイスンリー関連というところが終わってしまうわけですが、あえてヴェルサイユ宮殿を超特急で周ったのはこの最後のルーヴル美術館をぜひ再び周りたかったからでした。前回周って写真を撮りまくってiPhoneの電池が切れたというのもあるのですが、一度周ってその収蔵物のフリーメイスンリーに与えた影響の大きさと、そのコレクションの洗練さ、重要さ、美的要素の整いをあからさまに感じてこれは出来れば一週間くらいかけてじっくり見たいものだと思ったので、せめて短い滞在時間の中でもう一回周っていこうと思うのはまあ自然な事であったと思います。あとはやはり私自身の陥りやすい特性だと思いますが、コンピューターも壊れてしまっていたせいで事前にあまり詳しい勉強をせずに見に行った事で、どれがポイントの展示物なのかというところがガイドブックの知識ですら入っていなかったので、せめてガイドブックに載っているものは確認しておこうというところが思われたからでした。
私個人としての現在思う事は是非事前に英語版でも日本語版でも最低ウィキペディアの内容に目を通してから見学に行くのが現代の最も効率的で重要な予備知識ではないかと思っています。もちろんその上でガイドブックに目を通しておかなければならないかと思います。
さてあとは題名なんですが、フランス大東社の綱領である無神論者でも認めるという部分に拘るわけではありませんが、直接ルーヴル美術館を周っていてそれを強く感じたわけではありませんが、パリを巡っていてこのブログに書く副題として色々考えて思い浮かんだものであったので、パリ篇最後の項目として再び用いることとしました。後でフリーメイスンリーとキリスト教についてという題名で、ユダヤ教、カトリック、プロテスタントとフリーメイスンリーの繋がりについて多少問題になるかもしれませんが書こうと思っています。その際にはフランス大東社の無神論者でもフリーメイスンとして認めるという部分が一つのフリーメイスンリーの啓蒙思想や理神論と呼ばれる考え方の追求の結果としてポイントになってくるのだと思われます。もちろんフランス大東社で認められる無神論者とは非道徳的な無神論者ではなく、信仰や道徳を追及していった結果としての極めて現実的で建設的な無神論者であり、フリーメイスンリーの追及する理論や理想から外れたものではありません。
さて能書きが長くなりましたがサンラザール駅からタクシーでルーヴル美術館に移動します。
途中タクシーで前を通ったので写真を撮りました。マドレーヌ寺院というそうです。カトリック教会だそうですが革命期を過ごしているのでこんな形だそうです。上部の彫刻は最後の審判を表しているそうです。カトリック教会とは思いもよりませんでした。まさにフリーメイスンリーの街パリです。
天気が良いので改めて入口の写真を撮ります。なかなか美術館自体が極めて立派で美しい建築になっているのですね。何度でも行きたいものです。
有名な逆さのピラミッドも探して撮りました。カルーセル入口の方で、正面入り口から入って左の方であったと思います。微妙に上部のピラミッドとは場所が違うところなのですね。
自然と虹色が出ていましたが、前々日の虹が白日夢のようで、毎日観光客が異なるパリでは特にそれに注目する人はいないようでした。
パリでも有名な場所には必ず人が集まっていましたが、意味も無く集まる感じは世界各国一緒のようです。
地下鉄からの連絡口なのでしたかね。正面から入るとわざわざ行く事はありません。ブティックなどが並んでいて、一旦退場すると再入場でセキュリティーを受けなおさないといけません。
再び入場して彫刻の展示室です。写真の撮り方も少しこなれています。どれが良いとかいうのまではわかりませんが、全体の雰囲気は伝わるでしょうか。この左手の方のオリエントの展示室に向かいます。
バビロニアのハンムラビ法典の本物でしょうかね。目には目を、歯には歯をは実は旧約聖書のトーラーの有名な文句でもあります。実際問題旧約聖書はバビロン捕囚の時代に成立した事が有力なので、当然のことながらバビロニアの法律を引き継いだメソポタミア地方の逸話がふんだんに取り込まれているのですね。つまり旧約聖書の世界、古代ユダヤの世界を知るにはエジプトだけではなく現在のイラクやイランにまたがる古代メソポタミアの世界を知らなければ完全な片手落ちになるのです。そして古代世界のそれら二大文明の刺激のしあいがイスラエル王国の存在の源であり、また後のローマ帝国と古代ペルシアの両立や、後の地中海世界とイスラム王朝の並立にも繋がっていくのだと思われます。十字軍や後の大航海時代にもつながっていき、フランスフリーメイスンリーのGrand Orient大東社という名前にもあらわされるものとなるのだと思います。
太陽信仰なのでしょうかね。
オリエントの絵画の方が数が少ないせいもあるのかエジプトのかなり型があるものより自由な印象がありますね。実際には流行や型が長い時代でそれぞれ地方ごとにあるのだと思われますが。
大英博物館でも目立っていたラマッス(人頭有翼獣)ですかね。こちらはそれが何組もありました。これだけ見ても良いものはフランスがイギリスの何倍も取っているという構図があったりします。なかなか実際のヨーロッパの関係は直接見ないとわかりません。
まあフリーメイスンリーの歴史を見るまでも無く、こういう代表的な美術館、博物館を見るとそれぞれの国同士の関係が単純に透けて見える感じがあります。とにかく一番良いもののコレクション冥利に尽きる完品で学術的価値の高いものは今回はルーヴル美術館にある感じでした。そしてフランスの場合はそれが植民地からの略奪品の感じがしないで、極めて学術的な美術品として扱われている印象が強いというかそれだけなのですね。やはりその辺りが革命で流された血の代償なのでしょうか。
陳列の仕方も工夫が行きとどいています。
この辺の展示物も説明したいのですが、まあルーヴルの公式を参照してください。
オリエントはライオンとか牛とかが多いのでしょうかね。
展示物の細かい説明はちょっとわかりませんね。日本テレビでやっていたルーヴルの特集で巨大な建築として紹介されていましたかね。日本語のオーディオガイドを聴きながら一週間くらいかけて回るのが正しい観覧なのでしょうが、そういうことをできる人は少ないでしょうね。
ギリシア彫刻の方へ来たのでしょうか。ミロのヴィーナスを観ていなかったのですね。床が若干モザイクです。
ミロのヴィーナスの周りもなかなかの人だかりです。奥さんや彼女をミロのヴィーナスと対比させるのは何なんでしょうね。まああまり美術に興味はないというところでしょうか。
実際には似たような彫刻が他にもたくさんあり、見た目はほとんど変わりません。
いかにも美の殿堂と言う雰囲気ですが、いかにも過ぎて客の興味は低下するというのは世の常です。
再びエジプト関連展示です。
太陽の船でしょうか。船のシンボリズムは古代エジプトからのもののようです。
神殿の移築でしょうかね。
王名表でしょうかね。
ヒエログリフの解説でしょうか。フクロウのmの由来も書いてありました。ヘッダーの画像に使用しています。MM21や3Mやマクドナルドのシンボリズムとも一部関連するのでしょうが、UGLEのフクロウとのダジャレが濃いのではないでしょうか。まあフリーメイスンリーの一般的なシンボリズムとはちょっと異なります。Rのシンボリズムとも近いような、いわゆるアルファベットのシンボリズムと言うところでしょう。
前回撮らなかったものでしょうかね。時代が比較的下ったものが多いようです。
パピルスでしょうかね。かなり時代は下っているのだと思います。
ギリシア・エーゲ海文明でしょうか。
ギリシア語の石板ですね。これはオーディオガイドを聞かないと全くわかりません。色々内容の説明があるのだと思います。
十字架やvesica piscisのようなキリスト教のシンボリズムが現れてきます。四獣でしょうか。ちょっと種類が違うようですが、東と西に分かれたエジプトやオリエントの共通の起源からできた珍しい動物のセットでしょうね。人類の起源がアフリカであった事の証拠かもしれません。
これは確か有名な像であったかと思います。写真のない時代の生き映しの技術ですね。恐らく初めてみた人は驚嘆したのだと思います。
ミケランジェロでしょうかね。ミケランジェロは多くがイタリア、ローマ、フィレンツェにあるのだと思います。ルーヴルではこれとその他少しであったと思います。
ここから絵画です。なんでしょうね。アラブの王様みたいです。
ジェリコーのメデューズ号の筏です。実際の事件を元にしたものだそうです。ブラザーナポレオンの帝政の後の王政復古の時代だそうです。ジェリコーは32歳で早世しておりフリーメイスンにはならなかったようです。
恐らくキリストの神殿での説教とかをモチーフとしているのでしょうが、ちょっと絵の規模が大きすぎてわかりませんね。この絵の解説を作るだけで論文が書けそうです。しかしカラフルです。
これはダヴィンチでしょうかね。ルーヴルの主要な作品一つで日本では何万人の大行列で何億円も集まるのが現実ですね。
ダヴィンチの三作品ですね。もちろんこれらのモチーフが四福音書にあるのはご理解いただけたかと思います。
東方正教会のイコンの様式でしょうか。平面的で東の文化の影響を感じます。
ルイ十四世の間ですかね。ブルボン王朝の秘宝はほとんどがフランス革命で散逸してしまったそうです。まあ実際にはそれがフランス革命の一つの原動力でもあったのでしょうね。
再びエジプトです。オベリスクの冠石でしょうか。
なんですかねえ。有名な座像なんだと思います。
書記坐像ですね。以前も撮っていましたが、ガイドブックを見てわざわざ再び来たのです。色がどの程度褪せているのかわかりませんが、少なくとも古代エジプト人がアフリカ人に近い有色人種であったことがわかります。まあほぼ現代のエジプト人とほとんど変わらないのでしょうね。古代ユダヤ人がいわゆるアラブ系の現代のパレスチナ人と同じというのも説得力があります。
ミケーネ文明やエーゲ海文明というものではないでしょうか。
これはミケーネ文明の青銅器でしょうか。
これはいかにもフリーメイスンリーのロッジの天井のようですが、エーゲ海の海をイメージしたものかもしれません。書いてある文字はギリシアの高名な彫刻家の名前であるようです。
さて最後のルーヴル巡りも三分割ですが、再びめぐる機会があれば更に詳しく解説する事があるかもしれません。横須賀の博物館もなかなかですが、あまり人が多くないですね。東京国立博物館も私のフリーメイスンリーグッズを展示していただいてもう少し雰囲気を変えてみたらいかがでしょうか。まあ様々なインスピレーションに満ちあふれる場所が博物館であるようです。
私個人としての現在思う事は是非事前に英語版でも日本語版でも最低ウィキペディアの内容に目を通してから見学に行くのが現代の最も効率的で重要な予備知識ではないかと思っています。もちろんその上でガイドブックに目を通しておかなければならないかと思います。
さてあとは題名なんですが、フランス大東社の綱領である無神論者でも認めるという部分に拘るわけではありませんが、直接ルーヴル美術館を周っていてそれを強く感じたわけではありませんが、パリを巡っていてこのブログに書く副題として色々考えて思い浮かんだものであったので、パリ篇最後の項目として再び用いることとしました。後でフリーメイスンリーとキリスト教についてという題名で、ユダヤ教、カトリック、プロテスタントとフリーメイスンリーの繋がりについて多少問題になるかもしれませんが書こうと思っています。その際にはフランス大東社の無神論者でもフリーメイスンとして認めるという部分が一つのフリーメイスンリーの啓蒙思想や理神論と呼ばれる考え方の追求の結果としてポイントになってくるのだと思われます。もちろんフランス大東社で認められる無神論者とは非道徳的な無神論者ではなく、信仰や道徳を追及していった結果としての極めて現実的で建設的な無神論者であり、フリーメイスンリーの追及する理論や理想から外れたものではありません。
さて能書きが長くなりましたがサンラザール駅からタクシーでルーヴル美術館に移動します。
途中タクシーで前を通ったので写真を撮りました。マドレーヌ寺院というそうです。カトリック教会だそうですが革命期を過ごしているのでこんな形だそうです。上部の彫刻は最後の審判を表しているそうです。カトリック教会とは思いもよりませんでした。まさにフリーメイスンリーの街パリです。
天気が良いので改めて入口の写真を撮ります。なかなか美術館自体が極めて立派で美しい建築になっているのですね。何度でも行きたいものです。
有名な逆さのピラミッドも探して撮りました。カルーセル入口の方で、正面入り口から入って左の方であったと思います。微妙に上部のピラミッドとは場所が違うところなのですね。
自然と虹色が出ていましたが、前々日の虹が白日夢のようで、毎日観光客が異なるパリでは特にそれに注目する人はいないようでした。
パリでも有名な場所には必ず人が集まっていましたが、意味も無く集まる感じは世界各国一緒のようです。
地下鉄からの連絡口なのでしたかね。正面から入るとわざわざ行く事はありません。ブティックなどが並んでいて、一旦退場すると再入場でセキュリティーを受けなおさないといけません。
再び入場して彫刻の展示室です。写真の撮り方も少しこなれています。どれが良いとかいうのまではわかりませんが、全体の雰囲気は伝わるでしょうか。この左手の方のオリエントの展示室に向かいます。
バビロニアのハンムラビ法典の本物でしょうかね。目には目を、歯には歯をは実は旧約聖書のトーラーの有名な文句でもあります。実際問題旧約聖書はバビロン捕囚の時代に成立した事が有力なので、当然のことながらバビロニアの法律を引き継いだメソポタミア地方の逸話がふんだんに取り込まれているのですね。つまり旧約聖書の世界、古代ユダヤの世界を知るにはエジプトだけではなく現在のイラクやイランにまたがる古代メソポタミアの世界を知らなければ完全な片手落ちになるのです。そして古代世界のそれら二大文明の刺激のしあいがイスラエル王国の存在の源であり、また後のローマ帝国と古代ペルシアの両立や、後の地中海世界とイスラム王朝の並立にも繋がっていくのだと思われます。十字軍や後の大航海時代にもつながっていき、フランスフリーメイスンリーのGrand Orient大東社という名前にもあらわされるものとなるのだと思います。
太陽信仰なのでしょうかね。
オリエントの絵画の方が数が少ないせいもあるのかエジプトのかなり型があるものより自由な印象がありますね。実際には流行や型が長い時代でそれぞれ地方ごとにあるのだと思われますが。
大英博物館でも目立っていたラマッス(人頭有翼獣)ですかね。こちらはそれが何組もありました。これだけ見ても良いものはフランスがイギリスの何倍も取っているという構図があったりします。なかなか実際のヨーロッパの関係は直接見ないとわかりません。
まあフリーメイスンリーの歴史を見るまでも無く、こういう代表的な美術館、博物館を見るとそれぞれの国同士の関係が単純に透けて見える感じがあります。とにかく一番良いもののコレクション冥利に尽きる完品で学術的価値の高いものは今回はルーヴル美術館にある感じでした。そしてフランスの場合はそれが植民地からの略奪品の感じがしないで、極めて学術的な美術品として扱われている印象が強いというかそれだけなのですね。やはりその辺りが革命で流された血の代償なのでしょうか。
陳列の仕方も工夫が行きとどいています。
この辺の展示物も説明したいのですが、まあルーヴルの公式を参照してください。
オリエントはライオンとか牛とかが多いのでしょうかね。
展示物の細かい説明はちょっとわかりませんね。日本テレビでやっていたルーヴルの特集で巨大な建築として紹介されていましたかね。日本語のオーディオガイドを聴きながら一週間くらいかけて回るのが正しい観覧なのでしょうが、そういうことをできる人は少ないでしょうね。
ギリシア彫刻の方へ来たのでしょうか。ミロのヴィーナスを観ていなかったのですね。床が若干モザイクです。
ミロのヴィーナスの周りもなかなかの人だかりです。奥さんや彼女をミロのヴィーナスと対比させるのは何なんでしょうね。まああまり美術に興味はないというところでしょうか。
実際には似たような彫刻が他にもたくさんあり、見た目はほとんど変わりません。
いかにも美の殿堂と言う雰囲気ですが、いかにも過ぎて客の興味は低下するというのは世の常です。
再びエジプト関連展示です。
太陽の船でしょうか。船のシンボリズムは古代エジプトからのもののようです。
神殿の移築でしょうかね。
王名表でしょうかね。
ヒエログリフの解説でしょうか。フクロウのmの由来も書いてありました。ヘッダーの画像に使用しています。MM21や3Mやマクドナルドのシンボリズムとも一部関連するのでしょうが、UGLEのフクロウとのダジャレが濃いのではないでしょうか。まあフリーメイスンリーの一般的なシンボリズムとはちょっと異なります。Rのシンボリズムとも近いような、いわゆるアルファベットのシンボリズムと言うところでしょう。
前回撮らなかったものでしょうかね。時代が比較的下ったものが多いようです。
パピルスでしょうかね。かなり時代は下っているのだと思います。
ギリシア・エーゲ海文明でしょうか。
ギリシア語の石板ですね。これはオーディオガイドを聞かないと全くわかりません。色々内容の説明があるのだと思います。
十字架やvesica piscisのようなキリスト教のシンボリズムが現れてきます。四獣でしょうか。ちょっと種類が違うようですが、東と西に分かれたエジプトやオリエントの共通の起源からできた珍しい動物のセットでしょうね。人類の起源がアフリカであった事の証拠かもしれません。
これは確か有名な像であったかと思います。写真のない時代の生き映しの技術ですね。恐らく初めてみた人は驚嘆したのだと思います。
ミケランジェロでしょうかね。ミケランジェロは多くがイタリア、ローマ、フィレンツェにあるのだと思います。ルーヴルではこれとその他少しであったと思います。
ここから絵画です。なんでしょうね。アラブの王様みたいです。
ジェリコーのメデューズ号の筏です。実際の事件を元にしたものだそうです。ブラザーナポレオンの帝政の後の王政復古の時代だそうです。ジェリコーは32歳で早世しておりフリーメイスンにはならなかったようです。
恐らくキリストの神殿での説教とかをモチーフとしているのでしょうが、ちょっと絵の規模が大きすぎてわかりませんね。この絵の解説を作るだけで論文が書けそうです。しかしカラフルです。
これはダヴィンチでしょうかね。ルーヴルの主要な作品一つで日本では何万人の大行列で何億円も集まるのが現実ですね。
ダヴィンチの三作品ですね。もちろんこれらのモチーフが四福音書にあるのはご理解いただけたかと思います。
東方正教会のイコンの様式でしょうか。平面的で東の文化の影響を感じます。
ルイ十四世の間ですかね。ブルボン王朝の秘宝はほとんどがフランス革命で散逸してしまったそうです。まあ実際にはそれがフランス革命の一つの原動力でもあったのでしょうね。
再びエジプトです。オベリスクの冠石でしょうか。
なんですかねえ。有名な座像なんだと思います。
書記坐像ですね。以前も撮っていましたが、ガイドブックを見てわざわざ再び来たのです。色がどの程度褪せているのかわかりませんが、少なくとも古代エジプト人がアフリカ人に近い有色人種であったことがわかります。まあほぼ現代のエジプト人とほとんど変わらないのでしょうね。古代ユダヤ人がいわゆるアラブ系の現代のパレスチナ人と同じというのも説得力があります。
ミケーネ文明やエーゲ海文明というものではないでしょうか。
これはミケーネ文明の青銅器でしょうか。
これはいかにもフリーメイスンリーのロッジの天井のようですが、エーゲ海の海をイメージしたものかもしれません。書いてある文字はギリシアの高名な彫刻家の名前であるようです。
さて最後のルーヴル巡りも三分割ですが、再びめぐる機会があれば更に詳しく解説する事があるかもしれません。横須賀の博物館もなかなかですが、あまり人が多くないですね。東京国立博物館も私のフリーメイスンリーグッズを展示していただいてもう少し雰囲気を変えてみたらいかがでしょうか。まあ様々なインスピレーションに満ちあふれる場所が博物館であるようです。
このブログ始まって以来最大の空白期間となったわけですが、皆さんお元気でしょうか。
まあ世の中色々事件が多発して、日本も地震やら何やら本当に様々な事件が散発して一週間か十日といえども現代は本当に変化が激しく気忙しいというのがまさに時代の特色ではないかとそういう印象ではないでしょうか。
色々と書き途中の内容や、すぐに書き続く事ができるネタはあるわけですが、どうも情報社会の最先端を担っていると自負するこのブログですが、なかなか環境的にも状況的にもそれなりの内容を維持するためにも若干の休息が徐々に必要となって来たのが明らかなのかもしれません。
それで最も継続しやすいアメリカの州章シリーズもあり、その他にもいくつか内容の案があるわけですが、色々な状況を鑑みてここで改めて最も私的な部類に属するフリーメイスンリー関連の読書の、文学と音楽の趣味の濃厚なブラザースタンダールによる処女作モーツァルト伝についてを取り上げようかと思います。
まあ私はブラザースタンダールについては高校倫理の教科書で恋愛論の作者として知ったのが初めてだったわけで、その後大岡昇平の「パルムの僧院」を読んで初めて読書の楽しみというものを知った感じであったわけですが、実際「恋愛論」は読んでみて冒頭の「情熱恋愛は実際には存在しない」という彼の論を読んで世の中の最大の秘密を知ったような衝撃を受けたものでした。
まあ内容についてはかなり昔なのでほぼ忘れてしまっていますが、恋愛論の内容については翻訳やニュアンスの問題もあり、そのような内容で書いてあるかどうかは保証できかねますが、いずれにしてもいわゆる大岡訳を読んでスタンダリアンとなったと自覚する人間としては、大岡昇平訳が聖書の翻訳版のように最も推奨される翻訳であるかと思われますが、読んだ当時は原著を読まなければならないと思ったものでした。(大岡昇平もフィリピンに出兵したりしているそうですが、亡くなられたのはやはり12月25日クリスマスだそうです。)
ブラザースタンダールがフリーメイスンであったと知ったのはもちろんフリーメイスンリーについて知った後であり、受験勉強で独自にStudy in Scarletを翻訳した事があるブラザーサーアーサー・コナン・ドイルがフリーメイスンであったと知った時より衝撃でした。今でもあまり信じられないほどですが、ここで記事にすることでブラザースタンダールがフリーメイスンであるという事を理解し納得する過程となればと思っています。
私自身特に文学や読書に専心した思いはなかったのですが、学生時代に特に現在に繋がるインターネットやフリーメイスンリーに繋がる事以外にスポーツや勉強、趣味といったところで自分から積極的に熱中したという事ははっきりとはなく、読書にしてもいわゆる常識や古典としての知識を求めた結果であり、ブラザースタンダールはその中では比較的偏った傾向のある著者であり、その他には海外の作家としてはシェイクスピアやヘミングウェイ、トルストイやドストエフスキーと言ったいわゆる世界文学全集に含まれる長編小説といったものを翻訳で読んでいる、いわゆる詰まらない読者であり、読書そのものを楽しむというほどにも無い人間ですが、その中で唯一熱中して読んだと言えるのがブラザースタンダールの「パルムの僧院」大岡昇平訳であったかと思います。ただその「パルムの僧院」であっても大岡昇平訳以外を読んではっきりと内容の違いを感じてなんとまあ翻訳で異なるものかという事を認識し、ブラザーモーツァルト伝が処女作であると知りなかなかそういうものの理屈を知ったという感じになってしまったところでしょうか。
とまあブラザーモーツァルト伝の読書が色々な偏った経験に基づいた動機であったわけですが、読んでみて久々にブラザースタンダールの好感持てる筆致と読者を巻き込む音楽的情熱と再会し、そしていわゆる現在に繋がるブラザーモーツァルトの人気の基礎を作っているフリーメイスンリーの繋がりの中での周辺の人々と時代の情熱が感じられ、その時代のまさにフリーメイスンリーが最大の光輝を放っていた純粋に近いエネルギーを感じられる古典ともアンティークともとれる懐かしさとぬくもりを感じられる、近代の聖書とも言えるようなものであるかと思います。もちろん現在に至るいわゆる一般的なブラザーモーツァルトのイメージを作った本であるかと思うのですが、その対照が映画「アマデウス」であり、それらの中間でありより実体に近いのがナチスドイツ制作の映画「モーツァルトの恋」であるのかと思います。実際のブラザーモーツァルトについてはもちろんその時代のドイツ・オーストリア、フランス、イギリスといったヨーロッパのフリーメイスンリーを含めた事情を含めて、ブラザーモーツァルトの実際のフリーメイスンとしての活動や履歴について残されたすべての秘密を知って初めて理解されるものではないかと思います。
そういう意味ではこのブラザースタンダールによるブラザーモーツァルト伝は主にマスメディアが十分に発達していなかった時代のヨーロッパで音楽的にも文化的にも遅れていたとされるドイツ・オーストリア出身の神童から成長した音楽家の逆輸入とも言える趣味人によるマスメディアでの紹介であり、まさに現代のマスコミュニケーションの仕事そのものであったかと思われますが、もちろんそこにはブラザースタンダールの好ましい人間性や情熱的な理性ともいえる確信的な仕掛けが貼り巡らされているものかと思います。
この本に関連して私はブラザーチマローザの「秘密の結婚」のオペラも観劇したわけですが、果たしてブラザーモーツァルトの作品と比肩するという感想には到りませんでしたが、当時の文化と音楽の中心地であったイタリアにおいて辺境の地ドイツ・オーストリアで現代の古典とされるオペラが作られるとは常識外であったのだというのが前提であったのだと思いますし、その大元がやはりカトリックとプロテスタント、フリーメイスンリーという思想や哲学の前提であり、それらが文学や音楽、科学や文化という社会全体に大きな影響を与えていたという事の明確な証左であるかと思われます。
絵画についてもオルセー美術館の回などでイギリスとイタリア、フランス、オランダとの絵画文化の交流について触れたりしましたが、音楽や文学においてもヨーロッパのイギリス、フランス、イタリア、ドイツ・オーストリア、ロシアの間の交流は特にやはりフリーメイスンリーが成立して以降は顕著だと思われ、それらにおいて明確に音楽と文学の両面において嚆矢であったのがこの一冊であったのだと思われます。
ブラザーモーツァルトに関しては「魔笛」の内容について前回触れましたが、晩年のもう一つのオペラセリア作品「皇帝ティートの慈悲」がいわゆるローマ帝国のヴェスヴィオ火山の噴火によるポンペイの悲劇の時代を元にした、カトリック教会の古代ローマの文献を元にした作品であり、その主人公の皇帝ティトスの即位が父親が亡くなった翌日の6月24日という事であり、ユリウス歴の時代であり聖ヨハネの生誕日がユリウス歴では7月7日という事で、まあなかなかいわゆる暦の混乱があるわけですが、ユダヤ戦争の時代でもあり、皇帝ティトスの愛人はユダヤ人女性であったということで、なかなか洗礼者ヨハネの日にまつわる秘密が組み合わさった興味深い作品となっているようです。(ブラザーモーツァルトのフリーメイスンロッジ恩恵への加入は28歳1784年12月14日だったそうで、第二階級への昇級が1785年の1月7日という事でした。12月14日はブラザーワシントンの命日でもあり、その他フリーメイスンリー関連のイベントや誕生日忌日が重なってる日でもあります。12月24日の10日前でありなかなか意味が複雑ですが、様々な意味が隠されている日と思われます。)
いずれにしてもブラザーモーツァルトもブラザースタンダールも作品を味わうのが最大の彼らの理解であり、彼らの人となりを伝え聞くことよりもまず不死となった彼ら自身に直接文字や音を通して会う事で自身の体験としフリーメイスンリーの真実とするのが望ましいのではないでしょうか。
(インターネットの検索で出てくるブラザースタンダールの伝記によると1806年に23歳でパリで聖カロリンロッジでフリーメイスンとなったそうです。情熱的な恋愛の後で父親の支援が打ち切られた後だそうです。フランス人でインターネットの検索でフリーメイスンかどうかが出てくる例は少ないので、ブラザースタンダールはそういう意味ではフランスの代表的フリーメイスンと言えるのかもしれません。)(プロジェクトグーテンベルクのブラザースタンダールの仏語原文の作品へのリンクを置きます。恋愛論の原文のリンクも載せておきます。)
パリ、モンマルトル墓地の墓銘碑「Arrigo Beyle Milanese Scrisse Amo Visse ミラノ人アッリゴ・ベイレ 書いた 愛した 生きた」は有名かと思います。
英語版ウィキペディアにあった恋愛の結晶化の過程を描いたブラザースタンダールの自筆だそうです。最後はローマに至るようです!
まあ世の中色々事件が多発して、日本も地震やら何やら本当に様々な事件が散発して一週間か十日といえども現代は本当に変化が激しく気忙しいというのがまさに時代の特色ではないかとそういう印象ではないでしょうか。
色々と書き途中の内容や、すぐに書き続く事ができるネタはあるわけですが、どうも情報社会の最先端を担っていると自負するこのブログですが、なかなか環境的にも状況的にもそれなりの内容を維持するためにも若干の休息が徐々に必要となって来たのが明らかなのかもしれません。
それで最も継続しやすいアメリカの州章シリーズもあり、その他にもいくつか内容の案があるわけですが、色々な状況を鑑みてここで改めて最も私的な部類に属するフリーメイスンリー関連の読書の、文学と音楽の趣味の濃厚なブラザースタンダールによる処女作モーツァルト伝についてを取り上げようかと思います。
モーツァルト (ミュージック・ライブラリー) (2006/03/23) スタンダール 商品詳細を見る |
まあ私はブラザースタンダールについては高校倫理の教科書で恋愛論の作者として知ったのが初めてだったわけで、その後大岡昇平の「パルムの僧院」を読んで初めて読書の楽しみというものを知った感じであったわけですが、実際「恋愛論」は読んでみて冒頭の「情熱恋愛は実際には存在しない」という彼の論を読んで世の中の最大の秘密を知ったような衝撃を受けたものでした。
パルムの僧院 (上) (新潮文庫) (1951/02/19) スタンダール 商品詳細を見る |
パルムの僧院〈下〉 (新潮文庫) (1951/03/27) スタンダール 商品詳細を見る |
恋愛論 (新潮文庫) (1970/04/07) スタンダール 商品詳細を見る |
まあ内容についてはかなり昔なのでほぼ忘れてしまっていますが、恋愛論の内容については翻訳やニュアンスの問題もあり、そのような内容で書いてあるかどうかは保証できかねますが、いずれにしてもいわゆる大岡訳を読んでスタンダリアンとなったと自覚する人間としては、大岡昇平訳が聖書の翻訳版のように最も推奨される翻訳であるかと思われますが、読んだ当時は原著を読まなければならないと思ったものでした。(大岡昇平もフィリピンに出兵したりしているそうですが、亡くなられたのはやはり12月25日クリスマスだそうです。)
ブラザースタンダールがフリーメイスンであったと知ったのはもちろんフリーメイスンリーについて知った後であり、受験勉強で独自にStudy in Scarletを翻訳した事があるブラザーサーアーサー・コナン・ドイルがフリーメイスンであったと知った時より衝撃でした。今でもあまり信じられないほどですが、ここで記事にすることでブラザースタンダールがフリーメイスンであるという事を理解し納得する過程となればと思っています。
私自身特に文学や読書に専心した思いはなかったのですが、学生時代に特に現在に繋がるインターネットやフリーメイスンリーに繋がる事以外にスポーツや勉強、趣味といったところで自分から積極的に熱中したという事ははっきりとはなく、読書にしてもいわゆる常識や古典としての知識を求めた結果であり、ブラザースタンダールはその中では比較的偏った傾向のある著者であり、その他には海外の作家としてはシェイクスピアやヘミングウェイ、トルストイやドストエフスキーと言ったいわゆる世界文学全集に含まれる長編小説といったものを翻訳で読んでいる、いわゆる詰まらない読者であり、読書そのものを楽しむというほどにも無い人間ですが、その中で唯一熱中して読んだと言えるのがブラザースタンダールの「パルムの僧院」大岡昇平訳であったかと思います。ただその「パルムの僧院」であっても大岡昇平訳以外を読んではっきりと内容の違いを感じてなんとまあ翻訳で異なるものかという事を認識し、ブラザーモーツァルト伝が処女作であると知りなかなかそういうものの理屈を知ったという感じになってしまったところでしょうか。
とまあブラザーモーツァルト伝の読書が色々な偏った経験に基づいた動機であったわけですが、読んでみて久々にブラザースタンダールの好感持てる筆致と読者を巻き込む音楽的情熱と再会し、そしていわゆる現在に繋がるブラザーモーツァルトの人気の基礎を作っているフリーメイスンリーの繋がりの中での周辺の人々と時代の情熱が感じられ、その時代のまさにフリーメイスンリーが最大の光輝を放っていた純粋に近いエネルギーを感じられる古典ともアンティークともとれる懐かしさとぬくもりを感じられる、近代の聖書とも言えるようなものであるかと思います。もちろん現在に至るいわゆる一般的なブラザーモーツァルトのイメージを作った本であるかと思うのですが、その対照が映画「アマデウス」であり、それらの中間でありより実体に近いのがナチスドイツ制作の映画「モーツァルトの恋」であるのかと思います。実際のブラザーモーツァルトについてはもちろんその時代のドイツ・オーストリア、フランス、イギリスといったヨーロッパのフリーメイスンリーを含めた事情を含めて、ブラザーモーツァルトの実際のフリーメイスンとしての活動や履歴について残されたすべての秘密を知って初めて理解されるものではないかと思います。
そういう意味ではこのブラザースタンダールによるブラザーモーツァルト伝は主にマスメディアが十分に発達していなかった時代のヨーロッパで音楽的にも文化的にも遅れていたとされるドイツ・オーストリア出身の神童から成長した音楽家の逆輸入とも言える趣味人によるマスメディアでの紹介であり、まさに現代のマスコミュニケーションの仕事そのものであったかと思われますが、もちろんそこにはブラザースタンダールの好ましい人間性や情熱的な理性ともいえる確信的な仕掛けが貼り巡らされているものかと思います。
この本に関連して私はブラザーチマローザの「秘密の結婚」のオペラも観劇したわけですが、果たしてブラザーモーツァルトの作品と比肩するという感想には到りませんでしたが、当時の文化と音楽の中心地であったイタリアにおいて辺境の地ドイツ・オーストリアで現代の古典とされるオペラが作られるとは常識外であったのだというのが前提であったのだと思いますし、その大元がやはりカトリックとプロテスタント、フリーメイスンリーという思想や哲学の前提であり、それらが文学や音楽、科学や文化という社会全体に大きな影響を与えていたという事の明確な証左であるかと思われます。
絵画についてもオルセー美術館の回などでイギリスとイタリア、フランス、オランダとの絵画文化の交流について触れたりしましたが、音楽や文学においてもヨーロッパのイギリス、フランス、イタリア、ドイツ・オーストリア、ロシアの間の交流は特にやはりフリーメイスンリーが成立して以降は顕著だと思われ、それらにおいて明確に音楽と文学の両面において嚆矢であったのがこの一冊であったのだと思われます。
ブラザーモーツァルトに関しては「魔笛」の内容について前回触れましたが、晩年のもう一つのオペラセリア作品「皇帝ティートの慈悲」がいわゆるローマ帝国のヴェスヴィオ火山の噴火によるポンペイの悲劇の時代を元にした、カトリック教会の古代ローマの文献を元にした作品であり、その主人公の皇帝ティトスの即位が父親が亡くなった翌日の6月24日という事であり、ユリウス歴の時代であり聖ヨハネの生誕日がユリウス歴では7月7日という事で、まあなかなかいわゆる暦の混乱があるわけですが、ユダヤ戦争の時代でもあり、皇帝ティトスの愛人はユダヤ人女性であったということで、なかなか洗礼者ヨハネの日にまつわる秘密が組み合わさった興味深い作品となっているようです。(ブラザーモーツァルトのフリーメイスンロッジ恩恵への加入は28歳1784年12月14日だったそうで、第二階級への昇級が1785年の1月7日という事でした。12月14日はブラザーワシントンの命日でもあり、その他フリーメイスンリー関連のイベントや誕生日忌日が重なってる日でもあります。12月24日の10日前でありなかなか意味が複雑ですが、様々な意味が隠されている日と思われます。)
いずれにしてもブラザーモーツァルトもブラザースタンダールも作品を味わうのが最大の彼らの理解であり、彼らの人となりを伝え聞くことよりもまず不死となった彼ら自身に直接文字や音を通して会う事で自身の体験としフリーメイスンリーの真実とするのが望ましいのではないでしょうか。
(インターネットの検索で出てくるブラザースタンダールの伝記によると1806年に23歳でパリで聖カロリンロッジでフリーメイスンとなったそうです。情熱的な恋愛の後で父親の支援が打ち切られた後だそうです。フランス人でインターネットの検索でフリーメイスンかどうかが出てくる例は少ないので、ブラザースタンダールはそういう意味ではフランスの代表的フリーメイスンと言えるのかもしれません。)(プロジェクトグーテンベルクのブラザースタンダールの仏語原文の作品へのリンクを置きます。恋愛論の原文のリンクも載せておきます。)
パリ、モンマルトル墓地の墓銘碑「Arrigo Beyle Milanese Scrisse Amo Visse ミラノ人アッリゴ・ベイレ 書いた 愛した 生きた」は有名かと思います。
英語版ウィキペディアにあった恋愛の結晶化の過程を描いたブラザースタンダールの自筆だそうです。最後はローマに至るようです!
さて一旦は作ったものの途中で消えてしまったものですがどうでしょうか。
エジプト・オリエント方面を巡ってその後リシュリュー翼の西洋絵画部門を巡ったのでした。主に中世イタリアの絵画部門はモナリザ人気もあり人で混んでいますが、西洋絵画部門は小品が多いせいもあってかあまり混んでいません。
ブラザーターナーの作品でしょうか。
晩鐘のミレーの作品でしょうか。
ミレーの作品でしょうか。晩鐘に比べると習作のようですがまあ本物をこれだけ見るのはあまりありません。
作者はわかりません。ミレーの作品のようです。
墓場の少女というそうです。ブラザーウジェーヌ・ドラクロワの作品です。ブラザードラクロワも実の父親がブラザーナポレオンの外務大臣であったブラザータレーランであったという説が有力だそうで、最初に自由の女神を絵画にした人でありやはりフリーメイスンだと思われます。
白い靴下の裸婦があります。
怒れるメディアというそうです。
若い女性を連れ去るアフリカの海賊というそうです。
サルダナパロスの死だそうです。かなりボケていますが、代表作のようです。
オフィーリアの死が下段です。
ハムレットとホレイショーです。
ポワティエの戦いです。
ウジェーヌ・ドラクロワの肖像(自画像)です。これは有名だと思います。
リエージュの司祭の暗殺(リエージュの司祭の殺害)です。
フレデリック・フランソワ・ショパンの肖像です。これも有名だと思います。その他ジョルジュ・サンドの肖像も描いているそうです。ジョルジュ・サンドについても著作を読んだら取り上げようかと思っています。
ミラボーとドルー=ブレゼです。
ブラザードミニク・アングルのヴァルパンソンの浴女です。
トルコ風呂です。ブラザーアングルの作品は良く目立ちます。
誰の作品かはわかりませんが、キリストの一場面のようです。後方に未完成のピラミッドが認められます。
額縁の名前からグロスの作品のようです。ブラザーナポレオンの若き日だと思われます。
ブラザーナポレオンのピラミッドの戦いを描いた未完成作品のようです。ブラザーダヴィッドでしょうか。
この辺も作者はわかりませんがなかなか美しいです。
宗教画も美しさがやはりかつてのものとは少し異なります。
コンパスと直角定規が含まれます。
モデルも画家もフリーメイスンなのでしょうね。コンパスをもっています。
ハンマーもマスターのシンボルです。
これはルーヴル美術館の地下の発掘されたかつてのルーヴル城の城壁です。
ちょっと古い絵のようですが床の白黒タイルで撮っているのでしょうね。
これもイタリア様式の宗教画のようですが、白黒タイルですね。
ガブリエル・デストレとその姉妹ビヤール公爵夫人とみなされる肖像だそうです。乳首をつまむのは懐妊を意味するそうですが、アンリ4世の愛妾であったそうで、毒殺されたそうです。なかなかフランスらしい絵画ではないでしょうか。
これも床のタイルの白黒で撮っているようです。後ろにオベリスクもあります。ダリの絵のようです。
こちらもパンテオンとオベリスクが認められます。ローマの虐殺のシーンを描いているようです。
これも白黒の床のものです。フリーメイスンリーのシンボリズムというよりもキリスト教の意味づけのもとでのシンボリズムのようです。
これはダヴィンチコードでも謎の象徴画として取り上げられていたニコラ・プッサンのアルカディアの牧人たちです。ウィキペディアによると、墓石にはラテン語で「エト・イン・アルカディア・エゴ」Et in Arcadia ego という銘があり、画中の人物たちはこの銘文の意味を知ってとまどっているように見え、「エト・イン・アルカディア・エゴ」は、「私もかつてアルカディアにいた」「私はアルカディアにもいる」の2つの意味に解釈可能だが、「私」を「死」の意味に解し「楽園アルカディアにも死は存在する」と解釈するのが妥当とされていて、いわば「死を忘るべからず」「死はどこにでも存在する」という教訓を絵画化したものといえるそうです。マークマスターの位階の教訓として出されるようです。ニコラ・プッサンはグランドロッジ結成前ですがフランスのフリーメイスンであったとされる画家のようです。自画像などにもAll Seeing Eyeを認めたりしているようです。生没年が1594年6月15日から1665年11月19日でシンボリズムを認めます。横須賀でもこの絵を店頭に掲示している店がありましたがどういう意味なのでしょうか。
こちらもやはりブラザーニコラ・プッサンのアシドドのペスト(ペストに襲われるペリシテ人) です。後方にオベリスクを認めます。
こちらもやはりブラザーニコラ・プッサンのサッピラの死(サフィラの死)です。床が白黒のモザイクになっています。
ハンス・ホルバインの自画像のようです。コンパスや定規など様々な幾何学の道具が認められます。ロンドンのナショナルギャラリーにあった長く伸びた髑髏の象徴画を含んだ大使たちが有名かと思います。死の舞踏の版画でも有名だそうです。良く髑髏の象徴画として取り上げられます。
こちらもハンス・ホルバインの作品のようです。司教を描いた像でしょうか。聖書が開かれ、十字が象徴的に示されています。後ろの司教の帽子がAll Seeing Eyeの形になっているようです。恐らくハンス・ホルバインもフリーメイスンなのでしょう。
こちらもハンス・ホルバインの作品のようです。色々な象徴が描かれた金貸しの様子のようです。
こちらはドイツの象徴画だと思われます。表と裏でついになっています。髑髏が描かれています。
裏は紋章と三角形のシンボルが描かれています。やはりプロテスタントの思想とシンボリズムは密接に結びついているのですね。
これは明らかにバベルの塔ですが、作者がフランドル地方のルーカス・ファン・ヴァルケンボルシュというそうです。やはり新教との関係のようです。
エルグレコのようですが、ポルビュスというパリにいた画家のようです。知られざる傑作というバルザックの短編小説に取り上げられている方のようです。ブラザーニコラ・プッサンとの関係が語られていて、恐らく二人ともフリーメイスンなのだと思われます。映画「美しき諍い女」の題材となった話のようです。
こういう奥行きのある会堂もフリーメイスンリーのシンボルとなるようです。まあ今で言うと設計図や完成予想図のようなもので、実務的メイスンリーにとっては非常に重要なイメージ画となるのでしょうね。作者はわかりません。
ここからずーっとルーベンスの作品のようです。ルーベンスは工房があって、貴族の注文に応じて工房で弟子たちが皆作品を作っていたようなので、あまり画風とか決まった形とかはないようです。アンソニー・ヴァン・ダイクも弟子の一人のようです。ルーベンス自体は7ヶ国語を操る外交官のような存在で、更に人文学者でもあったそうで、フランドルのプロテスタントであり、フリーメイスンに近い存在なのだと思われます。まあいわゆる近代西洋絵画のオーソリーティー中のオーソリーティーというところでしょうか。
女性の感じがブラザーセザンヌのようですが、むしろブラザーセザンヌが真似をしたというところなのでしょうね。
フランドルの祝祭です。
ここまでルーベンスでしょうかね。ルーベンスも渋谷Bunkamuraで4月21日まで展覧会をやっていました。その後北九州市立美術館でやっているようです。
ここからアンソニー・ヴァン・ダイクだと思われますが、なんせ工房の弟子なのでどこから師の工房の作品かどこから弟子の作品かわかりません。
アンソニー・ヴァン・ダイクはチャールズ一世の宮廷画家となったため、イギリス風の黒い衣装が多いですね。この辺りが白黒のシンボルとも関連してくるのかもしれません。いわゆるゴシック風ですね。現代の正統派ユダヤ教徒のようないでたちでしょうか。
英国王チャールズ1世の肖像ですね。
リッチモンド公ジェームス・ステュアートの肖像のようです。
どなたかの肖像のようですが詳しくわかりません。
白黒の床ですね。どなたの作品かはわかりません。
天地創造でしょうか。詳しくわかりません。
床が白黒で撮ったのですね。詳しくはわかりません。
これも床が白黒で撮ったのですね。肖像画はフリーメイスンぽい感じでしょうか。写真に撮ったのはそれぞれ何かしら理由があり、実際に展示されている作品はここにあるものの3倍から5倍くらいあったかと思います。それ以上あったかもしれません。
レンブラントですね。レンブラントも人気なのでこの肖像画一つくらいで行列のできる展覧会が日本では開かれるようです。現在皇太子夫妻が訪問中のオランダでも代表作夜警が大きく飾られていましたね。フリーメイスンリーに極めて近い新教国の工房をもった画家でした。
螺旋階段があったりします。なかなか螺旋階段の画題は珍しいです。
レンブラントの作品は美しいですね。その後の技術である写真に近いものがあるかもしれません。光に対するこうした感覚はその後の写真や映写機の技術に応用されていったのかもしれません。
これもレンブラントでしょうか。ちょっとわかりません。
これは真珠の首飾りの女で有名なフェルメールですね。シンボルが色々入った作品で有名です。天文学者とレースを編む女ですね。この辺りは確実に一点で大行列の展覧会が日本で開けますかね。ルーヴル美術館では小品はあまり見ている人はいません。
これはやはりレンブラントですかね。月もシンボルということなのだと思われます。日本画の構図のようでもあります。
これらはやはりルーベンスの大作でしょうか。マリー・ド・メディシスの生涯とその関連の連作だと思われます。虹が書いてあったので撮ったのですね。
さていかがでしょうか。フランドル地方や北方ドイツのシンボリズムを含むルネサンス期の絵画がたくさんあったかと思いますが、お目当てとしていたデューラーの自画像は結局場所が分からず見つけることが出来ませんでした。実際展示してあったのに見つけられなかったようです。
この作品だそうですが、やはり素晴らしいようですね。まあ何度も行きたいけれども一生のうち数えるほどしか行けない美術館がここルーヴル美術館でしょうね。私は展示を写真を撮りまくっていて足元の注意を怠って鉄柱に右足の脛を強打し骨が折れるかと思いましたが、それを見ていた中国人か台湾人に酷く笑われたのが良い思い出です。なかなか美術品も展示や価値の事が難しいです。恐らくこの写真に載せた作品だけで数百億以上の価値があるのでしょうが、まあ神はいつも見ているという教訓でしょうか。
是非何度も行きたいものです。絵画についてはこれでほぼ終わりでしょうか。
パリ・ロンドンの旅もあとわずかで終了となってきます。皆さんいかがでしょうか。アベノミクスで円安となりヨーロッパ旅行もかなり高くなりそうですが以前よりハードルは低いものと思われます。私も結局為替やらなんやらでたくさんとられましたので多少の出費は許容しないといけないかもしれません。食事なども日本と同じものを求めなければ十分に下調べしてすべて満足する旅行ができることと思います。ぜひこのブログの知識など活かされて楽しい旅のプランを考えてはいかがでしょうか。また近所の美術館などで美術の勉強をされるのも良いかもしれません。このブログの内容が何か良い事の行動するきっかけとなれば幸いです。
エジプト・オリエント方面を巡ってその後リシュリュー翼の西洋絵画部門を巡ったのでした。主に中世イタリアの絵画部門はモナリザ人気もあり人で混んでいますが、西洋絵画部門は小品が多いせいもあってかあまり混んでいません。
ブラザーターナーの作品でしょうか。
晩鐘のミレーの作品でしょうか。
ミレーの作品でしょうか。晩鐘に比べると習作のようですがまあ本物をこれだけ見るのはあまりありません。
作者はわかりません。ミレーの作品のようです。
墓場の少女というそうです。ブラザーウジェーヌ・ドラクロワの作品です。ブラザードラクロワも実の父親がブラザーナポレオンの外務大臣であったブラザータレーランであったという説が有力だそうで、最初に自由の女神を絵画にした人でありやはりフリーメイスンだと思われます。
白い靴下の裸婦があります。
怒れるメディアというそうです。
若い女性を連れ去るアフリカの海賊というそうです。
サルダナパロスの死だそうです。かなりボケていますが、代表作のようです。
オフィーリアの死が下段です。
ハムレットとホレイショーです。
ポワティエの戦いです。
ウジェーヌ・ドラクロワの肖像(自画像)です。これは有名だと思います。
リエージュの司祭の暗殺(リエージュの司祭の殺害)です。
フレデリック・フランソワ・ショパンの肖像です。これも有名だと思います。その他ジョルジュ・サンドの肖像も描いているそうです。ジョルジュ・サンドについても著作を読んだら取り上げようかと思っています。
ミラボーとドルー=ブレゼです。
ブラザードミニク・アングルのヴァルパンソンの浴女です。
トルコ風呂です。ブラザーアングルの作品は良く目立ちます。
誰の作品かはわかりませんが、キリストの一場面のようです。後方に未完成のピラミッドが認められます。
額縁の名前からグロスの作品のようです。ブラザーナポレオンの若き日だと思われます。
ブラザーナポレオンのピラミッドの戦いを描いた未完成作品のようです。ブラザーダヴィッドでしょうか。
この辺も作者はわかりませんがなかなか美しいです。
宗教画も美しさがやはりかつてのものとは少し異なります。
コンパスと直角定規が含まれます。
モデルも画家もフリーメイスンなのでしょうね。コンパスをもっています。
ハンマーもマスターのシンボルです。
これはルーヴル美術館の地下の発掘されたかつてのルーヴル城の城壁です。
ちょっと古い絵のようですが床の白黒タイルで撮っているのでしょうね。
これもイタリア様式の宗教画のようですが、白黒タイルですね。
ガブリエル・デストレとその姉妹ビヤール公爵夫人とみなされる肖像だそうです。乳首をつまむのは懐妊を意味するそうですが、アンリ4世の愛妾であったそうで、毒殺されたそうです。なかなかフランスらしい絵画ではないでしょうか。
これも床のタイルの白黒で撮っているようです。後ろにオベリスクもあります。ダリの絵のようです。
こちらもパンテオンとオベリスクが認められます。ローマの虐殺のシーンを描いているようです。
これも白黒の床のものです。フリーメイスンリーのシンボリズムというよりもキリスト教の意味づけのもとでのシンボリズムのようです。
これはダヴィンチコードでも謎の象徴画として取り上げられていたニコラ・プッサンのアルカディアの牧人たちです。ウィキペディアによると、墓石にはラテン語で「エト・イン・アルカディア・エゴ」Et in Arcadia ego という銘があり、画中の人物たちはこの銘文の意味を知ってとまどっているように見え、「エト・イン・アルカディア・エゴ」は、「私もかつてアルカディアにいた」「私はアルカディアにもいる」の2つの意味に解釈可能だが、「私」を「死」の意味に解し「楽園アルカディアにも死は存在する」と解釈するのが妥当とされていて、いわば「死を忘るべからず」「死はどこにでも存在する」という教訓を絵画化したものといえるそうです。マークマスターの位階の教訓として出されるようです。ニコラ・プッサンはグランドロッジ結成前ですがフランスのフリーメイスンであったとされる画家のようです。自画像などにもAll Seeing Eyeを認めたりしているようです。生没年が1594年6月15日から1665年11月19日でシンボリズムを認めます。横須賀でもこの絵を店頭に掲示している店がありましたがどういう意味なのでしょうか。
こちらもやはりブラザーニコラ・プッサンのアシドドのペスト(ペストに襲われるペリシテ人) です。後方にオベリスクを認めます。
こちらもやはりブラザーニコラ・プッサンのサッピラの死(サフィラの死)です。床が白黒のモザイクになっています。
ハンス・ホルバインの自画像のようです。コンパスや定規など様々な幾何学の道具が認められます。ロンドンのナショナルギャラリーにあった長く伸びた髑髏の象徴画を含んだ大使たちが有名かと思います。死の舞踏の版画でも有名だそうです。良く髑髏の象徴画として取り上げられます。
こちらもハンス・ホルバインの作品のようです。司教を描いた像でしょうか。聖書が開かれ、十字が象徴的に示されています。後ろの司教の帽子がAll Seeing Eyeの形になっているようです。恐らくハンス・ホルバインもフリーメイスンなのでしょう。
こちらもハンス・ホルバインの作品のようです。色々な象徴が描かれた金貸しの様子のようです。
こちらはドイツの象徴画だと思われます。表と裏でついになっています。髑髏が描かれています。
裏は紋章と三角形のシンボルが描かれています。やはりプロテスタントの思想とシンボリズムは密接に結びついているのですね。
これは明らかにバベルの塔ですが、作者がフランドル地方のルーカス・ファン・ヴァルケンボルシュというそうです。やはり新教との関係のようです。
エルグレコのようですが、ポルビュスというパリにいた画家のようです。知られざる傑作というバルザックの短編小説に取り上げられている方のようです。ブラザーニコラ・プッサンとの関係が語られていて、恐らく二人ともフリーメイスンなのだと思われます。映画「美しき諍い女」の題材となった話のようです。
こういう奥行きのある会堂もフリーメイスンリーのシンボルとなるようです。まあ今で言うと設計図や完成予想図のようなもので、実務的メイスンリーにとっては非常に重要なイメージ画となるのでしょうね。作者はわかりません。
ここからずーっとルーベンスの作品のようです。ルーベンスは工房があって、貴族の注文に応じて工房で弟子たちが皆作品を作っていたようなので、あまり画風とか決まった形とかはないようです。アンソニー・ヴァン・ダイクも弟子の一人のようです。ルーベンス自体は7ヶ国語を操る外交官のような存在で、更に人文学者でもあったそうで、フランドルのプロテスタントであり、フリーメイスンに近い存在なのだと思われます。まあいわゆる近代西洋絵画のオーソリーティー中のオーソリーティーというところでしょうか。
女性の感じがブラザーセザンヌのようですが、むしろブラザーセザンヌが真似をしたというところなのでしょうね。
フランドルの祝祭です。
ここまでルーベンスでしょうかね。ルーベンスも渋谷Bunkamuraで4月21日まで展覧会をやっていました。その後北九州市立美術館でやっているようです。
ここからアンソニー・ヴァン・ダイクだと思われますが、なんせ工房の弟子なのでどこから師の工房の作品かどこから弟子の作品かわかりません。
アンソニー・ヴァン・ダイクはチャールズ一世の宮廷画家となったため、イギリス風の黒い衣装が多いですね。この辺りが白黒のシンボルとも関連してくるのかもしれません。いわゆるゴシック風ですね。現代の正統派ユダヤ教徒のようないでたちでしょうか。
英国王チャールズ1世の肖像ですね。
リッチモンド公ジェームス・ステュアートの肖像のようです。
どなたかの肖像のようですが詳しくわかりません。
白黒の床ですね。どなたの作品かはわかりません。
天地創造でしょうか。詳しくわかりません。
床が白黒で撮ったのですね。詳しくはわかりません。
これも床が白黒で撮ったのですね。肖像画はフリーメイスンぽい感じでしょうか。写真に撮ったのはそれぞれ何かしら理由があり、実際に展示されている作品はここにあるものの3倍から5倍くらいあったかと思います。それ以上あったかもしれません。
レンブラントですね。レンブラントも人気なのでこの肖像画一つくらいで行列のできる展覧会が日本では開かれるようです。現在皇太子夫妻が訪問中のオランダでも代表作夜警が大きく飾られていましたね。フリーメイスンリーに極めて近い新教国の工房をもった画家でした。
螺旋階段があったりします。なかなか螺旋階段の画題は珍しいです。
レンブラントの作品は美しいですね。その後の技術である写真に近いものがあるかもしれません。光に対するこうした感覚はその後の写真や映写機の技術に応用されていったのかもしれません。
これもレンブラントでしょうか。ちょっとわかりません。
これは真珠の首飾りの女で有名なフェルメールですね。シンボルが色々入った作品で有名です。天文学者とレースを編む女ですね。この辺りは確実に一点で大行列の展覧会が日本で開けますかね。ルーヴル美術館では小品はあまり見ている人はいません。
これはやはりレンブラントですかね。月もシンボルということなのだと思われます。日本画の構図のようでもあります。
これらはやはりルーベンスの大作でしょうか。マリー・ド・メディシスの生涯とその関連の連作だと思われます。虹が書いてあったので撮ったのですね。
さていかがでしょうか。フランドル地方や北方ドイツのシンボリズムを含むルネサンス期の絵画がたくさんあったかと思いますが、お目当てとしていたデューラーの自画像は結局場所が分からず見つけることが出来ませんでした。実際展示してあったのに見つけられなかったようです。
この作品だそうですが、やはり素晴らしいようですね。まあ何度も行きたいけれども一生のうち数えるほどしか行けない美術館がここルーヴル美術館でしょうね。私は展示を写真を撮りまくっていて足元の注意を怠って鉄柱に右足の脛を強打し骨が折れるかと思いましたが、それを見ていた中国人か台湾人に酷く笑われたのが良い思い出です。なかなか美術品も展示や価値の事が難しいです。恐らくこの写真に載せた作品だけで数百億以上の価値があるのでしょうが、まあ神はいつも見ているという教訓でしょうか。
是非何度も行きたいものです。絵画についてはこれでほぼ終わりでしょうか。
パリ・ロンドンの旅もあとわずかで終了となってきます。皆さんいかがでしょうか。アベノミクスで円安となりヨーロッパ旅行もかなり高くなりそうですが以前よりハードルは低いものと思われます。私も結局為替やらなんやらでたくさんとられましたので多少の出費は許容しないといけないかもしれません。食事なども日本と同じものを求めなければ十分に下調べしてすべて満足する旅行ができることと思います。ぜひこのブログの知識など活かされて楽しい旅のプランを考えてはいかがでしょうか。また近所の美術館などで美術の勉強をされるのも良いかもしれません。このブログの内容が何か良い事の行動するきっかけとなれば幸いです。
さてルーヴル美術館も最後の回です。
ルーヴル美術館のピラミッドを館内から取った写真です。なかなか珍しいと思うのですが、様子がよくわかって良いかと思います。
これは非常に珍しく有難かった展示ですが、懐中時計を始めとする昔の時計関連の展示ですね。世界で最も貴重なコレクションかもしれません。値段は付くのでしょうか。私も懐中時計はかなり持っていますが、ここのものはすごいですね。いくつか手にとって取り扱ってみたくなります。
こういう宗教画のようなタペストリーが何十枚も展示してありました。前日も見たのですが、その時はiPhoneの電池が無く全く写真に撮れませんでした。ペルシア絨毯と同じで完全に手工業の時代ですから一枚作るのに年単位かかるのだと思います。非常に圧倒されて感動したのですが、見学者はほぼゼロの状況でした。みなさん地元の人は見飽きているのでしょうか。私はキリスト教文化の念のようなものを感じて最もフランスを感じた気がしました。
ちょうど現在六本木の国立新美術館で貴婦人と一角獣展としてフランスからのタペストリーを展示した展覧会が行われているようです。詳細はリンク先を御覧下さい。一種の連動企画でしょうか。タペストリーにしるされた一角獣と獅子はそれぞれスコットランドとイングランドの王権の象徴であり、主題とする五感はFellow Craftのritualに認める一つのテーマであり、最後のテントのようなものはユダヤ教の仮庵の祭りで祝われる出エジプトの際のスコットと呼ばれる移動できる天幕であり、これもフリーメイスンリーのシンボルとなります。ロッジの意味になるのでしょうか。休み中は混んでいるでしょうが是非いらしてみてはいかがでしょうか。
ステンドグラスもどこかの教会から移築したものを展示してありました。このタペストリーとステンドグラスはキリスト教的な見るものを圧倒する念という精神世界を表現したものかと思われます。
こちらもタペストリーですね。場面は全くわかりませんでした。
展示はこんな感じでした。
こうした七宝焼きのような陶器も最高のものが置いてあるようでした。こういうものでも最高のものを出されると東洋として対抗するのも厳しいようです。
これもタペストリーです。農村の狩りの様子でしょうか。
やはりこれも展示の様子でしょうか。
なかなかこういうのも日本でも見た事がないほどの素晴らしいものばかりです。
聖書の場面でしょうか。
立派な装飾の家具も展示してあります。
金細工でしょうか。文様もすさまじく凝っています。
これは非常に感心しましたが、中世の西洋鎧なのですが、機能性もありながら、その装飾性が素晴らしく、恐らく王侯貴族のものであるのでしょうが、打ち出し模様がかつて見たことがないほど素晴らしかったです。
こちらも打ち出し模様の武具ですが、機能性と装飾性を兼ね備えているのでしょうね。
サラマンダーかドラゴンの退治でしょうか。ヤマタノオロチの伝説のようです。聖書の話ではなさそうです。
十字架や装飾具ですが、やはり細かいものは日本より細かい感じでしょうか。
聖ゲオルギオスのドラゴン退治の場面の金の彫刻のようです。
女性の衣装でしょうか。司祭の衣装のようでもあります。
狩りの様子のようです。
聖水瓶だと思われます。
これはまあ展示の様子ですね。
洗礼を与える聖水瓶にもこんな形もあります。秘蹟を行うイメージなのでしょうか。
金の聖母マリア像でしょうか。
教会で使う道具でしょうか。
ステンドグラスもあり教会そのもののようです。
教会の道具が展示してあります。主に聖水瓶でしょうか。
金で作られた箱のようなものです。道具を入れるためのものでしょうか。
剣がありましたが儀式用のものでしょうか。フリーメイスンリーの儀式用のものとも似ています。
これはブラザーナポレオン三世のコレクションだと思われます。中国や日本の象牙製の人形や漆塗りの箱があります。
ブラザーナポレオン三世の肖像画です。
中国製の鳥と植物の象嵌でしょうか。非常に美しかったです。
ブラザーナポレオンの肖像画です。
ブラザーナポレオンの玉座でしょうか。まあ記念撮影用かもしれません。
フリーメイスンリーを意識した感じのものを撮っているのでしょうかね。実際には直接関係なさそうです。
ブラザーナポレオン三世のコレクションだと思いますが、神殿の模型のようなものでしょうか。オベリスクが目立ちます。
4つの美徳のような女性像ですがちょっと違うかもしれません。
小さなステンドグラスがありましたがうまく撮れていません。
彫刻部門の像を一応撮ったのですね。題名などはわかりません。
さて出てみると快晴です。
改めてピラミッドを撮ったら台湾の方でしょうか。いきなり写っていました。
帰りのホテルへの道でモリエールの銅像がありました。基本的にパリもロンドンも銅像がある方はフリーメイスンのようですが、ルイ14世の時代の方でありはっきりとはわかりません。恐らくフリーメイスンなのだと思われます。
写真を撮りまくったのでやはりiPhoneの電池が切れてしまいました。このあとホテルに戻ってユーロスターに再び乗ってロンドンに帰ったのですが、ホテルのフロントにすごい美人の女性がいたりしましたが特にどうという事はありませんでした。まあそんなのもフリーメイスンリーでしょうか。まあパリに美人はいるという事で良いのではないでしょうか。まあいつでも人間の求める美は異性の美というところが教訓なんでしょうかね。
本日はやはり横浜ロッジの定例会の日ですがどうでしょうか。今年のゴールデンウィークはあからさまに休日が快晴の日が続き人出も相当に多く見込まれるようです。さてさてどうなることやら。
この後は旅の余韻という事でロンドンからの写真を載せて終わりです。機会があれば次のエジンバラの国際フリーメイスンリー歴史学会に向けてプログラムの和訳なども載せていこうかと思っています。
ルーヴル美術館のピラミッドを館内から取った写真です。なかなか珍しいと思うのですが、様子がよくわかって良いかと思います。
これは非常に珍しく有難かった展示ですが、懐中時計を始めとする昔の時計関連の展示ですね。世界で最も貴重なコレクションかもしれません。値段は付くのでしょうか。私も懐中時計はかなり持っていますが、ここのものはすごいですね。いくつか手にとって取り扱ってみたくなります。
こういう宗教画のようなタペストリーが何十枚も展示してありました。前日も見たのですが、その時はiPhoneの電池が無く全く写真に撮れませんでした。ペルシア絨毯と同じで完全に手工業の時代ですから一枚作るのに年単位かかるのだと思います。非常に圧倒されて感動したのですが、見学者はほぼゼロの状況でした。みなさん地元の人は見飽きているのでしょうか。私はキリスト教文化の念のようなものを感じて最もフランスを感じた気がしました。
ちょうど現在六本木の国立新美術館で貴婦人と一角獣展としてフランスからのタペストリーを展示した展覧会が行われているようです。詳細はリンク先を御覧下さい。一種の連動企画でしょうか。タペストリーにしるされた一角獣と獅子はそれぞれスコットランドとイングランドの王権の象徴であり、主題とする五感はFellow Craftのritualに認める一つのテーマであり、最後のテントのようなものはユダヤ教の仮庵の祭りで祝われる出エジプトの際のスコットと呼ばれる移動できる天幕であり、これもフリーメイスンリーのシンボルとなります。ロッジの意味になるのでしょうか。休み中は混んでいるでしょうが是非いらしてみてはいかがでしょうか。
ステンドグラスもどこかの教会から移築したものを展示してありました。このタペストリーとステンドグラスはキリスト教的な見るものを圧倒する念という精神世界を表現したものかと思われます。
こちらもタペストリーですね。場面は全くわかりませんでした。
展示はこんな感じでした。
こうした七宝焼きのような陶器も最高のものが置いてあるようでした。こういうものでも最高のものを出されると東洋として対抗するのも厳しいようです。
これもタペストリーです。農村の狩りの様子でしょうか。
やはりこれも展示の様子でしょうか。
なかなかこういうのも日本でも見た事がないほどの素晴らしいものばかりです。
聖書の場面でしょうか。
立派な装飾の家具も展示してあります。
金細工でしょうか。文様もすさまじく凝っています。
これは非常に感心しましたが、中世の西洋鎧なのですが、機能性もありながら、その装飾性が素晴らしく、恐らく王侯貴族のものであるのでしょうが、打ち出し模様がかつて見たことがないほど素晴らしかったです。
こちらも打ち出し模様の武具ですが、機能性と装飾性を兼ね備えているのでしょうね。
サラマンダーかドラゴンの退治でしょうか。ヤマタノオロチの伝説のようです。聖書の話ではなさそうです。
十字架や装飾具ですが、やはり細かいものは日本より細かい感じでしょうか。
聖ゲオルギオスのドラゴン退治の場面の金の彫刻のようです。
女性の衣装でしょうか。司祭の衣装のようでもあります。
狩りの様子のようです。
聖水瓶だと思われます。
これはまあ展示の様子ですね。
洗礼を与える聖水瓶にもこんな形もあります。秘蹟を行うイメージなのでしょうか。
金の聖母マリア像でしょうか。
教会で使う道具でしょうか。
ステンドグラスもあり教会そのもののようです。
教会の道具が展示してあります。主に聖水瓶でしょうか。
金で作られた箱のようなものです。道具を入れるためのものでしょうか。
剣がありましたが儀式用のものでしょうか。フリーメイスンリーの儀式用のものとも似ています。
これはブラザーナポレオン三世のコレクションだと思われます。中国や日本の象牙製の人形や漆塗りの箱があります。
ブラザーナポレオン三世の肖像画です。
中国製の鳥と植物の象嵌でしょうか。非常に美しかったです。
ブラザーナポレオンの肖像画です。
ブラザーナポレオンの玉座でしょうか。まあ記念撮影用かもしれません。
フリーメイスンリーを意識した感じのものを撮っているのでしょうかね。実際には直接関係なさそうです。
ブラザーナポレオン三世のコレクションだと思いますが、神殿の模型のようなものでしょうか。オベリスクが目立ちます。
4つの美徳のような女性像ですがちょっと違うかもしれません。
小さなステンドグラスがありましたがうまく撮れていません。
彫刻部門の像を一応撮ったのですね。題名などはわかりません。
さて出てみると快晴です。
改めてピラミッドを撮ったら台湾の方でしょうか。いきなり写っていました。
帰りのホテルへの道でモリエールの銅像がありました。基本的にパリもロンドンも銅像がある方はフリーメイスンのようですが、ルイ14世の時代の方でありはっきりとはわかりません。恐らくフリーメイスンなのだと思われます。
写真を撮りまくったのでやはりiPhoneの電池が切れてしまいました。このあとホテルに戻ってユーロスターに再び乗ってロンドンに帰ったのですが、ホテルのフロントにすごい美人の女性がいたりしましたが特にどうという事はありませんでした。まあそんなのもフリーメイスンリーでしょうか。まあパリに美人はいるという事で良いのではないでしょうか。まあいつでも人間の求める美は異性の美というところが教訓なんでしょうかね。
本日はやはり横浜ロッジの定例会の日ですがどうでしょうか。今年のゴールデンウィークはあからさまに休日が快晴の日が続き人出も相当に多く見込まれるようです。さてさてどうなることやら。
この後は旅の余韻という事でロンドンからの写真を載せて終わりです。機会があれば次のエジンバラの国際フリーメイスンリー歴史学会に向けてプログラムの和訳なども載せていこうかと思っています。
フリーメイソンと大音楽家たち (2006/12) 吉田 進 商品詳細を見る |
まあブログの一等最初に挙げた本なわけですが、実は読み終えたのがブログのこの章を書き始めたときなわけです。
その位フリーメイスンリーの本は難しいという事なのかもしれませんが、なんと言っても内容がフランスフリーメイスンリーのグラントリアンのグランドマスターが協賛したものという事で、いわゆるフリーメイスンリーという表記ではない、フリーメイソンという本でありながら、公式本と同じ内容になるという、まさにグラントリアンかイングランドグランドロッジかという、スコティッシュライトに課せられた命題を示した本という事なのだと思います。
内容についてはいちいち触れませんが、ブラザーハイドン、ブラザーモーツァルトからブラザーシラーやブラザーベートーヴェンといったいわゆるフランス革命やイルミナティの時代の啓蒙時代のバロックからロマン派という時代の代表的な音楽家のフリーメイスンリーのテーマの音楽について詳しく解説し、それらからロシアのブラザーリムスキー・コルサコフやフィンランドのブラザーシベリウス、アメリカのジャズのきら星について触れて、最後は著者の専門であるフランスの現代音楽家に繋がる系譜についてフリーメイスンリーから述べて、最後は音楽はラヴェルで終わったとする論で閉じるという、まあ読んだことが無い人にはクラシックのフリーメイスンリーの視点からの正当な解説書、聖書と言った内容になっているわけですが、まあいずれにしても本の場合は中古でも買って読んでいただく他ないわけで、このブログはあくまで紹介と感想であるわけです。
まあ私の率直な感想としてはほぼ買ってから3年以上かかって読んだ本という事で、内容が長いという事と重いという事と、それだけの内容がまたグラントリアンのフリーメイスンリーには含まれるという事と、そういうのが結局スコティッシュライトであるという自覚と、文明、文化、音楽それらすべてがフリーメイスンリーに彩られるフランス、イギリスという国、フリーメイスンリーの国という文化、文明がまさに音楽というそれらの中心にあるわけで、まあ今後も音楽に触れるたびにこの本を読み返して、フリーメイスンリーと音楽の関わりについて実体験を増やしていければと思っています。
非常に売れ線ではない本になるわけですが、こういう本がベストセラーになる国にならないと結局文化的に後進国である事からは変わらないのでしょうね。というまあありがちな結論でしょうか。
この後のブログもグラントリアンによる協賛本で、来年のプーチン大統領の来日に合わせたような
ロシアを動かした秘密結社: フリーメーソンと革命家の系譜 (2014/05/22) 植田 樹 商品詳細を見る |
この本の解説と感想です。なかなか面白くて12月14日の選挙前に読み終わっていたのですが、影響も考えてこの流れで書くこととします。デカブリストの乱なんてのもあり、まあ東京タワーもありグラントリアンのロッジも一応あるという日本の現代の政治を理解するうえでも重要そうな、いわゆるロシアの啓蒙運動と共産主義革命のフリーメイスンリーの視点からの、これもやはりグラントリアンの協賛によるというか暴露というかそういう本という事になるわけです。詳しくは次のブログの章になります。
上のフリーメイソンと大音楽家たちの内容に基づいたYouTubeの曲集は現在作成中ですのでお待ち下さい。
Bastille Day in French : le Quatorze Juillet
パリ祭(パリさい)は、フランスで7月14日に設けられている、フランス共和国の成立を祝う日 (Fête nationale) である。
1789年同日に発生しフランス革命の発端となったバスチーユ監獄襲撃および、この事件の一周年を記念して翌年1790年におこなわれた建国記念日 (Fête de la Fédération) が起源となっている。
呼称
フランスでは正式には「Fête nationale française」(フェト・ナスィオナル・フランセーズ、フランス国民祭または国祭)である。しばしば「Quatorze Juillet」または「14(Quatorzeの数字化)―」(カトルズ・ジュイェ、7月14日)とも呼ぶ。
「パリ祭」は日本だけの呼び名である。これは、ルネ・クレール監督の映画 Quatorze Juillet が邦題『巴里祭』として公開されヒットしたためで、邦題を考案したのは、この映画を輸入し配給した東和商事社長川喜多長政たちである。読み方について、今日では「ぱりさい」が一般的だが、長政の妻・かしこは「名付けた者の気持ちとしてはパリまつりでした」[1]と語っている。当時の観客の大半も「パリまつり」と呼んでいたという。荻昌弘もまた「私の感覚では、これはどうあってもパリまつり、だ」と述べている。「巴里祭」「パリ祭」は多くの『歳時記』の夏の季語となっている。
また、英語圏では、バスティーユ襲撃の歴史を重視して、「Bastille day」(バスティーユ・デイ)という。
現在のイベント
7月14日には、フランス各地で一日中花火が打ちあげられる。また慣例として消防士はダンス・チーム bals du 14 juillet を組んで市民に披露する。
午前中にはパリで軍事パレードが開催され、フランス大統領の出席のもとシャンゼリゼ通りからコンコルド広場までを行進する。
パレードはエコール・ポリテクニーク、サン・シール陸軍士官学校、フランス海軍兵学校の生徒による行進で幕を開け、歩兵部隊、機械化部隊が登場する。フランス空軍のアクロバット飛行チームであるパトルイユ・ド・フランスも演技飛行をおこなう。近年においてはフランスの同盟国の要人を招待することが慣例となっている。2004年には英仏協商の100周年を記念して英軍の各部隊 (イギリス海兵隊、王室騎兵乗馬連隊、グレナディアガーズ、王立騎馬砲兵・国王中隊) がシャンゼリゼを行進し、英空軍のレッド・アローズが演技飛行をおこなった。2008年にはPKO部隊もパレード参加した。 2014年には第一次世界大戦開戦100年として参戦した約80カ国が招待された。
パレードにはフランス共和国親衛隊およびパリ消防工兵旅団、フランス国家警察も参加する。行進の最後尾は常にフランス外人部隊が務め(正規軍の120歩/分に比べ、外人部隊では88歩/分と遅い)、沿道からは大きな歓声が浴びせられる。
その後、フランス共和国大統領の演説がおこなわれる。パレード終了後にはエリゼ宮殿において茶会が催される。パリ祭当日にはツール・ド・フランスが開催されており、フランス出身選手はこの日のレースを特別視して勝利を収めようとすることが多い。
歴史
歴史的背景
1789年5月5日、ルイ16世は三部会を召集し、彼らの不満に耳を傾けようとした。平民を代表する第三身分 ( 残りの2つは聖職者と貴族) の議員は、三部会を放棄して国民議会を打ち立てることを決定する。
6月20日、第三身分の議員は「球戯場の誓い」を行った。これは憲法が制定されるまで解散しないことを誓い合ったもので、彼らが集まったホールがジュ・ド・ポーム(テニスの原型)に多用されたことにちなんで名づけられた。
彼らを支持するため、パリの人々はバスティーユを襲撃した。バスティーユは、王の恣意的な拘禁令状 (lettre de cachet) によって拘束された人々の刑務所で、特に著作が王統政府の気分を害したなどの政治犯を拘束することで知られていた。
このようにバスティーユは、君主専制政治の象徴だったのである。包囲の段階で収容されていたのは、7人だけであった。
実際的な抵抗行為としてより、結集と反乱の象徴としてバスティーユ襲撃はより重要な意味を持つ。フランスの歴史における重要性にかかわらず、勇敢なフランスの愛国者がバスティーユを襲って抑圧された農民を何百人も解放するという典型的イメージは沸き起こらないのである。しかしすぐに農民は、報復の脅威に対する準備を思いついた。革命家を解放するといった伝説に反し、普通の犯罪者を少数収容していただけのバスティーユを襲撃したのは、王の軍隊がヴェルサイユからパリに移動してきたというデマに影響されてバスティーユの武器弾薬庫を襲ったためだった。
バスティーユ襲撃からまもなくの8月26日、人間と市民の権利の宣言 (フランス人権宣言) が採択されるのである。
建国記念日
1790年7月14日におこなわれた一周年式典は共和制政府によっておこなわれた大規模な国家式典であった。当時のフランスではこの式典がフランス革命を締めくくるものとして受け止められていた。イベントは当時パリ郊外に位置していたシャン・ド・マルスで開催された。この土地はパリ市民によって義勇兵の宿舎として利用されており、祭典はオータン司教タレーランの祝辞にはじまった。国民軍の司令官であるラ・ファイエットおよびルイ16世が憲法に対する忠誠を誓った。
祝日制定
1878年6月30日、公式決定により共和国を讃える祝祭が開かれた(その様子はクロード・モネの絵に記録されている)。
翌1879年7月14日、改めて準公式に祝祭が開かれた。このときの祝祭で、ロンシャンでは閲兵式、下院ではレオン・ガンベタ (Léon Gambetta) 主催のレセプション (歓迎会) 、「プレ・カトラン」ではルイ・ブランとヴィクトル・ユゴーとの共和国祝祭が行われた。16日のフィガロ紙にあるように、フランス中で「人々はバスティーユの栄光を心から祝した」のである。
1880年5月21日、ベンジャミン・ラスパイユは「7月14日を年一度の祭日とする」法案を提出する。5月21日、次いで6月8日、下院は法案を可決する。上院は6月27日、29日に承認する。1789年8月4日のアンシャン・レジーム崩壊を祝う案に対し、7月14日案が採択されたのである。
法律は1880年7月6日公布され、内務省は各知事に「地域の予算が許す限りの輝きをもって賛美する」よう勧告した。事実、1880年の新祭日の祝賀はすばらしいものになった。
アンリ・マルタンによる上院演説
1880年6月29日に上院議長アンリ・マルタンによっておこなわれた演説:
《略》
忘れてはいけない、この7月14日の裏にあるものを、アンシャン・レジームに対する新時代の勝利は戦いの末にあることを。忘れてはいけない、1789年の7月14日 (= バスティーユ襲撃) の後には、1790年の7月14日 (= 建国記念日、Fête de la Fédération) があったことを。
後者の7月14日を、流血があった、国を分裂したと責めることはできない。それはフランス統一への清めであった。そうだ、古い君主制度が作ったものをささげたのである。
ある人が言ったように、古い君主制度はフランスの本質だったのであり、我々はそれを忘れることはできない。革命は、1790年の今日7月14日に、フランスの精神を作ったとは言えないだろう、神のみがフランスの精神をお持ちだから、だが革命はフランスにその自覚を与えた。革命はフランスに自身の精神を示した。そして覚えておくのだ、我々の歴史で最も美しく純粋なこの日、国の端から端、ピレネーからアルプスやラインまで、すべてのフランス人は手をつないだ。覚えておくのだ、国家領土のすべての地域から、国家警備隊と軍の代表団が、89年の行為を祝賀するためパリにやってきたことを。 覚えておくのだ、そのときのパリを。人々が、年齢や性別を超え、地位や富も関係なく、心から結びつき、その自身の手ですばらしい記念祭 (Fête de la Fédération) の準備に携わったことを。パリはシャン・ド・マルス周辺で働き、この第二帝政によって破壊された実に神聖な円形劇場を立ち上げた。
《略》
もし、あなた方のうち幾人かが最初の7月14日にためらいがあるとしても、後の7月14日にはきっと何とも思わないだろう。私たちを分け隔てる違いがどうであれ、なにものかがそこにとどまっている、それは我々皆が渇望する統一国家の偉大なイメージであり、そのためなら我々は全員が立ち上がって、必要とあれば喜んで死に赴くのである。
制定後
1939年9月に勃発した第二次世界大戦において、フランスがドイツ軍に占領され親独政権であるヴィシー政権ができたためにイギリスに亡命したシャルル・ド・ゴールと自由フランス軍は、1940年から1944年までの記念式典を、亡命先のロンドンで行った。
祝祭から199年を経た1989年、政府はバスティーユ襲撃から200年を経たフランス革命200年記念を謳い、ミッテラン大統領が記念行事に世界各国首脳を招待した。
ブラザーマルキド・サドの長く囚われていたバスティーユ監獄の襲撃のあの日から現在に至るフランス民主主義が始まったのです。私はいまだブラザーエドマンド・バーグの「フランス革命の省察」を読了していませんが、まあそれらが全て政治的潮流の一つであるという事は十分に理解しているかと思います。今日に至る近代社会の成り立ちを知る上で非常に重要な日付である本日7月14日でした。
パリ祭(パリさい)は、フランスで7月14日に設けられている、フランス共和国の成立を祝う日 (Fête nationale) である。
1789年同日に発生しフランス革命の発端となったバスチーユ監獄襲撃および、この事件の一周年を記念して翌年1790年におこなわれた建国記念日 (Fête de la Fédération) が起源となっている。
呼称
フランスでは正式には「Fête nationale française」(フェト・ナスィオナル・フランセーズ、フランス国民祭または国祭)である。しばしば「Quatorze Juillet」または「14(Quatorzeの数字化)―」(カトルズ・ジュイェ、7月14日)とも呼ぶ。
「パリ祭」は日本だけの呼び名である。これは、ルネ・クレール監督の映画 Quatorze Juillet が邦題『巴里祭』として公開されヒットしたためで、邦題を考案したのは、この映画を輸入し配給した東和商事社長川喜多長政たちである。読み方について、今日では「ぱりさい」が一般的だが、長政の妻・かしこは「名付けた者の気持ちとしてはパリまつりでした」[1]と語っている。当時の観客の大半も「パリまつり」と呼んでいたという。荻昌弘もまた「私の感覚では、これはどうあってもパリまつり、だ」と述べている。「巴里祭」「パリ祭」は多くの『歳時記』の夏の季語となっている。
また、英語圏では、バスティーユ襲撃の歴史を重視して、「Bastille day」(バスティーユ・デイ)という。
現在のイベント
7月14日には、フランス各地で一日中花火が打ちあげられる。また慣例として消防士はダンス・チーム bals du 14 juillet を組んで市民に披露する。
午前中にはパリで軍事パレードが開催され、フランス大統領の出席のもとシャンゼリゼ通りからコンコルド広場までを行進する。
パレードはエコール・ポリテクニーク、サン・シール陸軍士官学校、フランス海軍兵学校の生徒による行進で幕を開け、歩兵部隊、機械化部隊が登場する。フランス空軍のアクロバット飛行チームであるパトルイユ・ド・フランスも演技飛行をおこなう。近年においてはフランスの同盟国の要人を招待することが慣例となっている。2004年には英仏協商の100周年を記念して英軍の各部隊 (イギリス海兵隊、王室騎兵乗馬連隊、グレナディアガーズ、王立騎馬砲兵・国王中隊) がシャンゼリゼを行進し、英空軍のレッド・アローズが演技飛行をおこなった。2008年にはPKO部隊もパレード参加した。 2014年には第一次世界大戦開戦100年として参戦した約80カ国が招待された。
パレードにはフランス共和国親衛隊およびパリ消防工兵旅団、フランス国家警察も参加する。行進の最後尾は常にフランス外人部隊が務め(正規軍の120歩/分に比べ、外人部隊では88歩/分と遅い)、沿道からは大きな歓声が浴びせられる。
その後、フランス共和国大統領の演説がおこなわれる。パレード終了後にはエリゼ宮殿において茶会が催される。パリ祭当日にはツール・ド・フランスが開催されており、フランス出身選手はこの日のレースを特別視して勝利を収めようとすることが多い。
歴史
歴史的背景
1789年5月5日、ルイ16世は三部会を召集し、彼らの不満に耳を傾けようとした。平民を代表する第三身分 ( 残りの2つは聖職者と貴族) の議員は、三部会を放棄して国民議会を打ち立てることを決定する。
6月20日、第三身分の議員は「球戯場の誓い」を行った。これは憲法が制定されるまで解散しないことを誓い合ったもので、彼らが集まったホールがジュ・ド・ポーム(テニスの原型)に多用されたことにちなんで名づけられた。
彼らを支持するため、パリの人々はバスティーユを襲撃した。バスティーユは、王の恣意的な拘禁令状 (lettre de cachet) によって拘束された人々の刑務所で、特に著作が王統政府の気分を害したなどの政治犯を拘束することで知られていた。
このようにバスティーユは、君主専制政治の象徴だったのである。包囲の段階で収容されていたのは、7人だけであった。
実際的な抵抗行為としてより、結集と反乱の象徴としてバスティーユ襲撃はより重要な意味を持つ。フランスの歴史における重要性にかかわらず、勇敢なフランスの愛国者がバスティーユを襲って抑圧された農民を何百人も解放するという典型的イメージは沸き起こらないのである。しかしすぐに農民は、報復の脅威に対する準備を思いついた。革命家を解放するといった伝説に反し、普通の犯罪者を少数収容していただけのバスティーユを襲撃したのは、王の軍隊がヴェルサイユからパリに移動してきたというデマに影響されてバスティーユの武器弾薬庫を襲ったためだった。
バスティーユ襲撃からまもなくの8月26日、人間と市民の権利の宣言 (フランス人権宣言) が採択されるのである。
建国記念日
1790年7月14日におこなわれた一周年式典は共和制政府によっておこなわれた大規模な国家式典であった。当時のフランスではこの式典がフランス革命を締めくくるものとして受け止められていた。イベントは当時パリ郊外に位置していたシャン・ド・マルスで開催された。この土地はパリ市民によって義勇兵の宿舎として利用されており、祭典はオータン司教タレーランの祝辞にはじまった。国民軍の司令官であるラ・ファイエットおよびルイ16世が憲法に対する忠誠を誓った。
祝日制定
1878年6月30日、公式決定により共和国を讃える祝祭が開かれた(その様子はクロード・モネの絵に記録されている)。
翌1879年7月14日、改めて準公式に祝祭が開かれた。このときの祝祭で、ロンシャンでは閲兵式、下院ではレオン・ガンベタ (Léon Gambetta) 主催のレセプション (歓迎会) 、「プレ・カトラン」ではルイ・ブランとヴィクトル・ユゴーとの共和国祝祭が行われた。16日のフィガロ紙にあるように、フランス中で「人々はバスティーユの栄光を心から祝した」のである。
1880年5月21日、ベンジャミン・ラスパイユは「7月14日を年一度の祭日とする」法案を提出する。5月21日、次いで6月8日、下院は法案を可決する。上院は6月27日、29日に承認する。1789年8月4日のアンシャン・レジーム崩壊を祝う案に対し、7月14日案が採択されたのである。
法律は1880年7月6日公布され、内務省は各知事に「地域の予算が許す限りの輝きをもって賛美する」よう勧告した。事実、1880年の新祭日の祝賀はすばらしいものになった。
アンリ・マルタンによる上院演説
1880年6月29日に上院議長アンリ・マルタンによっておこなわれた演説:
《略》
忘れてはいけない、この7月14日の裏にあるものを、アンシャン・レジームに対する新時代の勝利は戦いの末にあることを。忘れてはいけない、1789年の7月14日 (= バスティーユ襲撃) の後には、1790年の7月14日 (= 建国記念日、Fête de la Fédération) があったことを。
後者の7月14日を、流血があった、国を分裂したと責めることはできない。それはフランス統一への清めであった。そうだ、古い君主制度が作ったものをささげたのである。
ある人が言ったように、古い君主制度はフランスの本質だったのであり、我々はそれを忘れることはできない。革命は、1790年の今日7月14日に、フランスの精神を作ったとは言えないだろう、神のみがフランスの精神をお持ちだから、だが革命はフランスにその自覚を与えた。革命はフランスに自身の精神を示した。そして覚えておくのだ、我々の歴史で最も美しく純粋なこの日、国の端から端、ピレネーからアルプスやラインまで、すべてのフランス人は手をつないだ。覚えておくのだ、国家領土のすべての地域から、国家警備隊と軍の代表団が、89年の行為を祝賀するためパリにやってきたことを。 覚えておくのだ、そのときのパリを。人々が、年齢や性別を超え、地位や富も関係なく、心から結びつき、その自身の手ですばらしい記念祭 (Fête de la Fédération) の準備に携わったことを。パリはシャン・ド・マルス周辺で働き、この第二帝政によって破壊された実に神聖な円形劇場を立ち上げた。
《略》
もし、あなた方のうち幾人かが最初の7月14日にためらいがあるとしても、後の7月14日にはきっと何とも思わないだろう。私たちを分け隔てる違いがどうであれ、なにものかがそこにとどまっている、それは我々皆が渇望する統一国家の偉大なイメージであり、そのためなら我々は全員が立ち上がって、必要とあれば喜んで死に赴くのである。
制定後
1939年9月に勃発した第二次世界大戦において、フランスがドイツ軍に占領され親独政権であるヴィシー政権ができたためにイギリスに亡命したシャルル・ド・ゴールと自由フランス軍は、1940年から1944年までの記念式典を、亡命先のロンドンで行った。
祝祭から199年を経た1989年、政府はバスティーユ襲撃から200年を経たフランス革命200年記念を謳い、ミッテラン大統領が記念行事に世界各国首脳を招待した。
ブラザーマルキド・サドの長く囚われていたバスティーユ監獄の襲撃のあの日から現在に至るフランス民主主義が始まったのです。私はいまだブラザーエドマンド・バーグの「フランス革命の省察」を読了していませんが、まあそれらが全て政治的潮流の一つであるという事は十分に理解しているかと思います。今日に至る近代社会の成り立ちを知る上で非常に重要な日付である本日7月14日でした。
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再び書評なんですが、前回のフリーメイスンとモーツァルトと出版年代も、その他も含めてセットのような本で、主にフランス大東社によって後援された、フランスの恐らく大東社のフリーメイスンである、ブラザーリュック・ヌフォンテーヌによって書かれた本です。いわゆるフランスフリーメイスンリーの公式の紹介本であり、日本のフリーメイスンリー関連の最大の翻訳者、研究者である吉村正和氏によって翻訳されたものであり、竹下節子さんのフリーメイスン もうひとつの近代史の以前のフランス大東社による日本への紹介本であるかと思われます。
まず出版社なんですが、日本では創元社というところで、どうも創価学会とは関係ないようで、まあ1996年出版という事で、自社連立政権なんて時代であり、橋本龍太郎総理という時代であり、まあ大東社じゃないですが、その後の9.11や3.11、小泉改革や民主党政権、自公連立政権を連想させるような、政治とフリーメイスンリーという視点で、逆に言うと20年後の現在の方が日本人にとって示唆的であり、はるかにわかりやすい内容ではないかと思われるものだと思います。
図譜が多く、上位階級への言及が多く、さらに大東社が中心であってもきちんと英米系の正規派フリーメイスンリーについて対照的にバランス感覚をもって描かれているのが、著者の方がベルギーのブリュッセル自由大学出身のフリーメイスンリーの研究家という事で、まあヨーロッパの位置的にはこれでカトリック側であればイルミナティという事になるのでしょうが、そうではないので、本書ではイルミナティについてはあまり詳しくありません。
フランス革命についてのフリーメイスンリーの関りなどはある意味公式見解の通りというところで、非常に興味深いのは時代もあり、東西冷戦の終結にフランス大東社が関わったという実際の活動であり、かつてのブラザーミュシャがスコティッシュライトの頸飾を作成していたフリーメイスンリー大国のチェコでナチスの占領後から民主化までの間閉鎖されていたロッジが回復するのに影響を与えているなどが興味深かった一方、ロシアでは芳しくないなど、英米系フリーメイスンリーとの地図のモザイクがあるところでしょうか。キューバでカストロ政権下でもフリーメイスンリーは抑圧されなかったなどの話も、キューバ危機やケネディ政権やCIAの活動などを考える上で非常に参考になる話だと思います。
まあ出版から20年以上たっていて、このブログも6年以上たっているわけですが、その間私が読まず、アマゾンでも検索で乗ってこなかった本ではありますが、読みやすく、大東社と限らず、フリーメイスンリーとは何かという事について必読の書であると思われ、アンダーソン憲章の部分訳も載っていましたが、このブログで全訳を載せられればと思う、相当に内容の濃い本でありました。
再び書評なんですが、前回のフリーメイスンとモーツァルトと出版年代も、その他も含めてセットのような本で、主にフランス大東社によって後援された、フランスの恐らく大東社のフリーメイスンである、ブラザーリュック・ヌフォンテーヌによって書かれた本です。いわゆるフランスフリーメイスンリーの公式の紹介本であり、日本のフリーメイスンリー関連の最大の翻訳者、研究者である吉村正和氏によって翻訳されたものであり、竹下節子さんのフリーメイスン もうひとつの近代史の以前のフランス大東社による日本への紹介本であるかと思われます。
まず出版社なんですが、日本では創元社というところで、どうも創価学会とは関係ないようで、まあ1996年出版という事で、自社連立政権なんて時代であり、橋本龍太郎総理という時代であり、まあ大東社じゃないですが、その後の9.11や3.11、小泉改革や民主党政権、自公連立政権を連想させるような、政治とフリーメイスンリーという視点で、逆に言うと20年後の現在の方が日本人にとって示唆的であり、はるかにわかりやすい内容ではないかと思われるものだと思います。
図譜が多く、上位階級への言及が多く、さらに大東社が中心であってもきちんと英米系の正規派フリーメイスンリーについて対照的にバランス感覚をもって描かれているのが、著者の方がベルギーのブリュッセル自由大学出身のフリーメイスンリーの研究家という事で、まあヨーロッパの位置的にはこれでカトリック側であればイルミナティという事になるのでしょうが、そうではないので、本書ではイルミナティについてはあまり詳しくありません。
フランス革命についてのフリーメイスンリーの関りなどはある意味公式見解の通りというところで、非常に興味深いのは時代もあり、東西冷戦の終結にフランス大東社が関わったという実際の活動であり、かつてのブラザーミュシャがスコティッシュライトの頸飾を作成していたフリーメイスンリー大国のチェコでナチスの占領後から民主化までの間閉鎖されていたロッジが回復するのに影響を与えているなどが興味深かった一方、ロシアでは芳しくないなど、英米系フリーメイスンリーとの地図のモザイクがあるところでしょうか。キューバでカストロ政権下でもフリーメイスンリーは抑圧されなかったなどの話も、キューバ危機やケネディ政権やCIAの活動などを考える上で非常に参考になる話だと思います。
まあ出版から20年以上たっていて、このブログも6年以上たっているわけですが、その間私が読まず、アマゾンでも検索で乗ってこなかった本ではありますが、読みやすく、大東社と限らず、フリーメイスンリーとは何かという事について必読の書であると思われ、アンダーソン憲章の部分訳も載っていましたが、このブログで全訳を載せられればと思う、相当に内容の濃い本でありました。
またまたフェイスブックにあげられていたものですが、フランス国立図書館のコレクションということで、そのものを検索すればすぐにフランス語で詳細な説明が書かれた電子図書館のホームページにあたるわけですが、一応その紹介とします。
カトリーヌ・ド・メディシスといえば、メディチ家出身で政略結婚でアンリ2世の妻となったフランスの有名な新旧キリスト教の対立であるユグノー戦争中の象徴的な事件であるサン・バルテルミの虐殺で世界史では有名な人物ですが、その人がコルテスがアステカ帝国から得たエメラルドを基にして発注して作らせたペンダント、お守りの意味があるそうですが、そういうフランスの歴史を象徴する一品です。
フランスの国宝級の貴金属で学術研究の対象なわけで、その説明を読んでもらうのが適切なわけですが、このブログに関連する部分を説明します。まず下部のところに友愛のシンボルである握手する手があるわけですが、そちらはローマ帝国時代からコンコード、調和、協調、同じ心を意味するラテン語由来のシンボルであり、フリーメイスンリーでいうとharmonyハーモニー、調和、協調で、こちらはギリシア語由来だそうですが、そういうローマ帝国時代からの象徴であり、ネルヴァ帝の金貨にもあると示されていました。
まあモーゼの引き上げるなんてのもかかるんでしょうね。背面の六芒星とフラワーオブライフに繋がるデザインがいかにもフィレンツェらしい感じであり、イエズス会が作ったという六芒星が時代を感じさせます。メディチ家の出自なんて所にも繋がるのかと思われます。
エメラルド自体が壊れやすい宝石だそうで、それに対して、宝石を送る息子のシャルル9世に対して固い信頼と友情があるということを示していると表現しているそうです。中世では、エメラルドに未来を予言する力があるとされ、また、女性の貞節を守り夫の愛を保つとされていたそうです。
また上部のMの形に並べられた、左右のダイヤと真ん中のエメラルドは、メディチ家のMを意味するそうで、もちろんカトリック信仰のマリアにもかかっているものと思われます。
カトリーヌ・ド・メディシスの波乱の生涯を考えると、この宝石自体がユグノー戦争での自分の存在意義を支えるものであったと考えることができると思われますが、この時代はまさにこのブログで特に最近伝えている、ザビエルとロヨラらがイエズス会を結成した時代であり、ヘンリー8世のもとでイギリス国教会が成立し、その後ブラッディーメアリーの元でいったんカトリックに復帰し、スペイン王フェリペ2世と結婚したりしますが、その後処女王エリザベス1世がスコットランド女王メアリー1世を殺し、スペインの無敵艦隊が敗北し、スコットランドとイングランドが同君連合となり、欽定訳聖書が成立していく時代です。カトリーヌ・ド・メディシスは1589年に亡くなりますが、ちょうど200年後にフランス革命が起こり、ここで取り上げたペンダントは共和国の財産とされ、カトリーヌ・ド・メディシスの遺体はサンドニ聖堂から集団墓地に民衆によって投げ込まれたそうです。
ノストラダムスの大予言で知られる、ノストラダムスがカトリーヌ・ド・メディシスの夫であるアンリ2世の死を予言していたなんて話もあり、その後のフランソワ2世が中耳炎をこじらせて亡くなるのも予言を的中させたのもあるそうで、ノストラダムス自身も医師であり、メディチ家の出自も薬種商または医師であり、カトリーヌ・ド・メディシスも予言に傾倒していたこともあったそうです。
ユグノー戦争後はカトリーヌ・ド・メディシスの息子たちは亡くなり、ナバラ王であったアンリ4世がナントの勅令を出してカトリックとユグノーの対立は一応終結しますが、その後もユグノーへの圧迫は続き、日本での島原の乱の直前のリシュリューによるラ・ロシェル包囲戦などを経て、フランス国内のユグノーは各地へ亡命し、その一人であるブラザーデサグリエは王立協会フェローとなり、イングランドグランドロッジの成立に貢献しています。
カトリーヌ・ド・メディシスはイタリアの貴族社会の習慣や文化をフランスに持ち込み、今日のフランス料理の成立やフランス文化の成立に貢献したと考えられていますが、(追記:英語版ウィキペディアにブラザーディドロが百科全書で書いたと書いてあって、実際は異なるとありますが、イタリア文化の生活を続けたのは確かであり影響を与えた事は間違い無いようですが、隣国であり、どこでも同じくアイデンティティに関わる問題なのだと思われます。)一方では教皇を輩出したメディチ家の財産としての知識をフランスに持ち込み、また一方では当時の大航海時代のイエズス会の布教に伴って得られた世界の知見をカトリックのネットワークを通じてフランスの統治に組み込み、のちのフリーメイスンリーの成立に伴って、フランス革命の源流をもたらしたと考えられます。そういった大陸の東と西をつなぐ歴史のシンボルとして今回取り上げたこのペンダントのシンボルがあるものと思われます。
(追記:全く余談ですが、カトリーヌ•ドヌーヴなんて有名な女優さんもいらっしゃいます。本国でもどの位意識するかわかりませんが、フリーメイスンリー関連はハリウッドなどでも多い話でしょうか。)
参考にカトリーヌ・ド・メディシスのペンダントとして複製品で売られているものの図柄を示します。現物がどこにあるかはよくわかりませんが、シンボリズムの表現が認められるようで、フィレンツェに行くとよくわかると思いますが、そもそもの教皇や枢機卿の高等教育の形でフリーメイスンリーのシンボリズムの原型となるものがあるようです。そういうのと共通の形がカトリーヌ・ド・メディシスにも与えられていたということのようです。(追記:英語版ウィキペディアではどうもノストラダムスが作者とされているようです。ノストラダムスの名声もこの辺りに元があるようですね。)
カトリーヌ・ド・メディシスの時祷書。フランス語版ウィキペディアにありました。息子であるフランソワ1世とその妻であるスコットランド女王メアリー・ステュアート。周囲の装飾が、フィレンツェの市庁舎であるヴェッキオ宮殿にある壁紙の装飾と同じであり、おそらくネロ帝の宮殿などのローマ時代の装飾にルーツがあると思われます。フリーメイスンリーのシンボリズム、チャート、図表につながるものと思われます。
アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスのモノグラム。カトリーヌ・ド・メディシスのシルバートークン(代用貨幣)。カトリーヌ・ド・メディシスの紋章。代用貨幣にはフリーメイスンリーでは涙の雫(teardrop)と言われる象徴であり、紋章学ではgutteeといわれる、人魂の形をしたしずくの表現が認められます。この図柄では雨粒とそれを受けて大地から延びる植物の芽を描いているようです。
その翌年の ルイ13世の 誕生
ガリレオ・ガリレイによる 科学アカデミーの 結成
コジモ3世とオルレアン公の娘との結婚と 祝祭でのアトラスの巨神像
1737年7月9日 ジャン・ガストーネの死と ブラザーフランツ1世による トスカーナ大公の継承
そして革命へ
ブラザーフランツ1世の皇女 マリア・アンナの 忌日17891119と メイスンリーへの貢献
ガリレオ・ガリレイによる 科学アカデミーの 結成
コジモ3世とオルレアン公の娘との結婚と 祝祭でのアトラスの巨神像
1737年7月9日 ジャン・ガストーネの死と ブラザーフランツ1世による トスカーナ大公の継承
そして革命へ
ブラザーフランツ1世の皇女 マリア・アンナの 忌日17891119と メイスンリーへの貢献
まあ特に記事でもないんですが、Facebookでフランスの歴史を挙げている記事に反応してたら日本では昨日が誕生日だったという事で女性物理学者のさきがけの人が挙げられていました。ブラザーヴォルテールにブラザーニュートンのプリンキピアを翻訳して提供したという人だそうです。赤外線の存在を予測したことになっているそうです。フランスのフリーメイスンの科学者というと質量保存の法則のラヴォアジエが浮かんだんですが、まあ貴族階級の人で、フランス革命中にブラザーマラーの嫉妬などでギロチンにあったとかあって、その弟子がデュポン社で名を残すデュポンとからしく、まああんまいわゆる平民階級中心だったフランス革命中のフリーメイスンではないが、いわゆる近代科学、化学の祖であるという事のようです。(追記:ラヴォアジエは1789年愛国クラブに参加しているそうで、のちのフイヤンクラブの元だそうで、ブルトンクラブの次だそうです。ブルトンクラブ→愛国クラブ→フイヤンクラブ→ジャコバンクラブなんでしょうかね。まあいわゆるフランス革命時のフリーメイスンリーとされるクラブなんでしょうか。フランス革命≒フランス大東社は現在はどうなのかちょっと詳しくはありません。)ラヴォアジエは非常に人気の無かった徴税人の仕事をしていて、そのうちタバコの関係で罪を擦り付けられたそうで、タバコに関連して、火薬の開発をデュポンがしたそうで、結局ノーベルのダイナマイトの開発につながるようです。ラヴォアジエの煙草に関するどうもフレーバーを付けて安売りしたという話が英語のウィキペディアには書いてありますが、どうも良いものを安く売ったようでそれが不人気の原因のようです。
なんというか有名人は皆ブラザーな展開がフランスの常ではありますが、またフランス革命も相まって、王政を保持した英国とフリーメイスンリーロッジと建国の父が一致したアメリカと、またちょっとニュアンスの異なるのがフランスフリーメイスンリーであり、いわゆるサロン、貴族と文化人のパーティーが大陸フリーメイスンリーの基本であったようで、カトリック教会の力が強いこともあるのだと思いますが、クリスマスが近い日本ですがいかがでしょうか。
(女性ロッジの起源は詳しくはわかりませんが、肖像画でコンパスですしそっちの方なんでしょうかね。あとブラザーエリューテール・イレネー・デュポンは姓は橋の意味で、生没年月日1771年6月24日–1834年10月31日でフランス革命期にアメリカに逃れたユグノーという事で、墓はシンプルな白い平板でしたが、明らかにフリーメイスンという事でしょう。ブラザーラヴォアジエはブラザーダヴィッドの肖像画が有名です。アメリカ建国の際に渡米したヨーロッパ人は、日本の明治維新時のお雇い外国人と非常によく似ているでしょうか。)
ウィキペディアを読むとブラザーヴォルテールの愛人で誰の子かわからない子を出産する際に亡くなったという事でした。女性ロッジなどではなく純粋にブラザーヴォルテールの愛人でサロンを形成したパトロンという事のようです。
去年グーグルのバナーで誕生日にキャンペーンをやっていたようです。ブラザーヴォルテールの話も相まって、フランスのジェンダー問題の公的機関の名前になっているようです。ブラザーベンジャミン・フランクリンのヘルファイアークラブでしたか、パリでの九姉妹ロッジの記事の関連でした。ブラザーヴォルテールもブラザーベンジャミン・フランクリンの勧めでフリーメイスンになって、直後に亡くなっていたんでしたね。
ブラザーヴォルテールのパンテオンの墓。墓石はピラミッドやオベリスクではなく石の球体なんですね。ちなみにヴォルテールは筆名で本名はフランソワ=マリー・アルエだそうです。
フランス大東社のキャンペーンの漫画です。ブラザーヴォルテールの名前は本名のアルエのラテン語変換のアナグラムだそうですが、いわゆるグラントリアンの入会の際の有名なVITRIOLにかかっているのですね。(追記:ブラザーラヴォアジエが闇タバコの検出に使ったのがいわゆるVitriol硫酸だそうです。いわゆる錬金術から化学へ転化する時代を象徴する物質でもあったのだと思います。当時の錬金術師、化学者が普遍的に用いた酸、もちろん現在もそうですがそういう物質という事でしょうか。)
(追記:電圧のVoltageの語源のボルタ電池などで有名なボルタはイタリア人でイタリア語で時間という意味だそうです。またボイルの法則のボイルはアイルランド人で、もちろん英語でボイルは煮る意味で沸騰の連想ではあります。)
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