2012-01-02 15:56 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
大胆な改訂ですが表題も2015年10月10日をもってして変更としました。原文の印象が強いものと思いますが、その効果も狙って全面的な改訂とします。もちろんシンボリズム的にはカトリック、イルミナティの影響が濃いものとなっていますが、それが2017年の記念すべき年に向けての作業という事になるかと思われます。以前のキャッシュと比較しながら検討されればまた面白味もあるかもしれません。ロータリークラブのシンボリズム(2015/10/21追記:Ronaldで現在のスコティッシュライトのグランドコマンダーブラザーロナルド・シールと同じ名前となり、またRそのものでRegina、女王の意味ともなり、女王の紋章、の意味の暗喩ともなるかと思われます。ブラザーロナルド・シールの名前そのものが、女王の紋章の意味にかかっているのですね。もちろんブラザーロナルド・レーガンもスコティッシュライトの名誉表彰を受けています。)の入ったロナルド・レーガンの横須賀お披露目もあり、ブログも更新となります。

冒頭ですがフリーメイスンリーについての日本における基礎知識です。このブログを読まれる方は先にこれらすべての本を読まれることをお勧めします。

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(追記2013/3/15:上記5冊は付け加えました。後述のフリーメイスンリーの本について その2で解説しています。参照してください。)
(追記2013/4/30:さらに3冊付け加えました。)
さて横須賀のフリーメイスンリーのシンボルと言えばまずはなんと言ってもブラザーヴェルニー公園でしょう。
場所は京急だと汐入、JRでは横須賀駅から徒歩数分、ダイエーまたはショッパーズプラザと呼ばれる横須賀で最も大きな商業施設、ショッピングプラザの横にある米軍と自衛隊の駆逐艦、潜水艦が常時見られる公園です。もともとただの臨海公園だったそうですが、平成13年になってブラザーヴェルニー公園となったそうです。横須賀ドックを江戸時代に建設したフランス人ブラザーフランソワ・レオンス・ヴェルニーを記念した公園です。

$kosuzumekyokiuのブログ-夜のヴェルニー公園
夜のブラザーヴェルニー公園
$kosuzumekyokiuのブログ-赤いバラ
赤いバラ
$kosuzumekyokiuのブログ-黄色いバラ
黄色いバラ
$kosuzumekyokiuのブログ-ピンクのバラ
ピンクのバラ
$某秘密結社の横須賀での活動について-紫のバラ
紫のバラ
$某秘密結社の横須賀での活動について-白いバラ
白いバラ
$某秘密結社の横須賀での活動について-ブラザー鳩山一郎が愛したバラピース
ブラザー鳩山一郎が愛したバラ ピース

美しいバラ園になっていて時期は5-6月頃が一番よいかと思われます。
園内の中心にある日本でいうところの休みどころの形がまさにフランス様式のフリーメイスンリーのシンボル(アンティークエプロン参照)そのままの形です。近くに見晴らしの良いスターバックスカフェ等もありますのでぜひお立ち寄りの際は一服して開港から日米安保の現在までの歴史に思いをはせてはいかがでしょうか。
$某秘密結社の横須賀での活動について-フランスのアンティークエプロン
フランスのアンティークエプロン
$某秘密結社の横須賀での活動について-抹茶フラペチーノ
スターバックスからの光景、抹茶フラペチーノと駆逐艦
(追記:ブラザーヴェルニー公園の隣にある海上自衛隊の基地の入り口にも碇があります。碇はフリーメイスンリーのシンボルです。)

最近はバラもつる薔薇がかなり成長して、赤いバラの連なる部分もかなり見事に咲く状況のようです。赤いバラで日の丸のようでもあり、またスコティッシュライトのようでもあります。潮風でたびたび枯れてしまう部分もありなかなか安定しない生育状況もあるようです。

(2015/11/20追記:2015年11月15日にブラザーヴェルニー公園で横須賀製鉄所着工150周年を祝う式典が日仏関係者が集まり催されたそうです。パリでの同時多発テロの直後で、小雨の天気であったようですが、粛々と駐日大使なども祝辞を述べて祝われたという事です。関係記事のリンクを置きます。Yahoo!毎日市長ブログNHK
インターネットの横須賀地域の掲示板によると小泉元総理の自宅のある三春町の京急線の駅である、堀之内駅の駅前に横須賀メソニックセンターというおそらく横須賀の基地外ロッジができる状況であるようです。こちらも私は現在のところは詳しくは知りませんが、このブログの当初の主旨と一致した成果と考えることができるかと思います。パリでのテロという悲惨な事件の後ではありますが、日本のフリーメイスンリーの歴史としては極めて輝かしいマイルストーン、一里塚であるかと思われます。ぜひこのままフランス人住居の再建からメソニックロッジが活況を帯びる都市へと進展を遂げてほしいかと思います。猿島のオベリスクやYRP野比の観覧車など私の腹案もブログで披露できればと考えています。
堀之内もHoly Nouch聖なる宝飾または、聖なる否定的な感嘆という意味に、古語や感嘆句ではあるようですがなるようです。まあなかなかの土地ですがいかがになるでしょうか。かつてのブラザーデッカーの司令長官邸などもあったようですが。)

潮風に 揺れるバラの葉 春を待ち
2012-01-03 08:54 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー

ペリー公園

日本の開国といえばブラザーペリー来航ですが、実際には種子島にポルトガル船が来航して以来常に欧米諸国は江戸幕府を通じて接触を持っていました。和歌山県にもブラザーペリー以前にアメリカ人の日本への上陸がありオベリスクが建っているそうです。

ところで横須賀、三浦半島でのブラザーペリー上陸の地といえば浦賀が有名ですが、浦賀は奉行所があった場所で、現在は造船所の跡地がありますが、もともと天然の良港であり蒸気船が近付くのに適した場所でした。実際に上陸した場所は案外知られていませんが久里浜という砂浜です。
この辺のいきさつは来航から上陸までの様々な駆け引きがあり、またそこに至るまでの欧米諸国の情報交換や欧州での政治状況など様々な要素が絡み合い極めて複雑な情勢です。

少なくともマルコポーロのジパング伝説から始まって、東方に智恵や光を求める伝統をもったキリスト教、フリーメイスンリーでは鎖国した日本という国に対して想像以上の期待をしていたことは考えられます。

上の写真が久里浜のブラザーペリー公園です。伊藤博文公の達筆な記念碑の碑文があります。伊藤博文公の人物像もなかなか興味深いところですね。碑を取り囲むようにおかれた錨(碇)はフリーメイスンリーとキリスト教のシンボルであり、まさにこの地が日米の歴史上最初にがっちりと結びついた地であることを示していると思われます。

ペリー公園

いろいろな感情があるとは思われますが、下手ないたずらは品がありませんね。その後のペリー祭りの際には修正されていました。

奥にある列柱をもった建物がブラザーペリー記念館で来航時の解説が聞けます。ヴェルニー公園の休み処と似た作りになっていることに気づいていただけると少しありがたいのですが。
周辺は松林になっていて、松林は防砂林ということもあるのでしょうが、明治維新以降は一応天皇家の象徴ととらえて差し支えないのではないでしょうか。開国の経緯が様々に絡み合うものと思われます。まあこの辺はシンボリズムの絡みでなかなか難しいですね。
(2018/10/28追記:久里浜も発電所の3本の煙突が、建て直しで1本の煙突になるとのことですが、このブラザーペリー公園の松でも気づいたことがあったので追記します。松とブラザーペリーのファーストネームのマシューと駄洒落なんですね。まあアメリカンメイスンって感じです。四福音書最初のマタイ伝です。松の英語名pine, 学名pinusも樹脂から由来する、分泌するという意味を含んでいるようで、脳下垂体とも同じ語源となるようでなかなか象徴的であるようです。)

ペリー公園ラフアシュラー

戦後にブラザーペリーを記念して出身地から送られた石。
最近ではブラザーペリー提督がフリーメイスンであったことはテレビや専門書などでもよく言われているので、多くの人が知っていることだと思います。彼はそもそもアメリカ海軍の名門の出身で、兄弟が南北戦争での海戦で活躍したのでそちらがアメリカでは有名だそうです。彼が日本に来た時にはアメリカでは伝統の大統領選挙で政権交代がありブラザーペリーはかなり宙ぶらりんな立場になってしまったため、功を焦ってかなり強引な形で日本を開国させる形となったそうです。
そのためでしょうか、本来ならばフリーメイスンを象徴する立方体の磨かれた石(パーフェクトアシュラー)ではなく明らかにごつごつとした磨かれていない石(ラフアシュラー)で示されています。

これは一つのフリーメイスンに対するフリーメイスンたちの評価を現すシンボリズムであり、時代や歴史の正当な評価というものに極めて厳密な意味付けをするフリーメイスンリーのいわゆる秘密に相当する部分だと思われます。(追記2/19:このラフアシュラーの意味については色々あるかと思います。むしろざっくばらんなブラザーペリーの人間性や日本人の評価を反映したものかもしれません。なかなかラフアシュラーの意味も難しいですね。)ここは本当に難しいですね。

ブラザーペリーは蒸気船の中で徳川幕府の役人に船内で行っていたフリーメイスンリーの儀式を見学させたそうですが、徳川幕府のお侍さんにしたら西洋の黒魔術のように思われたのかもしれません。いずれにしてもワシントンへの訪問団も後に結成されていることですし、日米友好の懸け橋になったことは確かであり、功罪あるとはいえ偉大な業績であることは間違いないでしょう。

ブラザーペリー公園の目の前には久里浜海岸が広がりバーベキューをする人たちや釣りをする人などがいます。隣には黒船食堂という食事どころもありますが、なかなかこの場所はフリーメイスンリー的には極めて重要な場所なのですが、そもそも相当のどかな寒村であったと思われ現在の状況は複雑そうです。

東京電力久里浜発電所

久里浜の現在のシンボルと言えば東京電力の横須賀発電所の煙突です。
3本の煙突がフリーメイスンリーのロッジに常にある3つの小さな光を意味すると思われます。
意味は太陽と月と地球であるとか、様々に言われています。その他にも3つの列柱や3つの偉大な光など3で代表されるシンボルは多数ありますが、頂点が正三角形の配置にみえることからもシンボルとしては3つの小さな光ではないかと思います。ロッジで一番最初に目につくフリーメイスンリーのシンボルです。電力というブラザーペリーがもたらした文明の利器を象徴するのにふさわしいものではないでしょうか。

もちろんどこに行っても確かめようはないと思います。
その場に行き勉強してそれぞれの意味を考えたときに出る結論がそれぞれのシンボルなのです。

現在原発事故後の節電の影響で、営業停止予定であったものが再開され稼動しています。

久里浜自体には少し離れたところにあるごみ焼却場の熱を利用したプールや花の国という公園もあります。久里浜公園とあわせて家族連れが好ましいかもしれません。発電所のわきにはブラザーペリー通りもありますがなかなかこちらも雰囲気が複雑です。久里浜には現在も海上自衛隊の学校があり、過去には海軍の通信学校があり終戦間際には回天特別攻撃隊などの特攻訓練や様々な通信技術の訓練が行われていたようです。その事も現在の久里浜に様々に影響しているかもしれません。

ブラザーペリー来航で久里浜よりも有名な浦賀はかなり落ち着いた高齢者の多い街です。奉行所跡や渡し船、江戸時代の灯台跡などもあり、江戸の風情を現在に残し、かつ造船ドック跡と微妙にマッチしたこれもまた散策するには面白い町です。

日本の近代史を知るうえで知らないではいられないブラザーペリー来航の地久里浜、浦賀は是非一度は訪問して損はない土地だと思います。



最近は浦賀も久里浜もめったに行くことはなくなりましたが、なかなかブログの影響もあるでしょうし、できることなら記念碑的な建築が一層進行することが望ましいですがどうでしょうか。
(2016 2/20追記:最近は浦賀のキリスト教禁教以前のフランシスコ修道会の存在や徳川家康の関係などが具体的に日本で発表されているようです。浦賀での奇跡の海渡の話などはその関連のようです。なかなかドラマチックな話であります。詳細はリンクを参照してください。)
2012-01-08 11:39 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
 らせん階段というと何を思うでしょうか?

映画「らせん」なんてのもあった気がします。

とりあえずウィキペディアから引用しときましょうか。

象徴としての螺旋

 螺旋は、運動性や生命力を感じさせる面があるので、芸術作品などにおいては、様々な意味を込めた象徴、シンボルとして用いられることも多く、作品のタイトルとなっている例も多い。また、基本的には繰り返しの構造でありながら、同じ位置をたどらず、例えば無限に上昇する構造を歴史や生命になぞらえる例もある。

螺旋階段(らせんかいだん)は、階段の中でも特に回転形のものを指し、上部からみると円形になっており、中心の柱の回りを回転しながら上昇あるいは下降する構造の階段を特に螺旋階段と呼んでいる。

現代建築においては、多く取り入れられている。デザイン性に優れ、機能的でもあることから、最近は人気が高い。

らせん階段がシンボルとなることはウィキペディアにも書かれているとおりですが、フリーメイスンリーのシンボルとしては単なるらせん階段ではなく色々な条件や意味が込められています。

ヤコブのらせん階段

ウィリアム・ブレイク ヤコブの階段

ヤコブの梯子でピンと来る方は聖書をよっぽど良く読んでおられる方か、ユダヤ教の知識がある方、もしくはフリーメイスンリーについて勉強されている方だと思います。

そもそもヤコブって誰っていうのが普通の日本人だと思います。Jacobと書くので、英語ではジェイコブ、ハリウッドの俳優などでもいる名前だと思います。

ウィリアム・ブレイクをご存じの方もあまり日本人ではいないと思われます。

ウィリアム・ブレイク(William Blake, 1757年11月28日 - 1827年8月12日)は、イギリスの画家、詩人、銅版画職人。

ウィリアム・ブレイク
ウィキペディアにある作品をいくつか転載いたします。問題あれば教えてください。

ニュートン
ニュートン

日の老いたる者

日の老いたる者

作品を見ると一目瞭然だと思いますが、彼もフリーメイスンです。現在国立西洋美術館で、同館収蔵のブラザーウィリアム・ブレイク版画展2011年10月22日(土)~2012年1月29日(日)で開催中です。主にヨブ記のエッチングです。様々なご意見評価あると思いますが、貴重な実物が見られる機会であり是非ご覧になってはと思います。同時にプラド美術館所蔵 ゴヤ 光と影2011年10月22日(土)~2012年1月29日(日)も開催中です。貴重な作品群をご覧ください。

話がだいぶずれましたが、ヤコブの梯子というのは旧約聖書の創世記28章12節でヤコブが夢に見た、天使が上り下りしている、天から地まで至る梯子、あるいは階段とウィキペディアにあります。そもそもらせん階段ではなく梯子なんですね。
らせん階段は有名なところではローマにあるトラヤヌス帝の記念柱にありますが、西暦113年にできたそうで、私も実物は見たことないですが、その後にローマの建築法として広まったということです。
一応該当部分の旧約聖書を引用します。

ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」そして恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、その場所をベテル(神の家)と名付けた。ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた。ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神が私と共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主が私の神となられるなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたが私に与えられるものの十分の一をささげます。」

聖書を読んだことが無い人にとってはこれだけでもう勘弁という気持ちでしょう。
このブログの内容は戦時中であれば確実に発禁になるような内容だと思います。
念のために言いますが、わたしはキリスト教徒ではありませんし、教会に礼拝に行ったこともありません。神社に初詣に行くような典型的な日本人の宗教観を持っています。
基本的にフリーメイスンリーのシンボリズムは特に旧約聖書の世界からシンボルを道徳的教訓として抽出してきていることがほとんどなので、聖書の通読は深い理解のためには必ず必要となります。それは必ずキリスト教、ユダヤ教への理解とつながるのですが、日本人にとってそれらは歴史的にかなり困難な要求となることは確実なので、内容をおおざっぱであれ理解していれば十分かと思います。

さて旧約聖書の解説はここではかなり困難なので、一応アブラハムとかイサクとかヤコブとかそういうユダヤ人とかアメリカ人に多く認められる名前のいわゆるユダヤ人のご先祖とされる伝説的な人々の活躍が描かれていて、その中でユダヤ人が大きく発展するきっかけとなるときに夢というのが神様からのメッセージとして非常に重要であるという話があるということが分かればよいかと思います。
この場合の階段、梯子は天につながる上昇するものの象徴として描かれ、ピラミッドや塔が高みに登り天、神に近付くという事を概念的に目指すということと同じく、フリーメイスンリーでは道徳的、人間的に高みを目指すという事で様々な必要とされる知識や振る舞いを覚えて、試練や困難を日々乗り越えることで、着実に一歩一歩高みに近付いて行く象徴ということになるかと思います。
特にらせん階段となることで、日々同じ場所を同じペースで上っているといつの間にか高い場所に達するというらせんの心理的効果を反映し、毎日同じ様な事を繰り返していながらも道徳的に一歩一歩着実に必要とされる事をマスターしていくことで、いつの間にか高い所に達するという意味もあるのだと思われます。

長くなりましたが、これでもだいぶ端折ってわかりやすくしている訳で、実際にはそれぞれマスターすべき階段の学科(いわゆる自由七科、リベラルアーツ)をそれぞれ学習する事とか、学習すべき美徳と一致した階段を上る事とかそういうのがフリーメイスンリーでは人間的修養として必須とされるのです。

ここではとにかくらせん階段がフリーメイスンリーのシンボルとして良く認められるので、それがシンボルとしてどのような意味があるのかという事をわかりやすく概説するために要約しているわけで、さらに深い勉強をしたい方はそれぞれフリーメイスンリーの英語のホームページを読まれる事をお勧めします。

で、本題の横須賀に認められる象徴なわけですが、最初はおそらくだいぶ一部で有名になってきている感じがする横須賀美術館のそれです。

横須賀美術館1横須賀美術館2

横須賀美術館3横須賀美術館4
らせん階段でシンボリズムとして大事なのはやはり1階~2階~3階へつながる形で、これはフリーメイスンであれば当たり前の話なのですが、いわゆる3階級、Entered Apprentice(徒弟)第一階級、Fellow Craft(職人)第二階級、Master Mason(親方)第三階級というブルーロッジと呼ばれるフリーメイスンリーの最も基本的なロッジ(集会場、集団)での階級を示しています。
白い色はフリーメイスンリーではCandidate 入会希望者、EA(Entered Apprentice)徒弟を意味する色とされ純白、無垢などを意味し、白と黒の対比はロッジの床のタイルに使われるものですが、世の中が善と悪や男と女が混沌と混じり合って存在している象徴とされています。
円形の窓も円で象徴するものなのでしょうが、こちらはあまり詳しくありません。世の中のものには始まりも終わりもないという意味だとか、永遠を象徴するだとかあります。特にフリーメイスンリーに特徴的ではなく、日本の国旗などにも認められるもので、この円はフリーメイスンリー特有のものではないかと思われます。(2015/2/7追記:文章も分かりづらいものとなっていますが、円のシンボリズムがフリーメイスンリー特有のものではないのではないかという意味で書いているかと思います。後述するように円のシンボリズムは新字体の円の漢字自体がトリプルタウの象徴そのものですし、円環はグノーシスの象徴であり、またスコティッシュライトでも円は多角形で象徴される階級の最上位の33階級の象徴が下向きの三角形、または上向きの三角形または円環であるようです。まあ普通に考えてもコンパスで描ける最も基本的な図形であり、象徴学の基本であり、フリーメイスンリー特有ではないかもしれませんが、フリーメイスンリーの基本的で最も象徴的な形という事を言う事ができるでしょうか。まさにグノーシスだと思われます。)

個人的には二度ほど訪問し、二度目に訪問した時はサルバドール・ダリの奇妙なマネキンが展示してありました。シュールリアリズムもシンボリズムの一つの極致であり、ダリの作品にもフリーメイスンリーと関係するものがあります。興味があれば色々と調べられるのがよろしいかと思います。

横須賀の他の場所のらせん階段については次回お話しすることとして、今回はこれで終わりとします。

2012-01-09 08:54 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
引き続き横須賀のらせん階段の続きです

前回触れたのはらせん階段の象徴としての意味と、おそらく最も新しい建物であり1-2-3階と続く形の白と黒にコントラストされた典型的なフリーメイスンリーの象徴である横須賀美術館のらせん階段についてでした。

横須賀にはこの他にもらせん階段があり、おそらくライオンズクラブかロータリークラブの中で何か語り継がれているものがあるのではないかと推測されるような、極めて強いこのシンボルへのこだわりがあります。

横須賀にはいくつかシンボリックな山があります。
最も象徴的なのは衣笠山でしょうか。春には桜並木が満開となり花見客や出店で賑わう、三浦氏の往時の居城であり数々の伝説が残されています。

私はここは春に一回訪問しただけで、桜以外には海軍海堡の建築にかかわる明治頃の記念碑が認められるだけでこれといったフリーメイスンリーのシンボルを認めることはできませんでした。(Google Earthで確認したところ展望台が3階層になっていて、一番上に羅針盤の形の方位があるようでした。十分フリーメイスンリーのシンボルですね。)

横須賀にはフリーメイスンリーと直接関係ない形でも展望台や公園などのシンボリックな公共の建築物が多く、武山という低い山にも頂上に見晴らしの良いアザレアハウスという展望台があります。武山不動もあり鐘を突くこともできますが、アザレア=ツツジはフリーメイスンリーのシンボルではなく、アザレアで検索するとその名前のロッジが認められました。

さてらせん階段なのですが、ここまで来れば横須賀在住の方はすぐにわかるわけなのですが、横須賀の最も高い山である大楠山の山頂にそれはあります。

大楠山山頂
ホームページより無断借用です。問題あれば連絡ください。
かなり変形のらせん階段です。途中の分岐が3つあり、2階の展望デッキにもつながっており、形としては3階層でしょうか。軸が二本ある形になっているようです。この軸が二本というのも実は日本にかかった一つの象徴の形だと思われます。これは実は日本=二本=ツインタワーというすごいところにも繋がるのですが。。。。 ここまで来るとさすがに普通の人はどん引きですね。
ここでは日中必ず車で上がって番をしているおじさんがいて、カップヌードルや缶ジュースを売っています。そのおじさんに聞いたところ築50年程経っているそうで、かなりさびていて登るのはかなり恐ろしいです。頂上からの富士山の光景は絶景ですが、風をかなり感じるので天候状態により登るのを検討したほうがよいかと思われます。

大楠山からの富士山
大楠山から富士山

大楠山からの葉山方面
葉山方面

なかなかの絶景ですが、登り口から頂上まで徒歩で約40分はかかり、登り口までバスくらいしか移動手段がありません。頂上には駐車場もあり車で登ることもできますが途中はかなりの急勾配で一台しか通れない道が続いています。天気の良い日でも100~200人程度しか登らないと思われます。

大楠山の頂上にも方位を示すものはありましたが、特にコンパスや羅針盤の形はしていなかったと思います。まあこれだけらせんにこだわった展望台は日本全国他にないと思います。

さて大楠山なのですが実は最近下からこの山を見ていてある事に気付きました。

大楠山遠景
矢印は後から加工したものです。青矢印が気象庁のレーダー、白矢印がらせんの展望台、赤矢印がNTTドコモの電波塔です。らせんの展望台を中心としてきれいな対称を成しているのがわかるでしょうか。これは実はある建物から撮った写真なのですが、これも後に説明します。

この図を出すとフリーメイスンリーに詳しい方であればすぐに気付くと思われます。


フリーメイスンリーのEMBLEMATIC CHART
フリーメイスンリーのシンボルを図柄として配置しそれぞれの意味を確認する目的で作成されたポスターです。この図の中での左右の柱はヤキンとボアズといい聖書の中でソロモン宮殿を作った際に神殿の入り口の左右に配置した象徴的な柱とされています。

聖書の該当部分を引用してみましょう。列王記上7章より

ソロモンは十三年の年月をかけて宮殿を築き、その宮殿のすべてを完成させた。彼の建てた「レバノンの森の家」は、奥行きが百アンマ、間口が五十アンマ、高さが三十アンマで、レバノン杉の柱を四列に並べ、その柱の上にレバノン杉の角材を渡した。各列十五本、計四十五本の柱の上にある脇廊の上にもレバノン杉で天井を造った。三列の窓枠にはめられて、窓が三段に向かい合っていた。すべての扉と枠組みの柱は四角形であり、窓は三段に向かい合っていた。彼の建てた柱廊は奥行きが五十アンマ、間口が三十アンマであり、その前にも前廊があり、柱とひさしがあった。また、彼が裁きを行う所として造った「王座の広間」「裁きの広間」には、床全面にレバノン杉の板が張り詰められていた。彼が住居とした建物は、この広間の後方の別の庭にあり、これと同じ造りであった。またソロモンは妻に迎えたファラオの娘のために、この広間と同じ建物を造った。これらの建物はすべて内側も外側も、土台から軒まで、また外庭から大庭まで、寸法を合わせて石のみで切り整えられた貴重な石で出来ていた。土台には八アンマ、十アンマもある貴重で大きな石が用いられ、その上には、寸法に合わせて切り整えられた貴重な石とレバノン杉が用いられた。大庭の周囲にも、主の神殿の内庭や前廊と同様に、切り石を三列、レバノン杉の角材を一列重ねて据えた。ソロモンは人を遣わしてティルスからヒラムを連れて来させた。その母はナフタリ族出身でやもめであった。父はティルス人で青銅工芸の職人であった。ヒラムは智恵と洞察力と知識に満ち、青銅にかけてはどんな仕事にも通じていた。彼はソロモン王のもとに来て、ゆだねられたあらゆる仕事をした。彼は青銅の柱を二本作り上げた。一つの柱の高さは十八アンマ、周囲は十二アンマ、もう一つの柱の周囲も同様であった。柱の頂には、青銅を鋳て作った柱頭を据えた。一方の柱頭の高さが五アンマ、もう一方の柱頭の高さも五アンマであった。柱の頂にある柱頭に格子模様の浮き彫りを作り、網目模様の房を一方の柱頭に七つ付け、もう一方の柱頭にも七つ付けた。このように彼は柱を作ったが、柱の頂にある柱頭を覆う一方の格子模様の浮き彫りの周りにざくろを二列に並べた。もう一方の柱頭にも同じようにした。前廊の柱の頂にある柱頭はゆりの花の形になっていて、四アンマあった。二本の柱の上にある柱頭には、格子模様の浮き彫りの側面の膨らみより上にも、二百個のざくろが列をなして取り巻いていた。もう一つの柱頭も同様であった。この柱は外陣の前廊の前に立てられた。一本は南側に立てられて、ヤキンと名付けられ、もう一本は北側に立てられて、ボアズと名付けられた。ゆりの花の形が柱の頂に出来上がって、柱の製作は完了した。彼は鋳物の「海」を作った。直径十アンマの円形で、高さは五アンマ、周囲は縄で測ると三十アンマであった。縁の下をひょうたん模様が取り巻いていた。すなわち、「海」の周囲には、「海」と共に鋳造されたひょうたん模様が、一アンマにつき十の割合で二列に並べられていた。「海」は十二頭の牛の像の上に据えられていた。三頭は北を向き、三頭は西を向き、三頭は南を向き、三頭は東を向いて「海」を背負い、牛の後部はすべて内側を向いていた。「海」は厚さが一トファ、その縁は、ゆりの花がかたどって、杯の縁のように作られた。その容量は二千バトもあった。彼はまた青銅で十台の台車を作った。各台車の長さは四アンマ、幅は四アンマ、高さは三アンマであった。その構造は次のとおりである。台車には枠の横木の間に鏡板があり、その横木の間の鏡板には獅子と牛とケルビムが描かれ、上の横木にもそうされていた。また獅子と牛の下には唐草模様が彫りこまれていた。一つの台車に四つの青銅の車輪が付いており、車軸も青銅であった。また四つの脚があり、支えがそれに付いていて、支えは唐草模様の傍らで洗盤の下に鋳込まれていた。その口は冠の内にあって、そこから一アンマ高く出ており、その口は円形で同様の作りで一アンマ半であった。口の上にも彫刻がなされていた。鏡板は四角であって丸くはなかった。鏡板の下に四つの車輪があり、車軸が台車に取り付けられていた。車輪の高さはそれぞれ一アンマ半であった。車輪は戦車の車輪と同じ作りで、車軸も縁も輻も轂もすべて鋳物であった。それぞれの台車の四隅にある支えは台車と一体になっていた。台車の頂に高さ半アンマの輪があって、台車の頂でその支柱と鏡板は一体となっていた。その支柱の表面と鏡板にはケルビムと獅子となつめやしが、そのそれぞれに空間があれば周りに唐草模様が彫りこまれた。彼はこのように同じ鋳型で、同じ寸法、同じ形に台車十台を作った。彼はまた青銅の洗盤を十作った。容量はそれぞれ四十バト、直径は四アンマ。十台の台車それぞれに洗盤が一つずつ載せられていた。五台は神殿の右側に、五台は左側に配置し、「海」は神殿の右側、すなわち南東の方向に置いた。ヒラムは洗盤、十能、鉢を作って、ソロモン王のために主の神殿でしようとしたすべての仕事を終えた。彼の作ったものは、二本の柱、柱の頂にある柱頭の玉二つ、柱の頂にある柱頭の玉を覆う格子模様の浮き彫り二つ、格子模様の浮き彫り二つに付けるざくろの実四百、そのざくろの実は、柱の頂にある二つの柱頭の玉を覆う格子模様の浮き彫りのそれぞれに、二列に並べられていた。台車十台、台車に載せる洗盤十、「海」一つ、それを支える十二の牛の像、壺、十能、鉢。ソロモン王のためにヒラムが主の神殿で製作したこのすべての祭具は青銅製で、磨き上げられていた。王は、ヨルダンの低地、スコトとツァレタンの間の粘土の豊かな所でこれらを鋳造した。ソロモンがこの祭具のすべてを並べると、それはあまりにも多く、その青銅の重さは量ることができないほどであった。ソロモンは主の神殿に置くためのあらゆる祭具を作った‐‐金の祭壇、供えのパンを載せる金の聖卓、内陣の前に左右に五つずつ置かれる純金の燭台、金の花、ともし火皿、火ばし、純金の皿、芯切り鋏、鉢、柄杓、火皿、また神殿の奥の間すなわち至聖所の扉と外陣の扉のための金のちょうつがい。ソロモン王は、主の神殿で行われてきた仕事がすべて完了すると、父ダビデが聖別した物、銀、金、その他の祭具を運び入れ、主の神殿の宝物庫に納めた。

なぜこれだけ長い部分を抽出したかというと、ヤキンとボアズという柱の名前が出てくるのはこの部分の何百倍という内容がある聖書のたったこの場面だけなのですね。しかもフリーメイスンリーの柱では柱頭の上に天球儀と地球儀が載っているのですが、聖書に出てくるヤキンとボアズでは全く違うざくろの実の装飾と格子模様の浮き彫りが描かれていて、格子模様が天球儀とか地球儀とかいう事は全く出て来ないのです。しかもなぜ、この柱がヤキンとボアズという名前であるかは謎のままなのです。ヤキンと、ボアズという名前は人名として聖書の他の部分に出てくる事はあります。それらを検討するのはこれからになりそうです。しかしこのヤキンとボアズという柱の名前はフリーメイスンリーでは世の中の二元性、対称性を象徴する最も重要なシンボルであり、入会儀式の際のリチュアルにも認められるものなのです。(9/18追記:ヤキンが基礎、ボアズが力というヘブライ語の意味であるかと思います。そもそもユダヤ王国の繁栄を願っている言葉なのですね。)フリーメイスンリーにおける聖書研究の重要性を少しでも感じ取っていただければとこれだけの長い部分を抽出して、皆さんに聖書を読む体験を感じていただければと思ったわけです。

聖書の活版印刷がグーテンベルクによって始まり、ルネッサンスが始まったとは日本人の多くが高校の世界史で教わるおそらく常識のようなものでしょうが、果たしてなぜ聖書を皆が読むことでルネッサンスが始まるのかという所は多くの日本人が本質的には理解しがたい事なのではないかと思います。それはやはり聖書を読むことでしか体験できない、実感できないものなのではないかと思われます。

キリスト教やユダヤ教という宗教の枠を超えたところにフリーメイスンリーという教えがあり、それらは戦後の日本をとらえる上で非常に重要な考え方なのですが、果たしてキリスト教やユダヤ教への理解抜きで、日本の伝統宗教の教えを守ることでフリーメイスンリーの教えに行きつくかというと非常に疑問が多いところです。この点についてはまだまだ日本においては時間と労力が必要とされる部分だと思われます。

さて横須賀のシンボルとして多いらせん階段ですが、こんなものもありました。

大楠山低い展望台低い展望台階段
大楠山の気象庁の観測レーダーの横にキノコのような形の展望台がありますが、これもまた三階層の円形ではない方形のらせん階段でした。色々念が入ってますね。上部の傘は若干ですが蜂の巣を意識した形になってるのかわかりませんが、おそらくあまり意識的ではなくこの形になったのかもしれませんね。
まあこのあたりに入るとシンボリズムもほとんど意識下の世界に入るのかもしれません。
またこのようなものもありました。

らせん非常口1らせん非常口2らせん非常口3

これらは大楠山の近くにある某病院にあるらせん階段とらせんの非常口なのですが、ここまで来るとさすがにおみそれしますね。この某病院は市内の繁華街に近いところにあったものが昭和30年代に焼け出されこちらに移ってきたそうです。同時期には衣笠病院の火事や少し離れた聖母の園というカトリックの老人ホームでも火事があったもので、多くの人命が失われたそうです。なかなか戦後の横須賀の歴史というものは壮絶なものを感じます。

市民病院バラ園
中二階にバラ園があったのですが、現在はわずかにバラを残すのみで縮小しています。(追記2/10 らせん階段もほとんどが非常用で上から下にスルスルと滑り落ちる形なのですね。シンボリズムは奥が深いです。)

また私自身は行ったことないのですが田浦梅の里の展望台もらせん階段の構造をしているようです。


ブログより借用いたしました。問題あればお知らせください。


2012-01-10 10:25 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さて新年早々からかなりディープなネタを無料で提供してきたこのブログなわけですが。

さすがに疲れてきました。

基本的にフリーメイスンリーは砂時計や大鎌で象徴されるように、人生は短く常に全力で充実して生きることを目的とするのが基本なので、フリーメイスンリーの内容そのものでいくと結構疲れます。
フリーメイスンの人が書いた文章や、フリーメイスンの人と話すと常に頭の動きが普通の人の10倍くらいで動いている感じなので私なんかにとっては心地よくもありますが、やはり通常に比べると疲労が強いです。

みなさんの疲れも相当なものだと思います。
ブラザーモーツァルトが短命なのもむべなるかなと思います。そう思っていただければ十分だと思います。

さてそういうわけで、少しフリーメイスンリーからは離れた息抜きと言ってはあれですが、YRP野比という横須賀にあって横須賀らしくない日本の情報産業の研究のかなり重要な拠点らしいところについてフリーメイスン的考察を加えていきましょうか。

実はYRP野比は横須賀市の地理的にほぼ中心部にあるので近くなのですが、ほとんど用事がないのでめったに近寄ることはありません。しかしこういうブログも始めたので、日本の情報産業に深い関わりを持ってしまった素人としては一度は見ておこうと思いつい先日のみなさんがお休みの間に自主的に見学してきました。その時に思ったことなどを書こうかと思います。
YRP野比でウィキペディアやアンサイクロペディアなど見るとなかなか歴史もあるようで、一時代前のクリントン政権時代のIT革命とは何かと言っていたような時代が懐かしく思われる内容でした。


通研通りというまあまさに城下の桜並木の通りを登っていくとまさに現代のお城のごときNTTの通信研究所が見えてきます。お城という表現がまさにふさわしい作りとなっています。組織ができたのは電電公社時代だそうですが、バブル真っ盛りの時代に建物は出来たのでしょうか。実質的に日本のCIAやMI6のような感じでしょうか。桜並木に石垣で本丸という並びはおそらく江戸時代に出来た封建制の象徴なのでしょうが、日本人の平和ボケというかなんというか美意識というか、少なくとも合理的ではない事は確かだと思われます。ソメイヨシノの桜並木はバブル期に非常に日本的という事でもてはやされた一つの形ですが、果たしてどうなのでしょう。


テニスコートにつながるらせん階段。テニスコートといえばフリーメイスンリー的にはテニスコートの誓いは三部会結成で重要なシンボルでしょうね。もちろんフランス革命にまつわるものですから正統派フリーメイスンリーとは異なります。まあこのらせん階段にそこまでの意味があるとはどうでしょうか。


二の丸方向より見た本丸の景色。ランニングの中高年の方が多いですね。
まさにお城という格好でしょうか。しかし入り口からすぐに本丸で、二の丸三の丸が後ろに控えるおかしなお城ですね。


本丸の下にある控えの間でしょうか。All Seeing Eyeを模そうとしてなんだか分からなくなってしまった、日の丸の丸を象徴としているようななんだかぼやけた形です。
シンボルの木は一つの自然の象徴なのだと思います。フランス革命時のジャコバン派全盛期にロベスピエールが敢行した理性の祭典で一つのシンボルとされたのが自然の象徴としての樹木でした。

後ろに控える二の丸三の丸でしょうか。


ヨハネの黙示録1章8節 神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」
まあ最初という意味でしょうね。ヨハネの黙示録は聖書の聞きかじりの人はあまり気にしないほうがよいかと思います。黙示録文学というのはひとつの標語や目標のようなもので、がんばろう日本みたいなものです。


へんてこな形の三角形。ドコモに近付いてきます。


突然気の抜けた感じのバラの花壇が現れます。


オシャレなカフェも突然出てきます。Rose Cafeと名前もバラにかかっていますね。
このバラの感じはなかなかフリーメイスンリーの様々な勉強をしていないとわからないと思いますが、わたしがすぐ直感的に思いついたのはフィンセント・ファン・ゴッホの白バラです。国立西洋美術館にあるおそらく日本で日本人が一番実物を見ているファン・ゴッホの作品です。


いわゆる松方コレクションを代表するものとされるでしょうか。
ついこの前まで国立新美術館で行われていたワシントンナショナルギャラリー展で最後に置いてあったファン・ゴッホの白バラがこちらです。


ファン・ゴッホの作品といえばバブル期に史上最高値で大昭和製紙の会長が買い求めた医師ガシェの肖像が日本では有名でしょうか。


手に持つのはジギタリスですかね。
この先生がファン・ゴッホの最後を看取ることになるわけですが、彼はフリーメイスンだそうです。
ファン・ゴッホ自身もオランダのプロテスタントの牧師の長男として生まれ、牧師学校で語学が不得意で牧師の道を諦め画家を志したそうです。ファン・ゴッホの絵には多くに聖書の題材をモチーフとしたものがあります。
ファン・ゴッホのバラの絵はいくつかありますが、やはり白バラの絵が有名で数も多く、サン・レミの精神病院に入院する前後に多く描かれています。彼がその後にいわゆるファン・ゴッホの代名詞ともいわれる大胆な筆致のスタイルを確立していく転換期です。
そういえば最近でもオリンパスや大王製紙などで日本企業の世襲や内部監査が入りづらい体質などが問題となっていますね。ファン・ゴッホもキリスト教社会の伝統的な風習と生涯にわたって反目しあう運命にあった人生だったのでしょうか。

さて横須賀に戻ります。


中華料理の店もあります。光の丘にかけた名前なのでしょう。


白バラの中に紅い原種のバラも少しあります。ドコモのマークや日本の国旗にあわせているのでしょうか。


パナソニックの建物が一番近くにあります。その他富士通など携帯電話機のメーカーがあるようです。


奥に行くと散歩の人が多い水辺公園があります。光の丘という名前は光ファイバーの研究とかけた名前なのでしょうか。
光というとフリーメイスンリーでは創世記1章1節

初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

この天地創造の第一日の様子から転じて光を智恵や理性のきらめきととらえ、封建制や従属から離れた啓蒙や理性の象徴ととらえます。

さて水辺公園の様子です。


全体が龍の落とし子か小型犬のような形でしょうか。


冬なのであまり生き物の気配は多くないです。


ベンチに四つのラフアシュラーがありました。


春から秋にかけて奥まで開放されているようです。


水仙が咲いていました。根に毒があるのでしょうか。
ギリシア神話のナルシスの生まれ変わりともウィキペディアにはありました。

全体に極めて小雀公園と同じ感じになっていました。なかなかどうなんでしょうか。


管理事務所の上に島津の紋所がありました。キリスト教の十字というよりは薩摩島津の紋といった感じです。


フランス料理のラ・ルーヴルです。ルーヴルといえばルーヴル美術館の前庭にあるガラスのピラミッドの照明が東芝のLEDに変更されたとやっていましたね。またルーヴルといえばレオナルド・ダヴィンチのモナリザが有名ですが、これを題材としてダヴィンチ・コードでは最後の晩餐のΛ∨に込められた謎というテーマでした。なかなか面白いですね。

最後に反対側のトンネルを抜ける前にお稲荷さんがありました。横須賀はお稲荷さんがそこらじゅうにあります。やはり日本のアイヌ系の農村地帯にはお稲荷さんは欠かせません。未開の地で最後に頼りになるのは身近な家畜というのは世界共通でしょう。

日本の情報産業の中心地は一種の護送船団方式がそのままの形で残るものでもありました。横須賀には戦前にも海軍の通信学校があった伝統もあり、現在この地でも様々な教育が行われていると思います。シンボリズムとしてはかなりあいまいなフリーメイスンリーからは外れたものであったことがお分かりいただけたでしょうか。
この地でもやはり最も印象的だったのはラフアシュラーです。これはフリーメイスンリーのシンボリズムですが、以前にも示した通りあまり好ましいものではありません。今後もいくつもの場所で認められますが、是非ラフアシュラーとパーフェクトアシュラーの教えを良く理解してパーフェクトアシュラーとなるべく努力するのがフリーメイスンの日々の勤めでもあります。

シンボリズムはひとつの言葉の定義が文脈で変わるようなものと近いところもありますが、人によって解釈が異なるようなものからは遠いものです。あくまで厳密な一神教的なものに近いのです。恣意的な解釈や悪意が感じられるような言葉遊びのようなものではなく、フリーメイスンリーのプロヴィデンスの目に象徴されるような、どの時代、どの場所、どのような状況であっても同じ意味をもつようなものとして常にシンボルとして設定され選ばれているものなのです。

そのうえで見るとやはりYRP野比にあるようなシンボリズムもどきのようなものは情報産業がバブル期以降に発達の萌芽が認められる日本的な一種の言葉遊びのようなものでしょうか。それがまたシンボリズムとして印象派の絵画に似たものとなり、小雀公園を模倣したような中にラフアシュラーが自然とおかれてしまっているのは皮肉という他言いようがありません。
ただただそこを散歩する中高年の方々の時代を思う他に特に感想を抱きませんでした。
横須賀の戦後がそこにあるという感じでしょうか。横須賀中央公園も後に触れるつもりですが、似たものを感じました。バブルという時代、ラフアシュラーで象徴されるような時代でしょうか。

ご意見ご感想をお待ちしております。陰謀論は勘弁してください。

2012-01-11 09:39 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
題名の意味がわかるでしょうか。

ここまでも何度か出ていますが、フリーメイスンリーのシンボリズムは常にフリーメイスンリー的なものに対して、常に評価するものに対して記念碑としてシンボルを残すだけではないのです。

ラフアシュラーがその典型的なものであることはここまで読んでくださった方なら分かるはずと思います。


ラフアシュラーとパーフェクトアシュラー 左はフリーメイスンの道具 直角定規、水平儀、垂直儀、二十四インチ定規、コテ、ガベル

フリーメイスンリーは15~16世紀のスコットランド、イングランドでのいわゆる実務的メイスンリーの時代よりその起源をピラミッドやソロモン神殿の石工に求めることが多く、その際に最も役に立つ石としてパーフェクトアシュラーの形の切り石が重要な石材として象徴されたものと考えられます。
つまりラフアシュラーの形には原石、材料としての意味と、まだ建築材料として準備されていない段階であるという事、これらの事が意味として含まれ、また社会や全人類、およびフリーメイスンリーの歴史や営みを一つの建築途中の神殿とたとえ、そこに対して一つの建築材として必要な形に自らを整え、永遠の神殿の資材として奉仕することを十分に建築に準備された切り石として、パーフェクトアシュラーとして表現し評価するものなのです。

この事からも単純にフリーメイスンリー的でない、フリーメイスンリー的であるという表現は実際ではないのですが、シンボリズムとしてはやはりラフアシュラーとパーフェクトアシュラーに象徴されるようなフリーメイスンリー的であるかないかという価値観での、フリーメイスンリー的な評価になってしまうのがフリーメイスンリー的なシンボリズムです。

以上を踏まえてこれまで紹介しなかった横須賀におけるフリーメイスンリー的でないフリーメイスンリー的なシンボルを見ていきましょう。もちろん私自身の独断と偏見によるフリーメイスンリー的評価であり、それらが公的に日本グランドロッジのものであるとか、そういうものではない事は十分ご理解いただきたいところであります。


観音崎の横須賀美術館などから東京湾沿いに北上していくと走水の漁港があります。
走水は地元でもきれいな湧水がある場所として古くから有名らしく、湧水をタンクに入れられる場所もあるそうです。走水漁港自体も東京湾の海流が特徴な場所でアジなどの釣り船が有名です。

ここからさらに北上します。


街並みでわかりますでしょうか。ここ最近でとてもきれいに整備された馬堀海岸という場所です。
ここは来ると非常に驚きますが、車線が広くなっていてヤシの木みたいな木が大きく茂っていて、まるでカリフォルニアかハワイの海岸線のようです。一軒家の住宅街が続いていて、横須賀横浜道路の高速道路のインターも新しく接続し人気の住宅地であろうことがすぐにわかる感じです。

さてここの目玉の海岸線の遊歩道なのですが。こんな感じです。




これをラフアシュラーというのは何ともシンボリズムとしても大胆な解釈なのでしょうが、驚くほど大量のラフアシュラーという他に表現が無いのも事実で、あまりの壮大さに唖然としてしまうものです。大小様々な大きさの切り石というよりは岩石そのままという石が整然と美しい人工的な道路の脇に圧倒的な沈黙をもって並んでいました。

これをどう解釈するかは人それぞれになるのでしょうが、フリーメイスンリーとしてはラフアシュラーであり、大量のラフアシュラーなのです。今後パーフェクトアシュラーになるかどうかは別として、そこに数え切れぬほどのラフアシュラーがある。それがフリーメイスンリーとしてのシンボリズムの解釈として正しいのだと思いました。

日本におけるフリーメイスンリーの現実、それがある意味この表現であろうと、最も新しい横須賀のシンボリズムであろうこの海岸は私に教えてくれたと思います。

フリーメイスンリーのシンボリズムは常に過去、現在、未来にわたってそれを知ろうとする者に明快な解答をもって答えてくれます。しかしそれによって知る事実は恐ろしいほどの現実であり、トルーマン大統領の言葉のようにこの世が地獄と変わらぬものであるという事と同時にフリーメイスンリーの教えの変わらぬ正しさとフリーメイスンとしての生き方のみがその解決であるという変わらぬ真理を示しています。

シンボリズムについて学ぶ事はそういったフリーメイスンリーの智恵を身につけるための基本であり、生きていく上での重要な鍵となるものであります。

さてさらに北上して横須賀の中心部に入っていきましょう。


三春町にある釣り公園です。私も釣りは好きで三浦や佐島などで釣りをしたこともあるのですが、ここは回遊しているサバなどが結構釣れる人気の公園のようですが、人の多さに驚かされました。ほとんどの人が投げサビキかサビキ釣りで釣っている状況で、ほとんどパチンコ屋さんのお魚が景品みたいな感じでしょうか。

実は知っている人は知っていると思いますが、ここにもフリーメイスンリーの貴重なシンボリズムが隠されています。


クジラのオブジェです。その他にもいくつかのオブジェがありますがその中でも日本人に一番なじみが強く、愛嬌のある形で釣り公園にぴったりの形だと思います。この形のどこにフリーメイスンリーのシンボリズムがあるのでしょうか。


わかりますでしょうか。
ラフアシュラーがありますね。さらに噴水を模した形が重要です。

かなりはっきりとしたシンボリズムできれいな黒いピラミッドが完全に転倒した形となっています。

これは捕鯨とも一部かかっているのでしょうが、やはり日本の独特の文化という点でなかなか外国人が中心のフリーメイスンリーでは釣りや魚食や捕鯨の文化は非合理的であり受け入れがたいものになるのだと思います。私自身はこのオブジェを見て、また三浦半島での釣りの現状を鑑みて陸地からの釣りは特に神奈川県ではあまり積極的にやるのはやめようと思いました。
地球温暖化や気象変動のために魚自体の数が極めて減少している事と、海洋汚染が都市部の沿岸では極めて深刻である事、また積極的に船釣りで遠出するのに比べて陸からの釣りはまさにパチンコ屋でパチンコをやっているに等しい時間を浪費する作業である事を痛感したからです。
船釣りに関しては似たような事はあっても色々産業となっている事からそういう評価は少ないようです。そもそもフリーメイスンリーでは海釣りをやるような人は少数派のようです。

いずれにしても転倒したピラミッドというのは極めてまれですが、フリーメイスンリーのシンボルの中では特殊な極めて印象の悪いものであり、横須賀で他にピラミッドのシンボルが無い分強烈な印象を残すものでした。


2012-01-12 09:43 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
東と西、日本では東日本西日本という言い方をしますが、世界では洋の東西を問わずというように、主にユーラシア大陸の西岸側、東岸側で比較の対象とされるのだと思います。

ああ、東は東、西は西、二つが共に出会うことはない、/大地と空とが神の大いなる審判の座の前に立つに到るまでは。/しかし、東も西も、境も、人種も、生まれもない、/地のそれぞれの果てから来た二人の強者が顔を合わせるそのときには。--ラドヤード・キップリング「東と西のバラード」

Oh, East is East, and West is West, and never the twain shall meet,
Till Earth and Sky stand presently at God's great Judgment Seat;
But there is neither East nor West, border, nor breed, nor birth,
When two strong men stand face to face, though they come from the ends of the earth!

大英帝国絶頂期のノーベル賞作家、英文学を代表するJoseph Rudyard Kipling の詩です。インドのボンベイで育ち、清王朝の中国、明治初期の日本を経由してロンドンに戻り、その後インド時代の乳母の子守り話などをヒントにインドの伝承などを題材に小説を書き当時の人気作家となった方です。当時の、シルクハットをかぶりステッキを持った英国紳士にとって、明治維新から20年の着物に散切り頭で西洋風を気取った日本の様子などは、まさに東と西の違いをまざまざと感じさせずにはいられない光景だったと思われます。
彼もインドにあったフリーメイスンリーのロッジに、20代の若さで加わりフリーメイスンとなって、フリーメイスンリーにかかわる詩も多数残しています。

The Mother Lodge
抜粋~Outside -- "Sergeant! Sir! Salute! Salaam!"
Inside -- "Brother", an' it doesn't do no 'arm.
We met upon the Level an' we parted on the Square,
An' I was Junior Deacon in my Mother-Lodge out there!

ロッジの外では大英帝国の植民地での階級社会があり、役職や爵位で呼び合い、敬礼など面倒くさいやり取りがあるのに比べて、ロッジの中に入ればお互いを「ブラザー」と呼び合い、仲間となれるそういうフリーメイスンリーの交わりは、イギリスの植民地では息抜きや有効な現地に関する情報交換の場であり、また本国やその他の次に移動する場所などについての情報を容易に得られる場でもあったのだと思われます。

さて東と西についてはフリーメイスンリーでは良く知られるシンボルとしてこのようなものがあります。

双頭の鷲は古来シュメール文明にも認められるシンボルだそうで、主に東ローマ帝国で国章として採用され、その後ギリシャ正教会、神聖ローマ帝国、ハプスブルク家、ロシア帝国などにも使用され、現在ではアルバニア、セルビア、モンテネグロの国旗やロシアのシンボルとしても使用されています。もともと東ローマ帝国時代に東と西の支配権を意味して双頭であったそうですが、フリーメイスンリーではヨークライトと並ぶフリーメイスンリー内の最大の団体である多段階位団体である、スコティッシュライトのシンボルとして使用されています。

スコティッシュライトは、フランスにおいてフリーメイスンリーが流行した初期にいくつもの多段階位が生まれ、それらをアメリカにおいて統合し三十三階位のスコティッシュライトとしてまとめたもので、これを行ったのがネットの陰謀論では黒い教皇と呼ばれたり、第一次大戦から第三次大戦までを予言したとされるブラザーアルバート・パイクです。彼の主要な著書がいわゆる「Morals and Dogma」で、三十三階位までのそれぞれの階位の意義が説明されているそうです。私はこれはまだ詳しく読んでいませんが、ネットでもPhoenix Masonryなどで無料で読むことができると思います。どこかで読みましたが、三十三階位を授与されたフリーメイスンのほとんどがこの本を読んでいないし理解していないというフリーメイスンリーのネットでのフリーメイスンによる批評がありました。
33という数字は3がそもそもフリーメイスンリーでは三階級に示される象徴的な数字で、それらが組み合わさりなおかつキリストの生涯が33年であったとか、ソロモン神殿が33年間保たれた(2014/8/29追記:ソロモン宮殿は第1にしても第2にしても33年保たれたという事は無いようです。確か英語の文章の説明を訳したのだと思いますが、もしかするとユダヤ戦争の開始から神殿の破壊まで33年であるのかもしれません。)とかそういう聖書からの引用が関わっているそうで、いわゆるフリーメイスンリーの多段階位の中で、陰謀説などを絡めて多くの人の注目を集める物となっているものです。
下に書かれたラテン語のモットーはDEUS MEUMQUE JUSとあり、英語にするとGod and my rightだそうで、イングランドの王室軍のモットーに由来するそうで、リチャード獅子心王のノルマンディーでの戦いなどに関係するそうです。それぞれ深い逸話から道徳的な教訓を得るフリーメイスンリーの中のさらに深い部分のスコティッシュライトのシンボリズムであり、多くの英語の本を読みこなして理解されるシンボルなのだと思います。

さて導入として長くなりましたが、横須賀における東と西の邂逅を意味するシンボルはどんなものでしょうか。
それは何と三浦海岸にあるようです。


三浦海岸は厳密には横須賀ではなく三浦市ですが、三浦の中でももっとも横須賀寄りで、夏になるとかなりの数の海水浴客で賑わう砂浜です。湘南に比べて東京湾側といっても比較的きれいに保たれている海岸で、その他にも三浦には雰囲気のあるきれいな海水浴場が多いのですが、この海岸が最も人気があると思います。かなり道が混むので車で来る際は渋滞が必至です。 
三浦市にはここ以外にこれといったフリーメイスンリーにまつわるシンボルはわかりませんが、そもそも城ケ島灯台はヴェルニーが建設したものであり、剣崎灯台もお雇い外国人のリチャード・ブラントンが建設したものであり、関東大震災で台替わりしているとはいえ灯台そのもののシンボルとしての意味は変わらないと思われます。彼らがフリーメイスンであるかは現時点では私は知りませんが、同時期に日本にいた多くのお雇い外国人はフリーメイスンであったりフリーメイスンとかかわりのあった人々であり、フリーメイスンリーにかかわるシンボルと考えて差し支えないかと思っています。


さて東と西の邂逅ですが、トイレですね。
三浦という土地柄、市の端っこでトイレという形になるのは致し方ないことだと思います。私個人は三浦市はマグロもおいしいし、野菜もおいしいし、景色もいいし、良い場所だと思いますが、フリーメイスンリー的には横須賀に比べて格段に日本的で古い価値観の地域である事は否めないでしょう。
ピラミッドはルーブル美術館の前にあるものや日本の各地のバラ園のある場所や、色々なビルなどにシンボリックに建設されることが多いものですが、この頂点がずれた形のピラミッドは日本で数か所に認められるピラミッドとして特殊な変形のものです。
なぜ三浦海岸なのかというと色々諸事情があるのだと思われますが、本来は久里浜海岸が最も場所としては適していたと思われますが、人が多くあつまるこの地が選ばれたのかもしれません。もしかすると三浦海岸にペリー来航時に様々な逸話があるのかもしれません。
頂点のずれたピラミッドがなぜ東と西の邂逅を意味するかというと、これはこのシンボルを見たときの解釈というだけで、どこかに説明があったという事はありません。
ピラミッドのシンボリズムと頂点がずれた意味、久里浜海岸や三浦海岸の歴史的意味や現在の状況を考え、それが東と西がこの場所で結びついた事を象徴するという意味が解釈として現れるという事なのです。
ただどうしても西が上で東が下とかどっちの頂点がどっちを意味するとかいう事になるのだと思いますが、それはそれぞれ違いという意味であって、どちらが優劣という事ではないのだと思います。ブラザーキップリングが言うように「東は東、西は西」まさにそれをあらわしたのがこのピラミッドの形なのだと思います。

まあそれがトイレになるという所も現実的なメリットや情勢を踏まえるとそうなることなのだと思います。トイレとして使った事はありませんが、なかなかシンボリズムとして面白いと思います。


満月とピラミッドのトイレ
なかなかシュールな写真ですが、わたしは釣りをしたり城ケ島の様々な思い出もあり、三浦市は個人的になかなか思い入れもあるのでこうしたちょっと場違いな感じのシンボルも愛着を感じます。
あまり多くの人が気付く事は少ないタイプのシンボルではありますが、これを見つけた時の感じは平易な柔らかな感動を与えてくれるものです。

月もシンボルとして重要なものであることを付け加えておきます。

さて東と西の邂逅というテーマのシンボルですがこれには実は有名なものがあります。
横須賀では西武グループ関連の建築物に良く目立つシンボルが多いのですが、これは極めて有名なものです。シンボルとしてこのブログでいう事に問題があれば伝えてください。


ネット上からの無断借用です。問題あれば教えてください。
八景島シーパラダイスの水族館と富士山の夕景


八景島シーパラダイス水族館

手前の休み処もヴェルニー公園と似た作りになっていますね。
周囲の展望台やアトラクションもオベリスクを模したものとなっているかと思われます。
この地は実は金沢区の歴史などからわかるのは、ブラザーペリーが日本に来航し、徳川将軍あてに親書を黒船の船上で使節に手渡した後に、上陸に関して水深調査をボートを出して詳しく行っている際に、アメリカの独立記念日(7月4日)に江戸城に向けて空砲を撃った場所なのだそうです。つまり江戸湾、現在の東京湾で水深が最も深く保たれている内奥部という事なのです。(2013/11/4追記:これは独立記念日7月4日ではなく、ブラザーワシントンの誕生日であるグレゴリオ暦の2月22日であったようです。横浜市のホームページを参照しました。)

ブラザーペリーの日本上陸に関しては、それ以前にもアメリカ艦船の乗組員が和歌山県に上陸した事例があり、その近くでその後トルコ艦船の座礁遭難事故があり、その地には現在オベリスクが建っています。
Kushimoto-toruko-ireihi1.jpg
その地にある日米修好記念館の説明です。
1791年(寛政3年)、ブラザーペリーの黒船来航より62年も前のこと、レイディ・ワシントン号とグレイス号の2隻のアメリカ商船が大島に上陸しました。これが公文書に記録された初めての日米間の接触であるとされています。同館では、当時の様子を解説したジオラマや写真、船の模型などが展示されています。 

このように様々な形で徳川幕府と接触を繰り返していた欧米諸国は、この強引とも思われるブラザーペリーの外交によって、徳川幕府も開国やむなしと判断し、久里浜から上陸を許可し、ブラザーペリー一行は江戸城で将軍と謁見し、後に伊豆下田、神奈川、麻布十番に米国総領事を置き、日米和親条約での開港二港、さらに日米修好通商条約での開港五港と外国人居留が認められていったのです。

このブラザーペリーの上陸に関しては様々な江戸幕府による日本的な駆け引きがあり、最初は鎌倉の地に上陸を勧めたそうですが、ブラザーペリーは遠浅の海で黒船が座礁する事を見越しており、それを拒否したそうです。鎌倉由比ヶ浜の海には源実朝が大型船を建造し直接中国との通商を行おうとして、座礁してしまったという逸話もあります。そもそも金沢八景の地は鎌倉時代より武家政権の中心である鎌倉の港として機能し、千葉からの塩を運び入れたり、中国からの通商もこの地を通してなされたそうです。
すでにシーボルト事件などを通して伊能忠能の地図などがヨーロッパに流出していたと考えられ、綿密に計算された上でフリーメイスンとして使命を帯びてブラザーペリーは来航したのでしょう。

水族館に関しては最近全国にシンボリックな観光目玉として建設されていますが、この水族館もまさにシンボリックであり、同様に品川水族館なども建物の上にピラミッドが認められ、水族館の意味、維持管理にかかわる技術や水棲生物の研究やアミューズメント施設としての存在がシンボリックな位置づけとなっているのだと思われます。これらのルーツにもフリーメイスンが関わっている事が示唆されます。

さてこの八景島のシンボルについてですが、実は面白い秘密が隠されていますが、それは次回といたします。

2012-01-16 14:03 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
ウィリアム・アダムスという人を知っているでしょうか?

三浦按針というと知っている人は知っているかもしれません。
毎回ですがウィキペディアで調べてみましょう。

ウィリアム・アダムス(William Adams, 1564年9月24日 - 1620年5月26日(元和6年4月24日))は、江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイギリス人航海士・水先案内人・貿易家。日本名の三浦 按針(みうら あんじん)としても知られる。

按針の墓は長崎県平戸市の崎方公園にある。また神奈川県横須賀市西逸見(にしへみ)町の「塚山公園」には按針夫妻の慰霊碑があり、1923年3月7日、国の史跡に指定された。

イングランド南東部のケント州ジリンガムの生まれ。船員だった父親を亡くして故郷を後にし、12歳でロンドンのテムズ川北岸にあるライムハウスに移り、船大工の棟梁ニコラス・ディギンズに弟子入りする。造船術よりも航海術に興味を持ったアダムスは、1588年に奉公の年限を終えると同時に英国海軍に入り、フランシス・ドレークの指揮下にあった貨物補給船リチャード・ダフィールド号の船長としてアルマダの海戦に参加した。翌1589年にはメアリー・ハインと結婚し、娘デリヴァレンスと息子ジョンを儲けている。しかし、軍を離れてバーバリー商会ロンドン会社の航海士・船長として北方航路やアフリカへの航海で多忙だったアダムスは、ほとんど家に居つかなかったといわれている。

航海で共に仕事をする中でオランダ人船員たちと交流を深めたアダムスは、ロッテルダムから極東を目指す航海のためにベテランの航海士を探しているという噂を聞きつけ、弟のトマスらと共にロッテルダムに渡り志願する。航海は5隻からなる船団で行われることになっていた。
司令官のヤックス・マフはアダムスをホープ号の航海士として採用する。こうして1598年6月24日、船団はロッテルダム港を出航した。
だが航海は惨憺たる有様で、マゼラン海峡を抜けるまでにはウィリアムとトマスの兄弟はリーフデ号に配置転換されていたが、トマスが最初乗船していたトラウ号は東インド諸島でポルトガルに、フライデ・ボートスハップ号はスペインに拿捕され、1隻はぐれたヘローフ号は続行を断念してロッテルダムに引き返した。生き残った2隻で太平洋を横断する途中、ホープ号も沈没してしまい、極東に到達するという目的を果たしたのはリーフデ号ただ1隻となった。その上、食糧補給のために寄港した先々で赤痢や壊血病が蔓延したり、インディオの襲撃に晒されたために次々と船員を失っていき、トマスもインディオに殺害されてしまう。こうして出航時に110人だった乗組員は、日本漂着までには24人に減っていた。 
1600年4月29日(慶長5年3月16日)、リーフデ号は豊後の臼杵に漂着した。自力では上陸できなかった乗組員は、臼杵城主太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏んだ。太田は長崎奉行の寺沢広高に通報。寺沢はアダムスらを拘束し、船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収したのち、大坂城の豊臣秀頼に指示を仰いだ。この間にイエズス会の宣教師達が訪れ、オランダ人やイギリス人を即刻処刑するように要求している。
5月12日(慶長5年3月30日)、家康は初めて彼らを引見する。イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船だと思い込んでいた家康だが、路程や航海の目的、オランダやイギリスなど新教国とポルトガル・スペインら旧教国との紛争を臆せず説明するアダムスとヤン=ヨーステンを気に入って誤解を解いた。しばらく乗組員達を投獄したものの、執拗に処刑を要求する宣教師らを黙殺した家康は、幾度かにわたって引見を繰り返したのちに釈放し、城地である江戸に招く。

江戸でのアダムスは帰国を願い出たが、叶うことはなかった。代わりに家康は米や俸給を与えて慰留し、外国使節との対面や外交交渉に際して通訳を任せたり、助言を求めたりした。また、この時期に、幾何学や数学、航海術などの知識を家康以下の幕閣に授けたとも言われている。帰国を諦めつつあった彼は、1602年頃日本橋大伝馬町の名主で、家康の御用商人でもあった馬込勘解由の娘、お雪(マリア)と結婚した。彼女との間には、息子のジョゼフと娘のスザンナが生まれている。
やがて江戸湾に係留されていたリーフデ号が沈没すると、船大工としての経験を買われて、西洋式の帆船を建造することを要請される。永らく造船の現場から遠ざかっていたアダムスは、当初は固辞したものの受け入れざるを得なくなり、伊東に日本で初めての造船ドックを設けて80tの帆船を建造した。これが1604年(慶長9年)に完成すると、気をよくした家康は大型船の建造を指示、1607年には120tの船舶を完成させる(この船は1610年になって、房総の御宿海岸で遭難し地元民に救助された前フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベロに家康から貸し出され、サン・ブエナ・ベントゥーラ号と名付けられた)。

この功績を賞した家康は、更なる慰留の意味もあってアダムスを250石取りの旗本に取り立て、帯刀を許したのみならず相模国逸見(へみ)に采地も与えた。また、三浦 按針("按針"の名は、彼の職業である水先案内人の意。姓の"三浦"は領地のある三浦半島に因む)の名乗りを与えられ、異国人でありながら日本の武士として生きるという数奇な境遇を得たのである。のち、この所領は息子のジョゼフが相続し、三浦按針の名乗りもジョゼフに継承されている。
家康に信頼された按針だが、1616年(元和2年)4月に家康が亡くなり、後を継いだ徳川秀忠をはじめ幕臣たちの方針で貿易を平戸のみに制御し鎖国体制を敷いたため、按針の立場は不遇となった。以降の按針の役目は天文官のみとなり、幕臣や次期将軍候補の徳川家光らに警戒されながら、按針は憂鬱の状態のまま、1620年(元和6年)5月26日に平戸で没した。57歳であった。 


さて長々と転載いたしましたが、関連項目として以下のものがありましたのでこれも転載いたします。


ヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン(Jan Joosten van Loodensteijn , 1556年? - 1623年)は、オランダの航海士、朱印船貿易家。日本名は耶楊子(やようす)。

来歴
オランダ船リーフデ号に乗り込み、航海長であるイングランド人ウィリアム・アダムス(三浦按針)とともに1600年豊後に漂着。

徳川家康に信任され、江戸城の内堀内に邸を貰い、日本人と結婚した。屋敷のあった場所は現在の八重洲のあたりだが、この「八重洲」の地名は彼自身に由来する。「ヤン=ヨーステン」が訛って「耶楊子」(やようす)と呼ばれるようになり、これがのちに「八代洲」(やよす)となり、「八重洲」(やえす)になったのである。


さて長々とコピペしましたが、ウィキペディアは権利関係は大丈夫なんでしょうか。まあ悪意もあるわけでも商用目的でもないので大丈夫だとは思いますが、この内容のポイントがいくつかあります。まずイギリス人として初めて日本に上陸した記録の残る人物が彼であること。バーバリー商会に勤めていたこと。ドレーク船長麾下の半国軍の船であったこと。弟の名前がトマス、日本人妻の名前がマリア、子供の名前がヨセフとすべて新約聖書の重要人物の名前であること。激しい新教と旧教の対立が極東の日本でもあったこと。三浦半島に所領を与えられて住んだこと。家康死後は不遇の後に平戸で死亡し墓があることでしょうか。
また息子のジョセフについてもウィキペディアに項目があったのでこれも転載いたします。

ジョセフ・アダムズ / 三浦 按針(二代目)(Joseph Adams, /みうら あんじん、1605年 - 没年不詳)は、江戸時代初期に徳川秀忠、徳川家光に仕えた旗本(禄高は相模国三浦郡逸見250石)。

徳川家康・秀忠に外交顧問として仕えたイギリス人船員・ウィリアム・アダムス / 三浦按針(初代)の息子で、イギリス人(イングランド人)としては「ジョセフ・アダムズ」と名乗る。母は馬込勘解由の娘の雪。妹にスザンナがいる。また、父の故郷のイングランドのケント州ジリンガムには、義理の母のメアリー・ハインと、異母姉のデリヴァレンスと異母兄のジョンがいる。叔父はトマス・アダムスである。

慶長10年(1605年)ごろ生まれる。元和6年(1620年)5月16日、父が57歳で没すると家督と所領を相続し、名乗りを継いで二代目三浦按針となる。父からは佩刀の大半も相続した。ジョセフは父の手によって航海士としての訓練を施されており、船員として航海にも参加していた。 元和10年(1624年)と寛永12年(1635年)にはコーチシナへと航海している。

そのころには、海外貿易にも積極的だった家康が既に没し、消極的な秀忠の治世になっており、次代の家光に至っては排他的な鎖国主義者のために、朱印船貿易は徐々に制限が強化されるようになっていた。しかし、ジョセフは最後まで朱印状・奉書を給付され活動を保証されていた。寛永9年(1632年)まで貿易を行っていた記録が残り、また同13年(1636年)付けの棟礼が現存するといわれ、鎖国直前までは活動が確認できる。

その後の消息は定かでない。死後は領地の三浦に埋葬されたというが、詳しいことは不明である。

うーん。三浦に白人の血が残っているのでしょうかね。
いずれにしても安針塚という場所があります。そこがこの三浦按針の所領だったところ、逸見に当たるところです。

さて今回の場所はこの安針塚、塚山公園になるわけですが、三浦按針の逸話ですが、これにはいくつかの重要な要素が欠けています。彼が日本にたまたま来た時代はまさに1600年という日本史的に非常に重要な時代です。まさにこれから関ヶ原の合戦が始まろうと、石田三成以下西軍方と徳川家康以下東軍方で小早川秀秋に代表されるような裏切りと策謀の駆け引きが真っ最中の只中に放り込まれた訳です。この時世界はいわゆる大航海時代終盤であり、いわゆるポルトガルとスペインによる世界の分割がなされたのちに、イギリス海軍がスペイン海軍を破りエリザベス一世配下の海賊ドレーク船長が世界一周を成し遂げ、まさにその後の大英帝国の礎を築き始めたそんな時なのです。イエズス会の修道士たちは織田信長から豊臣秀吉、果ては豊臣家と徳川方との争いを全てを知りつくし、伊達や島津、琉球からフィリピン、上海、香港、インドまで全て知り尽くしていた状況です。そこにまさにウィリアム・アダムスは血気盛んな船乗りとして放り込まれるわけです。お気づきかもしれませんが、状況としては極めてジョン・万次郎に似ている感じですね。
按針という名前は水先案内人という意味とありますが、まさに羅針盤を操るコンパスを手にした人間ということです。当時はもちろんフリーメイスンリーのグランドロッジ結成前の時代で、ウィリアム・アダムスの経歴からいって、それ以前のロッジに加入するようなフリーメイスンである可能性はほとんどないわけですが、彼が行った行動、その他を見るに典型的なキリスト教精神に基づく不屈の精神で日本で生涯を全うしていることが分かると思います。彼らの存在により、今日に至るまで続くような日本の伝統宗教である仏教・神道とキリスト教との宗教対立のもとになるような江戸鎖国体制を促進した影響はあるものと思われます。

さてウィキペディアではあえて書かれていないのだと思いますが、この人の日本史史上の最大の功績はジェームズ1世に親書を送り、大阪冬の陣で徳川方にイギリス製の最新の大砲を売ったということでしょうか。この事はあまり日本史で述べられることはありませんが、実際には日本の歴史をほぼ決定するような重要な活躍をしたと言えると思います。彼の存在によって当時難攻不落を誇っていた大坂城が和睦に応じ、その後の大坂夏の陣での豊臣氏の滅亡につながり、徳川幕藩体制の確立につながるわけです。

これに関してと言ってはあれですが、実は豊臣氏の日本統一に関してもこれと似たような事例があります。豊臣氏の日本統一といえば一般には小田原城での北条氏の滅亡をもって全国統一とされていますが、実はこの時に籠城戦で小田原城は何年も持ちこたえる構造をしていました。小田原城はそもそも特産のかまぼこで知られるように相模湾の海流の関係で目の前の漁場が非常に豊かであり、また当時の戦国時代の築城技術の粋を集めていたために、広大な城の範囲と内部での耕作や井戸をもち合わせ、難攻不落というよりもいわゆるヨーロッパの城郭都市と同じ形で、内部で循環する経済があり長期戦を維持する補給があったのです。このためいくら籠城戦を戦おうともお互いに疲弊するのみで、いわゆる食料や水が足りなくなることが無いのでした。ただ籠城戦自体神経戦の部分が強く、籠城する側は圧倒的に不利であり、小田原城攻城はすでに北条氏が仲間が全くいない状態で、頼りの伊達氏や島津氏にも包囲されている状況だったので、落ちるのは時間の問題であったのです。その際に最後の決め手になったのが石垣山一夜城の出現であったといわれています。小田原城を見降ろす石垣山の頂上に、日本で最初の西洋流の石組をもった石垣城を建築し、一夜で建築したように隠していた幕を取って小田原城に見せつけることで、その築城技術や建築技術の高さを誇り、そこから弓矢や鉄砲を打ちおろすことで、完全に籠城方は戦意を失い当主が切腹することで敗北を決したということです。(4/1追記:北条氏と交渉にあたったのは後にこのブログでも取り上げた黒田官兵衛だそうです。)豊臣氏、徳川氏ともに天下統一の決定的な瞬間で宣教師や三浦按針がもたらした西洋の進んだ軍事技術が決め手となっているのが実は日本の戦国時代の真実なのです。(追記:石垣山一夜城については、ウィキペディアなどでも編集がすすんで、基本的には関東で最初の本格的な石組というところで落ち着いているようです。実際は豊臣秀吉は織田信長以来の宣教師との関係が密であり、安土城でも西洋建築の影響が大きく認められるところであり、この石垣山一夜城においてそういう西洋建築の影響が大きく認められ、それが威嚇効果を良くもたらした事は想像できます。なかなか日本史の常識は簡単には変わらないという一つの例だと思われます。)

石垣の技術なんていうとまさに石工の技術そのものであり、フリーメイスンリーの源流を感じさせる出来事だと思います。

次回はそのウィリアム・アダムスを記念した安針塚のある塚山公園の現在についてフリーメイスンリー的考察を加えます。

2012-01-17 12:58 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
安針塚の続きです。


塚山公園は人がいません。


神奈川県民には懐かしい長洲一二さんの揮毫があります。


公園はこんな感じです。

海の見える丘からの風景はこんな感じです。金沢文庫方面


横須賀本港方面


久里浜方面 建物の上にらせんが見えますね。


見晴らし台からの金沢文庫方面


見晴らし台付近からの大楠山方面


園内の休み処


チェッカーの床と三角の椅子


保存会の看板


安針塚です。奥さんの墓と並んでいます。実際にはお骨は入っていないそうです。


戦前の漢文の石碑が見えない方向を向いていました。


坂を下りたところにある弘法大師の碑。荒れ放題でした。


とんがり屋根の民家。YRP野比のラ・ルーヴルそっくりです。


鹿島神社があります。


並んで浄土寺があります。


港の見える丘からの八景島方面。他のブログよりお借りしました。
綺麗に重なる角度で撮っていますね。実際にはここまで重なりません。
これが八景島のシンボルの秘密ですが、安針塚からみるとちょうどずれたピラミッドが重なるような角度になっています。安針塚から江戸を見た時にそれがちょうど東洋から西洋を見たようにウィリアム・アダムスが望郷の念を抱いたように、横須賀から東京を眺めるとそうなるのか、なかなか確実な説明はないでしょうが、ずれたピラミッドが一体に見える場所が安針塚であるという事は、歴史と共に我々に一つの答えを与えてくれるのではないでしょうか。東西の邂逅、それは偶然でもなく必然であり共に同じ形を作っていたのだということでしょうか。

三浦按針がフリーメイスンでないことは恐らく異論はないところだと思います。彼がフリーメイスンとして考えてふさわしいかどうか、それはこの公園に答えが一部あったのだと思います。
彼が実際には平戸に移り、そこで望郷の内に死亡し墓があることと、この安針塚が現在まで墓として奥さんの碑と共に横に並んで保存されている事は、蝶々夫人の逸話を見るまでもなく、東と西、この遠くて古い関係が現在に至るまで本質的には変わらずにあり続けるという事を端的にあらわしているのかもしれません。

神社と寺と碑の関係、および周辺の谷津の寒い環境なども日本の封建時代と現代の状況を鑑みるのに非常に示唆的なものだと思われます。日本の国際化、それを考える時、この三浦按針の足跡はわれわれ日本人に大きな教訓を与えてくれるものだと思います。

多くの方に訪問していただきたい場所ではありますが、周辺に駐車場などはあまりなく横須賀は駅からの徒歩が基本の場所が多いので、是非訪問する際はよく調べて来られることをお勧めします。

ウィリアム・アダムスは紀行記を本国に送っていて、それを基にしてガリバー旅行記の日本の部分は描かれたそうです。またガリバー旅行記で描かれたラピュータと呼ばれる天空に浮かぶ島の話はニュートンを代表とするフリーメイスンリーの啓蒙科学に対する批判のようです。天空の城ラピュタのもとになったお話ですね。「バルス」は特に秘密の暗号としては知りません。(2/13追記:ガリバー旅行記の作者はブラザースイフトでフリーメイスンです。)(4/1追記:バルスという呪文は恐らく昴とかかっているダジャレではないでしょうか。昴はプレアデス星団という肉眼で6-7の星が集まって見える星団で、集まるという意味で統べるという和語からすばるという名前が付いたようです。そういう意味でラピュタの映画は意味の解釈ができるのかと思います。日本のアニメも教訓的ですね。)

次回は鎌倉のフリーメイスンリーのシンボルをやります。


2012-01-20 10:22 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さて横須賀のフリーメイスンリーのシンボルもそろそろネタが尽きて来る頃ですが、おそらくその最大のもので、市民であれば多くの人が最も横須賀の象徴と考えているであろう三笠公園に触れなかったので、ほぼ横須賀については最後に近いと思うのですがここで取り上げることにしましょう。

その他に横須賀でフリーメイスンリーについて最も考えたり触れることができるのは残りはベースの中ということになると思います。ベースの中には日本グランドロッジ管轄下のNo.20 Yokosuka Lodgeがあり、ホームページでも写真を豊富に掲載しており、ベースの市民開放の際には出店したりしています。

さて三笠公園ですが、横須賀在住の方は戦艦三笠の歴史や、三笠公園の歴史について私よりかなり詳しい部分もあるかと思います。私としてはフリーメイスンリーの視点から、具体的には三度の訪問のみでその他はウィキペディアやフリーメイスンリーの教えなどから学んだ知識に基づいて三笠公園の普通の人が謎に思われそうな事について論評していきたいと思います。

三笠公園はベースの横にあります。ベースと言うと横須賀以外の方は何だと思うかもしれませんが、横須賀では横須賀港にある米軍基地のことをベースと言います。恐らく米軍人がBaseというのをそのまま使用するのでしょう。ベースには日本側からの入り口が三つあるそうです。(三つ目の三笠公園内ゲートというのはよくわからなかったです。)一つはソロモン宮殿を模した形の芸術劇場側の大きな入り口で、目の前にはホテルの上に自由の女神のシンボルがある目立つところです。後ろにはドブ板通りの入り口があり、こちらにはエンパイアステートビルを模したものがあります。


米軍基地正面ゲート たくさんの外国人がいます。軍人さんに限らず、その家族や一般人も多いのでいろんな人が出入りしています。あまり写真を撮っている人はいないですね。日本の警官と米軍のSPがいます。


ホテルの自由の女神
ベースの中は一般の日本人は開放日でなければ基地の知り合いの人がいない限り入れません。
入り口で日本人の警官の方に優しく止められます。
どぶ板通りとその周辺には海軍カレーとネイビーバーガーの店がありますので勇気のある方は観光で食べていかれるとよいと思います。観光商品なので比較的高めの値段設定になっていますが、大きなコーラや英語とドルの料金表示が軽い海外旅行の気分にさせてくれます。ただしアメリカ人も現在は日本の文化に慣れているのがほとんどなので、以前よりも米兵のケンカや騒動は全然少ないようですし、怖い感じの雰囲気よりもSPが夜間も多い感じです。軍人さんも大変そうです。

さてベースの前を過ぎて少し日本的な雑然とした駐車場が多い方になってくると三笠公園入り口です。ここは緊張に耐えかねてちょっとご高齢の方がホッとしたついでにわめいていたりすることもあるので若干注意が必要です。


アーチはRoyal Arch MasonryというYork Riteの団体の一つにも認められる、フリーメイスンリーのシンボルです。Rainbowと共にキリスト教の一つの象徴から生まれたシンボルのようです。有名な所ではブラザー・ジョージ・ワシントンのエプロンなどにも認められます。ゲート、門自体も前回にも言ったとおりフリーメイスンリーに限らずシンボルであり、お墓などでは天国への門という意味になるようです。米軍基地の門としての意味と、三笠公園への入り口、日米協調、友愛、国際化社会への門としての意味がかかっているものと思われます。


ブラザー・ジョージ・ワシントンがブラザー・ラファイエットより贈られたエプロン。彼がYork RiteのRoyal Arch Masonryで活動していたことを強く意識してか二組の二柱に加えて大きなアーチが認められます。これはWashington D.C.近郊のAlexandriaにあるThe George Washington Masonic Memorial(ワシントン記念石塔)で見られるようです。私が訪問した際は時間が無く閲覧ツアーに参加できず見られませんでした。
Royal Arch Masonryはトリプルタウで象徴される団体で、York Riteなので基本的にキリスト教の団体で、タウ十字自体は旧約聖書に認められるシンボルなので六芒星もシンボルとなっています。テンプル騎士団(Knight Templar)やマルタ騎士団もYork Rite内の階級や団体として認められます。私自身はキリスト教徒ではないので詳しくはわかりません。York Riteのシンボルの斜めの十字自体は東京タワーの下のメソニックビルディングにも認められています。


トリプルタウ タウ十字はいわゆるTの形をとる

さていきなり物々しいフリーメイスンリーのシンボル三昧ですが、アメリカのシンボルなんだろうなーと平和にくぐれば問題ありません。
ベースの前には海軍基地の象徴で碇があります。もちろんフリーメイスンリーのシンボルです。


碇はお台場やその他色々な所にひっそりとフリーメイスンリーの足跡を示すシンボルとして置かれています。ベースに入らないようにしながら歩くと右手に駐車場、左手にカトリック教会や短大や歯科大が並び、歩道が広くなってきて三笠公園通りとなります。最初にあらわれるのがこれです。


ちょっと写真が悪いですが、駐車場などの建物の上から見るとすぐわかります。仏教の蓮の花、蓮華を象徴しているのですね。いわゆる南無妙法蓮華経、日蓮宗に代表されるような仏教の象徴です。カトリック教会と仏教の象徴、しかも日蓮宗となるとちょっと宗教的な対立を感じます。

奥に行くと横須賀学院の十字架も大きく認められています。学院なのでこちらはプロテスタント系と思われます。このプロムナードは水を基調として船にまつわるものが描かれていたりします。日本丸の復元かのマスト部分だけを切り取ったものも置いてあります。あまりベンチにいる人は多くありません。


三笠公園のホームページによると未来への六分儀と言うそうです。六分儀は一種のコンパスで、フリーメイスンリーを連想させますが、同時に実は六分儀では有名な話があります。六分儀のデザインが東ドイツの国旗に取り入れられています。

東ドイツの国旗 ハンマーと六分儀と麦の穂 良く六分儀とコンパスを混同してる事が多くありますが、コンパスと六分儀は全く異なり、いわゆる円を描くコンパスと、同じコンパスでも方位磁針と、さらに測量に用いる六分儀は皆似ている形だが事なるということが重要になってくるのです。
ちなみに東ドイツと言えば共産主義の優等生と呼ばれ、一党独裁でシュタージによる国民の相互監視国家であり、ベルリンの壁で分断されていたのが崩壊でソ連崩壊の呼び水を作った国というのは有名ですね。若干ながら横須賀をシンボライズするものとは感じられます。シンボルはそのもの自身からわずかにずれると正反対の意味にもなりうることもあるのです。フリーメイスンリーがリチュアルの正確な暗記や保存にこだわる理由がここにも認められると思います。

また上のオブジェは正方形であり、パーフェクトアシュラーも連想させますが、中身が空っぽで石材ではなく、また単純な正方形でもありません。


柱も若干ピラミッド型をしています。(追記:ピラミッドも11段の形になっていますね。11はこの公園ではどうもユダヤを象徴する数のように現れます。これについては具体的にはわからないのですが611のモーセのミツワーからきているのかもしれません。11とか111という数字が現れるようです。)良く見ると碇のマークと知っている人は知っている昔のテレビCMで良く見たシンボルの日本船舶振興会のマークみたいなのが見えてきます。笹川さんですね。


ちょん切られた日本丸の一部みたいなのが無造作にあります。恐らく日本の分断を象徴するのでしょうが、あまりに怖いのでよろしくありません。


これもパーフェクトアシュラーを意識した形になっていますが中身が空っぽです。金属製です。
徐々にいやな予感がしてくるところだと思います。それが横須賀のフリーメイスンリーの現実です。

まだ戦艦三笠に到達しませんが、次回にします。

[追記:周囲の状況のグーグルアースの画像を載せます。最初の小さな蓮華の形から大きな日本丸周囲の蓮華の一部へつながる形は小乗と大乗を意味するのでしょうか。

いずれにしても日本丸は分断されていて変な形です。間に三角があるのはフリーメイスンリーの意味でしょうか。何かしらの意味があるのでしょうがあまり喜ばしいものではなさそうです。恐らく現在の状況への示唆でしょう。]


2012-01-23 16:49 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さて三笠公園に入るとすぐ目につくのは東郷平八郎元帥の銅像と戦艦三笠です。


夏の三笠公園


冬の夕景の三笠公園


皇国の興廃この一戦にあり


お盆の時期で読経のテープが流れてお線香を燃やしてました。


戦艦三笠はあまり知られていませんがイギリス製なんですねえ。ヴェッカースという戦艦とか飛行機とかイギリスの軍需産業を一手に担っていた企業で造られたそうです。現在はロールスロイス社の傘下になっているそうです。いわばイギリスの半国営企業でしょうか。


主砲とはためく日章旗


夏の猿島


マスト


艦橋司令塔からの眺め


東郷平八郎元帥の直筆
鎌倉などにも多くの石碑が残されています。掛け軸なども現在も最も人気があるようです。
東郷平八郎元帥の墓は多摩墓地にあり、山本五十六元帥の墓の近くにあります。いわゆる軍神です。渋谷には東郷神社もあります。もともと薩摩藩加治木村の出身だったと思います。(2015/1/24訂正:加治木町ですね。西郷隆盛と同郷です。)(2015/8/7訂正:加治屋町です。)薩摩藩と言えば生麦事件と薩英戦争ですね。86歳まで生きたそうで当時の維新の人物の中では最長寿ではないでしょうか。日露戦争の講和条約を結んだアメリカのポーツマスは奇しくも東郷平八郎が留学したイギリスのポーツマスと同名なのでした。


明治天皇御製歌 東郷平八郎元帥筆
世の中の人におくれをとりぬべし すすまむときに進まざりせば


軍艦マーチが頭の中を鳴り響く感じでしょうか。


コンパスがありましたね。船自体もフリーメイスンリーではノアの箱舟にちなんでシンボルとなります。特に海に浮いていない状態になるとシンボルと認められるようです。

日露戦争に関しては日英同盟とポーツマス条約がフリーメイスンリーの話としては重要でしょうか。前回も話したブラザー林董、ブラザーセオドア・ルーズベルト、ブラザージェイコブ・シフでしょうか。日英同盟が日露戦争となり、ひいては第一次世界大戦からロシア革命となる壮大な世界の流れは、日本にとっては明治帝の死と大正デモクラシー、関東大震災、大正天皇の死と5・15事件、2・26事件と連なっていくわけです。

ちなみに最近までNHKでやっていた司馬遼太郎の坂の上の雲のドラマではドラマの最後のシーンで象徴的に海図とコンパス(筆記具)を映していました。(画像ありません)

これは非常にフェルメールの絵画と似ていました。


フェルメールは名誉革命前の新教国のオランダを代表する画家であり、フェルメールの絵画にはその後フリーメイスンリーで象徴として取り上げられるシンボルが様々な形で写りこんでいます。

当時のプロテスタントの国々でそういったシンボリズムと自由の考えが結びついて、新たな芸術や科学や思想の発達と結びついていった過程が見てとれます。
日本のマスメディアもまさにそのような時代なのかもしれませんね。
あのドラマももしかするとこのブログと連動しているのかもしれませんね。
さて三笠公園の謎ですが、戦艦三笠に謎はあるのでしょうか?
戦艦自体がノアの箱舟に象徴される充実した生活と十分地に足のついた希望だということでしょうか。恐らくそういうことだと思います。
次回は日英同盟に尽力したブラザー林董についてFar East Lodge No.1のホームページにあるBrother James L. Johnston Past Grand Master, Japanの英文を翻訳して紹介したいと思います。 


2012-01-24 09:36 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さて戦艦三笠にはあまりこれといった謎はなさそうでした。
間に怪しげなラフアシュラーの並ぶ水路があり、怪しげな半アーチのあるシンボルの橋を渡って隣の公園に行くとこんな感じです。


またアーチですねえ。どう見てもシンボルです。


そしてあからさまに重厚な石で造られた不可思議な幾何学構成の噴水の池。


こんな感じの音楽噴水をやっているそうです。怪しいですねえ。


正面がオリンピック競技場のスタンドのようになっています。怪しい壁画があります。
ほとんどの日本人は怪しさにあまり接近しませんね。
どう見ても石工の神殿ですからね。
しかしそれにしてもラフアシュラーが多すぎます。

かなり見事な噴水のコンピュータ制御です。音楽もなかなか音響が考えられていて聞こえない事はありません。しかしお金のかかっている公園の割にはあまりに怪しすぎて人気がありません。

謎めいています。

しかし暑い夏でしたね。


2012-01-26 09:57 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さてでは三笠公園の謎ときを始めましょう。

まず最初のヒントになるのは何と言っても噴水池ですね。
基本的にフリーメイスンリーのシンボルでは最もわかりやすいのがラフアシュラーとパーフェクトアシュラー、そしてピラミッド、三の象徴になるわけですが、それらの内隠されているものと、あからさま過ぎて気づかないものとがあり、ほとんどの場合はあからさま過ぎて気づかないというのが秘密と呼ばれるものだという事はこのブログを読んできた方はわかっていると思います。

三笠公園では戦艦三笠がすごく目立っている訳ですが、それとセットの噴水池もなんだか意味がわからないので明らかに謎めいているのです。謎がここにあるよと主張しているような感じがわかると後は出された謎を解くためにはいろいろ細かく観察するだけという事になります。


まず水が池に流れる水路が八つあるのに気付いたでしょうか。八つあってそれぞれ違う形をしています。これは怪しい。


さてごてごてとしたラフアシュラーと半地下のパーフェクトアシュラー?の踏み石みたいなのが並んだ八個のいびつな形の水の流出口です。
まず最初に印象を抱くのはあまり美しくないという事。流出口が周囲に八個もある池というのはそもそも美的に言ってもあまりないと思います。それだけこの公園は八という数字にこだわっているという事なのでしょう。あまり美しくない。これは率直にフリーメイスンリー的でないという事でもあります。フリーメイスンリーでは良く知られた合い言葉にスコティッシュライトの十四階級でVirtus Junxit Mors Non Separabit(Whom virtue unites, death will not separate).美徳が結びつけた者たちを死が分かつことはない。とあり、美徳や美は基本的に建築や生き方として求められるものなのです。

ここでポイントになるのはカシオペア座と北斗七星を刻印された石が一つある事ですね。あとの星座はよくわかりませんが、恐らくこれが北極星を意味するものと思われます。

八つと北極星という事で、これは以前やった横須賀市の市章と対応するという事でシンボルで合致します。どうもこの大きな噴水で市章を意味させているらしいです。しかも北極星にポイントを置いているようです。どうにも天皇陛下を強調したいようです。シンボリズムについて良く勉強していながらも、八というフリーメイスンリーよりもアジア的な要素を強調し、しかも表現には適当さや無駄が垣間見れます。そんなプロファイリングができてきます。なんとなく仏教的ですね。

さて怪しい半地下のパーフェクトアシュラーはなんでしょう。

2012-01-27 10:01 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー


グーグルアースの音楽噴水池付近の衛星画像です。水の流れ込むところが四つ映っています。
これは季節や時間によって変更しているようであまり規則性は無いようです。
これと前回の写真を比較して、さらに現地で数を数えると流出口の半地下のパーフェクトアシュラーの数は以下のようです。段差によって桁を変える、大きいものも一とするといった数え方をしています。その他にもいくつにも数えるやり方はあるかと思います。色々やってみてください。

北極星と考えられる流出口から反時計回りに行きます。
122
1332
122
12322
22221
2251
1212
1213
となります。
これを見て思う所はあるでしょうか。ヒントはやはり北斗七星とカシオペア座にあります。

入り口のところで電柱のピラミッドが11段あり、それがユダヤを象徴するという所もヒントかと思います。ユダヤ教では特に11という数字が大事なわけではありませんが、最近の阪神淡路大震災1995年1月17日、アメリカ同時多発テロ2001年9月11日、郵政選挙2005年9月11日、そして記憶に新しい東北大震災2011年3月11日の11という並びからネット上などでも陰謀論の中では11がユダヤ教の特別なものと解釈されている傾向にあります。
フリーメイスンリーの数字のシンボリズムの項目を見ると大概10や12が完全数であるのに対して、11は時にマスターの数字、12時に足りない急がないといけない11時とか変な説明があったりとはっきりとはしませんが、あとは12に1足りない不安定な数字であり、罪な数字であるというのもありました。私の理解としてはフリーメイスンリーやユダヤ人の何か力を結集するための日時や数字のシンボリズムのようです。
11でウィキペディアで出てくるのが最初の回文数であること、第一次世界大戦が終わったのが1918年の11月11日午前11時であった事、フリーメイスンリー関連では自由の女神の台座が十一芒星である事などがあります。陰謀論では11でツインタワーを意味するなどもありました。
ユダヤ人の数字のシンボリズムでは11はヨセフの兄弟の数が11人で夢占いで11の星がヨセフに向かってひれ伏したとあります。これはヨセフの話はフリーメイスンリーでもユダヤ教でも極めて大事なもので、少し勉強するとこのヨセフという名前は何度も見ることになります。
また111はあえて調べると回文数であり、三位一体を象徴する数字であり、1から36までの数字を含む魔法陣で列の6個の数字を足すと111になるとありました。
いずれも3をかけて33や333となるとフリーメイスンリーの33階位や東京タワーの333メートルとなるなど重要な数字であるらしい事は感じられると思います。あえて言うと11がユダヤ教よりで、111がキリスト教カトリックよりなのでしょうか。

で、三笠公園の噴水池になるわけですが、こう解釈されます。
122=121+1=11*11+1
1332=1331+1=11*11*11+1
122=121+1=11*11+1
12322=12321+1=111*111+1
22221=・・・・
2251=・・・・
1212=・・・・
1213 =・・・・
ここでポイントになるのが北極星を示す石の北斗七星とカシオペア座以外の二つの星座のような形になり、これは星座を調べてもこの形のものは無いようです。
すなわち真と偽を示しているものと思われます。そして真の側、北極星の石も含めて右側四つに11と111の二乗、三乗に1を足した数、安定と真実、秩序を象徴し、その反対側四つに意味のない数四つを配置し不安定と虚偽、混沌を象徴させているのだと思います。
すなわち八つの方位を様々な形のラフアシュラーで象徴し、それが太極旗のごとく陰と陽、秩序と無秩序の存在が共存している世の中の象徴として、11と111の回文数とさらにそれプラス1で表現しているものと思われます。良く見れば周りの床石も白と黒の微妙なモザイクになっているのですね。
フリーメイスンリーではスコティッシュライトの言葉だと思うのですが、Ordo Ab Chao(Order from Chaos、混沌から秩序へ)というものがあります。
すなわちフリーメイスンリーで象徴される白黒タイルのモザイクを北極星と数字のシンボリズムで複雑にアジア的に表現したものかと思います。もしかすると天皇家の起源が太極旗に象徴される韓国にあるということも表現しているのかもしれません。

あとはメインの噴水は六角形の形になっていますね。
何とか説明できそうなのはその位でしょうか。池の形や植え込みの形など何かあるのかもしれませんがわかりません。(追記:池の形は木靴でしょうか?スリッパだとフリーメイスンリーでは友愛の象徴となるのですが、木靴だとアナーキスト(無政府主義者)のシンボルになるようです。木靴をフランス語でSabotといいサボタージュと似ているからのようです。やはり、フリーメイスンリーに指示されてサボりながらシンボルをアジア風に改変している光景が浮かんできます。)
いずれにしてもフリーメイスンリーのシンボリズムを知っていて、その上でそうではない八という数字にこだわった複雑な構成になっている池です。この八という数字なのですが、まず市章の話からも名古屋の市章を思い出しました。


変わった市章ですが、尾張のオハリのハを採ったとか書いてあります。
八というのがアジア的で良いという事なのだと思いますが、これも名古屋という土地柄、中日本の中心という事を考えると、東と西の邂逅、ずれたピラミッドのかなりくだけた図表の意味もあるのだと思われます。名古屋も鳥居メソニックロッジを含めてフリーメイスンリーが盛んですから。

さて八という数字はこの後も三笠公園で認められるのですが、果たして市章の八芒星の意味だけなのでしょうか。この強いこだわりを認めると他にも意味があると考えられます。
まず仏教系という事で八正道、四苦八苦など仏教の教えの表現と考えられます。特に八正道は仏教の修行における最も大事な教えであり、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定の、8種の徳とウィキペディアにあります。
しかしどうも北極星(天皇陛下)にもこだわるし、それがキーになっているので次に浮かぶのがこれです。


八紘一宇ですね。これもウィキペディアで調べると八方(世界)を一つにまとめるというまさに横須賀の市章と意味もシンボルも一致する言葉となってくるのです。入り口の蓮華の形とも合わさり、八紘一宇の思想自体も日蓮宗から出てきたもののようですし、戦時中も東北出身の日本陸軍の軍人を中心に日蓮宗は広がっていたようです。八紘一宇の塔と三笠公園の石の壁はなんとなく印象も似ているようです。


さてここまででだいぶフリーメイスンリーからは外れてきている感じですが、実際大意としてはそれほどずれていないものかと思って書いている訳ですが、明らかに間違っていたりするようであればご指摘をお願いします。


2012-01-28 09:33 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
この言葉で何を思い浮かべるでしょう。
このブログを最初から読んでいる人は「ローターリークラブのシンボル」と答えるかもしれません。

普通の人は機械を思い浮かべるでしょう。

文芸の世界では芥川龍之介の絶筆になると思います。

芥川賞が話題を提供する事に終始して作品は誰も読まないという時代が続いて久しいと思います。
芥川龍之介の絶筆は彼の最期が自殺であったことなどからも精神分析の対象ともなったりしています。彼の早すぎる死を悼んで友の菊池寛の呼びかけで芥川賞は設立されました。

さてこの歯車という作品。彼の姉の夫が列車への飛び込み自殺をしてから彼が自殺する直前までの、数多くの暗示、さまざまな周りの人たちとの華麗な交遊、そして最後は妻の呼びかけで終わるまさに神経症者の自殺までの過程がある程度リアルに描かれています。

芥川龍之介は母親が精神病院に入院していてそこで死んでいます。本人は養父母のもとに預けられ、そこで中国、日本の古典の素養を身につけ、その結果として羅生門や鼻、有名なところでは蜘蛛の糸などの短編小説を残しています。夏目漱石、森鴎外が明治の文豪で、彼らがいわゆるイギリスとドイツへの留学を通して学んだ小説という文化を日本にもたらしたわけですが、彼は夏目漱石に師事し、その後の大正デモクラシーの時代の空気を反映した、今でいえばエッセイストの様な短編小説で当時の世の栄光を勝ち得、その結果として自殺に到った、まさに日露戦争の勝利に沸く日本の空気をそのまま反映した作家と言えるのではないかと思います。

彼の作品には極めて強く東洋の古典の素養が反映されているわけですが、実は彼の実家自体が隠れキリシタンの家系であった話があるらしく、また将軍家のお茶や雑事を行う家柄であったそうで、彼自身も特に歯車の作品の中ではキリスト教への接近が感じられます。
彼の名前の龍之介は辰年の辰の日の辰の刻生まれに由来するそうで、十二支の唯一の神獣である辰に由来するまさに東を背負って小説という西欧からもたらされた文化を咀嚼しようとしていたものかと思われます。

彼と同時代の人では歯車にも出てくる「暗夜行路」の島崎藤村、白樺派の人々、そのうちには稲村ケ崎の話で触れた有島武郎などがいるでしょうか。いずれもキリスト教の影響が強く認められるのが大正時代の特徴ではないかと思います。

さてこの「歯車」という作品なのですが、小品なので一読されるとよいかと思われます。聖書よりはかなり読みやすいのではないでしょうか。気取った大正の空気が濃密に感じられ、現代の平成の世との強い相似を感じられれば十分なのではないかと思います。

この作品中にはさまざまな暗示、ほのめかしや繰り返される言葉が認められます。そしてそれらが神経症である作者を苦しめていると表現されています。もちろんそれは漱石やトルストイの長編小説の様な厳しさや平易な日常が描かれるような日常性は薄く、むしろ現代の都会的な浮ついた甘えたそれでいて無為で表面的な、大正時代の最先端の流行作家の内省に近い心模様が描かれています。それぞれの暗示やほのめかしについて全ての由来を述べることは難しそうですが、フリーメイスンリーに関係のありそうなものだけピックアップしていく事にしましょう。

まず題名の「歯車」ですが、これはあまり象徴的な光景ではなく、一種の片頭痛の前兆のような形で出現します。ただし題名にも歯車と採用され、その当時恐らく日本にあった彼が接近しうる一番のフリーメイスンリー関連の存在は歯車に象徴されるロータリークラブであった事は間違いないでしょう。京都の市章に象徴されるように、ロータリークラブの存在は日本の仏教や伝統とフリーメイスンリーをつなぐ歴史の上で重要な役割を果たしている事は疑う余地が無いようです。

スリッパが起きると無くなるという逸話があります。ホテルで寝ている間にスリッパの片方が無くなり、給仕に探してもらうとバスの部屋にあったという話です。これに彼は自身が夢遊病の様にギリシアの王子の逸話の様に自らが寝ている間に動いているのではと不安になるようです。これには後に大きなネズミが出てきてネズミが動かしたのではないかという答えの様な表現があります。
小説中では連関させていませんが、彼がそこまではっきりと認知していたかは不明です。その頃にはだいぶ多くの睡眠薬を飲んでいたようです。

スリッパは実はフリーメイスンリーの友愛の象徴です。実はこの作品中に認められる最大の象徴かもしれません。いずれにしても武家の家系に生まれた彼が流行作家になってホテルでスリッパをはいた生活をしているというのはまさに大正ロマンを感じさせる逸話だと思われます。

さて最初に義兄の死とレインコートの逸話などがあるのですが、これは直接はフリーメイスンリーのシンボルとは関係なさそうです。一つの死との関連の象徴かと思われます。ひげが父性との関連など精神分析学的にはいくつもの象徴が認められそうです。

フリーメイスンリー関連ではその後ナポレオンの話が出てきます。最後に幽閉されたセントヘレナ島の話が出てきます。またその後ベートーヴェンの話も出てきます。ベートーヴェンも痔で坐浴をしていたという話が出てきて、その直後にモールmoleもぐらという言葉が電話を通して語られます。
moleにはスパイという意味もあるそうすが、恐らくここはベートーヴェンの話の直後なのでモーツァルトだと思います。彼は結局モールからフランス語のラモールを連想し、死に近づいていきます。
彼の中ではアメリカ人、フランス人、ドイツ人、その他日本人の多くの人々がささやき、ほのめかし、彼を落ち着かせ不安にさせ、結局彼は死に近づく事になります。

後半になり彼は聖書会社の屋根裏に住む老人に近づき、一角獣と麒麟の相似を思います。自らが麒麟(坂本龍馬の逸話で有名ですね。)に例えられた話を思い出します。一角獣はオベリスクのモチーフでしょうか。彼は光と闇の話を老人とし、結局ドストエフスキーの罪と罰の作品を借りて帰ります。ドストエフスキーも恐らくフリーメイスンだと思われます。当時のロシアは知識階級や貴族階級はほとんどがフリーメイスンであったそうです。 文中引用すると、僕はこの屋根裏の隠者を尊敬しない訣には行かなかつた。しかし彼と話してゐるうちに彼も亦親和力の為に動かされてゐることを発見した。とあり、彼との出会いがフリーメイスンリーに関わるものであった事を彼自身自覚していたようです。結局この罪と罰の読み始めた項目はカラマーゾフの兄弟の乱丁で悪魔に苦しめられるイヴァンを描いた部分だったようでまた彼は苦しみます。彼はその後ウイスキーの銘柄のBlack and Whiteから白と黒のシンボルにとらわれます。これはもちろんフリーメイスンリーのシンボルですね。その後彼はストリントベリと同名のスウェーデン人が白と黒のネクタイをして居るのを見かけます。スウェーデンは有名なフリーメイスン国家です。これは鎌倉でしょうか。もしくは藤沢鵠沼かもしれません。恐らく鎌倉だと思われます。その前に喜雀堂に入るというのもあります。これは小雀局とは関係ないと思いますよ。

いずれにしても自ら選択した死を目前としたこの大正の文人の周囲に現れる事象や人々は非常に国際的であり、さまざまな暗示を投げかけ、彼自身がそれを悪魔や死として受け止め、自ら死を選択していくのです。最後には彼は妻に声をかけられ、お父さんは死にそうな気がすると言われ小説は終わります。彼の妻の父親は日露戦争で戦死した海軍軍人でした。

芥川龍之介は帝国大学卒業後三笠公園の隣にあった海軍機関学校で英語教師として就職し、そこで羅生門を出版し作家としてデビューしました。現在海軍機関学校跡は横須賀学院となっています。


Virtus Junxit Mors Non Separabit


2012-01-30 09:20 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さてでは池については大体検討したと思うのでそれ以外の所を見ていく事にしましょう。
間がちょっと空いたのでおさらいすると、八つの入水口がありそれらが横須賀の市章の八芒星に対応する事。一つが北極星を表し、八紘一宇の思想をあらわしている事。周囲のモザイクと、入水口の四角い石の数と合わせて秩序と無秩序、陰と陽、善と悪の二元対立をあらわしている事でしょうか。
11と111のユダヤ教やキリスト教の関連はあまり詳しくないのでほどほどにお聞きください。

次にやはり気になるのはパーフェクトアシュラーがどこかにないかという事になるかと思います。フリーメイスンリーのシンボリズムに詳しいのであればどこかに必ずパーフェクトアシュラーを示して、そこにフリーメイスンがいたよという証しを残すはずだからです。

パーフェクトアシュラーの例 日本グランドロッジのシンボル
そこで正方形に意識を集中して探すとありました。


スピーカーですね。またもや金属製で中身はスピーカーですが、まごうことなき正方形でラフアシュラーをあらわしているものと思われます。石じゃないから厳密にはシンボルではないのですが、ここまでの流れでわかると思いますが、ここ三笠公園は明らかにフリーメイスンが直接かかわったものではなく、フリーメイスンリーの知識を持った人が一部フリーメイスンリーに対抗意識というか共通点を見出だして作り上げたという感じなのだと思います。なのでむしろ八紘一宇を表現するラフアシュラーに重点を置き、この音楽噴水の主役ともいえるスピーカー群をパーフェクトアシュラーを示す正方形の金属で象徴しているのです。実はこの公園にはこの他にもパーフェクトアシュラーを示すものがあって、それが街灯なのです。


こちらもこった街灯が並んでいます。
スピーカーのパーフェクトアシュラーは数を数えると27個あります。
街灯は池の周囲で16本、途中の小さなアーチの周囲で5本、東郷平八郎元帥の銅像の周囲で一本に2個ついたものが8本、16個であります。

さて27という数字ですが、これは何を連想するでしょうか。説明しなくてもわかると思いますが、3×3×3で3^3ですね。東京タワーの高さが333メートルという所と深く関係するのではないでしょうか。光と音、電気によってもたらされるその部分にパーフェクトアシュラーを模した金属の正方形を配置し、それらがフリーメイスンリーがもたらした電気という文明の利器で供されている事を我々にそれとなく伝えているのだと思います。

さてこの27という数字はこの公園で他にも認められます。それはどこでしょう?


実は石の壁に上る左右の階段が下面の高さから一番上までちょうど27段なのですね。
スピーカーと階段で3つの27を表現しています。ちょっとくどいような感じですが、恐らく東京タワーの333メートルの意味から意趣返しみたいな感じではないでしょうか。昭和33年の現在の天皇陛下の誕生日12月23日に建設されたのですね。

さてその他にもこの公園には数にまつわる秘密があります。それはどこでしょう?
それはグーグルアースで良くわかるのですが、四角の模様ですね。


横須賀市の市章を模したものが池以外の流水口でも認められ、さらに池の左側の床にも認められます。そしてその他にいくつもの四角い模様が床にあるのですが、この数を数えると面白い数字が出てきます。
まず石の壁の上部の部分の床に12個あります。
そして池のまわりに左側に21個の四角と一個の市章のマークがあり、右側には四つの四角と一個の二重四角、二つの丸があります。これらは何を意味するのでしょうか?答えはやはり北極星と関係しています。

実はさらに怪しげな石の組が石の壁の前の池の中にあります。


この数を数えるとちょうど23個になるのです。
石の壁の上と組み合わせると12と23です。この数字で何を思い浮かべるでしょうか?
実はこの公園にはこの他にも12と23の数字の組み合わせがあります。


東郷平八郎元帥の銅像の周囲の四角の模様を数えると普通の四角が11個、二重の四角が12個、合計23個あるのですね。12と23、さらにユダヤ教の11でしたっけか。さてでは12と23は何を意味するのでしょうか?

だいぶくどい気がしますが、12月23日は平成の時代の今上天皇陛下の天皇誕生日ですね。
12月23日はその他にはA級戦犯の東条英機が絞首刑になった日でもあります。
さてそれでは池の周りの四角は何を意味するのでしょうか。二重四角一つに丸二つ、右と左を合わせると四角が25個です。これも自明だと思いますが12月25日はクリスマスですね。

さてこの辺から話が本題になってくるわけです。



2012-01-31 12:53 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さて佳境に入ってきた三笠公園の謎シリーズですが一応八紘一宇にあわせて八回で終わる予定です。

12月23日の天皇誕生日にまつわる数字の暗号ですが、果たしていかなるメッセージなのでしょうか。
まず仏教を象徴する8とキリスト教、ユダヤ教を象徴する111や11といった数字が認められることから、一つは平成の今上天皇陛下の誕生にまつわりキリストの生誕日とされる12月25日のクリスマスに合わせて必然的なめぐりあわせがあったように示唆しているというメッセージでしょうか。
これに関して明治維新以降の天皇家に関してキリスト教の祝祭日と天皇陛下の生誕、崩御の日が関連するものがあります。

まずキリスト教がかなり普及した大正時代の大正天皇ですが、崩御日は1926年12月25日のクリスマスの日で、生母である柳原愛子に抱かれた状態で葉山御用邸で亡くなられました。現在の皇太子ご夫妻の一人娘が愛子さまという名前であるのも関連があるのでしょうか。
また大正天皇に関しては誕生日が8月31日であったそうですが、この翌日のほぼ正午ちょうどに関東大震災は発生し東京は壊滅状態となりました。余談ですが大正天皇の陵墓は昭和天皇の陵墓とともに高尾山の麓にあります。昭和天皇の陵墓より一段高くなっているのが大正天皇に対する昭和天皇の一つの評価なのではないかと私は思っています。
昭和天皇は1989年1月7日に崩御されましたが、これはキリスト教で公現祭というキリストが神性をあらわした事を記念する日の翌日であり、公現祭自体はローマ帝国のオシリスの誕生日として祝われていたそうです。またこれはあまり日本では有名ではありませんが、8月15日の終戦記念日はカトリックの聖母被昇天の日とされ、カトリックの祝日です。終戦記念日となったことで日本ではあまり有名ではなくなったということだそうです。
ちなみに戦陣訓を作りながら自決に失敗しA級戦犯として巣鴨プリズンで絞首刑に処せられた東条英機は、1948年12月23日の平成の今上天皇陛下の誕生日に処刑されました。彼の誕生日は明治天皇が崩御した7月30日だそうです。彼が自決しようとした日は9月11日であったそうですがこれは深読みでしょうか。東条英機自体は巣鴨プリズンの中で浄土真宗に帰依して笹川良一と交友をもったそうです。彼が権力を握るに至った2.26事件や5.15事件のきっかけとなる日本陸軍(徽章は五芒星)の内部対立である皇道派と統制派の最初の出来事は第一次世界大戦後のドイツ留学中のバーデンバーデンの誓いと呼ばれるものでした。バーデンバーデンはモーツァルトの妻が療養に出かける有名な温泉保養地でありました。(3/3追記:モーツァルトの妻が療養に出かけたのはバーデン・バイ・ウィーンで別の療養地のようです。)
クリスマス自体がミトラ教の冬至を祝う祭日から転用した事は今日では有名な話だと思います。

フリーメイスンリーに関する日としては1717年にイングランド合同グランドロッジが結成した日が聖ヨハネの日6月24日です。ウィキペディアで見てもジャコバン憲法の発布くらいしか目立ったものはなさそうです。(追記2/19:夏至だそうです。もう一人の使徒ヨハネの日が冬至の12月27日に当たるそうです。)2月14日のバレンタインデーはローマ帝国時代のキリスト教迫害時代の伝説の司教である聖ヴァレンティアヌスの殉教日とされるようですが、これもクリスマスと同じく、もともとローマ帝国の女神の祝日であったようです。

さてでは三笠公園に戻るわけですが、結局12月23日の天皇誕生日とクリスマスとの関連を示唆することで天皇家(国家神道)、キリスト教、ユダヤ教、仏教との関連を示してそれらが皆究極的にはつながるという事を示しているのではないかと思われます。もちろん三笠公園が整備されたのが昭和62年でまだ昭和天皇が御健在であったことなどを考えると、笹川良一さん達の様々なメッセージも垣間見える事は出来るかと思います。ちなみに昭和62年5月24日、「三笠保存会」は公園の完成にあわせて、「日本海海戦80周年記念行事」を挙行したそうですが、この5月24日という日はウィキペディアで調べると1903年に日本初のゴルフ場・神戸ゴルフ倶楽部が開業とあります。この神戸ゴルフ倶楽部を作った人はトーマス・グラバーの友人のアーサー・ヘスケス・グルームという人で、六甲山を開発した神戸外国人居留地に居た方ですが、ウィキペディアを見ると最後は日蓮宗に帰依した珍しい人で、最後は転倒して頭を打って亡くなっており、様々な宗教的な逸話が書かれています。フリーメイスンであったかどうかは知りませんが、六甲山開発にまつわる逸話として非常に興味深い人物であり、三笠公園の話と絡めても非常に示唆的であるかと思います。

さてでは数字の日付にまつわる話以外の、その他のシンボルに話を移しましょう。


これはなかなか気づきづらいと思いますが、ヤキンとボアズの二本の柱ですね。恐らく作られた方は意識していないと思いますがフリーメイスンリーのシンボルですね。


横須賀のふるさとの音楽が流れる正三面体のピラミッド、上から見るとヘキサゴンになっていますが、正四面体ではなく正三面体です。ユダヤ教の本質が民族教、日本の郷土信仰と一緒だという事を示すのでしょうか。(追記:作曲者は團伊久磨さんで、三井の総裁に上りつめて血盟団事件で暗殺された團琢磨さんの孫だそうです。正三面体なのは恐らく三井を象徴する珍しいピラミッドではないでしょうか。横須賀と縁が深い三井系電気会社の東芝が関わっているのでしょうか。)この周辺は植木が5本であったり、戦艦三笠側と噴水側の間をつなぐ階段が8段であったり、街灯が5本であったり、床の正方形が5+3=8となっていたり、3,5,8という数字が繰り返されます。恐らく8は仏教、アジアの象徴、5は五芒星などからカトリック、キリスト教の象徴、3はフリーメイスンリーの象徴かと思われます。間にある小さなアーチはやはりRoyal Arch Masonryからもキリスト教のアーチの象徴かと思います。


シドニーのオペラハウスのような形をした舞台があります。これはよくわかりませんが、神戸にも似たようなものがあり象徴の一種なのかもしれません。(4/1追記:Gloryになるのかと思います。All Seeing Eyeの周囲でしょうか。)背中に3つのアーチがあります。三笠公園の入り口のアーチと、真ん中とこの後に紹介するアーチを意味するのではないかと思います。

ベンチに不思議な記号が書かれています。これはよくわかりません。配置も変わっています。
カシオペア座のように見えるものもあり、直角定規のようにも見えますがわかりません。配置も星座でしょうか?御前会議や何か意味するのでしょうか。屋根は上から見るとSの形のようです。(昭和天皇を意味するのでしょうか?笹川のSかもしれません。周囲のギリシア語のファイの字やその他の記号はちょっと意味がわかりません。わかりそうな方は教えてください。)(追記:カシオペアは北極星、天皇陛下を示すものと思います。隣のファイはギリシア語のφで黄金比を示すものらしく、黄金比=五芒星だと思われます。カトリック信仰なのだと思います。すなわちこのブログにある通り昭和天皇のカトリック信仰を示すのだと思います。)


アーチと舞台の間は三笠山をモチーフとしているのだと思います。奈良にある三笠山ですね。
天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも 阿倍仲麻呂


この公園のメインモニュメントであるアーチですね。
入り口、途中、最後にこのアーチで3つのアーチでキリスト教系のRoyal Arch Masonryの3つのシンボルとなるのだと思います。これはなかなか日本人には分かりません。


世界につながるという事を象徴しているのだと思います。
気づけば三笠公園の噴水池の石の壁の後ろには横須賀米軍基地の三つの入り口の一つの三笠口があります。2月には清掃のボランティアを募集していました。(追記5/20:横須賀米軍基地の入り口はダイエー口、正面ゲート、三笠口、三笠公園口と4つあります。3つではありません。)


三笠公園は特別に横須賀みかさライオンズクラブが関わっているのですね。All Seeing Eyeのようでもあります。横須賀みかさライオンズクラブと三笠記念会が具体的に建設に関わり、米軍を含めたフリーメイスンリーがそれを監督したのだと思います。全体にライオンズのLの形を象徴しているようです。


2012-02-01 09:29 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さて最後です。
三笠公園の本当の秘密は何でしょうか?
日本の天皇家にまつわるキリスト教との接点でしょうか?
しかし明治維新後に王政復古しドイツやイギリスの立憲君主制をまねした事は義務教育で教わります。その上で国民のほとんどがキリスト教徒の国であるアメリカと戦争して統治され、その後民主主義憲法のもとで現在の日本が成り立っている事は常識人であれば皆知っている事です。
天皇家がミッションスクールなどを通して深くキリスト教とつながりをもっている事は誰もが漠然とは知っている事ではないでしょうか。

では三笠公園に本当に秘められたメッセージとは何でしょうか?
それは三笠公園がアメリカ軍が重要な基地をもち、フリーメイスンリーのロッジが基地内にあり、ロータリークラブやライオンズクラブが盛んな横須賀のシンボルとして、真にフリーメイスンリーのシンボルを表すことで、フリーメイスンリーとは何かという事を人々に知らしめるという所なのではないでしょうか。

そういう意味ではこれまでのいかにも謎めいたおどろおどろしい戦前の軍国主義を引きずったようなシンボルもどきのようなものではなく、これぞシンボルというまさに見えていながら秘密にされているそのものというものが三笠公園にあるのではないでしょうか。もちろんそれは日米の対立をあおるようなものではなく、日米協調、友愛の精神にあふれ、両国の発展に寄与する形の象徴となるものかと思われます。

果たしてそれは何でしょうか?
それにはやはりフリーメイスンリーの教えの基本に立ち返って見る事が必要かと思います。
明らかに謎めいた噴水池や、ごつごつしたラフアシュラーの石の壁、軍国主義を強調するような銅像やその周囲の権力への媚びるような誕生日の数字遊び、これらはフリーメイスンリーの哲学とは明らかに異なります。人々に自由と民主主義、平等と博愛を広めるような力強い変わらぬ信念、そして未来に向かって希望と堅忍不抜と慎重さ、そして変わらぬ信仰と奉仕の精神をもつものがフリーメイスンリーの美徳であり目指すべき高みなのです。

それを思うときやはりいかに三笠公園が仏教と強い結びつきがあった笹川氏の影響があったとしても、アメリカを主体とするキリスト教の影響が全体を通して象徴とされるに違いないと思わざるを得ないわけです。その視点に基づいてもう一度入り口から整理していくと、最初は見えなかったものが見えてくるように思われます。


入り口にあるのはRoyal Arch Masonryの象徴であるアーチですね。さて虹というのは聖書のどの場面で出てくるものなのでしょうか。
それでは再び聖書を引用いたします。

創世記9章 祝福と契約
神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食料とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流す者は人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。あなたたちは産めよ、増えよ地に群がり、地に増えよ。」神はノアと彼の息子たちに言われた。「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえに私が立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中に私の虹を置く。これは私と大地の間に立てた契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものを全て滅ぼすことは決してない。雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」神はノアに言われた。「これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」

さてここまでで大体この三笠公園の主旨は出てきたのではないでしょうか。旧約聖書のノアの箱舟の一節に基づいた人類の救済と繁栄を願った神との契約のしるしなのです。
そういう目で見ていくとその後の入り口のモニュメントの意味が明らかになっていきます。


最初にあらわれる蓮の花のモチーフからつながって三つの三角があります。これは恐らく1.17の神戸の震災とオウム事件、9.11同時多発テロ、3.11東北大震災などの大きな天災や災害を表すかと思います。そしてそこを越えて大きな蓮の花、しかしこれは実は蓮の花に見せたバラの花で、三分の一になった日本丸のマストと合わせて薔薇十字団のシンボルになるのです。これは恐らく日本がキリスト教国になり3分の1ほどの人口か国の規模になるということなのだと思います。そしてその後にノアが神と契約した豊穣と安定が訪れるということなのだと思います。もしかするとこれは戦前の血盟団事件、5.15事件、2.26事件といった日本国内のテロの後に現在の民主主義国家になったという事を表しているのかもしれません。(追記:恐らく東京大空襲に続く一連の空襲と、広島、長崎の原爆後に日本が復興したと考えるのが公園の整備の時期からいっても適切なのだと思います。それ以上の意味があるかどうかは御想像にお任せします。)このあたりは黙示録や予言的に解釈するか、歴史書として解釈するかとなるのかで異なるかもしれません。いずれにしても三笠公園の真実の秘密は旧約聖書創世記第9章に示されたノアの箱舟と神との契約の逸話なのです。

その目で見ると三笠公園最大のシンボル戦艦三笠がより一層ノアの箱舟としてのシンボルとして鮮やかにリアルになっていきます。


ノアの箱舟としての戦艦三笠 十字架としてのマスト

それは人類共通の願いである不戦、平和の象徴としてのシンボルとなるのです。


さてこれは三笠公園の入り口付近のグーグルアースの画像です。薔薇十字団のシンボルから豊饒のシンボルを越えていくとうろこの模様のような柄を認めます。恐らくこれは菊の紋所で天皇家を意味するものと思います。(2014/5/4追記:うろこのシンボルはそのままで魚の意味となり、キリスト教の象徴となるようです。場所を考えても菊の紋というよりもうろこのシンボルという方が正しいと思われます。フリーメイスンリーも具体的な活動としては最終的には宗教となるという所は現実なのかと思われます。ブラザーリストの一生などもそういう典型かもしれません。)そしてそれらが横須賀学院を囲むような形になっています。そして横須賀学院を上から見ると十字が浮き彫りになっています。天皇家がキリスト教の信仰に帰依している事を象徴しているかと思われます。実は誰もが入り口まで歩いて感じるように設計されているのですね。面白い事に入り口わきにはヴェルニーの設計した灯台をモチーフとした電話ボックスがあります。三笠公園とヴェルニー公園が英仏としても正統派フリーメイスンリーとフランス大東社としても対になっていて、共に友好を結んでいることも象徴されているのですね。

以上をもって三笠公園については終わりたいと思いますが、何か不足や間違いがあれば是非教えてください。

それとこれは完全に余談になりますが、日付の話に関してはクリスマスについて面白い話があります。クリスマスに関してというか、クリスマスに絡めたエピソードなのです。4月1日のエイプリルフールというのはウィキペディアなどで見ても由来や起源が不明で16世紀ころのフランスで始まったとされています。誰でもその日は嘘をついて良い日とされていますが、そもそも東洋ではなくキリスト教国での発祥で、それもカトリックの強いフランスとされています。(追記:フランスではエイプリルフールの事を4月の魚(Poisson d'Avril)と言うそうです。魚はキリスト自身を示すキリスト教のシンボルです。)クリスマスとどんな関係があるのでしょうか。それはいわゆるフランス小話の世界になるかと思われます。

おあとがよろしい様で。


2012-02-02 10:03 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
自由の女神像

実はこれに関してはフリーメイスンリーにおいてフランス革命における歴史があり非常に複雑です。
いわゆる右手に松明をもち、左手に聖書にあたる銘板をもっているニューヨーク、パリ、最近ではお台場にあるものが有名かと思います。ウィキペディアでは青森にもあるそうです。聖書を持ってるとなるとやはりユダヤ教かキリスト教と言う事になり宗教性が問題になるのだと思います。鶴見のホテルの上にもあったと思います。
作者はブラザー・バルトルディとブラザー・エッフェルになるのかと思います。


パリの自由の女神像 エッフェル塔と共に


ニューヨーク リバティー島の自由の女神像 かつては周囲に星の形や月の形のシンボルが描かれていました。


お台場にある自由の女神像 レインボーブリッジと共に 東京タワー、東京スカイツリー、六本木ヒルズなどが見られるフジテレビお台場社屋のふもと シンボルとしての碇やグランドロッジを模した自動販売機などがあります。


ラスベガスの自由の女神像


青森にある自由の女神像


札幌にある自由の女神像


鶴見にある自由の女神像(追記:その他にも赤羽、茨城、グアム、大阪などにもあるようです。その他多数あるかと思われます。)

コロンビアピクチャーズ オープニングの自由の女神


もともとフランスのジャンヌ=ダルクの逸話からフランスの象徴となり、フランス革命期には女神としてミスコンテストみたいに女性を選んでお祭りみたいな事をしたそうです。ドラクロワの絵が有名かと思います。


ドミニク・アングルによるジャンヌ・ダルク(ルーブル美術館)


ワシントンD.C. Scottish Rite House of the Templeの北にあるメリディアンヒルパークにあるジャンヌ・ダルク像 剣が折れてます。


ドラクロワ 民衆を導く自由の女神 (ルーブル美術館)


フランス革命期に行われた自由の女神、理性の祭典 左手にアカシアの枝を持っているのでしょうか。


ジャコバン派ブラザーロベスピエール絶頂期の象徴的な祭典だったようです。自然の象徴としての樹木でしょうか。最後が200人のギロチンだったそうで、このギロチンを考えたのが当時のフランスフリーメイスンリーのグランドマスターであったそうです。(10/27追記:フランス大東社の創設メンバーであるブラザーギヨタンです。最初のグランドマスターはブラザーオルレアン公です。後述しますが、ブラザーギヨタンはギロチンを考えたわけではなく、理性的な死刑執行装置として提案しただけだそうです。)ジャコバン派の起源はブルターニュ地方だそうで、ブルターニュ地方自体がブルトン人、イングランドのケルト人と先祖が一緒でフランスの中でも特徴があるようです。英仏関係はまさに親戚か兄弟です。


フランス大東社のマリアンヌ像


マリアンヌ像 いわゆるフリーメイスンリーのマリアンヌ像というとこれが出てきます。フランス大東社の博物館のサイトによるとJacques Franceの作とあります。検索してもJacques Franceは人名では出てきません。何やら意味がありそうです。フランス大東社のおみやげで売っているようです。小さな帽子をかぶっているのが最大の特徴でしょうか。

パリ ナシオン広場にあるマリアンヌ像


パリ レピュブリック広場にあるマリアンヌ像


フランス政府のシンボルとしてのマリアンヌ


さてこういった歴史のある自由の女神像ですが、横須賀にも実は二つの自由の女神像があります。一つはベースの前にあるホテルゴッデスの上にある自由の女神ですね。


市民の人は皆知っていると思いますがもう一つは中央公園にあります。

中央公園にある自由の女神像 有名な「長崎平和記念像」の制作者でもある北村西望先生の作品だそうです。

どうなんでしょうか。


恐らく名作なんでしょうが、フリーメイスンリーとは関係なさそうです。

小栗上野介像と栗本鋤雲像とラフアシュラー YRP野比にあるラフアシュラーのベンチと一緒の形ですね。業者が一緒なんでしょうか。その他にもホームページを見るとシオンなんて女性の像もあるようです。なんかもう混乱してきますね。

中央公園には博物館もあったりします。


いきなりこんなものがあったりします。
どうなんでしょうか。


2012-02-03 10:11 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
中央公園には無料の博物館があります。
前回載せた闇に浮かぶ三角の光は実は竪穴式住居の入り口を示したものでした。


どうなんでしょうか。

博物館や百科事典、辞書や動物園、水族館などは特にフランス革命以降、百科全書派という学問学派があったほど新たな知識やイノベーションの元になるものとして隆盛しました。百科事典を編纂したフリーメイスンが多数います。逆に百科事典にフリーメイスンリーの事は必ず書いてあるともいえます。自然科学の原点として観察する事、特徴をとらえて分類する事、それらのつながりを整然と説明する事は、イギリス経験主義の学問形態からいっても重要な事です。フリーメイスンリーでも生き方の基本として学びます。なんでもまずやってみる事、経験していく事は人生を豊かにし、多くの予期せぬ宝物を我々にもたらしてくれるものと教えてくれます。



三浦半島の歴史


三浦按針









ペリー来航にまつわる展示


ヴェルニーと小栗上野介 どうも三浦半島は会津寄りといい薩長と幕軍となると幕軍の方らしいです。陸海軍の薩長閥とその後の東北閥の影響もあるんでしょうか。


明治維新


いつ頃の半纏でしょうか?市章のマークに近いですが六芒星ですね。千葉県の県章に似ています。コンパスや八紘一宇との関連は皆無のようです。


これはもう終わったセミナーの広告ですね。横浜ロッジともわずかにつながるのでしょうか。

なかなかためになる正統派の地域史博物館ですがいかんせん利用者は少ないようです。ブラザーヴェルニーやブラザーペリーの人気や知名度がいまいちな事に由来するのでしょうか。妙に立派すぎるというのもポイントかもしれません。


2012-02-06 15:29 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
中央公園の謎

こう書くと三笠公園のようにいろんな謎が込められているように思うかもしれませんが、単純に中央公園の存在自体が謎と言うだけです。たぶんこれは多くの訪れた人が思う感想なんじゃないかと思います。




中央公園からの猿島の眺め ペリーアイランドとブラザーペリーは名付けたそうです。
見るからに謎のモニュメントですね。書いてある説明も全く謎だらけです。(追記:当時の市長は横山和男さんと言う方で三笠公園の整備やYRP野比の開発を行い、広島県出身だったようです。5期20年にわたり横須賀市長を務め、1993年が最後の年で、広島の原爆投下に関して非核宣言都市のモニュメントが悲願であったようです。)
一つ関係ありそうな気がしたのはソ連の国旗のハンマーと鎌でしょうか。


ハンマーは直接はフリーメイスンリーのシンボルではありませんが、ガベルと言って同じ形の木槌になるとフリーメイスンリーのシンボルです。木槌のガベルはロッジでWorshipful Master(ロッジの主宰者、選挙で選ばれる)が開会や閉会、議決を取るときに音を鳴らすもので、もともとはノミ打ちの木槌だと思います。恐らく金槌でも石材を直接たたく役割でシンボルになるようです。いずれにしてもソ連の国旗ではあくまでHammerでありGavelではないようです。また鎌もSickleといって手鎌であり、Scytheとなると大鎌でよく悪魔が手にしてる図柄で有名なものですが、あちらはフリーメイスンリーのシンボルとなり魂の収穫として、死や生きている時間が短い事を象徴するようです。
いずれにしても東ドイツの国旗の六分儀と同じように、フリーメイスンリーのシンボルとそっくりでありながら名前や定義がわずかに異なり、シンボルではないという形になるようです。
この中央公園のモニュメントもそういうことで、何やら横須賀で最大のモニュメントでありフリーメイスンリーの関わりがあるのかなと思いきや実は一切ない、イメージとしてはソ連のハンマーと鎌が一緒になったようなものなのではないかと思います。このモニュメントができた1993年には既にソ連も崩壊して無くなっている訳ですが、東西冷戦の存在が横須賀が基地の町として存在意義を発揮した理由でもあるでしょうから、何らかの関連があるものと思われます。共産主義の成立や、共産革命にもフリーメイスンリーが関わっているようによく言われますが、公式には関係ないようです。(追記2/21:レーニンはドイツで一応入会し第一階級まではいったようです。これはかなり現代史的には重要な情報だと思うので深く追求しないようにしてください。)
ちなみに現在のロシア軍旗は下のようだそうです。


双頭の鷲でスコティッシュライトを意識しているのかもしれません。もともとロシアの国章だったのでしょうね。


岡田屋モアーズの二つのピラミッドが目立ちますね。
中央公園自体は梅と桜と松の木がたくさん植えられている感じでしょうか。衣笠山とよく似た感じです。


これはよくわかりません。(追記:平和モニュメントの解説のようですね。)


ブラザーデッカーの胸像 横須賀の基地司令官を長く務め、日本人と協力して横須賀市の再建に貢献したそうです。詳しくは

黒船の再来―米海軍横須賀基地第4代司令官デッカー夫妻回想記/ベントン・ウィーバー デッカー
¥3,150
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を銅像。ブラザーデッカーは色々日本を周遊して回ったようです。息子さんが後に岩国基地で墜落して亡くなったりしているそうです。胸像はもともと市役所の前のあたりにあったようですが再開発でこの公園に移ってきたようです。


ご本人はフリーメイスンなんでしょうが、あまりこの胸像自体はフリーメイスンリーとは関係なさそうです。


戦没者慰霊の塔
戦前戦後も含めて現代につながる以上、なかなか史実は描かれなさそうです。
(追記:デッカー司令官は深田台にあった横須賀市民病院の整備にも力を入れたそうで、結局横須賀市民病院は一連の炎上事件の結果長坂に移ったようです。なかなか恐ろしいですね。)


2012-02-07 14:05 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
ヴェルニー公園のヴェルニーが作った灯台は横須賀では城ケ島灯台と観音埼灯台です。
レンガを作る工場を作り、最初に観音埼灯台を作ったそうですが、観音埼灯台には水棲動物の博物館があるくらいで、それがまたやたら豪華ですが古いもので、確か一応入場料も取ったと思います。
フリーメイスンリーの思想に基づく博物学の名残だと思います。
ヴェルニーの後に来たスコットランド出身のリチャード・ブラントンが作ったのが剣崎灯台で、地元ではけんざきと言うそうですが、正式にはつるぎざきというらしくウィキペディアでも書いてあります。

なんで正式名称が大事かは知りませんが、剣崎と言うと何やら逸話がありそうですが、剣の形をしているからだけみたいです。近くの走水が日本武尊の妃が身を投げて海が静まったという場所だそうです。源頼朝も平家に追われて真鶴半島から房総半島に渡った逸話もありますし、一種の海を渡る裏技の伝統があるみたいですね。
私は観音埼灯台と城ケ島灯台は実は行った事がありません。剣崎灯台だけ釣り場が近いこともあり見に行った事があります。シンボルとしてわずかに認めるのは風見鶏でしょうか。これの意味はコンパスに近いのかと思いますが、神戸の洋館に代表されるように風見鶏は一つのシンボルのようです。(追記:鶏は夜明けを告げる鳥として啓蒙のシンボルとなります。めったに出てきませんが、シンボルの絵でたまに認められます。)

日本の灯台の初代のものはほとんどがヴェルニーやリチャード・ブラントンに代表されるお雇い外国人が建設したようです。これらに代表されるように明治維新に入ってきた技術の最初のものはすべて彼らのようなお雇い外国人、ほとんどがフリーメイスンだと思いますが、彼らが作り、日本人に提供したものだと思います。日本人は真似るのが得意だとされますが、果たしてそれらがどこまで真似られるか、学びとれるかは今後にかかってくるのかと思います。このブログを続けて読まれてきた方々はそれがどういう意味かはよくわかるかと思います。

まだしばらく続けますが、一応横須賀地域のフリーメイスンリーのシンボルについては一連のものを紹介しきったと思われます。その他にも様々な話題を提供していくかと思いますが、一月から始めて毎日更新してきましたが、今後は間があいたり内容もあまり関係ないものや個人的なものになるかと思います。


某病院から見た横須賀市上下水道局西浄化センター 屋上にヴェルニーの建設した観音埼灯台を模した建築物があります。


2012-02-08 10:09 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
恐らくベースの中のロッジにはあるかと思います。
それ以外でどこにあるか御存じの人は少ないかと思います。

それはほとんど横須賀ではない所にあります。しかしながら実は横須賀の実体を担っている場所でもあります。

私はネットでたまたま発見いたしました。

横須賀には数多くのフリーメイスンリーのシンボルがあり、ロータリークラブやライオンズクラブの活動が盛んでありながら、溢れんばかりのラフアシュラーと極めつけは逆さまのピラミッドと八紘一宇と天皇陛下のキリスト教信仰の象徴でした。

これでは汐入の実質ソロモン宮殿である横須賀芸術劇場でのモーツァルトのフィガロの結婚や魔笛の公演はとてもではないですが遠い未来でしかなさそうです。

しかしやはりそんな横須賀で、ほとんど人が来ない場所に、恐らく日本でも他にないほぼ完璧なパーフェクトアシュラー、ジョン万次郎のコンパスと直角定規を持った像に匹敵する記念碑がありました。

次回に引き延ばすので場所だけ写真をお示しします。


2012-02-10 09:17 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
パーフェクトアシュラーの話はとりあえず引き延ばして、非常に個人的な横須賀についての感想をフリーメイスンリーに関して述べさせていただきます。

私が初めて横須賀に来たのは確かJR横須賀駅からどこかへ遠足みたいに行った事か、JR久里浜駅からフェリー乗り場か何か用事かで行った事があった事が最初だったと思います。横須賀が港である事は知っていましたし、三浦に行く途中で通ったりしたこともあったと思います。

小泉さんは高校生の頃町のポスターで知りました。知っている人の名前とほとんど一緒だったのでそんな人がいるんだという意識でした。

初めて京急線で横須賀中央まで来たのが大学時代でした。京急線に初めて乗ったのが高校時代でその頃の能見台だったと思いますが駅を降りてびっくりした思い出があります。横須賀中央に来たのはソフトバンクの派遣で東芝の電球をラオックスで売る仕事でした。JR横須賀駅の印象しかなかったので横須賀中央を見てまたびっくりしました。どぶ板通りの端っこにあったカバン屋さんが閉店セールをしていて、当時イチローが使い始めていたdj hondaのカバンを格安で買った思い出があります。

世の中もバブル経済、昭和から平成、冷戦終結、湾岸戦争、イラク戦争、テロとの戦いと大きく変化し、身近でも都市化、地球温暖化、個人主義、メディアの発達など変化の兆しはいたるところで進んだ時代でした。

その中で横須賀におけるフリーメイスンリーのシンボルはどのようなものであったのかと考えました。わたしが個人的に最も好きで恐らく多くのライオンズクラブやロータリークラブの方々も好きであろうシンボルは大楠山のらせん階段の展望台ではないかと思われます。いささかの陰りもなく、日本の自然と牧歌的な田舎の良さを体現し、象徴するものではないかと思います。しかしそれ以外の三笠公園や三浦海岸のずれたピラミッド、中央公園のそれらや横須賀美術館のものに至るまで、横須賀のフリーメイスンリーのシンボルにはどことなく呪詛やいま生きる人間たちの恨みの感情を感じさせるものがあります。フリーメイスンリーの教えでは光を求める事が一つの使命であるという命題がありますが、光は常に闇から生じ闇を照らすことで光があるのです。それはすなわち光あるところには闇が必然的にあるという事でもあります。

人間の心の中や人間社会には常に闇があります。それは意識や言葉が始まり、ものを考える人間として始まった時から自覚されるものです。横須賀の闇、それはフリーメイスンリーにとっては一つの日本全土を見る際の同じモデルケースなのだと思われます。日本人の心の闇、日本社会の闇、そういったものを照らし明らかにしていくことで、心を明るくし、社会を明るくしていくことがフリーメイスンリーの日本における役割であるかと思われます。

智恵の力、言葉の力、考える事の大事さ素晴らしさ、それらを新たに感じさせてくれるのがフリーメイスンリーの側面でもあります。またそれらは行動することが考えるよりも大事とする気風の横須賀のものとはやや異にするものでもあります。確かに開国の地において吉田松陰や福沢諭吉など先人たちは考えるよりも行動すること、恐ろしがるよりも試してみる事で結果として名声や名誉を残すこととなりました。しかし果たして彼らの成した事は世界で評価されるものでしょうか。日本で永遠に評価され続けるものでしょうか。わたしの知る限り行動しなかったユダヤ人で記述の残された人はいないでしょうが、ものを考えずに行動だけして評価された人はいません。ものを深く考え発言し評価するのがユダヤ人でしょう。

シンボリズムは一つの行動だと思います。言葉と一緒かそれ以上の言葉であります。しかしそれは多くの考えと考証、明確な認識に基づいていなければなりません。横須賀のシンボリズムにはそれらが弱いと思います。それを最も表しているのはYRP野比のものと中央公園だと思います。大楠山のものは出来が良すぎたのだと思います。そういう事はよくあります。

実際横須賀ロッジには日本人はわずかしかいません。世界の人々は良く勉強しています。日本人もかつては良く勉強していたかと思います。ロッジの扉を叩くのはあなた自身です。


2012-02-11 08:20 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
横須賀唯一のパーフェクトアシュラーは夏島にあるとのことでした。

夏島の名前が出れば少し歴史に詳しい人であれば何がそれを意味するかはすぐにわかる事かと思われます。

本日2.11でさかのぼることちょうど123年前の1889年明治22年2月11日に日本では大日本帝国憲法が発布されたのでした。太陰暦から太陽暦に暦がかわり、旧暦の神武元年の1月1日が2月11日に当たる事から紀元節の祝日が始まりました。これについては当初は単純に旧暦の元旦を紀元節として1月29日にあてたそうですが、孝明天皇の命日が1月30日(旧暦12月25日)であった事からずらしたようです。孝明天皇の命日も旧暦ですがクリスマスなのですね。


夏島では123年前に発布された日本最初の憲法の草案が伊藤博文の別邸で作られ、それを記念して草案作成者の金子堅太郎、伊藤巳代治と有志によって大正15年に最初の記念碑が建てられました。


当初はこのような形で条文の数を表す76枚の御影石と、伊藤博文の別邸の間取り図を示した銅板が上部にあったようです。その後敗戦後には富士自動車の敷地内にあった記念碑は銅板がはぎ取られていたそうです。そのため富士自動車の社長達有志によって昭和26年2月11日に現在の姿に作り上げられたそうです。



碑文の内容は他のホームページに全文あげている人がいましたのでそのままコピペさせていただきます。
明治憲法草案起草の跡 金森徳次郎書
SITE OF ORIGINAL DRAFTING OF THE MEIJI CONSTITUTION
IN THE YEAR  MEIJI 20 ― AD.1887
    明治憲法起草遺跡記念碑
この記念碑は, 現在地から南方200メートルの場所に, 大正15年11月に建立されたものである。当時、明治憲法草案起草の関係者であり記念碑の建立発起人の一人であった金子堅太郎の言によれば, その場所は、 伊藤博文の別荘の草庵起草の室にあてられた12畳半の部屋であったという。記念碑は、太平洋戦争後荒廃していたが、当時この地で創業していた富士自動車株式会社の手によって、一部原形を変えて改修され昭和26年2月再度除幕された。このたび、元の位置を含む一帯が、日産自動車株式会社に帰属することとなったので同社と協議のうえ現在地に移設させ, 明治憲法草案起草の遺跡を示す唯一の記念碑として永く後世に伝えようとするものである。
ちなみに、この碑の外面は、76個の石からなるが、これは明治憲法の76箇条を意味し、基石の縦横各22尺2寸1分1厘の長さは、憲法発布の明治22年2月11日を示したものである。
昭和50年4月26日 横須賀市

金澤之爲地負山瀕海波光與嵐影相
映自古稱武相第一之名區伊藤春※   ※=「畝」の旁が「卜」 
公愛其勝構別墅於夏島将就此而審
議憲法典範之草案屋宇無輪奐之美
柱楹不加雕飾一棟六房纔凌風雨耳
明治二十年三月起工六月落之也公
乃徃焉陪従者三人予與金子堅太郎
寓東家井上毅別居公日夾臨東家從
事調査予專管機秘草案一夕有偸兒
入予室奪行李而去翌朝覺之百方捜
索偸兒唯取銭而棄行李干圃中草案
則幸無恙矣公乃命二人移居夏島島
孤懸干海心非※舟不可渡居此者宛   ※=「イ」+「就」
如謫客距島数百武有烏帽子巖巖以
形名焉時際盛夏晨夕討論之暇徃徃
游泳至巌下其快洵不可名状也顧夏
島既爲憲法發祥之處而物換星移今
則為海軍飛行場併烏帽子巖無復※   ※=「厂」+「示」
影滄桑之燮足喫一驚也於是刻文而
誌遺跡以告後人云
  大正十五年十月
  正二位勲一等伯爵伊東巳代治撰并書
  発起人               PROMOTORS  
内山岩太郎            IWATARO UCHIYAMA 
山本惣治              SOUJI YAMAMOTO 
メーヨー エス シルビー      MAYO S. SILVEY 
ジェームス エイチ ドローン   JAMES H. DRAUGHON 
  昭和26年2月11日 再建   REBUILT ON 11TH FEBRUARY 1951
   協賛
  神奈川県
  横浜市
  横浜商工会議所
  横須賀市
  横須賀商工会議所
  富士自動車株式会社

継ぎ目はあるもののほぼ完璧なパーフェクトアシュラーですね。恐らく記念碑としては日本にここだけなのではないかと思います。それだけ明治憲法を制定したという業績は確固たるものであり、日本で日本人による政治的偉業としてフリーメイスンリーとして最も評価されるものであったと考えられます。明治憲法制定については、草案作りに参加した中心人物として伊藤博文とさらにその他の3人の内金子堅太郎の経歴がフリーメイスンリーとして興味深いところです。さらにこの記念碑の発起人である山本惣治氏、内山岩太郎氏の関連も注目されます。

まず伊藤博文についてですが、こちらは初代内閣総理大臣、夏目漱石の前の旧千円札のお札の肖像に採用されていたことで有名です。ウィキペディアで見ると初代兵庫県知事をされています。いわゆる長州ファイブの一人としてブラザートーマス・グラバーの仲介でイギリスに留学し、下関戦争の前に帰国し、その後岩倉使節団の一員として海外を歴訪し、ブラザービスマルクとも面会しています。その後は憲法調査のためドイツに留学しました。彼について有名なのは妻も元芸者であったように芸者遊びが激しかったことで、明治憲法草案についてもなじみの芸者が経営する金沢八景にあった東屋で草案の盗難事件にあった逸話もあります。現在金沢文庫には当時の料亭の面影を残した唯一の老舗千代本が往時の雰囲気をわずかに残しています。彼はイェール大学の名誉博士号なども取っており、ブラザー林董も伊藤博文の指示でフリーメイスンリーに加入したという話もあるようですし、日露戦争に関わり様々な注目を集めていたと考えられます。結局韓国併合目前の1909年にカトリック教徒の安重根にハルビンで暗殺されるわけですが、この事も彼が女性関係も含めた素行の点で芳しくなかった事によるのかもしれません。ユダヤ教によれば人間の評価は食べ物と性的生活でなされるということです。長州出身のほぼ百姓の息子であった明治の元老伊藤博文と山縣有朋の二人の死に伴って政府での長州閥の影響は弱まり、東北出身の旧士族の子供たちである陸軍や海軍の軍人たちの影響が強くなっていくのです。明治憲法に示された天皇大権に基づく議会制は、大正天皇の死と軍閥の出現、統帥権の干犯や軍部大臣現役武官制などを通して当初の立憲政治は無視されるようになり、結局はテロリズムの嵐の中日本は軍国主義の道を進むようになるのですが、憲法の理念、伊藤博文らの啓蒙と立憲政治の思想が守られたなら明治維新の成果は太平洋戦争で残骸となることなく現在までより多く引き継がれていたかもしれません。いずれにしても伊藤博文の死と韓国併合への植民地への欲望がこれら維新当初の日本人による憲法の策定という功績を駄目にしてしまった事は歴史の教訓かと思われます。


金沢八景野島に復元された伊藤博文別邸 これは品川にあった下賜された邸宅を移築したものだそうです。夏島のものとは関係ないそうですが、当時のものを修復し再現していて、明治の元老の美意識を感じることができます。山縣有朋の別邸なども箱根にありますが、現代の日本人の美意識の琴線に通じるものがあるかと思います。お茶会など良くやっていますので一度訪問されることをお勧めします。


伊藤博文の直筆 達筆ですね。江戸時代末期の庶民の教育水準の高さがうかがわれます。人柄もあるのでしょうが、恐らく明治期の志士の中で最も達筆なのではないでしょうか。中国に留学して仏教の真髄を学び伝えた弘法大師の逸話を思い起こさせるものではないでしょうか。


別邸の中庭 山縣有朋も庭づくりで有名だったそうですが元老や皇室での競い合いを感じます。江戸初期の戦国武将たちの隠居後の庭づくりに通じるものもありそうです。


野島別邸からの八景島の景色 伊藤博文は何を思うでしょうか。

次に金子堅太郎についてです。彼は福岡出身で藩主の黒田長知に同行して團琢磨と共に岩倉使節団の一員としてアメリカに留学し、ハーバード大学のロースクールに在学しています。さらにそこでブラザーセオドア・ルーズベルトの知己を得て、その後ブラザーエドマンド・バーグの著作に親しむようになります。帰国後に「フランス革命の省察」を明治天皇に奉呈して、それの抄訳を作成しています。日露戦争後は日米協会の会長を務め、最後まで日米開戦を憂慮していて開戦前の5月に亡くなったそうです。「フランス革命の省察」はいわゆる保守主義のバイブルと呼ばれる名著であり、イギリス保守主義、伝統主義の真髄を表した著作と言われています。ブラザーバーグはアイルランドの生まれで父は国教徒、母はカトリックだったそうです。本人は国教徒となり、ダブリンのトリニティ―カレッジで美学について論文を出して注目されたそうです。その後政治家となり、フランス革命のさなかに熱狂的なフランス革命支持者のフランスの青年からの手紙に答える手紙をしたため、その中でフランス革命がいかに理念が先行し現実が伴わないものであるか、確実に失敗するであろう現実的な評価、形而上的な権利や理念を追い求めることの虚しさ、相続についての自然権について述べてイングランドにおける名誉革命の成果を継続することがイングランドにフランス革命を輸入しないための最重要の事であると説いています。わたしは邦訳をまだ3分の1ほどしか読めていませんが、内容は極めて難しくそれでいて現実の評価や論理は単純明快で簡潔であり、ただ革命や革新に情熱を持った若者の情熱を完全にさめさせるには確かに十分な説得力を持ったものであると感じられます。彼もグランドロッジのホームページに名前を挙げられる重要なフリーメイスンの一人であり、この著作は実質フランス大東社に対する正統派英米フリーメイスンリーの評価であるとも考えられます。一種の現代の政治論文の最重要のものであると考えられ、フランス革命や共和制、王制や天皇制を少しでも考えたい人はすべからく読むべき著作、むしろ読んでから発言すべき著作であると考えます。


ブラザーエドマンド・バーグの肖像画

さて金子堅太郎については出身地が福岡であることも一つのポイントであるかと思われます。これについては後に取り上げる予定です。


発起人の山本惣治氏についてはウィキペディアではもともと日産の社長で、その後富士自動車の社長となり、追浜工場で米軍の車両の修理など行っていたとあります。日産ではダットサンの設計開発など行い、富士自動車では三輪自動車フジキャビンなど開発したようです。恐らく黎明期の日本の自動車産業の開発主導の立役者となった方かと想像されます。アメリカでいうとタッカーとかそういうのではないでしょうか。山本氏の死後重機メーカーのコマツとなって事業は継続されているようです。コマツの商標にパーフェクトアシュラーを模した正方形を認めるのは関係あるのでしょうか。

またもう一人の日本人発起人の内山岩太郎氏は戦時中の外交官、戦後の神奈川県知事の方です。ウィキペディアでは戦後日本の国連加盟に当たってフィリピンとの関係を調整され尽力されたとあります。また神奈川県の鎌倉にある県立近代美術館の設立にも関係されたようです。フィリピンとの関係修復はそのまま日本のフリーメイスンリーにとってグランドロッジの設立にかかわる重要な功績であり、恐らくここに名前を残された四名の方はフリーメイスンであったかと思われます。本人はカトリック信者でありながらフィリピンの寺院の復興に個人的に尽力されるなどフリーメイスンリーの汎宗教性を感じさせる逸話だと思います。鎌倉、葉山にある県立近代美術館は前者は八幡宮境内にあり、後者は葉山御用邸と通路でつながる場所にあり、美術館でありながら様々な背景を感じさせる立地にあります。特に葉山のものは2003年に出来たもので直接の関係はないようですが、ユダヤ人芸術家のものなど近代美術でもこだわりのある展示を行っており、興味深いものがあります。建築自体は六本木にある国立新美術館の原型とも思われる形ではないかと思います。

ざっと概観しましたが恐らく年間100人も訪れないであろう夏島の現在日産自動車の敷地内にあるこの日本で唯一であろうパーフェクトアシュラーの記念碑は、横浜の港の見える丘の外国人墓地に匹敵する、日本におけるフリーメイスンリーの歴史の記念碑であり、横須賀における最高のフリーメイスンリーの象徴であるように思われました。多くの人に訪れていただき、フリーメイスンリーとは何かをその象徴から感じていただければこのブログの意味がわずかでもあるように感じられます。
(追記:ちなみに現在のブラザーマッカーサーの下でつくられた日本国憲法の公布日は明治天皇の誕生日の11月3日であり、施行した5月3日はポーランドでヨーロッパ初の成文憲法が成立した日であるようです。明治憲法の施行日の11月29日は元旦から333日目という事はあるようです。)


2012-03-17 09:36 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
こう書くとカッコイイですが実はダイエーです。
ダイエーと言えば小泉さんの時代に銀行の不良債権の中心として産業再生機構の企業再生の主要な件として日本の大規模小売業の再生の典型例として話題となりました。現在では民主党岡田副総理の関連のイオングループが元気であるかと思います。
横須賀のダイエーは芸術劇場と同じくまさに東西冷戦が終結し基地機能、および横須賀の都市機能の変化が生じ、なおかつ日本の経済がバブル経済の頂点で、中央公園を含めて建設ラッシュであった1991年に出来たそうです。
ウィキペディアを読むと開業当時からテナントの入れ替わりは激しく、横浜でいうとYES'89からみなとみらい地区の開発が進んだ時代とまさに重なる感じかと思われます。ダイエーと言うと私は金沢八景店を良く使っていて、郵政選挙の直前にここのお寿司で恐らく日本で最初にノロウイルス感染症になった思い出があります。創業者の中内功さんは神戸出身で、有名な逸話としてフィリピンで日本陸軍で出兵していた中内さんは隣で寝ている同僚にいつ食われるかと思い眠れなかった、だから戦後の日本で飢えさせないようにしようと考えたという話がありますがどこまで本当かはわかりません。中内功さんも亡くなられ、野球チームのダイエーホークスも現在ではソフトバンクホークスです。


ヴェルニー公園からショッパーズプラザ、芸術劇場、メルキュールホテルを望む
ショッパーズプラザの屋根にも沢山ピラミッドがあります。岡田屋モアーズにもピラミッドが沢山あります。横須賀の基地の影響力ははかりしれませんね。
さてダイエーとはちょっと話が離れますが横須賀つながりです。実は横須賀では町でこんなものを見かけたりします。ナンバーとか社名は一応消しときました。


菱形の伝統の形ですがどう考えてもフリーメイスンリーのシンボルを意識しているようです。横須賀はどえらいところです。

護衛艦ひゅうが

さてショッパーズプラザの前にあるベイウォークというところが今日のフリーメイスンリーのシンボルです。

黒白のチェッカーと中央にあるVesica piscis
やはり勉強の甲斐があります。何の役に立つって?シンボルの謎がわかるというのはやはり違いますよね。柱が12本でクロスしています。12は数秘術では12星座や12時間、12月など完全な数としての意味があります。キリスト教では12使徒、ユダヤ教ではヤコブの子供のヨセフの兄弟12人、ユダヤの12支族として表現されます。またこの後に出るギリシア神話でもオリンポスの12神として現れます。フリーメイスンリーでもそれらから重要な数字とされるようです。


ベイウォークとソロモン宮殿としての横須賀芸術劇場、メルキュールホテル
メルキュールホテルはロータリークラブが会合を開いていて、もうひとつセントラルホテルはライオンズクラブが会合を開いています。どちらも食事もおいしいですしいろんなプランもあるようです。結婚式や大事な集まりやちょっと豪華なランチやディナーなどご利用されてみてはいかがでしょう。
メルキュールの意味は英語でMercury、水星、水銀の意味のようです。水星はギリシア神話のヘルメスを象徴します。ヘルメス信仰は後の錬金術や占星術に繋がるようです。エルメスなんて人気ブランドもあるかと思います。また水星を意味する記号はケリュケイオンというヘルメスの杖(WHOのシンボルなど世界的には医のシンボルとされる。)をモチーフとしているようです。このヘルメスの杖はウィキペディアによれば一橋大学の校章として採用されていて、一橋大学の創設者は明六社の会長であった森有礼と福沢諭吉です。森有礼は伊勢神宮の不敬に関して明治憲法発布の日明治22年2月11日に国粋主義者に刺され翌日死亡したそうです。一橋大学のすぐ近くにスクエア・アンド・コンパス・ロッジ No. 3があります。

グーグルアースでみたショッパーズプラザ前のベイウォーク 南北逆転しています。Xでそのまま聖アンデレ十字ですが、この場合は上下ともにさらに歩道橋で繋がっていますので、いわゆるΧΡに成るかと思います。コンスタンティンの十字です。お見知りおき下さい。

さらについでと言ってはあれですが、ヴェルニー公園のグーグルアース図です。直角三角形ですね。All Seeing Eyeもかかっているのかもしれませんが、ちょっとわかりません。三笠公園みたいに色々入れ込んである感じはなさそうです。恐らく正式には直角三角形だけではないでしょうか。ワシントンD.C.で最初にブラザーランファンが入れたシンボルも直角三角形だけだったようです。恐らくその事にならう感じだと思います。

ではそのうちにワシントン篇をやる予定です。パリ、ロンドン篇もいつかやる予定です。お楽しみに。


2012-03-28 12:03 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
ええー横須賀に越してきて満一年となったわけですが、前回はちょうどサッカーをやっていてアキレス腱を切ってしまい行けなかった横須賀基地開放デーに横須賀内で引っ越してすぐに当たったので早速行ってまいりました。まだ桜も咲いていないのですが、結局米軍のイベントはそういう花がどうとか関係なく軍事戦略上のスケジュールで決定するようでとにかくチャンスがあったら逃すなというモットーのようです。
ご存じのように前日くらいから寒さを吹き飛ばす快晴を認めていまして、アメリカ軍の科学力というものを見せつける天候となっておりました。
てなわけで9時から三笠公園口が開放しているという事は知っている訳ですが、どうせ中でアメリカンなホットドックとか食いもんを食うイベントなんだろうと10時ころに家を出るわけです。一応景気づけというか朝ごはん代わりにヴェルニー公園のスタバで相変わらずの抹茶フラペチーノなんかを頼んで歩き飲みしながら三笠公園へ向かいます。


前々から存在は気になっていましたが、ショッパーズプラザ、ダイエーの横にあるマンションの入り口にあるモニュメントです。天気もいいので写真うつりも良いだろうと写真に撮るわけです。
まあまん丸の石はあまりフリーメイスンリー的ではありませんね。日本の象徴でしょうか。
タイルが黒白のチェックになっているのはフリーメイスンリー的ですが、横須賀のマンションはベースの近くは皆黒白を基調としています。飲み屋の床がチェックになっているのもあります。
まあなんせベースの真横ですからそれなりの影響はあるかと思います。奥には横須賀では夏島にしかないと思われたパーフェクトアシュラー様のオブジェが・・・。

うっすらとGが・・・。ちょっとしょうもないいたずらですが、直角定規が片方が長いのはフランスのフリーメイスンリーの特徴だとはさすがに知らないかと思われます。まあ多少意識して作られたのでしょうが、このGはちょっといただけないいたずらです。横須賀特有のものでしょうか。まあこうも安易なパーフェクトアシュラーもどきと直角定規もどきはベースの横だから許されるのでしょうか。

さていい天気でずんずん進みます。さすがに二人連れや家族連れが多い感じです。

ベースの前から見た自由の女神像。いい天気でシンボルも映えます。まあホテルのマスコットですが。

勢いでベースの中も撮影しますが、これはさすがにSPから注意されます。まあ開放日なんでそういう事もあるでしょうか。

だんだん人が多くなってきます。ちょっとテンションも怪しい感じを感じ始めます。あれ、ちょっとまずいかななんて感じを感じ始めます。

三笠公園のアーチ方向からは入らないよう誘導されます。おやどういう事だろう・・・。


おやおやこれは人の数が尋常ではない・・・。どうなってんだ。そんな大ごとなのか・・・。ここから渋滞って万博みたいだな。いやディズニーランドか初詣か。

大渋滞で行列です。近くの教会がここぞとばかりに白人の信徒さんがパンフレットを配っていました。配ったパンフレットが植木にたくさん挿してあって何ともだいぶ義務的な感じになってきます。

天気もいいので湘南学院の十字架もきれいに映ります。屋台も並んでいたりしてお祭りっぽい感じです。

三笠公園に見た事もない数の人が・・・

謎もへったくれも天皇誕生日もありません。マストの十字架なんか説明してもとてもじゃないが理解されない状況でしょう。

噴水過ぎたところから行列です。ワシントンの空港の行列を思い出しました。これは何だ亡命者なのか・・・

結構引っ張ります。


2012-03-29 11:00 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さて大行列です。
10時ころに家を出て10時半ころに行列の後ろに並んでそれから約1時間は三笠公園内で待ちぼうけです。周りの人を見るとやっぱり小さな子供連れが多いです。後は結構な高齢者の夫婦です。若い人もいますが、カップルは少ないです。女性一人なんてのもいました。男一人は逆に少ない感じでしょうか。まあなかなか他のイベントでは認めづらい客層ではないでしょうか。結局後からわかるのですが、要するにアメリカンフードを食べに来る人々というと一番わかりやすいと思います。あんまりアメリカ軍基地そのものに興味のある人は少ない感じです。興味のある人もこれだけ毎年やっていると変化もないし来なくなるという所だと思います。あとは神社にくるみたいに孫を連れた高齢者という形もあります。まあ参詣みたいな感じでしょうか。

三笠公園では一方から基地から出てくる人々がいます。皆大体大きなピザの箱を抱えています。要するにそういう集まりなのです。待ち時間でどうやら雲行きが怪しくなってきます。

行列を写真撮ってる人もいます。大体日本人はこういう動きをしますね。ブログにでも載せるのでしょうか。

噴水広場の方に来ました。まだまだすごい行列です。ゲートが近くなり異様な雰囲気になってきます。

ゲート直前でSPがめぼしい人を適当に選んで身分証の提示を要求します。本当に適当な感じです。とにかく凄い人の数ですからね。

ゲート直前でほとんど降参状態になっている人もいます。一体何に負けているのかわかりませんがとにかくなんだかよくわかりません。

ゲートも無事通過です。もちろんフリーメイスンリーのシンボルをみてSPの人も少し反応しますが華麗にスルーです。対岸の所が会場のようです。雲行きが怪しくなります。

三笠公園口を通過します。

最初のSPさんと犬で入場者が食いついています。

この後もSPさんとの記念写真があっちゃこっちゃで見られます。この日はさすがにどの兵隊さんも愛想が良いです。なかなか大変です。英語を聞くと結構からかっていますが、日本語で極力話すよう努力しています。マニュアルがあるのでしょう。

入り口にある会場の地図。ここで黒人の女性にワシントンは左だと言われます。一旦右に行きますが、後でワシントンの方に見学に行きます。艦長がお待ちかねだったようです。

帰りにマックで買いましたがアメリカンバーガーとダブルなんとかチーズバーガーとポテトのMで700円くらいでした。外より2-3割安い感じでしょうか。

やっぱり探して買い求めました。No.20 Yokosuka Lodgeの出店です。ハンバーガーとホットドッグと切ったポークステーキ肉です。それぞれ300円、200円、500円くらいだったでしょうか。ポークステーキ肉ももたれるかと思ったらそんな事もなく、味も均一な感じですが味噌味みたいで非常においしかったです。ただまあ張り紙も含めて周りよりちょっと地味な感じでしたか。奥の方に知ってる人もいましたが特にそれっぽい会話はしません。お客さんもちょっとやっぱりフリーメイスンリーという事で敬遠しつつ興味を持っているという感じで大行列という感じではなかったです。行列ができているのはやっぱり先ほどのピザと1000円くらいの手羽先のでかいやつとかでした。とにかく食べてるだけという感じです。敷地が広いのでそこらじゅうで座れて食べてる感じでした。ビールもありましたがとにかく食べてる感じです。桜並木もありますがもちろん桜は全然咲いていません。花より肉という感じです。

これが噂のピザです。とにかく凄い大行列で、作る方も見えるのですが、一日中暇なく動いている感じで、一大仕出し所でした。味も皆いいのだと思います。日米交流も結局食とかが基本みたいです。フリーメイスンリーと全く一緒です。

他にも蜜蜂の巣の絵柄を入れた出店があったのでよく見たら皆フリーメイスンリーの帽子をかぶっていました。ワシントンD.C.のプリンス・ホール・ロッジだそうです。黒人のロッジをプリンス・ホール・ロッジと言います。プリンス・ホールは黒人の混血の最初のフリーメイスンの名前です。フランス革命時に加入を認められ、以後黒人ロッジは別にプリンス・ホール・ロッジとされてアメリカで広まります。オバマ大統領が加入しているとウィキペディアでも書かれていますが、本当かどうかは知りません。ちょうど朝鮮半島に来ていました。

ブラザープリンス・ホールの肖像画

オバマ大統領の就任披露パーティーのポスター。フェイスブックで拾いました。まあほぼフリーメイスンなんでしょうね。おいおい鎌倉に来た時の様子もブログに載せます。

空母ジョージ・ワシントンの方を見に行きます。ニミッツ通りとかあります。

駆逐艦が並んでいます。


日本語があると安心できるのかやはりちょっと高齢者がたたずんでいます。


あれあれまた大行列になってきました。

リュックサックは持ち込み禁止でずらっとかけてあります。こう言うのは日本国内ではまずあり得ない光景ですが、こういう日本人が基地内に入れるイベントならではの光景でしょうか。


とんでもない大行列です。ここでもまた30分待ちです。岩肌の感じは三浦海岸特有のもので、三浦だと盗っ人ガリなんかと似ている感じです。やはり自然を見るとここが日本だと思わされます。

空母ジョージ・ワシントンのブリッジが見えてきます。
さすがに大きいです。これと似たような戦艦大和を作った昔の日本人はそれを見て戦争に勝てると思ったに違いないと思わされました。こんなでかいものが動いて戦うのならどんな人でも気がでかくなります。

次回空母ジョージ・ワシントンに乗り込みます。


2012-03-30 11:02 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー

空母ジョージ・ワシントン
全長333メートルだそうです。東京タワーと同じ長さですね。


だんだん近づいてきます。


ここでも大行列です。反対側が崖側でお土産を兵隊さんが売っていました。


クレーンと船と岸壁の間です。


やっと乗れました。爆弾が展示してあります。

普段は飛行機のあるスペースなのでしょうか。あまり大した展示はありません。機密が大事なのでしょう。

たぶんアメリカとしてはブラザージョージ・ワシントンについてもっと知ってくれという感じなのでしょうか。


乗組員の長の写真です。この中で空母ジョージ・ワシントンの艦長であるデビッド・A・ラウスマン艦長が上の甲板に居ました。どうもやはりフリーメイスンみたいです。ブラザージョージ・ワシントンの名前を冠している以上やはり艦長もブラザーなのかと思います。その他原潜なども艦長はフリーメイスンが多いみたいです。


武器や道具の展示


防具の試し打ちでしょうか。なんだかよくわかりません。

エレベーターで甲板に上がっていきます。5秒くらいで上がっていきます。すごいスピードです。


エレベーターからショッパーズプラザ方面

次で甲板に上がります。


2012-03-31 11:06 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー

いわゆるエレベーターというやつです。エレベーター側から甲板を見上げた形です。

実はこの頃から雲が晴れてきているのに気付くでしょうか。

エレベーターからショッパーズプラザ方面

雲が晴れました。不思議ですね。

1・2・3ゴーで動きます。3-4秒でしょうか。戦争用だからとにかく凄い動きです。

甲板に上がります。快晴になってきます。73というのがジョージ・ワシントンの認識番号です。

甲板の高さからの眺めです。少し高くなりました。

みるみる晴れていきます。空母の技術よりもこっちの方がすごいという事がよくわかります。天気が悪かったら飛行機の発着もできませんからね。いやあすごい。

甲板の上も人だかりです。表面はアスファルト塗装みたいなグラウンドみたいになっています。基本的には日本の空母と構造は一緒なのでしょう。

あっち向いちゃってるのが艦長です。頭一つ抜けて背が高いです。

F/A-18の張りぼてがあります。よく見ると艦長の名前が書いてあります。


張りぼてなので微妙にところどころ壊れています。


艦長の名前にコールサインがTOO TALL。なかなか洒落ています。


雲が晴れていきます。どういう計算なのでしょうか。


張りぼてなのでエンジンが閉じてあります。ちょっと残念です。やたら晴れてきます。

艦長さんに挨拶しようとしましたが、英語で日本人としゃべっていて機会がありませんでした。まあ大快晴なので作戦成功という感じなのでしょうか。

快晴に日米の国旗も映えわたります。帰りにお土産で売っていた空母のマークの入った帽子を買いました。1400円です。

No.20ロッジの屋台をまた見に行きました。特に変わりはありません。やっぱり知ってる人はいなくなっちゃいました。まあさすがに人が多いのでそこそこ売れてるみたいです。

三笠公園側です。晴れ渡ります。

会場はこんな感じです。ほとんどが食べている人で、桜が咲けば花見っぽくなるのでしょうが、まあアメリカンな会食会です。

出口から出たところの三笠公園です。何とも言えない安心感でしょうか。成田空港のようです。

ファイとカシオペア座の上でくつろぐおばちゃんたち。昭和は遠くなりにけりでしょうか。

三笠のマストにはZ旗がたなびきます。まさに天気晴朗なれど波(73)高しでしょうか。時代は流れます。

東郷平八郎元帥の銅像。ぴかぴかに磨いてありました。三笠公園の見学のツアーも来ていていつになくごった返しています。やはり横須賀の一大イベントという感が一層増します。中国や北朝鮮との有事の可能性も次第に低下する現状ではまさにこう言う基地のイベントが最大の作戦であるのかもしれません。横須賀経済新聞によれば今回の一日のイベントだけで約4万人の入場者があり、毎回このくらいの人数が集まるようです。

次回顛末記です。


2012-04-04 13:38 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
そろそろ桜も咲こうかという時期に入りました。
昨日の春の嵐はすごかったですね。

さて前回の基地開放後の顛末です。


三笠公園を出るとなぜか日本風屋台が並んでいます。まあいろんな要望に答えた結果こうなった感じでしょうか。成田空港のお土産物屋みたいなかんじでしょうか。

ヴェルニー公園のあたり。子供が大はしゃぎしています。


毎年新しいバラを植えているみたいです。

なぜか時期なので田浦の梅林の方にやってきました。






この日はスカイツリーも見えました。




さて大量の画像で驚かれたかもしれませんが、田浦梅林です。この頃はちょうど8-9分咲きできれいでした。外国人の方も来られていました。
もう春の嵐も過ぎ去り桜の季節になっていますね。いろいろと異動がありブログも更新が遅れていました。また色々と小さくネタを提供していく予定です。
多くの方がこのブログを見てくださり様々に影響していっているかと思います。
様々な種まきがこのブログを通して皆様の心に出来れば幸いかと思います。


2012-05-12 06:58 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
まあ横須賀といえばカレーと最近銘打って売り出しているので、カレーについてコメントします。
カレーといえばインドという事で、実は横須賀にもインドカレー店が数軒あります。
横須賀は非常にグルメの街の印象があるかもしれませんが、結局日本で最大の軍港であり、重要な米軍基地なのでスパイ活動が盛んなのだと思います。
そのために各国を代表した料理店が軒を並べて町の噂や基地の動静をそれぞれの母国の関係者に報告しているものかと思われます。

とまあ冗談とも本気とも取れない文章ですが、本日から明日にかけて横須賀では三笠公園でカレーフェスティバルと銘打って、海軍カレーを売り出す様々なイベントを行っているそうです。
ご興味があれば早い時間に来られるとよろしいのではないでしょうか。


2012-05-13 06:57 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
フリーメイスンリーとは直接関係ない横須賀の風景です。



春うらら 昭和の御代を 忘れなじ 


2012-05-14 09:34 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー

走水にある走水神社です。
横須賀にある神社では最も古い由来のようです。ただ実際にはよくわからないので、伝承のようです。日本武尊などと関係するので、皇国史観の中で大事にされたようです。


諏訪神社と須賀神社と神明神社と稲荷神社と水神社があるそうです。
ようするに諏訪と出雲と伊勢とアイヌとカッパのようです。つまり全部ですね。
地元の企業が鳥居を作っているようで何とも平成時代な感じです。江戸時代の狛犬が一番豪華なようでした。
須賀神社というのが横須賀の地名の起源のように思われましたが、一般には異なるようです。
横須賀は須賀神社とか諏訪神社があって、武蔵と相模の国の国境で、要するに奈良とか平安時代の弥生系と縄文系の国の国境であったのだと思われます。それは鎌倉時代の源氏と北条氏や三浦氏、その他の御家人達と天皇家や寺社との関係を見ても、そういう東と西の邂逅がここ関東の近世の歴史のテーマであったことを感じさせます。またそれはそのまま近代の大東亜戦争に至るまで、また最近では東日本大震災に繋がるものでもあるかと思われます。
まあテーマとしては広く浅くですが、実際には乾いた関東の雰囲気を強く反映した、鎌倉などとは異なる何でもありの横須賀という雰囲気を代表した感じでしょうか。
なんというかまあ日本人は信仰心は広く浅く普遍的にあるという感じではないでしょうか。出雲とか伊勢とか諏訪とか言っても、当時の日本人には現在のエジプトやパリやロンドン、ニューヨークのような雰囲気であったかと思われます。横須賀にはこの他にも様々な宗派の寺が一緒に合同していたり、共同体として多くの信仰をまとめている形態がよく認められます。一種の宗教の合理化、実務的メイスンリーというとかなり語弊がありますが、地形的にも古くから海の街道の要所として様々な人が行き交った歴史が、結果的にそういう文化を生んだのかもしれません。 


2012-05-17 07:10 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
うーん結局横須賀も三浦と一緒で漁師さんの町なんだなと。
完全に撒き餌と仕込み網の漁ですな。
フリーメイスンリーやキリスト教でも良き羊飼いという表現が良く使われますが、日本の沿岸部はやはり良き漁師。キリストの象徴としてのイクトゥスで市章を表されたりしていますが、まあ完全に漁師さんのあれだなと。ただ完全に海が枯れてきちゃってるからちょっともう厳しいと。

まあもうちょっとねえ。
インドカレーの店があるとは言いましたが、要するに結構町としても厳しい状態というのがわかりました。内部的にも厳しいし、対外的にも厳しい。それはやはり現在横須賀港にも空母ジョージ・ワシントンもいないようですが、空母の運用も含めて米軍基地問題としても厳しい。(5/17現在戻ってきたようです。)

三笠公園でも結局戦艦三笠の菊の御紋を整備していましたが、そもそもあれだけ天皇誕生日を入れ込んじゃった公園だしねえ。カレーフェスタがライオンズクラブで翌週のローズフェスタがロータリークラブのようですが、なかなかどうしてかなり厳しい。

本来は城ケ島にマグロを買いに来てほしいのだろうけど、魚食というわけにもいかないし、すかなごっそも継続的な来客は厳しいしと。まあナチスについてケーブルテレビで良くやってるけど、国家社会主義というとやはりナチスみたいな結末なのかなと。中央公園のシンボルは伊達じゃないんだなという感じです。
やはり国家社会主義の結末は終局的な破局以外ないのではないでしょうか。という結論です。
2012-05-20 10:12 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
以前らせん階段の章で某病院と出したのは横須賀市立市民病院だったわけですが、今度は同じ様に横須賀市内の病院で聖ヨゼフ病院です。
聖ヨゼフ病院はもともと海軍の関係者向けの病院の海仁病院から発し、戦後にGHQの指導のもとで、最初はアメリカで宣教師をしていたフランス人のブルトン師を創始者とする聖母訪問会が創設の主体となり聖ヨゼフ病院となり、最近になってカトリックの聖テレジア会が運営する事となりました。聖母訪問会はフランスの有名な修道会の名前であり、このアメリカ由来のものとは異なるそうですが、どちらも基本的に新約聖書ルカ福音書のキリストの聖母マリアがまだ出産前に、キリストを洗礼することになる洗礼者ヨハネの母親であるエリザベトを訪問する件に由来するようです。

洗礼者ヨハネの存在は非常にフリーメイスンリーでは重要であり、1717年6月24日にイングランドグランドロッジは合同ロッジとして近代思索的フリーメイスンリーとして発足したわけですが、その日はまさに夏至に当たる洗礼者ヨハネの日としてカトリックの記念日であり、すなわちイエス・キリストの実在を証明するユダヤ教における唯一の証人とも言うべき記録に残された宴で首をさらされて殺された洗礼者ヨハネが、後のヨハネ福音書やヨハネの黙示録で出てくる使徒ヨハネと同名であり、いわゆる洗礼派(エッセネ派)と律法派(ファリサイ派、ユダヤ教正統派)、神殿祭司派(サドカイ派)、熱心党(ユダヤ教過激派、フリーメイスンリーの源流かもしれません)の分類の、キリスト教の源流をエッセネ派に求めるものと繋がるのだと思います。洗礼者ヨハネが首を切られるくだりはブラザーオスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」で有名かと思います。
いずれにしても聖書における「ヨハネ」の名前のダブルミーニングともう言うべき、洗礼者ヨハネと使徒ヨハネが同名である事は、そのままカトリックの記念日である夏至の洗礼者ヨハネの日と冬至の使徒ヨハネの日と繋がり、それはそのまま以前挙げた丸に点と平行線で挟んだフリーメイスンリーのシンボルとなります。上部にトーラーを示し、律法を示すシンボルとなります。

こういう話は仏教でも小乗と大乗や、仏陀とダイバダッダの話などほとんど同じ話が出てくるところではないかと思います。
さて英語圏では非常に多い名前として挙げられるJohnジョンですが、これは基本的にヨハネ(ラテン:Ioannes、英:John)に由来します。このダブルミーニングとしての洗礼者ヨハネと使徒ヨハネの対応と同じ様な例が旧約聖書と新約聖書の重要人物でも認められ、それが今回の謎の舞台である聖ヨゼフ病院の名前であるヨゼフです。

ヨゼフJosephはフリーメイスンリーに関して少し調べると、人名で必ず多く認めることになる重要な名前です。これは聖書を通読するとすぐに理解できるわけですが、ユダヤ人のいわゆるトーラーの創世記から列王記、ソロモン王までに至るイスラエル統一王国の歴史の中で、客観的に見て最大の功績者がこのヨゼフ、ヨセフだと思います。発音が近いのはヨセフだと思うので、基本的にはヨセフで統一させていただきます。

ヨセフが関係する聖書の有名な場面、恐らくユダヤ教における最大の神秘かもしれませんが、有名なヨセフの夢占いの場面はさすがに引用します。ヨセフのまつわる物語については直接聖書を読むことをお勧めしますが、その他はウィキペディアを読むなり、ミュージカルでもヨセフの夢占いはあるそうなので機会があれば観覧する事も良いのではないでしょうか。日本での公演は東北大震災の時期であった事から中止となっています。

まずウィキペディアのヨセフの項目を転載します。

ヨセフ(Joseph)は、『旧約聖書』の「創世記」に登場する、イスラエル人を大飢饉から救った人物。ユダヤ人の祖ヤコブの子で、母はラケル。同母弟にベニヤミン、異母兄にルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン、ダン、ナフタリ、ガド、アシェルが、異母姉にディナがいる。妻アセナトとの間にエフライムとマナセの2男を儲ける。

生涯
「創世記」37-50ではヨセフを中心とした、いわゆる『ヨセフ物語』が語られる。その概要は次の通りである。

夢の話と異母兄弟の妬み
ヨセフは父ヤコブと母ラケルとの間に長男として生まれた。ヤコブはヨセフが年寄り子であるため、誰よりも彼を愛した。そのため10人の異母兄弟たちはヨセフを憎むようになった。ある日ヨセフは夢を見、それを語ったので、兄弟たちのねたみを買い、井戸に落とされ、やがて彼らによってミデヤン人の隊商に売られてしまう。その直後、ヨセフの服に羊の血を付け、父ヤコブにヨセフは獣に襲われて死んだと偽った。

エジプトでの受難と栄光 
隊商の手によってエジプトに渡ったヨセフは、エジプト王宮の侍従長ポティファルの下僕となるが、そこで成功を収め、ついにはその家の全財産を管理するまでとなる。ところが、ポティファルの妻の性的誘惑を拒んで、その妻にかえってぬれぎぬを着せられて監獄に入れられてしまう。しかし、ヨセフはそこの監獄の長に気に入られ、その監獄の管理人となった。やがて、その監獄にファラオに罪を犯した献酌官長と調理官長が拘留され、ある時、二人は同じ夜にそれぞれ夢を見た。ヨセフはその二人の夢をそれぞれ解き明かし、その解き明かしのとおりになったため、その能力が後にファラオに知られ、ファラオが見た夢も解き明かすことになった。その彼の解き明かしがファラオに認められて出世し、エジプトの宰相となる。その後、ヨセフはファラオからツァフェナト・パネアという名と、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナトを妻として与えられた。

兄弟たちの誠意と再会 

宰相の地位に就いたヨセフは七年間の大飢饉に備えるために食料を保存するなど、国政に腕を揮った。七年間の大飢饉はエジプトだけでなく、父ヤコブや兄弟たちのいるカナンの地にも及んだ。そこで、10人の異母兄弟たちは末の弟でヨセフとは同母弟となるベニヤミンをカナンに残し、エジプトに穀物を買いに行く。そこでヨセフと出会うが、兄弟たちは宰相ツァフェナト・パネアがヨセフであることには気付かなかった。だが、ヨセフは兄弟たちのことが分かっていた。そこで、ヨセフは兄弟たちを間者と決めつけ、末の弟ベニヤミンを連れてくるように要求、彼らの誠意を試そうとした。


兄弟たちはシメオンを人質としてエジプトに残し、穀物を持って帰ったが、エジプトで起きたことを父ヤコブに話すと、ヤコブはベニヤミンをエジプトに連れて行くことに強く反対する。しかし、穀物が尽きてしまったため、仕方なくヤコブはベニヤミンをエジプトに連れて行くことを決心、兄弟たちはベニヤミンを連れてエジプトに戻った。ヨセフはベニヤミンを見ると感激し、兄弟たちにご馳走をした。その後、兄弟たちがカナンの地に帰る前にヨセフはベニヤミンの持つ穀物の袋に、自らの使う銀の杯を入れた。そして兄弟たちが出発してすぐに、ヨセフは彼らを追い、彼らが銀の杯を奪ったと指摘、兄弟たちは自信を持って盗んでいないと主張するが、調べるとベニヤミンの袋から銀の杯が見つかった。罰としてヨセフはベニヤミンを自分の奴隷とすると言ったが、兄弟たちは自らが奴隷になってでも、ベニヤミンを帰らせるよう頼んだ。

ヨセフはその誠意にとても感激し、自らのことを明かした。兄弟たちは驚くも、その後ヨセフと抱き合い、和解を果たした。また、兄弟たちはそのことを父ヤコブにも告げた。ヤコブは最初は信じなかったものの、最終的にはヨセフに会って、劇的な再会を果たした。ヨセフは父と兄弟たちをゴジェンに移住させ、ヤコブの死後、110歳まで生き続けた。古来、エジプト人は人間の最長寿命は110歳であると考えており、ヨセフが110歳で死んだという聖書の記述はヨセフが神の愛を深く受けていたということを示している。

夢とその解き明かし

束(ヨセフの見た夢)
ヨセフとその兄弟たちが畑で束を束ねていた。すると突然、ヨセフの束が立ち上がり、兄弟たちの束はヨセフの束に向かってお辞儀をした。

解き明かし…これはヨセフが後に宰相となって、兄弟たちが皆ヨセフにひざまずくことになるということを預言している。

太陽と月と十一の星(ヨセフの見た夢)
ヨセフと太陽と月と十一の星があった。すると、太陽と月と十一の星がヨセフに向かってひれ伏した。

解き明かし…太陽というのは父、月というのは母、十一の星というのは兄弟たちのこと。束の夢と同じでヨセフの後のことを預言している。

ぶどうの木(献酌官長の見た夢)
献酌官長の前に一本のぶどうの木があり、その木には三本のつるがあった。そのつるが芽を出すと、すぐに花が咲き、ぶどうの実がなった。献酌官長がそのぶどうを摘み、ファラオの杯の中に搾って入れ、その杯をファラオに渡した。

解き明かし…三本のつるというのは三日のこと。三日後、ファラオは献酌官長を元の地位に戻し、以前のようにファラオに杯を渡すことを許されるということを預言している。

三つの枝網のかご(調理官長の見た夢)
調理官長の頭の上に枝網のかごが三つあった。すると、鳥がやってきて、一番上のかごの中に入ってあるファラオのための食事を食べてしまった。

解き明かし…三つのかごというのは三日のこと。三日後、ファラオは調理官長を木につるして殺し、鳥が死体に群がるということを預言している。

七頭の雌牛(ファラオの見た夢)
ファラオがナイル川の岸に立っていると、ナイル川から、肉づきがよくて、つやのある雌牛が七頭上がってきて、葦の中で草を食べていた。すると、そのあとに弱々しく、やせ細って、非常に醜い雌牛が七頭上がってきて、最初に上がった、肥えた雌牛七頭を食べてしまった。しかも、醜い牛は肥えた牛を食べたにもかかわらず、何も変わっていなかった。

解き明かし…七頭というのは七年、肥えた雌牛というのは豊作、醜い雌牛というのは飢饉のこと。ファラオがこの夢を見てすぐに、七年間の大豊作が訪れ、その後七年間の大飢饉が起こるということを預言している。

七つの穂(ファラオの見た夢)
一本の茎にとても豊かに実っている穂が七つあった。すると、東風に焼け、しなびた穂が七つ出てきて、豊かな穂をのみこんでしまった。

解き明かし…七つというのは七年、豊かな穂というのは豊作、しなびた穂というのは飢饉のこと。七頭の雌牛の夢と同じで七年間の大豊作と大飢饉を預言している。

まあウィキペディアでも概要はわかるのですが、やはり聖書の本文に触れたほうが良いという事で、今回はこれで終わりにして次回聖書本文の該当部分、ヨセフの夢占いからヨセフのユダヤ教での重要性とキリストの養父としてのヨセフとのダブルミーニングの意味、さらにそこから聖ヨゼフ病院に隠された謎へと展開していきます。


2012-05-21 07:40 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
ヨセフという名前の人間をどれくらい知っていますか?
日本人ではオウム事件の評論家で有田芳生という人もいます。もともとソ連の悪名高きヨシフ・スターリンをもじっているそうですね。ヨシフはヨセフのロシア語読みです。
ヨーゼフ2世というモーツァルトの時代の啓蒙専制君主もいました。この人はマリア・テレジアとブラザーフランツ1世の子供です。ヨーゼフもヨセフのドイツ語読みです。フリーメイスンのようです。
ヨーゼフ・ゲッペルスやヨーゼフ・メンゲレというナチス党のメンバーもいます。
フリーメイスンリーではやはりナポレオンの兄である、スペイン王となったブラザージョゼフ・ボナパルト、ナポレオン帝政での悪名高き外交官であったブラザータレーランと共に悪名高き謀略家としての秘密警察長官ブラザージョゼフ・フーシェ、ナポレオンの最初の妻であるジョセフィーヌ(ジョセフの女性名)、イタリア建国の父であるブラザージュゼッペ・ガリバルディ(ジュゼッペはイタリア語のヨセフ)が有名かと思います。フランス革命に関してはフーリエの法則やフーリエ変換で有名な科学者ジョゼフ・フーリエがいますが、恐らく彼もフリーメイスンかと思われます。
アメリカではピューリーツァー賞で有名なブラザージョーゼフ・ピューリツァーやJFKの兄でヨーロッパ戦線で亡くなったジョセフ・ケネディなどが有名かと思われます。
そしてイギリスを代表するヨセフの名前のフリーメイスンと言えばこのブログでも東と西の邂逅で数多く引用させてもらったブラザージョセフ・キップリングです。 
いずれもフリーメイスンかフリーメイスンに近い啓蒙家やユダヤ系の名前として印象付けられるかと思われます。ユダヤ人では聖書の夢占いのヨセフ、キリストの養父としてのヨセフ、聖書の続編とも言われるユダヤ古代誌を記したフラヴィウス・ヨセフスが特に有名になるかと思います。

このヨセフという人物ですが、前回もウィキペディアのコピペをお示しし、その中に書かれていますがアブラハム―イサク―ヤコブと続く三代のユダヤ一族のヤコブの子供達12人の中の11番目の子供です。11という数字の重要性とユダヤ教の関連がこのあたりで求められることになるかと思います。またヨセフが110歳で祝福されて死んだという事もまた11という数字と関連がある事になるかと思われます。

さてだいぶヨセフという人物がユダヤ教での象徴的な人物であり、またフリーメイスンリーでも非常に重要な名前であり、かつヨセフの主要な業績というか聖書の中での活躍が夢占いにあるという事が理解されてきたのではないかと思われます。
それではあらためて聖書の該当部分を抜粋し、意味や隠された真実を現代に反映させることとしましょう。

創世記39章 ヨセフとポティファルの妻

ヨセフはエジプトに連れて来られた。ヨセフをエジプトへ連れてきたイシュマエル人の手から彼を買い取ったのは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長のエジプト人ポティファルであった。主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた。主人が家の管理やすべての財産をヨセフに任せてから、主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福された。主の祝福は、家の中にも農地にも、すべての財産に及んだ。主人は全財産をヨセフの手にゆだねてしまい、自分が食べるもの以外は全く気を遣わなかった。ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていた。これらのことの後で、主人の妻はヨセフに目を注ぎながら言った。「わたしの床に入りなさい。」 しかし、ヨセフは拒んで、主人の妻に言った。「ご存じのように、ご主人は私を側に置き、家の中のことには一切気をお遣いになりません。財産もすべてわたしの手にゆだねてくださいました。この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。」彼女は毎日ヨセフに言い寄ったが、ヨセフは耳を貸さず、彼女の傍らに寝ることも、共にいることもしなかった。こうして、ある日、ヨセフが仕事をしようと家に入ると、家の者が一人も家の中にいなかったので、彼女はヨセフの着物をつかんで言った。「わたしの床に入りなさい。」ヨセフは着物を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。着物を彼女の手に残したまま、ヨセフが外へ逃げたのを見ると、彼女は家の者たちを呼び寄せて言った。「見てごらん。ヘブライ人などをわたしたちの所に連れて来たから、わたしたちはいたずらをされる。彼が私のところに来て、わたしと寝ようとしたから、大声で叫びました。わたしが大声をあげて叫んだのを聞いて、わたしの傍らに着物を残したまま外へ逃げて行きました。」彼女は、主人が家に帰ってくるまで、その着物を傍らに置いていた。そして、主人に同じことを語った。「あなたが私たちの所に連れて来た、あのヘブライ人の奴隷は私のところに来て、いたずらをしようとしたのです。私が大声をあげて叫んだものですから、着物をわたしの傍らに残したまま、外へ逃げて行きました。」「あなたの奴隷が私にこんなことをしたのです」と訴える妻の言葉を聞いて、主人は怒り、ヨセフを捕らえて、王の囚人をつなぐ監獄に入れた。ヨセフはこうして、監獄にいた。しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。監守長は、ヨセフの手にゆだねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。

創世記40章 夢を解くヨセフ

これらのことの後で、エジプト王の給仕役と料理役が主君であるエジプト王に過ちを犯した。ファラオは怒って、この二人の宮廷の役人、給仕役の長と料理役の長を、侍従長の家にある牢獄、つまりヨセフがつながれている監獄に引き渡した。侍従長は彼らをヨセフに預け、身辺の世話をさせた。牢獄の中で幾日かが過ぎたが、監獄につながれていたエジプト王の給仕役と料理役は、二人とも同じ夢にそれぞれ夢を見た。その夢には、それぞれ意味が隠されていた。朝になって、ヨセフが二人のところへ行ってみると、二人ともふさぎ込んでいた。ヨセフは主人の家の牢獄に自分と一緒に入れられているファラオの宮廷の役人に尋ねた。「今日は、どうしてそんなに憂うつな顔をしているのですか。」「我々は夢を見たのだが、それを解き明かしてくれる人がいない」と二人は答えた。ヨセフは、「解き明かしは神がなさることではありませんか。どうかわたしに話してみてください」と言った。給仕役の長はヨセフに自分の見た夢を話した。「わたしが夢を見ていると、一本のぶどうの木が目の前に現れたのです。そのぶどうの木には三本のつるがありました。それがみるみるうちに芽を出したかと思うと、すぐに花が咲き、ふさふさとしたぶどうが熟しました。ファラオの杯を手にしていたわたしは、そのぶどうを取って、ファラオの杯に搾り、その杯をファラオにささげました。」ヨセフは言った。「その解き明かしはこうです。三本のつるは三日です。三日たてば、ファラオがあなたの頭を上げて、元の職務に復帰させてくださいます。あなたは以前、給仕役であったときのように、ファラオに杯をささげる役目をするようになります。ついては、あなたがそのように幸せになられたときには、どうかわたしのことを思い出してください。私のためにファラオに私の身の上を話し、この家から出られるように取り計らってください。わたしはヘブライ人の国から無理やり連れて来られたのです。また、ここでも、牢屋に入れられるようなことは何もしていないのです。」料理役の長は、ヨセフが巧みに解き明かすのを見て言った。「わたしも夢を見ていると、編んだ籠が三個わたしの頭の上にありました。いちばん上の籠には、料理役がファラオのために調えた色々な料理が入っていましたが、鳥がわたしの頭の上の籠からそれを食べているのです。」ヨセフは答えた。「その解き明かしはこうです。三個の籠は三日です。三日たてば、ファラオがあなたの頭を上げて切り離し、あなたを木にかけます。そして、鳥があなたの肉をついばみます。」三日目はファラオの誕生日であったので、ファラオは家来たちを皆、招いて、祝宴を催した。そして、家来たちの居並ぶところで例の給仕役の長の頭と料理役の長の頭を上げて調べた。ファラオは給仕役の長を給仕の職に復帰させたので、彼はファラオに杯をささげる役目をするようになったが、料理役の長は、ヨセフが解き明かしたとおり木にかけられた。ところが、給仕役の長はヨセフのことを思い出さず、忘れてしまった。

創世記41章 ファラオの夢を解く

二年の後、ファラオは夢を見た。ナイル川のほとりに立っていると、突然、つややかな、よく肥えた七頭の雌牛が川から上がって来て、葦辺で草を食べ始めた。すると、その後から、今度は醜い、やせ細った七頭の雌牛が川から上がって来て、岸辺にいる雌牛のそばに立った。そして、醜い、やせ細った雌牛が、つややかな、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くした。ファラオは、そこで目が覚めた。ファラオがまた眠ると、再び夢を見た。今度は、太って、よく実った七つの穂が、一本の茎から出てきた。すると、その後から、実が入っていない、東風で干からびた七つの穂が生えてきて、実の入っていない穂が、太って、実の入った七つの穂をのみ込んでしまった。ファラオは、そこで目が覚めた。それは夢であった。朝になって、ファラオはひどく心が騒ぎ、エジプト中の魔術師と賢者をすべて呼び集めさせ、自分の見た夢を彼らに話した。しかし、ファラオに解き明かすことができる者はいなかった。そのとき、例の給仕役の長がファラオに申し出た。「わたしは、今日になって自分の過ちを思い出しました。かつてファラオが僕どもについて憤られて、侍従長の家にある牢獄にわたしと料理役の長を入れられたとき、同じ夜に、わたしたちはそれぞれ夢を見たのですが、そのどちらにも意味が隠されていました。そこには、侍従長に仕えていたヘブライ人の若者がおりまして、彼に話をしたところ、わたしたちの夢を解き明かし、それぞれ、その夢に応じて解き明かしたのです。そしてまさしく、解き明かしたとおりになって、わたしは元の職務に復帰することを許され、彼は木にかけられました。そこで、ファラオはヨセフを呼びにやった。ヨセフは直ちに牢屋から連れ出され、散髪をし着物を着替えてから、ファラオの前に出た。ファラオはヨセフに言った。「わたしは夢を見たのだが、それを解き明かす者がいない。聞くところによれば、お前は夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだが。」ヨセフはファラオに答えた。「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです。」ファラオはヨセフに話した。「夢の中で、わたしがナイル川の岸に立っていると、突然、よく肥えて、つややかな七頭の雌牛が川から上がって来て、葦辺で草を食べ始めた。すると、その後から、今度は貧弱で、とても醜い、やせた七頭の雌牛が上がって来た。あれほどひどいのは、エジプトでは見たことがない。そして、そのやせた、醜い雌牛が、初めのよく肥えた七頭の雌牛を食い尽くしてしまった。ところが、確かに腹の中に入れたのに、腹の中に入れたことがまるで分からないほど、最初と同じように醜いままなのだ。わたしは、そこで目が覚めた。それからまた、夢の中でわたしは見たのだが、今度は、とてもよく実の入った七つの穂が一本の茎から出てきた。すると、その後から、やせ細り、実が入っておらず、東風で干からびた七つの穂が生えてきた。そして、実の入っていないその穂が、よく実った七つの穂をのみ込んでしまった。わたしは魔術師たちに話したが、その意味を告げうる者は一人もいなかった。」ヨセフはファラオに言った。「ファラオの夢は、どちらも同じ意味でございます。神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお告げになったのです。七頭のよく育った雌牛は七年のことです。七つのよく実った穂も七年のことです。どちらの夢も同じ意味でございます。その後から上がってきた七頭のやせた、醜い雌牛も七年のことです。また、やせて、東風で干からびた七つの穂も同じで、これらは七年の飢饉ことです。これは、先程ファラオに申し上げましたように、神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお示しになったのです。今から七年間、エジプトの国全体に大豊作が訪れます。しかし、その後に七年間、飢饉が続き、エジプトの国に豊作があったことなど、すっかり忘れられてしまうでしょう。飢饉が国を滅ぼしてしまうのです。この国に豊作があったことは、その後に続く飢饉のために全く忘れられてしまうでしょう。飢饉はそれほどひどいのです。ファラオが夢を二度も重ねて見られたのは、神がこのことを既に決定しておられ、神が間もなく実行されようとしておられるからです。このような次第ですから、ファラオは今すぐ、聡明で智恵のある人物をお見つけになって、エジプトの国を治めさせ、また、国中に監督官をお立てになり、豊作の七年の間、エジプトの国の産物の五分の一を徴収なさいますように。このようにして、これから訪れる豊年の間に食料をできるかぎり集めさせ、町々の食料となる穀物をファラオの管理の下に蓄え、保管させるのです。そうすれば、その食糧がエジプトの国を襲う七年の飢饉に対する国の備蓄となり、飢饉によって国が滅びることはないでしょう。」

ヨセフの支配

ファラオと家来たちは皆、ヨセフの言葉に感心した。ファラオは家来たちに、「このように神の霊が宿っている人はほかにあるだろうか」と言い、ヨセフの方を向いてファラオは言った。「神がそういう事をみな示されたからには、お前ほど聡明で智恵のあるものは、ほかにはいないであろう。お前をわが宮廷の責任者とする。わが国民は皆、お前の命に従うであろう。ただ王位にあるということでだけ、わたしはお前の上に立つ。」ファラオはヨセフに向かって、「見よ、わたしは今、お前をエジプト全国の上に立てる」と言い、印章のついた指輪を自分の指から外してヨセフの指にはめ、亜麻布の衣服を着せ、金の首飾りをヨセフの首にかけた。ヨセフを王の第二の車に乗せると、人々はヨセフの前で、「アブレク(敬礼)」と叫んだ。ファラオはこうして、ヨセフをエジプト全国の上に立て、ヨセフに言った。「わたしはファラオである。お前の許しなしには、このエジプト全国で、だれも、手足を上げてはならない。」ファラオは更に、ヨセフにツァフェナト・パネアという名を与え、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナトを妻として与えた。ヨセフの威光はこうして、エジプトの国にあまねく及んだ。ヨセフは、エジプトの王ファラオの前に立ったとき三十歳であった。ヨセフはファラオの前をたって、エジプト全国を巡回した。豊作の七年の間、大地は豊かな実りに満ち溢れた。ヨセフはその七年の間に、エジプトの国中の食糧をできるかぎり集め、その食糧を町々に蓄えさせた。町の周囲の畑にできた食糧を、その町の中に蓄えさせたのである。ヨセフは、海辺の砂ほども多くの穀物を蓄え、ついに量りきれなくなったので、量るのをやめた。飢饉の年がやって来る前に、ヨセフに二人の息子が生まれた。この子供を産んだのは、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナトである。ヨセフは長男をマナセ(忘れさせる)と名付けて言った。「神が、わたしの苦労と父の家のことをすべて忘れさせてくださった。」また、次男をエフライム(増やす)と名付けて言った。「神は、悩みの地で、わたしに子孫を増やしてくださった。」エジプトの国に七年間の大豊作が終わると、ヨセフが言ったとおり、七年の飢饉が始まった。その飢饉はすべての国々を襲ったが、エジプトには、全国どこにでも食物があった。やがて、エジプト全国にも飢饉が広がり、民がファラオに食物を叫び求めた。ファラオはすべてのエジプト人に、「ヨセフのもとに行って、ヨセフの言うとおりにせよ」と命じた。飢饉は世界各地に及んだ。ヨセフはすべての穀倉を開いてエジプト人に穀物を売ったが、エジプトの国の飢饉は激しくなっていった。また、世界各地の人々も、穀物を買いにエジプトのヨセフのもとにやって来るようになった。世界各地の飢饉も激しくなったからである。


2012-05-22 21:33 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さてではヨセフの話を全体として見た際に、何が重要なのでしょうか。
一体どの部分がユダヤ教や、ユダヤ人全体を代表するほどの話の重要な部分なのでしょうか。
創世記の神の天地創造からアダムとエバの楽園追放、カインとアベルの兄弟の争い、大洪水とノアの箱舟、
バベルの塔、 アブラハム、イサク、ヤコブまで連なる一連の話は直接旧約聖書を読むことをお勧めします。特にヤコブ(イスラエル)の話はユダヤ人がなぜ腿の関節の上の腰の筋肉を食べないかなど戒律にもかかわっていたりする重要な部分になるかと思います。いずれにしても創世記から始まるモーゼ五書はトーラーと呼ばれ、いわゆるユダヤ教の最重要の聖典であり、あらゆる科学や文明、文化の常識として設定されているものであり、フリーメイスンリーに関わらず常識として読んだ方が役に立つものです。
さてこのヤコブ、およびその11男のヨセフに至るまでの話で重要なのは、基本的には男子で継承される神に祝福される預言者の系譜、要するに嫡男の争いとその嫁取り話とそれにまつわるさらなる財産の相続の話という、現代の民法や家族にまつわる法律にもつながる非常に人類全体にとって普遍的な身近な話で占められています。またこの時代は基本的に一夫多妻制であり、その中での妻と妾、召使いとの間での愛憎や親子の愛憎が入り混じったすさまじい群像描写となります。さらにヤコブの時代に下るとイサク、ヤコブの一家はメソポタミアからカナンを越えてエジプト近くに移動してきており、その中で恐らくメソポタミア文明とエジプト文明の中間での文明の伝達者、様々な知恵の伝達者として、夢による啓示やその他の奇跡、集団移動での軍略に近い話や、羊の飼育や穀物の栽培などに関して様々な成熟した技術がそれら文明の交流の中でやり取りされ、それらの伝達の媒介者として、要するに現代のスパイの様な役割で一神教としての神に認められ、選ばれた民としてイスラエルと言う名前を得るわけです。さらにその中でも多くの妻の中でやはりその子供たちに関しても兄弟間の愛憎がさらに複雑となり、ヨセフはその中で兄弟に井戸に捨て置かれ、エジプトに売られてしまうというひどい仕打ちを受ける事になります。それらはまた彼自身に関して夢の啓示が認められ、それは麦藁の束や星の預言として現れ、ユダヤ教の重要なシンボルと後になります。エジプトに売られた後の彼は結局奴隷とされるのですが、優秀ですぐに家の切り盛りをする奴隷頭となりますが、主人の妻の誘いを断る事で牢獄に入れられますが、やはりここでも牢獄の主となる優秀さがあります。結局王の暗殺者を夢占い、要するに睡眠時の自白の誘導や人間観察によって真実を解き明かすという技術なのだと思いますが、それによって王の信任を得るきっかけを得、さらには恐らくエジプトの神官団の天候予知と経済政策、現代でいうならばニューディール政策ともいうべき国家の経済政策を見事に夢占いとして王に進言し、最終的にエジプト全土の権力を掌握するに至るのです。かなりこの部分で核心を言ってしまっているのですが、要するにこの部分を読んで想像するに、ユダヤ教の神秘の真髄の部分はそのまま最盛期のエジプト神官団の様々な科学技術、医学から天候予測、人間の深層心理、倫理や王権の執行に関する最高の知恵を結集したものを受け継いだものであり、それがそもそもメソポタミアとエジプトという最古の二大文明の間の媒体(メディア)として、さらにそれらの事象を聖書という文字(メディア)に残し、そのものを民族教として知恵として伝授したものかと思われます。結局モーゼ五書を読めば自明なのですが、このヨセフの夢占いの事例を転機としてユダヤ民族が無数に増え、その知恵の事象も莫大な規模の現象となり、結局モーゼの出エジプトの10の奇跡として顕現する形となるのです。


(追記:この出エジプトのルートは検索で最初に出てきたものを拾っただけで、一般的な説ではないようです)


つまりヨセフの夢占いの物語から得られる教訓は、すなわち夢とは人間の深層心理や人間自身をまさに動かす部分を操る技術と関わり、すなわち人間をコントロールするとはすなわち大衆や国家を根本から動かす技術、知恵となり、それはすなわち家族や親子関係、夫婦関係、経済や商業、国家と全てを神の御心のもとに従って成り立たせて初めて、真に自身をはじめとして人間をやる気にして物事を動かす事が出来るという、まさに東洋で言えば道徳、修身斉家治国平天下と言える事象かと思われます。その中でユダヤ人が得意とするのがヤコブ、ヨセフに共通する夢占いの技術であり、これは人間をやる気にしたり、真実を明らかにしたり、大きく物事を動かす時に重要となる技術、現代でいえばマインドコントロールや大衆誘導、催眠などともとれるかもしれませんが、それらは結局神の御心のもとに行われるというところが非常に重要となるところであり、それが結局のところ聖書に一貫するテーマととらえられます。聖書に現れる数多くの神の奇跡は、読んでいる過程でも何やら何かがあるのではないかと思わせるような趣向があり、また繰り返し同じ奇跡が現れたりと時代や状況による傾向の様なものもあります。それらは結局夢占いがフロイトの心理学の様な形に現代に現れたりと、多くの科学の萌芽のきっかけととらえられるものがあります。特に医学や建築などに関してトーラーには数多くの記載があり、それはこのヨセフの夢占い以降明らかに多く現れるようになり、それがこの当時のエジプト文明の真髄に触れた事による作用であったろうと想像されるかと思います。


現代においてエジプト学が進歩したために、これら聖書に認められるような一神教の成立にいわゆるツタンカーメン王の父であるアメンホテプ4世によるアメン神からアテン神への宗教改革の影響がある可能性が言われています。いわゆるアテン信仰はその後エジプトの歴史から闇に葬られたわけですが、ロスチャイルド家の妻を持つカーナヴォン卿の支援を受けたハワード・カーターによってツタンカーメン王の墓の発見に繋がり、これらのエジプトの歴史の発見につながる事になるかと思います。(ちなみにフリーメイスンリーでもアーメンという同意の文句を言う事があります。このアーメンという相槌の文句ですが、ヘブライ語が語源であり、かくあれとかその通りという意味と説明されていますが、恐らくエジプトの太陽神であるアメン神を讃えた言葉で良いのかと思います。)
(昨日5/21には皆既日食がありましたが、アメンホテプ4世がアテン信仰に傾倒した事と皆既日食との関連もあるそうです。アメンホテプ4世はアクエンアテンと改名しました。) (一神教とアテン信仰については晩年のフロイトも著作を残した説のようです。フロイトのミドルネームはソロモンでした。フロイトの弟子のヴィクトール・フランクルの著書「夜と霧」と絡めてなかなか20世紀の歴史として興味深いです。)


ヨセフは前回の話の続きでエジプトの飢饉を救い、さらにその中でヤコブと11人の兄弟を迎え入れエジプトの中でユダヤ人が増える事になります。その後エジプトの中で十分に増えたユダヤ人はエジプトの民と徐々に対立を深め、結局神の御心のままに王が変心しカナンの地に移住するモーゼの出エジプトとなります。ユダヤ教が神の御心のもとで、王や人々の心を操り、人間の心というものを欲望や権力、夢といったところで深く認識し自在に操っている事が最も顕著に表れているのがこのヨセフの夢占いの逸話であり、それは結局人間の心というものが何なのかというところの最高の教訓であり、それを示した最高の成功例がこのヨセフ物語なのだと聖書は教えてくれているのだと思います。

宗教特にユダヤ教、キリスト教に関して多くの誤解を生みかねない表現が多々認められるかと思いますが、それらは全て実際に旧約聖書を全て読む、そしてそれにまつわる様々な学説や例えばフリーメイスン達の注釈を読むと言った事で理解されるかと思います。


2012-05-23 17:36 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さてそれでは聖書に現れるユダヤ教で重要なヨセフについては一応説明したかと思います。
では聖ヨゼフ病院に示されるキリスト教で重要なヨセフとはどのようなつながりになるのでしょうか。
キリスト教の教えで重要なのはやはりキリストの愛の教えでありますが、教会の教えの重要なものはやはり処女懐胎とキリストの復活の二つの奇跡で象徴される神の奇跡であるかと思います。この最初の奇跡で重要な役割をするのがキリストの養父としてのヨセフです。概要については新約聖書は旧約聖書に比べて分量は少ないのでこれもやはり直接読まれる事をお勧めしますが、フリーメイスンリーの教えも含めて、旧約聖書を読まずに新約聖書を読むことはほとんど理解できないように読む事に等しいので、結局全体を通して読むことをお勧めします。

一応毎度毎度ですがウィキペディアでのナザレのヨセフについての概要を転載します。

『マタイによる福音書』(以下、「マタイ」とする。)によれば、ヨセフはダビデ家の子孫であり、父はヤコブという人物である。だが、『ルカによる福音書』(以下、「ルカ」とする。)にみられる家系図ではヨセフの父はエリという名前であることになっている。
ヨセフは「義しい人」であったと『マタイ』はいう。彼は婚約者のマリアが孕んでいることを知ると、律法に忠実な義人であればマリアを不義姦通として世間に公表した上で離縁するところだが、そうせずひそかに縁を切ろうとした。が、『マタイ』では夢にあらわれた天使の受胎告知によってマリアと結婚した。『マタイ』及び『ルカ』ではマリアは聖霊によって孕んだとあるため、ヨセフは伝統的に「イエスの父」ではなく「イエスの養父」と表現される。
『マタイ』によれば、イエスがユダヤのベツレヘムで生まれたあと、ヘロデ大王によって幼児殺害の命令が出たため、天使の警告に従って、ヨセフは妻と子を連れてエジプトに避難する。ヘロデ大王の死後、夢に現れた天使のお告げに従い、エジプトから戻ってくるが、ヘロデ大王の子が治めるユダヤを避けてガリラヤのナザレに行き、そこで暮らした。
ただし、旧約聖書にはナザレという地名は登場しない。ヤコブが息子ヨセフに「ナザレ人(ナジル人:聖別された人)となるよう」死の床で伝えたことが成就するために、新約聖書の時代に至ってナザレに向かったのである。
『ルカ』では、もともとヨセフはナザレの人であったが、ローマ皇帝アウグストゥスの時代に行われた住民登録のために身重の妻とベツレヘムへ赴いたことになっている。また、イエスが12歳のときに行われた過越祭のためエルサレムへ旅をした際、行方不明になったイエスをマリアと共に捜し、3日後にエルサレム神殿で学者たちと討論を展開している少年イエスを発見し、ナザレに連れ戻している。
各福音書には、養父ヨセフの人生の終わりに関する記録はないが、伝承によれば、ヨセフはイエスが公生活を開始する直前に亡くなったという。
労働者の守護聖人であり、大工であったヨセフの像はしばしば大工道具を手に持っていることがある。
福音書の記述には、マリアとヨセフの子として、イエスのほかにヤコブ、ヨセフ、ユダ、シモンの4人と2人の女子の名前が上げられているが、カトリックではアラム語の慣用から甥・姪だったとする説が主流である。これらの人物がヨセフの子だとする場合も、母が誰かについては議論があり、伝統的に東方教会ではヨセフと前妻との間の子だと考えている。プロテスタント教会は、多くイエスと同じくマリアの子どもたちだとする。この問題は、カトリックのユダヤ教における言葉の時代的背景を考慮(当時のヘブライ語、アラマイ語には、兄弟、従兄弟も同じ言葉が使用されており、新約聖書の他の箇所に於いて、それがわかる)、逐語的に訳すプロテスタントにそれがないということだと思われる。
西ヨーロッパの絵画ではしばしば老人として描かれるが、これはヨセフとマリアの間に性交渉がなかったことを強調するために、ヨセフを生殖能力のない男性としたものと考えられる。

要するにまとめると、そもそも新約聖書でもヨセフの存在は父親がヤコブであり、ダビデ王の家系であり、すなわちユダヤ人を代表する人物であるユダヤ教の重要なヨセフ、そのものを象徴しているのであり、つまり寡婦の子供イエスを養育したのがヨセフに代表されるユダヤ人社会そのものであるという象徴であるという事です。またマタイ伝では夢での受胎告知もあり、ユダヤ人の伝統的な夢によるお告げの現象がイエスの誕生と直接関わっているとも示されています。すなわちユダヤ人の知恵によってキリストは誕生したという隠喩であるかと思われます。ユダヤ人のラビの著作によるとキリストの言葉のほとんどはユダヤ教の有名なキリスト以前のラビ達の言葉そのものであるということで、キリスト自身がユダヤ教の教育を十分受けた存在であり、かつその教えそのものは本質的にユダヤ教の考え方をそれたものではないという事がわかるかと思います。ユダヤ教そのものに特に出エジプトのあたりに最大の禁忌として異民族との交わりが強調されており、キリストの時代のバビロン捕囚後のユダヤ民族においては恐らくその教えそのものはほとんど現実的なものではなくなっていたと考えられ、その上で民族のアイデンティティーを維持し、かつその教えを知恵として後世に存続するためには絶対的に世界宗教への変化が必要であり、その中では恐らく父親の出自がはっきりしないような人物の存在は当時のダビデの系統に象徴されるような父系社会のユダヤ民族にとっては重要であり、ナザレのイエスの存在は好適だったのではないでしょうか。またナザレの地名に関してもユダヤ教で重要なヨセフとの関連がウィキペディアでも書かれています。養父ヨセフの職業についても大工という事も、石工との関連でフリーメイスンリーでは建築者として共通であるとして重要なようです。ソロモン宮殿の建築が神との契約の最大の象徴として求められるものであり、それはユダヤ教、キリスト教からフリーメイスンリーに至るまで引き継がれる教えのようですが、その上で建築者としての実務的、思索的ともに石工の存在は象徴的であり、養父ヨセフの職業があえて大工と表現されているのも、キリスト教というその後世界を席巻し、人類に科学による現代社会をもたらす原動力となる世界最大の宗教を産む実務的、思索的ともに建築者としての存在として象徴されていると考えて差し支えないかと思われます。

つまりキリストの養父ヨセフという存在そのものがユダヤ教の重要なヨセフとのそもそもダブルミーニングであり、ヨセフという名前そのものがキリスト教とユダヤ教をつなぐものであり、それは宗教、知恵の伝承と発展であり、それは現代における科学や医学、それら人類に恩恵をもたらす事象、奇跡の象徴であるという事が言えるのかと思われます。



2012-05-24 10:22 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さてでは実際の聖ヨゼフ病院について見ていきましょう。
そもそも関東大震災後に市役所や小学校の跡地に海軍病院として発足し、戦後に聖ヨゼフ病院としてGHQの指導のもとに改編された聖ヨゼフ病院に、ユダヤ教とキリスト教をつなぐ存在としてのダブルミーニングのヨセフを象徴するような証拠とも言える謎はあるのでしょうか。

実は聖ヨゼフ病院には左右に諏訪大神社と曹洞宗龍谷山良長院が隣接していて、すなわち日本の伝統宗教としての神道と仏教の神社と寺院に囲まれる形となっています。

諏訪大神社に関しては三浦氏の時代に始まり、その後横須賀の神社として村人の信仰を集め、さらに明治以降は軍港としての土地柄から徐々に神社として格を上げ整備されていたようです。中にはやはり走水神社のごとく大鳥神社、稲荷社、天王宮、伊勢皇大神宮、東照宮、天満宮の合社があるようで、そもそも諏訪神社自体は出雲大社から分かれたいわゆる出雲の国譲りで最後まで抵抗した神様が由来だそうで、北条氏が好んだそうです。外には猿田彦(天狗の由来)を祭る碑もあり、要するに神道の様々な神様が合祀されているという事かと思います。やはりキツネ、鳥、猿など山の動物を主体とした信仰や、伊勢神宮以外のそれ以前の信仰を由来とする神や地方の神を全て合祀している特徴があるのではないでしょうか。

また良長院に関してはもともと現在の米軍基地内の土地にあったものが、戦後に現在の場所に移築されたとあるブログでは書いてありますが、どうも元々鎌倉時代から江戸時代程度までは泊浦に城跡がありそこが良長院のおおもとであったようですが、江戸時代頃に現在の場所に移ってきていたようです。つまり戦後の米軍が横須賀にやってきた時点では諏訪大神社と良長院はそれぞれ旧海軍病院の海仁病院を挟むように存在し、その海仁病院を聖ヨゼフ病院に改修しその際にキリスト教の聖堂を付設したか改築したようです。つまり昭和の時点で神仏習合の象徴として神社と寺が並ぶように存在し、その中央に政府の機関の象徴として海軍病院が存在したというわけです。(戦前の海軍自体にフリーメイスンリーの影響として三位一体を意識した病院の配置があった可能性はあります。)占領軍は特に胸像として残るブラザーデッカー司令長官の下で横須賀の基地政策として最初に聖ヨゼフ病院を開院したそうです。ここまで来るとほぼ説明として出尽くしたものと思っていただけると思いますが、要するにこの神社、教会、寺の並びがほぼ一直線に並んでいるという事が一つあるという事です。そしてそれが基地の門、象徴としての門と重なるわけですが、そことホテルの上の自由の女神像の中間に向かって線を引く事ができ、二つの線を合わせてこのブログでは何度も出てきた初期の十字の一つであるタウ十字の形となります。(タウ十字の下の線の頂点の地点によこすか平安閣があります。平の字自体も平和を構成する字であり、タウ十字とも似ていてシンボルと似ているものとされるようです。この事は平成の元号や平成町の名前にもつながるようです。よこすか平安閣は結婚式場であり、蝶々夫人のオペラのような発想ではないでしょうか。)そしてそのタウ十字はフリーメイスンリーでのいわゆる宗教の知恵を象徴するシンボルであり、初期ユダヤ教の象徴でもあり、キリスト教のシンボルであるいわゆる十字の元になるものと考えられる一つの原始十字です。このシンボルの造形を裏打ちするように最近になって整備されたベースのゲート前の歩道橋が、ショッパーズプラザの前のΧΡの歩道橋と同じくT字になっているのが下の通りグーグルアースでは認められます。

これはすなわち戦後の日本においてフリーメイスンリーを主体とするアメリカのGHQが占領政策として戦前の神仏習合した日本の宗教に新たにユダヤ教とキリスト教の知恵を付加し、さらにそれらを中心に据える事でシンボリズムの持つ力、それを日本に力強く植え付け、さらにアメリカ軍基地の門にそれらが合わさって導かれる事で、それらの教えを理解したものがアメリカを通して世界に扉が開かれるという象徴という事になる、いわゆる三笠公園のアーチの門の象徴の意味と同じ事になるのだと思います。以上で一応聖ヨゼフ病院に込められた謎についての内容については終わります。基本的にヨセフという人物名にそもそも多くの謎が込められているという事になるかと思いますが、それ自体は日本人にはキリスト教、ユダヤ教の存在が極めて遠いことから、前提となる知識となる聖書の通読がまず必要になり、さらにその上で再び日本の神仏習合や出雲の国譲りの逸話や八百万の神に認められる様々な宗教的寛容と重なるという、開国から軍国主義、敗戦から戦後という日本の歴史そのものと重なる様々な変遷をそのまま象徴するシンボルと考える事が出来るかと思います。
聖ヨゼフ病院に関しては逗子の池子米軍住宅地前への移転の話などが反対運動で立ち消えになったなどの実際の近近の逸話もありますが、それも含めて出エジプトのファラオの心変わりのごとくシンボルの意味とその重要さ、それらが現在の横須賀や日本とアメリカを象徴する存在である事を改めて強く印象付ける、恐らく横須賀でフリーメイスンリーが最初に刻んだ最も重要で最も象徴的なシンボルなのではないかと思われます。(11/18追記:シンボルについてはブラザーヴェルニーの観音崎灯台がありますしそもそもブラザーヴェルニーによる横須賀ドックが最初の建築である事は間違いありません。戦後、アメリカ系のフリーメイスンリーによるというところでしょうか。そうするともちろんブラザーペリーの上陸記念碑が先になるわけですが、それらの他というところになるかと思います。なかなか横須賀はフリーメイスンリー的には恵まれています。)
2012-06-01 12:48 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
あんまりカレーフェスティバルにこだわると怒られそうですが一応触れます。
表題からアウシュビッツの門「働けば自由になる」を想像した人は考えすぎです。


入口が虹色のアーチになっていました。つまりその他のシンボルとしてのアーチも虹と認識されているという事です。戦艦三笠もノアの箱舟の象徴だと認識されているのでしょうか。


2012-06-01 12:50 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
以前も同名で出しましたが、今回はフリーメイスンリーとは関係ありません。

この写真で何か気付く事があるでしょうか?
いつも同じ宣伝文句なのだと思いますが、Shoppers Plaza Yokosuka shopping& entertainment enjoy!という英語を知っていれば明らかにおかしい語句が並びます。もちろんわかりやすく頭文字だけ色違いになっています。

要するにSPY seeです。spicyではありません。もちろん音でかかっている意味もあるのでしょうが。文法的に正しくするとSpy sees you.でしょうか。やはり米兵が多いので、彼らにあまり油断するなよという意味なのだと思います。


2012-06-03 08:31 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
やっぱり横須賀の中心と言えばここ横須賀芸術劇場という事になるかと思います。
私はまだ入った事ありませんが、年に数回はオペラの公演もあるようです。
横須賀出身の小泉元首相もオペラ好きという事で、もともとアメリカ軍の将校クラブであったEMクラブを開放して改築したもののようです。過去にどのようなオペラをやったのかは知りませんが、オペラ専用の劇場と言うと恐らく日本ではここ一か所ではないかと思いましたが、新宿の新国立劇場があるようです。私はオペラは神奈川県民ホールでモーツァルトの「魔笛」を見た事しかありませんが、やはり欧米の総合芸術の頂点に立つとされるだけあって、その迫力と演者の演技力や舞台装置などやはり演劇の頂点に立つものだと強く感じました。小泉さんが好きなのも頷けましたが、日本中で新宿と横須賀にしかないオペラ劇場はさすがに持て余しているのではないでしょうか。
どうも2011年3月13日に小沢征爾氏の指揮でモーツァルトの「フィガロの結婚」の公演予定であったようですが、事前に健康問題で中止となったそうです。東北大震災のためその後の代替の公演自体も中止になったのだと思います。音楽塾では11回目の公演だったそうです。

さてそういう非常にいわくつきの横須賀の文化の中心の地ですが、色々とフリーメイスンリーのシンボルが入れ込んであります。

3を象徴的に入れ込んだ構成が建築にもありますね。全体としてソロモン神殿を模しているものと思われます。

外の床もモザイクに近い形となっています。街灯も分銅型で5本であったりします。これがまた汐入駅に近くなると全くそういう事が無くなるのが良くできています。トイレの屋根はピラミッドであったりします。入口の階段の左右に柱が並び、3セットあります。

入口が青の階段というのも象徴的です。

名前がそのものでBAY SQUAREで港の直角定規です。目立たないように下にピラミッドもあります。

入口から上がったところから三階層で劇場の入り口となります。
いつか条件が整えばブラザープッチーニの「蝶々夫人」やブラザーモーツァルトの「魔笛」が上演されるだろうと思いますが、いつになるかはわかりません。

実はこの汐入のΧΡの交差点付近はシンボルの宝庫となっています。Gのシンボルも象徴的に示されているのですがわかるでしょうか。


2012-06-07 09:15 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー

横須賀から観音崎方面に国道16号線を進んでいくと市役所手前の小川町あたりで三笠公園方面に埋め立て地へのバイパスがあります。平成町という地域となります。新しいマンションや整備されたヤシの木の並ぶ道があり、大規模商業施設が並んでいます。歩道には何やら三笠公園前のようにオブジェが並んでいます。


ここではいちいち説明しませんが、ガリバー旅行記に関するものやパーフェクトアシュラーに近い形のものなどがあります。ピラミッドに近い形や、ヤキンとボアズの柱に近いものなどがあります。シンボルそのものという形のものはありません。

春には桜並木がとてもきれいです。
平成町の元である元号の平成ですが、どうも平和という意味とタウ十字のTの形に近い事があるようです。
またこのプロムナードが続く小泉元首相の家がある三春町ですが、この名前もネットの掲示板情報によると、以下コピペです。三春町の名前の由来は、今までの山崎町を改め一旦「春日町」と名づけられました。が、1948年4月に始まった町名町界地番整理調査委員会によって、1950年6月安浦町、公郷町の一部を含めて、3つの町の三と春日神社の春を取り、現在の三春町となったのです。ということのようで、要するにシンボルの3を入れ込んだ名前なのですね。小泉又二郎さんが亡くなったのが1951年だったそうなので、最後の自由民権運動だったのかもしれません。
三笠公園~三春町~三浦海岸~三崎町という3の地名の付いた一連の流れを見るに、明治維新の中心を成した長州・毛利家の家紋が一文字三つ星であるのと薩摩・島津家の家紋が丸に十字であるのも歴史の必然であるのだろうと思わざるを得ません。


また坂本龍馬らが活躍した土佐藩の藩主山内家の家紋はブラザーグラバーが関わった三菱のマークに引き継がれています。

一方坂本龍馬ら下級武士が出身とする戦国武将の長宗我部家の家紋は面白い事にカトリックのシンボルであるカタバミ、クローバーの家紋です。

クローバー、シャムロックはアイルランドを象徴するシンボルであり、この事はイングランド、スコットランド出身であった明治維新期のイギリスからやってきたブラザーグラバーやアーネスト・メイソン・サトー、イギリス公使パークス(もちろんフリーメイスンでしょう。)らももちろん良く知っていたものと思われます。坂本龍馬の出自をどれだけ詳しく知っていたかは知りませんが、彼らが家紋について恐らく相当興味をもったであろう事は容易に想像でき、その事が極東の地での彼らの手先となり動いた人間の命運を決した事はあるのではないかと想像されます。

そういえば三笠宮崇仁親王のご長男である寛仁親王がきのう亡くなられました。66歳で6月6日の午後3時に亡くなられたそうです。三笠宮崇仁親王については陸軍軍人であったことや、原爆投下の際の広島にいたこと、終戦時やそれ以前にクーデターなどの話で常に話があったことなど、そして現在も御健在であることなど様々な逸話があります。戦艦三笠と日露戦争、そして平成に繋がる3にまつわる皇室のお話でしょうか。


2012-06-14 20:29 | カテゴリ:横須賀
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ガストのドリンクコーナーにGとTのシンボルを飾ってあったんだけどあれはどうなんでしょうか。
アメリカの投資会社が2011年の食中毒以降資本として入っているそうで、そのためなんだろうが、しかしなあ。
GUSTOのGとTという意味にしたものだろうが、まあフリーメイスン云々以前にガストのドリンクコーナーにシンボルのGとTってねえと。それならいっそ商標そのものがフリーメイスンリーのシンボルそのもののコンビニとかどうってレベルだわ。パチンコ屋の名前がフリーメイスンリーとか出てきておかしくないレベルかもしれない。

横須賀のガストでした。
2012-06-22 19:40 | カテゴリ:横須賀
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最近は横須賀のイベントをこのブログで宣伝する事も少なくなったのですが、久々に宣伝です。
1-2-3階層に繋がる白黒の螺旋階段のある横須賀美術館ですが、シュールリアリズム展以降めっきり集客は少ないようです。現在開催中の企画展 アメリカ美術を変えた日本人 国吉康雄展という事ですが、休日でもほとんど入場者がいないような状況でした。なかなか芸術を理解するのは日本文化の中では難しいようです。
国吉康雄という方は全く私は知りませんでしたが、展示を見てきたので少し感想を書きます。
セザンヌかゴーギャンかマティスかピカソと言った感じで、展示の当初は作風が巨匠の模倣を意識させるものとなっていて、かなり沈鬱な印象です。
ところがある転換期がありその後見ていて快活な絵となっていき、同時に世間的な評価も高まっていったようでした。

もちろんこのブログを読んでいる方はそれがどういう転換期かうすうすとわかるかと思います。
展覧会を見ていくとわかると思いますが、ここには大まかなヒントを示します。
いわゆる作品の中に錨などのシンボルが描かれてそれを期に大きく画風が転換し成功していくようです。
かなりわかりやすい展示になっているようなので是非ご覧になってください。7月8日までやっているようです。
2012-06-23 23:01 | カテゴリ:横須賀
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ローズフェスタで数多くの薔薇が咲き乱れたヴェルニー公園ですが、この公園にもまた謎がいくつかあります。
直角三角形がシンボルの一つであると以前書きましたが、恐らく最も大きなシンボルはそれかと思いますが、それ以外にもいくつかシンボルが認められます。
まず噴水が中央にありますが、その周囲にピースという薔薇があります。噴水自体もピョートル大帝の作ったサンクトペテルブルクの夏の離宮公園で認められるとおり、当時の先端のテクノロジーであり電燈と同じくそういう文明の象徴となるわけですが、さすがにヴェルニー公園の噴水をそれとするのはちょっとあれであり、三笠公園はそのアピールなのでしょうが、三笠公園でやり過ぎた分ヴェルニー公園ではシンプルです。
ピースは以前触れたとおりブラザー鳩山一郎が好んだという薔薇であり、日本グランドロッジの象徴となるかと思われます。そのピースと対称をなしてフランス産の薔薇が配置されており、これは恐らくフランス大東社を象徴する形となるものかと思われます。すなわち対称的な配置にする事で、ヤキンとボアズの柱で象徴される世の中の二元性を象徴しているものかと思われます。
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もちろん日仏という国を象徴し、友好を示しているという事はもっともなものだと思われます。
特に最近ですが、三笠公園整備後なのでしょうが、最初に横須賀にドックを作った徳川幕府を代表する小栗上野介とフランス人ヴェルニーを顕彰する公園や施設が多いように見受けられるのは、やはり横須賀の発展の歴史を冷静に見るにつけて、浦賀道以外何もなかった寒村が日米同盟の非常に重要な拠点となるまでに発展開発されたのは最初にこのヴェルニーと徳川幕府による造船所と製鉄所の建設があった事は誰もが否定できない事実であるという事なのだと、戦前の海軍工廠の軍需景気、戦後の米軍による基地の景気によって浮き沈みを味わった横須賀自身の冷静な回顧なのではないかと思われます。
さてそんな極めて冷静なヴェルニー公園ですがカトリック国フランスを代表するようなシンボルがあります。
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ヴェルニーらの胸像がある場所よりダイエーよりの最も人通りが多い、薔薇の種類が多くなるところに突堤がありそこに三位一体を象徴するような象徴的な3つの明かりが組み合わさった街灯があります。
三笠公園の場合には様々なオブジェや巨大な船、明かりやスピーカーの器具といった様々な形でシンボルを表現していましたが、ヴェルニー公園は比較的シンプルであまりゴテゴテとたくさんの意味を込めてはいないようです。
フランスで、カトリックで、フリーメイスンリーで三つの明かりというのは非常にフリーメイスンリーに近いフリーメイスンリー的です。やはりJR横須賀駅が近く、駅前にはロータリーがあり、ロータリークラブが主体となってこの公園は作られているような感じです。三笠公園がイギリスよりであり、それに対してヴェルニー公園がフランスよりで様々なバランスがとられて、その間をその二つの国が産みの親であるフリーメイスンリーの国アメリカの基地があるという何とも象徴的な公園の構成です。

あとは明らかに謎な存在としてヴェルニーと小栗上野介の胸像の前の床に素早く点滅する様々な色の明かりの埋め込み照明があり、この点滅のパターンが日によって異なるのですが、これは意味がわかりません。恐らく日によって異なることから日付や暦、天文などの何かしら時間に関する意味が関わっているかと思うのですが、これはさすがに相当積み重ねて観察しないとわからないものかと思います。どなたか知っている方はヒントでも教えていただければと思います。恐らく開明広場という事でilluminationという事ではあるのかと思います。また入り口と出口に共に時計があることからも恐らく正確な時刻を表示する意味ではないかと思います。

薔薇の写真です。
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さて残りは恐らくヴェルニー公園とショッパーズプラザ周辺で最も隠されたそれでいてはっきり見える謎かと思います。この内容は実はこのブログに書くのをためらっていたのですが、次の横須賀経済新聞というネット新聞の記事を見てついでに書こうと思いました。旧「EMクラブ」のシャンデリア、深夜に引越し-軍港観光の新施設に移管という記事で、要するにシャンデリア、電燈の移設の話です。私はまだ乗った事が無いのですが、休日を中心にこの軍港めぐりのツアーは好評のようで、その待合の目立つところにショッパーズプラザの中にとってあったEMクラブの象徴であるシャンデリアを移設するという事だそうです。

電燈は明治維新とともにやってきた文明の象徴であり、当初はガス燈であり、戦後は平和の象徴としての電燈であったかと思います。特に装飾を施した電燈は文明社会の象徴であり、いわゆるイルミナティ、啓明結社の象徴となるわけですが、全国でもイルミネーションやネオンは街おこしや夜景のきれいな街のアピールという事で、クリスマスやイベントの一環として認められるかと思います。横須賀で一番新しい公園であるヴェルニー公園にも数多くの電燈が認められます。そこで三笠公園と同じくやはり電燈の形と数になるわけです。
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実はショッパーズプラザのΧΡの歩道橋の周辺は丸い電球が12個のセットで二つあります。一つはショッパーズプラザに繋がるところで二つずつのセットが6本、もう一つは16号沿いとStation Grillとサワディーの周囲で1個ずつの丸電球が12本あります。12というのはヤコブの息子達のユダヤの十二支族や、時間や月や星座の12などいわゆる完全な数としての意味であり、またΧΡの柱の数が12本というところも共通しています。ΧΡがキリスト教を象徴するのでもしかするとこの12はユダヤ教を象徴しているものかもしれません。
またライトはそのまま丸いものが続いていて米軍基地のダイエー口の方まで続いています。実はこの丸の電球の数が恐らくこれは米軍基地関係者向けなのだと思いますが、33個あります。かなり汚れていたりつかないようなものもあるようですが、数として33個あるようです。
その途中には軍港めぐりの乗船場の前に碇のシンボルマークが床に描いてあり、またベースのダイエー口の階段の上と、ショッパーズプラザの屋根のところに枠組みで作ったピラミッドが6+1あります。(追記6/29:ピラミッドは6+2あります。汐入のXPのところと合わせて12になるのだと思います。)ピラミッドは汐入周辺ではΧΡの四つのエレベーターにピラミッドの屋根があり、またこれはもともと違う円錐形であったようですが最近になって四角錐のピラミッドに形が変わった汐入駅前のトイレの屋根があり、これらを合計すると12個になるようです。
横須賀のその他のピラミッドはタウ十字のベースの正門前の歩道橋のエレベーターの屋根にそれぞれ三つピラミッド型の屋根があり、隣の交番の屋根も二つのピラミッドになっています。また横須賀中央のモアーズの屋根にいくつもピラミッドがあります。恐らく合計するとこちらも12になるのではないかと思います。
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さてヴェルニー公園のほうですが、こちらの方もやはり電燈がかなりきれいです。
電燈のタイプが3種類あり、四角いものと丸いもの、丸いものでも暖色系の光と寒色系の光のものがあります。
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それぞれ数を数えてみるとすぐわかるのですが、四角い暖色系のものが18本あります。丸い寒色系のものが5本、丸い暖色系のものが32本あります。さてここでこのヴェルニー公園の最大の味噌になるのだと思うのですが、キモの謎になります。実は18や5ではあまり意味のある数字になりません。5は唯一五芒星を意味してカトリックやキリスト教、フランスのフリーメイスンリーのシンボルになるのかと思いますが、18も切りが良いとは言え3×3×2とそれほど意味がある数字とは思えません。ただし32は2×2×2×2×2で2の5乗となりなんだか意味があるような数字となります。ただしこれにはまだ話があり、実はヴェルニー公園のダイエー側の16号沿いに一つ明りが点いていない丸い電燈があります。
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要するにこれが暖色系か寒色系かどっちかという事になるわけですが、もちろんこれは暖色系であるという事で良いかと思います。それが33階級という事を意味する一つの教えなのかと思われます。

内容的にかなり応用編です。フリーメイスンじゃないとわからない内容になっています。
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(6/27追記:33階級についてはスコティッシュライトを象徴する数字になるわけですが、スコティッシュライト自体フランスで多段階位が生まれ、それがアメリカ大陸に伝わり結局スコティッシュライトとして確立されたわけで、フリーメイスンリーの起源としての実務的メイスンリーのスコットランドでの成立と、さらにそれがフランスに伝播してフランスの中でより様々な取組が行われ、現在のフリーメイスンリーの形に伝えられているという歴史を象徴するものでもあるようです。つまりスコティッシュライトの33階級という数字とフランスフリーメイスンリーの歴史は非常に密接な関係にあり、それが最近書きかえられたWikipediaのフリーメイソンの項目でも触れられているようです。)



2012-07-01 09:29 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
碇のシンボリズムは案外重要なところで使われている、普通の知識だと見逃してしまう特別なシンボリズムです。港や海の近くに行くといくらでも実際に使っている碇があるのでシンボルとして意識する事は通常ないかと思われますが、ほとんどの碇についてシンボルとしての意味が付けられていると考えるのがシンボリズムとして正しいかと思われます。特にシンボリズムとして重要なのは、結局実際に使われていない碇の記念碑としての存在である際にはほぼ間違いなくキリスト教もしくはフリーメイスンリーのシンボルとしての存在であるというところです。
それだけ現代の航海技術というものがキリスト教やフリーメイスンリーの活動の下に発達し発展したものであるという事なのだと思われます。

横須賀においても街の象徴やシンボルとして図柄やアイテムとして様々なところで認めます。特に店舗のアピールや市のイベントなどで使われる事が多いようです。
実際の碇の実物を利用したシンボリズムは横須賀の中でもある一定の基準があるようで、やはりこのシンボルとしての特別さが表れているようです。
やはり最も目立つものは米軍基地の入り口にあるものかと思われます。
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これと対応するものが海上自衛隊の入り口にあるものです。海上自衛隊も戦後に米軍のフリーメイスン達が指導して設立された存在であり、戦前の海軍、陸軍にしても明治維新にフリーメイスン達が指導して設立したものであり、それぞれ碇や五芒星と言ったフリーメイスンリーのシンボルが含まれています。現在話題になっているF-35の導入問題などで取り上げられる航空自衛隊の設立には横浜ロッジに顔写真が飾ってあるブラザーカーチス・ルメイが設立に尽力しており、これに関して日本国から旭日大綬章を叙勲しています。彼は戦時中の日本の空襲を指揮指導した存在でもあります。フリーメイスンリーから日本の歴史を鑑みると果たしてこの国にとってフリーメイスンリーとは何なのか、今後どうなっていくのか非常に危ういものを感じずにはいられません。
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さてそれら日米のそれぞれ海軍基地の入り口に対応するように碇があるわけですが、それと対応するように三笠公園とヴェルニー公園という英仏日とそれぞれに友好を象徴する公園にそれらは置かれています。
まず三笠公園に関しては船自体が碇と対応するノアの箱舟の象徴となるわけですが、もちろんそれに付随して碇が設置されています。
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戦艦三笠にはもちろんシンボルにもなるコンパス(羅針盤)もあります。
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ヴェルニー公園に関しては元々臨海公園であった時代に中心であったと思われる海軍の顕彰碑がまとめられた桜の木の付近の一帯に新たに設けられた海軍の顕彰碑のそばにあります。
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さて横須賀には他には碇のシンボルは無いでしょうか?
碇のシンボリズムはかなり重要であり、港町横須賀といえども実際の使用している碇以外のシンボルとしての碇は案外少ないものです。ただし一般の店舗にシンボリズムとしての碇がありました。
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まあ地元の人は皆知っているかと思います。戦前の海軍工廠から貰い受けた由来の碇が塗りなおして置いてあります。もちろん戦前からシンボルとして置いてあるのでお店の人にしてみれば戦後のアメリカのフリーメイスンリーが持ってきたシンボルとは違うよという気持ちはあるのでしょうが、これももちろん重要なフリーメイスンリーのシンボルです。
ではこの碇の意味は魚藍亭を象徴しているのでしょうか?店に入ると確かに東京タワーの模型を置いてあったりフリーメイスンリーを意識したものとはなっているようですが、経営者が恐らくロータリーかライオンズクラブなのかと思われますが、フリーメイスンではないと思われます。ではこの碇が象徴する存在は何なのでしょうか?
恐らく崖の上の聖ヨゼフ病院を象徴しているものと思われます。聖ヨゼフ病院はカトリック系の聖母訪問会が設立した戦後の横須賀におけるGHQの都市計画の代表的な存在ですが、設立にかかわった聖母訪問会のブルトン氏はフランス系のアメリカ人で、本人も不治の病に冒されていたりとヨゼフ病院設立に関してもフリーメイスンリーをかなり意識してのものであったかと思われます。日本の敗戦に関しても8月15日が聖母降誕祭というカトリックの代表的な祭日であり、終戦記念日と重なったことから日本ではあまり知られる事が無くなったという事もあるようです。最終的な敗戦工作に関しては皇室とカトリックとの繋がりは有効に働いたようです。日米の開戦となった真珠湾攻撃の日は12月8日、これは釈迦が悟りを開いた成道会(旧暦12月8日)であり、太平洋戦争が一つの宗教戦争であったという象徴であるかと思われます。それら宗教の融和、平和の思想を体現したのがフリーメイスンリーであり、それが戦後の日米の関係を象徴し、説明するものかと思われます。神社と寺という日本の伝統宗教の間をつなぎ、さらにアメリカ軍の正門に繋がるタウ十字を形成する中心をなすユダヤ教とキリスト教を繋ぐ存在であるヨゼフの名前を冠した聖ヨゼフ病院をブラザーデッカーを代表する戦後のアメリカ基地を通したフリーメイスン達の活動が、今日まで残る横須賀の碇のシンボリズムの一つとなっているものかと思われます。もちろんそれは聖ヨゼフ病院の元となる海仁病院の設立や海軍工廠の存在など戦前の日本海軍の関係者の方々もフリーメイスンリーに関する活動があり、それらが現在の日本グランドロッジの水交社跡などにも反映されているものかと思われます。

ちなみに魚藍亭は現在横須賀で多くの店が行っている海軍カレーの発祥の店という事で、元祖海軍カレーの店としてアピールしています。その海軍カレーのパッケージには大きくこのシンボルとしての碇が認められています。戦前、戦後を通じた主に海軍を通した日米、日英、日仏、日印といった日本と世界との間を繋いだ港町の、食を通した平和の象徴としての存在が現在の横須賀海軍カレーとなっていると言えるのではないかと思われます。
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2012-07-01 09:46 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
横須賀のシンボリズムはアメリカ軍があるので徹底しています。
それが戦後のアメリカの占領政策、対日政策の一貫した方針であると言えるかとも思われます。
まあそれを象徴するというと言い過ぎかもしれませんが、シンボリズムの面からいうとそこまで入れなくてもいいのではないかというものにも強くシンボリズムが採用されて認められます。
それは多くの人が一度は気づくかと思われますが横須賀市上下水道局の蓋の絵柄です。
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まあペリーと黒船と灯台が書いてあるのは誰でもわかるかと思います。
もちろんブラザーペリーがフリーメイスンであり、船がノアの箱舟を象徴するシンボルであり、灯台がヴェルニー達フリーメイスンと思われるお雇い外国人が立てた文明のシンボルであり、それらが皆明治維新とフリーメイスンリーにまつわるシンボルという事はわかるかと思います。
ただそれらを確実にフリーメイスンリーが繋いでいると示すものがいわゆるシンボリズムとしてまだ足りないかと思います。灯台にしても実際に存在したものであり、現実に今もあるものであり、黒船にしてもブラザーペリーにしても実在のものであり形而上の存在ではありません。
それらをフリーメイスンリーで繋ぐには形而上の存在を象徴するシンボリズムが必要かと思います。
それもこの土管の蓋には認められます。

上部の背景に認められる凹凸で表現されたチェッカー図柄になります。これによってこの土管の蓋は間違いなくフリーメイスンリーのシンボルとなります。
GUSTOのフリードリンクコーナーのGやTのシンボルと同じ程に徹底した横須賀のフリーメイスンリーのシンボリズムでした。
(実はこのシンボルはなかなかおもしろいものがあります。上下水道局は観音崎の灯台を模した建物を作ったり、走水の水源をヴェルニーの水としてアピールするなどヴェルニーを象徴とするフランス大東社の影響を感じさせます。そのヴェルニーの功績と言える灯台の上にペリーの黒船の帆先がバツ印で重なっています。もちろんこのバツ印を聖アンデレの斜め十字と考えるか、〇×のバツ印と考えるかで意味は異なります。もちろんΧΡと考える事も出来るかと思います。シンボリズムの妙です。ブラザーペリーがニューヨークホラントロッジの出身であったり、ペリー公園のラフアシュラーや本人の米国での評価、下水の蓋が皆に踏まれる存在でありかつもっとも数が多く良く目につくものである事など様々な要素があるかと思います。いずれにしても説明するまでも無くそれがシンボルであろう事は多くの人が無意識に感じているものかと思います。)



2012-07-07 17:15 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
本日は完全に息抜きという感じで、このブログを書き始めた場所でもある三浦半島西部地区、横須賀西部地区、武山、林、長井地区について恐れ多くもコメントしてしまいます。まあ完全に観光案内や転居の勧めという事になってしまうのかもしれませんが、人口減少がバブル期以降目立っている横須賀地区としては、観光誘致ももちろんの事、転居者の勧めもしているものかと思います。
あまり批判的な事ばかり書いても建設的ではありませんので、比較的に良いところをアピールする内容となるかと思いますのでご了承ください。

さて同地区に一年住んだわけですが、一言でこの地区を恐れ多くも表現しろと言われると、「空気がきれい」の一言に尽きるかと思います。ただ残念ながら近い将来ごみ焼却場が大楠山に出来るそうなのでこの事に関しては影響が出ることは否めません。その他と言うと、これはマイナス要因ですが「電車が無い」という事になるかと思います。もちろん交通は車で移動する分にはそれほど不自由はありませんが、いかんせん電車が無いのはやはり徒歩での移動には不便となります。さてそれにプラスする事としては「景色がきれい」「人が少ない」「食べ物がおいしい」このくらいではないでしょうか。要するに文面から解釈すると田舎という事になってしまうかと思いますが、都心からの距離的には藤沢や平塚と大して変わらない場所かと思いますので、鉄道が無かったり、半島であったり、一次産業が比較的盛んであったりといった条件のためにそういう開発が進まなかったという事になるのだと思います。

ではまああまり冷静で当たり前の紹介ばかりでは何の意味もないので、とりあえず観光のお勧めスポットを挙げておきます。
最初はこれは知っている人もかなり多いかと思いますが、小泉進次郎君もオープニングで参加していた「すかなごっそ」でしょうか。三浦の採れたて野菜とそれらの加工品や、他の地域からの農協の連携での野菜や果物などたくさんの新鮮でおいしい食品が売っている、道の駅の様な農協の販売所です。土日になると観光バスなども動員して多くの人で賑わっています。葉山牛などの食材もたくさん売っていて、大家族で休日のごちそうを作るのにもってこいの販売所かと思われます。

それらの中でも一番の私個人のお勧めは地卵かと思われます。さらにこの卵で作ったプリンは結局素材の力なのかと思いますがいわゆる専門店のものとは一味違う農協の底力という感じでなかなかほほえましくなる味です。
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さてその他の場所と言うと長井の魚市場などもあるそうですが、これはあまりよく知らないので、景色がきれいなところという事で荒崎海岸公園などがお勧めかと思います。こちらは駐車場もあるのですが、ほとんど利用されていません。こういうとかなり悲壮な感じですが、葉山も富士山が良く見える時は美しい景色で有名で、さらに横須賀に入ると立石公園などが有名かと思いますが、その中で三浦に最も近い長井のさらに南になる荒崎海岸公園、またその先にある砂浜などは人もかなり少なくなっていて景色もきれいですが、湘南の騒々しさとは対比的に落ち着いていて良いかと思います。海開きをした後は海水浴場としても観光客が集まる時期もあるそうです。後は車などをどこかに止めて徒歩で大楠山や武山に登るなどのハイキングも空気が非常にきれいなのでお勧めかと思います。近くのスーパーで帰りに佐島産の魚をお土産に買っていくなども良いかもしれません。佐島周辺には魚を食べさせる店もいくつかあるのでそこで食べるのも良いかと思います。
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後はこの地域の最大の魅力かもしれませんが、非常に空気がきれいなので夜の星がとてもきれいです。驚くほど星の数が多く認められます。
横須賀の中では大楠山の上からの富士山が一番の絶景かと思います。現在螺旋階段の展望台は老朽化のため閉鎖していましたが、二階からの景色で十分楽しめます。天気が良い日に見られたとしたら非常に幸運なのではないでしょうか。