FREEMASONRY
Blue Lodge, Scottish Rite & York Rite in Japan
昨年末に亡くなった伝説的なフリーメイスン、一応名目上は破門された元フリーメイスンとなっていますが、ブラザーリーチオ・ジェッリについて、日本語のウィキペディアが極めて充実していましたので、転載します。
リーチオ・ジェッリ(Licio Gelli、1919年4月21日-2015年12月15日)は、イタリアの極右政党イタリア社会運動(MSI)幹部、投資家、元フリーメイソンの「ロッジP2」代表。

生誕 1919年4月21日 イタリア、トスカーナ州ピストイア
死没 2015年12月15日(満96歳没) イタリア、トスカーナ州アレッツォ
職業 イタリア社会運動幹部 投資家 「ロッジP2」代表など
配偶者 あり
プロフィール
黒シャツ隊
1919年にトスカーナ州のピストイアに生まれる。1930年代後半に当時イタリアの政権を担っていたファシスト党のベニート・ムッソリーニ率いる「黒シャツ隊」の一員として、当時ムッソリーニ政権と友好関係にあったスペインのフランシスコ・フランコ政権を援助するためにスペインへ滞在したこともある。さらに同時期にはドイツ空軍のヘルマン・ゲーリング総司令官への協力も行った。
またこの頃に、黒シャツ隊のメンバーで第二次世界大戦終結後に「ネオファシスト」と呼ばれるイタリア社会運動党(MSI)を共同で創立することになる、ジョルジュ・アルミナンテと知り合った。
CIAとの関係と戦犯逃亡幇助
1945年の第二次世界大戦の終結後には、イタリアに進駐したイギリスやアメリカなどの連合国の情報局がイタリア国内および周辺国において行った、共産党及び共産党員に対するカウンター活動に協力することとなる。なおジェッリは、アメリカのOSS(その後1947年にアメリカ中央情報局/CIAとなる)とは、その後冷戦期を通じて関係を保ち続けることとなった。
なお、第二次世界大戦終結の翌年の1946年に、かつての黒シャツ隊のメンバーたちとファシスト党の復権を掲げる極右政党であるイタリア社会運動党を創立すると、直ちに幹部として活躍することとなった。
ドイツの戦犯逃亡幇助
しかしジェッリは、その後も両国の情報局との関係を保っていたにも拘らず、かつて関係の深かったドイツ政府や軍の戦犯容疑者のアルゼンチンやブラジルなどの南アメリカへの逃亡を助けたことが明らかになっており、その中には第二次世界大戦時のドイツのナチス親衛隊中尉で、元ゲシュタポのクラウス・バルビーも含まれている。なおこの逃亡幇助の際に、イギリス情報局秘密情報部やアメリカのOSSはジェッリが関与していることを知りつつも見逃していたという説がある。
南アメリカの軍事政権との関係
その後1950年代の冷戦下において、「反共産主義」を掲げた軍事独裁政権を維持していたアルゼンチンのファン・ペロン大統領や、ペロン大統領と親しいパラグアイのアルフレド・ストロエスネル大統領などの軍事独裁政権の首脳陣、そしてボリビアの軍事政権の私兵集団や秘密警察などとの関係を深めた。
なおこの際には、第二次世界大戦後にジェッリの協力を得てアルゼンチンやボリビアなどに逃亡し、その後アルゼンチン軍やボリビア政府の顧問となっていたクラウス・バルビーをはじめとするドイツの戦犯容疑者らが両者の関係を取り持つこととなった。
その後ジェッリは、駐伊アルゼンチン大使館の「経済顧問」に就任し、イタリアやフランスをはじめとするヨーロッパ各国の最新兵器のアルゼンチンなどへの輸出利権に深く関わっていただけでなく、その後1970年代にアルゼンチンで巻き起こった「汚い戦争」や、1982年に勃発した「フォークランド紛争」においてアルゼンチン軍に大戦果をもたらした「エグゾセ・ミサイル」のアルゼンチンへの供給を行うなど、アルゼンチン政府への協力を惜しまなかった。
ロッジP2
1963年には、1877年に設立されたイタリアに本拠を置くグランド・ロッジ「イタリア大東社(Grande Oriente d'Italia)」に入会し、その後同グランド・ロッジ傘下のロッジである「ロッジP2」(P2=Propaganda Due)を創設し、1971年には「イタリア大東社」のグランド・マスター(=親方)となった。
その後同「ロッジP2」は、冷戦たけなわの1970年代に、イタリア社会運動党の関係者や、イタリアの右派政治家や軍人を中心に、アルゼンチンなどの南アメリカ諸国の軍事政権の政治家や軍人もメンバーに持ち、さながら冷戦下における反共産主義者の集まりとして活動していた。同ロッジのメンバーは、反共産主義活動の一環として南アメリカの軍事独裁政権への最新の武器買い付けを行ったほか、アルゼンチンで「汚い戦争」を進めていたホルヘ・ラファエル・ビデラ大統領を積極的に支援していた。
さらに、当時歴代のボリビアの軍事政権指導者とその警察の治安対策アドバイザーとなっていたバルビーを経由して、アルゼンチンのペロン大統領の支援の下ボリビアへ亡命し、1964年から政権を握ったレネ・バリエントス・オルトゥーニョ将軍との関係も結んだ。
この様な活動が疑惑と批判を浴び、1976年にフリーメイソンのロッジとしての認証が取り消されたものの、その後も「認証されないロッジ」として、他のロッジのメンバーとなった元メンバーのイタリアの政治家や軍人、極右活動家を中心に、言葉通りの「秘密結社」的存在として活動していた。
バチカン銀行への関与
なおジェッリは、バチカン銀行の財政顧問も務めた弁護士で、自らが経営するミラノのプライベートバンクを通じてマフィアのマネーロンダリングを行っていたミケーレ・シンドーナとの関係を結んだ。
さらに1960年代後半には、バチカン銀行の資金調達と投資を行う主力行のアンブロシアーノ銀行の幹部であるロベルト・カルヴィを通じて、バチカン銀行総裁でアメリカのシカゴ出身のポール・マルチンクス大司教や、さらにマルチンクス大司教と昵懇の仲であったアメリカのデヴィッド・M・ケネディ財務長官との関係を結び、バチカン銀行とアンブロシアーノ銀行を通じたマフィアがらみの資金のマネー・ロンダリングと不正融資を進めることとなった。
これに対してイタリア政府内やバチカン内で批判が巻き起こった上、1974年にシンドーナが経営していたプライベートバンクが、3億アメリカドルを超える負債を抱え経営が悪化したことなどを受けて、イタリアの財政局がシンドーナに対し横領罪での調査を進めたものの、当時の教皇であるパウロ6世がマルチンクス大司教の事実上の後見人であったことから、ジェッリやカルヴィらによるマネー・ロンダリングと不正融資はおとがめを受けることなく行われることとなった。
ヨハネ・パウロ1世「暗殺」
しかし、1978年8月にパウロ6世教皇が死去しヨハネ・パウロ1世が同月26日新教皇に就任すると、バチカン銀行の取り引きの調査を進めることを指示しただけでなく、この時点でマスコミにすらその疑惑が取りざたされていたマルチンクス大司教の解任を中心としたバチカン内の新人事の発令を進めた。
しかしヨハネ・パウロ1世は、同年9月28日の早朝にバチカン内の住居のベッドで死去しているのが発見された。教皇就任後わずか33日後の死であった。
これにより、バチカン銀行に対する調査やマルチンクス大司教の解任は実行されないままとなった。さらにヨハネ・パウロ1世を継いで1978年10月に教皇となったヨハネ・パウロ2世が、急死した前任者と打って変わってバチカン銀行の改革に熱心でなかったこともあり、その後もジェッリやカルヴィは、マルチンクス大司教の庇護の下でバチカン銀行を経由したマフィア絡みのマネーロンダリングと不正融資を続けた。
なお、ヨハネ・パウロ1世教皇の逝去後に、ヨハネ・パウロ1世教皇が逝去時に手にしていた新人事について書かれた書類やメガネ、スリッパなどが行方不明になったり、検視や解剖もされないままに即座に遺体に保存剤を注入するなど、死因を隠ぺいするような不可解な動きが行われたこと、さらに、バチカン外に居住していたマルチンクス大司教が教皇逝去の直後の早朝に、普段早朝に足を踏み入れることが無かったバチカンにいたことが目撃されていたことなどが疑惑を呼び、教皇の突然の死が、教皇により解任されることになっていたマルチンクス大司教やジェッリ、シンドーナやカルヴィによって仕組まれた「暗殺」であるという説がその後広まることとなった。
ボローニャ駅爆破事件
1980年8月2日の朝に、ボローニャにあるボローニャ中央駅で爆弾テロ事件が発生し、これにより85人が死亡、200人以上が負傷した。当初この事件は事故と思われていたものの、その後の調査で捜査員が爆心地近くで金属片とプラスチック片を発見したことにより、テロ事件と断定され捜査が開始された。
その後捜査当局はネオファシズム組織の「武装革命中核」(Nuclei Armati Rivoluzionari)がテロの実行犯と断定し、さらに「ロッジP2」のメンバーで、イタリア軍安全情報局(SISMI)のナンバー2のピエルト・ムスメキ将軍が、ジェッリの事件への関与の嫌疑をそらし、さらに他の極右組織のメンバーに嫌疑をかけるための偽装工作を行ったとして逮捕された。
その後行われた裁判でジェッリとムスメキ将軍は捜査妨害などの罪で有罪判決を受けた。なお、事件の動機は判明していないが、爆破テロを行い多くの市民を殺害し、その罪を共産主義者になすりつけることで、共産主義者による脅威と、当時のフランチェスコ・コッシガ政権の極左対策への無策をアピールし、世論を極右政党に対し有利な方向に誘導することが目的であったのではないかと言われている。
「P2事件」
翌1981年3月には、当時ボローニャ駅爆破事件及びいくつかの経済犯罪、さらに政府転覆謀議などへの関与の容疑でイタリア当局に逮捕状が出されていたジェッリのナポリの別宅をイタリア警察が捜索した際に「ロッジP2」の会員リストが発見され、既に「認証されないロッジ」となっていた「ロッジP2」に、下記の10人を含む932人のメンバーがいることがジェッリが持っていたリストから確認され、イタリア政府より発表された。
その中には、第二次世界大戦後の王制廃止により亡命生活を余儀なくされていたヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア元イタリア王国王太子の他にも、30人の現役将軍、38人の現役国会議員、4人の現役閣僚、更には情報部員や後に合計4期に渡ってイタリアの首相となったシルヴィオ・ベルルスコーニなどの実業家、大学教授などが含まれており、「P2事件」と呼ばれイタリア政財界のみならず、ヨーロッパ中を揺るがす大スキャンダルとなった。
これらの事態を受けフリーメイソンは、ジェッリ以下の「ロッジP2」の全てのメンバーを、「フリーメイソンの名をかたった上で、フリーメイソンにふさわしくない活動を行った」として1981年10月31日に正式に破門した。また同年12月24日には、アレッサンドロ・ペルティーニ大統領が「ロッジP2」を「犯罪組織」と指名し、議会に調査委員会が発足した。
ジェッリは当局の捜査が入る前に逮捕を逃れるためにスイスに逃亡していたが、1982年に潜伏先のジュネーヴで逮捕され、上記の容疑にあわせて1960年代から1970年代にかけてトスカーナで発生した25件の極右テロに対する資金的援助の容疑で、イタリアとスイスの裁判所から有罪判決を受け服役した。しかし、その後数回に渡り脱獄と逮捕を繰り返した。なおこれらの一連の脱獄には、ジェッリと親しかったジュリオ・アンドレオッティ首相を含むイタリア政界関係者やマフィアによる組織的な関与があったとみられている。
「カルヴィ暗殺事件」
ジェッリは「P2事件」後に逮捕されるまでの間、1975年にアンブロシアーノ銀行の頭取に就任したカルヴィの協力の元に、アンブロシアーノ銀行とバチカン銀行を経由したマネーロンダリングと不正融資を続けていたが、不明朗な資金の流れはイタリア政府関係者やイタリアをはじめとする各国のマスコミの疑念を呼ぶこととなった。その結果、アンブロシアーノ銀行は1981年から1982年にかけてイタリア中央銀行による大規模な査察を受けることとなり、およそ10-15億アメリカドルに上る使途不明金を抱えていたことが明らかになり、1982年5月に破綻した。
なおカルヴィは、アンブロシアーノ銀行の破綻とそれに伴う議会の公聴会への招聘の直前に、偽造パスポートを使い国外に逃亡していたが、6月17日に、イギリスの首都、ロンドンのテムズ川にかかるブラックフライアーズ橋の下で「首吊り死体」の姿で発見されたため、当事者のバチカンとイタリア、イギリス政府のみならず、全世界を揺るがす大騒動となった。
カルヴィの死体が発見された当時は単なる自殺であるということで片付けられたものの、死体の位置が自ら首を吊ったとするには無理がある状況であったり、なぜか衣服のポケットに別の場所で入れられたと見られる小石や煉瓦が入っていたりと、死体の状況が単なる自殺とはあまりにもかけ離れた状況であることから、その後遺族らによって再捜査を依頼されたスコットランド・ヤード(ロンドン市警)が再捜査を開始し、最終的に1992年に他殺と判断された。また、イタリア警察当局も2003年7月にカルヴィの遺族の依頼により遺体を掘り起こし再鑑定した結果、「他殺され発見現場に運ばれた」との判断を下している。
その後行われた捜査と裁判の過程の中で、イタリアの司法当局への情報提供者と転向したマフィアの構成員のフランチェスコ・マリーノ・マンノイアは、1991年7月に「カルヴィが殺害された原因は、アンブロシアーノ銀行破綻によりマフィアの資金が失われた報復であり、実際にカルヴィを殺害したのは当時ロンドンにいたマフィアのフランチェスコ・ディ・カルロであり、殺害命令を下したのは『ロッジP2』のジェッリ元会長と、マフィアの財政面、主にマネーロンダリングに深く関わったことから『マフィアの財務長官』と呼ばれたジュセッペ・ピッポ・カロ であった」と暴露した。
その後もイタリアの司法当局による捜査は続き、2005年4月18日に司法当局は、カロとジェッリ、カルボーニ、ディオタッレーヴィとカルヴィのボディガードだったシルヴァノ・ヴィットールら5人を、カルヴィに対する殺人罪などでローマ地方裁判所に起訴した。
同年10月には裁判が開始され、その後2007年3月に検察官のルカ・テスカローリは、これら5人の被告に対してカルヴィ殺害に関与した容疑で終身刑を求刑した(なおカロは、1984年12月23日にフィレンツェとボローニャ間を走る急行列車の爆破テロを指示した他、64件の殺人罪と麻薬密輸罪など136件の犯罪に関与した容疑で終身刑4回の判決を受け、1987年より服役していた)。しかし、2007年6月6日にローマ地方裁判所はジェッリを含む5人の被告全員に対して「証拠不十分」として無罪判決を下した。
晩年
1992年には、アンブロシアーノ銀行の破たんに関する罪で18年の求刑を受け、後に求刑が12年に減らされたが控訴した。さらに1994年には国家機密漏えいなどの罪で17年の刑が確定し自宅軟禁におかれた。1998年4月には、アンブロシアーノ銀行の破たんに関する罪で12年の禁固刑が確定したものの、刑務所に送られることを逃れるために前日にフランスに逃亡した。しかしその後カンヌで逮捕され刑務所に収監された。なおその最中の1996年には、マザー・テレサなどの協力を受けてノーベル文学賞候補になった。
2003年には刑務所内で「ラ・レプッブリカ」紙のインタビューを受け「P2再生プラン」を発表し話題を呼んだ。2007年に「カルヴィ暗殺事件」で無罪判決を受けた後には、自らの自叙伝的映画のための権利を譲渡する契約をアメリカの映画プロデューサーとの間に結んだ。その後もテレビや雑誌などに登場し言論活動を行っていた。2013年11月に脱税行為を行ったとしてイタリアの金融警察により資産の差し押さえを受けた。
2015年12月15日、トスカーナ州で死去。
いかがでしょうか。キリスト教カトリックとフリーメイスンリーという極めて明確な対立軸が存在するイタリア大東社ならではの、かの有名なP2事件の全貌が彼の死によって明確になってきているかと思われます。まだまだその他の関係者は存命であり、カトリックとフリーメイスンリーの関係も現在進行形の話であるかと思われます。JFKと同姓のモルモン教徒のケネディ氏などの名前も認められ、ブラザーリーチオ・ジェッリの忌日やデヴィッド・M・ケネディ氏の忌日などまさにフリーメイスンリーという話がてんこ盛りのイタリア大東社のフリーメイスンについてでした。






(葬儀で読まれたという本人自作の詩の邦訳、他のブログより転載します。)
「私が遺した種は果実を実らせるだろう。憎しみも愛情も捨て、私の記憶とともに私が投げた種が果実となることを熱望する」

Rest In Peace.
リーチオ・ジェッリ(Licio Gelli、1919年4月21日-2015年12月15日)は、イタリアの極右政党イタリア社会運動(MSI)幹部、投資家、元フリーメイソンの「ロッジP2」代表。

生誕 1919年4月21日 イタリア、トスカーナ州ピストイア
死没 2015年12月15日(満96歳没) イタリア、トスカーナ州アレッツォ
職業 イタリア社会運動幹部 投資家 「ロッジP2」代表など
配偶者 あり
プロフィール
黒シャツ隊
1919年にトスカーナ州のピストイアに生まれる。1930年代後半に当時イタリアの政権を担っていたファシスト党のベニート・ムッソリーニ率いる「黒シャツ隊」の一員として、当時ムッソリーニ政権と友好関係にあったスペインのフランシスコ・フランコ政権を援助するためにスペインへ滞在したこともある。さらに同時期にはドイツ空軍のヘルマン・ゲーリング総司令官への協力も行った。
またこの頃に、黒シャツ隊のメンバーで第二次世界大戦終結後に「ネオファシスト」と呼ばれるイタリア社会運動党(MSI)を共同で創立することになる、ジョルジュ・アルミナンテと知り合った。
CIAとの関係と戦犯逃亡幇助
1945年の第二次世界大戦の終結後には、イタリアに進駐したイギリスやアメリカなどの連合国の情報局がイタリア国内および周辺国において行った、共産党及び共産党員に対するカウンター活動に協力することとなる。なおジェッリは、アメリカのOSS(その後1947年にアメリカ中央情報局/CIAとなる)とは、その後冷戦期を通じて関係を保ち続けることとなった。
なお、第二次世界大戦終結の翌年の1946年に、かつての黒シャツ隊のメンバーたちとファシスト党の復権を掲げる極右政党であるイタリア社会運動党を創立すると、直ちに幹部として活躍することとなった。
ドイツの戦犯逃亡幇助
しかしジェッリは、その後も両国の情報局との関係を保っていたにも拘らず、かつて関係の深かったドイツ政府や軍の戦犯容疑者のアルゼンチンやブラジルなどの南アメリカへの逃亡を助けたことが明らかになっており、その中には第二次世界大戦時のドイツのナチス親衛隊中尉で、元ゲシュタポのクラウス・バルビーも含まれている。なおこの逃亡幇助の際に、イギリス情報局秘密情報部やアメリカのOSSはジェッリが関与していることを知りつつも見逃していたという説がある。
南アメリカの軍事政権との関係
その後1950年代の冷戦下において、「反共産主義」を掲げた軍事独裁政権を維持していたアルゼンチンのファン・ペロン大統領や、ペロン大統領と親しいパラグアイのアルフレド・ストロエスネル大統領などの軍事独裁政権の首脳陣、そしてボリビアの軍事政権の私兵集団や秘密警察などとの関係を深めた。
なおこの際には、第二次世界大戦後にジェッリの協力を得てアルゼンチンやボリビアなどに逃亡し、その後アルゼンチン軍やボリビア政府の顧問となっていたクラウス・バルビーをはじめとするドイツの戦犯容疑者らが両者の関係を取り持つこととなった。
その後ジェッリは、駐伊アルゼンチン大使館の「経済顧問」に就任し、イタリアやフランスをはじめとするヨーロッパ各国の最新兵器のアルゼンチンなどへの輸出利権に深く関わっていただけでなく、その後1970年代にアルゼンチンで巻き起こった「汚い戦争」や、1982年に勃発した「フォークランド紛争」においてアルゼンチン軍に大戦果をもたらした「エグゾセ・ミサイル」のアルゼンチンへの供給を行うなど、アルゼンチン政府への協力を惜しまなかった。
ロッジP2
1963年には、1877年に設立されたイタリアに本拠を置くグランド・ロッジ「イタリア大東社(Grande Oriente d'Italia)」に入会し、その後同グランド・ロッジ傘下のロッジである「ロッジP2」(P2=Propaganda Due)を創設し、1971年には「イタリア大東社」のグランド・マスター(=親方)となった。
その後同「ロッジP2」は、冷戦たけなわの1970年代に、イタリア社会運動党の関係者や、イタリアの右派政治家や軍人を中心に、アルゼンチンなどの南アメリカ諸国の軍事政権の政治家や軍人もメンバーに持ち、さながら冷戦下における反共産主義者の集まりとして活動していた。同ロッジのメンバーは、反共産主義活動の一環として南アメリカの軍事独裁政権への最新の武器買い付けを行ったほか、アルゼンチンで「汚い戦争」を進めていたホルヘ・ラファエル・ビデラ大統領を積極的に支援していた。
さらに、当時歴代のボリビアの軍事政権指導者とその警察の治安対策アドバイザーとなっていたバルビーを経由して、アルゼンチンのペロン大統領の支援の下ボリビアへ亡命し、1964年から政権を握ったレネ・バリエントス・オルトゥーニョ将軍との関係も結んだ。
この様な活動が疑惑と批判を浴び、1976年にフリーメイソンのロッジとしての認証が取り消されたものの、その後も「認証されないロッジ」として、他のロッジのメンバーとなった元メンバーのイタリアの政治家や軍人、極右活動家を中心に、言葉通りの「秘密結社」的存在として活動していた。
バチカン銀行への関与
なおジェッリは、バチカン銀行の財政顧問も務めた弁護士で、自らが経営するミラノのプライベートバンクを通じてマフィアのマネーロンダリングを行っていたミケーレ・シンドーナとの関係を結んだ。
さらに1960年代後半には、バチカン銀行の資金調達と投資を行う主力行のアンブロシアーノ銀行の幹部であるロベルト・カルヴィを通じて、バチカン銀行総裁でアメリカのシカゴ出身のポール・マルチンクス大司教や、さらにマルチンクス大司教と昵懇の仲であったアメリカのデヴィッド・M・ケネディ財務長官との関係を結び、バチカン銀行とアンブロシアーノ銀行を通じたマフィアがらみの資金のマネー・ロンダリングと不正融資を進めることとなった。
これに対してイタリア政府内やバチカン内で批判が巻き起こった上、1974年にシンドーナが経営していたプライベートバンクが、3億アメリカドルを超える負債を抱え経営が悪化したことなどを受けて、イタリアの財政局がシンドーナに対し横領罪での調査を進めたものの、当時の教皇であるパウロ6世がマルチンクス大司教の事実上の後見人であったことから、ジェッリやカルヴィらによるマネー・ロンダリングと不正融資はおとがめを受けることなく行われることとなった。
ヨハネ・パウロ1世「暗殺」
しかし、1978年8月にパウロ6世教皇が死去しヨハネ・パウロ1世が同月26日新教皇に就任すると、バチカン銀行の取り引きの調査を進めることを指示しただけでなく、この時点でマスコミにすらその疑惑が取りざたされていたマルチンクス大司教の解任を中心としたバチカン内の新人事の発令を進めた。
しかしヨハネ・パウロ1世は、同年9月28日の早朝にバチカン内の住居のベッドで死去しているのが発見された。教皇就任後わずか33日後の死であった。
これにより、バチカン銀行に対する調査やマルチンクス大司教の解任は実行されないままとなった。さらにヨハネ・パウロ1世を継いで1978年10月に教皇となったヨハネ・パウロ2世が、急死した前任者と打って変わってバチカン銀行の改革に熱心でなかったこともあり、その後もジェッリやカルヴィは、マルチンクス大司教の庇護の下でバチカン銀行を経由したマフィア絡みのマネーロンダリングと不正融資を続けた。
なお、ヨハネ・パウロ1世教皇の逝去後に、ヨハネ・パウロ1世教皇が逝去時に手にしていた新人事について書かれた書類やメガネ、スリッパなどが行方不明になったり、検視や解剖もされないままに即座に遺体に保存剤を注入するなど、死因を隠ぺいするような不可解な動きが行われたこと、さらに、バチカン外に居住していたマルチンクス大司教が教皇逝去の直後の早朝に、普段早朝に足を踏み入れることが無かったバチカンにいたことが目撃されていたことなどが疑惑を呼び、教皇の突然の死が、教皇により解任されることになっていたマルチンクス大司教やジェッリ、シンドーナやカルヴィによって仕組まれた「暗殺」であるという説がその後広まることとなった。
ボローニャ駅爆破事件
1980年8月2日の朝に、ボローニャにあるボローニャ中央駅で爆弾テロ事件が発生し、これにより85人が死亡、200人以上が負傷した。当初この事件は事故と思われていたものの、その後の調査で捜査員が爆心地近くで金属片とプラスチック片を発見したことにより、テロ事件と断定され捜査が開始された。
その後捜査当局はネオファシズム組織の「武装革命中核」(Nuclei Armati Rivoluzionari)がテロの実行犯と断定し、さらに「ロッジP2」のメンバーで、イタリア軍安全情報局(SISMI)のナンバー2のピエルト・ムスメキ将軍が、ジェッリの事件への関与の嫌疑をそらし、さらに他の極右組織のメンバーに嫌疑をかけるための偽装工作を行ったとして逮捕された。
その後行われた裁判でジェッリとムスメキ将軍は捜査妨害などの罪で有罪判決を受けた。なお、事件の動機は判明していないが、爆破テロを行い多くの市民を殺害し、その罪を共産主義者になすりつけることで、共産主義者による脅威と、当時のフランチェスコ・コッシガ政権の極左対策への無策をアピールし、世論を極右政党に対し有利な方向に誘導することが目的であったのではないかと言われている。
「P2事件」
翌1981年3月には、当時ボローニャ駅爆破事件及びいくつかの経済犯罪、さらに政府転覆謀議などへの関与の容疑でイタリア当局に逮捕状が出されていたジェッリのナポリの別宅をイタリア警察が捜索した際に「ロッジP2」の会員リストが発見され、既に「認証されないロッジ」となっていた「ロッジP2」に、下記の10人を含む932人のメンバーがいることがジェッリが持っていたリストから確認され、イタリア政府より発表された。
その中には、第二次世界大戦後の王制廃止により亡命生活を余儀なくされていたヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア元イタリア王国王太子の他にも、30人の現役将軍、38人の現役国会議員、4人の現役閣僚、更には情報部員や後に合計4期に渡ってイタリアの首相となったシルヴィオ・ベルルスコーニなどの実業家、大学教授などが含まれており、「P2事件」と呼ばれイタリア政財界のみならず、ヨーロッパ中を揺るがす大スキャンダルとなった。
これらの事態を受けフリーメイソンは、ジェッリ以下の「ロッジP2」の全てのメンバーを、「フリーメイソンの名をかたった上で、フリーメイソンにふさわしくない活動を行った」として1981年10月31日に正式に破門した。また同年12月24日には、アレッサンドロ・ペルティーニ大統領が「ロッジP2」を「犯罪組織」と指名し、議会に調査委員会が発足した。
ジェッリは当局の捜査が入る前に逮捕を逃れるためにスイスに逃亡していたが、1982年に潜伏先のジュネーヴで逮捕され、上記の容疑にあわせて1960年代から1970年代にかけてトスカーナで発生した25件の極右テロに対する資金的援助の容疑で、イタリアとスイスの裁判所から有罪判決を受け服役した。しかし、その後数回に渡り脱獄と逮捕を繰り返した。なおこれらの一連の脱獄には、ジェッリと親しかったジュリオ・アンドレオッティ首相を含むイタリア政界関係者やマフィアによる組織的な関与があったとみられている。
「カルヴィ暗殺事件」
ジェッリは「P2事件」後に逮捕されるまでの間、1975年にアンブロシアーノ銀行の頭取に就任したカルヴィの協力の元に、アンブロシアーノ銀行とバチカン銀行を経由したマネーロンダリングと不正融資を続けていたが、不明朗な資金の流れはイタリア政府関係者やイタリアをはじめとする各国のマスコミの疑念を呼ぶこととなった。その結果、アンブロシアーノ銀行は1981年から1982年にかけてイタリア中央銀行による大規模な査察を受けることとなり、およそ10-15億アメリカドルに上る使途不明金を抱えていたことが明らかになり、1982年5月に破綻した。
なおカルヴィは、アンブロシアーノ銀行の破綻とそれに伴う議会の公聴会への招聘の直前に、偽造パスポートを使い国外に逃亡していたが、6月17日に、イギリスの首都、ロンドンのテムズ川にかかるブラックフライアーズ橋の下で「首吊り死体」の姿で発見されたため、当事者のバチカンとイタリア、イギリス政府のみならず、全世界を揺るがす大騒動となった。
カルヴィの死体が発見された当時は単なる自殺であるということで片付けられたものの、死体の位置が自ら首を吊ったとするには無理がある状況であったり、なぜか衣服のポケットに別の場所で入れられたと見られる小石や煉瓦が入っていたりと、死体の状況が単なる自殺とはあまりにもかけ離れた状況であることから、その後遺族らによって再捜査を依頼されたスコットランド・ヤード(ロンドン市警)が再捜査を開始し、最終的に1992年に他殺と判断された。また、イタリア警察当局も2003年7月にカルヴィの遺族の依頼により遺体を掘り起こし再鑑定した結果、「他殺され発見現場に運ばれた」との判断を下している。
その後行われた捜査と裁判の過程の中で、イタリアの司法当局への情報提供者と転向したマフィアの構成員のフランチェスコ・マリーノ・マンノイアは、1991年7月に「カルヴィが殺害された原因は、アンブロシアーノ銀行破綻によりマフィアの資金が失われた報復であり、実際にカルヴィを殺害したのは当時ロンドンにいたマフィアのフランチェスコ・ディ・カルロであり、殺害命令を下したのは『ロッジP2』のジェッリ元会長と、マフィアの財政面、主にマネーロンダリングに深く関わったことから『マフィアの財務長官』と呼ばれたジュセッペ・ピッポ・カロ であった」と暴露した。
その後もイタリアの司法当局による捜査は続き、2005年4月18日に司法当局は、カロとジェッリ、カルボーニ、ディオタッレーヴィとカルヴィのボディガードだったシルヴァノ・ヴィットールら5人を、カルヴィに対する殺人罪などでローマ地方裁判所に起訴した。
同年10月には裁判が開始され、その後2007年3月に検察官のルカ・テスカローリは、これら5人の被告に対してカルヴィ殺害に関与した容疑で終身刑を求刑した(なおカロは、1984年12月23日にフィレンツェとボローニャ間を走る急行列車の爆破テロを指示した他、64件の殺人罪と麻薬密輸罪など136件の犯罪に関与した容疑で終身刑4回の判決を受け、1987年より服役していた)。しかし、2007年6月6日にローマ地方裁判所はジェッリを含む5人の被告全員に対して「証拠不十分」として無罪判決を下した。
晩年
1992年には、アンブロシアーノ銀行の破たんに関する罪で18年の求刑を受け、後に求刑が12年に減らされたが控訴した。さらに1994年には国家機密漏えいなどの罪で17年の刑が確定し自宅軟禁におかれた。1998年4月には、アンブロシアーノ銀行の破たんに関する罪で12年の禁固刑が確定したものの、刑務所に送られることを逃れるために前日にフランスに逃亡した。しかしその後カンヌで逮捕され刑務所に収監された。なおその最中の1996年には、マザー・テレサなどの協力を受けてノーベル文学賞候補になった。
2003年には刑務所内で「ラ・レプッブリカ」紙のインタビューを受け「P2再生プラン」を発表し話題を呼んだ。2007年に「カルヴィ暗殺事件」で無罪判決を受けた後には、自らの自叙伝的映画のための権利を譲渡する契約をアメリカの映画プロデューサーとの間に結んだ。その後もテレビや雑誌などに登場し言論活動を行っていた。2013年11月に脱税行為を行ったとしてイタリアの金融警察により資産の差し押さえを受けた。
2015年12月15日、トスカーナ州で死去。
いかがでしょうか。キリスト教カトリックとフリーメイスンリーという極めて明確な対立軸が存在するイタリア大東社ならではの、かの有名なP2事件の全貌が彼の死によって明確になってきているかと思われます。まだまだその他の関係者は存命であり、カトリックとフリーメイスンリーの関係も現在進行形の話であるかと思われます。JFKと同姓のモルモン教徒のケネディ氏などの名前も認められ、ブラザーリーチオ・ジェッリの忌日やデヴィッド・M・ケネディ氏の忌日などまさにフリーメイスンリーという話がてんこ盛りのイタリア大東社のフリーメイスンについてでした。






(葬儀で読まれたという本人自作の詩の邦訳、他のブログより転載します。)
「私が遺した種は果実を実らせるだろう。憎しみも愛情も捨て、私の記憶とともに私が投げた種が果実となることを熱望する」

Rest In Peace.

The Arch of Titus Digital Restoration Project
The Virginia Museum of Fine Arts, Dr. Peter Schertz
まあ大雨で災害も多発している梅雨の日本なわけですが、皆さんお変わりありませんでしょうか。6月24日の洗礼者ヨハネの日に記事を書くのもブログも2012年1月から始まって5年のうち3回目という事で、まあフリーメイスンリーの秘密のすべてが集約したような日なわけですが、そういうわけもあり、このような記事となっています。
それでまあ現物も有名だと思いますが、ローマのティトゥスの凱旋門という事で、屋外にある2000年近く経過している遺物という事で、非常に劣化も著しいわけで、それのデジタル修復したものが上のものです。実際は下のような感じです。



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メノーラーというユダヤ教の独特の燭台を運ぶ兵士があるわけで、それがまさにユダヤ戦争の記録であり、ユダヤ人のその後のディアスポラ、離散につながる決定的な史実を物語る、ヨハネの黙示録のネロ帝の記述から、キリスト教会のローマ帝国内での国教化への歴史をつなぐ、まさにユダヤ教とキリスト教の歴史をつなぐローマにおける最大の証拠となるわけです。
ユダヤ人の史実での存在を認める遺物はこれが最も確かでローマにあり続けたわけですが、その他には現在大英博物館にあるアッシリアのシャルマネセル3世の戦勝を記念する黒色オベリスクと、最も古いものがエジプトの石碑でイスラエルという文字が認められるBC1207年の事を記したイスラエル石碑であり、それ以外には出エジプトの記録もユダヤ人自身による旧約聖書の記録しかないわけです。
プロテスタントのキリスト教国で、真摯に神と人間に向き合い、自らの内的な向上を図る目的で結成されたフリーメイスンリーなわけですが、やはりそれはユダヤ教、キリスト教の真実の教えの探求であり、その中で歴史的な事実、聖書の記述のみに依存しない真実の追及は重要な問題であったわけで、その際にヨセフス文書とこれら聖書時代の歴史の遺物の研究は最重要の問題であるわけです。
ティトゥスの凱旋門のモチーフはフランスフリーメイスンリーではパリのエトワール凱旋門となり、ユダヤ教の浮き彫りはイングランドグランドロッジのフリーメイスンホールの扉の浮き彫りのモチーフともなっているようです。黒色オベリスクの影響もあるかと思われます。


















浮かし彫りを英語でレリーフreliefと言いますが、これはフリーメイスンリーの3つの基本理念である、Brotherly love友愛、Relief救済、Truth真実の一つともなり、まあ苦痛の除去や安堵、救助、救援、息抜きや、持ち上げられたといった意味にもなるのですが、建築のレリーフにそういう意味がかかるという事で、来年の記念すべきフリーメイスンリー結成300周年、ルターの宗教改革500周年、ロシア革命100周年という年に向けた、299周年の息抜きとなりましたでしょうか。
ちなみにブラザーモーツァルトの遺作として魔笛ほどでは有名ではないオペラ・セリア「皇帝ティートの慈悲」はこの第一次ユダヤ戦争で戦った皇帝ティトゥスが描かれており、そこではユダヤ人王女の皇帝との関係もあるなど、ローマに降り交渉役や後の歴史の記述を行ったヨセフスなど、ユダヤ人がキリスト教国教化前のローマ帝国で様々にローマ帝国に広がっていった様子が描かれており、第二次ユダヤ戦争でのバル・コクバやラビ・アキバによるユダヤ王国のまさに玉砕の結果のその後のキリスト教としての復活の史実が全体として、ユダヤ教、キリスト教の復活の教えとなる、フリーメイスンリーの教えの枢要な部分が聖書からユダヤ古代誌、戦記における時代に成立しているという事がある、まさに偉大なるフリーメイスンの遺作のモチーフがこのレリーフにあるわけです。
皇帝ティトゥスの時代にはヴェスヴィオ火山の噴火によるポンペイの火砕流もあるわけですが、フリーメイスンリー結成後の大災害としてはカトリック国であるポルトガルでのリスボン地震と津波があるわけで、もちろんその後の第一次世界大戦、第二次世界大戦を通じてイスラエル国が復活したわけですが、目に見える戦争や災害とも、目に見えない内的な向上や戦いとも関わる、フリーメイスンリーの死と復活の教えです。
(Titoに日本の名字の伊藤などのローマ字も認めることもあるようですが、蛇足でしょうか?皇帝も東郷さんのように選ばれているのでしょうか?Titusは語源がギリシア・ローマ神話のタイタンで、巨人の意味になるようです。ゼウスの登場以前の大地の神であるようで、地震とも関係しているそうです。)
(新約聖書にもテトスへの手紙として、パウロ書簡に含まれる文書に登場します。クレタ島の非ユダヤ人の信徒としてクレタ島の司教に任じられたそうです。クレタ人は皆嘘つきだという有名な逸話と関係した聖書の論理学の題材とされるようです。皇帝ティトゥスの時代とほぼ同時代であり、地中海世界にありふれた名前という事と同時に、皇帝ネロの暗喩と同じく、皇帝の暗喩でしょう。生涯を見ても、ユダヤ戦争でのエルサレム攻囲はありますが、ユダヤ王女と恋愛関係に陥っており、それがまたオペラの伏線でもあるわけですが、シーザーとクレオパトラの逸話に例えて、ローマ市民が反対して結婚しなかったそうですが、その後はローマの大火やヴェスヴィオ火山の噴火などからわずか2年の治世で急逝し、それも次代皇帝である実の弟に暗殺された可能性が高いそうですが、結果としては善政であったと後世に評価されているようです。いずれにしても皇帝の選出の時点からユダヤ人、エジプト人、ギリシア人がローマ帝国に極めて大きく影響していることが理解されるかと思います。直接選挙権のあるローマ市民以外の被支配民族を含めた多民族国家であったという事であり、それらをまとめる上でのユダヤ教からのキリスト教の成立と発展という歴史があるわけです。)
(ティトゥスへの手紙としては、ショパンの同名の親友への書簡と、ベレロフォンテ・カスタルディというルネッサンス時代のイタリアのアマチュア作曲家と分類される作曲家の作品に皇帝ティトゥス・ヴェスパジアヌスへの手紙という作品が認められます。新約聖書のテトスへの手紙が同時代の皇帝への手紙の意味であるという解釈がイタリアでそもそもあったという事なのだと思われます。ショパンに関してはあまりに仲が良いので同性愛を疑われる根拠とされたりするそうです。ショパンに関しては愛人のブラザージョルジュ・サンドについていずれ考察したいかと思います。)
(皇帝ティトゥスの父親のウェスパシアヌス帝はカエサルからの血統を持たないフラヴィウス朝の創始者で70歳まで生きて最後は立って死んだそうですが、やはり生没年が9年11月17日 - 79年6月23日とあり、シンボリズムがあり、またヨセフスと知己を得て、ヨセフスにフラヴィウスの名前を与えています。ネロ帝との逸話もあり、非常に人間的なエピソードが多い皇帝のようです。息子のティトゥス帝とは基本的に同姓同名であるようです。親子の関係は旧約聖書のダヴィデとソロモンに例えられるのでしょうかね。まさにこういったところからも「ヘロデの呪い」の如くフリーメイスンリーの始源を古代ローマ、古代ユダヤ、古代エジプトに遡る発想はあるようです。)
(追記:同日にプレミアグランドロッジの国のイギリスのEU離脱が国民投票で決定しました。何とも全く予想外の結果でしたが、まさにプレミアグランドロッジの国であるという事なのだと思います。このブログでも当初から触れていた、フランス大東社系フリーメイスンリーと正統派フリーメイスンリーとは至高の存在への信仰について憲章の違いが存在し、認証を取り消した歴史があり、その中でスコティッシュライトの存在は極めて重要なきっかけでもありました。EU成立の父と呼ばれるブラザーリヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギーについてもいずれスコティッシュライトを絡めて触れられればと思います。またブラザーリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーと親交が深かったブラザー鳩山一郎の孫の鳩山邦夫氏の早すぎる死をお悔やみ申し上げます。)

Portrait of Hasekura Tsunenaga, by Claude Deruet (French Painter), Italy (17th century)
PRIVATE COLLECTION (Galleria Borghese, Borghese Gallery)
まあ明らかにフリーメイスンではないんですが、いかがでしょうか。フリーメイスンリーについて語るときにはキリスト教やユダヤ教について触れないわけにはいかないのはわかられたかと思いますが、その際に日本では特に隠れキリシタンとそれ以前のイエズス会などによるキリスト教の伝道について触れないわけにはいかないわけで、その際には長崎であれば天正遣欧使節団、東北であれば慶長遣欧使節団があるわけで、後者のいわゆるローマに行ったキリシタンの侍として挙げられる伊達政宗の使節である支倉常長のローマで描かれた肖像画です。洗礼名も入れると支倉六右衛門常長ドン・フィリッポ・フランシスコというそうで、常長という名前ももともと長経であるとか、派遣された経緯が明確ではないとか、父親が切腹を命じられて、本人が追放と同じで派遣されたとか、帰国後も禁教令のために不遇のうちに2年で亡くなったとか、実際には84歳まで長生きしたとか、墓が3か所あるなど、確実にローマに行ったことは記録にあるわけですが、日本での人生については謎に満ちた人物となっています。まあそういうところがこのブログで挙げる要素になるわけで、生まれてから死ぬまでカトリックで宣教師であったらフリーメイスンリーには箸にも棒にもかからないのかもしれませんが、そういう人生であっても日本に来るとたちまちフリーメイスンリーの範疇になってしまうのがまあフリーメイスンリーであり、キリスト教なのだと思います。
明治維新前の徳川幕府による万延元年遣米使節、文久遣欧使節、明治維新後の明治政府による岩倉使節団が主に今日の日本の文明開化を主導した日本人による欧米文化の導入のきっかけとなったと考えられているわけですが、これらにプラスして、長州ファイブなどの政府以外の留学、明治維新後の政府による留学、出島のオランダ人や訪日した外国人による文化の導入、お雇い外国人による導入、そして戦後のGHQの政策による導入など、それぞれにルーツを辿れるようなきっかけを元としてキリスト教、フリーメイスンリー、欧米文化は日本に入ってきているわけで、その中でも天正遣欧使節団は実際には同時に活版印刷などで印刷した本を九州地方に広めたこともあるそうで、その後の日本の印刷術にも影響を与えているようです。一方の慶長遣欧使節団は帰国してすでに禁教令が広まっていたこともあり、具体的な成果は認められずに、同行していたフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロは火あぶりで殉教しています。天正遣欧使節団と慶長遣欧使節団の決定的な違いは、それが前者はイエズス会の主導で、ポルトガル船によって行われて、地球を西回り、インド周りでローマに達したのに対して、後者はフランシスコ会の主導で、スペイン船によって行われて、地球を東回り、メキシコ経由でローマに達したというところだと思われます。当時の大航海時代のトルデシリャス条約、サラゴサ条約に基づいて地球を二分にするという発想があり、日本における布教についてもイエズス会とフランシスコ会で東西に二分にする状況が部分的にあったようです。
まあそうはいっても日本最初の遣欧使節であったことは確かなわけで、それらが持ち帰ったものが数多く伊達家ゆかりの寺などには所蔵されており、自友俳句で表したように伊達政宗はじめ伊達家の人々がキリスト教を弾圧しながらも自身がほぼキリスト教徒として全うしており、それらの影響が今日まで仙台や東北地方に影響を与えていることかと思います。そもそも支倉常長が出発する2年前にソテロが航海から上陸したその日に慶長三陸沖地震が発生しているそうで、彼らの存在と特定の日付に基づいた三陸地震の発生はキリスト教布教と密接に結びついていることは確実のようです。また慶長使節団の計画自体がこの地震と津波の影響による可能性は大きいのではないでしょうか。このブログも2011年3月11日の東北大震災に強く影響されて書き始めたものであり、その歴史をさかのぼっていくと必ずこの支倉常長の歴史的な偉業に到達することになるわけで、フリーメイスンリーとはなかなか直接はつながらないものかもしれませんが、実際はリスボン地震なども含めて、まさにフリーメイスンリー成立に直接的に関与する印象がある、キリスト教とフリーメイスンリーという関係を考えされられる人物であるかと思われます。
彼の肖像画は他にも国宝に指定されたものなどがあります。





家紋の事や、彼の比較的由緒ある家柄など、イエズス会における黒田や大村、大友、島津などのシンボリズムと共通する、フリーメイスンリーに共通するシンボリズムも認められ、彼らの使節団が残したスペインでの子孫や、足跡などは、世界史史上唯一のものであり、東北に残したものと同時に貴重なものになるのだと思われます。
最初に挙げた絵は床がモザイク模様になっていて、それもあってここで挙げたのですが、彼のその後の人生の謎とも混じえて、またその末裔が現在まで続いていることも含めて、日本人にとってのキリスト教、フリーメイスンリーは何かという話題でもってここに取り上げてみました。
(追記:2014年に1か月程度東京国立博物館で展示されていたそうです。私も少し記憶がありましたが、当時はそれほど実物への興味はなかったのだと思います。カトリック関連としては現在東京都庭園美術館でメディチ家の至宝をやっていました。これについては展示物も非常に興味深くはありましたが、それ以上に初めて訪問した旧朝香宮邸のアールデコの建築そのものに圧倒されました。なかなか日本の建物としては相当珍しく、ブラザー東久邇宮の息子さんの朝香宮鳩彦王が作られた建物であることと、戦後に外務大臣公邸として吉田茂が住んだことなど、まさに最高級の日本の近代を象徴する建築でありました。そもそもラリックのガラス細工が建築当初の意匠のままある建物は日本で多くないのではないでしょうか。なかなか変わった美術館であり、東京にあるのでなかなか集客は良いようですが、豪華絢爛たる建築と展示物で、まさに平成の東京を象徴する展示であるかと思われます。)
(2016/7/9追記:東京国立博物館ではちょうど7/10までで伊東マンショの肖像というのをやっていました。日伊国交樹立150周年の企画だそうで、2014年に発見され、ドメニコ・ティントレット(1560~1635)が完成させて、ミラノ、トリヴルツィオ財団蔵とのことです。

伊東マンショもイエズス会士となっていますが、没年が1612年11月13日であり、伊東の名前も含めてシンボリズムを認めるようです。洋の東西と言いますが、その関係の歴史はまさに宗教、文化、人種、環境の違いそのものであり、それら全体でフリーメイスンリーになるのかと思われます。そういう歴史を正しく認識することが、まさに正しいフリーメイスンリーの認識につながることかと思われます。)

“Memento mori”. Mosaic from Pompeii 30 BCE — 14 CE.
Naples, National Archaeological Museum
まあちょっと考古学的な題材なんですが、実際には時事ネタに近いということで、現在東京国立博物館で開催中のポンペイ展のものです。