FREEMASONRY
約2年前でしょうか 盛夏に訪問した際に最も新しく作られていた墓 まだ亡くなられていない方です。
壇原照和さんのブログでは私の知らない新しいものもあり、かなりその後多くの墓もでききれいになったのではないでしょうか。
ロータリークラブのシンボルと一緒に併記してあります。比較的新しいですね。
かなりこの当時は草が生えて整備されていませんでした。ちょうど横で造園屋さんが草刈り機で整備していました。
墓地の下のほうに生麦事件の犠牲者二人のお墓もありました。これはフリーメイスンリーのシンボルはありません。薩英戦争のきっかけになった事件です。極めて興味深い維新の事件です。英海軍が実質敗北したのはこの戦争くらいしかないのではないでしょうか。
おそらく日本全国でフリーメイスンリーのシンボルが最も認められるところだと思います。そこには横浜での開港以来のフリーメイスン達の歴史と思いがすべて集約されているわけで、彼らの生きた証しとしての墓石とシンボルがあるわけです。現在の横浜の状況はこれらの伝統と様々に絡み合い難しい状況にあることは確かだと思われます。当時の整備されていない状況は一つのそれらの表れだったと思います。
(追記:横浜外国人墓地の公式ホームページでオベリスクのいくつかは各国の代表のシンボルだということを確認しました。個人のものではないものがあります。また事前に許可を得ず使用したことをお詫びいたします。よろしくお願いいたします。各国の代表ということはグランドロッジのものということになるのでしょう。横浜外国人墓地のフリーメイスンリーにとっての重要さが改めて理解されました。オネイダ号事件というのもあったのだと知りました。)
外国人墓地の近くにはメンバーの経営するオシャレな飲み屋もあるのでぜひ探して立ち寄ってみてはいかがでしょう。
さて横浜といえばみなとみらい地区が現在最もオシャレで発展している場所だと思われますが、この場所での最近のフリーメイスンリーの象徴を見てみましょう。
横浜みなとみらいの象徴と言えば何といってもランドマークタワーと観覧車でしょう。インターコンチネンタルホテルの帆を模した形も際立っていますし、その後ろのクイーンズタワーの3つに連なる形も一つのシンボルでしょう。
観覧車は英語でFerris wheelといい、パリ万国博覧会でエッフェル塔に対抗するシンボルとしてジョージ・ワシントン・ゲイル・フェリス・ジュニアという方が現在の形で最初に作ったそうです。一つのシンボルだと思います。ドコモの電波塔もシンボルではないでしょうか。ドコモについてはYRP野比の関連で後に触れる機会があると思います。
象の鼻パークの風景と、大桟橋ふもとの11枚の黒い壁
11という数字はユダヤ教関連で何か大事な数字のようです。ちょっとこれはよくわかりません。フリーメイスンリーのシンボルとはわかりませんでした。
たねまるの石碑 黒い丸石は時々認められます。横須賀にもありますがシンボルとして教わった事はありません。これから教えてもらえるかもしれません。(追記:バロットの黒ボールかもしれませんね。これは個人的には由々しき事ですが。)
イベント会場用のベンチの石 これはよくあるラフアシュラーのシンボルですね。フリーメイスンでないまだ磨かれていない人間を示しています。
喜ばしい事にパーフェクトアシュラーのシンボルもありました。やはり日本の開国後のフリーメイスンリーの盛んな横浜ならではのシンボルだと思います。わずかに積み上げられているところが象徴的です。
象の鼻パークの形です。Gの形を模しているのですがわかるでしょうか。
なかなかフリーメイスンリーのシンボリズムは説明するのは非常に難しく、かつ勉強しなければいけないことが多々あるので私自身もなかなか大変でありますが、皆様のコメントや反響を糧として今後もできるだけ続けていきたいと思います。
問題や不備、間違いなどありましたら指摘してください。
日本人で最初にフリーメイスンとなったのはウィキペディアなどでもブラザー西周、ブラザー津田真道がライデン大学に留学中になったという事で有名ですが、どちらもオランダ語のレベルはかなり低く、留学先の教授の言うがままに入会の儀式を済ませたようです。その後の儀式や会合などへの参加はほとんどなかったようです。彼らは哲学や科学に関する基本的な考え方を日本に輸入し、その最大の業績は日本学士院につながる明六社の設立とされるようです。
ブラザー林董はいわゆる現在につながる日本の外務省方の英米方面のフリーメイスンリーの流れの源流を作った方かと思われます。簡単に言うと現在の日本の国際社会での立ち位置を決定した方かと思われます。
山手にあるFar East Lodge No.1のホームページのHistoryのサイトにブラザー林董についてBrother James L. Johnston
Past Grand Master, Japanが文章を載せていましたので、英文を翻訳しここに転載いたします。非常に拙い直訳で申し訳ありません。興味のある方は英文を直接お読みください。
青木周蔵さんというのはペルーの大使館立てこもりで有名になった青木盛久ペルー大使の曾祖父なのですね。その後のドイツとイギリスの関係を考えても興味深いエピソードですね。
ブラザー林がもし天皇の直接の相談役になっていたならば大正天皇も違った道を辿ったでしょうし、その後の日本もだいぶ違った事になっていたのでしょうね。人力車のエピソードも合わせて、葉山で没した事なども、様々に想像されます。最初に教わったヘボン医師が専門が眼科で、足切断手術を日本で行ったなどのエピソードも合わせると複雑さが増します。いずれにしても日露戦争とその後の第一次世界大戦、ロシア革命の歴史の壮大な流れの大きな一翼を担った人物であった事は間違いないでしょう。日露戦争後の東郷平八郎元帥の人生と比較するとフリーメイスンの生き方とは何かという事を感じさせてくれるかもしれません。私自身が気になったのは彼がキリスト教徒であったかという事です。恐らく五稜郭の戦いに参加したことも含めてそうではなかったのだと思います。明治のフリーメイスンの生き方は現代の日本人に直結する部分を感じます。キリスト教徒になった方も明治時代には多数いらっしゃいますが、フリーメイスンはそれとはまた違ったアプローチである所がまさに宗教とは異なるフリーメイスンリーなのだと思います。
いずれにしても彼のフリーメイスンとしての活動、語学力、日本人としてのブレの無さが結果として戦艦三笠が今日保存されるような日露戦争の勝利につながった事は、その後の東郷平八郎元帥の軍神としての評価などと絡めて、日本人が良く知っておくべき本当の歴史なのではないかと思います。
青山墓地 ブラザー林董の墓 フリーメイスンリーのシンボルは無いようです。
たぶん経営者がロータリークラブかライオンズクラブなのではないでしょうか。
まあたんなる装飾と言えば装飾ですが。
ホテルのロビーの装飾です。
以前神戸のポートピアホテルを出しました。
ちょっと古い写真ですが横浜駅前のホテル・ベイシェラトンですね。
どうも横浜みなとみらい地区にもこのブログの影響かどうかわかりませんがソロモン宮殿を模した建物が観覧車の横に出来るようです。

洋服の青山の経営のようですが(追記12/31:AOKIの経営でした。大変な間違いでした。申し訳ありません。)、お台場などと同じく様々な形式に対応した結婚式場のようです。
MM21地区やそれに連なる横浜の埋め立て地域はその知名度とイメージから出来た当初から期待が大きいのですが、実際には様々な思惑が絡んでなかなかいまいちな開発の進捗具合で、ライバルとも言える東京お台場と比較して若干停滞気味な印象ですが、東京お台場にしても開発の進捗具合はばらついている印象で、どこもバブル崩壊後の大規模埋め立てに伴う開発は問題があるようです。東京お台場に限っては東京オリンピックの誘致などもあり今後またさらに開発が進む事が予想されます。
さてこの地域については以前象の鼻パークの完成で、Gのシンボルマークの形を説明しましたが、その際に説明したインターコンチネンタルホテルの船の帆の形のシンボルについて触れましたが、これもホテルのシンボルマークであるVesica piscisとも合わせて、マスト=十字の形になるものかと思われます。また形そのものもVesica piscisになります。

またランドマークタワーのすぐ近くに日本丸もあり、これが三笠公園の戦艦三笠と同じくノアの箱舟のシンボルになるのかと思われます。またランドマークの近くにドックの跡地もありますが、これは全く定型的ではありませんが、恐らくヴェルニーの作った現在稼働中の横須賀ドックと同じく、船の基地として、いわゆる人間にとっての子宮のイメージで、Vesica piscisなどと同じようなイメージなるものかと思います。


いずれにしてもライオンズクラブやロータリークラブが主体となるといかんせんすぐに商業中心の話となりがちですが、港の見える丘公園周辺、特に横浜外国人墓地のフリーメイスンリーのシンボルである数多くのオベリスクを中心として、そこに関連する数多くの開国後の開港地横浜にまつわるフリーメイスン達の活躍がそれら今日の横浜の発展と生活に根差していると想像すると様々なシンボルの真の価値、意味づけが理解されるのではないかと思います。
みなとみらい地区に関してはかつての有名な長期継続した県知事や市長の施政と開発が様々にリンクしていて、このブログでも多少名前が出たりしていましたが、バブル崩壊後に地方自治体の財政赤字の原因として批判を浴びて、改革派のマスコミを味方にした政治家たちに選挙で敗北してその後病死をされるなどが案外バブルのツケとも呼ばれるような昭和~平成期の負の印象として残っているものかと思われます。いずれの地域の開発にしても当初の計画などで当時の流行として大都市の社会党やマルクス主義の影響した首長の時代の影響が認められ、これは横須賀の中央公園のモニュメントのような側面があるかと思われます。現在もそれらは地方自治体の社会主義的傾向などに多く残され、今後の日本の課題になっていくものかと思われます。
現在の県知事はマスコミ出身の黒岩祐治氏であり、これに関してと言ってはなんですが、同じ岩つながりで横須賀夏島の明治憲法起草地記念碑に名前を残す戦後の民選初代神奈川県知事内山岩太郎氏について、以前もパーフェクトアシュラーの関連で触れましたが、さらに詳しく、目下銅像から胸像に代わるなどの話題もあるようで、フリーメイスンリー関連としてこのブログで取り上げようかと思っています。
また現在の横浜市長は林文子氏ですが、こちらもフランスルノー社の子会社となった日産出身の方で、フランス革命以降女性参加のロッジや男女同権について進歩的なフランス大東社との関連もあるかもしれません。名前に関しても十字が二つの林や三画ずつの名前など関連があるかもしれません。(追記8/22:三画ずつの名前は明らかに間違いですね。訂正します。明らかに勢いで書いていますね。大変申し訳ありません。横浜市については開港150周年で行われた開港150年祭のプロデューサーの方がついこの間事故死されたそうです。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。)
建築とフリーメイスンリーについては発祥から現在に至るまで現代社会の趨勢としても主要なテーマとならざるを得ないと思われますが、今日の思索的メイスンリーにおいては本質的な部分は文字や言葉を主体とした考え方、行動であると思われ、象徴としての建築物はあくまでそれらの記念碑的な存在であり、本来は本質ではないものかと思われます。日本において今後本格的にフリーメイスンリーが普及し、アメリカのように日常生活で普遍的な存在となったときに、今日の日本の状況がどのような変化を遂げるか、人々の内面の変化をどのようにもたらすか、それがフリーメイスンとして最大の関心事であり、形式的でない本質的なフリーメイスンの仕事かと思われます。
さてではそれ以外に気付きづらいシンボルはあるでしょうか。

横浜銀行本店の一階入り口の両脇に小さなピラミッドがありますね。横浜銀行もブルーを強調したものとなっています。もちろん戦前の横浜正金銀行とは規模も国際業務の取扱量も格段に違いますが、多少その系譜を地元横浜の名前とともに継承しているのではないでしょうか。
ちなみに戦前の横浜正金銀行はその後東京銀行となり、現在は三菱東京UFJ銀行となっています。横浜正金銀行本店は横浜空襲でもほぼそのまま残り、現在は重要文化財に建物が指定され、内山岩太郎氏が最後の仕事として開館した神奈川県立歴史博物館となっています。現在はこのブログでも取り上げたペリーの肖像画の違いを主題とした「ペリーの顔・貌 かお・カオ -「黒船」の使者の虚像と実像-」といった企画展を行っています。いわゆる日本財団の助成事業のようです。三笠公園の話以来どうも英米フリーメイスンリーの視点と日本フリーメイスンリーの視点とは齟齬があるようです。まあそれをとことん突き合わせるのがフリーメイスンリーの醍醐味でもあります。
本日は横須賀米軍基地の開放日です。天気も真夏にも関わらず曇り空でお出かけにはちょうどよい気候のようです。横須賀のアメリカ軍の現実を目の当たりにすることは日々の日本人の生活にも大きな影響を与えてくれるものと思います。朝9時三笠公園から入場ですが、早めに動いた方が待ち時間も短いようです。どうぞ横須賀に近い町の方はぜひこの機会に横須賀にご来場いただき、日米同盟、日米安保の現実、戦後日本の安全保障について御一考下さい。それほど難しく考えなくても楽しめるイベントかと思います。入場には一応身分証の提示が必要になることはありますので携行ください。是非ブラザーのやっている屋台で一声かけてください。
また上野ではツタンカーメン展が開催するそうです。上野はスターバックスが開店し、上野公園もさらに美しい公園になってきているようです。お出かけには良い気候です。是非お出かけください。
(ちなみにスターバックスのシンボルマークは以前に福岡の回で触れましたが、セイレーンで異教の神と五芒星という事でしたが、良く見ると月と太陽のシンボルマークが隠れているようです。)
横浜のフリーメイスンリーのシンボルや横浜外国人墓地に眠るフリーメイスンについても改めて記事にしていく予定ですが、横須賀のフリーメイスンリー事情なども様々にあり色々大変そうです。まあいずれにしてもロッジの外の横浜は平和そうでした。

で一応私自身が所属することにしている横浜ロッジ(実際には現在は全く通っていません。)の管轄する横浜地域のフリーメイスンリーのシンボルについて、二度ほどみなとみらいに行く機会がありましたので横須賀のと同様に見て行こうかと思います。色々な関係上で条件が悪いものであったりすることがありますが、まあそういうのはなかなか色々しようがないという事で話を進めて行くこととします。

これはチマローザの「秘密の結婚」をみなとみらい小ホールで観覧に行った時ですかね。みなとみらいもほとんど私は行かないわけですが、AOKIのソロモン宮殿を模した結婚式場の話題などがありましたが、YES'89の時代からやっと最近おおよそ25年の月日を経て周辺も落ち着いてきた模様のようです。特に東急線に接続する地下鉄の開通が大きいようですが、まあ大規模プロジェクトという事もあり横浜ロッジの様々な内情も後のせサクサクでありながらも関連する状況であるようです。この写真は明らかにかつてのドリームランドを思わせる閑散さを呈しているみなとみらいの中心とも言えるコスモワールドでしょうか。ロッジを模したようなオベリスクを配したお化け屋敷なのだと思いますが、あったので写真に撮りました。後で出しますが港が見える丘のイギリス館の形を模しているのですね。もちろん関東大震災で崩壊した日本大通りにあったロッジのさらに前の時点の最初の最初のフリーメイスンリーの会合は恐らくこれらイギリス大使公邸で行われていたのであろう事は明らかだと思われます。


ちょうどアルジェリアでの日揮の事件があった頃なのですね。日揮の本社がみなとみらいのランドマークタワーの横にあるわけですが、良く見るとラフアシュラーがあったりします。

まあドックヤードガーデンでしょうか。ヴェルニーの作った横須賀ドックもありますが、こちらは役目を終えて公園となっています。ランドマークタワーとドックで男性器と女性器の象徴となるわけですが、なかなか日本の奇祭のようでこういう直接的な配置なのが東洋的でしょうかね。横浜ロッジのパストマスターがちょうど建築関係でもありましたのでこういう建築関係に関わっていたのでしょうかね。古事記なども読むと非常に直接的な表現で冒頭に書かれていたのを思い出します。

タワーブリッジを模した塔ですね。後で上りますがほとんどの人があれは何なんだろうと思っていると思います。一度登ってみると面白いですが、非常に拙い形の螺旋階段になったまさにただの展望塔です。本当にタワーブリッジに準じた建築となっていますが、現状では幼いカップルのラブホテルのようになっています。まあ極めて東洋的でしょうか。


いわゆる写真撮影スポットになっているのですね。まあバブル時代に設計なのでとにかく見栄えにこだわったお金をかけた設計で、意味や実益の面では全面的にフリーメイスンリーのシンボリズムに依存しているのですね。そういうわけで未だに収益性や商業性の面で問題があり続けるわけですね。どうなる事やら。TPPなど貿易の自由化で港の物流量は明らかに増えるのでしょうがねえ。

聖アンデレ十字がはためいています。ロシア海軍のシンボルとなるようです。いわゆるスコットランドのセントアンドリュークロスとは反転しています。後方にZ旗があります。Z旗は三笠ライオンズのシンボルにでもなったのでしょうかね。まあ三笠公園もそうですがこういう公園の人の少なさは日本のフリーメイスンリーの拙さなのでしょうね。日露戦争の対立を越えた友愛の表現でしょうか。


螺旋のライトがあったりします。ジャックの塔、横浜市開港記念会館が見えます。手前に港湾労働者の海岸通り団地があったのですが再開発中です。

歩きやすい汽車道ができたのですね。赤レンガ倉庫にランドマークタワーの下から繋がっていて動線がやっとつながった感じでしょうか。まあしかしここまで来るのにめんどくさい。距離的にも時間的にもと言ったところでしょうか。凱旋門を模した形でホテルでしょうか。碇のシンボリズムもあります。

碇のシンボリズムは横浜ではそれほど多くないですね。今後増えるのでしょうか。

赤レンガ倉庫はオープニングで行った記憶がありますがそれ以降全く行った覚えがありません。最近経営主体がキリンから三菱商事に変わったそうですが、どうなんでしょうね。そのうちビールとフリーメイスンリーの関係もやる予定です。

クイーンの塔、横浜税関を見ながら大桟橋方面に歩きます。まだまだ広場は一杯ある感じでしょうか。

ワールドポーターズでしょうか。確か映画館があった気がします。これも最近経営主体が変わったとか聞いた気がします。

ちょうどアイスリンクを開いていたのでしょうか。まあ今後はなかなか屋外のスケートは厳しそうです。

大桟橋方面ですが、なかなかどうなんでしょうねえ。ブログに書かざるを得ないということは思ったほど客は増えていないということなのだと思われます。



以前も取り上げた象の鼻パークの地点のキングの塔、神奈川県庁とクイーンの塔です。こんなライトアップをしているのですね。この辺りもこう落ち着く前が酷かったですからねえ。今時景色や雰囲気だけで人が集まる時代ではないでしょうから。ちょっともうねえ。





まあGの形の縁を示すための光るモノリスのような板な訳ですが、11の数字とでユダヤ教の十戒の石板をモチーフとするのでしょうが、明らかに怖がられちゃってるんでしょうね。まあ結局予想通りの大型客船が隣接できない大桟橋という時点で致命的なんですね。観光スポットで商業地域にしようとか、ライティングで公共施設を威厳を持たせて見せようなんて、よっぽどギザの三大ピラミッド見た方がいいわけです。
という事です。まあこの辺はまたその後数カ月たって状況も変わっているでしょうね。



まあ写真撮影スポットな訳ですが、写真が欲しければネットで検索した方が良い写真が得られる時代なんですね。実際の景色が写真を上回るわけでなければ価値はないわけです。そういうのはわからないでしょうね。



ちょうど月がAll Seeing Eyeの形になって来たのですね。まあこういうのもだいぶ飽きられてるかもしれません。山下公園の方に歩いてきています。セントポール大聖堂のドーム型をしたのが屋根にある建物があります。仏塔のようでもあります。

これはもしかすると横浜で最も有名なピラミッドかもしれません。パスポートセンターがこのビルにあるのですね。横浜市在住で海外旅行に行かれた方は皆知っているかと思います。


その横に変な建物があります。イギリス公使館かなんかの分館であったようですが、関東大震災を残った記念すべき建物だそうですが、恐らく保存にどこもお金を出さなかったのでしょうね。創価学会の建物となっていました。山下公園の先ほどのセントポール大聖堂のドームのような建物も関連しているのかもしれません。なんというかまさに横浜のフリーメイスンリーの歴史そのものでしょうか。




マリンタワーもだいぶ経営が危ぶまれていましたが、塗りなおして改築して恐ろしく綺麗になっていました。また登る機会は相当先でしょうか。イタリアンのレストランにでもなっていたのでしょうかね。まあ結局ロンドンの再開発なんかもそうでしょうが全体の構成が一番大事なんでしょうね。


港が見える丘からの風景です。明らかに前のマンションが酷いです。まあそれこそ港湾労働者住宅がこちらに持ってこられた感じがあります。ロンドン大火や切り裂きジャックの話ではないですが、都市の再開発と都市伝説とは切っても切り離せない関係がありますが、全体として調和したものがあってほしいものです。KKRのレストランとホテルがありますが経営はどうなんでしょうね。まあブログに書かれるということはそれなりという事でしょう。


まあ現在の港が見える丘は夜が良いです。



イギリス館ですね。コスモワールドのお化け屋敷と同じ屋根のオベリスクがあります。隣にある文学館も意味がわかりません。ローズガーデンと曲がりくねった階段の庭園がなかなか趣を加えていますがまあかつての威厳はないですね。

まあ夜も照明があるということは訪問することを想定しているのでしょう。ぜひまあ訪問してみてください。

前にあるのがインターナショナルスクールです。この運動場の下のダンススクールの前に横浜ロッジがかつてあった碑文がスコットランド系ロッジの東方の星によって残されています。横浜ロッジFar East Lodge No.1のホームページにも写真があるかと思います。

そのすぐ横にいかにもフリーメイスンという家があります。多分ブラザーの家だと思いますがもちろん迷惑をかけてはいけません。








外国人墓地です。いずれそれぞれ個別のフリーメイスンについて墓標から人生についてコメントしていければと思います。

やはり螺旋階段があったりします。ご近所ではフリーメイスンリーは有名なのでしょうね。

ご飯の量が多い料亭として有名な元町梅林ですね。私はまだ行ったことはありません。

こちらも老舗で有名なウチキパンです。

元町商店街です。綺麗に整備されてなんだか高級商店街です。

店の商標もロータリークラブなんかなんでしょうか。白黒のチェッカーが入っています。

こちらはいかにもフリーメイスンリーっぽい名前ですがどうでしょう。

この辺は良くあるシンボルっぽいですね。

パリのシャンゼリゼ通りにもあったスワロフスキーです。創業者がフリーメイスンのようです。

入り口のアーチは虹でしょうか。上にいるのは鷲のようです。ロイヤルマイルにも似たようなフクロウがいました。


石川町駅の裏側にあるイタリア庭園です。このすぐ近くに内山岩太郎初代神奈川県知事の邸宅もありました。カトリック繋がりなのですね。




石川町からだいぶありますが伊勢佐木町まで歩いて来ました。伊勢佐木町といえば有隣堂という事で本をチェックします。ロストシンボル日本語版は過激なのであまりないのでしょうか。なぜか英語版は置いてありました。その他もフリーメイスンリー関連書がありましたが、私が驚いたのは夜と霧があった事でしょうか。ブログを読んでいるのでしょうかねえ。



これはその当時やっていた美術館の展覧会のポスターですね。わずか数カ月ですが隔世の感があります。国立西洋美術館の館長さんは現在文化庁長官をやっているようです。

これはまた違う日ですね。シラーの詩が書いてあります。シラーは一度はフリーメイスンであったそうですが、本人は辞めた事になっているそうです。そんな事あるのでしょうか。地下鉄みなとみらい駅から上がって来るところです。Grand Lodge of Yukon and Columbiaのホームページによると彼のフリーメイスンとしての資格は確定的なものではないが、ベルリンのルドルスタットロッジのメンバーは彼をメンバーだと考えているということなので、まあフリーメイスンで良いのだと思いますが、本人が拒絶したのでしょうね。1759年11月1日生まれで、ブラザーゲーテととても親しく一緒の銅像も残されています。死亡説が流れた後に回復後の1805年5月1日ブラザーゲーテとともに観劇中に体調不良を生じ、5月9日に亡くなったそうです。ブラザーゲーテは後にシラーの骸骨と思われる骨を前に「シラーの骸骨に寄す」という詩を書いているそうです。
ここにあるのはアメリカ人のアーティストの作品になるそうです。ジョセフ・コスースという方で、元の引用元はシラーが手紙で使った文章だそうです。


シンボルとなる観覧車ですね。手前に洋服のAOKIの結婚式場が建築中です。横須賀にもYRP野比辺りに観覧車を作ったらどうでしょうか。

横浜グランドインターコンチネンタルホテルです。森ビル資本なのですね。

こちらはパンパシフィックホテルですね。現在は横浜ベイホテル東急になっているそうです。

クイーンズスクエアですね。3つ並びになっています。

太陽の塔みたいですね。

これはタワーブリッジを模した展望台の中です。らせん状に登っていきます。

遊園地を見下ろしたところです。

頂上にピラミッドのある白黒の塔になっているのですね。横須賀のベース前のエレベーターが似たような作りになっています。同じ時期に作っているのでしょうね。

この鉄道の跡の道が新しくできたのですね。

みなとみらい21を開発した当時の横浜市長細郷道一氏の揮毫があります。在任中に亡くなったそうです。その後高秀秀信市長となり、中田宏氏、現在の林文子市長となっています。高秀秀信氏以降は綺麗にシンボリズムが踏襲されている感じでしょうか。ちなみに細郷氏の前は飛鳥田一雄氏という珍しい名字のシンボリズムの方でした。

一応固定されていますが水に浮いている日本丸です。シンボリズム的にはどちらが良いのかわかりませんが、いずれにしても使用していないシンボルとしての船はノアの箱舟のシンボリズムとなります。


タワーブリッジに似ていますがちょっと良くわからない形のオベリスクですね。中は人が少ないのでカップルが自由に使っていたりします。ちょっとヤバいですね。


日本丸とランドマークタワーの関係です。まあなかなか壮観ですが人はそれほど多くありません。あまりにシンボル過ぎて駄目なんでしょうね。

なかなか豪華なんですが、展示内容と展示の意欲があまりどうなんでしょうか。まあ豪華なんで展示なんかより施設を継続する意欲は強く感じられましたが。


コンパスと碇のシンボルになります。




日本丸は航海訓練船なんですが、実際日本人向けにできているので船内がコンパクトなんですね。




行った当時は小学生に掃除をさせていましたが、実際どのような利用をしているのでしょうねえ。

日本丸の練習航海の経歴ですね。そういえばこの間大々的なヨットの単独航海を失敗したのが話題になりましたがまあ素人がやって良いことではないということなのでしょうね。

操舵輪があります。仏教の法輪のようですが、恐らくそことの関連は言われていないのでしょうね。シンボリズムもそんなもんです。これがキリスト教だとシンボルになっているのでしょうね。実際は今でも普通の日本人の仏教のシンボルは卍です。

日本丸の日本国旗がちょうどドコモの電波塔と重なってしまっています。まあなかなかシンボリズムですね。

重要文化財のドックヤードガーデンですね。つい最近まで三菱重工のCMでやっていましたが終わってしまいました。しかしこれが重要文化財だと現在も米軍基地の中で使用されているヴェルニーの作った横須賀ドックは国宝級ということなのでしょうね。現役であり見た目の印象も違います。

星のシンボリズムがあります。これはなかなかうまくいっている感じでしたね。その他は何がいけなかったのでしょうか。やはりシンボリズムを意識しすぎなのでしょうね。フリーメイスンリーはなかなか難しいです。

位置関係はこんな感じです。

恐らく友愛の結び目なのでしょうがどう見ても怪獣ですね。まあ当時の勢いが表れているのでしょうが、この建築で何かストップしたような印象はあります。まあシンボリズムは日本の書道のようなものでしょうか。心が表れるのですね。まあそんなものです。やはり聖書の通読が必要なのだと思います。

遊園地ですね。

スターバックスと鷲の銅像に布がかかっています。恐らくこの鷲は神戸と同じくアメリカを意味するのではないでしょうか。さすがに魚の像はありませんが、まあバブル経済の際の象徴なのでしょうね。今のアベノミクスもバブルと同じことをやっているのが馬鹿らしい感じではあります。


こちらはクイーンズスクエアの一階のところですね。お決まりの白黒のモザイク模様です。一応ここが中心なのでしょうね。

この時はロンドンシンフォニーの演奏会であったのでしたね。横浜駅ではフリーメイスンリーのシンボルの入ったバッグをもった楽団の方々がいました。声は掛けなかったのですが、演奏は完璧でした。私のこれまで聞いた中で最高の音楽であったことは間違いありません。なんせ演奏している若い人たちも感動した様子でした。アンコールも一切受け付けなかったのが印象的でした。まさにフリーメイスンという仕事であったと思います。それ以降ブラザーブルックナーの交響曲第9番をブログの音楽にも加えています。
横浜のフリーメイスンリーについては外国人墓地の記事と後は横浜の某病院とフリーメイスンリーの話についても記事としていきたいと思っています。ブラザードン・ブラウンについても開港資料館と絡めて少し紹介できればと思います。また自衛隊の観艦式についてもいずれ記事としようと思っています。まあ少しネタを温めて出していく感じでしょうか。
横須賀の7月は独立記念日から始まって、ペリー祭、開国祭、東京湾海上交通センターの開放とイベントが目白押しです。横浜も花火大会やイベントが盛りだくさんですが、夏休みとなれば家族連れにもちょうどよいかと思います。家族でフリーメイスンリーのシンボル巡りもパワースポット巡りよりは観光の充実さがあるのではないでしょうか。もちろんシンボリズムの学習が最も大事になるのは言うまでもありません。
著者の徳本栄一郎さんと言う方はこのノンフィクションの前に同様のノンフィクションとして英国機密ファイルの昭和天皇という本を新潮社から出していて、その取材の際にフリーメイスンリーについて知りこの様な本を出したそうです。経歴は佐賀県出身の方で祖父が海軍主計官と言う事で、その関係があるのかどうか分かりませんが、イギリスでロイターの特派員を務めていて、その後フリーライターとなっているそうです。一見して世界各国を取材で飛び回っているのですが、その経費が本の売り上げだけで賄われているのかどうかは若干疑問を感じるところかもしれません。
いわゆる日本で出版されている本の中での数少ないブラザー片桐三郎氏の本にならってフリーメイスン、フリーメイスンリーと表記している本であり、また表紙にブラザーマッカーサーの写真とスコティッシュライトのシンボルが描かれているという稀な本となっています。
![]() | 1945年日本占領―フリーメイスン機密文書が明かす対日戦略 (2011/02) 徳本 栄一郎 商品詳細を見る |
出版されたのが東日本大震災の直前という事で、アマゾンのレビューにも印象的なものがあったりしました。
帯もなかなかすごく、日本人の精神を根底から改造せよ――。第一次資料が物語る衝撃の事実!となっていて、なかなかまあ端的に言って横浜ロッジのフリーメイスンリーの広報の本みたいなところなんですが、期待が高まる煽りと言ったところでしょうか。以前このブログでも紹介した、檀原照和さんによる平凡なフリーメイソンの非凡な歴史もほぼ同時期にさらに横浜ロッジの歴史に特化した内容となっており、ともに横浜ロッジの活動と言う事になるのだと思われます。まあもちろんこのブログもその一端と言う事なのだと思いますが、今回の本が1700円となかなかの値段となっており、まあ当ブログも再びいつか有料化を検討したいと思っていますが、なかなか内容的に難しいのかもしれません。
内容的にどうなのかと言うと、まあなんというかなかなか読むのに2011年から2年近くかかったというところでお察しいただきたいところかもしれません。主な内容の中心は何かと言うと基本的に天皇の終戦工作や戦後のブラザーマッカーサーのフリーメイスンリーの活動や日本人への門戸開放の経緯で、確かにHouse of the Templeやロックフェラー財団、スイス銀行と言った公開されている図書館に直接連絡をとって一次資料に当たるという手法と、ブラザーマッカーサーの側近やその他のフリーメイスンに話を聞くと言ったやり方は客観性は高いんでしょうが、それで結局どうなのというところで、最後に横浜ロッジの隣にあるYC&ACの敷地にA級戦犯の遺骨がまかれた可能性が高いという話で終わっていたりして、どうもまあ作者の人はほぼブラザーとして遇されているわけですが、どうもフリーメイスンリー自体に対する興味や加入の意志は無いようで、どうもだからどうなの?という内容で終わっている感じになっています。結局この徳本栄一郎氏の立場というものになるのでしょうが、どうもロイターのロンドン特派員であったという経歴などからもほぼエージェントとして仕事をしている感じで、その関係でフリーメイスンになってもいいよ位な感じでイギリスのエージェントとしてこういう本を出版する経緯となった感じでしょうか。途中でこの前著で大分書いたような白洲次郎氏についてもだいぶ書いていますが、どうも彼がフリーメイスンとは遠い存在であることを確認したような感じから、大分否定的に書いていて、色々フリーメイスンリー関係の資料を知り幻滅したみたいな感じでしょうか。またかなりフリーメイスンに近い感じの毎日新聞の記者についても書いていて、エージェントとして結局インドで客死した経過を見て、御自分も単なるエージェントとして動いていたらヤバいみたいな感じを知ったような感じでしょうか。
とまあ一次資料に当たったという内容であるために、ご本人の意図がなかなか推察しづらく上記のような感想になってしまうのはしようが無いのだと思われます。ただ単に読むと終戦後の米兵の日本でのロマンスの話や、昭和天皇が終戦前に赤十字に寄付を行って財産の保全に動いていたとか、ブラザーマッカーサーのフリーメイスンリーでの活動やフィリピンと日本のグランドロッジの活動や、ブラザーリビストが昭和天皇のフリーメイスン加入を画策したとか、ある意味内容的には過去に陰謀論者とされる赤間剛氏の昭和天皇についての本昭和天皇の秘密や、鬼塚英昭氏の天皇のロザリオ 上巻 日本キリスト教国化の策謀などの方が極めて狭い範囲で情報を収集しているとはいえ、個人的には文章の迫力もあり面白い内容であるのではないかと思いました。まあそうした日本では陰謀論に分類されるような内容について実はそれが史実なんだよとアメリカやイギリス、スイスなどの海外の財団などは追認したというものになるのかと思いますが、結局それを書いた方が最後にA級戦犯合祀について同情的な触れかたをしているような事で、全て台無しにしているような虚無感が残るものとなっているところでしょうか。
というわけで目新しい内容は一切無いのですが、実際陰謀論とされてきた内容を一次資料にあたって権威づけしているという、なんともちょっと卑怯者的な、いわゆる海外マスコミで自らの身を第一に守ることに重点を置いた、結果的に八方美人的な内容となっているかと思われます。まあ恐らく本当に面白い内容などはその他にいくつも個人的に保存しておいているのだと思いますが、3.11地震の直前に出版されたというフリーメイスンリー関連本というものであり、あまりにセンセーショナルな内容でも逆に反感を買うだけであり、これまでの陰謀論を裏打ちするような冷静な内容にするのが最も効果的という程度を加減したものであるかと推測されました。
あとは気になったのがご本人が自然と英会話がスムーズな流れとなっているようなのですが、どうもそれがどの程度までの理解であるのかというところがなかなか掴めないというか、実際あまり分かっていないのではないかというところが多く感じられ、また世界各国の取材旅行について必ず優雅な一シーンを挟むのが何の意味があるのか全く不明で、結局フリーメイスンリーについて一般人以上に理解しているものではなく、また実際にはフリーメイスンと全く同じように遇されていながらそれについて自身はなんともコメントをしていない所が、どうも残念というかなんとも消化不良を感じさせずにはいられない所でしょうか。
取材の過程で出てくるほとんどの人がフリーメイスンであり、恐らくイギリスでの徳本氏の師として関わる人物も恐らくフリーメイスンなのですが、本当に最後のところがA級戦犯の遺骨の話で終わるところは非常に残念という他ないというところでしょうか。
興味のある人は戦中戦後の日本におけるフリーメイスンリーの活動について日本語で書かれた資料としてさらに調べたり、まとめたりするのに参考になる資料となるかと思われますので、実際は英語の資料に当たる方が良いかと思いますが、参考にされると様々なきっかけになるかもしれません。この手の本は本当にロスト・シンボルやダヴィンチ・コードの翻訳などもそうですが、フリーメイスンリーについての基本的なFreemasons for Dummiesレベルの内容を理解してから書かれると全く違ったものになるのではないかと思うのですが、なかなか日本のフリーメイスンリー関連の書籍の浸透度が明らかに足りないというところで、結果的に赤間剛氏のようなマスコミ出身者の偏っているとはいえ偏執的な情熱を感じさせる著作の方が内容の充実さや面白さという点においても段違いのものになって来るというところはあるのだと思われます。
まあブラザーダン・ブラウンシリーズやその他の最近の日本のフリーメイスンリー関連の出版に共通するものですが、極めて冷静な態度や姿勢を貫いて、客観的な記述に軸をおいたものの方が、結局は本質的な理解に繋がるという経験的なものもあるのだと思います。陰謀論を交えた内容を読んでそのままロッジに来る人がいかに素早くフリーメイスンリーから離れるかというのも歴史的に恐らくこの本の内容のようにうんざりするほど感じさせられたのだと思われます。
まあ横浜ロッジやその他の日本のロッジに訪問する際に必ずしも必読の内容とは思えませんが、実際ロッジに行けばメンバーは皆アメリカ人ばかりという現実に直面するわけで、何度かロッジに行ったあとには必ず読みたくなる本、またはさらに深い内容を知りたいと思ったら最初に読んでおきたいと思う本ではあるかと思います。特に横浜ロッジの場合にはこの本に書かれたようにブラザーマッカーサーの写真が象徴的に置かれていて、私としては隣にある東京大空襲を立案したブラザーカーチス・ルメイの写真の方がインパクトがあったのですが、まあそれとまた東京スカイツリーの仏塔としての意味なんかも出てきたりするのでしょうが、そういう書かれた内容を追認する意味でも横浜ロッジに訪問するつもりの方は読んでおくとよいかもしれません。


(実際にロッジにある写真は上のものとは若干異なります。さすがにインターネットには出てきていないようです。)
追記:詳しい書評のページがありましたのでリンクしておきます。
全くビックリなわけですが、この辺りがグラントリアンのすごい所なわけで、またこうした競い合いが世界各地でのフリーメイスンリーの活動を常に活性化させて素晴らしいものとしているという典型なのかと思われます。

外観はアニヴェセルのソロモン神殿の形とは対照的なモダンなそれでいてパーフェクトアシュラーの重ね合わせのような構造で、石壁の構造が象徴的なようです。場所も11-2街区であったり、電話番号も1221と何やらMM21地区に合わせて2と11のシンボリズムを意識したもののようです。正面がアウディの販売店だったりと何やら鼻息荒い感じが感じ取れるわけですが、面白いのは教会式は分かるのですが、神前式で本牧神社や伊勢山皇大神宮の名前が挙がっているなどなんともフランス大東社の一神教にこだわらない特徴を感じさせるなかなかソロモン神殿の形のアニヴェセルとはまた違う印象を与えるなかなかかつてフランス公使館とイギリス公使館が存在し薩長同盟から大政奉還、戊辰戦争、明治維新という日本の一大変革の中で鍔迫り合いを行った時代を彷彿とさせるような、規模はだいぶ異なりますが、そういう開国開港の土地横浜らしいものではないかと思われます。
ちなみにオリエンタルホテルというと1870年(明治3年)にオランダ人のG・ファン・デア・フリース(G. van der Vlies)により神戸外国人居留地79番地にて開業した老舗ホテルが有名ですが、こちらもやはりオランダ人やフランス人が経営に携わっており、グラントリアン、大東社の系列になるのかと思いますが、その後神戸ゴルフ倶楽部で取り上げたイギリス人アーサー・ヘスケス・グルームも関わっており、こういうのも絡んで仏教や神道、キリスト教と英米フリーメイスンリーと大陸フリーメイスンリーの様々な対立競争関係が見えてくるようです。三代目の建物は風見鶏の館を手がけた建築家ゲオルグ・デ・ラランデとヤン・レッツェルが共同設計したそうで、神戸ビーフの名声を世界に広めた施設の一つとされているそうです。なかなか非常に興味深い歴史ですね。戦後も日本の資本になって続いたそうですが、阪神大震災後に廃業し、2010年に同地に同名のORIENTAL HOTELで三井不動産のビルで開業したそうですが、旧オリエンタルホテルの系列はダイエー系列として存続し、その後ゴールドマンサックス社などが買収して経営しているそうです。
横浜みなとみらいのロンドンブリッジの形の展望台から海を渡って凱旋門の形をしたホテルをくぐり横浜の赤レンガ倉庫へと繋がる道と、その脇のこうしたソロモン神殿を模した形の二つのフリーメイスンリーの組織を代表するような結婚式場の存在はなかなかみなとみらい地区の今後のさらなる発展を予想させて素晴らしいものかと思いますが、それがやはりこの記念すべき2013年になされるというのも数字のシンボリズムのなせる業なのではないかとあらためてシンボリズムの力というものを感じたところでありました。
ちなみにフリーメイソンの項目のウィキペディアによると2008年にフランス系の国際的な女性・男性混成のフリーメイソンリー団体「人権」(Le Droit Humain International; ル・ドロワ・ユマン・アンターナショナル)の支援により東京に設立されたロッジ「日の出」(Soleil Levant; ソレイユ・ルヴァン)があるそうで、場所や連絡先など詳しいことは全くわかりませんが、恐らくフランス人の外交官などを尋ねて認められれば教えてもらえるのではないかと想像します。ホームページはこちらにありました。基本的にフランス語のようですので、日本人でもフランス語に堪能なフランスフリーメイスンリーについても知識のある大学での専門家や国際結婚などで親戚がフランス人の方などが対象となるのかと思われます。しかしまあシンボルがなかなか洗練されていて、こういうところはやはりフランスは素晴らしいなと思うところでしょうか。∴三点譜を多用するのがグラントリアンの特徴でもあるのですね。フラッグを見ると33のスコティッシュライトと同じシンボルがあり、スコティッシュライトと繋がりのあるフリーメイスンリーなのですね。
(2013/11/6追記:壇原照和さんのブログによると、「レッドライト」(連載第5回)どうも、恐らくGrand Orient大東社系のロッジが横浜ロッジで場所を共有していた歴史があるようです。「東洋の星第2支部( Star of the Orient Chapter 2)」と書かれていますが、結局インターナショナルスクールの地下のロッジに移る際の1981年に消滅したとなっています。恐らくこれが正式な大東社系のロッジであったのだと思われます。)

まあこのブログはそういう直接的なロッジの活動に関しての秘密ではない訳ですが、主にフリーメイスンリーのシンボルやキリスト教・ユダヤ教関連の秘密という事になるかと思われますが、そういう話の方がより身近なロータリークラブや、ライオンズクラブの活動とも関わって来るような、住人の方がフリーメイスンリーやそういう友愛団体というものが理解しやすいような内容となっているかと思います。
というわけでまあ私の地元大船観音の話ではないですが、金沢区も後々書くつもりの出身大学でもある横浜市立大学医学部との関係で10年近く居住していたので、大体のことは分かっていたつもりですが、フリーメイスンリーのシンボルについて初めて理解したのはもちろん金沢区で最も有名な八景島のピラミッドであったわけで、その横でほぼ毎日通っていた横浜市大医学部がソロモン宮殿の意味であったとはつゆほど考えもしなかったわけです。もちろん私が通っている間にカメリア(椿)ホールと言っていた医学部の講堂がブラザー林董の先生であったヘボンホールに名前が変わったり、学長が後にテンプル大学の学長になるブルース・ストロナク学長となったりと、恐らく彼もフリーメイスンと思われますが、私もなんとか色々ありながらもこの学長の元で卒業させてもらうなど色々あったわけですが、そういう様々な変化も身近で体験してきたのがこの金沢区でもありました。

金沢区のシンボルマークは青地のカモメのようです。
金沢区でロータリークラブの存在を感じるのは唯一金沢文庫駅の西口のロータリー周辺に看板などで認めるのみであったかと思います。(金沢区のロータリークラブ、ライオンズクラブも検索で出てきます。それぞれ産業振興センターや金沢八景駅前、能見台駅前が集会場所のようです。)前回の鎌倉の世界遺産申請の際にはなぜか朝比奈切り通しから称名寺までが鎌倉と一体で申請されていて、私はこの辺りを色々歩きまわった経験があるので大丈夫かなあと思っていましたが、案の定というか残念ながらというか落選となり、今後の動向が気になるところでもありますが、鎌倉に続いて芸能人ネタとしては、東北大学工学部建築学科卒業のオフコースのボーカルであった小田和正さんの実家の薬局が金沢文庫の前のすずらん通りにあるのが地元では有名であり、私は洗剤くらいしか買ったことありませんでしたが、最近近くに行くと二階がモダンな紅茶屋さんという感じの喫茶店になったようで、少し最近の観光地の傾向を取り入れたような雰囲気があって今後の展開がまた気になるところでもあります。(写真をお借りしたブログによると元々元町商店街で開いていた喫茶店友and愛が閉店後に移転してきたようです。色々経緯がありそうです。小田和正さんの会社はFar East Clubというそうで同名のアルバムもあったかと思いますが、Far East Lodgeとも縁がありそうです。聖光学院出身という事でフランス系のカトリックという事ですが、同じカトリックのイエズス会系の栄光学園と同じく有名国公立私立大学に多数卒業生を輩出していますが、根岸森林公園の近くでFar East Lodge No.1が2002年からある山手駅の近くから歩いてすぐのところなのですね。)


まあ私としては金沢区の観光地のお勧めはまさに上述した朝比奈切り通しから大道、称名寺へと続く鎌倉時代の街道ではありますが、その他にはもちろん上述の横浜市と西武グループの開発による八景島シーパラダイスであり、最近は地元漁協の協力による生簀での釣りや小柴漁港における季節限定のバーベキュー小屋のようなものもできているようでこれらもお勧めだと思われます。(小柴にはほとんど漁師さんしか来ないような海水を使った入浴施設もあります。誰でも利用可能ですが、まあ外から人が来るのはめったに見たことありません。)アメリカ方式の大型スーパーマーケットのコストコ等もありますが、当時のこの幸浦、福浦地域の埋め立て事業はみなとみらい地区と同様に後に社会党委員長となる飛鳥田一雄市長時代に決められたという事で、三菱重工の工場のシンボルとなる三菱マークの風車のシンボルも最近できたりしていますが、その他にはゴミ処理場とシーサイドライン位の極めてシンプルであまり特徴のない感じの近代的な構成となっているかと思われます。
明らかにフリーメイスンリーのシンボルと思われるのは何度もあげている八景島のピラミッドとそれに対応したオベリスクのような展望塔があるのみで、埋立地の方はそういう雰囲気が無いわけですが、かつては小柴のあたりには米軍の弾薬庫があった関係で未だに一部土地が使われずに残ったりしている部分もあったりしますが、まあ基本的には小泉又次郎さんの出身地であり、小泉家の菩提寺もある大道周辺は、小泉又次郎さんの記念碑もあり、横須賀地域との関係性が横浜の中でも最も強い地域であり、伊藤博文の愛人が経営していたという料亭と並んであって小泉又次郎さんが晩年を過ごしたという、現在まで残る料亭千代本等もありますが、プロテスタント系の関東学院もぎりぎり金沢区に存在し、その近くには数多く教会もあり、カトリックのヨゼフ教会などもあり、まあ明らかに横浜の中では横須賀と並んで開港と戦後のアメリカの影響の中でフリーメイスンリー、キリスト教の影響が感じられる土地ではないかと思われます。(そういえば最近も追浜のかなり歴史のある雷神社の目の前に関東学院の関連のキリスト教関連施設ができたようです。その後追浜でハロウィンが盛大に行われたり、花火大会が豪華になったりと色々あるようです。ヨゼフ病院のような神社と寺とキリスト教の重ね合わせのような事かと思われます。)






まあちょっと話がローカルすぎて、フリーメイスンリーとどう関係あるのというところなのだと思いますが、一応以前汐入の話で当てた気になっていますので、今回も話としてはそれとほとんど同じ話です。
また名前のダジャレですね。そうです金沢区です。金沢八景、金沢文庫の名前からとられた金沢区ですが、どうも神奈川県と「かな」の部分が一緒ですね。またまたローマ字にするとKANAです。地元では神奈中バスが思い浮かぶでしょうか。
もちろんフリーメイスンリーではKANAといえばカナン、英語ではCanaanと表記するそうですが、約束の地カナンですね。シオンとほぼ一緒です。もちろん観音崎のカンノンとも共通する響きでしょうか。旭日大綬章を受章した前経団連会長の会社もCanonでほぼ一緒です。森元首相の出身地の県庁所在地も石川県金沢市です。そんな馬鹿なというなかれ、聖書にはそう書いてあるのです。まあ何でもかんでも約束の地では申し訳ありませんが、全くの異文化に触れた際に道しるべとなるのが言葉のみであり、その時に音が似ている場所や名前だけを頼りとしたり、現在もそのまま続いているというのがまあフリーメイスンリーというかユダヤ教なのですね。
それでそれにプラスして先ほどの小柴や柴町ですが、こちらも私は住んでいたりしたのですがもちろん東京タワーの建つ横の芝公園と同じくシバの女王と同音となります。カナンとシバ、これは旧約聖書では必須の単語となります。さらにこの辺りの有名な神社と言えば瀬戸神社という事で、これは聖書にもアベルとカインとセトの兄弟という事で、エジプト神話でもジャッカルや土豚の顔をしたセト神としてイシス、オシリス、ホルスとともに有名な神であるわけですが、その名前の神社が信仰の対象という事で、こういうのがあると何となく小泉又次郎さんの命名したと思われる三春町に繋がる伝説の人生もこうして色々と繋がって来るのかなというところでしょうか。(瀬戸の花嫁なんてありますが、まあクリスチャンでない日本人は通常は関連を思いませんね。)(金沢だとカナンは良いとして下のザワは何になるのと思う人もいるかと思います。ザウアーだとドイツ語のザウアークラフトが有名で、酢漬けの意味になりますが、まあシンボルなんで上だけの意味で良いのだと思われます。同様に横須賀でスカの意味はなかなか厳しいですが、York Skyと多少いじればなんとかなるかと思います。神奈川もガウアーというとドイツ系の名前であるようですが、まあこれもやはり無理やり意味はないかと思います。シンボルは受け手へのインパクト重視なんですね。)





まあ悪い冗談の連続のような話ですが、それもこれもいわゆる聖書でフリーメイスンリーで開くように指定されているページ、ヨハネ福音書の冒頭の
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」
があるからであり、内容からはすでに指摘した通り洗礼者ヨハネが実在して洗礼を初めて行った人物でありながら危険人物とみなされてすぐに殺されてしまって、その後ローマ帝国によって滅亡に追い込まれるユダヤ王国での後のディアスポラ離散に繋がる政治的な判断ミスを嘆くような内容でもあるわけですが、いずれにしても言葉に重きを置くユダヤ教、フリーメイスンリーの根本的な判断基準となる言葉の基本となる単語の音の近似や掛け言葉のようなものは、日猶同祖論ではないですが、今日まで繋がるフリーメイスンリーの判断基準の一つである事は間違いないのかと思われました。
上記の部分はまた後のカトリックの三位一体説の中心となる部分でもあるかと思われます。すなわち論理学の基本となる文章でもあるのかなと考えられるかと思います。
推測ですが、恐らく明治期にこれらの日本語と聖書の名前の近似やシンボリズムを判断していたのは旧約聖書を最初に日本語訳したという佐賀県で教鞭をとったオランダから来た改宗ユダヤ人のブラザーフルベッキが中心にしていたのではないかと思われます。その後は戦後は恐らくアメリカ軍と行動を共にしたアメリカ軍専従のラビかイエズス会のヘブライ語やギリシア語、ラテン語に精通した宣教師ではないかと思われます。フリーメイスンリーの基本的知識にエジプトの神聖文字やヘブライ語、ギリシア語、ラテン語、英語の基礎は必須になって来るのかと思われます。
いずれまたブラザーフルベッキについても青山霊園のオベリスクの墓や青山霊園のその他のフリーメイスンリー関連の方の話など機会があれば書こうかと思っています。

さて色々ローカルな話題からエッセンスまで行き着くわけですが納得されたでしょうか。
余談ですが横浜、横須賀でヨークライトのヨーク伝説という、テンプル騎士団伝説と双璧をなすフリーメイスンリーの発祥伝説のスコティッシュライトと並ぶヨークライトのヨーク部分との関連は以前に触れたところですが、横浜市では洋光台というまた微妙にシンボリズムを踏襲している地名があります。これも英語にするとYork or dieとなり極めて不吉な文章となるのですがまあ、これは極めて余談の話となります。
フリーメイスンリーではキリスト教とユダヤ教に関する知識は必須という事になるのでしょうね。宗教的寛容もなかなか厳しいものです。
直近で台風が近づいた際に川合玉堂の別宅が火災で焼けたなどあったかと思います。私は訪問した事はありませんでしたが、恐らく金沢区で残る日本建築の旧家の貴重なものであったのではないでしょうか。再建するのかどうかわかりませんが、それ以前に大磯の吉田茂邸が火災にあって、現在修復してバラ園などとともにかなり綺麗になって公開される予定のようですし色々関連があるのかもしれません。様々な歴史のある場所もあるかと思い、その他には金沢区にはハイキングコースや赤井温泉という鎌倉時代より続く温泉などもあります。横須賀や鎌倉とセットで楽しめるのではないかと思います。横浜の方では三渓園や根岸森林公園なども開港の歴史と繋がるフリーメイスンリーとも関係が深い土地であります。様々に訪問されると開国開港の地を体感する事ができるのではないかと、非常な手前味噌ではありますがお勧めします。
汐入と同じく反響は大きなものとなると思われますが、まあ色々説得力はあるのかと思われます。ちなみに私は上記の千代本で一回食べたことがありますがなかなかの値段(夕食2万円)ではありますがいわゆる懐石料理として今話題の和食としては最高級の素材と調理であったと思います。翌日におしっこがダシの匂いがするような強烈な元気が出る料理でありました。まあ戦時中に晩年の小泉又次郎さんが逗留したという事でなんとも複雑な気持ちにはなりますが、現在も細々と営業中かと思われますので、機会があれば利用してみてください。横須賀には山本五十六司令長官が常連であったという料亭小松もありますが、こちらはわたしは利用したことが無いのでなんとも言えません。こうした記事を今更ながら書くのもあれなのですが、小泉純一郎さんも含めて様々な情勢が変化しているためだと思われます。
その他紹介しきれませんでしたが野島公園でのベーべキューや展望台、以前も紹介した伊藤博文別邸や夕照橋からの富士山の夕景、海の公園での夏の花火や潮干狩り、金沢動物園などもあり富岡八幡宮などもあります。まあ私も全部行って知っているわけではありませんが、横須賀に劣らず色々歴史もあり発展を続けている場所だと思います。ぜひ横須賀や鎌倉と合わせて訪問してみてください。

まあ要点を言ってしまうとそれまでなのですが、実際シモンズがフリーメイスンという証拠はなく、青山墓地にある墓を見ても明らかにオベリスクではありませんし、シンボルマークがあることもありません。



晩年を三田で共に過ごした福澤諭吉による追悼文が書かれた追悼碑の形なのですね。良く見るとごつごつした灯籠とつるつるした灯籠がまるでパーフェクトアシュラーとラフアシュラーのような形となっていて、また二本の灯籠がヤキンとボアズの柱の形のようにもなっているというところが、もちろん福澤諭吉がそれを意識していたとか、福澤諭吉本人が考えてやったというところは想像しがたいわけですが、恐らく死後に彼の生前の様子を知っているブラザー達によって付け加えられたものなのだと思われます。
ブラザーシモンズがフリーメイスンであると考えたのは最初にこの墓を見たからではなく、そもそも大隈重信とブラザーフルベッキとの関わりと、ヘボンやブラザーフルベッキらの旧約聖書の翻訳作業の話や、また「石の扉」の作者でもあるブラザー加治将一の有名なフルベッキ写真というちょっとオカルト気味の話の元として、要するにブラザーフルベッキがフリーメイスンであったというところが青山墓地のオベリスクのお墓からも明確となってきて、さらに横浜市立大学のヘボンホールの名前や、ブラザー林董とヘボンとの関わり、またブラザーサーハリー・スミス・パークスやブラザーサーアーネスト・メイソン・サトウなどのいわゆる坂本龍馬との関係を書いたブラザー加治将一の「坂本龍馬の黒幕」の話、さらにブラザートーマス・ブレーク・グラバーとの関わりや、ブラザーレオンス・ヴェルニーを含めて灯台建設のブラザーリチャード・ブラントンなど当時のお雇い外国人や居留地の外国人がそのほとんどがフリーメイスンかそれに近い人物であったという事などが分かって来ると、自然と恐らくこの横浜市立大学医学部の源流となる横浜十全病院で働いていたというアメリカ人がフリーメイスンであっておかしくないなという確信が持てるようになりました。
結局それらを確信させたのは彼らの活躍について書かれた横浜市大OBによって書かれたブラザーシモンズについて書かれた本や横浜外国人墓地に葬られた居留地の外国人について横浜開港資料館の職員によって書かれた本での彼らについて書かれた内容からでした。
![]() | ドクトル・シモンズ―横浜医学の源流を求めて (2004/06/05) 荒井 保男 商品詳細を見る |
![]() | 横浜外国人墓地に眠る人々―開港から関東大震災まで (2012/07) 斎藤 多喜夫 商品詳細を見る |
これの特に下の横浜外国人墓地に埋葬されている人のそれぞれの解説をした本では横浜開港資料館の強みという事で、フリーメイスンでの活動なども詳しく触れられていて、結局最初にオランダ改革派教会の宣教師として来日した際のブラザーシモンズと一緒に来たブラザーサミュエル・ロビンス・ブラウンもフリーメイスンであると書かれていて、上記からブラザーグイド・フルベッキも確実にフリーメイスンであると思われ、いずれも日本到着後にフリーメイスンとなったようですが、一緒に来たブラザーシモンズも恐らくフリーメイスンであるに違いないというところだと思われます。

ブラザーシモンズは当初は宣教師として来日したそうですが、どうも奥さんと共にかなり開港当初の横浜の外国人居留地の華やかな雰囲気に飲み込まれてしまって、宣教師としての資格を失ってしまって、結局医師としてヘボンと共に開業し、その後一旦アメリカに帰国して医学を勉強してきて数年後に医師として再来日するというかなり変わった経過をとっています。その他の二人の宣教師はそれぞれ優秀な働きをしてブラザーブラウンはいわゆる横浜バンドという日本のプロテスタントの源流となる教え子たちを教育し、後の明治学院大学の元となる学校を作り、ブラザーフルベッキに関しては大隈重信を始めとした肥前藩、佐賀県での藩校の致遠館での教育とその後の東京での明治政府の学校の教師や顧問を務め、やはり明治学院大学の教授を務めるなどしています。共に旧約聖書の日本語訳に関わり、ブラザーフルベッキに関しては明治政府の岩倉使節団の助言を行うなど、金沢区のシンボリズムの項目でも触れましたが、明治期の制度や地名の制定などに関してもかなり影響力をもった人であったようです。
まあ大体ブラザーシモンズがフリーメイスンであるという事に関しては分かったかと思いますが、色々ブラザーシモンズの活躍や、その他のフリーメイスンの関わりについて書いていくと相当長くなるので相変わらずの三分割にしようかと思いますので、今回はこの辺りでやめる事とします。
どうも2012年1月2日に始めたこのブログですがやはりこの辺りの記事はこのブログの主目的であるようで、ちょうど2013年12月2日とどうも色々数字のシンボリズムがあるような感じでしょうか。
題名も徐々に時代がかってきますが、それもこれもブラザーシモンズについて書かれた本の内容からです。
結局当時の明治維新の際に日本に来ていて活動していた外国人のほとんどがフリーメイスンかその周辺の人物であり、フリーメイスンであろうとなかろうとそれぞれ本人の意思と各国の派遣元の意向と明治政府と居留地の様々な事情に基づいて動いていたのは当然であり、その中でフリーメイスンリーがそれほど有利に働いたというわけではないでしょうが、恐らく様々な情報を得る手段としては参加者たちにとっては非常に有益でありまたそうしたフリーメイスンリーのキリスト教やユダヤ教、仏教など宗教を越えた考えはキリスト教に対して否定的であったり、植民地支配に警戒していた日本の人々にとっては単なるキリスト教の伝道よりは信頼が寄せやすいものであったのかと思われます。
ドクトル・シモンズという荒井保男さんという横浜市大医学部OBの方の書かれた本によると横浜十全病院でのブラザーシモンズの活動の記録を通して当時の明治維新における西洋医学の普及の仕方と当時の社会の医療の水準、また国や周囲がそれらをどのように評価していたかと、その結果生じたブラザーシモンズと福澤諭吉との交流を通してそれらがまた後の明治の時代に影響していったかを書いていて、現代の状況を顧みる素材ともなるようです。
まあ読んでもらうのが一番早いわけですが、私も横浜市立大学医学部に入学した際にそれらの本を頂いて一切読まなかった事が走馬灯のように思い出され、恐らく現在の学生たちもこれまでの多くの学生たちも同様であったのだろう事を思いますが、恐らくこのブログを読んでいるような方は手にとって読むこともあるのではないかと期待しています。
本の内容の要約については私もやっと今ブラザーシモンズの項目について読み終えたばかりのところなのでまとめるのがなかなか大変なのですが、どうも私も現役の医師なのですが様々な状況でやたらと読書の時間が増えて現在のような状況で、さらにオランダのブラザーにはアンダーソン憲章を早く翻訳するように促されるような状況な訳で、ブラザーダン・ブラウン以下このブログで取り上げた書籍の売り上げに貢献するばかりのような気がしているわけですが、まあ要約を書かないとこのブログ以外読まないブラザーデッカーの回想録のようにお話にならないというところがまあインターネットメディアの特性でもあるわけでして、前提としてネットにある情報以外摂取できないというのもまたブログ読者の傾向でもあるかと思われますので、要約をあげていくこととします。
まあ色々と臨床医学の内容と被るので細かく説明するのはちょっと憚られるのですが、基本的にブラザーデッカーの公衆衛生の話やこのブラザーシモンズの功績の話にしても医療というのは自らの功績や仕事について披歴するというのはそもそも医の倫理というところから言っても科学的な検討以外においては基本的にタブーであり、またそれは他の人の仕事についても業績を評価したり批評したりするのはタブーであるというのが基本的にあるものであり、そういう点においてはどれほどブラザーシモンズの経歴が異色のものであったり、当時の横浜外国人居留地とそれを取り巻く開国当初の日本の医療事情やまた明治期の世界の医療の進歩というものも現代とは大きく異なり想像をはるかに超えたものであることから、もちろん医師の仕事というものはどの時代にも不変のものがあるのは当然であるので、なかなかブラザーシモンズの業績について書いて行くのも難しいわけです。しかしながら基本的にこのブログはフリーメイスンリーとそれにまつわる視点から物事を論じてきているわけで、その中において医療やその対象とする病気や公衆衛生は非常に重要な部分を占めるものであり、そういう点においてブラザーシモンズやブラザーデッカーの仕事というのは非常に重要なものと評価されるのかと思いますので、あえて若干切り込んだ形でブラザーシモンズの業績というところを見ていくこととします。
医療として見ていく際にはどうしてもその人の医療人としての人格、傾向、性向が重要となるわけであり、それはどうしても要は全人格的な評価とも絡んでまさにフリーメイスンリー的なフリーメイスンか否かの評価ともかなり近づくというところがあるかと思います。そういう点においてはここまでの登場人物の中でのブラザー林董の師であるヘボンの評価はフリーメイスンではないのですが、横浜市立大学医学部のヘボンホールに名前を残し、明治学院大学にその銅像を残す通りにケチのつけようのないものであるのかと思われます。医師としては専門が眼科でありながら、糖尿病の足壊疽やその他外科の小手術を行ったなど現代では考えられない医療を行っているわけですが、それらについても大きな問題なくこなしており、また医療以外にも人格者として評判であり、また弟子が優秀な日本の外交官として日露戦争の立役者となるフリーメイスンであるなど、またヘボン式ローマ字や聖書の翻訳、円満な夫婦関係と長寿でありそれほど変遷の無い人生などまさに本人が加入の意思さえあればいつでもフリーメイスンとなったであろう人物であるかと思われます。恐らく信仰の部分、聖書の解釈や理解の部分でそういうところに達しなかったという事なのだと思われます。
ブラザーシモンズについて見ていくと重要なのが3点あるかと思われます。一つは宣教師として日本に来ながら結果的に医師となってその職業を全うしたこと。もう一つはその他に同じ教会より3人の宣教師として送られた残り二人のうち、ブラザーフルベッキは改宗ユダヤ人として佐賀県からその後東京に移り大隈重信を教え子として育て、もう一人のブラザーブラウンは日本におけるプロテスタントの伝道の最初となり数多くのクリスチャンを育てたことで、彼らとは終生日本において明らかにライバルとしても友としても交わっていたという事。最後がやはり福澤諭吉との宿命ともいえる臨終の際までの繋がりであり、それがまた日本人にとってのブラザーシモンズの役割というものを特別なものとしていることなのだと思われます。その他には私生活として見るとこれは私がフリーメイスンと断定した根拠ともなるのですが、一人息子のヒラムという名前の子が20歳前後で日本で死去し、それがために夫婦仲が難しくなってその後の妻をアメリカに残して母親を伴った再来日と福澤諭吉との新聞での日本文化に関わる論説発表と腎炎での死去に繋がるのかと思われます。
ブラザーシモンズの医療活動については相当色々評論するのに問題があって、要は彼自身がそもそも宣教師でありながら職業替えしてヘボンのもとで医師として働き、その後アメリカで即席の形で勉強してその後日本で先進の医師として勲章をもらうほど働いたというわけで、まあそれはもちろん色々良い評判だけではなく様々な評価があったかと思いますが、そんな状況の日本で専門の知識をもった欧米の腕利きの医師が日本人と極めて近づいた状況で日本人のために医療を行う事が当時なかなかありえないわけでして、戊辰戦争の当初の際にはやはりスコットランドエディンバラ大学で外科を学んだ恐らくかなり優秀な英国副領事でもあったブラザーウィリアム・ウィリスが官軍の支援に野毛山の軍陣病院で医療に当たったそうです。ほぼ同時期にエディンバラ大学の教授であったブラザーサージェームズ・シンプソンによるクロロホルムによる麻酔法が確立され、またブラザーリスターが教授を務めていたグラスゴー大学で消毒による外科手術法が確立された頃であり、それらを学んで実地に医療をイギリスで修めて日本で軍医として働いた副領事ですからまさに当時世界最先端の医療を行っていたのだと思われます。この際には大山巌や西郷従道、桐野利秋の治療も行ったとあり、またそれ以前には生麦事件の死者の治療や会津藩の負傷兵の治療も行っていたとありますから、この時に指揮をしていた大村益次郎が蘭学医でありながら戦争を指導し、後に暗殺され傷の化膿で亡くなったことなどを考えると、こういう医療における戦いともいえるものがすでに開国当初よりあったのかとも思われます。その他にもブラザーウィリアム・ウィリスにはイギリス公使館医師のシッドール(J. B. Siddal(釈迦の名前のシッダールタと被るので恐らく彼もフリーメイスンになったのではないかと思われます。))、ドングロイ、ジェンキンスらも働いていたという事で、彼らもフリーメイスンであった可能性があるかと思います。基本的にイギリス人で当時に日本に来ていた人はほぼフリーメイスンかそののちにフリーメイスンになっているかだと思いますし、それはオランダ人でもアメリカ人でもフランス人でもそれがほとんどだと思われます。当時の日本に来ていかに高給であるといえども指導的立場で生活して仕事をすることは現代はその差は非常にかつてに比べれば小さくなったとはいえ、その当時は非常に大変なことであった事は想像に難くなく、寿命を見ても短命な人が多いことからもフリーメイスンと認められる機会は明らかに本国よりは大きいのだと思われます。(ブラザーウィリアム・ウィリスは日本来航前に看護師と未婚のまま子供を作っていて、またアイルランド出身という事でカトリックの可能性があり、もしかするとそれらの関係でフリーメイスンではないかもしれません。ブラザーアーネスト・サトウともかなり親しかったようなので複雑です。亡くなったのが2月14日の聖バレンタインデーという事もカトリックを示すシンボリズムかもしれません。インターネットにアップロードされている教会の埋葬記録では2月15日のようです。)
まあ結局は大勢の影響によってその後ブラザーシモンズがアメリカでの医療の学習を終えて日本に戻った際に、明治新政府の中枢で顧問として活動していたブラザーフルベッキの知己のために東大前身の大学東校で教鞭をとることとなり、その際にももう一人のドイツ系のシモンズという人と混同されるなどいわゆるフリーメイスンリーっぽいやり取りがあったりします。このブラザーフルベッキとブラザーシモンズのやり取りが非常にその後も大きなわけですが、ブラザーフルベッキはモラヴィア出身の父親とイタリア出身の母親のもとでいわゆるユダヤ系の恵まれた家庭の子女として音楽や文学を教わる環境でオランダで成長し、その後アメリカに移って、さらに改宗ユダヤ人の宣教師として来日し、さらに三人の中で一人11月7日に長崎に降り立ちその半島の付け根であるかつての大村氏や龍造寺氏の支配地域、後の鍋島藩の領地であった佐賀藩で藩校を取り仕切ったというところがまあ当初より開港の中心地に降り立ったブラザーブラウンとブラザーシモンズとの運命の違いでもあるわけですが、この佐賀という地名もやはりゲームの名前でも有名となりましたが、アイスランドのノルマン民族の叙事詩であるサガとも重なり、それこそテンプル騎士団やバイキングの新大陸発見説にも繋がる、まあ恐らくコロンブスの新大陸発見の下地になるものと同じ音なのだと思われます。
そう考えるとその後のブラザーフルベッキが恐らく行ったであろうYの名前やカノンなど音と言葉のシンボリズムの影響が分かるのではないかと想像されます。
それで、まあブラザーフルベッキの恐らくユダヤ人としての血統の良さと教育の高さ、改宗ユダヤ人としての聖書、キリスト教、ユダヤ教への造詣の深さから彼の意見が明治政府の中での相当な重点を占めるようになり、それに従って日本の医療のイギリス医学からドイツ医学への転換が図られ、その中で恐らく相当に優秀であったブラザーウィリスらは中央から締め出され、なんと薩摩藩で医学校の校長となったそうで、戊辰戦争や薩英戦争で薩摩藩の戦力を評価したためによるその後の西南戦争に備えた配慮であったと想像されます。それでなんとか準備の整ったところで廃止となった横浜軍陣病院の後に慶応義塾で学んだ早矢仕有的がこれも恐らくフリーメイスンと思われる梅毒に対して治療を行っていたブラザーニュートンのもとで医療を学び、神奈川県令などに働きかけてブラザーシモンズを破格の待遇で雇い入れる事で横浜中病院、後に横浜共立病院、神奈川県立十全病院として病院ができたそうです。恐らくすでに最初の来日時にフリーメイスンとなっていたブラザーシモンズがその後に恐らく一斉に広まっていた上位位階のスコティッシュライトの位階のシンボルとして病院の名称となって本人もそこに収まったのだと思われます。ブラザーアルバート・パイクによるモラル・アンド・ドグマの出版が南北戦争(1861-1865)後の1871年明治3年であるそうなので、まさにフリーメイスンリーの新時代も開かれていたときであったようです。




(十字架というのもカトリックではキリストの磔像を重ねたりしますが、明らかに人間の四肢と頭を合わせた解剖学の基本の象徴なのでしょうね。レオナルド・ダ・ヴィンチのウィトルウィウス的人体図も明らかにラテン十字と太陽十字と人体の解剖を的確に重ね合わせた象徴と考えられます。もちろんエジプトのアンクも明らかに人体の形をしていますし、タウ十字はそこから頭部を取り除いた形でもあります。人型という生命の神秘と物質としての生体を重ね合わせた象徴なのだと考えられます。)
まあちょっと長くなりそうなのでこの辺りにして恐らく四分割となるのかもしれませんが、偶数回となりそうな気配です。次が具体的なブラザーシモンズの医療活動と福澤諭吉とその子息との交わり、最後にその他の十全病院やその他の横浜の病院で働いていた恐らくフリーメイスンと思われるイギリス海軍医のブラザーニュートン、ブラザーセジュイック、ブラザーヒル、ブラザーローレンソンとこれは外国人墓地について書かれた本でもフリーメイスンとある、十全病院で働いたブラザーウィーラー、ブラザーエルドリッジ、そしてオランダ人で恐らくフリーメイスンであったブラザーブッケマについて触れて終わりとしようかと思っています。
ブラザーシモンズの医療的な業績の話になるわけですが、その前にシモンズという名前がそもそもサイモンアンドガーファンクルのサイモンと同じ系統のいわゆるシメオン族の末裔という意味であることからも、ブラザーシモンズも要するにルーツをたどればユダヤ系であろうという事になるわけですが、どうも伝記を読む限りは本人にあまりそういう自覚がなさそうなところと、恐らく宣教師をやめたりしている経緯からも聖書をきちんと読んだりなどの勉強を本腰を入れてやったタイプではなさそうというところがあります。そういう意味ではブラザーフルベッキの名前の意味は恐らく町の名前などだと思われますが、ユダヤ人としての自覚が強かったであろう人物がブラザーシモンズを意識する事は強かったと思われますし、またブラザーシモンズが医学を学んで再来日した際のドイツ人のシモンズさんとの混同の話は恐らくその後にそうした名前やヘブライ語表現にこだわっていくことになるブラザーフルベッキがユダヤ人では尊ばれると考えられる医師として再び現れたブラザーシモンズに対する気づきへの導きであったのかもしれません。

まあいずれにしても再来日後の神奈川県立十全病院に勤務し始めたブラザーシモンズは相当働いたようです。最初の活動としてはどうも伝染病予防法の元となる防恙法を建議したという事で、恙とはツツガムシの事で恙無くという言葉の元となる、日本やアジアに特異的な野原に住むダニの一種によって感染する寄生虫のようなリケッチア感染症の元となり、これはのちに福澤諭吉が感染して発疹チフスで生死の境をさまよった病気のことです。まあ名前は防恙法ですが、基本的には日本にかなり特異的な風土病であるツツガムシ病に感染しないような環境改善が必要であるという建議なのだと思われます。恐らくすでに日本に来た外国人の情報からツツガムシ病という恐ろしい病気があるという情報を知っていたのだと思われます。

その次に行ったのがまたやはり法整備の要請で売薬取締法の建議だそうで、要は現在の医薬品販売に関わる薬事法の制定を要請したことで、これもやはり法整備する事で薬の貿易や輸入に関しての利益性もあったのでしょうし、実際怪しい薬での病気も相当数あったのではないでしょうか。
まあどうも明らかにフリーメイスンとして働き出したブラザーシモンズなわけですが、医療人として実際の活動のところもどうもフリーメイスンとしての活動のようでした。解剖を良く行っていたそうで、さらに脚気についての論文などを出したりして、その内容にドイツ留学中の森林太郎が反駁してドイツ語で反論したなどという複雑怪奇な後のブラザーシモンズと共に慈恵医科大学を創設した高木兼寛の脚気治療法の発見にも繋がるような伏線の話と思われますが、どうもそうした話を総合するとほぼ脚気の原因が日本の白米食にあった事はフリーメイスン達は分かっていたのかと思われます。
その後はやはりブラザーニュートンらが集中して対応していた梅毒の治療について引き継ぐのですが、どうも荒井保男さんの本によるとブラザーシモンズは梅毒の感染についての日本の性風俗について詳しかったという事のようで、どうもこの辺りにブラザーシモンズの宣教師失格の原因があり、その後の夫婦仲の悪化があり、また石灯籠の象徴にも繋がるものがあるような感じでしょうか。その辺りはブラザーデッカーはなんだかんだでうまい事やっている感じでしょうが、やはり子供が日本で死んでいるところは共通かもしれません。
その後のコレラの対応についてはかなりきわどい話があります。そもそもコレラの感染は幕末から明治にかけては頻発し、それが開港や開国に関連して生じたという話があるわけですが、どうもこのブラザーシモンズの関与した横浜のコレラ発生、その後日本全国に広がるほどの感染であったようですが、それは明らかに居留地のアメリカ館で入れたお茶であるそうで、それが毎回それであるようなので、まあまだコレラ菌の発見とか抗生剤とかない時代なので治療としてはなんとか消毒薬の入った水分をとる位しか無かったのだと思います。その対応としてすぐにブラザーシモンズは病者の隔離を横須賀の長浦、恐らく現在も貯油施設として使われている可能性の高い長浦の当時は半島に隔離したのだと思われますが、これは要するにほぼ隔離された人は死んでしまったのだと思いますので、まあインフェルノではないですが、そういうノロウイルスやO-157の話にも繋がるそれをはるかに超えた壮絶な社会現象であったのだと思われます。これはさすがに後々微妙な評判になる事は間違いないかと思われます。

種痘に関してはもちろんブラザージェンナーが始めたワクチンの始まりであり、日本に伝えたオランダ人医師ももちろんフリーメイスンでしょうし、幕末では孝明天皇の死因が天然痘であるらしいことが有名かと思いますが、その後も種痘を行わなかった人々で盛んに天然痘の大流行があったそうで、種痘は非常に良く広まったのだと思われます。
寄生虫の虫下し薬がセメンエンというシモンズと似た名前で良く売れたという話も載っています。疥癬対策に薬用石鹸も販売し良く売れたそうです。さらに栄養の改善に牛乳を勧めたそうです。恐らく相当頑張っていたので医学校の設立の話も出たそうですが、東京大学医学部の元となる大学東校があることから十全病院の建て替えになったそうです。


その後は非常に面白いエピソードとして福澤諭吉が明治3年5月5日に水天宮のお参りに行ったあとに発疹チフスになって、ヘボンが診察を断ってブラザーシモンズが50両を請求して治療にあたったことがあったそうです。基本的にツツガムシ病で発症する発疹チフスですが治療はテトラサイクリン系抗生剤かクロラムフェニコールしかないそうで、当時にそんな薬はありませんので、ブラザーシモンズはいわゆるキニーネやウイスキーなどの熱病に対する熱冷ましの治療を行ったようです。函館から取り寄せた氷や人工の氷でとにかく解熱を図ったそうです。この水天宮のお参りは非常に面白いエピソードで一緒に行った子供の一太郎と捨次郎は当時6歳と4歳であったようですが共に誕生日が11月22日と11月9日となかなかのシンボリズムで、後にブラザーシモンズのアメリカでの協力もあって留学もしているのですが、この水天宮というのもまた福岡久留米に総本宮がある神仏習合の神社なのですが、元々がバラモン教のヴァルナという最高神で、ゾロアスター教のアフラマズダと一致する神社だそうです。福澤諭吉自身も西暦で1月10日生まれ、旧暦で12月12日生まれという事で、まあ明らかにシンボリズムが認められました。中津藩の下級藩士の家に生まれ、儒学を修めてその後蘭学や英語を勉強して咸臨丸で欧米を巡り頭角を現していくわけですが、後に東京学士会院初代会長も務め、明六社ではブラザー西周やブラザー津田真道と共に名を連ねる啓蒙教育者であるわけですが、信仰という点においてはフリーメイスンのアメリカ人のブラザーシモンズやユニテリアンの伝道師との接触から一時期はユニテリアン(キリストを人間とするデイズムに近いキリスト教)に近い考えをもったそうですが、聖書を読んだ形跡はなく、ほぼ無宗教に近いながらも上記のように水天宮にお参りする日本人であったようです。それでこの水天宮のエピソードは恐らく彼の信仰を試す機会でもあったのではないかと思われます。
福澤諭吉の子供は9人いて皆成人しているようですが、その他にも誕生日のシンボリズムが認められる状況であり、彼の特筆すべき業績が以前も触れたかと思いますが、アメリカ独立宣言の最初の日本語訳であることは間違いないかと思いますので、早稲田大学の創始者である大隈重信と共に福澤諭吉がフリーメイスンになる可能性についても当時のフリーメイスン達が丹念に見守っていた様子がうかがえるかと思います。
ちなみに付け加えると曾孫の福澤武氏は幼少期に結核などされ苦労されたそうですが現在は三菱地所の会長をされていて、三菱地所と言えばテレビCMで特筆すべきセントポール大聖堂や横浜の三菱重工の造船ドックのフリーメイスンリーのシンボルを数々入れ込んだものを放映しており、フリーメイスンリーへの気付きは4代目にしてなされたのかもしれません。
またこの発疹チフスのエピソードで面白いのが病気をきっかけとして芝にあった慶応義塾と福澤邸は福澤諭吉がその場所を嫌って三田に移ったという事です。まあ場所のシンボリズムなわけですが、なんとその後にブラザーシモンズの再来日の際の住居であった築地の場所が旧福澤邸の庭の辺りであったそうで、福澤諭吉がそれについいて触れたりしていたそうです。なんとも水天宮にお参りしてツツガムシに刺されるという話と、防恙法の建議をした元宣教師の医師ブラザーシモンズとはまさになんとも不思議な取り合わせであったようです。
福澤諭吉はその後慶応義塾の中に医学校を作ったそうですが、結局一旦閉校となり、イギリス医学からドイツ医学への流れの中でそれに逆らうようにブラザーシモンズと共に高木兼寛を学長として後の慈恵医科大学の元となる成医会を作ったそうです。ブラザーウィリアム・ウィリスも大学東校で教鞭をとっていた関係でやはり東大医学部の祖とされるようです。まあ有名な大学は大概フリーメイスンとの関わりがあるのかと思われます。慶応大学の医学部は結局福澤諭吉の死後の大正時代にまさにドイツ医学を象徴する北里柴三郎を医学部長として開設されたそうです。ブラザー林董によって作られた日英同盟の流れは後にブラザーフルベッキ、ブラザージェイコブ・シフらのユダヤ系のフリーメイスンの意向もあってドイツ、イタリアとの三国同盟へと繋がったのかもしれません。
結局10年近く横浜十全病院で働いたブラザーシモンズは一人息子のヒラムが20歳前後で亡くなったことで一旦妻と一緒に帰国する事を決意し、日本政府に勲章をもらってアメリカに帰国し、その間に福澤諭吉の二人の息子の留学を世話していたそうです。ブラザーシモンズの息子の死については詳細は不明ですが、恐らく上記のようなブラザーシモンズの様々な活動などを考えると様々な恨みとまでは行かなくとも誤解や偏見はあったかと思いますので、そういう影響もあった時代なのではないかと思われます。それ以前の梅毒を治療していたブラザーニュートンも様々な毀誉褒貶を受けて長崎で客死したりしていますし、この時代のお雇い外国人による西洋医療の導入は眼科医であったヘボンの特異な例を除いて、かなりショック療法のごとき効果があり、本人も含めて様々な劇的な反応があったのではないかと思われます。
福澤諭吉は二人の息子の留学中に慶応義塾の拡充に務め、ハーバード大学から3人の教師を招聘したりしており、これなども恐らく当時の学長もフリーメイスンだと思われますし、来日した教師もフリーメイスンが含まれていたのかと思われます。
離日から5年後にブラザーシモンズは母親を伴って再来日します。この目的は一応日本文化の研究という事であったそうですが、夫婦仲が息子の死後かなり険悪となり恐らくアメリカでいたたまれなくなって母親を伴って出来る事なら日本人の後添えがあればというような発想があったのではないかと思われますが、全体としては福澤諭吉の論説が載った時事新報にいくつか日本の西洋化を批判する記事を書いて後に腎炎を発症して亡くなる経過を見ると死に場所を求めていたようにも思えます。80近くであった母親の動向は不明ですが、恐らく息子の死を看取ってアメリカに帰ったのかと思われます。荒井保男さんはえらくこのブラザーシモンズの日本の伝統文化を賞讃する論文や、日本の真の文明化を促す論文を良いものとしていますが、私としてはそのような背景と、最終的に腎炎となりかつて患者であった福澤諭吉の家のある三田で福澤諭吉に見守られて亡くなる経過は壮絶であり、なんともある意味ブラザーモーツァルトやブラザーロバート・バーンズのようなフリーメイスンの死を思わせる因縁に基づく象徴的な非業の死かと思われますが、腎炎もまたリウマチ熱などと同様に日本でありふれていた猩紅熱、β溶連菌による感染症をきっかけに生じるものであることを考えると水天宮での発疹チフスの意趣返しのようでもあり、なかなかその後の福澤諭吉の何度も発作を起こしながら脳卒中で無くなる経過ともあわせて明治の時代の啓蒙の夜明けの時代の壮絶な死を思わざるをえないかと思います。ブラザー林董のヘボンの治療を思わせる足壊疽からの死もまたそれら一連の出来事を連想させる出来事ではありますが、このブラザーシモンズの死もまたそうしたフリーメイスンの死を象徴する死であったかと思われます。ブラザーシモンズが最後の論文で日本女性の着物姿を西洋服姿と対照として西洋化を批判していたのがなんとも現代にも通じますがなんとも矛盾したフリーメイスンリーの日本でのありがちな活動として象徴的なものを感じました。
彼の墓碑を福澤諭吉が記し、その前にフリーメイスン達が二つの石灯籠を建てたのはまさに彼の日本での行動を象徴したフリーメイスンとしての象徴であるのかと思われます。
ブラザーブラウンの帰国に際しても膀胱結石の診断を膀胱鏡を行ってブラザーシモンズがしたようですし、一緒に来日した三人のフリーメイスンの縁は終始繋がっていたようです。ブラザーフルベッキはブラザーシモンズの死後9年たって自宅で心臓麻痺で突然死しています。ブラザーブラウンは自宅が火事になったり、教えていた校舎が火事になったりとして結局明治9年に帰国し明治13年にマサチューセッツ州マンソンで70歳で亡くなっています。やはり年齢が大分上だったのですね。ヘボンは96歳で亡くなる際には明治学院のヘボン館が同日に火事になることがあったそうです。
まとめると以下の通りです。
ブラザーグイド・フルベッキ 1830年1月23日-1898年3月10日
ブラザーデュアン・シモンズ 1834年 - 1889年
ブラザーサミュエル・ロビンス・ブラウン 1810年6月16日-1880年
ジェームス・カーティス・ヘボン 1815年3月13日-1911年9月21日
福澤諭吉 1835年1月10日-1901年2月3日


横浜市立大学医学部附属市民総合医療センターにあるブラザーシモンズの顕彰碑です。平成11年1月に作られたそうです。



横浜市立大学医学部福浦キャンパスにあるヘボンホールの顕彰碑です。横浜市立大学の校章は何でしょうね。カエデかなんかの植物なんでしょうが、いずれにしても下向きの三角である事は確かなようです。シンボリズムではカトリックか女性のシンボルになるのでしょうかね。Yのシンボリズムもあるようです。平成17年に出来た新しいシンボルマークは明らかにGを意識しているようですが、まあYを強調しているようななんとも曖昧な感じでしょうか。



明治学院大学にあるヘボンの胸像です。明治学院大学の中庭はユニオンフラッグの形となっています。長老派教会、いわゆる英国国教会の象徴なのですね。後はやや厳しいですが建物がMGの形になっているのだと思われます。明治学院大学はもちろん漢字でもシンボリズムがありますし、MG共にシンボリズムのローマ字ですね。



一万円札で見なれた福澤諭吉の肖像です。慶応義塾大学のシンボルマークはペンは剣より強しを形にしたそうですが、明治18年ごろという事だそうです。これはフリーメイスンリーのセクレタリー秘書の記章と良く似ています。まあ偶然でしょうね。
最後は横浜外国人墓地のフリーメイスンに繋がる横浜十全病院で働いていたその他のフリーメイスンについてです。
でまあ横浜市立大学医学部のもととなる横浜十全病院で働いたフリーメイスンについてなわけですが、それと4との関係というとなんとも辛いものがあるわけですが、病院で4というと未だに日本では死のイメージからその階が飛ばしてあるとか、部屋番号で無いとかそういう位しか思いつかないわけで、とにかく病院では4の数字というのは嫌われてほとんどの薬や何から4という数字は無いというのが日本では決まりとなっているわけです。もちろんフリーメイスンリーでは四元徳で特に現れる重要な数字でもあるわけですが、このブログでも触れた4福音書というのもあります。基本的に因数分解するので2×2で対称性を表すヤキンとボアズの柱のさらに対称性を持たせたり、2で日本の象徴というところのさらにそれを重ねるという意味にもなるのかと思われます。
あえてこの内容に合わせると横浜の頭文字が四にかかるかとか、浦舟町4丁目だとかそんな程度のダジャレくらいしか出てこないわけですが、まあそれくらいこの辺りの話がそもそも取り上げられるのも日本的なものであり、彼ら居留地のフリーメイスンリーにしても関東大震災や太平洋戦争で二度の中断を経験したものであり、現在の横浜ロッジも含めて横浜市立大学も私が大学院にいたときには外国人学長なんてのもあったりしましたが、大学を離れて大分経ちますが現在は恐らく相当に日本的な状況にあるという事なんではないかというところでそれが4という数字や偶数のシンボリズムに現れているという事で、ある意味安定や日本的、東洋的な調和を意味するものでもあるかと思われます。
というわけで本編の横浜十全病院で働いたフリーメイスンについて見ていくわけですが、まず確実にフリーメイスンと分かるのは横浜外国人墓地に眠る人々に書かれたお雇い外国人のブラザーウィーラーとブラザーエルドリッチだけなわけです。基本的にその他の医師であるイギリス人、アメリカ人、オランダ人についても横浜外国人居留地で当時はスフィンクスこそありませんが、豪華な列柱が並ぶ十字型の恐らく居留地で最も豪華な建築であったYokohama Masonic Hallがある時代であり、フリーメイスンリーについて知らない人はいないし医師や軍人であればまず所属しているであろう日本での安全保障の第一であったかと思われますので、これから挙げる主にイギリス人の医師についても皆所属していたものだと思われます。





厳密には横浜ロッジの記録を調べないといけないわけですが、それには役員になってきちんとロッジの仕事としてまとめたり出版したりする作業が必要となるわけで、このブログはそれに準じる部分もあるのでしょうが、そこまでのものではないわけです。
それでまあ基本的に荒井保男さんによるドクトル・シモンズに書かれた内容に沿って解説していきます。
これはブラザーデッカーの回想録でも出てくる日本に来た外国人が江戸、明治、そして終戦後の昭和であっても非常に驚く事であったようですが、とにかく日本の性風俗は買売春に関しては非常におおらかで性感染症に対する予防意識が薄く、江戸から明治期にかけては一般庶民の成人であってもほぼ半分、専業者においてはほぼ100%何らかの性感染症をもっていたらしく、その中では梅毒は感染力が小さく感染率が低いとはいっても専業者で恐らく半分程、一般庶民であっても2-3割程の感染であったようです。これは昭和の終戦時であってもほぼ治療薬が無い状況と結局明治期にこれらのお雇い外国人が入ってきて公衆衛生や性感染症について主にキリスト教的価値観から啓蒙したとしてもほとんど変わらなかったと考えられ、むしろ食生活の改善やその他の衛生環境の改善などからさらに性風俗産業は活発となり、明治の元勲が伊藤博文や松方正義などかなり有名であった通りにいわゆる和魂洋才の行動規範はこういうところで顕著に認められていたようでした。
梅毒の感染確率は初期感染者との性的接触でほぼ2-3割で、それが潜伏感染者になるとさらに低くなることから、当時は不治の病であったこの病気は非常に蔓延しており、外国人居留地の横にすぐに売春街ができる構成であった当時としては居留地を管理する諸外国を代表するイギリスとしては性病感染を管理する必要があったのだと思われます。ブラザーウィリアム・ウィリスが慶応3年1867年に報告した「日本の梅毒」の抜粋を転載します。
「江戸では遊女の約十パーセントが梅毒にかかっているとみられるが、横浜ではこの病気の割合は少なくとも江戸より二倍も多い。……概して日本の田舎では梅毒はまれであるが、都市では三十歳の男の三分の一がそれに冒されている。日本の都市の街路で売春婦が大ぴらに客の袖を引く光景は少ないが、横浜ではその慣例が広く見かけられる。売春制度に関してわが国の外交部門や領事部門が日本の支配階級に有益な影響力を行使することができると思われる唯一の道は、開港場に日本政府が適当な病院を設立し、当分の間病気の女性の営業を強制的に禁止させることである。十分に資格のある人物が、少なくとも一週に一度、全ての売春婦を定期的に検査しなければならない。」
この方針に基づいて梅毒蔓延予防法が居留地に作られて、当時治外法権であった居留地で強制的に梅毒検査をするやり方で、ブラザーニュートンが本国から招かれて横浜梅毒病院を建設し梅毒予防のための梅毒の強制検査を行って梅毒罹患率を下げさせたそうです。記録によれば3800名中730名程の梅毒患者がおり、慶応3年1867年以前で80%の罹患率であったのが明治元年1868年で51%、明治二年には36%となったそうです。まあ当然確実な検査法の無い時代ですから、問診や視診で梅毒の診断を行っていたわけで、問診の程度が変わればその位の変化はあるわけで、要は感染率は当初の80%以上がそのまま続いたという事かと思われます。梅毒治療は主に薄めた水銀を飲ませるやり方であったので、後にノーベル医学賞を受賞するマラリアに強制感染させて高熱で梅毒を駆除して、キニーネでマラリアを治療するという命がけの治療以外抗生剤の発明まで公式には存在しないので、要は水銀治療もほとんど実際は治療できていなかったというのが現実であったのだと思われます。まあいずれにしても梅毒の診断がつけば遊女屋としては営業中止に追い込まれるのは必至であったわけで、避妊具もまともに無い時代にそれらの感染をそういう仕事で防ぐのは事実上ありえなかったという事で、ブラザーニュートンは次の長崎の赴任地で全面的な反発にあい、長崎のOccidental Hotelで41歳で客死してしまったそうです。横浜という土地のかなり軍隊から知事の権力までネットワークを張った環境と、かつてのカトリック布教の地であり、その後のフランス人神父によるキリスト教徒の再発見があった長崎ではイギリス人医師の活動に大きな違いがあった事は間違いないかと思われます。フリーメイスンリー的には単純にUnited Grand Lodge of EnglandとGrand Orient de Franceの対立関係という構図になってしまうかもしれません。ブラザージョージ・ニュートン、George Bruce Newtonは長崎市川上町外人墓地(旧大浦外人墓地)に葬られているそうです。忌日が1871年7月11日という事でシンボリズムを認めますが、墓の形を見る限りは単なるラテン十字でフリーメイスンらしさは無いようです。(階段状なのが若干ピラミッドに近いのかもしれません。)墓の写真のブログを見ると明らかにフリーメイスンを思わせるオベリスクの墓もやはりあるようですし、夭逝を示す折れた石柱の墓も認められ、ブラザーグラバーの他にも数多くのフリーメイスンがいたことがわかります。ユダヤ人達の墓もあることから、長崎にはキリスト教伝道の地という事でブラザーフルベッキも含めてキリスト教伝道の地としてユダヤ人家族がおり、キリスト教徒とユダヤ教徒との間でそれぞれやり取りがあったということが忌日のシンボリズムからは想像されます。恐らくそれが後の原爆投下の引き金になったこともあったのではないでしょうか。



で、そういうちょっとすでに難が付いた梅毒病院事業であったわけですが、ブラザーニュートンの後任にブラザーセジュイックが付いたのですが半年で交代し、ブラザーヒルが着任します。この頃には梅毒病院の運営自体政府間同士の問題となる大問題となって来たようで、荒井保男さんはどうも中国人に肩入れが強かったこともあってか、やたら治外法権問題の日本の自治権を問題としますが、明らかに梅毒感染は日本は基本的に放置という姿勢が明確であり、ブラザーパークスの要請でブラザーヒルは一カ月交代で横浜、兵庫、長崎の梅毒病院を巡回するというところで落ち着いたのですが、とにかく神奈川県令から何からこの梅毒事業をやめたがっているのが明確でこのブラザーヒルの着任もとにかく早く辞めさせたがっていたようです。結局6年いて帰国した後にブラザーローレンソンが就任し、さらに三港の他に神奈川、藤沢、浦賀、横須賀、三崎の神奈川県内の遊郭の梅毒検査をも実施したそうです。要するに遊郭が拡大し梅毒感染者も増えたという事のようです。明治十四年になって日本人念願のブラザーローレンソンが帰国したところで外国人医師による管理を完全に排除して日本人医師による自主的な運営となる運びとなって、ブラザーデッカーの際の敗戦後の昭和20年の横須賀での一般市民の性病罹患率50%というところに結果的に繋がるようです。まあまさにユダヤ教の肝でもあるこういう性病罹患率というところに文明とは何かという要諦がある気がします。ブラザーニュートンは種痘事業も開始して死後は日本政府にも表彰されたそうです。こういうのが予防医学の難しいところですね。
ブラザーウィリアム・ウィリス、ブラザーニュートン、ブラザーシモンズと続き明らかに西洋医学とは如何なるものかというところで結局受診する側が慣れて来たというところで再び本国で専門教育を受けた医師が赴任する状況となったようです。
この後に出てくる二人のフリーメイスンのアメリカ人とイギリス人の医師、ブラザーエルドリッチとブラザーウィーラーは明らかに対照的な人物であり対照的な人生であり、フリーメイスンとしても非常に対照的であり、恐らく横浜外国人居留地の開国から関東大震災までの歴史の中でフリーメイスンリーと特に横浜十全病院を代表とする日本人に対する働きかけという点において特筆すべき人物であるかと思われます。
ブラザーエルドリッチはそもそも北海道の開拓使官となった黒田清隆、旧薩摩藩士で明らかなシンボリズムを認める第二代内閣総理大臣を務めた人ですが、この人が五稜郭での戊辰戦争終結後の北海道で医学校を開くための人材としてブラザーグラント大統領に直接ワシントンD.C.で会って依頼した結果派遣された医師であり軍人であり、そもそも軍人として南北戦争で北軍に従軍した後にワシントンD.C.で医学部に通って医師になったという人物であり、恐らくこのワシントンD.C.滞在中までにはフリーメイスンとなり恐らく創設まもないスコティッシュライトの教育も受けたのだと思われます。そもそも医師としての教育もそのフリーメイスンとしての教育の一環であった可能性もあります。要するにフリーメイスンとしても当時のアメリカにおけるエリート中のエリートであり、明治維新後の日本にはジャポニズムの影響もあり、明治維新の奇跡的な進行に伴ってフリーメイスンとしても非常に優秀な人が集まる時代であったようです。恐らく北海道は五稜郭の建設もフリーメイスンをひきつけるランドマークであったのかと思われます。
明治5年より函館医学校を病院内に作り意欲的に教育や診療を行ったそうですが、まあ明治5年の北海道なんて恐らく生きるだけで大変な環境であったと思われますので、一人でそれらすべてを行っていたのでかなり消耗したのだと思われます。明治6年には夫人が来日し同居したそうです。明治7年にはロシア人教師やドイツ領事の殺人の剖検を行っているそうです。まあなかなか厳しい現実であったのだと思いますが、任期満了という事で明治7年に横浜山手に移転して開業し、明治9年に山手のゼネラル・ホスピタルの院長になったそうです。現在もブラフ・クリニックという名前でその病院の系譜は続いているそうです。その後ヘボンの手伝いなどをしながら、明治17年に横浜十全病院でオランダ人医師ブラザーブッケマの後任として着任します。
このオランダ人医師ブラザーブッケマについてはオランダのグロニンゲン出身で明治4年に来日後に陸軍軍医学校などで講義を行っていたそうです。明治13年から十全病院で働き明治16年に長崎病院に医学校教師として転出し明治20年に帰国しハーグ病院に勤務したそうです。87歳まで長生きしたという事で明らかに他の人と比べてヘボンに近い無難なところを過ごしたような印象でしょうか。日本薬局方の制定にも力を尽くしたという事で恐らく薬学の知識が優れていたようです。オランダのフリーメイスンリーはフランスとイギリスの間を取り持つ形で、独特の要領の良いポジションを保っている印象であり、恐らく彼もフリーメイスンだと思われますが、目立たずに必要な情報を適切に収集し無駄なこだわりを持たずに帰国したというような印象でしょうか。やはりヨーロッパを代表する港と独特の低地を擁し、長崎出島を300年に渡って維持した新教国としてのオランダのポジションは日本にとってもかなり注目すべき存在なのだと思われます。
ブラザーエルドリッジはゼネラル・ホスピタルをも兼務していたそうです。明治33年には慈恵成医会の副会長に就任し、日本の医会の重鎮と目されていたそうです。弟子の六角健吉という方が通訳などをしていたそうです。居留地民の病気などについて本国でも報告したり、論文を残していて、居留地民の動脈瘤について報告したりしていて、恐らく梅毒感染の末期症状について暗に報告していたのだと思われます。このブラザーについては面白いエピソードが豊富でそれはとくに横浜外国人墓地に眠る人々に記載されています。
フリーメイスンリーの活動に関する記述があり、フランシス夫人は本人より30年以上長生きしたそうですが、女性のためのレディズ・ローン・テニス&クロッケー・クラブの有力メンバーであったという事で、恐らくイースタンスターのようなフリーメイスンの家族のための居留地でのスポーツと社交のクラブであったのだと思われます。ワシントンD.C.で恐らく優秀なフリーメイスンという事で名を馳せたためにやや派手好きの奥さんであったのでしょうか。国際婦人図書室の会長を務め、夫人慈善協会では副会長を15年、会長を20年務めていたそうです。
ブラザーエルドリッジ本人はハワイ王国の領事を務めた事と、日本アジア協会の会員だったことと、一時アマチュア・ドラマチック・クラブの役員を務めたことを除くと余業や娯楽にはあまり縁が無い人であったそうです。アマチュア・ドラマチック・クラブというのは字面から行くと演劇クラブなんでしょうかね。恐らくスコティッシュライトの演劇に通じるのだと思われます。日本アジア協会ではアイヌが毒矢に用いる毒の研究を発表しているとあって、いかにもフリーメイスンらしい研究でしょうか。アイヌというところが日本文化の深層を研究していそうな、また北海道を経験した人らしいところを感じます。その他に長老派教会の宣教医と一緒に良く富岡の慶珊寺を定宿として海水浴を行っていたそうです。まあ密談にもってこいの環境なんでしょうね。
フリーメイスンリーの活動としてはスコットランド系ロッジスターインザイーストNo.640のメンバーでスコティッシュライトに所属していて、Des Payenes Preceptoryでコマンダーであったそうです。日本管轄区のスコティッシュライトのグランドコマンダーというところでしょうか。結局スコティッシュライトの支部を上海に作るために移動中に神戸で体調を崩し1901年11月16日に横浜で亡くなったそうです。スコティッシュライトの管轄で何か色々背景があったのでしょうね。奥さんと子供は関東大震災をきっかけとして奥さんの本国であるイギリスに帰国したそうです。その曾孫の方がイギリスで一般内科医をされていて、玄孫に当たる御長男が日本人と結婚した際に来日され横浜市立大学医学部を訪問されたそうです。2001年11月10日に明治神宮で結婚式を挙げられたそうです。11月12日に横浜市立大学医学部で講義を行ったそうですが、わたしも学生であったようですが全く記憶にありませんでした。それらの様子がこの方のホームページに詳しく書かれていて、ブラザーエルドリッジの書簡についてもアップロードされていました。また有隣堂の広報にも載っていました。この方もブラザーロバート・バーンズの詩を載せていますので恐らくブラザーだと思われますが、メールでは今のところ反応ありませんでした。100年の時を越えて現在スコティッシュライトの中国での活動がまた正念場であるのかもしれませんね。(ブラザースチュアート・エルドリッジについて書いた英文のブログがありました。これによるとブラザースチュアート・エルドリッジの父親の名はレヴィ・エルドリッジというそうで、ユダヤ系であったようです。)







もう一人の横浜十全病院で務めたブラザーウィーラーEdwin Wheelerはアイルランド出身であったそうです。宗教については分かりませんが、一般的にはカトリックが多数ですが、フリーメイスンであったことからもプロテスタント系であったようです。ブラザーウィーラーは明治3年に来日し公使館付医師として活躍し、翌年から工部省鉄道医となっています。日本の鉄道の開業はその翌年の明治5年で、それ以前に最初に鉄道建設を担当した横浜外国人墓地に葬られている恐らくフリーメイスンのエドマンド・モレルが激務のために明治4年に肺結核で30歳で亡くなっており、それらの関係がありそうです。鉄道建設は現在でも大事業であり土地取得や労働力など様々な周辺地域への影響があり、日本での代表的な死の病である肺結核にあまりに短い期間で感染し亡くなったことなどは、その当時の日本における文明開化の実際を伺う逸話だと思われます。ブラザーウィーラーはその後開業してゼネラル・ホスピタルでも働いていて、一旦ブラザーシモンズが辞めた後の横浜十全病院に勤めたそうですが二ヵ月半でブラザーブッケマに譲り、ゼネラル・ホスピタルの医師に戻ったそうです。明治16年にふたたびブラザーエルドリッジと共に横浜十全病院に務め、二年余りに渡って働いたそうです。医師としては「親切さ」と「誠実さ」によって居留地の誰からも愛されたという事だそうです。ブラザーウィーラーが取り上げた新生児は千人を越えたそうです。
フリーメイスンとしてはイングランド系横浜ロッジの会員で、日本地方本部ロッジ、いわゆる当時の日本グランドロッジの役員を務めていたそうです。関東大震災の直前に神戸と横浜でどちらに日本グランドロッジをおくかという事で問題となる綱引きがあったそうで、それらに直接かかわっていたのだと思われます。非常に活動的な人物でいわゆるYC&AC、現在の横浜ロッジの横にある横浜クリケット&アスレチック・クラブの創立時からの会員で、会長も務めていたそうです。モリー・ボーン号というヨットも所有していたそうです。ヨット製造で名高いウィットフィールドの建造になるもので、H・J・ゴーマンの操縦によりレースで何度も優勝したそうです。競馬にも情熱を注ぎ、日本レース・クラブの役員を何度も務めたそうです。来日間もない1871年明治4年に陸軍が招魂社(現靖国神社)で開催していた競馬でタイフーンという馬を見つけ、格安の値段で購入して本格的な競走馬に育てて、その年の11月に秋季競馬でデビュー戦を飾り、その後も優勝を何度も飾り48戦23勝の成績を飾ったそうです。夫人のメアリーもレディズ・ローン・テニス&クロッケー・クラブの有力メンバーで1877年から6年間会長を務めていたそうです。ブラザーウィーラーは横浜合唱協会の役員を務め、横浜文芸音楽協会でも合唱で活躍したそうです。一度も帰国することなく日本に滞在し、47年間横浜にいたそうです。クライスト・チャーチやヴィクトリア・パブリック・スクールの委員も務めたそうです。絵にかいたような名士であったようです。子供は長男と長女ともに横浜で夭逝しているようです。1922年大正11年9月1日に82歳で横浜で関東大震災で被災し自宅に帰る途上の谷戸坂上で亡くなったそうです。

最後は最初に横浜外国人居留地にできた病院であるフランス海軍病院についてです。フランス海軍病院は現在のホテルニューグランドの辺りにあったそうで1864年に作られたそうです。生麦事件の2年後という事で、まあ何でもフランスは最初が多いんですね。もちろんそれらの中では公に横浜で最初のロッジとされるアイルランド系軍隊ロッジのスフィンクスロッジが上陸したのが1864年で1865年に初めての集会を開いたそうですが、恐らくそれ以前にこれだけの建物があるという事は現在のホテルニューグランドの場所においてグラントリアンの系列のロッジが会合を開いていたものかと思われます。この病院は横須賀のブラザーヴェルニーによる横須賀製鉄所とも連携しており、戊辰戦争の際には幕府軍の新撰組などの重傷者の治療を行ったそうです。この病院で活躍したのがブラザーポール・A・L・サヴァティエであったそうです。ウィキペディアでは植物学者として紹介されています。横須賀における最初の梅毒罹患率の検査を行ってほぼ100%であることを報告していると思います。帰国に際して明治天皇より勅語をもらっているそうです。フランス海軍病院は明治7年に火災で全焼し、明治8年にフランス駐留軍が引き上げて再建されなかったそうです。まるでそのままUGLEとGODFの関係をそのまま見るかのようなデジャヴでしょうか。



さていかがでしょうか。長きに渡ったシリーズですが、関東大震災前の横浜居留地、横浜ロッジに関する予備知識としてはかなり十分な内容となったのではないでしょうか。今後はさらに横浜外国人墓地に眠る人々と英文の日本グランドロッジから日本のフリーメイスン100周年記念で出版されたMasonry in Japan THE FIRST ONE HUNDRED YEARS 1866 to 1966とさらに大澤鷺山著の日本に現存するフリーメーソンリー (1941年)(昭和16年11月15日発行)という、まあ特に最後のものは日米開戦の一カ月弱前に出版され、国務大臣企画院鈴木貞一推薦といういわくつきのものですが、明らかにどの時代の日本から出版されたフリーメイスンリー関連本よりも最も横浜ロッジの実際の活動について詳しく書かれた本であり、結局それが東條英機の1945年9月11日の逮捕に繋がり、東京裁判での死刑判決となり1948年12月23日の絞首刑に繋がったという本であるかと思われますが、それらについてまとめていこうかと思っています。鈴木貞一さんは東條英機のいわゆる三肝の一人でありながら唯一平成時代まで生き残ったA級戦犯として100歳で亡くなられたそうです。著者の大澤鷺山という人はちょっと検索しても出てきませんが、恐らくこの企画院の関連の方なのだと思います。企画院の関連としては有名な総力戦研究所の話がありますが、恐らくそれらの関連もあるのかと思われます。横浜ロッジに保存されている文書など特別なものがあるかもしれませんが、まあいずれにしても公開されているもの、開港資料館に保存されているものが過去の情報を繋げるためのほとんど全てだと思われますし、恐らくロッジに保存されているものは関連が全く不明であるような会議の議事録や会合の出席のサインではないかと思われます。そこまで至るのはまずこれら出版物やアンダーソン憲章、モラルアンドドグマの内容を把握してからなのだと思われます。
フリーメイスンリーにもロータリークラブのようにロッジとか地域というものがあって、まあそういうわけで提供する話題もそのロッジや地域に依存するという事になるわけです。
それでまあ横浜のみなとみらい地区も色々開発やら新旧の入れ替わりなど、具体的には横浜美術館の周辺が整ってきたようで、そういうところで今まで気づかなかったフリーメイスンリーのシンボルを見つけたので記事としてみます。

まあブラザーグラバーと直接かかわる、このブログの長崎編とも強くかかわる企業の本社前の二つのパーフェクトアシュラーなわけですが、いかがでしょうか。明らかに大理石で意識したつくりとなっていますが、これは何を意味するのでしょうか。ブラザーグラバーと、ブラザー倉場富三郎を意味するのでしょうか。私も三菱系企業の傘の中で成長したものとして、太平洋戦争での軍需産業や、戦後の財閥解体、そして戦後復興と、バブル経済でのロックフェラーセンタービルの買収と、最近の再びの不祥事など、様々に日本の経済と歴史に関わる大企業群の本社前の象徴として、二つのパーフェクトアシュラーの意味するところが注目されるかと思われます。まあおそらくブラザーグラバーとブラザー岩崎弥太郎という事なのでしょうが、まあ戦前ですからねえ。
小田原絡みで今後は三井物産の創業者についても記事になるかと思います。ご期待ください。