FREEMASONRY
Blue Lodge, Scottish Rite & York Rite in Japan
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私もブラザー片桐三郎が書いた「入門フリーメイスン全史―偏見と真実」を読むまではなかなかこの人の名前は知らなかったわけですが、一応日本史的にはいわゆる陰謀論の教科書みたいな「シオン賢者の議定書」を翻訳した人として名を残すようです。陸軍中将で、情報将校であったという事で、翼賛選挙で衆議院議員となり、戦後A級戦犯となり、83歳まで生きたという略歴を見る限り、笹川良一氏のようないわゆる戦前戦後を生きた右翼という印象になるのかと思いますが、どうもそんな単純なものではないようです。
この方のフリーメイスンリーにまつわる講演録が現代語訳されてKindleで出版されていたので読んでみました。
まあ訳者の方などは完全に陰謀論の旗手のような感じで、以前のイルミナティの邦語訳の副島隆彦氏を彷彿とするわけですが、内容は読めば一目瞭然、ご本人のフリーメイスンのカミングアウトでありながら、ユダヤ陰謀論を説きつつ、戦前の日本の軍国主義、皇国主義を煽るという、まあ時代が克明に映し出される、その後にまだミッドウェーの戦いで敗北が決する以前の翼賛選挙で最高得票を得たという、客観的に評価するのであれば、フランス留学を通してフリーメイスンとなり、大東亜戦争、太平洋戦争を日本での情報工作という形で後押しして、戦後の日本のアメリカフリーメイスンリーによる占領を可能にした働きをした人という事になるのでしょうか。まあ日本の陰謀論者の最初の人を、陰謀論者としての貫徹した陰謀の走狗として働きを評価するというのもまた矛盾がはなはだしいわけですが、まあユダヤ教以上にユダヤ陰謀論が宗教であったという事なのだと思われます。
さてまあ陰謀論についての一般論は置いておいて、この四王天延孝という日本のフリーメイスンリー史に名を残す人物についてフリーメイスンリー的に考証していこうかと思います。まず四王天という名前ですが、養子でなったという事で、日本史では明智光秀の部下で同名の武将がいるようで、どうもその流れをくむ士族であったという事のようです。明らかに四天王寺や興福寺や東大寺で有名な四天王を連想させる名前であり、フリーメイスンリーでは四元徳や、四大元素に表れる数字であり、キリスト教では四大天使、四福音書といった数字であり、ユダヤ教では2の2乗という数秘術の数字という事になるのかと思います。四王天の名字自体は四方田の異形で、かなりはっきりした鎌倉時代の土御門天皇からいただいた名前、地名という事で埼玉県の地方という事だそうです。
フランス留学した戦前のフリーメイスンとされる人物となると、最後の元老西園寺公望公、戦後日本のロッジに加わったブラザー東久邇宮稔彦王、レジオンドヌール勲章をもらったバロン薩摩、日本で最初に飛行機を飛ばした徳川好敏、日露戦争で活躍した秋山好古、ブラザールソーの社会契約論を翻訳した中江兆民、芸術家では黒田清輝、藤田嗣治、岡本太郎などが有名でしょうか。明治維新において幕府方を支援した歴史があり、士族や華族の子弟の留学が多かった模様です。主に日本陸軍との繋がりが強かったようです。こうした中に明確にフランス大東社など、現地のフリーメイスンリーとの接触が言われている方はほとんどいないわけですが、四王天延孝氏はその演説の中で大東社のグランドロッジに入ったことも触れていて、その点でも特筆されるかと思います。また演説の中では民本主義の吉野作造氏について触れていますが、吉野作造氏は留学は無く、プロテスタントの浸礼を受けているようです。東洋のルソーとされる中江兆民は生没年月日は完全にフリーメイスンですが、まあ中江兆民をフリーメイスンとする発想はあまり日本には無さそうです。
陸軍の諜報機関としては、ロシア革命での明石元二郎の活躍や、満州国での甘粕正彦大尉、また海軍の広瀬武夫中佐や、関東軍の石原莞爾などが諜報活動や、思想活動などで有名ですが、まあ以前のこのブログの日本海軍フリーメイスンリー説ではないですが、まあ日本陸軍大東社フリーメイスンリー説も有りうるというところだと思います。
四王天氏の演説の中ではフリーメイスンリーのコンパスと直角定規の形をして、回転させるとGの象徴が現れる仕掛けの小道具も見せられていて、恐らく、日本人でそれを表に見せた人も初めてではないかと思われます。
まあいずれにしても、フランス革命時の、ブラザーエドマンド・バーグの「フランス革命の省察」に代表されるような保守と革命の対立、英仏のフリーメイスンリー同士の対立、そしてそれはプロテスタントとイエズス会の対立、日本海軍と日本陸軍の対立といったフリーメイスンリーでいうところのヤキンとボアズの相対性になるのでしょうが、そういうユダヤ教を象徴するような二項対立がまた四王天延孝氏を巡って表れ、それはまたヨーロッパを覆ったシオニズム運動と、ナチズムという第二次世界大戦の主要なテーマとなった社会運動の影響として、ユダヤ陰謀論とフリーメイスンリーの日本への紹介として明確な歴史的作業になるのかと思われます。直前のフリーメイスンリーへの憲兵隊の逮捕と解散とフリーメイスンリー関連の出版をもって、真珠湾攻撃の日本の参戦とアメリカの欧州戦線への参戦、5月1日周辺でのベルリン攻略とヒトラーの死と、イエズス会結成日での日本の降伏がこれら四王天延孝氏の演説と合わせて一直線上に並び、そして四王天氏の1962年8月8日の死へと繋がるように思われます。
ブラザー片桐三郎氏の本でも語られているように、四王天延孝氏が日本のユダヤ陰謀論、フリーメイスンリー陰謀論の祖であることは間違いなく、そしてそれは恐らくそれ自体がフリーメイスンとしての活動であり、フリーメイスンリーとは何かという時の多元的な活動の一端であり、それを考えるときにフリーメイスンリーの正規派と非正規派という、もう一つのフリーメイスンリーという存在を考慮しなければならないという事であり、それはまさにフリーメイスンリーの教えの相対論そのものであるという事なのだと思われます。
この方のフリーメイスンリーにまつわる講演録が現代語訳されてKindleで出版されていたので読んでみました。
まあ訳者の方などは完全に陰謀論の旗手のような感じで、以前のイルミナティの邦語訳の副島隆彦氏を彷彿とするわけですが、内容は読めば一目瞭然、ご本人のフリーメイスンのカミングアウトでありながら、ユダヤ陰謀論を説きつつ、戦前の日本の軍国主義、皇国主義を煽るという、まあ時代が克明に映し出される、その後にまだミッドウェーの戦いで敗北が決する以前の翼賛選挙で最高得票を得たという、客観的に評価するのであれば、フランス留学を通してフリーメイスンとなり、大東亜戦争、太平洋戦争を日本での情報工作という形で後押しして、戦後の日本のアメリカフリーメイスンリーによる占領を可能にした働きをした人という事になるのでしょうか。まあ日本の陰謀論者の最初の人を、陰謀論者としての貫徹した陰謀の走狗として働きを評価するというのもまた矛盾がはなはだしいわけですが、まあユダヤ教以上にユダヤ陰謀論が宗教であったという事なのだと思われます。
さてまあ陰謀論についての一般論は置いておいて、この四王天延孝という日本のフリーメイスンリー史に名を残す人物についてフリーメイスンリー的に考証していこうかと思います。まず四王天という名前ですが、養子でなったという事で、日本史では明智光秀の部下で同名の武将がいるようで、どうもその流れをくむ士族であったという事のようです。明らかに四天王寺や興福寺や東大寺で有名な四天王を連想させる名前であり、フリーメイスンリーでは四元徳や、四大元素に表れる数字であり、キリスト教では四大天使、四福音書といった数字であり、ユダヤ教では2の2乗という数秘術の数字という事になるのかと思います。四王天の名字自体は四方田の異形で、かなりはっきりした鎌倉時代の土御門天皇からいただいた名前、地名という事で埼玉県の地方という事だそうです。
フランス留学した戦前のフリーメイスンとされる人物となると、最後の元老西園寺公望公、戦後日本のロッジに加わったブラザー東久邇宮稔彦王、レジオンドヌール勲章をもらったバロン薩摩、日本で最初に飛行機を飛ばした徳川好敏、日露戦争で活躍した秋山好古、ブラザールソーの社会契約論を翻訳した中江兆民、芸術家では黒田清輝、藤田嗣治、岡本太郎などが有名でしょうか。明治維新において幕府方を支援した歴史があり、士族や華族の子弟の留学が多かった模様です。主に日本陸軍との繋がりが強かったようです。こうした中に明確にフランス大東社など、現地のフリーメイスンリーとの接触が言われている方はほとんどいないわけですが、四王天延孝氏はその演説の中で大東社のグランドロッジに入ったことも触れていて、その点でも特筆されるかと思います。また演説の中では民本主義の吉野作造氏について触れていますが、吉野作造氏は留学は無く、プロテスタントの浸礼を受けているようです。東洋のルソーとされる中江兆民は生没年月日は完全にフリーメイスンですが、まあ中江兆民をフリーメイスンとする発想はあまり日本には無さそうです。
陸軍の諜報機関としては、ロシア革命での明石元二郎の活躍や、満州国での甘粕正彦大尉、また海軍の広瀬武夫中佐や、関東軍の石原莞爾などが諜報活動や、思想活動などで有名ですが、まあ以前のこのブログの日本海軍フリーメイスンリー説ではないですが、まあ日本陸軍大東社フリーメイスンリー説も有りうるというところだと思います。
四王天氏の演説の中ではフリーメイスンリーのコンパスと直角定規の形をして、回転させるとGの象徴が現れる仕掛けの小道具も見せられていて、恐らく、日本人でそれを表に見せた人も初めてではないかと思われます。
まあいずれにしても、フランス革命時の、ブラザーエドマンド・バーグの「フランス革命の省察」に代表されるような保守と革命の対立、英仏のフリーメイスンリー同士の対立、そしてそれはプロテスタントとイエズス会の対立、日本海軍と日本陸軍の対立といったフリーメイスンリーでいうところのヤキンとボアズの相対性になるのでしょうが、そういうユダヤ教を象徴するような二項対立がまた四王天延孝氏を巡って表れ、それはまたヨーロッパを覆ったシオニズム運動と、ナチズムという第二次世界大戦の主要なテーマとなった社会運動の影響として、ユダヤ陰謀論とフリーメイスンリーの日本への紹介として明確な歴史的作業になるのかと思われます。直前のフリーメイスンリーへの憲兵隊の逮捕と解散とフリーメイスンリー関連の出版をもって、真珠湾攻撃の日本の参戦とアメリカの欧州戦線への参戦、5月1日周辺でのベルリン攻略とヒトラーの死と、イエズス会結成日での日本の降伏がこれら四王天延孝氏の演説と合わせて一直線上に並び、そして四王天氏の1962年8月8日の死へと繋がるように思われます。
ブラザー片桐三郎氏の本でも語られているように、四王天延孝氏が日本のユダヤ陰謀論、フリーメイスンリー陰謀論の祖であることは間違いなく、そしてそれは恐らくそれ自体がフリーメイスンとしての活動であり、フリーメイスンリーとは何かという時の多元的な活動の一端であり、それを考えるときにフリーメイスンリーの正規派と非正規派という、もう一つのフリーメイスンリーという存在を考慮しなければならないという事であり、それはまさにフリーメイスンリーの教えの相対論そのものであるという事なのだと思われます。
さながら老い木に花が咲くごとく。
年々去来の花を忘れぬことだ。
強くたけだけしい芸をする時には、やわらかな心を忘れてはならない。
秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず。
因果の花を知ること、すなわち極意である。
ただ時の用に足りるもの、それを花と知るべきである。
「家はただ続くから家なのではない。継ぐべきものがあるゆえ家なのだ。人もそこに生まれただけでそこの人とはいえぬ。その家が守るべきものを知る者のみ、その家の人といえるのだ」

世阿弥 風姿花伝
年々去来の花を忘れぬことだ。
強くたけだけしい芸をする時には、やわらかな心を忘れてはならない。
秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず。
因果の花を知ること、すなわち極意である。
ただ時の用に足りるもの、それを花と知るべきである。
「家はただ続くから家なのではない。継ぐべきものがあるゆえ家なのだ。人もそこに生まれただけでそこの人とはいえぬ。その家が守るべきものを知る者のみ、その家の人といえるのだ」

世阿弥 風姿花伝
まあちょっとオリンピックともかかっていると思うんですが、読んでみたので感想というか相変わらずのフリーメイスンリー的な視点で書評をしてみようかと思います。
まあまずなんで読んでみたのかというところなのですが、特に宮本武蔵に興味があったわけでもなく、剣術や武術に興味があったわけでもなく、きっかけは人から勧められただけなわけですが、ちょうどキリスト教系の病院関連で勤めていて、おそらくフィレンツェでもあったプラトンの5つの正多面体のいわゆる映画にもなったフィフスエレメント、五大要素の関連なんだと思いますが、そういうまさにフリーメイスンリー的な動機での読書であったということだと思います。
さてまあ内容なんですが、表題は五輪書なんですが、特に五大要素と内容は一切関係なく、ただ五章にまとめたというだけで、一通り読むとよくわかるんですが、明らかに一人の武人が書いたようなものではなく、おそらく私の推測ではキリスト教関連の高度な知識を有した仏僧が集まって理念的な部分を武蔵とともに推敲し、武術の技術的な部分に関しては武蔵が書いたという内容だと思います。理念的な部分は明らかに中国の老荘思想、墨子の影響が濃く、特に大工の仕事に例えるところなどはまさに墨子と同じであったりして、おそらくそれらも中国布教をなしていたイエズス会との関連が直接的にあるのではないかと推測されました。まとめとしては般若心経的な空の思想で収斂するという、最終的には真言宗的な、五輪塔の仏塔の普及した鎌倉時代から慶長年間までの仏教の流行を象徴したものなのだと思いました。
まあ武蔵の生涯を考えると、キリスト教布教が濃厚であった播磨で生まれ、有名な決闘を続けながら、黒田官兵衛麾下として関ケ原の合戦を九州で迎え、最後は野人のような一切入浴しない生活であったそうですが、それで文人として小倉、熊本で剣術指南をしていたということで、姓は新免といい、相変わらずの南蛮解釈だとSin Menでしょうか、原罪のある男子、アダムのような意味になるのかもしれませんが、父親も鎖鎌の使い手の武術家であったようで、日本刀の使い手として極めた形がいわゆる二天一流であったのでしょう。武蔵という名前も、勝手に武蔵守と称したことから通称されているわけですが、当時新しく開かれた江戸幕府の中心であった武蔵国であり、またイスラム教でのモーゼの音やギリシアの文芸の女神の音と同じムーサであり、モーゼも日本刀のような杖を使用した逸話があり、禁教令前までカトリックの洗礼を受けていた、ジョシュア、黒田如水の配下の武士であったことで選ばれた結果なのでしょう。玄信(はるのぶ)という名前も風林火山で知られる、武田信玄晴信の音と一緒であり、有名な甲陽軍艦のもとである兵子の風林火山と五輪の意味である地水火風空とよく似た連想であることが考えられます。
さてまあ五大元素と全く関係ない五章と書いた本文ですが、それぞれの章を見ていきましょう。まず最初地の巻ですが、これは書き出しで序文ですね。武蔵の自己紹介と、10月10日の未明に書き出したなんていかにも野人のような、夜中のラブレターのような感じですが、その後の士農工商の例えと、武道を大工の棟梁の仕事に例えるあたりは、確実にプロデューサーであるキリシタンに通じた仏僧の存在をうかがわせます。いずれにしても武芸の鍛錬は単なる軍事訓練ではなく、実際社会の様々な多芸に通じる心身の鍛錬であるという、この書の作成の意義を強調している点で、戦国時代から関ヶ原の戦い、朝鮮征伐、大坂の陣、島原の乱と日本史上最大の大殺戮の時代を生き抜いた人々と、その後の太平の世を生きる人々との間での残すべき教え、教訓としてこの書があるということなのだと思われます。それは確実にキリスト教や南蛮文化と鉄砲伝来によって、弓矢や太刀や槍といった従来の鎌倉武士からの時代の戦い方から決定的に変わった時代であり、武芸が実戦での実用のものから身分社会での武士の嗜みになった事で生ずる型や概念、意味づけの必要性の結果でもあるのかと思われます。まあそういうわけで実戦を戦って生き抜いた宮本武蔵にすると武芸の理論書なんて言うのはちゃんちゃらおかしいわけですが、そういう人がそういう理論書を残す必然性があったということなのだと思います。ユダヤ戦記と新約聖書みたいな関係性ですね。でまあおそらくイエズス会の教育を受けたなり連絡手段を持った仏僧がこの章は考えたんだと推論しました。
次の水の巻なんですが、ここはいかにも武蔵が書いたと思われる章で、要するに五輪書の核なんですが、恐らく剣術の専門家もよくわからないんじゃないかと思う、達人の指導なんですね。バッティングの達人の指導の表現がよくわからないああいう感じで、最後は結局口伝で伝えるとか、要は型は無いんだということなんだと思うんですが、いろいろ型はあるけど、型にこだわるのは初心者でその型にもいろいろあるのが実戦で、結局は型なんてないという事なんだと思うんですが、まあそれをつらつらと書き綴っていて、いかにも形式ばって論理的に書こうとしていた地の巻とは対照的に、ほとんど口伝で説明を受けないとなんの意味も分からないという印象になっています。
まあまずなんで読んでみたのかというところなのですが、特に宮本武蔵に興味があったわけでもなく、剣術や武術に興味があったわけでもなく、きっかけは人から勧められただけなわけですが、ちょうどキリスト教系の病院関連で勤めていて、おそらくフィレンツェでもあったプラトンの5つの正多面体のいわゆる映画にもなったフィフスエレメント、五大要素の関連なんだと思いますが、そういうまさにフリーメイスンリー的な動機での読書であったということだと思います。
さてまあ内容なんですが、表題は五輪書なんですが、特に五大要素と内容は一切関係なく、ただ五章にまとめたというだけで、一通り読むとよくわかるんですが、明らかに一人の武人が書いたようなものではなく、おそらく私の推測ではキリスト教関連の高度な知識を有した仏僧が集まって理念的な部分を武蔵とともに推敲し、武術の技術的な部分に関しては武蔵が書いたという内容だと思います。理念的な部分は明らかに中国の老荘思想、墨子の影響が濃く、特に大工の仕事に例えるところなどはまさに墨子と同じであったりして、おそらくそれらも中国布教をなしていたイエズス会との関連が直接的にあるのではないかと推測されました。まとめとしては般若心経的な空の思想で収斂するという、最終的には真言宗的な、五輪塔の仏塔の普及した鎌倉時代から慶長年間までの仏教の流行を象徴したものなのだと思いました。
まあ武蔵の生涯を考えると、キリスト教布教が濃厚であった播磨で生まれ、有名な決闘を続けながら、黒田官兵衛麾下として関ケ原の合戦を九州で迎え、最後は野人のような一切入浴しない生活であったそうですが、それで文人として小倉、熊本で剣術指南をしていたということで、姓は新免といい、相変わらずの南蛮解釈だとSin Menでしょうか、原罪のある男子、アダムのような意味になるのかもしれませんが、父親も鎖鎌の使い手の武術家であったようで、日本刀の使い手として極めた形がいわゆる二天一流であったのでしょう。武蔵という名前も、勝手に武蔵守と称したことから通称されているわけですが、当時新しく開かれた江戸幕府の中心であった武蔵国であり、またイスラム教でのモーゼの音やギリシアの文芸の女神の音と同じムーサであり、モーゼも日本刀のような杖を使用した逸話があり、禁教令前までカトリックの洗礼を受けていた、ジョシュア、黒田如水の配下の武士であったことで選ばれた結果なのでしょう。玄信(はるのぶ)という名前も風林火山で知られる、武田信玄晴信の音と一緒であり、有名な甲陽軍艦のもとである兵子の風林火山と五輪の意味である地水火風空とよく似た連想であることが考えられます。
さてまあ五大元素と全く関係ない五章と書いた本文ですが、それぞれの章を見ていきましょう。まず最初地の巻ですが、これは書き出しで序文ですね。武蔵の自己紹介と、10月10日の未明に書き出したなんていかにも野人のような、夜中のラブレターのような感じですが、その後の士農工商の例えと、武道を大工の棟梁の仕事に例えるあたりは、確実にプロデューサーであるキリシタンに通じた仏僧の存在をうかがわせます。いずれにしても武芸の鍛錬は単なる軍事訓練ではなく、実際社会の様々な多芸に通じる心身の鍛錬であるという、この書の作成の意義を強調している点で、戦国時代から関ヶ原の戦い、朝鮮征伐、大坂の陣、島原の乱と日本史上最大の大殺戮の時代を生き抜いた人々と、その後の太平の世を生きる人々との間での残すべき教え、教訓としてこの書があるということなのだと思われます。それは確実にキリスト教や南蛮文化と鉄砲伝来によって、弓矢や太刀や槍といった従来の鎌倉武士からの時代の戦い方から決定的に変わった時代であり、武芸が実戦での実用のものから身分社会での武士の嗜みになった事で生ずる型や概念、意味づけの必要性の結果でもあるのかと思われます。まあそういうわけで実戦を戦って生き抜いた宮本武蔵にすると武芸の理論書なんて言うのはちゃんちゃらおかしいわけですが、そういう人がそういう理論書を残す必然性があったということなのだと思います。ユダヤ戦記と新約聖書みたいな関係性ですね。でまあおそらくイエズス会の教育を受けたなり連絡手段を持った仏僧がこの章は考えたんだと推論しました。
次の水の巻なんですが、ここはいかにも武蔵が書いたと思われる章で、要するに五輪書の核なんですが、恐らく剣術の専門家もよくわからないんじゃないかと思う、達人の指導なんですね。バッティングの達人の指導の表現がよくわからないああいう感じで、最後は結局口伝で伝えるとか、要は型は無いんだということなんだと思うんですが、いろいろ型はあるけど、型にこだわるのは初心者でその型にもいろいろあるのが実戦で、結局は型なんてないという事なんだと思うんですが、まあそれをつらつらと書き綴っていて、いかにも形式ばって論理的に書こうとしていた地の巻とは対照的に、ほとんど口伝で説明を受けないとなんの意味も分からないという印象になっています。
兵法家伝書 柳生宗矩
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