FREEMASONRY
Blue Lodge, Scottish Rite & York Rite in Japan
| ホーム |
まあだいぶ記事を書くことがなかったわけですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。
熱海でブルーノ・タウトといえば、重要文化財に指定された旧日向別邸になるわけですが、まあ近所であってもなかなか行く機会も無い穴場であるかと思います。フリーメイスンリーとどう関係あるのかといえば、まあ世界遺産にも指定されているドイツの建築を担った、近代建築家による日本での唯一の建築で、端的に言うとユダヤ人の方なんですね。
まあ相変わらずのド直球で恐縮ですが、ブルーノ・タウトユダヤ人説には当時から色々あったようで、志賀直哉が触れたなんてのもありましたが、特高警察に付けられたとか、どうも現代の論評でもブルーノ・タウトユダヤ人説を支持するのは英語版のウィキペディアだけという事のようです。
で、あまりその点を強調することはしないわけですが、私も建築について正式に勉強したり、専門としたり、仕事にしたことはないわけですが、フリーメイスンリーにまつわる話はどうしてもこの分野がまあある意味専門という事になることもあり、まあブログとして何の利害関係もなく書いているわけですが、日本の美を称揚した戦前の有名な外国人として、ブルーノ・タウトが桂離宮と絡めて必ず語られる方という事で、湯河原、小田原、熱海地域での一つのメインテーマともいえる隠れキリシタンの話にまつわる話として、日本の美、茶道の話と絡めて、隠れキリシタン、ブルーノ・タウトについていうと隠れユダヤのようになるようですが、フリーメイスンリーとは何かというところの本質的な部分にまつわる話のようであり、まあなかなか文章として表現しづらい内容かと思われますが、試みようかと思います。
それでまあなんで今日この内容で記事を書くかという事なんですが、どうもブルーノ・タウトの誕生日という事で、亡くなった日はクリスマス・イブであるという事で、なかなか宗教的な事なども全く分かりにくい人であるわけですが、時代も時代であり表面上はクリスチャンとして行動していた模様です。少なくとも愛人であり、実質上の2度目の妻であったエリカ夫人は日本でも自由学園などとも接触しており、日本人にはクリスチャンとして見られていたようです。革命後のソ連とも接触しており、まさにユダヤ人、ドイツ系フリーメイスンリーを代表する人物という事になるようです。

来日して翌日のまさに5月4日に桂離宮を見て、絶賛したという事ですが、この桂離宮は4月に私自身も見てきて、日本庭園や茶室として最高のものであることは間違いないと思いました。私自身はこの桂離宮はキリシタン灯籠としての織部灯籠が皇室関連である施設という事で、興味を持って見学したわけですが、まあ信仰の地というよりも、庭園の中の装飾としての南蛮趣味、それらの行き着いた和の境地としての表現が、それら織部灯籠や、市松模様、舟型建築という、フリーメイスンリーのシンボリズムに通じる建築であったようです。具体的なキリスト教信仰であるというものではなく、また隠れキリシタンそのものであったという事でもなく、イエズス会によってもたらされたキリスト教布教の結果としての、東西の文化の融合としての結果の表現がそれであったという事であり、それは一方ではヨーロッパに持ち帰られて、フリーメイスンリーとして結実したという事もまた確実なのではないかと思われます。(5/23追記:高橋敏夫牧師さんが書かれた、『茶の湯の心で聖書を読めば』という本によると、桂離宮を最初に作った智仁親王は正室の実家の京極家もキリシタンであり、桂離宮も織部灯籠も含めて、智仁親王の隠れキリシタンとしての信仰が表現されているとのことでした。茶道とキリスト教にも堺の地での日比屋了慶の家の南蛮寺を中心として、明確な接点があり、キリスト教の分派として禅宗と融合したものと考えるのがふさわしいようです。いずれ機会があれば、茶道とキリスト教でフリーメイスンリーの視点から記事とできればと思います。)
ブルーノ・タウトは禅寺の前に滞在し、その後銀座や軽井沢で「ミルテス」という店を営業していたそうですが、この店名はいわゆるユダヤ教の聖なる木であるギンバイカ、ミルトスに掛かっているのだと思われます。そして日本を離れる直前に、熱海の旧日向別邸の地下室の内装を建築するわけですが、これも本日見学してきて、まさに桂離宮の建築を取り込んだものであって、さらにそこに、ユダヤ教の表現としての光、電球が使われ、また12畳の整然と並んだ畳で、ミドルネームでもあるジュリウス、シーザーのローマ12神を意識した内容となっているかと思われました。(5/5追記:105個の電球は3×5×7の因数分解になっているようです。奇数の乗数というのがユダヤ的であることはわかるかと思います。おそらく日本の仏教で普遍的な108の2×2×3×3×3の因数分解に合わせた表現と思われます。竹の素材と、それの電球のフィラメントへの利用と、光としての表現と日本建築の暗さと電球の利便性とそれのもたらす明りに掛かっているかと思います。)また地下室の最奥に茶室としての寝室を設けるなど、なかなか日本人としては常識外れの建築ではありますが、桂離宮の実際の茶室の使用を考慮した、ドイツ系ユダヤ人として集合住宅を建築し、共産主義の実際を見た、実存的な建築といえるのかもしれません。
この旧日向別邸を建築した昭和11年の直後に日本を離れてトルコに行き、そこで日本をモチーフとして建築した自宅がこれだそうです。


共通して赤を使っているところも、共産主義への傾倒と日本の国旗の色、またフリーメイスンリーの付随団体の象徴の色として、情熱の色として、好んでいたこともうかがわれます。お墓はイスタンブールにあり、かなり立派な墓地で、イスラム教徒以外ではブルーノ・タウトだけだという事です。墓の形はシンプルな平らなもので、フリーメイスンリーをうかがわせるような装飾は一切ありませんでした。トルコはユダヤ教ではサバタイ・ツヴァイの活動した地であり、近代トルコはブラザーケマル・アタチュルクに代表されるフリーメイスンリーの盛んな地のようです。
ちなみに弟のブラザーマックス・タウトはドイツで建築家として活動し、シンボリズムの生没年月日であり、墓もまさにフリーメイスンというパーフェクトアシュラーの形をしていました。
日本にまつわるユダヤ人の有名人というと、イエズス会の宣教師のルイス・デ・アルメイダや、明治維新のフルベッキやシモンズ、以前に貝の象徴性で挙げた、シェル石油の元となったマーカス・サミュエル、日露戦争で支援したジェイコブ・シフ、茅ヶ崎に名前を残すルドルフ・ラチエン、最近では日本でのユダヤ教関連の著作で知られるマーヴィン・トケイヤーなどがいるかと思います。その他にも日本人になじみ深いユダヤ人としては、音楽家としてはメンデルスゾーンやマーラー、科学者ではアインシュタインやフロイト、画家ではシャガールなど枚挙にいとまがないほどです。現代のイスラエルのラビン元首相、ペレス元首相、シャロン元首相、ネタニエフ首相、アメリカの政治家のキッシンジャー元国務長官なども挙げられます。
フリーメイスンリーのシンボリズムの源流はほとんどがユダヤ教にあるとされ、宗教改革やルネッサンスの要諦も旧約聖書やユダヤ教の再認識であったわけで、ユダヤ人、ユダヤ教=フリーメイスン、フリーメイスンリーという認識でほぼ間違いないという事かと思われます。
ブルーノ・タウトの建築もドイツの世界遺産となった集合住宅を見ると、まさに現代日本の都市の集合住宅そのものを示唆しており、さらに旧日向別邸なども現代の日本のホテルなどの建築そのものかと思われます。日本のフリーメイスンリーの象徴でもある東京タワーの色が赤色に染まっているのも、彼の建築の集大成のようでもあるようです。わずか3年ほどの滞在であったようですが、その与えた影響は莫大であり、彼の離日1年で満州事変の後の日中戦争が盧溝橋事件で開戦となり、泥沼化していきます。
余談ですが熱海には興亜観音という、いわゆるA級戦犯7人の遺灰を祀ってある寺があります。GHQが横浜の火葬場で12月23日に絞首刑に処して荼毘に付した後に、一部を旧軍関係者が保管して熱海に埋葬したとのことです。観音自体は戦前の昭和15年に作られているそうで、大船観音などと同じ頃の動きのようです。さてこの中の最も有名な東条英機ですが、この名前がTo Jew Hide Key(ユダヤ人に鍵を隠す)と読めるというのは偶然でしょうか?東条英機は戦時中ナチスドイツに追われたユダヤ人を保護したとしてマーヴィン・トケイヤーの本でも称賛されていました。統制派の歴史上の出来事としてバーデン・バーデンの密約というドイツでの出来事もあります。ちなみに日本で最も詳しい日本でのフリーメイスンリーの活動を記した本である、「日本に現存するフリーメーソンリー」大澤鷺山著内外書房版には自序が皇紀2601年(昭和16年)2月11日とあり、推薦の辞がいわゆる東条の三奸四愚といわれ、平成の世まで生き、100寿を全うした鈴木貞一企画院総裁により、十分に検閲と精査を受け、ブラザーフランクリン・ルーズベルトとの外交交渉のただ中の開戦の1か月前の昭和16年10月30日付と書かれており、発行が11月15日だそうです。
ちなみにGHQが持ち帰ったA級戦犯の遺灰は横浜ロッジのあるYC&ACの敷地内に撒かれたと「1945日本占領フリーメイスン機密文書が明かす対日戦略」徳本栄一郎著にはありました。
追記:ブルーノ・タウトで検索すると以下の画像が出てきました。





コンペに応募したイラストのようです。眼の解剖図のような設計でしょうか。馬蹄形の建築はブリッツ地区のジードルングとして世界遺産に登録されていますが、これは現在でも幸運のシンボルとして良く西洋で認められるもので、なかなかフリーメイスンリーのシンボルとは認められがたいものですが、いわゆる有名なシンボルです。シカゴの新聞社のビルのコンペ作品のようです。トルコの実際の建築の意匠で螺旋となっています。
5/5追記:あえてブラザーとつけませんでしたが、建物の三部構成やベートーヴェン、モーツァルト、バッハの名前の付け方など、明らかにフリーメイスンリーを意識した建築であったようです。赤を象徴的に配置しているのもおそらくスコティッシュライトを意識した建築であるようです。当時の日本ではもちろん横浜や東京でもフリーメイスンリーロッジは活動しており、ブルーノ・タウトももちろん接触していたものと思われます。ちなみに5月4日はカトリックでは聖十字架発見の日という事で、コンスタンティヌス帝とその母にまつわる聖地での十字架発見の逸話があるそうです。忌日がクリスマス・イブであることや、表面上はクリスチャンとして生活していた様子を見ると、前妻との関係も含めて、そういった部分での葛藤はあったのかもしれません。5月4日は中国ではブラザー孫文による5・4運動の日という事で、日本では笹川良一、田中角栄の誕生日などとなっています。その他にブルーノ・タウトのミドルネームでもある聖フロリアヌスの祝日でもあるそうです。消防士の守護聖人という事で、それにちなんだ十字の表現もあるそうです。






名前や出自から言うと完全にフリーメイスンリーを意識したものとなっていますが、いわゆるフリーメイスンとして認識されなかったのはやはり、その結婚生活なんでしょうかね。共産主義への傾倒もあった模様です。
ちなみに105個の電球という事ですが、106個というのも関係者のホームページにはあり、ブルーノ・タウトユダヤ人説と並んで、その後の建築への様々な改変、毀誉褒貶の範疇でいろいろある模様です。まあいずれにしても火事に気を付けるような先進的な建築であることは間違いない模様です。
(2017/10/25追記:ブルーノ・タウト(Bruno Julius Florian Taut、1880年5月4日-1938年12月24日)で、ブルーBlue青と、タウ十字、Τタウティーという形で、完全に名前が駄洒落でフリーメイスンでした。真っ赤な建物を作ったりしていましたが、完全にブラザーブルーノ・タウトでした。タウトTautはきちっと帆や綱を張るといった意味があるそうです。)
熱海でブルーノ・タウトといえば、重要文化財に指定された旧日向別邸になるわけですが、まあ近所であってもなかなか行く機会も無い穴場であるかと思います。フリーメイスンリーとどう関係あるのかといえば、まあ世界遺産にも指定されているドイツの建築を担った、近代建築家による日本での唯一の建築で、端的に言うとユダヤ人の方なんですね。
まあ相変わらずのド直球で恐縮ですが、ブルーノ・タウトユダヤ人説には当時から色々あったようで、志賀直哉が触れたなんてのもありましたが、特高警察に付けられたとか、どうも現代の論評でもブルーノ・タウトユダヤ人説を支持するのは英語版のウィキペディアだけという事のようです。
で、あまりその点を強調することはしないわけですが、私も建築について正式に勉強したり、専門としたり、仕事にしたことはないわけですが、フリーメイスンリーにまつわる話はどうしてもこの分野がまあある意味専門という事になることもあり、まあブログとして何の利害関係もなく書いているわけですが、日本の美を称揚した戦前の有名な外国人として、ブルーノ・タウトが桂離宮と絡めて必ず語られる方という事で、湯河原、小田原、熱海地域での一つのメインテーマともいえる隠れキリシタンの話にまつわる話として、日本の美、茶道の話と絡めて、隠れキリシタン、ブルーノ・タウトについていうと隠れユダヤのようになるようですが、フリーメイスンリーとは何かというところの本質的な部分にまつわる話のようであり、まあなかなか文章として表現しづらい内容かと思われますが、試みようかと思います。
それでまあなんで今日この内容で記事を書くかという事なんですが、どうもブルーノ・タウトの誕生日という事で、亡くなった日はクリスマス・イブであるという事で、なかなか宗教的な事なども全く分かりにくい人であるわけですが、時代も時代であり表面上はクリスチャンとして行動していた模様です。少なくとも愛人であり、実質上の2度目の妻であったエリカ夫人は日本でも自由学園などとも接触しており、日本人にはクリスチャンとして見られていたようです。革命後のソ連とも接触しており、まさにユダヤ人、ドイツ系フリーメイスンリーを代表する人物という事になるようです。

来日して翌日のまさに5月4日に桂離宮を見て、絶賛したという事ですが、この桂離宮は4月に私自身も見てきて、日本庭園や茶室として最高のものであることは間違いないと思いました。私自身はこの桂離宮はキリシタン灯籠としての織部灯籠が皇室関連である施設という事で、興味を持って見学したわけですが、まあ信仰の地というよりも、庭園の中の装飾としての南蛮趣味、それらの行き着いた和の境地としての表現が、それら織部灯籠や、市松模様、舟型建築という、フリーメイスンリーのシンボリズムに通じる建築であったようです。具体的なキリスト教信仰であるというものではなく、また隠れキリシタンそのものであったという事でもなく、イエズス会によってもたらされたキリスト教布教の結果としての、東西の文化の融合としての結果の表現がそれであったという事であり、それは一方ではヨーロッパに持ち帰られて、フリーメイスンリーとして結実したという事もまた確実なのではないかと思われます。(5/23追記:高橋敏夫牧師さんが書かれた、『茶の湯の心で聖書を読めば』という本によると、桂離宮を最初に作った智仁親王は正室の実家の京極家もキリシタンであり、桂離宮も織部灯籠も含めて、智仁親王の隠れキリシタンとしての信仰が表現されているとのことでした。茶道とキリスト教にも堺の地での日比屋了慶の家の南蛮寺を中心として、明確な接点があり、キリスト教の分派として禅宗と融合したものと考えるのがふさわしいようです。いずれ機会があれば、茶道とキリスト教でフリーメイスンリーの視点から記事とできればと思います。)
ブルーノ・タウトは禅寺の前に滞在し、その後銀座や軽井沢で「ミルテス」という店を営業していたそうですが、この店名はいわゆるユダヤ教の聖なる木であるギンバイカ、ミルトスに掛かっているのだと思われます。そして日本を離れる直前に、熱海の旧日向別邸の地下室の内装を建築するわけですが、これも本日見学してきて、まさに桂離宮の建築を取り込んだものであって、さらにそこに、ユダヤ教の表現としての光、電球が使われ、また12畳の整然と並んだ畳で、ミドルネームでもあるジュリウス、シーザーのローマ12神を意識した内容となっているかと思われました。(5/5追記:105個の電球は3×5×7の因数分解になっているようです。奇数の乗数というのがユダヤ的であることはわかるかと思います。おそらく日本の仏教で普遍的な108の2×2×3×3×3の因数分解に合わせた表現と思われます。竹の素材と、それの電球のフィラメントへの利用と、光としての表現と日本建築の暗さと電球の利便性とそれのもたらす明りに掛かっているかと思います。)また地下室の最奥に茶室としての寝室を設けるなど、なかなか日本人としては常識外れの建築ではありますが、桂離宮の実際の茶室の使用を考慮した、ドイツ系ユダヤ人として集合住宅を建築し、共産主義の実際を見た、実存的な建築といえるのかもしれません。
この旧日向別邸を建築した昭和11年の直後に日本を離れてトルコに行き、そこで日本をモチーフとして建築した自宅がこれだそうです。


共通して赤を使っているところも、共産主義への傾倒と日本の国旗の色、またフリーメイスンリーの付随団体の象徴の色として、情熱の色として、好んでいたこともうかがわれます。お墓はイスタンブールにあり、かなり立派な墓地で、イスラム教徒以外ではブルーノ・タウトだけだという事です。墓の形はシンプルな平らなもので、フリーメイスンリーをうかがわせるような装飾は一切ありませんでした。トルコはユダヤ教ではサバタイ・ツヴァイの活動した地であり、近代トルコはブラザーケマル・アタチュルクに代表されるフリーメイスンリーの盛んな地のようです。
ちなみに弟のブラザーマックス・タウトはドイツで建築家として活動し、シンボリズムの生没年月日であり、墓もまさにフリーメイスンというパーフェクトアシュラーの形をしていました。
日本にまつわるユダヤ人の有名人というと、イエズス会の宣教師のルイス・デ・アルメイダや、明治維新のフルベッキやシモンズ、以前に貝の象徴性で挙げた、シェル石油の元となったマーカス・サミュエル、日露戦争で支援したジェイコブ・シフ、茅ヶ崎に名前を残すルドルフ・ラチエン、最近では日本でのユダヤ教関連の著作で知られるマーヴィン・トケイヤーなどがいるかと思います。その他にも日本人になじみ深いユダヤ人としては、音楽家としてはメンデルスゾーンやマーラー、科学者ではアインシュタインやフロイト、画家ではシャガールなど枚挙にいとまがないほどです。現代のイスラエルのラビン元首相、ペレス元首相、シャロン元首相、ネタニエフ首相、アメリカの政治家のキッシンジャー元国務長官なども挙げられます。
フリーメイスンリーのシンボリズムの源流はほとんどがユダヤ教にあるとされ、宗教改革やルネッサンスの要諦も旧約聖書やユダヤ教の再認識であったわけで、ユダヤ人、ユダヤ教=フリーメイスン、フリーメイスンリーという認識でほぼ間違いないという事かと思われます。
ブルーノ・タウトの建築もドイツの世界遺産となった集合住宅を見ると、まさに現代日本の都市の集合住宅そのものを示唆しており、さらに旧日向別邸なども現代の日本のホテルなどの建築そのものかと思われます。日本のフリーメイスンリーの象徴でもある東京タワーの色が赤色に染まっているのも、彼の建築の集大成のようでもあるようです。わずか3年ほどの滞在であったようですが、その与えた影響は莫大であり、彼の離日1年で満州事変の後の日中戦争が盧溝橋事件で開戦となり、泥沼化していきます。
余談ですが熱海には興亜観音という、いわゆるA級戦犯7人の遺灰を祀ってある寺があります。GHQが横浜の火葬場で12月23日に絞首刑に処して荼毘に付した後に、一部を旧軍関係者が保管して熱海に埋葬したとのことです。観音自体は戦前の昭和15年に作られているそうで、大船観音などと同じ頃の動きのようです。さてこの中の最も有名な東条英機ですが、この名前がTo Jew Hide Key(ユダヤ人に鍵を隠す)と読めるというのは偶然でしょうか?東条英機は戦時中ナチスドイツに追われたユダヤ人を保護したとしてマーヴィン・トケイヤーの本でも称賛されていました。統制派の歴史上の出来事としてバーデン・バーデンの密約というドイツでの出来事もあります。ちなみに日本で最も詳しい日本でのフリーメイスンリーの活動を記した本である、「日本に現存するフリーメーソンリー」大澤鷺山著内外書房版には自序が皇紀2601年(昭和16年)2月11日とあり、推薦の辞がいわゆる東条の三奸四愚といわれ、平成の世まで生き、100寿を全うした鈴木貞一企画院総裁により、十分に検閲と精査を受け、ブラザーフランクリン・ルーズベルトとの外交交渉のただ中の開戦の1か月前の昭和16年10月30日付と書かれており、発行が11月15日だそうです。
ちなみにGHQが持ち帰ったA級戦犯の遺灰は横浜ロッジのあるYC&ACの敷地内に撒かれたと「1945日本占領フリーメイスン機密文書が明かす対日戦略」徳本栄一郎著にはありました。
追記:ブルーノ・タウトで検索すると以下の画像が出てきました。





コンペに応募したイラストのようです。眼の解剖図のような設計でしょうか。馬蹄形の建築はブリッツ地区のジードルングとして世界遺産に登録されていますが、これは現在でも幸運のシンボルとして良く西洋で認められるもので、なかなかフリーメイスンリーのシンボルとは認められがたいものですが、いわゆる有名なシンボルです。シカゴの新聞社のビルのコンペ作品のようです。トルコの実際の建築の意匠で螺旋となっています。
5/5追記:あえてブラザーとつけませんでしたが、建物の三部構成やベートーヴェン、モーツァルト、バッハの名前の付け方など、明らかにフリーメイスンリーを意識した建築であったようです。赤を象徴的に配置しているのもおそらくスコティッシュライトを意識した建築であるようです。当時の日本ではもちろん横浜や東京でもフリーメイスンリーロッジは活動しており、ブルーノ・タウトももちろん接触していたものと思われます。ちなみに5月4日はカトリックでは聖十字架発見の日という事で、コンスタンティヌス帝とその母にまつわる聖地での十字架発見の逸話があるそうです。忌日がクリスマス・イブであることや、表面上はクリスチャンとして生活していた様子を見ると、前妻との関係も含めて、そういった部分での葛藤はあったのかもしれません。5月4日は中国ではブラザー孫文による5・4運動の日という事で、日本では笹川良一、田中角栄の誕生日などとなっています。その他にブルーノ・タウトのミドルネームでもある聖フロリアヌスの祝日でもあるそうです。消防士の守護聖人という事で、それにちなんだ十字の表現もあるそうです。






名前や出自から言うと完全にフリーメイスンリーを意識したものとなっていますが、いわゆるフリーメイスンとして認識されなかったのはやはり、その結婚生活なんでしょうかね。共産主義への傾倒もあった模様です。
ちなみに105個の電球という事ですが、106個というのも関係者のホームページにはあり、ブルーノ・タウトユダヤ人説と並んで、その後の建築への様々な改変、毀誉褒貶の範疇でいろいろある模様です。まあいずれにしても火事に気を付けるような先進的な建築であることは間違いない模様です。
(2017/10/25追記:ブルーノ・タウト(Bruno Julius Florian Taut、1880年5月4日-1938年12月24日)で、ブルーBlue青と、タウ十字、Τタウティーという形で、完全に名前が駄洒落でフリーメイスンでした。真っ赤な建物を作ったりしていましたが、完全にブラザーブルーノ・タウトでした。タウトTautはきちっと帆や綱を張るといった意味があるそうです。)
| ホーム |