FREEMASONRY
八景島のシンボルについての話はまた後々話す事にします。
鎌倉といえば現在世界文化遺産登録に申請中の武家政権時代の中心地であったところです。
鎌倉のシンボルといえば一番に鶴岡八幡宮の銀杏の木が挙がったと思いますが、最近になって突風で倒れてしまったのは記憶に新しいところです。
その他には鶴岡八幡宮そのものや、段葛の桜並木、鶴岡八幡宮の鳥居や、鎌倉大仏、由比ヶ浜など観光地だけあって様々なものがシンボルとして思いつくと思います。
鎌倉駅そのものもシンボリックな時計塔の形をしていて、屋根がきちんとピラミッド型をしています。
私個人としては鎌倉のシンボルとしてはやはり鎌倉宮を挙げたいと思います。
鎌倉宮は南北朝時代に建武の新政をおこなった後醍醐天皇の皇子、護良親王が足利尊氏方に捕えられ幽閉されていた場所とされ、おどろおどろしい土牢跡が奥にありますが、実際のものではないそうです。大きな菊の御紋があり、七五三などで人気のようです。南朝の正統性など、明治天皇のお気に入りの逸話であったようで、明治維新後に復興されたり改変された神社の一つです。
同様のものに頼朝の墓の横にある大江広元の墓のさらに横にある島津と毛利の祖の墓があり、これらも明治維新後に改変されたようです。ネットで検索するとどちらも江戸時代の整備と強調してあります。私が以前訪問した際には横にある説明の石碑を直接削っている人がいてびっくりしたものでした。日本の史跡紹介の石碑の記録などはかなり怪しいものが多いですね。
さてこの他にも鎌倉には天皇家にまつわる地名が残されています。鎌倉の西口の江ノ電の乗り場がある方は小町通りとは逆側になり、若干さびれた感じとなっていますが、こちらの通りの名前は御成(おなり)通りといい、時期によっては武将の名前を書いたのぼりが電柱ごとに飾られたりとなかなか独特の雰囲気を醸し出しています。通りを過ぎると御成小学校という古めかしい門と体育館があるいかにも鎌倉らしい伝統を感じる鎌倉市立の小学校があったりします。この御成という地名なのですが、何も考えずにいると特に気付かないでいる地名ですが、実はそこに明治維新後から終戦まで天皇家の御用邸があったためについた名前と知るといかにもといった感じで納得がいきます。御成小学校の門や建物も部分的に御用邸のものを利用しているそうです。
鎌倉にはその他にも旧宮家の別荘や文人の住居、戦後の首相達の別荘などもあり、それらが現在は公開されているものや、料亭や文学館のような施設となっているなど様々なものがあり、細かく訪問するとそれぞれ現代につながる日本の歴史の多くの舞台と、その子孫の人々が多く現在も関わっている事を感じることができるので、鎌倉時代の歴史やそれ以前、それ以降のものと合わせて歴史そのものを勉強する事ができます。
ところでこのブログのテーマであるフリーメイスンリーのシンボルですが、鎌倉駅のそれもまた非常に気付きにくいものだと思いますが明らかにそういうものだと思われます。またその他にも非常に気付きにくく目立たない形で存在するのですが、それもまたこの鎌倉という日本の歴史上京都・奈良に続く古都として重要な存在である町の特徴なのだと思います。
フリーメイスンリーの歴史的には前回取り上げたブラザーキップリングが日本を訪問した際に鎌倉大仏を訪れ、それを記録しているので、ここに転載したいと思います。
「キプリングの日本発見」より
さて、横浜から田や畑を抜けて二十マイルばかり行ったところにある海に面した町、鎌倉のことを記そう。鎌倉には青銅で造った大きな仏像、すなわち鎌倉の大仏がある。大仏は幾百年もの歳月の過ぎゆく音に耳をかたむけつつ、海に向かって、じっと座っている。この大仏についてはこれまで多くの人が、その荘厳さと、世を超越したさま、その他もろもろの側面、たとえば像の内側にある灰色の小さな聖所、像の背後にある綺麗に刈り込まれた木々の茂る小高い丘などについて、繰り返し語ろうと試みてきた。そして大仏は今もなお昔と同様に、その姿を描写したいと願う人間の思いの届き得ない彼方に座しておられる。すっかり新しくなってしまった風景の中で、目に見える神として。
大仏の親指の爪の上に観光客が乗っている写真が絵葉書になって売られている。教養のない人間が男に限らず女も、この大仏を作り上げている巨大な青銅板の裏に、恥知らずにも自分の名前を落書きしている。考えても見たまえ、それがどんなに軽薄で、侮辱的な行為であるか!
古風な庭園を想像してほしい。そこでは、植木の枝はさっぱりと刈り込まれ、苔はつやつやと輝き、静かな池の面からは水蒸気が立ちのぼっている。雨の降ったあとに太陽が強く照りつけているからだ。そして青銅の緑色に身を包んだ、法の師である大仏は、香の煙の中に半分隠れるように、揺らめく空気の中に座っておられる。大仏にとってそのとき大地はそのまま香炉となる。何百万といる蛙どもは、その空気をどよめかせる。
あまりにも暑い日なので、わたしは何もせず、ただ石の上に座って大仏の目を見ている。大仏の目は伏し目である。それはすべてのものを見尽くした末に、もはや何も見ようとはしていない目で、頭は前に軽くうなだれ、単純な線の流れに表された巨大な衣の襞が、その腕と膝とを蔽っている。遠い昔、弟子の阿難陀が数々の問いを投げかけた時も、釈迦は今私が見ている姿と同じ姿勢で座っておられたはずである。その後におもむろに唇が動き始める。そしてその瞑想家はもっと遠い昔の日々のことを夢想し始める。仏典は「彼は語られた」と記すが、釈迦はきっとこのように夢想の後に語り始められたのだ。今も東洋の瞑想家たちはそのように語り出す。
「遠い昔、提婆達多がベナレスの王であった頃、徳の高い象と、邪な牡牛と、物分かりの悪い王が住んでいた――」、そして釈迦はこの話から、阿難陀に一つの教訓を引き出して諭されたあと、次のように締めくくられる。「さて、邪な牡牛とは、だれそれ、物わかりの悪い王とは、だれそれ、そして徳の高い象とは、阿難陀や、私のことなのだよ」
釈迦はその昔、このような話を竹の林の中でされたのだが、その竹の茂みは鎌倉に今もそのままある。青色や灰色や青味をおびた灰色の衣をまとった小柄な人々が今日もその蔭をよぎり、線香を数本買っては、聖所へと入っていき――その聖所とは大仏の身体の中の事だ――、しばらくするとにこにこしながらまた現れて、木立の向こうへ消えていく。池の中では、まるまると肥えた鯉が上から落ちてきた木の葉をぱくっと呑みこむ。まるで世の男がかわいい娘から接吻を盗むときのように邪な音を立てて。大地は静寂のなかで蒸されて、水蒸気をあげている。そこに、羽を広げると十五センチは優にあるような、絢爛たる巨大な蝶が一羽、極彩色の線をジグザグに描きながら、御仏の額のあたりに向かって、ひらひらと舞い上がっていく。
仏陀は言われた、すべてのものは仮象であると。光さえも、色さえも。幾星霜を経た青銅の大仏の青鈍色も、その背後にある松の濃い青緑色も、竹の淡いエメラルド色も、少女の着ている着物のシナモン色も、帯のレモン色も、その娘が髪に挿している髪飾りの珊瑚色も、その娘が寄りかかっている、風雨にさらされた石の色も、茶店の藁葺き屋根の蜂蜜色も、その店の畳の黄金色も、畳の上の瓶に挿してある一枝の躑躅の、血のような真紅の色も、仏陀によればすべて仮象なのだ。
たしかに、金銀への執着は、しばしば邪悪な思いを誘うこともあろうから、断ち切らねばなるまい。そのことは、わかる。しかし、人間の心を楽しませてくれる色、心を明るくしてくれる光、最も奥深い胸の憧れを満たしてくれる線の流れ、こうした目の喜びを、なぜ放棄しなければならないのだろうか。ああ、菩薩よ、あなたがご自身の姿を一度ご覧になるべきではないのですか!
庭の入り口には古びた立て札があって、そこには少しく悲壮感がただようが、なかなか堂々たる訴えの言葉が書いてある。それはこの寺の僧が書いたもので、この寺を訪れる観光客に向かって、仏像に対する敬意と良識ある振舞いを求めるものである。それを私は詩の形に直してみた。こんな具合に――。
トペテの谷の脇を抜け、最後の審判の日をめざし
細い道を行くきみたちよ
「異教徒」たちが鎌倉の御仏を拝んでも
寛容な心で見守ってほしい
れっきとした道にして、法――きみたちのとは違うだろうが
母なるマヤ夫人の懐にいたお方
お弟子アーナンダにとっては主、また菩薩
鎌倉の大仏はそのようなお方
自分は鎌倉の子らのごとく、罪人ではないと
きみがきみらの神に感謝しようと
御仏は憤りもなさらず
見ようとも、聞こうともなさらない
だが、西洋流の嘲笑だけはやめたまえ
鎌倉の御仏を拝む小さな人々の小さな罪が
線香によってよい香りのする煙へと
変わっていくのを見るとき
灰色の衣に、明るい色の帯を締めた人たちが
伏目の御仏の蔭を蝶のように行き来する
御仏は神秘の彼方に居ますお方だが
鎌倉の子らを愛しておられる
高慢という罪に捉われず
他の宗教の教義と僧侶を貶めない者なら
広い東洋を蔽う東洋の魂を
この鎌倉で、この御仏に感じることができよう
然り、アーナンダがその昔、主から聞いた物語
偉大なる師が、魚や獣や鳥の姿をかりて
この世での輪廻転生を経られたという物語を
暖かい風は鎌倉まで運んでくる
一緒に聞こえてくるのは
デーヴァダッタの支配力が強くならないうちにと
鎌倉で御仏を拝みながら、輪廻転生の梯子を
一段、また一段と上りつつある人々の魂の声
半眼の瞼は見ておられるようだ
遠いシュエ・ダゴンの黄金の塔の頂から
燃える炎が発して東方に向かい
ビルマから鎌倉までの道を渡ってくるさまを
濃密な空気は世界の果てから鎌倉までの隔たりを
越えて運んでくる
チベットの太鼓の響きと
ゆるやかな「蓮華のなかに宝珠がある」という呪文を
だがバラモンはいまだにベナレスを支配し
ブダガヤ丘の仏跡は荒れるがまま、そして
牛肉を貪り食う狂信者たちは
鎌倉へと迫り、御仏を脅かす
大仏などは観光用の見世物、たんなる伝説
黄金の剥げかかった青銅の塊
それだけ、いやそれ以下としか、きみたちには
鎌倉の意味は映らないのか
だが朝の祈りを終え
法外な儲けを狙う戦へと出かけて行く前に、考えてみたまえ
きみらが崇める神の子のほうが
鎌倉の大仏より身近だと、きみには確信できるのか
これを言われて想像がつく人はいるでしょうか。
前に鎌倉駅の時計台について触れました。あれもそれをフリーメイスンリーのシンボルと考える人はほとんどいないと思います。
それ以外でそれらしいものが鎌倉にあったでしょうか。
詳しい人は江の島の展望台や灯台がそうなのではないかと考えるのではないでしょうか。江の島の植物園はサムエル・コッキングさんというイギリスからの横浜外国人居留地の方が造られたそうです。奥さんが日本人で、フリーメイスンかどうかは全くわかりません。私はこの植物園は行ったことがありません。カナダ、ウィンザー市から送られたバラ園があるそうです。
しかし御存じのとおり江の島は藤沢市です。
明治天皇の歌碑がある場所があります。
他のブログからのコピペです。
実際には満潮干潮でそれほどの砂浜が出現することもなく、膝をつかりながら磯伝いに侵入は可能だが防御される可能性は高く、内通者や地元の人の手引きがあって山越えで突破したのではないかというのが事実みたいです。いずれにしても南朝びいきの明治天皇お気に入りの逸話であったようで、明治以降太平記の最も有名な部分として巷間に知れ渡っているエピソードだと思います。剣を投げ込んで海が割れたというと、聖書を知っているとすぐにモーセの出エジプトのエピソードに結び付くと思います。
出エジプトの該当部分を転載します。
出エジプト記14章
主はモーセに仰せになった。「イスラエルの人々に、引き返してミグドルと海との間のピ・ハヒロトの手前で宿営するよう命じなさい。バアル・ツェフォンの前に、それに面して、海辺に宿営するのだ。するとファラオは、イスラエルの人々が慌ててあの地方で道に迷い、荒れ野が彼らの行く手をふさいだと思うであろう。わたしはファラオの心をかたくなにし、彼らの後を追わせる。しかし、わたしはファラオとその全軍を破って栄光を現すので、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」彼らは言われたとおりにした。民が逃亡したとの報告を受けると、エジプト王ファラオとその家臣は、民に対する考えを一変していった。「ああ、我々は何ということをしたのだろう。イスラエル人を労役から解放して去らせてしまったとは。」ファラオは戦車に馬をつなぎ、自ら軍勢を率い、えり抜きの戦車六百をはじめ、エジプトの戦車すべてを動員し、それぞれに士官を乗り込ませた。主がエジプト王ファラオの心をかたくなにされたので、王はイスラエルの人々の後を追った。イスラエルの人々は、意気揚々と出て行ったが、エジプト軍は彼らの後を追い、ファラオの馬と戦車、騎兵と歩兵は、ピ・ハヒロトの傍らで、バアル・ツェフォンの前の海辺に宿営している彼らに追いついた。ファラオは既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、また、モーセに言った。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓が無いからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入ってきた。朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍はかき乱された。戦車の車輪をはずし、進みにくくされた。エジプト人は言った。「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」主はモーセに言われた。「海に向かって手を差し伸べなさい。水がエジプト軍の上に、戦車、騎兵の上に流れ返るであろう。」モーセが手を海に向かって差し伸べると、夜が明ける前に海は元の場所へ流れ返った。エジプト軍は水の流れに逆らって逃げたが、主は彼らを海の中に投げ込まれた。水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んだが、そのとき、水は彼らの右と左に壁となった。主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。
太平記の描写とそっくりなのがよくわかると思います。恐らく太平記の作者に聖書のこの話のアイディアが伝わったのではないでしょうか。明治天皇も明治維新後に欧州に留学したブラザー西周やブラザー津田真道らから聖書やユダヤ教、キリスト教について当時の日本における最新の知識を吸収していたことだと思われます。そして新たな明治維新で生まれた日本がキリスト教やユダヤ教における一神教を模した天皇を中心とした一神教的国家としてつくる際に、それら神の所業のいわれが日本の古典においても同様に認められ、どの時代、どの地域においても普遍的な歴史や宗教の伝承について統治者として啓蒙され、一種の啓蒙専制君主としてこのような歌碑を残したものと思われます。実際新田義貞の鎌倉攻めは極楽寺方面でも激烈で、十一人塚などの碑も残されていますが、鎌倉幕府の滅亡の戦いにおいて十一人の死者がポイントになったとすると、今の戦争や争いと比べると鎌倉時代のそれは相当に違ったものだったのだろうと容易に想像されます。
また内通者や、城攻めでの内部崩壊の話としてはやはり旧約聖書ではヨシュア(ジョシュア)記でのヨシュア(ジョシュア)がカナンの地に攻め上がる際にエリコの城壁の話が有名です。聖書の話ばかりでくどくなりますが、この辺は聖書を通読した人にとっては印象深い一つの重要なエピソードであり、これについても初めて知る人々のために転載することとします。
ヨシュア記6章
エリコは、イスラエルの人々の攻撃に備えて城門を堅く閉ざしたので、誰も出入りすることはできなかった。そのとき、主はヨシュアに言われた。「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。七日目には、町を七周し、祭司たちは角笛を吹きならしなさい。彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、その音があなたたちの耳に達したら、民は皆、鬨の声をあげなさい。町の城壁は崩れ落ちるから、民は、それぞれ、その場所から突入しなさい。」ヌンの子ヨシュアは、まず祭司たちを呼び集め、「契約の箱を担げ。七人は、各自雄羊の角笛を携えて主の箱を先導せよ」と命じ、次に民に向かって、「進め。町の周りを回れ。武装兵は主の箱の前を行け」と命じた。ヨシュアが民に命じ終わると、七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携え、それを吹き鳴らしながら主の前を行き、主の契約の箱はその後を進んだ。武装兵は、角笛を吹き鳴らす祭司たちの前衛として進み、また後衛として神の箱に従った。行進中、角笛は鳴り渡っていた。ヨシュアは、その他の民に対しては、「わたしが鬨の声をあげよと命じる日までは、叫んではならない。声を聞かれないようにせよ。口から言葉を発してはならない。あなたたちは、その後で鬨の声をあげるのだ」と命じた。彼はこうして主の箱を担いで町を回らせ、一周させた。その後、彼らは宿営に戻り、そこで夜を過ごした。翌朝、ヨシュアは早く起き、祭司たちは主の箱を担ぎ、七人の祭司はそれぞれ雄羊の角笛を携え、それを吹き鳴らしながら主の箱の前を進んだ。武装兵は、さらにその前衛として進み、また後衛として主の箱に従った。行進中、角笛は鳴り渡っていた。彼らは二日目も、町を一度回って宿営に戻った。同じことを、彼らは六日間繰り返したが、七日目は朝早く、夜明けとともに起き、同じようにして町を七度回った。町を七度回ったのはこの日だけであった。七度目に、祭司が角笛を吹き鳴らすと、ヨシュアは民に命じた。「鬨の声をあげよ。主はあなたたちにこの町を与えられた。町とその中にあるものは、ことごとく滅ぼし尽くして主にささげよ。ただし、遊女ラハブおよび彼女と一緒に家の中にいる者は皆、生かしておきなさい。我々が遣わした使いをかくまってくれたからである。あなたたちはただ滅ぼし尽くすべきものを欲しがらないように気をつけ、滅ぼし尽くすべきものの一部でもかすめ取ってイスラエルの宿営全体を滅ぼすような不幸を招かないようにせよ。金、銀、銅器、鉄器は全て主にささげる聖なるものであるから、主の宝物倉に納めよ。」角笛が鳴り渡ると、民は鬨の声をあげた。民が角笛の音を聞いて、一斉に鬨の声をあげると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした。ヨシュアは、土地を探った二人の斥候に、「あの遊女の家に行って、あなたたちが誓ったとおり、その女と彼女に連なる者すべてをそこから連れ出せ」と命じた。斥候の若者たちは行って、ラハブとその父母、兄弟、彼女に連なる者すべてを連れ出し、彼女の親族を全て連れ出してイスラエルの宿営のそばに避難させた。彼らはその後、町とその中のすべてのものを焼き払い、金、銀、銅器、鉄器だけを主の宝物倉に納めた。遊女ラハブとその一族、彼女に連なる者はすべて、ヨシュアが生かしておいたので、イスラエルのなかに住んで今日に至っている。エリコを探る斥候としてヨシュアが派遣した使者を、彼女がかくまったからである。ヨシュアは、このとき、誓って言った。「この町エリコを再建しようとする者は主の呪いを受ける。基礎を据えたときに長子を失い城門を建てたときに末子を失う。」主がヨシュアと共におられたので、彼の名声はこの地方一帯に広まった。
モーセの出エジプトやヨシュアのエリコ攻略に関して明治から現在に至るまでどれだけの日本人が知っていたでしょうか。少なくとも明治天皇は詳しく知っていたと思われます。
さて稲村ケ崎には他にも京都大学出身の日本の哲学の権威でもある西田幾多郎の碑もあります。この地で著作と家族との幸せな時間を過ごしたそうです。西田幾多郎といえば「絶対矛盾の自己同一」や京都の観光名所である哲学の道で有名です。わたしは詳しくは知りません。
また稲村ケ崎は白樺派で「一房の葡萄」で有名な有島武郎の作品の「溺れかけた兄妹」の舞台でもあります。彼の作品は一房の葡萄などの聖書の話をベースとしたものがあります。七里ガ浜~稲村ケ崎にはこうした関連でかキリスト教系の病院や教会や施設が多数あります。七里ガ浜には日本バレエ発祥の地として旧パブロワ記念館と記念碑も残っています。ここにも二つのアーチが残っています。
稲村ケ崎公園には明治天皇の歌碑のほか、逗子開成中学校のボート転覆事故を慰霊する銅像も建っています。恐らく有島武郎の「溺れかけた兄妹」を意識して作られたのだと思われます。
さてこのような稲村ケ崎なのですが、フリーメイスンリーのシンボルはどこでしょう。
七里ガ浜にある日本バレエ発祥の地として旧パブロワ記念館と記念碑
実は最初のものは稲村ケ崎公園のすぐわきにある極楽寺川の橋と川の護岸です。
単に白黒のチェッカーになっているだけです。
この稲村ケ崎周囲は万葉集にも歌われていて、奈良時代より人々が住む地域であったことがわかります。
鎌倉の見越しの崎の岩崩えの君が悔ゆべき心は持たじ
ま愛しみさ寝に我は行く鎌倉の水無瀬川に潮満つなむか
さてこれだけではフリーメイスンリーのシンボルとはちょっと確信しがたいと思います。
稲村ケ崎公園を三段ある一番上まで登って行きましょう。
中央の休み処と手前の芝と石とのチェッカーがよくできています。
ヘキサゴンの形になっていて景色がよく見えます。
ここには「近代細菌学の祖」といわれるコッホと北里柴三郎が訪れたことを記念する碑があります。
コッホはフリーメイスンではないでしょうが、ここを訪れて二年後にドイツのバーデン・バーデンで66歳で死亡しました。
さてこの地の最大のフリーメイスンリーのシンボルは実は二本の松の木と借景でした。
二本の松の木がヤキンとボアズの柱、富士山が神様を意味する三角形、手前のベンチが祭壇altarで、その手前がわれわれ日本人としてのラフアシュラーでしょう。
二本の松の木は日本を象徴する意味でもかかっているのだと思います。それは極めて日本的で、極めて日本の象徴でありながら、フリーメイスンリーの象徴を自然と取り込み、しかしながらラフアシュラーで締めくくられるような、極めて鎌倉的なシンボルでありました。
この地では最近では姉歯設計事件に関して建築事務所の社長が自殺して流れ着くといういわくつきの有名な事件もありました。
[追記:恐ろしい話で終わりましたが、お詫びに非常にためになる情報を付け加えます。稲村ケ崎公園から歩いてすぐにイタリアンでとてもおいしく品があり比較的リーズナブルな店があります。ミシュランガイドにも出てきませんが、それはフランス料理の源流といわれるメディチ家伝来のイタリア料理を自負するが故でしょうか。
タベルナ・ロンディーノと言います。食べるなという意味ではなく、食堂という意味だそうです。ロンディーノはロンド調のとかいう意味だそうで、ロンギヌスの槍とは関係ありません。平日昼のランチコースが一番のおすすめです。駐車場は稲村ケ崎温泉の横の駐車場が提携しているそうです。]
鎌倉葉山あたりの国道134号線を車で走ると電柱に印象的な広告があって目につく事があるかと思います。何なんだろうと思われた方多いのではないでしょうか。
C33で検索すると日産の車が出てきます。
今回はそれとは違い、葉山にあるゲストハウスC33という方です。いわゆる海の見える結婚式場ですね。プリンスホテルや逗子マリーナなど海の見える結婚式場は最近人気のようですが、その中で葉山の第三セクターが経営しているそうですが、いわゆる神前も人前もキリスト教式もできる結婚式場です。
と、ここまで読んできている人であれば、C33で33階級の数字と一緒という事で、ロータリークラブあたりが経営に関与しているのだろうと推測されそうですが、恐らくその通りかと思います。キリスト教式の際にはいわゆる聖公会(イングランド国教会)の牧師さんが来られるようです。
写真を見ていただけるとわかるかと思いますが、フロアが印象的な白黒のモザイクになっています。これは横須賀でも芸術劇場の前などで認められる形です。また教会や宴会場の天井部分に三角形の屋根に横向きに梁が入っていて、光の加減でピラミッドが印象的に現れる形となっています。なかなか面白い作りです。
C33のCの意味ですが、公式ホームページでは全く説明は現れていませんが、恐らくChristianity、Christの意味かと思われます。33の意味としてキリストの人生が33年であったという事も一つ挙げられますので、そういう意味では基本的にはキリスト教的な信仰の上でのフリーメイスンリーの象徴になるのだと思います。
興味のある方はどうぞご利用をご検討ください。
まあ色々あって鎌倉やその周辺と関わる事になったわけですが、その中でやはり鎌倉と言うと寺めぐり、観光地巡りが最も大きな割合を占める場所ではないかと思われます。もちろん住んでいる人にとってはそれらは二の次になるわけですが、暮らしやすさや生活の便利さなどは実際に住んでみないとわからない、そしてそれらはどの場所であっても一長一短ありということで、そういった生活情報と言ったものからは離れた内容としようと思います。
具体的にはまだ東北大震災の起こる前に、このブログでも取り上げたワシントンのフリーメイスンリー関連施設を見回ってきた後に自然と足が赴いた日本的建築が数多く残る鎌倉探訪での写真を掲載します。かなり大量にあるので数回に分割する形になります。
スタート地点は稲村ケ崎です。

この写真で場所が分かる人は近所の人かかなり良く鎌倉を歩いている人かと思います。稲村ケ崎駅からちょっと歩いた江ノ電を撮影する人が多い踏切のところから海側を覗いたところです。実は右側に見えるのがサザンオールスターズのK.K.さんの別荘になっているそうです。彼も鎌倉建長寺の横にある鎌倉学園卒業、青山学院大学中退の一番の有名人で、映画「稲村ジェーン」を制作した事でも有名ですが、最近食道がんを患ったり、製作に関わってきたお姉さまを癌で亡くされたりと話題は尽きません。最近ではめざましテレビの音楽も作られたりしています。以前に同様にめざましテレビの音楽を作られた元オフコースの小田和正さんも逗子披露山にお家を持っていたとか、出身は金沢文庫であるとか関連があるようです。
稲村ケ崎で最も有名なのは以前も挙げましたが太平記の新田義貞の鎌倉攻めであり、また明治大正期においては有島武郎の「溺れかけた兄妹」での逸話があり、いわゆる戦前におけるメディアで取り上げられた景勝地です。哲学者西田幾多郎も在住しその歌碑が残っています。現在でも芸能・スポーツ関係の有名人が住んだりしておりますが、みのもんたさんの奥さんの例などを見ても現代では有名人が鎌倉で過ごすのには色々条件が良くないのかもしれません。

ここからの江の島の眺めは良くできています。良くできているから絵となり写真となり良く知れ渡っているのでより一層良くできていると感じるのかは恐らくそうなのだろうかと思いますが、毎回行くと良くできていると思います。この景色を見ながらおいしいお寿司が食べられる鎌倉御代川の支店の寿司店「かい」があったのですが、数年前にノロウイルスを出して稲村ケ崎の店は閉めてしまいました。代わりに鎌倉駅前の地下で「きみ」というお店をやっています。職人さんのお店で、寿司や日本食の技術ではピカイチだと思います。毎回行くと難しい話題や新鮮な驚きを与えてくれるので貴重なお店です。





この時はヘリが飛んでいたのですね。この浜ではウミガメが死体で上がったり、犬をリードなしで離して咬みついたり、刺青を入れたサーファーが朝早くからたくさんいたりと恐らく日本で最も人が来る砂浜となっているかと思いますが、それはそれで都会のファッション街や駅前通りのようで日々の世の中の空気を知るには格好の地となり、富士山にかかる雲の形などから様々なメッセージをくみ取ることなどもできるまさに歴史と現代と自然と人間の知恵が様々に絡み合った目に見える以上に複雑な地形を呈しています。

これはこのブログで以前も取り上げたイタリア料理の店ロンディーノですね。入口にメディチ家の認証があったりと正式なイタリア国家との関連があるような店です。恐らく日本のまっとうなイタリア料理の最初はこの店なのかと思いますが、この地にそれが選ばれたのはやはり日本の関東を代表する景勝地であり、歴史的な重要地、現代に至るまで人々に何らかのインスピレーションを与えてきた地であるからではないかと思います。このお店も行くたびに様々な驚きと味の感動、店員さんとの会話や他のお客同士の会話など様々ないわゆるメディアに長けた鎌倉ならではの貴重な体験が得られる素晴らしい店となっています。一種のステイタスを感じる事が出来るお店となっています。このお店が好きで近くに来られる方も必ずや多かったものかと思われます。




夏は良いかと思います。由比ガ浜や江の島の喧騒をちょっと離れて稲村ケ崎で、特に午前中や夕方であれば富士山をバックにした江の島の景色が眺められ、それを見ながら海につかるサーファーの方たちは恐らくそれが最大の贅沢でこの地を選ばれるのではないかと思われる景色となっています。




ここはちょうどまあ肉親が引っ越したところな訳ですが、以前は岩崎弥太郎の孫になる澤田美喜さん、その夫である初代国連大使の澤田廉三さんの兄で外交官である澤田節蔵さんの四男に当たる澤田昭夫さんの別荘であったそうで、奥様がドイツ人の方であったそうです。昔は農家の家であったそうで関東大震災も耐えたという事で100年以上建っていてかなり老朽化は著しいです。周囲も稲村ケ崎の名前の通り農地であったようで、大雨ともなれば水が集まってきて土がぬかるみ、その分植物の生育については海風の影響を除けば栄養は良いようです。夏場は谷を通る風が冷たく周囲より1度程度温度が低く感じられます。

こちらはカトリックの教会が運営している老人ホーム静養館の前の駐車場ですが、以前はかなりいかつい感じの鎌倉稲村ケ崎特有の崖でしたが、台風の直撃などで崩落し、危険という事でこの時期はこのようなピラミッドとなっていました。現在はかなり整地して住宅地として販売しています。


次回以降は寺巡りです。世界遺産登録前の鎌倉を巡ります。
全然フリーメイスンリーと関係ないような話ですが、実際は大ありのようです。
鎌倉探訪のネタはテレビでも散々やり尽くされているようなもので、それらが放送されるたびに大量の人が地方や都心から訪れて放送された店やポイントは毎回大混雑になるようです。以前の原宿や渋谷の様なものだと思います。鎌倉への小旅行の形式というのはやはり江戸時代に江戸町民のハイキングや遠足を兼ねて流行したようで、開港~明治維新後も居留地の外国人でも同様に流行し別荘が作られ始めたことからそれにならって政治家や文士が別荘を作ったり移り住んだりして現在の鎌倉の原型ができたそうです。江戸時代まではあまりよその地域から移り住む人は少なく、農地も少なかった事から居住者は少なかったようです。豊島屋の鳩サブレーなどもその時代に横浜から立ち寄った外国人にもらったビスケットからインスピレーションを得たようです。ブラザーペリーが開国の交渉のために上陸する際にも小柴沖から由比ガ浜に誘導したなどという逸話もあるようで、その際には遠浅で大型船が座礁する事を知っていたブラザーペリーが浦賀沖に停泊して結局小型船で久里浜海岸に上陸したという話もあり、その後に来日した外国人達も鶴岡八幡宮や大仏などにも参詣しているようで、鎌倉の存在についてはそれなりの興味と知識を持っていた事があるかと思います。
鎌倉由比ガ浜の大型船の座礁については源氏第三代将軍の源実朝の逸話が有名であり、中国の文化に憧れを持っていた貴族的嗜好の実朝は鎌倉からの直接の中国との交易を希望し由比ガ浜沖に大型船を進水し、すぐに座礁してしまったという逸話があり、それが後の北条執権政権になっての和賀江島の増築や朝比奈切り通しから金沢文庫、金沢八景、六浦に繋がる大道の整備に繋がったという、防衛と交易、その後の幕末、明治維新でのお台場の増築や外国勢力との交渉、外交や防衛に関する逸話と重なる、関東での外国文明との接触という様式ともいうべき流れが感じられるものかと思います。
さてまあ鎌倉も詳しく見るようになってくると地理や歴史、関東の古都としての役割、寺社仏閣の現在の価値など様々な側面で見つめるようになるわけですが、とりあえずここでは代表的なその時に訪問した寺の写真を挙げていきます。
最初は北鎌倉円覚寺でしょうか。













































鎌倉については今後八幡宮境内にある神奈川県立近代美術館とオバマ大統領が来られた際の写真をどこかで出していきます。フリーメイスンリーとは直接は繋がらない話のようですが、皆さんの興味は尽きないようです。
まあ来たと言ってもほとんど見えなかったわけですが、オバマ大統領もフリーメイスンではないかとかそういう話はこのブログでも多少触れましたが、まあフリーメイスンではないのだと思います。
そもそもレーガン大統領なども大統領就任中にホワイトハウスで名誉称号の授与を行ったとか色々あるようですが、最近の大統領は直接フリーメイスンであったり、演説でフリーメイスンリーについて触れたりするのはご法度のような状況なようです。オバマ大統領は就任早々ノーベル平和賞を受賞したりと非常にフリーメイスンリーに近い存在であるのは間違いないでしょうが、恐らくほぼ確実にフリーメイスンではないと思われます。
まあここまでブログを読まれている方は大統領がフリーメイスンかどうかなんて事は大したことではないという事がわかっているかと思います。



長谷の交差点ですね。警備で騒然としています。どうも大仏に来るらしいという状況でした。まあ何しに来るんだって話ですね。まあ会いに来るんですよ。大仏に。
まだ3.11の前で菅直人首相の時代の横浜でのAPECサミットでした。

坂の下の横断歩道の辺りです。

由比ガ浜の海にも警備艇が出ていました。

この辺から見守ります。







車列が遠くから見えてきてるんですかねえ。しょうもない写真ですねえ。






























結局反対側の窓を開けていて見えなかったのですね。しょうがないので反対側に移動しました。

































結局また反対側に窓が開いていたのですね。しょうがないですねえ。

インターネットの記事の抜粋ですかね。首脳の奥さん方がお茶会をやったという写真です。

オバマ大統領が大仏を見ながら抹茶アイスを食べる図ですね。以前にブラザーキップリングの文章を引用した時に出しました。
まあ何だったんでしょうねえ。明日次の大統領が決まるそうです。どうなんでしょうねえ。ブログと関係あるでしょうかねえ。
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この本をグランドロッジの展示棚で最初に見たのはいつか忘れましたが、推薦しているという石原慎太郎氏の名前が印象に残り、石原氏のニュースなどが出るとなかなか色々なつながりがあるのだなとか思ったりしていました。筆者が故人である事も知らずグランドロッジで見かけるアメリカ人フリーメイスンの高齢者を見るとこの人があのブラザージョージ・アイ・パーディーなのかとか思ったりしていましたが、現在この本を読了しブラザージョージ・アイ・パーディが逗子マリーナに長く住まい、最後を鎌倉の病院で2000年に亡くなったと知り私も色々と知った土地であり様々な繋がりを感じているものであります。かつてこのブログでも取り上げた「日本に君臨するもの―フリーメーソン日本ロッジ幹部の証言」で原子力関係の配管の会社を多く経営されていたとあり、ちょうど福島原発の事故などあった後であり、様々な因縁を感じたものでした。日銀地下金庫のダイヤモンドの拾得の話など、わたしも少なからぬ因縁のある世耕一族の追及など聞いた事もあり、なかなかにまさにブラザーコナン・ドイルの描く「緋色の研究」のごとき目に見えぬこの世の繋がりを様々に感じる方の自伝でありました。
少し読者の興味を喚起するように内容について触れると、題名となった終わりのない夏とは筆者が少年時代に友達と二人で無人島で夏休みを経験した、まさにロビンソン・クルーソーの物語のような体験が原風景となり、またブラザーリンドバーグとの偶然の出会いなどと、それら冒険心に富んだ素質を見込まれてか、会った事のない叔父さんが死後に32階級のリングを渡してくれるなどあり、その後31歳でフリーメイスンとなり、その後海軍軍人となって大西洋から太平洋を周り、艦長となって終戦直後の日本に上陸して、すぐに自殺に失敗した東條英機に面会し、その後除隊して離婚して妻子をアメリカに戻し、事業を始めて朝鮮戦争中の日韓間の取引で成功し、その後フリーメイスンとしてスコティッシュライトの33階級に認められ、昭和天皇より勲章を頂き、ヨットを趣味として2000年3月27日に亡くなるというまさにフリーメイスンとして波乱万丈の人生を送ったという、日本語に訳されていて極めて平易で読みやすく、映画にでもなるのではないかという、読後にそうそうこれはちょうどヘミングウェイの物語の感じのもう少し爽快感が少ない感じという思いを抱きました。まあヘミングウェイ自体読んだのは20年以上前なのでなんとも言えないのですが、多分ヘミングウェイを読んだことがある方には伝わるのではないかと思います。
ブラザージョージ・アイ・パーディーも最初に昭和天皇から勲章をもらうところから書き始めるのですが、同様に昭和天皇から勲章をもらったフリーメイスンにブラザーカーチス・ルメイがいます。こちらの方は勲章をもらうのに元首相の小泉純一郎氏の父親の小泉純也氏が根回しをしたなどあり、なかなかジャーナリストのブラザー村山有氏の回顧録でも昭和天皇はキーパーソンとして描かれており、フリーメイスンと昭和天皇の間のやり取りなどもなかなか当時の主要な興味の対象であったのだなと思われます。本日この内容を書き込むのが昭和の日であり5月1日の2日前であるのも数々の因縁の為せる技なのではないでしょうか。
ブラザージョージ・アイ・パーディーはテキサスグランドロッジのグランドマスターもされているそうで、2000年3月27日のミレニアムの3の倍数の日に亡くなられて、その後2001年9月11日にいわゆる同時多発テロが生じて世の中が激変するわけですが、2001年12月頃に私は2ちゃんねるでNTTに文句を言っていたようで、eBayでもらった33階級の証明書には2002年1月21日と日付が示されていました。やはりツインタワーの崩落と日本経済の失墜とは何らかの関係があるようですが、いずれにしても一人のフリーメイスンの第二次世界大戦から戦後の昭和時代の日本を見続けた人物の爽快な人生であり、あまり秘密の内容を含んだとは言えない、恐らくそういう事を書く事を許されない立場の人間の、極めて小説的なフリーメイスンとしての生き方を著した貴重な書ではないかと思われ、日本のフリーメイスンリーについて知るためには必読の書と思われました。
ちょうどブラザーアダム・ヴァイスハウプトのイルミナティの入会案内を同時に読んでいるのですが、Geist(魂)、Seele(精霊)という言葉を強くこのブラザージョージ・アイ・パーディーの書にも感じました。私も仕事柄多くの日本の高齢者とお会いしますが、その時代の精神というか、いつの時代にも人類全体を覆う精神というものが存在し、それらがあらゆる人間と繋がり全ての物事を相関させていくということを感じました。
この後はブラザーデッカーの回顧録、ブラザーマッカーサーの回顧録、ブラザー村山有の回顧録などを読み進めていこうと思っています。
Virtus Junxit Mors Non Separabit 美徳が結びつけた者たちを死が分かつことはない。
(以前は美と死は分かち難しと訳していましたが、誤訳です。Whom virtue unites, death will not separateもしくはVirtue has joined (them); death will not part them.と訳されるそうで、まさにブラザージョージ・アイ・パーディーのように亡くなってもブラザーの魂は一緒だという事なのです。)

Rest In Peace.
ありし日の昭和天皇の様子の動画がありましたので置いておきます。

フリーメイスンリーの円周の形のシンボリズムとしてはグノーシスのシンボルや子午線と太陽のシンボルがあるかと思います。その他には太陽十字や太陽そのもの、東洋のシンボルとしては太極、仏教の法輪などがあるかと思います。特に太極や仏教の法輪などはグノーシスのシンボリズムの意味を含むものかと思われます。






鎌倉には他にも光明寺という浄土宗大本山のお寺もあります。増上寺と同じ宗派のようですが、やはり寺の名前はシンボリズムを踏襲しているようです。漢字や東アジアの文化は欧米のシンボリズムとは異なる成り立ちのものですが、元となる本質は同じというのがシンボリズムの考え方であり、漢字や東アジアの文化のシンボリズムもやはりシンボリズムを基本に考えるフリーメイスンリーの基本的な評価や判断方法である事は変わりなく、もちろんそれはシンボリズムのみを変更する事は不可能で、シンボルは実態を反映するものであるというこれまたシンボリズムの本質が反映されているものかと思います。
鎌倉でもう一つ面白いのが鎌倉を愛し在住しノーベル文学賞を受賞しながらも自殺した川端康成の使用した家紋が北条氏と同じく三つ鱗であることでした。

北条氏の家紋は太平記によれば北条政子の父親の北条時政の時代から使用し始めたとされるようですが、実際武士の棟梁である源頼朝の源氏は当時家紋が無かったようでシンボルは白旗であり、家来の方に当たる北条氏が家紋があるのはおかしな話です。江の島の弁財天の逸話などが伝承されているそうですが、北条政子などは井桁菊などを使用していたなどもあり、はっきりしたところは分からないようです。承久の乱の際に天皇家が菊花紋を使い始めたという伝承があるそうで、恐らく日本の武士たちが家紋を意識し始めたのはこの頃からのようです。元寇の絵図の中に家紋があることから少なくとも北条時宗の時代にはあった事は確実視されているようです。それに関連してか現在の横綱のモンゴル出身の白鳳関はこの三つ鱗の家紋を使用しているそうです。もしかすると当時ユーラシア大陸を制覇してキリスト教社会やユダヤ教社会と濃厚に接触していたモンゴル人から元寇後に教わった家紋であるのかもしれません。この三つ鱗の紋はなかなか面白い一族が使用していて、後北条氏もそうですが、鉄砲伝来した種子島家も使用していたそうです。あとは正岡子規やホテルニュージャパンの経営で知られる横井英樹氏も使用していたそうです。ちなみに横井秀樹氏は11月30日に亡くなられたそうです。前述の川端康成の自殺にも直前に日蓮上人の幻を見ていたなど様々な逸話があり、遺書も残っておらず本当に自殺かどうか未だに謎は残されているようです。まあ色々ありそうな三つのピラミッドの家紋の話でした。
鎌倉は残念ながら世界遺産の選考から漏れてしまい苦しい立場になった事かと思いますが、是非この北条氏の家紋を利用して街中に北条氏の家紋を使用したピラミッドを作ってみてはいかがでしょうか。世界遺産の選考に関係があるとは思えませんが、地域の活性化に一役買う事は間違いないかと思います。

(これは検索で出てきた島根県の砂時計の博物館のモニュメントのようです。)
そういえば後北条氏の末裔の方が創価学会の会長をされていたりしたかと思います。鎌倉の仏教の歴史は日本の一般的な仏教の歴史の中心であり、日本の宗教といえば基本的には仏教の教えが最も確かなものと認識されているかと思いますが、なかなか仏教の教えだけでは円の中には入れないようでした。
大船が鎌倉だと思っている人はあまりいないかと思いますが、市の範囲としては鎌倉市に含まれていて、横浜市と藤沢市に接する場所になります。私も小雀局と言うハンドルネームで分かる通り戸塚区小雀町出身であり、20年ほどこの地域に住み最もよく知っている地域と言う事になるかと思います。
大船は東海道線、横須賀線、京浜東北線が通るかつての国鉄、現在のJR線の主要なターミナル駅であり、また鎌倉方面へは湘南モノレールやバス、道路などの鎌倉中心部に繋がる要所であり、また柏尾川沿いの比較的平坦な土地に日立製作所や住友電工、三菱電機、武田製薬といった大企業の工場が並ぶ鎌倉市や横浜市、藤沢市の産業地帯となっている場所でもあります。
かつては松竹撮影所があって、大船と言えば男はつらいよの撮影地として最も有名であった時代もあり、大船駅前には堂々と映画館が並んでいた時代もありました。現在は松竹撮影所の跡地はかつての京浜女子大である鎌倉女子大のキャンパスとなっていて、いくらかの記念の建物などがあったかと思います。寅さん役の渥美清さんが贔屓にした店などが数多くあるのかと思いますが、あまり成人してから住んでいないので、そういった店を私はそれほど知りませんが、駅前の最も有名な料理屋というと観音食堂になるのかと思われます。大船観音関連という事でお勧めになるのかもしれません。私自身は数えるほどしか行ったことがありませんが、この写真を撮った際に行った時はかなり店内も綺麗になって、料理も比較的割安で豪華であり繁盛している雰囲気でした。芸能人の方も比較的多く見られる場所であって、私も東海道線では金髪であった金八先生や手足のない車いすの方や東大解剖学の教授の方などの著名人を見たことがありました。
かつての大船は裏通りに入れば飲み屋が数多くあり、キャバレーが最も目立った場所にあるかなり猥雑な若干横須賀に似たような場所でありましたが、鎌倉市の中にある比較的所得層が高い地域の恩恵を被ってか発展が継続していて、かつてはまさに絵にかいたような刺青を施したヤクザの方が縄張りを示すように闊歩していたり、現在でもそうですがホームレスの方が駅に常にいるような色々変化の激しい土地であるかと思います。現在は特に駅ビルであるルミネができてからターミナル駅としての機能を充実していて、かつての松竹撮影所の場所の地域は若干人の流れが減少した感がありますが、大船駅を利用する人自体は駅すぐにできた巨大マンション群のビッグアップルの影響などもあり相当増えているかと思われます。
題名の大船観音がある側は全く発展から取り残された駅の西側の柏尾川沿いの地域であり、恐らく初めて大船駅を利用した方は大船観音の像を見て少しびっくりされるのかと思いますが、生まれてからずっと大船観音を見てきた者としては、あの像を見ると懐かしいというか故郷という感じを思う場所な訳です。大船観音のすぐ近くにはブラザーデッカーが設立に尽力した受験で有名な中高一貫校のカトリック系の男子校栄光学園やミッション系の清泉女学院などがあり、恐らく大船観音と同じく鎌倉全体を見据える大事な土地としてそれらが配置されていた感じが見えてきます。このブログでもかつて触れたドリームランドに繋がるようなモノレールの駅があり一年ほど運用して廃業したそうですが、その後も象徴的なモノレールの駅と路線が廃墟として長らく残されていたものでした。良く言われたのが日本最初のリニアモーターカーで再開するなんて噂が良く出ては消えたりしていました。
まあ大船についての紹介はこの位で良いかと思うのですが、現在の大船は観音食堂の繁盛ぶりもそうですが、駅も街もかつての大船以上に人は増え繁栄している様子でした。

まあ何より大船の地元民であった者としてびっくりしたのは駅にスターバックスができた事でした。あの大船にスターバックスねえと。比較的大船は首都圏の最初の店舗などがでやすい土地ではあり、そういう出店も早い土地であるとは思っていたのですが、あのいかにもなアメリカを代表するカフェであるスターバックスが駅の目立つところに出店しているのは正直驚きました。ドトールみたいなイメージだったんですが、時代は変わったのですね。私の記憶の中では無印良品が大船に出店したのが最後の記憶であったのでまさに隔世の感があります。

で、床がこれであったわけです。うーんなかなか小雀局の影響かもなんて。なかなか駅の目立つところがこの柄なところは品川駅でもありましたがなかなかのターミナル駅と言う事でしょうか。大船ロータリーが頑張っているんだなと。しかしまあうまく作ったなあと。横須賀でも駅の周辺や駅ビルでこのシンボルはありません。(2013/10/3追記:横須賀中央駅の反対側のビルの一部店舗に白黒の床があるようです。)

でまあ大船観音も恐らく幼年時代以降来た記憶は無いのですが、ウィキペディアと大船観音寺のホームページなどでそもそも右翼の玄洋社の頭山満や、明治憲法起草者の金子堅太郎が戦前に建立を計画して、戦争で中断して放棄されていたものが、戦後の鳩山政権下で吉田茂や東急創業者の五島慶太らによって完成にすすめられできたものと知り、一度再び見ておきたいと思っていたのでした。まあお寺で観音像なんだとは知っていたのですが、建立の目的がちょうど沖縄返還で沖縄の方向を向いているとか色々聞いたことはあるのですが、実際どういう意味なのかというのを確認したい目的もありました。子供の時から見たら拝むような習慣を言われていた事もあるのですが、果たして観音崎灯台のブラザーヴェルニーの建設の経緯やマリア信仰などの関連などがどうなっているのかなどを確認したいと思ったのでした。


大船観音のご尊顔です。以前は大分黄色く薄汚れていたと思うのですが、ある時期に綺麗に塗り直したかと思います。その後くらいからライトアップが始まったのだと思います。まあ登るのがそこそこあるのですが、下からは5分位の道であったかと思います。

で、これがまあ登って実際見た方がいい秘密な訳ですが、なんと礼拝用に膝を着くためのクッションが置いてあります。要するにキリスト教式礼拝を自然とするような形になっているわけです。「おもてなし」ではないですが、まあ両手を平手で重ねて拝んでも柏手を打っても膝をついて握った手で祈ってもどのような祈り方でも祈りと言うのは万国共通という教訓がそこにあるのだと思われます。実際はだからマリア像を模した観音像が鎌倉の多くの仏教の寺や八幡宮始めの神社が数多くある鎌倉の中心部を高みから見下ろしているわけですね。大船観音寺が曹洞宗であるのもフリーメイスンリーと比較的宗派として最も接触が深い宗派であり、現役のフリーメイスンも認めますし、東北大震災の際にも曹洞宗の寺に寄付を行ったりとしていることも関係があるのかと思われます。
なかなか地元なので若干ややこしくなりましたが、大船観音の秘密と言ったところでしょうか。