2016-09-06 09:01 | カテゴリ:明治・大正・昭和・平成
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
まあ生前退位などが話題になる平成28年の時代なわけですが、いかがでしょうか。
横須賀を離れてだいぶ経つと、右翼やら皇国史観やら何とも中国文化の影響を受けたいわゆる日本文化になるわけですが、さてその中でも元号の平成というのは横須賀でもタウ十字と合わせて表現されていた戦後を象徴する元号でもあったわけですが、ここで改めて特にフリーメイスンリーがやってきた明治維新以降の元号についてみてみようかと思います。

それで一応元号についての基本的知識になるわけですが、最初が大化の改新という事で、暦がそれ以降成立したという事のようで、まあ神武天皇ではないですが、大和朝廷、日本国家の成り立ちという点では、大陸渡来一族である蘇我氏を失脚させたこの事件が歴史上は日本という国の最初の成り立ちになるのだと思われます。蘇我氏がその後石川麻呂を子孫として存続したことももちろん認識しておくべきでしょう。まあ木簡などでは実際には干支が使われて、実際に当時の木簡で使われ始めたのは大宝律令の大宝以降という事で、実際には律令制が始まる奈良時代が国としての日本の成立という事のようです。基本的に儒教で重要とされる四書五経の古典の内容や、吉兆などを漢字2文字で表して、天皇の即位や天変地異などで改元することになっていて、使われる漢字もほぼ限定されていて、繰り返し使用するなどの法則もあるようです。奈良時代で特筆すべきなのは天平の二文字が東大寺の大仏を作った聖武天皇の時代以降に繰り返し使われていて、この時代はもちろんヨーロッパでは十分キリスト教が成立して広がっていた時代であり、また大秦景教流行碑の直前であり、その後に空海の長安への留学があり、日本で仏教が流布成立していく時代であることも付け加えるべきでしょう。
(中国語では天平は天秤を意味するようです。簡字体という事なのでしょうが、まあ音は一緒なのでしょうね。)
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シンボリズムという点では飛鳥時代には白雉や朱鳥というまさに鳥のシンボリズムがありますが、まあ厩戸皇子のエピソードを挙げるまでもなく、極東の日本にも地中海世界の影響は常にあるのでしょう。

平安時代は桓武天皇の遷都で現在の京都に平安京を開いて始まった時代ですが、桓武天皇の妻は百済出身であり、また京都は秦氏が開発していた場所という事で、その子の平城天皇の時代に奈良の平城京との間で揺り返しがあったようですが、まあ794ウグイス平安京という事で、いわゆるその後の1192作ろう鎌倉幕府までの平安時代が続くわけです。ちなみに平城天皇は宝亀5年8月15日(774年9月25日) - 弘仁15年7月7日(824年8月5日)という事で、まあもちろん西暦ではなく、元号歴でシンボリズムが認められるわけですが、聖母被昇天の祝日も6-7世紀に東方正教会で始まったという事で、日本でも聖徳太子の逸話を語るまでもなく、天皇家レベルだとありうるわけです。

平安時代には国風文化という事で、中国文化を日本文化に変化熟成させていく時代で、仮名の成立や和歌の成立なんかがあるわけですが、元号でもそのような感じで、どうも中国の王朝の名前をいじったようなものや、天の字が多く認められるようになったりします。この時代の後半はやはり源平のシンボリズムという事で、ゾロアスター教の二元論ではないですが、権力闘争による対立の構図が出てきます。また後が付く天皇が後一条天皇以降認められるようになり、後一条天皇の時代は藤原道長全盛期であり、平等院鳳凰堂などが建築された時代でもあります。三条天皇などと合わせて、Godと数字の組み合わせのシンボリズムと考えられるかと思われます。この頃から若干歴代天皇の生没年とシンボリズムが重なる場合とそうでないのが微妙に認められるようですが、やはり三十三間堂などと同じく、仏教と数秘術との重なり、天皇家と仏教との重なりがまたユダヤ教、キリスト教との重なり、フリーメイスンリーとなるのだと思われます。それらがやはり明確になるのは源平の争いの中心となった三十三間堂を建立した後白河天皇という事になるのだと思われます。大治2年9月11日(1127年10月18日) - 建久3年3月13日(1192年4月26日)となかなか明確なシンボリズムであり、その人生と三十三間堂建立のきっかけといい、まさに日本史上特筆すべき数秘術を体現した天皇であったのでしょうか。ちなみに三十三間堂の33は法華経に由来するそうです。また源平の戦いを制した源氏の名前にヨシやヨリの発音が多いのもこれまたシンボリズムと考えられそうです。
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さてまあその後は源氏三代で三角形の紋印の北条氏になるわけですが、もちろん天皇が北極星を意味するとの北のシンボリズムもあるのかと思われます。北条氏の治世というのもなかなか壮絶であるわけですが、もちろんこの時代は日蓮がいて、鎌倉仏教が成立し、禅宗が盛んになる時代で、天皇としては最初が北条政子と対立して隠岐に流された後鳥羽天皇となるわけですが、こちらも治承4年7月14日(1180年8月6日)-延応元年2月22日(1239年3月28日)とシンボリズムはあるわけですが、生年の7月14日はこれはなんととらえるべきでしょうか。(2019/3/20追記:没年月日で西暦で23932と回文数がありますね。恐らく西暦での明確なシンボリズムととらえてよいのだと思われます。明確にこの時点で東西はつながっているのでしょう。それが天皇の菊紋成立の意味なのだと思われます。後鳥羽自体もGODと鳥と羽と全て聖書のシンボリズムのようです。)(2019/4/19追記:後鳥羽でGod Ba‘alゴッドバアルの音に繋がるようです。御殿場ではないですが、一神教と相対論の象徴のようです。)この後の鎌倉時代の天皇の生没年に関してはほぼシンボリズムが認められ、また元号では建築の建の字が多く認められ、まあ現在残る日本の最古の建築や彫像もこの時代のものがほとんどであることを考えると、後白河天皇の三十三間堂のあたり以降からほぼ権力や文化と現在のフリーメイスンリーにつながる文化、主に仏教文化であるわけですが、それが一致して存在していることが分かるかと思います。また源頼朝、北条政子なども没年月日は元号歴でシンボリズムを認め、その後の北条執権氏もいわゆる権力の盛期である時宗の時代を頂点として生没年月日のシンボリズムを認めます。北条執権氏には西暦でそれが全くないことがまた傍証となるかと思われます。時という名前が受け継がれていることもまた明確なシンボリズムのようです。
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天皇家が菊の御紋を使い始めたのもこの頃という事で、シンボリズムと権力社会、文化や宗教の成熟と、生産活動の流れがまさにフリーメイスンリー憲章に描かれた古代エジプトや古代オリエントの世界と完全に一致するのが読み取れるかと思います。

さてこの後がいわゆる明治維新後に重要視された南北朝の時代なわけですが、ここでポイントがあります。いわゆる建武の親政で始まる南北朝時代なんですが、その有史以来武勲に優れた天皇として名高い後醍醐天皇ですが、正応元年11月2日(1288年11月26日)-延元4年8月16日(1339年9月19日)ということで、微妙に西暦のシンボリズムが認められます。で、南朝の二代目としての後村上天皇は嘉暦3年(1328年)-正平23年3月11日(1368年3月29日)で、和暦のシンボリズムとなってその後は生年月日が不詳となって尻つぼみとなっていきます。一方記録上今上天皇に繋がる北朝は光厳天皇 正和2年7月9日(1313年8月1日) - 正平19年7月7日(1364年8月5日)と明確な和暦のシンボリズムを認め、また名前のシンボリズムも光を認めたりします。北朝二代目が光明天皇元亨元年12月23日(1322年1月11日) - 天授6年6月24日(1380年7月26日)、ありゃりゃと。どうも西暦でも和暦でも明確なキリスト教のシンボリズムを認めていたりします。南朝の後村上天皇に捕らえられて最後は仏道に入って亡くなったという事で、どうも鎌倉仏教と一緒にキリスト教も入っていたんじゃないかというような動きではないでしょうか。その後の北朝三代目が崇光天皇建武元年4月22日(1334年5月25日) - 応永5年1月13日(1398年1月31日)、北朝四代目後光厳天皇建武5年3月2日(1338年3月23日)- 応安7年1月29日(1374年3月12日)となり、この頃が足利将軍家は三代目足利義満正平13年/延文3年8月22日(1358年9月25日)-応永15年5月6日(1408年5月31日)でやはりまだ室町幕府はそれほど明確なシンボリズムが無い状況です。北朝五代目の南北朝の争いが終わった時の後円融天皇延文3年12月12日(1359年1月11日) - 明徳4年4月26日(1393年6月6日)という事で、死の直前に仏門に入ったという事であり、権力は完全に義満に握られていたようですが、西暦、和暦ともに完全にシンボリズムを認めます。その後の一休宗純和尚の父とされる北朝六代目後小松天皇天授3年6月27日(1377年8月1日) - 永享5年10月20日(1433年12月1日)とやはり西暦、和暦ともにシンボリズムを認めますが、その子の称光天皇応永8年3月29日(1401年5月12日) - 正長元年7月20日(1428年8月30日)で名前のシンボリズムは認めますが、生没年月日のシンボリズムは没年月日の西暦の88を残して完全になくなります。権力とシンボリズムはかなり一致するようで、名前は追号で、死後に付けられる時代です。

ちなみに北朝で続いた光のシンボリズムですが、第58代天皇光孝天皇天長7年(830年) - 仁和3年8月26日(887年9月17日)、第49代天皇光仁天皇和銅2年10月13日(709年11月18日) - 天応元年12月23日(782年1月11日))といて、称光天皇の光は光仁天皇からとられたそうですが、光仁天皇は大化の改新を遂げた天智天皇の子供だそうです。また光孝天皇の父親の第54代天皇仁明天皇は弘仁元年(810年) - 嘉祥3年3月21日(850年5月6日)で、即位が天長10年3月6日(833年3月30日) - 嘉祥3年3月19日(850年5月4日)とあり、明のシンボリズムと微妙な西暦のシンボリズムがあるようです。
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明のシンボリズムは第29代天皇欽明天皇(継体天皇3年(509年?) - 欽明天皇32年4月15日(571年5月24日?))で認め、この時はまだ元号もなく、百済より仏教が公伝し、朝鮮半島の任那が滅亡したそうです。第31代天皇用明天皇(生年不詳- 用明天皇2年4月9日(587年5月21日?))は聖徳太子の父親です。第34代天皇舒明天皇(推古天皇元年(593年)? - 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日))は天智天皇、天武天皇の父親で、没年になぜか西暦のシンボリズムを認めます。第37代天皇斉明天皇(推古天皇2年(594年) - 斉明天皇7年7月24日(661年8月24日))は天智天皇の母親で舒明天皇の妻で、最初皇極天皇として二度天皇となった女帝です。第43代天皇元明天皇(斉明天皇7年(661年) - 養老5年12月7日(721年12月29日))はやはり女帝で平城京への遷都と、古事記の完成、和同開珎の鋳造を行ったそうです。第54代天皇仁明天皇弘仁元年(810年) - 嘉祥3年3月21日(850年5月6日)は上に挙げた即位の年月日が西暦で3並びがある天皇です。病弱であったそうです。光仁天皇の西暦での異常なほどのシンボリズムが偶然か、はたまた大化の改新後の西暦とキリスト教のシンボリズムなのかというところですが、まあ時代的にはそういう政変と一神教の影響がありうると考えられるのかと思われます。
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さてまあ散り散りにあちこちに飛ぶ内容となっていますが、基本的には9月6日の悠仁親王殿下の10歳の誕生日に向けて作成している内容となるようです。それで一応権力者の生没年月日という事で室町幕府の将軍の生没年月日もチェックします。足利尊氏嘉元3年7月27日(1305年8月18日)-正平13年/延文3年4月30日(1358年6月7日)、足利義詮元徳2年6月18日(1330年7月4日)-正平22年/貞治6年12月7日(1367年12月28日)、足利義満正平13年/延文3年8月22日(1358年9月25日)-応永15年5月6日(1408年5月31日)と権力の絶頂であったはずの最初の三代ですがあまりはっきりとしたシンボリズムは認めません。もしかすると義満は5月5日に亡くなりそうであったという事があるのかもしれません。足利義持元中3年/至徳3年2月12日(1386年3月12日)-応永35年1月18日(1428年2月3日)、足利義量応永14年7月24日(1407年8月27日)-応永32年2月27日(1425年3月17日)、足利義教応永元年6月14日(1394年7月12日)-嘉吉元年6月24日(1441年7月12日)と六代目まで見ると細川氏などの管領が権力を掌握し、ほぼ権力はなかったようですが、シンボリズムは逆に明確になってきている状況です。六代将軍の没年などを見るとザビエル来日の準備が出来ているような様子が伺えます。足利義勝永享6年2月9日(1434年3月19日)-嘉吉3年7月21日(1443年8月16日)、足利義政永享8年1月2日(1436年1月20日)-延徳2年1月7日(1490年1月27日)、足利義尚寛正6年11月23日(1465年12月11日)-長享3年3月26日(1489年4月26日)とその後の九代目まではシンボリズムは強くないですが、銀閣寺を作った足利義政の1月7日の没年は天智天皇や昭和天皇と一緒であり、その後の石見銀山の開発などを連想させるでしょうか。まあいわゆる公現祭のシンボリズムになるわけですが、4世紀頃に西方教会に伝わったという事で、まあ比較的明確なカトリック特異的なシンボリズムといえるのかと思われます。足利義稙文正元年7月30日(1466年9月9日)-大永3年4月9日(1523年5月23日)または同年4月7日とも、足利義澄文明12年12月15日(1481年1月15日)-永正8年8月14日(1511年9月6日))、足利義晴永正8年3月5日(1511年4月2日)-天文19年5月4日(1550年5月20日)と十代目からは96の点対称のシンボリズムを感じさせるようなシンボリズムや、西暦と一致したシンボリズムがあり、ザビエル来日を予期させる、まさにフリーメイスンリー、イルミナティ成立の源流が東と西の接点、イエズス会の日本での布教活動にあることを感じさせるものでしょうか。足利義晴は大内氏が有力な後援者であったという事で、もうすでにこの頃には京都近辺は戦乱の状況で、応仁の乱とザビエル来日を予期させる時代となっています。ちなみにザビエル来日は1549年8月15日です。案内人がヤジロウであるというのもまさにシンボリズムで神の差配でしょうか。ちなみにグレゴリオ暦の成立は1582年とのことです。足利義輝天文5年3月10日(1536年3月31日)-永禄8年5月19日(1565年6月17日)、足利義栄天文7年(1538年)-永禄11年(1568年)、足利義昭天文6年11月13日(1537年12月15日)-慶長2年8月28日(1597年10月9日)となっていて、十三代から最後の将軍まではまさに戦国時代であり、13代将軍にも西暦でシンボリズムがあると思われ、15代将軍は和暦で明らかにシンボリズムを認め、西暦でも忌日がコロンブスの日でしょうか。その人生とともに、織田有楽斎や豊臣継代や徳川家といったその後の幕藩体制につながる人々の人生とともに、キリスト教とともに新たな時代の幕開けを感じさせる様子でしょうか。元号もまさにそういう現代につながる象徴を含んでいる感じでしょうか。

元号では南北朝で正平という南朝のものがありますが、この時代は正平一統といって南朝に一時的に統合された和議が成立した時代という事で、その間に正平16年(1361年)6月24日、正平地震。『太平記』などに記された大地震。南海トラフの巨大地震と推定される。があったという事で、まあなんというかそういう字のようです。また北朝の最後の後小松天皇で明徳というものがあります。室町時代では文明という元号が後土御門天皇嘉吉2年5月25日(1442年7月3日) - 明応9年9月28日(1500年10月21日)の時代にあります。まあ文明がカトリック、キリスト教と一致して存在するという事が文字の上でも象徴されているのでしょうか。天文の元号の後奈良天皇明応5年12月23日(1497年1月26日) - 弘治3年9月5日(1557年9月27日)という事で、12月23日の今上天皇の誕生日には北朝二代目の光明天皇と歴代天皇で二人いるそうです。

そしてここからは、ザビエルが来日してから面会しようとして会えなかった天皇ですが、その後のキリスト教布教後の時代に入るわけです。その前にシンボリズム(光、明)が名前に入らない天皇の生没年のシンボリズムについてそれ以前についてみていきましょう。まずは天智天皇の娘の女帝である持統天皇大化元年(645年) - 大宝2年12月22日(703年1月13日)でしょうか。女帝はやはりなぜかシンボリズムが強いわけですが、権力の象徴としてと同時に権力への志向があまりない女性の特徴がそうしたシンボリズムとなるのかもしれません。特筆すべきは元号の最初である大化元年に生まれ、律令制が整う大宝年間の和暦のシンボリズムと、西暦の対称性のシンボリズムがあることでしょうか。持統天皇という追号もGやJITOのシンボリズムが含まれる可能性があります。大化の改新という政変が何を志向していたかという事が議論となりそうです。淳仁天皇第47代天皇天平5年(733年) - 天平神護元年10月23日(765年11月10日)、淳和天皇第53代天皇延暦5年(786年) - 承和7年5月8日(840年6月11日)と二人の淳の字がつく天皇ですが、一人は追放されて殺されているというなかなか壮絶な権力闘争の時代ですが、奈良時代から平安時代への移行時期であり、大化の改新後という事もあり、どちらも没日が西暦で一並びのシンボリズムが入るという、万世一系とは何かという事かもしれません。清和天皇第56代天皇嘉祥3年3月25日(850年5月10日) - 元慶4年12月4日(881年1月7日)は言わずと知れた清和源氏の源なわけですが、1月7日没日という天智天皇、そして新暦で昭和天皇と同じという、いわゆる公現祭の日で、なおかつユダヤ教に特異的な7のシンボリズムが入ったまあなかなか歴代天皇で見ても特徴的なシンボリズムとなっています。27歳で譲位して、29歳で仏門に帰依して仏寺巡拝の旅へ出て、30歳で亡くなるという、まあエジプトのツタンカーメン王やその他の王にも似た、王政ではよくあるなかなか壮絶な人生でしょうか。西暦というのもポイントだと思われます。キリスト教布教後の日本でも西暦使用者はまずいないわけで、さらにそのシンボリズムが存在するとして、それが偶然か必然かは全く想像の範疇を超えるわけですが、そこに仏教や宗教、海での船での交易というキーワードが出てくるわけです。それらすべてがシンボリズムでしょう。宇多天皇第59代天皇貞観9年5月5日(867年6月10日) - 承平元年7月19日(931年9月3日)で宇田源氏の源なわけですが、64歳で亡くなっていてかなり当時としては長生きですが、菅原道真の後ろ盾となっていたそうですが藤原氏に権力闘争で敗れ仏道に帰依して真言宗の阿闍梨までなっているそうです。やはり真言宗と3のシンボリズムは強そうです。生年が旧暦で5並びで、没年が西暦で3のシンボリズムというのもその人生を象徴している感じでしょうか。その子の醍醐天皇第60代天皇元慶9年1月18日(885年2月6日)- 延長8年9月29日(930年10月23日)は逆に旧暦で1並びと8のシンボリズム、没年で9月の対称性というまたまたマニアックな感じです。菅原道真の呪いといわれる、清涼殿落雷事件で憔悴し亡くなられた方です。陰陽道の世界です。醍醐天皇の子供の朱雀天皇第61代天皇延長元年7月24日(923年9月7日) - 天暦6年8月15日(952年9月6日)という事で、名前も四方を表す神獣である青龍、朱雀、白虎、玄武の一つなわけですが、まあ空想上の鳥という事で鳳凰と近似でフリーメイスンリーの象徴となるのでしょうが、その名前もさることながら、治世では藤原純友の乱と平将門の乱があった時代という事で、まあ明らかに時代の変わり目なんでしょうね。富士山の噴火や地震・洪水もあったという事で、8歳で即位して、24歳で譲位して出家して30歳で亡くなられたそうです。皇帝ティトゥスではないですが、ローマ皇帝の逸話を思わせる話でしょうか。まあシンボリズムがありすぎるのも人生にはなかなか障害となることもあるようです。亡くなられた日が日本にゆかり深い聖母被昇天の日で、ユリウス暦で9月6日というのもなかなか凄まじいものがあります。村上天皇は醍醐天皇の子で朱雀天皇の異母弟だそうですが、なかなか平安時代の天皇制が極まった時代という感じでしょうか。第62代天皇延長4年6月2日(926年7月14日) - 康保4年5月25日(967年7月5日)だそうで、まあ没年が5の倍数という事で、7月14日や7月4日も6月24日からの関係でおそらく月齢による10日の間隔でしょうが、シンボリズムがあるかと思いますが、まあ具体的に世界史で現れるのはアメリカ独立記念日とフランス革命記念日という事で、要は日齢や月齢の世界という事で、暦は全てそちらで成立しているわけですが、まあそういう法則が天皇の生没年月日には関係していそうだという事なのでしょうか。この頃から明確に五芒星とも関係しているのかと思いますが、5のシンボリズムは存在したようで、帝王学として、政治学として、修身としてのキリスト教が天皇家に入り込んでいたという事になるのでしょうか。村上天皇の子の冷泉天皇第63代天皇天暦4年5月24日(950年6月12日)- 寛弘8年10月24日(1011年11月21日)ということで、明らかに没日の西暦の1並びのシンボリズムがあるわけですが、まあいいんでしょうかね。天皇をシンボルとしてまさに操っていたような仏教の秘密としてのキリスト教の西暦が感じられる話でしょうか。在位:康保4年10月11日(967年11月15日) - 安和2年8月13日(969年9月27日)という事で、在位期間にもなかなかシンボリズムを西暦で認めるようで、冷泉天皇はかなりの奇行で知られていたという事で、なかなか平安時代の秘密といった感じのようです。当時としては62歳と長寿であったそうです。フリーメイスンリーでしょうかね。円融天皇第64代天皇天徳3年3月2日(959年4月12日) - 正暦2年2月12日(991年3月1日)で、シンボリズムとしては没年の2の対称性でしょうか。まあ円と2のシンボリズムというのが、いわゆる国風文化の行き着いた先というところなのかもしれません。まあ若干31歳の生というのが、まさに平安時代の日本人でしょうか。花山天皇は第65代天皇で冷泉天皇の第一皇子で安和元年10月26日(968年11月29日) - 寛弘5年2月8日(1008年3月17日)、在位:永観2年10月10日(984年11月5日) - 寛和2年6月23日(986年8月1日)という事で、治世は安倍晴明の時代になるという事で、まあシンボリズムが生没年、在位期間にも微妙にちりばめられている状況で、まあキリスト教社会では1110年を目指した十字軍運動が始まろうかという時代に近づくわけです。ちなみに安倍晴明は延喜21年1月11日(921年2月21日) - 寛弘2年9月26日(1005年10月31日)という事で、明確に和暦と西暦のシンボリズムが重なる生年月日という事で、陰陽師や仏教レベルでは明確に西暦を使用して、それを最大の秘密としていた可能性が極めて高いようです。
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その後は一条、三条と続くわけですが、名前に数字が付くと逆に生没年のシンボリズムは薄れるのでしょうか。一条天皇の没年が6月22日という事と三条天皇は生日と没日が三の倍数という事であるようです。この後からは前述した後の付く天皇が続くわけですが、同時に藤原道長に代表される、平安時代の盛期となります。後朱雀天皇第69代天皇寛弘6年11月25日(1009年12月14日) - 寛徳2年1月18日(1045年2月7日)、後冷泉天皇第70代天皇万寿2年8月3日(1025年8月28日) - 治暦4年4月19日(1068年5月22日)とかなり明確な和暦でのシンボリズムではないでしょうか。国風文化と和暦、西暦のシンボリズムの関係も天皇の生没年に関しては注目したいところかもしれません。日本という島国では海を越えてくる中国の文化もインド、アフリカ、ヨーロッパの文化全てが外来文化であるという事も考慮しておきたいところでしょうか。後三条天皇第71代天皇長元7年7月18日(1034年9月3日) - 延久5年5月7日(1073年6月15日)、在位:治暦4年4月19日(1068年5月22日) - 延久4年12月8日(1073年1月18日)で名前のシンボリズムに対比して生没年のシンボリズムは3の倍数のものとなかなか複雑で、在位期間の譲位の日にちが逆に和暦、西暦ともにかかるという、なかなか在位中の摂関政治から院政への移行や、東北地方の征夷に務めたなど、なかなか国風文化の完成に尽力したという感じが伺われます。フリーメイスンリー的な感じが出てくるところでしょうかね。白河天皇第72代天皇天喜元年6月19日(1053年7月7日)-大治4年7月7日(1129年7月24日)とあり、7のシンボリズムでしょうか。その次の堀河天皇第73代天皇承暦3年7月9日(1079年8月8日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日)と今度は西暦を織り交ぜた8のシンボリズムのようでどうも源平の合戦の時代に向けて天皇の生没年のシンボリズムの試行錯誤のようなものを感じます。鳥羽天皇康和5年1月16日(1103年2月24日) - 保元元年7月2日(1156年7月20日)、崇徳天皇元永2年5月28日(1119年7月7日) - 長寛2年8月26日(1164年9月14日)と院政が成立していく、時代はまさに源平の合戦の時代に入るわけですが、ヨーロッパではまさに第一次十字軍が絶頂を極めるときであり、生年月日のシンボリズムのみを認め、それも和暦であったり、西暦のみであったりとかなり微妙ですが、それと天皇の長寿が顕著となってきており生活レベルの向上と、天皇制の安定、そして何やら源平の合戦による実力主義への移行という壮大なプロジェクトといったものに対する準備的なものが感じられるでしょうか。その後の夭逝している近衛天皇第76代天皇保延5年5月18日(1139年6月16日)- 久寿2年7月23日(1155年8月22日)ではシンボリズムは対称性や55、22など西暦でありますが、極めて薄まった感じで、シンボリズムはもう当然の形でありながら、逆にそれによる社会変革、政権構造自体の変化に焦点が移ってきているような形があるようです。ヨーロッパでの十字軍運動、その後のモンゴル帝国の成立などを当初の大秦景教流行碑などと合わせると、世界的なやはりカトリックを中心としたキリスト教精神に基づくシンボリズムの信仰があるという認識が最も正しいのだと思われます。そして何度も触れている後白河天皇の抜擢と日本のかなり正確な歴史書としての平家物語や太平記の時代の源平の合戦、執権北条氏の鎌倉時代に移り、明確な33のシンボリズムを日本の歴史に刻むわけです。

二条天皇第78代天皇康治2年6月18日(1143年7月31日) - 永万元年7月28日(1165年9月5日)(在位:保元3年8月11日(1158年9月5日) - 永万元年6月25日(1165年8月3日))は後白河天皇の子供ですが生没年にはシンボリズムはないようですが、即位と譲位の日付はあるようです。死の直前の譲位です。六条天皇第79代天皇長寛2年11月14日(1164年12月28日) - 安元2年7月17日(1176年8月23日)はその子で後白河天皇の孫ですが、シンボリズムを認めますがやはり後白河天皇より早逝します。生後7か月で即位し、満11歳で赤痢で亡くなったそうです。高倉天皇第80代天皇応保元年9月3日(1161年9月23日) - 治承5年1月14日(1181年1月30日)はやはり後白河天皇の第7皇子で生没年月日のシンボリズムを認めます。父親の後白河上皇と舅の平清盛との間に挟まれたようです。安徳天皇第81代天皇治承2年11月12日(1178年12月22日) - 寿永4年3月24日(1185年4月25日)は有名な壇ノ浦の合戦で三種の神器とともに海に沈んだとされる満6歳で亡くなられた天皇で、平家がすでに追討されて木曽義仲が京に入っていたこともあり、同時期にやはり後白河天皇の孫である後鳥羽天皇が即位していて、期間が重複もしているそうです。安徳天皇は和暦の生年月日に明確な対称性のシンボリズムを認め、また西暦にも認めることから、平家の隆盛とその滅亡が陰陽師や仏教のシナリオに基づいたものでもあることが想像されるでしょうか。没年月日の壇ノ浦の合戦の日も和暦で3の倍数で、西暦で復活祭の時期に重なることもこれまた決戦の日もまたシンボリズムに関係したものであるかもしれないという事でしょうか。世界史の時代はまさに第一次十字軍後でイスラム勢力がエルサレムの地の奪回に集結し、そしてその後1200年頃にモンゴル帝国が勃興するわけです。

土御門天皇第83代天皇建久6年12月2日(1196年12月23日) - 寛喜3年10月11日(1231年11月6日)在位:建久9年1月11日 (1198年2月18日) - 承元4年11月25日(1210年12月12日)、33歳で出家してそのまま亡くなられた後鳥羽天皇の子供です。日蓮の父親との話が法華宗ではあるそうです。まさにシンボリズムのなせる業でしょうか。順徳天皇第84代天皇建久8年9月10日(1197年10月22日)ー仁治3年9月12日(1242年10月7日)はやはり後鳥羽天皇の子供で、後鳥羽天皇とともに佐渡で亡くなったそうですが、小倉百人一首にももしきや古き軒端のしのぶにもなほ余りある昔なりけり (順徳院)で名を残しています。在位:承元4年11月25日(1210年12月12日) - 承久3年4月20日(1221年5月13日)だそうです。承久の乱も北条政子の啖呵を切った演説がなかなか有名ですが、その頼朝政子の夫婦の関係や、その子供たちの行く末、そして仏道に入って鎌倉大仏を建設することになり、さらに津波でその建築が流されるまでがミツウロコのシンボリズムとともに一連の鎌倉の物語として日本のフリーメイスンリーの教訓でしょうか。仲恭天皇第85代天皇建保6年10月10日(1218年10月30日) - 天福2年5月20日(1234年6月18日)、5の倍数のシンボリズムでしょうか。この頃は天皇家も夭逝ですが、執権北条氏もほぼ夭逝の時代です。後堀河天皇第86代天皇建暦2年2月18日(1212年3月22日) - 天福2年8月6日(1234年8月31日)在位:承久3年7月9日(1221年7月29日) - 貞永元年10月4日(1232年11月17日)です。四条天皇第87代天皇寛喜3年2月12日(1231年3月17日)ー仁治3年1月9日(1242年2月10日)在位:貞永元年10月4日(1232年11月17日) - 仁治3年1月9日(1242年2月10日)と承久の乱後の菊花紋が定着した時代はやはり権力の低下とともにシンボリズムも弱いようです。

後嵯峨天皇第88代天皇承久2年2月26日(1220年4月1日) - 文永9年2月17日(1272年3月17日)(在位:仁治3年1月20日(1242年2月21日) - 寛元4年1月29日(1246年2月16日)です。承久の変の前年の生まれという事で、2のシンボリズムでしょうか。88代というところもポイントのようです。西暦でも4月1日でエイプリルフールもシンボルでしょう。即位の年月日も2のシンボリズムのようです。後深草天皇第89代天皇寛元元年6月10日(1243年6月28日)‐嘉元2年7月16日(1304年8月17日)在位:寛元4年1月29日(1246年2月16日) - 正元元年11月26日(1260年1月9日)は生没年月日はなく、在位のシンボリズムでしょうか。ゴと読むと親不孝者の意味になるという事で、のちのと読ませていたなどの逸話もあるようです。基本的に兄弟げんかで後の南北朝につながる対立を生じたようです。亀山天皇第90代天皇建長元年5月27日(1249年7月9日) - 嘉元3年9月15日(1305年10月4日)(在位:正元元年11月26日(1260年1月9日) - 文永11年1月26日(1274年3月6日)で、やはり在位のシンボリズムのみのようです。生没年月日の3の倍数のシンボリズムはあるようですが、まあこの時代くらいになると比較的普通のようです。

後宇多天皇第91代天皇文永4年12月1日(1267年12月17日) - 元亨4年6月25日(1324年7月16日)(在位:文永11年1月26日(1274年3月6日) - 弘安10年10月21日(1287年11月27日 )はいわゆる元寇の時代の天皇ですが、追号もなかなかシンボリズムのようです。没年月日がやはりシンボリズムが強いようです。後醍醐天皇の父親となります。伏見天皇第92代天皇文永2年4月23日(1265年5月10日) - 文保元年9月3日(1317年10月8日)在位:弘安10年10月21日(1287年11月27日) - 永仁6年7月22日(1298年8月30日)です。没年月日がシンボリズムでしょうか。あまり明確ではなさそうです。後伏見天皇第93代天皇弘安11年3月3日(1288年4月5日)- 延元元年4月6日(1336年5月17日)在位:永仁6年7月22日(1298年8月30日)- 正安3年1月21日(1301年3月2日)は生年月日がシンボリズムのようです。この頃後醍醐天皇の挙兵に呼応して足利尊氏が京都の六波羅探題を襲撃したのが1333年元弘3年であったそうです。後伏見天皇の子供が北朝となり、今生天皇に繋がります。後二条天皇第94代天皇弘安8年2月2日(1285年3月9日) - 徳治3年8月25日(1308年9月10日)(在位:正安3年1月21日(1301年3月2日) - 徳治3年8月25日(1308年9月10日)は南朝の系統で後醍醐天皇の兄にあたります。追号とともに生年月日の2のシンボリズムでしょうか。北朝系の3のシンボリズムと光のシンボリズムと対照をなすようです。

花園天皇第95代天皇永仁5年7月25日(1297年8月14日) - 正平3年11月11日(1348年12月2日)(在位:延慶元年11月16日(1308年12月28日)- 文保2年2月26日(1318年3月29日)は伏見天皇の子供で禅宗に傾倒したそうです。後醍醐天皇に譲位しましたが、即位、譲位、没年月日ともに明確に和暦でシンボリズムを認め、さらに現在の妙心寺の土地を寄進して寺を開基したという事で、明らかにシンボリズムが禅宗と結びついていることが分かります。52才とかなり当時としては長寿かと思われます。後醍醐天皇から称光天皇までは上述しました。

後花園天皇第102代天皇応永26年6月18日 (1419年7月10日)‐文明2年12月27日 (1471年1月18日)在位:正長元年7月28日(1428年9月7日) - 寛正5年7月19日(1464年8月21日)です。この時代になると権力は完全に幕府や有力武将たちにあるわけですが、シンボリズムはもう和暦でも西暦でも明確に特に没年月日などには認めるという、何とも天皇の象徴としての存在としては特に南北朝以降顕著であるようです。応仁の乱があり、三種の神器を奪われるなど散々ですが、52歳まで長生きしたそうです。後土御門天皇第103代天皇嘉吉2年5月25日(1442年7月3日) - 明応9年9月28日(1500年10月21日)在位寛正5年7月19日(1464年8月21日) - 明応9年9月28日(1500年10月21日)はまさに応仁の乱の時代の天皇で、室町幕府の庇護を受けていて、譲位もままならない状況であったそうです。生年月日がカトリックのシンボリズムのようです。敬虔に仏教を信仰していたそうです。非常に天皇としては長寿な58歳で亡くなられたそうですが、死後も葬儀を開くことが困窮していてなかなかできなかったという逸話があるそうです。

後柏原天皇第104代天皇寛正5年10月20日(1464年11月19日)- 大永6年4月7日(1526年5月18日)在位:明応9年10月25日(1500年11月16日) - 大永6年4月7日(1526年5月18日)です。生年月日が和暦でやはり5の倍数となるのでしょうか。西暦で明らかにキリスト教のシンボリズムがあることからも、禅宗仏教とキリスト教との明確な関係性が伺えます。さらに対応すると没年月日が復活祭の時期という事になるようです。世の中は荒れに荒れていたようですがやはり62歳と長寿で、しかも徐々に歴代天皇として伸びていることが分かるかと思います。後奈良天皇第105代天皇明応5年12月23日(1497年1月26日) - 弘治3年9月5日(1557年9月27日)在位:大永6年4月29日(1526年6月9日)- 弘治3年9月5日(1557年9月27日)という事で、まあシンボリズムもほぼ現代のフリーメイスンのようなクリスマスや樹の記念日、3の2乗3乗といった、いわゆるシンボリズムと同じ形になってくるようです。60歳まで長生きし、在位中は自筆の文書を売って収入を得ていたという、ある意味人間的な天皇であったようです。大内義隆などが有力な献金大名であったようですが、ザビエルが1549年来日し、1551年1月京に入り後奈良天皇に面会出来ずに山口に戻り、大内義隆の下で布教して、1551年11月15日大分より離日しました。ザビエルの日本での布教が完全に日付のシンボリズムを基本として行動していたことがよくわかり、またそれに対して日本の天皇が準備されている状況となることもわかるでしょうか。大内義隆は永正4年11月15日(1507年12月18日)‐天文20年9月1日(1551年9月30日)で、ザビエル滞在中に陶晴賢による謀反で亡くなっています。陶晴賢の家来にキリシタンが多数いたそうです。ザビエルが離日した大分の海岸は慶長豊後地震1596年9月4日(文禄5年閏7月12日)で島が消滅するほどの被害であったそうです。ちなみにフランシスコ・ザビエル1506年頃4月7日 - 1552年12月3日で、12月3日生まれでは皇室ではブラザー東久邇宮がいます。後奈良天皇はなぞなぞ集なども作ったそうです。

さてここからキリスト教布教後の日本という事になるわけで、そのシンボリズムも極めて顕著となっていきます。その前に文明、天文と明治維新後のフリーメイスンリー、西洋由来関係の学問や世の中の状況を表すのに使われる単語として造語された熟語と同じ漢字の元号が出てきたりしましたので、元号で同じように現在熟語として使用されている漢字の並びの元号と、さらに平成と同じく、平の付く元号についてみていこうかと思います。まず文明ですが応仁の後の後土御門天皇の時代です。応仁の乱が終息し、一休和尚が大徳寺を再建して足利義政が銀閣寺を建てたそうです。天文はこれはてんぶんと読むそうですが、鉄砲の種子島への伝来、ザビエルの日本上陸があり、上杉謙信、武田信玄、北条氏康、織田信長といった戦国大名の有名どころが勢力を伸ばす時代です。その他には江戸時代の文化文政時代で有名な文化は享和4年2月11日(1804年3月22日)‐文化15年4月22日(1818年5月26日)で後に挙げますが光格天皇、仁孝天皇の時代です。将軍は第11代徳川家斉の時代です。この時期はロシア使節が長崎に来航し薪水給与令が出されています。その後フェートン号事件、ゴローニン事件と続きます。江戸天文台に翻訳局が出来たそうです。杉田玄白の解体新書がそのおよそ30年前だそうですが、杉田玄白が84歳で亡くなっているそうです。その一年後に伊能忠敬が73歳で亡くなっています。間宮林蔵が樺太を探検したのもこの頃ですが、杉田玄白の親戚で、伊能忠敬に測量を教わっています。その他に熟語となる元号は延長えんちょう、延喜23年閏4月11日(923年5月29日)‐延長9年4月26日(931年5月16日)、醍醐天皇から朱雀天皇の時代や、治安じあん、寛仁5年2月2日(1021年3月17日)‐治安4年7月13日(1024年8月19日)、後一条天皇の時代、永久えいきゅう、天永4年7月13日(1113年8月25日)‐永久6年4月3日(1118年4月25日)、鳥羽天皇の時代となります。まあ元号と熟語の意味と多少関係があるのかもしれませんし、熟語の成立が元号からきているのかもしれませんが、文化、文明、天文といったいかにも明治維新後に盛んに使われた単語とは異なるようです。元号に関してはその他には創建された時代の元号を名前とした寺の名前がありますが、有名なところでは延暦寺、仁和寺、建長寺があります。延暦寺は788年、仁和寺は888年創建という事で、もしかすると8の数字の西暦に合わせたものであるのかもしれません。建長寺は1253年で北条執権5代時頼、建長5年、鎌倉5山の第一位という事で、まあ5に掛かっているのかもしれません。仁和寺には御室八十八ヶ所霊場というのもあるそうです。

そして平成につながる平の字の付く元号ですが奈良時代の天平、天平感宝、天平勝宝、天平宝字、天平神護とまあいわゆる聖武天皇に始まる東大寺大仏殿建立という時代で、日本の最も遺物が残る正倉院の宝物という時代なわけです。まあ確実にミトラ教やらゾロアスター教やらキリスト教、ユダヤ教、イスラム教と入っている時代なわけです。シンボリズムもあるのでしょうね。大化の改新の影響がこの交流となったのでしょうか。およそ100年の間があります。その後は平安時代の寛平かんぺい仁和5年4月27日
(889年5月30日)‐寛平10年4月26日(898年5月20日)で、宇多天皇、醍醐天皇の時代です。やや現代日本では気が抜ける印象となりますが、寛の字は元号として当時繰り返し使われた歴史があります。仏教の流行などとも関係するのではないでしょうか。桓武平氏の成立、仁和寺の建立、菅原道真による遣唐使の中止などがあるそうです。承平じょうへい、延長9年4月26日(931年5月16日)‐承平8年5月22日(938年6月22日)で、藤原時平、忠平らと菅原道真が権力闘争をした時代という事だそうです。平将門の乱などもあり、まあ権力とシンボリズムの関係という事で、わかりやすく自分の名前を元号に入れるという事もあるのでしょうね。康平こうへい天喜6年8月29日(1058年9月19日)‐康平8年8月2日(1065年9月4日)は後冷泉天皇の時代で前九年の役が終わるという事で、まあ後の鎌倉時代につながる東北征伐の一環があったという事です。今日では姓名の名前で男性で普通に認められる名前だと思います。仁平にんぺい久安7年1月26日(1151年2月14日)‐仁平4年10月28日(1154年12月4日)で近衛天皇の時代です。暴風や洪水での改元とのことだそうです。近衛天皇は16歳で亡くなられており、その死後保元の乱につながるそうです。ちなみに近衛は天皇の護衛の意味であり、在任中継続して鳥羽法皇の院政であったことを揶揄している追号のようです。平治へいじ保元4年4月20日(1159年5月9日)‐平治2年1月10日(1160年2月18日)は源平の合戦の平治の乱で有名な年号です。後白河上皇の院政の時代で、二条天皇の時代です。平清盛が台頭しました。信西の子の静賢の山荘で行われたという後の鹿ケ谷の陰謀が平家物語で有名ですが、信西、その子の静賢のどちらも後白河上皇の側近であったそうです。平治の乱のきっかけとなった信西は天文に通じていたそうで、その名前からもその当時の仏教の姿勢というものが感じられるでしょうか。その後は北朝の正平しょうへい興国7年12月8日(1347年1月20日)‐正平25年7月24日(1370年8月16日)で、前述した南海トラフ地震があったというシンボリズムです。太平記に記されているそうです。その後は平の付く元号はなく、また成の字も初めての元号での使用だそうです。
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さてまあ一気に読むとかなりくらくらするかと思われるこの内容ですが、歴代天皇125代と元号231代を全てその文字と時代と年月日でシンボリズムで語ろうとなるとどうしてもこうならざるを得ないわけで、それを踏まえた明治維新後の元号とさらに生前退位の話となるという事でしょうか。

あまりに長くなったのでこの後のキリスト教伝来後、正親町天皇以降は後編とします。
2017-06-24 21:55 | カテゴリ:明治・大正・昭和・平成
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
まああまりに長すぎるので前後編に分けましたが、一応シンボリズムに則って9月11日に書ききるように設定しましたが、たぶん無理でしょう。
この間にシニム・ロッジでは113周年でインストレーションがあり、その前に横浜ロッジでは150周年で結構な人数が集まったようです。まあアイルランド系のスフィンクスロッジから起算して150周年という事で、出島のオランダ人のフリーメイスンを除けば、確実にロッジが集会を開いた記録という点では横浜が日本のフリーメイスンリーの最初であり、そこから大政奉還、明治維新への流れが定まり、キリスト教の日本での復活があり、日本の文明開化、近代化が始まったわけです。現在の天皇家にしてみれば、公的にも戦後のブラザー東久邇宮稔彦親王殿下がフリーメイスンであり、今上天皇陛下も昭和天皇の皇后の香淳皇后がブラザー東久邇宮の姪にあたることからかなり近い血縁関係という事で、まあ鳩山家などと同じく戦後にそろってフリーメイスンとなった、そういう認識でもまず間違いはないわけですが、実際に明治維新以降は神道の祭主としての行事を執り行っており、こういう点で、近代化としてのキリスト教信仰になりえないという宗教的問題があるかと思われます。まあ何をもってフリーメイスンと成すかというのは常にフリーメイスンリーの命題であり、それには時代と世の中の状況というものが必ず関係してきますので、まあそういう点を含めて、平成28年のこの時代に生前退位が話題になるというところで元号の点から見ていこうとなったわけです。

さてまあ実際の現代の日本のフリーメイスンリーの活動はさておき、このブログでは日本の天皇家のフリーメイスンリーとの接点、主に仏教やキリスト教を通してという事になるわけですが、その傍証としての日付と名前のシンボリズムを検証することをしているということになります。それで前編では1549年のザビエルの来日とキリスト教伝来までの後奈良天皇までの歴代天皇について、名前と元号のシンボリズム、平、光、明、そして生没年月日、即位と譲位の年月日をそれぞれ和暦と西暦についていわゆる数秘術とキリスト教の祝日の観点から見ていったわけです。結論としては日本では暦が成立した大化の改新直後から和暦、西暦ともに生没年月日、即位と譲位の年月日にシンボリズムを認め、それは常に仏教や陰陽道として様々に社会情勢に合わせて強められたり、弱められたりしながら、またシンボリズムとしても極めてキリスト教的なシンボリズムを時に認めつつ、それらがまた非常に非日本的であるというような反発を得て仏教への帰依や禅宗の広まりとともに、最終的にキリスト教の伝来を待つという形になったのかと思われます。歴史の必然としての日本へのキリスト教の伝来、それはもちろんフリーメイスンリー、キリスト教を知らないとなかなか反発があるわけですが、実際の世界情勢、キリスト教、フリーメイスンリーを詳しく知ると、それがまた必然であるというところがまた近代化や文明化という言葉でまとめられることになる、現実のキリスト教、フリーメイスンリーでもあるわけです。

さてまあ長々と前置きを書きましたが、9月はユダヤ教でも重要なヨム・キプル、スコットの月に後半が当たるという事で、9.11から始まって世の中の動きも急速な状況ですので、なるべく早く書き終えて平成28年の日本に為になるようなものとしたいと思っています。(今年のユダヤ暦の新年は10月3日から、ヨム・キプルは10月12日、スコットは10月17日18日だそうです。)

それでザビエルが献上物を捧げなかったために会えなかった後奈良天皇ですが、まあ応仁の乱などの状況でそういう懐事情もあったのかと思いますが、いわゆる戦国時代で比叡山延暦寺や高野山金剛峯寺、また鎌倉仏教後の本願寺、大徳寺、妙心寺といったいわゆる様々な権力や勢力を持った仏教集団が渦巻く京都御所であったわけで、まさに異教といえる、実は日本に伝来した仏教が常に教えとして求めていた可能性すらあるキリスト教、ユダヤ教を排斥する行動になったのはまあやむを得ないというかまさに無知蒙昧のなせる業であったのでしょうか。後奈良天皇の子供の正親町天皇106代天皇永正14年5月29日(1517年6月18日) - 文禄2年1月5日(1593年2月6日)在位:弘治3年10月27日(1557年11月17日) - 天正14年11月7日(1586年12月17日)はおおぎまちてんのうと読み、まあ即位のシンボリズムが和暦と西暦で交錯した形である程度で、没年月日はこれは公現祭に多少かかるのでしょうか。ザビエルが会えなかった後奈良天皇の没年月日が 弘治3年9月5日(1557年9月27日)で西暦で3の2乗と3の3乗のシンボリズムが認められ、後奈良天皇は伊勢神宮への宣命には皇室と民の復興を祈願したり、『般若心経』の奥書には自省の言を添えるなど、まあなかなかフリーメイスン的であるわけですが、その後の正親町天皇は実権を失っていたとはいえ、1565年にキリスト教宣教師の京都追放を命じたという事で、こちらはかなり浄土真宗の本願寺に頼ったり、のちには織田信長の上洛に頼ったりと、なかなか色々ある有名な状況でもあるわけです。後奈良天皇が60歳、正親町天皇が76歳とこの時代に天皇の寿命は飛躍的に伸びており、戦乱の中で天下人であった織田信長とかなり近しい関係になったり、その滅亡後も天下統一した豊臣秀吉に関白の権威を与えることで、皇室の尊厳がかなり高まったこともあり、また曲直瀬道三を始めとしたクリスチャンの新しい医療や健康法の導入が直接的に関係していることもありそうです。ちなみに歴代天皇でおおOOと発音する天皇はこの正親町天皇だけであり、オームの真言ではないですが、仏教系のそういう真言のシンボリズムと関係している可能性が高そうです。もちろんそれと対応して最初のキリシタン大名の大村氏があるという事でしょう。
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この時代はもちろん家紋もそうですが、天下人となった織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の戦国三傑に極めて明確なシンボリズムを認める時代であり、それらが奈良時代、平安時代、鎌倉時代や南北朝時代のように仏教との関係からさらにその先に存在すると類推されるキリスト教などと考えられる時代と違い、明確にシンボリズムを重視するイエズス会を筆頭としたキリスト教宣教師の存在がありますので、それらの実際の活躍ととらえられることができるかと思います。

さてまあここから11/27以降に加筆しているわけですが、2か月の間を開けて書くというのもこのブログではかなり珍しいのですが、その間に三笠宮殿下も亡くなり、フィデル・カストロも亡くなり、アメリカ大統領がトランプ氏に決まったという事で、まあそんな感じなわけです。日本のキリスト教の歴史、天皇家の歴史は現代の国際政治にも関係しているのでしょうね。

さてさて嵐のような天皇誕生日となった12/23の本日なわけですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。まあブログの加筆もなかなか滞っている状況なわけですが、世の中の移りすぎるのは目まぐるしいわけで、そんな時代を感じる平成28年12月23日今上天皇陛下の83歳の天皇誕生日の本日に書き進めることとします。

まあいつの時代も天災やら人災やら、権力争いや仲間同士の争い、兄弟の争い、親子の争いと争い事や災害は尽きなかったわけですが、それらが日本史上特筆すべきものであったのがキリスト教伝来とその直後のまさに戦国時代であったわけです。フランシスコ・ザビエルがシンボリズムに基づいて日本で伝道を行った2年の後、真言のシンボリズムととらえられる大村氏や大友氏、大内氏といった大名とのキリスト教の関りや、近畿での権力争いに関する六角氏や三好氏、三好三人衆といった存在は数字のシンボリズムを思わせるものですし、管領家である細川氏のその後のキリスト教との接点などは細川の名前自体に恐らく何らかの音でのラテン語かポルトガル語やスペイン語でのシンボリズムがあるのではないかと思わされます。(ホセ・カワードになるようです。スペイン語のジョセフの名前のホセJosé、カワードは英語、ラテン語の臆病者の意味のcoward、一般に日本の濁らない音の川はcowardになるようです。卑怯者のジョセフ、そんな教訓的な意味の名前に響くようです。)そしてその混とんとした状況の中で現在の愛知県を中心とした地域から権力を手にする戦国の三英傑が出てくるわけですが、最終的に幕府を開いた徳川家康のイエズス会との名前の相似のシンボリズムと没年月日のシンボリズムがまあ改めて戦国時代の総括でもあるわけですが、それを踏まえて織田信長、豊臣秀吉についても見ていきましょう。

織田信長のエピソードとしては後見役の平手政秀の自決や桶狭間の合戦での神がかり的な成功、斎藤道三とのつながりとその後の斎藤家の調略、さらにその後は織田軍団を率いた各地での転戦と、仏教権力の弾圧、裏切りや調略といった軍団への統制と、安土城の建設から本能寺の変での裏切りでの死といったところだと思われます。生誕日についてはこれは城主の息子でありながらはっきりとはしないとして、この辺りが明確に旧暦の6月24日に生まれて死んだとされる加藤清正などとは異なることなわけですが、グレゴリウス暦で6月21日であるという説などもあるというようです。また死没年月日の本能寺の変は明確にグレゴリウス暦で1582年6月21日であって、これは3日ずれではあるかもしれませんが、明確なイエズス会が刻んだ夏至のシンボリズムなのだと思われます。平手政秀についても当時としては長命の62歳で自刃したことや、娘が織田有楽斎の妻であること、信長との不和の原因が五郎右衛門という息子のエピソードであったことなどから、名前も含めて、宣教師との接点がこの辺りである可能性があるでしょうか。熱田神宮との関わりや、兄弟間での凄惨な争いなどは、キリスト教でも旧約聖書のユダヤ人のエピソードを思わせる話であり、熱田神宮の御神体の草薙剣の逸話などもそれらを想起させるもののようです。織田信長は斎藤道三と舅関係でありましたが、斎藤道三ももともと僧侶の出身であるようで、名前の斎藤は自ら名乗ったもので、北条早雲のものと同じようなものであるようで、まあSaint、キリスト教の聖人のセイントとかかるのだと思われます。道三という名前も黒田如水のように、道教の思想と三位一体の融合であるようで、またドミニコ会を始めた聖ドミニコの名前に全体として相似となるようです。ドミニコ会は日本に伝道した修道会の三番目のもので、イエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会の順であり、中世のトマス・アクィナスを輩出し、キリスト教神学とギリシア哲学のアリストテレス哲学を融合した業績があるそうです。フリーメイスンリーのかつての守護聖人であった聖トマスの名前を冠した、キリスト教の聖人であり、その後のルネサンスの思想の中心となった人間中心主義ヒューマニズムの源流となるものかと思われます。斎藤道三は息子の義龍に戦いで敗れ63歳で亡くなり、その後斎藤義龍は織田信長に敗れ、稲葉山城は岐阜城と改められました。稲葉山城、現在の岐阜城の攻略において、木下藤吉郎が瓢箪の旗印を攻略の印として掲げ、その後より豊臣秀吉となる成功譚が始まるわけですが、この瓢箪のシンボルがホタテガイのシンボルと並んで、キリスト教の十二使徒の大ヤコブの巡礼者としてのシンボルであるそうです。またこの大ヤコブのカトリックの聖人暦が7月25日となっていて、真鶴の貴船神社で祝われる伝統的な貴船まつりの特定日の7月27日に近いものであるようです。大ヤコブの遺骸がレコンキスタの最中に発見されたとのことで、スペインの守護聖人とされるそうで、スペインバスク地方出身のイグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルを設立者とするイエズス会に結びつけて表されているようです。
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(追記:2019/2/11 2番目の写真は大徳寺の秀吉が一周忌で作らせた総見院の織田信長像ですが、明らかに烏帽子のところに十字が刻まれていますね。この時期の秀吉が強くキリスト教に影響されていた証拠であり、かつ信長自身の運命がキリスト教の下にあったことを強く反映させているものと思われます。なかなか貴重な資料と思われます。)
さてこの間でほぼ一年近くたってしまったブログですが、皆さんお元気でしょうか。2017年6月24日の近代フリーメイスンリー結成300周年の今日なわけですが、こんなブログの加筆で良いでしょうか。日本におけるフリーメイスンリーのシンボリズム史といったテーマなわけですが、まあキリスト教伝道前とキリスト教伝道後、そしてフリーメイスンリー到来の明治維新後という形で3つに分けそうですが、元号も変わりそうな平成29年の完成を目指していこうかと思います。

さて戦国の三英傑とイエズス会の伝道といった話になるわけですが、現在の岐阜、愛知、静岡を拠点とした3人の天下統一を果たした日本史での超有名人ですが、どうも名前や生没年のシンボリズムから見る限り、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の順に天下を治めたのは全てイエズス会の差配の限りであった模様です。まあこういう事を言うと、キリスト教や当時のヨーロッパ、イエズス会の伝道についてある程度知っている人にとっては、まあ当たり前といえば当たり前の話であり、日本史の常識から言えば非常識であり、何を言っているのかという話になるわけですが、シンボリズムの観点から言うと、近代フリーメイスンリー結成の秘密ともいえる重要な出来事となるのだと思われます。

まただいぶ間が空いてしまいましたが、内容的にはイエズス会などの相当の文書を読まないと書けない内容になってしまっていて、時間がかかるのもしようがないのですが、そこまで一気に読むことはできないので、現在途中まで読んでいるところで、私のこのブログの内容と非常にリンクする内容の本という事で、以下のキリスト教、イエズス会の目線から見た安土桃山時代の日本のキリスト教史を記録から淡々と概説する内容の聖母文庫の高木一雄氏の「関西のキリシタン殉教地をゆく」を紹介します。

カトリックの本という事で、ほぼ正式にイエズス会の文書に準拠した内容になっているかと思います。これによると、織田信長の子供たちは皆キリスト教会に非常に心を寄せており、信長の死の19日前の自らを神とする布告のために本能寺の変で亡くなったとのことです。また秀吉は自ら教会に赴きキリスト教の洗礼を受けようとしたこともあり、また秀吉が禁教令に傾いた経緯も具体的に描かれており、朝鮮征伐の動機もかなりキリスト教が影響していたこともわかり、後の秀吉の老境での混乱の原因ともされる秀次もキリスト教にかなり同情的であったことなどが分かります。大谷吉継の洗礼なども書かれており、戦国武将のキリシタンの洗礼が分かりやすくなっています。また日本人にはなかなか分かりづらいイエズス会とその他の修道会、フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチノ会の関係が非常にわかりやすく書かれています。

イエズス会士は最大でも100人程度が日本にいたのみで、それでいかに日本にキリスト教が根付くかという試みと、最後まで武力による制圧を行わないという事を守り、1588年8月8日のスペイン無敵艦隊の敗北をきっかけとして、その後の流れをイギリス、オランダの新教国に引き継いでいくのが、まさにフリーメイスンリーへの転換であり、ユダヤの六芒星を作ったという、イエズス会のシンボリズムのエッセンスはそのままフリーメイスンリーへと受け継がれていったようです。そういう意味では日本では散々に異なる人物として描かれる、戦国の三英傑ですが、キリスト教、イエズス会からすれば本質的には同等で、まさに修道会を意味するオダのシンボリズムと、ヨシュアを隠すというヒデヨシのシンボリズム、そして最後に権力を掌握し、そのためにイエズス会の後のフランシスコ会と関りが深く、スペインとつながりを持った、名前はイエズス会のシンボリズムそのもののイエヤスと、それぞれ宗教的にはキリスト教徒とはなりえず、そしてその結果いずれもキリシタンに囲まれた中で落命することになったようです。家康に関しては、以前にも触れた没年が1616年6月1日と明確なシンボリズムが描かれるわけですが、その前兆ともいうべきヨーロッパのキリスト教の当時最新鋭の技術の粋である時計の贈与が1606年から何度か行われたようで、現在も久能山東照宮に残るゼンマイ時計なども、まさに砂時計や大鎌のシンボリズムと同じく、死の時を刻むシンボリズムそのものであるようです。

はてさて、これで何回目の加筆になるのかわかりませんが、長編小説のようになってきました。文豪谷崎潤一郎由来の土地に住んでその影響かもしれませんが、なかなかヨゼフ病院時代とは内容も書き方も変化が著しく、ブログとしてまとまりを維持するのが難しそうです。2017年平成29年10月8日の加筆という事で、この章を書き始めてから1年以上経ち、フリーメイスンリー300周年のUGLEのイベントである10月31日のロイヤルアルバートホールでの記念式典に間に合うように書くのが望ましいのでしょう。

このブログでのこの章の内容は、日本の歴史におけるフリーメイスンリーのシンボリズムを認める、主に歴代天皇や権力者の生没年月日や元号や名前のシンボリズムを取り上げて、考察するわけですが、同時に平成の天皇退位、元号変化の予定もありますので、それに合わせてのフリーメイスンリー的考察という事になるわけです。
それで、まあ仏教伝来が一つの日本の天皇家などでのフリーメイスンリーシンボリズムの表出の一つの要素であったわけですが、その後のより大きなフリーメイスンリーシンボリズムの現出のきっかけが、1549年8月15日のザビエルの来日でのキリスト教伝来であったわけです。まあもちろんその後は明治維新で、太平洋戦争の終戦となるわけですが、この章は3章に分けた真ん中のキリスト教伝来から明治維新までという事で、戦国三傑とキリスト教と、その後のキリスト教禁教時代の徳川幕藩体制と京都での天皇家に着目していくことになります。

さてここからはさらに平成30年12月16日の加筆という事で、ブログの1ページでありますが、2年の長きにわたっての推敲、加筆という事になりますでしょうか。新たに2冊の織田信長関連の本を読破して、まあイエズス会=フリーメイスンリーの生みの親としての論を強くしてなおかつ、ザビエル以降のシンボリズムの表出がキリスト教伝道に伴うものであり、戦国の三傑がイエズス会によって生み出されているという論を補強したというところです。

さてまあ信長公記を読んでみた率直な感想としては、織田信長は非常に非情な人であり、基本的に城攻めでは全滅戦であり、裏切りや降伏は一切許さず、部下にも一切の不服従を許さない、典型的な専制君主であり、裏切りや暗殺を試みられることたびたびで、そのたびに幼いころからの訓練の賜物の優れた武力と騎馬力で前線での戦いや危機を乗り切ってきていました。若いころから遠駆けや鷹狩が大好きで、相撲も好きであって、そのために腰に瓢箪をたくさんぶら下げていたという有名な描写もあり、スペインから来たイエズス会士には巡礼者の象徴として気に入られていたことが想像され、それを部下の木下藤吉郎が旗印に取り入れたことも納得しやすい部分ではないでしょうか。「信長と十字架」ではフロイスと信長の岐阜での面会が京都上洛後となっていますが、ザビエルの死と信長の父親の信秀の死がほぼ同時期であり、初期の段階でキリスト教の宣教師は日本全国を巡っており、織田order、修道会、秩序の発音に繋がる、この若者の事をイエズス会は把握していて、応仁の乱後の六角氏、三好三人衆といったシンボリズムの権力者での表出と、京都からの宣教師の追放令という日本の伝統勢力との対峙していた時期に、混乱から秩序をもたらすキリスト教布教に有力な人物として挙げられたことは想像に難くないと思われます。元服時の三郎信長の名前も、その後のキャッチフレーズの天下布武も、教育役であった平手政秀の自死後の後見人としての、京都妙心寺の僧宗恩沢彦の発案という事で、竜樹ナーガルージュのナーガ、蛇神、龍神の名が入っていて、これを信仰するという意味の名前であり、仏教的にインドの信仰に近づいたシンボリズムを含んだ名前という事が出来るかと思います。信長の近くには長良川という、これまた長の入った象徴的な地名もあり、当時の戦国時代には長尾景虎という、仏教を信仰した武将や、長続連といった、長そのものの武将もあり、これらもまた当時の仏教系のシンボリズムの流行であり、織田の家系が神社の神官の家系であったことと、宗教的にバランスをとるものがあったようです。ナーガのシンボリズムはイエズス会の本拠が長崎に置かれたことで最も強調され、オームの真言の大村氏が寄進したのですが、ナーガサック(Naga Sack or Sac)で恐らくナーガを治める袋という意味となり、聖書では蛇はアダムとイブに知恵を与えるものであり、楽園追放のきっかけを作った邪悪な存在であり、龍は中国皇帝の象徴で、聖グレゴリウスが退治する恐らくモンゴル人の象徴であり、フリーメイスンリーではグノーシスの象徴の尾を噛む循環する輪としての蛇となるのだと思いますが、ナーガ自体は恐らく男性器の象徴ととらえられ、生殖、繁殖の象徴として、黄色人種の旺盛な繁殖力を制御する、仏教に象徴されるインドから東アジアへのアジア人をキリスト教で制御するという意思の表れであったのかと思います。(ナーガサックNaga Sacでやはりナーガを生贄にするという意味にも取れるようです。)長崎の地名自体は半島の形からきているわけで、それは能登半島を治めた長続連の名前とも関係するでしょうし、現在に残る長野の地名の善光寺の門前中町の坂の地形からきているのと同様と思われます。シンボリズムから見る限り、織田信長を改宗させる意図はなく、織田信長にイエズス会が求めたものは仏教の秩序であり、それはまさに比叡山焼き討ち、本願寺討伐、恵林寺の焼き討ち、高野山への圧迫という、仏教勢力の弾圧であり、織田信長でOrder Noble Nagaまさに高貴なナーガの修道会という名前通りの働きとも言え、一方で伊勢地方の一向一揆を過酷に討伐し、伊勢神宮に盛んに寄進をして、武田討伐では諏訪大社は焼き討ちするという、明治維新後の国家神道の方針に似た、伊勢神宮重視の宗教政策であったのも、織田信長自身の出立のきっかけであった上京しての足利将軍の奉職を促した正親町天皇の宣旨をもたらした人々が、吉田神社の吉田神道につながる万里小路惟房と磯谷久次と立入宗継であったこともあるのだと思います。
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立花京子氏の「信長と十字架」によれば、これら桶狭間の戦い後の信長に上京と足利義昭の将軍就任の補弼を促した、決勝綸旨という形の天皇宣旨を計画した人々は、清原マリアで知られる、吉田神道につながる、清原枝賢や吉田兼右らは姻戚であり、潜伏キリシタンであるとのことで、それらは結局イエズス会が計画して、それに天皇家や公家が乗る形で織田信長を操っていたという論になるようです。

さてまあまた繰り返しになり非常に読みづらい文章で恐縮ですが、織田信長のナーガのシンボリズムですが、これは同盟関係にあった妹のお市の方が結婚した浅井長政の改名後の名前の部分であり、また織田信長が集団戦で鉄砲の効果を知らしめた長篠の戦の地名でもあり、大規模な虐殺で有名な長島一向一揆の地名であり、浅井長政の姉妹にも京極マリアなどもおり、近江の琵琶湖の辺縁で、後の居城の小谷城は羽柴秀吉によって長浜城と改名されますが、そういうナーガのシンボリズム自体も仏教のリバイバルとして特に琵琶湖周辺で恐らく比叡山、三井寺の天台宗を中心として行われていて、結局のところ南蛮船の渡来によるキリスト教の伝来は同時にインド仏教、中国仏教の再興、インド文化、中国文化の流入を必然的に伴っていて、その中心にシンボリズムとともに選ばれた織田信長、豊臣秀吉、徳川家康がいたという事になるようです。(追記:長のつく名前では秀吉の妻の家系の浅野長政、浅野幸長、前田利長など秀吉の類縁とやはり琵琶湖周辺での経過と関わる戦国大名であり、それも一代目ではなく二代目以降で継続の意味も込められているのだと思いますが、そういう命名の傾向もあるようです。また日本史自体ではこの前の章では触れませんでしたが、藤原氏黄金時代の藤原道長がおり、これも仏教への帰依が強く、名前からは道教やキリスト教のミカエルの名前の意味も重なっているようであり、まあそういう道教、仏教、キリスト教の習合した黒田如水のようなシンボリズムもあるのかと思われます。日記を残しており、康保3年(966年)~万寿4年12月4日(1028年1月3日)という生没年月日であり、3日の死去というのは一応シンボリズムのようであります。長子の頼通が平等院鳳凰堂を建築して対称形の美を残し、世界遺産となっています。)

信長に関しては尾張での青年時代に蛇池神社での逸話も信長公記にはあり、織田信長の寄進した瓦塀も有名な熱田神宮の八岐大蛇に繋がる草薙の剣のご神体もあり、最終的には安土城での蛇石の崇拝が決定的で、密接にイエズス会と協力関係を築き、安土セミナリヨでカノンにつながるオルガンの音色も聴きながら、自らを神とする布告をもってイエズス会に見限られてその一生を全うしたという事になるようです。生年月日もほぼ西暦の6月24日近辺という事で、没年月日のグレゴリウス暦での6月21日というのも綿密にイエズス会のオルガンティーノ師を中心に練られた計画通りでしょうし、その直前に「信長と十字架」によれば織田信長が曲直瀬道三とともにグレゴリウス暦について検討していたというのも何ともイエズス会の与えた運命の皮肉という他ないわけですし、狩野永徳に書かせた安土城屏風がいまだ行方不明というのも、これまたカトリックという組織を説明する何よりの事象のように思われます。本能寺の変が法華宗の寺というのも33の観音のシンボリズムに極めて接していて、本能と理性という構図が、反乱者の明智光秀のシンボリズムに表れるというのも、これまた何とも織田信長を象徴する事例のようです。お市の方との関係や、その他尾張、美濃での同族を裏切っていく様子や家臣に対する対応など、そういう様子があり、武田攻め後の東海道帰還などでその様子は限界を呈していて、また楽市楽座の話や、琵琶湖の竹生島参り後の家臣や女房を殺した話や、評判が悪くなって城下の祭りで裸踊りをしたなどのエピソードや、浅井一族の髑髏の話なども、日本統一に関しては全く不可能という見解が朝廷、イエズス会共にあったのは確実かと思われます。特にキリスト教、ユダヤ教で重視する女性関係、斎藤道三の娘の帰蝶の正妻との関係、側室との関係、お市の方との関係、男色のことなどもあり、いずれにしてもナーガのシンボリズムに強烈に彩られた織田信長がイエズス会とほぼ行動を一にしながら天下統一の基礎を築き、豪華絢爛な安土桃山時代の文化の礎を築き、自らのアジアのシンボリズムのゆえに、創世記の蛇のように日本人に知恵を残して消えていったというのが、シンボリズム的な織田信長という事になるのでしょうか。恐らく認識の範疇では織田信長はキリスト教や西洋文明を把握、理解しながら、行動としてはそれらに準ずるようなものは無かったというのは、三英傑に共通する、当時の日本人の常識や認識の当然の帰結であったのではないでしょうか。
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ちなみに羽柴秀吉は三木城や鳥取城攻めの前のあたりの中国攻めの時点で独自で和議を交わしての城攻めを行っており、そちらの方が明らかに統一に向けて合理的で、信長後の秀吉の天下統一の過程ではそれらが多数認められるわけですが、それに対して信長が激しく叱責して、その後の三木の干殺しや鳥取の渇え殺しに繋がる攻城戦となり、最終的に高松城での水責めの最中の本能寺の変というタイミングも、織田信長の武人としての限界もあるのだと思われます。また徳川家康との関係では明らかに桶狭間の戦いの際には松平元康の今川義元の陣の配置に関して裏切りが示唆され、それがどの程度のレベルであったかは不詳ですが、恐らくその事象からの織田信長との切れない縁となっているものと思われます。桶狭間の戦い後に松平元康から最初松平家康へと改名、その後徳川家康と改名するわけですが、最初の家康への改名は松平家を意識したものと思われ、恐らく偶然と信長のようにシンボリズムの必然があり、本人の意識としては完全に偶然にイエズス会に似たものとなったようです。その後の徳川への改名には近衛前久の助力があったとのことで、もともと時宗の僧であった松平家の系譜と、賀茂神社の末裔が多く占める三河武士の棟梁としての立場から、源氏の末裔としての格付けがなされ、この時点で天下統一への道が出来たと考えられるかと思います。徳川でTのシンボリズムとなるのは、恐らくイエズス会にお目付け役としてフランシスコ会の修道会のものが入っていたと推測されることと、川の治水などの意味を込めたのではないでしょうか。鴨川や長良川、木曽川、揖斐川、利根川などの川全般の意味も込められているかと思います。朝廷的には関東域での開発において、治水が最も大事な公共事業であったと思われます。徳川家康と織田信長を比較すると、ヤコブの子ヨゼフの兄弟に捨てられながらも裏切らないエピソードなども思われ、イエズス会が人物選定の際の基準としていたことが強く認識されるかと思います。

またこの時期の特筆される事象として本能寺の変後6年で1588年8月8日のアルマダの海戦で新旧教国間で世界規模の決戦があり、英蘭軍が勝利して、世界はスペイン、ポルトガルのカトリック国による二分から大英帝国の時代と、フリーメイスンリーの時代に変化していくという事でしょうか。その最初のきっかけはキリスト教的な視点から見れば、これら織田信長の時代にあると言えるのかもしれません。その後の関ヶ原の戦い直前に三浦按針とヤン・ヨーステンらが日本に漂着し、大坂夏の陣などで決定的な役割を演じるのもご存知の通りかと思います。

ちなみに織田信長の石造技術としては、明らかに安土城は石垣山城の前身の技術であり、石垣山城では山頂付近に井戸を設けるというのがあるのに比べて、いわゆる乱積みともいわれる、野面積みであり、その多くが観音寺城からの石材の使用が想定され、それらではやはり安土のシンボリズムと同等で仏教、キリスト教双方の協力が考えられるかと思います。やはり石垣山城での石造技術が決定的にキリシタン主導で行われるものになったようです。石造技術とシンボリズムの表出、伝来の一致がまさにフリーメイスンリーといえるかと思います。ちなみに土のシンボリズムはやはり陰陽五行とともに、プラトンの四元素説が混じったものであると考えられ、十字も含まれていて、イエズス会のフリーメイスンリーにつながるシンボリズムが見て取れます。安の字に女性が含まれていることなどは信長の嗜好を思わせ、また安土自体が弓道場の築山であることなどもその嗜好を強く思わせるものかと考えます。安土城の装飾や建築も、信長公記で読み解く範疇では、中国文化の道教や儒教の思想を強く反映したもので、仏教というよりは法華経のナーガのシンボリズムを強調したもののようで、信長自身の思想がフロイスの表現する通り禅宗に影響された無神論という通りなのではないかと思われました。アヅチの音に関しては恐らくアツタ神宮の影響が考えられ、アッツイのアイヌ語での海の表現に近づくのでしょう。近くの観音の音のカンノンが恐らくアイヌ語表現と関係することとも関係するようです。(追記:観音はカムイのという表現になるようです。カムイが直接的に観音になっているのでしょうかね。三浦半島では鴨居という地名と観音崎は近いのでわかりやすいですが、なかなか謎のようです。)最終的に本能寺の変の際に織田信雄がこれを爆発して燃やしてしまったというエピソードは、松永久秀の最後の話もありましたが、信雄は伊勢の一揆を鎮圧していて、信長が非常に叱責していた子供であり、親子関係の事もあり、キリスト教の洗礼も受けていたとのこともあり、安土城の屏風のエピソードと合わせて、まあキリスト教的な最後であったのだと思われます。織田信雄とその一族もそれぞれその時代としては長命であったこともキリスト教の洗礼と掛け合わせられるのだと思います。織田一族のほとんどがその後洗礼を受け、長寿であったというのも織田信長を考える上で重要な要素かと思われます。織田信雄の養子先の神戸家の名前が、その後の開港地の名前となって、現在まで続いているのも関係があるのかもしれません。
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織田信長に関してのシンボリズムで追加するものとしては、琵琶湖に浮かべた大船の事があり、天正元年(1573年)に足利義昭を追放する直前に琵琶湖の周辺の平定のために丹羽長秀に作らせたものという事で、ローマ皇帝のカリグラを思わせるような事象であり、シンボリズムに平行して、イエズス会による影響もあるのではないかと思われます。この後には瀬戸内海と伊勢地方から軍船を派遣して、シンボリズムとしての意味合いが強かったと思われる大船は小舟の材料としたというのも、実用性を重視したという事で、そういうエピソードと思われます。また蜂屋頼孝という家臣がいて、信長時代に馬廻り衆から大名になっていて、その後秀吉配下となるも没落していくのが、同様な丹羽長秀や、柴田勝家と似ているところがあり、いずれもシンボリズムを認め、蜂、羽、柴となるわけですが、まあそれぞれシンボルとして成立するわけですが大丈夫でしょうか?養蜂に関しては記録としては日本書紀の時代からあることにはなっているそうですが、本格的な養蜂は江戸時代とのことで、砂糖菓子が大量に増えたイエズス会宣教後の状況と合わせて、養蜂技術に関しても宣教師が相当に関わっていることが、これら家臣名のシンボリズムからも推測されるかと思います。木下藤吉郎にまた初期のころから蜂須賀小六という部下がいたのも偶然ではなさそうです。また馬揃えの際に象徴的であったクジャクの羽もまた鳥のシンボリズムであり、三井寺で孔雀が現在も飼育されているのが、鳳凰への連想もありシンボリズムと考えられます。また天下布武の印の楕円も「信長と十字架」の説の通りシンボリズムと考えられます。信長に関しては刀剣を褒美として与えることが非常に多く、本人も収集して、積極的に作成させていて、もともと織田剣神社という由来もあり、まさに騎士団のシンボリズムとなります。
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織田信長の家臣で著名なキリシタンとしては、よくわからない理由で追放されたとされる佐久間信盛がおり、また後に羽柴秀吉傘下となる黒田如水や高山右近などが有名です。足利義昭と織田信長の間にたった、和田惟政もこの時期で顕著な没年月日のシンボリズムを認め、享禄3年(1530年)~元亀2年8月28日(1571年9月17日)であり、没年月日の対称形の71917の並びはこの時代この人唯一のものであり、和暦でのシンボリズムと合わせて、グレゴリウス暦の直前のユリウス暦の時代であり、キリスト教布教に協力した武将としてその影響が大きかったことが伺われます。(追記:姫路城を大規模改修した織田家重臣池田恒興の子供の池田輝政が永禄7年12月29日(1565年1月31日)~慶長18年1月25日(1613年3月16日)で、没年で明確な613316の対称形のシンボリズムを示していました。池田輝政のキリスト教との接点は摂津池田氏がキリスト教布教の一大地であったことと、家臣にいた同族の池田教正が有力なキリシタンであったことがあり、姫路城の十字の瓦の事もあり、クリスチャンに近かったのだと思われます。)没年月日のシンボリズムとしては、織田信長の上京や明智光秀の謀反に関わったとされる現在に繋がる熊本細川家の初代と目される細川幽斎と、吉田神道の始まりとされる吉田兼倶の孫である吉田兼見は従兄弟関係であり、同日慶長15年8月20日(1610年10月6日)に吉田神社の近傍で亡くなったとされることが、まあ具体的な本能寺の変から関ヶ原の戦いに至るまでの当時の日本政治の中枢にいた人物であったことの象徴と思われます。いずれも1と6にまつわるシンボリズムであるのも、2×3=6の数秘術となるようですが、その後の徳川家康の1616年6月1日の命日に繋がるようです。また吉田神社自体は6角形と8角形の社殿を1601年に建設しており、六角氏が6角形の社殿を元とすることと合わせて、その後の8角形が安土城でとられた形であることと、ハチの発音が蜂にもつながることや、蜂の巣が6角形であることなども併せて、イエズス会のもたらしたキリスト教と習合した日本神道の新たな形として、それは明治維新後にさらに復興することになるのだと思われますが、明確な没年月日のシンボリズムであると捉えられるようです。吉田は恐らくヨシュアとダルマJoshua Darmaの合成と捉えられ、細川は以前にも書いた通りホセ、カウアー Jose Cowardとなるのだと思われます。いずれも吉田茂や近衛文麿など太平洋戦争終戦時に同様に同じ苗字や末裔が活躍するのもペリー来航時の吉田松陰のように韻を踏んだような形になるようです。和田に関してはWar Darmaとなるのでしょうか。まあ日本人の名前のシンボリズムについては相当日本人にとっては理解しがたい部分があるようですが、キリスト教を主とする日本国外からの影響を考慮するとこういう様相になるのは当然でもあるようです。
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さてでは次に三英傑二人目の豊臣秀吉になるわけですが、幼名は日吉丸という名が有名ですが、これは後から付けた可能性が高いとのことで、日吉神社が比叡山発祥の山王信仰に基づくもので、三位一体の形を漢字の形から含んでいるとのことで、信長の恐らくイエズス会主導であったろう比叡山焼き討ちの影響が垣間見えるというところでしょうか。もともと木下藤吉郎という名であるので、幼名も吉の字が入る可能性は高いようですが、名古屋の中村公園近くを出生地としているとあり、中村公園横の常泉寺にお手植えの柊があったりしましたが、まあどこまで本当かは全く不明ですが、出自がはっきりせず、織田信長後の後継者としてイエズス会に選ばれ、皇室や朝廷からはやや嫌われた感がありつつも全国統一して、関白就任し、朝鮮征伐をはっきりした理由不明に開始した経過を見るとやはり飛鳥、奈良時代以降の朝鮮からの渡来人家系であったことが最も考えられそうです。秀吉自体が父親の存在を嫌っていて、その存在自体を歴史上から消滅させた可能性が強いようです。秀吉の姉は長命で、息子たちを全てなくし、特に秀次は孫のほとんどを殺され、唯一秀勝の娘完子が九条家に嫁いで、その子孫が大正天皇の皇后である貞明皇后へと繋がり現皇室につながるようです。この朝鮮征伐の途中で亡くなった羽柴秀勝はキリシタンで洗礼を受けているそうです。また秀吉の妻の北政所の出身の木下家、浅野家はそれぞれ大名として江戸時代も存続したようです。北政所の侍女にはマグダレナという洗礼を受けたものがいたそうです。この木下家の木下長嘯子はキリシタンであったようです。秀吉の血縁者でのキリシタンと目される人物は淀殿の繋がりからの京極高次に嫁いだ浅井三姉妹の常光院や豊臣秀勝と徳川秀忠に嫁いだ崇源院がいて、崇源院の娘が上述の九条家に入った完子であり、崇源院はいわゆるお江として知られる女性で、娘や息子が千姫や徳川家光であり、千姫はその後豊臣秀頼と婚姻し、大坂夏の陣後は桑名藩の本田家に入りますが、姫路城に移ったのち生まれた子供たちも次々と亡くなり、江戸城に戻ったそうです。千姫と共に鎌倉東慶寺を支援したのが秀頼の側室の子供である天秀尼であり、東慶寺にイエズス会の紋の入ったキリシタン聖餅器があり、駆け込み寺として知られていますが、その周辺で江戸時代のキリシタンとしての接点があったようです。
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まあいきなり血縁のキリシタンの話になってしまったわけですが、秀吉の場合は実子のうち成人したのが公的に秀頼しかいませんので、実際は全く似ていないという事もあり、秀吉がその他に数多くの女性関係がありながら子供がいないことなどからも、大野治長の子と考えられるようであり、実子についての話はないという事になるかと思います。秀吉自身が禿ネズミと信長に呼称される容姿で、右手に指が6本あったという人物であり、人たらしで知られる人格ではありますが、漢字の書の教養は一切ないという、日本史上今後も現れないであろうという、世界史上でもかなりまれな権力者となった農民階級の人物であり、その出自と幸運に恵まれたキリスト教布教の過程での優秀なキリシタン武将に囲まれての天下統一の過程で、三英傑の中で最もキリスト教に近づいたとされており、カトリック側によれば、自ら教会を訪れ、数多くの妻帯を認めれば入信してもよいと発言していたという事です。(追記:世界史中では農民階級から権力者となった人物としては中国の漢の劉邦や明の朱元璋が有名かと思います。いずれもその後の三国志のシンボリズムに繋がったり、明のシンボリズムにつながるなどシンボリズムとの関りはあるようで、特に朱元璋は天暦元年9月18日(1328年10月21日)~洪武31年閏5月10日(1398年6月24日)と没年で織田信長の如きシンボリズムを認めており、明の建国に明らかにその当時はキリスト教と思われますが、そういうヨーロッパの影響があったことが伺えます。朱元璋は白蓮教徒でしたのでそのためと思われます。ローマ帝国やヨーロッパの古王国でのシンボリズムについてはキリスト教関連ですのでこの場では考察しませんが、直接的に農民階級から権力者になった例は東ローマ帝国などで認めるようですが少ないようです。)立身出世の過程でも貪欲にシンボリズムを取り込んでおり、最初はイエズス会のスペインの巡礼者のシンボルとなる瓢箪を岐阜城攻略の際に旗印とし、織田信長の家臣筆頭であった丹羽長秀と柴田勝家から、その明らかな聖書に関わるシンボルの部分の名前を合成して羽柴と名乗り、秀吉としてHide Yoshuaとなる発音の名前を名乗るのは明らかに織田信長周辺にいたイエズス会と接点を持っていたことが想像され、それがまさに本能寺の変後の中国大返し、柴田勝家との決戦での賤ケ岳の戦いでの美濃大返しを可能にするキリシタンネットワークが想像され、また黒田官兵衛、高山右近、中川清秀といったキリシタンやその周辺の人々が配下で天下取りに大活躍し、後に浪人となった高山右近を保護した前田利家は柴田勝家を裏切って秀吉の勝利を決定的にした同盟者であり、一説にはオーギュスチンと洗礼を受けていたとの話もあり、秀吉自身も含めて、当時の日本のキリスト教全盛時代が伺われるでしょうか。
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秀吉の時代は信長の時代と決定的に異なるのは、その関白就任を為した直後から大地震にたびたび見舞われていることであり、関白就任直後の天正13年11月29日(1586年1月18日)の天正の大地震が最初で、若狭湾に大津波があったそうですが、その翌年に秀吉は教会を訪れたとあり、地震とキリスト教を関連させていたとも考えられます。秀吉は賤ケ岳の戦い、小牧長久手の戦いを経て、紀州、四国を平定し、その後九州征伐に乗り出すわけですが、この際に日本準管区長ガスパル・コエリヨ神父と博多で面会した際に葡萄酒を飲みながら突然怒り出したとのエピソードが「関西のキリシタン殉教地をゆく」には描かれており、「川角太閤記」には長曾我部軍と毛利輝元軍と豊臣秀長軍などの間で兵糧などで連携がとれておらず、九州の地元の勢力に敗退し、その後に秀吉自身が九州に赴いて直接金を兵士に渡して兵士を鼓舞して島津を降伏させるまでに至る経緯が描かれており、その後の統治においても一揆が繰り返されて、黒田如水なども統治に苦労する様子が描かれています。九州でのキリスト教の布教の影響とそのための寺社仏閣の排斥や、奴隷貿易などの話、常に織田信長や豊臣秀吉の武器類の後援者であった大友宗麟の洗礼と、その後の耳川の戦いの敗北と、島津の九州統一への動きを鑑みて、キリスト教の受洗まで傾いていた天下人秀吉は布告のみであっても侍医の施薬院全宗の影響もあって、伴天連追放令の布告となり、直接的には高山右近の追放になったという事です。私はこの日本の歴史上かなり重要な判断は、様々な要素によって出来たものだと考えますが、当時すでに明制圧を構想していて、明や朝鮮にも使者を送り始めていた秀吉の海外に関する情報は多くがイエズス会によるものであったでしょうし、秀吉の日本統一の過程でも、その後の朝鮮討伐でもキリシタン大名と宣教師は兵士と共に行動しており、統一や占領の過程で現地の布教活動、その周辺の情報収集を行っていた形跡があり、秀吉の日本統一から朝鮮征伐に至るまでの征服活動の動機がそもそもキリシタンによる布教に随伴していたと思われる節があります。また秀吉と秀吉の周辺の親族や家臣らも本能寺の変後の出立の過程でキリスト教に理解を示していた状況があり、九州征伐で大友宗麟は島津に追い詰められて、秀吉の島津攻略の過程で亡くなるわけですが(追記:大友宗麟の没年月日は天正15年5月6日(1587年6月11日)でやはりここで6と1のシンボリズムが出るようです。)、恐らく本能寺の変の様々な実際の計画を構想した可能性が高いのが大友宗麟であろうし、そういう状況も秀吉が考慮したでしょうし、また伴天連追放令自体には大名がキリシタンであっても領民がそのまま全員キリシタンになるのは、信仰の問題でありおかしいので、自由にすべきであるという、人権宣言にも匹敵するような信仰の自由の発想があり、キリスト教そのものを否定する内容とはなっていないという部分があり、文章を考案した施薬院全宗自体も師の曲直瀬道三がクリスチャンであり、キリスト教の発想そのものから、本当の信仰とは現在の日本のキリシタンの状況ではないという、そもそもイエズス会が意図した内容ではないかと推測されるものがあるという事です。またこれはかなり飛躍した部分がありますが、その後の秀吉の心身の失調の過程が様々に読み取れる記述が残っている、家来の前で失禁したり、居眠りしてしまったりしたという伝承から考えると、九州征伐を行った50歳ころから、このコエリヨ神父と葡萄酒を一緒に飲んだりしている様子から類推して、イエズス会の差配であてがわれた、当時日本人にはほとんど未知の病気であった梅毒感染が成立していて、神経梅毒の症状を呈していて、判断力と共に心身機能の低下をみとめていたのではないかと想像されます。こういう神経梅毒と関連したと思われる誇大妄想や被害妄想的な独裁者の様子は近代ではドイツのヒトラーの疑惑や日本では明治天皇などがありますが、キリスト教布教の過程で明らかにイエズス会の体制とは矛盾する日本の独裁者の漁色の状況は明らかに自業自得の問題として、当時新大陸からコロンブス経由で世界に広がった梅毒を日本にもたらす可能性があるかと思われます。明治天皇に関しては秀吉が本拠とした伏見に御陵を造成するという共通点も存在します。秀吉の梅毒説は俗説としてありますが、ミイラ化した豊国廟の遺体の検査は公的には明らかにはなっていませんが、秀吉当時の日本においても十分な動機がない朝鮮征伐は厭戦気分が広がり、最終的には秀吉の死に繋がる原因ともなったとも思われ、この時期の秀吉の行動を説明する一つの理由として梅毒による影響は合理的ではないかと思われます。また秀吉は晩年には歯が全て抜け落ちてしまったとあり、これなどもイエズス会からもたらされる砂糖菓子などの影響なども推察され、獏の枕なども豊国神社にはおかれていましたが、様々な方法で秀吉を籠絡しつつ、それに対して秀吉が様々に対応した、そうした中での伴天連追放令というのがあったというのが、実際のキリスト教布教の過程での歴史なのではないかと思われます。
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まあこの事を端的に要約すると、秀吉はその出立の過程で非常にキリスト教に近い心境を持っていたが、その行動からキリスト教徒たりえず、逆に伴天連追放令を布告し、その信仰を試すように高山右近を追放したが、積極的にキリシタンを圧迫することはせず、むしろ全国統一、朝鮮征伐などではキリスト教の布教に加担する結果となり、恐らく梅毒感染の心身の失調もあり、その後の後継ぎとされる子供の誕生などもあり、これまたキリスト教に近い考えであった秀次を殺し、はっきりした動機が不明な朝鮮征伐を続けて、厭戦気分の中で衰弱して死亡したという事になるのかと思われます。

それでまあ九州征伐の間に豊臣姓を賜り、九州征伐後に伴天連追放令、関東、奥州への惣無事令を発布し、刀狩令を発布して鶴松が誕生するわけです。豊臣姓については、源平藤橘と同じ本姓であるという事で、まあ苗字と異なるとかいろいろあるようですが、聖徳太子の別名である豊聡耳皇子からの引用とか豊原と中臣の合成であるとか、まあ豊川稲荷とかあったりしますが、説は色々あるようですが、いずれにしても現在の自動車メーカーのトヨタと音が近いなどあり、音だけで行くと徳川家康が支配していた遠江トオトウミに近い音になり、まあ何らかの関連があるのかもしれません。英語でいけば、To You To Meでしょうか。Hide Yoshuaと合わせれば、あなたにも私にもヨシュア(イエス)はいると、まさにキリスト教となりますが、いかがでしょうか。Tの頭文字はやはり徳川家康と同じで後に来る最大の修道会であるフランシスコ会のシンボルのタウ十字と関連するものと思われます。徳川はTalk Cowardでしょうかねえ。Coward自体で羊飼い由来の名前もあるそうですが、いかがでしょうかねえ。

それとまあ三英傑での家紋についても触れておきます。織田信長はご存知の通りの木瓜紋で良いかと思います。どの武将も名前もいくつもあったりしますが、家紋や旗印もいくつも使用しており、最終的な有名なもの一つという事でここでは考察します。木瓜紋は五芒星に近い形で良いかと思います。五瓜に唐花なんて正式名称で呼ぶようですが、まあそういう正式名称自体も本当に最近なんでしょうね。こういうのはネットの世界は学術という名の衒学があってダメですねえ。歴史学が歴史を尊重しないのは全く学問としてダメです。まあそういうのは置いといて、秀吉の紋は関白以降の現在でも政府の紋として使用される桐の紋で良いかと思います。これも五三とか七五とか格が色々あるという事ですが、桐の紋は共通して三位一体のクローバーの形が全体で含まれていて、奇数の繰り返しでキリスト教的な、フリーメイスンリー的なものとなるかと思います。秀吉で面白いのは自ら太閤桐という紋を考案していたそうで、これがまあ見ればわかるんですが、明らかにその花の部分がオリーブの葉の形になるんですね。おそらくオリーブの実物を見たことない時代だと思いますので、まあ宣教師が考案した形に近づいたのでしょうかね。(2019/9/7加筆:オリーブは宣教師が持ち込んで当時伊吹山などで栽培されていたようです。残ったものはないとされているそうです。記録ではオリーブの実とオイルは秀吉に進呈されているそうです。秀吉がオリーブの木の実物や絵を見た可能性は相当高いと思われます。)まあ国連のシンボルなどにも認められるオリーブの葉の形が秀吉考案という紋で現れるというのが安土桃山時代のようです。徳川家康は水戸黄門で有名な葵の家紋となるわけですが、これも三河武士で使用されていたという事で、菊の紋のように様々なバリエーションがあるわけですが、まあ基本的には南蛮由来の植物であるという事と、形が三位一体の形になることと、ハートやスペードの形に近づく、もちろんフリーメイスンリーではシンボルはハートの形になるわけですが、その起源が明確にイエズス会になるわけで、剣とハートでともに象徴される、騎士団のシンボルとなったりしますが、まさにそういう騎士団が強調された時代という事で、葵の葉の形はハートととらえるとわかりやすいのかと思います。
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それで九州征伐後は小田原征伐、奥州仕置となるわけですが、この端緒が猪俣邦憲による真田昌幸が守る沼田の名胡桃城を調略によって乗っ取った事で、秀吉の惣無事令に違反したとして、総勢10万以上での小田原征伐となるわけですが、まあ真田一族自体が、有名な真田幸村の真田信繁が洗礼を受けていたという説もあり、サナダ虫で名前の残る真田紐を売っていたという話もありますが、真田紐自体は千利休が使用するようになって普及したという事もあり、現在も茶道具の箱の結びに必ず使われていますが、結び目や縄もフリーメイスンリーのシンボルであり、縄や縄結びは海洋航行の必須の道具であり、キリスト教に関わる一つの道具の伝来の可能性があると思われます。猪俣邦憲もまた猪という名前から猪突猛進ではないですが、まさに謀略事件であったのかもしれません。まあいずれにしても北条氏討伐は必要絶対であったわけで、その9か月前に初代北条早雲の末子に当たる西国の事情に通じた北条幻庵が亡くなったとされており、まあこの辺は諸説あるようですが、当時相当長命の80才以上で亡くなった可能性があるという事で、いずれにしても九州征伐の過程を見れば、その後に関東、東北で全く同じようなことが行われることは自明であったわけで、様々な事前準備がなされたことは想像に難くないかと思われます。沼田の地自体も三浦氏の末裔が支配した土地とのことで、三浦氏は前北条氏と共に源頼朝の配下であったわけですが、室町幕府の事務方を取り仕切っていた伊勢氏に由来する後北条氏に再興した相模三浦氏が油壷で滅亡させられた歴史もあり、まあ様々な因果が働いた結果としての小田原攻めであったわけです。この頃には伴天連追放令後で表面上は棄教して如水に改名した黒田如水が交渉役や石垣山城の築城で活躍し、追放となっていて、後に金印の発見された志賀島や、現在はオリーブの最大の産地となっている小豆島を経て、金沢の前田利家の下で築城などを行っていた高山右近も最も凄惨な戦いであったという八王子城の戦いなどでも活躍したとあり、小田原城包囲の最中には細川忠興と蒲生氏郷と共に牛肉を食べたという逸話もあり、キリストに祈りを捧げなかったので牛肉を食べるのを止められたなどの話などもあるようです。
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小田原征伐の際に具体的にキリスト教の宣教師がどういう働きをしたかは全く伝わっていませんが、千利休が茶の宗匠として秀吉に随伴しており、一番弟子であった破門した山上宗二が北条方に身を寄せており、秀吉に会って再び逆鱗に触れ、耳と鼻を削がれて亡くなるという事もあり、その後に千利休が息子の千少庵が名付ける「園城寺」の割れ竹の一輪挿しを北条早雲の影響の強かった韮山の竹から作るなどのエピソードもあり、その時同時に「音曲」「尺八」「夜長」という名の竹花入れを作ったとあり、千利休の弟子であった山上宗二から茶を教わったという、北条幻庵が一節切という尺八の一種に通じていて、北条幻庵は韮山の近くの修善寺に庵と菩提寺があり、そこで「滝落とし」という尺八の楽曲を作曲したというエピソードもあり、北条幻庵の本拠地は小田原城内の久野という地であり、観音やカノン、叶に通じる音であるわけですが、琵琶湖の南岸の大津にある比叡山延暦寺と長年敵対関係にあった園城寺、三井寺で出家した人物であり、千利休とも関係の深い大徳寺とも関係があったようで、まあそういう人物の生死が小田原征伐全体を左右したという軍師としてのエピソードであるのだろうと想像されます。つまり表向きの軍師として黒田如水や千利休や高山右近がいて、それをさらに左右していたのがイエズス会士であったのだろうという事です。小田原征伐は本能寺の変の西暦に対応してか、旧暦の6月24日周辺での3か月弱で建設された石垣山城の完成をもってして、松田憲秀の裏切りなどもあり北条氏政の切腹、北条氏直の高野山への追放をもってして、小田原城自体はほぼ無血開城の形で終戦となりました。松田憲秀の内応を勧めたとされる堀秀政は陣中で病没しています。
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千利休によって大成させられたという日本の茶道ですが、「山上宗二記」によれば村田珠光が足利義政に茶の湯を教えたのがわび茶の始まりのようですが、茶の栽培と飲む習慣自体は古代の中国からあったようで、有名なところでは三国志の時代から薬としてあり、茶の飲み方や茶碗の置き方などでいろいろな意味を持たせるやり方も中国のフリーメイスンリーとされる洪門会などではあり、茶の種類も六大種類といわれ、青茶・黒茶・緑茶・紅茶・白茶・黄茶とあり、こうした中国の茶の文化が奈良、平安時代に貴族の間にもたらされ、日本に禅宗の臨済宗をもたらした栄西が茶の木を初めて九州にもたらし、その後の室町幕府で日明貿易において、唐物などの中国の茶器や茶道具がもたらされ、日本では主に緑茶の抹茶と煎茶であったようですが、朝廷、貴族、武士、豪商の楽しみとなったようです。ザビエルが来日して、1550年に堺で日比屋了珪の邸宅を南蛮寺とした際にも、茶室を設けて、茶席でのキリスト教の布教に利用したとされ、その後の京都や安土、高槻などのあらゆる南蛮寺で茶室は設けられていて、茶会や茶席のやり方が、キリスト教のミサの形式に似ていたり、禅宗の精神性と近いなどもあり、茶の医薬品としての効能効果もあり、また茶や茶道具の貿易自体も目的であったと思われますが、堺の豪商を中心にその後の日本の茶の湯が広がっていくのには、こうしたキリスト教布教に付随した影響が強くあったためです。千利休の師匠とされる武野紹鴎は堺出身のもともと連歌師で、一向宗であったそうですが茶の師匠となって弟子にやはり堺の豪商である今井宗久や津田宗久がいて、弘治元年閏10月29日(1555年12月12日)に急死したとあり、ザビエルの離日後4年であり、西暦による没年のシンボリズムと考えられます。
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千利休はもともと田中与四郎といい、魚や(ととや)という魚問屋の子供であったようですが、田中も丸十字に似た形となり、与四郎の名前もヨシュアに近く、魚や(ととや)という屋号もキリスト教的なものとなり、師の武野紹鴎の白鷺のエピソードと近いものを感じさせます。父親も祖父も早く死に、その後に22歳で茶会を開き茶人となったとあり、利休の名は63歳の時に宮中の茶会に出席するために得た名という事で、恐らく信長が堺を直轄領とした1569年頃に千宗易という名前で信長の茶頭となったと思われます。千の字は数字ですが、明らかに十字に線を追加した形であり、カトリックの宗教画に多いINRI(IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM・ユダヤ人の王、ナザレのイエス)と書いた表札のかかるキリスト処刑の十字架の形をしていて、丸十字やシンプルな十字を強調するプロテスタントの十字との差異を強調する、キリスト教を意味する名前と考えられます。利休の名は「名利、既に休す」「利心、休せよ」という意味や、8世紀頃中国・唐で「茶経」を記した陸羽の名前と掛かっているなど言われますが、私は個人的に千利休の遺偈の「人生七十 力囲希咄  吾這寶剣 祖佛共殺  提ル我得具足の一ッ太刀 今此時ぞ天に抛 」という剣を強調したものから想像して、フリーメイスンリーのスコティッシュライト33階級で標語して取られている、イギリス王室のモットーでもある「God and My right, Deus Meumque Jus」「神と我が正義」をモットーとした第三回十字軍に参加したリチャード獅子心王のリチャードの愛称としてのリッキーに掛かっているのだと思いました。遺偈の力囲というのもリキイに掛かっていますし、恐らく本人もキリスト教布教のために十字軍的な役割をしていたことを自覚していたのだと考えられます。小田原征伐と奥州仕置において秀吉の直属の軍師としての役割を果たし、1591年3月3日(天正19年閏1月8日)の天正遣欧使節の9年にわたる旅からの帰国を聚楽第で迎えた直後に、天正19年2月28日(1591年4月21日)に大徳寺三門の自らの木像の下に秀吉をくぐらすという不敬を咎められて弟子に見守られて自死するわけですが、この門が金毛の獅子という禅語にかけて、金の字を瓦に使用しているのですが、まあこういう自らの似姿の木像を作ったりするやり方は、古くは唐招提寺の鑑真和尚があるわけですが、寺ではよくあるやり方で、そのルーツはやはりエジプト王国やローマ帝国の石造で王や皇帝の像を作るというものかと思われますが、キリスト教圏やフリーメイスンリーでも銅像や石像は本人の名誉の証として良くあるやり方であり、また金毛の獅子というのも、その後の伊達政宗の慶長遣欧使節団でも交渉の内容にありましたが、騎士団の創設や加入に関して日本の大名が望んでいた状況があり、最も格式ある騎士団としてヨーロッパには現存するものでガーター騎士団と金羊毛騎士団とあり、遺偈の騎士団の象徴としての刀と合わせて、慶長遣欧使節団の話としてそうした金羊毛騎士団の栄誉というに値するという内示のような話があり、それをさらにキリスト教に対して混乱した対応となっていた秀吉が聞くことで、戦国の習いで主君に対する不忠による自死という形の殉教となったのではないかと思われます。
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さてまあ千利休には利休七哲と呼ばれる高弟がいたわけですが、蒲生氏郷、筆頭、細川忠興(三斎)、古田重然(織部)、芝山宗綱(監物)、瀬田正忠(掃部)、高山長房(右近/南坊)、牧村利貞(兵部)とあり、その他にも織田長益(有楽斎)、千道安(利休の実子)、荒木村重(道薫)を加えて十哲とか、千道安を除いて前田利長が入る、有馬豊氏や金森長近を加えるなど弟子は多数いたわけで、この中でも蒲生氏郷、高山右近、牧村兵部、織田有楽斎はキリシタンであり、その他の人もほぼキリシタンに準じて考えられるというのが上述の茶道の成り立ち、千利休の実像から実際かと思われます。小田原征伐の実際を考えると、そもそも徳川家康の江戸入りという前提条件があった上で、それに基づいての開戦があり、旧暦の天正18年4月1日の山中城の攻城から始まり、6月24日近辺での八王子城の終戦と石垣山城のわずか3か月弱での築城完成をもって、7月7日の小田原城の開城となるわけですが、これらが全て旧暦で進行しているというのも伴天連追放令後の状況であり、実際にはイエズス会が主導していることが明確であるわけです。今日残る秀吉時代の建築として、ほぼ自然な状態で放置され、関東最初の石垣の城として、戦国のピラミッドの如き異様を誇る石垣山城なわけですが、この城に移る前に早雲寺を本拠として秀吉は湯本の温泉に浸かり鶴松を生んだ後の淀殿を呼ぶなどし、石垣山城入城後は山頂で作らせた大井戸からの水で千利休に茶をわかさせ、能楽師、猿楽師を呼んで演芸をさせ、天皇の勅使を出迎え、千利休は韮山の竹で花入れを作り、それを岩槻城攻めなどで武将として戦っている弟子の古田織部に送るなどしています。この古田織部という武将ですが、もともと織田信長の家臣であり古田重然と称し、茶人の家系でもあったそうですが、中川清秀を義父とし、中川清秀は高山右近と従兄弟という関係であり、山崎の戦いでは秀吉方となり、賤ケ岳の戦いで中川清秀が亡くなると中川家の後見人となり、秀吉配下の武将として転戦し、秀吉が関白就任した際に織部助に任官して、自らは織部正と称していたそうです。今日では「へうげもの」という漫画でも有名になっていますが、古田織部はその苗字も十字を含み、王冠か十字の宝珠のような形と丸十字の形のようですが、織部の名前自体はやはりオリーブを意識したもののようで、その名前の残る自ら製作を指揮したとされる織部焼の釉薬の色はオリーブの葉の色の緑色となっています。また古田織部の音自体でポルトガル語、イタリア語でのオリーブのフルートという意味となり、当時キリスト教のセミナリヨではオルガンと共にヨーロッパ式の横笛であるフラウト・トラヴェルソ、現在のベーム式フルートになる前の指で穴を押さえるフルートが教えられており、主に木製であるわけですが、その材質として現在でもオリーブ製のものは神聖な木から出来たものとして貴重であり、音楽的にはやや硬めで澄んだ音となるのだと思いますが、そういう神聖な楽器の名前そのものに掛かった名前であるようです。楽器の教育自体が進んだ文化文明の証として直感的に伝わるものとして積極的に行われており、当時すでに現在に繋がる音階や音楽理論が成立していたヨーロッパの楽器は圧倒的なものであり、宗教的な神的なものとしていずれの文明においてもあり、象徴的であったのだと思われます。まあその古田織部が韮山の竹から出来た「音曲」という名の花入れを千利休からもらうのも、どちらもどこまでそれらを理解しているかは不明ですが、少なくともセミナリヨでフラウト・トラヴェルソを習っていたキリスト教徒からすればまさにキリスト教に関わる隠された逸話であり、この尺八や、笛といった管楽器は織田信長をはじめとした三英傑が皆所持した逸話があり、一節切では「乃可勢」、龍笛では「青葉の笛」が有名で上述の北条幻庵の逸話もありましたが、小田原城攻めでも籠城戦の最中に相手を幻惑したり妨害する目的でこうした笛や太鼓の楽器は使用されたはずであり、そういう意味でも小田原征伐の過程でその後の古田織部が千利休後の茶の宗匠となる道筋が出来たように思われます。古田織部の弟子としては小堀遠州、上田宗箇、徳川秀忠、伊達政宗、佐竹義宣、金森可重、佐久間将監、本阿弥光悦らがおり、江戸時代初期の政治文化に関わる人の多くであり、徳川幕府による切支丹弾圧が本格化する時期でもあり、そもそも政治的には弾圧する側になっている人が多く、どこまでそれらをキリスト教の信仰という基準で考えるかは難しいところだと思います。古田織部で最も有名なのは隠れキリシタン灯篭とされる織部灯篭であり、今日でも茶室の露地に数多く見受けられる石灯篭の形態の一種ですが、この中心部が横にわずかに膨らんでいる形を考案したのが古田織部とされ、これも様々な形態があり、中心部に漢字の辰とも読める、90度反転して書いたIhsとも読める印を彫る形式があり、これは明らかにイエズス会のモットーであるIHS(Iesus Hominum Salvator)の意味であると私は思いますが、まあ典型的な隠れキリシタンのシンボリズムとして日本では有名なものなのだと思います。ちなみに古の形の十字の宝珠もキリスト自身が宝珠を持つ場合は、西洋美術の図像学では「世界の救世主」(Salvator Mundi)として知られているとの事で、まあ古田織部の名前自体がそういうキリスト教のシンボリズムそのものであるという事は間違いないのだと思います。フリーメイスンリーとしてはその後のブラザーモーツァルトの最後のオペラ「魔笛」とベーム式フルートの完成という事に繋がるものだと思います。古田織部も師の千利休と同様に恐らく日本で最もキリスト教徒が増えた時代である大阪夏の陣の終戦直後の慶長20年6月11日(1615年7月6日)に徳川家康から責められ自死し、殉教という形となるのだと思われます。旧暦で6と1のシンボリズムとなり、その後ほぼ1年後に徳川家康が元和2年4月17日(1616年6月1日)の西暦の1と6のシンボリズムで亡くなるのと対応しているようです。
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さて茶人のところであまりに長くなり過ぎたわけですが、まあここが日本のフリーメイスンリーのポイントと言えるのかと思います。結局ザビエルの布教以後の、3英傑の3段階の時代を通ることで、キリスト教自体がどのように日本に定着するか、その試みがあり、結局宣教師の活動そのものは表立ってなくなっていき、その代わりにシンボリズムを頂いた日本人が、そういうキリスト教的なものを中心とした外来の事物や思想、生き方そのものと日本的なそれを融合させて新しい時代を作っていくわけです。
小田原征伐はシンボリズムで表現すると前北条氏の家紋を引き継ぐ後北条氏の家紋三つ鱗と豊臣秀吉の旗印、瓢箪と太閤桐に隠れたオリーブの葉の戦いでもあったわけです。そもそも三つ鱗の北条氏の家紋は、家紋という概念がなかった時代に源平の時代の後に鎌倉幕府の執権職を得た北条氏が政権を確立した時代に成立した、江の島の竜神の逸話などを起源とする、実際にははっきりした起源不明の三角形が3つ繰り返す形であり、大三角形の中に小さい逆三角形がある形とも見えるもので、恐らく仏教の胎蔵曼荼羅図の中心に位置する遍知院の一切如来智印の三角形を元に考案された、やはりキリスト教の三位一体の三角形と同じく、オームの真言由来のフリーメイスンリーの3の象徴と同じ意味から出来ていると思われます。3つの島を表現したとかいうのもありますが、フリーメイスンリーではもちろんギザの三大ピラミッドの図象化でしょうが、もちろん伝聞でそういう光景が伝わっていた可能性は否定できませんが、純粋に図形的な造形だと思われます。当時の仏教の知恵を全て結集したシンボルとも考えられ、同時期に権力として対峙した天皇家が仏教の蓮紋から派生した菊紋を成立させており、三つ鱗のシンボル自体が鎌倉武士、鎌倉仏教のシンボルと言え、それは東国武士であり、一旦は鎌倉での政権が成立したものの、結局京都での室町幕府となり、足利氏という、東国に発祥する、紋は二つ引であるそうですが、アソカの仏教のシンボリズムを含んだ政権となり、京都でのその後の応仁の乱の大混乱となって、キリスト教伝来を待って、室町幕府の内部の伊勢氏による三つ鱗の後北条氏の再興後、小田原征伐からの徳川家康の江戸入城となるわけです。かなり純粋にフリーメイスンリー的なシンボルである三つ鱗と極めてキリスト教的でカトリック的な瓢箪やオリーブのシンボルの対峙でキリスト教的な方が勝利するというのは、関ヶ原の戦いでの徳川家康と石田三成との戦いでも同じなわけですが、まあ色々な歴史解釈になるのだろうと思いますが、フリーメイスンリーの妙としか言いようがないのではないでしょうか。足利将軍家の末期の13代足利義輝、15代足利義昭は義輝はキリスト教布教に寛容であり、義昭は織田信長との関係もあり、追放後も長寿で最後は秀吉のお伽衆をしていたという事で、激動の時代なわけですが、権力者の立ち居振る舞いも人それぞれであったわけです。また信長公記には信長が安土城天主閣を完成した天正7年に二条晴良、烏丸光康、三条西実枝、山科言継、策彦周良ら要人が相次いで病死したとわざわざ書かれており、いずれも当時50~70歳代の長寿で日本の政治や文化の中枢にいた人々であり、北条幻庵の死と同様に時代の転換点にそういう社会の主要な中心人物の死があるのも世の常なのだと思われます。
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小田原征伐のその後ですが、その後の奥州仕置もそうですが、九州征伐などと同じで、江戸時代の国替えなどと同じく、家臣団は浪人し、民衆は新しい領主とすぐに関係を構築するわけではないので、混乱が続いたと考えられます。風魔一族の江戸町内での狼藉の話などもありますが、武田の遺臣が多く徳川配下に召し抱えられたなどの事象もあり、様々な経過をたどったことは想像に難くないかと思います。現代に残る小田原征伐後の小田原地域での目に見える事象としては、石垣山城の石垣の採石に多くが始まる、その後の江戸城の天下普請に繋がる、石材業が早川から根府川、真鶴地域にかけてあり、当時は黒田如水の差配であったことは確実なわけですが、伴天連追放令後で表面上は棄教している状況であり、後に黒田藩領となって、最終的に幕府の直轄領となったわけですが、実際の採石現場では当時日本の最先端の技術である土木工事であったわけで、直接指導したのはイエズス会の宣教師であると思われ、確実に宣教師による布教があり、全て隠れキリシタン化したものと思われます。特に採石場としては石垣山城直下の早川からの採石が想定されていますが、船での運搬を考えると、根府川地域から真鶴三ツ石に至る採石と共に海水の浮力を利用できる場所からの採石が大量にあったと思われ、この地域は後の江戸城の天下普請でも海岸沿いに採石場が伊豆半島東岸全体で認められるようになるわけですが、そういう海沿いの山や海岸での採石のノウハウも観音寺城の築城から始まって、その後すぐ近くの安土城、そして石垣山城、大坂城、伏見城、姫路城と拡大し展開していく過程があったと思われ、特に石垣山城はその短期間さと、工事動員人数と、地域自体がもともと守備側の勢力範囲であったという事もあり、その特殊性が際立っていて、計画から実行までの全工程にわたってイエズス会士が全面的に指導したことが想像され、その後の天下普請においても、黒田如水が直接建築を差配したと想像される福岡城においてもそこまで切石積みでないのに関わらず、江戸城、名古屋城、大坂夏の陣後の大阪城は全て切石積みで、明確に数多くの刻印が認められることなどから、これは高山右近が建築したとされる高岡城や、金沢城に顕著なわけですが、高山右近近辺の宣教師に切石積みと刻印石の技術や知識を持った人がいた可能性が高いと考えられました。石垣山城で初めて可能になった大量の石の採石と運搬、輸送技術はすぐに同時期の建築の大坂城、伏見城、その他多くの秀吉時代の城、私の知る限りは浜松城や姫路城の部分などもそうですが、天下普請後の駿府城や大阪城の地下で発掘される秀吉時代の石垣は全て野面積みであり、その後の朝鮮征伐の拠点となった名護屋城、朝鮮半島の倭城なども石の量は極めて多量ですが全て野面積みであり、完全に石垣山城での築城のノウハウをそのままコピーしたものと考えられます。秀吉が亡くなり、関ヶ原の戦い後の徳川幕府開府後の天下普請では最初は琵琶湖沿岸の膳所城、彦根城などが、大坂城との距離が近いものから始められ、これらはやはり急造で天主閣などは移築で石垣は野面積みであるわけですが、その後の街道で重要な名古屋城、駿府城、江戸城は現在我々が城としてイメージする切石積みの城として典型であり、また数多くの刻印が認められるものであり、大坂夏の陣後の天下普請の大阪城がその最大のものであり、刻印の数が数限りなくあり、刻印自体の意味が大坂夏の陣によって高められる、鎮魂や宗教的な意味が確実に加わってきているのだと思われます。切石積み自体は早川採石場でその現場を確認することが現在もできますが、基本的に野面積みとは採石の時点から異なり、明らかに方形に近い形で採石する技術が必要で、運搬の過程でもその形を整えていく様子があり、採石の現場で刻印を刻むやり方もあり、明らかに切石積みの技術と刻印石のノウハウ、知識はリンクしており、それが始まったのが明確に徳川幕府の天下普請であり、それ以前では加賀の高山右近関連の金沢城くらいであり、加藤清正の建築とされる熊本城なども恐らく天下普請でその技術を吸収して、その技術が全国に広まったものと思われ、当時の徳川幕府には三浦按針、ウィリアム・アダムスや、ヤン・ヨーステンなどの英蘭の新教国の人物も相談役としていましたが、実際に切石積みと刻印石の技術を伝えたのはやはりイエズス会士かもしくはフランシスコ会修道士であったと思われます。天下普請の一つの駿府城の切石積みが相当立派で、刻印石も相当種類が多いことなどから、実際は三英傑のスタイルそのままに、家康も極めてイエズス会士と近い関係を最後まで持っていて、そこから情報を得たと考えるのが自然であり、その段階を追っての技術の進歩はそのままイエズス会の差配のままであったというのが真相かと思われます。
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石垣は言ってみれば唯一の日本の石造建築と言えるものですから、まさに日本の実務的メイスンリーの象徴であるわけですが、思索的メイスンリーではエジプトのギザの三大ピラミッドやエルサレムの嘆きの壁が象徴とされ、ヨーロッパではもちろんエディンバラ城やウィンザー城やザビエル城のような城もあるわけですが、平和の象徴としてはおもにゴシック建築の教会であったのに比べて、日本では江戸時代を平和に導いたのが象徴としての城の石垣の刻印石であったと思われ、キリスト教とは異なる思索的フリーメイスンリーの端緒となるには十分な建築の出来事であったのかと思われます。まあそうは言っても日本では隠れキリシタンという事で、小田原征伐後の影響と考えられる小田原周辺の隠れキリシタン関連のものについて紹介したいと思います。隠れキリシタンとは言っても、秀吉の時代には布教は日本二十六聖人の殉教を除いて、そもそも弾圧されたり、圧迫されることは全くなかったわけで、この後の奥州仕置においても津軽氏、伊達氏など東北の有力大名はキリシタンとなるかもしくは、それに準じる状況となっており、九戸政実の乱の鎮圧がありますが、その後の処分にしてもキリシタン大名である蒲生氏郷らが関わっていて、伴天連追放令後ではありますが、大坂冬の陣直前の高山右近のマニラ追放を伴う本格的なキリスト教弾圧までキリスト教徒は日本全国で増え続けていたものと思われます。
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525px-Kölner_Dom_bei_Nacht_mit_Fischmarkt800px-Cathedral_Notre-Dame_de_Reims,_France-PerCorr800px-Chartres_1.jpg800px-Westminster_Abbey_-_West_Door.jpg800px-YorkMinsterWest.jpg1280px-Canterbury_Cathedral_-_Portal_Nave_Cross-spire.jpeg1280px-Milan_Dome3.jpg1280px-Notre-Dame-night.jpgBourges_-_002_-_Low_Res.jpgCathedral_of_Amiens_front.jpgKathedrale_Siena_Fassade.jpg
石垣と茶道と隠れキリシタンとは日本のキリスト教やフリーメイスンリーを語る際には必須の内容と思われますが、まあいずれの専門家か、キリスト教、フリーメイスンリーに興味がなければいずれも全く関係性を認めないようなものではあるとは思いますが、まあフリーメイスンリーを標題としているブログなのでこのようになります。隠れキリシタンについては、その禁教の経緯の歴史についてやはりカトリックの高木一雄さんの本を読まれるのが良いかと思いますが、安土・桃山時代から江戸初期にかけての、イエズス会やフランシスコ会宣教師が布教して洗礼を受けた人々が、大阪の陣の直前に徳川家康が発布した直轄領と全国に対する禁教令後の、激しい弾圧の中での信仰を守った人々が生きた時代である、1620年の元和の大殉教や、1637年島原の乱の時代までの1650年くらいまでが、いわゆる実際に宣教師の洗礼や教えを受けた人々であり、それ以降の1700年代に入る頃には新井白石のシドッチ密航事件のキリシタン山屋敷などありますが、これも収容される人はいなくなり、実際上幕府の宗門改で長崎以外で日本人で問題になる人は無くなり、もちろん口伝で信仰は伝えられ、それは特に長崎など九州地方で明治維新後の潜伏キリシタンとしてカトリックの信仰に繋がるわけですが、教会や修道院という目立った形での信仰の集会所や、書物やはっきりとした十字架のような偶像はほぼなくなり、いわゆるカトリックではキリスト教とは認められないような、マリア観音や上述の織部灯篭のような、今日でも隠れキリシタン遺物として認められるような偶像が残り、そこに伴って伝承が残るという形であったようです。

隠れキリシタンとフリーメイスンリーの関連性としては、隠れキリシタンがキリスト教会から離れて、仏教や既存宗教と融合するような独自の信仰の形態を持っていることや、禁教下での内面の信仰の自由を追求したこと、前述のような石工の技術とキリスト教の伝来が一致していた関係上、実務的メイスンリーの信仰として考えられることなどが挙げられますが、実際上キリスト教の教義となるような聖書の内容からは明らかに離れており、現在ではカトリックが指摘するようなキリスト教に関連付けた信仰ではなく単なる茶席の灯篭としての織部灯篭が隠れキリシタン灯篭として売られているというのが、まあ中国の政府管理となっている中国のカトリック教会の事情とも絡んで実際の宗教的存在であり、まあ禁教令下でその信仰を守り続けた先祖がいて、その末裔が存在することは確かであっても、潜伏キリシタンのみ容認するというのがカトリックの対応なのだと思われます。つまり今日の状況で隠れキリシタンが存在するというのは、そういう九州などの状況以外では容認できず、それをキリスト教に関連する宗教とは認めがたいという事でしょう。まあそうはいっても日本全国に秀吉の日本統一に合わせて布教活動をした結果、日本国中にキリシタンが増えたのは間違いないわけで、それは徳川家康の弾圧後に激減するわけですが、明らかに西洋の進んだ技術革新や思想、科学技術などを伴っていた以上、宗教的に表立ってキリスト教について語ることは禁じられても、その明らかに進んだ技術や思想、発想などについて伝承し、広めていくことは確実なわけで、そういう影響を考慮すると、安土桃山時代から江戸初期にかけての、いわゆる絢爛豪華な安土桃山文化、慶長文化というもの自体がキリスト教の影響で出来ているといっても過言ではないわけであって、その後を継いだ江戸時代の戦国を経た平和な時代の文化そのものがキリスト教の影響によって出来たものであり、それを裏打ちするように存在したのが隠れキリシタンの存在と言えるわけで、隠れキリシタンの遺物自体は単なる江戸時代の禁制令のあだ花ではなく、江戸時代の文化、政治、社会制度、社会システムそのものを反映する大いなる裏打ちであったと考えられるかと思います。
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江戸時代の文化、政治において、明らかにキリスト教の影響を受けたものであると断言できるようなものは、上述の実務的メイスンリーの作り上げた天下普請の石垣といったところくらいで、その後の街道整備や、江戸の都市としての発展、町民文化や、江戸時代の人々の習慣や文化といったところで挙げていくとこれは推測の範疇であるという事になるかと思います。まあ天下普請においては街道整備なども含まれていたわけで、東海道などの現在に残る国道の周辺に土手を作り松を植えた事は、松のマシューに繋がるキリスト教のシンボリズムがあったとしてもおかしくないと考えられます。江戸時代に完成する籠や飛脚、渡し船のシステムなどもそうした影響が考えられます。籠などは聖櫃を運ぶ様子のようでもあります。建築や建設全般には城郭の建築を始めとして、信長、秀吉周辺の安土桃山建築様式から始まって、明らかにキリスト教の影響が多々あったと考えられますので、一般民衆の建築としても長屋や橋や物見やぐらや井戸からやはりこうした建築の技術の影響があったものと思われます。瓦を大量に焼くようになったのもこの頃であり、それは陶磁器などの技術とリンクするわけですが、上述の茶道の需要からの陶磁器の窯が各地にできた影響もあるのではないかと考えられます。江戸の水道である玉川上水や、神田上水も名前などがシンボリズムと考えられ、またそれに伴って湯屋が発展したというのもローマの歴史を彷彿として、キリスト教の影響が伺われます。江戸時代の整然とした街並みはカトリック国である南欧の街並みを思わせるものですし、江戸時代の埋め立てによる水路などはまさにベニスといったヨーロッパの港町の水路と同じようなものであり、造船技術もイエズス会は秀吉に教えることを拒否したようですが、家康はウィリアム・アダムスから教わっており、その後の北前船、東廻海運、菱垣廻船、樽廻船の造船技術や航路、商売の方法、積み荷の種類などもキリスト教徒の影響が多分に考えられます。江戸時代の町人文化としては歌舞伎や人形浄瑠璃、落語などの見世物の発展があるかと思いますが、歌舞伎はもちろんキリシタンであったとする出雲阿国が起源とされ、傾奇者と語源が同じであり、まさに安土桃山文化の継承であり、それが江戸時代に女人禁制に制限されたというのも、宗教的な要素があるせいとも考えられます。人形浄瑠璃で有名な近松門左衛門などはやはり没年で(承応2年〈1653年〉 - 享保9年11月22日〈1725年1月6日〉)シンボリズムを認めており、もともと京極氏が治めた福井の出身で隠れキリシタンの系統であるとの話があります。落語とキリスト教のつながりはなかなか難しいですが、まあ神父の説教を意識したものでしょうか。江戸時代に大量に刷られた版画や書籍の印刷技術は明らかにもともとがイエズス会のセミナリヨで行われていた技術が広まったものと思われ、江戸時代の絵画そのものにもセミナリヨで伝えられた西洋画の要素が色濃く反映されており、その後の識字率の向上や儒教教育の浸透などにも、そもそも徳川家康が儒教教育を武士の家系として受けたのがそれの最初であったのだと考えられますが、湯島聖堂などの建築があり、日本人の今日の宗教観や社会を作り上げる元になったのに、そもそもキリスト教のセミナリヨのシステムが強く影響しているものと思われます。その他にも江戸時代に日本で急速に発達した技術、上述した養蜂や菓子、もちろん食品では、カステラや天婦羅ではその名をそのままポルトガル語で残すなどのものもあるわけですが、金平糖などもあり、野菜や果物についてもカボチャやスイカやサツマイモ、ニンジン、ジャガイモ、トウモロコシ、唐辛子、そういった従来日本の伝統野菜と考えられるものも多くがキリスト教徒によって伝来したことが分かっており、現在の日本の食文化に至る江戸時代の農業活動自体に大きく影響を与えたと考えられます。小麦粉やそば粉の生産をはじめとする素麺や饂飩や蕎麦の発展にも影響があった可能性があります。その他江戸時代の文化としては、風鈴や金魚、朝顔の栽培など有名ですが、そもそも植物や動物の掛け合わせによる遺伝子組み換え作業のようなものは聖書にも羊の良種の得かたなどで説明される、キリスト教・ユダヤ教に一般的な方法であり、江戸時代のこうした桜の接ぎ木や掛け合わせ自体にも大きくキリスト教が影響しているかと思われます。楽器ではセミナリヨではオルガンとフルートを教えたことが分かっていますが、その他にも大正琴のような楽器もあり、ハープも極めて当時普通の楽器でしたから、そうしたそもそも中国にあった琴とよく似た楽器が人々を刺激して、その後の再度の琴の伝来のきっかけとなった可能性があります。フルートは一般庶民の笛として、竜笛でない、能管や篠笛の普及のきっかけとなった可能性があるようです。小倉百人一首のカルタも細川藤孝が古今伝授をしたなどありましたが、最初のカルタはやはりザビエル渡来後の九州で作られたようで、もともと貝合わせの形であったものだそうですが、カルタの原型となるカードは当時の西洋人の航海に必須であったと思われる恐らくフリーメイスンリーに繋がる象徴に満ちたタロットカードであると思われ、そういう意味ではイエズス会士がタロットカードを行う姿はシンボリズムやその後のフリーメイスンリーへの流れを考えれば全く当然なんですが、なかなか意外な印象でしょうか。小倉百人一首はカルタになって庶民に普及する江戸時代を代表する日本文化を象徴する出来事のようです。同様のものが花札であり、こちらは忠実にタロットカードの小アルカナやトランプの原型の姿の枚数構成をしており、象徴としての日本の花鳥風月を取り入れたものであり、もともとトランプの形であったものが、禁制によって現在の形に変化して禁制を逃れたとの説があり、当時からキリシタン由来のものであるとの認識があった可能性があります。その他都市の行楽としての伊勢参りや、大山参りなどはそのまま聖地巡礼の導入であり、隠れキリシタンにとっても同様のものがあって、そもそもそちらの方が伊勢参りや大山参りの原型ではないかと考えられます。
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まあ江戸時代のキリスト教の影響を考えたらきりがないわけですが、その中でも直接的に残る小田原・湯河原・真鶴地域での隠れキリシタン関連の事象についてここで特別に挙げていくこととします。それらが単にキリスト教徒の歴史を語るだけのものではなく、日本の真実の歴史を語るものであり、身近にある本当の日本史の証拠となるものであると考えていただければと思います。まずは高木一雄さんの本で挙げられていた、真鶴の石切り場である御茶ノ水ですが、今日では恐らく十字が刻まれていたであろう場所は、直上にグーグルアースで見ると三角形の形をしたマンションが建築されている影響で、コンクリートで覆われた形となっていて、まあ昭和のバブル時代のいわゆるロータリークラブなどでの混乱した状況が垣間見られる、そうした隠れキリシタン遺物となっている礼拝所と思われる石切り場があります。真鶴には番場浦といわれる三ツ石が目の前に見られる場所から西側に明らかに教会の小部屋のような形に切り取った、礼拝所としても使用していた可能性が高いと思われる石切り場の跡が2-3か所はあり、いずれも十字の跡が刻まれているようなものはありませんが、恐らく隠れキリシタン時代には線刻画や十字架がきれいに刻まれ、マリア像などが置かれていた可能性が高いのではないかと思われました。当初石垣山城を建設した際には、三ツ石の元となる笠島などは舟に直接載せる方法がとられたと想像されるので、恐らく野面積みの元になる石の有力な採石地であったと思われ、その後の江戸城建築の際の天下普請で、切石積みの石を採石する際に、この番場浦の礼拝所のような四角い形の採石が進められたわけですが、その際に最初の採石場所であった今日の三ツ石を、象徴的な三つの岩山に加工したのも石工の信仰のなせる必然であったのだと思われます。この地域のものは江戸に近い場所であることもあり、明らかにキリスト教が一斉に隆盛した後で、徹底的に跡を消すべく破壊を行ったであろう形跡が残っていることが特徴でもあり、それが小田原征伐での3か月弱でのもともと北条氏支配地での採石の経過と、その後の徳川家康治下での天下普請の時代のキリスト教全盛時代と、恐らく江戸城がほぼ出来上がってからは真鶴伊豆方面の採石所のキリシタン熱があまりに過剰なために、礼拝所となっていた採石所を破壊した歴史の影響ではないかと思われました。この近くに昭和時代に水族館を営業していた跡地があり、その場所に内袋観音と呼ばれる石造彫刻があり、由来によれば明治から戦後までかけて掘られて完成したというものですが、恐らくキリスト教全盛時代にはこうした形のマリア像があって、完全に破壊されてしまったのを観音像で再現したものかと思われました。
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(追記:真鶴の御茶ノ水の岩場のすぐ横の大浜海岸というところにYMCAのキャンプ地がかつてあり、この場所に巨大な十字架の彫刻があるそうです。
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歴史的なものではなく、書いてある通りYMCAがキャンプ地に彫った十字架であるようです。まあ禁教令下の目立つものは全て消されたというのが日本の歴史という事です。)
真鶴には岩という地名のこちらが採石地として現在も本場の場所があり、その海岸のいわば石の積み出し港であった場所には大日如来を祀る洞窟があり、まあまさにキリスト教でいうところのリンボの窟(辺獄)といった場所であり、その周辺には天使とよく似た烏天狗の像や三猿や卍の刻まれた権現社があり、真鶴駅の北側にある西念寺には黒田長政の供養碑と共に織部灯篭がおかれており、そういうキリスト教全盛時代とその後の禁教令時代の隠れキリシタン化した経過が如実に感じ取れる遺物かと思われます。
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湯河原も周辺の岩場は採石地であったと思われ、吉浜の海岸の丸石は後水尾天皇時代に仙洞御所建設に石を10万個以上わざわざ運んだといういわれもあるそうですが、この丸石も恐らく石垣用の石の採石の過程で生じた人工的な割れ石が川や波打ち際で長年かけて丸くなったものと思われ、そもそもそうした石工の労苦の結果生じたものに象徴的な意味を付加して御所の石としたのではないかと思われました。湯河原には奈良時代に渡来人系の人々によって開拓された歴史があるそうで、その時に出来たのが五所神社という神社であり、鎌倉時代には源頼朝を護衛してその後壇ノ浦の戦いなどで大将を務めている土肥氏の拠点となり、その後キリシタン全盛時代の頃に新しく、五所神社と東西で対称となる場所に五郎神社という神社が鍛冶屋という地域に出来ていて、それらが城山といわれるシンボル的な山頂と海岸近くの八幡神社と結んだ線とちょうど十字を刻むように配置されており、イエズス会の布教か、その後の隠れキリシタンが刻んだ地理のシンボルと思われます。もちろん両神社共通の五の音がGODに通じることと、五芒星や奇数であることの意味があるかと思われます。真鶴の貴船神社で毎年7月27日28日の定例日に催される貴船祭りもその中心となる石工の踊りとされる鹿島踊りでは、イエズス会が伝承したと思われる太陽と月のシンボルを中心として、3-3-10という人数の構成であり、3が強調されており、日付もイエズス会の出身者が多かったスペインの守護聖人の大ヤコブの日の7月25日に近く、727の対称形をしているという、極めてイエズス会の影響が強い隠れキリシタンの伝来の祭りと思われました。
仙洞御所の一升石湯河原十字

この他にも湯河原周辺では千歳川沿いに温泉場に行く途中にある椿寺は日蓮宗の非常に新しい寺であるようですが、隠れキリシタン遺物と思われる母子観音像を置いてあったりして、その先に富士山が見える十国峠までつながる巡礼道と思しきハイキングコースもあり、江戸時代頃より、温泉場とその周辺の隠れキリシタンの巡礼道としての歴史があるように思われます。
小田原周辺の隠れキリシタン遺物としては検索すると出てくるのが、北条幻庵の地である久野の、豊臣秀次が陣としたという総世寺にあるという住職のブログなどがあったり、その南にあたる、北条氏の小田原城内にあたる部分であったところに、コスモスと号した寛政年間の住職の墓碑があるそうです。総世寺の近くには小田原フラワーガーデンがあり、非常に美しいバラ園が無料で楽しめます。早雲寺にも隠れキリシタンの墓と思しき卍が刻まれた墓があるとのことで、まあ小田原征伐時にもキリシタンの死者がいた可能性は否定できませんが、なかなか隠れキリシタンとなると本格的な禁制後ではないかと思われます。小田原には他に鴨宮と呼ばれる、酒匂川をはさんで、大磯寄りの曽我の手前の場所に、巡礼街道と呼ばれる、国道一号線と、JRと平行して走る一直線の江戸時代からあると思われる通りがあり、戦後の復興で最初に整備された道路であるそうですが、恐らく名前やその途中にある、順礼中里、美濃里橋などの名称と、江戸時代の道としては極めて珍しい平坦で一直線で、右前方にきれいに富士山が見える配置などから、もともとは小田原城攻めで籠城戦中の小田原城と対峙していた徳川軍の後方を支援するための戦略道路であって、小田原征伐後は勝福寺の巡礼道となったと思われます。しかしこの勝福寺がもともと南蛮寺であったのではないかと思われる節があり、本尊の十一面観音像もそうですが、本堂は1706年再建だそうで、だるま市が毎年定例日のクリスマスのちょうど1週間前の12月17・18日と決まっていて、真鶴の貴船祭りと似ていますが、その近くの飯泉イイイズミという地名も、イエズスや、イエヤスと似た響きがあり、まあキリスト教特有の戦後処理での全面的な歴史の書き換えがあるのではないかと想像されます。この周辺には恐らく後北条氏が整備した戦略道路と思われる田んぼの中を一直線に突っ切る鎌倉時代の鎌倉街道を思わせる幅狭の一本道が残っており、これに対応した徳川軍が整備した戦略道路の名残りではないかと思われ、現在のその通りで面白いのは、非常に多くのファミリーレストランのハンバーグやステーキハウス、焼き肉屋が偏って存在していて、その中でカレーライスの食べ放題が多くの店であるという事でしょうか。まあこれは本当に想像なんですが、現地のロータリークラブかライオンズクラブで、その地で高山右近が蒲生氏郷や細川忠興らと戦陣で牛肉を食べたという逸話に習って、行っているのではないかと思われ、カレーライスは右近にちなんだターメリックのウコンにかけているものだという想像があったりします。まあ近松門左衛門で有名になった曽我兄弟の討ち入りの曽我兄弟の出身地もすぐ近くという事で、小田原征伐のキリスト教関連の話は尽きないようです。小田原近辺の大きな寺としては大雄山最乗寺という曹洞宗の寺があり、天狗寺として有名ですが、高木一雄さんの本でもイエズス会士のフランシスコ・パシオ神父とハビアン不干斎が慶長十二年閏四月(1607年6月)にこの寺に寄り、開山了庵の弟子である怪力の道了が天狗となって寺の守護神になったという伝説について問答したと書かれており、恐らく天狗と天使の類似に基づくものなのだと思われます。初期の日本のキリスト教布教では悪魔のことを天狗と訳していたそうでもあります。
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さてまあそろそろ本編というところで、小田原征伐を終えて秀吉は宇都宮で奥州仕置を行い、秀吉に恭順した東北の戦国大名は皆そろってキリスト教に興味を示したことは想像に難くないわけで、その後の九戸政実の乱での豊臣秀次を大将とした奥州再仕置では最後の九戸城攻めでは小田原征伐と異なり蒲生氏郷と浅野長政の策略で開城後に全員撫で切りにしたとあり、戦後に蒲生氏郷が福岡城と名付けたとありますが、なかなか戦国のならいであったようで、まさに十字軍という所業と言えるかもしれません。(追記:九戸という名前もフリーメイスンリーのシンボリズムとなるようです。小田原征伐でのミツウロコの家紋と同じく、そういうフリーメイスンリー対イエズス会のシンボリズムが一つのテーマかもしれません。逆に言うと共通のものという事が出来るのかもしれません。)福岡城の名前にあるように、今日福の名前のつく県なども福音の福の字と関連があると考えられるようです。蒲生氏郷の改修によって東北最初の野面積みの石垣が出来たと考えられます。
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秀吉はこの時期に聚楽第の建築と大坂城の建築を始めており、後には伏見城の建築が始まるわけですが、それらの建築はほとんどが残されていないわけですが、石垣ではなく、それらの建築の建物部分を推測する今日に残された桃山建築を見ていくこととします。
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これは横浜三渓園にある秀吉時代の建築の旧天瑞寺寿塔覆堂1591年(天正19年)建築です。秀吉が母の大政所の病気平癒を祈願して大徳寺子院の総見院西に1588年に創建した寺だそうです。小田原征伐、奥州仕置の翌年の建築という事で、まあいわゆる桃山建築で想像されるような着色や金箔の使用は無く、蓮華など仏教装飾にこだわった、彫刻はきらびやかですが、色彩は地味なものとなっています。後に納骨もされたとあって、まあ目的もそうだし、大政所の趣味もあったのだと思われます。聚楽第と共通するのはどちらも頭文字でジュとつくところでしょうか。もちろんキリスト教ではジューとなるわけですが、当時の布教していたイエズス会は英語ではジェズイットであり、まあそういうのを意識したところもあるのかなと思います。聚楽第に関しては完全に秀吉の造語だとのことです。建築で特徴的なのは正方形に近い形と完全な対称形でしょうか。
それで聚楽第の移築とされる大徳寺唐門があり、近年修復され当時の着色された状況が再現されて公開されています。
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この二つの建築に共通するのは明らかに建築の対称性だと思われます。装飾の彫刻については対になって形の対称性は必ずしも守られないわけですが、それでも明らかな見るものに対称性を意識させる建築としてはキリスト教的な、秀吉の建築独特のものがあると感じられます。秀吉に関してはいわゆる北野大茶湯も1587年11月1日の諸聖人の日に開いたとあり、最後の醍醐の花見は招待客は秀頼・前田利家以外全員女性で、2回着替えさせて湯屋まで茶屋に付けたとあり、どれだけの漁色であったかが伺われますが、それ以外はほぼキリスト教徒であったようです。
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まあ秀吉の個人的な宗教観は、その他の対外文書などにもかなり様々な内容が書かれているそうで、単純に一面的に語ることはできないわけですが、伏見に居城を定め、聚楽第に後継としての秀次を配置して、居城近くの伏見稲荷を整備したのは、最終的に京都の本能寺で宗教問題で裏切られて討ち死にした主であった織田信長を意識したからと言っても過言ではないかもしれません。稲荷が狐を主神として、信長が蛇を神としていたのも、恐らくイエズス会による様々な差配があったものと思われますが、聖書で狐はネヘミヤ記/ 03章 35節 アンモン人のトビヤはそばから言った。「できたとしても、そんな石垣など、狐が登るだけで崩れてしまうだろう。」  雅歌/ 02章 15節 狐たちをつかまえてください/ぶどう畑を荒らす小狐を。わたしたちのぶどう畑は花盛りですから。  哀歌/ 05章 18節 シオンの山は荒れ果て、狐がそこを行く。  マタイによる福音書/ 08章 20節 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」  ルカによる福音書/ 09章 58節 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」  ルカによる福音書/ 13章 32節 イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。  と6回出てくるわけですが、まあヨーロッパでの一般的な昔話のように、狡猾の象徴として、狼ほど狂暴ではない動物として、描かれることが多いわけですが、興味深いのはネヘミヤ記のエルサレムの石垣を再建する際の、石垣を堅固に建築しなければいけないとして、狐が昇るだけで崩れてしまうという意味は、そのままの意味と共に、間諜の意味もあるんだと思いますが、単なる建築の意味だけでなく、エルサレムの都市としてそういう防衛の機能を高めないといけないという意味もあると思われますが、まあ日本で本格的に石垣建築を始めた秀吉が具体的に距離的に接近した宗教が伏見稲荷であって、その主神が狐であったというのも、イエズス会の日本の宗教調査の結果であるのだろうと言わざるを得ないかと思われます。またマタイ福音書とルカ福音書の狐の穴の表現は、稲荷社自体がそういう穴に作られたという説があるというところなどもあり、秀吉の容姿も禿ネズミと呼ばれるものであったところなども、こうした稲荷信仰との接近が関係しているのかもしれません。雅歌ではキリスト教の信仰の象徴であるブドウを荒らす狐として表現されており、哀歌では信仰が荒れ果ててしまった聖地を獣が闊歩するという表現で使われていて、いわゆる狡猾な嘘つきという意味だと思われます。ルカ福音書の13章32節のものは、エルサレムのパリサイ人の事を表現していて、いわゆる狡猾なずる賢い嘘つきという意味だと思われます。稲荷信仰とINRIの関係など言われたりしますが、まあ京都周辺を開発した秦氏など渡来人系の信仰といっても、キリスト教にとってまさに異教として代表的なものという事なのだと思われます。
kitsune.jpgcaption_20190224175114844.jpg8M9A8110.jpg京都・伏見稲荷大社・楼門【重要文化財】
秀吉は天正遣欧使節団を迎えて、その後に千利休を死に追いやり、そして同時に朝鮮征伐を具体的に計画していくわけですが、時間的経過から言って、明らかにバチカンからの勅使として天正遣欧使節団とその随行の宣教師達を迎えて、新たに十字軍としての大陸の朝鮮、明、印度制圧を企図していたようで、もちろん印度などに送った文書では、キリスト教に布教されるよりも神道や仏教の方が正しいなどと述べていたそうですが、まあ様々に混乱していて、明確な意図はつかめないというのが真実だと思われますが、時間経過的にはそういう教皇からの直使によって、軍師として朝鮮征伐に明らかに反対するであろう千利休を処分して、自らのさらなる栄光のために大陸を目指したという、まあほぼ十字軍としての目的しかなかったのではないかと思われます。キリスト教的には恐らくそういうザビエルが為しえなかった中国布教の足掛かりとして、朝鮮半島の調査も兼ねていて、また日本国内では秀吉後の徳川政権への権力移譲もすでに十分考慮した上での、結果的にも徳川以外の西国大名の力を削ぐ意味を為した戦いであったのではないでしょうか。当時の後陽成天皇も朝鮮征伐には反対したとあり、結果的に秀吉の死によって即刻中止になった事を考えても、秀吉自身が自身の内面の信仰上の動機のみで開始して継続したのが朝鮮征伐であり、その信仰の対象であったのはイエズス会のキリスト教であり、イエズス会の目的としてはもちろん中国大陸での布教であり、石垣山城の建築などもその事前準備も兼ねていたという事になるのだと思われます。
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秀吉の子供としては伝承としては石松丸秀勝という子供が長浜城時代にいたことになっていますが、まあ伝承の範疇とのことです。鶴松は小田原征伐の前年に浅井三姉妹の長女である側室の茶々が淀城で産んだ子という事で、そのことにより茶々は淀殿と呼ばれるようになったとのことです。もちろん淀という音はYod、Yodh、 י、いわゆるスコティッシュライト14階位として知られる Lodge of Perfection十全会の最高位としてのPerfect Elu, Grand elect, Perfect, and Sublime Mason完全なる被選抜者または完全にして崇高な石工の象徴としてのいわゆるYWHWיהוה‎の頭文字であり、ローマ字で行くとそのままYの意味なんだと思いますが、そういう千利休とか淀殿とか主要な登場人物にすぐスコティッシュライトなんてのが関係して出てくるというのが、豊臣秀吉というところで、しかも本人も三十三間堂に激しく興味を持っていて、その周辺に豊国神社と豊国廟を残すように遺志を残したといういわれがあるそうで、まあ激しくフリーメイスンリーに興味を持たれていたのかもしれません。鶴松という名前もTrue Mathewに繋がる音であることから、キリスト教的な意味が含まれているのかもしれませんが、その前の石松丸などの名前など見ても、松とMathewのシンボル繋がりはありそうで、その後の街道脇の松の整備に繋がったことはありそうです。鶴松が秀吉の実子であったかどうかは定かではありませんが、淀殿が秀吉の主家筋の血筋を引いた側室であり、その他に多数いた側室から一切姦通の子であっても子供の出産の話がありませんので、まあそもそも大野治長の子供であった可能性は高いのでしょうが、それを押し通すだけの性格と環境が淀殿にはあった可能性があるようです。大野治長の名前自体も真言のオオの音と、ナーガのシンボリズムが含まれており、まさに近江の琵琶湖近辺の仏教・キリスト教が混淆した環境のまさに発露のようでしょうか。大野治長は関ヶ原の戦いでは東軍として働きましたが、大坂の陣では秀頼の実父としての責任を取ってか、交渉役からそのまま大坂城側の実質的な指導者となり、最後は淀殿、秀頼母子と共に自害しています。実際に秀頼との血のつながりを秀吉がどのように考えていたかは不明ですが、明らかに実子として育てており、そのために一旦は後継に指名した秀次を自死に追い込んだ経緯もあり、内心は実子でないことを理解していたとすれば、それはまさにキリスト教でいうところの大工である義父ヨゼフの心境であり、まあイエズス会によってグランド・マスター、石工の長として秀吉が見られていたという事なのかもしれません。まあそういうキリスト教的なシンボリズムが理解されると、朝鮮の役から関ヶ原の戦い、大坂の陣という流れが理解され、大坂の陣での秀頼母子の存在の象徴性と、それに伴っての人々の殉教的な死とそれを見守る宣教師と、それによる徳川幕府による平和な時代の建立と新しい大坂城の象徴的な意味が出てくるわけだと思います。良き相談役であった豊臣秀長はナーガのシンボリズムを認めますが、ちょうどこちらは天正遣欧使節団が秀吉を訪れる1か月前に亡くなっており、こちらも千利休と同じく相談役で恐らく朝鮮の役のブレーキとなる人物であったと考えられます。
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まあほとんどすべての忠告できるような人は全員反対した唐入り、朝鮮征伐であったわけですが、天正19年8月23日(1591年10月10日)に秀吉の本格的な唐入りの意思が諸大名に発表され、具体的に計画して、名護屋城を建築し、対馬の宗義調、宗義智やキリシタン大名の小西行長を使節として、一応交渉して恭順させる体裁を取ったわけですが、もちろん交渉にそもそもならず、そして母親である大政所が最終的には大反対で、1年延期されたそうですが、名護屋城は天正19年8月から建築開始を命令して、諸大名が到着したのが10月で、文禄元年3月に完成したそうで、まあ8か月かけて石垣山城の技術がここで再び実戦向けに活用されたわけです。この名護屋城という名前も、三英傑出身地の名古屋と音が同じであるわけですが、やはりフリーメイスンリー的には名はGodでありYWHWであるという音の意味になるというところなんだと思われます。宗教的なキリスト教とユダヤ教の融和というのが一つの宗教改革のテーマでもあったわけですが、対抗宗教改革の雄であるイエズス会のテーマも同じく合わせ鏡のようにそれであったわけであり、神の名としてのGodとYWHWというのは最も重要なテーマであり、それはまた生産性が高く、農民階級の文化の成熟が認められた濃尾平野の名古屋周辺での三英傑の出立というのもまたフリーメイスンリー的に必然であったのかと思われます。
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文禄元年(=天正20年)4月12日(1592年5月23日)午前8時、日本軍の一番隊の宗義智と小西行長は700艘の大小軍船で対馬・大浦を出発し、午後2時過ぎに釜山に上陸したそうです。先陣がキリシタン大名であった小西行長で、次陣が戦国唯一の旧暦6月24日生まれ、その後旧暦の6月24日に亡くなる加藤清正、清正公であるわけですが、漢城、現ソウルの先陣争いなども有名ですが、加藤清正は秀吉の親戚で、そういう旧暦の洗礼者ヨハネの日の生まれという事もあり、生涯法華経の信仰を貫き通したわけですが、秀吉の出自と朝鮮征伐との絡みも想像され、キリスト教の信仰と、十字軍というのが朝鮮征伐の最大のテーマであった事がこの布陣から導き出されるわけです。小西行長も親の代からのクリスチャンで、洗礼名はアウグスティヌスで、後の関ヶ原の戦いの西軍の将として斬首されるのですが、子孫が島原の乱の天草四郎説もあるという、高山右近の次にキリスト教布教に貢献したキリシタン大名という事で、朝鮮征伐の際にも詳細な報告をする役目をしており、従軍宣教師グレゴリオ・デ・セスペデスと共に、布教こそしなかったようですが、朝鮮半島全体の状況の報告をイエズス会に詳細に行っていて、後の布教の材料となったようです。
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いわゆる朝鮮征伐、文禄・慶長の役での日本軍の動員数は小田原征伐や奥州仕置と同程度で、関東や東北の軍、具体的には徳川家康の配下の軍は九州にとどまっていましたので、朝鮮半島に渡海した軍は15万~20万程度で、当時の日本の人口が2000万人程で、朝鮮半島が500万人程、中国大陸、明が1億2000万人程との事で、日本が戦国時代で100年近くの戦乱の歴史を経ていますので、その間にザビエルのキリスト教布教と火縄銃の伝来、そして上述の石垣城の建築技術と、度重なる戦いでの集団戦の戦術のノウハウがありますので、まあ朝鮮半島や中国大陸にはそれよりも大規模な周辺異民族との間や内戦の戦いの経験の蓄積と、大陸なので技術の恒常的な伝達があったわけではあるのですが、キリスト教伝来とそれに付随する火縄銃の技術や石垣城の技術の差が決定的であり、それに実戦の戦士の戦闘経験が相まっていて、基本的には戦闘自体では日本軍が数万人~5万人程度の主に補給が断たれることによる餓死や不意打ちによる死が多かったようですが、そういう戦役全体での死者数に対して、朝鮮半島全体での死者数は民間人、兵士全体で推計もない程であるようですが、およそ5倍から10倍ほどの死者であったようで、10万~50万程度の死者と見積もられるようで、特に襲来をほとんど予想していなかった当初の1週間から1か月程度は大虐殺の状況であったようで、数万人の死者が一方的に生じた侵略戦争であったようです。
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文禄元年(=天正20年)5月1日~7日(1592年6月10日~6月16日)にかけて一番隊の小西行長隊を始めとして諸将が李氏朝鮮の首府であった漢城、現ソウルに入城し、李氏朝鮮の国王であった宣祖はすでに逃亡し明との国境近くまで移動していました。秀吉の朝鮮渡海などを待つなどの対応があり、しばらく漢城で留まって、その後小西行長隊は平壌に進みさらに明との国境付近まで進み、加藤清正隊は東北方面に進み、いわゆる虎退治などをしながら、その後の清王朝の元となる愛新覚羅族がいるオランカイまで侵攻しています。文禄元年(=天正20年)7月16日(1592年8月23日)に明軍が参戦し、平壌の小西行長軍を攻撃しますが、迎撃し、その後も明側に損害が多く、小西行長軍は平壌を守りますが、秀吉の朝鮮渡海は困難として、明との間に休戦交渉を行っています。この明の参戦直後の天正20年7月22日(1592年8月29日)に秀吉の母親の大政所が聚楽第で亡くなり、秀吉は名護屋城から京都に向けて出発していて、その途上で卒倒し、また「川角太閤記」によればその途中の瀬戸内海の航海で岩場に座礁し、秀吉一人が岩礁で助けを待つという状況もあったという事で、戦況の変化とともに秀吉の心境にも最大の影響を与える母親の死があり、そもそも秀吉の成功の過程におけるキリスト教ネットワークと共に、朝鮮半島系の渡来人のネットワークが想像されるのですが、朝鮮征伐でのこの明軍の参戦と大政所の死と秀吉の座礁のタイミングはまた日本における中国大陸由来の渡来人のネットワークが想像され、その後の沈惟敬との講和交渉と慶長伏見地震との関連などもありますが、秀吉の朝鮮征伐の東アジア全体を巻き込んだ影響と反応の大きさがうかがわれます。
文禄2年(1593年)1月6日(1593年2月7日)より平壌を取り囲んで明の大軍の攻撃が再開され、ポルトガルからもたらされた大砲なども使用され、小西行長軍は撤退し、その後漢城と平壌の間で野戦が行われ、明軍が敗退し、状況は膠着状況となり、文禄の役は休戦状態となります。日本軍は朝鮮南部に拠点となる倭城の建築を開始し、以後の慶長の役では主にこの石垣城を防衛拠点とする日本軍の防衛戦となります。この間秀吉と明との間の講和交渉となるわけですが、文禄2年8月3日(1593年8月29日)に大坂城二の丸で淀殿が秀頼(拾)を産み、関白である秀次が情緒不安定となり、文禄4年7月15日(1595年8月20日)に謀反の疑いで秀次が切腹となりその家臣や係累も皆斬首となりました。この秀頼誕生まで秀吉の後継と考えられていた、秀次とその兄弟たちの、豊臣秀吉の姉である瑞龍院日秀と三好一路の息子たちは、次男の秀勝が、これはキリスト教の洗礼を受けていたそうですが、文禄の役の最中に文禄元年9月9日(1592年10月14日)に巨済島で病気で急死し、三男の秀保は文禄の役の休戦中の文禄4年4月16日(1595年5月25日)に所領であった奈良、十津川で急死したとあり、秀吉の弟の秀長の終焉の地の大和郡山の近辺であったようですが、皆この頃に亡くなっており、秀吉の実子ではない可能性が高い秀頼の後継としての確実性の為の工作が疑われるようです。
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日本と明の講和交渉の真っただ中の文禄5年閏7月9日(1596年9月1日)、慶長伊予地震が発生し、記録に残る日本初の中央構造線断層帯の地震であり、津波もあったとのことです。3日後の文禄5年閏7月12日(1596年9月4日)に慶長豊後地震が発生。地震と津波によって瓜生島と久光島の2つの島が沈んだとされますが、こちらがザビエルが1551年11月15日に離日した際の別府湾の島であったとの事で、ザビエルはその後中国布教のために一旦マラッカ、ゴアに戻ったのちに、1552年8月に現在の広東省の上川島(St. John's Island)に入り中国布教のために準備しますが、1552年12月3日熱病で亡くなりました。その後ザビエルの遺志は巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノからマカオで活動していたイエズス会士マテオ・リッチに引き継がれ、ちょうど朝鮮征伐の頃に中国布教に成功し、後の1601年から明の万暦帝の宮廷に入り、ユークリッド幾何学の漢文訳である『幾何原本』を発行したりして、中国明でキリスト教を布教しています。慶長豊後地震の翌日の文禄5年閏7月13日(1596年9月5日)(追記:完全な59695の対称形のシンボリズムになっているようです。)、慶長伏見地震(慶長伏見大地震)が発生し、ちょうど完成に向けて建築中であった伏見城の天守や石垣、方広寺の大仏が完全に倒壊し、死者多数で、いわゆる地震加藤の伝承がありますが、秀吉はちょうど明の使節が来る予定の6日前であったそうですが、何とか使節と面会したとのことです。またその慶長伏見地震の1か月後の文禄5年8月28日(1596年10月19日)にいわゆるサン=フェリペ号事件が発生し、主にフランシスコ会の宣教師と、アウグスティノ会とドミニコ会の宣教師が捕えられ積み荷を没収され、通訳を介したキリスト教宣教の目的が占領にあるという内容が秀吉を激怒させたとのことです。サン=フェリペ号の乗組員は追放されますが、文禄5年12月8日(1597年1月25日)に天正に続く禁教令が再び出され、京都や大坂にいたフランシスコ会のペトロ・バウチスタなど宣教師3人と修道士3人、および日本人信徒20人が捕らえられ、彼らは長崎に送られて慶長元年12月19日(1597年2月5日)処刑され、いわゆる日本二十六聖人の殉教となり歴史上最初の日本のキリスト教徒の殉教となりました。
またこの時代のローマ教皇はグレゴリオ暦で名前を残すグレゴリウス13世第226代ローマ教皇(在位:1572年 - 1585年)以降、シクストゥス5世第227代ローマ教皇(在位:1585年 - 1590年)、ウルバヌス7世第228代ローマ教皇(在位:1590年9月15日 - 9月27日)マラリアのため病没、グレゴリウス14世第229代ローマ教皇(在位:1590年 - 1591年)胆石が原因で死去、インノケンティウス9世 第230代ローマ教皇(在位:1591年10月29日 - 12月30日)病死、クレメンス8世第231代ローマ教皇(在位,1592年-1605年)と短期間で教皇が入れ替わる時期が続き、カトリック内部でも相当の方針を巡っての対立があった事が想像されます。またイエズス会総長は第三代がフランシスコ・ボルハ(1510年10月28日 - 1572年9月30日)で1565年にイエズス会総長となり、創設者であるイグナチオ・デ・ロヨラに並び称される貢献をしたとされ、地震の守護聖人とされています。出身家のボルジア家は教皇を輩出した名門で、ヨーロッパの各王家とも血縁があり、映画の「ゴッドファーザー」などでもバチカンの陰謀の代名詞として挙げられたりしているそうです。イエズス会総長には黒い教皇との呼び名もあり、スコティッシュライトのブラザーアルバート・パイクの黒い教皇との呼ばれ方と共通のものがあるようです。
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(マテオ・リッチの肖像ですが、四枚目のものは弟子の徐光啓とのものですが、徐光啓の後ろにフリーメイスンリーのシンボルマークの形に似た形があり興味深いでしょうか。マテオ・リッチは中国布教の過程で儒教を始めとした中国の歴史や伝統を尊重した適応方針である順応政策を行い、それは後にカトリック教会の内部での批判にあい、清の乾隆帝の治世で禁教となり中国でのキリスト教布教はいったん中断となっています。同時期に今日の中国の代表的なフリーメイスンリー的組織である洪門会が「反清復明」をモットーとして成立したとされるのが興味深いようです。英語版のウィキペディアではマテオ・リッチが元朝以来当地に存在した開封のユダヤ人コミュニティーの長老と面会し、ユダヤ人になるよう勧められたとのエピソードが描かれています。儒教は音的にはJewと同じようです。)(最後の二枚はイエズス会総長フランシスコ・ボルハの肖像です。最後のものはゴヤの絵です)
まあそんなこんなで和平交渉は打ち切られて、秀吉の慶長2年2月22日(1597年4月8日)の大号令で慶長の役が再開となるわけですが、大義無き侵略戦争であることは明らかで、戦地の荒廃も明らかで、現地民からの補給が受けられないことも明らかで、野戦であれば徹底したゲリラ戦の状況となるわけで、当初は朝鮮半島南部で同様の侵略を続けますが、最終的には石垣城を作っての形だけの侵略を続ける拠点防衛戦となります。秀吉はその後も大増援を送る計画を持っていたそうですが、慶長3年3月15日(1598年4月20日)醍醐の花見を行い、慶長3年5月15日(1598年6月18日)五大老、五奉行を指名した遺言書を作成し、豊国廟での埋葬を指示しています。その後信濃善光寺の本尊の移動などあったそうですが、慶長3年8月18日(1598年9月18日)に伏見城で亡くなります。もちろんこの秀吉の没年月日も和暦で818の回文数、西暦で989の回文数であると思われますが、まあその他の人の単純な6と1のものではないところが、この人の複雑な一生を物語っているというか、和暦で8の回文数になっているのは、まあ基本的には復活の8の数字という事で、キリスト教信仰と、本人がこだわった33の回文数にかけた、後白河法天皇の生没年月日の1127年10月18日(大治2年9月11日) - 1192年4月26日(建久3年3月13日)の3月13日から三十三間堂が残されたという話にまつわる、オームの真言の3から、復活の8にしたところで、88の回文数となるのでしょうが、まああえて八十八というと、これは日本では多分お茶やお米の漢字ではないですが、茶摘みとか稲作という話になるのだと思いますが、まあ茶道の成立や稲荷信仰に関わったというのが、こじつけで言えばそうなるのだと思います。989の回文数の意味はイエズス会的なものでしょうね。最後まで朝鮮征伐でもイエズス会の意向に従って動いていたという事が明確なのだと思います。まあここでも相当長きにわたって書いてきましたが、日本のキリスト教布教、イエズス会の活動自体に相当大きな影響を与え、与えられたのが三英傑二番目の太閤秀吉であり、その後も日本の中で太閤に例えられるような人物はあるわけですが、まあ本家が一番影響力が大きいという事だと思われます。
朝鮮征伐は秀吉の死ですぐに中止へ向かって動き出し、慶長3年10月15日(1598年11月13日)帰国命令が出され、小西行長を殿軍として、慶長3年11月25日(1598年12月23日)に撤退完了したとのことです。最後まで明・朝鮮軍は数では圧倒しながら、戦力的には日本軍が上回っていたとの事です。後の関ヶ原の戦いではこの朝鮮征伐での加藤清正を中心とする武断派と小西行長・石田三成を中心とする文治派の対立により生じたと解説されることがありましたが、現在ではあまり明確な説明ではないかと思われます。この朝鮮征伐による直接的な影響はやはり数万人の朝鮮人が捕虜として日本に送られ、朝鮮の文化を日本に直接伝えたという事があり、その最大のものは優れた朝鮮陶磁器の作成法であり、肥前伊万里焼、加賀九谷焼、そして織部焼とも表現される美濃焼とあり、それぞれがまた地域から隠れキリシタン文化とも密接に関連しているのが、朝鮮征伐の影響の特徴かと思われます。太平洋戦争開戦および終戦時の外務大臣の東郷茂徳の出身が薩摩の朝鮮人陶工集落であることが有名かと思います。また当時は朝鮮人の捕虜が奴隷としてヨーロッパまで売られている事例があったとの事で、日本人捕虜の南蛮貿易での奴隷売買の事例もありますが、戦国の習いとして普通に行われていたことの証左であるかと思われます。またジュリアおたあで知られる徳川家康の側室となったキリシタンなどもおり、徳川幕府以降での幕藩体制の中での儒教教育の浸透による庶民の識字率の向上などにも、こうした朝鮮人捕虜の影響や朝鮮征伐の影響が考えられ、儒教教育が盛んであった朝鮮半島の金属製活版印刷技術の伝来なども、その後の江戸時代の出版印刷技術の普及や、キリスト教のセミナリヨ教育の影響も相まって、今日の日本の倫理観や道徳観の基礎となる儒教教育の庶民への普及がなされたのかと思われます。それまでの日本の庶民では浄土宗や鎌倉仏教後での念仏仏教や一向宗が主であって、いわゆる倫理教育や道徳教育という、文字や文章による教育はもともと武家や公家の教育で主流であった儒教教育が江戸時代になって初めてセミナリヨ教育が寺子屋教育へと変化して可能になったのであり、儒教教育の浸透に朝鮮征伐の影響は大きかったと思われます。もちろん大陸への影響では、明の没落による清への王朝交代があり、マテオ・リッチによるイエズス会によるキリスト教の布教が可能となっており、イエズス会による中国政治への影響がなかったとは言えないと思われます。加藤清正が女真族のヌルハチと会戦し、その後後金を建国し、息子のホンタイジの時代に元の玉璽を手に入れ、中国大陸の異民族の王朝として清の国号を定めて、女真を満州と改め、その後のフリンの即位後明が滅亡し、中国大陸は清の時代となります。この明から清への国号の推移も、それ以前の元という異民族王朝の国号も、いずれもシンボリズムを認め、元はGenと音でGの音となり、これは同時期の源平の戦いの源氏などにも共通ですが、元にはネストリウス派キリスト教徒が随行したなどの説もあり、また明はマニ教の影響を受けた白蓮教徒の朱元璋が建国しており、太陽と月のシンボリズムはその後のイエズス会の布教と相まって隠れキリシタン化した日本でも普及した対称性を示すシンボリズムであり、今日の日本の伝統的な石灯籠のデザインとして良く取り入れられている灯篭の火袋の窓のシンボリズムです。明から清へ元号が変わったわけですが、その清も青と点が三つと、フリーメイスンリーのシンボリズムにつながるものと考えられ、その後イギリスではいわゆるピューリタンを表現するのに清教徒という訳が当てられたりしましたが、異民族の王朝という事で、イエズス会の布教があった時期であり、シンボリズムがあるのかと思われます。中国はその後キリスト教の禁教を経て、洪秀全による太平天国の乱後にブラザー孫文の中華民国が成立し、その後に日中戦争を経て、毛沢東による中華人民共和国の成立となって現在に至るわけですが、この間フリーメイスンリー的組織として洪門会が存在し、また毛沢東の発音のマオ・ツォートンなどもイエズス会の最初の布教者であるマテオ・リッチとMとTの音で一致しているなどもあり、また清朝の満州族への改名もMの音で共通するなど、Mのシンボリズムも考えられるかと思いました。またマテオ・リッチによる中国大陸への布教に伴って、伏羲と女媧の洪水型兄妹始祖神話と聖書の創世記の物語の類似などもあって、それらのシンボルである直角定規とコンパスが後のフリーメイスンリーのシンボルへと石工の道具との共通性から取り入れられていったと考えられるかと思います。元のGや創世記のGenesis、幾何学のGeometryの関連も全てシンボリズムへと還元されるようです。朝鮮征伐の結果可能となった中国大陸へのイエズス会の布教がユーラシア大陸の東と西の宗教や文化の共通項の探索となり、それが直接的に近代フリーメイスンリー結成の知識の裏付けの原動力となった可能性が高いようです。
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三十三間堂や京都国立博物館が京都観光の中心であることは、その周辺に豊国神社や豊国廟、耳塚などがあり、特に明治になって復興されたことが、そういうキリスト教的なフリーメイスンリー的な評価と一致するところだと思われます。
この時代の日付のシンボリズムとしては、上述の日本二十六聖人の殉教の原因となったとされる、サン=フェリペ号事件が文禄5年8月28日(1596年10月19日)で、61019の回転対称形を為しているのが、まあ特記される事象だと思われます。その後の殉教者の聖人認定にも関わる転換点なんだと思われます。イエズス会が一旦は異端認定されるような遠因ともなるのだと思われます。またイエズス会士としてはやはりアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1539年2月15日 - 1606年1月20日)で没年月日が明確に16061とその時代の共通する1と6のシンボリズムを認めており、三英傑の織田信長、豊臣秀吉の時代の全てのストーリーに関わったのがこの人であろうと推測されます。また中国布教したマテオ・リッチ(1552年10月6日 - 1610年5月11日)の没年月日がシンボリズムとなっており、まあ他にも多数のイエズス会士がいたわけですが、シンボリズム的にはザビエルと共にこれらの人々が評価されるのだと推測されます。またこれらの人々の中心で動いていたと想像される、天正遣欧少年使節の主席正使である伊東マンショが(永禄12年(1569年)ごろ - 慶長17年10月21日(1612年11月13日))で没年月日にシンボリズムを認めるのが、やはりそういうものであるかと思われます。
この時代のキリシタンでない人で没年月日でシンボリズムを認める人で、秋月種実という大名がおり、天文17年(1548年)? - 慶長元年9月26日(1596年11月16日)と61116という、また特徴的な1と6のシンボリズムなわけですが、大友宗麟の傘下であって、その後反抗し、さらに秀吉の九州征伐にも島津勢として抵抗し、最終的には大友宗麟がムジカの地として制圧しようとしていた現在の宮崎県で小藩を存続したとの事で、名前も月や種が代々入るという、なかなかシンボリズムでもやや珍しいものであり、キリシタンであったかどうかは不明ですが、その関わりから強烈にキリスト教の影響を受けていると考えられ、九州での実際のキリスト教の影響という際に、非常に興味深いシンボリズムであるかと思われます。
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まあ秀吉の死によって情勢は一気に秀吉後の政治に移っていくわけで、石田三成襲撃事件や、細川ガラシャの死、上杉景勝征伐から関ヶ原の戦いへといわゆる司馬遼太郎の小説や大河ドラマで非常に有名となったストーリーへ移っていくわけですが、まあ最終的には裏切りによる決着というところで、戦術や戦略、まあなかなか戦争の評価というところなのだと思いますが、三英傑の歴史としては具体的にどのように徳川家康に政権移譲していって、江戸を政治の中心地とするかという作業なんだと思われますが、まあその筋立てを全て考えたのは、シンボリズム的には現地のイエズス会の総責任者となるアレッサンドロ・ヴァリニャーノであり、その筋書き通りに進行していったのかと思われます。秀吉の死から約8か月後の慶長4年3月3日(1599年3月29日)に前田利家が亡くなり、同日深夜慶長4年3月4日(1599年3月30日)に石田三成襲撃事件が起こり、石田三成が佐和山城に隠居となります。この際に東軍の武将としていわゆる秀吉配下の七将が確定したとのことです。細川ガラシャの洗礼にも、朝鮮征伐で従軍宣教師として小西行長に随行したグレゴリオ・デ・セスペデスが関わったとあり、関ヶ原の戦いに至るまでの細かい情勢についても、本能寺の変以上にイエズス会の宣教師が関わっていることが推測されます。関ヶ原の戦いで興味深いのは、慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に戦いが起こるその約半年前の慶長5年3月16日(1600年4月29日)、いわゆるウィリアム・アダムス、三浦按針とヤン・ヨースデンを乗せたリーフデ号は豊後臼杵の黒島に漂着したとされることで、まあ実際は予定通りに寄港したという事のようですが、大友宗麟のキリスト教国である豊後の中心地であり、その後の江戸幕府開府から家康のフランシスコ会との関りと禁教から長崎でのオランダの貿易の独占、そして世界の大英帝国の繁栄と、近代フリーメイスンリーの成立と、オランダ出島でのブラザーイサーク・ティチングの来日など、カトリックからプロテスタント、フリーメイスンリーへバトンを受け継いでいく、まさにそういう作業が1600年という時代にあるというのが、西暦のシンボリズムであると思われます。
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関ヶ原の戦いではキリシタン大名は東西どちらの軍にもいるわけですが、豊臣秀吉配下の武断派であった七将は東軍にいて、キリシタン大名で大藩の有力大名であったものは東軍にいる印象で、キリシタン大名で浪人に近いが有名であったり、小藩の大名であるものが西軍にいる形でしょうか。具体的には黒田長政 永禄11年12月3日(1568年12月21日)-元和9年8月4日(1623年8月29日)で、黒田孝高 天文15年11月29日(1546年12月22日)(グレゴリオ暦1547年1月1日)-慶長9年3月20日(1604年4月19日)の長男であり、いわゆる黒田官兵衛父子なわけですが、面白いのは、息子は明らかにフリーメイスンリーの守護聖人の聖トマスの日生まれであり、父親も1日ずれで、ユリウス暦の時代なわけですが、没年では黒田孝高の44と黒田長政では623829という3と8を同じとすると対称がやや出てくるかという、ちょっと複雑な感じがあります。また浅野幸長 天正4年(1576年)-慶長18年8月25日(1613年10月9日)や京極高次 永禄6年(1563年)-慶長14年5月3日(1609年6月4日)、京極高知 元亀3年(1572年)-元和8年8月12日(1622年9月17日)、田中吉政 天文17年(1548年)-慶長14年2月18日(1609年3月23日)、織田長益 天文16年(1547年)-元和7年12月13日(1622年1月24日)、筒井定次 永禄5年5月5日(1562年6月6日)-慶長20年3月5日(1615年4月2日)、寺沢広高 永禄6年(1563年)-寛永10年4月11日(1633年5月18日)が具体的に挙げられる東軍のキリシタン大名で棄教後の人もいるわけですが、一見して、あまりシンボリズムは没年でも少なく、浅野幸長の131や京極高次の96、京極高知の162291とちょっとこれはまた微妙なものであったり、田中吉政の609、323、織田長益の22、筒井定次の66、寺沢広高の33など、まああるといえばあるしというあまりはっきりしない、まあそもそも洗礼を受けているので、はっきりあると言えるのでしょうが、数字的にはそれほど特徴的でないシンボリズムとなるようです。実際にはその生前の様々な生き方を評価されての数字なのではないかと思われます。東軍のキリシタン大名以外では、もちろん前述の池田輝政 永禄7年12月29日(1565年1月31日)-慶長18年1月25日(1613年3月16日)が際立っているわけで、生年月日で15651、131、没年月日で613316とどちらも桁数の多い回文数が含まれていて、白鷺城として今日も世界遺産となる姫路城を現在の形に作ったことと、その子供たちが、備前岡山藩主、播磨赤穂藩主、播磨姫路藩主、弟が因幡鳥取藩主となって存続したことがあり、キリシタンでなくとも正妻も中川清秀の娘であり、ほぼキリシタン大名として大きな影響を残したことにあるようです。一方やはり前述の武断派の中心人物の加藤清正は永禄5年6月24日(1562年7月25日)-慶長16年6月24日(1611年8月2日)で、法華経に帰依して、和暦で生没年月日がどちらも6月24日であり、西暦では272、161、11とあるわけですが、まあ和暦のシンボリズムがあまりに強いので、西暦のそれはあまり意味がないのかとされるのかと思います。一方で武断派のもう一人の代表格である、キリスト教にも寛容でもあったとする福島正則 永禄4年(1561年)-寛永元年7月13日(1624年8月26日)で、624826とまあ対称形に近い形という、微妙な数字であり、改易されて大名としては断絶しており、まあシンボリズムはないという事なのでしょうか。細川ガラシャの夫である、細川幽斎の長男の細川忠興 永禄6年11月13日(1563年11月28日)-正保2年12月2日(1646年1月18日)と和暦でも西暦でも11や111や22が認められ没年月日では16461もあり、まあキリシタンではなくとも茶道家で利休七哲の一人であり、千利休の最後を見送った弟子であり、三斎流茶道の創始者であり、ガラシャの死によって、石田三成は人質を取りづらくなり、東軍の結束を高めたという経緯もあり、そういう評価なのだと思われます。生駒一正 弘治元年(1555年)-慶長15年3月18日(1610年5月11日)、藤堂高虎 弘治2年1月6日(1556年2月16日)-寛永7年10月5日(1630年11月9日)、加藤嘉明 永禄6年(1563年)-寛永8年9月12日(1631年10月7日)、山内一豊 天文14年(1545年)-慶長10年9月20日(1605年11月1日)、有馬豊氏 永禄12年5月3日(1569年5月18日)-寛永19年閏9月29日(1642年11月21日)といずれも没年月日で11のシンボリズムを認め、生駒一正は161とマテオ・リッチと同じ没年月日、山内一豊は111で諸聖人の日、有馬豊氏は生年月日で156951と中心が回転対称の対称と複雑ですが、没年月日では2112で回文数と色々プラスアルファがありますが、共通するのはいずれも築城して城が残っており、生駒一正は高松城、藤堂高虎は宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城・二条城を築城し、加藤嘉明は伊予松山城、山内一豊は高知城、有馬豊氏は久留米城を築城し、石垣や天守など多くが残存しているという共通点があります。
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東軍は後は徳川四天王がいますが、井伊直政 永禄4年2月19日(1561年3月4日)-慶長7年2月1日(1602年3月24日)、本多忠勝 天文17年2月8日(1548年3月17日)-慶長15年10月18日(1610年12月3日)、榊原康政 天文17年(1548年)-慶長11年5月14日(1606年6月19日)といった感じです。井伊直正の没年月日の232、本田忠勝の没年月日のザビエルの没日と一緒、101、榊原康政の606、66、619の回転対称でしょうか。それぞれ家紋がまあ隠れキリシタンなんだろうなという感じでしょうかねえ。江戸時代の幕開け=隠れキリシタンの時代というのが正しい歴史認識なんだと思われます。
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それで西軍の武将ですが、キリシタンとしては大友義統 永禄元年(1558年)-慶長15年7月19日(1610年9月2日)、小西行長 永禄元年(1558年)-慶長5年10月1日(1600年11月6日)、織田秀信 天正8年(1580年)-慶長10年5月27日(1605年7月13日)、大谷吉継 永禄8年(1565年)-慶長5年9月15日(1600年10月21日)、毛利秀包 永禄10年1月18日(1567年2月26日)-慶長6年3月22日(1601年4月24日)といて、まあ単純に比較して、数でも質でも東軍の方が圧倒的にキリシタン大名は多かったようですが、何となくその後の大坂の陣のキリシタン浪人の活躍の印象などもあり、また石田三成と共に西軍の中心人物とされ、戦死したり斬首される大谷吉継や小西行長といった実際に戦った大名にキリシタンという印象が強いせいか、まあかなり均等にいて、実際にはその後の禁教令の影響などもあり西軍に多めにいるくらいの印象ですが、単純比較してまあ圧倒的に東軍に多いようです。またキリシタン大名としてや、大名として有名な大友宗麟や、織田信長、毛利元就の子供や孫がおり、キリシタンとしての系譜は非常に興味深いですが、実際の戦闘や政治能力としてはほとんどないと言えるのかもしれません。西軍の没年月日のシンボリズムとしては、圧倒的に石田三成、小西行長、安国寺恵瓊が斬首された慶長5年10月1日(1600年11月6日)の西暦の11と6の組み合わせであり、大友宗麟の死(天正15年5月6日(1587年6月11日))、秋月種実の死(慶長元年9月26日(1596年11月16日))、石田三成・小西行長の死(慶長5年10月1日(1600年11月6日))、イエズス会巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの死(1606年1月20日)、細川幽斎・吉田兼見の死(慶長15年8月20日(1610年10月6日))、古田織部の死(慶長20年6月11日(1615年7月6日))、徳川家康の死(元和2年4月17日(1616年6月1日))とこの時代にキリスト教や日本の政治の中枢にまつわる人々の死で、ほとんどが西暦ですが、一人古田織部のみ和暦で、6と1と一部0にまつわる特徴的な数字が出てきており、1600年という西暦が重要であったとは思われますが、そういう1と6にまつわるシンボリズムの主に西暦での残された印があり、それが一つのイエズス会が残した日本での活動の証であったのかと思われます。

関ヶ原の戦いの時代のイギリスはちょうどエリザベス王朝末期で、その後にスコットランド王であったジェームズ1世にイギリスが統一される時代であり、ジェームズ1世の時代の1611年にいわゆるフリーメイスンリーで標準とされる欽定訳聖書の成立があります。エリザベス朝時代からジェームズ1世の時代にかけていわゆるイギリス文学の成立といわれるクリストファー・マーロウやシェイクスピアの活躍があるわけです。フランシス・ベーコンの「知は力なり」などのイギリス経験主義、その後の百科全書派への流れへと繋がります。イギリスはその後清教徒革命を経て1666年の驚異の年から英蘭戦争、ロンドン大火となり、ブラザーニュートンのプリンキピアの発行に至り、その後名誉革命を経て、近代フリーメイスンリーの結成に繋がるわけです。まあ当時イギリスはユリウス暦であるという落ちもありますが。
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それでまあ関ヶ原の戦いの核心にやっとたどり着くわけですが、裏切った武将ですね。吉川広家 永禄4年11月1日(1561年12月7日)-寛永2年9月21日(1625年10月22日)、小早川秀秋 天正10年(1582年)-慶長7年10月18日(1602年12月1日)、脇坂安治 天文23年(1554年)-寛永3年8月6日(1626年9月26日)、朽木元綱  天文18年(1549年)-寛永9年8月29日(1632年10月12日)とあるわけです。吉川、小早川、毛利と西軍は総大将が一応毛利輝元であって、その配下の武将が裏切り前提で西軍にいたというのがまあ関ヶ原の戦いであったわけですが、毛利、島津共に西軍に参加していながらも毛利はその後改易を受けて島津は徳川軍と交渉の末所領安堵され、いずれも江戸時代は有力外様大名として存続し、明治維新でいわゆる薩長同盟で明治政府の中核となり、今日に至るという歴史があります。どちらもザビエルの最初の濃厚な布教の地であり、列島の中で突端で海峡など地理的に重要な地であり、共にフリーメイスンリーのシンボルとなる家紋を頂くという共通点があります。また戦国時代に森や毛利の名前の武将が増えるわけですが、どちらもシンボリズムでは「死を想起せよ」のラテン語Memento moriの死にあたる音がモリでありそれと音が一緒で、恐らく三、六角、石、古田、千、蜂や羽、柴、織田のようにシンボリズムと思われます。
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吉川広家は和暦の諸聖人の日生まれで、毛利元就の孫、吉川元春の子供ですが、秀吉の人質として秀吉の近くにいたものの、石田三成などに冷遇され、裏切りの原因となったとする説があるそうですが、そもそも毛利自体が半分裏切るつもりで最初からいたという組織的なものとしか考えられないかと思われます。吉川広家の所領は改易後で現在の岩国であり、明治維新まで続き、現在の米軍基地である岩国基地があり、錦帯橋があり、フリーメイスンリーロッジの錦帯ロッジがある土地となっています。関ヶ原の戦いの意味を考えると、基本的には豊臣から徳川への順当な政権の移行とそれに伴う豊臣旧臣の処分、具体的には石田三成の処遇であり、それに伴った大谷吉継や小西行長の死はやはり有力キリシタン大名の淘汰といったところがあるのではないかと思われます。徳川家康の時代になった場合に、恐らく最終的には秀吉と同じくキリシタン改宗は無く、禁教となるであろうし、日本の歴史、文化としてそれは妥当であり、その際に有力キリシタン大名が禁教令に抵抗して内戦となった場合には、再び戦国時代の再来もあり得るとすれば、豊臣から徳川へのほぼ順当な政権移行の際に、核となりうるような有力なキリシタン大名は淘汰して、キリシタンやキリスト教に非常に理解のある大名であっても、秀吉のように調整能力があって、日本の文化や歴史と適応を行ってその後の領地の運営をしうる人物を東軍として配置することで、その後の江戸時代のいわゆる隠れキリシタンの時代にキリスト教と日本の文化の融合が図れると考えたのではないでしょうか。この場合には石田三成という存在はまさにシンボリズムの塊であり、イエズス会に極めて近かった秀吉がそのシンボリズムゆえに重用し、日本二十六聖人の殉教の際にも執行者となったわけですが、大谷吉継や小西行長とは茶の繋がりもあり、来るべき徳川の江戸時代に向けた生贄としての礎石としてのシンボリズムの意味があるのかと思われます。裏切りで最も有名な小早川秀秋ですが、もともと秀吉の正室である北政所の兄の子供であり、木下家の五男という事で、長男はキリシタンでもある木下長嘯子であり、兄弟争いなどもあったようですが、次男と三男が小藩の大名として家が存続し、四男は西軍に与して改易され、七男が大坂の陣で豊臣家と共に散ったとの事で、小早川秀秋はその木下家の中では秀吉の養子となり、豊臣秀次に次ぐ、豊臣政権の後継者の地位にあったそうですが、秀次事件の際に小早川家に養子に出されて家督を継いで大藩の大名となっていたとのことです。養子や人質を経験した武将が裏切りの中核であったというのは、徳川家康が全国制覇を為す関ヶ原の戦いにおいて象徴的であり、そもそも徳川家康が松平元康であった時代に、人質として今川義元の下にあって、今川義元の上京の際に先鋒として尾張を攻撃した際に、実質的な裏切り行為をして、大将の今川義元がその後の徳川家康の切れない縁の盟友となる織田信長に桶狭間で討ち取られ、独立とともに徳川家康と改名して今川氏の旧領を得て大名となって出立したという当初の経験があり、吉川広家や小早川秀秋が関ヶ原の戦いの前哨戦でもある伏見城の戦いや安濃津城の戦いで西軍として奮戦しているのも、本戦の関ヶ原の戦いで適時に裏切りを行う最大の効果を上げるためであり、裏切り者の心理を最もつかむことができるのは裏切って成功した事があるものだけであり、まさに関ヶ原の戦いは徳川家康が天下を獲る為の戦いとしての演出は十全であったわけです。小早川秀秋は関ヶ原の戦い後裏切りを評価され加増となり55万石の大大名となりますが、その間重臣家老の出奔などもあるそうですが、上方から帰りの途中の鷹狩の最中に体調を崩して3日後に亡くなったそうです。酒色におぼれていたとか、世間の評判は悪かったとかあるそうですが、21歳の死という事で、慶長7年10月18日(1602年12月1日)で2121のシンボリズムという事で、その後の徳川家康と同じく毒殺なんだと思われます。ほぼ同時(慶長7年10月15日(1602年11月28日))に木下家の兄で四男の木下俊定も同地にいて病死しているそうです。もちろん小早川家という事で毛利の影響は強くあったものと思われます。
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脇坂安治は没年月日で寛永3年8月6日(1626年9月26日)と626と626926とまた中心に回転対称の69を持つ対称なのだと思われますが、まあまた変な形なんですが、変な実験的なシンボリズムが戦国時代のイエズス会は多いんでしょうね。賤ヶ岳の七本槍の1人で関ヶ原の戦いではもともと徳川家康と内通していて、小早川秀秋の裏切りへの備えとして周辺に配置されていたというのですから、滅茶苦茶でしょうか。脇坂家はその後大洲藩、信濃飯田藩を経て、龍野藩で明治維新となったそうです。賤ヶ岳の七本槍は他にも片桐且元 弘治2年(1556年)-元和元年5月28日(1615年6月24日)、平野長泰 永禄2年(1559年)-寛永5年5月7日(1628年6月8日)と微妙にシンボリズムがあり、片桐且元は関ヶ原の戦いでは西軍に付きますが、戦後徳川と豊臣の調整役として活躍し、その後には家康の対豊臣に対する交渉役として働き、大阪の陣では徳川方として働き、大坂夏の陣後20日で60歳で亡くなったそうです。西暦の6月24日は本能寺の変がかなり近い6月21日でしたが、しっかりあるのはこの人の没月日のみと思われ、この人の存在が大坂の陣全般に関係し、その後の江戸時代の成立の基礎となった事を意味するかと思われます。平野長泰の868は微妙ですが、関ヶ原の戦いでは東軍に属し、その後の大坂の陣では豊臣方に付こうとしたが果たせず、江戸留守居とされ、その後明治まで大名として家は続いたそうです。7本槍というのは秀吉が考えたキャッチフレーズのようで、明確なものはないようですが、朝鮮征伐でも日本槍柱七本というのがあったそうで、恐らく北斗七星の7にもかけた、奇数の7のキリスト教では創世記の曜日の数字ですが、そういう皇室に配慮した数字のキャッチフレーズであったのかと思われます。朽木元綱は没年月日で寛永9年8月29日(1632年10月12日)とあり、21012という明確な回文数を認めるのですが、実際は関ヶ原の戦いに参加していないという説もあり、戦後に減封されたとの事もあり、関ヶ原の戦いでの動きは全く不明瞭ですが、本人は83歳まで長生きしたそうです。子孫も琵琶湖沿岸の朽木の地と共に福知山藩としても明治維新まで存続したそうです。シンボリズムを見る限り、かなり裏切りで決定的な役割を演じていそうです。長男が京極マリアの子供と結婚しているそうです。
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まあ関ヶ原の戦いの武将の生没年月日であまりに細かくシンボリズム、西暦の年月日の聖人暦や回文数や回転対称数を見過ぎている感がありますが、それだけ没年月日の記録が残る時代となり、それ自体にキリスト教の影響があり、またその没年月日が当時の和暦を使用した時代で、完全にキリスト教徒のみに隠されたシンボリズムとなった事もあり、イエズス会の評価とも受け取れる数字の暗号のようなものが感じられ、興味深いという事かと思われます。まあこの日本の歴史に刻まれたキリシタンの暗号ともいうべきシンボリズムですが、こういうキリシタンの実験ともいえる日本でのシンボリズムの積み重ねが翻ってヨーロッパ大陸での近代フリーメイスンリーの成立を促し、近代の科学文明の成り立ちの一部となった可能性を考えるとなかなか感慨深いものがあり、日本人がその後の明治維新という本格的なフリーメイスンリーとの対峙の時に向けて、隠れキリシタンの時代を通して、日本人がどのようになっていくかを改めてシンボリズムの点から考察していくのは興味深いと思われます。

あまりに長くなったので、明治維新までとしていた表題を変更して、関ヶ原の戦いまでとして、ブログの章を改めて関ヶ原の戦い以後から現代までとして書き連ねることとします。
2019-03-12 20:22 | カテゴリ:明治・大正・昭和・平成
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さて8年目の3月11日を経過して、日本の歴史に刻まれた主にキリスト教、仏教、フリーメイスンリーのシンボリズムを探す道程ですが、関ヶ原の戦いの中身についてもう少し付け加えようかと思います。
まず前哨戦としてある伏見城の戦いですが、後に裏切る小早川秀秋や吉川広家を攻城側に含んで、東軍は鳥居元忠が籠城して玉砕するも、10日程引き付けることで、西軍を不利にしたという説もあるそうですが、まあ鳥居という名前も神道のシンボリズムであり、鳥自体もフリーメイスンリーのシンボリズムですが、なかなかシンボリズム的な解釈は難しいですが、少なくとも宇喜多秀家や小西行長や大谷吉継と後に裏切る武将が共に攻城戦を戦う事で、裏切り自体の信憑性、西軍の武将同士の不信感は払拭されたのではないかと思われます。これは吉川広家を攻城側に含んだ後の安濃津城の戦いも同様にいえるかと思います。
伏見城の戦いと同時期に行われた田辺城の戦いでは、東軍の籠城側に細川幽斎がおり、古今伝授の名目でもって勅命で講和となり、西軍の1万5千名の大軍が関ヶ原の戦いの本戦に間に合わず釘付けになったそうで、これは実質的な朝廷の東軍への肩入れそのものであり、本能寺の変では明智光秀に肩入れしていた様子があったものの(追記:細川幽斎は本能寺の変の際も明智に加担するそぶりを見せつつ、最終的に出陣せず剃髪して家督を譲っており、この時と同じ対応といえるかもしれません。)、その後に羽柴秀吉が中国大返しで天下を獲り、シンボリズム的にはっきりした明智光秀が敗退したわけですが、関ヶ原の戦いの場合にはシンボリズム的にはっきりした石田三成の西軍側ではなく、当初より朝廷は徳川家康側を支援していたことが分かり、豊臣秀吉と徳川家康に対する朝廷の評価と、その後の江戸幕府の開府の流れと、当初よりの徳川家康への改名の時点からの朝廷の関与が分かるものかと思います。また朝廷が密接にイエズス会と関係を持っていたことから、明智光秀や石田三成のシンボリズムの意味を理解していて、さらにそこに重ねて聖書のシンボリズムである羽や柴といったそういうものが後からイエズス会によって徐々に秘密の伝授として朝廷側に教えられていった可能性が感じ取れるかと思います。当時の朝廷とキリスト教会の情勢分析に関する競い合いといったものが伺える事象でしょうか。
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次がキリシタン大名である織田秀信が西軍として池田輝政の東軍と戦った岐阜城周辺の戦いですが、池田輝政が岐阜城城主であった事があり、地形を熟知していたことで1日で攻略され、戦況に影響を与えたとの事です。織田秀信は織田信長の嫡孫で、洗礼を受けたキリシタン大名であり、当時の岐阜には教会と司祭館・養生所が建設されていたとあり、その後池田輝政が大幅加増されて、慶長18年1月25日(1613年3月16日)という613316という桁数の多い回文数のシンボリズムで亡くなっていることを考えると、岐阜城の戦いがキリシタンや戦況に与えた影響は大きかったものと思われます。岐阜城の戦いの功績が直接的に没年月日のシンボリズムに繋がっているとも想像されます。
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またキリシタン大名である京極高次が西軍から裏切って大津城に籠城した大津城の戦いでは開城したのが本戦の日であったとあり、これもまた西軍の15000人の兵士を引き付ける役割を行い、戦後に京極高次は大名として復帰して、その後加増されたそうです。関ヶ原の戦いはこれで終わりでしょうか。本戦は慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)の10時から12時ころまでの間に行われ、正確な死傷者は不明ですが、数万人の死傷があったとのことですが、まあ日本国内の戦いで、遺骨が大量に出ているわけでもないので、小田原城攻めなどと同じく死傷者は不明であり、前哨戦としての島左近の奇襲で約40人が東軍で亡くなったとされ、約2時間の戦闘で数万人死傷するというのもなかなか壮絶ですので、軽傷も含めて数万人死傷で、重傷、死亡者を想定すると数百人から数千人程度の重傷死傷者ではないかと想像されます。こういった大規模会戦が行われた理由としては、イエズス会による戦争のシミュレーションといった側面も大坂の陣も含めてあるものかと思われます。本戦の後、徳川家康は石田三成の居城である佐和山城の石田一族を攻め、内応などもあって、父親や兄弟の一族は自決、子供たちは生き残ったようです。大垣城も内応で開城しています。家康はその後大津城に入城して、小西行長、石田三成を捕縛して、それらを帯同してその後大坂城に入城し、毛利輝元が退去します。慶長5年10月1日(1600年11月6日)に小西行長、石田三成、安国寺恵瓊が六条河原で斬首されます。もう一人の首謀者格の宇喜多秀家は妻がキリシタンの豪姫でしたが、最初京都周辺に潜伏して、その後島津の薩摩へ逃亡し、その後久能山に幽閉されて、縁戚の前田利長の懇願などにより死罪は免れて、最終的には八丈島に流されて明暦元年11月20日(1655年12月17日)83歳で亡くなったそうです。家康はその後論功行賞を発表し、豊臣秀頼が222万石から65万石に減封となり、徳川家康が自身の領地を255万石から400万石へ増加させ、京都・堺・長崎を始めとする大都市や佐渡金山・石見銀山・生野銀山といった豊臣家の財政基盤を支える都市・鉱山も領地としたそうです。
本戦には参加しなかった古田織部の茶の弟子で、石田三成と親しかったらしい佐竹義宣(元亀元年7月16日(1570年8月17日)-寛永10年1月25日(1633年3月5日))は秋田へと転封となりました。没年で333のシンボリズムを認めます。また吉川広家の裏切りによって動きを封じられて、関ヶ原の合戦の本戦に参加できなかった長宗我部盛親(天正3年(1575年)-慶長20年5月15日(1615年6月11日))はその後改易され領地没収され、浪人し、大坂の陣に参加して夏の陣後捕縛され六条河原で切られています。土佐は長宗我部氏の後に山内一豊が引き継ぐこととなります。死没年月日に161と611のシンボリズムを認めています。
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慶長8年2月12日(1603年3月24日)に伏見城で家康は征夷大将軍に任ぜられます。一応シンボリズムはあるようです。伏見城は関ヶ原の戦い後から二条城と共に再建され、慶長7年12月(1603年1月)頃に徳川家康は入城しているようです。慶長10年4月16日(1605年6月2日)に徳川秀忠に将軍職を譲り、徳川幕藩体制が確立されます。慶長11年(1606年)頃に徳川家康は駿府城に移り、大御所政治を行っています。大坂城の淀殿と秀頼は各地の直轄領を失って、大名の一人として存続していました。慶長11年~12年(1606年~1607年)にかけて江戸城が完成して、将軍秀忠はそこで政務を行っています。江戸城、駿府城が築城される頃にイエズス会巡察士アレッサンドロ・ヴァリニャーノはマカオで亡くなっています。徳川家康は1606年~1607年にかけてポルトガル人宣教師や朝鮮通信使から太陽と月のシンボリズムのある時計を贈与されているそうです。その頃長崎の恐らく旧イエズス会領地で時計製作が盛んに行われていたようです。和時計への技術の伝承もその頃に行われていったようです。久能山東照宮にある時計はその後スペインとの外交交渉の過程で、慶長14年9月3日(1609年9月30日)に現在の千葉県夷隅郡御宿町にフィリピン臨時総督を乗せたスペインのサン・フランシスコ号がアカプルコ航路の途中で座礁し、地元民に救助され、その後三浦按針が作った船・按針丸・サン・ブエナベントゥーラでアカプルコに帰還して、そのお礼として慶長16年4月29日(1611年6月10日)浦賀に2代目サン・フランシスコ号で上陸したセバスティアン・ビスカイノらが(追記:161161の回文数になっているようです。6月11日でもないところが絶妙な。アカプルコからの浦賀への直行航路らしいです。秀忠と面会したのが6月22日だそうです。)、慶長16年7月20日(1611年8月27日)に駿府城で家康に面会した際に送ったものであり、1581年スペインのマドリッドでハンス・デ・エバロが製作したものだそうです。
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この頃になると金や銀の本格的な流通が始まりますが、そもそもザビエルが日本に布教に来たのもマルコ・ポーロの黄金の国ジパングの話の影響もあったと思われ、石見銀山のある大内氏の所領に布教して、その後陶晴賢の謀反によって毛利元就が銀山を掌握するのも、布教の影響があったのではないかと思われますが、鉛や水銀を使用した金銀の精錬法がエジプトやオリエントでは古代から行われていたそうですが、本格的に日本に伝わってきたのはこのザビエルの布教の頃からで、旧約聖書にも書かれている方法との事で、朝鮮由来とか中国由来とか説はあるそうですが、単純に宣教師由来である模様です。秀吉の時代には金細工師の後藤四郎兵衛家に作らせた天正大判が有名ですが、家康は秀吉の死からわずか3か月後の慶長3年11月(1598年12月)には三浦半島の浦賀にスペイン商船を寄港させるようにフランシスコ会宣教師ジェロニモ・デ・ジェズス(生年不詳 - 1601年10月6日)と交渉したとあり、関東を拠点とする家康がスペインのアマルガム法を入手して全国の金銀山の産出量を増加させようとしていたとの事です。そもそもサン・フェリペ号事件からフランシスコ会宣教師を磔にして日本26聖人殉教を行った秀吉であったわけですが、その秀吉の死後すぐに次の政権構想のために率直に動いてフランシスコ会に近づくイエズスの名前に近い家康が最初に接近したのがジェズスという名前の宣教師というのも、まさにキリスト教の修道会のシンボリズムという他ないわけですが、その交渉に適切な通訳がおらず、それにあたったのが、まさに関ヶ原の戦い直前に現れたイギリス人の三浦按針というのも出来過ぎた話のようです。ジェロニモ・デ・ジェズスの没年月日が関ヶ原の戦いの直後で601106と明確なシンボリズムを認めるのも、金銀の産出とその後の家康への政権移行が明確なキリスト教会の筋書きの通りに進んだ証拠かと思われます。アマルガム法による金銀の産出はその後1606年(慶長11年)頃より用いられていたようですが、その後一般的ではなくなったようです。水銀の害もあった模様です。家康の代では後藤四郎兵衛家による慶長大判、後藤庄三郎光次による慶長小判が有名で、さらにこれらの産出元の佐渡金山や石見銀山など全国の金銀山を統括していたのがもともと武田家の家臣であった大久保長安(天文14年(1545年)-慶長18年4月25日(1613年6月13日))であり、死後の不正蓄財が発覚して息子たちが切腹を命じられた大久保長安事件が起こっています。やはり没年月日に明確な対称形ではない西暦のシンボリズム613613という形を認めており、そもそも鎧などにも十字を認めており、キリシタンであった可能性があるようです。オークボで認めるオークはOak、コナラの木の意味となり、ヨーロッパで精霊の木としてあがめられ、船材としても最も使われたた歴史があり、シンボリズムと考えられます。フリーメイスンリーでもシンボリズムとなる木です。聖櫃や箱舟のArkとも発音が似ており、そういう意味でのシンボリズムもあるようです。もちろんオオ○○で真言の意味もあるのかとも思われます。やはり西洋と東洋の融合や折衷がテーマではあるのですね。
300px-Tensho-hishi-obankin.jpg220px-Keicho_Oban_1601.jpg320px-Keicho-koban.jpgKeicho-1buban.jpgKeicho-chogin2.jpg大久保長安像fc2blog_20170830192738f9f.jpg
またこの時期の朝廷の事件として猪熊事件がありますが、これは公家の乱交による醜聞事件であり、後陽成天皇の側室も関係していて、天皇が激怒して、徳川幕府の京都所司代である板倉勝重によって調査され、関係者が捕えられ、死罪もしくは各地へ追放となっています。この中心人物であり死罪となった猪熊教利は天正11年(1583年)-慶長14年10月17日(1609年11月13日)と没年月日の16091の回転対称、111のシンボリズムを認め、蝦夷松前に配流された花山院忠長(天正16年(1588年)-寛文2年9月26日(1662年11月6日))は松前の地に京文化が伝わるきっかけとなったそうで、やはり同様に没年月日に66、11のシンボリズムを認めます。蹴鞠で有名な飛鳥井家の飛鳥井雅賢(天正13年(1585年)-寛永3年閏4月16日(1626年6月10日))は隠岐に配流され、微妙な没年月日の626、66のシンボリズムを認め、伊豆に配流された難波宗勝(天正14年12月6日(1587年1月14日)-慶安4年3月21日(1651年5月10日))は没年月日で515、151のシンボリズムを認めます。細川幽斎から古今伝授を受けていた烏丸光広(天正7年(1579年)-寛永15年7月13日(1638年8月22日))は蟄居後赦免されていますが、没年で88、22のシンボリズムを認めています。
この事件の意味ですが、慶長20年7月17日(1615年9月9日)の禁中並公家諸法度の制定に繋がったそうで、関係した公家の没年月日のシンボリズムは、そうした江戸幕府の政治体制の確立にキリスト教が大いに関係したことが伺えそうです。
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またこの時期の家康のブレーンとして、林羅山(天正11年(1583年) - 明暦3年1月23日(1657年3月7日))がいて、その後の大坂の陣のきっかけとなる方広寺鐘銘事件などで意見したりしていますが、朱子学を基礎として徳川幕府の制度の基礎を作り、孔子廟を上野に作り、後の湯島聖堂の元になったようです。慶長11年(1606年)にはイエズス会の日本人修道士、イルマン・ハビアンと論争して、棄教させたりしているそうです。この日本人修道士イルマン・ハビアンはイソップ物語を翻訳したそうです。この林羅山は明暦の大火で家を焼かれて、4日後に亡くなったそうですが、没年月日に737のシンボリズムを認めます。林羅山を徳川家康に推挙した師の近世儒学の祖の藤原惺窩(永禄4年1月24日(1561年2月8日)-元和5年9月12日(1619年10月19日))が没年月日に明確な16191の回転対称と、161、191、91019の回文数のシンボリズムを認めています。弟子として小早川秀秋や石田三成兄弟、木下長嘯子も挙げられるようです。
Razan_Hayashi.jpgA_portrait_of_Fujiwara_Seika_藤原惺窩像
家康は慶長12年(1607年)朝鮮通信使と謁見し、文禄・慶長の役以来断絶していた李氏朝鮮との国交を回復し、慶長14年8月17日(1609年9月15日)オランダ使節と会見し、オランダ総督マウリッツからの親書を受け取り、朱印状による交易と平戸にオランダ東インド会社の商館の開設を許可したそうです。慶長16年3月20日(1611年5月2日)に御三家の元となる息子たちを叙任したそうです。徳川家康の対外政策は極めて単純で、経済優先であり、布教に関しては否定的となっていて、側室にキリシタンとされる朝鮮人のジュリアおたあなどがいる時期もありましたが、信仰や思想的には基本的に儒教優先で、キリスト教の要素は名前以外ほとんどなかったようです。その後の東照宮の造営なども含めて、天下普請の切石積み石垣や方形の天守閣などからは、極めてキリスト教の教えの要素を含まないプラグマティズム、実用主義的な、フリーメイスンリー的な要素があったものと思われます。慶長16年7月20日(1611年8月27日)に駿府城でスペイン人探検家のセバスティアン・ビスカイノは家康に謁見し、フェリペ2世からの時計を贈りますが、その後は朱印状をもらい日本沿岸の測量を行い、慶長16年10月6日(1611年11月10日)に仙台で伊達政宗と謁見します。慶長16年10月28日(1611年12月2日)に三陸沖を測量中に慶長三陸地震に海上で遭遇し、本人たちの被害はありませんでしたが、津波の被害を確認しています。セバスティアン・ビスカイノはその後九州地方まで沿岸を測量し、慶長17年8月21日(1612年9月16日)に家康、秀忠の返書を受け取り、浦賀からメキシコに向けて出港しますが、暴風雨にあい慶長17年10月22日(1612年11月14日)に浦賀に戻り、その後慶長遣欧使節団のサン・フアン・バウティスタ号に同乗して慶長18年9月15日(1613年10月28日)に三陸海岸の月浦から出港して帰国しています。この時期の地震としては慶長9年12月16日(1605年2月3日)に起こった慶長地震の南海トラフ地震があり、津波被害での死者が多数であったそうですが、詳しくは分からないようです。その後は慶長16年8月21日(1611年9月27日)に会津地震がありました。会津は著名なキリシタン大名であった蒲生氏郷が奥州仕置後に入部して、会津若松城と共に城下町を整備しましたが、その子の蒲生秀行の時代に一旦宇都宮に転封され、関ヶ原の戦い後に再度入部して、その秀行の時代に地震にあい、その心労もあって翌年慶長17年5月14日(1612年6月13日)に30歳で亡くなったそうです。
慶長三陸地震は伊達政宗のその後の慶長遣欧使節団の大きな動機の一つともなった可能性があるようです。慶長遣欧使節団はフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使、支倉常長(キリスト教禁教後常長となったらしく、それ以前は長経であったそうです。ナーガのシンボリズムがあるようです。)を副使として、セバスティアン・ビスカイノが造船を指導して、1613年10月28日に牡鹿半島の月浦から出港し、東回りで太平洋を横断し、1614年1月28日アカプルコに入港したそうです。その後メキシコシティ、キューバのハバナを経由して、1614年10月5日スペインに到着し、マドリードに到着後、1615年1月30日フェリペ3世に謁見します。その後1615年2月17日支倉常長は洗礼を受け、1615年10月25日ローマに到着し、1615年11月3日ローマ教皇パウロ5世に謁見、1615年11月20日ローマ市民権証書を授与されています。1616年1月7日ローマを離れ、スペイン・セビリアに移動し、1617年7月4日スペインからメキシコに渡り、1618年4月2日に再びサン・フアン・バウティスタ号でアカプルコを出港し、1618年8月10日にフィリピン・マニラに到着しました。支倉常長は元和6年8月24日(1620年9月20日)に厳しい禁教下の日本へ帰国しました。ルイス・ソテロは元和8年9月18日(1622年10月22日)、マニラから密入国しようとしたが捕らえられ、寛永元年7月12日(1624年8月25日)大村で火刑により殉教したそうです。
慶長遣欧使節団についてはやはり高木一雄さんの「伊達政宗と慶長遣欧使節」が詳しいようです。教皇との書簡のやり取りの中で、伊達政宗が興味を持っていたと思われる騎士団の設立について触れている部分もあり、またフェリペ3世のことを、どん・ひりっぺと書かれていて、東北弁の世界ですから、こういうのも日本が鎖国になった一因でもあるのかなと思ったりしました。明らかに徳川秀忠とのやり取りを含んでいて、取次は伊達藩であったのでしょうが、幕府が綿密に関わっていたのが分かります。
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慶長18年5月4日(1613年6月11日/ユリウス暦6月21日)に日本の平戸に到着したイギリス東インド会社のセーリスと慶長18年8月4日(1613年9月18日/ユリウス暦9月8日)に駿府城で徳川家康は謁見し、三浦按針が取り次いで翻訳し、慶長18年9月1日(1613年10月4日/ユリウス暦10月14日)には通商許可が出たとの事です。この当時イギリスはユリウス暦を使用しており、到着の日付がグレゴリウス暦6月11日の日付になっていることがシンボリズムのようです。シンボリズム的には明確にイギリスの行動はキリスト教会が規定しているのでしょうね。
またこの時期その後の徳川家康のキリスト教禁教のきっかけとなる事件として岡本大八事件がありました。岡本大八(生年未詳 - 慶長17年3月21日(1612年4月21日))は没年月日に明確な12421の対称のシンボリズムを認めますが、駿府で徳川家康の家臣の老中本多正純に仕えていた有力なキリシタン武将であり、恐らくキリシタン関係の事一切を取り仕切っていた模様で、同じく熱心なキリシタン大名であった有馬晴信がポルトガル船貿易の過程で、部下を数十人マカオでポルトガル人に殺され、その件に関して報復を考えた有馬晴信がマカオ総司令のアンドレ・ぺソアを最終的に長崎の船中に閉じ込め、攻撃して自決させ、これがノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件またはマードレ・デ・デウス号事件とされ、これを機にポルトガル船貿易は下火となります。この後に有馬晴信が徳川家康への取次として岡本大八と懇意になり、賄賂を贈って九州での旧領の回復を試みますが、それが露見して、二人とも死罪となり、岡本大八は駿府市中を引き回しの上火刑、有馬晴信は甲斐に流罪の後切腹となっています。岡本大八と有馬晴信は共に駿府にあった大久保長安邸で尋問を受けたとの事です。岡本と大久保と共にOakの音が入っているのは興味深いところです。有馬晴信の所領はその後島原の乱の中心地になったそうで、また有馬晴信が最終的に害意を抱いていたとする長崎奉行の長谷川藤広はイエズス会が中心のポルトガルから、ドミニコ会に接近していたとあり、全体的にシンボリズムに象徴されるようにキリスト教会の差配であったようで、この複雑な事件の様相から家康はキリスト教の禁教を考えたとあり、秀吉の際と同様にそれはキリスト教会の想定通りであったようです。岡本大八が火刑となった同日に家康は直轄領でのキリスト教の禁教令を発布し、ジュリアおたあは伊豆大島へ流され、原胤信などキリシタンの旗本は潜伏キリシタンとなりました。慶長18年2月19日(1613年4月9日)、幕府は禁教令を全国に拡大し、家康はさらに「伴天連追放之文」を起草させ徳川秀忠の名で発布させました。慶長19年7月(1614年8月)、有馬晴信の子供のキリシタンであった有馬直純はすでに棄教していましたが願い出て、日向国延岡藩に転封され、有馬の地は天領とされ、松倉重政・勝家の悪政後島原の乱が発生します。慶長19年10月1日(1614年11月2日)には家康の大坂城討伐の号令が出され、同時に高山右近をはじめ、修道会士や宣教師など主たるキリスト教徒をマカオやマニラに国外追放にしました。高山右近は慶長19年10月7日(1614年11月8日)長崎を出港し、1614年12月21日マニラに到着し、現地のフィリピン総督は日本侵攻を提言したそうですが、右近が拒絶して、1615年2月3日亡くなります。
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大坂の陣のきっかけとなった方広寺鐘銘事件の経過ですが、そもそも関ヶ原の戦い後、徳川家康と豊臣秀頼は共に最終決戦に向けて軍備を整えていたようです。片桐且元が主にその間を取り持っていたわけですが、徳川家康の豊臣秀頼への通常の大名に対する対応をすることで淀殿への挑発が続き、その緩和の意味もあって、豊臣秀頼は家康の勧めで慶長19年(1614年)4月に方広寺を再建しており、慶長19年8月3日(1614年9月6日)に大仏殿の開眼供養を行うことにしていたそうです。その方広寺の鐘の銘文を考えたのが南禅寺の文英清韓であり、臨済宗の長老であったのですが、銘文中の「国家安康」と「君臣豊楽」の部分が特に問題にされましたが、そもそも家康の名前も、豊臣の名前も、意図的に組み込んでいたのは明らかであるようで、林羅山が激しく糾弾していますが、そもそも豊臣方に肩入れして、そういう呪詛とまでいかなくとも皮肉的な意味で組み込んでいるようで、そもそもそれを依頼したのが片桐且元であり、それらを問題としたのが以心崇伝であったとの説もあるようですが、以心崇伝も徳川幕府の有力なブレーンであり、永禄12年(1569年) - 寛永10年1月20日(1633年2月28日)と没年月日でシンボリズムを認め、「伴天連追放之文」「寺院諸法度」「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」を起草した人として徳川幕府の中枢で重要な人物であり、家康の亡くなった際には吉田神道の形式で神格化しようとして、南光坊天海(天文5年(1536年)? - 寛永20年10月2日(1643年11月13日))が新しく考えた山王神道の形式で神格化されて東照大権現が成立したとあり、その後徳川幕府は合議制に移っていったとあります。また「禁中並公家諸法度」の「勅許紫衣竝に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」に関して紫衣事件というのがあり、後水尾天皇が、寺僧に対して紫色の法衣を着ていい勅許を出す朝廷の権利を徳川秀忠が停止した事件で、大徳寺住職・沢庵宗彭(天正元年12月1日(1573年12月24日) - 正保2年12月11日(1646年1月27日))が抗議して流罪になったりしています。その後秀忠の死によって、沢庵和尚は家光に近侍して、家光は紫衣の勅許を元の通りに戻したとの事です。家光の名前も以心崇伝が決めたそうです。朱印船貿易の事務作業も一手に引き受け、黒衣の宰相とも呼ばれたそうです。金地院崇伝とも呼ばれました。日光山東照宮、上野寛永寺を発案した天台宗延暦寺で修業した南光坊天海も100歳以上の長寿といわれているそうですが、没年で明確な31113の回文数のシンボリズムを認めており、キリスト教の明確な影響が裏付けられます。沢庵漬けで有名な沢庵和尚も生年月日がクリスマスイブで、没年月日で16461の回文数を認めます。
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この方広寺鐘銘事件の意義ですが、最終的には仲介にあたった片桐且元の豊臣秀頼による領地没収という改易により、片桐且元が大坂城を退去して、徳川家康の慶長19年10月1日(1614年11月2日)の豊臣秀頼への宣戦布告となり、開戦となるわけです。片桐という名前も、豊臣氏の家紋が桐となっており、半分豊臣という意味もかかってくるようです。片桐且元はもともと浅井長政の家来であったようで、浅井三姉妹や大野治長兄弟と共に小谷城落城で放浪しその後秀吉に仕官したそうです。シンボリズム的には鐘は平家物語の冒頭にもうたわれる通りに仏教のシンボルであり、古今東西で鐘の様式の楽器は宗教のシンボルであり、キリスト教でも教会のシンボルであります。当時の南蛮寺で使われたイエズス会のシンボルが刻印された鐘も妙心寺春光院には残されています。そのシンボルに刻印された文字の、特に三英傑の豊臣と家康の名前が刻まれて、それが問題とされたという事の意味は、明らかにこのブログで延々と語っている通り、それがシンボリズムを含んでいることを語っており、国家安康は国の安定を願う意味ですが、イエズス会やキリスト教の意味もそれであり、ヨシュアがイスラエル建国のために聖絶を行ったのもそのためであり、その同じ意味の名前のイエスが無報酬の愛を説いて、その上で多くの聖戦が行われたのも究極的には国や世界の平和と安定のためであるという意味であるかと思います。家康、イエズスの意味で考えると、それが分断されているのは、その当時のイエズス会の状況を示唆していて、結果的に同時にキリスト教禁教となり国外追放となった日本のキリスト教布教の状況を反映していそうです。家康自身のその後の運命を語っているともいえるかと思います。また君臣豊楽も朝廷から庶民まですべての人が豊かになるという意味であり、まさにそれは豊臣の英語の意味to you to me、すなわちあなたも私もで全てという意味だと思いますが、それがさかさまになっているのが、全ての人が豊かになるといっても、主に庶民や、朝廷の配下、この場合幕府や武士と考えられますが、そちらが先に豊かになるという意味になるのかもしれません。朝廷のその後を考えると、大坂の陣後は桂離宮や修学院離宮を建築して、江戸時代の中では最も富んだ時代と考えられ、豊臣が滅んで天皇がやや持ち直すという意味かもしれません。豊臣がさかさまになるという事で、単純に豊臣秀頼のその後の運命を語っているだけかもしれません。方広寺自体が、豊臣秀吉が大仏建造のために建立した寺であり、三十三間堂のすぐ横にあり、慶長伏見地震で大仏が崩壊した歴史があり、大仏の代わりに遷座した善光寺如来は秀吉の死亡する前日に呪いを恐れて甲斐に戻されたというものです。いずれにしても今日残されている主要な大坂の陣当時の遺物はこの方広寺の鐘が最大のものであり、それは大坂の陣の悲惨な戦いの始まりを告げる戦陣の鐘であり、またその後の平和な時代の始まりを告げる祇園精舎の鐘でもあることを後世に伝えています。
南蛮寺鐘
大坂の陣では構図は豊臣秀頼、淀殿母子のまさにキリスト教の聖母子像のような殉教の側と、さらにそこに義父となる構図の大野治長兄弟、実際は実父であったようですが、と対峙するイエズスの名前を冠する徳川家康軍、すでに全面的な禁教令を発布して、表立ってキリスト教の大名、武将は一人もいない軍の対決であり、キリスト教全盛時代の象徴ともいえる豊臣秀吉が建築した野面積みの大坂城があり、対峙する徳川家康はすでに天下普請にて江戸城、駿府城、名古屋城の三城を切石積みで真っ白な方形の天守閣を伴い、豊臣の大坂城を上回る規模で完成させており、勝負の行方自体は明白であり、構図としては秀吉の際の小田原城攻めに近いものがあるわけですが、幕府が既に明白にキリスト教禁教を打ち出していたために、キリシタンを含めたその時代を良しとする浪人が豊臣側の蓄積した金銀を求めて大坂城に集結し、結果として10万人ほどの大軍勢となったようですが、最終的には堀の無くなった丸裸の大坂城となった大坂夏の陣の際には8万人程度まで逃亡により減少したようです。いずれにしても豊臣恩顧の浪人が多数であったとはいえ、最初から決着はついているような戦であり、それも籠城戦であるという、全体に主君に殉ずるというよりは、その秀吉時代の安土桃山時代の下克上から天下統一への時代の精神に殉ずるといった色合いが濃いかと思われ、その後の同様の籠城戦による大量虐殺であった島原の乱も全く勝算がないままの殉教の大量死であった状況と似ているかと思われます。また大坂方の実質的な大将としては淀殿がおり、淀殿自身が浅井長政の長女として生まれながら、叔父である織田信長に小谷城で攻められて、命からがらに脱出して、その後織田信長に保護され、その後柴田勝家と再婚したお市の方に連れられて北ノ庄城に移るも、賤ケ岳の戦いでは秀吉に攻められて母親は自害し、秀吉の保護を受け、最終的に秀吉の側室となった運命の持ち主であり、大野治長とは乳母の子供として幼少時より共にいたとあり、大野治長は父親が秀吉の部下であったとありますが、片桐且元と同じく、浅井長政の小谷城落城の時点で織田家の秀吉の配下になったのかと思われます。つまり賤ケ岳の戦い後に乳母でつながる淀殿と大野治長の邂逅があった可能性があるでしょうか。いずれにしても戦を指揮したこともなければ、そもそも武士ですらない淀殿が実質的な大将としている大坂城での籠城戦であり、政治的駆け引きもなく、講和条件も無く、唯々秀吉時代の最高の城である大坂城にすがるか心中するかという、二度の敗戦による落城を経験して、手に入れた当時最高の城と我が子とその父と運命を共にするというのが淀殿の完結したストーリーであったようです。私も九州国立博物館で淀殿の直筆の手紙を見たことがありますが、秀吉もひらがなだけのなかなかの能筆家で名文家であるとの評判ですが、淀殿も文章が散り散りに飛んで、それが当時の女性の流行していたスタイルであったようですが、それの極致のような、内容をある程度予測できていないと読めない文章の書き方であって、なかなか当時にあっても秀吉同様相当特別な気性と性格と才気を持っていた女性であったようです。
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(最初の手紙は秀吉から淀殿への直筆の手紙です。肖像画は一応大野治長らしい像です。残りは黒田家伝来の大坂夏の陣図屏風です。)
大坂の陣で有名なキリシタン武将は明石全登がいて、もともと宇喜多秀家の家臣で10万石を持っていたそうですが、関ヶ原の戦いで浪人となり、母親が明石氏であった黒田如水の庇護下にいましたが、その後長政の時代になって流浪し、大坂の陣で熱心なキリシタンであった事から、禁教制となった幕府に対抗する大坂方についたとの事です。大坂夏の陣後の生死は不明ですが、一説には伊達政宗の保護を受け、津軽に渡り、秋田地方に子孫が残ったとあり、元国際連合事務次長の明石康は明石全登の子孫と伝えられているそうです。木村清久という浪人もキリシタンであったようで、もともと秀吉の文書係であったようで、蒲生氏郷の配下でいたものの一揆がおきて改易され、その後豊後の1万4千石の大名となりますが、関ヶ原の戦いで西軍に参加して、戦後浪人となり大坂の陣に参戦して討ち死にしたそうです。大坂方で最も有名な真田幸村こと真田信繁がフランコの洗礼名を持つキリシタンであるという説がありますが、大坂の陣での活躍と、兄弟のその後の大名家としての存続を説明するのにキリスト教の信仰は支障はありませんが、イエズス会の文書からの推測のみとあり、洗礼の記録などはないようです。小笠原権之丞という武将は徳川家康の御落胤ともされ、駿府でキリシタンとして活動していたそうですが、禁教令後改易され浪人となり、大坂の陣に参加して天王寺の戦いで討ち死にしたそうです。細川忠興の次男である細川興秋はキリシタンであった可能性があるそうですが、大坂の陣に大坂方として参加して、夏の陣後父親に切腹を命じられ、伏見の稲荷山東林院で元和元年6月6日(1615年7月1日)に切腹しています。織田信長の弟の織田有楽斎ジョアンも息子と共に大坂冬の陣までは城内にいて中心的な役割をしていたそうですが、夏の陣の際には息子と共に大坂城を出ています。
淀殿と秀頼は必ずしもキリスト教に親和的であった事は無かったようですが、徳川軍を迎えた大坂城には宣教師が三名ほど入り、浪人に含まれた多くのキリシタンを鼓舞したり、新たに洗礼を授けたりしたそうです。また周囲には数名の宣教師がいて、戦況を最後まで見守りそれぞれ教会に報告したようです。
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大坂冬の陣は慶長19年11月19日(1614年12月19日)、戦闘は木津川口の砦においてはじまりました。蜂須賀至鎮の抜け駆けだそうですが、どうも和暦でシンボリズムの形をしており、そういうシンボリズムの知識が当時あった可能性があるでしょうか。攻撃された側の明石全登は将が不在で壊滅したとあり、西暦でもそれなりの161、141、121と変な回文数の合成になっており、どうも意図的なもののようです。慶長19年12月2日(1615年1月1日)には大坂城を完全に包囲する形となっています。この時点では形としては小田原城攻めの包囲戦の形と全く同じになっています。この後石垣城攻めの為のオランダやイギリスから購入したカルバリン砲、セーカー砲、半キャノン砲などの大砲による大坂城の建物への砲撃が始まります。豊臣方は寄せ手に火縄銃が大量に配置してあって、攻め手の土手の陣地を構築されるまでは相当有効であったようです。武器の性質が相当変わることで、従来の兵糧攻めの持久戦の形ではなかったことが分かります。兵糧に関しても相当変化があるのかと思われます。本丸への砲撃による直撃で淀殿の侍女8人が死んだことで慶長19年12月16日(1615年1月15日)和議に応ずることを決めます。実質籠城していたのは2週間との事で、普通の人の限界であったのだと思われます。明確な西暦のシンボリズムを認めることから、正確な着弾によって、狙った射撃であった事が明確なようです。大坂夏の陣での軍師は明らかに三浦按針であり、その部下として先陣で働いていたのは片桐且元であったようです。
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慶長19年12月18日(1615年1月17日)より京極氏の陣で和平交渉が行われ、豊臣方の使者としては淀殿の妹のキリシタンであった京極高次の正室の常高院であり、慶長19年12月20日(1615年1月19日)本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、惣構の南堀、西堀、東堀を埋めることで和議が成立します。淀殿と秀頼が最も拒否したのは関東への下向であって、暗殺の可能性があったのだと思われますが、なんとしても大坂城と最後まで共にするという一貫した姿勢があったように思われます。そしてその後有名な堀を全て埋められてしまうわけですが、まあ現代のウィキペディアでは和平条件に沿ったものであり、一次史料では堀の埋め立てに関して混乱が生じていた記録はないとあります。そもそも淀殿は天守閣と命運を共にする姿勢であったようです。徳川軍は一旦撤退しますが、慶長20年4月5日(1615年5月2日)大野治長の使者が名古屋にて徳川家康に移封、すなわち大坂城退去はできないと伝え、大坂夏の陣の開始が号令されます。大坂夏の陣は野戦で開始し、大野治房の部隊が慶長20年4月26日(1615年5月23日)に筒井定慶の守る大和郡山城を落とし、その後堺を焼き討ちにし、慶長20年5月6日(1615年6月2日)まで堺攻防戦を行いました。その後大坂城に向かって進撃する徳川軍に大坂方は野戦での襲撃を繰り返し、道明寺の戦い、八尾・若江の戦い、天王寺・岡山の戦いと慶長20年5月6日・7日の2日間に渡って激戦が行われ、数や兵装では圧倒的有利な徳川軍ではありましたが、完全に玉砕覚悟の大坂方は士気が高く、双方ともに多くの死傷者を生じ、当初は数百程度の戦死者でしたが、決戦の天王寺の戦いでは大坂方はほぼ玉砕の状況で2万人近くの首が討ち取られ、その後大坂から京都までの街道に並べられたと宣教師は報告したようです。徳川方ではいわゆる徳川四天王の本田忠勝の息子の、サン・フランシスコ号が座礁した場所の大多喜藩の本多忠朝が先鋒で毛利勝永に打ち取られ、その他に本多忠朝を救援に入った信濃松本藩の小笠原秀政と小笠原忠脩が亡くなっています。毛利勝永はその後敗走して大坂城で秀頼の介錯をしたそうです。シンボリズムはありそうです。いわゆる真田幸村が徳川家康の馬印を倒したとされる戦いです。その後敗走した大坂方は全員大坂城に収容されたとの事で、慶長20年5月7日(1615年6月3日)16時頃徳川軍全軍が取り囲み突入する中で、裏切りなどによって大坂城は内部から炎上し始め、千姫は大坂城を脱出し、淀殿と秀頼は毛利勝永に翌日介錯されて自害しました。秀頼の側室の子の豊臣国松は直前に城から脱出しますが、京都で捜索され捕縛され、慶長20年5月23日(1615年6月19日)に市中車引き回しの後、六条河原で斬首されました。長宗我部盛親は慶長20年5月11日(1615年6月7日)に京都八幡(京都府八幡市)付近の橋本の近くの葦の中に潜んでいたところを蜂須賀至鎮の家臣・長坂三郎左衛門に見つかり捕らえられ、伏見に護送され、その後、盛親は京都の大路を引廻され、そして慶長20年5月15日(1615年6月11日)に京都の六条河原で斬られたそうです。豊臣五奉行の一人増田長盛は盛次の罪を背負う形で関ヶ原の西軍で敗戦後の配流先の岩槻で元和元年5月27日(1615年6月23日)自刃しています。また古田織部は豊臣に内通したという疑いから京都所司代の板倉勝重に捕らえられ慶長20年6月11日(1615年7月6日)に自刃しています。
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淀殿、秀頼の自刃の日の慶長20年5月8日(1615年6月4日)ですが、カトリックの聖日では聖フランシスコ・カラチョロ司祭(1563年-1608年)となっており、まだ聖日になっていないと思われ、カトリックのシンボリズムではなさそうです。6月24日の20日前にあたるわけですが、まあこれは大坂の陣の戦端である、慶長19年11月19日(1614年12月19日)木津川口の戦いにヒントがありそうです。いわゆる和暦でシンボリズムを刻むのは後白河天皇の没年月日の建久3年3月13日(1192年4月26日)からの三十三間堂の建立が日本史の中では最も際立っているわけですが、その他にも数多くの天皇の生没年月日で、和暦でのシンボリズムもあったわけですが、戦争の開始などイベントで日付が明確にわかる記録は日本史では少なかったわけで、小田原征伐での和暦での天正18年6月24日(1590年7月25日)近辺の石垣山城の完成が和暦と西暦のシンボリズムの交わったあたりであり、単純に和暦だけでは、松永久秀の東大寺大仏殿焼失永禄10年10月10日(1567年11月20日)の日付が、その後の松永久秀の謀反を起こしての信貴山城での爆死天正5年10月10日(1577年11月29日)が10月10日という事で純粋に和暦ですが、どちらも西暦で11月という事で、仏像を焼くという行為でもあり、むしろ西暦の方がシンボリズムであるのかもしれません。というわけで、1615年6月4日のシンボリズムの推測ですが、恐らく天台宗延暦寺開祖の最澄の和暦での没年月日弘仁13年6月4日(822年6月26日)に対応するのではないかと思われます。西暦と和暦の全く異なる暦の変換になるわけですが、比叡山焼き討ち(元亀2年9月12日(1571年9月30日))で有名な織田信長の仏教圧迫政策でしたが、そもそも大坂城の地は石山本願寺が元亀元年9月12日(1570年10月11日)から天正8年8月2日(1580年9月10日)までの10年の長きにわたって織田信長と抗争を繰り広げた地であり、その地で戦国時代の終焉を象徴する聖母子像に連なる親子が殉教の形で天守閣と運命を共にするというのは、まさにその後の厳しい禁教令の時代を象徴する出来事であり、それは比叡山焼き討ちによる日本の仏教勢力の被った痛手に対する明確な応酬のシンボリズムでもあったのかと思われ、またそれはキリスト教で明確であった暦のシンボリズム、さらにそれが太陽暦のグレゴリウス暦という最新の暦に乗る形での、最澄・空海の中国への留学の際に近傍にあったというキリスト教会の教えの伝承の意味も含まれているものかと思われます。いずれにしても日本史上最も悲惨な内戦といえる、大坂夏の陣の結末は、西暦というキリスト教が布教した最新の知見といえる暦に対して、日本仏教の頂点と言える天台宗の開祖の和暦での命日を重ねたものであったようです。(秀吉の没年月日である慶長3年8月18日(1598年9月18日)も最澄の生年月日神護景雲元年(767年)8月18日に重なるようです。和暦でのシンボリズムですが、死後に日吉丸の幼名が流布したこととも関係がありそうです。猿の異名も日吉大社の猿神と結びつけられて、その後の徳川家康の東照大権現の元になる山王一実神道に繋がるようです。天台宗系の仏教とキリスト教のシンボリズムの融合と考えられます。またこれに関して吉田神道の吉田兼右の次男で吉田兼見の弟の神龍院梵舜は生没年月日が天文22年(1553年) - 寛永9年11月18日(1632年12月29日)と和暦でシンボリズムを認め、豊国廟の別当となったそうですが、大坂の陣後豊国神社は破却され、その後の徳川家康の埋葬の際に吉田神道で進めますが、天海に論争で敗れ、山王一実神道となったそうです。山王一実神道は仏教の度合いの強い神道といった感じでしょうか。神龍院梵舜は全三十三巻の日記を残しているそうです。)
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さてあまりに長くなり過ぎたので、ここで章を再び分けます。昭和・平成まで新元号発表までにはたどり着けそうにありませんね。
2019-03-19 20:25 | カテゴリ:明治・大正・昭和・平成
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さて分割した章ですが、一応前の時代の1と6の没年月日と日付のシンボリズムのまとめです。回文数であったり、6と11の組合わせであったり、和暦であるなどいろいろありますが、大友宗麟の死(天正15年5月6日(1587年6月11日))、秋月種実の死(慶長元年9月26日(1596年11月16日))、石田三成・小西行長の死(慶長5年10月1日(1600年11月6日))、フランシスコ会宣教師ジェロニモ・デ・ジェズスの死(慶長6年9月11日(1601年10月6日))、イエズス会巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの死(慶長10年12月12日(1606年1月20日))、細川幽斎・吉田兼見の死(慶長15年8月20日(1610年10月6日))、2代目サン・フランシスコ号の浦賀上陸(慶長16年4月29日(1611年6月10日)、イギリス東インド会社のセーリスの平戸上陸(慶長18年5月4日(1613年6月11日))、古田織部の死(慶長20年6月11日(1615年7月6日))、長宗我部盛親の死(慶長20年5月15日(1615年6月11日))、徳川家康の死(元和2年4月17日(1616年6月1日))、花山院忠長の死(寛文2年9月26日(1662年11月6日))とあり、いずれもテーマとしては17世紀を象徴する1600年の西暦を基調とした、2×3の数秘術の因数分解の意味と、その時代を象徴する人々と出来事という事になるのだと思いますが、基本的にはキリスト教が暦のシンボリズムは通底しているというのが分かるかと思います。
それで淀殿が亡くなり、江戸時代が始まるという、明確なYodからYedoへの音の繋がりはあるわけですが、一応シンボリズムであるようです。
それでまあこの時代の中心テーマともいえる徳川家康の死なわけですが、元和2年1月21日(1616年3月8日)、鷹狩に出た先で倒れたとの事で、最初は脳卒中なんでしょうかね。元和2年4月17日(1616年6月1日)巳の刻(現在の午前10時頃)、家康は駿府城において75歳(満73歳4ヶ月)で死去しました。死因については、鯛をかやの油で揚げ、その上にすった韮をすりかけた天ぷらによる食中毒説が長く一般化されてきたとの事ですが、これを食べたのは最初の発作の際の1月21日の夕だそうで、現在の藤枝市にある田中城というところだそうで、鯛のてんぷらの話をしたのは京の豪商・茶屋四郎次郎の三代目の茶屋清次(天正12年(1584年) - 元和8年7月16日(1622年8月22日))であり、そもそもこの茶屋四郎次郎は代々の襲名であり、初代茶屋清延(天文14年(1545年) - 慶長元年閏7月27日(1596年9月19日))が京都の家康の御用商人であり、神君伊賀越えに協力して取り立てられたとあり、二代目茶屋清忠(生年不詳 - 慶長8年4月1日(1603年5月11日))が関ヶ原の戦いで協力し、京都の情報を提供して、京都所司代のきっかけを作ったとあり、いずれも初代が96、969、919のシンボリズム、二代目が511のシンボリズムを認め、その当事者の三代目が22822という回文数の桁数の大きいシンボリズムを認め、ちょうど京都は板倉勝重が後の「大岡政談」の三方一両損などの元ネタとなる「板倉政要」という判例集を作るなど、活躍している頃であり、時代的にはその後家康の死をきっかけなどとして、キリシタンの取り締まりが活発化していて、それに対する対応を最も行っていた時期にあたります。大鯛2枚・甘鯛(興津鯛)3枚を食べて腹痛に苦しんだとあり、記述通りだと脳卒中ではなさそうで、しかもその後腹のしこりがあって、寄生虫だと自己診断して、自分で調合した薬を飲んで効果なく亡くなったとあり、現代では胃がんではないかと考えられているそうですが、色々記述が異なるんだと思われます。経緯はどうあれ、家康のシンボリズムでの死は大事業であったと思われ、自然死でなかったことは明確かと思われます。
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家康は久能山東照宮に埋葬されてから、その1年後に日光東照宮に葬られますが、この時の棺は空であったというのが現在の通説のようです。途中棺を置いたのが富士山麓の御殿場God and Ba‘alとの話ですが、聖櫃で十戒の石板を運んだ逸話に倣ったYedo遷都を為したYesusを新たな神Gongenとする儀式であったのでしょうね。久能山東照宮は日光東照宮と同じく、華麗な色彩の装飾がありますが、鳥の彫刻が多かったと思いますが、周囲にある植物ではやはり蘇鉄がいくつもあり、ルイス・ソテロの南蛮貿易が偲ばれます。日光東照宮では三猿、眠り猫が彫刻で有名ですが、三猿は近代フリーメイスンリーのイングランドグランドロッジの標語「Audi, Vide, Tace(, si vis vivere (remanere) in pace)」「Hear, see, be silent(, if you would live in peace.)」「聞いて、見て、沈黙せよ(、平和に暮らしたいのであれば)」というローマ帝国時代から伝わるとされることわざの変化であり、「悪い言葉を聞かない、悪い行いを見ない、悪い事をしゃべらない」という意味とされますが、いわゆる東と西の共通の道徳訓の一つとして、それでも全く一緒ではなく、東と西で似ていてもその差があるのがまた非常に興味深くはありますが、異文化間で共通のものとしてキリスト教徒、もしかすると三浦按針から教訓の一つとして示されたものかと思います。三猿自体は『論語』に「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、 非礼勿動」(礼にあらざれば視るなかれ、礼にあらざれば聴くなかれ、礼にあらざれば言うなかれ、礼にあらざればおこなうなかれ)という一節があり、一説に、こうした「不見・不聞・不言」の教えが8世紀ごろ、天台宗系の留学僧を経由して日本に伝わったそうです。三猿のモチーフは、庚申信仰の伝播とともに近世以降広く用いられるようになり、主尊の青面金剛を描く際、その足元に三猿が添えられた例が多いとのことです。また庚申塔にも多く三猿が彫り込まれています。天台宗は比叡山の鎮護社の日吉大社と密接な関係にあり、日吉大社を本尊とし、猿を神使とする山王信仰が、庚申信仰と習合した結果ともいわれています。眠り猫については裏面の雀のモチーフと合わせて、平和の象徴とされるようです。
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それでまあ太平の江戸時代が始まるわけですが、キリシタンにとっては悲惨な弾圧の歴史の始まりでしかなかったわけです。基本的に日本人のキリスト教への改宗は多くが統治者である大名がその支配地でキリスト教を振興して、結果的にその地域の人々全員がキリスト教に改宗するという形がほとんどであったので、それ以外に、初期の布教で個人や集団で改宗したり、一族で改宗したりした人々は改宗した人々ががそのまま禁教後に表面上棄教したりして隠れキリシタンとなり、後に世代交代によってその信仰自体も薄れていってしまったようですが、地域として統治者の宗教に引きづられて改宗した地域は、案外色々なそもそもの封建制の政治形態自体の問題が生じてきますので、後の島原の乱のような一揆であったり、政治問題化する問題を世代間を越えて持ち続けることになるようです。基本的には宗教問題であり、内面の問題であるのですが、表面的なシンボルとなるものは全て徹底して取り締まられたわけですが、それ以上に幕府にとって問題であったのは、江戸時代初期の潜伏して布教する外国人宣教師とその支援者であり、結局個人の信仰を問題としたのではなく、それが影響を与えうる封建制を守ることが大事であったわけで、そのためにそれを脅かすキリスト教の教えを広める外国人宣教師を全員国外退去もしくは棄教または死刑とする必要があり、日本人で信仰を持つ人々も、その内面の信仰を伝えてそのまま布教したりして信者を増やして組織化することが問題であっただけであり、最終的に文化として日本の中に入った隠れキシリタンの信仰そのものを問題とはしていなかったようです。まあそうは言ってもこの時期秀忠に引き継いで早速主要都市の江戸、京都、長崎の宣教師を中心としてキリスト教の大弾圧と殉教が認められ、それに倣って、棄教した元キリシタン大名などでも領内で大弾圧を行い、いわゆるキリスト教徒の大弾圧が行われました。キリスト教会は京都大坂のものは秀吉の禁教令の時代に一旦破壊され、その後再興されましたが、再び家康の禁教令で破壊されていました。秀忠は家康の死についてキリシタンの関与を疑っていた可能性があり、家康の死の直後から大弾圧を行い、長崎での大弾圧は元和の大殉教と呼ばれています。
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徳川家康は天文11年12月26日(ユリウス暦1543年1月31日)-元和2年4月17日(グレゴリウス暦1616年6月1日)と生年月日でもユリウス暦で3131のシンボリズムを認め、和暦でクリスマスの1日ずれでありそもそも生年月日がはっきりしている人も少ないので、この点でも天下統一への要素があったものと思われます。秀忠は天正7年4月7日(1579年5月2日)-寛永9年1月24日(1632年3月14日)とシンボリズムは認めず、あえて言うと生年月日が5月1日の1日ずれでしょうか。和暦で747、西暦で没年月日で323などありますが、まああまりはっきりはしません。家康の子供では長男の松平信康(永禄2年3月6日(1559年4月13日)-天正7年9月15日(1579年10月5日))は生母の築山殿(生年不詳- 天正7年8月29日(1579年9月19日))の殺害と同時期に家康から切腹させられています。また次男の結城秀康 (天正2年2月8日(1574年3月1日)-慶長12年閏4月8日(1607年6月2日))は福井で越前松平家宗家となり、北ノ庄藩藩主となっており、いずれもあまりシンボリズムは認めず、秀忠が三男であったというのがシンボリズムといえばシンボリズムのようです。名前ももちろんHide Tau Darmaの意味になるのでしょうが、フランシスコ会や禅宗といっても、もちろん関東でのキリスト教布教に何らかの影響はあったのだと思われますが、秀忠の治世自体は全面的なキリスト教大弾圧の時代であり、隠れキリシタン化して禅宗などの仏教となったといえばその通りだと思われます。大久保忠隣のみが老中として秀忠を家康の後継として推挙したとあり、その後大久保忠隣(天文22年(1553年)-寛永5年6月27日(1628年7月28日))は大久保長安事件の後で京都の南蛮寺を破却した後で改易されており、家康時代のキリスト教に対する対応と、その周囲の家臣達のまたキリスト教に対する対応の複雑さと、それを引き継いだ秀忠のキリスト教に対する対応としての大弾圧と52歳での死という家康に比べると比較的早世の死を考えると、家康時代の側近であった本多正信と大久保忠世の一族のその後なども居城が相模国の玉縄城と小田原城であったことも含めて興味深く思われます。家康の子供としては督姫(天正3年11月11日(1575年12月13日) - 慶長20年2月4日(1615年3月3日))がおり、最初北条氏直に嫁ぎますが、小田原征伐後、池田輝政に嫁いでその後の大名としての池田家の元となる子供たちを生んでいます。夫の池田輝政と同じく生年でも明確な和暦のシンボリズムを認め、西暦はサンタルチアの日ですが、シラクサのルチアは3-4世紀の人だそうで、12月13日がユリウス暦での冬至であったようで、シンボリズムのようです。没年は西暦で33となっています。紀州徳川家の初代の徳川頼宣(慶長7年3月7日(1602年4月28日)-寛文11年1月10日(1671年2月19日))は没年月日で和暦で1111のシンボリズムを認めています。
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この時期の幕府によるキリスト教弾圧により殉教した人としては、カルロ・スピノラ(1564年 - 1622年9月10日)がおり、イタリア人のイエズス会士であり、グレゴリウス暦改暦委員会の中心人物であったイエズス会士のクリストファー・クラヴィウスに師事した数学者、天文学者であり、マテオ・リッチもクリストファー・クラヴィウスに師事していたそうです。カルロ・スピノラは元和の大殉教の際に火刑となっています。没年は22を中心とした162291の回転対称となる、なかなか典型的ではないシンボリズムとなるようです。原胤信(天正15年(1587年)-元和9年10月13日(1623年12月4日))は幕府旗本でしたが、家康の禁教令後に潜伏キリシタンとなり、藩主によってとらえられ棄教を迫られますが拒否し、激怒した家康の命によって額に十字の烙印を押され、手足の指全てを切断、足の筋を切られた上で追放されたそうです。その後も布教活動を続けたそうですが、密告によって捕らえられ江戸で火刑となっています。ルイス・ソテロ(1574年9月6日 - 1624年8月25日)はフランシスコ会修道士であり、伊達藩と幕府による慶長遣欧使節団の正使として支倉常長と共に三陸海岸からローマまで行き、その後ローマからフィリピンに戻った後で禁教令下の長崎に上陸して捕縛され、火刑で殉教しています。中浦ジュリアン(永禄11年(1568年)ごろ - 寛永10年9月20日(1633年10月21日))は天正遣欧使節の副使でイエズス会司祭であり、潜伏して布教活動を継続している中で捕らえられ、同じイエズス会士のクリストヴァン・フェレイラ師らと共に逆さづりの刑を受けて棄教を迫られますが、中浦ジュリアンは棄教せずそのまま殉教しました。ペトロ岐部(天正15年(1587年) - 寛永16年6月4日(1639年7月4日))は歩いてエルサレム、ローマまで旅して、現地でイエズス会司祭となり、帰国して禁教令下で潜伏して布教し、長崎から東北まで布教し、その後捕縛されて江戸で腹を火で炙られ殺されたそうです。幕府の執拗な拷問により転びキリシタンとなった宣教師としては、遠藤周作の「沈黙」のモデルとなったクリストヴァン・フェレイラ(1580年(天正8年)頃 - 1650年11月4日(慶安3年10月11日))、棄教後は沢野忠庵、がおり、天文学書や医学書を日本語で書き残しています。また同様に「沈黙」のモデルとなったジュゼッペ・キアラ(慶長7年(1602年) - 貞享2年7月25日(1685年8月24日))、棄教後は岡本三右衛門、もおり、「天主教大意」という日本語の書を残して、後にジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ(寛文8年(1668年) - 正徳4年10月21日(1714年11月27日))が最後の教皇使節として日本に来てキリシタン山屋敷に捕らえられて新井白石が取り調べを行った際には、この「天主教大意」に基づいてキリスト教についての問答を行ったそうです。転びキリシタンについては信仰自体は持ち続けていた可能性があるとの事です。新井白石(明暦3年2月10日(1657年3月24日)-享保10年5月19日(1725年6月29日))は将軍家宣、家継の時代の旗本であり、政権を担った幕閣であり儒学者ですが、生年月日が林羅山の没年月日とほぼ同時期であり、明暦の大火の時期であります。名前に明確なシンボリズムを認めます。殉教者の多くが火刑になったりしていて、最終的には火葬され、また転びキリシタンもほとんどが火葬されているわけですが、一方で徳川将軍家、天皇家が明確に土葬にされているのがこの時代の特徴かもしれません。
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徳川家光の時代は典型的な江戸幕府の制度が成立した時代として、参勤交代の成立と鎖国の成立があり、日光東照宮の大規模な改修などがあるわけですが、15代続く徳川将軍の3代目で光という最高のシンボリズムを仰ぐ名前という事で、生没年月日では慶長9年7月17日(1604年8月12日)-慶安4年4月20日(1651年6月8日)とあえて言うのであれば生年月日の和暦の717、没年月日の和暦の5の倍数程度という事になるようです。西暦であえて言うと、生年月日のイエズス会の結成日の3日ずれという事なんだと思います。光はフリーメイスンリーでは3つの光で有名ですが、創世記では「光あれ」とあり、そもそもの一神教の成り立ちのアテン神が光の意味であったとあり、明の太陽と月のさらに一神教を強調したようなシンボリズムが光となり、Gのシンボリズムに近いかもしれません。家光でイエズスにも半分かかっており、将軍家が諱で家を継いだのが、2代将軍秀忠、8代将軍吉宗、15代将軍慶喜以外全員であり、イエズス会の名前としての部分の家であり、またそれ以外の二人のヨシはもちろんヨシュアの名前であると思われ、明確にイエズス会が作り上げた徳川時代という象徴なのかと思われます。さてまあその家光時代なわけですが、何はともあれ鎖国という事で、島原の乱なわけです。上述のように幕藩体制維持のためにはキリスト教禁教が絶対的であったわけで、神君家康や天孫降臨や班田収授など様々な日本の逸話をもってしても、日本には王権神授説に相当するような、キリスト教と絶対王政や封建制を結びつける思想は無く、また吉田神道にしても比叡山延暦寺にしても、キリスト教のもたらした数々の知恵を習合して新たな日本の支配体制に結びついた教えとして改変することしかなかったわけで、現代のアメリカのもたらしたITの東アジアでの実際の運用と全く同じようなことがこの時代もあったわけであり、その帰結として多数の日本人潜伏キリシタンが残る時代には、外国人宣教師が予言していた、恐らく予定していて、計画されていた通りに、天草四郎時貞を中心とした島原の乱があったわけです。島原の乱で象徴的であるのは参加者全員が殺されて、唯一内通者であった南蛮絵師の山田右衛門作一人が生き残り城内の様子を全て伝えた事と、ポルトガル船の救援を待った乱軍に対してオランダ船が砲撃してその後のポルトガル船の来航が中止され、長崎出島でのオランダ商館での鎖国体制が成立したことで、この直後のカピタンに日本人妻を持ちオランダに亡命したフランス人ユグノー教徒のフランソワ・カロンが就任し、その後フランソワ・カロンがフランス東インド会社設立を依頼され長官となり、帰国の途上でポルトガル沖で沈没して亡くなったのが、まさにフリーメイスンリーへの流れを説明する逸話だと思われます。島原の乱は寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結とされていて、和暦での5の倍数の日付での開始や、終結の和暦での22、西暦での復活祭8日後の3の倍数など、シンボリズムはあるかと思いますが、その経過は全く大坂の陣と酷似しており、そもそももともとの統治者であった松倉重政は苛政を行う事のみならず、キリシタンの根拠地としてフィリピンマニラの遠征を計画していたとあり、もともと松倉家は筒井順慶の家臣であったとあり、筒井順慶が興福寺の門徒の武士化した戦国大名の家系であったそうで、そういう戦国時代から引き続く、織田信長の延暦寺焼き討ちや、松永久秀の東大寺大仏殿の焼き討ちといった、具体的な仏教寺院の破壊とも関連した宗教対立がそもそも根底にはあった可能性があります。いずれにしても小西家や有馬家の旧臣のキリシタンを含んだ、女性や子供を含む農民が中心の一揆軍の総勢37000人の全員が殺されたとあり、幕府軍の死傷者も数千人に及んだとあり、単純に合戦の形態や政治や権力の状況などを考慮せずとも、日本史上最大の内乱であることは間違いなく、その与えた影響は大きく、その後の幕府のキリシタン政策や、日本人の宗教観そのものにも最も影響を与えているかと思われます。島原の乱に関するフリーメイスンリー的な秘密の内容は私は全く知りません。ただ言えることは、ポルトガル船貿易から決定的にオランダの出島への貿易に変更されたのがこの事件であり、当時オランダはまだスペインやオーストリアと連合したハプスブルグ帝国の一部であり、カトリックからの自由を求めてカルバン派がオランダ独立戦争を継続している最中であり、ポルトガルはすでにスペインの一部となっている時代であり、島原の乱におけるポルトガル船に対する援助の期待と、オランダ船の砲撃の様子は完全にヨーロッパの政治としてはハプスブルグ帝国の内部の話であったわけで、まさに東洋の異教の中で独立を求めて闘争するカトリック教徒の集団は、逆にカトリック王国の中で独立を求めて戦うオランダと全く正反対であったわけで、カトリックが島原の乱に援助して、日本をカトリック国にする流れがあったのであれば、そもそもオランダが宗教改革で新教国となることはなかったわけで、それ自体がいわゆるカトリック→プロテスタント→フリーメイスンリーという歴史の流れそのものに逆行したものであるという話でしかないのだと思われます。ちなみにポルトガルは1640年の島原の乱から2年後にクーデターにより王政復古してスペインから独立し、その後の王となったジョアン4世は清教徒革命を為したイギリスのクロムウェルと条約を結んだりしています。明らかに日本でのキリスト教の布教はヨーロッパ大陸での政変を促し、カトリックからプロテスタント、フリーメイスンリーへの流れを後押ししているのですね。ちなみに島原の乱で天草四郎が軍旗として使用していたのが、いわゆる聖杯をモチーフとしたものであり、当時のヨーロッパでの聖杯伝説の高まり、テンプル騎士団からの近代フリーメイスンリー成立への流れを象徴しているものでもあります。もちろん直接的には聖体拝領の聖杯(カリス)を意味するものであり、ミサで神父が飲み干すワインのカップであり、イエスの血を皆がわけ与えられる盃の象徴です。天草四郎の性別などは関係なかったと思われますが、いわゆるダヴィンチ・コードでの子宮を意味するシンボリズムでしょうか。儀式を通してイエス・キリストの血と体を信徒が分け合う事を行うミサの象徴であり、島原の乱自体がそうしたキリスト教徒の殉教を通して、その死が後世に伝えられ、江戸時代の隠れキリシタンを含んだ民衆の生活の改善や向上が図られることを意図したものであったという意味なのだと思われます。
1280px-Iemitu.jpgDZbFtt_UMAEa9Kk.jpgMatsukura_Shigemasa.jpg1024px-Siege_of_Hara_castle.jpgshimabara_rebellion_01b.jpgimg_0_m.pngHiradoVOCfactory(montanus-1669).jpg800px-Philip_IV_of_Spain.jpg800px-Frederik_Hendrik_(1584-1647),_prins_van_Oranje_(Atelier_of_Gerard_van_Honthorst,_1650)1280px-Westfaelischer_Friede_in_Muenster_(Gerard_Terborch_1648).jpgジョアン4世Cooper,_Oliver_Cromwell
島原の乱後は天草領には山崎家治が入部して三年後丸亀に移り、丸亀城を築城しています。天草領はその後天領となりました。雲仙地域ではその後雲仙の地獄炊きなど特に松倉氏の治世の時代の厳しいキリシタン取り締まりの逸話の伝承と考えられるものがありますが、キリシタン達の実力行使であった島原の乱以降は取締自体はあったようですが、内容は明らかにそれ以前から比べて緩くなり、隠れキリシタン自体はその後命脈を保ち、明治維新での隠れキシリタンの再発見に繋がるようです。新井白石によればこの時代のキリシタンの取り締まり自体で、約10-20万人のキリシタンが殺されたとあり、最盛期におよそ100万~200万人いたとされる日本人のキリスト教徒のうち1割ほどが殺されたと考えられ、その他の人々は隠れキリシタンとなり、その信仰は代々受け継がれて日本文化そのものとなり、明治維新で再び信仰の自由が保障されて潜伏キリシタンとしてカトリックやキリスト教に入信する子孫がいたり、そのままキリスト教自体が忘れられたものとなったりしているようです。雲仙地域では明治維新後はブラザーグラバーの子供である倉場富三郎が雲仙ゴルフ場を開設して、日本で二番目のカントリークラブとして現在まで存続しています。また平成時代では雲仙普賢岳の噴火がありました。現在島原城は隠れキリシタン時代の遺物を展示する博物館となっています。また天草切支丹館には上述の重要文化財である天草四郎陣中旗のレプリカが展示してあるそうです。
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さて、日本のキリスト教伝道は島原の乱で一旦終息して、その後の時代は再びキリスト教の宣教師が直接関わったわけではないシンボリズムが認められるようになる、隠れキリシタンの時代となるわけですが、まあ実際上はイエズス会領であった時代から引き続いてオランダが領事館を置いた長崎出島が確固たるキリスト教、フリーメイスンリーの拠点となり、隠れキリシタンの時代からさらに明治維新へと時代を導いていくのかと思われます。それでまあ元号をテーマとして書いていてずっと放ってあった天皇家のシンボリズムについてですが、正親町天皇以降について見ていこうかと思います。後陽成天皇(第107代天皇1571年12月31日(元亀2年12月15日) - 1617年9月25日(元和3年8月26日))はちょうど豊臣秀吉の天下統一が一緒の時期であり、まあ世の中景気がいい時ではないですが、ご本人が色々画策したとかそういうことは少なかったようですが、朝廷権威は戦国時代に比べて格段に向上し、47歳とそれ以前とそれ以後に比べると比較的短命ではありますが、最後も火葬であったなどもありますが、子供は非常に多く、在位も天正14年11月7日(1586年12月17日) - 慶長16年3月27日(1611年5月9日)と和暦でシンボリズムを刻んであるようで、意図して和暦で行った時代なんだと思います。ただ生没年月日が西暦で大みそかと、3の二乗と5の二乗の日付になっているのは恐らくキリスト教的なシンボリズムと思われます。後水尾天皇(第108代天皇 1596年6月29日(文禄5年6月4日) - 1680年9月11日(延宝8年8月19日))は西暦で没年月日でシンボリズムを認め、生年月日の和暦の6月4日もまた延暦寺開祖の最澄の没月日であり、これもシンボリズムと思われます。在位も1611年5月9日(慶長16年3月27日) - 1629年12月22日(寛永6年11月8日)とまあ日付は選ぶわけですが、何より昭和天皇にコメントされた通り、歴代天皇の中で記録のある中で最長寿の84歳という事で、キリスト教伝道による最大の効果として天皇の寿命の延長を認めているものかと思われます。この時代は子女もとにかく多いこともそうなんですが、桂離宮(1615年頃-1662年、智仁親王の建設で始まる、後水尾天皇の叔父、その後後水尾法皇で完成)と修学院離宮(1653年- 1655年、後水尾上皇の時代に上皇の指示で建設)が建設されており、皇室の政治機能は江戸幕府によって失われているわけですが、文化活動としては比較的潤沢な予算があったと思われ、そうした今に残る王朝文化の建築が認められます。特に桂離宮は隠れキリシタン灯籠とされる織部灯篭の数も多く、キリシタンから伝来した文様とされる、白黒の市松模様や、船を模した茶室、島津氏より送られた蘇鉄、真行草とされる、三段階の踏み石の表現など、各所にキリシタン伝来のシンボリズムを元とした意匠が施されており、この時期の日本のキリシタン伝来のシンボリズムに基づいた王朝建築として白眉であると思われます。修学院離宮にはわざわざ湯河原吉浜の海岸の石が使われており、石垣山城建築と江戸城建築に関わった石工の由来に掛かっているものと思われます。まあこれだけ長生きの天皇も歴代いなかったわけで、時代も変化が大きかったことが伺えるわけですが、その後の明正天皇(第109代天皇1624年1月9日(元和9年11月19日) - 1696年12月4日(元禄9年11月10日))は後水尾天皇の第二皇女の女帝という事で、シンボリズムも和暦でかなりはっきりあり、91119と回文数であったりするわけですが、在位も1629年12月22日(寛永6年11月8日) - 1643年11月14日(寛永20年10月3日)と西暦でシンボリズムがあるようで、まあ島原の乱や激しいキリスト教徒の取り締まりの時代に、キリシタンの恩恵を受けて天皇家はキリシタン文化を享受していたというそういう様子の中で、政治的実権を持たないうっぷんもあって、徳川家の外孫にあたる7歳の娘に譲位したという話だそうで、日本史上では859年ぶりの女帝であったとの事です。即位しても何ら権限は持たないまま21歳でまた譲位したとの事で、その後出家して74歳まで生きたとあり、まあ色々政治と関わると大変のようです。元号としてはザビエル来日後から天文、弘治、永禄、元亀、天正、文禄、慶長、元和、寛永とあり、天のつくものは天守閣と同じで、天主につながるものと思われ、また天文自体はその後の天文学などとの関連で明らかにシンボリズムと思われます。弘法大師の弘やナガに繋がる永、長、仏教の心得に繋がるのか寛容の寛は仏教系のシンボリズムととらえられます。元は中国の元の建国もあり、Gにもかかるので一部キリスト教系のシンボリズムがあるものと思われます。
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それで将軍家としては四代家綱(寛永18年8月3日(1641年9月7日)-延宝8年5月8日(1680年6月4日))の時代になるわけですが、あまり回文数のシンボリズムは認めず、40歳で急死したとあり、没年月日の西暦の6月4日はシンボリズムなんだと思われます。治世では由比正雪の乱などあったりしますが、シンボリズムを認めず、計画の段階で露見しているところなど見ると、キリシタンは関係なさそうです。最大の出来事は明暦の大火(明暦3年1月18日-20日(1657年3月2日–4日))と思われます。江戸城天守閣を焼き、その後再建なされなかったものであり、出火原因は不明ながら江戸の数か所から断続的に発火しており、放火の疑いが有力で、被害は数万人~10万人とあり、日本史上最大の災害となるようです。西暦の3月3日周辺であり、また明暦3年であることがシンボリズムのようです。その後9年で1666年にロンドン大火が起こっていることが、歴史の偶然ではなく必然であるようで、こちらは公式の死者は5人との事ですが、セントポール大聖堂が全焼して現在の形にブラザークリストファー・レンの設計で再建された、いわゆる「驚異の年」の出来事となります。明暦の大火については恐らく大坂夏の陣、島原の乱で数多く亡くなったキリシタンの復讐の意味もあるのではないかと思われます。将軍家綱の名前も、イエズスの家もあるわけですが、綱はやはりフリーメイスンリーのシンボリズムでもあるのですが、そもそも禁制前のフランシスコ会のキリスト教会の組織で「帯紐の組 Cofradía de Cordón」というのがあり、信徒の繋がりを示す紐なわけですが、この家綱、綱吉という第四代、第五代将軍はそういう、キリスト教のシンボリズムを強調した名前となります。五代綱吉(正保3年1月8日(1646年2月23日)-宝永6年1月10日(1709年2月19日))は生年月日で和暦で公現祭でしょうか。西暦の22のシンボリズムもあるようですが、没年月日がやはり和暦で611のようです。綱吉といえばなんといっても生類憐みの令なわけですが、そもそも舘林藩の大名をやっていて、兄の家綱の養子となってすぐに兄の急死で将軍となっており、まあ色々素質を認められて将軍となっている模様です。父親の家光に徹底的に儒学を叩き込まれていたため、文治政治と呼ばれる儒教道徳に基づいた政治を行い、新井白石や荻生徂徠(寛文6年2月16日(1666年3月21日) - 享保13年1月19日(1728年2月28日))という儒家を生み出しています。荻生徂徠は回文数での明確なシンボリズムを認めており、綱吉の側用人の柳沢吉保(万治元年12月18日(1659年1月10日)-正徳4年11月2日(1714年12月8日))に取り立てられたとあり、こちらもシンボリズムを認め、舘林藩でのキリスト教徒の関連があるのかと思われます。柳沢吉保の名前のYの字が多いのもシンボリズムかもしれません。綱吉の時代のシンボリズムの出来事と言えば最大のものがいわゆる大石内蔵助の討ち入りで知られる、忠臣蔵の赤穂事件であり、江戸城松の間での浅野内匠頭の吉良上野介への額への一太刀から始まる一連の赤穂浪士四十七士の討ち入りのクライマックスでの元禄15年12月14日 (1703年1月30日)の和暦の日付が、旧約聖書のエステル記のモルデカイが復讐する日であり、いわゆるユダヤ人絶滅をはかったペルシアの宰相のハマンがユダヤ人絶滅をはかろうとして逆に殺されてしまった日という事であり、その他にも旧約聖書由来と考えられる江戸時代の逸話としては大岡政談の子供を二人の母親が引っ張り合う、ソロモン王の逸話に由来する話が有名ですが、復讐の話として聖書には少ない日付の記述があるエステル記の逸話の日も江戸時代の復讐の実話の日に重ねあわされているようです。復讐法は古代バビロニア法の基本であり、聖書にも認められる基本的なものであり、その基本から発展したのが、キリストの愛であり、そういう教訓に基づく逸話なのだと思われますが、黒田如水などの由来も深い可能性がある赤穂藩という関連もあるものと思われます。黒田藩への何らかのメッセージとすれば、旧約聖書の原本なりが日本にあった可能性もあるかと思われます。「生類憐みの令」は儒教道徳に基づくものとの事ですが、聖書の由来はちょっとわかりませんが、フリーメイスンリーでもブラザーウィリアム・ホガースの絵などで、動物虐待の風刺画などがあり、人文主義の前提として動物愛護の精神の啓発というのが一つの手法としてあるようです。綱吉の時代にはその他にも現在の日本の伝統となる「七五三」の風習の成立などもあり、奇数の年齢の設定はキリスト教の数秘術に基づいているものと考えられ、特に先代の明暦の大火の3月3日の逸話に倣っていると考えられます。綱吉の治世後期は元禄地震(元禄16年11月23日(1703年12月31日)午前2時ごろ)、宝永地震(宝永4年10月4日(1707年10月28日))、富士山噴火(宝永4年11月23日(1707年12月16日))と天災と飢饉大火に見舞われたとの事です。宝永地震、宝永噴火の2年後の宝永6年1月10日(1709年2月19日)に成人麻疹(はしか)で64歳で亡くなったとの事です。宝永地震、宝永噴火は共に17071の回文数を認めます。綱吉の時代は元禄文化とも呼ばれる時代であり、松尾芭蕉の俳諧や井原西鶴の小説、近松門左衛門の歌舞伎・人形浄瑠璃の作品、歌舞伎の成立、人形浄瑠璃の成立、落語の成立、絵画では尾形光琳、土佐光起、菱川師宣、陶工の尾形乾山、円空仏の円空、色絵焼き物の野々村仁清、小石川後楽園や六義園、芝離宮や浜離宮、貝原益軒の養生訓、徳川光圀の大日本史などがあり、これらがこの時代のものだそうです。すなわち前々章でも触れたような江戸時代の隠れキシリタン文化の基礎はこの綱吉の時代に最初に花開いたものと思われます。
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さてここで長くなったのでまた章を切ります。現実社会ではもう平成の次の新元号も決まって発表を待っている段階のようですが、なかなか平成まで行き着きませんね。
2019-03-30 16:07 | カテゴリ:明治・大正・昭和・平成
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
改元のこの時期に江戸時代をフリーメイスンリーで見ていくというのもなかなかの内容なわけですが、まあキリスト教的にも日本の文化的にも、大いに意義深いわけですが、如何せん今流行の一次資料で見る近現代史でもないわけで、具体的に言うと元号と暦で見る数秘術の日本史とでもいった内容となるわけで、まあ良くて月刊「ムー」の記事といった内容と思われがちですが、まあ身近なフリーメイスンリーというところでは非常に意義深いかと思われ、継続していきます。
まあ将軍家は東照宮建築くらいがクライマックスで、後は怠惰と閉塞と淫蕩の封建制に入っていくという、カトリック的な展開を見守るオランダ商人という感じで、それに対して文化的に完全に隠れキリシタン化して雌伏する朝廷勢力といったところで、シンボリズム的には後者の方が明らかに際立つ江戸時代の天皇家を先に見ていくこととします。
明正天皇の次代が後光明天皇(1633年4月20日(寛永10年3月12日) - 1654年10月30日(承応3年9月20日)第110代天皇(在位:1643年11月14日(寛永20年10月3日) - 1654年10月30日(承応3年9月20日)))と後水尾上皇の院政時代なんですが、10歳で即位して21歳で天然痘で亡くなるという絵にかいたような傀儡で、まあ父親は84歳まで生きたとあり、追号で明確なシンボリズムなんですが、朝廷側の権力の衰退を象徴している状況でもあるようです。後西天皇(1638年1月1日(寛永14年11月16日) - 1685年3月26日(貞享2年2月22日)第111代天皇(在位:1655年1月5日(承応3年11月28日) - 1663年3月5日(寛文3年1月26日)))はかなり生没年月日のシンボリズムがはっきりしていて、何代というところもあるのかと思いますが、まあ子女は非常に多いわけですが、恐らく収入は旗本から小大名程度であったと思われ、離宮の建築などで多く支出して徐々に金銭的に困窮がはっきりしてくるような様子がうかがえる時期でしょうか。この天皇でやっと後水尾天皇の死後5年での没年月日との事で、崩御の死因はウィキペディアにはありませんが、和暦で2のシンボリズムが明確であり、47歳とありまあ政治がらみなんでしょうねえ。霊元天皇(1654年7月9日(承応3年5月25日) - 1732年9月24日(享保17年8月6日))第112代天皇(在位:1663年3月5日(寛文3年1月26日)- 1687年5月2日(貞享4年3月21日)))とここまで皆後水尾天皇の子女という事で、譲位が多いわけですが、78歳まで生きたとあり、とにかく子女は多く、キリスト教の布教によって生産性は一気に上がったんでしょうが、朝廷の政治体制自体は極めて旧体制を引きづっていて、その結果実権を失っていたため、急速に貧窮していったというのが分かる状況でしょうか。生年月日の和暦の5の倍数はカトリック的のようです。東山天皇(1675年10月21日(延宝3年9月3日) - 1710年1月16日(宝永6年12月17日))第113代天皇(在位:1687年5月6日(貞享4年3月25日) - 1709年7月27日(宝永6年6月21日)))の代で霊元天皇の子供となり、後水尾天皇の孫となって初めてやっと子女の数が減り、時代も宝永などあって、慶長文化の余韻が変わる感じでしょうか。朝儀復活や王政復古運動があったとあり、元禄文化に重なるわけですが、和暦の393のシンボリズムや没年月日の西暦の116などありますが、在位期間のシンボリズムが明確でないなど、キリスト教文化から明確に隠れキリシタン時代に入ったそういう変化があるようです。死因は天然痘で34歳であったとあり、明暦の大火後の封建制の時代というキリシタンを直接的に知らない時代という感じのようです。中御門天皇( 1702年1月14日(元禄14年12月17日) - 1737年5月10日(元文2年4月11日))第114代天皇(在位:1709年7月27日(宝永6年6月21日) - 1735年4月13日(享保20年3月21日)))は生年で114のシンボリズムで、没年では5の倍数であるなど何やらシンボリズムを感じさせますが、在位期間では和暦の3の倍数などとなっており、色々シンボリズムの試行錯誤が感じられるものですが、面白いのは在位中に将軍吉宗に献上されたベトナムの象を宮中で拝謁していることと、巳年生まれで、崩御したのが巳年巳月巳日巳刻であったという事で、いわゆる信長のところであった仏教のナーガのシンボリズムのリバイバルがあるという事でしょうか。中御門の中がナーガに掛かっているものと思われます。子女も少し増えた印象です。桜町天皇(1720年2月8日(享保5年1月1日) - 1750年5月28日(寛延3年4月23日))第115代天皇(在位:1735年4月13日(享保20年3月21日) - 1747年6月9日(延享4年5月2日)))は和暦で生年月日のシンボリズムがはっきりしていることと、それ以外はあまりない、退位が西暦で69くらいでしょうか。追号がその後引き続く、桃園、後桜町、後桃園と桃と桜の4代なわけですが、この時期の明確な政治の変化としては八代将軍吉宗による享保の改革があり、その主要な政策の一つに隅田川の桜に象徴される花見の為の桜の植樹があり、その影響があるものと思われます。脚気で30歳で亡くなったとあり、政務より蹴鞠を好んでいたとあり、まあ太平の世で隠れキリシタン文化も浸透し、鎖国の体制の一部見直しなどもあり、朝廷自体が没落貴族の様相を呈していた模様でしょうか。桃園天皇(1741年4月14日(寛保元年2月29日) - 1762年8月31日(宝暦12年7月12日))第116代天皇(在位:1747年6月9日(延享4年5月2日)- 1762年8月31日(宝暦12年7月12日)))は桜町天皇の第一子で生年月日に明確な41414という回文数のシンボリズムを認め、突然としてキリスト教に回帰したようなあれですが、6歳で譲位されて即位して、22歳で亡くなるというまあだいぶ過激な感じですが、在位中に朝廷で尊王論者が弾圧される宝暦事件というのがあったという事で、一方的に衰退の方向にあった朝廷側の明治維新に繋がる王政復古の運動がこの頃にはあったようで、そのきっかけがやはりこうした桃園天皇の明確なシンボリズムと関係あるようです。後桜町天皇(1740年9月23日(元文5年8月3日) - 1813年12月24日(文化10年閏11月2日)第117代天皇(在位:1762年9月15日(宝暦12年7月27日)- 1770年5月23日(明和7年4月28日)))は桜町天皇の第二皇女で、桃園天皇の宝暦事件の渦中での急死の後で急遽中継ぎとしてまたまた女帝として即位したそうで、江戸時代中の二度の女帝の即位は完全に幕府に対する宥和政策としての女帝であるようです。没年月日の西暦だけクリスマスイブと明確にシンボリズムが刻まれていて、73歳となかなかの長寿であるという事が、何とも際立つ感じでしょうか。上皇時代に天明の飢饉の際に御所の周囲に集まった人々に3万個の和リンゴを配ったとあり、没年月日のシンボリズムの由来のようです。後の尊王運動に繋がるようです。後桃園天皇(1758年8月5日(宝暦8年7月2日) - 1779年12月6日(安永8年10月29日)第118代天皇(在位:1770年5月23日(明和7年4月28日) - 1779年12月16日(安永8年11月9日)))は桃園天皇の第一皇子であり、11歳で即位しますが、病気がちであったとあり、幕府による朝廷による介入の安永の御所騒動などもあり、22歳で崩御しています。生年月日が西暦で明確な5885の回文数ですが、没年月日はシンボリズムを認めません。まあ江戸幕府開府以来一時的に強まった朝廷の権威も実権がないことから徐々に衰退して、享保の改革後は一方的に衰退している状況が明確かと思われますが、その一方で、時代は近代フリーメイスンリー結成の時代であり、後桃園天皇時代はすでにヨーロッパはブラザーモーツァルトの時代であり、桜や桃、リンゴなんてのがありましたが、明確な西暦でのシンボリズムが認められるようになっており、これには明確に長崎出島にカピタンとしてやってきていた歴代オランダ領事のブラザーイサーク・ティチング(1745年1月10日-1812年2月2日)らの影響が垣間見えるかと思われます。元号では正保、慶安、承応、明暦、万治、寛文、延宝、天和、貞享、元禄、宝永、正徳、享保、元文、寛保、延享、寛延、宝暦、明和、安永ととにかく改元が多く、シンボリズム的に明確なのが明暦くらいしかなく、明や天、暦、元といったシンボリズムに繋がるものが頻度が少ない感じでしょうか。隠れキリシタン文化の真骨頂ともいえますが、まあ時代的には表面上は仏教の時代なのですね。逆説的に言うとシンボリズムを意識していたので改元が多いともいえるのかもしれません。
375px-Emperor_Go-Kōmyō375px-Emperor_Go-Sai.jpg1024px-Emperor_Reigen.jpg800px-Emperor_Higashiyama.jpg800px-Emperor_Nakamikado.jpgphoto_2.jpg800px-Emperor_Sakuramachi.jpg1280px-Sakuramachi_Emperor_Poems.jpgasukayama2.jpg6a00cd971aa3d04cd500cd971dd2134cd5.gif1024px-Emperor_Momozono.jpgEmpress_Go-Sakuramachi.jpgapple5.jpg800px-Emperor_Go-Momozono.jpgorandasyougatu2.jpg800px-Père-Lachaise_-_Division_39_-_Titsingh_02
さてこの後が江戸時代の天皇家では最もシンボリズムが強いと思われる光格天皇(1771年9月23日(明和8年8月15日) - 1840年12月11日(天保11年11月18日)第119代天皇(在位:1780年1月1日(安永8年11月25日) - 1817年5月7日(文化14年3月22日))となります。第119代というのもポイントなのだと思われますが、生年月日の和暦の8月15日のイエズス会の結成日である聖母の被昇天の祝日というのもあるようです。やはりイエズス会の影響が大きいのですね。没年月日の和暦の天保11年11月18日というのも、すでにイルミナティ創設者のアダム・ヴァイスハウプトが1830年11月18日に亡くなっており、ちょうど10年後ですが、明暦の大火よろしくそれに合わせたシンボリズムで問題ないと思われます。明治維新のストーリーはすでにこの時点で始まっているとシンボリズムでは認めるわけです。69歳で亡くなり、ゴローニン事件にも関心が高く、終始朝儀の復興に熱心であったという事であり、追号のシンボリズムと生没年月日のシンボリズムが示す通り、将軍家の徳川家光に倣った江戸時代最後の孝明天皇の三代前の明治維新に繋がる王政復古前三代の天皇なのだと思われます。この時期の徳川将軍家の11代将軍徳川家斉(安永2年10月5日(1773年11月18日)-天保12年閏1月7日(1841年2月27日))の西暦での生年月日が11月18日であるのも何か関連がありそうです。仁孝天皇(1800年3月16日(寛政12年2月21日) - 1846年2月21日(弘化3年1月26日)第120代天皇(在位:1817年10月31日(文化14年9月21日) - 1846年2月21日(弘化3年1月26日)))は孝明天皇の父親で生年月日で和暦の12221のシンボリズムを認めますが、やはり和暦であるというのが光格天皇と共通であるようです。蘭学の隆盛などがあるわけですが、キリスト教自体が完全に禁制令の下で隠れキリシタンとなり西暦のシンボリズム自体が日本では失われてしまっていた、そういう印象でしょうか。シンボリズム自体の翻訳が行われているような感じだと思われます。そうはいっても、まあどちらも西暦でチラホラとシンボリズムは認めるのが、この日付のシンボリズムの妙ではあります。仁孝天皇の時代に学習院が創設されたそうです。そして幕末の動乱といえば孝明天皇(1831年7月22日(天保2年6月14日) - 1867年1月30日(慶応2年12月25日)第121代天皇(在位:1846年3月10日(弘化3年2月13日)‐ 1867年1月30日(慶応2年12月25日))というわけで、天然痘でまさに和暦のクリスマスに亡くなるという、明治維新の意義、それはまさに信教の自由の日本での保障であったという事なのだと思われますが、第一義的にそういう事であるというシンボリズムでしょうか。元号では天明、寛政、享和、文化、文政、天保、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応となじみのある元号が増えるわけですが、文化や天のつくもの、そして維新期に入って改元が連発するなども時代を反映しているものと思われます。
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さてでは時代を再び遡って実権を持っていたとする将軍家の第6代将軍家宣(寛文2年4月25日(1662年6月11日)-正徳2年10月14日(1712年11月12日))ですが、生年月日で西暦で明確な611のシンボリズム、没年月日では西暦で21112と回文数のシンボリズムを認め、43歳で綱吉の養子となり、48歳で将軍に就任して、50歳で亡くなったそうで、6代という徳川幕府と縁のある6という数字の代でもあり、なかなかシンボリズムに富んだ、一般には綱吉の悪政を改めたとされることが多いややマイナーな将軍でありますが、5代というカトリック的なところからの反動的なフリーメイスンリー的なシンボリズムのようです。短い統治期間ですが側用人として間部詮房(寛文6年5月16日(1666年6月18日)-享保5年7月16日(1720年8月19日))、新井白石を登用して、主に正徳金銀の発行などの財政改革を行ったとあり、いわゆる貨幣の改鋳ですが、その際に勘定奉行として荻原重秀(万治元年(1658年) - 正徳3年9月26日(1713年11月13日))が重用されたとあり、まあ間部詮房などは名前でも曲直瀬道三以来のマナのシンボリズムなわけですが、生年月日が166661というなかなかすごい回文数であり、また新井白石に憎まれた貨幣改鋳を行った荻原重秀も没年月日で31113と明確な回文数を認めており、この時期に新井白石が1709-1714年と最後の教皇使節のジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティの取り調べを行っており、いかに金銀の貿易での流通が日本でのキリスト教布教の使命の一つであったかが伺われるシンボリズムの事例であり、オギワラの名前のシンボリズムはちょっとわかりませんが、貨幣改鋳によってインフレーションが発生して元禄文化は終焉したそうです。現代の日銀総裁のシンボリズムのようでもあります。(インフレによるか、デフレによるかの議論があるようです。)
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7代家継(宝永6年7月3日(1709年8月8日)-正徳6年4月30日(1716年6月19日))になると生没年のシンボリズムはなかなか認めるわけですが、4歳で将軍になって、6歳で早世するという、まあ実権も何もないと、北条氏の執権職みたいな武家政権のいつもの形になっていて、間部詮房と新井白石がそのまま実権を握っていて、新井白石は荻原重秀の行った貨幣改鋳の是正を行って、まあ元禄文化の終焉となったとあり、バブル経済の総量規制みたいなものでしょうか。間部詮房は独身で大奥と関係が深かったとかあり、まあ貴族政ではないですが、朝廷と同じく将軍独裁ではなく、大奥や周辺の茶坊主など結局そういう権力周辺の合議制になっていくというのが、まあ封建制の政治形態なわけです。
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それで合議制で大奥などの後押しで8代将軍に就任したのがかのテレビで有名な暴れん坊将軍こと徳川吉宗(貞享元年10月21日(1684年11月27日)-寛延4年6月20日(1751年7月12日))です。紀州徳川家2代の4男という事で、湯屋番の娘にお手付きして生まれた子供という事で、通常であれば藩主になる可能性すらないわけですが、父親も兄たちも皆早世して、22歳で運よく藩主となり、10年の地方藩主の経験を積み重ねて後の32歳の時点で、家継の急死で急遽運よく8代将軍になったという、まるで現代日本の地方知事から運よく首相になるようなそういう出来過ぎた話であるわけですが、明確なシンボリズムもなく、関西の高野山の麓であり、色々人間性で選ばれたというのが本当のようです。政治としては目安箱の設置や大岡忠相の任命、江戸火消しの設置や小石川養生所の設置など、いわゆる享保の改革としてテレビでも有名な政治を行い、その後1745年には息子の恐らく脳性麻痺であった家重(正徳元年12月21日(1712年1月28日)-宝暦11年6月12日(1761年7月13日))に将軍職を譲り、大御所政治を行っていましたが、翌年の1746年に脳卒中の発作を起こし、1751年には脳卒中の再発作で亡くなったとの事です。米将軍とも呼ばれ、米相場の安定を図り、倹約と増税を行って、農民一揆は頻発したとあり、必ずしも庶民にとって善政であったわけではなさそうですが、江戸町民の人気は高かったようで、ベトナムからの象ブームや花見の桜植樹、蘭学ブームなど、ブームを巧みに利用したようで、貨幣の改鋳などで好景気も演出したりと何やら現代政治に繋がるところも大いにありそうです。全体的には高野山真言宗の影響が強かったのでしょうねえ。吉宗という家のつかない名前がそれだったようです。8代の復活の数字と、八正道の交わりがそれなのでしょうねえ。小石川養生所などはキリスト教の主要な政策の徳川幕府での初めての実現ととらえることが出来そうです。
そしてこれは完全に追記ですが、享保の改革の頃に薩摩芋の普及を行い、甘藷先生と呼ばれた青木昆陽(元禄11年5月12日(1698年6月19日) - 明和6年10月12日(1769年11月9日))も生年月日で619の回転対称、没年月日で69の回転対称と9119の回文数を認めています。薩摩芋の日本での栽培についてはイギリス商館長のリチャード・コックスによる平戸での記録があるようです。
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9代将軍家重は言語不明瞭で側用人の大岡忠光のみが言葉を聞き取れたとあり、長男の家治(元文2年5月22日(1737年6月20日)-天明6年8月25日(1786年9月17日))が聡明であったので、1760年に将軍職を譲って、一応大御所政治となったようです。頻尿で小便を漏らしていたとあり、遺骨も歯ぎしりの跡が明確であるなど、脳性麻痺の疑いが強いですが、この人の最大の功績は江戸時代中の悪名高き田沼意次(享保4年7月27日(1719年9月11日)-天明8年6月24日(1788年7月27日))を老中として取り立てた事であり、明確に生没年月日で西暦、和暦で1991、911、6月24日、7887、727のシンボリズムを認め、田沼意次の政治自体が長崎のオランダカピタンの意向を汲んだものであった可能性が高いと思われます。死因は排尿障害からの慢性腎不全ではないかと考えられているようです。10代将軍家治は田沼意次に政治を任せて、自身は将棋など趣味に傾倒していたようですが、田沼意次は印旛沼の干拓など行い、これはスコットランドのインバネスの地名にかけているのではないかとも思われますが、とにもかくにも記録のある来日した最初のフリーメイスンであるブラザーイサーク・ティチングと謁見したのが家治であるという事で、次代の家斉の時代の化政文化の元となる基盤を作ったわけであり、まあ無茶なことはしなかったという事だと思われます。家治の死と同時に田沼意次も失脚しますが、田沼意次の暗殺説もあるそうです。
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11代将軍家斉(安永2年10月5日(1773年11月18日)-天保12年閏1月7日(1841年2月27日))はまあはっきりと西暦でシンボリズムを認めて、和暦でも5の倍数の生年月日と公現祭にあたる没年月日と、如何にもカトリックという感じのシンボリズムを認めるわけですが、イルミナティのアダム・ヴァイスハウプトは将軍就任時の1787年にも健在で、イルミナティの結成自体はアメリカ建国と同じ1776年ですので、まあ数秘術ありきで、家斉の様子はハプスブルク家のブラザーフランツ1世と同じようなものであったとか、色々あるのかもしれませんね。ちなみにハプスブルク家の全盛期を演出したマリア・テレジアの夫であるブラザーフランツ1世は生没年月日が1708年12月8日-1765年8月18日と何やら釈迦の成道会と最澄の生誕日と仏教の記念日二つと重なるようです。ヨーロッパの政治にイエズス会のキリスト教布教が影響を与えている様子がうかがえるでしょうか。御三卿の田安家から養子に出ていて将軍になれなかった白河藩の松平定信(宝暦8年12月27日(1759年1月25日)-文政12年5月13日(1829年6月14日))の寛政の改革が行われるわけですが、これは批判も多く5年程度で失脚したようですが、この時期にフランス革命が被ることから、オランダの勢力が弱まり、ロシアとの外交的緊張があったりしたそうです。家斉の治世では1828年にシーボルト事件があり、シーボルトが国外追放となっています。シーボルトもSieboldと綴り、アダム・ヴァイスハウプトと同じバイエルンの出身のドイツ人ですが、Sie boldであなたの大胆さという意味になるようで、四元徳のFortitudeの意味になるようです。その後天保の大飢饉があり大塩平八郎(寛政5年1月22日(1793年3月4日)-天保8年3月27日(1837年5月1日))の乱がありました。乱後に潜伏中に爆死した日が5月1日なわけですが、まあフランス革命後でイルミナティ結成後ですので、日本の義士による反乱であったわけですが、火事により多くの関係ない市民が亡くなったそうですが、まあイルミナティも関係してそうです。また同時期の1837年に浦賀にアメリカ商船のモリソン号が近づき、幕府の命令で砲撃して、追い払ったモリソン号事件があり、それに関連して開国を唱えるシーボルトに学んだ高野長英(文化元年5月5日(1804年6月12日) - 嘉永3年10月30日(1850年12月3日))とそれを支援した田原藩家老の渡辺崋山(寛政5年9月16日(1793年10月20日) - 天保12年10月11日(1841年11月23日))が自死に追い込まれる蛮社の獄が起きています。高野長英は名前などは完全に高野山系のシンボリズムですが、シーボルトに学んでピタゴラスからガリレオ・ガリレイまでの科学史をオランダ語の翻訳で講義していたというので、まあそういう動きなんでしょうね。没年月日がザビエルの聖祝日となっています。渡辺崋山は画家としての方が有名かもしれません。肖像画が多いわけですが、もちろん明らかに西洋画の手法が反映されているものと思われます。没年月日はやはり111のシンボリズムを認めます。まあこの家斉の治世の文化文政時代の文化を化政文化と言って、元禄文化と並ぶ江戸時代の町民文化の隆盛として挙げられるわけですが、元禄文化がそもそもの隠れキリシタン文化の発露であったわけですが、化政文化はアメリカ独立戦争後、フランス革命後のイルミナティ結成後ということで、以上の流れを考慮すると、隠れキリシタン文化の再来ではなく、蘭学の興隆を主とした、フリーメイスンリー、イルミナティ文化の最初の日本での興隆ととらえられるようです。そう考えると田沼意次のシンボリズムとその存在の影響が大きいことが分かるかと思います。この時期に活躍した文化人でシンボリズムが認められる人は、滑稽本作者の式亭三馬(安永5年(1776年) - 文政5年閏1月6日(1822年2月27日))がおり、生年がイルミナティ結成年となっていて、名前にも三が入っており、没年月日の西暦での2222はなかなかのシンボリズムでしょうか。「南総里見八犬伝」の作者で有名な曲亭馬琴(明和4年6月9日(1767年7月4日) - 嘉永元年11月6日(1848年12月1日))は生月日がアメリカ独立宣言の日で、そのおよそ10年前の生まれなわけですが、和暦で69の回転対称、西暦の767、77の回文数、没年月日の和暦の116、西暦の18481、121の回文数となかなか興味深いシンボリズムを認めます。かなりマイナーなようですが戯作者の柳亭種彦(天明3年5月12日(1783年6月11日)- 天保13年7月19日(1842年8月24日)は没年月日で西暦で42824の明確な回文数を認めています。また浮世絵師、美人画で有名な鈴木春信(享保10年(1725年) - 明和7年6月15日(1770年7月7日))は没年月日で西暦で77077とこれまた明確な回文数を認めており、作品もボストン美術館や大英博物館に多数収蔵されています。俳句で有名な与謝蕪村(享保元年(1716年) - 天明3年12月25日(1784年1月17日))も没年月日が和暦でクリスマスです。また小林一茶(宝暦13年5月5日(1763年6月15日)- 文政10年11月19日(1828年1月5日))も和暦でシンボリズムを認めています。ゴッホやモネにも影響を与えた、「東海道五十三次」を描いた有名な浮世絵師の歌川広重(寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日))も没年月日で西暦で18581の回文数を認めています。妖怪の図や、裸の人が集まって人間の顔を形作る、風変わりな浮世絵を残した歌川国芳(寛政9年11月15日(1798年1月1日 ) - 文久元年3月5日(1861年4月14日))も和暦、西暦ともに1115や11、1414といったシンボリズムを認めています。西洋画の影響もあったのかと思われます。円山応挙(享保18年5月1日(1733年6月12日)- 寛政7年7月17日(1795年8月31日))の高弟の長沢芦雪(宝暦4年(1754年) - 寛政11年6月8日(1799年7月10日))は没年月日で179971とかなり桁数の多い回文数を認めています。師の円山応挙も和暦で5月1日生まれで、717の回文数の没年月日とシンボリズムはあるようです。平賀源内(享保13年(1728年) - 安永8年12月18日(1780年1月24日))とつながりのある洋風画家の司馬江漢(延享4年(1747年) - 文政元年10月21日(1818年11月19日))は没年月日で18181と1119のシンボリズムを認めています。平賀源内は当時のオランダ商館を中心とした蘭学の流行のネットワークの中心にいたようです。名前の平やGの音などがシンボリズムのようです。和暦で没年月日が81218の回文数となるようです。解体新書の表紙絵を描いたとされる小田野直武(寛延2年12月11日(1750年1月18日) - 安永9年5月17日(1780年6月19日))は生年月日で西暦で118のシンボリズム、没年月日で619の回転対称のシンボリズムを認めるようです。琴の作曲家の八重崎検校(安永5年(1776年)頃 - 嘉永元年9月11日(1848年10月7日))は没年月日で18481と回文数を認めています。寛政の改革に影響を与えた儒学者として古賀精里(寛延3年10月20日(1750年11月18日) - 文化14年5月3日(1817年6月17日)がいて、生年月日で西暦で1118を認めています。また古賀精里と共に寛政の三博士と呼ばれた尾藤二洲(延享2年10月8日(1745年11月1日) - 文化10年12月4日(1814年1月24日))は西暦で諸聖人の日生まれとなっています。また儒学者で日米和親条約にも関り、孫娘が昭和の宰相の吉田茂の養母となった佐藤一斎(安永元年10月20日(1772年11月14日)- 安政6年9月24日(1859年10月19日))は生年月日で1114、没年月日で91019と回文数を認めています。やはり儒学者で、蛮社の獄では渡辺崋山の減刑を訴えた松崎慊堂(明和8年9月29日(1771年11月5日) - 天保15年4月21日(1844年6月6日))も生年月日で1771、111の回文数、没年月日で44,66の回文数を認めています。国学者で「古事記伝」の作者で有名な本居宣長(享保15年5月7日(1730年6月21日)-享和元年9月29日(1801年11月5日))は没年月日で111の回文数のシンボリズムを認めています。賀茂真淵(元禄10年3月4日(1697年4月24日)-明和6年10月30日(1769年11月27日))、本居宣長に学んだ国学者の加藤千蔭(享保20年3月9日(1735年4月1日) - 文化5年9月2日(1808年10月21日))は没年月日で18081の回文数を認めています。杉田玄白(享保18年9月13日(1733年10月20日) – 文化14年4月17日(1817年6月1日))と共に「ターヘル・アナトミア」を翻訳して「解体新書」を出版した前野良沢(享保8年(1723年) - 享和3年10月17日(1803年11月30日))は没年月日が西暦でスコットランドの守護聖人のセントアンドリューの日の11月30日であり、031130の回文数を認めます。杉田玄白・前野良沢の弟子である大槻玄沢(宝暦7年9月28日(1757年11月9日)- 文政10年3月30日(1827年4月25日))は生年月日で17571の回文数を認めます。大槻玄沢の後継者の宇田川玄真(明和6年12月28日(1770年1月24日) - 天保5年12月4日(1835年1月2日))の弟子の織田信長の7世の孫で、織田秀信の5世の孫の坪井信道(寛政7年1月2日(1795年2月20日)- 嘉永元年11月8日(1848年12月3日))は没年月日で西暦で18481の回文数と、ザビエルの聖祝日の没日となっています。数学者、経世家であった本多利明(寛保3年(1743年) - 文政3年12月22日(1821年1月25日))は没年月日で2112の回文数を認めています。儒家で経世家の海保青陵(宝暦5年(1755年) - 文化14年5月29日(1817年7月13日))は没年月日で1771の回文数を認めます。まあ全体的に蘭学と儒学と画家と作家など江戸時代のマスメディア関連が多いわけですが、社会に与える影響の度合いが強い仕事という事で、そういうところとシンボリズムの強弱があるという、フリーメイスンリーなんだと思われます。
1024px-Tokugawa_Ienari.jpg800px-Frans_I_von_Habsburg.jpgMatsudaira_Sadanobu.jpgシーボルト_川原慶賀筆1024px-Oshio_Heihachiro.jpgMorrisonShip.jpg800px-Takano_Tyouei.jpg800px-Watanabe_Kazan.jpg800px-Shikitei_Sanba.jpg800px-Kyokutei_Bakin.jpg800px-Ryutei_Tanehiko.jpg800px-Suzuki_Harunobu_001.jpgYosa_Buson.jpgKobayashi_Issa-Portrait.jpg800px-Memorial_Portrait_of_Hiroshige,_by_Kunisada800px-Self-portrait_of_the_shunga_album.jpg円山応挙_近世名家肖像Tigre_rosetsu.jpgA_Portrait_of_Kyūkei_Hiraga_croppedPortrait_of_Shiba_Kokan.jpgNaotake1.jpgKoga_Seiri.jpgEHIME_82_2_1_0_0_1.jpg800px-A_portrait_of_Satoh_Issai_by_Watanabe_Kazan.jpg松崎慊堂_近世名家肖像Motoori_Norinaga_self_portrait.jpg1024px-Kamo_no_Mabuchi.jpg1024px-Kato_Chikage.jpgSugita_Genpaku.jpgMaeno_Ryotaku.jpg大槻玄沢800px-TSUYAMA_ARCHIVES_OF_WESTERN_LEARNING04bs3840.jpg
さてまあ蘭学の時代になって明らかに長崎出島のフリーメイスンリーロッジの影響が出てきたところで、歴代のカピタンでウィキペディアでわかる人に着目していこうかと思います。島原の乱後にオランダ商館長となった第8代オランダ商館長 フランソワ・カロン(1600年 - 1673年4月5日)については島原の乱のところで触れましたが、この時期のオランダ商館長はほぼ同時に台湾のオランダ領の長官となっていることが、フリーメイスンリー的には重要と思われます。いわゆる洪門会における鄭成功起源説の由来と思われ、明治維新後の日本の台湾併合から、第二次世界大戦後の国共内戦後の台湾の中華民国の成立でしょうか。第16代・第21代オランダ商館長のフレデリック・コイエット(1615年頃 - 1687年10月17日)は没年月日で71017の回文数のシンボリズムを認めるのですが、日本を訪れた最初のスウェーデン人との事で、まあ長崎のオランダ商館が現在のEUの出先機関のようであったという事が分かるかと思います。フレデリック・コイエットは複雑なヨーロッパの政治情勢もあって、マカオのポルトガル勢力と台湾の鄭成功の勢力と同時に対峙して、最終的に捕虜となりオランダに送還され、最後はオランダで亡くなりますが、スウェーデンの爵位も受けているそうです。また上述した亡命フランス人のユグノーであったフランソワ・カロンと義兄であったとの事で、いわゆる近代フリーメイスンリー結成前の実質的なフリーメイスンであるようです。第142代オランダ商館長のブラザーイサーク・ティチング(1745年1月10日-1812年2月2日)は清との交流も活発に行い、徳川家斉の岳父であった島津藩の島津重豪(1745年11月29日(延享2年11月7日)-1833年3月6日(天保4年1月15日))とも積極的に交流して、情報を収集していたそうです。島津重豪の没年月日には333のシンボリズムを認めます。ブラザーイサーク・ティチングはパリの多くのフリーメイスンが埋葬されているペール・ラシェーズ墓地に葬られていますが、墓は一部壊れてしまっているようです。もちろん生没年月日のシンボリズムも11、181、222と回文数で明確です。第156代オランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフ(1777年12月2日 - 1835年10月19日)はいわゆるヅーフ辞書で有名で、蘭学の普及に貢献したわけですが、その商館長の時代はオランダがフランス革命によりフランスに占領されていた時代で、その後イギリスの植民地接収を受け、イギリス船の圧力を受けていたそうです。フランスにより占領されていた時代にはアメリカとの契約により、アメリカ船をオランダ船に偽装して長崎に入港していたとあり、ペリー来航前の日本を巡る国際情勢は日本にとっては奇々怪々でしょうか。ヘンドリック・ドゥーフは日本人との間に子供もいたそうで、苗字は道富と当て字を使用したそうです。また最初に俳句を詠んだ西洋人だそうで、「春風やアマコマ走る帆かけ船」という句が残っているそうです。アマコマは何でしょうねえ。生没年月日は17771、22、101の回文数を認めます。ここまで挙げたカピタンはいずれも回想録や書簡集など記録を残しているようです。ヘンドリック・ドゥーフの次代の第157代オランダ商館長のヤン・コック・ブロンホフ(1779年8月5日-1853年10月13日)は没年月日で31013の回文数を認めますが、ヅーフ辞書に続き、日英辞書を作成したそうです。オランダ人ですが、プロイセンに亡命して、プロイセン軍としてイギリスに渡ったそうです。その後オランダに復帰して、出島の倉庫番になったという経歴です。一度はジャカルタでイギリスに捕まってイギリスに送り返されたところでオランダに引き渡され、その後オランダ人と結婚して今度は商館長として出島に来るも、妻と一緒に来たことで幕府が反発して、家族はオランダに帰されたそうです。徳川家斉とも謁見したそうです。最後のカピタン、第166代オランダ商館長(1813年4月21日 - 1879年11月27日)はヤン・ドンケル・クルティウスという方で、まあフリーメイスンだと思いますが、日本人最初のフリーメイスンとしてブラザー西周、ブラザー津田真道がライデン大学でフリーメイスンになった事ばかりが喧伝されて、それを斡旋したであろう長崎出島のフリーメイスンリーロッジについてはまあ触れられることはないわけですが、その責任者がこの方なんでしょうね。英米仏の華々しい外交とは一線を画して、ブラザーサーオールコックやブラザーペリー、ハリスやロッシュ、パークス、ブラザーグラバーなどとは注目の度合いも異なるわけですが、まあ長崎は日本のキリスト教史、フリーメイスンリー史の聖地であることは間違いないようです。
Houckgeest.jpgFrederick_Coyett.jpgHendrik_Doeff_by_Charles_Howard_Hodges.jpgHendrikDoeffJapan.jpgDoeff-Halma_Dictionary001.jpg1920px-BlomhoffJapan.jpgJan_Cock_Blomhoff_1.jpgRolschildering-_Titia_Cock_Blomhoff,_de_bediende_Marateij,_het_zoontje_Johannes_Blomhoff_en_de_min_Petronella_Munts-_Stichting_Nationaal_Museum_van_Wereldculturen_-_RV-5824-17800px-Vase_with_picture_Titia_Bergsma.jpgJanus_Henricus_Donker_Curtius_(1813–1879)Uni-Leiden-seal.png
さてまあまた再び長くなったのでここで章を切ります。すでに新元号が発表されていますが、やっと次章で明治維新に入りそうです。
2019-04-01 19:50 | カテゴリ:明治・大正・昭和・平成
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さて新元号も発表されて、「令和」というものになったわけですが、これについては昭和、平成の後にフリーメイスンリー的解釈を披露しようかと思いますが、それはともかくブログの方の流れはまだ江戸時代の天保、天明時代という事で、激動の明治維新に取り掛かろうかと思います。
家斉は将軍でいたのが50年で生まれた子供が50人以上でそのうち半数が成人したとあり、江戸時代の一つの盛期ではあったわけですが、社会不安は増大し、大きな災害や戦乱が無い分庶民の生活が安定して自由を求める要求が大きくなる結果、蘭学の隆盛や体制や政治に対する批判が高まり、一方で安定により腐敗政治が広まるという、若干カトリック的な展開にフリーメイスンリーやイルミナティ的な社会変革運動が入るという、ヨーロッパのフランス革命を反映させた社会情勢となるようです。家斉は晩年の63歳の時点の天保8年(1837年)4月に家慶に将軍職を譲って大御所政治に入りますが、天保12年(1841年)閏1月7日に67歳で人知れず息を引き取ったという事で、最後は感染性胃腸炎からの腹膜炎の疑いという事で、現代でいうと90-100代の老衰に近い感染症の死という事でしょうが、権力の継承はあったものと思われます。
次代の第12代将軍 徳川家慶(寛政5年5月14日(1793年6月22日)-嘉永6年6月22日(1853年7月27日))というのが、日本史的には極めてマイナーで取り上げられることも少ない将軍なわけですが、それにはきちんとした理由があるわけです。生没年月日を見ると、西暦の6月22日生まれと、6月24日に近い徳川将軍という事で、これ自体かなり15代の中では珍しいことなわけですが、6月生まれでは第6代将軍家宣の6月11日と第10代将軍家治の6月20日があるわけで、やっと寄せて寄せて第12代将軍で6月22日と近づいたみたいな感じとなっています。織田信長が最初から6月23日頃なんてのと時間のスケールが違うんですね。また家慶は読みがそのままのイエズスのイエとヨシュアのヨシの合成になっていて、名前のシンボリズムも二重となっています。それで没年月日が和暦で6月22日とまあこれまたちょっと織田信長みたいになってくるわけです。それで家慶の時代に何があったかというとまず最初は腐敗した父親の時代の一掃のために天保の改革を行うわけです。1837年に45歳で将軍職を譲られており、それまで何をしていたかというと唯々将軍後継として江戸城でオットセイ将軍と呼ばれる父親の御相伴をしていたわけで、家斉が日蓮宗であったのに対して、家慶は浄土宗であったとあり、そもそも将軍が日蓮宗であることもかなり珍しいわけですが、40年以上の色々な鬱憤が一斉に父親の死によって出たというところがあるようですが、水野忠邦(寛政6年6月23日(1794年7月19日)-嘉永4年2月10日(1851年3月12日))によって推し進められた天保の改革は倹約や蘭学の抑制や緊縮財政といった時代に合わない政策であり、その上幕府直轄領を増やそうとして反発を食らうなど、いわゆる啓蒙専制君主の反動政策の様子と若干似ているところもありますが、そういう内政での失敗と、その後に幕末の井伊直弼までの間を老中阿部正弘(文政2年10月16日(1819年12月3日) - 安政4年6月17日(1857年8月6日))が取り仕切るわけですが、モリソン号事件(1837年(天保8年))やその後の蛮社の獄(1839年(天保10年))などで外圧による社会変革の流れが生じ、1846年(弘化3年)にはアメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルが浦賀へ来航して通商を求めたそうですが鎖国を理由に拒否し、最終的に1853年7月8日(嘉永6年6月3日)のブラザーマシュー・ペリーによる黒船来航となるわけです。事前にオランダカピタンのヤン・ドンケル・クルティウスによる来航の事前通告もあったそうです。幕末の老中阿部正弘の生誕日はザビエルの聖祝日のようです。1853年7月11日(嘉永6年6月6日)に恐らくブラザーマシュー・ペリーは江戸湾内の現在の八景島付近の測量と探索を行うとともに、独立記念日の祝砲と称して空砲を発射したようです。当時すでに徳川家慶は病床に臥せってしまっていて政治的判断ができる状況ではなかったそうで、幕府は黒船の威嚇の前に1853年7月14日(嘉永6年6月9日)に久里浜への上陸を許可しました。そこで各藩が警備にあたる中でブラザーペリーは浦賀奉行に大統領の国書を手渡して、1年後の再来を通告しました。その翌日には再び東京湾内を探索して、1853年7月17日(嘉永6年6月12日)に香港に向かって引き揚げたとの事です。徳川家慶はその10日後の嘉永6年6月22日(1853年7月27日)に恐らく食事が食べられない脱水症で亡くなったようです。この一連の事件を境に一気に日本は開国、尊王攘夷、公武合体、倒幕へと社会は動き始め、いわゆる明治維新といわれる時代に入るわけですが、その時の日本の最大の権力者であった徳川将軍は西暦での自らの誕生日であった数秘術を含んだ6月22日の和暦での日に亡くなっていたのでした。
1024px-Tokugawa_Ieyoshi.jpgMizuno_Tadakuni.jpgMasahiro_Abe.jpgCommodore_Matthew_Calbraith_Perry.pngUSS_Mississippi_1863.jpg
さて明らかに日本は国難の時代に入るわけですが、最高責任者は早々に亡くなり、その後継者になるわけですが、脳性麻痺の疑いもある、人前に出ることを憚る将軍という事で、側近の老中が非常に重要になるわけです。第13代将軍は徳川家定(文政7年4月8日(1824年5月6日)-安政5年7月6日(1858年8月14日))という事で、第8代将軍の吉宗が運よく将軍になったのとは反対に、国難の時代に英邁ではないが成人したのが20人以上いて1人だけと、なかなか完全に神の差配なのだと思われますが、最初から英邁の評判の高い一橋慶喜を後継に推す声があったとの事で、色々人材の評判は立っており、それに伴って明治維新という大事業に向けて適材適所で活躍の場があった模様です。嘉永7年1月16日(1854年2月13日)ブラザーペリーが再来日して嘉永7年3月3日(1854年3月31日)に日米和親条約が老中阿部正弘の主導の下で結ばれます。徳川家定の病状は進行して廃人同然であったとの事です。日米和親条約締結後の重大事件はなんといっても安政の大地震です。このブログのシリーズでは秀吉時代の文禄・慶長の役の間の慶長の大地震が最もそれに近いものでありますが、秀吉時代は明と朝鮮との外交、戦争中であったわけですが、幕末のこの時代は主にアメリカを中心とする、英仏蘭露といったヨーロッパ列強との外交交渉の真っただ中であったわけです。地震大国日本での特有の政治や外交と地震との関連を示す事象であるわけですが、ヨーロッパでも同様の地震と津波で有名なものがあって、それが1755年11月1日の大津波を伴ったリスボン地震であり、地震後にイエズス会が追放されたり、当時結成から40年程度のフリーメイスンリーがカトリックから弾圧されている地であった事などがあり、その後の啓蒙思想の展開に大きく影響したそうです。またイタリアでは何度も直下型地震に見舞われており、1908年12月28日のメッシーナ地震では地滑りによると考えられる津波を伴っていて大きな被害を出したそうです。安政大地震と一般には呼ばれますが、安政への改元は地震後であったとの事であり、当時の元号では嘉永であったようです。嘉永7年6月15日(1854年7月9日): 伊賀上野地震(安政伊賀地震)、嘉永7年11月4日(1854年12月23日): 安政東海地震(東南海地震含む)、津波でディアナ号遭難、嘉永7年11月5日(1854年12月24日): 安政南海地震、稲むらの火のモデル、嘉永7年11月7日(1854年12月26日): 豊予海峡地震と主に西暦で1854年のクリスマスイブの前後で日本全体に幅広く被害をもたらし、特に豊予海峡地震では、慶長豊後地震での津波被害もあった臼杵の地域も倒壊により被害にあったとの事です。下田にも津波被害があり、その2年後にハリスが領事として着任しています。地震の影響で嘉永7年11月27日(1855年1月15日)に安政に改元しています。しかしその後も地震は続き、安政2年10月2日(1855年11月11日): 安政江戸地震が起こり、小石川の水戸藩邸で藤田東湖・戸田蓬軒が圧死しています。これも明確な西暦での日付のシンボリズムを認め、この地震による水戸藩へのその後の政治的な影響は大きかったものと思われます。安政3年7月21日(1856年8月21日)タウンゼント・ハリス(1804年10月3日 - 1878年2月25日)が下田に着任し、幕府との交渉を開始します。安政4年6月17日(1857年8月6日)に老中阿部正弘が37歳で急死して、その後は佐倉藩藩主で蘭癖を言われた老中堀田正睦(文化7年8月1日(1810年8月30日)-元治元年3月21日(1864年4月26日))が引き継ぎます。老中阿部正弘の死因は不明だそうです。阿部正弘の11代前の初代の阿部正次は大坂冬の陣で大坂城に一番乗りをして、夏の陣後の天下普請後は大坂城代を長く勤め、大坂城で亡くなったそうです。堀田正睦の佐倉藩は蘭方医の佐藤泰然を招聘し、佐倉順天堂を開設し、そこから後にブラザー林董が出ています。アメリカ総領事タウンゼント・ハリスは幕府全権岩瀬忠震(文政元年11月21日(1818年12月18日)-文久元年7月11日(1861年8月16日))・井上清直(文化6年(1809年) - 慶応3年12月25日(1868年1月19日))と安政4年12月11日(1858年1月25日)から15回の交渉を行い、自由貿易を骨子とする条約内容に合意して、これを受け、老中首座堀田正睦は孝明天皇の勅許を得るために安政5年2月5日(1858年3月19日)に入京しましたが、天皇は3月20日(1858年5月3日)に勅許を拒否したそうです。一方幕府では、老中松平忠固(文化9年7月11日(1812年8月17日)-安政6年9月14日(1859年10月9日))が「朝廷に屈することは幕府権威の低下につながる」として、無勅許調印を強行に主張し、大老井伊直弼(文化12年10月29日(1815年11月29日)-安政7年3月3日(1860年3月24日))も最終的にこれに同意、無勅許のまま日米修好通商条約は調印されたとの事です。同年中に幕府はオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同内容の条約を結びました。これら条約に対しても勅許は得ておらず、朝廷側から見れば違勅の状態にあったとの事です。条約の正式名称と調印日は日米修好通商条約(安政5年6月19日(1859年7月18日))・日蘭修好通商条約(安政5年7月10日(1859年8月8日))・日露修好通商条約(安政5年7月11日(1859年8月9日)・日英修好通商条約(安政5年7月18日((1859年8月16日))・日仏修好通商条約(安政5年9月3日(1859年9月28日))だそうです。いわゆる不平等条約で、天皇の勅許が無かったことから、その後の尊王攘夷運動に繋がるわけですが、幕府の近代化政策の推進とも重なるようです。幕府はその後同様の条約をポルトガル、プロシア、スイス、ベルギー、イタリア、デンマークと結び、明治になってから、明治政府が同様の不平等条約をスペイン、スウェーデン・ノルウェー、オーストリア・ハンガリーと結び、それらはいわゆるその後の陸奥宗光(天保15年7月7日(1844年8月20日) - 明治30年(1897年)8月24日)の条約改正まで続くわけです。最初の日米修好通商条約に全権として参加した岩瀬忠震の西暦の生没年月日に81218と61816の回文数を認めます。岩瀬忠震は伊達政宗の子孫であるようですが、母方は林羅山の家系であるようです。安政の大獄で失脚して42歳で蟄居のまま亡くなっています。同様に全権であった井上清直も没年が旧暦でクリスマスとなっていて、実兄が川路聖謨で、大分県日田市の貧しい代官の家の出身との事です。ちなみに条約改正を行った陸奥宗光の生年月日も8448の回文数を認めます。
1024px-Tokugawa_Iesada.jpg800px-Tokugawa_Yoshinobu_with_rifle.jpgMasahiro_Abe_201904022009491fb.jpg1755_Lisbon_earthquake.jpgAnsei_Great_Earthquake_1854_1855.jpg藤田東湖800px-Toda_Chudayu.jpg800px-Townsend_Harris.jpgHotta.jpgIwase_Tadanari.jpg375px-Ii_Naosuke.jpgMunemitsu_Mutsu_2.jpg
日米和親条約締結後幕府は老中阿部正弘、老中堀田正睦の元で海軍を創設し、長崎海軍伝習所(安政2年ー安政6年(1855年-1859年)、後の長崎造船所の元)、築地軍艦操練所(1857年(安政4年)-大政奉還まで)を創設しています。これらは井伊直弼大老の時代に停止されました。その後将軍後継を巡る南紀派対一橋派の対立から安政の大獄が生じます。将軍家定は安政5年6月25日(1858年8月4日)、諸大名を招集して慶福(後の家茂)を将軍継嗣にするという意向を伝え、安政5年7月5日(1858年8月13日)に一橋派の諸大名の処分を発表するという異例の行動を見せたそうですが、発表した翌日安政5年7月6日(1858年8月14日)に34歳で急死します。この時処分されたのがいわゆる幕末の四賢候と呼ばれる福井藩第14代藩主松平慶永(春嶽)(文政11年9月2日(1828年10月10日)-明治23年(1890年)6月2日)、土佐藩第15代藩主山内豊信(容堂)(文政10年10月9日(1827年11月27日)-明治5年6月21日(1872年7月26日))、薩摩藩第11代藩主島津斉彬(文化6年3月14日(1809年4月28日)-安政5年7月16日(1858年8月24日))、宇和島藩第8代藩主伊達宗城(文政元年8月1日(1818年9月1日)-明治25年(1892年)12月20日)ですが、それに加えて慶喜の父であった常陸水戸藩の第9代藩主徳川斉昭(寛政12年3月11日(1800年4月4日)-万延元年8月15日(1860年9月29日))らの一橋慶喜を将軍後継と推す勢力であったわけです。家定の死によって将軍となった慶福(第14代将軍家茂)(弘化3年閏5月24日(1846年7月17日)-慶応2年7月20日(1866年8月29日))の下で大老井伊直弼と老中間部詮勝(文化元年2月19日(1804年3月30日)-明治17年(1884年)11月28日)は反対派の粛清を行います。いわゆる安政の大獄なわけですが、この中でもシンボリズムを認める人について見ていくこととします。橋本左内(天保5年3月11日(1834年4月19日) - 安政6年10月7日(1859年11月1日))は福井藩の藩医で適塾で学んだあと藩校である明道館で教師をしている時に捕縛され、伝馬町牢屋敷で25歳で斬首されています。和暦で生月日が311、西暦の没年月日が諸聖人の日となっています。経歴や年齢を見ても、安政の大獄自体が蘭学やそれにまつわる倒幕に繋がるネットワークへの弾圧、見せしめの意味があったのでしょうが、結果的にそういう反幕府の勢力が結集する一つのきっかけとなったというのが見方のようです。頼三樹三郎(1825年7月11日(文政8年5月26日) - 1859年11月1日(安政6年10月7日))は儒学者の頼山陽の三男として京都三本木に誕生した人で、江戸で遊学した際に尊王運動に感化されて寛永寺の石灯籠を破壊して退学処分となっていて、その後に各地を放浪し尊王攘夷運動を続け幕府に危険人物と目され捕縛され、斬首されています。やはり西暦で生月日が711、没年月日は橋本佐内らと一緒です。名前や生誕地の3のシンボリズム、国学者の頼山陽の尊王攘夷運動への影響などから、存在が象徴的であったようです。ちなみに頼山陽(安永9年12月27日(1781年1月21日) - 天保3年9月23日(1832年10月16日))自体も和暦で12月27日の福音記者ヨハネの聖祝日生まれとなっています。飯泉喜内(文化2年(1805年) - 安政6年10月7日(1859年11月1日))は三条実美(天保8年2月7日(1837年3月13日) - 明治24年(1891年)2月18日)の父親の三条実万(享和2年2月15日(1802年3月18日)-安政6年10月6日(1859年10月31日))の家士であったそうで、ブラザーペリー来航の際には「祈りの一言」という題名の建白書を三条実万に提出しているとあり、この辺りが明確に隠れキリシタンの系譜の可能性が疑われます。その後自宅から多数の志士との交流の手紙が出てきて、当初「飯泉喜内初筆一件」と呼ばれた安政の大獄のきっかけとなったそうです。それで諸聖人の日の斬首となっている模様でしょうか。飯泉と言えば、この時代の有名人である二宮尊徳(天明7年7月23日(1787年9月4日)-安政3年10月20日(1856年11月17日))出立のきっかけに小田原飯泉観音の願掛けがありましたが、二宮尊徳の没年月日も西暦で1117となっており、まあ一つの隠れキリシタンネットワークの象徴的な単語であったのかもしれません。そう考えると開国を求める動きの底流にはやはり江戸初期から続く隠れキリシタンネットワークがあったと考えられ、安政の大獄自体がそれに対する旧来からのキリシタン弾圧の流れの動きであったと考えられそうです。小林良典(文化5年3月28日(1808年4月23日) - 安政6年11月19日(1859年12月12日))こばやしよしすけと読むそうです。鷹司家の家来であったようで、尊王攘夷活動をしていて捕らえられ獄中死したそうです。和暦の没年月日で61119の回転対称の形になっています。日下部裕之進(天保7年(1836年) - 万延元年閏3月3日(1860年4月22日))は日下部伊三治(文化11年(1814年) - 安政5年12月17日(1859年1月20日))の長男で、父親も安政の大獄で獄中死していますが、息子もやはり獄死していて、和暦の33となっています。池内大学(1814年12月3日(文化11年10月22日)- 1863年3月11日(文久3年1月22日))は京都の商人の子供として生まれ、儒学で身を成し、徳川斉昭や三条実万と接して尊王攘夷活動を行いますが、安政の大獄の際には井伊大老に自首したことで減刑され、その後その事で疑われ人斬り以蔵(岡田以蔵)(天保9年1月20日(1838年2月14日)-慶応元年閏5月11日(1865年7月3日))に切られたとの事です。池内大学は西暦でザビエルの聖祝日生まれで、没年月日が西暦で3311となっています。岡田以蔵も西暦で生年月日がバレンタインデーとなっています。月照(文化10年(1813年)- 安政5年11月16日(1858年12月20日))は西郷吉之助(文政10年12月7日(1828年1月23日) - 明治10年(1877年)9月24日)と共に入水したことで有名ですが、没年月日は西暦で18581と22の回文数、和暦で1116となっています。万里小路正房(享和2年12月1日(1802年12月25日) - 安政6年10月22日(1859年11月16日))はその名字が信長の将軍補弼の宣旨で出てきた万里小路家なわけですが、この時代も朝幕関係で奔走し、公武合体を唱えたそうですが、武家伝奏となり、水戸藩への密勅降下にも関与して、徳川家茂への将軍宣下も行ったそうで、安政の大獄で処分されましたが武家伝奏を辞任していたため軽い処分であったそうです。恐らくマリアに掛かった名前ととらえられるのでしょうね。構図は信長時代と一切変わらないようです。生年月日が西暦でクリスマスであり、没年月日が西暦で91116の回転対称となっています。
Shungaku_Matsudaira.jpgYodo_Yamauchi.jpgNariakira_Shimazu.pngDate_Munenari.jpgb76de6b414a27e1786f4b104d3664da7-1.jpg220px-Tokugawa_Iemochi.jpgManabe_Akikatsu.jpg800px-橋本左内肖像画(佐々木長淳作)Rai_Mikisaburou.jpg800px-Portrait_of_Rai_Sanyo.jpgKobayashi_Yoshisuke.jpgfdbb4fbe6f839d5414d564e805bb9b67.pngGesho.jpg800px-Saigo_Takamori.jpg
そしてもちろん時代は凄惨な暗殺と戦闘の幕末、明治維新の風雲の時代になるわけですが、それを最初に告げるのはもちろん桜田門外の変であるわけですが、その前に横浜のフリーメイスンリーに関わる一つの事件があります。オランダ人船長殺害事件と呼ばれる日本史でもあまり語られない事件ですが、開港直後の横浜で起こった外国人襲撃事件であり、容疑者不詳のまま幕府が賠償金を払って解決したものです。開港直後の各国の領事館の様子は、アメリカ領事館のホームページによれば1859年1月19日(安政5年12月16日)ハリスは弁理公使に任命され、1859年7月にハリスは下田より江戸に入り幕府より貸与された麻布の善福寺(東京都港区元麻布1-6-21)に公使館と住居を移したそうです。1859年7月1日(安政6年6月2日)に横浜が開港し、1859年7月4日(安政6年6月5日)に横浜の本覺寺(神奈川県横浜市神奈川区高島台1-2)に領事館が開かれたそうです。アメリカ領事館の動きと同じくして1859年7月6日(安政6年6月7日)にブラザーサーラザフォード・オールコック(1809年5月 - 1897年11月2日)により高輪東禅寺に英国総領事館が開設されています。またフランス、オランダ領事館が同様に開かれており、現在の東神奈川周辺になります。その後1863年5月(文久3年4月)に善福寺の火事でアメリカ領事館は横浜の外国人居留地に移ったそうです。また英国領事館も文久元年5月28日(1861年7月5日)と文久2年5月29日(1862年6月26日)と二回の東禅寺事件があり、水戸藩浪士と松本藩士に襲われていて、その後横浜に移ったそうです。このような状況の中で、開港から8か月後の安政7年2月5日(1860年2月26日)午後7時頃、当時の目抜き通りである本町通り(本町4、5丁目付近)で、オランダ人船長のW・デ・フォス(Wessel de Vos, 1818年1月18日 オーデスチルト生まれ)と、商人J・N・デッケル(Jasper Nanning Dekker, 1810年7月31日 ジュトフェン生まれ)が何者かにより斬殺されたのがオランダ人船長殺害事件です。オランダは幕府に犯人の検挙と処刑を要求しましたが、犯人は捕まらず不明のままであったそうで、殺害された二人はフリーメイスンといわれ、葬儀にはメンバーが儀式用正装のエプロンを着用し参列して、日本の攘夷派への示威行為としたとの事です。二人の墓は横浜外国人墓地の最も古い区画である22区に建てられています。その約1か月後に、江戸に潜伏していた水戸藩浪士と元神官達が大老井伊直弼の籠を護衛する彦根藩士を襲ったのが桜田門外の変です。横浜等の鎖港は常に攘夷派によって議論されており、幕府の状況によっては反動もありうるものであったのです。またこの頃安政7年1月18日(1860年2月9日)~安政7年9月28日(1860年11月10日)にかけて福沢諭吉(天保5年12月12日(1835年1月10日) - 明治34年(1901年)2月3日)や勝海舟(1823年3月12日(文政6年1月30日)-1899年(明治32年)1月19日)、小栗上野介(文政10年6月23日(1827年7月16日)-慶応4年閏4月6日(1868年5月27日))やジョン万次郎(1827年1月27日(文政10年1月1日) - 1898年(明治31年)11月12日)を含む最初の遣米使節である万延元年遣米使節団が横浜からアメリカに渡って世界一周して帰国しています。また1859年9月19日(安政6年8月23日)にブラザートーマス・ブレーク・グラバー(1838年6月6日 - 1911年12月16日)はジャーディン・マセソン商会の社員として長崎に上陸しています。またグイド・フルベッキ(1830年1月23日 - 1898年3月10日)は1859年11月7日(安政6年10月13日)に、日本語習得のために長崎に上陸しています。キリスト教宣教師であるシモンズ、ブラウン、ヘボンらもこの頃横浜に来ています。そのような状況の中で安政7年3月3日(1860年3月24日)に桜田門外の変は起こります。18人の水戸藩の脱藩浪士を中心とした構成による刺客が、3月3日の雛祭の江戸城総登城の途上の大老井伊直弼の籠とそれを護衛する彦根藩士を江戸城桜田門のすぐ外で襲撃するわけですが、刺客の構成も実際には14人の水戸藩脱藩浪士と3人の常陸国元神官、1人の薩摩藩脱藩浪士と、尊王攘夷運動や水戸藩への密勅にまつわる神道における詔勅の問題を反映しており、3月3日の実行というのも明暦の大火の西暦での日付や、その後の5代将軍綱吉時代の七五三の成立、いわゆる雛祭の桃の節句の成立は天正年間程度だそうですが、いずれにしても3の聖なる数にまつわる神道における意味付けであったものと思われ、桜田門の場所もやはり桃と桜の、桃園天皇や桜町天皇といった追号とも関連した、当時の桜植樹の影響などもあるかと思われ、薔薇十字会のバラのように象徴としてのバラ科の日本の植物であったと思われ、その後のソメイヨシノの成立とも関連があるのかとも思われます。18名の刺客で大老を含んだ9名がその場で死に、8名が重傷、5名が軽傷で逃げのびその後切腹、残り5名がそのまま逃げてその後切腹という状況は、井伊大老が事前に襲撃の予兆の報告を受けていたにもかかわらず予定通り対応せずに動いていたこととも合わせて、全体として日本神道としてのシンボリズムを含んだ幕政の転換点としての象徴的な事件であったと思われます。井伊直弼の腹心で安政の大獄で指示していた長野主膳(文化12年10月16日(1815年11月16日)- 文久2年8月27日(1862年9月20日))は文久の改革後に井伊家に斬首されています。水戸藩には水戸光圀(寛永5年6月10日(1628年7月11日)-元禄13年12月6日(1701年1月14日))による「大日本史」の編纂の歴史があり、林羅山の系統を引く儒教の陽明学に基づいた、皇国史観でのいわゆる尊王思想が盛んで、織田信長の際の熱田神宮のような、常陸国の鹿島神宮が影響したかと思われますが、水戸藩邸があった小石川後楽園の彰考館を中心として、「大日本史」の編纂や尊王思想の研究が行われました。小石川後楽園の設計には明から招聘された朱舜水(万暦28年10月12日(1600年11月17日) - 天和2年4月17日(1682年5月24日))が関わっており、明月橋の名前や朱子学などに明の国名や建国者の朱元璋と朱子学の朱熹と朱舜水の朱の共通が認められます。異民族による王朝である清の国号の青を含んだシンボリズムとの対比が朱の赤となっているとも考えられます。朱舜水の日本への招聘には柳川藩の儒者の安東省菴(元和8年1月18日(1622年2月28日)-元禄14年10月20日(1701年11月19日))が関わっていて、いずれも生没年月日に西暦でシンボリズムを認め、江戸初期の儒学の興隆に隠れキリシタンネットワークが深くかかわっていることが示唆されます。小石川では5代将軍綱吉の時代に小石川御薬園が設立され、8代将軍吉宗の時代に小石川御薬園が拡張され、さらにその内部に小石川養生所が設立しており、青木昆陽による薩摩芋の試作もここで行われたそうです。いずれにしてもこれら井伊大老を襲撃した刺客を直接的に指示していたのは水戸藩そのものであり、薩摩藩も関与したとはいえ、その後の徳川斉昭(寛政12年3月11日(1800年4月4日)-万延元年8月15日(1860年9月29日))の半年後の急死は報復であった可能性は高いと思われます。没年月日が和暦でイエズス会の結成日、聖母被昇天の祝日であることもシンボリズムと思われます。彦根藩はもちろん徳川四天王の井伊直政の系譜を継ぐ譜代大名であり、佐和山城や安土城、観音寺城、長浜城、大津城を周辺とする彦根城を築城しており、井伊直弼は茶道にも精通しており、隠れキリシタンとしての系譜は明らかにあったと思われ、井の字の聖書での井戸の意味とミカエル十字の記号としてのシンボリズムを含んだ幕府の全権としての、水戸学の藩士の天皇の詔勅を伴った象徴を認めるシンボリズムの事件となります。刺客の現場での中心人物の関鉄之介(文政7年10月17日(1824年12月7日) - 文久2年5月11日(1862年6月8日))の生年月日は和暦で71017の回文数、没年月日の西暦では86268の回文数を認めます。歴代の彰考館総裁では、佐々宗淳(寛永17年5月5日(1640年6月24日) - 元禄11年6月3日(1698年7月10日))が水戸黄門の佐々木助左衛門のモデルとされ、生年月日が西暦で洗礼者ヨハネの日となっており、その同僚で水戸黄門の渥美格之進のモデルとされる、同僚の安積澹泊(明暦2年11月13日(1656年12月28日) - 元文2年12月10日(1738年1月29日))は和暦で1113や2121、西暦で16561と回文数をシンボリズムで認めるようです。鵜飼錬斎(慶安元年(1648年)-元禄6年4月11日(1693年5月15日))は没年月日が西暦でメルクリウスの日のようです。立原翠軒(延享元年6月7日(1744年7月16日) - 文政6年3月4日(1823年4月14日))は生年月日が西暦で174471の回文数になっています。青山延光(文化4年10月23日(1807年11月22日) - 明治4年9月29日(1871年11月11日))は桜田門外の変の際の彰考館総裁ですが、生没年月日で西暦で明確にシンボリズムを認めます。水戸藩はその後天狗党の乱などで藩内の派閥抗争が凄惨を極め、明治政府には多く人材を登用されなかったそうです。
(追記:桜田門外の変で、ちょうど桜の時期であったわけですが、桜のシンボリズムとして、生贄のsacrificeのsacri(聖なるもの)、袋のsac、エジプトの神のラーのRaの合成とも捉えられますが、また日本の象徴でもある太陽の日の丸の丸、circularサーキュラーの音ともとれるようです。グノーシスの円環の蛇や太極図、循環する円の象徴としての法輪、ロータリークラブの象徴などとも重なるようです。堀田正睦やブラザー林董の関係する佐倉藩の音とも同じでしょうか。)
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さてこの辺りから、現存する日本のフリーメイスンリーロッジへの影響もある話になってくるというところだと思いますが、要するに横浜ロッジや、兵庫大阪ロッジなど現在も引き続くフリーメイスンリーロッジの元となるロッジがこの頃外国人居留地で成立し、ちょうどそれはまた尊王攘夷の風が吹き荒れ、外国人襲撃事件が引き続く時代でもあるのです。基本的にこの時代の日本のフリーメイスンリーを統括していたのは明らかにブラザーサーオールコックでしょうし、それはオランダカピタンであるブラザーヤン・ドンケル・クルティウスから引き継いだものであり、その後もほぼ代々の駐日英国大使がその役職を担っていたと思われますが、戦後にブラザーマッカーサーによって再建されて、フィリピングランドロッジから分離独立するまでグランドマスターの存在はありませんので、所属するフリーメイスンの国籍もイギリス、アメリカ、フランス、イタリアなど外国に限定されたわけで、アメリカ大使館がアメリカ人のフリーメイスンリーロッジ、イギリス大使館がイギリス人のフリーメイスンリーロッジ、フランス大使館がフランス人のフリーメイスンリーロッジ、オランダ大使館がオランダ人のフリーメイスンリーロッジといったようになっていて、それに追加して、現地の外国人居留地に住んでいる人々向けに恒久的なイングランドグランドロッジやスコットランドグランドロッジからチャーターしたロッジが別個に開設されるという状況であったと思われます。さてまあそういうフリーメイスンリー対尊王攘夷派という構成であった明治維新なわけですが、そのうち重要な外国人襲撃事件について個別に見ていこうかと思います。それでまずブラザーサーラザフォード・オールコック(1809年5月 - 1897年11月2日)についてなわけですが、以前にもフリーメイスンリーの名簿の話で、ノーザンロッジオブチャイナという上海のロッジのチャーターメンバーとして名簿に名前があったわけですが、ブラザーサーラザフォード・オールコック自体はイギリス本国のBritannic Lodge現在No.33、1840年当時No.38でフリーメイスンになったようで、ノーザンロッジオブチャイナは1849年に恐らくブラザーサーオールコックが上海領事であった時代に、領事公邸の内部か併設した建物でロッジを開設していたようです。このノーザンロッジオブチャイナは1960年まで存続して、最終的に閉鎖になったそうです。シニムロッジはマサチューセッツ系ですが、そちらは上海から1952年に東京に移転して存続しています。また香港では現在までもイングランド系、スコットランド系、アイルランド系のロッジが存続しているそうです。中国でのフリーメイスンリーについてはこちらの論文がありました。まあそういうわけで、ブラザーサーオールコックはフリーメイスンとしてもかなり有力メンバーであり、個人的な論評することはなかなか僭越なわけですが、このブログでは触れないわけにはいきません。
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ブラザーサーオールコックはロンドンの西のイーリングというところでもともとジョン・ラザフォード・オールコックとして、外科医のトーマス・オールコックの子供として生まれたそうです。15歳から医師としての教育を受けていて、ウェストミンスター病院で教育を受け、19歳でパリに留学してフランス語やイタリア語を勉強して、さらに彫刻も習ったとの事です。その後ロンドンでウェストミンスター病院とウェストミンスター眼科病院で研修して、21歳で外科開業医の免許を取得したそうです。23歳から4年間はイギリス軍の軍医としてイベリア半島でカルリスタ戦争に従軍しています。そこでの過労がたたって、リウマチになったとの事で、27歳で外科医としてはリタイアしてしまったそうです。その後外交官となり1844年に35歳で福州領事となります。父親の名前や、外科医としての英才教育、ウェストミンスターでの研修など、明らかに父親もフリーメイスンであったと思われますが、その命名したジョンの名前をどの時点で捨てたのかは不明ですが、本人が捨てた模様で、恐らく、スペインでの従軍医師としての外科医としての過酷な業務の中で、信仰心などの関係でジョンの名前を捨てたのではないかと考えられます。いわゆるヨハネを意味する最もアングロ・サクソンでポピュラーな名前であり、フリーメイスンリーを象徴する名前でもあります。ラザフォードはもともとミドルネームであったようですが、スコットランドの地名由来であり、男性名としてもあるそうです。オールコックはやはりそのまま読むと全ての鶏や男性器の意味となるかと思い、男性の呼称として~コックというのが鳥の呼び名のようで広まったというのがあるそうで、まあちょうどフランスのフリーメイスンリーの啓蒙のシンボルとしての雄鶏と被るので、そこでパリ留学や、その後の中国や日本での活躍に繋がる模様です。オールコックの音で真言のシンボルともなるようです。全体として貴族や外交官の家系ではなかったので、普通のジョンという名前を使わないことで、特徴ある名前となり、外交官としては有利に働いたのかもしれません。中国では15年間福州、上海、広州で領事として働き、首相パーマストン子爵に清を武力制圧するように書簡を送り、1856年のアロー戦争を引き起こしたそうです。スペインのカルリスタ戦争は自由主義と保守主義の対決であったそうで、ブラザーネイサン・ロスチャイルドなどロスチャイルド家もスペイン王家に肩入れしていたそうです。カルリスタ側が赤いベレー帽をかぶっていたようで、その流れはその後フランコ政権に引き継がれていったようです。バスク地方を基礎としていたようです。カルリスタ戦争への従軍で恐らくカトリックやイエズス会の歴史を学び、その後の1840年のアヘン戦争でイエズス会の布教と異なって、東アジアでのフリーメイスンリーは最初から武力を使って中国の租界や租借地を得る方法を行っており、その中でブラザーサーオールコックは15年間中国という国で武力を前提としたフリーメイスンリーのロッジの開設や租界の拡大を行い、中国について知識を深め、その後に日英修好通商条約締結後に初代駐日英国総領事として1859年6月4日(安政6年5月3日)に長崎に入り、1859年6月26日(安政6年5月26日)に品川沖に入り、1859年7月3日(安政6年6月4日)に高輪の東禅寺に入っています。アヘン戦争は有名なジャーディン・マセソン商会のブラザージャーディンや、ブラザーサーマセソンが引き起こしたわけですが、第二次アヘン戦争とも呼ばれるアロー戦争はブラザーサーオールコックが引き起こしたとあり、アロー戦争では北京のイエズス会士が設計した円明園での略奪も行われ、現在復元されつつ保存されているそうです。ちなみにブラザーウィリアム・ジャーディンも外科船医であったそうです。イエズス会士では大分で最初に西洋医学を行ったルイス・デ・アルメイダが有名ですが、その後の戊辰戦争で活躍した従軍医師としてはイギリス人のブラザーウィリアム・ウィリスがいます。それでこれら2回の中国に対するいわゆる侵略戦争の結果、清の開港と租界地の成立、香港島や九龍半島の割譲と、その後の中国大陸への帝国主義諸国の進出が始まるわけですが、同時に日本では西洋諸国の脅威が叫ばれ、尊王攘夷運動から開国しての明治維新へと流れが決定していくわけであり、それはイエズス会の布教が武力を伴わず、最初に日本でザビエルが布教して、その後中国布教が出来ずに亡くなり、秀吉の朝鮮征伐をきっかけとして中国大陸へキリスト教を布教した経路と真逆の経過をとっており、310年前のザビエルの経路を参考として日本に上陸していることが伺えるでしょうか。アヘン戦争当初に中国人がマカオに避難したイギリス人を毒殺しようと井戸に毒を入れた話とも関係するようです。
1920westminsterhospial.jpgWestminster_Hospital_location_-_Stanford_map_of_London_1862.jpg250493.jpg_15656747_53e12c02.jpg06027902.jpgguerras_carlistas.jpgブルゴーニュ十字Imagen1.jpgLord_Palmerston_1863.jpgLord_Palmerston_Blue_Plaque.jpgViscount_Palmerston_statue.jpgWilliam_Jardine_in_Study.jpgJames_Matheson.jpg1280px-18th_royal_irish_at_amoy.jpg1280px-La_bataille_de_Palikiao.jpg10174500-3x2-xlarge.jpgahensenso.jpegmerlin_140068086_739566f5-b83c-4e8e-aa6a-558faec31a36-articleLarge.jpgOpium_Wars,_storming_of_the_Taku_Forts_by_British_troops,_1860opiumwars.jpgChina_1842.jpgOpium_War.jpgOpium-War-cartoon.jpgopium-war-map2-web.pngYuanmingyuan_haiyan.jpg1920px-Looting_of_the_Yuan_Ming_Yuan_by_Anglo_French_forces_in_1860.jpg1280px-Ruins_of_Dashuifa_20130126.jpg1280px-Yuanmingyuan_Haiyantang_20130126.jpgYuanmingyuan04.jpg1024px-Yuanmingyuan_before_the_burning,_Beijing,_6–18_October,_1860800px-Beijing_-_Monkey_head_of_the_old_summer_palace_-_reproduction.jpg800px-Beijing_-_Ox_head_of_the_old_summer_palace_-_reproduction.jpg800px-Beijing_-_Pig_head_of_the_old_summer_palace_-_reproduction.jpg800px-Beijing_-_Tiger_head_of_the_old_summer_palace_-_reproduction.jpg
ブラザーサーオールコックは日本に来てまず何をしたかというと、1859年8月30日(安政6年8月3日)にコレラになったそうです。1859年9月から10月にかけて、もう一つの開港地である函館へ旅行しているそうです。1860年1月29日(安政7年1月7日)にジョン万次郎のような漂流民で、ブラザーサーオールコックが1855年に広州領事に着任して以来通訳をしていた洋装の日本人として有名だった小林伝吉が東禅寺の門前で何者かに切られて亡くなっています。1860年2月10日(安政7年1月19日)今度は麻布善福寺に公使館を置いていたアメリカ総領事のハリスが病気になり、それをブラザーサーオールコックが見舞っています。1860年2月26日(安政7年2月5日)に上述のオランダ人船長殺害事件が発生しています。オランダ総領事の当時の手紙によれば、オランダ人船長殺害事件の犯人は水戸藩が疑われたそうです。1860年3月11日(安政7年2月19日)にアメリカ公使館で英米合同の日曜礼拝をおこなったそうで、その後1860年3月24日(安政7年3月3日)に上述の桜田門外の変が発生しています。ブラザーサーオールコックはその後1860年8月25日(万延元年7月9日)に将軍家茂と面会しています。1860年9月4日(万延元年7月19日)に富士登山のために神奈川を出発し、1860年9月11日(万延元年7月27日)に富士登山しています。頂上ではコーヒーを飲んで、シャンパンを空け、祝砲をあげたりしたそうです。帰りに熱海に寄って滞在し10日目の1860年9月23日(万延元年8月9日)に愛犬のトビーが間欠泉で火傷を負い死んでいます。警戒されない護衛であったのでしょう。ハリスの時の唐人お吉のような芸者遊びの誘いでもあったと思われます。1861年1月14日(万延元年12月4日)米国駐日公使タウンゼント・ハリスの通訳を務めていたヘンリー・ヒュースケン(1832年1月20日 - 1861年1月15日)が攘夷派に襲われ、翌日死去しました。シンボリズムを認めるようです。ヘンリー・ヒュースケンは日本の混浴入浴に興味を持って見に行ったなどあり、生涯独身を貫いたハリスの心証は良くなかったようです。この事件によって、江戸では安全が保障できないとブラザーサーオールコックは横浜に移動していますが、その後一か月で再び江戸に戻っています。当時は鉄道も電話線もありませんので、江戸と横浜では情報の格差がはっきりしていたのだと思われます。後に横浜をイギリス軍が港湾基地として利用して、薩英戦争や下関戦争を行い、イギリス軍が港の見える丘に駐留し、フリーメイスンリーの軍隊ロッジが香港から横浜に移動してくることを考えると、この頃から横浜を主にイギリスなどの外国人の為の要塞として構築していったことが伺われます。