2012-01-18 10:24 | カテゴリ:鎌倉
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
鎌倉のフリーメイスンリーのシンボル

これを言われて想像がつく人はいるでしょうか。
前に鎌倉駅の時計台について触れました。あれもそれをフリーメイスンリーのシンボルと考える人はほとんどいないと思います。

それ以外でそれらしいものが鎌倉にあったでしょうか。

詳しい人は江の島の展望台や灯台がそうなのではないかと考えるのではないでしょうか。江の島の植物園はサムエル・コッキングさんというイギリスからの横浜外国人居留地の方が造られたそうです。奥さんが日本人で、フリーメイスンかどうかは全くわかりません。私はこの植物園は行ったことがありません。カナダ、ウィンザー市から送られたバラ園があるそうです。

しかし御存じのとおり江の島は藤沢市です。

明治天皇の歌碑がある場所があります。

明治天皇御製
新田義貞

投げ入れし剣の光あらわれて
千尋の海もくがとなりぬる

海軍大将岡田啓介謹書

他のブログからのコピペです。

鎌倉・南北朝時代の武将、新田義貞は、元弘三年(一三三三)五月、一族を集めて討幕の挙兵をし、
二十二日、干潟になった稲村ヶ崎の海岸線を突破して鎌倉になだれ込んだ。
鎌倉中が戦場と化し、幕府軍の善戦及ばず、東勝寺へ逃れた北条高時ら一門は自害し、幕府は滅亡した。
「太平記」(巻第十 稲村崎干潟と成る事)に次のように記されている。
げにもこの陣の寄手、かなはで引きぬらんも理なりと見給ひければ、義貞馬より下りたまひて、
冑を脱いで海上を遥々と伏し拝み、龍神に向かつて祈誓したまひける。
(略)みつから佩きたまへる金作りの太刀を抜いて、海中へ投げたまひけり。
まことに龍神納受やしたまひけん、その夜の月の入り方に、
先々さらに干る事も無かりける稲村崎にはかに二十余町干あがって、平沙渺々たり。
横矢射んと構へぬる数千の兵船も、落ち行く塩に誘はれて、遥かの沖に漂へり。不思議と云ふもたぐい無し。

実際には満潮干潮でそれほどの砂浜が出現することもなく、膝をつかりながら磯伝いに侵入は可能だが防御される可能性は高く、内通者や地元の人の手引きがあって山越えで突破したのではないかというのが事実みたいです。いずれにしても南朝びいきの明治天皇お気に入りの逸話であったようで、明治以降太平記の最も有名な部分として巷間に知れ渡っているエピソードだと思います。剣を投げ込んで海が割れたというと、聖書を知っているとすぐにモーセの出エジプトのエピソードに結び付くと思います。

出エジプトの該当部分を転載します。

出エジプト記14章
主はモーセに仰せになった。「イスラエルの人々に、引き返してミグドルと海との間のピ・ハヒロトの手前で宿営するよう命じなさい。バアル・ツェフォンの前に、それに面して、海辺に宿営するのだ。するとファラオは、イスラエルの人々が慌ててあの地方で道に迷い、荒れ野が彼らの行く手をふさいだと思うであろう。わたしはファラオの心をかたくなにし、彼らの後を追わせる。しかし、わたしはファラオとその全軍を破って栄光を現すので、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」彼らは言われたとおりにした。民が逃亡したとの報告を受けると、エジプト王ファラオとその家臣は、民に対する考えを一変していった。「ああ、我々は何ということをしたのだろう。イスラエル人を労役から解放して去らせてしまったとは。」ファラオは戦車に馬をつなぎ、自ら軍勢を率い、えり抜きの戦車六百をはじめ、エジプトの戦車すべてを動員し、それぞれに士官を乗り込ませた。主がエジプト王ファラオの心をかたくなにされたので、王はイスラエルの人々の後を追った。イスラエルの人々は、意気揚々と出て行ったが、エジプト軍は彼らの後を追い、ファラオの馬と戦車、騎兵と歩兵は、ピ・ハヒロトの傍らで、バアル・ツェフォンの前の海辺に宿営している彼らに追いついた。ファラオは既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、また、モーセに言った。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓が無いからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入ってきた。朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍はかき乱された。戦車の車輪をはずし、進みにくくされた。エジプト人は言った。「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」主はモーセに言われた。「海に向かって手を差し伸べなさい。水がエジプト軍の上に、戦車、騎兵の上に流れ返るであろう。」モーセが手を海に向かって差し伸べると、夜が明ける前に海は元の場所へ流れ返った。エジプト軍は水の流れに逆らって逃げたが、主は彼らを海の中に投げ込まれた。水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んだが、そのとき、水は彼らの右と左に壁となった。主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。

太平記の描写とそっくりなのがよくわかると思います。恐らく太平記の作者に聖書のこの話のアイディアが伝わったのではないでしょうか。明治天皇も明治維新後に欧州に留学したブラザー西周やブラザー津田真道らから聖書やユダヤ教、キリスト教について当時の日本における最新の知識を吸収していたことだと思われます。そして新たな明治維新で生まれた日本がキリスト教やユダヤ教における一神教を模した天皇を中心とした一神教的国家としてつくる際に、それら神の所業のいわれが日本の古典においても同様に認められ、どの時代、どの地域においても普遍的な歴史や宗教の伝承について統治者として啓蒙され、一種の啓蒙専制君主としてこのような歌碑を残したものと思われます。実際新田義貞の鎌倉攻めは極楽寺方面でも激烈で、十一人塚などの碑も残されていますが、鎌倉幕府の滅亡の戦いにおいて十一人の死者がポイントになったとすると、今の戦争や争いと比べると鎌倉時代のそれは相当に違ったものだったのだろうと容易に想像されます。

また内通者や、城攻めでの内部崩壊の話としてはやはり旧約聖書ではヨシュア(ジョシュア)記でのヨシュア(ジョシュア)がカナンの地に攻め上がる際にエリコの城壁の話が有名です。聖書の話ばかりでくどくなりますが、この辺は聖書を通読した人にとっては印象深い一つの重要なエピソードであり、これについても初めて知る人々のために転載することとします。

ヨシュア記6章
エリコは、イスラエルの人々の攻撃に備えて城門を堅く閉ざしたので、誰も出入りすることはできなかった。そのとき、主はヨシュアに言われた。「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。七日目には、町を七周し、祭司たちは角笛を吹きならしなさい。彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、その音があなたたちの耳に達したら、民は皆、鬨の声をあげなさい。町の城壁は崩れ落ちるから、民は、それぞれ、その場所から突入しなさい。」ヌンの子ヨシュアは、まず祭司たちを呼び集め、「契約の箱を担げ。七人は、各自雄羊の角笛を携えて主の箱を先導せよ」と命じ、次に民に向かって、「進め。町の周りを回れ。武装兵は主の箱の前を行け」と命じた。ヨシュアが民に命じ終わると、七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携え、それを吹き鳴らしながら主の前を行き、主の契約の箱はその後を進んだ。武装兵は、角笛を吹き鳴らす祭司たちの前衛として進み、また後衛として神の箱に従った。行進中、角笛は鳴り渡っていた。ヨシュアは、その他の民に対しては、「わたしが鬨の声をあげよと命じる日までは、叫んではならない。声を聞かれないようにせよ。口から言葉を発してはならない。あなたたちは、その後で鬨の声をあげるのだ」と命じた。彼はこうして主の箱を担いで町を回らせ、一周させた。その後、彼らは宿営に戻り、そこで夜を過ごした。翌朝、ヨシュアは早く起き、祭司たちは主の箱を担ぎ、七人の祭司はそれぞれ雄羊の角笛を携え、それを吹き鳴らしながら主の箱の前を進んだ。武装兵は、さらにその前衛として進み、また後衛として主の箱に従った。行進中、角笛は鳴り渡っていた。彼らは二日目も、町を一度回って宿営に戻った。同じことを、彼らは六日間繰り返したが、七日目は朝早く、夜明けとともに起き、同じようにして町を七度回った。町を七度回ったのはこの日だけであった。七度目に、祭司が角笛を吹き鳴らすと、ヨシュアは民に命じた。「鬨の声をあげよ。主はあなたたちにこの町を与えられた。町とその中にあるものは、ことごとく滅ぼし尽くして主にささげよ。ただし、遊女ラハブおよび彼女と一緒に家の中にいる者は皆、生かしておきなさい。我々が遣わした使いをかくまってくれたからである。あなたたちはただ滅ぼし尽くすべきものを欲しがらないように気をつけ、滅ぼし尽くすべきものの一部でもかすめ取ってイスラエルの宿営全体を滅ぼすような不幸を招かないようにせよ。金、銀、銅器、鉄器は全て主にささげる聖なるものであるから、主の宝物倉に納めよ。」角笛が鳴り渡ると、民は鬨の声をあげた。民が角笛の音を聞いて、一斉に鬨の声をあげると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした。ヨシュアは、土地を探った二人の斥候に、「あの遊女の家に行って、あなたたちが誓ったとおり、その女と彼女に連なる者すべてをそこから連れ出せ」と命じた。斥候の若者たちは行って、ラハブとその父母、兄弟、彼女に連なる者すべてを連れ出し、彼女の親族を全て連れ出してイスラエルの宿営のそばに避難させた。彼らはその後、町とその中のすべてのものを焼き払い、金、銀、銅器、鉄器だけを主の宝物倉に納めた。遊女ラハブとその一族、彼女に連なる者はすべて、ヨシュアが生かしておいたので、イスラエルのなかに住んで今日に至っている。エリコを探る斥候としてヨシュアが派遣した使者を、彼女がかくまったからである。ヨシュアは、このとき、誓って言った。「この町エリコを再建しようとする者は主の呪いを受ける。基礎を据えたときに長子を失い城門を建てたときに末子を失う。」主がヨシュアと共におられたので、彼の名声はこの地方一帯に広まった。

モーセの出エジプトやヨシュアのエリコ攻略に関して明治から現在に至るまでどれだけの日本人が知っていたでしょうか。少なくとも明治天皇は詳しく知っていたと思われます。

さて稲村ケ崎には他にも京都大学出身の日本の哲学の権威でもある西田幾多郎の碑もあります。この地で著作と家族との幸せな時間を過ごしたそうです。西田幾多郎といえば「絶対矛盾の自己同一」や京都の観光名所である哲学の道で有名です。わたしは詳しくは知りません。

また稲村ケ崎は白樺派で「一房の葡萄」で有名な有島武郎の作品の「溺れかけた兄妹」の舞台でもあります。彼の作品は一房の葡萄などの聖書の話をベースとしたものがあります。七里ガ浜~稲村ケ崎にはこうした関連でかキリスト教系の病院や教会や施設が多数あります。七里ガ浜には日本バレエ発祥の地として旧パブロワ記念館と記念碑も残っています。ここにも二つのアーチが残っています。

稲村ケ崎公園には明治天皇の歌碑のほか、逗子開成中学校のボート転覆事故を慰霊する銅像も建っています。恐らく有島武郎の「溺れかけた兄妹」を意識して作られたのだと思われます。

さてこのような稲村ケ崎なのですが、フリーメイスンリーのシンボルはどこでしょう。


西田幾多郎の記念碑





七里ガ浜にある日本バレエ発祥の地として旧パブロワ記念館と記念碑


逗子開成中学ボート遭難慰霊碑


実は最初のものは稲村ケ崎公園のすぐわきにある極楽寺川の橋と川の護岸です。
単に白黒のチェッカーになっているだけです。

この稲村ケ崎周囲は万葉集にも歌われていて、奈良時代より人々が住む地域であったことがわかります。

鎌倉の見越しの崎の岩崩えの君が悔ゆべき心は持たじ
ま愛しみさ寝に我は行く鎌倉の水無瀬川に潮満つなむか

さてこれだけではフリーメイスンリーのシンボルとはちょっと確信しがたいと思います。
稲村ケ崎公園を三段ある一番上まで登って行きましょう。


中央の休み処と手前の芝と石とのチェッカーがよくできています。
ヘキサゴンの形になっていて景色がよく見えます。

ここには「近代細菌学の祖」といわれるコッホと北里柴三郎が訪れたことを記念する碑があります。



コッホはフリーメイスンではないでしょうが、ここを訪れて二年後にドイツのバーデン・バーデンで66歳で死亡しました。

さてこの地の最大のフリーメイスンリーのシンボルは実は二本の松の木と借景でした。



二本の松の木がヤキンとボアズの柱、富士山が神様を意味する三角形、手前のベンチが祭壇altarで、その手前がわれわれ日本人としてのラフアシュラーでしょう。
二本の松の木は日本を象徴する意味でもかかっているのだと思います。それは極めて日本的で、極めて日本の象徴でありながら、フリーメイスンリーの象徴を自然と取り込み、しかしながらラフアシュラーで締めくくられるような、極めて鎌倉的なシンボルでありました。

この地では最近では姉歯設計事件に関して建築事務所の社長が自殺して流れ着くといういわくつきの有名な事件もありました。

[追記:恐ろしい話で終わりましたが、お詫びに非常にためになる情報を付け加えます。稲村ケ崎公園から歩いてすぐにイタリアンでとてもおいしく品があり比較的リーズナブルな店があります。ミシュランガイドにも出てきませんが、それはフランス料理の源流といわれるメディチ家伝来のイタリア料理を自負するが故でしょうか。


タベルナ・ロンディーノと言います。食べるなという意味ではなく、食堂という意味だそうです。ロンディーノはロンド調のとかいう意味だそうで、ロンギヌスの槍とは関係ありません。平日昼のランチコースが一番のおすすめです。駐車場は稲村ケ崎温泉の横の駐車場が提携しているそうです。]