FREEMASONRY
たぶん経営者がロータリークラブかライオンズクラブなのではないでしょうか。
まあたんなる装飾と言えば装飾ですが。
ホテルのロビーの装飾です。
以前神戸のポートピアホテルを出しました。
ちょっと古い写真ですが横浜駅前のホテル・ベイシェラトンですね。
かつて恵比寿ビールと言われたサッポロビールの元の銘柄ですが、パリ万国博覧会で金賞を取ったりしているそうです。そのまま地名の恵比寿となり、ビール工場の再開発で恵比寿ガーデンプレイスとなりました。
恵比寿ガーデンプレイスの脇には東京都写真美術館という建物もあり、写真にまつわる展示を常時行っています。私はこの美術館の建物にある映画館でモーツァルトのオーストリアで撮られた1942年撮影の映画を見ました。そもそも恵比寿ビールがドイツ人の手によって開発されたそうで、ドイツと根強い関係があるものかと思われました。(まあ恐らくその当時の事ですからその人もフリーメイスンなんだと思います。)
さてその東京都写真美術館ですがこんな感じです。
またもやヤキンとボアズの柱のようですね。
モダンな建築と言えばそれまででしょうか。写真の技術にもフリーメイスン達の力が多く関わっていそうです。
入り口はこのように特徴的な白黒のチェッカーになっています。以前はブラザーロバート・キャパにまつわるマグナムの写真展などやっていました。
恵比寿ガーデンプレイスには他にもシンボルがあります。
こっちは写真を見てもわからないかもしれません。フクロウの置物がいくつも上から見つめています。フクロウは智恵の象徴で、森の番人として描かれますが、死や霊魂の象徴であったりもします。フリーメイスンリーでも関連団体の象徴となったりしているようです。
さてでは表題の国会議事堂の話に移ります。まず前提として建物そのものがワシントンD.C.近郊のアレクサンドリアにあるワシントン記念石塔とよく似ているという事があるかと思います。
これには恐らく多くの方が同意されないかと思いますが、建築時期を考えても恐らく間違いないのかと私は思っています。まあそれがフリーメイスンリーというものです。
さてでは国会議事堂にあるフリーメイスンリーのシンボルと思われるものについて個人的な考察をしていきましょう。
そもそも日本の国会議事堂というものは大日本帝国憲法下での貴族院と衆議院の帝国議会を開く会場として1936年に建設されました。帝国議会招集から現在の議事堂が竣工するまでは仮議事堂が木造で3代にわたって造られたそうで、現在の議事堂も大正時代に建築計画ができてから竣工まで17年の歳月がかかったそうです。辰野金吾と武田五一という共に東京帝国大学の教授を勤められた方が設計に深くかかわっているそうですが、いずれも当時の日本の建築設計の第一人者であったようです。当時の日本の民主主義や憲政がどの程度のものであったかはなかなか現在を考えても難しいものがありますが、大正デモクラシーを通して実際の民主主義や立憲政治というものの難しさを肌身をもって知っていた時代だと思われ、その中で初めて国の中心となる議会として使用される建築物を日本人がそれも本格的な鉄筋コンクリートの石造りの装飾のものとして建築するという事は、当時であっても相当の大事業であった事は容易に想像されます。昭和初期はテロと軍国主義の嵐が吹き荒れる時代であり、フリーメイスンリーの影響が必ずしも盛んであったとは言い難いものかもしれませんが、開国から50年以上の月日がたち、日米や日欧の結びつきは日に日に強まっていた事はありますし、全体としてそれらフリーメイスンリーの影響が増していたために国会議事堂の建設が成しえたとも考えられると思います。
上述のように私個人が非常に日本の国会議事堂の原型となる建物として意識するワシントン記念石塔が着工が1922年、竣工が1932年である事を鑑みると、恐らく日米戦争とその後の日本の民主化を踏まえて、それらの一つの象徴として、日本人の日本人による日本人のための民主主義のためにそういう二つの建築の相似があるのではないかと想像します。
そういうわけで前提をそのように置くと、そもそも日本の国会議事堂そのものがフリーメイスンリーのシンボルとなるわけですが、なかなかこれは飛躍が過ぎるように日本人には思われると思うので、現在の国会議事堂の中に残るフリーメイスンリーのシンボルを辿って行きましょう。私自身は国会議事堂の中に入った事は無いので、ホームページなどの公開情報で推測するのみとなります。
どうです似てないですかねえ?
まああんまりしつこいとどうかと思いますので、比較は皆さんの自由に任せます。
さて国会に入ると入り口はこんな感じらしいです。
白と黒のチェッカーですね。うーん怪しい。まあこのブログを読まれている方はこれが怪しいのではなくそのものだという事も大体分かるかと思います。
星のマークの装飾もあるそうです。アメリカだと五芒星になるのだと思いますが、まあBlazing Starのシンボルについて理解されている方はその意味がわかることと思います。
よく言われる日本の国会の謎ですが、3体ある憲政の功労者の銅像、板垣退助、大隈重信、伊藤博文のものと、もうひとつ銅像が置かれない台座があるという事。
これもこのブログを最初からよく読んでいる方にはほとんど自明のなぞなぞだと思われます。
そうもちろんフリーメイスンリーの象徴であるパーフェクトアシュラーを意味するから銅像がいらないのですね。フリーメイスンである事は銅像に残された憲政の偉人達と匹敵するかそれ以上に重要であるという事を意味するものかと思います。あとはまあ実際にはこうした日本の憲政の偉人の活躍はフリーメイスンが支えたという意味もあるのだと思います。
また中央広間のステンドグラスが印象的であるようですが、これもフリーメイスンリーのロッジを知っていればそれぞれ対応する象徴がすぐにわかると思います。
天井の八芒星はそのままロッジの天井を覆うBlazing Starを示します。
この形のステンドグラスは明らかにAll Seeing Eyeですね。
まあわからない人には永久にわかりません。
で、このブログの最初のころからよく出てくる象徴として特徴的なものがやはり国会にもあり有名です。
国会議員が見学した内容を書いたブログからお借りしています。
まあヤコブの梯子、らせん階段の象徴ですね。三階層になっているかどうかはわかりませんが、天に向かって上昇する象徴として、屋根のピラミッドと対応したまごうことなきフリーメイスンリーの象徴かと思います。
ご納得いただけましたでしょうか?
いわゆるラフアシュラーですね。
ラフアシュラーもその辺の石ころは全部ラフアシュラーだと言ってしまえばそうなるわけで、そうじゃないのがフリーメイスンリーのシンボルです。
もちろん皇居と言えば天皇家なわけで、日本国憲法第一条で天皇は日本の象徴と規定されている訳ですが、そもそも大日本帝国憲法では唯一の主権者であったわけで、さかのぼれば明治維新までは徳川将軍家の大政奉還までいわゆる幕藩体制の中での京都御所、朝廷として日本を代表していながらも権力はもっていない状態でした。
明治維新では孝明天皇の第二次長州征伐直前での急死、明治天皇の即位での大政奉還などからすり替え説などの陰謀説がありますが、古代より日本史の中で皇室や朝廷にまつわる陰謀や呪詛、戦乱の歴史は枚挙にいとまがないわけで、そもそも天皇制の成り立ちそのものが権力と陰謀の中で出来上がったものかと思われ、それらはいずこの国においても等しく認められる人間社会の常かと思われます。
フリーメイスンリーはそもそもそういう社会であった英国やスコットランド、フランスなどの王権社会の中で、よりよい社会とは何かとか、権力とは何か、富とは何か、宗教とは何かという様々な疑問に対する一つの回答として成熟し1717年にイングランド連合グランドロッジとして目に見える形として成り立った仕組みであると思われ、天皇制や王制とフリーメイスンリーとは矛盾するようですが、ブラザーエドマンド・バーグが「フランス革命の省察」で示しているように、相続の自然権について肯定する以上はフリーメイスンリーの考え方の理想である民主主義の下においても、天皇制、王制はある一定の制限の下存続しうるという事になるものかと思います。本質的にはフリーメイスンリーは政治とは一定の距離を置く友愛のための団体であり、過激な革命思想などの源流になった部分も歴史的には認められるかと思いますが、イギリス、ドイツ、フランス、ロシアでも共に王室の積極的なフリーメイスンリーへの参加があり、スウェーデンでは国王をグランド・マスターとして組織する慣習があり、これはフリーメイスンリー発祥の地のイングランドでも基本的にはそういうやり方で踏襲されています。
我が国においてはやはり戦後の昭和天皇のブラザーマッカーサーとの会見とそれによる人間宣言、全国行幸というものが最も直接的なフリーメイスンリーと皇室との接点ではないかと思われます。
この会見に関しては通訳の方もフリーメイスンだったようで、この会見をセッティングしたという事を話していたとする逸話が本に書いてありました。スコティッシュライトの33階級の方だそうですが実話かどうかはわかりません。
- 日本に君臨するもの―フリーメーソン日本ロッジ幹部の証言 (オルタブックス)/高崎 広
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作者の方は亡くなられているそうで、私は全く会った事もありませんでしたが、近衛師団出身の方だそうで、海軍士官学校の同窓会である水交社と、東京タワーの下にある現在の日本グランドロッジとの不動産の関係や、実際の日本のフリーメイスンの活動についてより具体的に書かれた本かと思われます。内容や傾向については私自身はどうかと思う部分もありますが、日本のフリーメイスンリーの一つの歴史としてブラザー片桐三郎による入門フリーメイスン全史―偏見と真実とともに日本人のフリーメイスンが執筆に関わった出版されている本として興味のある方にとっては必読の書ではないかと思われます。その他原爆投下や終戦、戦後の日本の政治家や天皇家とカトリックやフリーメイスンリーとの接点などいくつもフリーメイスンリー関連の陰謀史家が出版していますが、いずれも推測や憶測の類であり、実際に関わった方々の証言の類はまさに秘密になるのだと思います。公開されている情報でもガーター勲章を受章した時の歴代天皇の騎士姿の写真や、ブラザー林董やブラザー東久邇宮と皇室や当時の政権中枢との記録などから、明治維新後の歴代天皇とフリーメイスンリーとの関わりは十分日本人全体が意識できるものかと思われます。
さて前置きはさておきこちらも日本の公開されている公園です。
日本人は大日本帝国憲法下での昭和天皇主権下の時代への意識が残ることなどから、皇居=聖域という考えがあり、現在も常時公開されている公園である皇居であってもよほどの機会が無いと近所の公園のように訪れる機会は少ないものかと思います。
いわゆる東御苑という部分が通常公開されている部分で、こちらは特に予約は必要とせず入り口で番号の札をもらい出口で返すというだけのものです。公式行事や公務を行う御所を見学するには宮内庁のホームページなどで参観案内として予約が必要です。天皇家がお住まいになられる吹上御所やその他の住居部分は一般人は入ることはできません。今回ここで紹介するのは東御苑の部分です。私自身はやはりワシントンD.C.のナショナルモールを巡った後、日本人として一度は日本のナショナルモールと言うべき東京の皇居を見ておきたいと思いまた同時に、フリーメイスンリーのシンボルについて何かヒントは無いかと訪問したのです。
いいわけになるかもしれませんが、やはりフリーメイスンリーの理想を言っても人間としてナショナリティー、日本人としての意識が存在する事は否めません。ワシントンD.C.のナショナルモールはいかにフリーメイスンリーのシンボルにあふれているとはいえ、やはり日本人としてはあれはアメリカ国民のためのものであると意識せざるを得ないのは間違いありません。日本人が日本教とも言える民族教、日本人としての同一意識の上にフリーメイスンリーを捉えるとき、明治維新以降の天皇中心とした立憲国家として新しい国造りの首都となる東京のシンボルである皇居は一つ確かめておきたい建築物である事であるかと思います。
そういうわけでワシントンD.C.を訪問してしばらくたってから皇居東御苑を訪問した時の記録です。実際には三の丸尚蔵館で坂本龍馬が裏書きした薩長同盟の署名を公開していたのでそれを見に行ったのでした。皇居の御堀です。ナショナル・モールとはちょっと違います。ただ石垣の広大さと堀の深さと堅実さは大阪城や姫路城、福岡城などと比べてもさすがに一番です。
平川門だと思います。皇居はやはり日本人にとっては特別で、いわゆる公園を訪問する格好の人はいません。皇居外周のランナーの格好の方は誰もおらず、日本人ではほとんどが特に女性の高齢者です。華美ないかにもなファッションの人はいません。家族連れではブレザーを子供が着ていたりしています。外国人は非常に多いです。和気清麻呂像です。とにかく皇居はランナーが多いですが、ワシントンD.C.とよく似た感じというにはなかなか難しいです。いわゆる歴史上の皇室における忠臣というものが皇居周辺の銅像として選ばれているようですが、神話や伝承によるものが多いようです。以前も鎌倉のフリーメイスンリーのシンボルの話で挙げましたが、後醍醐天皇の皇子が閉じ込められたとする土牢で有名な鎌倉宮なども明治維新以降の天皇主権のもとで整備されました。そういういわゆる皇国史観のもとでの神話や伝承に基づく一つの象徴なのだと思われます。孝明天皇が尊重したなども影響しているようで、道鏡伝説など幕末の江戸の町人文化を主体とする俗説に基づいた、代々の天皇の好みなどがこうしたものに影響しているようにも考えられます。
入ると一番目立つ建物がこれです。
桃華楽堂といい昭和天皇の皇后である香淳皇后が音楽好きで作らせたという建物です。
フリーメイスンリーのワシントンD.C.の建物を見てきた直後では、そういう象徴の装飾に憧れたちょっと意味不明の建築というのが率直な感想でした。
日本の高齢女性には好かれるものがあるのかと思いますが、私には率直に言って極めて異様な建築でした。ただ東御苑で最も目立つ建物であり、様々な象徴的な日本の文物の壁画に囲まれていることからも、何らかの香淳皇后におけるフリーメイスンリーの理解、女性であればイースタンスターの理解が関与しているのではと推測されるものであるかと思います。詳しくは宮内庁のホームページをご覧ください。香淳皇后においては敗戦間近の時期に香淳皇后名で一千万スイスフランをスイスを通して赤十字に寄付したなどの逸話や、叔父にブラザー東久邇宮稔彦王がいたり、また戦後は赤十字活動を熱心に行うなどフリーメイスンリーにまつわる影響があったものかと考えられますが、一方で子女を先に亡くされたり、宮中で今城誼子という新興宗教にまつわる人物を重用したりと様々な逸話があり、それらの人物像がこの建築物の設計に反映されているものかと思われます。さて桃華楽堂の反対側には完全な江戸城の天守閣跡があります。皇居と思って入ってきているので、明らかに江戸時代の江戸城の象徴が残されているのは少し驚きですが、東京が江戸である事を強く思わされます。
実はここには日本人の多くが知らない秘密があります。最近は知っている人も増えているかもしれませんが、実は江戸城には江戸時代そのほとんどの期間において天守閣が存在しなかったのです。
江戸といえば火事と喧嘩は江戸の華と呼ばれ、火事が多かった事でも有名ですが、その三大大火の最初の明暦の大火、いわゆる振袖火事という通称で呼ばれる大火で焼失しその後再建されなかったそうです。1657年から1867年までの210年間江戸城には天守閣が無いままでした。現在の天守閣の石垣にもその時の火事の焼け焦げの跡を残しているようです。
明暦の大火については数か所から時間をおいて出火していることからも幕府による再開発のための故意による出火との疑いがあります。約10万人が死亡した江戸時代最大の火事であったようで、その災禍を忘れないようにという目的もあって恐らく天守閣の再建がなされなかったものかと思われます。
フリーメイスンリーに関しては明暦の大火に匹敵する大火として1666年に起こったロンドン大火があります。ほとんど死者は無かったそうですが、この大火を教訓としてロンドンでは石造りの建造物が義務となり、その後の再開発計画でいわゆる実務的フリーメイスンリーの時代の代表的な建築物としてのゴシック建築のセント・ポール大聖堂などが生まれました。また都市計画によりペストや伝染病の流行が終焉し、これらの出来事を境にしてその後ニュートンや、フックなどの王立協会所属の科学者による数多くの発見、発明が生まれていきます。
恐らく9年の間をおいてですが、長崎の出島などを通して江戸の大火の災禍がロンドン大火の事件に何らかの応用をされた可能性はあるかと思います。前述のようにウィリアム・アダムスなどの存在から江戸時代には日英の間には相互の十分な認識があったと思われるからです。
アメリカでは1871年にシカゴ大火という大火災があり、これもやはりその後の木造建築から石造や鉄製建築ブームのきっかけとなったそうです。
過去の大火として世界三大大火と言うとこの明暦の大火、ロンドン大火と、ローマ大火となります。
ローマ大火はローマ帝国の西暦64年ネロ帝の時に起こったローマの大火事です。ネロ帝は暴君として有名ですが、陰謀論でも有名な新約聖書の666の獣の数字の表わす皇帝としてキリスト教では象徴的な皇帝です。ローマ大火ではネロ帝が放火したとの噂があり、結局その罪をキリスト教徒になすりつける事でキリスト教の迫害の最初とされるのですが、再建計画で結局ネロ帝の有名な黄金宮殿を建築したことからネロ帝による放火の疑いは消えなかったようです。結局ネロ帝は若くして狂乱し反乱にあい死ぬのですが、この死によりローマの平和は終焉し、ローマ帝国は混乱期に入っていきます。
日本の江戸・東京ではこの明暦の大火を主とする江戸の大火、関東大震災、東京大空襲で多くの建物と人命が失われ、その度に新しい都市開発で再生しています。恐らく良く言われるように当時の江戸は世界で一番の大都市であったとされる人口稠密地帯であり、明暦の大火は恐らく
ローマの大火などと比較して人口などの規模で最初の大都市の大災害であった可能性があるかと思われます。自然災害では記録に残るものとしてはポンペイの火砕流などがあるかと思います。大奥の石室とされます。物置と強調されますが、恐らく石牢であったのだろうと容易に想像されます。要するに天守閣跡とともに封建制における圧政の象徴として石造りの建造物が残され公開されているのが現在の東御苑公園の目的かと思われます。それはやはり明治維新を成し遂げた朝廷側からの皇国史観であるとも思われます。まあ江戸時代も封建社会も民主主義も理想はともかく現実はというところで、江戸時代においても恐怖や圧政の象徴として石造りの建物を利用した事は容易に想像できます。実際にそれを石牢として運用してあったかどうかは別として、そういう効果は日本的なやり方としてあったかと思います。やはりそれは東と西の違い、東と西の邂逅はどの時代においても普遍的なものかと思われます。
本丸跡の芝生には外国人しか寝転んでいません。
やはり日本と西欧諸国との間には王権と市民の認識に未だ違いがある事の象徴でしょうか。人の数は天気が良いにもかかわらず閑散としています。やはり現代の日本人にとっても皇居は特別な場所なのでしょうか。
これが一応表題のフリーメイスンリーのシンボルではないかというものです。東御苑の中で唯一のオブジェかと思います。恐らく三代の歴代天皇を模した三つのラフアシュラーではないでしょうか。
ひっそりと陰に隠れるように置かれ、特に説明は見つけられませんでした。私としては今上天皇陛下がフリーメイスンとなりこの地に日本の新しい象徴となるオベリスクを置いてほしいものかと思います。もしくは江戸城天守閣跡か本丸跡の上にそのまま大理石のピラミッドを作るというのはどうでしょうか。
この後の大手門近くにある三の丸尚蔵館では薩長同盟の裏に書かれた坂本龍馬の署名が展示されていました。建物の間からきちんと東京タワーが見えます。計算されているものかと思います。
規模は福岡城よりも大きいですが、石積みの造形美はやはり福岡城の無駄のなさとは違うかと思います。
大村益次郎の銅像です。彼は以前に出した適々斎塾の塾生でした。陸軍の徽章五芒星をおそらく決定し、日本陸軍の礎を築いた後明治初期に暗殺によって若くしてこの世を去っています。医師でありながら国家の軍隊の長官となった人は歴史上他に居ないと思われます。
さて皇居はここまでです。この後たまたま靖国神社まで行きました。靖国神社には特にフリーメイスンリーと関連するものはありませんが、日本の艦上爆撃機彗星に触ることができ、スミソニアン博物館に展示されているアメリカの戦闘機ヘルキャットと比較ができました。悲壮な展示が続きます。同時に展示されていたのが蒙古襲来の神風の関連でした。
特攻兵器回天、桜花の展示です。何とも言えません。恐らく日本でスミソニアン航空・宇宙博物館に対応するものがここ遊就館になるかと思うのですが悲壮の限りです。この展示してある彗星が触れるものであったかと思います。ペラペラでした。酷いものです。
もちろん戦車は軽自動車みたいな装甲です。本当に酷いものです。現在の北朝鮮以上の状態で戦争に突入した事がわかります。
ワシントンD.C.にも神社があれば日本人がもっと来るかと思いましたが、皇居もオベリスクやピラミッドがあればもっと普通に日本人も外国人も訪れるようになるかもしれません。
いずれにしてもワシントンD.C.のナショナルモールと同じく、日本人も日本人のアイデンティティーを確立する一つの象徴として皇居やその周辺の建物を見学する事は明治維新後の日本の歴史を知るために重要なものかと思われます。ナショナルモール程とは正直望めないと思いますが、もう少し整理して整備し、多くの日本人が自らの国と歴史、将来について自信を持てる工夫が必要なのではないかと思わされました。
フリーメイスンリーのシンボルは三個のラフアシュラーのみでした。坂本龍馬の裏書きに込められた意味は何でしょうか?坂本龍馬の再評価は明治天皇の皇后の夢枕に立ったのが最初だとされています。我が国におけるフリーメイスンリーの今後はどのようなものとなるでしょうか。
春の雨も過ぎ好天が期待される残りのゴールデンウィークですが、日本のナショナルモールとも言える皇居、靖国神社周辺は行楽客が非常に多くなるとは予想しがたいかと思います。是非この機会に一度訪問されてはいかがでしょうか。
良い天気は色々条件があります。
急にやめたりしてもまた色々と問題がある事もあるかと思うので、かなり適当な感じで程々にうまくテイパリングしていこうかと思っております。何やら個人的な意見発表には非常に使い易い媒体ではありますが、これまでの内容が内容だけにあまりそういうわけにもいかないのが現実ではあります。
まあなんというかほぼ当初の目的である様な、日本グランドロッジの日本人フリーメイスンの獲得増加へのアピールといったものはほぼ終わったのではないかと思います。
基礎知識や様々な小ネタ、知っておくと得する豆知識みたいなのはほぼ伝えきって、さらにそれをどう応用していくのかという所くらいまでは示せたのではないかと思います。
じゃあもう終わっていいよというのもこのブログなんかを一生懸命読んでくださっている方々の本音ではないかと思われるわけですが、まあそこはまあ何の見返りもないインターネットとブログというシステムの中で、何がこのブログのモチベーションであり、本来の目的であるのかという所になるかと思います。
それでまあ一応ここに至るまでに触れた市章やアメリカの州章や商標など、これまでにお出ししたものとはちょっと違ってそれほど衝撃的というものではないレベルのそれほど特に対象としての日本人の方にとって芳しいものではないものがだらだらと続く形になるかと思います。聖書や人生そのものと一緒で実際はそういうだらだらと続くつまらないものが非常に大事なのですが、とりあえずこのブログでは先に面白可笑しいもの、衝撃や簡単な達成感を得られるものを先にお伝えし、その上で、本当は実はつまらないと思われるものが本当に面白いのだよというちょっとくそ難しい話にもっていくわけです。
そういうわけであとはだいぶ枯れた話題の日本の市章の残りのストック分を放出することと、アメリカの州章のシンボル、商標などと、後はやはりアンダーソン憲章の和訳やその他のフリーメイスンリー関連の書物の感想など、それぞれ時間をかけた内容について適宜興味のある方だけ読むようなブログとしていこうかと思います。まあ要はフリーメイスンリーによるフリーメイスン向けの雑誌や論文、ホームページの内容みたいになっていきます。
もうあまりお説教くさい事は言わなくなります。一般人向けではなくなっていくからです。
コメントや意見をお待ちしますが、まあこれまでの流れから言ってもそれを期待するのは困難でしょうか。
そういうのをちゃんとシンボルと関係しているんだよと挙げるのが実はフリーメイスンの仕事というか役割という所もあると思い、これ以降で挙げていこうと思います。
それはさすがに違うだろと思うものが多いかと思いますが、そこを白黒で分けるのがフリーメイスンの仕事でもあり役割だと思いますのでよく理解していただけると幸いかと思います。
まずは数が比較的多く、大体その通りに見えるものでAll Seeing Eyeに分類したものですね。
典型的なものは既に挙げているので、残りを単純に市名のIEの名前順で挙げていきます。
いなべ市
いわき市
さいたま市
伊予市
一宮市
越谷市
岡崎市
岩出市
旧小林市
狭山市
熊谷市
見附市
江東区
山口市
山陽小野田市
四国中央市
鹿島市
松戸市
新居浜市
川越市
草津市
筑紫野市
秩父市
中央区
湯沢市
二本松市
日立市
八潮市
鳩ヶ谷市
尾張旭市
美馬市
武蔵野市
豊川市
北本市
茂原市
蕨市
以上でAll Seeing Eyeは終わりです。
まあ見ていくとAll Seeing Eyeに分類されるものは微妙なものは無いですね。どれもそのものしかないので、全部挙げるのは手間になったという事でいかにもなものは置いておかれた感じだと思います。非常に全国的にはやったんですね。三つ目がとおるじゃないですが、ピラミッドに目のシンボルは象徴的で印象的だったんだと思います。逆に行政の監視があるよという威嚇の意味でも日本の市町村でお上意識という所で受け入れやすかったという歴史もあるのだと思います。
なかなかシンボルの実際の使われ方というのはしょうもない歴史で、こういう非常に典型的なものの場合は特にそういうのが顕著に表れています。逆に梅とか桜みたいな少数派の方がすがすがしいところはあります。ひねってグローリーを選択したりするのは何というかさらにしょうもない感じですが。(追記:vesica piscisとか3の強調とかイクトゥスとか太極図とか五芒星・六芒星やアンクとのかぶりはいちいち指摘しません。これまでのブログの内容を参考にして個人的に楽しんでください。実際の市の特徴や市章との関連も個人的に行ってください。私個人としては日立市の形が企業の日立のシンボルマークとの絡みで面白いと思っています。豊田市の場合などと一緒で、やはり日本は企業グループにおける地域と企業体の連携でのフリーメイスンリーのシンボルを採用する例が良いようです。トヨタのプリウスαのCMも一回だけ見ましたがなかなか日本のテレビメディアとしては画期的ではないかと思いました。色々な試みは是非色々と試みられるのが良いのではないかと思います。)
パンダは中国の象徴でしょうか?白黒なので中国におけるフリーメイスンリーの象徴かもしれません。
アフィリエイトがあんまうまくいかなかったり、まあインターネットというやつもアメリカやフリーメイスンリーにとっては非常な武器なのでしょうが、一般人にとっては商売にしたり便利な道具として使うにはいささか重荷の道具ではあるかと思われます。
寄付でも募りたいのが本音ではありますが、まあ自力でやっつけて続けられるところまでは続けていこうかと思っております。
さてどうもしょうもないネタで皆さんに好評の市章のネタですが、こちらとしては在庫一掃のバーゲンセールみたいなところでありまして、半分ネタばらしのあんまりそれっぽくない市章シリーズの続きです。どうもGのシンボルはジャイアンツかガンダムかというところで皆様ご愛顧のようでしてなんなんですが、市章シリーズでも非常に多いという事は言ったわけですが、まああんまり典型的なものはそれほど多くありません。最初に挙げたとおりいかにもGとわかるタイプの市章は首相経験者を輩出していたりと極めて現実的な影響力を呈しております。そういうわけでここにあげるような典型例から漏れた例はなんだかよくわかりません。まあなんだかよくわからないものというのがあるからよくわかるものがあるわけで、いわゆる正規分布、二項分布を形成するのがシンボリズムという数学であり、一種の統計であるわけで、こう言うなんだかよくわからないもの、中途半端なものを示すことでシンボルと言うものが明確になってくるという所もあるかと思われます。
伊達市
河内長野市
茅ヶ崎市
旧西条市
旧八幡浜市
高知市
三島市
上尾市
川西市
泉南市
太田市
男鹿市
長浜市
土佐清水市
唐津市
府中市
徳島市
廿日市市
日田市
日野市
宝塚市
名取市
柳井市
さてまあ到底Gには見え難いものばかりですね。これだけ並べられたら何言ってんだという事にしかならないと思います。ユダヤ教からキリスト教が生まれたように、大事なことっていうのは必ず隠されるものなのですね。祠の神様が石であると見つけてなんだという逸話がお札の肖像の方の逸話でよく言われますが、隠されているものの意味というものをあらためて理解しないとお札の肖像に採用されている意味もわからないのかもしれませんね。ちなみにユダヤ教のトーラーと言うのはキリスト教全盛期の14-16世紀に何度も迫害されて焼かれて散逸しているそうです。ロストシンボルというフリーメイスンリーのベストセラーの本のタイトルの隠された意味はそういう本当に散逸してしまった聖典の意味という意味もあるものかと思われます。後々にはやはりユダヤ教について知識が得られたならばみなさんに咀嚼して伝えたいかと思います。
さてそういうわけでフリーメイスンリーに限らず私個人も寄付は大歓迎であります。
金は天下の回りもの。一ドル札に限らず紙幣の印刷に込められた意味を考えたとき、それが結果的に世の中を動かし、人類が発展するきっかけとなるものかと思われます。
レディー・ガガについてコメントすると何か問題があると困るのですが、この人はマドンナと同じ様にカトリック系の方のようですね。
フリーメイスンリーのシンボルを取り入れた舞台装置が多くつかわれ、歌詞にもそのメッセージが多く認められていました。恐らくニューヨークのグランドロッジがテコ入れしているものかと思われますが、今回来日の際にはヘアメークが虹色と言う事で、同性愛のシンボルと言う事と、聖書で現れるノアの箱舟の逸話の神との契約の証しとしての虹、フリーメイスンリーの女性団体の象徴としてのレインボーとかかっているのかと思われます。
ホイットニー・ヒューストンさんの急死の際のケビン・コスナーさんのコメントの映像で下にフリーメイスンリーの多階位団体であるヨークライトのシンボルが出ていましたが、アメリカではシュライナーズと言うスコティッシュライトの32階級の団体も相当経済的に裕福であったりと、芸能関係にもフリーメイスンリーの影響は莫大なものがあるようで、時々そういうものが認められます。
日本でもジャニーズ事務所関連で最近猛烈にアピールしていましたが、いずれにしても芸能でも何であっても中身と言うか仕事の内容や人間性がその人の評価であり向上させるべき対象であり、マスメディアは現在インターネットもテレビもいくらでもアピールする手段は手軽であり容易であるので、きゃりーぱみゅぱみゅでもなんでも身のある何かを残してほしいものです。
ちなみに今年のニューヨークグランドロッジの定例会の様子だそうです。フェイスブックで拾いました。
(7/7追記:レディーガガはLady GaGaという事で、Gの強調でもあるのですね。)
内容は今年の役員の名前と写真、ロッジの場所、定例会の日付、連絡先、日本で活動中の他のグランドロッジ管轄のロッジの場所と定例会の日付、連絡先です。アクセスが増えれば以前のグランドロッジのホームページのように活動内容や詳しい説明、問い合わせに対する答えなど様々な情報が充実していくものかと思われます。
去年の役員の写真は残っていましたが、今年の役員については現在は載っていませんね。
まあ日本もフリーメイスンリーについてもっと浸透すれば公開情報もアメリカ並みに充実してくるものかと思います。
現在単純に最もフリーメイスンリーにアクセスが近いのがフェイスブックだと思われます。
日本での公開情報をこまめにフォローしていけば会合などに参加する機会もあるものかと思われます。
コーヒーの習慣自体はエチオピアとかそれこそ旧約聖書の世界あたりが起源のようですが、いずれにしても1717年のフリーメイスンリーの連合ロッジが発足したときにはイギリスのロンドンで嗜好品として飲まれていたようです。現在ではイギリスでは紅茶を飲む習慣が主流のようですが、これは以前に挙げましたがボストン茶会事件以来アメリカではコーヒーが主流となったとされているようです。
私も横須賀に来て以来良くコーヒーを飲むようになりましたが、コーヒーもやはり炒りたての豆を購入して自宅で挽いて飲むのがおいしいようです。現在までのところインターネットで直販で購入するのが一番香り豊かな豆を手に入れられるようです。エスプレッソマシーンも基本的なものはそれほど高くないので、エスプレッソの入れ方で飲むのもやはり味わいが一層深いです。エスプレッソの方法はフランス革命時の大陸封鎖令でコーヒー豆が不足したときに考え出された方法のようです。
発癌や胃潰瘍との関連も多く示唆されるところですが、今のところ学会などでは主流は飲めば飲むほど健康に良いというスタンスのようです。まあ混ざりものが少なければそうかもしれませんね。
私は今はとりあえずスーパーで粉にひいたものをぜいたくに使って水出しコーヒーを作って水筒に入れております。これが一番安価で簡単でおいしいようです。
それでもやはりコカコーラの缶コーヒーも時には飲みます。





カレーといえばインドという事で、実は横須賀にもインドカレー店が数軒あります。
横須賀は非常にグルメの街の印象があるかもしれませんが、結局日本で最大の軍港であり、重要な米軍基地なのでスパイ活動が盛んなのだと思います。
そのために各国を代表した料理店が軒を並べて町の噂や基地の動静をそれぞれの母国の関係者に報告しているものかと思われます。
とまあ冗談とも本気とも取れない文章ですが、本日から明日にかけて横須賀では三笠公園でカレーフェスティバルと銘打って、海軍カレーを売り出す様々なイベントを行っているそうです。
ご興味があれば早い時間に来られるとよろしいのではないでしょうか。
走水にある走水神社です。
横須賀にある神社では最も古い由来のようです。ただ実際にはよくわからないので、伝承のようです。日本武尊などと関係するので、皇国史観の中で大事にされたようです。


諏訪神社と須賀神社と神明神社と稲荷神社と水神社があるそうです。
ようするに諏訪と出雲と伊勢とアイヌとカッパのようです。つまり全部ですね。
地元の企業が鳥居を作っているようで何とも平成時代な感じです。江戸時代の狛犬が一番豪華なようでした。
須賀神社というのが横須賀の地名の起源のように思われましたが、一般には異なるようです。
横須賀は須賀神社とか諏訪神社があって、武蔵と相模の国の国境で、要するに奈良とか平安時代の弥生系と縄文系の国の国境であったのだと思われます。それは鎌倉時代の源氏と北条氏や三浦氏、その他の御家人達と天皇家や寺社との関係を見ても、そういう東と西の邂逅がここ関東の近世の歴史のテーマであったことを感じさせます。またそれはそのまま近代の大東亜戦争に至るまで、また最近では東日本大震災に繋がるものでもあるかと思われます。
まあテーマとしては広く浅くですが、実際には乾いた関東の雰囲気を強く反映した、鎌倉などとは異なる何でもありの横須賀という雰囲気を代表した感じでしょうか。
なんというかまあ日本人は信仰心は広く浅く普遍的にあるという感じではないでしょうか。出雲とか伊勢とか諏訪とか言っても、当時の日本人には現在のエジプトやパリやロンドン、ニューヨークのような雰囲気であったかと思われます。横須賀にはこの他にも様々な宗派の寺が一緒に合同していたり、共同体として多くの信仰をまとめている形態がよく認められます。一種の宗教の合理化、実務的メイスンリーというとかなり語弊がありますが、地形的にも古くから海の街道の要所として様々な人が行き交った歴史が、結果的にそういう文化を生んだのかもしれません。
本当にいわゆる勉強用の説明です。
eBayで買えますのでまじめに勉強したい人はご購入いただき部屋にでも貼る事をお勧めします。
と説明しようと思いましたがほとんど説明しているので残りも自分で調べてください。。という結果に。
完全に撒き餌と仕込み網の漁ですな。
フリーメイスンリーやキリスト教でも良き羊飼いという表現が良く使われますが、日本の沿岸部はやはり良き漁師。キリストの象徴としてのイクトゥスで市章を表されたりしていますが、まあ完全に漁師さんのあれだなと。ただ完全に海が枯れてきちゃってるからちょっともう厳しいと。
まあもうちょっとねえ。
インドカレーの店があるとは言いましたが、要するに結構町としても厳しい状態というのがわかりました。内部的にも厳しいし、対外的にも厳しい。それはやはり現在横須賀港にも空母ジョージ・ワシントンもいないようですが、空母の運用も含めて米軍基地問題としても厳しい。(5/17現在戻ってきたようです。)
三笠公園でも結局戦艦三笠の菊の御紋を整備していましたが、そもそもあれだけ天皇誕生日を入れ込んじゃった公園だしねえ。カレーフェスタがライオンズクラブで翌週のローズフェスタがロータリークラブのようですが、なかなかどうしてかなり厳しい。
本来は城ケ島にマグロを買いに来てほしいのだろうけど、魚食というわけにもいかないし、すかなごっそも継続的な来客は厳しいしと。まあナチスについてケーブルテレビで良くやってるけど、国家社会主義というとやはりナチスみたいな結末なのかなと。中央公園のシンボルは伊達じゃないんだなという感じです。
やはり国家社会主義の結末は終局的な破局以外ないのではないでしょうか。という結論です。
私は薔薇は童話で「名探偵カッレ君」という中で薔薇戦争という子供のどろけい遊びの様な遊びで、そういう戦争が実際にあって、ヨーロッパの戦争は実に優雅だなと思ったようなのが薔薇についてイメージした最初でしょうか。日本の実生活で薔薇の香りのシャンプーやせっけんは数多くありましたが、実際に薔薇はわずかにあるだけで、それも時々大輪の薔薇が数輪咲いているだけで、それも大概真っ赤なバラで、とげが多く葉がある期間も短く、それ以外の時は短く剪定されていて、毛虫が付く事も多くあまり良い印象ではありませんでしたが、やはり少し規模が大きくなって5-6月頃に大輪の薔薇が数多く咲き、それもやはり真っ赤なバラでしたが、匂いがして花びらが咲き乱れる様子はまさに花という印象でした。
今思い出すと自宅の庭にもありましたが、多くは学校などだったと思います。
さて薔薇は薔薇戦争でも象徴されていますが、日本の菊や藤、橘と一緒でいわゆる貴族の園芸の余暇の象徴としてあるのだと思います。実際薔薇を育ててみると非常に虫に食べられやすいですし、日当たりや風通しも他のものよりも条件が良いものが必要ですし、何より肥料が多くないと花が咲かないのが強く関係していて、食べられる実があるわけでもないですが、見事な花が咲いたときはそれらの投資が昇華した事を納得させられるだけの美しい象徴であるかと思います。
さて前置きはさておき要するに横須賀はヴェルニー公園のローズフェスタです。5月19日はアメリカ軍の軍の日という事もあり、多くの駐留基地では基地開放の日であるそうですが、横須賀ではヴェルニー公園のローズフェスタです。平和の象徴の鳩が飛んできて、フランスのフリーメイスンリーの象徴である休み処の屋根の頂上にとまる演出もあるなど軍港の町も平和一色というところでしょうか。
様々な演奏などイベントもありますが、この時期1週間以上はヴェルニー公園の薔薇は日本のその他の場所では見られないほど満開で様々な色を見せています。イベントに関わらず、日米の軍艦と貴重なフリーメイスンリーのシンボルが数多く認められる都市は横須賀しかありませんので、是非この機会にJR、京急その他でご来場ください。(写真は5月19日のものと数日前のものがあります。現在満開です。)
(薔薇十字会との関連について全く触れませんでしたが、薔薇十字会または薔薇十字団はその名前で検索すると同じ名前の現在活動中の友愛団体が出てきます。スコティッシュライトでは15-18階級を薔薇十字会としています。薔薇十字会はかつてフランシス・ベーコンやニュートンの時代に様々なフリーメイスンリーと似た友愛団体の一つとして科学や錬金術関連の知識を共有する活動があったそうですが、私はまだ詳しい知識がありません。現在あるものはそれらの復興を謳ったフランス発祥の組織のようで、元々は恐らくフリーメイスンが関係しているものかと思います。薔薇はそういう意味でも薔薇十字会の象徴でもありますが、特に特定の友愛団体の象徴としてではなく、やはり漠然と欧米の貴族文化の象徴という意味合いが強いかと思います。現在の多くの品種の元になったのはブラザーナポレオンの最初の妻であったジョセフィーヌが慰みに収集し、品種交配させて数多くの種を作ったと言われているそうです。)
(追記:
ヨーロッパのフリーメイスンリーではオーストリア、いわゆるマリア・テレジアとその夫ブラザーフランツ一世に代表されるハプスブルク家のフリーメイスンを象徴する関係での薔薇のシンボルのようです。一般にイングランド系の貴族に薔薇の紋章のものは多いですが、それと対抗するようにハプスブルク系にもあるようです。上にあるブローチはオーストリアのフリーメイスンリー博物館にあるものの複製だそうです。詳細はホームページその他を参照してください。)
聖ヨゼフ病院はもともと海軍の関係者向けの病院の海仁病院から発し、戦後にGHQの指導のもとで、最初はアメリカで宣教師をしていたフランス人のブルトン師を創始者とする聖母訪問会が創設の主体となり聖ヨゼフ病院となり、最近になってカトリックの聖テレジア会が運営する事となりました。聖母訪問会はフランスの有名な修道会の名前であり、このアメリカ由来のものとは異なるそうですが、どちらも基本的に新約聖書ルカ福音書のキリストの聖母マリアがまだ出産前に、キリストを洗礼することになる洗礼者ヨハネの母親であるエリザベトを訪問する件に由来するようです。
洗礼者ヨハネの存在は非常にフリーメイスンリーでは重要であり、1717年6月24日にイングランドグランドロッジは合同ロッジとして近代思索的フリーメイスンリーとして発足したわけですが、その日はまさに夏至に当たる洗礼者ヨハネの日としてカトリックの記念日であり、すなわちイエス・キリストの実在を証明するユダヤ教における唯一の証人とも言うべき記録に残された宴で首をさらされて殺された洗礼者ヨハネが、後のヨハネ福音書やヨハネの黙示録で出てくる使徒ヨハネと同名であり、いわゆる洗礼派(エッセネ派)と律法派(ファリサイ派、ユダヤ教正統派)、神殿祭司派(サドカイ派)、熱心党(ユダヤ教過激派、フリーメイスンリーの源流かもしれません)の分類の、キリスト教の源流をエッセネ派に求めるものと繋がるのだと思います。洗礼者ヨハネが首を切られるくだりはブラザーオスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」で有名かと思います。
いずれにしても聖書における「ヨハネ」の名前のダブルミーニングともう言うべき、洗礼者ヨハネと使徒ヨハネが同名である事は、そのままカトリックの記念日である夏至の洗礼者ヨハネの日と冬至の使徒ヨハネの日と繋がり、それはそのまま以前挙げた丸に点と平行線で挟んだフリーメイスンリーのシンボルとなります。上部にトーラーを示し、律法を示すシンボルとなります。
こういう話は仏教でも小乗と大乗や、仏陀とダイバダッダの話などほとんど同じ話が出てくるところではないかと思います。
さて英語圏では非常に多い名前として挙げられるJohnジョンですが、これは基本的にヨハネ(ラテン:Ioannes、英:John)に由来します。このダブルミーニングとしての洗礼者ヨハネと使徒ヨハネの対応と同じ様な例が旧約聖書と新約聖書の重要人物でも認められ、それが今回の謎の舞台である聖ヨゼフ病院の名前であるヨゼフです。
ヨゼフJosephはフリーメイスンリーに関して少し調べると、人名で必ず多く認めることになる重要な名前です。これは聖書を通読するとすぐに理解できるわけですが、ユダヤ人のいわゆるトーラーの創世記から列王記、ソロモン王までに至るイスラエル統一王国の歴史の中で、客観的に見て最大の功績者がこのヨゼフ、ヨセフだと思います。発音が近いのはヨセフだと思うので、基本的にはヨセフで統一させていただきます。
ヨセフが関係する聖書の有名な場面、恐らくユダヤ教における最大の神秘かもしれませんが、有名なヨセフの夢占いの場面はさすがに引用します。ヨセフのまつわる物語については直接聖書を読むことをお勧めしますが、その他はウィキペディアを読むなり、ミュージカルでもヨセフの夢占いはあるそうなので機会があれば観覧する事も良いのではないでしょうか。日本での公演は東北大震災の時期であった事から中止となっています。
まずウィキペディアのヨセフの項目を転載します。
ヨセフ(Joseph)は、『旧約聖書』の「創世記」に登場する、イスラエル人を大飢饉から救った人物。ユダヤ人の祖ヤコブの子で、母はラケル。同母弟にベニヤミン、異母兄にルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン、ダン、ナフタリ、ガド、アシェルが、異母姉にディナがいる。妻アセナトとの間にエフライムとマナセの2男を儲ける。
生涯
「創世記」37-50ではヨセフを中心とした、いわゆる『ヨセフ物語』が語られる。その概要は次の通りである。
夢の話と異母兄弟の妬み
ヨセフは父ヤコブと母ラケルとの間に長男として生まれた。ヤコブはヨセフが年寄り子であるため、誰よりも彼を愛した。そのため10人の異母兄弟たちはヨセフを憎むようになった。ある日ヨセフは夢を見、それを語ったので、兄弟たちのねたみを買い、井戸に落とされ、やがて彼らによってミデヤン人の隊商に売られてしまう。その直後、ヨセフの服に羊の血を付け、父ヤコブにヨセフは獣に襲われて死んだと偽った。
エジプトでの受難と栄光
隊商の手によってエジプトに渡ったヨセフは、エジプト王宮の侍従長ポティファルの下僕となるが、そこで成功を収め、ついにはその家の全財産を管理するまでとなる。ところが、ポティファルの妻の性的誘惑を拒んで、その妻にかえってぬれぎぬを着せられて監獄に入れられてしまう。しかし、ヨセフはそこの監獄の長に気に入られ、その監獄の管理人となった。やがて、その監獄にファラオに罪を犯した献酌官長と調理官長が拘留され、ある時、二人は同じ夜にそれぞれ夢を見た。ヨセフはその二人の夢をそれぞれ解き明かし、その解き明かしのとおりになったため、その能力が後にファラオに知られ、ファラオが見た夢も解き明かすことになった。その彼の解き明かしがファラオに認められて出世し、エジプトの宰相となる。その後、ヨセフはファラオからツァフェナト・パネアという名と、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナトを妻として与えられた。
兄弟たちの誠意と再会
宰相の地位に就いたヨセフは七年間の大飢饉に備えるために食料を保存するなど、国政に腕を揮った。七年間の大飢饉はエジプトだけでなく、父ヤコブや兄弟たちのいるカナンの地にも及んだ。そこで、10人の異母兄弟たちは末の弟でヨセフとは同母弟となるベニヤミンをカナンに残し、エジプトに穀物を買いに行く。そこでヨセフと出会うが、兄弟たちは宰相ツァフェナト・パネアがヨセフであることには気付かなかった。だが、ヨセフは兄弟たちのことが分かっていた。そこで、ヨセフは兄弟たちを間者と決めつけ、末の弟ベニヤミンを連れてくるように要求、彼らの誠意を試そうとした。
兄弟たちはシメオンを人質としてエジプトに残し、穀物を持って帰ったが、エジプトで起きたことを父ヤコブに話すと、ヤコブはベニヤミンをエジプトに連れて行くことに強く反対する。しかし、穀物が尽きてしまったため、仕方なくヤコブはベニヤミンをエジプトに連れて行くことを決心、兄弟たちはベニヤミンを連れてエジプトに戻った。ヨセフはベニヤミンを見ると感激し、兄弟たちにご馳走をした。その後、兄弟たちがカナンの地に帰る前にヨセフはベニヤミンの持つ穀物の袋に、自らの使う銀の杯を入れた。そして兄弟たちが出発してすぐに、ヨセフは彼らを追い、彼らが銀の杯を奪ったと指摘、兄弟たちは自信を持って盗んでいないと主張するが、調べるとベニヤミンの袋から銀の杯が見つかった。罰としてヨセフはベニヤミンを自分の奴隷とすると言ったが、兄弟たちは自らが奴隷になってでも、ベニヤミンを帰らせるよう頼んだ。
ヨセフはその誠意にとても感激し、自らのことを明かした。兄弟たちは驚くも、その後ヨセフと抱き合い、和解を果たした。また、兄弟たちはそのことを父ヤコブにも告げた。ヤコブは最初は信じなかったものの、最終的にはヨセフに会って、劇的な再会を果たした。ヨセフは父と兄弟たちをゴジェンに移住させ、ヤコブの死後、110歳まで生き続けた。古来、エジプト人は人間の最長寿命は110歳であると考えており、ヨセフが110歳で死んだという聖書の記述はヨセフが神の愛を深く受けていたということを示している。
夢とその解き明かし
束(ヨセフの見た夢)
ヨセフとその兄弟たちが畑で束を束ねていた。すると突然、ヨセフの束が立ち上がり、兄弟たちの束はヨセフの束に向かってお辞儀をした。
解き明かし…これはヨセフが後に宰相となって、兄弟たちが皆ヨセフにひざまずくことになるということを預言している。
太陽と月と十一の星(ヨセフの見た夢)
ヨセフと太陽と月と十一の星があった。すると、太陽と月と十一の星がヨセフに向かってひれ伏した。
解き明かし…太陽というのは父、月というのは母、十一の星というのは兄弟たちのこと。束の夢と同じでヨセフの後のことを預言している。
ぶどうの木(献酌官長の見た夢)
献酌官長の前に一本のぶどうの木があり、その木には三本のつるがあった。そのつるが芽を出すと、すぐに花が咲き、ぶどうの実がなった。献酌官長がそのぶどうを摘み、ファラオの杯の中に搾って入れ、その杯をファラオに渡した。
解き明かし…三本のつるというのは三日のこと。三日後、ファラオは献酌官長を元の地位に戻し、以前のようにファラオに杯を渡すことを許されるということを預言している。
三つの枝網のかご(調理官長の見た夢)
調理官長の頭の上に枝網のかごが三つあった。すると、鳥がやってきて、一番上のかごの中に入ってあるファラオのための食事を食べてしまった。
解き明かし…三つのかごというのは三日のこと。三日後、ファラオは調理官長を木につるして殺し、鳥が死体に群がるということを預言している。
七頭の雌牛(ファラオの見た夢)
ファラオがナイル川の岸に立っていると、ナイル川から、肉づきがよくて、つやのある雌牛が七頭上がってきて、葦の中で草を食べていた。すると、そのあとに弱々しく、やせ細って、非常に醜い雌牛が七頭上がってきて、最初に上がった、肥えた雌牛七頭を食べてしまった。しかも、醜い牛は肥えた牛を食べたにもかかわらず、何も変わっていなかった。
解き明かし…七頭というのは七年、肥えた雌牛というのは豊作、醜い雌牛というのは飢饉のこと。ファラオがこの夢を見てすぐに、七年間の大豊作が訪れ、その後七年間の大飢饉が起こるということを預言している。
七つの穂(ファラオの見た夢)
一本の茎にとても豊かに実っている穂が七つあった。すると、東風に焼け、しなびた穂が七つ出てきて、豊かな穂をのみこんでしまった。
解き明かし…七つというのは七年、豊かな穂というのは豊作、しなびた穂というのは飢饉のこと。七頭の雌牛の夢と同じで七年間の大豊作と大飢饉を預言している。
まあウィキペディアでも概要はわかるのですが、やはり聖書の本文に触れたほうが良いという事で、今回はこれで終わりにして次回聖書本文の該当部分、ヨセフの夢占いからヨセフのユダヤ教での重要性とキリストの養父としてのヨセフとのダブルミーニングの意味、さらにそこから聖ヨゼフ病院に隠された謎へと展開していきます。
日本人ではオウム事件の評論家で有田芳生という人もいます。もともとソ連の悪名高きヨシフ・スターリンをもじっているそうですね。ヨシフはヨセフのロシア語読みです。
ヨーゼフ2世というモーツァルトの時代の啓蒙専制君主もいました。この人はマリア・テレジアとブラザーフランツ1世の子供です。ヨーゼフもヨセフのドイツ語読みです。フリーメイスンのようです。
ヨーゼフ・ゲッペルスやヨーゼフ・メンゲレというナチス党のメンバーもいます。
フリーメイスンリーではやはりナポレオンの兄である、スペイン王となったブラザージョゼフ・ボナパルト、ナポレオン帝政での悪名高き外交官であったブラザータレーランと共に悪名高き謀略家としての秘密警察長官ブラザージョゼフ・フーシェ、ナポレオンの最初の妻であるジョセフィーヌ(ジョセフの女性名)、イタリア建国の父であるブラザージュゼッペ・ガリバルディ(ジュゼッペはイタリア語のヨセフ)が有名かと思います。フランス革命に関してはフーリエの法則やフーリエ変換で有名な科学者ジョゼフ・フーリエがいますが、恐らく彼もフリーメイスンかと思われます。
アメリカではピューリーツァー賞で有名なブラザージョーゼフ・ピューリツァーやJFKの兄でヨーロッパ戦線で亡くなったジョセフ・ケネディなどが有名かと思われます。
そしてイギリスを代表するヨセフの名前のフリーメイスンと言えばこのブログでも東と西の邂逅で数多く引用させてもらったブラザージョセフ・キップリングです。
いずれもフリーメイスンかフリーメイスンに近い啓蒙家やユダヤ系の名前として印象付けられるかと思われます。ユダヤ人では聖書の夢占いのヨセフ、キリストの養父としてのヨセフ、聖書の続編とも言われるユダヤ古代誌を記したフラヴィウス・ヨセフスが特に有名になるかと思います。
このヨセフという人物ですが、前回もウィキペディアのコピペをお示しし、その中に書かれていますがアブラハム―イサク―ヤコブと続く三代のユダヤ一族のヤコブの子供達12人の中の11番目の子供です。11という数字の重要性とユダヤ教の関連がこのあたりで求められることになるかと思います。またヨセフが110歳で祝福されて死んだという事もまた11という数字と関連がある事になるかと思われます。
さてだいぶヨセフという人物がユダヤ教での象徴的な人物であり、またフリーメイスンリーでも非常に重要な名前であり、かつヨセフの主要な業績というか聖書の中での活躍が夢占いにあるという事が理解されてきたのではないかと思われます。
それではあらためて聖書の該当部分を抜粋し、意味や隠された真実を現代に反映させることとしましょう。
創世記39章 ヨセフとポティファルの妻
ヨセフはエジプトに連れて来られた。ヨセフをエジプトへ連れてきたイシュマエル人の手から彼を買い取ったのは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長のエジプト人ポティファルであった。主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた。主人が家の管理やすべての財産をヨセフに任せてから、主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福された。主の祝福は、家の中にも農地にも、すべての財産に及んだ。主人は全財産をヨセフの手にゆだねてしまい、自分が食べるもの以外は全く気を遣わなかった。ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていた。これらのことの後で、主人の妻はヨセフに目を注ぎながら言った。「わたしの床に入りなさい。」 しかし、ヨセフは拒んで、主人の妻に言った。「ご存じのように、ご主人は私を側に置き、家の中のことには一切気をお遣いになりません。財産もすべてわたしの手にゆだねてくださいました。この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。」彼女は毎日ヨセフに言い寄ったが、ヨセフは耳を貸さず、彼女の傍らに寝ることも、共にいることもしなかった。こうして、ある日、ヨセフが仕事をしようと家に入ると、家の者が一人も家の中にいなかったので、彼女はヨセフの着物をつかんで言った。「わたしの床に入りなさい。」ヨセフは着物を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。着物を彼女の手に残したまま、ヨセフが外へ逃げたのを見ると、彼女は家の者たちを呼び寄せて言った。「見てごらん。ヘブライ人などをわたしたちの所に連れて来たから、わたしたちはいたずらをされる。彼が私のところに来て、わたしと寝ようとしたから、大声で叫びました。わたしが大声をあげて叫んだのを聞いて、わたしの傍らに着物を残したまま外へ逃げて行きました。」彼女は、主人が家に帰ってくるまで、その着物を傍らに置いていた。そして、主人に同じことを語った。「あなたが私たちの所に連れて来た、あのヘブライ人の奴隷は私のところに来て、いたずらをしようとしたのです。私が大声をあげて叫んだものですから、着物をわたしの傍らに残したまま、外へ逃げて行きました。」「あなたの奴隷が私にこんなことをしたのです」と訴える妻の言葉を聞いて、主人は怒り、ヨセフを捕らえて、王の囚人をつなぐ監獄に入れた。ヨセフはこうして、監獄にいた。しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。監守長は、ヨセフの手にゆだねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。
創世記40章 夢を解くヨセフ
これらのことの後で、エジプト王の給仕役と料理役が主君であるエジプト王に過ちを犯した。ファラオは怒って、この二人の宮廷の役人、給仕役の長と料理役の長を、侍従長の家にある牢獄、つまりヨセフがつながれている監獄に引き渡した。侍従長は彼らをヨセフに預け、身辺の世話をさせた。牢獄の中で幾日かが過ぎたが、監獄につながれていたエジプト王の給仕役と料理役は、二人とも同じ夢にそれぞれ夢を見た。その夢には、それぞれ意味が隠されていた。朝になって、ヨセフが二人のところへ行ってみると、二人ともふさぎ込んでいた。ヨセフは主人の家の牢獄に自分と一緒に入れられているファラオの宮廷の役人に尋ねた。「今日は、どうしてそんなに憂うつな顔をしているのですか。」「我々は夢を見たのだが、それを解き明かしてくれる人がいない」と二人は答えた。ヨセフは、「解き明かしは神がなさることではありませんか。どうかわたしに話してみてください」と言った。給仕役の長はヨセフに自分の見た夢を話した。「わたしが夢を見ていると、一本のぶどうの木が目の前に現れたのです。そのぶどうの木には三本のつるがありました。それがみるみるうちに芽を出したかと思うと、すぐに花が咲き、ふさふさとしたぶどうが熟しました。ファラオの杯を手にしていたわたしは、そのぶどうを取って、ファラオの杯に搾り、その杯をファラオにささげました。」ヨセフは言った。「その解き明かしはこうです。三本のつるは三日です。三日たてば、ファラオがあなたの頭を上げて、元の職務に復帰させてくださいます。あなたは以前、給仕役であったときのように、ファラオに杯をささげる役目をするようになります。ついては、あなたがそのように幸せになられたときには、どうかわたしのことを思い出してください。私のためにファラオに私の身の上を話し、この家から出られるように取り計らってください。わたしはヘブライ人の国から無理やり連れて来られたのです。また、ここでも、牢屋に入れられるようなことは何もしていないのです。」料理役の長は、ヨセフが巧みに解き明かすのを見て言った。「わたしも夢を見ていると、編んだ籠が三個わたしの頭の上にありました。いちばん上の籠には、料理役がファラオのために調えた色々な料理が入っていましたが、鳥がわたしの頭の上の籠からそれを食べているのです。」ヨセフは答えた。「その解き明かしはこうです。三個の籠は三日です。三日たてば、ファラオがあなたの頭を上げて切り離し、あなたを木にかけます。そして、鳥があなたの肉をついばみます。」三日目はファラオの誕生日であったので、ファラオは家来たちを皆、招いて、祝宴を催した。そして、家来たちの居並ぶところで例の給仕役の長の頭と料理役の長の頭を上げて調べた。ファラオは給仕役の長を給仕の職に復帰させたので、彼はファラオに杯をささげる役目をするようになったが、料理役の長は、ヨセフが解き明かしたとおり木にかけられた。ところが、給仕役の長はヨセフのことを思い出さず、忘れてしまった。
創世記41章 ファラオの夢を解く
二年の後、ファラオは夢を見た。ナイル川のほとりに立っていると、突然、つややかな、よく肥えた七頭の雌牛が川から上がって来て、葦辺で草を食べ始めた。すると、その後から、今度は醜い、やせ細った七頭の雌牛が川から上がって来て、岸辺にいる雌牛のそばに立った。そして、醜い、やせ細った雌牛が、つややかな、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くした。ファラオは、そこで目が覚めた。ファラオがまた眠ると、再び夢を見た。今度は、太って、よく実った七つの穂が、一本の茎から出てきた。すると、その後から、実が入っていない、東風で干からびた七つの穂が生えてきて、実の入っていない穂が、太って、実の入った七つの穂をのみ込んでしまった。ファラオは、そこで目が覚めた。それは夢であった。朝になって、ファラオはひどく心が騒ぎ、エジプト中の魔術師と賢者をすべて呼び集めさせ、自分の見た夢を彼らに話した。しかし、ファラオに解き明かすことができる者はいなかった。そのとき、例の給仕役の長がファラオに申し出た。「わたしは、今日になって自分の過ちを思い出しました。かつてファラオが僕どもについて憤られて、侍従長の家にある牢獄にわたしと料理役の長を入れられたとき、同じ夜に、わたしたちはそれぞれ夢を見たのですが、そのどちらにも意味が隠されていました。そこには、侍従長に仕えていたヘブライ人の若者がおりまして、彼に話をしたところ、わたしたちの夢を解き明かし、それぞれ、その夢に応じて解き明かしたのです。そしてまさしく、解き明かしたとおりになって、わたしは元の職務に復帰することを許され、彼は木にかけられました。そこで、ファラオはヨセフを呼びにやった。ヨセフは直ちに牢屋から連れ出され、散髪をし着物を着替えてから、ファラオの前に出た。ファラオはヨセフに言った。「わたしは夢を見たのだが、それを解き明かす者がいない。聞くところによれば、お前は夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだが。」ヨセフはファラオに答えた。「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです。」ファラオはヨセフに話した。「夢の中で、わたしがナイル川の岸に立っていると、突然、よく肥えて、つややかな七頭の雌牛が川から上がって来て、葦辺で草を食べ始めた。すると、その後から、今度は貧弱で、とても醜い、やせた七頭の雌牛が上がって来た。あれほどひどいのは、エジプトでは見たことがない。そして、そのやせた、醜い雌牛が、初めのよく肥えた七頭の雌牛を食い尽くしてしまった。ところが、確かに腹の中に入れたのに、腹の中に入れたことがまるで分からないほど、最初と同じように醜いままなのだ。わたしは、そこで目が覚めた。それからまた、夢の中でわたしは見たのだが、今度は、とてもよく実の入った七つの穂が一本の茎から出てきた。すると、その後から、やせ細り、実が入っておらず、東風で干からびた七つの穂が生えてきた。そして、実の入っていないその穂が、よく実った七つの穂をのみ込んでしまった。わたしは魔術師たちに話したが、その意味を告げうる者は一人もいなかった。」ヨセフはファラオに言った。「ファラオの夢は、どちらも同じ意味でございます。神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお告げになったのです。七頭のよく育った雌牛は七年のことです。七つのよく実った穂も七年のことです。どちらの夢も同じ意味でございます。その後から上がってきた七頭のやせた、醜い雌牛も七年のことです。また、やせて、東風で干からびた七つの穂も同じで、これらは七年の飢饉ことです。これは、先程ファラオに申し上げましたように、神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお示しになったのです。今から七年間、エジプトの国全体に大豊作が訪れます。しかし、その後に七年間、飢饉が続き、エジプトの国に豊作があったことなど、すっかり忘れられてしまうでしょう。飢饉が国を滅ぼしてしまうのです。この国に豊作があったことは、その後に続く飢饉のために全く忘れられてしまうでしょう。飢饉はそれほどひどいのです。ファラオが夢を二度も重ねて見られたのは、神がこのことを既に決定しておられ、神が間もなく実行されようとしておられるからです。このような次第ですから、ファラオは今すぐ、聡明で智恵のある人物をお見つけになって、エジプトの国を治めさせ、また、国中に監督官をお立てになり、豊作の七年の間、エジプトの国の産物の五分の一を徴収なさいますように。このようにして、これから訪れる豊年の間に食料をできるかぎり集めさせ、町々の食料となる穀物をファラオの管理の下に蓄え、保管させるのです。そうすれば、その食糧がエジプトの国を襲う七年の飢饉に対する国の備蓄となり、飢饉によって国が滅びることはないでしょう。」
ヨセフの支配
ファラオと家来たちは皆、ヨセフの言葉に感心した。ファラオは家来たちに、「このように神の霊が宿っている人はほかにあるだろうか」と言い、ヨセフの方を向いてファラオは言った。「神がそういう事をみな示されたからには、お前ほど聡明で智恵のあるものは、ほかにはいないであろう。お前をわが宮廷の責任者とする。わが国民は皆、お前の命に従うであろう。ただ王位にあるということでだけ、わたしはお前の上に立つ。」ファラオはヨセフに向かって、「見よ、わたしは今、お前をエジプト全国の上に立てる」と言い、印章のついた指輪を自分の指から外してヨセフの指にはめ、亜麻布の衣服を着せ、金の首飾りをヨセフの首にかけた。ヨセフを王の第二の車に乗せると、人々はヨセフの前で、「アブレク(敬礼)」と叫んだ。ファラオはこうして、ヨセフをエジプト全国の上に立て、ヨセフに言った。「わたしはファラオである。お前の許しなしには、このエジプト全国で、だれも、手足を上げてはならない。」ファラオは更に、ヨセフにツァフェナト・パネアという名を与え、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナトを妻として与えた。ヨセフの威光はこうして、エジプトの国にあまねく及んだ。ヨセフは、エジプトの王ファラオの前に立ったとき三十歳であった。ヨセフはファラオの前をたって、エジプト全国を巡回した。豊作の七年の間、大地は豊かな実りに満ち溢れた。ヨセフはその七年の間に、エジプトの国中の食糧をできるかぎり集め、その食糧を町々に蓄えさせた。町の周囲の畑にできた食糧を、その町の中に蓄えさせたのである。ヨセフは、海辺の砂ほども多くの穀物を蓄え、ついに量りきれなくなったので、量るのをやめた。飢饉の年がやって来る前に、ヨセフに二人の息子が生まれた。この子供を産んだのは、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナトである。ヨセフは長男をマナセ(忘れさせる)と名付けて言った。「神が、わたしの苦労と父の家のことをすべて忘れさせてくださった。」また、次男をエフライム(増やす)と名付けて言った。「神は、悩みの地で、わたしに子孫を増やしてくださった。」エジプトの国に七年間の大豊作が終わると、ヨセフが言ったとおり、七年の飢饉が始まった。その飢饉はすべての国々を襲ったが、エジプトには、全国どこにでも食物があった。やがて、エジプト全国にも飢饉が広がり、民がファラオに食物を叫び求めた。ファラオはすべてのエジプト人に、「ヨセフのもとに行って、ヨセフの言うとおりにせよ」と命じた。飢饉は世界各地に及んだ。ヨセフはすべての穀倉を開いてエジプト人に穀物を売ったが、エジプトの国の飢饉は激しくなっていった。また、世界各地の人々も、穀物を買いにエジプトのヨセフのもとにやって来るようになった。世界各地の飢饉も激しくなったからである。
一体どの部分がユダヤ教や、ユダヤ人全体を代表するほどの話の重要な部分なのでしょうか。
創世記の神の天地創造からアダムとエバの楽園追放、カインとアベルの兄弟の争い、大洪水とノアの箱舟、
バベルの塔、 アブラハム、イサク、ヤコブまで連なる一連の話は直接旧約聖書を読むことをお勧めします。特にヤコブ(イスラエル)の話はユダヤ人がなぜ腿の関節の上の腰の筋肉を食べないかなど戒律にもかかわっていたりする重要な部分になるかと思います。いずれにしても創世記から始まるモーゼ五書はトーラーと呼ばれ、いわゆるユダヤ教の最重要の聖典であり、あらゆる科学や文明、文化の常識として設定されているものであり、フリーメイスンリーに関わらず常識として読んだ方が役に立つものです。
さてこのヤコブ、およびその11男のヨセフに至るまでの話で重要なのは、基本的には男子で継承される神に祝福される預言者の系譜、要するに嫡男の争いとその嫁取り話とそれにまつわるさらなる財産の相続の話という、現代の民法や家族にまつわる法律にもつながる非常に人類全体にとって普遍的な身近な話で占められています。またこの時代は基本的に一夫多妻制であり、その中での妻と妾、召使いとの間での愛憎や親子の愛憎が入り混じったすさまじい群像描写となります。さらにヤコブの時代に下るとイサク、ヤコブの一家はメソポタミアからカナンを越えてエジプト近くに移動してきており、その中で恐らくメソポタミア文明とエジプト文明の中間での文明の伝達者、様々な知恵の伝達者として、夢による啓示やその他の奇跡、集団移動での軍略に近い話や、羊の飼育や穀物の栽培などに関して様々な成熟した技術がそれら文明の交流の中でやり取りされ、それらの伝達の媒介者として、要するに現代のスパイの様な役割で一神教としての神に認められ、選ばれた民としてイスラエルと言う名前を得るわけです。さらにその中でも多くの妻の中でやはりその子供たちに関しても兄弟間の愛憎がさらに複雑となり、ヨセフはその中で兄弟に井戸に捨て置かれ、エジプトに売られてしまうというひどい仕打ちを受ける事になります。それらはまた彼自身に関して夢の啓示が認められ、それは麦藁の束や星の預言として現れ、ユダヤ教の重要なシンボルと後になります。エジプトに売られた後の彼は結局奴隷とされるのですが、優秀ですぐに家の切り盛りをする奴隷頭となりますが、主人の妻の誘いを断る事で牢獄に入れられますが、やはりここでも牢獄の主となる優秀さがあります。結局王の暗殺者を夢占い、要するに睡眠時の自白の誘導や人間観察によって真実を解き明かすという技術なのだと思いますが、それによって王の信任を得るきっかけを得、さらには恐らくエジプトの神官団の天候予知と経済政策、現代でいうならばニューディール政策ともいうべき国家の経済政策を見事に夢占いとして王に進言し、最終的にエジプト全土の権力を掌握するに至るのです。かなりこの部分で核心を言ってしまっているのですが、要するにこの部分を読んで想像するに、ユダヤ教の神秘の真髄の部分はそのまま最盛期のエジプト神官団の様々な科学技術、医学から天候予測、人間の深層心理、倫理や王権の執行に関する最高の知恵を結集したものを受け継いだものであり、それがそもそもメソポタミアとエジプトという最古の二大文明の間の媒体(メディア)として、さらにそれらの事象を聖書という文字(メディア)に残し、そのものを民族教として知恵として伝授したものかと思われます。結局モーゼ五書を読めば自明なのですが、このヨセフの夢占いの事例を転機としてユダヤ民族が無数に増え、その知恵の事象も莫大な規模の現象となり、結局モーゼの出エジプトの10の奇跡として顕現する形となるのです。
(追記:この出エジプトのルートは検索で最初に出てきたものを拾っただけで、一般的な説ではないようです)
つまりヨセフの夢占いの物語から得られる教訓は、すなわち夢とは人間の深層心理や人間自身をまさに動かす部分を操る技術と関わり、すなわち人間をコントロールするとはすなわち大衆や国家を根本から動かす技術、知恵となり、それはすなわち家族や親子関係、夫婦関係、経済や商業、国家と全てを神の御心のもとに従って成り立たせて初めて、真に自身をはじめとして人間をやる気にして物事を動かす事が出来るという、まさに東洋で言えば道徳、修身斉家治国平天下と言える事象かと思われます。その中でユダヤ人が得意とするのがヤコブ、ヨセフに共通する夢占いの技術であり、これは人間をやる気にしたり、真実を明らかにしたり、大きく物事を動かす時に重要となる技術、現代でいえばマインドコントロールや大衆誘導、催眠などともとれるかもしれませんが、それらは結局神の御心のもとに行われるというところが非常に重要となるところであり、それが結局のところ聖書に一貫するテーマととらえられます。聖書に現れる数多くの神の奇跡は、読んでいる過程でも何やら何かがあるのではないかと思わせるような趣向があり、また繰り返し同じ奇跡が現れたりと時代や状況による傾向の様なものもあります。それらは結局夢占いがフロイトの心理学の様な形に現代に現れたりと、多くの科学の萌芽のきっかけととらえられるものがあります。特に医学や建築などに関してトーラーには数多くの記載があり、それはこのヨセフの夢占い以降明らかに多く現れるようになり、それがこの当時のエジプト文明の真髄に触れた事による作用であったろうと想像されるかと思います。
現代においてエジプト学が進歩したために、これら聖書に認められるような一神教の成立にいわゆるツタンカーメン王の父であるアメンホテプ4世によるアメン神からアテン神への宗教改革の影響がある可能性が言われています。いわゆるアテン信仰はその後エジプトの歴史から闇に葬られたわけですが、ロスチャイルド家の妻を持つカーナヴォン卿の支援を受けたハワード・カーターによってツタンカーメン王の墓の発見に繋がり、これらのエジプトの歴史の発見につながる事になるかと思います。(ちなみにフリーメイスンリーでもアーメンという同意の文句を言う事があります。このアーメンという相槌の文句ですが、ヘブライ語が語源であり、かくあれとかその通りという意味と説明されていますが、恐らくエジプトの太陽神であるアメン神を讃えた言葉で良いのかと思います。)
(昨日5/21には皆既日食がありましたが、アメンホテプ4世がアテン信仰に傾倒した事と皆既日食との関連もあるそうです。アメンホテプ4世はアクエンアテンと改名しました。) (一神教とアテン信仰については晩年のフロイトも著作を残した説のようです。フロイトのミドルネームはソロモンでした。フロイトの弟子のヴィクトール・フランクルの著書「夜と霧」と絡めてなかなか20世紀の歴史として興味深いです。)
ヨセフは前回の話の続きでエジプトの飢饉を救い、さらにその中でヤコブと11人の兄弟を迎え入れエジプトの中でユダヤ人が増える事になります。その後エジプトの中で十分に増えたユダヤ人はエジプトの民と徐々に対立を深め、結局神の御心のままに王が変心しカナンの地に移住するモーゼの出エジプトとなります。ユダヤ教が神の御心のもとで、王や人々の心を操り、人間の心というものを欲望や権力、夢といったところで深く認識し自在に操っている事が最も顕著に表れているのがこのヨセフの夢占いの逸話であり、それは結局人間の心というものが何なのかというところの最高の教訓であり、それを示した最高の成功例がこのヨセフ物語なのだと聖書は教えてくれているのだと思います。
宗教特にユダヤ教、キリスト教に関して多くの誤解を生みかねない表現が多々認められるかと思いますが、それらは全て実際に旧約聖書を全て読む、そしてそれにまつわる様々な学説や例えばフリーメイスン達の注釈を読むと言った事で理解されるかと思います。
では聖ヨゼフ病院に示されるキリスト教で重要なヨセフとはどのようなつながりになるのでしょうか。
キリスト教の教えで重要なのはやはりキリストの愛の教えでありますが、教会の教えの重要なものはやはり処女懐胎とキリストの復活の二つの奇跡で象徴される神の奇跡であるかと思います。この最初の奇跡で重要な役割をするのがキリストの養父としてのヨセフです。概要については新約聖書は旧約聖書に比べて分量は少ないのでこれもやはり直接読まれる事をお勧めしますが、フリーメイスンリーの教えも含めて、旧約聖書を読まずに新約聖書を読むことはほとんど理解できないように読む事に等しいので、結局全体を通して読むことをお勧めします。
一応毎度毎度ですがウィキペディアでのナザレのヨセフについての概要を転載します。
要するにまとめると、そもそも新約聖書でもヨセフの存在は父親がヤコブであり、ダビデ王の家系であり、すなわちユダヤ人を代表する人物であるユダヤ教の重要なヨセフ、そのものを象徴しているのであり、つまり寡婦の子供イエスを養育したのがヨセフに代表されるユダヤ人社会そのものであるという象徴であるという事です。またマタイ伝では夢での受胎告知もあり、ユダヤ人の伝統的な夢によるお告げの現象がイエスの誕生と直接関わっているとも示されています。すなわちユダヤ人の知恵によってキリストは誕生したという隠喩であるかと思われます。ユダヤ人のラビの著作によるとキリストの言葉のほとんどはユダヤ教の有名なキリスト以前のラビ達の言葉そのものであるということで、キリスト自身がユダヤ教の教育を十分受けた存在であり、かつその教えそのものは本質的にユダヤ教の考え方をそれたものではないという事がわかるかと思います。ユダヤ教そのものに特に出エジプトのあたりに最大の禁忌として異民族との交わりが強調されており、キリストの時代のバビロン捕囚後のユダヤ民族においては恐らくその教えそのものはほとんど現実的なものではなくなっていたと考えられ、その上で民族のアイデンティティーを維持し、かつその教えを知恵として後世に存続するためには絶対的に世界宗教への変化が必要であり、その中では恐らく父親の出自がはっきりしないような人物の存在は当時のダビデの系統に象徴されるような父系社会のユダヤ民族にとっては重要であり、ナザレのイエスの存在は好適だったのではないでしょうか。またナザレの地名に関してもユダヤ教で重要なヨセフとの関連がウィキペディアでも書かれています。養父ヨセフの職業についても大工という事も、石工との関連でフリーメイスンリーでは建築者として共通であるとして重要なようです。ソロモン宮殿の建築が神との契約の最大の象徴として求められるものであり、それはユダヤ教、キリスト教からフリーメイスンリーに至るまで引き継がれる教えのようですが、その上で建築者としての実務的、思索的ともに石工の存在は象徴的であり、養父ヨセフの職業があえて大工と表現されているのも、キリスト教というその後世界を席巻し、人類に科学による現代社会をもたらす原動力となる世界最大の宗教を産む実務的、思索的ともに建築者としての存在として象徴されていると考えて差し支えないかと思われます。
つまりキリストの養父ヨセフという存在そのものがユダヤ教の重要なヨセフとのそもそもダブルミーニングであり、ヨセフという名前そのものがキリスト教とユダヤ教をつなぐものであり、それは宗教、知恵の伝承と発展であり、それは現代における科学や医学、それら人類に恩恵をもたらす事象、奇跡の象徴であるという事が言えるのかと思われます。
そもそも関東大震災後に市役所や小学校の跡地に海軍病院として発足し、戦後に聖ヨゼフ病院としてGHQの指導のもとに改編された聖ヨゼフ病院に、ユダヤ教とキリスト教をつなぐ存在としてのダブルミーニングのヨセフを象徴するような証拠とも言える謎はあるのでしょうか。
実は聖ヨゼフ病院には左右に諏訪大神社と曹洞宗龍谷山良長院が隣接していて、すなわち日本の伝統宗教としての神道と仏教の神社と寺院に囲まれる形となっています。
諏訪大神社に関しては三浦氏の時代に始まり、その後横須賀の神社として村人の信仰を集め、さらに明治以降は軍港としての土地柄から徐々に神社として格を上げ整備されていたようです。中にはやはり走水神社のごとく大鳥神社、稲荷社、天王宮、伊勢皇大神宮、東照宮、天満宮の合社があるようで、そもそも諏訪神社自体は出雲大社から分かれたいわゆる出雲の国譲りで最後まで抵抗した神様が由来だそうで、北条氏が好んだそうです。外には猿田彦(天狗の由来)を祭る碑もあり、要するに神道の様々な神様が合祀されているという事かと思います。やはりキツネ、鳥、猿など山の動物を主体とした信仰や、伊勢神宮以外のそれ以前の信仰を由来とする神や地方の神を全て合祀している特徴があるのではないでしょうか。
また良長院に関してはもともと現在の米軍基地内の土地にあったものが、戦後に現在の場所に移築されたとあるブログでは書いてありますが、どうも元々鎌倉時代から江戸時代程度までは泊浦に城跡がありそこが良長院のおおもとであったようですが、江戸時代頃に現在の場所に移ってきていたようです。つまり戦後の米軍が横須賀にやってきた時点では諏訪大神社と良長院はそれぞれ旧海軍病院の海仁病院を挟むように存在し、その海仁病院を聖ヨゼフ病院に改修しその際にキリスト教の聖堂を付設したか改築したようです。つまり昭和の時点で神仏習合の象徴として神社と寺が並ぶように存在し、その中央に政府の機関の象徴として海軍病院が存在したというわけです。(戦前の海軍自体にフリーメイスンリーの影響として三位一体を意識した病院の配置があった可能性はあります。)占領軍は特に胸像として残るブラザーデッカー司令長官の下で横須賀の基地政策として最初に聖ヨゼフ病院を開院したそうです。ここまで来るとほぼ説明として出尽くしたものと思っていただけると思いますが、要するにこの神社、教会、寺の並びがほぼ一直線に並んでいるという事が一つあるという事です。そしてそれが基地の門、象徴としての門と重なるわけですが、そことホテルの上の自由の女神像の中間に向かって線を引く事ができ、二つの線を合わせてこのブログでは何度も出てきた初期の十字の一つであるタウ十字の形となります。(タウ十字の下の線の頂点の地点によこすか平安閣があります。平の字自体も平和を構成する字であり、タウ十字とも似ていてシンボルと似ているものとされるようです。この事は平成の元号や平成町の名前にもつながるようです。よこすか平安閣は結婚式場であり、蝶々夫人のオペラのような発想ではないでしょうか。)そしてそのタウ十字はフリーメイスンリーでのいわゆる宗教の知恵を象徴するシンボルであり、初期ユダヤ教の象徴でもあり、キリスト教のシンボルであるいわゆる十字の元になるものと考えられる一つの原始十字です。このシンボルの造形を裏打ちするように最近になって整備されたベースのゲート前の歩道橋が、ショッパーズプラザの前のΧΡの歩道橋と同じくT字になっているのが下の通りグーグルアースでは認められます。
これはすなわち戦後の日本においてフリーメイスンリーを主体とするアメリカのGHQが占領政策として戦前の神仏習合した日本の宗教に新たにユダヤ教とキリスト教の知恵を付加し、さらにそれらを中心に据える事でシンボリズムの持つ力、それを日本に力強く植え付け、さらにアメリカ軍基地の門にそれらが合わさって導かれる事で、それらの教えを理解したものがアメリカを通して世界に扉が開かれるという象徴という事になる、いわゆる三笠公園のアーチの門の象徴の意味と同じ事になるのだと思います。以上で一応聖ヨゼフ病院に込められた謎についての内容については終わります。基本的にヨセフという人物名にそもそも多くの謎が込められているという事になるかと思いますが、それ自体は日本人にはキリスト教、ユダヤ教の存在が極めて遠いことから、前提となる知識となる聖書の通読がまず必要になり、さらにその上で再び日本の神仏習合や出雲の国譲りの逸話や八百万の神に認められる様々な宗教的寛容と重なるという、開国から軍国主義、敗戦から戦後という日本の歴史そのものと重なる様々な変遷をそのまま象徴するシンボルと考える事が出来るかと思います。
聖ヨゼフ病院に関しては逗子の池子米軍住宅地前への移転の話などが反対運動で立ち消えになったなどの実際の近近の逸話もありますが、それも含めて出エジプトのファラオの心変わりのごとくシンボルの意味とその重要さ、それらが現在の横須賀や日本とアメリカを象徴する存在である事を改めて強く印象付ける、恐らく横須賀でフリーメイスンリーが最初に刻んだ最も重要で最も象徴的なシンボルなのではないかと思われます。(11/18追記:シンボルについてはブラザーヴェルニーの観音崎灯台がありますしそもそもブラザーヴェルニーによる横須賀ドックが最初の建築である事は間違いありません。戦後、アメリカ系のフリーメイスンリーによるというところでしょうか。そうするともちろんブラザーペリーの上陸記念碑が先になるわけですが、それらの他というところになるかと思います。なかなか横須賀はフリーメイスンリー的には恵まれています。)
コメントをよろしくお願いいたします。細かいところで感想や疑問などあるかと思います。
そういう反応を返してこそのフリーメイスンリーかと思われます。
インターネットは常に双方向メディアであります。情報を与えられるという事と利用することと受けるという事と媒介することと取り込むという事、これらすべて同一であり、受け手は常に送り手であり、それらの自然な反応を可能にするものとしてインターネットが発達し発展しました。
匿名の読者も、沈黙の情報分析者もインターネットには実際には存在しません。
まあ要するにペンタゴンが開発したそういう技術です。諦めてコメントしましょう。
そうでなければ秘密は秘密のままになるのかもしれませんね。
FOREIGN CORRESPONDENTS' CLUB OF JAPANの略で、日本外国特派員協会です。
普段は自民党や民主党の党首選挙の候補者の討論会の顔見せや、その他何か外国向けにトピックがあると日本人が呼ばれて記者会見を特別に開くことがある有楽町電気ビルという所にあるところです。ウィキペディアによるとブラザーマッカーサーが最初は第一生命ビル内に指示して設立されたようです。ソ連のスパイの人によると各国の諜報員がたむろしている場所という事です。


さてこの場所で実は以前もとりあげたブラザーロバート・ライカー音楽監督の東京シンフォニアのディナーコンサートが隔月で開かれています。
皇居を下に臨むところにあるので、日本人が初めて入ると少し不遜な気持ちになりますが、5月のときは陛下も訪英中で日本人の割合も多いようでした。
平成24年5月はロシアセレナーデと銘打って以下の演目を演奏していました。
I ホヴァンシチナより3幕(ムソルグスキー)
II ロシアの主題によるファンタジア(リムスキー=コルサコフ)
III 組曲第3番(チャイコフスキー)
基本的に東京シンフォニアの公演はフリーメイスンリーにまつわる選曲や作曲家、来客の方もそういう関係者という構成になっていますので、毎回席や選曲が非常に凝っていて、勉強になったり感動したりと特にこのディナーコンサートのシリーズは外国への小旅行という趣で、音楽を聴いている間と各国の料理を食べている時はまさにその国にいるかのごとき錯覚をもたらしてくれて旅愁を東京のど真ん中にいながら感じることができる不思議なものです。過去のものも非常に素晴らしかったのですが、最も直近のこのロシアセレナーデの感想を書きます。
まずホヴァンシチナというオペラになると思うのですが、これはリムスキー=コルサコフの特集のときにもあったと思うのですが、どうも後で内容を調べるとブラザーピョートル大帝の即位にまつわる権力の変遷のロシア正教の様々な改革にまつわる様々な史実に基づくオペラのようです。このリムスキー=コルサコフという方はブラザープーシキンの著作で「モーツァルトとサリエリ」というオペラを製作していて、恐らくフリーメイスンなのだと思います。というか基本的にこのコンサートでとりあげる作曲家はほとんどがフリーメイスンです。なのでムソルグスキーという方もフリーメイスンなのだと思います。IIがコサックダンスの音楽のようで非常にロシア的であったと記憶しています。
最もわたしが驚き感動したのがIIIのチャイコフスキーの演目です。チャイコフスキーについてはこの組曲第4番でモーツァルティアーナというものがあり、モーツァルトの作曲に似せたものという題名のようですが、ロシアの作曲家で最も有名だと思いますが、彼もやはりフリーメイスンなのだなとはっきりわかったのがこの組曲第3番の第3曲を聴いてです。
チャイコフスキー組曲第3番G Major第3曲
プログラムにはSuite No.3 in G Majorとなっているのですが、日本語にするとト長調のようです。そもそもまたこの演奏会の構成も常に3部構成になっている訳ですが、その3番目にこの組曲第3番の第3曲がきてG Majorと題名が打ってあり、そのスケルツォと呼ばれる諧謔曲と日本語に訳すそうですが、その部分がまさに石工が皆でのみで石を削っている様子がまざまざと浮かぶ、四角い石が立体的に想像されてのみで丁寧に削っていると想像される音楽なのです。もちろんこれを感じるのはフリーメイスンの秘密になるのだと思いますが、まさに感覚というか音楽の魔術というか素晴らしい体験だと思います。チャイコフスキーはこの組曲の作曲を契機にスランプを脱出していったという事です。
次回公演は6月13日王子ホール モーリスラヴェル 弦楽のための交響曲シリーズです。
詳細は東京シンフォニアで検索して問い合わせてください。英語が良いようです。