FREEMASONRY
Blue Lodge, Scottish Rite & York Rite in Japan
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スコットランドは第4回フリーメイスンリー歴史学会のために行ったわけでして、決してその前の観光は遊びではなく、全てスコットランドについて基本的なところを押さえていないと歴史も何も分からないという予習を兼ねてまわっていたわけで、数多くの博物館や美術館、有名なカフェやロッジなど限られた時間の中でいくつも見逃したものがあるわけですが、それもこれもきちんと学会のイベントに参加していたからなわけで、最後のランチのみをロンドンへの鉄道移動での時間のために早く引き揚げたのがスコットランドのかなり高齢のブラザーに残念がられたのが現在では若干悔やまれるところではありますが、それ以外は基本的に全てプレコンサートからディナーまで参加しましたので、一応参加するという意味での目的は達したと考えているところです。
というわけでプレコンサートから始まるInternational Conference on the History of the Freemasonryであったわけですが、これに関してはコンサートの様子は動画で撮ったものを以前に出していますので詳細が良く分かるかと思います。
今回ここに出すのはその際に撮ったスコットランドグランドロッジのメイン会場の写真です。まあ動画でも十分に雰囲気は分かるかと思うのですが、一応写真も撮りましたので出していきます。しかし2013年の11月というのがフリーメイスンリーにしてもキリスト教としてもかなりの重大なシンボリズムの月という事で、どうも予約投稿でも次々に話題が続くようなネタが溢れているような状況となり、シンボリズムの重要さが実感されています。ちょっと項目で書くほどではないですが伊勢丹三越のタータンチェックの紙袋の模様が新しくリニューアルしたなどもスコットランド関連の話であったのだと思われます。

大分緊張して手ぶれしていますが、アイフォンのタッチ式のシャッターだと如実に緊張が手ぶれになってしまうのですね。このすかしガラスは良くできています。

スコットランドグランドロッジの紋章です。二人の立ち方がフォートナム・アンド・メイソンなどと共通なのかもしれません。緑色がスコットランドの色でもあるのですね。紫もありました。恐らく二人とも直角定規をもっていると思われますが、様式が異なるのは意味がありそうです。


紋章がたくさんあるのですが、恐らくパストグランドマスター達の紋章だと思っていたのですが詳しくは分かりません。恐らく聞けば教えてくれたのでしょうが、誰に聞いたらいいのかなども分かりませんし、そんな雰囲気でもありませんでしたのでとにかく写真をとっておきました。

プレコンサートは一般にも開放されていたので夫婦連れも多かったです。大体こんな感じです。




メイン会場はこんな感じです。壁面の輪っかが垂れさがっている意味はちょっと分かりませんが何か意味があるのだと思われます。基本的に紋章がたくさんある感じでしょうか。非常にシンプルな印象だと思われます。あまりフリーメイスンリーを強調した感じではなさそうです。正面の二本の柱と対応した四隅の柱がそういう雰囲気を少し出している感じでしょうか。まあスコットランド≒フリーメイスンリーの土地としてはあえてそういうシンボルを前面に出す必要はないという感じなのだと思われます。照明も印象的だと思いました。

それでコンサートが終わったところで地下に移動して最初のディナーです。相席した世界各地のブラザー達と慣れない英語で必死に喋ったのですが、なんとも大変でした。オバマ大統領がフリーメイスンじゃないのはアメリカ的には問題なのではないかというような事をアメリカのブラザーに話したりしましたがそういうのが色々影響があるのかないのかは分かりません。まあとにかく料理を味わう余裕なんぞ無く、酔っ払わないようにいろんな訛りの英語に神経を集中させてお互いに恐らく初めての体験の状況の中で、世界各地にフリーメイスンリーは存在し、その中でやはりスコットランドはまさに発祥の地であり歴史学会が開かれるにふさわしい土地であるという事を確かめながら、各国の様々な違いと共通点に耳を傾けていました。
終わるとなんとかというところで明日からこれはいったいどうなるのかというところでジョージホテルへの帰途に着きます。

帰りはジョージストリートではなく一本中に入ったパブが並ぶローズストリートを通って帰ります。緯度が高いので遅くまで夕方のような太陽が続いていて明るいです。ああバラはシンボルなんだなと確認します。

まだ早かったのか、平日はあまり人がいないのか、フリーメイスンリーの学会のせいでいないのか全く良く分かりませんが、いわゆる飲み屋街という雰囲気ではないかと思います。整然とした飲み屋街という感じでいわゆるロッジも兼ねたパブが並んでいるのでしょうね。

ヒースロー空港にもありましたが、この名前の日本料理店が多く見られました。食べはしませんでした。やっぱり石ともかけてるんでしょうね。

これも単純に店の宣伝なんでしょうが、恐らくブラザーチャーチルの名前が出してあったりしてロッジなんでしょうね。

こっちが店でしょうかね。

なんか新市街の通りの成り立ちや王太子が恐らく酔っ払って何か酷い目にあったとかそういう通りにまつわる逸話が書かれているのかと思います。

こういう飲み屋街でも計画して整然と建築するのが都市計画として組み込まれているのですね。まさに飲み屋から生まれたフリーメイスンリーの都市であります。街の東西の隅にフリーメイスンリーの名前を冠した、ブラザーアレクサンダー・グラハム・ベルのパブとブラザーサーアーサー・コナン・ドイルのパブがあったりします。しかしどこもかしこもフリーメイスンリーと言った感じでしょうか。
その2、その3も結局別の機会のグランドロッジの内装の写真ばかりです。学会の様子も一部ありますが、内容についてはアブストラクトの翻訳でそろそろこの11月にまとめて解説していく予定です。
というわけでプレコンサートから始まるInternational Conference on the History of the Freemasonryであったわけですが、これに関してはコンサートの様子は動画で撮ったものを以前に出していますので詳細が良く分かるかと思います。
今回ここに出すのはその際に撮ったスコットランドグランドロッジのメイン会場の写真です。まあ動画でも十分に雰囲気は分かるかと思うのですが、一応写真も撮りましたので出していきます。しかし2013年の11月というのがフリーメイスンリーにしてもキリスト教としてもかなりの重大なシンボリズムの月という事で、どうも予約投稿でも次々に話題が続くようなネタが溢れているような状況となり、シンボリズムの重要さが実感されています。ちょっと項目で書くほどではないですが伊勢丹三越のタータンチェックの紙袋の模様が新しくリニューアルしたなどもスコットランド関連の話であったのだと思われます。

大分緊張して手ぶれしていますが、アイフォンのタッチ式のシャッターだと如実に緊張が手ぶれになってしまうのですね。このすかしガラスは良くできています。

スコットランドグランドロッジの紋章です。二人の立ち方がフォートナム・アンド・メイソンなどと共通なのかもしれません。緑色がスコットランドの色でもあるのですね。紫もありました。恐らく二人とも直角定規をもっていると思われますが、様式が異なるのは意味がありそうです。


紋章がたくさんあるのですが、恐らくパストグランドマスター達の紋章だと思っていたのですが詳しくは分かりません。恐らく聞けば教えてくれたのでしょうが、誰に聞いたらいいのかなども分かりませんし、そんな雰囲気でもありませんでしたのでとにかく写真をとっておきました。

プレコンサートは一般にも開放されていたので夫婦連れも多かったです。大体こんな感じです。




メイン会場はこんな感じです。壁面の輪っかが垂れさがっている意味はちょっと分かりませんが何か意味があるのだと思われます。基本的に紋章がたくさんある感じでしょうか。非常にシンプルな印象だと思われます。あまりフリーメイスンリーを強調した感じではなさそうです。正面の二本の柱と対応した四隅の柱がそういう雰囲気を少し出している感じでしょうか。まあスコットランド≒フリーメイスンリーの土地としてはあえてそういうシンボルを前面に出す必要はないという感じなのだと思われます。照明も印象的だと思いました。

それでコンサートが終わったところで地下に移動して最初のディナーです。相席した世界各地のブラザー達と慣れない英語で必死に喋ったのですが、なんとも大変でした。オバマ大統領がフリーメイスンじゃないのはアメリカ的には問題なのではないかというような事をアメリカのブラザーに話したりしましたがそういうのが色々影響があるのかないのかは分かりません。まあとにかく料理を味わう余裕なんぞ無く、酔っ払わないようにいろんな訛りの英語に神経を集中させてお互いに恐らく初めての体験の状況の中で、世界各地にフリーメイスンリーは存在し、その中でやはりスコットランドはまさに発祥の地であり歴史学会が開かれるにふさわしい土地であるという事を確かめながら、各国の様々な違いと共通点に耳を傾けていました。
終わるとなんとかというところで明日からこれはいったいどうなるのかというところでジョージホテルへの帰途に着きます。

帰りはジョージストリートではなく一本中に入ったパブが並ぶローズストリートを通って帰ります。緯度が高いので遅くまで夕方のような太陽が続いていて明るいです。ああバラはシンボルなんだなと確認します。

まだ早かったのか、平日はあまり人がいないのか、フリーメイスンリーの学会のせいでいないのか全く良く分かりませんが、いわゆる飲み屋街という雰囲気ではないかと思います。整然とした飲み屋街という感じでいわゆるロッジも兼ねたパブが並んでいるのでしょうね。

ヒースロー空港にもありましたが、この名前の日本料理店が多く見られました。食べはしませんでした。やっぱり石ともかけてるんでしょうね。

これも単純に店の宣伝なんでしょうが、恐らくブラザーチャーチルの名前が出してあったりしてロッジなんでしょうね。

こっちが店でしょうかね。

なんか新市街の通りの成り立ちや王太子が恐らく酔っ払って何か酷い目にあったとかそういう通りにまつわる逸話が書かれているのかと思います。

こういう飲み屋街でも計画して整然と建築するのが都市計画として組み込まれているのですね。まさに飲み屋から生まれたフリーメイスンリーの都市であります。街の東西の隅にフリーメイスンリーの名前を冠した、ブラザーアレクサンダー・グラハム・ベルのパブとブラザーサーアーサー・コナン・ドイルのパブがあったりします。しかしどこもかしこもフリーメイスンリーと言った感じでしょうか。
その2、その3も結局別の機会のグランドロッジの内装の写真ばかりです。学会の様子も一部ありますが、内容についてはアブストラクトの翻訳でそろそろこの11月にまとめて解説していく予定です。
さてまあこのブログの読者の方がスコットランドグランドロッジの内装について興味があるかどうかは分かりませんが、まあ日本グランドロッジと一緒で建築というのはその組織や集団を象徴するものでもありますので、一般に秘密結社と認識されているようなフリーメイスンリーの総本部ともいえるグランドロッジの建築を公開する事自体は広報としては意味があるのかもしれません。私にとっては単なる学会に参加して撮って来た写真が珍しいので公開しているという感覚ですが、フランスのグラントリアンのように訪問しても見られないこともありますので、それなりに珍しいものという事になるのだと思います。
まあそうは言っても学会もフリーメイスンの会合も何でもそうですが、どの場所で行ったという事よりもその場で誰が何を話し何について議論が行われたが最も重要なわけで、何はともあれその場に参加するというのがどんな会合でも大事なわけでして、参加はしても何を言っているかチンプンカンプンというのでは当然あまり意味は無いわけで、私の場合はほとんどその状態であったので、せっかく行ったのだからプログラムのアブストラクトを翻訳して勉強しなおそうというのがこのブログにおけるフリーメイスンリー歴史学会の内容を取り上げる目的というところかと思います。
現在並行してアンダーソン憲章の翻訳やその他の翻訳を掲げていますが、これについても内容を確認するとなんとも相当その周辺の知識が無いと理解しがたいものであり、またそれには様々な常識ともいえる強く意識しない記憶や認識というものも必要となるものであり、そういうものとしてはやはり場所の紹介というものも、また歴史学会の内容と言える雑多なフリーメイスンリーの細かい歴史というのも必要なものなのだと思われます。
イングランド連合グランドロッジの紋章一つとっても基本的に聖書を通読してユダヤ古代誌も通読していないと分からないレベルのいわゆる謎が込められているわけで、フリーメイスンリーとは何かを考える際に少なくとも最低限の常識と呼ばれるものがどこまで必要かについては謎と呼ばれるものをとにかく解いていくという他ないと思われ、グランドロッジの建築というものも一見しては意味が分からない謎が多く含まれているものでもあり、特にこのスコットランドグランドロッジでは恐らくパストグランドマスターのものと思われる胸像がいくつもあり、それらのブラザーについて一通り調べていくのは意義がある事になるのではないかと思われます。
というわけで、この回はプレコンサートの翌日の学会初日が始まった日の写真なわけですが、一度行ったので少し落ち着いて写真を撮っているのが分かるかと思います。実際それほど謎っぽいものはなくて、ただただ学会の英語が想像以上に聞き取りづらく、内容がチンプンカンプンで、最初は特に時差ボケもあって眠るのをこらえるのが相当大変であったというのがフリーメイスンリー歴史学会の正直な参加した感想で、色々途中刺激的な事はありましたが、とにかくスコットランド訛りというのが想像以上に存在しまた日本人が通常英語として考えているのがアメリカ英語だというのが強く強く認識されて、ほぼイギリス英語というものがそれ自体で暗号に近いのが実感なのだなと思ったところでもありました。
フリーメイスンリーでも用語というものが非常に大事で、それはしかもアメリカとイギリスとイギリスの中でもスコットランドとイングランドで異なり、またヨーロッパ大陸のフランスやドイツやオランダなどともまたそれぞれ異なり、それはそのまま言語の違いでもありまた歴史や関係性の違いでもあるところでもあります。日本語でもフリーメイスンリーとフリーメイソンリーとフリーメイソンとそれぞれ使い分けを行ったりしているわけですが、まあそういったものも含めて、それ以前に全く単語が聞き取れないというところでもあるわけですが、いずれにしても非常に難しかったという事です。
ボイスレコーダーも持っていたのですが、型式が古くてアイフォンのものを使えば良かったのですが、ふだん使い慣れないものを使ったせいで、録音したwaveデータを取り出す方法が無くてそのままとなっています。waveで取り出せたらアップする事があるかもしれません。当初は全部ビデオに撮って後で見直そうと思っていたんですが、最初の基調講演の途中で止められてしまったので後は一応ボイスレコーダーを使ったのですがそんな結果です。バイトの受付の女性にちょっとビデオについては笑われちゃいましたが、まあその子は学会の途中からいなくなっていました。
でまあまあばかりなわけですが、能書きはこれ位にして写真に行きます。

この日はぶれていませんね。いかにも内側から撮ったという感じでしょうか。

これが一番特徴的であったかもしれません。タータンチェックの敷物が階段にあるのですね。重厚な感じです。伊勢丹のチェック柄の更新もありましたが、そこにスコットランドの民族衣装の男性がいましたが、いきなりスカートはいた男の人を見ると日本人はそこには触れなくなりますね。

これもやはりぶれていますが、最初に見るとやはりすぐにアイフォンはぶれてしまうんですね。飾り棚でやはり色々なロッジとの贈り物のやり取りのものや文書です。

これはヘッダーにもしているガラスのドームですね。非常にきれいです。

これは三階の会場だと思います。この部屋の内容が一番リラックスしたものでもあったようでしょうか。日本の新興宗教という興味深い演題も予定されていましたが結局演者が来られず中止となっていました。日本人というか東洋人は私だけであったので私向けであったのかもしれません。

これはメイン会場の二階席から見下ろした写真です。とにかくほとんどがイギリス人かアメリカ人、後は英語の堪能なフランス人かオランダ、ドイツ人という事で盛んに英語で議論をしていました。まあとにかく私は参加している事にして記録をとっておこうという感じでしたかね。とりあえずこのブログに書いた位のスコットランドのフリーメイスンリーの歴史がなんとか感じられたというところが実際です。ロッジNo.2のセントメアリーロッジの集会に学会の全日程終了後に参加できるという特典もあったのですが、さすがに飛行機に乗り遅れるわけにはいかないので辞めました。セントメアリーロッジはセントクレア家に対するスコットランド王からのフリーメイスンリーのグランドマスターの認証状が残されているという格式高いロッジでありました。ヘッダーにも使っている六芒星にGを認めて周囲に魔法陣のようなアルファベットか記号のしるされたシンボルを入口の上に認めるロッジです。新市街のローズストリートと反対側にあるそうです。

これはまた違う2階の部屋だと思います。あまり写真を撮っている人がいなかったので、私もあまり写真を撮っていません。グランドマスターの肖像なんでしょうか。この部屋はちょっと格調高い感じで、メイン会場の後の講演で最初にイングランドのフリーメイスンリーの戦場でのフリーメイスンリーという講演で、大学の学生や研究生、助教か講師位なこれからフリーメイスンになるかなったばかりか位の人の講演があり、どうも鼻息荒くイギリスの愛国心に満ちあふれた講演で、分かりやすかったと思ったらアブストラクトに書かれていないような日本軍のクワイ河渡河橋のあの有名な戦場に架ける橋の舞台での捕虜たちも過酷な環境の中でもフリーメイスンリーの集会を開いていたとか、なんかいかにもたった一人の日本人の私に向けた挑発のような内容があって、私は時差もあり英語の聞き取りづらさもありなんとも意識が遠のいた状況であったのですが精神的にガクンガクンな状況でありました。まあ色々あるのがフリーメイスンリーです。そういう意味でも貴重な体験であり、また国や集団、民族としても重要となるのがまたフリーメイスンリーの面白いところです。まあ相手のフリーメイスンとしてや研究者としての状況が何となく分かってしまうのも悲しい性みたいなところでしょうか。


これはトイレとその洗面所ですね。イングランドグランドロッジもそうでしたが、イギリス、スコットランドではやはりフリーメイスンリーや公共の場でのトイレはデザインや使いやすさに感心させられました。日本はウォシュレットは便利ですが、それ以外のトイレのデザインや使いやすさはやはりイギリスの方がピカイチですね。100年前の建築という事ですが、恐らく水回りは改築しているのだと思われますが、こういうところはやはりローマ帝国から続く水洗方式の先進国の圧倒的な技術力なんだと思います。ちょっとデザインが違うだけなんですが使いやすいんですよね。後はやはり大理石の石の建築自体のふんだんな利用がまた利便性を向上しているんだと思います。まさに石工の神殿ですからね。

階段がタータン以外にもウールの敷物がされています。非常に重厚な感じですね。靴でこれを踏んでいく感覚は特別ですね。

これはまたメイン会場ですね。手ブレが減っているのでしょうかね。

メイン会場での講演はこんな感じです。満員になるのは初日の基調講演位であったでしょうか。誰も眠る人はいませんでしたが、本当に研究者で難しい質問や同意する意見をいう人は数人でほとんどの人は一生懸命聞いているが詳しいことはちょっと分からないという感じであったと思います。私は英語も含めてスライドがあるような講演以外は用語もヒアリングもチンプンカンプンでした。さらにその上にニュアンスもあるとなれば全く分かりませんね。アメリカ英語のはそれに比べると分かりやすいのですが、そうなると非常に今度は基本的な内容であったりと、どうも伝える側の語り方にもよるようでした。



これは3階の会場にあったロッジで主にセクレタリーが使うのだと思いますが、公式文書の証で使用するいわゆるシール封印ですね。その他のロッジで使用した装飾などもあるようです。色々ロッジも新しくできたり古いロッジが合併したり移動したり色々あるのでそういうのでいらなくなったのがグランドロッジに集められたりするのでしょうね。イングランドなどでは良くロッジファニチャーとしてオークションや中古で販売されていたりします。古いものを売って新しく新調したり色々なことがあるのだと思います。学校の卒業証書の校長印とかそんな感じでしょうか。そういうロッジの証明書の発行が非常に重要であったという意味で展示されているのだと思われます。古いものはeBayで売っていたりします。まあ実際の活動はそういうのからは想像しがたいのだと思いますが、いわゆる記録としては残るものという事なのでしょうね。

それで初日も終わってブラザージョージ4世の後ろ姿です。非常に明るいですが7時位だと思います。まあ疲れたというよりもジトーッとした時差ボケもありの感じでしょうかね。とにかく内容は直接頭に入ってきていはいませんからそういう疲労というよりは明日もこれが続くのかというのと、記録がうまくとれなかったのとで、明日からどうやって記録や記憶を残そうかというところを考えていたと思います。
まあせめて学会前にこのブログの内容くらいと、アブストラクトの全訳位が頭に入っていればもう少し聞く内容も頭に入って色々考えられたと思うんですが、とにかくこのブログで勉強していくこととする他ないのだと思われます。
まあそうは言っても学会もフリーメイスンの会合も何でもそうですが、どの場所で行ったという事よりもその場で誰が何を話し何について議論が行われたが最も重要なわけで、何はともあれその場に参加するというのがどんな会合でも大事なわけでして、参加はしても何を言っているかチンプンカンプンというのでは当然あまり意味は無いわけで、私の場合はほとんどその状態であったので、せっかく行ったのだからプログラムのアブストラクトを翻訳して勉強しなおそうというのがこのブログにおけるフリーメイスンリー歴史学会の内容を取り上げる目的というところかと思います。
現在並行してアンダーソン憲章の翻訳やその他の翻訳を掲げていますが、これについても内容を確認するとなんとも相当その周辺の知識が無いと理解しがたいものであり、またそれには様々な常識ともいえる強く意識しない記憶や認識というものも必要となるものであり、そういうものとしてはやはり場所の紹介というものも、また歴史学会の内容と言える雑多なフリーメイスンリーの細かい歴史というのも必要なものなのだと思われます。
イングランド連合グランドロッジの紋章一つとっても基本的に聖書を通読してユダヤ古代誌も通読していないと分からないレベルのいわゆる謎が込められているわけで、フリーメイスンリーとは何かを考える際に少なくとも最低限の常識と呼ばれるものがどこまで必要かについては謎と呼ばれるものをとにかく解いていくという他ないと思われ、グランドロッジの建築というものも一見しては意味が分からない謎が多く含まれているものでもあり、特にこのスコットランドグランドロッジでは恐らくパストグランドマスターのものと思われる胸像がいくつもあり、それらのブラザーについて一通り調べていくのは意義がある事になるのではないかと思われます。
というわけで、この回はプレコンサートの翌日の学会初日が始まった日の写真なわけですが、一度行ったので少し落ち着いて写真を撮っているのが分かるかと思います。実際それほど謎っぽいものはなくて、ただただ学会の英語が想像以上に聞き取りづらく、内容がチンプンカンプンで、最初は特に時差ボケもあって眠るのをこらえるのが相当大変であったというのがフリーメイスンリー歴史学会の正直な参加した感想で、色々途中刺激的な事はありましたが、とにかくスコットランド訛りというのが想像以上に存在しまた日本人が通常英語として考えているのがアメリカ英語だというのが強く強く認識されて、ほぼイギリス英語というものがそれ自体で暗号に近いのが実感なのだなと思ったところでもありました。
フリーメイスンリーでも用語というものが非常に大事で、それはしかもアメリカとイギリスとイギリスの中でもスコットランドとイングランドで異なり、またヨーロッパ大陸のフランスやドイツやオランダなどともまたそれぞれ異なり、それはそのまま言語の違いでもありまた歴史や関係性の違いでもあるところでもあります。日本語でもフリーメイスンリーとフリーメイソンリーとフリーメイソンとそれぞれ使い分けを行ったりしているわけですが、まあそういったものも含めて、それ以前に全く単語が聞き取れないというところでもあるわけですが、いずれにしても非常に難しかったという事です。
ボイスレコーダーも持っていたのですが、型式が古くてアイフォンのものを使えば良かったのですが、ふだん使い慣れないものを使ったせいで、録音したwaveデータを取り出す方法が無くてそのままとなっています。waveで取り出せたらアップする事があるかもしれません。当初は全部ビデオに撮って後で見直そうと思っていたんですが、最初の基調講演の途中で止められてしまったので後は一応ボイスレコーダーを使ったのですがそんな結果です。バイトの受付の女性にちょっとビデオについては笑われちゃいましたが、まあその子は学会の途中からいなくなっていました。
でまあまあばかりなわけですが、能書きはこれ位にして写真に行きます。

この日はぶれていませんね。いかにも内側から撮ったという感じでしょうか。

これが一番特徴的であったかもしれません。タータンチェックの敷物が階段にあるのですね。重厚な感じです。伊勢丹のチェック柄の更新もありましたが、そこにスコットランドの民族衣装の男性がいましたが、いきなりスカートはいた男の人を見ると日本人はそこには触れなくなりますね。

これもやはりぶれていますが、最初に見るとやはりすぐにアイフォンはぶれてしまうんですね。飾り棚でやはり色々なロッジとの贈り物のやり取りのものや文書です。

これはヘッダーにもしているガラスのドームですね。非常にきれいです。

これは三階の会場だと思います。この部屋の内容が一番リラックスしたものでもあったようでしょうか。日本の新興宗教という興味深い演題も予定されていましたが結局演者が来られず中止となっていました。日本人というか東洋人は私だけであったので私向けであったのかもしれません。

これはメイン会場の二階席から見下ろした写真です。とにかくほとんどがイギリス人かアメリカ人、後は英語の堪能なフランス人かオランダ、ドイツ人という事で盛んに英語で議論をしていました。まあとにかく私は参加している事にして記録をとっておこうという感じでしたかね。とりあえずこのブログに書いた位のスコットランドのフリーメイスンリーの歴史がなんとか感じられたというところが実際です。ロッジNo.2のセントメアリーロッジの集会に学会の全日程終了後に参加できるという特典もあったのですが、さすがに飛行機に乗り遅れるわけにはいかないので辞めました。セントメアリーロッジはセントクレア家に対するスコットランド王からのフリーメイスンリーのグランドマスターの認証状が残されているという格式高いロッジでありました。ヘッダーにも使っている六芒星にGを認めて周囲に魔法陣のようなアルファベットか記号のしるされたシンボルを入口の上に認めるロッジです。新市街のローズストリートと反対側にあるそうです。

これはまた違う2階の部屋だと思います。あまり写真を撮っている人がいなかったので、私もあまり写真を撮っていません。グランドマスターの肖像なんでしょうか。この部屋はちょっと格調高い感じで、メイン会場の後の講演で最初にイングランドのフリーメイスンリーの戦場でのフリーメイスンリーという講演で、大学の学生や研究生、助教か講師位なこれからフリーメイスンになるかなったばかりか位の人の講演があり、どうも鼻息荒くイギリスの愛国心に満ちあふれた講演で、分かりやすかったと思ったらアブストラクトに書かれていないような日本軍のクワイ河渡河橋のあの有名な戦場に架ける橋の舞台での捕虜たちも過酷な環境の中でもフリーメイスンリーの集会を開いていたとか、なんかいかにもたった一人の日本人の私に向けた挑発のような内容があって、私は時差もあり英語の聞き取りづらさもありなんとも意識が遠のいた状況であったのですが精神的にガクンガクンな状況でありました。まあ色々あるのがフリーメイスンリーです。そういう意味でも貴重な体験であり、また国や集団、民族としても重要となるのがまたフリーメイスンリーの面白いところです。まあ相手のフリーメイスンとしてや研究者としての状況が何となく分かってしまうのも悲しい性みたいなところでしょうか。


これはトイレとその洗面所ですね。イングランドグランドロッジもそうでしたが、イギリス、スコットランドではやはりフリーメイスンリーや公共の場でのトイレはデザインや使いやすさに感心させられました。日本はウォシュレットは便利ですが、それ以外のトイレのデザインや使いやすさはやはりイギリスの方がピカイチですね。100年前の建築という事ですが、恐らく水回りは改築しているのだと思われますが、こういうところはやはりローマ帝国から続く水洗方式の先進国の圧倒的な技術力なんだと思います。ちょっとデザインが違うだけなんですが使いやすいんですよね。後はやはり大理石の石の建築自体のふんだんな利用がまた利便性を向上しているんだと思います。まさに石工の神殿ですからね。

階段がタータン以外にもウールの敷物がされています。非常に重厚な感じですね。靴でこれを踏んでいく感覚は特別ですね。

これはまたメイン会場ですね。手ブレが減っているのでしょうかね。

メイン会場での講演はこんな感じです。満員になるのは初日の基調講演位であったでしょうか。誰も眠る人はいませんでしたが、本当に研究者で難しい質問や同意する意見をいう人は数人でほとんどの人は一生懸命聞いているが詳しいことはちょっと分からないという感じであったと思います。私は英語も含めてスライドがあるような講演以外は用語もヒアリングもチンプンカンプンでした。さらにその上にニュアンスもあるとなれば全く分かりませんね。アメリカ英語のはそれに比べると分かりやすいのですが、そうなると非常に今度は基本的な内容であったりと、どうも伝える側の語り方にもよるようでした。



これは3階の会場にあったロッジで主にセクレタリーが使うのだと思いますが、公式文書の証で使用するいわゆるシール封印ですね。その他のロッジで使用した装飾などもあるようです。色々ロッジも新しくできたり古いロッジが合併したり移動したり色々あるのでそういうのでいらなくなったのがグランドロッジに集められたりするのでしょうね。イングランドなどでは良くロッジファニチャーとしてオークションや中古で販売されていたりします。古いものを売って新しく新調したり色々なことがあるのだと思います。学校の卒業証書の校長印とかそんな感じでしょうか。そういうロッジの証明書の発行が非常に重要であったという意味で展示されているのだと思われます。古いものはeBayで売っていたりします。まあ実際の活動はそういうのからは想像しがたいのだと思いますが、いわゆる記録としては残るものという事なのでしょうね。

それで初日も終わってブラザージョージ4世の後ろ姿です。非常に明るいですが7時位だと思います。まあ疲れたというよりもジトーッとした時差ボケもありの感じでしょうかね。とにかく内容は直接頭に入ってきていはいませんからそういう疲労というよりは明日もこれが続くのかというのと、記録がうまくとれなかったのとで、明日からどうやって記録や記憶を残そうかというところを考えていたと思います。
まあせめて学会前にこのブログの内容くらいと、アブストラクトの全訳位が頭に入っていればもう少し聞く内容も頭に入って色々考えられたと思うんですが、とにかくこのブログで勉強していくこととする他ないのだと思われます。
まあ予定投稿でいくとスコティッシュライト33°の記事とかぶってしまうんですがしようがありません。
時間的には前後が逆になってしまいますがそれもこれもシンボリズムの経緯でしょうが無いでしょうかね。
その位11と3のシンボリズムが大事だという事で良いのではないでしょうか。
フリーメイスンリー歴史学会的にはプレコンサートを除いて2日目になるわけですが、なかなか内容は濃いところですね。写真を撮れるタイミングがたくさんあったのでほぼ目につくところ全てを写真を撮っています。ビデオカメラも置いてきたので写真に集中できたというところもあるかと思います。
まあしかし学会の内容に関しては相当勉強してからいかないと分かりませんね。このブログがそれこそ勉強の機会なんだと思います。
とりあえず写真をあげていきます。

これはある発表の様子ですね。スライドはほとんどないのですが、あった際には写真を撮ったのですが、ほとんど写っていませんね。なかなか学会というのも難しいです。ビデオ撮影が可能であれば良かったのですが、まあフリーメイスンリーでビデオ撮影は基本的に厳しいですね。




これはお土産用のロスリン聖堂とエディンバラ城の模式図ですね。良く見ると現地でしか買えないのかと思ったらそうではなくメール注文のみと書いてあります。グランドロッジのホームページから買えるようです。当時はロスリン礼拝堂についてダ・ヴィンチ・コードの観光地だとしか思っていなかったのでなんとも思いませんでしたが、今はちょっと面白いと思いますが、まあちょっと高いですね。グランドロッジのショップは以前私も購入したことがあるのですが、革靴が売っていてこれをこのときも履いたりしたのですが、どうもキルト(スコットランドのタータンチェックのスカートをはいた正装)に合わせた行進用の伝統的な革靴という事で、ひもも長くて足首に巻きつける結び方をして、靴裏にカチカチならせる金属が入っていて、石の上を歩くとカチカチ音が鳴って大変でした。知っている人が見るとかなりおかしな格好であったかもしれません。新しくスコットランドグランドロッジの紋章がすかしで入ったペーパーウェイトのピラミッドが売っていますが値段は聞いてくれと書いてあります。そういえばガラディナーで隣になったイタリアのブラザーはグランドロッジで勿忘草のシンボルが入ったカフボタンを買ったと見せていました。その後イタリアでもナチス党の話で色々ありましたね。

これは5つの建築オーダーの柱頭を描いたイラストですね。特に教訓は書かれていませんが、思索的フリーメイスンリーと実務的フリーメイスンリーを繋ぐ直接的なシンボルという事で強調しているのかもしれません。











これは動画でもあげたスコットランドのロッジで使われていた憲章を保存したという金庫の箱ですね。鍵が二つあってメンバーの二人で持ち合って同時に鍵を差し込むと開くという話でした。1600年代のロッジのものという事で価値は計り知れないという評価でしたが、実際どんなもんでしょうね。買う人がいるのかどうかというところかと思われます。装飾もそれほどないですしね。まあなんとも不思議な話ではありました。ロッジの聖櫃という事で、ユダヤ教のアークに通じるシンボルともなるのだと思われます。
動画もアイフォンで撮ったので音がやや小さいので大きくして聞かないと分からないと思いますが、録音を聞いても私は良く分かりません。確か上記のような解説をしていたと思います。

これはトイレの前の唯一空いていた胸像置き用の台です。完全にトイレの前なので希望する人もいないでしょうが、実際には新たな胸像を置く余地はないのかもしれません。過去のパストグランドマスターに置き換わるほど何か認められる業績のある方という事になるのでしょうか。まあ何か教訓なのかもしれませんが、そういう事を感じさせないほどの名誉の紋章で溢れかえっていました。

紋章なんですが、名前が読める方については触れていきます。一番右がブラザーデヴィッド・リデル・グレインガーです。母親が貴族の娘であったそうで、スコットランドの政治家という事で、エルサレムの聖ヨハネ騎士団の下部組織となる組織を作り、その後騎士団の騎士となったそうです。骨董協会の会員でもあったそうでいわゆるフリーメイスンですね。スコットランドのバーウィクシャー州の判事と副統監を務めたそうです。K.ST.J.がヨハネ騎士団を意味していて、D.L.が副統監、副知事を意味するものと思われます。背後に聖ヨハネ騎士団のマルタ十字が認められます。上部の標語がNIL DESPERANDUMで何事も絶望すべきではないという意味だそうです。ホラーティウスの『詩集』(1.7.27)に見られる表現だそうです。
ウィキペディアのList of Grand Masters of the Grand Lodge of Scotlandとも対応しており、パストグランドマスターの紋章が掲げられているのですね。日本でもグランドロッジのグランドマスターの部屋に写真が掲げられているのと対応するものと思われます。入り口に名前の刻印してあるかと思います。しかしあちらはほとんど全てのパストグランドマスターの項目がウィキペディアがあるようで、そういうのを整理している人がきちんといるようです。そういうのもやはり進んでいるんですね。
基本的に年代順のようです。その左にあるのはその前のパストグランドマスターのブラザーサーロナルド・アーキボルト・オーイング卿です。19世紀から始まった男爵家だそうです。父親と息子もグランドマスターに代々なっているそうです。やっぱり国ごとにフリーメイスンリーの様子は全然違いますね。上部の標語はAUDACITERで大胆にという意味だそうです。
一番左がブラザーブルース卿だそうです。スコットランドの生命保険組合の会長を務めたりしていたそうで、恐らく趣味だと思われますがスコットランドの王立自動車クラブの会長を務めていて、レーシングチームを持っていたそうです。ファイフ州の副統監や統監を務め、その後シスル騎士団にも選ばれているそうです。89歳で御健在のようです。ウィキペディアによるとフリーマンという表現になっていますが、欧米ではフリーマンという都市で行進をして良いという栄誉の表彰があるようです。

これはピンボケなので名前の判別できる一番左の方だけ見ます。
ブラザーサーマルコム・バークレー・ハーベイで政治家で南オーストラリアの総督を1939年から1944年まで務めた方だそうです。南オーストラリアのグランドロッジののグランドマスターも務めていたそうです。やはりマルタ十字が後ろに見えますが、聖ヨハネ騎士団ではなく聖マイケル・聖ジョージ勲章を授与されているそうです。

こちらの読める左から二番目のものはスコットランドグランドロッジの紋章で、グランドロッジの何らかの記念のようです。



この辺は全部ピンボケですが、スタッフの方の視線がちょっと怪しいですね。恐らくグランドロッジではビデオを撮影して後で主要な人には配るのでしょうね。まあそういうのもフリーメイスンリーなんでしょうか。実地で参加できたんですがやっぱり語学が壁ですよね。それは普通のロッジにおいてもそうです。ニュアンスや語彙や言い回し、暗喩といったものがフリーメイスンリーでは最も必要とされる言葉の能力です。Grammar文法, Rhetoric修辞学, Logic論理学は基本の7学科でも示されるフリーメイスンに必要とされる能力です。そういう基準で行くとちょっと厳しいでしょうね。

ブラザーアーキボルト・キャンベル卿です。軍人でありトーリー党の政治家であったそうです。アマチュア科学者であり金星周囲の大気を発見したり、ブラザーライト兄弟の飛行機の発明前にプロペラの研究を行っていたそうです。王立協会の会員にも選ばれているそうです。

ブラザーフォックス・モール・ラムゼイ卿です。ホウィッグ党の政治家です。教会に関心が高く自由スコットランド教会を支援していたそうです。

ブラザーサーアーキボルト・ドナルド・オーウィング卿で、先ほども出た男爵のオーウィング家の最も最近の第6代男爵のグランドマスターだそうです。期間をおいて二度グランドマスターになったのはこの方だけだそうで、その後スコットランド王立騎士団の団長になっているそうです。二度の結婚や子供の事など書いてあります。

ブラザージェームズ・ホツィアー卿です。ほぼ英国外務省で働かれていた方のようで、外務大臣を務めているようです。

ブラザーアレクサンダー・フレイザー卿です。特に生前の事についてはウィキペディアでは書かれていませんが、スコットランド貴族院議員という事だそうです。伯爵になるのだと思われます。

ブラザーサーチャールズ・ダリンプル卿です。基本的に男爵以上の公爵、侯爵、伯爵は卿を付けて、一代貴族位である準男爵やナイト爵でサーを付けるという事になるようです。ウィキペディアのサーの項目を参照してください。基本的に爵位というのは長男にあたる一人が相続するので、それ以外の人は貴族の子供でも何らかの爵位を新しく貰うかしないと貴族にならないようです。この方は両親とも貴族の系統の方で、名字は母親の系統の貴族の名前を受け継いだようです。ダリンプル男爵位の一代目の方となるようです。

ブラザージョージ・バイル・ハミルトン・アーデン卿です。スコットランド貴族院議員に生きている間に選ばれたようです。スコットランド貴族院議員と訳していますが、representative peer、Peerage of Scotlandとあり、いわゆる貴族院制の代議員としての貴族のようです。1999年から2000年にかけて貴族院制自体廃止されていっているようです。

上で紋章をあげたブラザーアンドリュー・ブルース卿だそうです。爵位を二つ持っているんですね。やはりスコットランド貴族院議員だそうです。

ブラザーウォルター・アースカイン卿です。やはりスコットランド貴族院議員だそうです。アンドで繋がるのは二つの爵位を持っているという意味だそうです。

ブラザーサーミハエル・ショウ・スチュワート卿です。レンフルーシャーという庶民院の選挙区を代表する役職を務めていたそうです。詳しくは分かりませんが、イギリスの民主制の様々な仕組みの中で重要な役職であったのだと思われます。

ブラザージョン・ホワイト・メルビルです。スコットランドの小説家、詩人という事だそうです。スポーツマンであったようで落馬して亡くなったそうです。

ブラザーロバート・キング・スチュワートの紋章です。ウィキペディアの項目はないのですが、検索では同名のスコットランドのロッジが出てきて、設立の経緯の際のグランドマスターの名前として出てきます。

ブラザーサーロバート・ギルモア・ゴードン卿の紋章です。特に詳しい解説はありません。

ブラザーエドワード・ブルース卿の紋章です。スコットランド国立銀行の支配人であったようです。シスル騎士団の団員であり、聖ミカエル・聖ジョージ騎士団の団員であったそうです。

ブラザージョン・ダルリンプル卿の紋章です。軍人であり保守党の政治家であったそうです。シスル騎士団の団員だそうです。

ブラザーロバート・ウォルリッジ・ゴードンの紋章です。子供が保守党の政治家でウィキペディアに項目がありました。海軍の船長であったようですが詳細は分かりません。標語も良く分かりません。

ブラザーサージェームズ・ウィルソン・マッケイの紋章です。エディンバラの市長であったようです。in service fulfillmentはサービスの実行でしょうか。選挙公約のようです。

ブラザーアーキボルト・ダグラス卿の紋章です。ロイヤル・ヴィクトリア勲章を受勲されているそうです。

ブラザーアレキサンダー・アーキボルト・ハガート・スペイアーズの紋章です。ウィキペディアに項目がありませんが、検索で出てきたページによると外科医でホメオパシー協会の会長であったようです。

ブラザーロバート・ハミルトン・ウドニー卿の紋章です。インド帝国騎士団の団員でスコットランド貴族院議員で軍人であったそうです。

ブラザーアレクサンダー・フレイザー卿の紋章です。父親の胸像が上にありました。親子でグランドマスターになっているのですね。ロスリン礼拝堂のシンクレア家が有名ですが、その他にも今回見ていた中で二家族は親子二代と三代でグランドマスターの家系がありました。

ブラザーアーキボルト・モントゴメリー卿の紋章です。関連項目としてエリントン城の項目がありました。

ブラザージョージ6世の紋章です。映画「英国王のスピーチ」のモデルとなった方です。スコットランドグランドロッジのグランドマスターはイギリス王室の関係者はいないので非常に珍しいケースであったのですね。イングランド連合グランドロッジのグランドマスターを見ると英王室の王族の方が20年以上務めるのが普通のようですので、色々と状況が異なるのですね。映画にもなっていたりかなり色々複雑ですね。

プレコンサートの看板です。ブラザーデニス・タウンヒルについてはウィキペディアの項目がありました。訃報の記事もありました。セントポール大聖堂などのオルガン奏者であったようです。


これはスコットランドグランドロッジの紋章を何度も撮っているのです。イングランド連合グランドロッジと同じく色々意味が込められているのだと思われます。緑色の意味と二種類の直角定規の意味でしょうかね。

96の数字も反転できるというところなのでしょうね。3×2×2×2×2×2という数字になります。

ジョージストリートの風景です。快晴です。これもやっぱり午後8時近くでしょうかね。

これはフリーメイスンズホールと隣の建物との境のところに何か看板があったのですね。確かフリーメイスンズホールについての言葉であったと思うのですが、完全に手ぶれで読めません。


北部灯台協会という訳になるのだと思いますが、スコットランドの灯台建設を主導した組合で、カールトン墓地に葬られたブラザーロバート・スティーブンソンの一家や明治時代の日本でブラザーヴェルニーとともに灯台建設を競ったブラザーリチャード・ブラントンが所属した団体です。ブラザーリチャード・ブラントンの当時の似顔絵の図でコンパスを手にしているものが観音崎灯台で公開されていました。



三浦半島では剱埼灯台を建築しています。このブログでも取り上げています(横須賀の灯台)。

これは良く分かりませんが近くの交差点のガラスにあったいたずら書きか演出で書かれたものか分かりませんが、ritualとあったので撮りました。なんか謎の単語ですね。

でその辺りにあったのがこの番地表記でしょうか。おやおやっと。

さらにその場所を見るとFRENCH CONNECTION。良くできています。



その場所から見たエディンバラ城です。この後ガラディナーだったんですが色々トラブルがありまして大変でした。お土産を買ってホテルに帰ったら、その後の一泊を予約しそこなっていたんですね。違うホテルを手配してもらってそこに移動してそれから着替えて再びプリンスィズストリートに戻ってきてと大変でした。

これは携帯電話会社らしいですね。まあそんな感じでかなり充実した感じでしたがその後ドキドキでした。そういう思い込みがあるのもまたフリーメイスンリーでしょうか。まあ個人的な失敗ですね。
しかし他所のグランドロッジのグランドマスターの紹介ばかりしていてもしようが無いので、以前のモーツァルトコンサートの際の写真や来年のコンサートの際にまた写真を撮ってきて、スコティッシュライトのメンバーの活動や日本のパストグランドマスターについてもそれなりに触れないといけませんね。
時間的には前後が逆になってしまいますがそれもこれもシンボリズムの経緯でしょうが無いでしょうかね。
その位11と3のシンボリズムが大事だという事で良いのではないでしょうか。
フリーメイスンリー歴史学会的にはプレコンサートを除いて2日目になるわけですが、なかなか内容は濃いところですね。写真を撮れるタイミングがたくさんあったのでほぼ目につくところ全てを写真を撮っています。ビデオカメラも置いてきたので写真に集中できたというところもあるかと思います。
まあしかし学会の内容に関しては相当勉強してからいかないと分かりませんね。このブログがそれこそ勉強の機会なんだと思います。
とりあえず写真をあげていきます。

これはある発表の様子ですね。スライドはほとんどないのですが、あった際には写真を撮ったのですが、ほとんど写っていませんね。なかなか学会というのも難しいです。ビデオ撮影が可能であれば良かったのですが、まあフリーメイスンリーでビデオ撮影は基本的に厳しいですね。




これはお土産用のロスリン聖堂とエディンバラ城の模式図ですね。良く見ると現地でしか買えないのかと思ったらそうではなくメール注文のみと書いてあります。グランドロッジのホームページから買えるようです。当時はロスリン礼拝堂についてダ・ヴィンチ・コードの観光地だとしか思っていなかったのでなんとも思いませんでしたが、今はちょっと面白いと思いますが、まあちょっと高いですね。グランドロッジのショップは以前私も購入したことがあるのですが、革靴が売っていてこれをこのときも履いたりしたのですが、どうもキルト(スコットランドのタータンチェックのスカートをはいた正装)に合わせた行進用の伝統的な革靴という事で、ひもも長くて足首に巻きつける結び方をして、靴裏にカチカチならせる金属が入っていて、石の上を歩くとカチカチ音が鳴って大変でした。知っている人が見るとかなりおかしな格好であったかもしれません。新しくスコットランドグランドロッジの紋章がすかしで入ったペーパーウェイトのピラミッドが売っていますが値段は聞いてくれと書いてあります。そういえばガラディナーで隣になったイタリアのブラザーはグランドロッジで勿忘草のシンボルが入ったカフボタンを買ったと見せていました。その後イタリアでもナチス党の話で色々ありましたね。

これは5つの建築オーダーの柱頭を描いたイラストですね。特に教訓は書かれていませんが、思索的フリーメイスンリーと実務的フリーメイスンリーを繋ぐ直接的なシンボルという事で強調しているのかもしれません。











これは動画でもあげたスコットランドのロッジで使われていた憲章を保存したという金庫の箱ですね。鍵が二つあってメンバーの二人で持ち合って同時に鍵を差し込むと開くという話でした。1600年代のロッジのものという事で価値は計り知れないという評価でしたが、実際どんなもんでしょうね。買う人がいるのかどうかというところかと思われます。装飾もそれほどないですしね。まあなんとも不思議な話ではありました。ロッジの聖櫃という事で、ユダヤ教のアークに通じるシンボルともなるのだと思われます。
動画もアイフォンで撮ったので音がやや小さいので大きくして聞かないと分からないと思いますが、録音を聞いても私は良く分かりません。確か上記のような解説をしていたと思います。

これはトイレの前の唯一空いていた胸像置き用の台です。完全にトイレの前なので希望する人もいないでしょうが、実際には新たな胸像を置く余地はないのかもしれません。過去のパストグランドマスターに置き換わるほど何か認められる業績のある方という事になるのでしょうか。まあ何か教訓なのかもしれませんが、そういう事を感じさせないほどの名誉の紋章で溢れかえっていました。

紋章なんですが、名前が読める方については触れていきます。一番右がブラザーデヴィッド・リデル・グレインガーです。母親が貴族の娘であったそうで、スコットランドの政治家という事で、エルサレムの聖ヨハネ騎士団の下部組織となる組織を作り、その後騎士団の騎士となったそうです。骨董協会の会員でもあったそうでいわゆるフリーメイスンですね。スコットランドのバーウィクシャー州の判事と副統監を務めたそうです。K.ST.J.がヨハネ騎士団を意味していて、D.L.が副統監、副知事を意味するものと思われます。背後に聖ヨハネ騎士団のマルタ十字が認められます。上部の標語がNIL DESPERANDUMで何事も絶望すべきではないという意味だそうです。ホラーティウスの『詩集』(1.7.27)に見られる表現だそうです。
ウィキペディアのList of Grand Masters of the Grand Lodge of Scotlandとも対応しており、パストグランドマスターの紋章が掲げられているのですね。日本でもグランドロッジのグランドマスターの部屋に写真が掲げられているのと対応するものと思われます。入り口に名前の刻印してあるかと思います。しかしあちらはほとんど全てのパストグランドマスターの項目がウィキペディアがあるようで、そういうのを整理している人がきちんといるようです。そういうのもやはり進んでいるんですね。
基本的に年代順のようです。その左にあるのはその前のパストグランドマスターのブラザーサーロナルド・アーキボルト・オーイング卿です。19世紀から始まった男爵家だそうです。父親と息子もグランドマスターに代々なっているそうです。やっぱり国ごとにフリーメイスンリーの様子は全然違いますね。上部の標語はAUDACITERで大胆にという意味だそうです。
一番左がブラザーブルース卿だそうです。スコットランドの生命保険組合の会長を務めたりしていたそうで、恐らく趣味だと思われますがスコットランドの王立自動車クラブの会長を務めていて、レーシングチームを持っていたそうです。ファイフ州の副統監や統監を務め、その後シスル騎士団にも選ばれているそうです。89歳で御健在のようです。ウィキペディアによるとフリーマンという表現になっていますが、欧米ではフリーマンという都市で行進をして良いという栄誉の表彰があるようです。

これはピンボケなので名前の判別できる一番左の方だけ見ます。
ブラザーサーマルコム・バークレー・ハーベイで政治家で南オーストラリアの総督を1939年から1944年まで務めた方だそうです。南オーストラリアのグランドロッジののグランドマスターも務めていたそうです。やはりマルタ十字が後ろに見えますが、聖ヨハネ騎士団ではなく聖マイケル・聖ジョージ勲章を授与されているそうです。

こちらの読める左から二番目のものはスコットランドグランドロッジの紋章で、グランドロッジの何らかの記念のようです。



この辺は全部ピンボケですが、スタッフの方の視線がちょっと怪しいですね。恐らくグランドロッジではビデオを撮影して後で主要な人には配るのでしょうね。まあそういうのもフリーメイスンリーなんでしょうか。実地で参加できたんですがやっぱり語学が壁ですよね。それは普通のロッジにおいてもそうです。ニュアンスや語彙や言い回し、暗喩といったものがフリーメイスンリーでは最も必要とされる言葉の能力です。Grammar文法, Rhetoric修辞学, Logic論理学は基本の7学科でも示されるフリーメイスンに必要とされる能力です。そういう基準で行くとちょっと厳しいでしょうね。

ブラザーアーキボルト・キャンベル卿です。軍人でありトーリー党の政治家であったそうです。アマチュア科学者であり金星周囲の大気を発見したり、ブラザーライト兄弟の飛行機の発明前にプロペラの研究を行っていたそうです。王立協会の会員にも選ばれているそうです。

ブラザーフォックス・モール・ラムゼイ卿です。ホウィッグ党の政治家です。教会に関心が高く自由スコットランド教会を支援していたそうです。

ブラザーサーアーキボルト・ドナルド・オーウィング卿で、先ほども出た男爵のオーウィング家の最も最近の第6代男爵のグランドマスターだそうです。期間をおいて二度グランドマスターになったのはこの方だけだそうで、その後スコットランド王立騎士団の団長になっているそうです。二度の結婚や子供の事など書いてあります。

ブラザージェームズ・ホツィアー卿です。ほぼ英国外務省で働かれていた方のようで、外務大臣を務めているようです。

ブラザーアレクサンダー・フレイザー卿です。特に生前の事についてはウィキペディアでは書かれていませんが、スコットランド貴族院議員という事だそうです。伯爵になるのだと思われます。

ブラザーサーチャールズ・ダリンプル卿です。基本的に男爵以上の公爵、侯爵、伯爵は卿を付けて、一代貴族位である準男爵やナイト爵でサーを付けるという事になるようです。ウィキペディアのサーの項目を参照してください。基本的に爵位というのは長男にあたる一人が相続するので、それ以外の人は貴族の子供でも何らかの爵位を新しく貰うかしないと貴族にならないようです。この方は両親とも貴族の系統の方で、名字は母親の系統の貴族の名前を受け継いだようです。ダリンプル男爵位の一代目の方となるようです。

ブラザージョージ・バイル・ハミルトン・アーデン卿です。スコットランド貴族院議員に生きている間に選ばれたようです。スコットランド貴族院議員と訳していますが、representative peer、Peerage of Scotlandとあり、いわゆる貴族院制の代議員としての貴族のようです。1999年から2000年にかけて貴族院制自体廃止されていっているようです。

上で紋章をあげたブラザーアンドリュー・ブルース卿だそうです。爵位を二つ持っているんですね。やはりスコットランド貴族院議員だそうです。

ブラザーウォルター・アースカイン卿です。やはりスコットランド貴族院議員だそうです。アンドで繋がるのは二つの爵位を持っているという意味だそうです。

ブラザーサーミハエル・ショウ・スチュワート卿です。レンフルーシャーという庶民院の選挙区を代表する役職を務めていたそうです。詳しくは分かりませんが、イギリスの民主制の様々な仕組みの中で重要な役職であったのだと思われます。

ブラザージョン・ホワイト・メルビルです。スコットランドの小説家、詩人という事だそうです。スポーツマンであったようで落馬して亡くなったそうです。

ブラザーロバート・キング・スチュワートの紋章です。ウィキペディアの項目はないのですが、検索では同名のスコットランドのロッジが出てきて、設立の経緯の際のグランドマスターの名前として出てきます。

ブラザーサーロバート・ギルモア・ゴードン卿の紋章です。特に詳しい解説はありません。

ブラザーエドワード・ブルース卿の紋章です。スコットランド国立銀行の支配人であったようです。シスル騎士団の団員であり、聖ミカエル・聖ジョージ騎士団の団員であったそうです。

ブラザージョン・ダルリンプル卿の紋章です。軍人であり保守党の政治家であったそうです。シスル騎士団の団員だそうです。

ブラザーロバート・ウォルリッジ・ゴードンの紋章です。子供が保守党の政治家でウィキペディアに項目がありました。海軍の船長であったようですが詳細は分かりません。標語も良く分かりません。

ブラザーサージェームズ・ウィルソン・マッケイの紋章です。エディンバラの市長であったようです。in service fulfillmentはサービスの実行でしょうか。選挙公約のようです。

ブラザーアーキボルト・ダグラス卿の紋章です。ロイヤル・ヴィクトリア勲章を受勲されているそうです。

ブラザーアレキサンダー・アーキボルト・ハガート・スペイアーズの紋章です。ウィキペディアに項目がありませんが、検索で出てきたページによると外科医でホメオパシー協会の会長であったようです。

ブラザーロバート・ハミルトン・ウドニー卿の紋章です。インド帝国騎士団の団員でスコットランド貴族院議員で軍人であったそうです。

ブラザーアレクサンダー・フレイザー卿の紋章です。父親の胸像が上にありました。親子でグランドマスターになっているのですね。ロスリン礼拝堂のシンクレア家が有名ですが、その他にも今回見ていた中で二家族は親子二代と三代でグランドマスターの家系がありました。

ブラザーアーキボルト・モントゴメリー卿の紋章です。関連項目としてエリントン城の項目がありました。

ブラザージョージ6世の紋章です。映画「英国王のスピーチ」のモデルとなった方です。スコットランドグランドロッジのグランドマスターはイギリス王室の関係者はいないので非常に珍しいケースであったのですね。イングランド連合グランドロッジのグランドマスターを見ると英王室の王族の方が20年以上務めるのが普通のようですので、色々と状況が異なるのですね。映画にもなっていたりかなり色々複雑ですね。

プレコンサートの看板です。ブラザーデニス・タウンヒルについてはウィキペディアの項目がありました。訃報の記事もありました。セントポール大聖堂などのオルガン奏者であったようです。


これはスコットランドグランドロッジの紋章を何度も撮っているのです。イングランド連合グランドロッジと同じく色々意味が込められているのだと思われます。緑色の意味と二種類の直角定規の意味でしょうかね。

96の数字も反転できるというところなのでしょうね。3×2×2×2×2×2という数字になります。

ジョージストリートの風景です。快晴です。これもやっぱり午後8時近くでしょうかね。

これはフリーメイスンズホールと隣の建物との境のところに何か看板があったのですね。確かフリーメイスンズホールについての言葉であったと思うのですが、完全に手ぶれで読めません。


北部灯台協会という訳になるのだと思いますが、スコットランドの灯台建設を主導した組合で、カールトン墓地に葬られたブラザーロバート・スティーブンソンの一家や明治時代の日本でブラザーヴェルニーとともに灯台建設を競ったブラザーリチャード・ブラントンが所属した団体です。ブラザーリチャード・ブラントンの当時の似顔絵の図でコンパスを手にしているものが観音崎灯台で公開されていました。



三浦半島では剱埼灯台を建築しています。このブログでも取り上げています(横須賀の灯台)。

これは良く分かりませんが近くの交差点のガラスにあったいたずら書きか演出で書かれたものか分かりませんが、ritualとあったので撮りました。なんか謎の単語ですね。

でその辺りにあったのがこの番地表記でしょうか。おやおやっと。

さらにその場所を見るとFRENCH CONNECTION。良くできています。



その場所から見たエディンバラ城です。この後ガラディナーだったんですが色々トラブルがありまして大変でした。お土産を買ってホテルに帰ったら、その後の一泊を予約しそこなっていたんですね。違うホテルを手配してもらってそこに移動してそれから着替えて再びプリンスィズストリートに戻ってきてと大変でした。

これは携帯電話会社らしいですね。まあそんな感じでかなり充実した感じでしたがその後ドキドキでした。そういう思い込みがあるのもまたフリーメイスンリーでしょうか。まあ個人的な失敗ですね。
しかし他所のグランドロッジのグランドマスターの紹介ばかりしていてもしようが無いので、以前のモーツァルトコンサートの際の写真や来年のコンサートの際にまた写真を撮ってきて、スコティッシュライトのメンバーの活動や日本のパストグランドマスターについてもそれなりに触れないといけませんね。
さてまあ予定投稿ばかりなわけですが、本日は横須賀は観音崎フェスタの日なのですね。
去年はイギリス訪問のブログを書いていて参加しなかったわけですが、今年は参加しないといけないとこの記事も予定投稿となるわけです。
観音崎フェスタはガリバーファンタジーという事でブラザージョナサン・スウィフトの作品であるガリバー旅行記を一つのテーマとして、米軍基地からもボランティアが参加してイベントを盛り上げているそうです。ガリバー旅行記において日本に上陸した場所がズモサキと言われる土地と描かれており、これが観音崎であるというのですがまあちょっと無理があるわけですが、実際にはガリバー旅行記の元ネタとしてこのブログでも取り上げている(ウィリアム・アダムスという存在、安針塚 つづき)、安針塚で名前の残る三浦按針ウィリアム・アダムスの恐らく本国とのやり取りにおける詳細な記録があると思われ、イエズス会修道士のルイス・フロイスの「日本史」も史料として一級なわけですが、新教国のイギリスも同時代に同様の史料をやはりもっていたという事になるようであり、恐らくそれらの中で江戸周辺の土地として三浦半島の地理や日本全体の土地や文化、政治の状況などについて詳細な情報を送っていた可能性が高く、その中で観音信仰や観音崎について触れている事があるのかもしれません。
もちろん観音崎と言えばブラザーヴェルニーによる日本最初の西洋式灯台の建設があり、それらについてもこのブログで触れていますが(観音埼灯台、東叶神社、建国記念日 走水神社の謎)、関東大震災にまつわる逸話もあり恐らくブラザーヴェルニーの建設した灯台が残っていれば確実に国宝となるようなフリーメイスンリー的にも非常に重要な建築であったわけですが、その第三代目の灯台がある場所という事で、日本におけるフリーメイスンリーの歴史の中で重要な土地という事になるのだと思われます。
もちろん戦前から戦中にかけては観音崎砲台の場所として東京湾防衛の要衝であり、現在もそれらの砲台跡の建築が横須賀美術館の裏庭から見学する事も出来る土地です。
さてそんな明治天皇の誕生日とされる文化の日11月3日のフリーメイスンリーのブログなわけですが、スコットランドの国際フリーメイスンリー歴史学会の途中という事なのですが、3度目のアーサーズシートの登坂を行った記録を記事にしてしまう事とします。もう動画にも出しているので大体分かってしまうと思うのですが、要は頂上で石を並べてScottish Rite 33°とスコティッシュライトをスコットランドの地元の人や観光客にアピールするというかなりヤバめなフリーメイスンリー活動を行っていて、その仕上げに行ったわけですね。そんな事をしてそれがフリーメイスンリー活動と言えるのかというところはありますが、学会で集まっていたわけで、スコティッシュライトがスコットランドの名前を広めてそれをきっかけとして私も初めてスコットランドを訪問したわけで、スコットランドエディンバラを象徴する場所に石で並べたそうした文字を残すことはすぐに消すこともできるものでもあり良い旅の象徴なのではないかと思い、フリーメイスンリーを象徴する3回目の登頂を行って仕上げるというのもまたフリーメイスンらしくて良いのではないかと思い記事としました。
虹のお返しと言ったところでしょうか。
まあそんなわけで再び朝早くからのテンションマックスで丘を登ります。

北橋からのエディンバラ城ですね。良い天気ですねえ。こんなところに住みたいですねえ。観音崎フェスタのお天気はどうでしょうか。

カールトンヒルからの朝日ですね。オベリスクが冴えています。横須賀でも汐入にオベリスクがあるように言いましたがやはり頂点が尖っていないんですね。やっぱり本物とはシンボルが違うんですね。

これは前日のずらされちゃったScottish Rite 33°の並びを見ているんですね。本場でも一日でずらされちゃうんですから結局今頃は影も形もないでしょうね。Scが消されちゃってるんでしたかね。前回の完成図はこちらで確認してください。

石を増やしてScを直して、Rをカリグラフィー風に足を延ばしたのですね。ちょっとロータリーっぽい感じになったでしょうか。スコティッシュライトを象徴するものとしてYodhיを付け加えました。スコティッシュライト14階級を象徴するユダヤ教の唯一神を意味するYHWHיְהֹוָהの最初の文字で、ヘブライ語では右から左に綴るのですね。良くYodと表現されますが、Yodは占星術でY字型という星同士の配置を意味する特殊な意味もあるようです。ヘブライ語でYadで手を意味してトーラーを読むときの指し示す指し棒を意味する言葉とも近いようです。恐らくロストシンボルで象徴的に右手が指し示す形があるのはこのYodの暗喩なのでしょうね。
(2013/11/6追記:ウィキペディアによると聖書においてヘブライ語のYHWHיְהֹוָהの表記は6859回出てくるそうです。素因数分解すると19×19×19だそうです。これは意図されていると見るかどうかは人によるんでしょうが、まあそういう数のシンボリズムは聖書由来であるようです。)
Scottish Rite33°の置き石についてはこれで終わりです。
動画も参照してください。
ちょうどカモメがいたりしますが、ずらした石で書かれた単語がちょっと分かりませんね。人の名前でしょうか。

まあテンションを上げて再び学会に臨みます。これはアーサーズシートの麓にある観光案内所ですね。

これがホリールード宮殿の門ですね。次回訪問時は行きたいですね。

これはロイヤルマイルズのお土産屋さんでしょうか。Aの文字のカリグラフィーがフリーメイスンリーのシンボルと似ていて撮ったのですね。この形は結構どこでも認められるようです。まあここだとこれは恐らく店主はフリーメイスンなのでしょうね。

これもパブなんですが、No.1を強調しています。No.1のセントメアリーロッジのメンバーなんだと思われます。

これはRとKの足髭が伸びていました。まあここだとこれはロータリーの象徴ではなく恐らくフリーメイスンなんだと思われます。




何度も出している北橋からの光景です。うーんまあすごい晴れです。フリーメイスンリーの聖地なのですね。

再びのゴシックロケットのブラザースコット記念塔です。この後は再びフリーメイスンリー歴史学会です。
去年はイギリス訪問のブログを書いていて参加しなかったわけですが、今年は参加しないといけないとこの記事も予定投稿となるわけです。
観音崎フェスタはガリバーファンタジーという事でブラザージョナサン・スウィフトの作品であるガリバー旅行記を一つのテーマとして、米軍基地からもボランティアが参加してイベントを盛り上げているそうです。ガリバー旅行記において日本に上陸した場所がズモサキと言われる土地と描かれており、これが観音崎であるというのですがまあちょっと無理があるわけですが、実際にはガリバー旅行記の元ネタとしてこのブログでも取り上げている(ウィリアム・アダムスという存在、安針塚 つづき)、安針塚で名前の残る三浦按針ウィリアム・アダムスの恐らく本国とのやり取りにおける詳細な記録があると思われ、イエズス会修道士のルイス・フロイスの「日本史」も史料として一級なわけですが、新教国のイギリスも同時代に同様の史料をやはりもっていたという事になるようであり、恐らくそれらの中で江戸周辺の土地として三浦半島の地理や日本全体の土地や文化、政治の状況などについて詳細な情報を送っていた可能性が高く、その中で観音信仰や観音崎について触れている事があるのかもしれません。
もちろん観音崎と言えばブラザーヴェルニーによる日本最初の西洋式灯台の建設があり、それらについてもこのブログで触れていますが(観音埼灯台、東叶神社、建国記念日 走水神社の謎)、関東大震災にまつわる逸話もあり恐らくブラザーヴェルニーの建設した灯台が残っていれば確実に国宝となるようなフリーメイスンリー的にも非常に重要な建築であったわけですが、その第三代目の灯台がある場所という事で、日本におけるフリーメイスンリーの歴史の中で重要な土地という事になるのだと思われます。
もちろん戦前から戦中にかけては観音崎砲台の場所として東京湾防衛の要衝であり、現在もそれらの砲台跡の建築が横須賀美術館の裏庭から見学する事も出来る土地です。
さてそんな明治天皇の誕生日とされる文化の日11月3日のフリーメイスンリーのブログなわけですが、スコットランドの国際フリーメイスンリー歴史学会の途中という事なのですが、3度目のアーサーズシートの登坂を行った記録を記事にしてしまう事とします。もう動画にも出しているので大体分かってしまうと思うのですが、要は頂上で石を並べてScottish Rite 33°とスコティッシュライトをスコットランドの地元の人や観光客にアピールするというかなりヤバめなフリーメイスンリー活動を行っていて、その仕上げに行ったわけですね。そんな事をしてそれがフリーメイスンリー活動と言えるのかというところはありますが、学会で集まっていたわけで、スコティッシュライトがスコットランドの名前を広めてそれをきっかけとして私も初めてスコットランドを訪問したわけで、スコットランドエディンバラを象徴する場所に石で並べたそうした文字を残すことはすぐに消すこともできるものでもあり良い旅の象徴なのではないかと思い、フリーメイスンリーを象徴する3回目の登頂を行って仕上げるというのもまたフリーメイスンらしくて良いのではないかと思い記事としました。
虹のお返しと言ったところでしょうか。
まあそんなわけで再び朝早くからのテンションマックスで丘を登ります。

北橋からのエディンバラ城ですね。良い天気ですねえ。こんなところに住みたいですねえ。観音崎フェスタのお天気はどうでしょうか。

カールトンヒルからの朝日ですね。オベリスクが冴えています。横須賀でも汐入にオベリスクがあるように言いましたがやはり頂点が尖っていないんですね。やっぱり本物とはシンボルが違うんですね。

これは前日のずらされちゃったScottish Rite 33°の並びを見ているんですね。本場でも一日でずらされちゃうんですから結局今頃は影も形もないでしょうね。Scが消されちゃってるんでしたかね。前回の完成図はこちらで確認してください。

石を増やしてScを直して、Rをカリグラフィー風に足を延ばしたのですね。ちょっとロータリーっぽい感じになったでしょうか。スコティッシュライトを象徴するものとしてYodhיを付け加えました。スコティッシュライト14階級を象徴するユダヤ教の唯一神を意味するYHWHיְהֹוָהの最初の文字で、ヘブライ語では右から左に綴るのですね。良くYodと表現されますが、Yodは占星術でY字型という星同士の配置を意味する特殊な意味もあるようです。ヘブライ語でYadで手を意味してトーラーを読むときの指し示す指し棒を意味する言葉とも近いようです。恐らくロストシンボルで象徴的に右手が指し示す形があるのはこのYodの暗喩なのでしょうね。
(2013/11/6追記:ウィキペディアによると聖書においてヘブライ語のYHWHיְהֹוָהの表記は6859回出てくるそうです。素因数分解すると19×19×19だそうです。これは意図されていると見るかどうかは人によるんでしょうが、まあそういう数のシンボリズムは聖書由来であるようです。)
Scottish Rite33°の置き石についてはこれで終わりです。
動画も参照してください。
ちょうどカモメがいたりしますが、ずらした石で書かれた単語がちょっと分かりませんね。人の名前でしょうか。

まあテンションを上げて再び学会に臨みます。これはアーサーズシートの麓にある観光案内所ですね。

これがホリールード宮殿の門ですね。次回訪問時は行きたいですね。

これはロイヤルマイルズのお土産屋さんでしょうか。Aの文字のカリグラフィーがフリーメイスンリーのシンボルと似ていて撮ったのですね。この形は結構どこでも認められるようです。まあここだとこれは恐らく店主はフリーメイスンなのでしょうね。

これもパブなんですが、No.1を強調しています。No.1のセントメアリーロッジのメンバーなんだと思われます。

これはRとKの足髭が伸びていました。まあここだとこれはロータリーの象徴ではなく恐らくフリーメイスンなんだと思われます。




何度も出している北橋からの光景です。うーんまあすごい晴れです。フリーメイスンリーの聖地なのですね。

再びのゴシックロケットのブラザースコット記念塔です。この後は再びフリーメイスンリー歴史学会です。
まあこれはどうなんでしょう。
ちょっとオカルトめいて来ますが、恐らくそれほど間違っていはいないのではないでしょうか。
以前に日本の名前に認めるフリーメイスンリーのシンボルという事でで漢字の名前とフリーメイスンリーのシンボリズムの関連や、家紋とシンボリズムの関連については平成町のところで触れたわけですが、実際1549年8月15日にイエズス会のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸して以降ヨーロッパ人は日本人と接触を保ち続けていたわけですが、その時代にはすでにダ・ヴィンチやデューラーの絵画に見るまでもなくルネサンス絵画の特徴としてシンボリズムの概念は普及していたので、当然当時のヨーロッパの最先端の知識をもつ立場にあるイエズス会創設者メンバーの一人であるザビエル以下日本に来た宣教師たちはそういう知識をもつエリートたちであったかと思われます。
となると単に1717年のいわゆる近代思索的フリーメイスンリー組織の出現を待つまでもなく、16世紀のカトリック宣教師たちはフリーメイスンリーと同じくシンボリズムについても相当造詣をもっていた事が考えられ、もしかするとすでに勃興していたプロテスタントと一体化していたフリーメイスンリーに対してテンプル騎士団などと同じく敵視していたことも考えられます。

(イエズス会のシンボルIHSについては通常はIhsouz Xristozイエス・キリストのギリシア表記の最初の3文字と捉えられるそうですがその他に、Iesus Hominum Salvator人類の救い主イエスであったり、Iesum Habemus Sociumイエスは我らとともにありという意味とも取れるようです。その他にもエジプトの古代神話の神々であるIsis, Horus, Setというのもあるそうです。またHのところに十字があることでRoyal Arch Masonryのトリプルタウの形に近似になることももちろん、Templum Hierosolymエルサレム神殿の意味になることもあるかと思われます。要するにイエズス会は非常にフリーメイスンリーのキリスト教との共通部分に近似しているのですね。)
まあちょっと想像が進み過ぎていますが、実際その時期の日本での伝道に関してはフロイスの日本史が残されており、今後検討していくこととしますが、現時点で単純にシンボリズムで注目すると面白い三人の武将がいるかと思います。
一人は明智光秀であり、もう一人は木下藤吉郎改め豊臣秀吉であり、最後の一人は以前も触れた石田三成です。



まずシンボリズムについては基本的には理解される所かと思われます。太陽と月の対称で明であり、知恵の智、光はそのままであるというまあ基本的にはキリスト教とフリーメイスンリーに共通するシンボリズムと思われ、その他多くの武将と比較してもシンボリズムでやはり目立っています。次の豊臣秀吉はやはり改名前の木下姓がいわゆる十字とタウ十字の組み合わせに繋がり恐らくイエズス会の修道士にとっては非常に注目されるものであったかと思われます。最後の石田三成は解説するまでもなく明らかにフリーメイスンリーを象徴するようなシンボリズムの名前であり、太陽十字の形になる漢字となる田は同時代の織田信長にも共通する漢字であり、どちらも最後を非業の死で終えるという共通項があったりします。次の大河ドラマの主人公である黒田如水もキリシタン大名といえ名字はいわゆるフリーメイスンリーのシンボリズムに則っており、外様大名として同様に丸十字の家紋をもつ島津家と同じく九州に置かれるのも法則があるのかもしれません。明治維新後に黒田家出身者に活躍が広がるのも歴史の必然かもしれません。石田三成と対峙した徳川家康も三河の国出身であり三つ葉葵の家紋で旧姓の松平元康だと平にタウ十字と十字のシンボリズムを認めますが、それでいくとやはり三代将軍の徳川家光が注目され、その時代に天草の乱でキリスト教禁止と鎖国が成立するのもまた歴史の妙なのだと思われます。明らかに意識し意識されたそういうものがあったのかと思われます。(2014/3/21追記:徳川家康の名前そのものもイエズス会のイエズスそのものと音が似ていることがあるようです。そうなると石田三成のフリーメイスンリー側と、徳川家康のイエズス会側という構図が関ヶ原の合戦には見えてくるようでもあります。)

当時はザビエルによりキリスト教とともに火縄銃や最新のヨーロッパの考え方が盛んに導入された時代であり、シンボリズムに関してもキリシタンが多く存在しスペイン語やポルトガル語の名前で洗礼名を付けた時代ですから、宣教師が光や三や十字について良いものであると選んだりすれば周囲の日本人は右に倣えで良いものであると考えたのではないでしょうか。その中でも恐らく宣教師が結果的に十分に布教して増えたキリシタン達のネットワークを通して様々な政治情勢を把握し、判断をくわえていた可能性は多々存在し、それが例えば明智光秀の謀反やその後の秀吉の中国大返しで機能した可能性は高いですし、また秀吉が三角形が三つ重なった家紋の後北条氏を石垣山城の建築で攻略し統一を果たした事や、それにカトリックと繋がりのあった伊達氏が遅れて到着するなどもカトリックとフリーメイスンリーのシンボリズムと実際の関係の微妙な絡みと見てとることができるのではないでしょうか。豊臣秀吉はその後宣教師の情報等を参考として大陸出兵を考えたとも想像できますし、その途上でキリシタン弾圧に乗り出して死に至るという経過も何となく主君であった織田信長の最後とも似ているところがあるのかもしれません。本能寺の変は安土城の建築をもって織田信長のキリスト教への改宗が困難と予想しての出来事であったのかもしれません。関ヶ原の戦いにおける徳川家康と石田三成の戦いも三つ星の家紋の毛利家が西軍の総大将であり、一方の徳川家康は三つ葵の家紋で東軍の総大将であり、すでにウィリアム・アダムスなど新教国のイギリスとの接触もある頃であり、海上の覇権を握りつつあった彼らがまさに極東の天下分け目の決戦前に後の勝者の側にたどり着くのは必然であったのかもしれません。



まあいずれにしてもかなり想像をたくましくしましたが、ヨーロッパで普遍的に存在したカトリックとプロテスタントの対立、またその中でカトリックの側の改革派として海外にも積極的に布教したイエズス会の存在、そしてそれらとまた異なる集団や概念として広がりつつあったフリーメイスンリー、それらが概念上は共通の言語となりうるシンボリズムの表現を通して、キリスト教が布教され始めていた日本において時には勝者の側の象徴となり、また一方では敵役の象徴として様々に現れては消えしていた事があるのではないかと思われます。明確なフリーメイスンリーのシンボリズムを呈した石田三成の西軍が敗退し東軍にイギリスからの人物が漂着し、その後の豊臣家攻略に繋がるのも何やら裏ではカトリックとフリーメイスンリーの壮大な駆け引きがあったのではないかと考えたりします。その後の1666年の驚異の年に向けた、その前の明暦の大火や長崎出島のオランダの通商など極東においてその後も永続的に活動が続けられたのは事実かと思われます。
またこの三人以外にも戦国時代に現代に繋がる皇室のお庭番ともいえる組織を作り上げた茶道の大家千利休においても堺の商人出身でもちろん宣教師との関係も濃く弟子にもキリシタン大名が多く、その名にも十字が認められるのは明確なシンボリズムと考えられます。茶道のスタイル自体もまさにコーヒーを茶に変えた如くフリーメイスンリーかキリスト教のミサのごとき黙想と談笑の会であり、情報交換と和睦の重要なツールであったかと思われます。

(三浦按針に関して横須賀のガリバーファンタジーを企画している横須賀未来塾という団体の関係者と思われる方が書いているらしいホームページがあり(幹事の元横須賀市職員の桐ケ谷良之さんと思われます。)、色々調べている事の一部が書かれていました。浦賀にはカトリックの神父が神の奇跡を三浦按針に見せようと水渡りの奇跡を見せた逸話もあるらしく、なかなかフリーメイスンリーの儀式のようで極東の地におけるカトリックとプロテスタントの交流という事で非常に興味深い話です。恐らく上記の戦国大名の話の一部裏付けともなるのではないでしょうか。イエズス会会員というのが英語ではJesuit、陰謀家とも言われるほどであり、それらの仕事を新教国のイギリスやオランダに引き継いでいったという事も考えられるのかと思われます。)
ちょっとオカルトめいて来ますが、恐らくそれほど間違っていはいないのではないでしょうか。
以前に日本の名前に認めるフリーメイスンリーのシンボルという事でで漢字の名前とフリーメイスンリーのシンボリズムの関連や、家紋とシンボリズムの関連については平成町のところで触れたわけですが、実際1549年8月15日にイエズス会のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸して以降ヨーロッパ人は日本人と接触を保ち続けていたわけですが、その時代にはすでにダ・ヴィンチやデューラーの絵画に見るまでもなくルネサンス絵画の特徴としてシンボリズムの概念は普及していたので、当然当時のヨーロッパの最先端の知識をもつ立場にあるイエズス会創設者メンバーの一人であるザビエル以下日本に来た宣教師たちはそういう知識をもつエリートたちであったかと思われます。
となると単に1717年のいわゆる近代思索的フリーメイスンリー組織の出現を待つまでもなく、16世紀のカトリック宣教師たちはフリーメイスンリーと同じくシンボリズムについても相当造詣をもっていた事が考えられ、もしかするとすでに勃興していたプロテスタントと一体化していたフリーメイスンリーに対してテンプル騎士団などと同じく敵視していたことも考えられます。

(イエズス会のシンボルIHSについては通常はIhsouz Xristozイエス・キリストのギリシア表記の最初の3文字と捉えられるそうですがその他に、Iesus Hominum Salvator人類の救い主イエスであったり、Iesum Habemus Sociumイエスは我らとともにありという意味とも取れるようです。その他にもエジプトの古代神話の神々であるIsis, Horus, Setというのもあるそうです。またHのところに十字があることでRoyal Arch Masonryのトリプルタウの形に近似になることももちろん、Templum Hierosolymエルサレム神殿の意味になることもあるかと思われます。要するにイエズス会は非常にフリーメイスンリーのキリスト教との共通部分に近似しているのですね。)
まあちょっと想像が進み過ぎていますが、実際その時期の日本での伝道に関してはフロイスの日本史が残されており、今後検討していくこととしますが、現時点で単純にシンボリズムで注目すると面白い三人の武将がいるかと思います。
一人は明智光秀であり、もう一人は木下藤吉郎改め豊臣秀吉であり、最後の一人は以前も触れた石田三成です。



まずシンボリズムについては基本的には理解される所かと思われます。太陽と月の対称で明であり、知恵の智、光はそのままであるというまあ基本的にはキリスト教とフリーメイスンリーに共通するシンボリズムと思われ、その他多くの武将と比較してもシンボリズムでやはり目立っています。次の豊臣秀吉はやはり改名前の木下姓がいわゆる十字とタウ十字の組み合わせに繋がり恐らくイエズス会の修道士にとっては非常に注目されるものであったかと思われます。最後の石田三成は解説するまでもなく明らかにフリーメイスンリーを象徴するようなシンボリズムの名前であり、太陽十字の形になる漢字となる田は同時代の織田信長にも共通する漢字であり、どちらも最後を非業の死で終えるという共通項があったりします。次の大河ドラマの主人公である黒田如水もキリシタン大名といえ名字はいわゆるフリーメイスンリーのシンボリズムに則っており、外様大名として同様に丸十字の家紋をもつ島津家と同じく九州に置かれるのも法則があるのかもしれません。明治維新後に黒田家出身者に活躍が広がるのも歴史の必然かもしれません。石田三成と対峙した徳川家康も三河の国出身であり三つ葉葵の家紋で旧姓の松平元康だと平にタウ十字と十字のシンボリズムを認めますが、それでいくとやはり三代将軍の徳川家光が注目され、その時代に天草の乱でキリスト教禁止と鎖国が成立するのもまた歴史の妙なのだと思われます。明らかに意識し意識されたそういうものがあったのかと思われます。(2014/3/21追記:徳川家康の名前そのものもイエズス会のイエズスそのものと音が似ていることがあるようです。そうなると石田三成のフリーメイスンリー側と、徳川家康のイエズス会側という構図が関ヶ原の合戦には見えてくるようでもあります。)

当時はザビエルによりキリスト教とともに火縄銃や最新のヨーロッパの考え方が盛んに導入された時代であり、シンボリズムに関してもキリシタンが多く存在しスペイン語やポルトガル語の名前で洗礼名を付けた時代ですから、宣教師が光や三や十字について良いものであると選んだりすれば周囲の日本人は右に倣えで良いものであると考えたのではないでしょうか。その中でも恐らく宣教師が結果的に十分に布教して増えたキリシタン達のネットワークを通して様々な政治情勢を把握し、判断をくわえていた可能性は多々存在し、それが例えば明智光秀の謀反やその後の秀吉の中国大返しで機能した可能性は高いですし、また秀吉が三角形が三つ重なった家紋の後北条氏を石垣山城の建築で攻略し統一を果たした事や、それにカトリックと繋がりのあった伊達氏が遅れて到着するなどもカトリックとフリーメイスンリーのシンボリズムと実際の関係の微妙な絡みと見てとることができるのではないでしょうか。豊臣秀吉はその後宣教師の情報等を参考として大陸出兵を考えたとも想像できますし、その途上でキリシタン弾圧に乗り出して死に至るという経過も何となく主君であった織田信長の最後とも似ているところがあるのかもしれません。本能寺の変は安土城の建築をもって織田信長のキリスト教への改宗が困難と予想しての出来事であったのかもしれません。関ヶ原の戦いにおける徳川家康と石田三成の戦いも三つ星の家紋の毛利家が西軍の総大将であり、一方の徳川家康は三つ葵の家紋で東軍の総大将であり、すでにウィリアム・アダムスなど新教国のイギリスとの接触もある頃であり、海上の覇権を握りつつあった彼らがまさに極東の天下分け目の決戦前に後の勝者の側にたどり着くのは必然であったのかもしれません。



まあいずれにしてもかなり想像をたくましくしましたが、ヨーロッパで普遍的に存在したカトリックとプロテスタントの対立、またその中でカトリックの側の改革派として海外にも積極的に布教したイエズス会の存在、そしてそれらとまた異なる集団や概念として広がりつつあったフリーメイスンリー、それらが概念上は共通の言語となりうるシンボリズムの表現を通して、キリスト教が布教され始めていた日本において時には勝者の側の象徴となり、また一方では敵役の象徴として様々に現れては消えしていた事があるのではないかと思われます。明確なフリーメイスンリーのシンボリズムを呈した石田三成の西軍が敗退し東軍にイギリスからの人物が漂着し、その後の豊臣家攻略に繋がるのも何やら裏ではカトリックとフリーメイスンリーの壮大な駆け引きがあったのではないかと考えたりします。その後の1666年の驚異の年に向けた、その前の明暦の大火や長崎出島のオランダの通商など極東においてその後も永続的に活動が続けられたのは事実かと思われます。
またこの三人以外にも戦国時代に現代に繋がる皇室のお庭番ともいえる組織を作り上げた茶道の大家千利休においても堺の商人出身でもちろん宣教師との関係も濃く弟子にもキリシタン大名が多く、その名にも十字が認められるのは明確なシンボリズムと考えられます。茶道のスタイル自体もまさにコーヒーを茶に変えた如くフリーメイスンリーかキリスト教のミサのごとき黙想と談笑の会であり、情報交換と和睦の重要なツールであったかと思われます。

(三浦按針に関して横須賀のガリバーファンタジーを企画している横須賀未来塾という団体の関係者と思われる方が書いているらしいホームページがあり(幹事の元横須賀市職員の桐ケ谷良之さんと思われます。)、色々調べている事の一部が書かれていました。浦賀にはカトリックの神父が神の奇跡を三浦按針に見せようと水渡りの奇跡を見せた逸話もあるらしく、なかなかフリーメイスンリーの儀式のようで極東の地におけるカトリックとプロテスタントの交流という事で非常に興味深い話です。恐らく上記の戦国大名の話の一部裏付けともなるのではないでしょうか。イエズス会会員というのが英語ではJesuit、陰謀家とも言われるほどであり、それらの仕事を新教国のイギリスやオランダに引き継いでいったという事も考えられるのかと思われます。)
前回の横須賀みこしパレードからの最近では珍しい横須賀のイベントの報告です。
この直前の戦国大名とフリーメイスンリーのシンボリズムで最後に追記しましたが、どうも浦賀の市役所関係の方でガリバーと三浦按針についてをテーマとしてイベントを色々企画されている方がいらっしゃり、その方がガリバーファンタジーという、ガリバー上陸の地のザモスキと観音崎を関連付けてイベントとする活動をされているそうで、それを浦賀・鴨居地区で長く続けられていた観音崎灯台祭りやその周辺のイベントと最近は合わせているようで、またそれらが最近は観音崎灯台を建設したブラザーヴェルニーと結びついてこのブログの話もありフリーメイスンリーという事で米軍基地などとも結びつくという帰着を見たようで、そういう絡みもあって、ブラザージョナサン・スウィフトはカトリックのアイルランド出身という事も微妙に関係するのだと思いますが、そういう背景からか私も機会あって第11回観音崎フェスタという記念のイベントに参加する事となったようです。
まあ日本でフリーメイスンリー歴史学会でも行われるようになれば恐らく発表されるような遠大なテーマになるのだと思いますが、歴史考証が非常に大変になるでしょうね。明暦の大火で焼失した江戸城跡にフリーメイスンリーの象徴であるオベリスクが建設されるようになれば日本人の歴史観は変わるものかもしれないと思われます。
さて御近所の方はすぐに参加できるイベントであるとは思われるのですが、インターネットの過去の記事を読むと三万人以上が参加したとあり、基地開放並みという事なのですが、場所など考えてもそこまでの人ではないようですが、推定入場者と同じでそれでも毎回来場者は増えてきているという事で、非常に地元密着型のイベントでありまたかつ日本最初の洋式灯台やそうした江戸幕府開府にも繋がるようなイギリス人や誰でも知っているイギリスの空想小説との縁などまさにファンタジーなテーマが満載で、それでいて実際には村おこしの要素が強い、また微妙に基地問題も絡んでいたりしてプロテスタントとカトリックといった話も未だにあったりとするこの極東の地の最初の光の地の11回目の記念イベントの様子を報告します。
なんとフリーメイスンリー歴史学会に引き続いて動画メディアを多数活用してイベントの様子が詳しく分かるようになっていますので、このブログとしても今後の進歩や変化の方向性が試されるものとなっているかと思われます。
動画は基本的に風景のものは音をブラザーヨハン・シュトラウス二世のものやブラザードビュッシーのものに変更していますが、元々は通常の風景の音であり、乗船クルーズに関してはマイクでの風景の解説が入っていたのですが、解説の内容なども考慮して変更してあります。


まずは近い所で走水神社ですね。最初に来た時から比べて鳥居が新しくなりました。相変わらず郷社ですが、まあさすがに古事記に書かれているからどうこうという時代ではないのでしょうね。
開会前の観音崎の様子です。あんなところでやるんだという感じでしょうかね。
これはちょっと長いですが、最初が一部切れているかと思いますが、開会式の様子です。市長や市議、商工会議所会頭などがみえています。海上保安部所長もいるようです。色々会の開催の経緯などもにじまれるなかなか面白い感じでしょうか。

おもてなしと書かれた屋台の様子です。まあなかなかこの屋台の光景も横須賀独特のものなのでしょうね。
横須賀美術館も無料開放されていましたが、現代芸術家によるフリーメイスンリーを非常に意識した体験型の展示でした。率直に言って非常に迷走している感じが強かったですが、それもこれも地元の様々な意見を反映してのものだと思われました。恐らくストラスブール美術館展のようなものは今後来ないのではないでしょうか。
珍しく無料で開放している観音崎灯台からの眺めです。

第二代灯台のコンクリート基礎も相変わらずありましたが、どうも第一代灯台のレンガがたくさんあったのでかなり回収してきました。近所の人が戻したのかもしれません。

これは少し新しくなった看板です。せっかく新しくしても内容は変えないようです。

アメリカ軍の軍艦も万国旗を掲げていましたが、どうも横須賀では万国旗を掲げるというのが何かお祭りの信号旗のようです。

これは灯光会主催で灯台の絵の公募を行って優秀作品を表彰している様子です。横須賀海上保安部の所長が説明していましたが、11月1日着工で2月10日建設と言っていて、そこを間違えたら駄目だろと思いました。まあ色々内部でもあるのでしょうね。自衛隊とかでも色々あるのでしょうが、確かに海軍や陸軍の徽章がフリーメイスンリーのシンボリズムに則っていると知ったら戦前の発想であれば変更しようと思うでしょうね。なかなかシンボリズムも面白いです。

で、東京湾交通センターの方を観に行くと台風で崩れた道があるそうです。やはり鎌倉などもそうですが、数か月いかないと色々なことが起きていたりします。
これはなかなか気持ちが良い所でしたね。相変わらず色々紙の模型など配っていましたが、少し以前より頑張っている感じでしたでしょうか。転勤の話をされたのはちょっと厳しいものがありました。

観音崎の唯一のシンボルともいえる碇です。もちろん第一代灯台が残っていればそれ以上のものは無かったのでしょうが、それは現在海の藻屑です。美術館の螺旋階段もちょっとどうなんでしょうね。
これは非常にシュールな光景です。ピラミッドを前にして地元の方がソーラン音頭を演舞されています。ボーイスカウトのテントがあったのでちょっと解説しておきました。
動画が多くなりそうなので二つに分割します。
この直前の戦国大名とフリーメイスンリーのシンボリズムで最後に追記しましたが、どうも浦賀の市役所関係の方でガリバーと三浦按針についてをテーマとしてイベントを色々企画されている方がいらっしゃり、その方がガリバーファンタジーという、ガリバー上陸の地のザモスキと観音崎を関連付けてイベントとする活動をされているそうで、それを浦賀・鴨居地区で長く続けられていた観音崎灯台祭りやその周辺のイベントと最近は合わせているようで、またそれらが最近は観音崎灯台を建設したブラザーヴェルニーと結びついてこのブログの話もありフリーメイスンリーという事で米軍基地などとも結びつくという帰着を見たようで、そういう絡みもあって、ブラザージョナサン・スウィフトはカトリックのアイルランド出身という事も微妙に関係するのだと思いますが、そういう背景からか私も機会あって第11回観音崎フェスタという記念のイベントに参加する事となったようです。
まあ日本でフリーメイスンリー歴史学会でも行われるようになれば恐らく発表されるような遠大なテーマになるのだと思いますが、歴史考証が非常に大変になるでしょうね。明暦の大火で焼失した江戸城跡にフリーメイスンリーの象徴であるオベリスクが建設されるようになれば日本人の歴史観は変わるものかもしれないと思われます。
さて御近所の方はすぐに参加できるイベントであるとは思われるのですが、インターネットの過去の記事を読むと三万人以上が参加したとあり、基地開放並みという事なのですが、場所など考えてもそこまでの人ではないようですが、推定入場者と同じでそれでも毎回来場者は増えてきているという事で、非常に地元密着型のイベントでありまたかつ日本最初の洋式灯台やそうした江戸幕府開府にも繋がるようなイギリス人や誰でも知っているイギリスの空想小説との縁などまさにファンタジーなテーマが満載で、それでいて実際には村おこしの要素が強い、また微妙に基地問題も絡んでいたりしてプロテスタントとカトリックといった話も未だにあったりとするこの極東の地の最初の光の地の11回目の記念イベントの様子を報告します。
なんとフリーメイスンリー歴史学会に引き続いて動画メディアを多数活用してイベントの様子が詳しく分かるようになっていますので、このブログとしても今後の進歩や変化の方向性が試されるものとなっているかと思われます。
動画は基本的に風景のものは音をブラザーヨハン・シュトラウス二世のものやブラザードビュッシーのものに変更していますが、元々は通常の風景の音であり、乗船クルーズに関してはマイクでの風景の解説が入っていたのですが、解説の内容なども考慮して変更してあります。


まずは近い所で走水神社ですね。最初に来た時から比べて鳥居が新しくなりました。相変わらず郷社ですが、まあさすがに古事記に書かれているからどうこうという時代ではないのでしょうね。
開会前の観音崎の様子です。あんなところでやるんだという感じでしょうかね。
これはちょっと長いですが、最初が一部切れているかと思いますが、開会式の様子です。市長や市議、商工会議所会頭などがみえています。海上保安部所長もいるようです。色々会の開催の経緯などもにじまれるなかなか面白い感じでしょうか。

おもてなしと書かれた屋台の様子です。まあなかなかこの屋台の光景も横須賀独特のものなのでしょうね。
横須賀美術館も無料開放されていましたが、現代芸術家によるフリーメイスンリーを非常に意識した体験型の展示でした。率直に言って非常に迷走している感じが強かったですが、それもこれも地元の様々な意見を反映してのものだと思われました。恐らくストラスブール美術館展のようなものは今後来ないのではないでしょうか。
珍しく無料で開放している観音崎灯台からの眺めです。

第二代灯台のコンクリート基礎も相変わらずありましたが、どうも第一代灯台のレンガがたくさんあったのでかなり回収してきました。近所の人が戻したのかもしれません。

これは少し新しくなった看板です。せっかく新しくしても内容は変えないようです。

アメリカ軍の軍艦も万国旗を掲げていましたが、どうも横須賀では万国旗を掲げるというのが何かお祭りの信号旗のようです。

これは灯光会主催で灯台の絵の公募を行って優秀作品を表彰している様子です。横須賀海上保安部の所長が説明していましたが、11月1日着工で2月10日建設と言っていて、そこを間違えたら駄目だろと思いました。まあ色々内部でもあるのでしょうね。自衛隊とかでも色々あるのでしょうが、確かに海軍や陸軍の徽章がフリーメイスンリーのシンボリズムに則っていると知ったら戦前の発想であれば変更しようと思うでしょうね。なかなかシンボリズムも面白いです。

で、東京湾交通センターの方を観に行くと台風で崩れた道があるそうです。やはり鎌倉などもそうですが、数か月いかないと色々なことが起きていたりします。
これはなかなか気持ちが良い所でしたね。相変わらず色々紙の模型など配っていましたが、少し以前より頑張っている感じでしたでしょうか。転勤の話をされたのはちょっと厳しいものがありました。

観音崎の唯一のシンボルともいえる碇です。もちろん第一代灯台が残っていればそれ以上のものは無かったのでしょうが、それは現在海の藻屑です。美術館の螺旋階段もちょっとどうなんでしょうね。
これは非常にシュールな光景です。ピラミッドを前にして地元の方がソーラン音頭を演舞されています。ボーイスカウトのテントがあったのでちょっと解説しておきました。
動画が多くなりそうなので二つに分割します。
まあちょっと内容的に単なる村おこしのイベントなんで恐縮なんですが、実際の日本のフリーメイスンリーの聖地を保存する運動と言えるかと思うので、かなり地元や関係者にとっては意味がある事という事で、動画でもやはり横須賀の事に関してのものは視聴回数が多かったり、ブログの内容でも地元の事が反応が大きいのは通常なので、最近特に大きなネタが無かった横須賀の話としてはかなりのイベントという事で動画もふんだんに使用した盛りだくさんとしています。しかしまあ基地外ロッジができれば良いかもしれませんが、それもまた相当維持していくのは大変そうなここ横須賀であります。
でまあ私は横須賀ではお気に入りのイタリアンの観音崎博物館の隣のマテリアで食事をして、思ったより色々イベントがたくさんだなあと思いつつ目の前のサブサブ会場でやっていた音楽に聞き入ります。実際ここが一番それっぽい、フリーメイスンリー関連ぽいんですが、どうもそれも色々あるようで、米軍か自衛隊のチヌークCH-47が上をちょうど通っていったりと何やら複雑な横須賀のイベントです。(チヌークは自衛隊でしょうかね。)
この前にはすぐ隣でジャズをやっていたようなのでそっちも気になったのですが、色々動画のキャパシティーの問題もありヘリなども気になり次の会場に移動しました。
これはメイン会場でやっていたアイドルグループの公演です。どうも某宗教団体の関連を思わせる事務所の親衛隊が付きっきりのようで、かなり異様な雰囲気でしたがわずかに来ていたアメリカ人には興味深いようでした。まあ親衛隊というのも給料とまでは行かなくとも何らかの特典や実費が出たりしているのでしょうね。
これは観音崎フェスタの際のみ運行されている観音崎灯台クルーズです。普段は猿島航路や汐入の軍港巡りを行っているトライアングルの船で運航されています。以前は猿島~観音崎航路もあったのですが、人気が無く中止となっていましたが、最近はまた猿島や軍港巡りが取り上げられる機会が増えたため観音崎浦賀間などでの航路の復活を考えているようでした。浦賀は旧住友造船のドックもあり、今後の運用がまだ決まっていないようで、横須賀市との関係も色々あるようです。明治期の産業文化遺産で九州の軍艦島などが世界遺産となるなどの関連もあるかと思います。久里浜の東京湾航路もやはり人気が無いようですが、黒船来航の土地であり、何らかのクルーズの形の観光や啓蒙のものは残しておきたいのかと思われます。解説は今回は全部音楽で消去しましたが、まあちょっと軍港巡りもそうですがアメリカ軍の圧倒的な力を見せるにはそういう日本びいきのような解説もいいのかと思いますが、開港や灯台建設の話などもう少し込み入った歴史の話についてはもう少し歴史に興味があるような方の解説が良いのではないかと思われました。三浦按針についても大河ドラマの話もあるようですが、やはり開国にまつわる話は日本の歴史話の主要なテーマでもあり、人々の注目も高いことから、もう少し色々内容を増やして膨らまして巡ると、より良いものとなるのかと思われました。私もガリバーファンタジーの方のホームページでカトリックと三浦按針でのキリストの水渡りの実演が浦賀で行われたなどは初めて知った興味深い話であり、東浦賀の隠れキリシタンの話など様々に聞いてはいましたが、なかなか話が繋がる面白いものであり、走水なども合わせて久里浜辺りまでそういう話をまとめると観光資源としては相当な価値があるのではないかと思われました。
ボストンレッドソックスの優勝パレードで水陸両用車の運行などもやっていましたが、ああいうのも一つの試みなのだと思われます。一泊二日や日帰りでも水陸両用車でも使って三浦半島一周ツアーで開国や軍港巡りを全て行えるとあればなかなかの充実したものとなりそうではないでしょうか。また汐入にもフランス洋館の再建や軍港記念館の構想などもあるという事で、ダ・ヴィンチ・コードではないですが、そうしたものをひとまとめにパッケージにして回れるとその後にもう一度来たいというリピーターやさらに詳しく調べたいとかそういう人が増える事かと思われます。
このブログもそういう意味での一助になればと思ってやっているわけですが、現在世界中で観光に関しては熾烈な都市間競争の時代であり、鎌倉の世界遺産申請の話などもありますが、東京湾は今後東京オリンピックも予定されており、自然環境の悪化は言われてはいますがまだまだ様々な要素がある恵まれた土地だと思われました。伊豆大島の台風被害もありましたが、そうした事とも連携していくのではないかと思われます。
(そういえば野田首相の際の観艦式の様子を出していませんでしたね。そういうのもあるのかと思われます。)
でまあ私は横須賀ではお気に入りのイタリアンの観音崎博物館の隣のマテリアで食事をして、思ったより色々イベントがたくさんだなあと思いつつ目の前のサブサブ会場でやっていた音楽に聞き入ります。実際ここが一番それっぽい、フリーメイスンリー関連ぽいんですが、どうもそれも色々あるようで、米軍か自衛隊のチヌークCH-47が上をちょうど通っていったりと何やら複雑な横須賀のイベントです。(チヌークは自衛隊でしょうかね。)
この前にはすぐ隣でジャズをやっていたようなのでそっちも気になったのですが、色々動画のキャパシティーの問題もありヘリなども気になり次の会場に移動しました。
これはメイン会場でやっていたアイドルグループの公演です。どうも某宗教団体の関連を思わせる事務所の親衛隊が付きっきりのようで、かなり異様な雰囲気でしたがわずかに来ていたアメリカ人には興味深いようでした。まあ親衛隊というのも給料とまでは行かなくとも何らかの特典や実費が出たりしているのでしょうね。
これは観音崎フェスタの際のみ運行されている観音崎灯台クルーズです。普段は猿島航路や汐入の軍港巡りを行っているトライアングルの船で運航されています。以前は猿島~観音崎航路もあったのですが、人気が無く中止となっていましたが、最近はまた猿島や軍港巡りが取り上げられる機会が増えたため観音崎浦賀間などでの航路の復活を考えているようでした。浦賀は旧住友造船のドックもあり、今後の運用がまだ決まっていないようで、横須賀市との関係も色々あるようです。明治期の産業文化遺産で九州の軍艦島などが世界遺産となるなどの関連もあるかと思います。久里浜の東京湾航路もやはり人気が無いようですが、黒船来航の土地であり、何らかのクルーズの形の観光や啓蒙のものは残しておきたいのかと思われます。解説は今回は全部音楽で消去しましたが、まあちょっと軍港巡りもそうですがアメリカ軍の圧倒的な力を見せるにはそういう日本びいきのような解説もいいのかと思いますが、開港や灯台建設の話などもう少し込み入った歴史の話についてはもう少し歴史に興味があるような方の解説が良いのではないかと思われました。三浦按針についても大河ドラマの話もあるようですが、やはり開国にまつわる話は日本の歴史話の主要なテーマでもあり、人々の注目も高いことから、もう少し色々内容を増やして膨らまして巡ると、より良いものとなるのかと思われました。私もガリバーファンタジーの方のホームページでカトリックと三浦按針でのキリストの水渡りの実演が浦賀で行われたなどは初めて知った興味深い話であり、東浦賀の隠れキリシタンの話など様々に聞いてはいましたが、なかなか話が繋がる面白いものであり、走水なども合わせて久里浜辺りまでそういう話をまとめると観光資源としては相当な価値があるのではないかと思われました。
ボストンレッドソックスの優勝パレードで水陸両用車の運行などもやっていましたが、ああいうのも一つの試みなのだと思われます。一泊二日や日帰りでも水陸両用車でも使って三浦半島一周ツアーで開国や軍港巡りを全て行えるとあればなかなかの充実したものとなりそうではないでしょうか。また汐入にもフランス洋館の再建や軍港記念館の構想などもあるという事で、ダ・ヴィンチ・コードではないですが、そうしたものをひとまとめにパッケージにして回れるとその後にもう一度来たいというリピーターやさらに詳しく調べたいとかそういう人が増える事かと思われます。
このブログもそういう意味での一助になればと思ってやっているわけですが、現在世界中で観光に関しては熾烈な都市間競争の時代であり、鎌倉の世界遺産申請の話などもありますが、東京湾は今後東京オリンピックも予定されており、自然環境の悪化は言われてはいますがまだまだ様々な要素がある恵まれた土地だと思われました。伊豆大島の台風被害もありましたが、そうした事とも連携していくのではないかと思われます。
(そういえば野田首相の際の観艦式の様子を出していませんでしたね。そういうのもあるのかと思われます。)
まあなんというか浦賀とか観音崎とか金沢区とかすごいローカルな話なんですが、どうも横浜、横須賀のフリーメイスンリーにとってはそういう非常にローカルな話は欠かせない話のようで、まあそもそもそういう横須賀や横浜出身者でフリーメイスンがどれだけ居たのって話になるわけですが、実際横浜出身者ではっきりしている最初のフリーメイスンは有名なブラザーミヤガワ・ヒラム・ヒロシではないかと思われます。ブラザーミヤガワはFar East Lodge No.1のホームページにも、檀原照和さんのホームページにも書かれている最初に日本語で儀式を行った方という事ですが、戦中もロッジが閉鎖になっている間もロッジのフリーメイスンリーの道具や書類を憲兵隊から守ったという方で、本当に横浜の現在の石川町辺りのローカルな方であったようです。

まあこのブログはそういう直接的なロッジの活動に関しての秘密ではない訳ですが、主にフリーメイスンリーのシンボルやキリスト教・ユダヤ教関連の秘密という事になるかと思われますが、そういう話の方がより身近なロータリークラブや、ライオンズクラブの活動とも関わって来るような、住人の方がフリーメイスンリーやそういう友愛団体というものが理解しやすいような内容となっているかと思います。
というわけでまあ私の地元大船観音の話ではないですが、金沢区も後々書くつもりの出身大学でもある横浜市立大学医学部との関係で10年近く居住していたので、大体のことは分かっていたつもりですが、フリーメイスンリーのシンボルについて初めて理解したのはもちろん金沢区で最も有名な八景島のピラミッドであったわけで、その横でほぼ毎日通っていた横浜市大医学部がソロモン宮殿の意味であったとはつゆほど考えもしなかったわけです。もちろん私が通っている間にカメリア(椿)ホールと言っていた医学部の講堂がブラザー林董の先生であったヘボンホールに名前が変わったり、学長が後にテンプル大学の学長になるブルース・ストロナク学長となったりと、恐らく彼もフリーメイスンと思われますが、私もなんとか色々ありながらもこの学長の元で卒業させてもらうなど色々あったわけですが、そういう様々な変化も身近で体験してきたのがこの金沢区でもありました。

金沢区のシンボルマークは青地のカモメのようです。
金沢区でロータリークラブの存在を感じるのは唯一金沢文庫駅の西口のロータリー周辺に看板などで認めるのみであったかと思います。(金沢区のロータリークラブ、ライオンズクラブも検索で出てきます。それぞれ産業振興センターや金沢八景駅前、能見台駅前が集会場所のようです。)前回の鎌倉の世界遺産申請の際にはなぜか朝比奈切り通しから称名寺までが鎌倉と一体で申請されていて、私はこの辺りを色々歩きまわった経験があるので大丈夫かなあと思っていましたが、案の定というか残念ながらというか落選となり、今後の動向が気になるところでもありますが、鎌倉に続いて芸能人ネタとしては、東北大学工学部建築学科卒業のオフコースのボーカルであった小田和正さんの実家の薬局が金沢文庫の前のすずらん通りにあるのが地元では有名であり、私は洗剤くらいしか買ったことありませんでしたが、最近近くに行くと二階がモダンな紅茶屋さんという感じの喫茶店になったようで、少し最近の観光地の傾向を取り入れたような雰囲気があって今後の展開がまた気になるところでもあります。(写真をお借りしたブログによると元々元町商店街で開いていた喫茶店友and愛が閉店後に移転してきたようです。色々経緯がありそうです。小田和正さんの会社はFar East Clubというそうで同名のアルバムもあったかと思いますが、Far East Lodgeとも縁がありそうです。聖光学院出身という事でフランス系のカトリックという事ですが、同じカトリックのイエズス会系の栄光学園と同じく有名国公立私立大学に多数卒業生を輩出していますが、根岸森林公園の近くでFar East Lodge No.1が2002年からある山手駅の近くから歩いてすぐのところなのですね。)


まあ私としては金沢区の観光地のお勧めはまさに上述した朝比奈切り通しから大道、称名寺へと続く鎌倉時代の街道ではありますが、その他にはもちろん上述の横浜市と西武グループの開発による八景島シーパラダイスであり、最近は地元漁協の協力による生簀での釣りや小柴漁港における季節限定のバーベキュー小屋のようなものもできているようでこれらもお勧めだと思われます。(小柴にはほとんど漁師さんしか来ないような海水を使った入浴施設もあります。誰でも利用可能ですが、まあ外から人が来るのはめったに見たことありません。)アメリカ方式の大型スーパーマーケットのコストコ等もありますが、当時のこの幸浦、福浦地域の埋め立て事業はみなとみらい地区と同様に後に社会党委員長となる飛鳥田一雄市長時代に決められたという事で、三菱重工の工場のシンボルとなる三菱マークの風車のシンボルも最近できたりしていますが、その他にはゴミ処理場とシーサイドライン位の極めてシンプルであまり特徴のない感じの近代的な構成となっているかと思われます。
明らかにフリーメイスンリーのシンボルと思われるのは何度もあげている八景島のピラミッドとそれに対応したオベリスクのような展望塔があるのみで、埋立地の方はそういう雰囲気が無いわけですが、かつては小柴のあたりには米軍の弾薬庫があった関係で未だに一部土地が使われずに残ったりしている部分もあったりしますが、まあ基本的には小泉又次郎さんの出身地であり、小泉家の菩提寺もある大道周辺は、小泉又次郎さんの記念碑もあり、横須賀地域との関係性が横浜の中でも最も強い地域であり、伊藤博文の愛人が経営していたという料亭と並んであって小泉又次郎さんが晩年を過ごしたという、現在まで残る料亭千代本等もありますが、プロテスタント系の関東学院もぎりぎり金沢区に存在し、その近くには数多く教会もあり、カトリックのヨゼフ教会などもあり、まあ明らかに横浜の中では横須賀と並んで開港と戦後のアメリカの影響の中でフリーメイスンリー、キリスト教の影響が感じられる土地ではないかと思われます。(そういえば最近も追浜のかなり歴史のある雷神社の目の前に関東学院の関連のキリスト教関連施設ができたようです。その後追浜でハロウィンが盛大に行われたり、花火大会が豪華になったりと色々あるようです。ヨゼフ病院のような神社と寺とキリスト教の重ね合わせのような事かと思われます。)






まあちょっと話がローカルすぎて、フリーメイスンリーとどう関係あるのというところなのだと思いますが、一応以前汐入の話で当てた気になっていますので、今回も話としてはそれとほとんど同じ話です。
また名前のダジャレですね。そうです金沢区です。金沢八景、金沢文庫の名前からとられた金沢区ですが、どうも神奈川県と「かな」の部分が一緒ですね。またまたローマ字にするとKANAです。地元では神奈中バスが思い浮かぶでしょうか。
もちろんフリーメイスンリーではKANAといえばカナン、英語ではCanaanと表記するそうですが、約束の地カナンですね。シオンとほぼ一緒です。もちろん観音崎のカンノンとも共通する響きでしょうか。旭日大綬章を受章した前経団連会長の会社もCanonでほぼ一緒です。森元首相の出身地の県庁所在地も石川県金沢市です。そんな馬鹿なというなかれ、聖書にはそう書いてあるのです。まあ何でもかんでも約束の地では申し訳ありませんが、全くの異文化に触れた際に道しるべとなるのが言葉のみであり、その時に音が似ている場所や名前だけを頼りとしたり、現在もそのまま続いているというのがまあフリーメイスンリーというかユダヤ教なのですね。
それでそれにプラスして先ほどの小柴や柴町ですが、こちらも私は住んでいたりしたのですがもちろん東京タワーの建つ横の芝公園と同じくシバの女王と同音となります。カナンとシバ、これは旧約聖書では必須の単語となります。さらにこの辺りの有名な神社と言えば瀬戸神社という事で、これは聖書にもアベルとカインとセトの兄弟という事で、エジプト神話でもジャッカルや土豚の顔をしたセト神としてイシス、オシリス、ホルスとともに有名な神であるわけですが、その名前の神社が信仰の対象という事で、こういうのがあると何となく小泉又次郎さんの命名したと思われる三春町に繋がる伝説の人生もこうして色々と繋がって来るのかなというところでしょうか。(瀬戸の花嫁なんてありますが、まあクリスチャンでない日本人は通常は関連を思いませんね。)(金沢だとカナンは良いとして下のザワは何になるのと思う人もいるかと思います。ザウアーだとドイツ語のザウアークラフトが有名で、酢漬けの意味になりますが、まあシンボルなんで上だけの意味で良いのだと思われます。同様に横須賀でスカの意味はなかなか厳しいですが、York Skyと多少いじればなんとかなるかと思います。神奈川もガウアーというとドイツ系の名前であるようですが、まあこれもやはり無理やり意味はないかと思います。シンボルは受け手へのインパクト重視なんですね。)





まあ悪い冗談の連続のような話ですが、それもこれもいわゆる聖書でフリーメイスンリーで開くように指定されているページ、ヨハネ福音書の冒頭の
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」
があるからであり、内容からはすでに指摘した通り洗礼者ヨハネが実在して洗礼を初めて行った人物でありながら危険人物とみなされてすぐに殺されてしまって、その後ローマ帝国によって滅亡に追い込まれるユダヤ王国での後のディアスポラ離散に繋がる政治的な判断ミスを嘆くような内容でもあるわけですが、いずれにしても言葉に重きを置くユダヤ教、フリーメイスンリーの根本的な判断基準となる言葉の基本となる単語の音の近似や掛け言葉のようなものは、日猶同祖論ではないですが、今日まで繋がるフリーメイスンリーの判断基準の一つである事は間違いないのかと思われました。
上記の部分はまた後のカトリックの三位一体説の中心となる部分でもあるかと思われます。すなわち論理学の基本となる文章でもあるのかなと考えられるかと思います。
推測ですが、恐らく明治期にこれらの日本語と聖書の名前の近似やシンボリズムを判断していたのは旧約聖書を最初に日本語訳したという佐賀県で教鞭をとったオランダから来た改宗ユダヤ人のブラザーフルベッキが中心にしていたのではないかと思われます。その後は戦後は恐らくアメリカ軍と行動を共にしたアメリカ軍専従のラビかイエズス会のヘブライ語やギリシア語、ラテン語に精通した宣教師ではないかと思われます。フリーメイスンリーの基本的知識にエジプトの神聖文字やヘブライ語、ギリシア語、ラテン語、英語の基礎は必須になって来るのかと思われます。
いずれまたブラザーフルベッキについても青山霊園のオベリスクの墓や青山霊園のその他のフリーメイスンリー関連の方の話など機会があれば書こうかと思っています。

さて色々ローカルな話題からエッセンスまで行き着くわけですが納得されたでしょうか。
余談ですが横浜、横須賀でヨークライトのヨーク伝説という、テンプル騎士団伝説と双璧をなすフリーメイスンリーの発祥伝説のスコティッシュライトと並ぶヨークライトのヨーク部分との関連は以前に触れたところですが、横浜市では洋光台というまた微妙にシンボリズムを踏襲している地名があります。これも英語にするとYork or dieとなり極めて不吉な文章となるのですがまあ、これは極めて余談の話となります。
フリーメイスンリーではキリスト教とユダヤ教に関する知識は必須という事になるのでしょうね。宗教的寛容もなかなか厳しいものです。
直近で台風が近づいた際に川合玉堂の別宅が火災で焼けたなどあったかと思います。私は訪問した事はありませんでしたが、恐らく金沢区で残る日本建築の旧家の貴重なものであったのではないでしょうか。再建するのかどうかわかりませんが、それ以前に大磯の吉田茂邸が火災にあって、現在修復してバラ園などとともにかなり綺麗になって公開される予定のようですし色々関連があるのかもしれません。様々な歴史のある場所もあるかと思い、その他には金沢区にはハイキングコースや赤井温泉という鎌倉時代より続く温泉などもあります。横須賀や鎌倉とセットで楽しめるのではないかと思います。横浜の方では三渓園や根岸森林公園なども開港の歴史と繋がるフリーメイスンリーとも関係が深い土地であります。様々に訪問されると開国開港の地を体感する事ができるのではないかと、非常な手前味噌ではありますがお勧めします。
汐入と同じく反響は大きなものとなると思われますが、まあ色々説得力はあるのかと思われます。ちなみに私は上記の千代本で一回食べたことがありますがなかなかの値段(夕食2万円)ではありますがいわゆる懐石料理として今話題の和食としては最高級の素材と調理であったと思います。翌日におしっこがダシの匂いがするような強烈な元気が出る料理でありました。まあ戦時中に晩年の小泉又次郎さんが逗留したという事でなんとも複雑な気持ちにはなりますが、現在も細々と営業中かと思われますので、機会があれば利用してみてください。横須賀には山本五十六司令長官が常連であったという料亭小松もありますが、こちらはわたしは利用したことが無いのでなんとも言えません。こうした記事を今更ながら書くのもあれなのですが、小泉純一郎さんも含めて様々な情勢が変化しているためだと思われます。
その他紹介しきれませんでしたが野島公園でのベーべキューや展望台、以前も紹介した伊藤博文別邸や夕照橋からの富士山の夕景、海の公園での夏の花火や潮干狩り、金沢動物園などもあり富岡八幡宮などもあります。まあ私も全部行って知っているわけではありませんが、横須賀に劣らず色々歴史もあり発展を続けている場所だと思います。ぜひ横須賀や鎌倉と合わせて訪問してみてください。

まあこのブログはそういう直接的なロッジの活動に関しての秘密ではない訳ですが、主にフリーメイスンリーのシンボルやキリスト教・ユダヤ教関連の秘密という事になるかと思われますが、そういう話の方がより身近なロータリークラブや、ライオンズクラブの活動とも関わって来るような、住人の方がフリーメイスンリーやそういう友愛団体というものが理解しやすいような内容となっているかと思います。
というわけでまあ私の地元大船観音の話ではないですが、金沢区も後々書くつもりの出身大学でもある横浜市立大学医学部との関係で10年近く居住していたので、大体のことは分かっていたつもりですが、フリーメイスンリーのシンボルについて初めて理解したのはもちろん金沢区で最も有名な八景島のピラミッドであったわけで、その横でほぼ毎日通っていた横浜市大医学部がソロモン宮殿の意味であったとはつゆほど考えもしなかったわけです。もちろん私が通っている間にカメリア(椿)ホールと言っていた医学部の講堂がブラザー林董の先生であったヘボンホールに名前が変わったり、学長が後にテンプル大学の学長になるブルース・ストロナク学長となったりと、恐らく彼もフリーメイスンと思われますが、私もなんとか色々ありながらもこの学長の元で卒業させてもらうなど色々あったわけですが、そういう様々な変化も身近で体験してきたのがこの金沢区でもありました。

金沢区のシンボルマークは青地のカモメのようです。
金沢区でロータリークラブの存在を感じるのは唯一金沢文庫駅の西口のロータリー周辺に看板などで認めるのみであったかと思います。(金沢区のロータリークラブ、ライオンズクラブも検索で出てきます。それぞれ産業振興センターや金沢八景駅前、能見台駅前が集会場所のようです。)前回の鎌倉の世界遺産申請の際にはなぜか朝比奈切り通しから称名寺までが鎌倉と一体で申請されていて、私はこの辺りを色々歩きまわった経験があるので大丈夫かなあと思っていましたが、案の定というか残念ながらというか落選となり、今後の動向が気になるところでもありますが、鎌倉に続いて芸能人ネタとしては、東北大学工学部建築学科卒業のオフコースのボーカルであった小田和正さんの実家の薬局が金沢文庫の前のすずらん通りにあるのが地元では有名であり、私は洗剤くらいしか買ったことありませんでしたが、最近近くに行くと二階がモダンな紅茶屋さんという感じの喫茶店になったようで、少し最近の観光地の傾向を取り入れたような雰囲気があって今後の展開がまた気になるところでもあります。(写真をお借りしたブログによると元々元町商店街で開いていた喫茶店友and愛が閉店後に移転してきたようです。色々経緯がありそうです。小田和正さんの会社はFar East Clubというそうで同名のアルバムもあったかと思いますが、Far East Lodgeとも縁がありそうです。聖光学院出身という事でフランス系のカトリックという事ですが、同じカトリックのイエズス会系の栄光学園と同じく有名国公立私立大学に多数卒業生を輩出していますが、根岸森林公園の近くでFar East Lodge No.1が2002年からある山手駅の近くから歩いてすぐのところなのですね。)


まあ私としては金沢区の観光地のお勧めはまさに上述した朝比奈切り通しから大道、称名寺へと続く鎌倉時代の街道ではありますが、その他にはもちろん上述の横浜市と西武グループの開発による八景島シーパラダイスであり、最近は地元漁協の協力による生簀での釣りや小柴漁港における季節限定のバーベキュー小屋のようなものもできているようでこれらもお勧めだと思われます。(小柴にはほとんど漁師さんしか来ないような海水を使った入浴施設もあります。誰でも利用可能ですが、まあ外から人が来るのはめったに見たことありません。)アメリカ方式の大型スーパーマーケットのコストコ等もありますが、当時のこの幸浦、福浦地域の埋め立て事業はみなとみらい地区と同様に後に社会党委員長となる飛鳥田一雄市長時代に決められたという事で、三菱重工の工場のシンボルとなる三菱マークの風車のシンボルも最近できたりしていますが、その他にはゴミ処理場とシーサイドライン位の極めてシンプルであまり特徴のない感じの近代的な構成となっているかと思われます。
明らかにフリーメイスンリーのシンボルと思われるのは何度もあげている八景島のピラミッドとそれに対応したオベリスクのような展望塔があるのみで、埋立地の方はそういう雰囲気が無いわけですが、かつては小柴のあたりには米軍の弾薬庫があった関係で未だに一部土地が使われずに残ったりしている部分もあったりしますが、まあ基本的には小泉又次郎さんの出身地であり、小泉家の菩提寺もある大道周辺は、小泉又次郎さんの記念碑もあり、横須賀地域との関係性が横浜の中でも最も強い地域であり、伊藤博文の愛人が経営していたという料亭と並んであって小泉又次郎さんが晩年を過ごしたという、現在まで残る料亭千代本等もありますが、プロテスタント系の関東学院もぎりぎり金沢区に存在し、その近くには数多く教会もあり、カトリックのヨゼフ教会などもあり、まあ明らかに横浜の中では横須賀と並んで開港と戦後のアメリカの影響の中でフリーメイスンリー、キリスト教の影響が感じられる土地ではないかと思われます。(そういえば最近も追浜のかなり歴史のある雷神社の目の前に関東学院の関連のキリスト教関連施設ができたようです。その後追浜でハロウィンが盛大に行われたり、花火大会が豪華になったりと色々あるようです。ヨゼフ病院のような神社と寺とキリスト教の重ね合わせのような事かと思われます。)






まあちょっと話がローカルすぎて、フリーメイスンリーとどう関係あるのというところなのだと思いますが、一応以前汐入の話で当てた気になっていますので、今回も話としてはそれとほとんど同じ話です。
また名前のダジャレですね。そうです金沢区です。金沢八景、金沢文庫の名前からとられた金沢区ですが、どうも神奈川県と「かな」の部分が一緒ですね。またまたローマ字にするとKANAです。地元では神奈中バスが思い浮かぶでしょうか。
もちろんフリーメイスンリーではKANAといえばカナン、英語ではCanaanと表記するそうですが、約束の地カナンですね。シオンとほぼ一緒です。もちろん観音崎のカンノンとも共通する響きでしょうか。旭日大綬章を受章した前経団連会長の会社もCanonでほぼ一緒です。森元首相の出身地の県庁所在地も石川県金沢市です。そんな馬鹿なというなかれ、聖書にはそう書いてあるのです。まあ何でもかんでも約束の地では申し訳ありませんが、全くの異文化に触れた際に道しるべとなるのが言葉のみであり、その時に音が似ている場所や名前だけを頼りとしたり、現在もそのまま続いているというのがまあフリーメイスンリーというかユダヤ教なのですね。
それでそれにプラスして先ほどの小柴や柴町ですが、こちらも私は住んでいたりしたのですがもちろん東京タワーの建つ横の芝公園と同じくシバの女王と同音となります。カナンとシバ、これは旧約聖書では必須の単語となります。さらにこの辺りの有名な神社と言えば瀬戸神社という事で、これは聖書にもアベルとカインとセトの兄弟という事で、エジプト神話でもジャッカルや土豚の顔をしたセト神としてイシス、オシリス、ホルスとともに有名な神であるわけですが、その名前の神社が信仰の対象という事で、こういうのがあると何となく小泉又次郎さんの命名したと思われる三春町に繋がる伝説の人生もこうして色々と繋がって来るのかなというところでしょうか。(瀬戸の花嫁なんてありますが、まあクリスチャンでない日本人は通常は関連を思いませんね。)(金沢だとカナンは良いとして下のザワは何になるのと思う人もいるかと思います。ザウアーだとドイツ語のザウアークラフトが有名で、酢漬けの意味になりますが、まあシンボルなんで上だけの意味で良いのだと思われます。同様に横須賀でスカの意味はなかなか厳しいですが、York Skyと多少いじればなんとかなるかと思います。神奈川もガウアーというとドイツ系の名前であるようですが、まあこれもやはり無理やり意味はないかと思います。シンボルは受け手へのインパクト重視なんですね。)





まあ悪い冗談の連続のような話ですが、それもこれもいわゆる聖書でフリーメイスンリーで開くように指定されているページ、ヨハネ福音書の冒頭の
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」
があるからであり、内容からはすでに指摘した通り洗礼者ヨハネが実在して洗礼を初めて行った人物でありながら危険人物とみなされてすぐに殺されてしまって、その後ローマ帝国によって滅亡に追い込まれるユダヤ王国での後のディアスポラ離散に繋がる政治的な判断ミスを嘆くような内容でもあるわけですが、いずれにしても言葉に重きを置くユダヤ教、フリーメイスンリーの根本的な判断基準となる言葉の基本となる単語の音の近似や掛け言葉のようなものは、日猶同祖論ではないですが、今日まで繋がるフリーメイスンリーの判断基準の一つである事は間違いないのかと思われました。
上記の部分はまた後のカトリックの三位一体説の中心となる部分でもあるかと思われます。すなわち論理学の基本となる文章でもあるのかなと考えられるかと思います。
推測ですが、恐らく明治期にこれらの日本語と聖書の名前の近似やシンボリズムを判断していたのは旧約聖書を最初に日本語訳したという佐賀県で教鞭をとったオランダから来た改宗ユダヤ人のブラザーフルベッキが中心にしていたのではないかと思われます。その後は戦後は恐らくアメリカ軍と行動を共にしたアメリカ軍専従のラビかイエズス会のヘブライ語やギリシア語、ラテン語に精通した宣教師ではないかと思われます。フリーメイスンリーの基本的知識にエジプトの神聖文字やヘブライ語、ギリシア語、ラテン語、英語の基礎は必須になって来るのかと思われます。
いずれまたブラザーフルベッキについても青山霊園のオベリスクの墓や青山霊園のその他のフリーメイスンリー関連の方の話など機会があれば書こうかと思っています。

さて色々ローカルな話題からエッセンスまで行き着くわけですが納得されたでしょうか。
余談ですが横浜、横須賀でヨークライトのヨーク伝説という、テンプル騎士団伝説と双璧をなすフリーメイスンリーの発祥伝説のスコティッシュライトと並ぶヨークライトのヨーク部分との関連は以前に触れたところですが、横浜市では洋光台というまた微妙にシンボリズムを踏襲している地名があります。これも英語にするとYork or dieとなり極めて不吉な文章となるのですがまあ、これは極めて余談の話となります。
フリーメイスンリーではキリスト教とユダヤ教に関する知識は必須という事になるのでしょうね。宗教的寛容もなかなか厳しいものです。
直近で台風が近づいた際に川合玉堂の別宅が火災で焼けたなどあったかと思います。私は訪問した事はありませんでしたが、恐らく金沢区で残る日本建築の旧家の貴重なものであったのではないでしょうか。再建するのかどうかわかりませんが、それ以前に大磯の吉田茂邸が火災にあって、現在修復してバラ園などとともにかなり綺麗になって公開される予定のようですし色々関連があるのかもしれません。様々な歴史のある場所もあるかと思い、その他には金沢区にはハイキングコースや赤井温泉という鎌倉時代より続く温泉などもあります。横須賀や鎌倉とセットで楽しめるのではないかと思います。横浜の方では三渓園や根岸森林公園なども開港の歴史と繋がるフリーメイスンリーとも関係が深い土地であります。様々に訪問されると開国開港の地を体感する事ができるのではないかと、非常な手前味噌ではありますがお勧めします。
汐入と同じく反響は大きなものとなると思われますが、まあ色々説得力はあるのかと思われます。ちなみに私は上記の千代本で一回食べたことがありますがなかなかの値段(夕食2万円)ではありますがいわゆる懐石料理として今話題の和食としては最高級の素材と調理であったと思います。翌日におしっこがダシの匂いがするような強烈な元気が出る料理でありました。まあ戦時中に晩年の小泉又次郎さんが逗留したという事でなんとも複雑な気持ちにはなりますが、現在も細々と営業中かと思われますので、機会があれば利用してみてください。横須賀には山本五十六司令長官が常連であったという料亭小松もありますが、こちらはわたしは利用したことが無いのでなんとも言えません。こうした記事を今更ながら書くのもあれなのですが、小泉純一郎さんも含めて様々な情勢が変化しているためだと思われます。
その他紹介しきれませんでしたが野島公園でのベーべキューや展望台、以前も紹介した伊藤博文別邸や夕照橋からの富士山の夕景、海の公園での夏の花火や潮干狩り、金沢動物園などもあり富岡八幡宮などもあります。まあ私も全部行って知っているわけではありませんが、横須賀に劣らず色々歴史もあり発展を続けている場所だと思います。ぜひ横須賀や鎌倉と合わせて訪問してみてください。
アメリカの州章はなかなか実際には難しいテーマではありますが、ここまで回数を重ねてくると段々と形が定まってきて比較的安定的なネタとなっているところであるかもしれません。
まあ横須賀や横浜の地域の内容とアメリカの州それぞれの内容を同じレベルで扱ってしまうのもとてつもないものでもあるのですが、人口的には匹敵するところもありますし、いずれにしても日本人向けのブログでありますのでそういうところはしようが無いかなと思いますし、いかんせん私自身のアメリカの個別の州の知識がそれほどありませんので、フリーメイスンリーの多様性としては圧倒的にアメリカの州が上回るわけですが、期待されるほど深い内容となってないのは、ご勘弁願いたいところであります。
さて14回目という事で、アイウエオ順で行くとカリフォルニア州という事です。これは場所はほとんどの日本人が分かるかと思いますが、まあこの州は面積的に全米でアラスカ州、テキサス州についで三番目でほぼ日本の国土と同じかそれより北海道分大きいほどであり、人口的には3700万人で全米一位で二位のテキサス州とも1000万人以上の差がある状況だそうです。

元々スペインの領土であったという事で、米墨戦争の後に1850年9月9日に31番目の州となったそうで、ヒスパニック系の住民が多いのが特徴かと思われます。また日系移民を含めたアジア系の移民も多いかと思われます。日本人の観光客が訪問する州としては恐らくハワイやグアムに次いで多い場所だと思われます。
ロサンゼルス、サンフランシスコは観光地で有名と思いますし、最初のディズニーランドがロサンゼルス近郊にあり行かれたかたも多いかと思います。カリフォルニアの名前自体はスペイン人の冒険家の小説で描かれた黒人のアマゾネスが住む土地の名前からとられたそうです。州都は案外知られていないかもしれませんが、サクラメントという都市で、名前がそのままキリスト教の秘跡という、このブログではニコラ・プッサンの絵画シリーズで出てきた七つのキリスト教の神の恩恵にあずかる儀式の名前という事で、スペイン系のカトリック信仰に基づいたキリスト教を象徴する名前なのですね。その他のロサンゼルスにしても、スペイン語の天使の意味であり、またサンフランシスコも以前に市旗を出しましたが、フランシスコ会の修道士が聖フランシスコ、アッシジのフランチェスコを名前と付けたそうです。
カリフォルニアと言えばシリコンバレーという事で実際にはサンフランシスコのベイエリアになるそうですが、カリフォルニアに本拠地がある有名企業としてはアップル、アドビシステムズ、EBay、インテル、ウォルト・ディズニー・カンパニー、オラクル、GAP、キャロウェイゴルフ、Google、AMD、サン・マイクロシステムズ、シスコシステムズ、シマンテック、ヒューレット・パッカード、マカフィー、Yahoo!、リーバイスなどだそうで、まあ誰もが何かしら利用している企業だと思います。

















こうしてロゴを並べると、以前に商標に認めるフリーメイスンリーのシンボルで取り上げた企業もあったりしますが、その他についてはすべてがフリーメイスンリー関連というわけではないでしょうから色々想像するのも面白いのではないかと思います。
そういうわけでカリフォルニア州のGDPは国としてみると世界7-10位になるそうで、とてつもなく住人がお金持ちの州という事になるそうですが、州政府は前州知事のシュワルツネッガー州知事時代にはほぼ破産状態になったという事で、色々リベラルな気風という事でいわゆる日本人が想像するアメリカという感じであるようです。気候もアメリカ本土の中では特別に明るく過ごしやすい夏は乾燥した気候であり、ブドウ栽培に適した地中海性気候ということで、明るい気風の中でリベラルな環境を育み、大学などでもカリフォルニア大学やスタンフォード大学があり数多くのノーベル賞受賞者を輩出しています。宗教もそういう状況で無宗教が全米一多い割合であるようです。




左からカリフォルニア大学バークレー校、カリフォルニア大学ロサンゼルス校、スタンフォード大学、南カリフォルニア大学だそうです。写真も明るい感じです。

州議事堂も合衆国議事堂を模した形の非常に豪華な感じでしょうか。
カリフォルニアで忘れてはならないのがシリコンバレーと並んでフリーメイスンリー的にも重要なハリウッドの存在であり、いわゆるビッグ6とされる映画会社はフリーメイスンリーの象徴を取り込んだ映画の宝庫であり、アメリカやフリーメイスンリーについて世界に発信する基地ともいえる場所だと思われます。
それについて最近のフェイスブックでこんな写真がありました。




元ビートルズのサーポール・マッカートニーがハリウッドの中心のハリウッド大通りにあるハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの前にあるハリウッド・メイソニック・テンプルの上から手を振っている写真です。この場所で毎回収録されているテレビ番組のジミー・キンメル・ライブに出演するために撮ったようですが、まあそのジミー・キンメルさんがフリーメイスンなのでしょうね。サーポール・マッカートニーはほぼフリーメイスンに近い存在という事なのだと思われます。(2013/11/17追記:亡くなった奥さんのリンダ・マッカートニーがカリフォルニア州出身でユダヤ系の弁護士の娘であったそうです。乳がんで亡くなったそうですが、ポール・マッカートニーとは二度目の結婚で、ポール・マッカートニーが再婚を発表した翌日に最初の夫が自殺したそうです。)

その他カリフォルニアは西海岸のサーフィンや世界一の巨木であるセコイアの木がある自然や、やはり性的におおらかであるという事でAIDS発見の地であるという事も付け加えておきます。一世代前ではロサンゼルスと言えばロス疑惑という事で最近グアム島で中心の方は亡くなられましたが記憶に鮮明であるかと思います。
というわけでほぼ日本に匹敵する州の州章だけを取り扱って語るのはなんとも相当足りないので、とりあえず大都市であるロサンゼルスの群章とサンディエゴとサンフランシスコの市章だけは見ておくこととします。




まあ突然群章、市章というのもこの州章シリーズでは初めてのパターンなわけですが、カリフォルニア州章についても英語版ウィキペディアはかつてないほど詳細で長いものとなっていますので、とりあえず周辺の群章、市章から触れていくこととします。左二つはロサンゼルス郡章の古いものと新しいものですが、カリフォルニア州章の項目で噂として十字架が無くなったというものがあるという事で、それがロサンゼルス群章についてであるという事で挙げられていました。中心がローマ神話の女神ポーモーナからネイティブアメリカンの女性に変えられたようですが、それより何より明らかに直角定規とコンパスが左上に挙げられているのがなんともいやはやという感じでしょうか。解説によるとコンパスではなくカリパスというものの大きさをはかる道具のようですが、まあ明らかにコンパスに近いものという事で描かれているのでしょう。虹のように見えるのはハリウッドボウルという円形会場の形だそうですが、明らかに虹のシンボルと思われます。その下は明らかにソロモン宮殿のようですが、修道院という事です。かつてのものはオベリスクの象徴のような油井です。牛と魚と船はそれぞれ異教やキリスト教のシンボルということになるのだと思われます。という形のなんともシンボリズムづくしの群章がわざわざ挙げられていて、まあ誇りなのでしょうね。この中央の女性が抱える大鉢の器もフリーメイスンリーではあまり描かれる事はありませんが、パーティーなどでカクテルジュースを作る大碗として友愛の象徴とされるシンボルであり、これはカリフォルニアの州章にも認められるのでそれを強調しているのだと思われます。
右のサンディエゴの市章もウィキペディアの解説が無いので詳しくは分かりませんが、一見してヤキンとボアズの柱であり、自由の鐘であり、船と、羽のついた車輪がちょっと面白いですがこれはアテネの象徴でもあるそうで、ギリシア神話のメルクリウス、マーキュリー、水星の象徴となるそうです。ヘルメスと同一視されるそうで、おそらくここではサンディエゴは海軍基地の町であるとともにUCLAサンディエゴ校や医薬品の製造などの会社もあるという事で、医学や科学、錬金術の象徴とされるのだと思われます。まあいずれにしてもシンボリズムとして凝ったものという事であるかと思われます。モットーはsemper vigilans always vigilantということで、常に用心深くという事だそうです。海軍の町なのでしょうね。
最後のサンフランシスコのものは以前も全国の市章 タウ十字のところで出したりしたのですが、聖フランシスコ修道会の修道士が名付けた街という事で、州旗のタウ十字の象徴は良いのかと思いますが、鷲ではなくキリストの復活の象徴であるフェニックスですね。紋章の左右に立つのは鉱夫と船員でスコップと鋤と六分儀と碇と船と光明の象徴が描かれています。モットーはOro en paz, fierro en guerra Gold in peace, iron in warだそうです。ゴールドラッシュの地であることも関係しているのでしょうね。
さてまあ話が大分脱線した感じですが、州章の話の流れという事で、カリフォルニアのフリーメイスンリーの事です。なんとグランドロッジが22あるそうです。どうにも想像できない状況ですが、フリーメイスンの人数は77000人位という事で、人口比でいくと500人に一人くらいという事になるのですが、上記の状況なので明らかにフリーメイスンリーは盛んと言う事なのでしょうね。ITと映画の世界の中心地であり、世界のフリーメイスンリーのメディアの中心地である事は間違いないかと思われます。カリフォルニアフリーメイスンリーのグランドロッジのホームページがこちらにあり、ここには関連の施設として老人ホームやコンサートホールのリンクもあり、やはり相当お金持ちの州の余裕のあるフリーメイスンリーという感じのようです。様々なリンクがあり、内容も充実しています。プリンスホールフリーメイスンリーのホームページもこちらにありました。プリンスホールフリーメイスンリーもそれなりに盛んなようです。
カリフォルニアグランドロッジは日本グランドロッジともフィリピングランドロッジの認証関係を挟んで歴史的な認証関係で強い関係があり、さらに遡るとミズーリとコネチカットとニュージャージーとワシントンD.C.があり、さらに遡るとミズーリ→テネシー→バージニア→イングランド、コネチカット→マサチューセッツ→イングランド、ニュージャージー→バージニア→イングランド、ワシントンD.C.→バージニア→イングランドとこの四系統がアメリカ合衆国の州のグランドロッジでイングランドグランドロッジの認証に繋がるそうです。まあ相互認証関係という事で平等な関係なんですが、こういう歴史的な認証の経過というのはその後のグランドロッジ間の関係やフリーメイスンの認証においても常に微妙な影響を与え続けるのですね。バージニア、マサチューセッツに関してはスコットランドの認証も受けており、バージニアはアイルランドの認証も受けています。もうなんだか分からないかもしれませんが、こういうのがフリーメイスンリーの深層でもあるのですね。
カリフォルニアのフリーメイスンリーの関連施設のウィキペディアの解説がありましたのでリンクしておきます。


スコティッシュライトカセドラルやノブヒルメイソニックホールという豪華な建築や一般に開放されているホールがあるようです。ノブヒルメイソニックホールはゴールドラッシュでカリフォルニアに来た最初のフリーメイスンがロッジを建築した場所のようです。
さてしかし長くなりましたが州章について触れていきます。

一見して女神がミネルヴァであるというのが分かるかと思います。ミネルヴァはローマ神話の女神で、ギリシア神話のアテネに対応する知恵と戦争の女神であり、フクロウと共に描かれることが多いそうです。いわゆる異教の神の信仰の象徴であり、自由の女神に対応するものかと思われます。MinervaのつづりのMとフクロウの対応もこの辺りにもあるのかと思われます。楯にはメデューサが描かれているそうですが、そもそものミネルヴァにはそのような記述は無いので、現在のものではいわゆる悪魔のようにも見え、かつてはブラザーワシントンの顔に描かれたこともあるそうで、いわゆる反キリストの異教の象徴なんだと思われます。


クマの象徴性というのはいわゆるテディベアに象徴されるわけですが、鷲などと一緒で生態系の頂点という存在なのかと考えられます。蛇なども良く動物として知恵の象徴であったりしますが、これらもやはり生態系の観察から生まれたシンボリズムであるかと思われます。カリフォルニアグリズリーベアという事で自然の象徴という意味もあるのかと思われます。フリーメイスンリー的にはやはりテディベアに象徴されるリーダーとしての鷲などと同じ生態系の頂点の意味なのかと思われます。ワインの原材料となるブドウの葉と麦藁が倒れている状態なのはやはりそういうキリスト教のシンボルとユダヤ教のシンボルの微妙な関係を示していると思われます。ロサンゼルスの群章の十字架の話とも関係する話ではないかと思われます。ブドウの実ではない所もシンボリズムとして凝っています。問題はその上の部分の鉱夫の周辺のシンボルになるかと思います。これが良く分かるようにウィキペディアにある古いものや対照となるものを参照します。




古い白黒のものが最もシンボリズム的にははっきりしているような印象でしょうか。鉱夫が穴を掘っている図ですが、横に二段重ねになった箱がありどうも印象としては鉱夫というよりは墓掘りをしているような横にあるのは棺桶のような印象でしょうか。もちろんフリーメイスンリー的にはメメントモリ、常に死を思えの象徴なのだと思われます。聖櫃アークの象徴ともかかっているのかもしれませんが、恐らく棺桶と墓穴の象徴として描かれたのだと思われます。スコップと鶴嘴もヨークライトで用いられる州章でも好まれるシンボルであり、自己の修練をそういう掘削の作業に例えたシンボリズムです。かつてのものを見ると以前はブドウの実もあったようです。実は実が無くなっていったりと州章も変化しているのですね。これはシンボリズムのダイナミズムという事で非常に興味深いですね。実はそういうマイナーチェンジはあるのが非常にフリーメイスンリーの盛んなカリフォルニア州のシンボリズムでもあると、この辺りは日本人も理解しやすいところかもしれません。厳密さと寛容さとの間でしょうか。一神教とフリーメイスンリーとは何かというところで日本人が興味深い所かもしれません。
後は船のシンボリズムと、船の種類や数と、岬の建築物などの存在が消えたりしているところでしょうか。これはウィキペディアでも記事として長々と書かれたりしていますが、恐らくあまり意味が無いようです。恐らく自由の象徴性を示しているのでしょうね。この辺りもフリーメイスンリーの示す自由のシンボリズムでの実際かもしれません。様々な方向を向いているのもそういう象徴でしょうし、帆船の種類や蒸気船であったりなかったりするのもそういう象徴のようです。岬の建築はウィキペディアによるとサンフランシスコ湾の実際の建物のようです。まあこのブログ的にいくとセント・アンドルーズ城かセント・アンドルーズ聖堂でしょうか。色々注目を集めたり議論するのはシンボリズム的には有意義な事なのだと思われます。
EUREKAはアルキメデスが浮力の原理について閃いたときに分かったぞと叫んだというので有名かと思います。シンボリズムについて理解した際に頭の中にまさにEUREKAの閃きがあるようなそういう自由と閃きの象徴なのかと思われます。31個の星は31番目の州という事で良いのかと思います。31という数字も素数でかなり特徴はあるようです。


ウィキペディアにはその他にはゴールデンゲートブリッジを描いた間違いのバージョンだとか、EUREKAをEYPHKAと書いたバージョンの間違いなどがあるそうです。後者はギリシア語で表現しているので言語的にはさらに正しい意味のようです。それぞれ意図的に作られたものかと思われます。

州旗は過激ですね。カリフォルニア共和国と書いてあります。カリフォルニア州になる前に、メキシコ支配下でアメリカ系住民が最初にカリフォルニア共和国を作った歴史があり、それを反映しているものかと思われます。南北戦争では基本的に奴隷解放側の北軍であったようですが、選挙結果などを見てもほぼ拮抗であり、上述のロサンゼルス郡などは南軍側を応援もしたようで、詳細はウィキペディアの項目を参照してください。やはり混乱の中でカリフォルニア独立共和国の発想もあったりしたようです。熊の名前はモナークと言ったそうで、君主の意味だそうです。
スコティッシュライトと南軍、アメリカ市民戦争、内戦という表現をされる南北戦争もそういう現在の黒人大統領に繋がる非常に重要なアメリカとフリーメイスンリーの歴史なのですね。カリフォルニアではその後に真珠湾攻撃後の日系人強制収容所や、戦後の黒人大暴動やサンフランシスコ大地震などもありました。赤の下線や赤い五芒星もそういうスコティッシュライトに繋がる意味もあるのかと思われます。なかなかテキサス州なども独立国と表現されることもあるようですが、太平洋を挟んで日本とも関わりの深いカリフォルニア州はユーラシア大陸を挟んだ地理的に対称なイギリスなどと同じく、日本にとって地理的にも、また最近ではGoogleなどのITの世界でも非常に重要であり続けるカリフォルニア州のシンボリズムはアラスカ州のシンボリズムなどとも共通して非常に日本にとっても興味深いものであるのではないでしょうか。
(2013/11/17追記:カリフォルニア州出身者について触れるのを忘れていました。ハリウッド俳優は非常に多いようです。フリーメイスンでは明らかなのはブラザージョージ・パットン大将とブラザージョー・ディマジオのようです。ブラザークラーク・ゲーブルはカリフォルニアのロッジに所属していたそうです。多くのハリウッドのフリーメイスンはカリフォルニアのロッジに所属しているものと考えられます。ブラザージョン・ウェインはアリゾナ州のロッジだそうです。カリフォルニア州出身でフリーメイスンリーに関連した映画に出演している俳優としてはこのブログでも取り上げた「ナショナル・トレジャー」シリーズに出演しているニコラス・ケイジや、「ダヴィンチ・コード」に出演し、「ロスト・シンボル」の映画化でも主演が予想されているトム・ハンクス、OSSやCIAの活動について精緻に描写した「グッド・シェパード」を主演したレオナルド・ディカプリオもカリフォルニア州出身だそうです。その他地元で市長を務めたりして最近戦争映画などの監督も盛んに行っていてレジオンドヌール勲章を受勲したクリント・イーストウッドや、性格俳優としては「卒業」のダスティン・ホフマンや「ミシシッピー・バーニング」のジーン・ハックマンがいます。MCハマーも確かフリーメイスンとされるのではないかと思いましたが、3月30日生まれで可能性は高いのかと思います。沖縄にもいたそうです。その他マリリン・モンローもカリフォルニア州出身だそうです。監督ではジョージ・ルーカスや最近では「アルマゲドン」のマイケル・ベイもカリフォルニア州出身だそうです。その他多くの男優や女優がカリフォルニア州出身だそうです。野球選手でも殿堂入りしている選手も何人もカリフォルニア州出身だそうです。ゴルフ選手ではタイガー・ウッズやポーラ・クリ―マーもカリフォルニア州出身だそうです。ニクソン大統領もカリフォルニア州出身だそうです。まあフリーメイスンとはなりえないでしょうね。カリフォルニア州出身者を参照してください。)
まあ横須賀や横浜の地域の内容とアメリカの州それぞれの内容を同じレベルで扱ってしまうのもとてつもないものでもあるのですが、人口的には匹敵するところもありますし、いずれにしても日本人向けのブログでありますのでそういうところはしようが無いかなと思いますし、いかんせん私自身のアメリカの個別の州の知識がそれほどありませんので、フリーメイスンリーの多様性としては圧倒的にアメリカの州が上回るわけですが、期待されるほど深い内容となってないのは、ご勘弁願いたいところであります。
さて14回目という事で、アイウエオ順で行くとカリフォルニア州という事です。これは場所はほとんどの日本人が分かるかと思いますが、まあこの州は面積的に全米でアラスカ州、テキサス州についで三番目でほぼ日本の国土と同じかそれより北海道分大きいほどであり、人口的には3700万人で全米一位で二位のテキサス州とも1000万人以上の差がある状況だそうです。

元々スペインの領土であったという事で、米墨戦争の後に1850年9月9日に31番目の州となったそうで、ヒスパニック系の住民が多いのが特徴かと思われます。また日系移民を含めたアジア系の移民も多いかと思われます。日本人の観光客が訪問する州としては恐らくハワイやグアムに次いで多い場所だと思われます。
ロサンゼルス、サンフランシスコは観光地で有名と思いますし、最初のディズニーランドがロサンゼルス近郊にあり行かれたかたも多いかと思います。カリフォルニアの名前自体はスペイン人の冒険家の小説で描かれた黒人のアマゾネスが住む土地の名前からとられたそうです。州都は案外知られていないかもしれませんが、サクラメントという都市で、名前がそのままキリスト教の秘跡という、このブログではニコラ・プッサンの絵画シリーズで出てきた七つのキリスト教の神の恩恵にあずかる儀式の名前という事で、スペイン系のカトリック信仰に基づいたキリスト教を象徴する名前なのですね。その他のロサンゼルスにしても、スペイン語の天使の意味であり、またサンフランシスコも以前に市旗を出しましたが、フランシスコ会の修道士が聖フランシスコ、アッシジのフランチェスコを名前と付けたそうです。
カリフォルニアと言えばシリコンバレーという事で実際にはサンフランシスコのベイエリアになるそうですが、カリフォルニアに本拠地がある有名企業としてはアップル、アドビシステムズ、EBay、インテル、ウォルト・ディズニー・カンパニー、オラクル、GAP、キャロウェイゴルフ、Google、AMD、サン・マイクロシステムズ、シスコシステムズ、シマンテック、ヒューレット・パッカード、マカフィー、Yahoo!、リーバイスなどだそうで、まあ誰もが何かしら利用している企業だと思います。

















こうしてロゴを並べると、以前に商標に認めるフリーメイスンリーのシンボルで取り上げた企業もあったりしますが、その他についてはすべてがフリーメイスンリー関連というわけではないでしょうから色々想像するのも面白いのではないかと思います。
そういうわけでカリフォルニア州のGDPは国としてみると世界7-10位になるそうで、とてつもなく住人がお金持ちの州という事になるそうですが、州政府は前州知事のシュワルツネッガー州知事時代にはほぼ破産状態になったという事で、色々リベラルな気風という事でいわゆる日本人が想像するアメリカという感じであるようです。気候もアメリカ本土の中では特別に明るく過ごしやすい夏は乾燥した気候であり、ブドウ栽培に適した地中海性気候ということで、明るい気風の中でリベラルな環境を育み、大学などでもカリフォルニア大学やスタンフォード大学があり数多くのノーベル賞受賞者を輩出しています。宗教もそういう状況で無宗教が全米一多い割合であるようです。




左からカリフォルニア大学バークレー校、カリフォルニア大学ロサンゼルス校、スタンフォード大学、南カリフォルニア大学だそうです。写真も明るい感じです。

州議事堂も合衆国議事堂を模した形の非常に豪華な感じでしょうか。
カリフォルニアで忘れてはならないのがシリコンバレーと並んでフリーメイスンリー的にも重要なハリウッドの存在であり、いわゆるビッグ6とされる映画会社はフリーメイスンリーの象徴を取り込んだ映画の宝庫であり、アメリカやフリーメイスンリーについて世界に発信する基地ともいえる場所だと思われます。
それについて最近のフェイスブックでこんな写真がありました。




元ビートルズのサーポール・マッカートニーがハリウッドの中心のハリウッド大通りにあるハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの前にあるハリウッド・メイソニック・テンプルの上から手を振っている写真です。この場所で毎回収録されているテレビ番組のジミー・キンメル・ライブに出演するために撮ったようですが、まあそのジミー・キンメルさんがフリーメイスンなのでしょうね。サーポール・マッカートニーはほぼフリーメイスンに近い存在という事なのだと思われます。(2013/11/17追記:亡くなった奥さんのリンダ・マッカートニーがカリフォルニア州出身でユダヤ系の弁護士の娘であったそうです。乳がんで亡くなったそうですが、ポール・マッカートニーとは二度目の結婚で、ポール・マッカートニーが再婚を発表した翌日に最初の夫が自殺したそうです。)

その他カリフォルニアは西海岸のサーフィンや世界一の巨木であるセコイアの木がある自然や、やはり性的におおらかであるという事でAIDS発見の地であるという事も付け加えておきます。一世代前ではロサンゼルスと言えばロス疑惑という事で最近グアム島で中心の方は亡くなられましたが記憶に鮮明であるかと思います。
というわけでほぼ日本に匹敵する州の州章だけを取り扱って語るのはなんとも相当足りないので、とりあえず大都市であるロサンゼルスの群章とサンディエゴとサンフランシスコの市章だけは見ておくこととします。




まあ突然群章、市章というのもこの州章シリーズでは初めてのパターンなわけですが、カリフォルニア州章についても英語版ウィキペディアはかつてないほど詳細で長いものとなっていますので、とりあえず周辺の群章、市章から触れていくこととします。左二つはロサンゼルス郡章の古いものと新しいものですが、カリフォルニア州章の項目で噂として十字架が無くなったというものがあるという事で、それがロサンゼルス群章についてであるという事で挙げられていました。中心がローマ神話の女神ポーモーナからネイティブアメリカンの女性に変えられたようですが、それより何より明らかに直角定規とコンパスが左上に挙げられているのがなんともいやはやという感じでしょうか。解説によるとコンパスではなくカリパスというものの大きさをはかる道具のようですが、まあ明らかにコンパスに近いものという事で描かれているのでしょう。虹のように見えるのはハリウッドボウルという円形会場の形だそうですが、明らかに虹のシンボルと思われます。その下は明らかにソロモン宮殿のようですが、修道院という事です。かつてのものはオベリスクの象徴のような油井です。牛と魚と船はそれぞれ異教やキリスト教のシンボルということになるのだと思われます。という形のなんともシンボリズムづくしの群章がわざわざ挙げられていて、まあ誇りなのでしょうね。この中央の女性が抱える大鉢の器もフリーメイスンリーではあまり描かれる事はありませんが、パーティーなどでカクテルジュースを作る大碗として友愛の象徴とされるシンボルであり、これはカリフォルニアの州章にも認められるのでそれを強調しているのだと思われます。
右のサンディエゴの市章もウィキペディアの解説が無いので詳しくは分かりませんが、一見してヤキンとボアズの柱であり、自由の鐘であり、船と、羽のついた車輪がちょっと面白いですがこれはアテネの象徴でもあるそうで、ギリシア神話のメルクリウス、マーキュリー、水星の象徴となるそうです。ヘルメスと同一視されるそうで、おそらくここではサンディエゴは海軍基地の町であるとともにUCLAサンディエゴ校や医薬品の製造などの会社もあるという事で、医学や科学、錬金術の象徴とされるのだと思われます。まあいずれにしてもシンボリズムとして凝ったものという事であるかと思われます。モットーはsemper vigilans always vigilantということで、常に用心深くという事だそうです。海軍の町なのでしょうね。
最後のサンフランシスコのものは以前も全国の市章 タウ十字のところで出したりしたのですが、聖フランシスコ修道会の修道士が名付けた街という事で、州旗のタウ十字の象徴は良いのかと思いますが、鷲ではなくキリストの復活の象徴であるフェニックスですね。紋章の左右に立つのは鉱夫と船員でスコップと鋤と六分儀と碇と船と光明の象徴が描かれています。モットーはOro en paz, fierro en guerra Gold in peace, iron in warだそうです。ゴールドラッシュの地であることも関係しているのでしょうね。
さてまあ話が大分脱線した感じですが、州章の話の流れという事で、カリフォルニアのフリーメイスンリーの事です。なんとグランドロッジが22あるそうです。どうにも想像できない状況ですが、フリーメイスンの人数は77000人位という事で、人口比でいくと500人に一人くらいという事になるのですが、上記の状況なので明らかにフリーメイスンリーは盛んと言う事なのでしょうね。ITと映画の世界の中心地であり、世界のフリーメイスンリーのメディアの中心地である事は間違いないかと思われます。カリフォルニアフリーメイスンリーのグランドロッジのホームページがこちらにあり、ここには関連の施設として老人ホームやコンサートホールのリンクもあり、やはり相当お金持ちの州の余裕のあるフリーメイスンリーという感じのようです。様々なリンクがあり、内容も充実しています。プリンスホールフリーメイスンリーのホームページもこちらにありました。プリンスホールフリーメイスンリーもそれなりに盛んなようです。
カリフォルニアグランドロッジは日本グランドロッジともフィリピングランドロッジの認証関係を挟んで歴史的な認証関係で強い関係があり、さらに遡るとミズーリとコネチカットとニュージャージーとワシントンD.C.があり、さらに遡るとミズーリ→テネシー→バージニア→イングランド、コネチカット→マサチューセッツ→イングランド、ニュージャージー→バージニア→イングランド、ワシントンD.C.→バージニア→イングランドとこの四系統がアメリカ合衆国の州のグランドロッジでイングランドグランドロッジの認証に繋がるそうです。まあ相互認証関係という事で平等な関係なんですが、こういう歴史的な認証の経過というのはその後のグランドロッジ間の関係やフリーメイスンの認証においても常に微妙な影響を与え続けるのですね。バージニア、マサチューセッツに関してはスコットランドの認証も受けており、バージニアはアイルランドの認証も受けています。もうなんだか分からないかもしれませんが、こういうのがフリーメイスンリーの深層でもあるのですね。
カリフォルニアのフリーメイスンリーの関連施設のウィキペディアの解説がありましたのでリンクしておきます。


スコティッシュライトカセドラルやノブヒルメイソニックホールという豪華な建築や一般に開放されているホールがあるようです。ノブヒルメイソニックホールはゴールドラッシュでカリフォルニアに来た最初のフリーメイスンがロッジを建築した場所のようです。
さてしかし長くなりましたが州章について触れていきます。

一見して女神がミネルヴァであるというのが分かるかと思います。ミネルヴァはローマ神話の女神で、ギリシア神話のアテネに対応する知恵と戦争の女神であり、フクロウと共に描かれることが多いそうです。いわゆる異教の神の信仰の象徴であり、自由の女神に対応するものかと思われます。MinervaのつづりのMとフクロウの対応もこの辺りにもあるのかと思われます。楯にはメデューサが描かれているそうですが、そもそものミネルヴァにはそのような記述は無いので、現在のものではいわゆる悪魔のようにも見え、かつてはブラザーワシントンの顔に描かれたこともあるそうで、いわゆる反キリストの異教の象徴なんだと思われます。


クマの象徴性というのはいわゆるテディベアに象徴されるわけですが、鷲などと一緒で生態系の頂点という存在なのかと考えられます。蛇なども良く動物として知恵の象徴であったりしますが、これらもやはり生態系の観察から生まれたシンボリズムであるかと思われます。カリフォルニアグリズリーベアという事で自然の象徴という意味もあるのかと思われます。フリーメイスンリー的にはやはりテディベアに象徴されるリーダーとしての鷲などと同じ生態系の頂点の意味なのかと思われます。ワインの原材料となるブドウの葉と麦藁が倒れている状態なのはやはりそういうキリスト教のシンボルとユダヤ教のシンボルの微妙な関係を示していると思われます。ロサンゼルスの群章の十字架の話とも関係する話ではないかと思われます。ブドウの実ではない所もシンボリズムとして凝っています。問題はその上の部分の鉱夫の周辺のシンボルになるかと思います。これが良く分かるようにウィキペディアにある古いものや対照となるものを参照します。




古い白黒のものが最もシンボリズム的にははっきりしているような印象でしょうか。鉱夫が穴を掘っている図ですが、横に二段重ねになった箱がありどうも印象としては鉱夫というよりは墓掘りをしているような横にあるのは棺桶のような印象でしょうか。もちろんフリーメイスンリー的にはメメントモリ、常に死を思えの象徴なのだと思われます。聖櫃アークの象徴ともかかっているのかもしれませんが、恐らく棺桶と墓穴の象徴として描かれたのだと思われます。スコップと鶴嘴もヨークライトで用いられる州章でも好まれるシンボルであり、自己の修練をそういう掘削の作業に例えたシンボリズムです。かつてのものを見ると以前はブドウの実もあったようです。実は実が無くなっていったりと州章も変化しているのですね。これはシンボリズムのダイナミズムという事で非常に興味深いですね。実はそういうマイナーチェンジはあるのが非常にフリーメイスンリーの盛んなカリフォルニア州のシンボリズムでもあると、この辺りは日本人も理解しやすいところかもしれません。厳密さと寛容さとの間でしょうか。一神教とフリーメイスンリーとは何かというところで日本人が興味深い所かもしれません。
後は船のシンボリズムと、船の種類や数と、岬の建築物などの存在が消えたりしているところでしょうか。これはウィキペディアでも記事として長々と書かれたりしていますが、恐らくあまり意味が無いようです。恐らく自由の象徴性を示しているのでしょうね。この辺りもフリーメイスンリーの示す自由のシンボリズムでの実際かもしれません。様々な方向を向いているのもそういう象徴でしょうし、帆船の種類や蒸気船であったりなかったりするのもそういう象徴のようです。岬の建築はウィキペディアによるとサンフランシスコ湾の実際の建物のようです。まあこのブログ的にいくとセント・アンドルーズ城かセント・アンドルーズ聖堂でしょうか。色々注目を集めたり議論するのはシンボリズム的には有意義な事なのだと思われます。
EUREKAはアルキメデスが浮力の原理について閃いたときに分かったぞと叫んだというので有名かと思います。シンボリズムについて理解した際に頭の中にまさにEUREKAの閃きがあるようなそういう自由と閃きの象徴なのかと思われます。31個の星は31番目の州という事で良いのかと思います。31という数字も素数でかなり特徴はあるようです。


ウィキペディアにはその他にはゴールデンゲートブリッジを描いた間違いのバージョンだとか、EUREKAをEYPHKAと書いたバージョンの間違いなどがあるそうです。後者はギリシア語で表現しているので言語的にはさらに正しい意味のようです。それぞれ意図的に作られたものかと思われます。

州旗は過激ですね。カリフォルニア共和国と書いてあります。カリフォルニア州になる前に、メキシコ支配下でアメリカ系住民が最初にカリフォルニア共和国を作った歴史があり、それを反映しているものかと思われます。南北戦争では基本的に奴隷解放側の北軍であったようですが、選挙結果などを見てもほぼ拮抗であり、上述のロサンゼルス郡などは南軍側を応援もしたようで、詳細はウィキペディアの項目を参照してください。やはり混乱の中でカリフォルニア独立共和国の発想もあったりしたようです。熊の名前はモナークと言ったそうで、君主の意味だそうです。
スコティッシュライトと南軍、アメリカ市民戦争、内戦という表現をされる南北戦争もそういう現在の黒人大統領に繋がる非常に重要なアメリカとフリーメイスンリーの歴史なのですね。カリフォルニアではその後に真珠湾攻撃後の日系人強制収容所や、戦後の黒人大暴動やサンフランシスコ大地震などもありました。赤の下線や赤い五芒星もそういうスコティッシュライトに繋がる意味もあるのかと思われます。なかなかテキサス州なども独立国と表現されることもあるようですが、太平洋を挟んで日本とも関わりの深いカリフォルニア州はユーラシア大陸を挟んだ地理的に対称なイギリスなどと同じく、日本にとって地理的にも、また最近ではGoogleなどのITの世界でも非常に重要であり続けるカリフォルニア州のシンボリズムはアラスカ州のシンボリズムなどとも共通して非常に日本にとっても興味深いものであるのではないでしょうか。
(2013/11/17追記:カリフォルニア州出身者について触れるのを忘れていました。ハリウッド俳優は非常に多いようです。フリーメイスンでは明らかなのはブラザージョージ・パットン大将とブラザージョー・ディマジオのようです。ブラザークラーク・ゲーブルはカリフォルニアのロッジに所属していたそうです。多くのハリウッドのフリーメイスンはカリフォルニアのロッジに所属しているものと考えられます。ブラザージョン・ウェインはアリゾナ州のロッジだそうです。カリフォルニア州出身でフリーメイスンリーに関連した映画に出演している俳優としてはこのブログでも取り上げた「ナショナル・トレジャー」シリーズに出演しているニコラス・ケイジや、「ダヴィンチ・コード」に出演し、「ロスト・シンボル」の映画化でも主演が予想されているトム・ハンクス、OSSやCIAの活動について精緻に描写した「グッド・シェパード」を主演したレオナルド・ディカプリオもカリフォルニア州出身だそうです。その他地元で市長を務めたりして最近戦争映画などの監督も盛んに行っていてレジオンドヌール勲章を受勲したクリント・イーストウッドや、性格俳優としては「卒業」のダスティン・ホフマンや「ミシシッピー・バーニング」のジーン・ハックマンがいます。MCハマーも確かフリーメイスンとされるのではないかと思いましたが、3月30日生まれで可能性は高いのかと思います。沖縄にもいたそうです。その他マリリン・モンローもカリフォルニア州出身だそうです。監督ではジョージ・ルーカスや最近では「アルマゲドン」のマイケル・ベイもカリフォルニア州出身だそうです。その他多くの男優や女優がカリフォルニア州出身だそうです。野球選手でも殿堂入りしている選手も何人もカリフォルニア州出身だそうです。ゴルフ選手ではタイガー・ウッズやポーラ・クリ―マーもカリフォルニア州出身だそうです。ニクソン大統領もカリフォルニア州出身だそうです。まあフリーメイスンとはなりえないでしょうね。カリフォルニア州出身者を参照してください。)
まあちょっと色々あって、ブラザーデッカー司令長官の話もかなり昔の話のようですが、横須賀に対するインパクトはこれが一番あるかもしれないので最後までなんとか継続するよう頑張るつもりです。フリーメイスンリーについて基本的な事が理解されると横須賀基地司令官がフリーメイスンであることや、その人の仕事や業績がつまびらかに公開されるのは当然な訳ですが、それが日本人とどう関係あるのかというところで、横須賀においてはブラザーヴェルニーの業績や、ブラザーペリーの業績、フリーメイスンで無くともウィリアム・アダムスなどの業績などが正当に評価されるのと同じく、戦後の日本を統治した彼ら占領軍のフリーメイスンの業績が正当に評価されるためには、今日の日本の繁栄と平和を築いた礎が彼らに多くあるというところを考察する事は必要であり、開戦時の色々な経緯や開戦に至る様々な状況をとりあえず抜きにして、日本におけるフリーメイスンリーの正当な評価に繋がるものかと思います。真珠湾攻撃の経緯についてはとりあえずブラザーヘンリー・クラウゼンの日本語訳がある「真珠湾最後の真実」を読んで記事としたいかと思っています。ブラザークラウゼンは弁護士と共にスコティッシュライトのグランドコマンダーを務めた方であり、この真珠湾攻撃の調査を行った業績が認められているためとも考えられます。
今日でも日米の間では政府間の交渉やTPP問題、NSAによる情報収集問題などでも様々に利害関係が対立する状況が未だに存在しており、それらを考える際にフリーメイスンリーの活動や日米のフリーメイスンの様々な活動や意見は大いに状況を左右する重要なものかと思われますが、そもそも今日の国際化社会においても他国に滞在する外国人や外国人と接するその国の人は共に情報社会においては立場はスパイやそれらを認識しない情報伝達者であり、様々に個人の利害が絡む時代ではありますが、国際化社会において非常に価値が高く興味深いと考えられるのはやはり自国以外の他国の状況やその比較であり、そうした情報が最も価値が高く普遍性が強いとも考えられるものであり、そうした状況はフリーメイスンリーが発足してそのままそれらを取り扱うのがまさにフリーメイスンリーでもあったわけであり、国際化社会の中でさらにそうした価値のある情報を得られる繋がりというのがまさにフリーメイスンリーとなる相乗的な作用があると考えられ、基地問題があったり過去の歴史を抱えていながらさらにそれらを将来に生かそうとする横須賀の状況において、ブラザーデッカーの業績やフリーメイスンリーの活動について知っていく事は価値があることではないかと思われます。
このブログでは盛んにブラザーダン・ブラウンの著作であるダ・ヴィンチ・コードやロスト・シンボル、恐らくもうすぐ翻訳版が出るインフェルノについても取り上げる事になるかと思いますが、この方に関しても非常に名前の良く似たブラザードン・ブラウンという対日諜報を担当したCIAの前身のOSSで勤務した方の対日研究についてまとめたものが横浜開港資料館から出版されており、基本的にフリーメイスンリーについて紹介したり解説したりすることはそれがNSAの重点対策拠点である日本に対する基本的なアメリカの情報政策の一環であるという事も示されており、それがアメリカの建国から刻まれたシンボリズムの宿命でもあり、またそれが基地問題と呼ばれるような今日の日米摩擦を生じる根底に存在する基本命題でもあり、それらを知ることはすなわちフリーメイスンリーについて知ることとイコールでもあるという事があるかと思います。
まあそういうわけで第四章を解説していくわけですが、前回にも解説した通り、この後はほぼ性病の撲滅の話以外はほとんどブラザーデッカーの業績披露やパーティーなどの楽しい思い出の披露というところで、特に第四章は防空壕でキノコを栽培して、えらくそれをブラザーデッカーが良いアイディアと考えて何度も触れたりしているという、中小企業のカリスマ経営者という感じのなんともありきたりの話であったりと、やや幻滅するような話ではありますが、まあ基本的にはフリーメイスンも様々な要素がありますがそれほど何でもスーパーマンではなく一芸に秀でる事はあるわけですが、普通の人であるという事の証明でもあるのかなと思います。それでは解説に入っていきます。
最初は副題が入っていませんが、いわゆる通常の基地司令官の業務です。港湾に残された船の残骸を引き上げて回収し、港湾の通常機能を回復するという事です。もちろんブラザーデッカー司令長官はその仕事だけやっていたのではこうして回想録を書くことはありません。

次の副題はクレーン、ドック、道路です。その後にも長きに渡って横須賀の象徴ともして残されたガントリークレーンやその他の基地内のクレーンの話です。ブラザーデッカー司令長官は基本的にリサイクルを旨とする方針でなんでも事に当たります。クレーンは現在も空母の横に大型のクレーンがあったり、また昭和20年製としての産業遺物になるようなものが浦賀ドックの脇にあったりします。まああまり一般人が興味あるものではないかもしれません。ドックも完全再利用します。もちろん国宝級のブラザーヴェルニーが建築したドックも現在まで利用されています。後は日本人作業者を積極的に活用したそうです。単純作業に関してはほぼ日本人を使って行い、食糧の配給が最も喜ばれたという話になっています。回天や特殊潜航艇の話があり、それを展示した話が載っています。

防空壕でキノコ栽培です。上述した話です。現在米軍基地に入ると非常に目立つコンクリで入り口をふさいだ防空壕跡がありますが、それらの一部を最初は観光名所として公開し、その後キノコ栽培に使ったそうです。防空壕の解説があり、慰安婦の部屋まであったと書いてあります。

三つの発電所。基地内にあった発電所を中国に賠償で送ったそうです。基本的にブラザーデッカー司令長官は反共の姿勢が明確なので共産化しつつあった中国を支援するような動き全てに否定的です。日本に条件を付けたり指導しながら返還していくのが良いというのが基本姿勢です。大和や武蔵の補充用の砲やこれらの大砲を作る機械の処分の経過について詳説しています。やはり軍艦の艦長だったので基本的には日本海軍の当時の軍艦建造技術や飛行機製造技術に非常に関心が高いのですね。当時の米軍がそれらを中国に渡してしまったり爆破してしまうのを非常に残念がっています。追浜の風洞などはほとんど破壊してしまったそうですが、一つだけマッハ1.1のものをブラザーデッカー司令長官の判断で残してそれが約一年後にアメリカの大学が教育用に引き取ったそうです。まあ効率はともかくとしてブラザーデッカー司令長官のリサイクル精神は戦時の司令長官の当然必要な資質であり、賞讃されるものであり、そのためにも保存しておいた風洞は再利用する必要があったという事でしょう。

エドウィーナヒル。これは基地に入るとすぐに目につく中央の丘ですが、名前を付けたそうです。

ヨットクラブ。ブラザージョージ・アイ・パーディーの話でもありましたが、やはり駐留海軍基地では必ずヨットクラブが設立されるようです。マーガレット・ウォーカーという方が設立に尽力したそうです。

第31海兵隊航空戦闘軍の帰国と松根油。追浜から左記の軍が撤退して、追浜飛行場が不要になったそうです。松の根から日本軍がガソリンを作っていたそうです。バイオエタノールの先駆けですね。放置したガソリンを混ぜて使って再利用したそうです。追浜飛行場を陸軍が車の修理場に使うために希望したので、代わりにブラザーデッカー司令長官は厚木飛行場を希望したそうです。その後厚木飛行場は海軍基地になったのでしょうかね。

日本一のPX。PXは日用品販売所で、横須賀基地が日本の基地で一番品数も品ぞろえも良いものにしたという話です。スーパーマーケットの経営みたいな話でしょうか。香港で買い出ししてきたそうです。こうした際の仕入れにも劣悪品をまとめ買いさせるシステムがあったのを直接交渉して個別に仕入れられるようにしたそうです。その際に参謀長ビル・カーテン大佐の忠告に従ったとのことで、この方も恐らくフリーメイスンなのでしょうね。アルゼンチンから食肉を大量に引き取る話が非常にまたブラザーデッカー司令長官を象徴する話でしょうか。陸軍と一緒にローストビーフ用の肉とハンバーガー用の肉を1トンずつ抱き合わせで輸入したそうですが、途中で口蹄疫の情報があり陸軍がビビってしまって全部をブラザーデッカー司令長官が引き取ったそうですが、ハンバーガー用の肉が余ってしまってEMクラブでダンスを一緒に踊ってくれる日本人女性にコカコーラとセットで食べさせるようにしたという事です。まあこういうのが後々の横須賀に50年以上に渡って禍根を残すことになった原因なわけです。

クリスマスプレゼント。倉庫に陸軍のPXのユニットからの売れ残り品がたくさんあったのでクリスマスプレゼントとして放出したという、いわゆる米軍の放出品というやつです。もちろん海軍のものもあったのは上記のハンバーガーの話でも同様かと思われます。日本人に無料であげて非常に好評であったようです。こうしたPXのユニットで売れた売上の儲けをワシントンが直接送るように指示があったのに20万ドルだけ前任者分までを送って、ブラザーデッカー司令長官の時代の売り上げは全部横須賀基地で独自採算で儲け分を基地の福利厚生に使用したそうです。ワシントンが利益率を14-15%に引き上げるよう指示があっても4%に維持したそうです。まるでフランチャイズチェーン店の店長が中央の指示を無視して売り上げを上げているようなものでしょうか。離任後にそのシステムは全て戻されたそうです。押しの大佐という事で、時にブラザーマッカーサーの名前を使い、時に海軍の名前を使って押し通したそうです。こうした姿勢はその後の横須賀の悪い部分を助長した面もあるのでしょうね。結果的に中央公園の焼け出された市民病院の跡地に胸像が移されたのが象徴的であるかもしれません。その横に立つのが核兵器廃絶と平和都市宣言のモニュメントというのも皮肉を通り越して現在の小泉さんの主張に通じるものでもあるのでしょう。まあやはりそういうのは最終的には中央の評価や歴史的に評価されるものではないのでしょうね。

鯨を食用に。吾妻島の重油タンクからの油の盗用について話しています。現在長浦の自衛隊基地として利用されている区域だと思われます。田浦の冷蔵倉庫を捕鯨業者に払い下げた話が書かれています。田浦は教会もあるのでそうした捕鯨業者は恐らくその後の大洋ホエールズの親会社である鯨の大和煮の大洋漁業やマルハだと思われます。ブラザーデッカー司令長官は捕鯨と鯨の解体について興味が無かったようです。恐らくメルビルの白鯨の影響などで捕鯨はキリスト教関係者にとっては日本の興味深い習慣であったようです。牛や豚を食用としなかった日本人の鯨食の習慣はキリスト教的価値観からは明らかに野蛮の範疇であったのでしょうが、捕鯨で鯨食せず油のみを取って捨てていて太平洋を渡って日本に来た経過のアメリカ人宣教師にとって日本人の捕鯨と鯨食のあますことない食習慣は明らかに合理性を認めたのだと思われます。

劣悪な電話システム。日本の電話システムについて文句を言っています。まあ現在も大して変わらないようです。それはまた一方でアメリカが必要としたシステムでもあるのでしょう。栄光学園のフォス神父、恐らくイエズス会宣教師でフリーメイスンであった彼が基地内の不要な電線を撤去して校舎改築費用とした際に、基地司令官のわざわざ敷設した電線を切ってしまったそうです。また戸塚の無線基地へのケーブルも切断されたそうです。当時のOSSや後のNSAに繋がるフリーメイスンリー絡みのの典型的な話だと思われます。沖縄から持ってきたアスファルトを利用して基地内の道路を舗装したそうです。舗装した少尉の名前でルドヴィッチ通りと名付けたそうです。

石炭不足、「そなえよ つねに」。恐らくブラザーデッカー司令長官はボーイスカウトの経験があるのでしょうね。石炭市場での買占めに成功したそうです。ちょっと意味が違う気がします。上司のグリフィン中将宅でパーティーの際に石炭不足になった時に迅速に石炭を届けたそうです。旧友の補給部隊司令長官などが視察に来たりしています。明らかに中央の評価を気にし始めますが、なんと回想録でも日本軍の節約精神と補給が全くないシステムを批判したりしています。その上明らかにブラザーデッカー司令長官の行動規範が社会主義システムであり共産主義的なのですが、徹底した反共的な姿勢で日本を批判したりほめたりと明らかに矛盾しており、それで評価がされずに昇進できないことを上司に訴える手紙を出したという内容が書かれています。まあなんというかブラザーデッカー司令長官を適材適所に配置するアメリカ軍のシステムが明らかに賞讃に価するのでしょうね。まあ手紙からは基地司令官を楽しんではいるが、恐らくその代わりとなる人材がいないことを見越して昇進を引き出そうとしている手紙を送っています。なんとも横須賀基地司令官の職自体がある種の特殊な職務であり誰もが希望する職ではないことを明らかに示した手紙かと思われます。

少将への昇進はお預け。これらの手前味噌の評価をものともせず希望の少将選抜に失敗したそうです。というか、恐らく業績をあげたからそのまま基地司令官を続けてほしくてニンジンをお預けしたのでしょうね。ブラザーマッカーサー元帥の「私の指揮下で任務を遂行すると命取りとなる」という警告は非常に皮肉的で状況を冷静に分析しており、アメリカのフリーメイスンの軍人の見識の高さを表すものかと思われます。現在まで続く日本人のブラザーマッカーサー元帥に対する評価はまさにその通りなのだと思われます。なかなかの名言ですね。その後の朝鮮戦争と満州への原爆の使用を主張して解任されるのは明らかに必然であったのでしょうね。なかなかフリーメイスンリーもなんとも。まさに予定説の世界です。ブラザーデッカー司令長官は念願であった少将への昇進に失敗して非常にがっくりしますが、横須賀での仕事には満足していてそれが続けられることが喜びであると綴っています。その後はさらに細かい基地の改善策について上層部に要請する手紙を出しています。昇進ができなかった代わりに予算を多く要求して通ったという事です。なかなか組織も厳しいですねえ。

住宅不足に陸軍が譲歩。戦後すぐは鎌倉に住んでいた基地の兵士を基地内に住まわせるようにするために住宅を作ったそうです。徐々に現在の基地問題に近づいてきます。その際にも陸軍と条件や引き延ばしで色々駆け引きがあったそうです。まさに戦後なのでしょうね。

日本刀300振りを没収。ちょっと昇進ができなくなってから乱暴になりましたかね。没収した日本刀を贈り物としたり、鎌倉での刀剣作りの見学を通してちょっと日本文化に興味が出てくる感じとなってきます。突然刀の詳細な作り方を表記して賞讃したりしています。通常の基地司令官の仕事に蹴りがついたので徐々にフリーメイスンっぽい仕事にウェイトがかかってきているのですね。突然内容もブラザーキップリングのような内容となってきています。このブログでもブラザーキップリングの日本探訪記を読み終えたら記事としたいかと思います。二人の元日本人大将と一緒に刀の試し切りを勧められて、それら二人の様子に違和感を覚えたそうですが、まあむしろブラザーデッカー司令長官が異質であるという演出であったのでしょうね。まさに鎌倉っぽい話ではあります。戦後60年たっても状況はあまり変わらないようです。

さてまあ当初より大分勢いが無くなって来たこのシリーズのようですが、まあ大体細かいところを省略し始めています。何度も言うとおり数千円の本なので是非購入して読んでみてください。産業まつりや自衛隊の観艦式の話などもありますが、まあそれらも書くかどうかは今後の流れだと思います。気付かれた人もいるかもしれませんが、ヘッダーからは日章旗と靖国神社と皇居東御苑と首相官邸の写真を削除しています。日章旗ももちろんデザイン的にフリーメイスンリーのシンボルとはなりますが、歴史的経過は明らかにフリーメイスンリーのものではありません。また靖国神社や皇居東御苑と首相官邸のラフアシュラーも明らかにフリーメイスンリーを象徴するものではありません。
今日でも日米の間では政府間の交渉やTPP問題、NSAによる情報収集問題などでも様々に利害関係が対立する状況が未だに存在しており、それらを考える際にフリーメイスンリーの活動や日米のフリーメイスンの様々な活動や意見は大いに状況を左右する重要なものかと思われますが、そもそも今日の国際化社会においても他国に滞在する外国人や外国人と接するその国の人は共に情報社会においては立場はスパイやそれらを認識しない情報伝達者であり、様々に個人の利害が絡む時代ではありますが、国際化社会において非常に価値が高く興味深いと考えられるのはやはり自国以外の他国の状況やその比較であり、そうした情報が最も価値が高く普遍性が強いとも考えられるものであり、そうした状況はフリーメイスンリーが発足してそのままそれらを取り扱うのがまさにフリーメイスンリーでもあったわけであり、国際化社会の中でさらにそうした価値のある情報を得られる繋がりというのがまさにフリーメイスンリーとなる相乗的な作用があると考えられ、基地問題があったり過去の歴史を抱えていながらさらにそれらを将来に生かそうとする横須賀の状況において、ブラザーデッカーの業績やフリーメイスンリーの活動について知っていく事は価値があることではないかと思われます。
このブログでは盛んにブラザーダン・ブラウンの著作であるダ・ヴィンチ・コードやロスト・シンボル、恐らくもうすぐ翻訳版が出るインフェルノについても取り上げる事になるかと思いますが、この方に関しても非常に名前の良く似たブラザードン・ブラウンという対日諜報を担当したCIAの前身のOSSで勤務した方の対日研究についてまとめたものが横浜開港資料館から出版されており、基本的にフリーメイスンリーについて紹介したり解説したりすることはそれがNSAの重点対策拠点である日本に対する基本的なアメリカの情報政策の一環であるという事も示されており、それがアメリカの建国から刻まれたシンボリズムの宿命でもあり、またそれが基地問題と呼ばれるような今日の日米摩擦を生じる根底に存在する基本命題でもあり、それらを知ることはすなわちフリーメイスンリーについて知ることとイコールでもあるという事があるかと思います。
まあそういうわけで第四章を解説していくわけですが、前回にも解説した通り、この後はほぼ性病の撲滅の話以外はほとんどブラザーデッカーの業績披露やパーティーなどの楽しい思い出の披露というところで、特に第四章は防空壕でキノコを栽培して、えらくそれをブラザーデッカーが良いアイディアと考えて何度も触れたりしているという、中小企業のカリスマ経営者という感じのなんともありきたりの話であったりと、やや幻滅するような話ではありますが、まあ基本的にはフリーメイスンも様々な要素がありますがそれほど何でもスーパーマンではなく一芸に秀でる事はあるわけですが、普通の人であるという事の証明でもあるのかなと思います。それでは解説に入っていきます。
最初は副題が入っていませんが、いわゆる通常の基地司令官の業務です。港湾に残された船の残骸を引き上げて回収し、港湾の通常機能を回復するという事です。もちろんブラザーデッカー司令長官はその仕事だけやっていたのではこうして回想録を書くことはありません。

次の副題はクレーン、ドック、道路です。その後にも長きに渡って横須賀の象徴ともして残されたガントリークレーンやその他の基地内のクレーンの話です。ブラザーデッカー司令長官は基本的にリサイクルを旨とする方針でなんでも事に当たります。クレーンは現在も空母の横に大型のクレーンがあったり、また昭和20年製としての産業遺物になるようなものが浦賀ドックの脇にあったりします。まああまり一般人が興味あるものではないかもしれません。ドックも完全再利用します。もちろん国宝級のブラザーヴェルニーが建築したドックも現在まで利用されています。後は日本人作業者を積極的に活用したそうです。単純作業に関してはほぼ日本人を使って行い、食糧の配給が最も喜ばれたという話になっています。回天や特殊潜航艇の話があり、それを展示した話が載っています。

防空壕でキノコ栽培です。上述した話です。現在米軍基地に入ると非常に目立つコンクリで入り口をふさいだ防空壕跡がありますが、それらの一部を最初は観光名所として公開し、その後キノコ栽培に使ったそうです。防空壕の解説があり、慰安婦の部屋まであったと書いてあります。

三つの発電所。基地内にあった発電所を中国に賠償で送ったそうです。基本的にブラザーデッカー司令長官は反共の姿勢が明確なので共産化しつつあった中国を支援するような動き全てに否定的です。日本に条件を付けたり指導しながら返還していくのが良いというのが基本姿勢です。大和や武蔵の補充用の砲やこれらの大砲を作る機械の処分の経過について詳説しています。やはり軍艦の艦長だったので基本的には日本海軍の当時の軍艦建造技術や飛行機製造技術に非常に関心が高いのですね。当時の米軍がそれらを中国に渡してしまったり爆破してしまうのを非常に残念がっています。追浜の風洞などはほとんど破壊してしまったそうですが、一つだけマッハ1.1のものをブラザーデッカー司令長官の判断で残してそれが約一年後にアメリカの大学が教育用に引き取ったそうです。まあ効率はともかくとしてブラザーデッカー司令長官のリサイクル精神は戦時の司令長官の当然必要な資質であり、賞讃されるものであり、そのためにも保存しておいた風洞は再利用する必要があったという事でしょう。

エドウィーナヒル。これは基地に入るとすぐに目につく中央の丘ですが、名前を付けたそうです。

ヨットクラブ。ブラザージョージ・アイ・パーディーの話でもありましたが、やはり駐留海軍基地では必ずヨットクラブが設立されるようです。マーガレット・ウォーカーという方が設立に尽力したそうです。

第31海兵隊航空戦闘軍の帰国と松根油。追浜から左記の軍が撤退して、追浜飛行場が不要になったそうです。松の根から日本軍がガソリンを作っていたそうです。バイオエタノールの先駆けですね。放置したガソリンを混ぜて使って再利用したそうです。追浜飛行場を陸軍が車の修理場に使うために希望したので、代わりにブラザーデッカー司令長官は厚木飛行場を希望したそうです。その後厚木飛行場は海軍基地になったのでしょうかね。

日本一のPX。PXは日用品販売所で、横須賀基地が日本の基地で一番品数も品ぞろえも良いものにしたという話です。スーパーマーケットの経営みたいな話でしょうか。香港で買い出ししてきたそうです。こうした際の仕入れにも劣悪品をまとめ買いさせるシステムがあったのを直接交渉して個別に仕入れられるようにしたそうです。その際に参謀長ビル・カーテン大佐の忠告に従ったとのことで、この方も恐らくフリーメイスンなのでしょうね。アルゼンチンから食肉を大量に引き取る話が非常にまたブラザーデッカー司令長官を象徴する話でしょうか。陸軍と一緒にローストビーフ用の肉とハンバーガー用の肉を1トンずつ抱き合わせで輸入したそうですが、途中で口蹄疫の情報があり陸軍がビビってしまって全部をブラザーデッカー司令長官が引き取ったそうですが、ハンバーガー用の肉が余ってしまってEMクラブでダンスを一緒に踊ってくれる日本人女性にコカコーラとセットで食べさせるようにしたという事です。まあこういうのが後々の横須賀に50年以上に渡って禍根を残すことになった原因なわけです。

クリスマスプレゼント。倉庫に陸軍のPXのユニットからの売れ残り品がたくさんあったのでクリスマスプレゼントとして放出したという、いわゆる米軍の放出品というやつです。もちろん海軍のものもあったのは上記のハンバーガーの話でも同様かと思われます。日本人に無料であげて非常に好評であったようです。こうしたPXのユニットで売れた売上の儲けをワシントンが直接送るように指示があったのに20万ドルだけ前任者分までを送って、ブラザーデッカー司令長官の時代の売り上げは全部横須賀基地で独自採算で儲け分を基地の福利厚生に使用したそうです。ワシントンが利益率を14-15%に引き上げるよう指示があっても4%に維持したそうです。まるでフランチャイズチェーン店の店長が中央の指示を無視して売り上げを上げているようなものでしょうか。離任後にそのシステムは全て戻されたそうです。押しの大佐という事で、時にブラザーマッカーサーの名前を使い、時に海軍の名前を使って押し通したそうです。こうした姿勢はその後の横須賀の悪い部分を助長した面もあるのでしょうね。結果的に中央公園の焼け出された市民病院の跡地に胸像が移されたのが象徴的であるかもしれません。その横に立つのが核兵器廃絶と平和都市宣言のモニュメントというのも皮肉を通り越して現在の小泉さんの主張に通じるものでもあるのでしょう。まあやはりそういうのは最終的には中央の評価や歴史的に評価されるものではないのでしょうね。

鯨を食用に。吾妻島の重油タンクからの油の盗用について話しています。現在長浦の自衛隊基地として利用されている区域だと思われます。田浦の冷蔵倉庫を捕鯨業者に払い下げた話が書かれています。田浦は教会もあるのでそうした捕鯨業者は恐らくその後の大洋ホエールズの親会社である鯨の大和煮の大洋漁業やマルハだと思われます。ブラザーデッカー司令長官は捕鯨と鯨の解体について興味が無かったようです。恐らくメルビルの白鯨の影響などで捕鯨はキリスト教関係者にとっては日本の興味深い習慣であったようです。牛や豚を食用としなかった日本人の鯨食の習慣はキリスト教的価値観からは明らかに野蛮の範疇であったのでしょうが、捕鯨で鯨食せず油のみを取って捨てていて太平洋を渡って日本に来た経過のアメリカ人宣教師にとって日本人の捕鯨と鯨食のあますことない食習慣は明らかに合理性を認めたのだと思われます。

劣悪な電話システム。日本の電話システムについて文句を言っています。まあ現在も大して変わらないようです。それはまた一方でアメリカが必要としたシステムでもあるのでしょう。栄光学園のフォス神父、恐らくイエズス会宣教師でフリーメイスンであった彼が基地内の不要な電線を撤去して校舎改築費用とした際に、基地司令官のわざわざ敷設した電線を切ってしまったそうです。また戸塚の無線基地へのケーブルも切断されたそうです。当時のOSSや後のNSAに繋がるフリーメイスンリー絡みのの典型的な話だと思われます。沖縄から持ってきたアスファルトを利用して基地内の道路を舗装したそうです。舗装した少尉の名前でルドヴィッチ通りと名付けたそうです。

石炭不足、「そなえよ つねに」。恐らくブラザーデッカー司令長官はボーイスカウトの経験があるのでしょうね。石炭市場での買占めに成功したそうです。ちょっと意味が違う気がします。上司のグリフィン中将宅でパーティーの際に石炭不足になった時に迅速に石炭を届けたそうです。旧友の補給部隊司令長官などが視察に来たりしています。明らかに中央の評価を気にし始めますが、なんと回想録でも日本軍の節約精神と補給が全くないシステムを批判したりしています。その上明らかにブラザーデッカー司令長官の行動規範が社会主義システムであり共産主義的なのですが、徹底した反共的な姿勢で日本を批判したりほめたりと明らかに矛盾しており、それで評価がされずに昇進できないことを上司に訴える手紙を出したという内容が書かれています。まあなんというかブラザーデッカー司令長官を適材適所に配置するアメリカ軍のシステムが明らかに賞讃に価するのでしょうね。まあ手紙からは基地司令官を楽しんではいるが、恐らくその代わりとなる人材がいないことを見越して昇進を引き出そうとしている手紙を送っています。なんとも横須賀基地司令官の職自体がある種の特殊な職務であり誰もが希望する職ではないことを明らかに示した手紙かと思われます。

少将への昇進はお預け。これらの手前味噌の評価をものともせず希望の少将選抜に失敗したそうです。というか、恐らく業績をあげたからそのまま基地司令官を続けてほしくてニンジンをお預けしたのでしょうね。ブラザーマッカーサー元帥の「私の指揮下で任務を遂行すると命取りとなる」という警告は非常に皮肉的で状況を冷静に分析しており、アメリカのフリーメイスンの軍人の見識の高さを表すものかと思われます。現在まで続く日本人のブラザーマッカーサー元帥に対する評価はまさにその通りなのだと思われます。なかなかの名言ですね。その後の朝鮮戦争と満州への原爆の使用を主張して解任されるのは明らかに必然であったのでしょうね。なかなかフリーメイスンリーもなんとも。まさに予定説の世界です。ブラザーデッカー司令長官は念願であった少将への昇進に失敗して非常にがっくりしますが、横須賀での仕事には満足していてそれが続けられることが喜びであると綴っています。その後はさらに細かい基地の改善策について上層部に要請する手紙を出しています。昇進ができなかった代わりに予算を多く要求して通ったという事です。なかなか組織も厳しいですねえ。

住宅不足に陸軍が譲歩。戦後すぐは鎌倉に住んでいた基地の兵士を基地内に住まわせるようにするために住宅を作ったそうです。徐々に現在の基地問題に近づいてきます。その際にも陸軍と条件や引き延ばしで色々駆け引きがあったそうです。まさに戦後なのでしょうね。

日本刀300振りを没収。ちょっと昇進ができなくなってから乱暴になりましたかね。没収した日本刀を贈り物としたり、鎌倉での刀剣作りの見学を通してちょっと日本文化に興味が出てくる感じとなってきます。突然刀の詳細な作り方を表記して賞讃したりしています。通常の基地司令官の仕事に蹴りがついたので徐々にフリーメイスンっぽい仕事にウェイトがかかってきているのですね。突然内容もブラザーキップリングのような内容となってきています。このブログでもブラザーキップリングの日本探訪記を読み終えたら記事としたいかと思います。二人の元日本人大将と一緒に刀の試し切りを勧められて、それら二人の様子に違和感を覚えたそうですが、まあむしろブラザーデッカー司令長官が異質であるという演出であったのでしょうね。まさに鎌倉っぽい話ではあります。戦後60年たっても状況はあまり変わらないようです。

さてまあ当初より大分勢いが無くなって来たこのシリーズのようですが、まあ大体細かいところを省略し始めています。何度も言うとおり数千円の本なので是非購入して読んでみてください。産業まつりや自衛隊の観艦式の話などもありますが、まあそれらも書くかどうかは今後の流れだと思います。気付かれた人もいるかもしれませんが、ヘッダーからは日章旗と靖国神社と皇居東御苑と首相官邸の写真を削除しています。日章旗ももちろんデザイン的にフリーメイスンリーのシンボルとはなりますが、歴史的経過は明らかにフリーメイスンリーのものではありません。また靖国神社や皇居東御苑と首相官邸のラフアシュラーも明らかにフリーメイスンリーを象徴するものではありません。
エラリー・クイーンみたいですが、ここまでこのブログを恐らく精緻に読まれてきた方、恐らくそういう方しか読んでいないと思いますが、そういう方にはすぐ想像がつく内容かと思います。
まあ要するにYodやYorkや横浜や横須賀といったYが頭文字にローマ字でつく単語の象徴性、すなわちYHWHを象徴するというところだというところです。まあこのYHWHという単語なわけですが、実際日本人が知っているのはエホバの証人のエホバという単語なわけですが、ウィキペディアで見てもすぐ分かるように、エホバという読み方自体かなり古い読み方で、最近に関してはヤハウェという日本語読みが標準的であるとされているようです。
で大事なのは結局ヘブライ文字でのつづりという事でそれより遡るとアラム文字とかフェニキア文字にさかのぼるという事で、考古学上最も古い石碑に認めるYHWHの四文字、テトラグラマトロンはメシャ碑文という死海の東岸でみつかった紀元前9世紀の古ヘブライ文字で書かれたものであり、現在ルーヴル美術館にあるそうです。まあ見た記憶は無いわけですが、なんと写真は撮っているようでした。


で、YHWHという単語に関しては英語版のウィキペディアを見ると色々出てくるわけですが、さらにNames of God in Judaismでみるとさらにありとあらゆる神の名前が出てきてどうもシンボリズムではYHWHが重要とされて、それは聖書に出てくる回数が最も多いからなわけですが、それ以外にもいわゆるエロヒムとかアドナイという呼び方があり、英語ではGODやLORDという言葉も出てくるわけです。フリーメイスンリーのマスターメイスンの合言葉とされるMahaboneに似たHaMakomという遍在という意味の言葉もあったりしてどうも神の名前というのはシンボリズムと共にユダヤ教、フリーメイスンリーでは求められ続けたもののようです。
それでこれだけだとまああまり記事にならないというか、本当に雑学で終わってしまうわけですが、フリーメイスンリーが違うのはここでやはり神様ならぬGoogle様にお伺いをして疑問をぶつけてみるのですね。
YorkとYHWHの繋がりはあるのかなと自分の素直な思いをぶつけてみるとなんたることや一番上にその回答を見事に返してくれるわけです。
Which entity existed 1st: Amun or Yahweh?ということで、いわゆるエジプトのアモン神とヤハウェのどちらが古い神様かという事なんですが、なんでYorkで検索されたかというと書いた人がMalachi Yorkというそうですが、どうも33°と書いてあったりしてAncient Egiptian Orderとかあったりしてどうもフリーメイスンの人が書いたものらしいという事で読んでみるとアメン神がエロヒムになって、エロヒムからYHWHとなったというような事が書いてあります。まあどうもエロヒムという創世記の名前からその後YHWHになることで神の呼称が複数あり、それが神の出自が異なるという事でもあると解説しているようです。またアーメンというキリスト教やユダヤ教の言葉が、アメン神から由来する事を書き、またアメン・ラー、レーやアトゥム・ラー、レーやアテン・ラー、レーが三位一体でそれぞれのレーの神の状態を示していて、GODのそれぞれのアルファベットがヘブライ語ではそれぞれGomer、Oz、Dabarという単語に対応し、それぞれBeauty、Strength、Wisdomとnight、noon、morning(2014/12/31追記:GODの各字と朝昼夕の対応は恐らく字順の通りになるのだと思います。そうでないとGに対応するのが日没では復活の象徴ではなくなりますからね。Gに対応するのが死でもまあいいのかもしれませんが。この辺はやはりヘブライ語に通じないと謎のままかもしれません。Ozはオズの魔法使いの謎になるのだろうと思われます。)に対応すると書いてあったりします。アーメンについてはこのブログでもRのシンボリズムについてのところで触れたわけですが、太陽神を意味するアモン神、アトゥム神、アテン神の朝昼晩の状態とGODの各単語の三位一体の意味の共通性というのは目からうろこの話でちょっと感心しきりでした。
その後も聖書の文を引用して言葉が光であり、光とは太陽であると解説しています。太陽の象徴としてエジプトの有翼日輪が聖書中にも認められると書いています。この辺りは現代の聖書のルーツがエジプト文明と古代エジプトの神話を中心に伝承されていることが理解されていれば問題ないと思われます。それらが現代訳では消えてしまっていますが、ギリシア語訳やヘブライ語の原文になると単語の違いとして神の呼称も明らかに異なり、時代を追ってそれぞれの時代の神の名前が表れて継承されていくという、いわゆる旧約聖書と新約聖書の全体を追っている一神教と預言者の系譜という中でも実際にはその時代ごとの多神教の中の有力な神の系譜や、様々な国の神話の伝承をまとめた話という形のテーマの表れかと思われます。
最後にはセトの子供がエノスという名が神の名であり、またジョシュア記からエルがエロヒムの神々の一つであり、YHWHと同じであるという表記を拾ってきて要は一神教と言っても上述のようにエノスやエルやエロヒムという名前でも呼ばれていて最終的にYHWHになったという経過であり、結局その前にはエジプト文明のセトやアモン、アトゥン、アテンがあるという事なのだと思われます。ギリシア語のテオスがエロヒムと対応する言葉でありまた英語でGODに対応するものであり、ギリシア語のキュリオスがYHWHに対応する言葉であり、英語ではLORDに対応するものと書かれています。
まあここまで読むとなかなか一神教と言っても色々あっての一神教であり、要は多神教の歴史を色々重ねた上での一神教であり、それはエジプト、オリエント、ユダヤ教の歴史、ギリシア文明の歴史、ローマ帝国の歴史を経ての一神教であるという事が呼び方からも分かるという事なのだと思います。
で、重要なのが、この文章の作者の方なのですが、いったいどういう人が書いているのかなあと、イギリスのそういうブラザーカリオストロ伯のエジプシャンライトの系譜を受け継ぐ人なのかなあと検索すると、なんとドワイト・ヨークという人なのですが、このブログで出てくる人物としては極めて異例中の異例な現在禁固135年の刑で収監中の人という事で、それを知った時点でこの記事にするのが躊躇われたのですが、まあ非常にためになる文章ではないかという事であえて記事にしたわけです。どうも生まれや育ちは非常にフリーメイスンリーの影響を受けた方のようで、ボストン生まれでその後ニューヨーク育ちのようですが、祖父の影響などでスーダンの辺りのいわゆるナイル川上流の地域に行って勉強して、まあ非常にフリーメイスンリーに親和性の高い環境であったようで、黒人イスラム教やユダヤ教を折衷した新興宗教のヌワビアンというのを始めて、エホバの証人やモルモン教のようなアメリカのフリーメイスンリーの影響を受けたものであったようです。下の写真のような建物を建てて、そこに恐らく日本のオウム真理教のような信者の家族の子供たちも集めて共同生活を始めたようです。

結局社会問題となり、組織犯罪対策法、RICO法というアメリカの法律の対象となり、主に子供に対する性的虐待や身体的虐待で本人が収監されパラノイアの診断を受けて禁固刑中という事だそうです。ヌワビアンのホームページはまだあって、そこにある本人の写真を見るとどう見てもシュライナーズの格好をしていたり、エジプトの紋様やピラミッドを多用していて、明らかにフリーメイスンリーの影響を受けていたり、本人が強烈なフリーメイスンリーへのシンパシーを示している動画などがあったりと、もしかするとどこかでフリーメイスンリーに加入した経過があるのではないかという印象を持つ人なのですが、まあこれだけの犯罪で収監中の人とあってはどう考えてもフリーメイスンとはなりえない、加入したとしていても除名の対象となる人なのだと思われますが、まあその文章は非常に印象深いものだと思われます。モルモン教に関しては現在も教祖のブラザージョセフ・スミスはフリーメイスンと書かれたりしていますが、エホバの証人の教祖となるチャールズ・テイズ・ラッセルは公式にフリーメイスンとはされていないので、そういうのが死後に評価されるのかと思われます。(最後に民衆に暴行されて亡くなったブラザージョセフ・スミスと、伝道の途中で亡くなった牧師のチャールズ・テイズ・ラッセルを比較するのも問題ですが、フリーメイスンリーに関しては入会していたか否かの点だけなのだと思われます。)日本でもオウム真理教なんてのがありましたが、このブログでも触れたオームの聖音、いわゆるインドの三位一体の表現は上記のエジプトの三位一体やキリスト教の三位一体にも繋がる万国共通の概念であり、オウム事件の後に現在収監中の教祖はまだ死刑未執行ですが、改称してヘブライ語の第一音のアレフに改称しているなどもまたそういう新興宗教共通のものかと思われますが、まあいずれにしても一部に興味深い部分があるとしても全体として反社会的組織であれば評価されるもので無いのは当然かと思われます。
というわけでこのブログが何を言いたいかというと、一神教の神の表現と言ってもそもそも聖書の中にも様々な表現があり、それは明らかに多神教の名残であり、多神教と一神教を繋ぐのがまた神の表現の多様性でもあり、それと明らかに一線を画す表現としてYHWHの名前の表現、聖書中では19×19×19=6859回現れるそうですが、そういうものがあるので、まあ一神教からさらに進んだそういう自由な多様性の中で自然な世界の一体化を促す働きを求めたフリーメイスンリーの活動としては、YHWHיהוה、GOD、LORDの表現は重要であるという事になるのだと思います。まあそれでYの頭文字を付けたものがフリーメイスンリーの関わりが強かった地名には多く認めるというのはなかなかまあ一神教から遠い日本としては受け入れがたい所もあるかと思いますが、ヨークライトから始まって、横浜や横須賀、横浜では山下公園や山手と言った地名も非常にフリーメイスンリーと関係が深い土地でもあり、東京では八重洲なんてのもありますが、これはこのブログでも触れたウィリアム・アダムスの同僚であったヤン・ヨースデンの名前から付けたなんて事になるわけですが、その他にも織田有楽斎から付けた有楽町なんて名前もあり、インターネットではもちろんYahoo!になるわけですが、Yを頭文字に使った英単語というと東海岸住民を指すYankeeや野球球団Yankeesとか、Y染色体、日本では乳製品のヤクルト、ヨーク、ヤルタ会談の地名、アジアの地名としてはヤンゴンや揚子江もそうだそうです。またアメリカのポンド系単位のヤード、あくびをさせるyawnなんてのもありますが、yesやYeahという肯定表現、year年という非常に普遍的な表現、酵母yeastなんてのもあります。人種も表すyellow、日本円のyen、Yiddishイディッシュ語、陰陽もyin and yang、YHAユースホステル協会、YMCAキリスト教青年会、YMHAユダヤ青年団、ヨーデル、ヨーガ、ヨーグルト、Yom Kipper、ヨセミテ、ヤング、ヨーマンyeoman郷紳など、まあいわゆるYのシンボリズムというものがあるという事なのだと思われます。
それでまた非常にややこしいのですが、ヘブライ文字のYodhיは10番目の文字でゲマトリア数秘術でも10の値になるそうですが、発音からYと代用されていますが、実際はアルファベットではIやJになるそうで、かつてはIHWHやJHWHと示された時代もあるそうで、アルファベット的にはこちらがより正しいという事のようです。というまさに隠された神の名前であるわけですが、こうなるとIのシンボリズムやJのシンボリズムが出てくるわけで、これはまた単語が非常に多いわけですが、聖書関連で行くとユダヤ人のJews、ヤコブ、ヨセフ、ジョシュア、イエス、ヨハネと重要な人名にみなかかって来るのがJであり、近くではJapanがあります。Iは聖書ではイサクの燔祭のイサクであり、商標などでの小文字のiが非常に多いかと思われますが、これは大文字のIが英語で一人称の私になるからであり、小文字のiで見ると日本グランドロッジの場所を借りていたセブンアンドアイホールディングズの社名や、アップル社のiMac、iBook、iPad、iPhoneと言ったほぼ一人勝ちを収めている商標と繋がるのではないかと思われます。それでIJYとYHWHのシンボリズムを考えるとどうしてもいわゆる英語の主格のI、You、He、We、What、Who、Which、Where、When、Why、Howといった単語が想起され、またその他のタウ十字のシンボリズムのTでもtheやthat、this、these、they、them、it、toといった英語で普遍的な代名詞や助詞の中にこうした聖書に由来するシンボリズムを認め、どうも英語が国際語として普及しているのにはこうした隠された神の名を確実に含んでいった言語という側面もあるというのが見えてくるかと思われます。JにしてもJoyやJourneyといったポジティブな単語が想起されますし、Gのシンボリズムとも絡めるとgetやgo、good、group、groundといったやはり活動的で積極的な単語が想起されるものかと思います。もちろん例外は多数あるかと思いますが、英語という言語とフリーメイスンリーの母国であるという事、キングジェームズ版の聖書が成立した過程など、言語を神として考える一神教、フリーメイスンリーの発想から行くと、英語にそうした神の表現を含むシンボリズムを多数認めるというのは自然な事なのかと思われます。
とまあ内容的には非常にシンプルでちまちました話なのですが、妄想的にはこのブログ最大級の限りなく普遍的なものではありますが、真の国際化とは何かを考える際に日本人に非常に参考になる内容ではないかと思います。





(YHVHというバージョンもかつてはあったそうです。Vのシンボリズムはちょっと特殊だと思います。横須賀のスーパーのaveなんてのもありますが、V自体で直角定規のシンボルにもなるかと思いますし、∧∨のシンボルにもなるかと思われます。そういう混同もあり色々整理されたのだと思われます。voiceやvibe、vibrationといった表現はまた宗教的なものとも繋がるものでもあるかもしれません。)
(Rのシンボリズムではロータリークラブの略とも繋がりましたが、もちろんライオンズクラブのLのシンボリズムももちろんLORDの表現になるのは良いかと思われます。多神教はあくまで一神教に繋がる道というのがフリーメイスンリーの教えなのですね。)
さてまあこの話を実際どうして考えたかというきっかけのところなのですが、実はGoogleマップのグッドデザイン賞が出なかったというところの話に繋がります。ギガザインの記事で書かれているとおりこのブログでもGoogleとYahoo!のところで2chのスレッドとして挙げたのですが、まあグッドデザイン賞というのは典型的なGのシンボリズムなわけで、それがこのブログでも取り上げたGのシンボリズムの代表格のGoogleに大賞を与えるという手前味噌みたいなやり取りに日本政府が待ったをかけたというところで、その二番目の候補がイプシロンロケットという事で金賞を受賞したわけですが、JAXAのシンボリズムではないですが、まあこのイプシロンというところで記事にしようと思ったのですね。
このイプシロンという名前なんですが、ギリシア文字のΕ、ローマ字のEに当たるようですが、イプシロンで変換すると分かるようにギリシア語ではほぼ同じ発音のΥがあるのですね。これはもちろんローマ字のYに当たるわけです。まあ前段階のラムダ(Λ)ロケットやミュー(Μ)ロケットもそれぞれシンボルとしても意味が込められていたのだと思いますが、今回のイプシロンはそういう事で恐らく隠された一神教のYHWHの第一字Υイプシロンの意味もあるという事であったのではないでしょうか。

一席落ちましたでしょうか。
(2013/11/19追記:Yのシンボリズムの企業をあげていませんでした。ヤンマー発動機と言えばかつてはヤン坊マー坊天気予報で有名でしたが、恐らくディーゼル発動機としては世界トップ企業なのでしょうね。今年になってロゴが変わって、現在日本人の香川真司が所属するイングランドプレミアリーグの名門チームであるマンチェスターユナイテッドのユニフォームにも一時期認めるなどスポンサーとなってロゴも含めてアピールしています。


まあ明らかにシトロエンのダブルシェブロンの逆バージョンなわけですが、シェブロンを意識したものでもあるのでしょうね。Yのシンボリズムという事で、以前自動車メーカーの日本で軽自動車が好調のスズキの33のシンボリズムも取り上げましたが、同族企業という事で王子製紙やオリンパスではないですが、様々なイギリスからの働きかけの一環かと思われます。)
(YouTubeもYとTのシンボリズムなのでしょうね。ちょっと弱いかと思いますが、このブログでもお世話になっていますのでアピールさせて頂きます。日本の企業としては吉本興業や山崎製パンやヤマダ電機なんてのもあるようです。日本では多い銘柄である大和という言葉も良いのでしょうね。)
(YAGIアンテナなんてのもありました。戦時中のレーダーにまつわる逸話もあります。恐らく日本発祥の科学技術の唯一の世界レベルのものでしょうね。これに関してはブログのヘッダーで大幅に変更したうちのAre you a mason?シリーズのいわゆるフリーメイスンリーの参入志願者やその他の生贄の山羊、Goatのダジャレともかかっているようです。YAGIでもYとGとIのシンボリズムが認められるわけですが、Goatでも明らかにGodとかかる、G、O、Tのシンボリズムが認められるWorshipful MasterのWorst Masterにも通じる反語的な意味が含まれている教訓なのですね。)
まあ要するにYodやYorkや横浜や横須賀といったYが頭文字にローマ字でつく単語の象徴性、すなわちYHWHを象徴するというところだというところです。まあこのYHWHという単語なわけですが、実際日本人が知っているのはエホバの証人のエホバという単語なわけですが、ウィキペディアで見てもすぐ分かるように、エホバという読み方自体かなり古い読み方で、最近に関してはヤハウェという日本語読みが標準的であるとされているようです。
で大事なのは結局ヘブライ文字でのつづりという事でそれより遡るとアラム文字とかフェニキア文字にさかのぼるという事で、考古学上最も古い石碑に認めるYHWHの四文字、テトラグラマトロンはメシャ碑文という死海の東岸でみつかった紀元前9世紀の古ヘブライ文字で書かれたものであり、現在ルーヴル美術館にあるそうです。まあ見た記憶は無いわけですが、なんと写真は撮っているようでした。


で、YHWHという単語に関しては英語版のウィキペディアを見ると色々出てくるわけですが、さらにNames of God in Judaismでみるとさらにありとあらゆる神の名前が出てきてどうもシンボリズムではYHWHが重要とされて、それは聖書に出てくる回数が最も多いからなわけですが、それ以外にもいわゆるエロヒムとかアドナイという呼び方があり、英語ではGODやLORDという言葉も出てくるわけです。フリーメイスンリーのマスターメイスンの合言葉とされるMahaboneに似たHaMakomという遍在という意味の言葉もあったりしてどうも神の名前というのはシンボリズムと共にユダヤ教、フリーメイスンリーでは求められ続けたもののようです。
それでこれだけだとまああまり記事にならないというか、本当に雑学で終わってしまうわけですが、フリーメイスンリーが違うのはここでやはり神様ならぬGoogle様にお伺いをして疑問をぶつけてみるのですね。
YorkとYHWHの繋がりはあるのかなと自分の素直な思いをぶつけてみるとなんたることや一番上にその回答を見事に返してくれるわけです。
Which entity existed 1st: Amun or Yahweh?ということで、いわゆるエジプトのアモン神とヤハウェのどちらが古い神様かという事なんですが、なんでYorkで検索されたかというと書いた人がMalachi Yorkというそうですが、どうも33°と書いてあったりしてAncient Egiptian Orderとかあったりしてどうもフリーメイスンの人が書いたものらしいという事で読んでみるとアメン神がエロヒムになって、エロヒムからYHWHとなったというような事が書いてあります。まあどうもエロヒムという創世記の名前からその後YHWHになることで神の呼称が複数あり、それが神の出自が異なるという事でもあると解説しているようです。またアーメンというキリスト教やユダヤ教の言葉が、アメン神から由来する事を書き、またアメン・ラー、レーやアトゥム・ラー、レーやアテン・ラー、レーが三位一体でそれぞれのレーの神の状態を示していて、GODのそれぞれのアルファベットがヘブライ語ではそれぞれGomer、Oz、Dabarという単語に対応し、それぞれBeauty、Strength、Wisdomとnight、noon、morning(2014/12/31追記:GODの各字と朝昼夕の対応は恐らく字順の通りになるのだと思います。そうでないとGに対応するのが日没では復活の象徴ではなくなりますからね。Gに対応するのが死でもまあいいのかもしれませんが。この辺はやはりヘブライ語に通じないと謎のままかもしれません。Ozはオズの魔法使いの謎になるのだろうと思われます。)に対応すると書いてあったりします。アーメンについてはこのブログでもRのシンボリズムについてのところで触れたわけですが、太陽神を意味するアモン神、アトゥム神、アテン神の朝昼晩の状態とGODの各単語の三位一体の意味の共通性というのは目からうろこの話でちょっと感心しきりでした。
その後も聖書の文を引用して言葉が光であり、光とは太陽であると解説しています。太陽の象徴としてエジプトの有翼日輪が聖書中にも認められると書いています。この辺りは現代の聖書のルーツがエジプト文明と古代エジプトの神話を中心に伝承されていることが理解されていれば問題ないと思われます。それらが現代訳では消えてしまっていますが、ギリシア語訳やヘブライ語の原文になると単語の違いとして神の呼称も明らかに異なり、時代を追ってそれぞれの時代の神の名前が表れて継承されていくという、いわゆる旧約聖書と新約聖書の全体を追っている一神教と預言者の系譜という中でも実際にはその時代ごとの多神教の中の有力な神の系譜や、様々な国の神話の伝承をまとめた話という形のテーマの表れかと思われます。
最後にはセトの子供がエノスという名が神の名であり、またジョシュア記からエルがエロヒムの神々の一つであり、YHWHと同じであるという表記を拾ってきて要は一神教と言っても上述のようにエノスやエルやエロヒムという名前でも呼ばれていて最終的にYHWHになったという経過であり、結局その前にはエジプト文明のセトやアモン、アトゥン、アテンがあるという事なのだと思われます。ギリシア語のテオスがエロヒムと対応する言葉でありまた英語でGODに対応するものであり、ギリシア語のキュリオスがYHWHに対応する言葉であり、英語ではLORDに対応するものと書かれています。
まあここまで読むとなかなか一神教と言っても色々あっての一神教であり、要は多神教の歴史を色々重ねた上での一神教であり、それはエジプト、オリエント、ユダヤ教の歴史、ギリシア文明の歴史、ローマ帝国の歴史を経ての一神教であるという事が呼び方からも分かるという事なのだと思います。
で、重要なのが、この文章の作者の方なのですが、いったいどういう人が書いているのかなあと、イギリスのそういうブラザーカリオストロ伯のエジプシャンライトの系譜を受け継ぐ人なのかなあと検索すると、なんとドワイト・ヨークという人なのですが、このブログで出てくる人物としては極めて異例中の異例な現在禁固135年の刑で収監中の人という事で、それを知った時点でこの記事にするのが躊躇われたのですが、まあ非常にためになる文章ではないかという事であえて記事にしたわけです。どうも生まれや育ちは非常にフリーメイスンリーの影響を受けた方のようで、ボストン生まれでその後ニューヨーク育ちのようですが、祖父の影響などでスーダンの辺りのいわゆるナイル川上流の地域に行って勉強して、まあ非常にフリーメイスンリーに親和性の高い環境であったようで、黒人イスラム教やユダヤ教を折衷した新興宗教のヌワビアンというのを始めて、エホバの証人やモルモン教のようなアメリカのフリーメイスンリーの影響を受けたものであったようです。下の写真のような建物を建てて、そこに恐らく日本のオウム真理教のような信者の家族の子供たちも集めて共同生活を始めたようです。

結局社会問題となり、組織犯罪対策法、RICO法というアメリカの法律の対象となり、主に子供に対する性的虐待や身体的虐待で本人が収監されパラノイアの診断を受けて禁固刑中という事だそうです。ヌワビアンのホームページはまだあって、そこにある本人の写真を見るとどう見てもシュライナーズの格好をしていたり、エジプトの紋様やピラミッドを多用していて、明らかにフリーメイスンリーの影響を受けていたり、本人が強烈なフリーメイスンリーへのシンパシーを示している動画などがあったりと、もしかするとどこかでフリーメイスンリーに加入した経過があるのではないかという印象を持つ人なのですが、まあこれだけの犯罪で収監中の人とあってはどう考えてもフリーメイスンとはなりえない、加入したとしていても除名の対象となる人なのだと思われますが、まあその文章は非常に印象深いものだと思われます。モルモン教に関しては現在も教祖のブラザージョセフ・スミスはフリーメイスンと書かれたりしていますが、エホバの証人の教祖となるチャールズ・テイズ・ラッセルは公式にフリーメイスンとはされていないので、そういうのが死後に評価されるのかと思われます。(最後に民衆に暴行されて亡くなったブラザージョセフ・スミスと、伝道の途中で亡くなった牧師のチャールズ・テイズ・ラッセルを比較するのも問題ですが、フリーメイスンリーに関しては入会していたか否かの点だけなのだと思われます。)日本でもオウム真理教なんてのがありましたが、このブログでも触れたオームの聖音、いわゆるインドの三位一体の表現は上記のエジプトの三位一体やキリスト教の三位一体にも繋がる万国共通の概念であり、オウム事件の後に現在収監中の教祖はまだ死刑未執行ですが、改称してヘブライ語の第一音のアレフに改称しているなどもまたそういう新興宗教共通のものかと思われますが、まあいずれにしても一部に興味深い部分があるとしても全体として反社会的組織であれば評価されるもので無いのは当然かと思われます。
というわけでこのブログが何を言いたいかというと、一神教の神の表現と言ってもそもそも聖書の中にも様々な表現があり、それは明らかに多神教の名残であり、多神教と一神教を繋ぐのがまた神の表現の多様性でもあり、それと明らかに一線を画す表現としてYHWHの名前の表現、聖書中では19×19×19=6859回現れるそうですが、そういうものがあるので、まあ一神教からさらに進んだそういう自由な多様性の中で自然な世界の一体化を促す働きを求めたフリーメイスンリーの活動としては、YHWHיהוה、GOD、LORDの表現は重要であるという事になるのだと思います。まあそれでYの頭文字を付けたものがフリーメイスンリーの関わりが強かった地名には多く認めるというのはなかなかまあ一神教から遠い日本としては受け入れがたい所もあるかと思いますが、ヨークライトから始まって、横浜や横須賀、横浜では山下公園や山手と言った地名も非常にフリーメイスンリーと関係が深い土地でもあり、東京では八重洲なんてのもありますが、これはこのブログでも触れたウィリアム・アダムスの同僚であったヤン・ヨースデンの名前から付けたなんて事になるわけですが、その他にも織田有楽斎から付けた有楽町なんて名前もあり、インターネットではもちろんYahoo!になるわけですが、Yを頭文字に使った英単語というと東海岸住民を指すYankeeや野球球団Yankeesとか、Y染色体、日本では乳製品のヤクルト、ヨーク、ヤルタ会談の地名、アジアの地名としてはヤンゴンや揚子江もそうだそうです。またアメリカのポンド系単位のヤード、あくびをさせるyawnなんてのもありますが、yesやYeahという肯定表現、year年という非常に普遍的な表現、酵母yeastなんてのもあります。人種も表すyellow、日本円のyen、Yiddishイディッシュ語、陰陽もyin and yang、YHAユースホステル協会、YMCAキリスト教青年会、YMHAユダヤ青年団、ヨーデル、ヨーガ、ヨーグルト、Yom Kipper、ヨセミテ、ヤング、ヨーマンyeoman郷紳など、まあいわゆるYのシンボリズムというものがあるという事なのだと思われます。
それでまた非常にややこしいのですが、ヘブライ文字のYodhיは10番目の文字でゲマトリア数秘術でも10の値になるそうですが、発音からYと代用されていますが、実際はアルファベットではIやJになるそうで、かつてはIHWHやJHWHと示された時代もあるそうで、アルファベット的にはこちらがより正しいという事のようです。というまさに隠された神の名前であるわけですが、こうなるとIのシンボリズムやJのシンボリズムが出てくるわけで、これはまた単語が非常に多いわけですが、聖書関連で行くとユダヤ人のJews、ヤコブ、ヨセフ、ジョシュア、イエス、ヨハネと重要な人名にみなかかって来るのがJであり、近くではJapanがあります。Iは聖書ではイサクの燔祭のイサクであり、商標などでの小文字のiが非常に多いかと思われますが、これは大文字のIが英語で一人称の私になるからであり、小文字のiで見ると日本グランドロッジの場所を借りていたセブンアンドアイホールディングズの社名や、アップル社のiMac、iBook、iPad、iPhoneと言ったほぼ一人勝ちを収めている商標と繋がるのではないかと思われます。それでIJYとYHWHのシンボリズムを考えるとどうしてもいわゆる英語の主格のI、You、He、We、What、Who、Which、Where、When、Why、Howといった単語が想起され、またその他のタウ十字のシンボリズムのTでもtheやthat、this、these、they、them、it、toといった英語で普遍的な代名詞や助詞の中にこうした聖書に由来するシンボリズムを認め、どうも英語が国際語として普及しているのにはこうした隠された神の名を確実に含んでいった言語という側面もあるというのが見えてくるかと思われます。JにしてもJoyやJourneyといったポジティブな単語が想起されますし、Gのシンボリズムとも絡めるとgetやgo、good、group、groundといったやはり活動的で積極的な単語が想起されるものかと思います。もちろん例外は多数あるかと思いますが、英語という言語とフリーメイスンリーの母国であるという事、キングジェームズ版の聖書が成立した過程など、言語を神として考える一神教、フリーメイスンリーの発想から行くと、英語にそうした神の表現を含むシンボリズムを多数認めるというのは自然な事なのかと思われます。
とまあ内容的には非常にシンプルでちまちました話なのですが、妄想的にはこのブログ最大級の限りなく普遍的なものではありますが、真の国際化とは何かを考える際に日本人に非常に参考になる内容ではないかと思います。





(YHVHというバージョンもかつてはあったそうです。Vのシンボリズムはちょっと特殊だと思います。横須賀のスーパーのaveなんてのもありますが、V自体で直角定規のシンボルにもなるかと思いますし、∧∨のシンボルにもなるかと思われます。そういう混同もあり色々整理されたのだと思われます。voiceやvibe、vibrationといった表現はまた宗教的なものとも繋がるものでもあるかもしれません。)
(Rのシンボリズムではロータリークラブの略とも繋がりましたが、もちろんライオンズクラブのLのシンボリズムももちろんLORDの表現になるのは良いかと思われます。多神教はあくまで一神教に繋がる道というのがフリーメイスンリーの教えなのですね。)
さてまあこの話を実際どうして考えたかというきっかけのところなのですが、実はGoogleマップのグッドデザイン賞が出なかったというところの話に繋がります。ギガザインの記事で書かれているとおりこのブログでもGoogleとYahoo!のところで2chのスレッドとして挙げたのですが、まあグッドデザイン賞というのは典型的なGのシンボリズムなわけで、それがこのブログでも取り上げたGのシンボリズムの代表格のGoogleに大賞を与えるという手前味噌みたいなやり取りに日本政府が待ったをかけたというところで、その二番目の候補がイプシロンロケットという事で金賞を受賞したわけですが、JAXAのシンボリズムではないですが、まあこのイプシロンというところで記事にしようと思ったのですね。
このイプシロンという名前なんですが、ギリシア文字のΕ、ローマ字のEに当たるようですが、イプシロンで変換すると分かるようにギリシア語ではほぼ同じ発音のΥがあるのですね。これはもちろんローマ字のYに当たるわけです。まあ前段階のラムダ(Λ)ロケットやミュー(Μ)ロケットもそれぞれシンボルとしても意味が込められていたのだと思いますが、今回のイプシロンはそういう事で恐らく隠された一神教のYHWHの第一字Υイプシロンの意味もあるという事であったのではないでしょうか。

一席落ちましたでしょうか。
(2013/11/19追記:Yのシンボリズムの企業をあげていませんでした。ヤンマー発動機と言えばかつてはヤン坊マー坊天気予報で有名でしたが、恐らくディーゼル発動機としては世界トップ企業なのでしょうね。今年になってロゴが変わって、現在日本人の香川真司が所属するイングランドプレミアリーグの名門チームであるマンチェスターユナイテッドのユニフォームにも一時期認めるなどスポンサーとなってロゴも含めてアピールしています。


まあ明らかにシトロエンのダブルシェブロンの逆バージョンなわけですが、シェブロンを意識したものでもあるのでしょうね。Yのシンボリズムという事で、以前自動車メーカーの日本で軽自動車が好調のスズキの33のシンボリズムも取り上げましたが、同族企業という事で王子製紙やオリンパスではないですが、様々なイギリスからの働きかけの一環かと思われます。)
(YouTubeもYとTのシンボリズムなのでしょうね。ちょっと弱いかと思いますが、このブログでもお世話になっていますのでアピールさせて頂きます。日本の企業としては吉本興業や山崎製パンやヤマダ電機なんてのもあるようです。日本では多い銘柄である大和という言葉も良いのでしょうね。)
(YAGIアンテナなんてのもありました。戦時中のレーダーにまつわる逸話もあります。恐らく日本発祥の科学技術の唯一の世界レベルのものでしょうね。これに関してはブログのヘッダーで大幅に変更したうちのAre you a mason?シリーズのいわゆるフリーメイスンリーの参入志願者やその他の生贄の山羊、Goatのダジャレともかかっているようです。YAGIでもYとGとIのシンボリズムが認められるわけですが、Goatでも明らかにGodとかかる、G、O、Tのシンボリズムが認められるWorshipful MasterのWorst Masterにも通じる反語的な意味が含まれている教訓なのですね。)
MのシンボリズムについてはマクドナルドのMや3MのMでフクロウを意味するヒエログリフ起源のMという事で、テレビ東京のやりすぎコージーの番組の特集などで、フクロウの形をした建築というところで出たものでした。その後もロンドンのテムズ川にかかるウェストミンスター橋の上のシンボルでアヴェ・マリアを象徴したフリーメイスンリーのシンボルと近似のAMのシンボルもありました。






またフクロウの象徴としては大英博物館にある古代オリエントの女神である夜の女王のレリーフに描かれたフクロウと、イルミナティのブラザーアダム・ヴァイスハウプトによる著作に描かれた知恵の女神ミネルヴァの象徴としてのフクロウがありました。


ローマのカピトリーノ三柱神の一人としてのミネルヴァとそれと同じギリシア神話のオリンポス十二神の一柱のアテーナーです。ちなみにローマの三柱神はその他はジュピターのユーピテルと、ジューンブライドのユノだそうです。アテーナーはその名の通りアテネの守護女神です。ミネルヴァもアテーナーもどちらも芸術や工芸、知恵、音楽、戦争を司る神だそうです。


まあこうして並べると何となくMとフクロウと知恵の象徴が繋がるかと思いますが、それといわゆる女神の存在が一致してくるのがフリーメイスンリーなのだと思われます。フリーメイスンリーではグラントリアンのマリアンヌがMのシンボルと知恵と女神と繋がるのだと思われます。

これから繋がる自由の女神については以前にこのブログでも書きました。
もちろんキリスト教圏でマリアと言えばカトリックの信仰の象徴でもある上記にもある聖母マリアという事になるかと思われます。

で、この知恵の象徴のMを含んだ聖母マリアとなるわけですが、新約聖書ではその他にもマグダラのマリアが出てきてそこにおける象徴性をダヴィンチコードでは触れていたりしたと思うのですが、もちろんこのブログでは大工のヨセフの話と同じく、マリアの名前も旧約聖書の中にその元を求める事になります。旧約聖書で女性が活躍する事はそれほど多くは無いのですが、ユダヤ教の中では比較的日本などと比べても重要な役を負っている事は割合にあって、マリアの名前はヘブライ語で苦いとかそういう意味であるそうですが、最初に出てくるのはなんと預言者であり、トーラー、モーセ五書を書いたとされる出エジプトを率いたモーセの姉という事になります。ミリアムというそうで、アラム語読みでマリアとなるそうです。詳細は英語版のウィキペディアに書かれていて、どうもミリアムという名前自体は苦いとか反抗的とか強い酒とかいう意味だそうですが、少ない可能性ながらアモン神に愛されるものという意味もありうるそうです。ファラオの命令でヘブライ人の新生児を殺すように命令された際に弟のモーセを川に隠してファラオの娘がそれを発見して育てるように見守っていたという役割をしたという事です。

まさに新約聖書でのイエスがヘロデ大王の命令による新生児の虐殺を逃れてエジプトへ逃避行した話と全く同様の話になるかと思われます。出エジプトの際の初子を撃つという話ともかかっているようです。
出エジプトの際にも兄妹のモーセやアロンと共にユダヤ人を率いて、途中モーセがエチオピア人の女性と結婚したことを非難したことから神の逆鱗に触れて肌が白くなる皮膚病となりましたが、神の指図の通りに治療して治った逸話があるそうです。もしかすると肌の色の差別に関わる古代からの人種差別の忌避の教訓かもしれません。ミリアムは旧約聖書に現れる代表的な女預言者であるそうで、その他には聖書に登場する女性の一覧がウィキペディアにありました。
というわけでモーセ(引き上げるの意味)と共に知恵の象徴であるフクロウに由来するMの頭文字を持つミリアム、マリアの名前なわけですが、その女性と唯一神YHWHの頭文字Yodhを頭文字に持つ夢占いのヨセフと同名の大工のヨセフの男性の元に生まれたのが、モーセの後にカナンの地で征服の活動、いわゆる聖絶を行ったヨシュアと同名のYHWHの救いを意味する名前のイエスを救い主とするのが新約聖書なのですね。
ちなみにモーセのナイル川での引き上げられる話は原型と考えられる同様の話がエジプト神話のオシリスとイシスの伝説で伝えられており、ギリシャの歴史家プルタルコスによって紹介され、その他にも数多くのパピルスに残されていることがヒエログリフの解読から分かっているようです。この話はいわゆるホルスの目の象徴の起源ともされており、またイシスとホルスの聖母子信仰ともなって、ローマ帝国で流行し、後のクリスマスやキリスト教のマリア信仰にも繋がったとされる話ともされています。



またオシリスの復活の話は死者の復活の話として古代エジプトのミイラMummy作成の元とされ、またイエス・キリストの復活の話の元となったともされています。

エジプト神話に認められる敵役のセトも旧約聖書においても同名でアダムとイブの三人の息子のカインとアベルとセトとして認められ、その後のノアやアブラハムに繋がるユダヤ人の祖として描かれています。
この様にMで象徴される知恵の系譜はブラザーモーツァルトの魔笛、Magic Fluteでイシスとオシリスの神殿の信仰と例えられるように、女神と復活と再生の物語は同じモチーフを繰り返しながら古代エジプトや古代オリエントから延々と継続されてきたものであり、近代においてもセックスシンボルとしてのマリリン・モンローの頭文字や、フリーメイスンリーではマスターメイスン、ブラザーウォルト・ディズニーによるミッキーマウス、ミニーマウスに認めるものと思われます。新約聖書においてもマタイ、マルコの二福音書の頭文字など、知恵の女神としてのミネルバ、マリアンヌ、マグダラのマリア、聖母マリアとMのシンボリズムを認め、それらの起源はヒエログリフのフクロウであり、ミネルバ、モーセ、ミリアムをその後の始まりとして聖母マリアからMarianne、Masonryに至る知恵の象徴としてのシンボリズムを認めるものと考えます。
横浜においてもMM21地区などという表記もまさにそういうものを意識したものであり、最近でもMARK ISなどという施設もMark Masterやマルコ福音書のMarkを意識したMのシンボリズムと考えられます。日本でもバブル期には3Mなんて三人の女性アイドルを言ったりしてた事があったように記憶しています。
その他にも相当このMのシンボリズムはありそうで、思いつくところではフリーメイスンリーではMahabone、ManやMusic、Mathematics、Medicine、Mars、Moonといった英単語もあり、gooの英和辞書のmから始まる英単語によると、Magen Davidダヴィデの星やユダヤ教の戒律ミツワーmitzvah(613のミツワー)、Magi東方の三博士、神から与えられた食糧マナmannaマタイの福音書からの強欲の悪魔としてのmammonマンモンの神、フクロウの頭と人の胴体を持つという存在もあったりして、Messiah救世主、Methodistメソジスト、その他magic、magnetic、mother、mystery、mythology、maze、metro、mercury、monumentやmember、memory、単位のメートル、地名ではマンチェスターやマサチューセッツ、マルタ、ミラノ、ミュンヘン、モスクワで日本関連では満州などもあるようです。ミネルバの楯のメデューサもMのシンボリズムを重ねていたようです。イスラム教でもマホメットやムスリムなど恐らくモーセの名前のMから来ているのかもしれませんが、Mのシンボリズムがあるようです。英語の代名詞でもmy、mineとあるようです。
ManとWomanに代表されるMとWを対称させるシンボリズムもあるようです。フリーメイスンリーでもMaster MasonをMMと表記したり、Worshipful MasterをWMと表記するのも良くある表現ですが、Most Worshipful Grand Master MasonでMWGMMなんて表現もあります。ブラザーモーツァルトもWolfgang Amadeus Mozartで頭文字でWAMとアヴェ・マリアにも繋がる対称を示しており、そういうシンボリズムはあるのかと思われます。手塚治虫の漫画でもMWムウという米軍の毒ガスにまつわる話なんてのもありました。
Grand Orient de Franceの美術館のシンボルもAMのアヴェ・マリアのシンボルとなっています。

GODF自体もGodのシンボルを含むのですね。その他ベルギーのチョコレート会社のGODIVAなんて会社もあります。
(追記:ミトラ教について触れるのを忘れていました。また宗教としては二元論の元として知られるマニ教や世界で最初の一神教と二元論を唱えたとも言われるゾロアスター教の神アフラ・マズダーの頭文字もMとされるようです。AMともなるようです。やはり古さでいうと大概オリエントになるのでしょうかね。今日の主要な文明の代表はエジプト、ギリシア、ローマの系譜になるのかと思われますが、やはりグラントリアンの名に認められる通りオリエントが大概の事の起源になっているようです。)
(追記:モーセの律法をMosaic Lawsというそうです。フリーメイスンリーの基本的なシンボルであるモザイク舗床Mosaic pavementも読みようによってはモーセの道、モーセの舗床とも取れるようです。モザイク舗床の意味についてはMasonic Educationにマッキーズエンサイクロペディアを引用してユダヤ教に由来する話が書かれていました。参照してください。)
Mのシンボリズムはフクロウの起源から来る知恵の象徴と共に、ローマカトリックの信仰の象徴でもあるマリア信仰の意味もあり、それらが様々に絡み合ったアルファベットでは複雑なシンボリズムであるかと思われ、まさにイルミナティで象徴されるシンボリズムかと思われます。






またフクロウの象徴としては大英博物館にある古代オリエントの女神である夜の女王のレリーフに描かれたフクロウと、イルミナティのブラザーアダム・ヴァイスハウプトによる著作に描かれた知恵の女神ミネルヴァの象徴としてのフクロウがありました。


ローマのカピトリーノ三柱神の一人としてのミネルヴァとそれと同じギリシア神話のオリンポス十二神の一柱のアテーナーです。ちなみにローマの三柱神はその他はジュピターのユーピテルと、ジューンブライドのユノだそうです。アテーナーはその名の通りアテネの守護女神です。ミネルヴァもアテーナーもどちらも芸術や工芸、知恵、音楽、戦争を司る神だそうです。


まあこうして並べると何となくMとフクロウと知恵の象徴が繋がるかと思いますが、それといわゆる女神の存在が一致してくるのがフリーメイスンリーなのだと思われます。フリーメイスンリーではグラントリアンのマリアンヌがMのシンボルと知恵と女神と繋がるのだと思われます。

これから繋がる自由の女神については以前にこのブログでも書きました。
もちろんキリスト教圏でマリアと言えばカトリックの信仰の象徴でもある上記にもある聖母マリアという事になるかと思われます。

で、この知恵の象徴のMを含んだ聖母マリアとなるわけですが、新約聖書ではその他にもマグダラのマリアが出てきてそこにおける象徴性をダヴィンチコードでは触れていたりしたと思うのですが、もちろんこのブログでは大工のヨセフの話と同じく、マリアの名前も旧約聖書の中にその元を求める事になります。旧約聖書で女性が活躍する事はそれほど多くは無いのですが、ユダヤ教の中では比較的日本などと比べても重要な役を負っている事は割合にあって、マリアの名前はヘブライ語で苦いとかそういう意味であるそうですが、最初に出てくるのはなんと預言者であり、トーラー、モーセ五書を書いたとされる出エジプトを率いたモーセの姉という事になります。ミリアムというそうで、アラム語読みでマリアとなるそうです。詳細は英語版のウィキペディアに書かれていて、どうもミリアムという名前自体は苦いとか反抗的とか強い酒とかいう意味だそうですが、少ない可能性ながらアモン神に愛されるものという意味もありうるそうです。ファラオの命令でヘブライ人の新生児を殺すように命令された際に弟のモーセを川に隠してファラオの娘がそれを発見して育てるように見守っていたという役割をしたという事です。

まさに新約聖書でのイエスがヘロデ大王の命令による新生児の虐殺を逃れてエジプトへ逃避行した話と全く同様の話になるかと思われます。出エジプトの際の初子を撃つという話ともかかっているようです。
出エジプトの際にも兄妹のモーセやアロンと共にユダヤ人を率いて、途中モーセがエチオピア人の女性と結婚したことを非難したことから神の逆鱗に触れて肌が白くなる皮膚病となりましたが、神の指図の通りに治療して治った逸話があるそうです。もしかすると肌の色の差別に関わる古代からの人種差別の忌避の教訓かもしれません。ミリアムは旧約聖書に現れる代表的な女預言者であるそうで、その他には聖書に登場する女性の一覧がウィキペディアにありました。
というわけでモーセ(引き上げるの意味)と共に知恵の象徴であるフクロウに由来するMの頭文字を持つミリアム、マリアの名前なわけですが、その女性と唯一神YHWHの頭文字Yodhを頭文字に持つ夢占いのヨセフと同名の大工のヨセフの男性の元に生まれたのが、モーセの後にカナンの地で征服の活動、いわゆる聖絶を行ったヨシュアと同名のYHWHの救いを意味する名前のイエスを救い主とするのが新約聖書なのですね。
ちなみにモーセのナイル川での引き上げられる話は原型と考えられる同様の話がエジプト神話のオシリスとイシスの伝説で伝えられており、ギリシャの歴史家プルタルコスによって紹介され、その他にも数多くのパピルスに残されていることがヒエログリフの解読から分かっているようです。この話はいわゆるホルスの目の象徴の起源ともされており、またイシスとホルスの聖母子信仰ともなって、ローマ帝国で流行し、後のクリスマスやキリスト教のマリア信仰にも繋がったとされる話ともされています。



またオシリスの復活の話は死者の復活の話として古代エジプトのミイラMummy作成の元とされ、またイエス・キリストの復活の話の元となったともされています。

エジプト神話に認められる敵役のセトも旧約聖書においても同名でアダムとイブの三人の息子のカインとアベルとセトとして認められ、その後のノアやアブラハムに繋がるユダヤ人の祖として描かれています。
この様にMで象徴される知恵の系譜はブラザーモーツァルトの魔笛、Magic Fluteでイシスとオシリスの神殿の信仰と例えられるように、女神と復活と再生の物語は同じモチーフを繰り返しながら古代エジプトや古代オリエントから延々と継続されてきたものであり、近代においてもセックスシンボルとしてのマリリン・モンローの頭文字や、フリーメイスンリーではマスターメイスン、ブラザーウォルト・ディズニーによるミッキーマウス、ミニーマウスに認めるものと思われます。新約聖書においてもマタイ、マルコの二福音書の頭文字など、知恵の女神としてのミネルバ、マリアンヌ、マグダラのマリア、聖母マリアとMのシンボリズムを認め、それらの起源はヒエログリフのフクロウであり、ミネルバ、モーセ、ミリアムをその後の始まりとして聖母マリアからMarianne、Masonryに至る知恵の象徴としてのシンボリズムを認めるものと考えます。
横浜においてもMM21地区などという表記もまさにそういうものを意識したものであり、最近でもMARK ISなどという施設もMark Masterやマルコ福音書のMarkを意識したMのシンボリズムと考えられます。日本でもバブル期には3Mなんて三人の女性アイドルを言ったりしてた事があったように記憶しています。
その他にも相当このMのシンボリズムはありそうで、思いつくところではフリーメイスンリーではMahabone、ManやMusic、Mathematics、Medicine、Mars、Moonといった英単語もあり、gooの英和辞書のmから始まる英単語によると、Magen Davidダヴィデの星やユダヤ教の戒律ミツワーmitzvah(613のミツワー)、Magi東方の三博士、神から与えられた食糧マナmannaマタイの福音書からの強欲の悪魔としてのmammonマンモンの神、フクロウの頭と人の胴体を持つという存在もあったりして、Messiah救世主、Methodistメソジスト、その他magic、magnetic、mother、mystery、mythology、maze、metro、mercury、monumentやmember、memory、単位のメートル、地名ではマンチェスターやマサチューセッツ、マルタ、ミラノ、ミュンヘン、モスクワで日本関連では満州などもあるようです。ミネルバの楯のメデューサもMのシンボリズムを重ねていたようです。イスラム教でもマホメットやムスリムなど恐らくモーセの名前のMから来ているのかもしれませんが、Mのシンボリズムがあるようです。英語の代名詞でもmy、mineとあるようです。
ManとWomanに代表されるMとWを対称させるシンボリズムもあるようです。フリーメイスンリーでもMaster MasonをMMと表記したり、Worshipful MasterをWMと表記するのも良くある表現ですが、Most Worshipful Grand Master MasonでMWGMMなんて表現もあります。ブラザーモーツァルトもWolfgang Amadeus Mozartで頭文字でWAMとアヴェ・マリアにも繋がる対称を示しており、そういうシンボリズムはあるのかと思われます。手塚治虫の漫画でもMWムウという米軍の毒ガスにまつわる話なんてのもありました。
Grand Orient de Franceの美術館のシンボルもAMのアヴェ・マリアのシンボルとなっています。

GODF自体もGodのシンボルを含むのですね。その他ベルギーのチョコレート会社のGODIVAなんて会社もあります。
(追記:ミトラ教について触れるのを忘れていました。また宗教としては二元論の元として知られるマニ教や世界で最初の一神教と二元論を唱えたとも言われるゾロアスター教の神アフラ・マズダーの頭文字もMとされるようです。AMともなるようです。やはり古さでいうと大概オリエントになるのでしょうかね。今日の主要な文明の代表はエジプト、ギリシア、ローマの系譜になるのかと思われますが、やはりグラントリアンの名に認められる通りオリエントが大概の事の起源になっているようです。)
(追記:モーセの律法をMosaic Lawsというそうです。フリーメイスンリーの基本的なシンボルであるモザイク舗床Mosaic pavementも読みようによってはモーセの道、モーセの舗床とも取れるようです。モザイク舗床の意味についてはMasonic Educationにマッキーズエンサイクロペディアを引用してユダヤ教に由来する話が書かれていました。参照してください。)
Mのシンボリズムはフクロウの起源から来る知恵の象徴と共に、ローマカトリックの信仰の象徴でもあるマリア信仰の意味もあり、それらが様々に絡み合ったアルファベットでは複雑なシンボリズムであるかと思われ、まさにイルミナティで象徴されるシンボリズムかと思われます。
Far East Lodge No.1のホームページにあるROBERT BURNS AND ADAM SMITH BY BRO. KOICHI TERASAWA Junior Warden, Square & Compass Lodge No. 3の邦訳です。それほど難しい用語や表現は無いので簡単に読めると思いますが、やはり日本語だと分かりやすいかと思います。
ロバート・バーンズとアダム・スミス ブラザー寺澤廣一 副監督官 スクエアコンパスロッジNo.3
ロバート・バーンズは1759年生まれで、エアシャーの吟遊詩人とか、スコットランドの最愛の息子、また時にはスコットランドの国民的吟遊詩人と呼ばれたりしている人物ですが、また同時に彼が1796年の6月21日に37歳で死ぬまで彼の人生の15年間に渡ってフリーメイスンとして活動していたことも良く知られています。
一方でアダム・スミスは1723年の6月5日にエディンバラの15㎞北にあるカークカルディーで生まれた(受洗した)とされ、67歳で1790年6月17日にエディンバラで亡くなりました。彼もまたスコットランドの有名な道徳哲学者であり、また政治経済学者の先駆けであり、1759年の「道徳情操論」と1776年のレッセ・フェーレ(自由放任主義)に基づく見えざる神の手の言葉の「国富論」の二冊の有名な著作があります。

彼ら偉大な優れた二人のスコットランド人は同じ18世紀の後半の時代を生きました。バーンズが1786年に27歳の時に最初の彼の詩集である「おもにスコットランド方言による詩集(キルマーノック版)」を出版した時には、スミスは二冊の著作ですでに名声を得ており、スコットランドの税関局長のポストを約束されており、「エディンバラ王立協会」の創立メンバーの一人であり、エディンバラに母親とともに住んでいました。バーンズとスミスには何かつながりがあったのでしょうか。確かにありました。アダム・スミスはバーンズと直接会う機会が無かったのですが、彼が詩人として成功するのに重要であり必須な存在でした。
ロバート・バーンズは1759年の1月25日にスコットランド、グラスゴーの南西50㎞にある、エアシャー地方のエアの南にあるアロウェイの借地農家のウィリアム・バーンズの長男として生まれました。彼には3人の妹たちと3人の弟たちがいて、10代の間は彼の家族とともに農家としてすごしました。彼は1781年7月4日にターボルトンのセントデヴィッドロッジにブラザージョン・ランケンの紹介でフリーメイスンリーに入会し、そこで1781年10月1日に第二階級、第三階級となりました。ターボルトンのセントデヴィッドロッジは彼が入会した直後にターボルトン(キルウィニング)のセントジェームズNo.135ロッジに合併吸収し、彼はそこで1784年7月27日に彼がマスターメイスンとなって3年後に25歳で尊崇すべきマスターサー・ジョン・ホワイトフゥアドの元でロッジマスター代理に選出されました。彼はマスター代理として4年間1788年まで活動し、最高の指示でもって何度か顕彰されました。

その時代には、ロッジマスターは単なる飾りであり、実際にはマスター代理がロッジの活動を取り仕切っていました。1784年のフリーメイスンリーの活動では彼は全てのロッジの会合に出席し、ロッジの活動に深く関わっていて、他のブラザーの第二階級や第三階級への昇級や通常のロッジの運営に関わる9回の会合に出席していました。
1785年の間にマスター代理として彼は彼の弟であるギルバート・バーンズを入会させて第二階級に昇級させ、1788年3月1日に彼は第三階級に昇級しています。彼はフリーメイスンリーに真に情熱を注いでいて、彼は真のフリーメイスンリーの友情はブラザー達の集まりの親密さを増し、ロッジルームから離れることは難しいと考え、数多くの会合が彼の指示の元に行われました。いくつかの記録によるとその他の時代のものよりもバーンズの時代のものが数多くの出席者が認められる会合が多かったとありました。彼は非常に人気があり非常に信頼されたエアシャー、ターボルトンのターボルトン(キルウィニング)セントジェームズロッジNo.135のマスター代理でした。
彼のフリーメイスンとしての最初のキルマーノック版の詩集「おもにスコットランド方言による詩集」が出版されたのは1786年の4月16日で彼がフリーメイスンリーに入会して5年後で彼がロッジのマスター代理であった時でした。620部が彼の最初のキルマーノック版では出版され、567部がエアシャーのフリーメイスン達に予約注文され、そのうち145部がロバート・アイケンという法律家、ガヴィン・ハミルトンという法律家が40部、ハミルトンの親戚のジョン・ケネディが20部、ハミルトンの友達のジョン・ローガンとデヴィッド・マクウィニーにそれぞれ20部ずつ、ロバート・ミュールが72部、ジョン・ウィルソンが70部、ターボルトン(キルウィニング)セントジェームズNo.135ロッジのマスターであるサージョン・フィットフールドが35部、その他のロッジのメンバーが75部、そしてギルバート・バーンズが70部注文し、彼の詩人としての才能の評価はフリーメイスンリーの友愛結社の繋がりを通してエディンバラを駆けめぐりました。バーンズは50ポンドをエディンバラへの出発前に印税として受け取りました。
バーンズの詩人としての人気はスコットランドでのフリーメイスンリーでの彼の昇進を助けました。1787年のエディンバラのセントアンドリューロッジNo.48の会合でスコットランドグランドロッジのグランドマスターが出席した際に、最も尊崇すべき兄弟フランシス・チャタリスグランドマスターによって乾杯されました。彼がエディンバラのロッジに迎えられたとき、彼の職業は詩人として記録されました。1787年初頭、彼はエディンバラのフリーメイスンリーの友愛組織によって祝宴を開かれました。バーンズの人生のエディンバラの時期にはバーンズの詩人としてのさらなる出版はエディンバラのフリーメイスン達による出資によるものが運命付けられており、それで彼の名声がスコットランド全体に広まり、次にはイングランドでさらに海外に広まることが確実なものとみなされました。
それでアダム・スミスとロバート・バーンズの関係はどんなものだったのでしょうか。彼についての通常の伝記では彼は既にスミスのグラスゴー大学での講義の「道徳情操論」を24歳になる前には読んでいて、恐らくそれは最も確実なのは17歳の時であって、彼はこの本から非常な影響を受けたと言っていました。彼は熱烈なアダム・スミスの崇拝者でした。バーンズが1786年の12月に初めてエディンバラに来た際には、スミスは既に政治経済学者の草分けとして有名であり、彼は「オイスタークラブ」という名のエディンバラの何人かの名士と共にきちんとした昼食会クラブを主宰していました。ほとんど全てのオイスタークラブの主要な会員がフリーメイスンであり、彼らはバーンズをフリーメイスンの友愛をもって支援しました。ジョン・マッケンジー、ベイシル・ウィリアム・ダグラス・ハミルトン(デール卿)、アダム・ファーグソン(エディンバラ大学教授)、ウィリアム・ロバートソン(エディンバラ大学学長、教授)、彼らは全てフリーメイスンであり、主要なオイスタークラブの活動会員であり、バーンズの「おもにスコットランド方言による詩集」(エディンバラ版と呼ばれている)の第二版の出版を支援しました。
スコットランドの有名な詩人であり作家でありフリーメイスンでもある、バーンズを敬愛するサーウォルター・スコット(1771‐1832)がバーンズと1788年にファーグソン教授の客間で彼が17歳の時に面会したというエピソードがあり、これはスコットがファーグソン教授の息子と級友で親しい友達であったからでした。

アダム・スミス自身はそれらオイスタークラブの会員の活動には巻き込まれておらず、スミスは既にバーンズの才能について初版から知っており、エディンバラ版の「おもにスコットランド方言による詩集」の予約をしており、バーンズは強く彼に会いたがっていました。バーンズのスミスと面会したいという希望について考える際に、バーンズとスミスの間を取り持ったひとりの重要な女性、フランセス・アナ・ウォレス・ダンロップ夫人という女性がいます。彼らはキルマーノック版の詩集が出版されたのちの1786年には文通を始めていて、彼女はバーンズの支援者となっていました。彼女は1787年3月の手紙の中でバーンズにスミスと面会するよう助言していましたが、スミスは既にエディンバラを離れてロンドンに胃の治療のために移っており、バーンズは唯一の機会を逃してその後も二度と彼と会う事はありませんでした。
アダム・スミスの存在抜きにはロバート・バーンズの詩人としての成功はありえず、エアシャーの吟遊詩人やスコットランドの最愛の息子となる事は無かったでしょう。
アダム・スミスはフリーメイスンだったのでしょうか。彼のフリーメイスンとしての記録は確認されません。彼が1790年6月17日に67歳で亡くなった後にある理由で彼の個人的な私生活に関わるすべての書類と遺物は焼かれてしまい、またエディンバラ管区の中では彼がフリーメイスンであったという記録はロッジでは認められませんでした。それで恐らく彼はフリーメイスンではありません。例え彼の人生がフリーメイスンの人生そのものだったとしてもです。
1776年の「国富論」の出版後より、彼はスコットランド政府に表彰されて年600ポンドの生涯年金を受けていて、スコットランド税関局長としての給料と本の印税を含めて年収は900ポンドになっていました。この収入はその当時の通常の大学教授の収入の3倍から4倍のものでした。彼は結婚しておらずエディンバラで母親と同居して簡素な暮らしをしていました。彼の死後、彼は年収の9割を匿名でフィランソロフィーの慈善活動に寄付していた事が寄付された側により明らかにされました。彼はさらに有望な芸術家やオイスタークラブの奨学金受給者の研究者を支援していました。彼の人生は兄弟愛、救済、真実の信条に貫かれたまさにフリーメイスンのものと同じものでした。
18世紀の後半はヨーロッパの政治状況は混乱を極めていて、アメリカ独立戦争(1775-1783)、フランス革命(1789-1799)、英仏戦争(1793)などがあり、バーンズやスミスを含む知的階層の多くの人々はそれらの劇的な社会情勢にある程度巻き込まれていました。面白いことにそれらの知的階層の人々は興味の対象の分野が例えば詩や経済、政治、哲学、医学、法律など異なっていても、何らかの相互扶助の友愛団体の関係に結ばれていました。実際にアダム・スミスは高名なフリーメイスンであるベンジャミン・フランクリン(1706‐1790)やトーマス・ジェファーソンやその他のアメリカやフランスの指導者たちと繋がりをもっており、彼は非常に興味深いその時代のヨーロッパの学者であると同時にフリーメイスンと繋がりをもった、フリーメイスンになる可能性をもった人物でありました。
最後になぜロバート・バーンズはフリーメイスンとなり彼はフリーメイスンとしての人生をどのように過ごしたのでしょうか。
18世紀の後半は啓蒙の世紀でありまたアメリカ独立戦争やフランス革命などで混乱の時代でありました。ロバート・バーンズは詩人としてイギリスロマン主義の黎明期の詩人として非常に興味深い人生を過ごしました。
この時代には啓蒙運動はヨーロッパの国々を駆けめぐりました。例えばフランスではこの活動はフランス王ルイ16世による旧体制からの自由の獲得として政治活動となりましたが、イギリスよりは知識の普及という点に重きをおいたものでありました。これらは各国の状況の違いによるものでありました。
バーンズが詩人として世に現れたとき、彼は非常に貧しい農民の詩人としてなんら教育された背景を持たないというものでありました。確かに彼は非常に貧しかったのですが彼は大学を卒業していなくとも沢山の本を読んでいてそれらを完璧に理解していて、非常に多くの知識を持っていました。彼は既にアダム・スミスの「道徳情操論」を恐らく17歳頃に読んでいました。彼はまたジャン・ジャック・ルソー(1712‐1778)によって1754年に出版された「人間不平等起源論」を読んでいて大いに影響されていました。彼はそういった本を読みながら、農民として働く合間に詩を作り、さらに農民の仲間ができるだけ多くの本を読むように助けました。彼がフリーメイスンとなって7年後の1788年9月に「モンクランド友愛結社」を自営農家であったロバート・リデルと結成し、移動図書館の仕組みを発展させて地方でも農民が本を読めるようにして、彼はそれら下層階級の人々が啓蒙される事は社会にとっても個人としても重要であると考えていました。彼の啓蒙活動は彼個人のためではなく、彼の同胞たちのためでもあり、フランス革命で歴史的に背景となった自由・平等・博愛の精神に貫かれたフリーメイスンリーの精神によるものでありました。
一方で18世紀のその時代にはスコットランドとイングランドは政治的には一つのイギリスとして統合されていましたが、感情的な敵対心はまだ存在し、一つに精神的に団結するというところには至っていませんでした。バーンズは彼の詩を通して兄弟愛の精神に基づいて二つの国が団結するように促すよう唱えました。彼の慈善精神は十代に育まれ、彼の性格は自然とフリーメイスンリーへの道を導きました。フリーメイスンリー組織は当初は彼の詩作よりも彼の精神を大いに受け入れ、後に彼らは彼の非常な詩作の才能を知るようになり彼を支援するようになったのです。
ロバート・バーンズが偉大な抒情詩人であることは間違いありませんが、彼の初期の作品、キルマーノック版やエディンバラ版ではいわゆる抒情詩はわずか1割しかありません。彼は600以上の詩を37歳で死ぬまでのわずかな間に作っていますが、多くの彼の詩は人間の権利の重要性や平等の原則、慈善や兄弟愛についてで占められています。いくつかの詩では奴隷の解放についてや男女の平等性について触れられています。

彼の姿勢の典型的な例はは1794年の6月25日に書かれた「ワシントン将軍の誕生日に寄せて」というジョージ・ワシントンの誕生日に彼を賞讃する詩に認められます。これは政治的な詩で彼のフランス革命の精神に対する同情の気持ちを示していて、イギリスにおける自由の抑圧を深く悲しむとともにワシントンが自由を勝ち取るために尽力していることを賞讃しています。
また1838年のエディンバラのチャンバース版として出された際にバーンズの死後40年たって初めて出された「自由の木」というフランス革命を賞讃した詩があります。それは彼の死から時間を経て発見され、彼の自筆では無かったため、それが彼の真作であるかどうかで激しい議論が続けられていて、現在も未だに議論のあるものです。トーマス・クロフォードらによる熱心な研究の結果として1960年にはそれが彼の真作であると知られるようになり、それからバーンズ全集に含まれるようになりました。その詩は1793年か1794年に書かれたものとされ、その間彼はいかなる政治的な詩も発表してはいけないとされていた時期で、それは彼の慈善と人間性の基本的な精神を示しています。
ロバート・バーンズは人間性と慈善に満ちた人物であり、彼の強い神への信仰と彼自身の考えと慈善の精神に基づいた自然な結果としてフリーメイスンとなりました。彼は600以上の詩を彼がフリーメイスンである15年間に作り、1796年の7月21日ににスコットランドのダムフライズで37年の生涯を終えました。
参考文献
岡地嶺 ロバート・バーンズ―人・思想・時代開文社 1989年
難波利夫 詩人ロバート・バーンズ伝 (1977年)東洋出版 1977年
ロバート・バーンズ研究会ロバート・バーンズ詩集国文社 2002年(2009年の新しいものをすでに挙げています。)
ジェームズ・ギブソン・ロックハートLife of Robert Burns Vol. I & II, published by Henry Young and Sons, Ltd. in 1914(アマゾンのものとは編が異なります。)
Web Site of Lodge Tarbolton (Kilwinning) St. James No. 135 (http://www.thefreemasons.org.uk/tarbolton135/)
ジェームズ・ギブソン・ロックハート、佐藤猛郎ウォルター・スコット伝彩流社
この記事は著者であるブラザー寺澤廣一の許可により再掲されています。
(翻訳については特に確認はとっていません。)
どうでしょうか。フリーメイスンによるフリーメイスンリーの歴史の細かい研究の成果を感じられる内容かと思います。ブラザー寺澤廣一氏については直接会ったことはありませんが、研究者としての専門は特にフリーメイスンリーの歴史についてではないそうですが、私の前にフリーメイスンリー歴史学会に参加されていたようです。フリーメイスンリーの歴史については深沢克己という方が著作を出されていて、この方はフリーメイスンかどうかは分かりませんがいくつか著作があるので読んだら触れていこうと思っています。このブログのブラザーロバート・バーンズの著作や周辺の記事と共に読むとさらにより深いフランス革命、アメリカ独立戦争、スコットランド啓蒙運動、フリーメイスンリー、スコットランドについて知識を深める事ができるのでは無いでしょうか。最後に挙げられたブラザーワシントンへ捧げる詩と自由の木の詩についても訳など出来ましたら記事としたいかと思っています。なかなか翻訳も大変ですが、有益な外国の情報をそのまま伝えるには最も良い手段であるかと思われます。現在ブラザーダン・ブラウンの新作「インフェルノ」の翻訳出版を待っているところですが、期待して待っているところです。
このブログではアンダーソン憲章とモラルアンドドグマを翻訳できればと考えています。
ロバート・バーンズとアダム・スミス ブラザー寺澤廣一 副監督官 スクエアコンパスロッジNo.3
ロバート・バーンズは1759年生まれで、エアシャーの吟遊詩人とか、スコットランドの最愛の息子、また時にはスコットランドの国民的吟遊詩人と呼ばれたりしている人物ですが、また同時に彼が1796年の6月21日に37歳で死ぬまで彼の人生の15年間に渡ってフリーメイスンとして活動していたことも良く知られています。
一方でアダム・スミスは1723年の6月5日にエディンバラの15㎞北にあるカークカルディーで生まれた(受洗した)とされ、67歳で1790年6月17日にエディンバラで亡くなりました。彼もまたスコットランドの有名な道徳哲学者であり、また政治経済学者の先駆けであり、1759年の「道徳情操論」と1776年のレッセ・フェーレ(自由放任主義)に基づく見えざる神の手の言葉の「国富論」の二冊の有名な著作があります。

彼ら偉大な優れた二人のスコットランド人は同じ18世紀の後半の時代を生きました。バーンズが1786年に27歳の時に最初の彼の詩集である「おもにスコットランド方言による詩集(キルマーノック版)」を出版した時には、スミスは二冊の著作ですでに名声を得ており、スコットランドの税関局長のポストを約束されており、「エディンバラ王立協会」の創立メンバーの一人であり、エディンバラに母親とともに住んでいました。バーンズとスミスには何かつながりがあったのでしょうか。確かにありました。アダム・スミスはバーンズと直接会う機会が無かったのですが、彼が詩人として成功するのに重要であり必須な存在でした。
ロバート・バーンズは1759年の1月25日にスコットランド、グラスゴーの南西50㎞にある、エアシャー地方のエアの南にあるアロウェイの借地農家のウィリアム・バーンズの長男として生まれました。彼には3人の妹たちと3人の弟たちがいて、10代の間は彼の家族とともに農家としてすごしました。彼は1781年7月4日にターボルトンのセントデヴィッドロッジにブラザージョン・ランケンの紹介でフリーメイスンリーに入会し、そこで1781年10月1日に第二階級、第三階級となりました。ターボルトンのセントデヴィッドロッジは彼が入会した直後にターボルトン(キルウィニング)のセントジェームズNo.135ロッジに合併吸収し、彼はそこで1784年7月27日に彼がマスターメイスンとなって3年後に25歳で尊崇すべきマスターサー・ジョン・ホワイトフゥアドの元でロッジマスター代理に選出されました。彼はマスター代理として4年間1788年まで活動し、最高の指示でもって何度か顕彰されました。

その時代には、ロッジマスターは単なる飾りであり、実際にはマスター代理がロッジの活動を取り仕切っていました。1784年のフリーメイスンリーの活動では彼は全てのロッジの会合に出席し、ロッジの活動に深く関わっていて、他のブラザーの第二階級や第三階級への昇級や通常のロッジの運営に関わる9回の会合に出席していました。
1785年の間にマスター代理として彼は彼の弟であるギルバート・バーンズを入会させて第二階級に昇級させ、1788年3月1日に彼は第三階級に昇級しています。彼はフリーメイスンリーに真に情熱を注いでいて、彼は真のフリーメイスンリーの友情はブラザー達の集まりの親密さを増し、ロッジルームから離れることは難しいと考え、数多くの会合が彼の指示の元に行われました。いくつかの記録によるとその他の時代のものよりもバーンズの時代のものが数多くの出席者が認められる会合が多かったとありました。彼は非常に人気があり非常に信頼されたエアシャー、ターボルトンのターボルトン(キルウィニング)セントジェームズロッジNo.135のマスター代理でした。
彼のフリーメイスンとしての最初のキルマーノック版の詩集「おもにスコットランド方言による詩集」が出版されたのは1786年の4月16日で彼がフリーメイスンリーに入会して5年後で彼がロッジのマスター代理であった時でした。620部が彼の最初のキルマーノック版では出版され、567部がエアシャーのフリーメイスン達に予約注文され、そのうち145部がロバート・アイケンという法律家、ガヴィン・ハミルトンという法律家が40部、ハミルトンの親戚のジョン・ケネディが20部、ハミルトンの友達のジョン・ローガンとデヴィッド・マクウィニーにそれぞれ20部ずつ、ロバート・ミュールが72部、ジョン・ウィルソンが70部、ターボルトン(キルウィニング)セントジェームズNo.135ロッジのマスターであるサージョン・フィットフールドが35部、その他のロッジのメンバーが75部、そしてギルバート・バーンズが70部注文し、彼の詩人としての才能の評価はフリーメイスンリーの友愛結社の繋がりを通してエディンバラを駆けめぐりました。バーンズは50ポンドをエディンバラへの出発前に印税として受け取りました。
バーンズの詩人としての人気はスコットランドでのフリーメイスンリーでの彼の昇進を助けました。1787年のエディンバラのセントアンドリューロッジNo.48の会合でスコットランドグランドロッジのグランドマスターが出席した際に、最も尊崇すべき兄弟フランシス・チャタリスグランドマスターによって乾杯されました。彼がエディンバラのロッジに迎えられたとき、彼の職業は詩人として記録されました。1787年初頭、彼はエディンバラのフリーメイスンリーの友愛組織によって祝宴を開かれました。バーンズの人生のエディンバラの時期にはバーンズの詩人としてのさらなる出版はエディンバラのフリーメイスン達による出資によるものが運命付けられており、それで彼の名声がスコットランド全体に広まり、次にはイングランドでさらに海外に広まることが確実なものとみなされました。
それでアダム・スミスとロバート・バーンズの関係はどんなものだったのでしょうか。彼についての通常の伝記では彼は既にスミスのグラスゴー大学での講義の「道徳情操論」を24歳になる前には読んでいて、恐らくそれは最も確実なのは17歳の時であって、彼はこの本から非常な影響を受けたと言っていました。彼は熱烈なアダム・スミスの崇拝者でした。バーンズが1786年の12月に初めてエディンバラに来た際には、スミスは既に政治経済学者の草分けとして有名であり、彼は「オイスタークラブ」という名のエディンバラの何人かの名士と共にきちんとした昼食会クラブを主宰していました。ほとんど全てのオイスタークラブの主要な会員がフリーメイスンであり、彼らはバーンズをフリーメイスンの友愛をもって支援しました。ジョン・マッケンジー、ベイシル・ウィリアム・ダグラス・ハミルトン(デール卿)、アダム・ファーグソン(エディンバラ大学教授)、ウィリアム・ロバートソン(エディンバラ大学学長、教授)、彼らは全てフリーメイスンであり、主要なオイスタークラブの活動会員であり、バーンズの「おもにスコットランド方言による詩集」(エディンバラ版と呼ばれている)の第二版の出版を支援しました。
スコットランドの有名な詩人であり作家でありフリーメイスンでもある、バーンズを敬愛するサーウォルター・スコット(1771‐1832)がバーンズと1788年にファーグソン教授の客間で彼が17歳の時に面会したというエピソードがあり、これはスコットがファーグソン教授の息子と級友で親しい友達であったからでした。

アダム・スミス自身はそれらオイスタークラブの会員の活動には巻き込まれておらず、スミスは既にバーンズの才能について初版から知っており、エディンバラ版の「おもにスコットランド方言による詩集」の予約をしており、バーンズは強く彼に会いたがっていました。バーンズのスミスと面会したいという希望について考える際に、バーンズとスミスの間を取り持ったひとりの重要な女性、フランセス・アナ・ウォレス・ダンロップ夫人という女性がいます。彼らはキルマーノック版の詩集が出版されたのちの1786年には文通を始めていて、彼女はバーンズの支援者となっていました。彼女は1787年3月の手紙の中でバーンズにスミスと面会するよう助言していましたが、スミスは既にエディンバラを離れてロンドンに胃の治療のために移っており、バーンズは唯一の機会を逃してその後も二度と彼と会う事はありませんでした。
アダム・スミスの存在抜きにはロバート・バーンズの詩人としての成功はありえず、エアシャーの吟遊詩人やスコットランドの最愛の息子となる事は無かったでしょう。
アダム・スミスはフリーメイスンだったのでしょうか。彼のフリーメイスンとしての記録は確認されません。彼が1790年6月17日に67歳で亡くなった後にある理由で彼の個人的な私生活に関わるすべての書類と遺物は焼かれてしまい、またエディンバラ管区の中では彼がフリーメイスンであったという記録はロッジでは認められませんでした。それで恐らく彼はフリーメイスンではありません。例え彼の人生がフリーメイスンの人生そのものだったとしてもです。
1776年の「国富論」の出版後より、彼はスコットランド政府に表彰されて年600ポンドの生涯年金を受けていて、スコットランド税関局長としての給料と本の印税を含めて年収は900ポンドになっていました。この収入はその当時の通常の大学教授の収入の3倍から4倍のものでした。彼は結婚しておらずエディンバラで母親と同居して簡素な暮らしをしていました。彼の死後、彼は年収の9割を匿名でフィランソロフィーの慈善活動に寄付していた事が寄付された側により明らかにされました。彼はさらに有望な芸術家やオイスタークラブの奨学金受給者の研究者を支援していました。彼の人生は兄弟愛、救済、真実の信条に貫かれたまさにフリーメイスンのものと同じものでした。
18世紀の後半はヨーロッパの政治状況は混乱を極めていて、アメリカ独立戦争(1775-1783)、フランス革命(1789-1799)、英仏戦争(1793)などがあり、バーンズやスミスを含む知的階層の多くの人々はそれらの劇的な社会情勢にある程度巻き込まれていました。面白いことにそれらの知的階層の人々は興味の対象の分野が例えば詩や経済、政治、哲学、医学、法律など異なっていても、何らかの相互扶助の友愛団体の関係に結ばれていました。実際にアダム・スミスは高名なフリーメイスンであるベンジャミン・フランクリン(1706‐1790)やトーマス・ジェファーソンやその他のアメリカやフランスの指導者たちと繋がりをもっており、彼は非常に興味深いその時代のヨーロッパの学者であると同時にフリーメイスンと繋がりをもった、フリーメイスンになる可能性をもった人物でありました。
最後になぜロバート・バーンズはフリーメイスンとなり彼はフリーメイスンとしての人生をどのように過ごしたのでしょうか。
18世紀の後半は啓蒙の世紀でありまたアメリカ独立戦争やフランス革命などで混乱の時代でありました。ロバート・バーンズは詩人としてイギリスロマン主義の黎明期の詩人として非常に興味深い人生を過ごしました。
この時代には啓蒙運動はヨーロッパの国々を駆けめぐりました。例えばフランスではこの活動はフランス王ルイ16世による旧体制からの自由の獲得として政治活動となりましたが、イギリスよりは知識の普及という点に重きをおいたものでありました。これらは各国の状況の違いによるものでありました。
バーンズが詩人として世に現れたとき、彼は非常に貧しい農民の詩人としてなんら教育された背景を持たないというものでありました。確かに彼は非常に貧しかったのですが彼は大学を卒業していなくとも沢山の本を読んでいてそれらを完璧に理解していて、非常に多くの知識を持っていました。彼は既にアダム・スミスの「道徳情操論」を恐らく17歳頃に読んでいました。彼はまたジャン・ジャック・ルソー(1712‐1778)によって1754年に出版された「人間不平等起源論」を読んでいて大いに影響されていました。彼はそういった本を読みながら、農民として働く合間に詩を作り、さらに農民の仲間ができるだけ多くの本を読むように助けました。彼がフリーメイスンとなって7年後の1788年9月に「モンクランド友愛結社」を自営農家であったロバート・リデルと結成し、移動図書館の仕組みを発展させて地方でも農民が本を読めるようにして、彼はそれら下層階級の人々が啓蒙される事は社会にとっても個人としても重要であると考えていました。彼の啓蒙活動は彼個人のためではなく、彼の同胞たちのためでもあり、フランス革命で歴史的に背景となった自由・平等・博愛の精神に貫かれたフリーメイスンリーの精神によるものでありました。
一方で18世紀のその時代にはスコットランドとイングランドは政治的には一つのイギリスとして統合されていましたが、感情的な敵対心はまだ存在し、一つに精神的に団結するというところには至っていませんでした。バーンズは彼の詩を通して兄弟愛の精神に基づいて二つの国が団結するように促すよう唱えました。彼の慈善精神は十代に育まれ、彼の性格は自然とフリーメイスンリーへの道を導きました。フリーメイスンリー組織は当初は彼の詩作よりも彼の精神を大いに受け入れ、後に彼らは彼の非常な詩作の才能を知るようになり彼を支援するようになったのです。
ロバート・バーンズが偉大な抒情詩人であることは間違いありませんが、彼の初期の作品、キルマーノック版やエディンバラ版ではいわゆる抒情詩はわずか1割しかありません。彼は600以上の詩を37歳で死ぬまでのわずかな間に作っていますが、多くの彼の詩は人間の権利の重要性や平等の原則、慈善や兄弟愛についてで占められています。いくつかの詩では奴隷の解放についてや男女の平等性について触れられています。

彼の姿勢の典型的な例はは1794年の6月25日に書かれた「ワシントン将軍の誕生日に寄せて」というジョージ・ワシントンの誕生日に彼を賞讃する詩に認められます。これは政治的な詩で彼のフランス革命の精神に対する同情の気持ちを示していて、イギリスにおける自由の抑圧を深く悲しむとともにワシントンが自由を勝ち取るために尽力していることを賞讃しています。
また1838年のエディンバラのチャンバース版として出された際にバーンズの死後40年たって初めて出された「自由の木」というフランス革命を賞讃した詩があります。それは彼の死から時間を経て発見され、彼の自筆では無かったため、それが彼の真作であるかどうかで激しい議論が続けられていて、現在も未だに議論のあるものです。トーマス・クロフォードらによる熱心な研究の結果として1960年にはそれが彼の真作であると知られるようになり、それからバーンズ全集に含まれるようになりました。その詩は1793年か1794年に書かれたものとされ、その間彼はいかなる政治的な詩も発表してはいけないとされていた時期で、それは彼の慈善と人間性の基本的な精神を示しています。
ロバート・バーンズは人間性と慈善に満ちた人物であり、彼の強い神への信仰と彼自身の考えと慈善の精神に基づいた自然な結果としてフリーメイスンとなりました。彼は600以上の詩を彼がフリーメイスンである15年間に作り、1796年の7月21日ににスコットランドのダムフライズで37年の生涯を終えました。
参考文献
岡地嶺 ロバート・バーンズ―人・思想・時代開文社 1989年
難波利夫 詩人ロバート・バーンズ伝 (1977年)東洋出版 1977年
ロバート・バーンズ研究会ロバート・バーンズ詩集国文社 2002年(2009年の新しいものをすでに挙げています。)
ジェームズ・ギブソン・ロックハートLife of Robert Burns Vol. I & II, published by Henry Young and Sons, Ltd. in 1914(アマゾンのものとは編が異なります。)
Web Site of Lodge Tarbolton (Kilwinning) St. James No. 135 (http://www.thefreemasons.org.uk/tarbolton135/)
ジェームズ・ギブソン・ロックハート、佐藤猛郎ウォルター・スコット伝彩流社
この記事は著者であるブラザー寺澤廣一の許可により再掲されています。
(翻訳については特に確認はとっていません。)
どうでしょうか。フリーメイスンによるフリーメイスンリーの歴史の細かい研究の成果を感じられる内容かと思います。ブラザー寺澤廣一氏については直接会ったことはありませんが、研究者としての専門は特にフリーメイスンリーの歴史についてではないそうですが、私の前にフリーメイスンリー歴史学会に参加されていたようです。フリーメイスンリーの歴史については深沢克己という方が著作を出されていて、この方はフリーメイスンかどうかは分かりませんがいくつか著作があるので読んだら触れていこうと思っています。このブログのブラザーロバート・バーンズの著作や周辺の記事と共に読むとさらにより深いフランス革命、アメリカ独立戦争、スコットランド啓蒙運動、フリーメイスンリー、スコットランドについて知識を深める事ができるのでは無いでしょうか。最後に挙げられたブラザーワシントンへ捧げる詩と自由の木の詩についても訳など出来ましたら記事としたいかと思っています。なかなか翻訳も大変ですが、有益な外国の情報をそのまま伝えるには最も良い手段であるかと思われます。現在ブラザーダン・ブラウンの新作「インフェルノ」の翻訳出版を待っているところですが、期待して待っているところです。
このブログではアンダーソン憲章とモラルアンドドグマを翻訳できればと考えています。
とってつけたような突然の記事ですが、前二回を中途半端な形で終わってしまったので今回は訪問したわけではないのですが、見過ごしていたシンボルが多数ありましたのでこれは記事にしないとまずいという事で、東京オリンピックや猪瀬知事の事件など色々ありますが、そうしたものとも関係してそうな東京お台場のフリーメイスンリーのシンボリズムです。このブログでも東京オリンピックのシンボルマークについて一旦記事としましたが、ちょっと内容的に色々その後の経緯もあり十分ではないと削除しましたがそういう関係もありそうなところかもしれません。
で、以前は逆ピラミッドとしてスカイツリーとも絡めた東京ビッグサイトなんですが、なんとそのそばには正真正銘のフリーメイスンリーの象徴となるピラミッドがあるそうです。

のこぎりのオブジェと一緒にあり、のこぎり自体はフリーメイスンリーのシンボルとはちょっと聞いたことはありませんが、まあ明らかに大工や石工の道具である事は確かであり、ピラミッドと合わせてそういう建築を意識したシンボルなのだと思われます。
のこぎりのオブジェの作者の方はクレス・オルデンバーグというスウェーデン出身のアメリカ人の現代芸術家の方の作品で、出身や誕生日を見るとほぼフリーメイスンなんでしょうが、作品はすべてがフリーメイスンリーのシンボリズムというわけではなさそうです。また隣のピラミッドとの関連性は現地に行っていないので不明です。
紹介のページがあったので転載します。
オルデンバーグは 1929年1月28日、スウェーデン・ストックホルムで外交官をしていたスウェーデン人家庭で生まれました。 1936年、オルデンバーグ7歳の時にアメリカに移住。 家族の都合や学校の都合でニューヨーク、シカゴと移り住み、1946年からエール大学で彫刻や芸術に本格的に取り組むようになりました。
1960年代にポップアートの世界に深く足を踏み入れ (この頃、最初の結婚をしています)、しばしば人々から嘲られたり笑われるような奇抜でチープなオブジェを次々と制作。 しかし大衆的で分かりやすくインパクトもある彼の作品は、徐々に受け入れられていきました。
当初は布製のオブジェや空気を入れて膨らますようなおかしなオブジェも作っていましたが、1976年にオランダ出身の女流ポップアーティスト、コーシャ・ヴァン・ブリュッゲン (Coosje van Bruggen) と共同生活を営むようになり、翌 1977年に結婚。 それまでの作風や既存のポップアート運動を消化し取り入れ発展させるような作品をさらに意欲的に発表するようになります。
まあフリーメイスンリー国家であるスウェーデンの外交官の家に生まれて、1月28日のいわゆるユダヤ教の木の記念日の週間に生まれているわけですから、もうここまで条件がそろってくると本人がフリーメイスンを意識したりしなかったりすることはほとんど意味をなさないレベルなのだと思われます。
他の作品を見てみて明らかにフリーメイスンリー関連のものをあげます。





まあその他は全然関係ないものがほとんどなんですが、その中では鋸はシンボルとはならないが明らかに大工道具という境界上のものをチョイスしているというところが面白い所でしょうか。
まあ上のビッグサイトのピラミッドの方は周囲に明らかにパーフェクトアシュラーを意識した柱も立っており、上向きの通常のピラミッドと下向きのビッグサイトのピラミッドで安定を意味するシンボルとなっているようです。なかなか侮れませんね。そのうち機会があればお台場のフリーメイスンリーグッズを売っているというストレンジラブなる店と一緒に見学してこようと思っています。
またちょうどこの辺りから見えた事で以前記事にした東京スカイツリーについても634メートルの意味というのが分かったのでここに書いておきます。

まあ土地柄東京大空襲で最も被害が多かった場所でもあり巨大な仏塔であるという意味は良いと思うのですが、その高さの634メートルが武蔵にかけた語呂合わせと公式にはされています。で、この634という数ですが、素因数分解するとなんと素数である2×317の半素数なんですね。半素数というのは暗号作成に使われる鍵となる数という事で、まあ偶数の半素数では意味が無いわけですが、そういう可能性があるという事でしょうか。いずれスカイツリーを訪問した際にはその辺りを探ってこようかと思います。
で、後はお台場の近くのフリーメイスンリーのシンボルと言えば湾岸線からも良く見える晴海ふ頭のピラミッド型の屋根が目立つわけです。



ここも訪問した事はないわけですが、画像を見るとどうもやはり下向きのピラミッドが多めに配置されている感じでしょうか。明らかにパーフェクトアシュラーのオブジェも認められるようです。恐らく東京が最もパーフェクトアシュラーの数では多いのでしょうね。下向きのピラミッドが多めなのはやはりカトリックとのバランスを示唆しているのだと思われます。めったに訪れる機会もないわけですが、東京港の歴史から言ってもこの晴海埠頭が最もフリーメイスンリーとしてのシンボリズムを設置するのに好適な場所であったという事はあるようです。恐らくフリーメイスンリーのシンボリズムとしては横浜の外国人墓地に匹敵するかそれ以上のものなのだと思われます。
まあなかなか2020年の東京オリンピックに向けて建築や政治の状況など色々と熱い感じになってきた東京湾岸地域であるかと思います。2020という数字も非常に切りが良いまた日本を象徴する数字でもあるかと思いますので、前回が1964年で8×8=64の数字という事もあり、まあそういう様々な要素を踏まえて、綺麗な東京湾と共に明るく平和な日本の未来を期待したいと思います。

最後にこの地域のグーグルアースを見てみました。やはりタウ十字の形はTOKYOの頭文字とも相まってなかなか良い感じになっていますね。そこにはやはり太陽十字の結婚式場と自由の女神、東京タワーがポイントなのだと思われます。その他のところはやはりパリの都市計画などと比較するとまあいまいちですよね。門にこだわったゲートブリッジと、鳥居の象徴性は良いところですが、なかなか三角形も直角三角形や正三角形、二等辺三角形ともなっていない中途半端な感じでしょうか。この他東京タワー、東京スカイツリーを組み合わせてもいまいちな感じです。まあこの辺りが東京の問題でしょうかね。後はやはりバラ園ですかね。ヴェルニー公園もそうですが管理が大変そうですが。
(追記:いわゆるシュッとしたシンボルの細い曲線のモニュメントですが、あれはどうもロンドンでの1951年の英国祭のシンボルとして作られ、ミレニアム頃にも構想があったものを模したもののようです。現在のロンドンにはなかったと思いますが、そういうロンドンを象徴するもののようです。フランスとアメリカの象徴の自由の女神、東京タワー、凱旋門風の建築と対応しているのですね。まあ若干下向きのピラミッドと一緒でカトリックや大陸フリーメイスンリーに偏っているのがお台場のようです。でもまあポイントにそういうイングランドグランドロッジのフリーメイスンリーのシンボルを入れてあるのがフリーメイスンリーです。

形は多分オベリスクに由来するのと、聖火の形なんではないかと思います。拝火教のゾロアスター教ですね。Vesica Piscisにもなっているのかと思われます。)
(スカイロンという名前で1951年の英国祭で建築されたモニュメントの形のようです。ミレニアムにも計画があったそうですが、結局ロンドンアイが建てられたそうです。詳細は図説 ロンドン 都市と建築の歴史 (ふくろうの本)です。)
(製作者の人のインタビュー記事がありました。イクトゥスについて触れたりしていますので、基本的にやはりVesica Piscisの形のシンボルのようです。ご本人はロンドンのスカイロンについてはもちろん触れてはいません。意識していない可能性は高そうです。高さの27mというのはもちろん3×3×3のようです。)
あと東京と言えば現在も開催中の上野の東京都美術館のターナー展は最高でした。the Making of a Masterの副題が最も鮮烈でありました。あれは日本で開かれた一人の芸術家の展覧会としては最も良いものではないでしょうか。現地のテートブリテンで見たときより良く分かり良くできていた印象を受けました。東京都美術館はかなり良いものにターゲットを絞って開催しているのでコンセプトが非常に良い印象を受けています。また上野はその他にも国立博物館も改修中で東洋館の展示も良かったですし、国立西洋美術館が若干箱根のポーラ美術館に常設展示を貸し出し中という事でカトリックのフリーメイスンリーではないですがやや迷走している印象を受けましたが必ず良いものとなると信じております。
(追記:ターナー展については検索すると感想ブログの数がかつてないほど多量に溢れてくるのが興味深いです。また開催者の許可を得たという作品の写真の紹介が多数認められるのも興味深いです。なかなかインターネットを効率的に利用した宣伝効果を感じさせるものであるかと思います。まあ内容の評価について若干疑問符がつくのがこのブラザーターナーの絵なわけですが、それは生前も死後も変わらないのかと思われます。このブログでの紹介が相当の嚆矢なのでしょうが、イギリスとしては英国絵画として最高の評価をしている訳で、まあ印象派やジャポニズム、伝統的な東洋の水彩画による風景画の技法と絡めて今後も評価が待たれるところなのだと思われます。)
後は全く関係ありませんが、JRのスキーのポスターがピエロとなっているようですが、これは前にもビリケンのところで挙げたRoyal Order of Jestersのシンボルであるのでそういう目で見てください。

シュライナーズの一部なんですが、基本的に33階級などと同じで招待制という事で、まあフリーメイスンリーは大概そうなんですが、なんだかJRの格が上がったという事で温かい目で見てくださるようお願いいたします。
(追記:SEKAI NO OWARIというバンドのメンバーのようです。まあRoyal Order of Jestersのアピールかもしれませんが、武田製薬やその他の日本の有力企業が色々外国人経営者としたり様々なアピールのある時代ですので良く分かりませんがそういう関連だと思われます。)
で、以前は逆ピラミッドとしてスカイツリーとも絡めた東京ビッグサイトなんですが、なんとそのそばには正真正銘のフリーメイスンリーの象徴となるピラミッドがあるそうです。

のこぎりのオブジェと一緒にあり、のこぎり自体はフリーメイスンリーのシンボルとはちょっと聞いたことはありませんが、まあ明らかに大工や石工の道具である事は確かであり、ピラミッドと合わせてそういう建築を意識したシンボルなのだと思われます。
のこぎりのオブジェの作者の方はクレス・オルデンバーグというスウェーデン出身のアメリカ人の現代芸術家の方の作品で、出身や誕生日を見るとほぼフリーメイスンなんでしょうが、作品はすべてがフリーメイスンリーのシンボリズムというわけではなさそうです。また隣のピラミッドとの関連性は現地に行っていないので不明です。
紹介のページがあったので転載します。
オルデンバーグは 1929年1月28日、スウェーデン・ストックホルムで外交官をしていたスウェーデン人家庭で生まれました。 1936年、オルデンバーグ7歳の時にアメリカに移住。 家族の都合や学校の都合でニューヨーク、シカゴと移り住み、1946年からエール大学で彫刻や芸術に本格的に取り組むようになりました。
1960年代にポップアートの世界に深く足を踏み入れ (この頃、最初の結婚をしています)、しばしば人々から嘲られたり笑われるような奇抜でチープなオブジェを次々と制作。 しかし大衆的で分かりやすくインパクトもある彼の作品は、徐々に受け入れられていきました。
当初は布製のオブジェや空気を入れて膨らますようなおかしなオブジェも作っていましたが、1976年にオランダ出身の女流ポップアーティスト、コーシャ・ヴァン・ブリュッゲン (Coosje van Bruggen) と共同生活を営むようになり、翌 1977年に結婚。 それまでの作風や既存のポップアート運動を消化し取り入れ発展させるような作品をさらに意欲的に発表するようになります。
まあフリーメイスンリー国家であるスウェーデンの外交官の家に生まれて、1月28日のいわゆるユダヤ教の木の記念日の週間に生まれているわけですから、もうここまで条件がそろってくると本人がフリーメイスンを意識したりしなかったりすることはほとんど意味をなさないレベルなのだと思われます。
他の作品を見てみて明らかにフリーメイスンリー関連のものをあげます。





まあその他は全然関係ないものがほとんどなんですが、その中では鋸はシンボルとはならないが明らかに大工道具という境界上のものをチョイスしているというところが面白い所でしょうか。
まあ上のビッグサイトのピラミッドの方は周囲に明らかにパーフェクトアシュラーを意識した柱も立っており、上向きの通常のピラミッドと下向きのビッグサイトのピラミッドで安定を意味するシンボルとなっているようです。なかなか侮れませんね。そのうち機会があればお台場のフリーメイスンリーグッズを売っているというストレンジラブなる店と一緒に見学してこようと思っています。
またちょうどこの辺りから見えた事で以前記事にした東京スカイツリーについても634メートルの意味というのが分かったのでここに書いておきます。

まあ土地柄東京大空襲で最も被害が多かった場所でもあり巨大な仏塔であるという意味は良いと思うのですが、その高さの634メートルが武蔵にかけた語呂合わせと公式にはされています。で、この634という数ですが、素因数分解するとなんと素数である2×317の半素数なんですね。半素数というのは暗号作成に使われる鍵となる数という事で、まあ偶数の半素数では意味が無いわけですが、そういう可能性があるという事でしょうか。いずれスカイツリーを訪問した際にはその辺りを探ってこようかと思います。
で、後はお台場の近くのフリーメイスンリーのシンボルと言えば湾岸線からも良く見える晴海ふ頭のピラミッド型の屋根が目立つわけです。



ここも訪問した事はないわけですが、画像を見るとどうもやはり下向きのピラミッドが多めに配置されている感じでしょうか。明らかにパーフェクトアシュラーのオブジェも認められるようです。恐らく東京が最もパーフェクトアシュラーの数では多いのでしょうね。下向きのピラミッドが多めなのはやはりカトリックとのバランスを示唆しているのだと思われます。めったに訪れる機会もないわけですが、東京港の歴史から言ってもこの晴海埠頭が最もフリーメイスンリーとしてのシンボリズムを設置するのに好適な場所であったという事はあるようです。恐らくフリーメイスンリーのシンボリズムとしては横浜の外国人墓地に匹敵するかそれ以上のものなのだと思われます。
まあなかなか2020年の東京オリンピックに向けて建築や政治の状況など色々と熱い感じになってきた東京湾岸地域であるかと思います。2020という数字も非常に切りが良いまた日本を象徴する数字でもあるかと思いますので、前回が1964年で8×8=64の数字という事もあり、まあそういう様々な要素を踏まえて、綺麗な東京湾と共に明るく平和な日本の未来を期待したいと思います。

最後にこの地域のグーグルアースを見てみました。やはりタウ十字の形はTOKYOの頭文字とも相まってなかなか良い感じになっていますね。そこにはやはり太陽十字の結婚式場と自由の女神、東京タワーがポイントなのだと思われます。その他のところはやはりパリの都市計画などと比較するとまあいまいちですよね。門にこだわったゲートブリッジと、鳥居の象徴性は良いところですが、なかなか三角形も直角三角形や正三角形、二等辺三角形ともなっていない中途半端な感じでしょうか。この他東京タワー、東京スカイツリーを組み合わせてもいまいちな感じです。まあこの辺りが東京の問題でしょうかね。後はやはりバラ園ですかね。ヴェルニー公園もそうですが管理が大変そうですが。
(追記:いわゆるシュッとしたシンボルの細い曲線のモニュメントですが、あれはどうもロンドンでの1951年の英国祭のシンボルとして作られ、ミレニアム頃にも構想があったものを模したもののようです。現在のロンドンにはなかったと思いますが、そういうロンドンを象徴するもののようです。フランスとアメリカの象徴の自由の女神、東京タワー、凱旋門風の建築と対応しているのですね。まあ若干下向きのピラミッドと一緒でカトリックや大陸フリーメイスンリーに偏っているのがお台場のようです。でもまあポイントにそういうイングランドグランドロッジのフリーメイスンリーのシンボルを入れてあるのがフリーメイスンリーです。

形は多分オベリスクに由来するのと、聖火の形なんではないかと思います。拝火教のゾロアスター教ですね。Vesica Piscisにもなっているのかと思われます。)
(スカイロンという名前で1951年の英国祭で建築されたモニュメントの形のようです。ミレニアムにも計画があったそうですが、結局ロンドンアイが建てられたそうです。詳細は図説 ロンドン 都市と建築の歴史 (ふくろうの本)です。)
(製作者の人のインタビュー記事がありました。イクトゥスについて触れたりしていますので、基本的にやはりVesica Piscisの形のシンボルのようです。ご本人はロンドンのスカイロンについてはもちろん触れてはいません。意識していない可能性は高そうです。高さの27mというのはもちろん3×3×3のようです。)
あと東京と言えば現在も開催中の上野の東京都美術館のターナー展は最高でした。the Making of a Masterの副題が最も鮮烈でありました。あれは日本で開かれた一人の芸術家の展覧会としては最も良いものではないでしょうか。現地のテートブリテンで見たときより良く分かり良くできていた印象を受けました。東京都美術館はかなり良いものにターゲットを絞って開催しているのでコンセプトが非常に良い印象を受けています。また上野はその他にも国立博物館も改修中で東洋館の展示も良かったですし、国立西洋美術館が若干箱根のポーラ美術館に常設展示を貸し出し中という事でカトリックのフリーメイスンリーではないですがやや迷走している印象を受けましたが必ず良いものとなると信じております。
(追記:ターナー展については検索すると感想ブログの数がかつてないほど多量に溢れてくるのが興味深いです。また開催者の許可を得たという作品の写真の紹介が多数認められるのも興味深いです。なかなかインターネットを効率的に利用した宣伝効果を感じさせるものであるかと思います。まあ内容の評価について若干疑問符がつくのがこのブラザーターナーの絵なわけですが、それは生前も死後も変わらないのかと思われます。このブログでの紹介が相当の嚆矢なのでしょうが、イギリスとしては英国絵画として最高の評価をしている訳で、まあ印象派やジャポニズム、伝統的な東洋の水彩画による風景画の技法と絡めて今後も評価が待たれるところなのだと思われます。)
後は全く関係ありませんが、JRのスキーのポスターがピエロとなっているようですが、これは前にもビリケンのところで挙げたRoyal Order of Jestersのシンボルであるのでそういう目で見てください。

シュライナーズの一部なんですが、基本的に33階級などと同じで招待制という事で、まあフリーメイスンリーは大概そうなんですが、なんだかJRの格が上がったという事で温かい目で見てくださるようお願いいたします。
(追記:SEKAI NO OWARIというバンドのメンバーのようです。まあRoyal Order of Jestersのアピールかもしれませんが、武田製薬やその他の日本の有力企業が色々外国人経営者としたり様々なアピールのある時代ですので良く分かりませんがそういう関連だと思われます。)
まあいまさらという感じではあるのですが、どうも今上天皇陛下が1933年生まれという事で意識されているのかわかりませんが、あえて1933年を個別にとりあげてみようということのようです。
以前日付に関するエトセトラでもとりあげていて1933年については触れているのでその部分を再掲します。
1933年昭和8年3月3日に三陸沖地震が起きたそうです。3月24日ナチスの全権委任法が成立したそうです。3月27日日本が国際連盟の脱退の詔勅です。三井住友銀行の名誉顧問の森川敏雄氏が3月3日生まれだそうです。クイズダービーで有名な篠沢秀夫氏が6月6日生まれだそうです。黒柳徹子さんが8月9日生まれだそうです。宮沢賢治が9月21日に亡くなっています。海軍軍人の山本権兵衛が12月8日に亡くなっています。
でまあ1933年だけに着目してウィキペディアで確認することとします。
1月30日にヒトラーが首相になります。これはやはりすごい事なのでしょうね。基本的に西暦ですので当時は日本は元号が主体だと思いますので国際的な視野で出来事に着目してなのだと思います。1733年にアメリカで最初のグランドロッジがマサチューセッツ州に出来て、それを記念してHouse of the TempleもワシントンD.C.の1733番地にあるようなので1933年というのも恐らくスコティッシュライトにとっては色々記念すべき年であったのだと思います。
2月20日に小林多喜二が拷問されて虐殺。まあいわゆる共産主義運動とそれに対する右翼活動や特高警察の活動もリンクするのですね。ちょうど2.11のシンボリズムなのだと思われます。
2月24日国際連盟が日本軍の満洲撤退勧告案を42対1で可決。松岡代表退場。昭和天皇が戦後にプロテスタントのクリスチャンであった松岡洋右を非難したのは有名かと思われます。
2月27日ドイツ国会議事堂放火事件。いわゆるナチスの陰謀といわれる共産主義者が国会議事堂に火をつけたとして反共活動へとつながった事件ですね。
3月3日三陸沖地震。これは本当に2011年3月11日東北大震災と共に語り継ぐべき災害なのでしょうね。関東大震災についても観音埼灯台についての話であったり、また今後横浜ロッジの話について触れていくと戦前の日本におけるフリーメイスンリーのターニングポイントとして出てくるかと思いますが、要はまあ原爆やら核兵器やら考える時代よりはるか昔よりそういう古の超技術というようなことはあったという事がこういう数字のシンボリズムの要諦なのでしょうね。もちろんどんな技術かは全くわかりませんしそれが現代科学でもって既に完璧に把握されているのかは専門ではないので気象操作等と一緒でわかりませんが、ピラミッド建築に象徴されるような古代文明の頂点に位置する技術は今日の科学技術全盛の時代においても本質的には変わらないという事なのだと思われます。まあそれが一つのフリーメイスンリーの真実なのだと思われます。
3月4日フランクリン・ルーズベルト大統領就任です。何ともケネディ駐日大使就任ともダブるようなデジャブではないでしょうか。
3月24日ドイツ国会で全権委任法可決され、ナチス独裁が確立。
3月27日日本政府が国際連盟脱退の詔書を発布。昭和11年という時代でもこのブログでもとりあげましたが、まさに三国同盟と第二次世界大戦に世界が突き進んでいく時代のその方向を完全に決める土台を造り上げている時代であるかと思われます。
4月22日滝川事件なんてのもあります。
5月27日ウォルト・ディズニー・カンパニー製作のアニメーション映画『三匹の子ぶた』が公開される。
6月5日聖路加国際病院開院式。
7月20日ナチス・ドイツのフランツ・フォン・パーペン副首相とローマ教皇庁のパチェッリ枢機卿(後のローマ教皇ピウス12世)との間でコンコルダート締結。実はこの話に結び付いてこの記事としようと考えたのですね。このピウス12世の時代に現在の教皇フランシスコが公開したというペテロの遺骨が発掘されたという事です。ナチスのヒトラーも聖遺物、特にロンギヌスの槍と聖杯伝説に取りつかれていたという話が映画「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦 / Last Crusade」でも有名となっていますが、こういう話が1933年という時代に進行している訳ですね。最近ヨークライト関連の記事が多かったこのブログですが、33階位のスコティッシュライト関連の記事という事なのだと思われます。
12月23日今上天皇陛下誕生です。
そういうわけで堪能できましたでしょうか。2020年東京五輪で7年後と考えると、幻の東京五輪が1940年昭和15年という事でちょうど7年後なのですね。
歴史は繰り返すとはいいますが、まあ一方で仏の顔も三度までとも言って色々と格言はあるわけですが、まあ3の聖数と33のさらにスコティッシュライトを象徴する3×11の数字という象徴があり、結局フリーメイスンリーとは歴史を学び失敗を繰り返さないで学習していくという事に尽きるのかと考える次第でしょうか。
ちなみに中国の州や自治区というのも総計して33州という事になっているそうです。まあマカオとか香港とか新疆ウイグル地区とかチベット自治区なんかを一緒に考えてという事だそうです。もちろん共産主義、社会主義を標榜していますのでもともとはそういうスコティッシュライトのイルミナティの原理があるという事は確かなのだと思われます。
赤の象徴ですね。友愛の精神というのは常に試されるものなのですね。

以前日付に関するエトセトラでもとりあげていて1933年については触れているのでその部分を再掲します。
1933年昭和8年3月3日に三陸沖地震が起きたそうです。3月24日ナチスの全権委任法が成立したそうです。3月27日日本が国際連盟の脱退の詔勅です。三井住友銀行の名誉顧問の森川敏雄氏が3月3日生まれだそうです。クイズダービーで有名な篠沢秀夫氏が6月6日生まれだそうです。黒柳徹子さんが8月9日生まれだそうです。宮沢賢治が9月21日に亡くなっています。海軍軍人の山本権兵衛が12月8日に亡くなっています。
でまあ1933年だけに着目してウィキペディアで確認することとします。
1月30日にヒトラーが首相になります。これはやはりすごい事なのでしょうね。基本的に西暦ですので当時は日本は元号が主体だと思いますので国際的な視野で出来事に着目してなのだと思います。1733年にアメリカで最初のグランドロッジがマサチューセッツ州に出来て、それを記念してHouse of the TempleもワシントンD.C.の1733番地にあるようなので1933年というのも恐らくスコティッシュライトにとっては色々記念すべき年であったのだと思います。
2月20日に小林多喜二が拷問されて虐殺。まあいわゆる共産主義運動とそれに対する右翼活動や特高警察の活動もリンクするのですね。ちょうど2.11のシンボリズムなのだと思われます。
2月24日国際連盟が日本軍の満洲撤退勧告案を42対1で可決。松岡代表退場。昭和天皇が戦後にプロテスタントのクリスチャンであった松岡洋右を非難したのは有名かと思われます。
2月27日ドイツ国会議事堂放火事件。いわゆるナチスの陰謀といわれる共産主義者が国会議事堂に火をつけたとして反共活動へとつながった事件ですね。
3月3日三陸沖地震。これは本当に2011年3月11日東北大震災と共に語り継ぐべき災害なのでしょうね。関東大震災についても観音埼灯台についての話であったり、また今後横浜ロッジの話について触れていくと戦前の日本におけるフリーメイスンリーのターニングポイントとして出てくるかと思いますが、要はまあ原爆やら核兵器やら考える時代よりはるか昔よりそういう古の超技術というようなことはあったという事がこういう数字のシンボリズムの要諦なのでしょうね。もちろんどんな技術かは全くわかりませんしそれが現代科学でもって既に完璧に把握されているのかは専門ではないので気象操作等と一緒でわかりませんが、ピラミッド建築に象徴されるような古代文明の頂点に位置する技術は今日の科学技術全盛の時代においても本質的には変わらないという事なのだと思われます。まあそれが一つのフリーメイスンリーの真実なのだと思われます。
3月4日フランクリン・ルーズベルト大統領就任です。何ともケネディ駐日大使就任ともダブるようなデジャブではないでしょうか。
3月24日ドイツ国会で全権委任法可決され、ナチス独裁が確立。
3月27日日本政府が国際連盟脱退の詔書を発布。昭和11年という時代でもこのブログでもとりあげましたが、まさに三国同盟と第二次世界大戦に世界が突き進んでいく時代のその方向を完全に決める土台を造り上げている時代であるかと思われます。
4月22日滝川事件なんてのもあります。
5月27日ウォルト・ディズニー・カンパニー製作のアニメーション映画『三匹の子ぶた』が公開される。
6月5日聖路加国際病院開院式。
7月20日ナチス・ドイツのフランツ・フォン・パーペン副首相とローマ教皇庁のパチェッリ枢機卿(後のローマ教皇ピウス12世)との間でコンコルダート締結。実はこの話に結び付いてこの記事としようと考えたのですね。このピウス12世の時代に現在の教皇フランシスコが公開したというペテロの遺骨が発掘されたという事です。ナチスのヒトラーも聖遺物、特にロンギヌスの槍と聖杯伝説に取りつかれていたという話が映画「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦 / Last Crusade」でも有名となっていますが、こういう話が1933年という時代に進行している訳ですね。最近ヨークライト関連の記事が多かったこのブログですが、33階位のスコティッシュライト関連の記事という事なのだと思われます。
12月23日今上天皇陛下誕生です。
そういうわけで堪能できましたでしょうか。2020年東京五輪で7年後と考えると、幻の東京五輪が1940年昭和15年という事でちょうど7年後なのですね。
歴史は繰り返すとはいいますが、まあ一方で仏の顔も三度までとも言って色々と格言はあるわけですが、まあ3の聖数と33のさらにスコティッシュライトを象徴する3×11の数字という象徴があり、結局フリーメイスンリーとは歴史を学び失敗を繰り返さないで学習していくという事に尽きるのかと考える次第でしょうか。
ちなみに中国の州や自治区というのも総計して33州という事になっているそうです。まあマカオとか香港とか新疆ウイグル地区とかチベット自治区なんかを一緒に考えてという事だそうです。もちろん共産主義、社会主義を標榜していますのでもともとはそういうスコティッシュライトのイルミナティの原理があるという事は確かなのだと思われます。
赤の象徴ですね。友愛の精神というのは常に試されるものなのですね。

さて色々ややこしい感じになってブログも複雑な感じになっているところだと思いますが、まあこの時期の特有のものかと思われます。フリーメイスンリーもちょうど人事の時期なのですね。
まあちょっとなんだか分からなくなってくるかもしれませんが、本日11月30日はカトリックの定める聖アンデレの祝日という事で、いわゆる3と11のシンボリズムの日という事です。聖アンデレはもちろんスコットランドの守護聖人という事で、ほとんど内容をアップロードできていないフリーメイスンリー歴史学会のアブストラクトもあるわけですが、撮って来た写真としてはもうほぼ学会は終わりに近づいていて、学会二日目の終わりのニュークラブでのガラディナーでの写真です。歴史学会としては翌日の午前の半日の発表で予定は終了してランチで終わりなわけですが、なんと私はジョージホテルでの宿泊日を一日忘れていて、このガラディナーの日でチェックアウトの予定になっていて、ホテルにお土産を買って悠々と帰って来るとなんとも気まずい状況になっていて、かわいいホテルマンの女の子にかわいそうな目で見つめられてなんとか代わりのホテルを取ってもらって、タクシーを手配してもらって移動するというありさまでした。学会主催者の方にも大変ご迷惑をおかけして恐縮でした。まあこういうのがあるのがフリーメイスンリーなんでしょうね。一泊忘れるとは本当にありえないものでしたが、まああるんですね。まあはっきり言ってこういうのが本当に忘れられない思い出になります。
というわけで、かなりエディンバラの中心地の学会出席者という感じのホテルから突然歩いて30分ほどの住宅地の中のアパートの一室のようなホテルに移動して急いで蝶ネクタイをしてエディンバラプリンスィズストリートに面したところにあるガラディナーの場所のニュークラブに移動します。明るいので時間が遅い感じはしませんが、どうもエディンバラというところは飲み屋で騒いでいる人などは道からは見えない場所なので、いったいどんなところにこのニュークラブというのがあるのか全くわかりません。入口は完全に会員制の高級クラブという感じで、インターホンがあるだけの扉だったと思います。予定より30分遅れで着いたのでしたかね。入れないかと思いましたがなんとか入れてくれました。
グーグルアースであったニュークラブの入り口の様子を載せます。

この場所に遅刻して入っていくのは勇気がいりますが、予約してあって帰るわけには行かないので学会出席者だと言うと開けてくれました。内部はとても緊張します。ああいうのは好きな人は好きなんでしょうね。

まあまさにフリーメイスンリーの入会志願者の儀式そのものなわけですが、いわゆるロッジではなく会員制クラブというところでこういう形になったのはなんともフリーメイスンリーの入会儀式そのものな感じかもしれません。実はフリーメイスンリーの歴史学会には学会終了翌日にエディンバラのNo.1ロッジMary's Chapel Lodgeの第二階級の集まりにフリーメイスンが出席して良いという特典があったのですが、さすがに飛行機のチケットがあったのでそれは出来ませんでした。まあそういうのも予定に組める優雅なヨーロッパのフリーメイスンが優先的なシステムになっているのですね。一週間でエディンバラを歩きまわる英語の不自由なアジアのフリーメイスンでは当然やれることの差は歴然としてきます。

何があるのか分からないので非常口を撮ったのでしょうか。やはり写真がぶれています。

こういうときのシャンデリアは圧倒的ですね。エジプトの神殿の明かりのようでしょうか。

クラブの歴代会長の名前でしょうか。どうも1787年に開業したようなのでこの位いるのかもしれません。日本で言うと料亭みたいな感じなんでしょうか。まあそもそもクラブなんで組合に近いかと思いますので料亭みたいなものと根本的に異なるかと思いますが、江戸時代から続く組合なんて言うと関西の経済団体とかでしょうか。まあ名誉なんでしょうが私には分かりません。

完全に手ブレ写真ですが、恐らく王族か貴族の有力者のメンバーの肖像画だと思います。

まあ写真を撮ってあるのは良いんですが、なんだか分からないと意味が無いですね。まあ上述のような状況で、写真を撮るだけでも精一杯であったのです。

有力なフリーメイスンのブラザーなんでしょうね。

これも分かりませんね。クラブの会則とかでしょうか。
中に入るとすでに30分遅れ位で最初のオードブルが終わっているところだったでしょうか。食事は正直それほどおいしくなかったでしたが、話が最大のご馳走なのだという意味なのだと思います。席は決まっておらずほぼ満席で、空いているところに飛び込んだのですが、正面にイングランド人の独身女性が参加していて驚きました。学会の運営というわけではなくなんだかフリーメイスンの知り合いに誘われて興味本位で参加したような話でした。日本に2週間位滞在して興味があるとかなんだかお見合いのようで困惑しましたが旧約聖書の話なんかをして煙に巻いてしまいました。周りのブラザーに話をして旧約聖書を読んだかどうか聞いたら誰も読んだような話はありませんでした。リチュアルは覚えていて日本のグランドロッジも訪問したというギリシアのブラザーがいたり、イタリアのブラザーはスコットランドグランドロッジで売っていた勿忘草のカフスボタンを見せてくれました。高齢のブラザーはスコティッシュライトの33階級のバッチを誇らしげに付けたりしていました。なんとも面白い雰囲気ではありました。オペラ歌手のような方の独唱でアメイジンググレイスなどを聞いた後に最後は皆で手を繋いでオールドラングザインの合唱でディナーは終わりになりました。その後12時~1時ころまで隣のバーで続きがあったわけですが、私はもうお腹一杯のビックリヘトヘトな感じで、ちょっとシニムロッジのユダヤ人のブラザーに声をかけてもらって一緒にいた若い二人のユダヤ人が日本を訪問した際の感想の話など聞いたりしていましたが、さすがにその後一緒にお酒を飲みながら優雅に人生を変えてしまうかもしれない話をするほどの余力はなく、ちょっとニュークラブの若い従業員には笑われたりしましたがタクシーを呼んでもらってそそくさとその慣れない新しい宿に11時30分ころにはニュークラブを裏口から出て帰らせていただきました。


これはその時のチョコレートとプレカンファレンスディナーの際のスコッチウィスキーとガラディナーでのスコッチウィスキーです。アザミの花と枝でしょうかね。まあ飲んでる人もいましたが大体持ち帰っていました。まあ完全に記念品で保存用です。こういうのもフリーメイスンリーの貴重な体験だと思いますが、まあ付随的なものではありますが実際はロッジでの通常の会合も同じく、会合後の飲食会での話がメインであったりもしますし、ヨーロッパってのは良いなあというのを実感したというのが感想でしょうか。なんせ時差もほとんどなく、わずか数時間でこれだけの会合や観光や勉強ができる機会がそこらじゅうにあるのですから。これだけの貴重な機会をアジアで催すことはなかなか難しいのが現実だと思われます。
ジョージホテルでの朝食もまた様々なこういうフリーメイスン同士の機会でもあり面白いものがありました。まあとにかくなんだかフリーメイスンリーというのは面白いという事で良いでしょうか。
実際ヨーロッパのフリーメイスンでも旧約聖書はあまり読んでいない、それでもやっぱりキリスト教徒である、リチュアルを記憶はしているがなんともそこにあるユダヤ教や宗教改革の意味の理解はなかなか難しいというのがやはり現実なのですね。私も初めて実際のユダヤ人という方々と話をしましたが、やはり人種的にはヨーロッパの特にスコットランド人などから比べて東洋人に近く、また東洋や日本についても興味がある感じの印象を受けました。いわゆるハザール王国の末裔なのだと思いますが、実際会ってみてそういう実感を強く持ちました。キリスト教徒とユダヤ教徒というのが実際にあれだけ聖書という形で一体になっていても全く異なる存在としてヨーロッパやアメリカに存在し、表裏一体のような関係で、後々にフリーメイスンリーのような形で近代化の原動力となったという、そういう人種というものと文化と宗教が一体となったヨーロッパの一つの伝統的な形が一人のアジア人の前で表現されたような形で、ヨーロッパのフリーメイスンリーというものがどのようなものかという一つの現実を見せ付けられた印象であったかと思います。
皆さん是非日本語で良いですから旧約聖書から新約聖書まで一度通読してみてください。新しい世界がそこにあるかと思います。
まあちょっとなんだか分からなくなってくるかもしれませんが、本日11月30日はカトリックの定める聖アンデレの祝日という事で、いわゆる3と11のシンボリズムの日という事です。聖アンデレはもちろんスコットランドの守護聖人という事で、ほとんど内容をアップロードできていないフリーメイスンリー歴史学会のアブストラクトもあるわけですが、撮って来た写真としてはもうほぼ学会は終わりに近づいていて、学会二日目の終わりのニュークラブでのガラディナーでの写真です。歴史学会としては翌日の午前の半日の発表で予定は終了してランチで終わりなわけですが、なんと私はジョージホテルでの宿泊日を一日忘れていて、このガラディナーの日でチェックアウトの予定になっていて、ホテルにお土産を買って悠々と帰って来るとなんとも気まずい状況になっていて、かわいいホテルマンの女の子にかわいそうな目で見つめられてなんとか代わりのホテルを取ってもらって、タクシーを手配してもらって移動するというありさまでした。学会主催者の方にも大変ご迷惑をおかけして恐縮でした。まあこういうのがあるのがフリーメイスンリーなんでしょうね。一泊忘れるとは本当にありえないものでしたが、まああるんですね。まあはっきり言ってこういうのが本当に忘れられない思い出になります。
というわけで、かなりエディンバラの中心地の学会出席者という感じのホテルから突然歩いて30分ほどの住宅地の中のアパートの一室のようなホテルに移動して急いで蝶ネクタイをしてエディンバラプリンスィズストリートに面したところにあるガラディナーの場所のニュークラブに移動します。明るいので時間が遅い感じはしませんが、どうもエディンバラというところは飲み屋で騒いでいる人などは道からは見えない場所なので、いったいどんなところにこのニュークラブというのがあるのか全くわかりません。入口は完全に会員制の高級クラブという感じで、インターホンがあるだけの扉だったと思います。予定より30分遅れで着いたのでしたかね。入れないかと思いましたがなんとか入れてくれました。
グーグルアースであったニュークラブの入り口の様子を載せます。

この場所に遅刻して入っていくのは勇気がいりますが、予約してあって帰るわけには行かないので学会出席者だと言うと開けてくれました。内部はとても緊張します。ああいうのは好きな人は好きなんでしょうね。

まあまさにフリーメイスンリーの入会志願者の儀式そのものなわけですが、いわゆるロッジではなく会員制クラブというところでこういう形になったのはなんともフリーメイスンリーの入会儀式そのものな感じかもしれません。実はフリーメイスンリーの歴史学会には学会終了翌日にエディンバラのNo.1ロッジMary's Chapel Lodgeの第二階級の集まりにフリーメイスンが出席して良いという特典があったのですが、さすがに飛行機のチケットがあったのでそれは出来ませんでした。まあそういうのも予定に組める優雅なヨーロッパのフリーメイスンが優先的なシステムになっているのですね。一週間でエディンバラを歩きまわる英語の不自由なアジアのフリーメイスンでは当然やれることの差は歴然としてきます。

何があるのか分からないので非常口を撮ったのでしょうか。やはり写真がぶれています。

こういうときのシャンデリアは圧倒的ですね。エジプトの神殿の明かりのようでしょうか。

クラブの歴代会長の名前でしょうか。どうも1787年に開業したようなのでこの位いるのかもしれません。日本で言うと料亭みたいな感じなんでしょうか。まあそもそもクラブなんで組合に近いかと思いますので料亭みたいなものと根本的に異なるかと思いますが、江戸時代から続く組合なんて言うと関西の経済団体とかでしょうか。まあ名誉なんでしょうが私には分かりません。

完全に手ブレ写真ですが、恐らく王族か貴族の有力者のメンバーの肖像画だと思います。

まあ写真を撮ってあるのは良いんですが、なんだか分からないと意味が無いですね。まあ上述のような状況で、写真を撮るだけでも精一杯であったのです。

有力なフリーメイスンのブラザーなんでしょうね。

これも分かりませんね。クラブの会則とかでしょうか。
中に入るとすでに30分遅れ位で最初のオードブルが終わっているところだったでしょうか。食事は正直それほどおいしくなかったでしたが、話が最大のご馳走なのだという意味なのだと思います。席は決まっておらずほぼ満席で、空いているところに飛び込んだのですが、正面にイングランド人の独身女性が参加していて驚きました。学会の運営というわけではなくなんだかフリーメイスンの知り合いに誘われて興味本位で参加したような話でした。日本に2週間位滞在して興味があるとかなんだかお見合いのようで困惑しましたが旧約聖書の話なんかをして煙に巻いてしまいました。周りのブラザーに話をして旧約聖書を読んだかどうか聞いたら誰も読んだような話はありませんでした。リチュアルは覚えていて日本のグランドロッジも訪問したというギリシアのブラザーがいたり、イタリアのブラザーはスコットランドグランドロッジで売っていた勿忘草のカフスボタンを見せてくれました。高齢のブラザーはスコティッシュライトの33階級のバッチを誇らしげに付けたりしていました。なんとも面白い雰囲気ではありました。オペラ歌手のような方の独唱でアメイジンググレイスなどを聞いた後に最後は皆で手を繋いでオールドラングザインの合唱でディナーは終わりになりました。その後12時~1時ころまで隣のバーで続きがあったわけですが、私はもうお腹一杯のビックリヘトヘトな感じで、ちょっとシニムロッジのユダヤ人のブラザーに声をかけてもらって一緒にいた若い二人のユダヤ人が日本を訪問した際の感想の話など聞いたりしていましたが、さすがにその後一緒にお酒を飲みながら優雅に人生を変えてしまうかもしれない話をするほどの余力はなく、ちょっとニュークラブの若い従業員には笑われたりしましたがタクシーを呼んでもらってそそくさとその慣れない新しい宿に11時30分ころにはニュークラブを裏口から出て帰らせていただきました。


これはその時のチョコレートとプレカンファレンスディナーの際のスコッチウィスキーとガラディナーでのスコッチウィスキーです。アザミの花と枝でしょうかね。まあ飲んでる人もいましたが大体持ち帰っていました。まあ完全に記念品で保存用です。こういうのもフリーメイスンリーの貴重な体験だと思いますが、まあ付随的なものではありますが実際はロッジでの通常の会合も同じく、会合後の飲食会での話がメインであったりもしますし、ヨーロッパってのは良いなあというのを実感したというのが感想でしょうか。なんせ時差もほとんどなく、わずか数時間でこれだけの会合や観光や勉強ができる機会がそこらじゅうにあるのですから。これだけの貴重な機会をアジアで催すことはなかなか難しいのが現実だと思われます。
ジョージホテルでの朝食もまた様々なこういうフリーメイスン同士の機会でもあり面白いものがありました。まあとにかくなんだかフリーメイスンリーというのは面白いという事で良いでしょうか。
実際ヨーロッパのフリーメイスンでも旧約聖書はあまり読んでいない、それでもやっぱりキリスト教徒である、リチュアルを記憶はしているがなんともそこにあるユダヤ教や宗教改革の意味の理解はなかなか難しいというのがやはり現実なのですね。私も初めて実際のユダヤ人という方々と話をしましたが、やはり人種的にはヨーロッパの特にスコットランド人などから比べて東洋人に近く、また東洋や日本についても興味がある感じの印象を受けました。いわゆるハザール王国の末裔なのだと思いますが、実際会ってみてそういう実感を強く持ちました。キリスト教徒とユダヤ教徒というのが実際にあれだけ聖書という形で一体になっていても全く異なる存在としてヨーロッパやアメリカに存在し、表裏一体のような関係で、後々にフリーメイスンリーのような形で近代化の原動力となったという、そういう人種というものと文化と宗教が一体となったヨーロッパの一つの伝統的な形が一人のアジア人の前で表現されたような形で、ヨーロッパのフリーメイスンリーというものがどのようなものかという一つの現実を見せ付けられた印象であったかと思います。
皆さん是非日本語で良いですから旧約聖書から新約聖書まで一度通読してみてください。新しい世界がそこにあるかと思います。
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