2013-12-01 20:51 | カテゴリ:本について
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
まあブラザーダン・ブラウンの新作なわけですが、翻訳本が昨日届いたので一気に仕事と思って読んだわけなので、感想やあらすじを書いていきます。

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内容としてはちょっと荒唐無稽な話で、話の筋としても相当後付けで無理くりあてはめて解説する解説なんかあったりして、明らかにこのブラザーダン・ブラウンの一連の作品の中で作りたかったのは単にロスト・シンボルだけであり、後はまあブラザーダン・ブラウンの存在自体からプラスアルファでしかない、恐らくフリーメイスンリー関連三部作というところでダ・ヴィンチコード、ロスト・シンボル、インフェルノで終わりなのだなというところが垣間見えるわけですが、まあそのプラスアルファの中でもルネッサンスの先駆者とされるダンテ・アリギエーリによる「神曲」は恐らく3の象徴の最も顕著な芸術作品としてフィレンツェやヴェネツィアやイスタンブールの観光資源と共に紹介せずにはいられないものであったのだと思われます。
インフェルノという題名ですが、神曲の地獄編、国立西洋美術館にあるダンテの地獄の門のある、インフェルノから来ているわけですが、その他に人類の三分の一に不妊症を引き起こし人口抑制を引き起こすとされる人造ウイルスのいわゆる感染という意味でのインフルエンザや恐らく専門的にはインターフェロンのようなものにも掛けたような題名かと思います。インフルエンス(影響する)という意味も要するにインターネットにも掛けているのだと思います。基本的には人口抑制を企図したマッドサイエンティストによる生物テロのような話になっているわけですが、私も専門がワクチン製作であったこともあり、不妊ワクチンなんてのは普通にワクチンの応用としてすでに10年くらい前には実験的に作られていて、ほとんどの人が考えるような恐ろしいと想像されるウイルスというものはほとんど実現されているというのが現実なのが、実際の現代科学な訳ですが、この本の中ではいわゆるルネッサンスの社会的背景として重要とされる黒死病、ペストの感染とも重ね合わせられていて、インフルエンザやHIVともあわせて、感染症と人類との戦いやそれらの社会的な影響はどの生き物にとっても重要な要素であり、それらはまさにこのブログでも何度も取り上げている聖書でも神による不信心なものに対する懲罰や神の御業として出エジプトの10の神の御業の顕現から繰り返し現れる、古代からの自然現象や社会現象であり、またそれらの制御やそれらの回避、免疫は重要な秘められた知恵や語り継ぐべき技術でもあったわけです。
実際旧約聖書を読むとユダヤ教の戒律の大きな部分がこれら感染症の隔離や治療にあることも分かりますし、戦争と疫病が古代における最大の社会現象であり、またそれは現代も変わらないという事はすぐに分かるかと思います。インフルエンザもいわゆるスペイン風邪と第一次世界大戦の関連は言われていたり、またその後のソ連風邪のようなものは実際に実験室から流失したとも言われており、また専門的にはHIVの起源は様々に言われてはいますが実際は明らかに不明で突然アメリカのカリフォルニア州で発見されたものであり、いつの間にか人口爆発盛んなアフリカを中心とした人口抑制の大きなカギとなっているものでもあります。その他ペストにしても梅毒にしても正確な起源や流行に関しては不明であり、不明でありながらある時期に一斉に爆発的な感染力を持って人類の大多数を感染させて不治の病となってそれらを様々に克服していく中でまた社会の安定と人口の増加を繰り返すというのが人類の歴史でもあり、感染症の歴史というものはそのまま人類の歴史でもあるものかと思います。
トランスヒューマニズムという考え方というか呼称も結局はフリーメイスンリーではかつて盛んであったという優生学や現代では遺伝子操作や生殖医療、遺伝子治療と言われる技術であり、ユダヤ教の初子を撃つや過越の祭りではありませんが、フリーメイスンの生誕日や忌日の数秘術などでも認められる通り様々な要素が常に生物として存在してそれは確実に複雑化して進歩しており、私としてはそういう技術や考え方を名前を変えて新規のものとして取り扱う姿勢といったものはあまり肯定的ではありませんが、新しい技術や環境、考え方を包含する以上はそういう表現になるのは仕方のない所かと思いますが、まあ基本的に聖書の記述と同じく人類のおかれた環境はそう大きく変化はないのだと思われます。

それで、このブログのテーマとしてのフリーメイスンリーという事になるわけですが、まあ周知の通りブラザーダン・ブラウンはロンドンのグランドロッジでインフェルノの出版会見をするようなほとんどフリーメイスンリーの公式小説家のような立場であり、インフェルノにしても陰謀論によく表れるようなワクチンによる人口抑制や外交問題評議会CFRなどいわゆる陰謀論者がいかにも食いつきそうなキーワードを含めながら、フリーメイスンリー的には魔笛のごとくの味方と敵の転換のような相対論のストーリーにプロットをちょっと無理くりあてはめている事と、途中に出てくる有名な芸術家の一行の紹介が皆フリーメイスンであることなどが、このブラザーダン・ブラウンのフリーメイスンとしての実力というところになるのを見てとれるわけですが、まあどうしてもHouse of the Templeが総力を挙げて作り上げた体裁のロスト・シンボルの内容は越えられないというのはこれはまあ個人の力ではないわけで、ありえないわけですが、それは結局あとがきの中でもなんだかインフェルノの映画化が2015年で、ロスト・シンボルの映画化はそれ以降で恐らく映画化されないんだと思いますが、そういう事のようです。

というわけで、3の象徴の元としてルネサンス以前の重要な文学作品としてのダンテの神曲の紹介、これはロスト・シンボルではデューラーのメランコリアでもあったわけですが、まあ私もいつかはダンテの神曲も翻訳でも読もうと思いますが、基本的にはカトリックのキリスト教の中心的な教義とその時代のダンテの創作の融合かと思いますし、現代のフリーメイスンリーにそのまますぐに繋がるような宗教改革後のものではないかと思い、なかなかまあ日本におけるキリスト教伝道の歴史の方が若干面白いかもしれないそういうものかもしれないというところで、喫緊の全人類の課題である人口問題とそれによる環境問題というのは地球温暖化と高齢化が言われる先進国では誰もが問題として感じるものであり、そうした普遍的な問題を明確に扱ったテーマとして単なるベストセラーではないという免罪符がある、まさに現代の免罪符のような作品かと思われます。

まあ面白かったか面白くなかったかと言われれば、それは明らかにロスト・シンボルの衝撃と恐らくそれを読んでこれは自分と関係ないと思った人の面白く無さとは違った、まあなんだか大機構の総監がやたらスコッチ・ウィスキーを飲むのがスコットランドで私がおぼえた習慣の皮肉かと思わせるほど、5月の出版なんで英語版の方がスコットランドの学会より早いわけですが、結局そういう本なんだなあという、マスメディアというインターネットメディアとはだいぶ異なる技術を集積した、ちょっと過去のメディアになりつつある手法の、まあ私のブログもこの位の値段で売れたら大分生活も楽なんだけどと思う次第でしょうか。

とりあえずフィレンツェ、ヴェネツィア、イスタンブールという流れがもちろん十字軍から騎士団の流れの地であり、それらが後のルネッサンス、宗教改革の元であり、もちろんそうした地中海世界がトルコのマウソロス霊廟を始めとして、ユダヤ教、キリスト教、ローマ帝国、中世ルネッサンスの文化の舞台であり、ヨークライト、スコッティッシュライトを始めとしたフリーメイスンリーの学習の対象であり、途中に何度も出てくる演劇や変装の話が明らかにスコティッシュライトの演劇による教訓の学習の話とリンクしてるんだなというブラザーダン・ブラウンによる秘密のプロットという表現もある事は付け加えておきます。
付け髭のアレルギーなんてあるんですね。フリーメイスンリーですね。
このブログでは後々に対日情報対策を行ってかつての横浜ロッジのあった場所にある元英国領事館の横浜開港資料館に残されるドン・ブラウン文書の恐らくブラザーダン・ブラウンの元ネタというとおかしいですが、GHQ情報課長ブラザードン・ブラウンについて本を整理して記事としようかと思っています。
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(追記:あとはフィレンツェの500人広場が主要な場面になっていましたが、これはダ・ヴィンチの隠された名画の話もあるのだと思いますが、それ以上に、いわゆるフランス革命の三部会と一緒で、中世の民主制の象徴としての場所になるのだと思われます。ウェストミンスター寺院の参事会会場Chapter houseと同じで、それは結局ほとんど全てが合衆国議会議事堂を舞台としているロスト・シンボルの話と同じく、民主主義というシステムがフリーメイスンリーの最も重要なシステムであるという象徴なのだと思われます。)
2013-12-02 21:18 | カテゴリ:横浜
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
新しいシリーズというか、金沢区のところでも触れた我が母校の事な訳ですが、まあ特に同窓会に許可を取ったとかそういう事はないわけですが、そもそも横浜ロッジに私が迎えられるきっかけとなったのが結局その私自身医学部大学生から研修医、大学院と計10年以上も通っていた横浜市立大学医学部とその附属病院、さらにそのうち関係が深いのが現在横浜市立大学附属市民総合医療センターという名前になっている南区にある附属病院がかつては横浜十全病院という名前で、どうもその名前の由来がフリーメイスンリーのスコティッシュライトの十全会、Lodge of Perfectionというところにあるようで、どうもそれらの名前を付けたと考えられる設立当初に診療を主導していたドクトルシモンズと呼ばれるDuan B. Simmonsデュアン・B・シモンズがフリーメイスンらしいというお話です。
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まあ要点を言ってしまうとそれまでなのですが、実際シモンズがフリーメイスンという証拠はなく、青山墓地にある墓を見ても明らかにオベリスクではありませんし、シンボルマークがあることもありません。
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晩年を三田で共に過ごした福澤諭吉による追悼文が書かれた追悼碑の形なのですね。良く見るとごつごつした灯籠とつるつるした灯籠がまるでパーフェクトアシュラーとラフアシュラーのような形となっていて、また二本の灯籠がヤキンとボアズの柱の形のようにもなっているというところが、もちろん福澤諭吉がそれを意識していたとか、福澤諭吉本人が考えてやったというところは想像しがたいわけですが、恐らく死後に彼の生前の様子を知っているブラザー達によって付け加えられたものなのだと思われます。

ブラザーシモンズがフリーメイスンであると考えたのは最初にこの墓を見たからではなく、そもそも大隈重信とブラザーフルベッキとの関わりと、ヘボンやブラザーフルベッキらの旧約聖書の翻訳作業の話や、また「石の扉」の作者でもあるブラザー加治将一の有名なフルベッキ写真というちょっとオカルト気味の話の元として、要するにブラザーフルベッキがフリーメイスンであったというところが青山墓地のオベリスクのお墓からも明確となってきて、さらに横浜市立大学のヘボンホールの名前や、ブラザー林董とヘボンとの関わり、またブラザーサーハリー・スミス・パークスやブラザーサーアーネスト・メイソン・サトウなどのいわゆる坂本龍馬との関係を書いたブラザー加治将一の「坂本龍馬の黒幕」の話、さらにブラザートーマス・ブレーク・グラバーとの関わりや、ブラザーレオンス・ヴェルニーを含めて灯台建設のブラザーリチャード・ブラントンなど当時のお雇い外国人や居留地の外国人がそのほとんどがフリーメイスンかそれに近い人物であったという事などが分かって来ると、自然と恐らくこの横浜市立大学医学部の源流となる横浜十全病院で働いていたというアメリカ人がフリーメイスンであっておかしくないなという確信が持てるようになりました。

結局それらを確信させたのは彼らの活躍について書かれた横浜市大OBによって書かれたブラザーシモンズについて書かれた本や横浜外国人墓地に葬られた居留地の外国人について横浜開港資料館の職員によって書かれた本での彼らについて書かれた内容からでした。

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これの特に下の横浜外国人墓地に埋葬されている人のそれぞれの解説をした本では横浜開港資料館の強みという事で、フリーメイスンでの活動なども詳しく触れられていて、結局最初にオランダ改革派教会の宣教師として来日した際のブラザーシモンズと一緒に来たブラザーサミュエル・ロビンス・ブラウンもフリーメイスンであると書かれていて、上記からブラザーグイド・フルベッキも確実にフリーメイスンであると思われ、いずれも日本到着後にフリーメイスンとなったようですが、一緒に来たブラザーシモンズも恐らくフリーメイスンであるに違いないというところだと思われます。
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ブラザーシモンズは当初は宣教師として来日したそうですが、どうも奥さんと共にかなり開港当初の横浜の外国人居留地の華やかな雰囲気に飲み込まれてしまって、宣教師としての資格を失ってしまって、結局医師としてヘボンと共に開業し、その後一旦アメリカに帰国して医学を勉強してきて数年後に医師として再来日するというかなり変わった経過をとっています。その他の二人の宣教師はそれぞれ優秀な働きをしてブラザーブラウンはいわゆる横浜バンドという日本のプロテスタントの源流となる教え子たちを教育し、後の明治学院大学の元となる学校を作り、ブラザーフルベッキに関しては大隈重信を始めとした肥前藩、佐賀県での藩校の致遠館での教育とその後の東京での明治政府の学校の教師や顧問を務め、やはり明治学院大学の教授を務めるなどしています。共に旧約聖書の日本語訳に関わり、ブラザーフルベッキに関しては明治政府の岩倉使節団の助言を行うなど、金沢区のシンボリズムの項目でも触れましたが、明治期の制度や地名の制定などに関してもかなり影響力をもった人であったようです。

まあ大体ブラザーシモンズがフリーメイスンであるという事に関しては分かったかと思いますが、色々ブラザーシモンズの活躍や、その他のフリーメイスンの関わりについて書いていくと相当長くなるので相変わらずの三分割にしようかと思いますので、今回はこの辺りでやめる事とします。
どうも2012年1月2日に始めたこのブログですがやはりこの辺りの記事はこのブログの主目的であるようで、ちょうど2013年12月2日とどうも色々数字のシンボリズムがあるような感じでしょうか。
2013-12-04 10:18 | カテゴリ:横浜
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
どうも2の倍数のシンボリズムのようで、本当は12月3日に書ける予定であったのですが、どうも無理のようでした。まあそういうわけで、実際このブログの日付のシンボリズムや内容との相関や、内容的にもなかなか興味深い刺激的な部分は個人の能力で湯水のごとくわいてくるのではなく、そういうのを手とり足とりアイディアを与える働きをするのがフリーメイスンリーの繋がりなのですね。過去のブラザートルストイやブラザードストエフスキーなどのあまりに内容に富んだ内容や聖書のようなものについても誰か一人がその全てを考えたり書いたりするわけではなく、社会と人類全体のその時の全体の意思や機会がたまたまそう作用するだけであって、それはまさに個人においては霊感であり、世界で見ると唯一神のおぼしめしというわけになるのだと思われ、それがまさに民主主義と個人主義を成り立たせる神髄でありフリーメイスンリーの汎神論であるのだと思われます。シンボリズムもまさにそれに付随する法則なのであり、それはまさに文字でもあるわけです。

題名も徐々に時代がかってきますが、それもこれもブラザーシモンズについて書かれた本の内容からです。
結局当時の明治維新の際に日本に来ていて活動していた外国人のほとんどがフリーメイスンかその周辺の人物であり、フリーメイスンであろうとなかろうとそれぞれ本人の意思と各国の派遣元の意向と明治政府と居留地の様々な事情に基づいて動いていたのは当然であり、その中でフリーメイスンリーがそれほど有利に働いたというわけではないでしょうが、恐らく様々な情報を得る手段としては参加者たちにとっては非常に有益でありまたそうしたフリーメイスンリーのキリスト教やユダヤ教、仏教など宗教を越えた考えはキリスト教に対して否定的であったり、植民地支配に警戒していた日本の人々にとっては単なるキリスト教の伝道よりは信頼が寄せやすいものであったのかと思われます。

ドクトル・シモンズという荒井保男さんという横浜市大医学部OBの方の書かれた本によると横浜十全病院でのブラザーシモンズの活動の記録を通して当時の明治維新における西洋医学の普及の仕方と当時の社会の医療の水準、また国や周囲がそれらをどのように評価していたかと、その結果生じたブラザーシモンズと福澤諭吉との交流を通してそれらがまた後の明治の時代に影響していったかを書いていて、現代の状況を顧みる素材ともなるようです。
まあ読んでもらうのが一番早いわけですが、私も横浜市立大学医学部に入学した際にそれらの本を頂いて一切読まなかった事が走馬灯のように思い出され、恐らく現在の学生たちもこれまでの多くの学生たちも同様であったのだろう事を思いますが、恐らくこのブログを読んでいるような方は手にとって読むこともあるのではないかと期待しています。

本の内容の要約については私もやっと今ブラザーシモンズの項目について読み終えたばかりのところなのでまとめるのがなかなか大変なのですが、どうも私も現役の医師なのですが様々な状況でやたらと読書の時間が増えて現在のような状況で、さらにオランダのブラザーにはアンダーソン憲章を早く翻訳するように促されるような状況な訳で、ブラザーダン・ブラウン以下このブログで取り上げた書籍の売り上げに貢献するばかりのような気がしているわけですが、まあ要約を書かないとこのブログ以外読まないブラザーデッカーの回想録のようにお話にならないというところがまあインターネットメディアの特性でもあるわけでして、前提としてネットにある情報以外摂取できないというのもまたブログ読者の傾向でもあるかと思われますので、要約をあげていくこととします。

まあ色々と臨床医学の内容と被るので細かく説明するのはちょっと憚られるのですが、基本的にブラザーデッカーの公衆衛生の話やこのブラザーシモンズの功績の話にしても医療というのは自らの功績や仕事について披歴するというのはそもそも医の倫理というところから言っても科学的な検討以外においては基本的にタブーであり、またそれは他の人の仕事についても業績を評価したり批評したりするのはタブーであるというのが基本的にあるものであり、そういう点においてはどれほどブラザーシモンズの経歴が異色のものであったり、当時の横浜外国人居留地とそれを取り巻く開国当初の日本の医療事情やまた明治期の世界の医療の進歩というものも現代とは大きく異なり想像をはるかに超えたものであることから、もちろん医師の仕事というものはどの時代にも不変のものがあるのは当然であるので、なかなかブラザーシモンズの業績について書いて行くのも難しいわけです。しかしながら基本的にこのブログはフリーメイスンリーとそれにまつわる視点から物事を論じてきているわけで、その中において医療やその対象とする病気や公衆衛生は非常に重要な部分を占めるものであり、そういう点においてブラザーシモンズやブラザーデッカーの仕事というのは非常に重要なものと評価されるのかと思いますので、あえて若干切り込んだ形でブラザーシモンズの業績というところを見ていくこととします。

医療として見ていく際にはどうしてもその人の医療人としての人格、傾向、性向が重要となるわけであり、それはどうしても要は全人格的な評価とも絡んでまさにフリーメイスンリー的なフリーメイスンか否かの評価ともかなり近づくというところがあるかと思います。そういう点においてはここまでの登場人物の中でのブラザー林董の師であるヘボンの評価はフリーメイスンではないのですが、横浜市立大学医学部のヘボンホールに名前を残し、明治学院大学にその銅像を残す通りにケチのつけようのないものであるのかと思われます。医師としては専門が眼科でありながら、糖尿病の足壊疽やその他外科の小手術を行ったなど現代では考えられない医療を行っているわけですが、それらについても大きな問題なくこなしており、また医療以外にも人格者として評判であり、また弟子が優秀な日本の外交官として日露戦争の立役者となるフリーメイスンであるなど、またヘボン式ローマ字や聖書の翻訳、円満な夫婦関係と長寿でありそれほど変遷の無い人生などまさに本人が加入の意思さえあればいつでもフリーメイスンとなったであろう人物であるかと思われます。恐らく信仰の部分、聖書の解釈や理解の部分でそういうところに達しなかったという事なのだと思われます。

ブラザーシモンズについて見ていくと重要なのが3点あるかと思われます。一つは宣教師として日本に来ながら結果的に医師となってその職業を全うしたこと。もう一つはその他に同じ教会より3人の宣教師として送られた残り二人のうち、ブラザーフルベッキは改宗ユダヤ人として佐賀県からその後東京に移り大隈重信を教え子として育て、もう一人のブラザーブラウンは日本におけるプロテスタントの伝道の最初となり数多くのクリスチャンを育てたことで、彼らとは終生日本において明らかにライバルとしても友としても交わっていたという事。最後がやはり福澤諭吉との宿命ともいえる臨終の際までの繋がりであり、それがまた日本人にとってのブラザーシモンズの役割というものを特別なものとしていることなのだと思われます。その他には私生活として見るとこれは私がフリーメイスンと断定した根拠ともなるのですが、一人息子のヒラムという名前の子が20歳前後で日本で死去し、それがために夫婦仲が難しくなってその後の妻をアメリカに残して母親を伴った再来日と福澤諭吉との新聞での日本文化に関わる論説発表と腎炎での死去に繋がるのかと思われます。

ブラザーシモンズの医療活動については相当色々評論するのに問題があって、要は彼自身がそもそも宣教師でありながら職業替えしてヘボンのもとで医師として働き、その後アメリカで即席の形で勉強してその後日本で先進の医師として勲章をもらうほど働いたというわけで、まあそれはもちろん色々良い評判だけではなく様々な評価があったかと思いますが、そんな状況の日本で専門の知識をもった欧米の腕利きの医師が日本人と極めて近づいた状況で日本人のために医療を行う事が当時なかなかありえないわけでして、戊辰戦争の当初の際にはやはりスコットランドエディンバラ大学で外科を学んだ恐らくかなり優秀な英国副領事でもあったブラザーウィリアム・ウィリスが官軍の支援に野毛山の軍陣病院で医療に当たったそうです。ほぼ同時期にエディンバラ大学の教授であったブラザーサージェームズ・シンプソンによるクロロホルムによる麻酔法が確立され、またブラザーリスターが教授を務めていたグラスゴー大学で消毒による外科手術法が確立された頃であり、それらを学んで実地に医療をイギリスで修めて日本で軍医として働いた副領事ですからまさに当時世界最先端の医療を行っていたのだと思われます。この際には大山巌や西郷従道、桐野利秋の治療も行ったとあり、またそれ以前には生麦事件の死者の治療や会津藩の負傷兵の治療も行っていたとありますから、この時に指揮をしていた大村益次郎が蘭学医でありながら戦争を指導し、後に暗殺され傷の化膿で亡くなったことなどを考えると、こういう医療における戦いともいえるものがすでに開国当初よりあったのかとも思われます。その他にもブラザーウィリアム・ウィリスにはイギリス公使館医師のシッドール(J. B. Siddal(釈迦の名前のシッダールタと被るので恐らく彼もフリーメイスンになったのではないかと思われます。))、ドングロイ、ジェンキンスらも働いていたという事で、彼らもフリーメイスンであった可能性があるかと思います。基本的にイギリス人で当時に日本に来ていた人はほぼフリーメイスンかそののちにフリーメイスンになっているかだと思いますし、それはオランダ人でもアメリカ人でもフランス人でもそれがほとんどだと思われます。当時の日本に来ていかに高給であるといえども指導的立場で生活して仕事をすることは現代はその差は非常にかつてに比べれば小さくなったとはいえ、その当時は非常に大変なことであった事は想像に難くなく、寿命を見ても短命な人が多いことからもフリーメイスンと認められる機会は明らかに本国よりは大きいのだと思われます。(ブラザーウィリアム・ウィリスは日本来航前に看護師と未婚のまま子供を作っていて、またアイルランド出身という事でカトリックの可能性があり、もしかするとそれらの関係でフリーメイスンではないかもしれません。ブラザーアーネスト・サトウともかなり親しかったようなので複雑です。亡くなったのが2月14日の聖バレンタインデーという事もカトリックを示すシンボリズムかもしれません。インターネットにアップロードされている教会の埋葬記録では2月15日のようです。)

まあ結局は大勢の影響によってその後ブラザーシモンズがアメリカでの医療の学習を終えて日本に戻った際に、明治新政府の中枢で顧問として活動していたブラザーフルベッキの知己のために東大前身の大学東校で教鞭をとることとなり、その際にももう一人のドイツ系のシモンズという人と混同されるなどいわゆるフリーメイスンリーっぽいやり取りがあったりします。このブラザーフルベッキとブラザーシモンズのやり取りが非常にその後も大きなわけですが、ブラザーフルベッキはモラヴィア出身の父親とイタリア出身の母親のもとでいわゆるユダヤ系の恵まれた家庭の子女として音楽や文学を教わる環境でオランダで成長し、その後アメリカに移って、さらに改宗ユダヤ人の宣教師として来日し、さらに三人の中で一人11月7日に長崎に降り立ちその半島の付け根であるかつての大村氏や龍造寺氏の支配地域、後の鍋島藩の領地であった佐賀藩で藩校を取り仕切ったというところがまあ当初より開港の中心地に降り立ったブラザーブラウンとブラザーシモンズとの運命の違いでもあるわけですが、この佐賀という地名もやはりゲームの名前でも有名となりましたが、アイスランドのノルマン民族の叙事詩であるサガとも重なり、それこそテンプル騎士団やバイキングの新大陸発見説にも繋がる、まあ恐らくコロンブスの新大陸発見の下地になるものと同じ音なのだと思われます。
そう考えるとその後のブラザーフルベッキが恐らく行ったであろうYの名前やカノンなど音と言葉のシンボリズムの影響が分かるのではないかと想像されます。
それで、まあブラザーフルベッキの恐らくユダヤ人としての血統の良さと教育の高さ、改宗ユダヤ人としての聖書、キリスト教、ユダヤ教への造詣の深さから彼の意見が明治政府の中での相当な重点を占めるようになり、それに従って日本の医療のイギリス医学からドイツ医学への転換が図られ、その中で恐らく相当に優秀であったブラザーウィリスらは中央から締め出され、なんと薩摩藩で医学校の校長となったそうで、戊辰戦争や薩英戦争で薩摩藩の戦力を評価したためによるその後の西南戦争に備えた配慮であったと想像されます。それでなんとか準備の整ったところで廃止となった横浜軍陣病院の後に慶応義塾で学んだ早矢仕有的がこれも恐らくフリーメイスンと思われる梅毒に対して治療を行っていたブラザーニュートンのもとで医療を学び、神奈川県令などに働きかけてブラザーシモンズを破格の待遇で雇い入れる事で横浜中病院、後に横浜共立病院、神奈川県立十全病院として病院ができたそうです。恐らくすでに最初の来日時にフリーメイスンとなっていたブラザーシモンズがその後に恐らく一斉に広まっていた上位位階のスコティッシュライトの位階のシンボルとして病院の名称となって本人もそこに収まったのだと思われます。ブラザーアルバート・パイクによるモラル・アンド・ドグマの出版が南北戦争(1861-1865)後の1871年明治3年であるそうなので、まさにフリーメイスンリーの新時代も開かれていたときであったようです。
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(十字架というのもカトリックではキリストの磔像を重ねたりしますが、明らかに人間の四肢と頭を合わせた解剖学の基本の象徴なのでしょうね。レオナルド・ダ・ヴィンチのウィトルウィウス的人体図も明らかにラテン十字と太陽十字と人体の解剖を的確に重ね合わせた象徴と考えられます。もちろんエジプトのアンクも明らかに人体の形をしていますし、タウ十字はそこから頭部を取り除いた形でもあります。人型という生命の神秘と物質としての生体を重ね合わせた象徴なのだと考えられます。)

まあちょっと長くなりそうなのでこの辺りにして恐らく四分割となるのかもしれませんが、偶数回となりそうな気配です。次が具体的なブラザーシモンズの医療活動と福澤諭吉とその子息との交わり、最後にその他の十全病院やその他の横浜の病院で働いていた恐らくフリーメイスンと思われるイギリス海軍医のブラザーニュートン、ブラザーセジュイック、ブラザーヒル、ブラザーローレンソンとこれは外国人墓地について書かれた本でもフリーメイスンとある、十全病院で働いたブラザーウィーラー、ブラザーエルドリッジ、そしてオランダ人で恐らくフリーメイスンであったブラザーブッケマについて触れて終わりとしようかと思っています。
2013-12-04 21:30 | カテゴリ:横浜
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
まあ色々と横浜ロッジの方面の話となるととにかくややこしいのと、ロータリークラブやライオンズクラブと違って人生を掛けた一生ものの話が多いのと、とにかく話がすぐに世界や日本全体レベルに広がるので重いわけですが、その分横須賀の人にしてみると気楽に聞けるという内容であるかもしれません。

ブラザーシモンズの医療的な業績の話になるわけですが、その前にシモンズという名前がそもそもサイモンアンドガーファンクルのサイモンと同じ系統のいわゆるシメオン族の末裔という意味であることからも、ブラザーシモンズも要するにルーツをたどればユダヤ系であろうという事になるわけですが、どうも伝記を読む限りは本人にあまりそういう自覚がなさそうなところと、恐らく宣教師をやめたりしている経緯からも聖書をきちんと読んだりなどの勉強を本腰を入れてやったタイプではなさそうというところがあります。そういう意味ではブラザーフルベッキの名前の意味は恐らく町の名前などだと思われますが、ユダヤ人としての自覚が強かったであろう人物がブラザーシモンズを意識する事は強かったと思われますし、またブラザーシモンズが医学を学んで再来日した際のドイツ人のシモンズさんとの混同の話は恐らくその後にそうした名前やヘブライ語表現にこだわっていくことになるブラザーフルベッキがユダヤ人では尊ばれると考えられる医師として再び現れたブラザーシモンズに対する気づきへの導きであったのかもしれません。
イスラエル部族
まあいずれにしても再来日後の神奈川県立十全病院に勤務し始めたブラザーシモンズは相当働いたようです。最初の活動としてはどうも伝染病予防法の元となる防恙法を建議したという事で、恙とはツツガムシの事で恙無くという言葉の元となる、日本やアジアに特異的な野原に住むダニの一種によって感染する寄生虫のようなリケッチア感染症の元となり、これはのちに福澤諭吉が感染して発疹チフスで生死の境をさまよった病気のことです。まあ名前は防恙法ですが、基本的には日本にかなり特異的な風土病であるツツガムシ病に感染しないような環境改善が必要であるという建議なのだと思われます。恐らくすでに日本に来た外国人の情報からツツガムシ病という恐ろしい病気があるという情報を知っていたのだと思われます。
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その次に行ったのがまたやはり法整備の要請で売薬取締法の建議だそうで、要は現在の医薬品販売に関わる薬事法の制定を要請したことで、これもやはり法整備する事で薬の貿易や輸入に関しての利益性もあったのでしょうし、実際怪しい薬での病気も相当数あったのではないでしょうか。
まあどうも明らかにフリーメイスンとして働き出したブラザーシモンズなわけですが、医療人として実際の活動のところもどうもフリーメイスンとしての活動のようでした。解剖を良く行っていたそうで、さらに脚気についての論文などを出したりして、その内容にドイツ留学中の森林太郎が反駁してドイツ語で反論したなどという複雑怪奇な後のブラザーシモンズと共に慈恵医科大学を創設した高木兼寛の脚気治療法の発見にも繋がるような伏線の話と思われますが、どうもそうした話を総合するとほぼ脚気の原因が日本の白米食にあった事はフリーメイスン達は分かっていたのかと思われます。
その後はやはりブラザーニュートンらが集中して対応していた梅毒の治療について引き継ぐのですが、どうも荒井保男さんの本によるとブラザーシモンズは梅毒の感染についての日本の性風俗について詳しかったという事のようで、どうもこの辺りにブラザーシモンズの宣教師失格の原因があり、その後の夫婦仲の悪化があり、また石灯籠の象徴にも繋がるものがあるような感じでしょうか。その辺りはブラザーデッカーはなんだかんだでうまい事やっている感じでしょうが、やはり子供が日本で死んでいるところは共通かもしれません。
その後のコレラの対応についてはかなりきわどい話があります。そもそもコレラの感染は幕末から明治にかけては頻発し、それが開港や開国に関連して生じたという話があるわけですが、どうもこのブラザーシモンズの関与した横浜のコレラ発生、その後日本全国に広がるほどの感染であったようですが、それは明らかに居留地のアメリカ館で入れたお茶であるそうで、それが毎回それであるようなので、まあまだコレラ菌の発見とか抗生剤とかない時代なので治療としてはなんとか消毒薬の入った水分をとる位しか無かったのだと思います。その対応としてすぐにブラザーシモンズは病者の隔離を横須賀の長浦、恐らく現在も貯油施設として使われている可能性の高い長浦の当時は半島に隔離したのだと思われますが、これは要するにほぼ隔離された人は死んでしまったのだと思いますので、まあインフェルノではないですが、そういうノロウイルスやO-157の話にも繋がるそれをはるかに超えた壮絶な社会現象であったのだと思われます。これはさすがに後々微妙な評判になる事は間違いないかと思われます。
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種痘に関してはもちろんブラザージェンナーが始めたワクチンの始まりであり、日本に伝えたオランダ人医師ももちろんフリーメイスンでしょうし、幕末では孝明天皇の死因が天然痘であるらしいことが有名かと思いますが、その後も種痘を行わなかった人々で盛んに天然痘の大流行があったそうで、種痘は非常に良く広まったのだと思われます。
寄生虫の虫下し薬がセメンエンというシモンズと似た名前で良く売れたという話も載っています。疥癬対策に薬用石鹸も販売し良く売れたそうです。さらに栄養の改善に牛乳を勧めたそうです。恐らく相当頑張っていたので医学校の設立の話も出たそうですが、東京大学医学部の元となる大学東校があることから十全病院の建て替えになったそうです。
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その後は非常に面白いエピソードとして福澤諭吉が明治3年5月5日に水天宮のお参りに行ったあとに発疹チフスになって、ヘボンが診察を断ってブラザーシモンズが50両を請求して治療にあたったことがあったそうです。基本的にツツガムシ病で発症する発疹チフスですが治療はテトラサイクリン系抗生剤かクロラムフェニコールしかないそうで、当時にそんな薬はありませんので、ブラザーシモンズはいわゆるキニーネやウイスキーなどの熱病に対する熱冷ましの治療を行ったようです。函館から取り寄せた氷や人工の氷でとにかく解熱を図ったそうです。この水天宮のお参りは非常に面白いエピソードで一緒に行った子供の一太郎と捨次郎は当時6歳と4歳であったようですが共に誕生日が11月22日と11月9日となかなかのシンボリズムで、後にブラザーシモンズのアメリカでの協力もあって留学もしているのですが、この水天宮というのもまた福岡久留米に総本宮がある神仏習合の神社なのですが、元々がバラモン教のヴァルナという最高神で、ゾロアスター教のアフラマズダと一致する神社だそうです。福澤諭吉自身も西暦で1月10日生まれ、旧暦で12月12日生まれという事で、まあ明らかにシンボリズムが認められました。中津藩の下級藩士の家に生まれ、儒学を修めてその後蘭学や英語を勉強して咸臨丸で欧米を巡り頭角を現していくわけですが、後に東京学士会院初代会長も務め、明六社ではブラザー西周やブラザー津田真道と共に名を連ねる啓蒙教育者であるわけですが、信仰という点においてはフリーメイスンのアメリカ人のブラザーシモンズやユニテリアンの伝道師との接触から一時期はユニテリアン(キリストを人間とするデイズムに近いキリスト教)に近い考えをもったそうですが、聖書を読んだ形跡はなく、ほぼ無宗教に近いながらも上記のように水天宮にお参りする日本人であったようです。それでこの水天宮のエピソードは恐らく彼の信仰を試す機会でもあったのではないかと思われます。
福澤諭吉の子供は9人いて皆成人しているようですが、その他にも誕生日のシンボリズムが認められる状況であり、彼の特筆すべき業績が以前も触れたかと思いますが、アメリカ独立宣言の最初の日本語訳であることは間違いないかと思いますので、早稲田大学の創始者である大隈重信と共に福澤諭吉がフリーメイスンになる可能性についても当時のフリーメイスン達が丹念に見守っていた様子がうかがえるかと思います。
ちなみに付け加えると曾孫の福澤武氏は幼少期に結核などされ苦労されたそうですが現在は三菱地所の会長をされていて、三菱地所と言えばテレビCMで特筆すべきセントポール大聖堂や横浜の三菱重工の造船ドックのフリーメイスンリーのシンボルを数々入れ込んだものを放映しており、フリーメイスンリーへの気付きは4代目にしてなされたのかもしれません。


またこの発疹チフスのエピソードで面白いのが病気をきっかけとして芝にあった慶応義塾と福澤邸は福澤諭吉がその場所を嫌って三田に移ったという事です。まあ場所のシンボリズムなわけですが、なんとその後にブラザーシモンズの再来日の際の住居であった築地の場所が旧福澤邸の庭の辺りであったそうで、福澤諭吉がそれについいて触れたりしていたそうです。なんとも水天宮にお参りしてツツガムシに刺されるという話と、防恙法の建議をした元宣教師の医師ブラザーシモンズとはまさになんとも不思議な取り合わせであったようです。

福澤諭吉はその後慶応義塾の中に医学校を作ったそうですが、結局一旦閉校となり、イギリス医学からドイツ医学への流れの中でそれに逆らうようにブラザーシモンズと共に高木兼寛を学長として後の慈恵医科大学の元となる成医会を作ったそうです。ブラザーウィリアム・ウィリスも大学東校で教鞭をとっていた関係でやはり東大医学部の祖とされるようです。まあ有名な大学は大概フリーメイスンとの関わりがあるのかと思われます。慶応大学の医学部は結局福澤諭吉の死後の大正時代にまさにドイツ医学を象徴する北里柴三郎を医学部長として開設されたそうです。ブラザー林董によって作られた日英同盟の流れは後にブラザーフルベッキ、ブラザージェイコブ・シフらのユダヤ系のフリーメイスンの意向もあってドイツ、イタリアとの三国同盟へと繋がったのかもしれません。

結局10年近く横浜十全病院で働いたブラザーシモンズは一人息子のヒラムが20歳前後で亡くなったことで一旦妻と一緒に帰国する事を決意し、日本政府に勲章をもらってアメリカに帰国し、その間に福澤諭吉の二人の息子の留学を世話していたそうです。ブラザーシモンズの息子の死については詳細は不明ですが、恐らく上記のようなブラザーシモンズの様々な活動などを考えると様々な恨みとまでは行かなくとも誤解や偏見はあったかと思いますので、そういう影響もあった時代なのではないかと思われます。それ以前の梅毒を治療していたブラザーニュートンも様々な毀誉褒貶を受けて長崎で客死したりしていますし、この時代のお雇い外国人による西洋医療の導入は眼科医であったヘボンの特異な例を除いて、かなりショック療法のごとき効果があり、本人も含めて様々な劇的な反応があったのではないかと思われます。
福澤諭吉は二人の息子の留学中に慶応義塾の拡充に務め、ハーバード大学から3人の教師を招聘したりしており、これなども恐らく当時の学長もフリーメイスンだと思われますし、来日した教師もフリーメイスンが含まれていたのかと思われます。

離日から5年後にブラザーシモンズは母親を伴って再来日します。この目的は一応日本文化の研究という事であったそうですが、夫婦仲が息子の死後かなり険悪となり恐らくアメリカでいたたまれなくなって母親を伴って出来る事なら日本人の後添えがあればというような発想があったのではないかと思われますが、全体としては福澤諭吉の論説が載った時事新報にいくつか日本の西洋化を批判する記事を書いて後に腎炎を発症して亡くなる経過を見ると死に場所を求めていたようにも思えます。80近くであった母親の動向は不明ですが、恐らく息子の死を看取ってアメリカに帰ったのかと思われます。荒井保男さんはえらくこのブラザーシモンズの日本の伝統文化を賞讃する論文や、日本の真の文明化を促す論文を良いものとしていますが、私としてはそのような背景と、最終的に腎炎となりかつて患者であった福澤諭吉の家のある三田で福澤諭吉に見守られて亡くなる経過は壮絶であり、なんともある意味ブラザーモーツァルトやブラザーロバート・バーンズのようなフリーメイスンの死を思わせる因縁に基づく象徴的な非業の死かと思われますが、腎炎もまたリウマチ熱などと同様に日本でありふれていた猩紅熱、β溶連菌による感染症をきっかけに生じるものであることを考えると水天宮での発疹チフスの意趣返しのようでもあり、なかなかその後の福澤諭吉の何度も発作を起こしながら脳卒中で無くなる経過ともあわせて明治の時代の啓蒙の夜明けの時代の壮絶な死を思わざるをえないかと思います。ブラザー林董のヘボンの治療を思わせる足壊疽からの死もまたそれら一連の出来事を連想させる出来事ではありますが、このブラザーシモンズの死もまたそうしたフリーメイスンの死を象徴する死であったかと思われます。ブラザーシモンズが最後の論文で日本女性の着物姿を西洋服姿と対照として西洋化を批判していたのがなんとも現代にも通じますがなんとも矛盾したフリーメイスンリーの日本でのありがちな活動として象徴的なものを感じました。
彼の墓碑を福澤諭吉が記し、その前にフリーメイスン達が二つの石灯籠を建てたのはまさに彼の日本での行動を象徴したフリーメイスンとしての象徴であるのかと思われます。
ブラザーブラウンの帰国に際しても膀胱結石の診断を膀胱鏡を行ってブラザーシモンズがしたようですし、一緒に来日した三人のフリーメイスンの縁は終始繋がっていたようです。ブラザーフルベッキはブラザーシモンズの死後9年たって自宅で心臓麻痺で突然死しています。ブラザーブラウンは自宅が火事になったり、教えていた校舎が火事になったりとして結局明治9年に帰国し明治13年にマサチューセッツ州マンソンで70歳で亡くなっています。やはり年齢が大分上だったのですね。ヘボンは96歳で亡くなる際には明治学院のヘボン館が同日に火事になることがあったそうです。
まとめると以下の通りです。
ブラザーグイド・フルベッキ         1830年1月23日-1898年3月10日
ブラザーデュアン・シモンズ         1834年 -           1889年
ブラザーサミュエル・ロビンス・ブラウン   1810年6月16日-1880年
ジェームス・カーティス・ヘボン               1815年3月13日-1911年9月21日
福澤諭吉                        1835年1月10日-1901年2月3日
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横浜市立大学医学部附属市民総合医療センターにあるブラザーシモンズの顕彰碑です。平成11年1月に作られたそうです。
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横浜市立大学医学部福浦キャンパスにあるヘボンホールの顕彰碑です。横浜市立大学の校章は何でしょうね。カエデかなんかの植物なんでしょうが、いずれにしても下向きの三角である事は確かなようです。シンボリズムではカトリックか女性のシンボルになるのでしょうかね。Yのシンボリズムもあるようです。平成17年に出来た新しいシンボルマークは明らかにGを意識しているようですが、まあYを強調しているようななんとも曖昧な感じでしょうか。
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明治学院大学にあるヘボンの胸像です。明治学院大学の中庭はユニオンフラッグの形となっています。長老派教会、いわゆる英国国教会の象徴なのですね。後はやや厳しいですが建物がMGの形になっているのだと思われます。明治学院大学はもちろん漢字でもシンボリズムがありますし、MG共にシンボリズムのローマ字ですね。
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一万円札で見なれた福澤諭吉の肖像です。慶応義塾大学のシンボルマークはペンは剣より強しを形にしたそうですが、明治18年ごろという事だそうです。これはフリーメイスンリーのセクレタリー秘書の記章と良く似ています。まあ偶然でしょうね。

最後は横浜外国人墓地のフリーメイスンに繋がる横浜十全病院で働いていたその他のフリーメイスンについてです。
2013-12-05 14:09 | カテゴリ:高知
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
突然なんですがまあ日本で人気の高い話題だと思います。
2010年のやりすぎコージーのやりすぎ都市伝説の内容を見ていて、どうもあの当時の方がフリーメイスンリー的にはやはり良い時代であったのだなあとヴェルニー公園の薔薇なんかを思いながらも回顧していたわけですが、まあブラザー加治将一の操られた龍馬の影響もあって、坂本龍馬の評価も極めて冷静なところに落ち着いて最近ほとんど評判も聞かないさみしい状況でもあるわけですが、それは良くないと再再評価ではないですが坂本龍馬の謎というところで一席打ちたいかと思います。

まあ詳しくはブラザー加治将一の本を読むのが良いわけで、実際の歴史はほぼその通りであったのだと思われますが、現在書いているお雇い外国人や明治大正の日本人の様子を想像しても、またちょっと前までの平成時代の日本人や自分自身を考えてもそこからさほど大きく変わってはいない、むしろこの情報化社会で聖書の内容を吟味するようになるまでの日本人の方がよほど変化したという状況であるかと思われますが、そういう変化の時代に坂本龍馬は極めて平均的な人物でありながらたまたま様々な運と巡り合わせで歴史に名を残す人物となり日本という国と文化の歴史に重要な役割を果たしたわけで、これからも誰もが自由に情報を操り発信していくことが可能な時代にあっては誰もがいつ何時坂本龍馬のように世界や日本やアジアの命運を左右するような大役を任されることがあってもおかしくない状況が訪れているのだと思います。
坂本龍馬は最後は不幸なことに暗殺をされて文明開化の明治を見る事はなかったわけですが、そういった志士は数多く幕府軍側にも官軍側にもいたわけで、むしろ坂本龍馬の存在が無かったのであればあれ以上の不幸な状況が拡大し長引いたこともありえたというのはまあ歴史の仮定な訳ですが、そうした坂本龍馬がフリーメイスンで無かったとしても死後にフリーメイスンリーについて何らかの評価を認めるのがフリーメイスンリーであるのはここまでこのブログを読んでいれば分かる事かと思います。

まあ展開を考えれば名前と誕生日と忌日か作品か銅像かとそういう事に大概なるわけで、結局フリーメイスンリーというのはセオリーを絶対とする確実な考え方みたいなところなので、そういう事になるわけです。
誕生日と忌日を見るとまず明らかにシンボリズムを認めます。
天保6年11月15日(1836年1月3日)-慶応3年11月15日(1867年12月10日)
一応西暦がありますが、孝明天皇なんかと一緒でまだ明治にも入っていないので完全に旧暦の時代の人なのですね。111と5のシンボリズムという事になるとキリスト教になるわけですが、慶応3年なんてのも恐らくこのブログで初めての和暦の明治以前の元号のシンボリズムになるのだと思いますがあるのだと思われます。そういうのでも最初の人なんでしょうねと思いましたが、どうもやはり孝明天皇天保2年6月14日(1831年7月11日)-慶応2年12月25日(1867年1月30日)もそうですが、桜田門外の変安政7年3月3日(1860年3月24日)もあり、さかのぼればペリー来航後の安政の大地震もほぼシンボリズムに則って起こっているようで、まあどういう仕組みなのかは分かりませんが、地震大国日本の真骨頂と言った感じのいわゆる神の御業なのでしょうね。特に嘉永7年の西暦でのクリスマス周辺の伊勢神宮周辺の大地震と安政2年のこれまた西暦での11月11日の江戸の大地震はやはりこれは特筆すべきものなのだと思います。特に明治維新前のキリスト教禁教時代のクリスマス周辺の頃へのシンボリズムのこだわりとその事による心理的効果と明治維新への流れは日本の歴史としてやはり重要なのだと思われます。地震研究ってのは大変なんですね。
あとは坂本龍馬ではもちろん龍というアジアの象徴がフリーメイスンリー発祥の地イギリスでは聖グレゴリウスの龍退治という事でもちろん退治される側に回るという事があるわけで、そういう意味ではもちろん最初からそういう機会を考えていたという事になるのかと思われます。このシンボリズムに合わせて暗殺するとなると確かに確実なのは常に一緒にいる中岡慎太郎に殺させるわけですが酷い話ですね。このすぐ後にはブラザーハリー・パークス襲撃事件もありまさに明治維新とは戦争であったのですね。あとは数え年、まあそういうのも文明開化以前な訳ですが、数え年で33歳であったという事もキリストが33歳で磔になったとか、ソロモン宮殿が33年間保ったとかどちらも儚い哀れな話ですが、まあ諸行無常の意味でもあるのだと思いますが、そういう33という数字を確実に認めるものでもあるのですね。要するにどう考えてもフリーメイスンリーのシンボリズムに合わせたヨハネ・パウロ1世の死みたいな暗殺なわけですね。
もちろんブラザーハリー・パークスとブラザーアーネスト・メイソン・サトウとブラザートーマス・グラバーの仕事なんでしょうね。それだけ重要な役を坂本龍馬は担っていたというところになるのかと思われます。この当時はまだ南北戦争以前でスコティッシュライトも確立はされてはいませんでしたが、33階級保持者自体はアメリカを中心に認定されていて、その大元はオランダ人のアメリカ移住者であったそうですが、そもそもスコティッシュライト自体もフランス、ボルドー周辺でジェームズ二世を支持するジャコバイト達のフランス亡命生活の中から始まったそうなので、1666年のロンドン大火ではないですが、ユーラシア大陸の東と西で常にネットワークを張り巡らして物事を進めていくのがこのスコティッシュライトのやり方であるのですね。ボルドーワインはフリーメイスンリーのグランドロッジでも注文できますが、最近日本でも普通においしいワインが飲める時代であるかと思います。スコティッシュライトに加入して飲むとより一層おいしいかもしれませんね。ロスト・シンボルみたいになってはいけませんね。

まあその年齢とシンボリズムから言うとキリストになぞらえた子羊のシンボルと同じ明治維新という近代革命のために捧げられた生贄、犠牲という意味もあるのだと思われます。

ええとまあ大概の謎は出てしまったようですが、後は銅像です。
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高知土佐の英雄と言えばこの龍馬像の龍馬という事になるのでしょうが、私はこの真言宗が盛んという四国も高知も行ったことが無いのでなんとも言えませんが、長宗我部元親や蜂須賀小六、山内一豊や山内容堂の評価はどうなんでしょうかね。まあこの銅像もいわゆる右手を差し込んでいる、ブラザーナポレオンや、スターリン、ブラザーワシントンにも認める形であったでしょうか。カール・マルクスでも認めるとか陰謀論でもあったと思いますが、どうも検索するとThe Hidden Hand that Shaped Historyというページがあり、いわゆる陰謀論なんですが、もちろんフリーメイスンリーとそういうポーズを直結するわけではありませんが、そういうスタイルが一つのシンボリズムとして特に権力者や有力者では流行っていたというところがあるようです。英文を読んでいくとどうも根拠となる聖書の原典は出エジプト記の第4章で神がモーセに数々の奇跡を見させて信用させて、その後にファラオに説得に行かせる前段階のところでモーセに懐の中に手を入れさせて皮膚病になってすぐに治るという奇跡を見せさせる動作がそれなのだと解説しています。一応その部分を引用します。

出エジプト記4章 使命に伴うしるし
モーセは逆らって、「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」と言うと、主は彼に、「あなたが手に持っているものは何か」と言われた。彼が、「杖です」と答えると、主は、「それを地面に投げよ」と言われた。彼が杖を地面に投げると、それが蛇になったのでモーセは飛びのいた。主はモーセに、「手を伸ばして、尾をつかめ」と言われた。モーセが手を伸ばしてつかむと、それは手の中で杖に戻った。「こうすれば、彼らは先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを信じる。」主はさらに、「あなたの手をふところに入れなさい」と言われた。モーセは手をふところに入れ、それから出してみると、驚いたことには、手は重い皮膚病にかかり、雪のように白くなっていた。主が、「手をふところに戻すがよい」と言われたので、ふところに戻し、それから出してみると、元の肌になっていた。「たとえ、彼らがあなたを信用せず、最初のしるしが告げることを聞かないとしても、後のしるしが告げることは信じる。しかし、この二つのしるしのどちらも信ぜず、またあなたの言うことも聞かないならば、ナイル川の水をくんできて乾いた地面にまくがよい。川からくんできた水は地面で血に変わるであろう。」それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重いものなのです。」主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」モーセは、なおも言った。「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。その彼が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう。彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい。」

モーセ、エジプトに戻る
モーセがしゅうとのエトロのもとに帰って、「エジプトにいる親族のもとへ帰らせてください。まだ元気でいるかどうか見届けたいのです」と言うと、エトロは言った。「無事で行きなさい。」主はミディアンでモーセに言われた。「さあ、エジプトに帰るがよい、あなたの命をねらっていた者は皆、死んでしまった。」モーセは、妻子をろばに乗せ、手には神の杖を携えて、エジプトの国を指して帰って行った。主はモーセに言われた。「エジプトに帰ったら、わたしがあなたの手に授けたすべての奇跡を、心してファラオの前で行うがよい。しかし、わたしが彼の心をかたくなにするので、王は民を去らせないであろう。あなたはファラオに言うがよい。主はこう言われた。『イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしの子を去らせてわたしに仕えさせよと命じたのに、お前はそれを断った。それゆえ、わたしはお前の子、おまえの長子を殺すであろう』と。」途中、ある所に泊まったとき、主はモーセと出会い、彼を殺そうとされた。ツィポラは、とっさに石刀を手にして息子の包皮を切り取り、それをモーセの両足に付け、「わたしにとって、あなたは血の花婿です」と叫んだので、主は彼を放された。彼女は、そのとき、割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。主はアロンに向かって、「さあ、荒れ野へ行って、モーセに会いなさい」と命じられたので、彼は出かけて行き、神の山でモーセと会い、口づけした。モーセは自分を遣わされた主の言葉と、命じられたしるしをすべてアロンに告げた。モーセはアロンを伴って出かけ、イスラエルの人々の長老を全員集めた。アロンは主がモーセに語られた言葉をことごとく語り、民の面前でしるしを行ったので、民は信じた。また、主が親しくイスラエルの人々を顧み、彼らの苦しみを御覧になったということを聞き、ひれ伏して礼拝した。


まあこのブログの最初の方以来の久々の旧約聖書引用な訳ですが大丈夫でしょうか。旧約聖書も久々に読むと全く心に響きます。なんと言うか基本的な説得法と言うか演説術のようなものを懇切丁寧に分かりやすく説明してくれるところがあるまさに知恵の書です。それで、まあこの文を読むと手をふところに入れるシンボリズムも非常に分かりやすいわけですが、一方でロスト・シンボルでも認めていた右手や左手のシンボリズムでの意味もあり、また神の手と言うシンボリズムもあり、それぞれそういう意味が含まれるのだと思われます。いずれにしてもちょっと分からない人が見てもどうもこのポーズは意味がありそうだと思わせるいわゆるカッコイイ様子であり、そういうのが肖像画の一つのポーズとして流行ったという事なのだと思われます。坂本龍馬の銅像でもそういうブラザーナポレオンやブラザーワシントンが肖像画に書かせたシンボリズムを真似させたのでしょうね。神の手の使い、フリーメイスンリーの手となって動いたという意味も当然重ね合わせられているものかと思われます。まあどうも左手も隠してますし、そもそも坂本龍馬は手を出さない肖像画を取っていますし、そういうスタイルが粋だというちょっと不良少年のような感じもあるようです。さてまあそれだけだといわゆるほぼ陰謀論のページと変わらなくなってしまうのでここから先はいわゆる本格的なフリーメイスンリーのシンボリズムです。
その他の坂本龍馬像のシンボリズムは何でしょう?まあ家紋もあるのですが、これは良く分からないので家紋好きの人にまかせましょう。
後はまあこのブログを良く読んできた人はもう分かるかもしれませんが、右ひじをついている台がファスケス、束桿の形にぼんやりとなっているというところでしょうか。昭和3年作成の銅像と言う事で、シンボリズムもあるのだと思われますが、時代的にはその翌年が世界大恐慌でその後ファシズムが出てくるわけですが、まだ日本は関東大震災から立ち直りつつあったころで大正天皇の死から昭和天皇へと代替わりして満州ではその後の満州事変から満州国設立に繋がる端緒となる張作霖爆殺事件などがあった年でもあり、まあ作った方がファスケスやその後のファシズムを予知していたとは到底思われませんが、そういう形が既にこの像には認められるという事なのだと思われます。そもそも坂本龍馬の再評価も日露戦争の際に明治天皇の妃の皇后美子(後の昭憲皇太后)の夢枕に現れたという話からであり、坂本龍馬にまつわる評価や日本人の認識と言うところで一定のものはないというところが実際であるかもしれません。それで、まあ銅像にフリーメイスンリーによるその後の世界を占うシンボリズムが入っていたとしても不思議ではないわけです。
このファスケスに関しては明らかに元ネタと言うか由来となったものがあり、それはこのブログでも以前にトラファルガー広場のブラザーワシントン像で紹介したファスケスを元にしたものかと思われます。
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これは同じものがローマやワシントンD.C.のワシントン記念塔にもあるそうです。元々はヴァージニア州の州都の州知事庁舎にあるものでフランス人のブラザージャン=アントワーヌ・ウードンによるものだそうです。その他のブラザーワシントンの銅像についてもウィキペディアにページがありました。
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ブラザーウードンはその他の同時期のフリーメイスンの銅像を多数制作しているそうです。土佐の坂本龍馬像の制作者は日本人の高村光雲の弟子の本山白雲という方の作品で、主要な作品の多くが戦争で供出されてしまって原型も破壊してしまったエピソードがあるそうです。代表作がこの坂本龍馬像だそうですが、他にも国会議事堂の伊藤博文の像などあるようです。高村光雲の西郷像を手伝ったりとかなり優秀な銅像作家であったようです。
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その他にも有名なファスケスの像はこのブログでも触れたワシントンD.C.のブラザーリンカーン像のものでしょうか。こちらはピシリーリ兄弟ダニエル・チェスター・フレンチの監督のもとで作成したそうです。どちらもフリーメイスンなんだと思われます。碑文の彫り間違いやその他の謎についてはちょっと分かりません。アメリカの統合を守ったという意味でブラザーワシントン像にもブラザーリンカーン像にもファスケスが使われ、それは坂本龍馬像にも同じ意味で入れたのではないかと思われます。

さて高知にはその他にも有名なフリーメイスンリー関連の銅像があり、このブログでも横須賀唯一のパーフェクトアシュラーの回で無理やり触れたりしました。
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直角定規とコンパスは良く見ると折りたたんだものを持っている、中浜万次郎の銅像ですね。かなりはっきりしたシンボリズムで日本の銅像としては恐らく一番はっきりしたシンボリズムなんだと思われます。高知県の足摺岬にあるそうです。やはり生誕日と忌日文政10年1月1日(1827年1月27日)-明治31年(1898年)11月12日にはシンボリズムがあるようです。日本帰国後に軽い脳溢血を起こすなどあったそうですが、いわゆるペリー来航時の通訳をしています。銅像の製作者は大谷憲智氏と表記されていますが、実際は西常雄氏だそうで、お二人とも亡くなっているようですが、西常雄氏は99歳で2011年3月31日に亡くなられたそうです。1911年生まれで月日は分かりませんが、恐らく作品その他からもシンボリズムは認められそうです。この像の著作権で裁判を起こしていて認められたそうです。
(どうも総合すると日本人最初のフリーメイスンはジョン万次郎という事になるのでしょうかね。もちろん入会証明書やロッジを訪問したわけではないでしょうが、もしかするとあちらのロッジにはそういうのが残っているかもしれません。)

まあ恐らく高知のネタはこれ以上書くことはないと思うのでカテゴリわけして良かったのかどうか分かりませんが、全くこのままであればそのうちシンボリズムに入れてしまうかもしれませんし、分かりませんが、とりあえず高知県におけるフリーメイスンリーのシンボリズムと言う事は間違いないかと思われます。確かに現在は北海道はロッジはありませんが、かつてはあったそうですし、北海道の歴史を考えるとすぐに出来そうですが、四国は難しそうですもんね。フンフン納得と。
もうすぐ坂本龍馬の西暦の命日でもあるんですね。
2013-12-06 06:21 | カテゴリ:横浜
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
まあ四部構成というこのブログではかなり珍しいものですが、四元徳や四方位、四大元素などあり、はっきり言うとどんな数字にも意味があるというのがフリーメイスンリーであり数秘術なのがそれなのですが、それだけシンボルというものの意味にこだわるというのがまたフリーメイスンリーでもあります。

でまあ横浜市立大学医学部のもととなる横浜十全病院で働いたフリーメイスンについてなわけですが、それと4との関係というとなんとも辛いものがあるわけですが、病院で4というと未だに日本では死のイメージからその階が飛ばしてあるとか、部屋番号で無いとかそういう位しか思いつかないわけで、とにかく病院では4の数字というのは嫌われてほとんどの薬や何から4という数字は無いというのが日本では決まりとなっているわけです。もちろんフリーメイスンリーでは四元徳で特に現れる重要な数字でもあるわけですが、このブログでも触れた4福音書というのもあります。基本的に因数分解するので2×2で対称性を表すヤキンとボアズの柱のさらに対称性を持たせたり、2で日本の象徴というところのさらにそれを重ねるという意味にもなるのかと思われます。
あえてこの内容に合わせると横浜の頭文字が四にかかるかとか、浦舟町4丁目だとかそんな程度のダジャレくらいしか出てこないわけですが、まあそれくらいこの辺りの話がそもそも取り上げられるのも日本的なものであり、彼ら居留地のフリーメイスンリーにしても関東大震災や太平洋戦争で二度の中断を経験したものであり、現在の横浜ロッジも含めて横浜市立大学も私が大学院にいたときには外国人学長なんてのもあったりしましたが、大学を離れて大分経ちますが現在は恐らく相当に日本的な状況にあるという事なんではないかというところでそれが4という数字や偶数のシンボリズムに現れているという事で、ある意味安定や日本的、東洋的な調和を意味するものでもあるかと思われます。

というわけで本編の横浜十全病院で働いたフリーメイスンについて見ていくわけですが、まず確実にフリーメイスンと分かるのは横浜外国人墓地に眠る人々に書かれたお雇い外国人のブラザーウィーラーとブラザーエルドリッチだけなわけです。基本的にその他の医師であるイギリス人、アメリカ人、オランダ人についても横浜外国人居留地で当時はスフィンクスこそありませんが、豪華な列柱が並ぶ十字型の恐らく居留地で最も豪華な建築であったYokohama Masonic Hallがある時代であり、フリーメイスンリーについて知らない人はいないし医師や軍人であればまず所属しているであろう日本での安全保障の第一であったかと思われますので、これから挙げる主にイギリス人の医師についても皆所属していたものだと思われます。
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厳密には横浜ロッジの記録を調べないといけないわけですが、それには役員になってきちんとロッジの仕事としてまとめたり出版したりする作業が必要となるわけで、このブログはそれに準じる部分もあるのでしょうが、そこまでのものではないわけです。
それでまあ基本的に荒井保男さんによるドクトル・シモンズに書かれた内容に沿って解説していきます。
これはブラザーデッカーの回想録でも出てくる日本に来た外国人が江戸、明治、そして終戦後の昭和であっても非常に驚く事であったようですが、とにかく日本の性風俗は買売春に関しては非常におおらかで性感染症に対する予防意識が薄く、江戸から明治期にかけては一般庶民の成人であってもほぼ半分、専業者においてはほぼ100%何らかの性感染症をもっていたらしく、その中では梅毒は感染力が小さく感染率が低いとはいっても専業者で恐らく半分程、一般庶民であっても2-3割程の感染であったようです。これは昭和の終戦時であってもほぼ治療薬が無い状況と結局明治期にこれらのお雇い外国人が入ってきて公衆衛生や性感染症について主にキリスト教的価値観から啓蒙したとしてもほとんど変わらなかったと考えられ、むしろ食生活の改善やその他の衛生環境の改善などからさらに性風俗産業は活発となり、明治の元勲が伊藤博文や松方正義などかなり有名であった通りにいわゆる和魂洋才の行動規範はこういうところで顕著に認められていたようでした。
梅毒の感染確率は初期感染者との性的接触でほぼ2-3割で、それが潜伏感染者になるとさらに低くなることから、当時は不治の病であったこの病気は非常に蔓延しており、外国人居留地の横にすぐに売春街ができる構成であった当時としては居留地を管理する諸外国を代表するイギリスとしては性病感染を管理する必要があったのだと思われます。ブラザーウィリアム・ウィリスが慶応3年1867年に報告した「日本の梅毒」の抜粋を転載します。
「江戸では遊女の約十パーセントが梅毒にかかっているとみられるが、横浜ではこの病気の割合は少なくとも江戸より二倍も多い。……概して日本の田舎では梅毒はまれであるが、都市では三十歳の男の三分の一がそれに冒されている。日本の都市の街路で売春婦が大ぴらに客の袖を引く光景は少ないが、横浜ではその慣例が広く見かけられる。売春制度に関してわが国の外交部門や領事部門が日本の支配階級に有益な影響力を行使することができると思われる唯一の道は、開港場に日本政府が適当な病院を設立し、当分の間病気の女性の営業を強制的に禁止させることである。十分に資格のある人物が、少なくとも一週に一度、全ての売春婦を定期的に検査しなければならない。」
この方針に基づいて梅毒蔓延予防法が居留地に作られて、当時治外法権であった居留地で強制的に梅毒検査をするやり方で、ブラザーニュートンが本国から招かれて横浜梅毒病院を建設し梅毒予防のための梅毒の強制検査を行って梅毒罹患率を下げさせたそうです。記録によれば3800名中730名程の梅毒患者がおり、慶応3年1867年以前で80%の罹患率であったのが明治元年1868年で51%、明治二年には36%となったそうです。まあ当然確実な検査法の無い時代ですから、問診や視診で梅毒の診断を行っていたわけで、問診の程度が変わればその位の変化はあるわけで、要は感染率は当初の80%以上がそのまま続いたという事かと思われます。梅毒治療は主に薄めた水銀を飲ませるやり方であったので、後にノーベル医学賞を受賞するマラリアに強制感染させて高熱で梅毒を駆除して、キニーネでマラリアを治療するという命がけの治療以外抗生剤の発明まで公式には存在しないので、要は水銀治療もほとんど実際は治療できていなかったというのが現実であったのだと思われます。まあいずれにしても梅毒の診断がつけば遊女屋としては営業中止に追い込まれるのは必至であったわけで、避妊具もまともに無い時代にそれらの感染をそういう仕事で防ぐのは事実上ありえなかったという事で、ブラザーニュートンは次の長崎の赴任地で全面的な反発にあい、長崎のOccidental Hotelで41歳で客死してしまったそうです。横浜という土地のかなり軍隊から知事の権力までネットワークを張った環境と、かつてのカトリック布教の地であり、その後のフランス人神父によるキリスト教徒の再発見があった長崎ではイギリス人医師の活動に大きな違いがあった事は間違いないかと思われます。フリーメイスンリー的には単純にUnited Grand Lodge of EnglandとGrand Orient de Franceの対立関係という構図になってしまうかもしれません。ブラザージョージ・ニュートン、George Bruce Newtonは長崎市川上町外人墓地(旧大浦外人墓地)に葬られているそうです。忌日が1871年7月11日という事でシンボリズムを認めますが、墓の形を見る限りは単なるラテン十字でフリーメイスンらしさは無いようです。(階段状なのが若干ピラミッドに近いのかもしれません。)墓の写真のブログを見ると明らかにフリーメイスンを思わせるオベリスクの墓もやはりあるようですし、夭逝を示す折れた石柱の墓も認められ、ブラザーグラバーの他にも数多くのフリーメイスンがいたことがわかります。ユダヤ人達の墓もあることから、長崎にはキリスト教伝道の地という事でブラザーフルベッキも含めてキリスト教伝道の地としてユダヤ人家族がおり、キリスト教徒とユダヤ教徒との間でそれぞれやり取りがあったということが忌日のシンボリズムからは想像されます。恐らくそれが後の原爆投下の引き金になったこともあったのではないでしょうか。
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で、そういうちょっとすでに難が付いた梅毒病院事業であったわけですが、ブラザーニュートンの後任にブラザーセジュイックが付いたのですが半年で交代し、ブラザーヒルが着任します。この頃には梅毒病院の運営自体政府間同士の問題となる大問題となって来たようで、荒井保男さんはどうも中国人に肩入れが強かったこともあってか、やたら治外法権問題の日本の自治権を問題としますが、明らかに梅毒感染は日本は基本的に放置という姿勢が明確であり、ブラザーパークスの要請でブラザーヒルは一カ月交代で横浜、兵庫、長崎の梅毒病院を巡回するというところで落ち着いたのですが、とにかく神奈川県令から何からこの梅毒事業をやめたがっているのが明確でこのブラザーヒルの着任もとにかく早く辞めさせたがっていたようです。結局6年いて帰国した後にブラザーローレンソンが就任し、さらに三港の他に神奈川、藤沢、浦賀、横須賀、三崎の神奈川県内の遊郭の梅毒検査をも実施したそうです。要するに遊郭が拡大し梅毒感染者も増えたという事のようです。明治十四年になって日本人念願のブラザーローレンソンが帰国したところで外国人医師による管理を完全に排除して日本人医師による自主的な運営となる運びとなって、ブラザーデッカーの際の敗戦後の昭和20年の横須賀での一般市民の性病罹患率50%というところに結果的に繋がるようです。まあまさにユダヤ教の肝でもあるこういう性病罹患率というところに文明とは何かという要諦がある気がします。ブラザーニュートンは種痘事業も開始して死後は日本政府にも表彰されたそうです。こういうのが予防医学の難しいところですね。

ブラザーウィリアム・ウィリス、ブラザーニュートン、ブラザーシモンズと続き明らかに西洋医学とは如何なるものかというところで結局受診する側が慣れて来たというところで再び本国で専門教育を受けた医師が赴任する状況となったようです。
この後に出てくる二人のフリーメイスンのアメリカ人とイギリス人の医師、ブラザーエルドリッチとブラザーウィーラーは明らかに対照的な人物であり対照的な人生であり、フリーメイスンとしても非常に対照的であり、恐らく横浜外国人居留地の開国から関東大震災までの歴史の中でフリーメイスンリーと特に横浜十全病院を代表とする日本人に対する働きかけという点において特筆すべき人物であるかと思われます。

ブラザーエルドリッチはそもそも北海道の開拓使官となった黒田清隆、旧薩摩藩士で明らかなシンボリズムを認める第二代内閣総理大臣を務めた人ですが、この人が五稜郭での戊辰戦争終結後の北海道で医学校を開くための人材としてブラザーグラント大統領に直接ワシントンD.C.で会って依頼した結果派遣された医師であり軍人であり、そもそも軍人として南北戦争で北軍に従軍した後にワシントンD.C.で医学部に通って医師になったという人物であり、恐らくこのワシントンD.C.滞在中までにはフリーメイスンとなり恐らく創設まもないスコティッシュライトの教育も受けたのだと思われます。そもそも医師としての教育もそのフリーメイスンとしての教育の一環であった可能性もあります。要するにフリーメイスンとしても当時のアメリカにおけるエリート中のエリートであり、明治維新後の日本にはジャポニズムの影響もあり、明治維新の奇跡的な進行に伴ってフリーメイスンとしても非常に優秀な人が集まる時代であったようです。恐らく北海道は五稜郭の建設もフリーメイスンをひきつけるランドマークであったのかと思われます。
明治5年より函館医学校を病院内に作り意欲的に教育や診療を行ったそうですが、まあ明治5年の北海道なんて恐らく生きるだけで大変な環境であったと思われますので、一人でそれらすべてを行っていたのでかなり消耗したのだと思われます。明治6年には夫人が来日し同居したそうです。明治7年にはロシア人教師やドイツ領事の殺人の剖検を行っているそうです。まあなかなか厳しい現実であったのだと思いますが、任期満了という事で明治7年に横浜山手に移転して開業し、明治9年に山手のゼネラル・ホスピタルの院長になったそうです。現在もブラフ・クリニックという名前でその病院の系譜は続いているそうです。その後ヘボンの手伝いなどをしながら、明治17年に横浜十全病院でオランダ人医師ブラザーブッケマの後任として着任します。
このオランダ人医師ブラザーブッケマについてはオランダのグロニンゲン出身で明治4年に来日後に陸軍軍医学校などで講義を行っていたそうです。明治13年から十全病院で働き明治16年に長崎病院に医学校教師として転出し明治20年に帰国しハーグ病院に勤務したそうです。87歳まで長生きしたという事で明らかに他の人と比べてヘボンに近い無難なところを過ごしたような印象でしょうか。日本薬局方の制定にも力を尽くしたという事で恐らく薬学の知識が優れていたようです。オランダのフリーメイスンリーはフランスとイギリスの間を取り持つ形で、独特の要領の良いポジションを保っている印象であり、恐らく彼もフリーメイスンだと思われますが、目立たずに必要な情報を適切に収集し無駄なこだわりを持たずに帰国したというような印象でしょうか。やはりヨーロッパを代表する港と独特の低地を擁し、長崎出島を300年に渡って維持した新教国としてのオランダのポジションは日本にとってもかなり注目すべき存在なのだと思われます。
ブラザーエルドリッジはゼネラル・ホスピタルをも兼務していたそうです。明治33年には慈恵成医会の副会長に就任し、日本の医会の重鎮と目されていたそうです。弟子の六角健吉という方が通訳などをしていたそうです。居留地民の病気などについて本国でも報告したり、論文を残していて、居留地民の動脈瘤について報告したりしていて、恐らく梅毒感染の末期症状について暗に報告していたのだと思われます。このブラザーについては面白いエピソードが豊富でそれはとくに横浜外国人墓地に眠る人々に記載されています。
フリーメイスンリーの活動に関する記述があり、フランシス夫人は本人より30年以上長生きしたそうですが、女性のためのレディズ・ローン・テニス&クロッケー・クラブの有力メンバーであったという事で、恐らくイースタンスターのようなフリーメイスンの家族のための居留地でのスポーツと社交のクラブであったのだと思われます。ワシントンD.C.で恐らく優秀なフリーメイスンという事で名を馳せたためにやや派手好きの奥さんであったのでしょうか。国際婦人図書室の会長を務め、夫人慈善協会では副会長を15年、会長を20年務めていたそうです。
ブラザーエルドリッジ本人はハワイ王国の領事を務めた事と、日本アジア協会の会員だったことと、一時アマチュア・ドラマチック・クラブの役員を務めたことを除くと余業や娯楽にはあまり縁が無い人であったそうです。アマチュア・ドラマチック・クラブというのは字面から行くと演劇クラブなんでしょうかね。恐らくスコティッシュライトの演劇に通じるのだと思われます。日本アジア協会ではアイヌが毒矢に用いる毒の研究を発表しているとあって、いかにもフリーメイスンらしい研究でしょうか。アイヌというところが日本文化の深層を研究していそうな、また北海道を経験した人らしいところを感じます。その他に長老派教会の宣教医と一緒に良く富岡の慶珊寺を定宿として海水浴を行っていたそうです。まあ密談にもってこいの環境なんでしょうね。
フリーメイスンリーの活動としてはスコットランド系ロッジスターインザイーストNo.640のメンバーでスコティッシュライトに所属していて、Des Payenes Preceptoryでコマンダーであったそうです。日本管轄区のスコティッシュライトのグランドコマンダーというところでしょうか。結局スコティッシュライトの支部を上海に作るために移動中に神戸で体調を崩し1901年11月16日に横浜で亡くなったそうです。スコティッシュライトの管轄で何か色々背景があったのでしょうね。奥さんと子供は関東大震災をきっかけとして奥さんの本国であるイギリスに帰国したそうです。その曾孫の方がイギリスで一般内科医をされていて、玄孫に当たる御長男が日本人と結婚した際に来日され横浜市立大学医学部を訪問されたそうです。2001年11月10日に明治神宮で結婚式を挙げられたそうです。11月12日に横浜市立大学医学部で講義を行ったそうですが、わたしも学生であったようですが全く記憶にありませんでした。それらの様子がこの方のホームページに詳しく書かれていて、ブラザーエルドリッジの書簡についてもアップロードされていました。また有隣堂の広報にも載っていました。この方もブラザーロバート・バーンズの詩を載せていますので恐らくブラザーだと思われますが、メールでは今のところ反応ありませんでした。100年の時を越えて現在スコティッシュライトの中国での活動がまた正念場であるのかもしれませんね。(ブラザースチュアート・エルドリッジについて書いた英文のブログがありました。これによるとブラザースチュアート・エルドリッジの父親の名はレヴィ・エルドリッジというそうで、ユダヤ系であったようです。)
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もう一人の横浜十全病院で務めたブラザーウィーラーEdwin Wheelerはアイルランド出身であったそうです。宗教については分かりませんが、一般的にはカトリックが多数ですが、フリーメイスンであったことからもプロテスタント系であったようです。ブラザーウィーラーは明治3年に来日し公使館付医師として活躍し、翌年から工部省鉄道医となっています。日本の鉄道の開業はその翌年の明治5年で、それ以前に最初に鉄道建設を担当した横浜外国人墓地に葬られている恐らくフリーメイスンのエドマンド・モレルが激務のために明治4年に肺結核で30歳で亡くなっており、それらの関係がありそうです。鉄道建設は現在でも大事業であり土地取得や労働力など様々な周辺地域への影響があり、日本での代表的な死の病である肺結核にあまりに短い期間で感染し亡くなったことなどは、その当時の日本における文明開化の実際を伺う逸話だと思われます。ブラザーウィーラーはその後開業してゼネラル・ホスピタルでも働いていて、一旦ブラザーシモンズが辞めた後の横浜十全病院に勤めたそうですが二ヵ月半でブラザーブッケマに譲り、ゼネラル・ホスピタルの医師に戻ったそうです。明治16年にふたたびブラザーエルドリッジと共に横浜十全病院に務め、二年余りに渡って働いたそうです。医師としては「親切さ」と「誠実さ」によって居留地の誰からも愛されたという事だそうです。ブラザーウィーラーが取り上げた新生児は千人を越えたそうです。
フリーメイスンとしてはイングランド系横浜ロッジの会員で、日本地方本部ロッジ、いわゆる当時の日本グランドロッジの役員を務めていたそうです。関東大震災の直前に神戸と横浜でどちらに日本グランドロッジをおくかという事で問題となる綱引きがあったそうで、それらに直接かかわっていたのだと思われます。非常に活動的な人物でいわゆるYC&AC、現在の横浜ロッジの横にある横浜クリケット&アスレチック・クラブの創立時からの会員で、会長も務めていたそうです。モリー・ボーン号というヨットも所有していたそうです。ヨット製造で名高いウィットフィールドの建造になるもので、H・J・ゴーマンの操縦によりレースで何度も優勝したそうです。競馬にも情熱を注ぎ、日本レース・クラブの役員を何度も務めたそうです。来日間もない1871年明治4年に陸軍が招魂社(現靖国神社)で開催していた競馬でタイフーンという馬を見つけ、格安の値段で購入して本格的な競走馬に育てて、その年の11月に秋季競馬でデビュー戦を飾り、その後も優勝を何度も飾り48戦23勝の成績を飾ったそうです。夫人のメアリーもレディズ・ローン・テニス&クロッケー・クラブの有力メンバーで1877年から6年間会長を務めていたそうです。ブラザーウィーラーは横浜合唱協会の役員を務め、横浜文芸音楽協会でも合唱で活躍したそうです。一度も帰国することなく日本に滞在し、47年間横浜にいたそうです。クライスト・チャーチやヴィクトリア・パブリック・スクールの委員も務めたそうです。絵にかいたような名士であったようです。子供は長男と長女ともに横浜で夭逝しているようです。1922年大正11年9月1日に82歳で横浜で関東大震災で被災し自宅に帰る途上の谷戸坂上で亡くなったそうです。
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最後は最初に横浜外国人居留地にできた病院であるフランス海軍病院についてです。フランス海軍病院は現在のホテルニューグランドの辺りにあったそうで1864年に作られたそうです。生麦事件の2年後という事で、まあ何でもフランスは最初が多いんですね。もちろんそれらの中では公に横浜で最初のロッジとされるアイルランド系軍隊ロッジのスフィンクスロッジが上陸したのが1864年で1865年に初めての集会を開いたそうですが、恐らくそれ以前にこれだけの建物があるという事は現在のホテルニューグランドの場所においてグラントリアンの系列のロッジが会合を開いていたものかと思われます。この病院は横須賀のブラザーヴェルニーによる横須賀製鉄所とも連携しており、戊辰戦争の際には幕府軍の新撰組などの重傷者の治療を行ったそうです。この病院で活躍したのがブラザーポール・A・L・サヴァティエであったそうです。ウィキペディアでは植物学者として紹介されています。横須賀における最初の梅毒罹患率の検査を行ってほぼ100%であることを報告していると思います。帰国に際して明治天皇より勅語をもらっているそうです。フランス海軍病院は明治7年に火災で全焼し、明治8年にフランス駐留軍が引き上げて再建されなかったそうです。まるでそのままUGLEとGODFの関係をそのまま見るかのようなデジャヴでしょうか。
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さていかがでしょうか。長きに渡ったシリーズですが、関東大震災前の横浜居留地、横浜ロッジに関する予備知識としてはかなり十分な内容となったのではないでしょうか。今後はさらに横浜外国人墓地に眠る人々と英文の日本グランドロッジから日本のフリーメイスン100周年記念で出版されたMasonry in Japan THE FIRST ONE HUNDRED YEARS 1866 to 1966とさらに大澤鷺山著の日本に現存するフリーメーソンリー (1941年)(昭和16年11月15日発行)という、まあ特に最後のものは日米開戦の一カ月弱前に出版され、国務大臣企画院鈴木貞一推薦といういわくつきのものですが、明らかにどの時代の日本から出版されたフリーメイスンリー関連本よりも最も横浜ロッジの実際の活動について詳しく書かれた本であり、結局それが東條英機の1945年9月11日の逮捕に繋がり、東京裁判での死刑判決となり1948年12月23日の絞首刑に繋がったという本であるかと思われますが、それらについてまとめていこうかと思っています。鈴木貞一さんは東條英機のいわゆる三肝の一人でありながら唯一平成時代まで生き残ったA級戦犯として100歳で亡くなられたそうです。著者の大澤鷺山という人はちょっと検索しても出てきませんが、恐らくこの企画院の関連の方なのだと思います。企画院の関連としては有名な総力戦研究所の話がありますが、恐らくそれらの関連もあるのかと思われます。横浜ロッジに保存されている文書など特別なものがあるかもしれませんが、まあいずれにしても公開されているもの、開港資料館に保存されているものが過去の情報を繋げるためのほとんど全てだと思われますし、恐らくロッジに保存されているものは関連が全く不明であるような会議の議事録や会合の出席のサインではないかと思われます。そこまで至るのはまずこれら出版物やアンダーソン憲章、モラルアンドドグマの内容を把握してからなのだと思われます。
2013-12-07 08:47 | カテゴリ:スコットランド
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
重い話題の後は相変わらずのスコットランド、エディンバラのフリーメイスンリー歴史学会の写真です。
まあイギリスでパブにヘリコプターの墜落なんてニュースもありましたが、世界のどこであっても人間社会というものは本質的に変わらないというのがフリーメイスンリーの教えでもあります。
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ガラディナーから新しいホテルに帰った後の窓から見た月でしょうか。
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翌日はそのホテルから歩いてエディンバラ中心部まで向かったのですが、途中に墓地がありました。やはりオールドカールトン墓地とは違います。ほとんどフリーメイスンを示すオベリスクは建っていませんでした。エディンバラといえどもやはりフリーメイスンであるという墓はほんの一部なのですね。
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交差点にあった方位を示すコンパスでしょうか。まあやっぱりエディンバラ中心部と周辺でそういうシンボリズムの境界があるようです。
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セントポールセントジョージ聖公会教会だそうです。
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その真向かいにあるのがブラザーサーアーサー・コナン・ドイルの名前のパブです。ちょうど反対側にあるブラザーサーアレクサンダー・グラハム・ベルの名前のパブと対をなしています。
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こちらはスコットランド国立肖像画美術館です。結局そこにある肖像画ほとんどがフリーメイスンが描いて、フリーメイスンを描いているという事で、要はフリーメイスンの紹介美術館であったようです。いつかはまた行きたいですねえ。
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これはもうジョージストリートのエディンバラ王立協会ですね。22の番地にあるのが一つのシンボリズムのようです。日本の2.11や2のシンボリズムも一つの学問の終着の地としての極東の地という意味であるのかもしれません。
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3日目は半日で終わり、ランチは切り上げて再びホテルに戻り、ウェイバリー駅からロンドンのキングス・クロス駅に向けて約5時間ほどであったでしょうか。わざわざ一等車で乗ったのですが、一等車は子供しかいませんでした。現地の大人は皆二等車に乗っているというまあなんだか今時は子供向きらしいイギリス鉄道の旅です。
2013-12-07 13:42 | カテゴリ:シンボリズム
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
どうもまあフリーメイスンリーのシンボルの中心的なものであり、このブログでもヤキンとボアズの柱としてらせん階段 続きで、旧約聖書の該当部分を取り上げて解説しているわけですが、どうもこの入会のリチュアルの合言葉としても使われていた二つの柱の名前のJachinヤキンは意味は英語でfounding基礎、確立、設立、土台と言った意味で詳しく見ると神による確立だそうですが、反対のBoazボアズがstrength力という意味と説明され、ともに合わさると安定となるというまことしやかな解説となるわけですが、まあ一般的には対称性でもって相対論という解説を受けることが多いかと思われます。基本的な知識としてウィキペディアの解説ページボアズヤキンそれぞれの解説ページと33階級のブラザーによる解説を参照としてはどうかと思います。
どうもそれを読むとまあ旧約聖書を通して読んでいると分かるのですが、ヤキンとボアズと言うのはどちらも人の名前で作った人か奉納した人の名前であるらしいというのが聖書学では通説であるようです。ソロモン宮殿を建設した時代に流行った名前であるようにその時代の人の名前で多いのですね。
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でまあこれほど基本的なシンボルでありながらこれほど謎めいていて、どうもダジャレらしい語源と言うことで、それを省略してJとBと(どちらが左でどちらが右か分かりますか?)表記するのがいわゆるフリーメイスンリーのチャート、イラストに描かれるわけですが、そうなるとどうもこれはそういういわゆるアルファベットの象徴性というところにも繋がるという事で、JachinとBoaz以外の単語にもあてはめられるのではないかというところが出てくるかと思います。

まあこうなるとかなりいい加減で自由すぎる世界になって来るわけですが、やはりJといえばYの象徴性のところで取り上げたYHWHの頭文字という事になり、Yで隠されたJのシンボリズムが出てくるというところでやはり唯一神でありながら遍在し対称性の一つとしてのJHWHの頭文字という事になるのではないでしょうか。いわゆる善と悪、アフラ・マズダーのゾロアスター教で最初に唱えられたという世界の二元論でしょうか。天使と悪魔なんてブラザーダン・ブラウンの小説、映画があったと思います。わたしは個人的にはこの映画はブラザーダン・ブラウンの他のものより面白かった印象がありましたが、まあブラザーダン・ブラウンも極めて欧米人として信仰心が強く、そうなるとやはりどの国出身と言ってもカトリック的になるのだと思われます。まあちょっと脱線しましたが、そういうわけで唯一神ヤハウェの対称としての神となるとやはりイスラエル王国前のカナンで信仰されていたというバアル神Ba‘aluとなるのだと思われます。要は新旧の神々の対称性であり、日本では出雲の大国主と伊勢の天照大神の国譲りの話になるのだと思われますが、まああまり日猶同祖論的になっても新規性が無いので例えとして置きますが、そういう対称性も隠されているのかもしれませんね。
バアル神はカルタゴで信仰されていたバアル・ハモンとも近いそうで、それは結局ローマ帝国との戦いにおいて後にジュピターやエジプトのセト、イシス、オシリスがヤハウェやキリストの三位一体やマリア信仰に置き換えられて行くのと同じであるようです。またMの頭文字をもつ生贄を捧げる神としてのモレクというのもあり、これも旧約聖書に異教の神として認められるものですが、やはりキリストの磔や羊の生贄の象徴としての従来からある信仰と混じって行ったのかと思われます。日本でも大国主と大黒天や神仏習合の神々や弥勒菩薩のミトラ神の話などそういう神々の変遷はいくらもある話だと思われます。

さてまあそうなると対称性をキーワードにしてJとBで連想するものをあてはめるという事になるわけですが、まあ当然のことながらJewsとBritishやJapanとBritainとなるのでしょうか。まあダジャレですね。JBといえばもちろんジェームズ・ブラウンにもなるのかと思います。彼がフリーメイスンかは知りませんがミドルネームはジョセフで12月25日に亡くなっているそうです。医師がマイケル・ジャクソンと同じブラザーコンラッド・マーレーであったそうです。マイケル・ジャクソンもミドルネームがジョセフでしたね。BJでブラックジャックなんて手塚治虫の漫画もありました。JBの間にAll Seeing Eyeを入れてJOBかもしれません。そういうポスターがブラザーミュシャのものでありましたね。まあもちろん並びは逆です。(2013/12/27追記:JOBはそのままで旧約聖書のヨブ記のヨブの名前にもなるようです。もちろん旧約聖書のヨブ記というだけで、フリーメイスンリーのシンボリズムとして聞いたことはありませんが、キリスト教、ユダヤ教的にはシンボルというか聖書の主要な登場人物の名前であるかと思われます。)
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JTBなんて旅行会社もありますがまあちょっと遠いでしょうね。タウ十字とヤキンとボアズの柱なんてのはマニアックすぎます。もちろん海外のフリーメイスンからはそう思われていてもです。JesusとBuddhaなんてのも無理やりあてはめられないこともないでしょうか。まあ煽ってもしょうがありません。Jesuitと対称なんて考えたんですがちょっと良いのが思いつきません。Bankerとかでしょうか、もしくはBenedictusとかでしょうか。
(ヤキンとボアズで対称性と共に∧と∨の組み合わせと同じように陰陽の合一、男女の組合せの意味もあるようです。そうなるとJBのSexMachineと繋がるのですね。)
(2014/9/4追記:上の写真でも分かる通り並びとしてはBJの並びがソロモン宮殿の外側から見て正しいようです。それでBJというと日本では手塚治虫のブラックジャックとなるのでしょうか。まあそういう白黒のつぎはぎやらもそういう話であります。手塚治虫の漫画家としての復活のきっかけであり、その後の火の鳥の物語へ続き、最終的な昭和天皇の死の後を追うが如くの日本の外科医の象徴のような胃癌での死となるようです。日本語以外でのBJの略というと、カードゲームのブラックジャックでしょうか。フランス語のボンジュールも近いようですが、略は無いようです。日本のジーンズメーカーのビッグジョンの略にもなるようです。隠語の略にもなるようですが、こうなるとJBのSexMachineと反対になるのでしょうか。まあそういうのもありそうです。)
2013-12-07 21:42 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
まあいろいろ横須賀の状況もあってだと思うんですが、空母ジョージ・ワシントンも長い航海訓練から戻ってきて73の艦番号を光らせている状況ですが、私自身色々あってどうやら横須賀から転居する事になりそうなので、早めに恐らく横須賀の最後の話題になりそうなこのブラザーデッカー司令長官の回想録の記事を書き上げることとします。全部で15章あるので残り10章とあとがきと言う事になるかと思います。アメリカの州章も後30以上あるようなのでなかなか長い道のりです。スコットランドのフリーメイスンリー歴史学会の写真は終わりですが、アブストラクトの翻訳は30以上ありそうです。後はアンダーソン憲章は全く進んでいないのと、モラルアンドドグマでしょうかね。

まあ気を取り直してブラザーデッカーの回想録です。
第五章の題名は日本国を繁栄に導くマッカーサーです。

最初の副題はソ連軍の北海道占領を阻止です。基本的にこの章はブラザーマッカーサーを賛美する内容なわけですが、実際ブラザーデッカーの本心がどこにあったかはちょっと不明です。そもそも書き出しで太平洋戦争の途中でアメリカ海軍と陸軍の間で恐らく日本の敗戦後の占領政策を視野に入れてだと思うのですが、ブラザーマッカーサーを中傷するような情報がありそれを信じてしまってかなり基地司令官としてブラザーマッカーサーの指揮下に入る時もやや疑問をもっていたところがあったそうです。恐らく占領後の陸軍と海軍の縄張り争いやそれを意識した文章を読む限り、ブラザーデッカーのブラザーマッカーサーだけを特に陸軍の中で神格化して特別扱いする姿勢はフリーメイスンとしての特別な友愛の精神と共に、この後でてきますがブラザーマッカーサーが33階級保持者でその後恐らくレジオンドヌール勲章と共にスコティッシュライトの大十字章、the Grand Cross of the Court of Honorを受章しているからとも考えられます。まあここでのブラザーデッカーの話はブラザーマッカーサーがソ連の日本統治を拒否したので日本が共産化しなかったという話なのですが、細かく見るとブラザーマッカーサーはソ連の日本統治を拒否したわけではなく、日本に来ても結局ブラザーマッカーサーの傘下に入れるよという通告をした結果ソ連が日本統治に参加しなかったというわけで、これは要するにマルタ会談やヤルタ会談で話がついていてそれ以上の事をソ連がしなかったというだけの話であるかと思われます。
douglas-macarthur.jpgMacArthur, Douglas 2
次の副題はマッカーサーをチャーチルが絶賛です。ブラザーマッカーサーの日本占領での民主化政策を賞讃し、それをブラザーチャーチルが賞讃していた事について触れています。ブラザーペリーの開国の経緯にも重ね合わせて容姿やその公平な態度について触れています。昼寝の習慣についても述べています。知らない人にはシャイでもあったそうです。ブラザーデッカーが直接何度もブラザーマッカーサーとあった際に聞いた日本本土決戦の計画について触れています。まあ言うほど親しいわけではなかったというのが何となくわかります。日本本土上陸作戦はあったのは分かりますが、それ以前の原爆投下と終戦の経過を考えるとそれはまああくまで計画であったという事は分かるかと思いますし、それを実際戦ったブラザーデッカーやブラザーマッカーサーはそれを十分理解していてそういう会話をしているわけで、まあなんともフリーメイスン同士の会話と言う事かと思われます。九州の上陸作戦はうまくいったとしてもなんと九州の火山の噴火で作戦がストップしたであろうという事でした。昭和20年の九州の噴火と言うと桜島の噴火であるようです。上陸予定日は11月1日であったそうです。関東では大規模な戦闘になっていれば被害も相当なものになっていたという事です。ウィキペディアによれば第二次世界大戦史上最大の被害になっていたという事です。まあ実際原爆が無かったらそうなっていたんでしょうね。沖縄戦自体がそういう自体を想定したまた陸軍の活動を見せる場でもあったのでしょうね。実際太平洋戦争自体がミッドウェー海戦の時点でほぼ終結していたという考え方は主流であるかと思われ、また真珠湾攻撃を行った時点で日本の敗戦が決まっていたというのはこのブログで後に解説するブラザークラウゼンの回想録を読むまでもなく、フリーメイスンリーについてある程度知識があれば理解できるかと思われます。まあこういう仮定の可能性のレベルで語り合ってるのが陸海軍のフリーメイスンであったという事でしょうか。
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次の副題は昼食会に何度も招かれるです。昼食会でのブラザーマッカーサーの様子です。どうもブラザーデッカーはパーティーでの人の様子を観察したり人を評価するのが得意であるようなので、その延長で仔細にブラザーマッカーサーを観察していた様子が伺えます。ロシア人についてのコメントがありますが、どうもその言葉を取り上げるのは複雑な意図が含まれているようです。ブラザーマッカーサーと国務省のブラザーディーン・アチソンとの間での意見の対立があったことも伺わせます。これは後にブラザートルーマン大統領によるブラザーマッカーサーの罷免にも繋がる伏線であったようです。ブラザーデッカーは日本の降伏前に海軍省で連合国最高司令官が天皇の地位について決定するようにお膳立てする文書を作成していたそうです。この辺りがオランダからの家系であったブラザーデッカーのポジションなのかもしれません。飛行機事故で死亡したブラザージョージ・アッチソンがブラザーマッカーサー元帥の政治顧問で対日理事会の議長を務める手はずになっていたという事です。どうもわざわざ強調しているところを見るとこのブラザージョージ・アッチソンの事故にブラザートルーマンとブラザーディーン・アチソンが関係している事を暗示しているようです。
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マッカーサーにフランスの大十字章(エドウィーナに交代)とあります。なぜここでエドウィーナに交代なのかというところですが、恐らくブラザーマッカーサーがレジオンドヌール大十字章を受章したという事で、同時にスコティッシュライトの大十字章も共に受章したなど推測され、色々とその辺りにこだわりのあったブラザーデッカーは書くことを控えたのかもしれません。授与を行ったのが12月14日と言う事で実はこの日も重要な日なのですが、後でブログの記事として書くこととします。ペシコフ将軍が授与したそうですが、恐らくペシコフ将軍もスコティッシュライトの33階級なのだと思われます。このブラザーペシコフも検索するとどうもすごい経歴の方でそもそも帝政ロシアでユダヤ人として生まれ、ボルシェビキの中心人物でニコライ二世の処刑を指導した軍事革命委員会に参加して指導し、その後国家元首にあたる全ロシア中央執行委員会議長に選出されたヤーコフ・スヴェルドロフの兄だそうで、ロシアの作家のマクシム・ゴーリーキーと家族ぐるみで親しく、ロシアでユダヤ人に対する制限が強まった際に東方正教会に改宗して改名し、カナダに移住してその後フランス軍に志願して第一次世界大戦で右手を失い、その後フランスの大使として世界中を周り、第二次世界大戦中は自由フランス軍の一員として活動し、駐日大使となってからは戦後の台湾の蒋介石との交渉を行ったりしたそうです。グラントリアンの超大物と言う感じでしょうか。パリの東方正教会のロシア人墓地に葬られているそうです。右手を失っているなどまさにロスト・シンボルと同じ見えざる神の手のシンボリズムを体現したようなブラザーであったようです。横須賀の聖ヨゼフ病院を設立したブルトン司教に勲章を授与していたのもこのブラザーペシコフであったと思われ、その後ブルトン司教が癌で亡くなったりしたのも繋がる事かと思われます。まあなかなかこの辺りはすごいですね。ブラザーペシコフの子孫の方が作ったブログがありました。結局ブラザーレーニンもブラザーヤーコフ・スヴェルドロフもブラザーペシコフもブラザーゴーリキーもブラザーマーク・トウェインもフリーメイスンやユダヤ系と言う事で繋がっているのですね。
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真中がブラザーペシコフでジノビーと言ったそうです。左がブラザーゴーリキーです。
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これは合成写真のようです。上記のブログにあったものなのですが、後ろのブラザーペシコフが合成だそうです。ブラザーペシコフとブラザーレーニンとが一緒に写った写真は無いようですが、まあ繋がりはあったのでしょうね。
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これはブラザーペシコフの写真です。
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ブラザーレーニンと、ブラザーヤーコフ・スヴェルドロフとブラザートロツキーの写真です。合成ではなさそうです。
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ブラザーペシコフとブラザーゴーリキーとブラザーマーク・トウェインの写真です。
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ブラザーペシコフの写真です。いかにもスコティッシュライト32階級の帽子のようですが、どうも当時の自由フランス国の制帽であるようです。まあ恐らくスコティッシュライト33階級なんでしょうね。右もブラザーペシコフの最後に残った写真だそうです。
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スコティッシュライトの大十字章とレジオンドヌール勲章の大十字章です。まあ御存じのとおりどちらも似たようなものであるという事です。
2013-12-12 22:36 | カテゴリ:ユダヤ教
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
唐突ですが分かるでしょうか。
どうもウィキペディアに書き込む方のレベルでは薄々と気付いているようですが、まあ聖書に由来するフリーメイスンリーとプロテスタントに共通する隠された記念日というものだと思われます。
12月14日がなんでと思われるかと思いますが、聖書に由来すると3や7のシンボリズムや11や111のシンボリズムは関係ないのですね。そもそも3の数字7の数字や11の数字や111の数字は7が創世記や11がヨセフ物語でわずかに認められますが、数秘術と聖書は関連は認められますが直接由来するものではなく、主にフリーメイスンリーでもピタゴラス学派などの数字に対する信仰をもっていたエジプト由来の数学者や数学自体に由来するものであって、その後のカトリックの三位一体や三角形のシンボルなどにしても、またピタゴラスの定理を示す直角三角形のシンボルにしても全く聖書そのものの文章から生じたものではないというところがやはり聖書を通読する事で理解されるシンボリズムの妙というところだと思われます。

さてでは12月14日が何の日であるかというところを見ていきましょう。
まずウィキペディアで見て歴史的な出来事や生誕日や忌日で関係がありそうなところを見ていきましょう。

1542年 - 生後6日のメアリーがスコットランド女王に即位。
1819年 - アラバマ準州が州に昇格し、アメリカ合衆国22番目の州・アラバマ州となる。

どうもこれがトップに来ているという事で、ウィキペディアを書き込んでいる方も十分意識している感じでしょうか。まあほぼこのブログに準じて編集されているのではないかと思われる感じとなっています。スコットランド女王やアメリカの州というところでどうも何やらフリーメイスンリーの何かの日という事には違いないというところが感じられるのかと思われます。まあこれだけ書けるのはそれが何の日か知っているのでしょうね。

1896年 - グラスゴー地下鉄が開業。
1902年 - Commercial Pacific Cable Companyがサンフランシスコとハワイを結ぶ初の太平洋横断電信ケーブルを敷設。
1911年 - ノルウェーのロアール・アムンセン隊が南極点に史上初めて到達。
1946年 - 国連総会で国連本部をニューヨークに置くことが決定。
1972年 - アポロ17号の乗員が月面での最後の船外活動。
2004年 - ミヨー橋が開通。主塔の高さが343メートルの世界一高い橋。

まあ出来事では関連してそうなのはこの位でしょうか。これらの中で世界的に最も重要そうなのは南極点到達でしょうか。もちろんブラザーアムンセンはフリーメイスンだと思われます。1911年というのもシンボリズムだと思われます。ちなみにミヨー橋というのはインターネットのニュースなどで画像を観たことがある方も多いのではないかと思われますが、以下のような雲の上に一部をのぞかせる世界一高いフランスの橋だそうです。
ミオー橋雲ミオー橋
まあフランスにあって7つの柱があるところなどもフリーメイスンリーのシンボルと考えられます。

誕生日はこんな感じです。

1503年 - ノストラダムス、医師・占星術師。『百詩篇集』の著者(+ 1566年)
1775年 - トマス・コクラン、イギリス海軍の少将(+ 1860年)
1870年 - カール・レンナー、オーストリア大統領(+ 1950年)
1895年 - ジョージ6世、イギリス国王(+ 1952年)
1896年 - ジミー・ドーリットル、アメリカ空軍の元帥(+ 1985年)
1897年 - クルト・シュシュニック、オーストリア首相(+ 1977年)
1946年 - ジェーン・バーキン、歌手
1948年 - 錦野旦、歌手
1979年 - 中野美奈子、フジテレビアナウンサー

まあちょっと日本の芸能人やフジテレビのアナウンサーと歴史上の有名人や英米のフリーメイスンと同列に並べるのはちょっとかなり無理があるのですが、まあ日本のブログなんでそんな感じになります。ちなみに日本で12月14日というと赤穂浪士の討ち入りがあった日という事で、まあこの辺りももしかするとこちらのシンボリズムにかけた伝承なのかもしれませんが、今年も日本では討ち入りに関する日米合作の映画という事で47RONINという映画が公開されるようです。基本的に復讐の物語のようですがいわゆる赤穂浪士の物語とはかけ離れた話となっているようです。

さてまあ次は忌日なんですが、これが結局この話のもととなったきっかけでした。

1542年 - ジェームズ5世、スコットランド王(* 1513年)
1799年 - ジョージ・ワシントン、初代アメリカ合衆国大統領(* 1732年)
1861年 - アルバート公、イギリス女王ヴィクトリアの王配(* 1819年)
1937年 - 長野宇平治、建築家(* 1867年)
1943年 - ジョン・ハーヴェイ・ケロッグ、菜食主義者・ケロッグ社共同創設者(* 1852年)
1947年 - スタンリー・ボールドウィン、イギリス首相(* 1867年)
1956年 - ユホ・クスティ・パーシキヴィ、第7代フィンランド大統領(* 1870年)
1961年 - リヒャルト・シルマン、教育者・ユースホステル創設者(* 1874年)
1972年 - 内田祥三、建築家(* 1885年)

まあなかなか忌日の方が選択的な感じですが、やはりスコットランド王に関係しているのがフリーメイスンリーのシンボリズムらしい所でしょうか。後はやはり最も重要なのはブラザージョージ・ワシントンの忌日だと思われます。ブラザージョージ・ワシントンの最後は扁桃炎からのわずか3日間での瀉血による死とも言われており、当時元大統領として引退していたとはいえアメリカ合衆国の象徴として、フリーメイスンとして象徴的な存在であり、絶大な権力をもっていたと考えられ、その死はあまりにあっけないものとして印象的なものだと思われます。生誕日がいわゆる日本の建国記念日にも認められる2.11のシンボリズムであり、そこから考えると忌日にも何らかのシンボリズムがあっておかしくないと思うのが自然ではないでしょうか。ブラザーアルバート公は大英帝国絶頂期のヴィクトリア女王の夫で、後に焼失してしまったロンドン万国博物館で人気を博したクリスタル・パレス水晶宮の最大の出資者であったそうです。息子である後のエドワード7世の女優との醜聞の中で病死したそうです。長野宇平治はこのブログでも取り上げた日銀本店の設計者だそうです。ケロッグに関しては彼を描いた映画などもありましたが、恐らくフリーメイスンと思われます。内田祥三は東大の建物の建築を行ったそうです。

さてまあ大体どうもユダヤ人かそれに関する記念日であるらしい、しかもプロテスタントの系統、ユダヤ人そのものの記念日ではないという感じが出てくるところでしょうか。以前も挙げたユダヤ教の樹木の新年 T‘ū biŠәbhāt‘(ローシュ・ハシャナー・ラ、イラノース)のブラザーロバート・バーンズやブラザーダグラス・マッカーサー、ブラザーフランクリン・ルーズベルト、ブラザーウォルフガング・アマデウス・モーツァルトの生誕日とブラザーサーウィンストン・チャーチルの忌日の対応などと似たような感じですが、ユダヤ暦を元とすると復活祭などもそうですがほぼ1カ月から1週間程度までの西暦との揺らぎが生じますので、12月14日に関してはそういうものではない、どうもその日に何かあるというところがいわゆるユダヤ暦とは異なるシンボリズムというところだと思われます。

それで十四日というのを直接聖書で検索するとなんと答えがすぐに返ってきます。

ユダヤ暦の1月14日と言うのも過越祭の最初の日なのですが、結局12月14日というのはエステル記におけるユダヤ人のペルシアの宰相のモルデカイによってなされた政治的な成功例の、ユダヤ人を絶滅させようとしたハマンらを逆に絶滅させたという、ユダヤ人がバビロン捕囚時代の特に旧約聖書の中でももっとも厳しい時代として描かれる時代のユダヤ人の政治的な大勝利を祝うプーリームという記念日の、ユダヤ暦をそのままあてはめた記念日であるという事です。西暦にあてはめると2月から3月にかけた移動記念日で、あえてその周辺で考えるとホワイトデー位しかないわけですが、まあ色々なあてはめ方があって、恐らく旧約聖書に直接12月14日と一日の日付を強調してある事や、いわゆるモーゼ五書ではなくユダヤ教ではメッギラーというフリーメイスンリーでも象徴的に描かれる巻物状の旧約聖書の特にエステル記を意味するそうですが、そこに書かれた日付と言う事で、移動記念日ではなくその日そのものをシンボリズムとしているようです。
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まあこれだけ強調してあるのでエステル記についてはこのブログを読むような方には読んでいただきたいわけですが、一応全てをブログに載せるかリンクする方針でやっていますので概略をコピペしておきます。一部日付の記述が聖書と異なるので変更してあります。元々はウィキペディアのエステル記の項目です。日本のウィキペディアは特に日付のシンボリズムの記述はわざと数字が変更してある事が良くあるようです。

クセルクセス1世の時代のペルシアは、インドからエチオピアまで127州を統治していた。彼はかつてのエラム王国の首都でもあり、ペルシアの首都ともなった歴史ある都・スサ(ヘブライ語名シュシャン)で王位に就き、その3年後に180日に及ぶ「酒宴」を開き、家臣、大臣、メディアの軍人・貴族、諸州高官などを招いた。その後王はスサの市民を分け隔てなく王宮に招き、庭園で7日間の酒宴を開くが、王妃ワシュティも宮殿内で女性のためだけの酒宴を開いていた。最終日に王はワシュティの美しさを高官・市民に見せようとしたが、なぜかワシュティは拒み、来ようとはしなかった。王は怒るが、大臣はさらに「噂が広まると、女性たちは王と自分の夫を軽蔑の目で見ることになるだろう」と言い、王妃ワシュティを失脚させたという勅書を送った。
王は大臣の助言により、全国各州の美しい乙女を1人残らずスサの後宮に集めさせる。スサは紀元前500年頃から大きなユダヤ人コミュニティーのある都市だが、そこにベニヤミン族のモルデカイとハダサー(エステル)がいた。エステルは両親がいないため、いとこにあたるモルデカイが義父となっていた。モルデカイはエステルを応募させ、エステルは後宮の宦官ヘガイに目を留められ、誰にもまして王から愛され、王妃となる。王は「エステルの祝宴」を開く。モルデカイが王宮の門に座っていると、2人の宦官がクセルクセス1世を倒そうと共謀していた。モルデカイはエステルを通じてこれを王に知らせ、2人は処刑される。この段階ではまだ、モルデカイとエステルは、自分がユダヤ教徒であることを明かさないようにしていた。
クセルクセスは、アガグ人(ギリシア語版ではマケドニア人となっている)ハマンを高い地位につける。王はハマンに跪いて敬礼するようにとの布告を出していたが、モルデカイは従わなかった。ハマンはモルデカイに腹を立て、ユダヤ人全員の殺害を画策する。クセルクセス治世第12年の1月にくじ(プール)を投げると、アダルの月が当たった。ハマンはクセルクセス王に「ユダヤ人」への中傷を述べ、クセルクセス王の名による勅書を作成させる。アダルの14日にすべてのユダヤ人が殺害されることが決定し、着々と準備が進んでいく。
これを聞いたユダヤ人の多くは「粗布をまとい、灰の中に座って断食し、悲嘆に暮れた」。「粗布を着て広場に座ったモルデカイ」の存在を知ったエステルは、ここではじめて、なぜこうなったのかを知ろうとした。ただ、王へ近づくことはできない、とモルデカイに返答。
モルデカイ「この時のためこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか?」(4:14)
エステル「スサの全てのユダヤ人を集め、三日三晩断食するように。自分も女官と断食をする、その後王に会いに行く」との返答。
エステルはクセルクセスとの謁見に成功し、ハマン同席の酒宴を確約させる。謁見に失敗した場合は死刑であった。ハマンは自宅で宴会を開き、エステル・王との酒宴について喜んで聞かせる。モルデカイをつるす柱を建てる。
眠れない王は、宮廷日誌を持ってこさせ読ませたが、ここでモルデカイが王の暗殺を防いだ記録をはじめて知る。エステルは、自分がユダヤ人であることを王に告げる。ハマンは、モルデカイ殺害用に建てたその柱で処刑される。ハマンの財産がエステルとモルデカイのものになる。
文書の取り消しの公約文を書く許可を得ることに成功。シワンの23日にモルデカイの指示によりユダヤ人絶滅の取り消し書が書かれる。ハマンがユダヤ人虐殺の日と定めたアダルの14日が、逆に自分たちを迫害した者への防衛の日となった。モルデカイは宰相となる。
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まあそもそも聖書の内容を概略化することも内容を知らない人に伝える際には良くないとされますし、それをコピペするのも二重に良くないわけで、それほど長くない章なので読むのがお勧めなわけですがまあなかなか聖書を読むのに抵抗感が強い日本人にはこういう紹介が最も確実であるようなのでそうしています。
わたしも初めて旧約聖書を通読した際に、モーセ五書の次に印象的であったのがこのエステル記であったと思ったのですが、まあどうも旧約聖書から受ける印象は万人に共通であるようで、このエステル記の内容はどうもナチスドイツの第二次世界大戦の流れのベースとなったようなユダヤ人の絶滅と言う発想が基本にある極端な話ではあるのですが、世界史と聖書という点で見ると近現代史で注目すべき聖書の章ということになるのではないかと思われます。それでまあそういう旧約聖書の中で非常に印象的な話でユダヤ教や一神教の優越性を証明する話として重要とされる話であるわけで、そういう旧約聖書中の逸話を忘れないように史実であるとして暦の中に保存するのがユダヤ教であり、またそれらを現代にあてはめて教訓を導くのがプロテスタントでありフリーメイスンリーであるので、こういう形でシンボリズムとして成ったのだと思われます。まあ日本の赤穂浪士の討ち入りと倍返しではないですが報復という点では共通項があるのでしょうが、なかなか旧約聖書の内容を知らないと理解しがたいシンボリズムと言うことになるのだと思われます。
こういう特定日のシンボリズムとしてはその他にカトリックの公現祭やバレンタインデー、聖母被昇天の日、クリスマス、イルミナティの結成日、洗礼者ヨハネと福音記者ヨハネの祝日、移動記念日としては上述の樹木の新年や過越祭に当たる復活祭、後は非常に弱いようですがユダヤ暦の新年、ヨム・キプール、スコット、仮庵祭、カトリックの聖なる月としての11月などがありますが、これらの中でも聖書に日付が直接記述されている日として、それがそのまま西暦にあてはめられている日付として、ユダヤ教的でありながら直接プロテスタントからフリーメイスンリーのシンボリズムとして隠された記念日として重要な日として12月14日という日があるという事になるようです。

まあこれまでの内容からいうとなんともインパクトに欠ける話かもしれませんが、ナチス・ドイツにまつわる史実やその周辺の人々が旧約聖書の内容を知っていたらああいう歴史は無かったであろう事を考えるとまさにそういうユダヤ教や聖書をきちんと理解していないことの負の重要性ということをあらためて思い知らされるいかにもフリーメイスンリー的なシンボリズムということができる日なのだと思われます。それがまたフリーメイスンリーの国であるアメリカの建国の父である神格化される程の存在であるブラザージョージ・ワシントンの亡くなった日であるというところで、フリーメイスンリーとは何かを象徴する日でもあるといえるところもあるのではないかと思われます。またそれだけ聖書を細かく読み込んでいるかどうかというところも問われる内容のシンボリズムと言えることができるものと思われます。恐らくブラザージョージ・ワシントンは読んでいなかった方の人だと思われます。

ちなみに日本のシンドラーと言われる、妻がユダヤ人であった(2014/3/9訂正:妻がユダヤ人であった事は一切なかったようです。ウィキペディアの内容に準じたのだと思いますが、修正されたようです。申し訳ありません。)外交官の杉原千畝の出身地である岐阜県加茂郡八百津町ではユダヤ暦に合わせて2月か3月頃にプーリムカーニバルと称してお祭りをやっているようです。恐らくここ数年の話なのだと思われますが、横須賀の観音崎フェスタのようにライオンズクラブやロータリークラブを通して日本各地で町おこしと絡めて様々な歴史の再考と再評価が盛んに行われている一環と考えられるのではないでしょうか。まあキリスト教圏ではそういうものが14世紀から18世紀にかけて盛んに行われていたというのがルネサンスや宗教改革、フリーメイスンリーというものであるようです。
2013-12-14 10:26 | カテゴリ:東京
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
先日の東京シンフォニアのコンサートについてです。
パンフレットの内容を転載します。

ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1840-93)ウラル地方に鉱山技師を父として生れる。12歳でサンクトペテルブルクの法律学校へ入学し、19歳で卒業すると法務省官吏となった。2年後にアントン・ルビンシテインがサンクトペテルブルクに音楽学校を設立し、当時21歳のチャイコフスキーは仕事を辞めて作曲の勉強の道に入った。25歳で銀賞を受賞して卒業。ほどなくアントンの弟、ニコライ・ルビンシテインがモスクワ音楽院を設立し、チャイコフスキーを和声の教授に任命した。

序曲 ハ短調

チャイコフスキーは、この曲を習作として作り、サンクトペテルブルク音楽院の卒業後まもなくスコアを作成した。しかし、厳しい師であるアントン・ルビンシテインには受け入れられなかった。チャイコフスキーは生涯を通じて多くのうつ病期を経験しているが、それも手伝ってか、手書きの楽譜には「胸の悪くなるような駄作」と走り書きされ、この作品は見捨てられた。死後にスケッチが出版されたが、生前に演奏されることはなかった。

チェロ協奏曲 ロ短調

チャイコフスキーはチェロの豊かな音色を使った作品をいくつか作曲したが、協奏曲を残すことなくこの世を去った。1893年、第6交響曲完成も間近な時に、同じロ短調でチェロ協奏曲の構想を始めた。「悲愴」のフィナーレの草稿の裏に、協奏曲の60小節以上の下書きが書き残されている。チャイコフスキーは、協奏曲作曲の依頼をしたチェロ奏者アナトリー・ブランデュコフをクリンの自宅に招き、それから1か月も経たないうちにサンクトペテルブルクで自作の「悲愴」の初演を指揮し、その9日後にはこの世を去った。
2006年に、チェロ奏者/作曲家のユーリ・レオノヴィッチは、音楽学者ブレット・ラングストンと協力して、チャイコフスキーが残した音楽的材料をもとにチェロ協奏曲を完成させた。基本となった材料は、協奏曲の下書き、スケッチブックからみつかったチェロソナタの主題、50のロシア民謡から「ワインセラー」、「悲愴」作曲の前にうつ状態になったチャイコフスキーによって捨て去られた交響曲変ホ長調からのアンダンテとフィナーレである。

弦楽のための交響曲 ト長調 作品55より

1884年、44歳までにチャイコフスキーは、交響曲4曲、オーケストラ組曲2曲を作曲した。組曲ト長調はもともと、最終楽章に主題と変奏を伴った交響曲になるはずだった。しかし、最後に作曲した主題と変奏の楽章が、他の3つの楽章を合計するほど長大になったため、組曲と呼ばれた。曲の一体性は交響曲的であり、曲調は他の2つの組曲より重みがある。チャイコフスキーは、「本来は交響曲を作曲しようとしたのだが、題名は重要でない。」と作曲家のタネーエフに語った。好評だった組曲の初演後には、パトロンのメック夫人宛てに記している。「こんな勝利感を味わったことはありません。芸術家としてもっとも輝かしい瞬間に感謝します。生きて働く甲斐があります。」

感想:三番目の組曲3番が以前にこのブログでも紹介した、パーフェクトアシュラーを磨く構成のスケルツォを含むト長調G majorという3とGのフリーメイスンリーのシンボリズムを含む曲であり、これをブラザーライカーが指揮するのかと思っていましたが、指導している指揮者の卵の方に指揮させていたのでちょっと肩すかしな感じでしたが、その前2曲の内容が素晴らしくブラザーチャイコフスキーがさらに好きになったのでこの様な記事としました。コンサートのパンフレットの内容をそのまま転載しているので著作権の問題があれば削除しますので連絡ください。王子ホールは音響も良いのですが徐々に毎回満席状態となってきているので、休憩時や演奏会終了後のシャンパンが振る舞われる際がラッシュアワーのようですが内容は非常に充実していると思われます。

そんなわけで毎回会場である銀座周辺をちょっと回ったのでその辺りのシンボリズムの紹介です。
まあ地名もGINZA、YURAKUCHOとこのブログでも何度も解説してきたものでもありますが、駅も東銀座、会場の王子ホールも三越の横とそれなりにシンボリズムが認められるかと思います。王子製紙も色々と話題を提供していますがどうなのでしょうか。
さてそれで写真はいわゆるイルミナティカードなどでも有名な銀座和光の時計塔です。
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この壁面装飾の部分ですが、明らかに一つはフリーメイスンリーのシンボルがありました。
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まあ時計屋さんなので当然砂時計があっておかしくないわけですが、こういうシンボリズムになると特にフリーメイスンリーを意識したものとなります。製薬会社だとかつてのメルク、現在のMSDのシンボルが同じ形でしょうか。
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これはちょっと詳しく分かりませんが、歯車と時計の部品の一部ではないでしょうか。恐らくロータリークラブの会員なんだと思われます。仏教の法輪にも繋がりますからね。
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これはヘルメスの杖でしょうかね。ケーリュケイオンというそうです。一橋大学の校章にもなっているので、その関連なのではないでしょうか。マーキュリーの象徴でもあり錬金術の意味にもなります。
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これは反対側の三越の入り口のライオンです。狛犬の意味なんでしょうが、スフィンクスに源流があり、日銀本店にも認められます。英王室の象徴とかライオンズクラブの意味でしょうか。恐らくライオンズクラブの会員なんでしょうね。
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三越店内の壁画です。このブログの影響でしょうか。最近書き換えたのだと思われます。まあフリーメイスンに対する印象のようなものも表されているのでしょうね。まさに偏見と真実ですが、日本の中心地東京銀座もパリのシャンゼリゼ通りのようにフリーメイスンリーのシンボルが街を彩るようになるかもしれません。

次回東京シンフォニアコンサートはモーツァルトバースデーコンサートです。まあなかなかどんな感じでしょうか。チャイコフスキーのウィキペディアの項目をリンクしておきます。
2013-12-19 21:08 | カテゴリ:アメリカ
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さて世の中色々な事が起きていて、横須賀では横須賀中央のこのブログでも書いたシュライナーズのバッチが取られてしまったケンタッキーのおじさんのKFCが閉店していましたが皆さんいかがお過ごしでしょうか。
まあなんとも出だしからさびしい話ですが、なんとかシンボリズムの勉強を兼ねたアメリカの州章シリーズを始めていきます。

15番目の州はカンザス州ですが、どうも色々内容が薄くなりそうです。
kansas.png
場所はこちらでまさにアメリカの中心なんですが、アメリカでも田舎の代表として例えられる土地であるそうで、典型的な田舎であるようで、どうもウィキペディアを読んでもいまいち良い情報が書けそうもありません。フリーメイスンリーは人数的には人口300万人に対して3万人といわゆる100人に対して1人以上を認めるようで、グランドロッジは通常のグランドロッジとプリンスホールグランドロッジとその他のセントジョングランドロッジの3種類とまあ多くもないというところだと思われますが、検索で出てきたグランドロッジのホームページは比較的充実しているようです。

というわけで工業や商業の発展とフリーメイスンリーとは直接的には何の関係もないということを象徴するような州であるようですが、もう主要な建築も出身の有名人もすっ飛ばして州章に行きます。
カンザス州
この州章なんですが、一見して今までのものと異なるのは農業が全体のモチーフとなっていながらいわゆるユダヤ教を象徴する麦藁のシンボルが描かれていないというところでしょうか。それと恐らく日本人に分かるような有名人がほとんどいないといったことや、田舎というイメージ、工業や商業でこれと言ったものが少ないというところは繋がるのかと思われます。唯一商業では日本のソフトバンクに買収された通信大手のスプリント・ネクステルがあるそうですが、これも何となく繋がる話かもしれません。まあ何となく全く謎は込められていない、それが実は本当のフリーメイスンリーなんだよという謎かもしれません。後ろのバイソンを追うインディアンというのもほとんど形になっていませんし、石油採掘所のような形にも見えます。またやはり馬車ではなく牛車のようですし、船のシンボリズムはありますが、残るは本当に太陽と日光のシンボルのみということになります。もちろん34個の五芒星もシンボルですが、アメリカで五芒星のシンボルはアメリカ自身を示すものでもありますので、そういうフリーメイスンリーのシンボルというのがあるのだよという事なのでしょうね。農夫と鋤とそれを引く二頭の馬もまあそれだけでしょうね。もちろんヨークライトのシンボルとなるのでしょうが、一般に考えてこれら全部を見てフリーメイスンリーのシンボルであると納得させるにはやや引っかかりが少なすぎるでしょうね。モットーがAd Astra per Aspera、To the Stars through Difficulties困難を越えて栄光へという事で、栄光が星となっているのがまあ最もフリーメイスンリーを象徴しているというところでしょうが、アメリカの象徴としての五芒星と相まって見事にフリーメイスンリーを隠している感じになるかと思われます。州の成立した1月29日というのもフリーメイスンリー的には重要な日という事で、ブラザートマス・ペインやブラザーウィリアム・マッキンリーの誕生日で、いわゆるユダヤ教の樹木の新年ローシュ・ハシャナー・ラ、イラノースということで、フリーメイスンの生誕日や忌日が多い日でもあるわけですが、まあその位という事でこういうのもフリーメイスンリーなんだよという州章でしょうか。
カンザス州旗
州旗は基本的に州章と同じ図柄なんですが、周りの色が青色とまあ州章と同じようなアピールの仕方で、ひまわりの州という事でひまわりの象徴があるわけですが、まあこれは太陽の図柄と一緒ということになるのだと思われます。

で、これで終わるとあまりにおざなりな州章の解説という事になりかねませんので、あえてこじつけのプラスアルファを付け加えますと、州都はウィチタというところなんですが、この場所を表す地図が謎を解くカギかもしれません。
ウィチタ場所
州の形もほぼ長方形なんですが、都市の区画もほぼ長方形に近い形が整然と並んでいるまさにパーフェクトアシュラーが並んだような区分けなんですね。アメリカ中部の州はその他も直線で区切られて、長方形の形の州もあるほどですが、この様にまさに幾何学をそのまま示したような人工的な開拓で作られた都市や州がこのアメリカ中部の州であり、まさに石工の建築術を垣間見られるのがこの境界線の形であるのがアメリカなのだと思われます。
2013-12-20 20:32 | カテゴリ:イングランド
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
いろいろと私事で忙しくブログ専従というわけにはいかないのでなかなか進まない感じになっていますが皆さんいかがお過ごしでしょうか。年末も近くなってきて2013年という激動の時代も終わりに近づいていますが、まあ13というアメリカ独立州の数であり、テンプル騎士団がフランス王フィリップ4世に滅ぼされたのが1307年10月13日の金曜日という事で、どうもそれ以来13という数字はキリスト教の中で不吉な数字とされる習慣ができたようですが、今年2013年は第265代法皇ベネディクト16世からイエズス会、アルゼンチン出身の第266代法皇フランシスコに3月13日に生前退位により就任するというキリスト教、フリーメイスンリー的にはかなり重大な出来事もあり、日本でも前年の再度の自公政権への政権交代から始まり、東京オリンピック招致が決定し、経済的には様々な動きが出てきた年でありました。
当ブログ的にはスコットランドで始まり、スコットランドで終わりそうですが、やはり13の数字に合わせた新約聖書の内容についてなど、前年に比べてより深い内容でありながら一般性が強い充実した内容であったかと思います。13を象徴するアメリカ建国の経緯とイルミナティの関連、テンプル騎士団の故郷のスコットランドエディンバラの内容など全体として見ても2013年を象徴しうる内容を充足しえたのではないかと考えます。
横須賀的にはベースの開放日で大雨であったことやヴェルニー公園の薔薇が台風の襲来でかなり傷んでしまったことなどがあり、私自身も2011年以来様々な公共施設や職場や住居で滞在したこの横須賀を去ることになりそうで、非常に貴重な体験が味わえた時間でもあったわけですが、年越し後の花火の後に転居となりそうでフリーメイスンリーが定着する事だけを期待しますが、まあなかなか今後も色々波乱がありそうな予感です。
来年2014年は7×2という事で数秘術的にはユダヤ教と日本の接点について触れるような日猶同祖論的な内容となるのかもしれませんが、恐らくアンダーソン憲章の翻訳とモラルアンドドグマの翻訳に忙殺されそうです。ユダヤ古代誌もやっと読了しそうで、その後のユダヤ戦記やブラザーペリーの日本滞在記やブラザーマンリー・P・ホールの著書やその他貯まっている積読の本を消化していきたいところでありますが、まあそれもこれも頭の働き次第というところでもあります。

そういうわけでちょっと早い事はあるのですが、今年の総決算というところになってきて、ブログの本文としてはスコットランド、エディンバラのフリーメイスンリー歴史学会の旅の内容についての終わりというところで、この後には学会の内容についても全て出来るだけ挙げていこうと思っているのですが、以前のものの翻訳も全て行っていない状況でもありなかなかの大仕事になりそうですが、まあ旅の方は終わりという事で写真をあげていきます。
エディンバラからグレートブリテン島の東海岸を経由したロンドンまでの列車の旅の車窓の光景です。
検索すると最もイギリスでは代表する列車の旅であるようで、景色も洗練されていて最もポピュラーな鉄道線であるようです。一等車で予約すると二万円ほどで、二等車で四千円ほどで圧倒的に二等車が良いようです。一等車は時々スナック菓子や水や紅茶が客室乗務員の巡回で振る舞われるという程度で、昼食のようなものもありましたがさすがに一万円以上の差を感じるものは無いと思います。非常に一等車は空いているのでそういうのが良いと感じる人には良いかもしれません。
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本場の灯台がありました。なかなか美しい光景です。
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非常に海岸線も美しいんですが、実際座っているだけの鉄道よりも歩こう会のようなハイキング姿の現地の中高年のグループが集団で歩いているのを多く見かけ、世界的なウォーキングの健康ブームがこういうところでもあるのかと思われました。まあ鉄道で一瞬で移動するよりも近所から歩いて綺麗な景色を見る方がはるかに豊かである事は間違いありません。
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これはヨークの手前であったと思うんですが、非常に美しい良く構成された街でした。灯台から橋まで建築した時から今日まで良く景色と利便性を計算されたまさにイギリスの合理主義というなかなか日本では難しそうな街の建築でしょうか。教会と橋と灯台といったまさに石工の建築のシンボルの調和そのものを見るものかと思われます。
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これはちょっと途中から乗って来た意味深な思春期の少女とその父親のような複雑な雰囲気の親子を挟んだヨークの大聖堂だと思います。まるでヨーロッパの映画のような親子の微妙な雰囲気でわざわざ一等車に乗って終始無言で途中でまた降りて行きました。まああれだけ恵まれていても色々問題は日本と変わらずあるのでしょうね。
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海岸線を離れてくると牧草地でしょうか。黄色い花が非常に多く認められましたが、ミツバチの採蜜用なんでしょうか。羊や馬や牛も多く認めました。日本でいうと夏の北海道みたいな感じなんでしょうね。
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原子力発電所もきちんと景色の中におさまって稼働していました。
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6時過ぎであったと思いますがキングズクロス駅から今回はイングランドグランドロッジの横にあるキングスウェイホールホテルに泊まりました。入り口の植木もらせん状にねじれています。螺旋階段がエントランスホールに象徴的にあります。隣にあったよりイングランドグランドロッジに近いPHホテルグループの貸しホールの床が綺麗な白黒のモザイクタイルになっていました。日本でも芝公園の辺りにそういうホールが増えたり横浜や横須賀でもそういうのが増えたりしませんかねえ。

次回はわずかなロンドンでの滞在時間に巡ったギルドホールの外観やテンプル寺院の外観などで終わりです。
今年もあとわずかです。来年もよろしくお願いします。
2013-12-23 11:32 | カテゴリ:東京
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
江戸城天守閣跡に33メートルのオベリスクを建てるという構想の図をワシントン記念塔を元に合成画像で作ってみました。憲法改正に代わる安倍政権の命題として掲げてみてはいかがでしょうか。基部が11メートルの高さだそうなので、オベリスク部分が22メートルで33メートルとなるようです。内部に螺旋階段があって登れるようになっていればさらに素晴らしいですね。平成33年か2033年に合わせて建設されると好ましいんでしょうが、なかなか早い方が良いとは思いますがいかがでしょうか。
江戸城オベリスク2
2013-12-24 18:00 | カテゴリ:イングランド
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
クリスマスプレゼントというわけではありませんがクリスマスイブの記事は帰りにわずかに滞在したロンドンの前回回れなかったギルドホールとセントポール大聖堂周辺の写真です。
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これはグランドロッジすぐそばの地理学会の設立を記念する碑です。11月13日でやはりシンボリズムを認めます。アメリカのナショナルジオグラフィックに相当するのでしょうかね。
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これはちょうどあちらで英語版のインフェルノが出版されていたころだと思います。店の名前かもしれませんが、インフェルノの名前が掲揚されていました。ちょうどブラザーダン・ブラウンがグランドロッジで会見していたのもこのちょっと前あたりだと思います。
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これはいわゆるテンプルバーのマーカーというそうですが、テンプル寺院の前にあるロンドンシティーの境界を示すかつて門があったところの上にこのブログでも使用したドラゴンの彫像があるものです。ヴィクトリア女王とその息子のエドワード7世の像が左右に彫られていますが、その左右に科学と芸術のモチーフとして描かれたシンボルにフリーメイスンリーのシンボルがあります。七分儀やコンパスや地図、天球儀や垂直儀や髑髏、カルケドゥスの杖、ハンマー、ルイス(吊り具)などが認められます。上部にはファスケスや王権を示す王杖や剣のクロス、バラの紋章なども認められます。
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ヴィクトリア女王の像の周りも同じ彫刻があります。テンプル騎士団=フリーメイスンリーが明確に示されているのですね。
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この時は夕刻でしたがかなり晴天のロンドンでした。ブラザークリストファー・レンによるセントポール大聖堂です。やはり世界のフリーメイスンリーの中心がここにあるようです。
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セントポール大聖堂の横にある広場の羊飼いの彫像です。
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Entered Apprenticeで学習する24インチ定規の教訓を連想させる言葉です。8時間ごとに生業とフリーメイスンリーの活動と余暇に振り分けるという、まあ実際そういう生活をするとどれだけ大変かとフリーメイスンが良く分かる教訓の言葉です。8時間の睡眠ではないところがポイントでしょうか。
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これはギルドホールの近くの教会でしょうか。セントローレンスジュワリーという教会のようです。ジュワリーというのはユダヤ人街、ゲットーという意味だそうで、ブラザークリストファー・レンによってロンドン大火後に再建されたようです。
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ギルドホールの前の広場ですね。時間が遅く変なカップルが一組いただけでその他には誰もいませんでした。
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ギルドホールの全景です。中も検索で見ると相当きれいなようですね。この訪問の直後に安倍首相が首脳会談後に巡って演説をしていたようです。あまりその映像は日本の報道で見かけませんでしたが、かなりな栄誉のようです。前後で安倍首相の様子は変わったでしょうか?日本でも天皇陛下も一致協力してこういうフリーメイスンリーホールやオベリスクのシンボルを建築できないでしょうかねえ。
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ブラザークリストファー・レンの胸像です。
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シェイクスピアの胸像です。
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これはクロムウェルの胸像です。
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サミュエル・ピープスの胸像です。庶民からイギリス海軍の長官まで上り詰めた人だそうです。王立協会の会長も務めたそうです。ブラザークリストファー・レンと同時代の恐らくグランドロッジ結成前のフリーメイスンなんでしょうね。
その他にリチャード・フィッティングトン卿という14世紀にロンドン市長を長く務め、ギルドホールの建設にも多くの寄付をした貴族の胸像もあるそうです。
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セントメアリー市会議員埋葬所というところのシェイクスピアを記念した胸像です。
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再びセントポール大聖堂です。
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以前は無かった紫のチューリップが並んでいました。こういうのも意味があるんでしょうね。
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ブラザークリストファー・レンの傑作と称されるセントポール大聖堂です。フェニックス以外にも胸像にもそれぞれ意味が込められているのだと思います。
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これは前回見過ごしてしまったP2事件で有名になったブラザーロベルト・カルヴィが吊るされていたというブラック・フライアーズ橋です。P2の主要メンバーであったブラザーリーチオ・ジェッリはまだご健在のようです。元ナチスのムッソリーニ救出作戦に関わったオットー・スコルツェニーなども関わっていたようです。鷲は舞い降りたという映画の元ネタとして有名だと思われます。アポロ11号の月面着陸時にもこの言葉が使われました。そういえばヘリコプターのシーホークが三浦に不時着する事件が最近ありましたね。
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様々な現代建築ラッシュであるロンドンでありました。2013年に集中していたのでしょうね。
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テムズ川越しのロンドンアイです。天気が良いと写真も良いです。
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これはテンプル教会のインナーテンプルだと思います。テンプル教会は教会とともに法曹院として弁護士や裁判官の育成を行っているようです。日本の弁護士会のような組織のようです。4つある法曹院のうち2つはここのインナーテンプルとミドルテンプルにあるそうで、すなわちイングランドの法曹界の半分はテンプル騎士団の系譜を引いているという事でしょうか。
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これはアウターテンプルのところでしょうか。ちょうどセントポール大聖堂の前の通りのフリートストリートに面した門の上の紋章です。ロイズ保険組合と法曹院が同居しているのでしょうかね。ロイズ保険組合というのは日本では漫画のマスターキートンというもので有名かもしれません。もちろんマスターメイスンをもじっている漫画なんですね。もちろん中心の蜂の巣はフリーメイスンリーのシンボルで工業や集団で協働して作業する事のシンボルです。
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アウターテンプルの住所だと思われます。222のシンボリズムのようです。スコットランドの王立協会もこのシンボリズムでしたので、2.11とは異なる222のシンボリズムも666のシンボリズムと同様に重要な意味があるようです。
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テンプル騎士団のシンボルの羊が十字架を背負っているシンボルです。フリーメイスンリーのシンボルの中では一二を競うかわいいシンボルだと思われます。神の子羊として騎士団以前よりキリスト教のシンボルとして良く認められているようです。騎士団の印章として使用されていたようです。
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悪魔の食堂という名前の有名なパブがあったそうです。詳細はウィキペディアを参照してください。
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再びグランドロッジの光景です。この日は夕食は食べませんでしたかね。確か休日で混んでいたせいと、あまりロンドンでどこがおいしいのか分からなかったためでしょうか。なかなか旅行というよりは出張といった感じのイギリス旅行でした。
2013-12-25 06:28 | カテゴリ:イングランド
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
クリスマスに合わせただけの完全にスコットランドの旅の余韻の内容です。
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地下鉄ホルボーン駅にあったと思われる日本旅行の特に沖縄をフューチャーしたポスターがありました。日本旅行も色々言われていますがやはり日本人でも行きたいと思うのは観光地として整っていて、なおかつ外国人からすると米軍基地もある沖縄が良いという事なのでしょうね。なかなかまあ分かりやすいというか、沖縄戦にしても見方が変わるそういうものかと思われます。
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これは解説が無いと分からない写真かと思いますが、ポスターの単語がSTONEなんですね。なんか演劇かなんかだと思いますが、モーツァルトの準遺作となっているThe Philosopher's Stoneのように単なるSTONEというのも結構なシンボリズムなんですね。日本でも石のつく名字は多いですが、有名なところはブリジストンの石橋家でしょうか。
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飛行機からの光景です。シンボリズムでしょうか。
2013-12-26 19:39 | カテゴリ:シンボリズム
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
これは好きな人には色々響く内容なんだと思いますが、ブラザーウォルト・ディズニーが正式にはフリーメイスンでは無くともフリーメイスンリーの養成組織であるデモレー出身である事から、ミッキーマウスもそういうフリーメイスンリーのシンボリズムが込められているというのは了解されるのだと思われます。ただまあ具体的にどういうシンボルであるかというところはやはりアメリカの州章などと同じで詳しい解説が無いとなかなか日本人には響かないのかなと思われます。
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以前にも触れたMのシンボリズムについては良いかと思います。そういうシンボリズムありきでキャラクターが選定されていったという経緯はあるのかもしれません。上の図は検索で出てきたミッキーマウスを羅列してあるだけで特に意味はありません。英語で検索すると若干肌色が白色人種に近い感じになるのはもちろん、そもそものミッキーマウスは真っ白であって恐らくブラザーディズニーの時代のフリーメイスンリーの人種差別的な傾向を示したものであるのは当然であるかと思われます。その白と柄の黒の対比はパンダを意識したわけではなく、ブラザーチャイコフスキーの白鳥の湖のピエロの白黒の衣装のようなモザイク舗床の柄と同じものかと思われます。もちろんキャラクター的に肌色になるとそういう対比は消えてしまうわけです。
一番の秘密というかなんというかはミッキーという名前にあるのだと思われます。ミッキーはもちろん現在ではミッキーといえばミッキーマウスなわけですが、もちろんミッキー自体でマイケルの愛称という事は常識なわけで、マイケルといえば、マイケル・ジャクソンなんだと思いますが、もちろんマイケルで旧約聖書に現れる大天使ミカエルということもこれまた常識なわけです。
大天使ミカエルについてはその該当部分の旧約聖書を抜粋しても良いのですが、もうそういう無粋なことはせずにウィキペディアのリンクだけ貼ることとします。
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まあという事で唯一神ヤハウェの使いである「神に似ているが神にはなれないもの」がミッキーマウスという事で、それはすなわち人間が造型する幻の存在であるアニメのキャラクターであり、ブラザーディズニーが作り上げた幻影の主人公という事を意味するのだと思われます。

ブラザーウォルト・ディズニーは生没年月日が1901年12月5日 - 1966年12月15日で没年が12月14日の一日後でユダヤ教関連のシンボリズムかもしれません。アイルランド系アメリカ人で、姓のディズニーはフランスの地名に由来するそうです。ミッキーマウスのもととなるアニメはしあわせウサギのオズワルドというそうで、ケネディ暗殺事件のオズワルドに繋がるのかもしれません。(2016/4/17追記:オズワルド自体はイングランドで昔からある名前で、良い支配者、良い権力を意味するそうで、7世紀にイングランド北東部を支配して、キリスト教を導入した王の名前であるそうです。York riteのエドウィン王伝説に続く、ブリテン島でのキリスト教受容の歴史を象徴する名前であるようです。日本でいうと、信長、秀吉、家康でしょうか。まあ約1000年後ですが。実際の受容という意味ではさらにその500年後の現在のようです。)
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ちなみにデモレーの解説は良いかと思いますが、一応ウィキペディアのリンクを貼っておきます。もちろんこのブログをここまで読んで来られている方はデモレーがテンプル騎士団の最後の団長の名前であるというところは良いかと思います。ちなみに日本のデモレーは近年非常に活動が縮小していてわずか数人の所属員であったそうですが、直近の話はちょっと分かりません。東京タワーの下の日本グランドロッジで毎年行っている子供祭りの際などに活動について説明や解説があるかと思いますので興味のある方はそういう機会にお立ち寄りください。

と、本題というか忘れていましたが、大天使ミカエルからマイケルでミッキーとなって、上述のマイケル・ジャクソンやミック・ジャガーやマイク・タイソン、日本人ではミッキー・カーチスやマイク真木といったカタカナを入れた名前や、御木本真珠の御木本幸吉や楽天の三木谷浩史、ワタミの渡邉美樹と繋がるようです。ちょっと変わったところでは電脳アイドルの初音ミクなんてのもそういう範疇だと思われます。

もちろんナショナル・トレジャーを始めとして、ディズニー映画にフリーメイスンリー関連のものが最も多いのは有名かと思われます。ブラザーディズニー自身は生前はフリーメイスンとはならなかったようですが、十分フリーメイスンと認められる遺産を残したものと考えられます。
2013-12-27 11:53 | カテゴリ:シンボリズム
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
ジーンズ、Gパンといえばアメリカの象徴として特に安保闘争の後からグループサウンズと共に流行って定着したものかと思いますが、Gパンという呼称は日本だけだそうで明らかなシンボリズムでしょうか。
ジーンズの元となる生地のデニムの名前自体がジェノバの生地という意味だそうで、まあカトリックの総本山のイタリアの港町という事で、キリスト教、ユダヤ教的な意味が付け加えられているものかと思います。

最初のジーンズといえばリーバイスということになるわけですが、もちろんこれは英語表記のLEVI'Sを見れば、ユダヤ教の司祭であるラビのつづりを示しており、創業者の名前のリーヴァイ・ストラウスのストラウスもブラザーヨハン・ストラウス二世でも分かる通り、ユダヤ系の名前で、また考案したヤコブ・デービスも明らかにユダヤ系の名前であり、デービスという名前もダヴィデの息子という意味だそうで、いわゆるソロモンと同じ名前の意味になるようです。
リーバイス
まあブルージーンズやらシンボリズムに則っているわけですが、この二人のジーンズの発明者と創業者がフリーメイスンであるという事は知りません。ほぼユダヤ系という事でフリーメイスンに準じてみなされるのが欧米の通例のようです。
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でまあアメリカを代表する大衆文化の象徴がユダヤ教の司祭の名前であったという事は良しとして、その他にもジーンズのメーカーは多数あり、日本のメーカーで一つ有名な面白いものがありました。
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日本メーカーであることも知らない人には驚きだと思うのですが、なんとつい一月前に証券投資の失敗などで経営破綻に陥ったという事でした。
ウィキペディアの企業名の解説では、「EDWIN」というブランド名は、デニム(DENIM)の「D」と「E」を逆転し、「NIM」を180度反転し「WIN」として命名した。「江戸」が「勝つ」(WIN)という説は俗説であり、公式な情報は確認されていない。と書かれています。
Edwinで検索すると、辞書のところで男性名と、ノーサンブリアの王で、キリスト教に改宗した(585年−633年)と出てきます。それでKing Edwinで検索するとウィキペディアのページに当たります。どうも概略を読むとヘプターキーの時代、いわゆるアングロサクソンの七王国の時代のキリスト教がイングランドに浸透していった時代のキリスト教に改宗した代表的な王であるようです。それでまあこの辺りは完全に逆行しているわけですが、ヨークを支配した王様という事で、ヨーク伝説というヨークライトの元になったイギリスのフリーメイスンリーの話にたどり着くわけです。

ヨーク伝説というのは私も有澤玲さんのフリーメイソン大百科で初めて知ったのですが、Old Chargesという古き訓諭と訳される、アンダーソン憲章の前に存在した、ゴシック憲章とも呼ばれる実務的メイスンリーの時代のいわゆる石工職人の守るべき義務や習わしを示したもので、その中にアンダーソン憲章などと同様に石工術の成り立ちの歴史が描かれていてその中でヨークにおいてアセルスタン王の時代にその息子のエドウィンが働きかけてフリーメイスンリーの様々な規則や仕組みを整えて古き訓諭が作られたという話だそうなのです。ところがそのエドウィンというのはどうもいなかったそうで、そのモデルとなった人物が上述のノーサンブリア王でキリスト教を受容したエドウィン王であるそうです。イエス・キリストの物語にも一部重ね合わせられたストーリーなのですね。
というわけで、エドウィンというのはそういう深いフリーメイスンリーの本質にも関わる部分を含んだ名称であったわけですが、どうもそれを日本の創業者の方は認識しておられたのかおられないのか、恐らくおられなかったのだと思いますが、そういうわけで先月経営破綻してしまったという事のようです。
こういう記事にするとそのブランド名称の付加価値が上がることもあるかと思われますが、まあこういった内容自体は様々な歴史を踏まえて、このブログでは未だにアンダーソン憲章の翻訳も進んでいませんが、それ以前のゴシック憲章やレギウス写本の内容なども踏まえて、理解して認識した上でのブランド名称の価値という事になるのかと思われ、それはすなわちイングランドの歴史やヨーロッパ、地中海世界の歴史そのものでもあり、そういったものを理解される方はまた一方で日本におけるそういうたまたまそうなってしまったようなブランドの価値というものを認識されるかと思いますので、まあいずれにしろ全ては読者の方次第という事になるのがフリーメイスンリーということになるのだと思われます。

本日は福音記者ヨハネの記念日という事でした。新約聖書の肝がヨハネの福音書であるとすれば、旧約聖書の肝はやはりモーゼ五書という事になるのだと思われます。このブログで言えることは是非一度通読してそれらの知恵、ユーラシア大陸の西側の世界の知恵、人類発祥の地から引き続く世界の中心と呼べる地域の知恵をモーゼやヨハネの物語を通して味わってみてくださいという事だけだと思われます。
2013-12-30 08:11 | カテゴリ:シンボリズム
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
まあこのブログもあくまで実名ではやらないという方針を貫いていたわけですが、大体会う人には皆伝えていましたし、そういうブログの存在を伝えた後に恐らく伝えた人の周囲の人達が皆アクセスする様子をIPアドレスなどから分かっていたわけで、もちろんそれ以外にもフリーメイスンリーの繋がりからもNSAの存在があり、三沢ロッジの存在がありますので、アクセスした人がどのような反応をするかもフリーメイスンリーの俎上であったわけで、そういう経緯もあり、まあある程度このブログで筆者の実名を明らかにする必要もあるのかと思っています。

そういうわけでシンボリズムで私自身の名前を作ってみました。スコティッシュライトはまあ私自身のフリーメイスンとしての階級を示すという事で、ブルーロッジとの間に色々複雑な関係がありこのブログを作っているわけですが、一応開始から約2年経つというところで自己紹介ということになるのかもしれません。
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まあフリーメイスンリーで実名名乗ってフリーメイスンですという事自体が矛盾しているわけですが、そういう色々な経緯があるのでしようが無いのだと思われます。OOの部分も普通はOHと表記するのが普通なわけですが、論文発表の際などにどうもOOの方が発音が近いということを聞いていて、そう表記するようにしたのがAll Seeing Eyeの表現になっていたようでした。

まあそういうわけというかなんというか色々シンボリズムの話も歴史がありまして、33や3という数字にしても、青や白黒の象徴にしても、シンボリズムというものを使う事自体に色々と制約が生じるわけで、知るという事は同時に自らの無知を知るという事と同じ意味でもあり、体験ということがフリーメイスンリーの肝心要なわけであります。現在横須賀を去る準備をしている最中で、その一環として横須賀・三浦、その他日本の関連のブログの内容をブログから削除していますが、まあ色々ありますが体験が肝要という事で2013年を締めたいと思います。