2016-09-02 18:15 | カテゴリ:第3のY
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2016-09-04 12:20 | カテゴリ:横浜
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二俣川 Yの字となる Yナンバー
2016-09-04 18:23 | カテゴリ:本について
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 In these Parts, upon the Tygris and Euphrates, afterwards flourish'd many learned Priests and Mathematicians, known by the Names of CHALDEES and MAGI, who preserv'd the good Science, Geometry, as the KINGS and great Men encourag'd the Royal Art. But it is not expedient to speak more plain of the Premises, except in a formed Lodge.
その後に、チグリス川とユーフラテス川の周辺の地方で、王や支配者が王家の学問として勧めた素晴らしい科学や幾何学について多く学んだカルデアやマギとして名を知られる多くの勉強した司祭や数学者の数が増えた。しかしながら科学や幾何学の事についてより明白に話すにはきちんとした建物の中で語る以外には好ましくはなかった。
 From hence, therefore, the Science and Art were both transmitted to latter Ages and distant Climes, notwithstanding the Confusion of Languages or Dialects, which tho' it might help to give Rise to the Masons Faculty and ancient universal Practice of conversing without speaking, and of knowing each other at a Distance, yet hinder'd not the Improvement of Masonry in each Colony and their Communication in their distinct National Dialect.
そうして、それゆえに科学と芸術は共に、言葉や方言の混乱にもかかわらず後の時代や遠くの地域まで伝えられ、言葉や方言の混乱はしかしながら石工専門分野と古代の普遍的な言葉によらない会話や遠方にいるお互いを知り合う方法を発展させることを助け、国の中での異なる方言の異なる集団同士の相互の交流の中でも石工術の発展を阻むものではなかった。
 And, no doubt, the Royal Art was brought down to Egypt by MITZRAIM, the second Son of Ham, about six Years after the Confusion at Babel, and after the Flood 160 Years, when he led thither his Colony ;
そして疑いなく王家の学問はエジプトにハムの二番目の息子のミツライムによってエジプトに伝え下られ、それはバベルの塔の混乱の後の6年後頃であり、大洪水から160年後であり、彼がそこへ彼の一家を導いた時であった。
A.M. 1816.2188. Ante Chr.
創造後1816年 紀元前2188年
(for Egypt is Mitzraim in Hebrew) because we find the River Nile's overflowing its Banks, soon caus'd an Improvement in Geometry, which consequently brought Masonry much in request : For the ancient noble Cities, with the other magnificent Edifices of that Country, and particularly the famous PYRAMIDS, demonstrate the early Taste and Genius of that ancient Kingdom. Nay, one of those Egyptian PYRAMIDS* is reckon'd the First of the Seven Wonders of the World, the Account of which, by Historians and Travellers, is almost incredible.
(ミツライムとはヘブライ語でエジプトへという意味)我々はナイル川の洪水に対する堤防を認めることができるが、それらが幾何学の発展により速やかにもたらされたものであり、多くの必要に応じて石工術が結果としてもたらされるものであるとわかる。その古代の立派な都市の、その国のその他の巨大な建築物たち、特に有名なピラミッド群は、古い時代のその古代王朝の作風や精神を際立たせている。それのみならずエジプトのピラミッドの一つは世界の七不思議の最初の一つに数えられているが、歴史家や旅行者によるその評価はほとんど信用ならない。
*The Marble Stones, Brought a vast way from the Quarries of Arabia, were most of 'em 30 Foot long ; and its Foundation cover'd the Ground 700 Foot on each Side, or 2800 Foot in Compass, and 481 in perpendicular Height. And in perfecting it were employed every Day, for 20 whole Years, 360,000 Men, by some ancient Egyptian King long before the Israelites were a People, for the Honour of his Empire, and at last to become his Tomb.
アラビアの採石場から遠大な経路を通ってもたらされたその大理石は最も大きいもので9メートルもあり、その基礎は一辺が210メートル、周囲840メートルあり、高さ144メートルある。完成するのに毎日36000人の男たちが20年間古代の数人のエジプト王に雇われ、それはイスラエル人のはるか以前であり、エジプト王国の栄誉のために作られ、のちに王の墓となった。
 The Sacred Records inform us well that the eleven great Sons of CANAAN (the youngest Son of Ham) soon fortified themselves in strong Holds, and stately walled Cities, and erected most beautiful Temples and Mansions ; for when the Israelites, under the great Joshua, invaded their Country, they found it so regularly fenc'd, that without the immediate Intervention of God in behalf of his peculiar People, the Canaanites were impregnable and invincible. Nor can we suppose less of the other Sons of Ham, viz. Cush, his eldest, in South Arabia, and Phut, or Phuts, (now called Fez) in West Africa.

 And surely the fair and gallant Posterity of JAPHET, (the eldest Son of Noah) even such as travell'd into the Isles of the Gentiles, must have been equally skill'd in Geometry and Masonry : tho' we know little of their Transactions and mighty Works, until their original Knowledge was almost lost by the Havock of War, and by not maintaining a due Correspondence with the polite and learned Nations ; for when that Correspondence was open'd in After-Ages, we find they began to be most curious Architects.

 The Posterity of SHEM had also equal Opportunities of cultivating the useful Art, even those of 'em that planted their Colonies in the South and East of Asia ; much more those of 'em, that in the great Assyrian Empire, liv'd in a separate State, or were blended with other Families : Nay, that holy Branch of SHEM (of whom, as concerning the Flesh, CHRIST came) could not be unskillful in the learned Arts of Assyria ; for ABRAM, after the Confusion at Babel about 268 Years,
A.M. 2078. 1926. Ante Chr.
創造後2078年 紀元前1926年
was called out of Ur of the Chaldees, where he learned Geometry, and the Arts that are perform'd by it, which he would carefully transmit to Ishmael, to Isaac, and to his Sons by Keturah : and by Isaac, to Esau, and Jacob, and the twelve Patriarchs : Nay, the Jews believe that ABRAM also instructed the Egyptians in the Assyrian Learning.
2016-09-06 09:01 | カテゴリ:日本
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まあ生前退位などが話題になる平成28年の時代なわけですが、いかがでしょうか。
横須賀を離れてだいぶ経つと、右翼やら皇国史観やら何とも中国文化の影響を受けたいわゆる日本文化になるわけですが、さてその中でも元号の平成というのは横須賀でもタウ十字と合わせて表現されていた戦後を象徴する元号でもあったわけですが、ここで改めて特にフリーメイスンリーがやってきた明治維新以降の元号についてみてみようかと思います。

それで一応元号についての基本的知識になるわけですが、最初が大化の改新という事で、暦がそれ以降成立したという事のようで、まあ神武天皇ではないですが、大和朝廷、日本国家の成り立ちという点では、大陸渡来一族である蘇我氏を失脚させたこの事件が歴史上は日本という国の最初の成り立ちになるのだと思われます。蘇我氏がその後石川麻呂を子孫として存続したことももちろん認識しておくべきでしょう。まあ木簡などでは実際には干支が使われて、実際に当時の木簡で使われ始めたのは大宝律令の大宝以降という事で、実際には律令制が始まる奈良時代が国としての日本の成立という事のようです。基本的に儒教で重要とされる四書五経の古典の内容や、吉兆などを漢字2文字で表して、天皇の即位や天変地異などで改元することになっていて、使われる漢字もほぼ限定されていて、繰り返し使用するなどの法則もあるようです。奈良時代で特筆すべきなのは天平の二文字が東大寺の大仏を作った聖武天皇の時代以降に繰り返し使われていて、この時代はもちろんヨーロッパでは十分キリスト教が成立して広がっていた時代であり、また大秦景教流行碑の直前であり、その後に空海の長安への留学があり、日本で仏教が流布成立していく時代であることも付け加えるべきでしょう。
(中国語では天平は天秤を意味するようです。簡字体という事なのでしょうが、まあ音は一緒なのでしょうね。)
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シンボリズムという点では飛鳥時代には白雉や朱鳥というまさに鳥のシンボリズムがありますが、まあ厩戸皇子のエピソードを挙げるまでもなく、極東の日本にも地中海世界の影響は常にあるのでしょう。

平安時代は桓武天皇の遷都で現在の京都に平安京を開いて始まった時代ですが、桓武天皇の妻は百済出身であり、また京都は秦氏が開発していた場所という事で、その子の平城天皇の時代に奈良の平城京との間で揺り返しがあったようですが、まあ794ウグイス平安京という事で、いわゆるその後の1192作ろう鎌倉幕府までの平安時代が続くわけです。ちなみに平城天皇は宝亀5年8月15日(774年9月25日) - 弘仁15年7月7日(824年8月5日)という事で、まあもちろん西暦ではなく、元号歴でシンボリズムが認められるわけですが、聖母被昇天の祝日も6-7世紀に東方正教会で始まったという事で、日本でも聖徳太子の逸話を語るまでもなく、天皇家レベルだとありうるわけです。

平安時代には国風文化という事で、中国文化を日本文化に変化熟成させていく時代で、仮名の成立や和歌の成立なんかがあるわけですが、元号でもそのような感じで、どうも中国の王朝の名前をいじったようなものや、天の字が多く認められるようになったりします。この時代の後半はやはり源平のシンボリズムという事で、ゾロアスター教の二元論ではないですが、権力闘争による対立の構図が出てきます。また後が付く天皇が後一条天皇以降認められるようになり、後一条天皇の時代は藤原道長全盛期であり、平等院鳳凰堂などが建築された時代でもあります。三条天皇などと合わせて、Godと数字の組み合わせのシンボリズムと考えられるかと思われます。この頃から若干歴代天皇の生没年とシンボリズムが重なる場合とそうでないのが微妙に認められるようですが、やはり三十三間堂などと同じく、仏教と数秘術との重なり、天皇家と仏教との重なりがまたユダヤ教、キリスト教との重なり、フリーメイスンリーとなるのだと思われます。それらがやはり明確になるのは源平の争いの中心となった三十三間堂を建立した後白河天皇という事になるのだと思われます。大治2年9月11日(1127年10月18日) - 建久3年3月13日(1192年4月26日)となかなか明確なシンボリズムであり、その人生と三十三間堂建立のきっかけといい、まさに日本史上特筆すべき数秘術を体現した天皇であったのでしょうか。ちなみに三十三間堂の33は法華経に由来するそうです。また源平の戦いを制した源氏の名前にヨシやヨリの発音が多いのもこれまたシンボリズムと考えられそうです。
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さてまあその後は源氏三代で三角形の紋印の北条氏になるわけですが、もちろん天皇が北極星を意味するとの北のシンボリズムもあるのかと思われます。北条氏の治世というのもなかなか壮絶であるわけですが、もちろんこの時代は日蓮がいて、鎌倉仏教が成立し、禅宗が盛んになる時代で、天皇としては最初が北条政子と対立して隠岐に流された後鳥羽天皇となるわけですが、こちらも治承4年7月14日(1180年8月6日)-延応元年2月22日(1239年3月28日)とシンボリズムはあるわけですが、生年の7月14日はこれはなんととらえるべきでしょうか。この後の鎌倉時代の天皇の生没年に関してはほぼシンボリズムが認められ、また元号では建築の建の字が多く認められ、まあ現在残る日本の最古の建築や彫像もこの時代のものがほとんどであることを考えると、後白河天皇の三十三間堂のあたり以降からほぼ権力や文化と現在のフリーメイスンリーにつながる文化、主に仏教文化であるわけですが、それが一致して存在していることが分かるかと思います。また源頼朝、北条政子なども没年月日は元号歴でシンボリズムを認め、その後の北条執権氏もいわゆる権力の盛期である時宗の時代を頂点として生没年月日のシンボリズムを認めます。北条執権氏には西暦でそれが全くないことがまた傍証となるかと思われます。時という名前が受け継がれていることもまた明確なシンボリズムのようです。
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天皇家が菊の御紋を使い始めたのもこの頃という事で、シンボリズムと権力社会、文化や宗教の成熟と、生産活動の流れがまさにフリーメイスンリー憲章に描かれた古代エジプトや古代オリエントの世界と完全に一致するのが読み取れるかと思います。

さてこの後がいわゆる明治維新後に重要視された南北朝の時代なわけですが、ここでポイントがあります。いわゆる建武の親政で始まる南北朝時代なんですが、その有史以来武勲に優れた天皇として名高い後醍醐天皇ですが、正応元年11月2日(1288年11月26日)-延元4年8月16日(1339年9月19日)ということで、微妙に西暦のシンボリズムが認められます。で、南朝の二代目としての後村上天皇は嘉暦3年(1328年)-正平23年3月11日(1368年3月29日)で、和暦のシンボリズムとなってその後は生年月日が不詳となって尻つぼみとなっていきます。一方記録上今上天皇に繋がる北朝は光厳天皇 正和2年7月9日(1313年8月1日) - 正平19年7月7日(1364年8月5日)と明確な和暦のシンボリズムを認め、また名前のシンボリズムも光を認めたりします。北朝二代目が光明天皇元亨元年12月23日(1322年1月11日) - 天授6年6月24日(1380年7月26日)、ありゃりゃと。どうも西暦でも和暦でも明確なキリスト教のシンボリズムを認めていたりします。南朝の後村上天皇に捕らえられて最後は仏道に入って亡くなったという事で、どうも鎌倉仏教と一緒にキリスト教も入っていたんじゃないかというような動きではないでしょうか。その後の北朝三代目が崇光天皇建武元年4月22日(1334年5月25日) - 応永5年1月13日(1398年1月31日)、北朝四代目後光厳天皇建武5年3月2日(1338年3月23日)- 応安7年1月29日(1374年3月12日)となり、この頃が足利将軍家は三代目足利義満正平13年/延文3年8月22日(1358年9月25日)-応永15年5月6日(1408年5月31日)でやはりまだ室町幕府はそれほど明確なシンボリズムが無い状況です。北朝五代目の南北朝の争いが終わった時の後円融天皇延文3年12月12日(1359年1月11日) - 明徳4年4月26日(1393年6月6日)という事で、死の直前に仏門に入ったという事であり、権力は完全に義満に握られていたようですが、西暦、和暦ともに完全にシンボリズムを認めます。その後の一休宗純和尚の父とされる北朝六代目後小松天皇天授3年6月27日(1377年8月1日) - 永享5年10月20日(1433年12月1日)とやはり西暦、和暦ともにシンボリズムを認めますが、その子の称光天皇応永8年3月29日(1401年5月12日) - 正長元年7月20日(1428年8月30日)で名前のシンボリズムは認めますが、生没年月日のシンボリズムは完全になくなります。権力とシンボリズムはかなり一致するようで、名前は追号で、死後に付けられる時代です。

ちなみに北朝で続いた光のシンボリズムですが、第58代天皇光孝天皇天長7年(830年) - 仁和3年8月26日(887年9月17日)、第49代天皇光仁天皇和銅2年10月13日(709年11月18日) - 天応元年12月23日(782年1月11日))といて、称光天皇の光は光仁天皇からとられたそうですが、光仁天皇は大化の改新を遂げた天智天皇の子供だそうです。また光孝天皇の父親の第54代天皇仁明天皇は弘仁元年(810年) - 嘉祥3年3月21日(850年5月6日)で、即位が天長10年3月6日(833年3月30日) - 嘉祥3年3月19日(850年5月4日)とあり、明のシンボリズムと微妙な西暦のシンボリズムがあるようです。
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明のシンボリズムは第29代天皇欽明天皇(継体天皇3年(509年?) - 欽明天皇32年4月15日(571年5月24日?))で認め、この時はまだ元号もなく、百済より仏教が公伝し、朝鮮半島の任那が滅亡したそうです。第31代天皇用明天皇(生年不詳- 用明天皇2年4月9日(587年5月21日?))は聖徳太子の父親です。第34代天皇舒明天皇(推古天皇元年(593年)? - 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日))は天智天皇、天武天皇の父親で、没年になぜか西暦のシンボリズムを認めます。第37代天皇斉明天皇(推古天皇2年(594年) - 斉明天皇7年7月24日(661年8月24日))は天智天皇の母親で舒明天皇の妻で、最初皇極天皇として二度天皇となった女帝です。第43代天皇元明天皇(斉明天皇7年(661年) - 養老5年12月7日(721年12月29日))はやはり女帝で平城京への遷都と、古事記の完成、和同開珎の鋳造を行ったそうです。第54代天皇仁明天皇弘仁元年(810年) - 嘉祥3年3月21日(850年5月6日)は上に挙げた即位の年月日が西暦で3並びがある天皇です。病弱であったそうです。光仁天皇の西暦での異常なほどのシンボリズムが偶然か、はたまた大化の改新後の西暦とキリスト教のシンボリズムなのかというところですが、まあ時代的にはそういう政変と一神教の影響がありうると考えられるのかと思われます。
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さてまあ散り散りにあちこちに飛ぶ内容となっていますが、基本的には9月6日の悠仁親王殿下の10歳の誕生日に向けて作成している内容となるようです。それで一応権力者の生没年月日という事で室町幕府の将軍の生没年月日もチェックします。足利尊氏嘉元3年7月27日(1305年8月18日)-正平13年/延文3年4月30日(1358年6月7日)、足利義詮元徳2年6月18日(1330年7月4日)-正平22年/貞治6年12月7日(1367年12月28日)、足利義満正平13年/延文3年8月22日(1358年9月25日)-応永15年5月6日(1408年5月31日)と権力の絶頂であったはずの最初の三代ですがあまりはっきりとしたシンボリズムは認めません。もしかすると義満は5月5日に亡くなりそうであったという事があるのかもしれません。足利義持元中3年/至徳3年2月12日(1386年3月12日)-応永35年1月18日(1428年2月3日)、足利義量応永14年7月24日(1407年8月27日)-応永32年2月27日(1425年3月17日)、足利義教応永元年6月14日(1394年7月12日)-嘉吉元年6月24日(1441年7月12日)と六代目まで見ると細川氏などの管領が権力を掌握し、ほぼ権力はなかったようですが、シンボリズムは逆に明確になってきている状況です。六代将軍の没年などを見るとザビエル来日の準備が出来ているような様子が伺えます。足利義勝永享6年2月9日(1434年3月19日)-嘉吉3年7月21日(1443年8月16日)、足利義政永享8年1月2日(1436年1月20日)-延徳2年1月7日(1490年1月27日)、足利義尚生寛正6年11月23日(1465年12月11日)-長享3年3月26日(1489年4月26日)とその後の九代目まではシンボリズムは強くないですが、銀閣寺を作った足利義政の1月7日の没年は天智天皇や昭和天皇と一緒であり、その後の石見銀山の開発などを連想させるでしょうか。まあいわゆる公現祭のシンボリズムになるわけですが、4世紀頃に西方教会に伝わったという事で、まあ比較的明確なカトリック特異的なシンボリズムといえるのかと思われます。足利義稙文正元年7月30日(1466年9月9日)-大永3年4月9日(1523年5月23日)または同年4月7日とも、足利義澄文明12年12月15日(1481年1月15日)-永正8年8月14日(1511年9月6日))、足利義晴永正8年3月5日(1511年4月2日)-天文19年5月4日(1550年5月20日)と十代目からは96の点対称のシンボリズムを感じさせるようなシンボリズムや、西暦と一致したシンボリズムがあり、ザビエル来日を予期させる、まさにフリーメイスンリー、イルミナティ成立の源流が東と西の接点、イエズス会の日本での布教活動にあることを感じさせるものでしょうか。足利義晴は大内氏が有力は後援者であったという事で、もうすでにこの頃には京都近辺は戦乱の状況で、応仁の乱とザビエル来日を予期させる時代となっています。ちなみにザビエル来日は1549年8月15日です。案内人がヤジロウであるというのもまさにシンボリズムで神の差配でしょうか。ちなみにグレゴリオ暦の成立は1582年とのことです。足利義輝天文5年3月10日(1536年3月31日)-永禄8年5月19日(1565年6月17日)、足利義栄天文7年(1538年)-永禄11年(1568年)、足利義昭天文6年11月13日(1537年12月15日)-慶長2年8月28日(1597年10月9日)となっていて、十三代から最後の将軍まではまさに戦国時代であり、13代14代はシンボリズムはあまり認めませんが、15代将軍は明らかにシンボリズムを認め、その人生とともに、織田有楽斎や豊臣継代や徳川家といったその後の幕藩体制につながる人々の人生とともに、キリスト教とともに新たな時代の幕開けを感じさせる様子でしょうか。元号もまさにそういう現代につながる象徴を含んでいる感じでしょうか。

元号では南北朝で正平という南朝のものがありますが、この時代は正平一統といって南朝に一時的に統合された和議が成立した時代という事で、その間に正平16年(1361年)6月24日、正平地震。『太平記』などに記された大地震。南海トラフの巨大地震と推定される。があったという事で、まあなんというかそういう字のようです。また北朝の最後の後小松天皇で明徳というものがあります。室町時代では文明という元号が後土御門天皇嘉吉2年5月25日(1442年7月3日) - 明応9年9月28日(1500年10月21日)の時代にあります。まあ文明がカトリック、キリスト教と一致して存在するという事が文字の上でも象徴されているのでしょうか。天文の元号の後奈良天皇明応5年12月23日(1497年1月26日) - 弘治3年9月5日(1557年9月27日)という事で、12月23日の今上天皇の誕生日には北朝二代目の光明天皇と歴代天皇で二人いるそうです。

そしてここからは、ザビエルが来日してから面会しようとして会えなかった天皇ですが、その後のキリスト教布教後の時代に入るわけです。その前にシンボリズム(光、明)が名前に入らない天皇の生没年のシンボリズムについてそれ以前についてみていきましょう。まずは天智天皇の娘の女帝である持統天皇大化元年(645年) - 大宝2年12月22日(703年1月13日)でしょうか。女帝はやはりなぜかシンボリズムが強いわけですが、権力の象徴としてと同時に権力への志向があまりない女性の特徴がそうしたシンボリズムとなるのかもしれません。特筆すべきは元号の最初である大化元年に生まれ、律令制が整う大宝年間の和暦のシンボリズムと、西暦の対称性のシンボリズムがあることでしょうか。持統天皇という追号もGやJITOのシンボリズムが含まれる可能性があります。大化の改新という政変が何を志向していたかという事が議論となりそうです。淳仁天皇第47代天皇天平5年(733年) - 天平神護元年10月23日(765年11月10日)、淳和天皇第53代天皇延暦5年(786年) - 承和7年5月8日(840年6月11日)と二人の淳の字がつく天皇ですが、一人は追放されて殺されているというなかなか壮絶な権力闘争の時代ですが、奈良時代から平安時代への移行時期であり、大化の改新後という事もあり、どちらも没日が西暦で一並びのシンボリズムが入るという、万世一系とは何かという事かもしれません。清和天皇第56代天皇嘉祥3年3月25日(850年5月10日) - 元慶4年12月4日(881年1月7日)は言わずと知れた清和源氏の源なわけですが、1月7日没日という天智天皇、そして新暦で昭和天皇と同じという、いわゆる公現祭の日で、なおかつユダヤ教に特異的な7のシンボリズムが入ったまあなかなか歴代天皇で見ても特徴的なシンボリズムとなっています。27歳で譲位して、29歳で仏門に帰依して仏寺巡拝の旅へ出て、30歳で亡くなるという、まあエジプトのツタンカーメン王やその他の王にも似た、王政ではよくあるなかなか壮絶な人生でしょうか。西暦というのもポイントだと思われます。キリスト教布教後の日本でも西暦使用者はまずいないわけで、さらにそのシンボリズムが存在するとして、それが偶然か必然かは全く想像の範疇を超えるわけですが、そこに仏教や宗教、海での船での交易というキーワードが出てくるわけです。それらすべてがシンボリズムでしょう。宇多天皇第59代天皇貞観9年5月5日(867年6月10日) - 承平元年7月19日(931年9月3日)で宇田源氏の源なわけですが、64歳で亡くなっていてかなり当時としては長生きですが、菅原道真の後ろ盾となっていたそうですが藤原氏に権力闘争で敗れ仏道に帰依して真言宗の阿闍梨までなっているそうです。やはり真言宗と3のシンボリズムは強そうです。生年が旧暦で5並びで、没年が西暦で3のシンボリズムというのもその人生を象徴している感じでしょうか。その子の醍醐天皇第60代天皇元慶9年1月18日(885年2月6日)- 延長8年9月29日(930年10月23日)は逆に旧暦で1並びと8のシンボリズム、没年で9月の対称性というまたまたマニアックな感じです。菅原道真の呪いといわれる、清涼殿落雷事件で憔悴し亡くなられた方です。陰陽道の世界です。醍醐天皇の子供の朱雀天皇第61代天皇延長元年7月24日(923年9月7日) - 天暦6年8月15日(952年9月6日)という事で、名前も四方を表す神獣である青龍、朱雀、白虎、玄武の一つなわけですが、まあ空想上の鳥という事で鳳凰と近似でフリーメイスンリーの象徴となるのでしょうが、その名前もさることながら、治世では藤原純友の乱と平将門の乱があった時代という事で、まあ明らかに時代の変わり目なんでしょうね。富士山の噴火や地震・洪水もあったという事で、8歳で即位して、24歳で譲位して出家して30歳で亡くなられたそうです。皇帝ティトゥスではないですが、ローマ皇帝の逸話を思わせる話でしょうか。まあシンボリズムがありすぎるのも人生にはなかなか障害となることもあるようです。亡くなられた日が日本にゆかり深い聖母被昇天の日で、ユリウス暦で9月6日というのもなかなか凄まじいものがあります。村上天皇は醍醐天皇の子で朱雀天皇の異母弟だそうですが、なかなか平安時代の天皇制が極まった時代という感じでしょうか。第62代天皇延長4年6月2日(926年7月14日) - 康保4年5月25日(967年7月5日)だそうで、まあ没年が5の倍数という事で、7月14日や7月4日も6月24日からの関係でおそらく月齢による10日の間隔でしょうが、シンボリズムがあるかと思いますが、まあ具体的に世界史で現れるのはアメリカ独立記念日とフランス革命記念日という事で、要は日齢や月齢の世界という事で、暦は全てそちらで成立しているわけですが、まあそういう法則が天皇の生没年月日には関係していそうだという事なのでしょうか。この頃から明確に五芒星とも関係しているのかと思いますが、5のシンボリズムは存在したようで、帝王学として、政治学として、修身としてのキリスト教が天皇家に入り込んでいたという事になるのでしょうか。村上天皇の子の冷泉天皇第63代天皇天暦4年5月24日(950年6月12日)- 寛弘8年10月24日(1011年11月21日)ということで、明らかに没日の西暦の1並びのシンボリズムがあるわけですが、まあいいんでしょうかね。天皇をシンボルとしてまさに操っていたような仏教の秘密としてのキリスト教の西暦が感じられる話でしょうか。在位:康保4年10月11日(967年11月15日) - 安和2年8月13日(969年9月27日)という事で、在位期間にもなかなかシンボリズムを西暦で認めるようで、冷泉天皇はかなりの奇行で知られていたという事で、なかなか平安時代の秘密といった感じのようです。当時としては62歳と長寿であったそうです。フリーメイスンリーでしょうかね。円融天皇第64代天皇天徳3年3月2日(959年4月12日) - 正暦2年2月12日(991年3月1日)で、シンボリズムとしては没年の2の対称性でしょうか。まあ円と2のシンボリズムというのが、いわゆる国風文化の行き着いた先というところなのかもしれません。まあ若干31歳の生というのが、まさに平安時代の日本人でしょうか。花山天皇は第65代天皇で冷泉天皇の第一皇子で安和元年10月26日(968年11月29日) - 寛弘5年2月8日(1008年3月17日、在位:永観2年10月10日(984年11月5日) - 寛和2年6月23日(986年8月1日)という事で、治世は安倍晴明の時代になるという事で、まあシンボリズムが生没年、在位期間にも微妙にちりばめられている状況で、まあキリスト教社会では1110年を目指した十字軍運動が始まろうかという時代に近づくわけです。ちなみに安倍晴明は延喜21年1月11日〈921年2月21日〉 - 寛弘2年9月26日〈1005年10月31日〉という事で、明確に和暦と西暦のシンボリズムが重なる生年月日という事で、陰陽師や仏教レベルでは明確に西暦を使用して、それを最大の秘密としていた可能性が極めて高いようです。
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その後は一条、三条と続くわけですが、名前に数字が付くと逆に生没年のシンボリズムは薄れるのでしょうか。一条天皇の没年が6月22日という事と三条天皇は生日と没日が三の倍数という事であるようです。この後からは前述した後の付く天皇が続くわけですが、同時に藤原道長に代表される、平安時代の盛期となります。後朱雀天皇第69代天皇寛弘6年11月25日(1009年12月14日) - 寛徳2年1月18日(1045年2月7日)、後冷泉天皇第70代天皇万寿2年8月3日(1025年8月28日) - 治暦4年4月19日(1068年5月22日)とかなり明確な和暦でのシンボリズムではないでしょうか。国風文化と和暦、西暦のシンボリズムの関係も天皇の生没年に関しては注目したいところかもしれません。日本という島国では海を越えてくる中国の文化もインド、アフリカ、ヨーロッパの文化全てが外来文化であるという事も考慮しておきたいところでしょうか。後三条天皇第71代天皇長元7年7月18日(1034年9月3日) - 延久5年5月7日(1073年6月15日)、在位:治暦4年4月19日(1068年5月22日) - 延久4年12月8日(1073年1月18日)で名前のシンボリズムに対比して生没年のシンボリズムは3の倍数のものとなかなか複雑で、在位期間の譲位の日にちが逆に和暦、西暦ともにかかるという、なかなか在位中の摂関政治から院政への移行や、東北地方の征夷に務めたなど、なかなか国風文化の完成に尽力したという感じが伺われます。フリーメイスンリー的な感じが出てくるところでしょうかね。白河天皇第72代天皇天喜元年6月19日(1053年7月7日)-大治4年7月7日(1129年7月24日)とあり、7のシンボリズムでしょうか。その次の堀河天皇第73代天皇承暦3年7月9日(1079年8月8日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日)と今度は西暦を織り交ぜた8のシンボリズムのようでどうも源平の合戦の時代に向けて天皇の生没年のシンボリズムの試行錯誤のようなものを感じます。鳥羽天皇康和5年1月16日(1103年2月24日) - 保元元年7月2日(1156年7月20日)、崇徳天皇元永2年5月28日(1119年7月7日) - 長寛2年8月26日(1164年9月14日)と院政が成立していく、時代はまさに源平の合戦の時代に入るわけですが、ヨーロッパではまさに第一次十字軍が絶頂を極めるときであり、生年月日のシンボリズムのみを認め、それも和暦であったり、西暦のみであったりとかなり微妙ですが、それと天皇の長寿が顕著となってきており生活レベルの向上と、天皇制の安定、そして何やら源平の合戦による実力主義への移行という壮大なプロジェクトといったものに対する準備的なものが感じられるでしょうか。その後の夭逝している近衛天皇第76代天皇保延5年5月18日(1139年6月16日)- 久寿2年7月23日(1155年8月22日)ではシンボリズムは対称性や55、22など西暦でありますが、極めて薄まった感じで、シンボリズムはもう当然の形でありながら、逆にそれによる社会変革、政権構造自体の変化に焦点が移ってきているような形があるようです。ヨーロッパでの十字軍運動、その後のモンゴル帝国の成立などを当初の大秦景教流行碑などと合わせると、世界的なやはりカトリックを中心としたキリスト教精神に基づくシンボリズムの信仰があるという認識が最も正しいのだと思われます。そして何度も触れている後白河天皇の抜擢と日本のかなり正確な歴史書としての平家物語や太平記の時代の源平の合戦、執権北条氏の鎌倉時代に移り、明確な33のシンボリズムを日本の歴史に刻むわけです。

二条天皇第78代天皇康治2年6月18日(1143年7月31日) - 永万元年7月28日(1165年9月5日)(在位:保元3年8月11日(1158年9月5日) - 永万元年6月25日(1165年8月3日))は後白河天皇の子供ですが生没年にはシンボリズムはないようですが、即位と譲位の日付はあるようです。死の直前の譲位です。六条天皇第79代天皇長寛2年11月14日(1164年12月28日) - 安元2年7月17日(1176年8月23日)はその子で後白河天皇の孫ですが、シンボリズムを認めますがやはり後白河天皇より早逝します。生後7か月で即位し、満11歳で赤痢で亡くなったそうです。高倉天皇第80代天皇応保元年9月3日(1161年9月23日) - 治承5年1月14日(1181年1月30日)はやはり後白河天皇の第7皇子で生没年月日のシンボリズムを認めます。父親の後白河上皇と舅の平清盛との間に挟まれたようです。安徳天皇第81代天皇治承2年11月12日(1178年12月22日) - 寿永4年3月24日(1185年4月25日)は有名な壇ノ浦の合戦で三種の神器とともに海に沈んだとされる満6歳で亡くなられた天皇で、平家がすでに追討されて木曽義仲が京に入っていたこともあり、同時期にやはり後白河天皇の孫である後鳥羽天皇が即位していて、期間が重複もしているそうです。安徳天皇は和暦の生年月日に明確な対称性のシンボリズムを認め、また西暦にも認めることから、平家の隆盛とその滅亡が陰陽師や仏教のシナリオに基づいたものでもあることが想像されるでしょうか。没年月日の壇ノ浦の合戦の日も和暦で3の倍数で、西暦で復活祭の時期に重なることもこれまた決戦の日もまたシンボリズムに関係したものであるかもしれないという事でしょうか。世界史の時代はまさに第一次十字軍後でイスラム勢力がエルサレムの地の奪回に集結し、そしてその後1200年頃にモンゴル帝国が勃興するわけです。

土御門天皇第83代天皇建久6年12月2日(1196年12月23日) - 寛喜3年10月11日(1231年11月6日)在位:建久9年1月11日 (1198年2月18日) - 承元4年11月25日(1210年12月12日)、33歳で出家してそのまま亡くなられた後鳥羽天皇の子供です。日蓮の父親との話が法華宗ではあるそうです。まさにシンボリズムのなせる業でしょうか。順徳天皇第84代天皇建久8年9月10日(1197年10月22日)ー仁治3年9月12日(1242年10月7日)はやはり後鳥羽天皇の子供で、後鳥羽天皇とともに佐渡で亡くなったそうですが、小倉百人一首にももしきや古き軒端のしのぶにもなほ余りある昔なりけり (順徳院)で名を残しています。在位:承元4年11月25日(1210年12月12日) - 承久3年4月20日(1221年5月13日)だそうです。承久の乱も北条政子の啖呵を切った演説がなかなか有名ですが、その頼朝政子の夫婦の関係や、その子供たちの行く末、そして仏道に入って鎌倉大仏を建設することになり、さらに津波でその建築が流されるまでがミツウロコのシンボリズムとともに一連の鎌倉の物語として日本のフリーメイスンリーの教訓でしょうか。仲恭天皇第85代天皇建保6年10月10日(1218年10月30日) - 天福2年5月20日(1234年6月18日)、5の倍数のシンボリズムでしょうか。この頃は天皇家も夭逝ですが、執権北条氏もほぼ夭逝の時代です。後堀河天皇第86代天皇建暦2年2月18日(1212年3月22日) - 天福2年8月6日(1234年8月31日)在位:承久3年7月9日(1221年7月29日) - 貞永元年10月4日(1232年11月17日)です。四条天皇第87代天皇寛喜3年2月12日(1231年3月17日)ー仁治3年1月9日(1242年2月10日)在位:貞永元年10月4日(1232年11月17日) - 仁治3年1月9日(1242年2月10日)と承久の乱後の菊花紋が定着した時代はやはり権力の低下とともにシンボリズムも弱いようです。

後嵯峨天皇第88代天皇承久2年2月26日(1220年4月1日) - 文永9年2月17日(1272年3月17日)(在位:仁治3年1月20日(1242年2月21日) - 寛元4年1月29日(1246年2月16日)です。承久の変の前年の生まれという事で、2のシンボリズムでしょうか。88代というところもポイントのようです。西暦でも4月1日でエイプリルフールもシンボルでしょう。即位の年月日も2のシンボリズムのようです。後深草天皇第89代天皇寛元元年6月10日(1243年6月28日)‐嘉元2年7月16日(1304年8月17日)在位:寛元4年1月29日(1246年2月16日) - 正元元年11月26日(1260年1月9日)は生没年月日はなく、在位のシンボリズムでしょうか。ゴと読むと親不孝者の意味になるという事で、のちのと読ませていたなどの逸話もあるようです。基本的に兄弟げんかで後の南北朝につながる対立を生じたようです。亀山天皇第90代天皇建長元年5月27日(1249年7月9日) - 嘉元3年9月15日(1305年10月4日)(在位:正元元年11月26日(1260年1月9日) - 文永11年1月26日(1274年3月6日)で、やはり在位のシンボリズムのみのようです。生没年月日の3の倍数のシンボリズムはあるようですが、まあこの時代くらいになると比較的普通のようです。

後宇多天皇第91代天皇文永4年12月1日(1267年12月17日) - 元亨4年6月25日(1324年7月16日)(在位:文永11年1月26日(1274年3月6日) - 弘安10年10月21日(1287年11月27日 )はいわゆる元寇の時代の天皇ですが、追号もなかなかシンボリズムのようです。没年月日がやはりシンボリズムが強いようです。後醍醐天皇の父親となります。伏見天皇第92代天皇文永2年4月23日(1265年5月10日) - 文保元年9月3日(1317年10月8日)在位:弘安10年10月21日(1287年11月27日) - 永仁6年7月22日(1298年8月30日)です。没年月日がシンボリズムでしょうか。あまり明確ではなさそうです。後伏見天皇第93代天皇弘安11年3月3日(1288年4月5日)- 延元元年4月6日(1336年5月17日)在位:永仁6年7月22日(1298年8月30日)- 正安3年1月21日(1301年3月2日)は生年月日がシンボリズムのようです。この頃後醍醐天皇の挙兵に呼応して足利尊氏が京都の六波羅探題を襲撃したのが1333年元弘3年であったそうです。後伏見天皇の子供が北朝となり、今生天皇に繋がります。後二条天皇第94代天皇弘安8年2月2日(1285年3月9日) - 徳治3年8月25日(1308年9月10日)(在位:正安3年1月21日(1301年3月2日) - 徳治3年8月25日(1308年9月10日)は南朝の系統で後醍醐天皇の兄にあたります。追号とともに生年月日の2のシンボリズムでしょうか。北朝系の3のシンボリズムと光のシンボリズムと対照をなすようです。

花園天皇第95代天皇永仁5年7月25日(1297年8月14日) - 正平3年11月11日(1348年12月2日)(在位:延慶元年11月16日(1308年12月28日)- 文保2年2月26日(1318年3月29日)は伏見天皇の子供で禅宗に傾倒したそうです。後醍醐天皇に譲位しましたが、即位、譲位、没年月日ともに明確に和暦でシンボリズムを認め、さらに現在の妙心寺の土地を寄進して寺を開基したという事で、明らかにシンボリズムが禅宗と結びついていることが分かります。52才とかなり当時としては長寿かと思われます。後醍醐天皇から称光天皇までは上述しました。

後花園天皇第102代天皇応永26年6月18日 (1419年7月10日)‐文明2年12月27日 (1471年1月18日)在位:正長元年7月28日(1428年9月7日) - 寛正5年7月19日(1464年8月21日)です。この時代になると権力は完全に幕府や有力武将たちにあるわけですが、シンボリズムはもう和暦でも西暦でも明確に特に没年月日などには認めるという、何とも天皇の象徴としての存在としては特に南北朝以降顕著であるようです。応仁の乱があり、三種の神器を奪われるなど散々ですが、52歳まで長生きしたそうです。後土御門天皇第103代天皇嘉吉2年5月25日(1442年7月3日) - 明応9年9月28日(1500年10月21日)在位寛正5年7月19日(1464年8月21日) - 明応9年9月28日(1500年10月21日)はまさに応仁の乱の時代の天皇で、室町幕府の庇護を受けていて、譲位もままならない状況であったそうです。生年月日がカトリックのシンボリズムのようです。敬虔に仏教を信仰していたそうです。非常に天皇としては長寿な58歳で亡くなられたそうですが、死後も葬儀を開くことが困窮していてなかなかできなかったという逸話があるそうです。

後柏原天皇第104代天皇寛正5年10月20日(1464年11月19日)- 大永6年4月7日(1526年5月18日)在位:明応9年10月25日(1500年11月16日) - 大永6年4月7日(1526年5月18日)です。生年月日が和暦でやはり5の倍数となるのでしょうか。西暦で明らかにキリスト教のシンボリズムがあることからも、禅宗仏教とキリスト教との明確な関係性が伺えます。さらに対応すると没年月日が復活祭の時期という事になるようです。世の中は荒れに荒れていたようですがやはり62歳と長寿で、しかも徐々に歴代天皇として伸びていることが分かるかと思います。後奈良天皇第105代天皇明応5年12月23日(1497年1月26日) - 弘治3年9月5日(1557年9月27日)在位:大永6年4月29日(1526年6月9日)- 弘治3年9月5日(1557年9月27日)という事で、まあシンボリズムもほぼ現代のフリーメイスンのようなクリスマスや樹の記念日、3の2乗3乗といった、いわゆるシンボリズムと同じ形になってくるようです。60歳まで長生きし、在位中は自筆の文書を売って収入を得ていたという、ある意味人間的な天皇であったようです。大内義隆などが有力な献金大名であったようですが、ザビエルが1549年来日し、1551年1月京に入り後奈良天皇に面会出来ずに山口に戻り、大内義隆の下で布教して、1551年11月15日大分より離日しました。ザビエルの日本での布教が完全に日付のシンボリズムを基本として行動していたことがよくわかり、またそれに対して日本の天皇が準備されている状況となることもわかるでしょうか。大内義隆は永正4年11月15日(1507年12月18日)‐天文20年9月1日(1551年9月30日)で、ザビエル滞在中に陶晴賢による謀反で亡くなっています。陶晴賢の家来にキリシタンが多数いたそうです。ザビエルが離日した大分の海岸は慶長豊後地震1596年9月4日(文禄5年閏7月12日)で島が消滅するほどの被害であったそうです。ちなみにフランシスコ・ザビエル1506年頃4月7日 - 1552年12月3日で、12月3日生まれでは皇室ではブラザー東久邇宮がいます。後奈良天皇はなぞなぞ集なども作ったそうです。

さてここからキリスト教布教後の日本という事になるわけで、そのシンボリズムも極めて顕著となっていきます。その前に文明、天文と明治維新後のフリーメイスンリー、西洋由来関係の学問や世の中の状況を表すのに使われる単語として造語された熟語と同じ漢字の元号が出てきたりしましたので、元号で同じように現在熟語として使用されている漢字の並びの元号と、さらに平成と同じく、平の付く元号についてみていこうかと思います。まず文明ですが応仁の後の後土御門天皇の時代です。応仁の乱が終息し、一休和尚が大徳寺を再建して足利義政が銀閣寺を建てたそうです。天文はこれはてんぶんと読むそうですが、鉄砲の種子島への伝来、ザビエルの日本上陸があり、上杉謙信、武田信玄、北条氏康、織田信長といった戦国大名の有名どころが勢力を伸ばす時代です。その他には江戸時代の文化文政時代で有名な文化は享和4年2月11日(1804年3月22日)‐文化15年4月22日(1818年5月26日)で後に挙げますが光格天皇、仁孝天皇の時代です。将軍は第11代徳川家斉の時代です。この時期はロシア使節が長崎に来航し薪水給与令が出されています。その後フェートン号事件、ゴローニン事件と続きます。江戸天文台に翻訳局が出来たそうです。杉田玄白の解体新書がそのおよそ30年前だそうですが、杉田玄白が84歳で亡くなっているそうです。その一年後に伊能忠敬が73歳で亡くなっています。間宮林蔵が樺太を探検したのもこの頃ですが、杉田玄白の親戚で、伊能忠敬に測量を教わっています。その他に熟語となる元号は延長えんちょう、延喜23年閏4月11日(923年5月29日)‐延長9年4月26日(931年5月16日)、醍醐天皇から朱雀天皇の時代や、治安じあん、寛仁5年2月2日(1021年3月17日)‐治安4年7月13日(1024年8月19日)、後一条天皇の時代、永久えいきゅう、天永4年7月13日(1113年8月25日)‐永久6年4月3日(1118年4月25日)、鳥羽天皇の時代となります。まあ元号と熟語の意味と多少関係があるのかもしれませんし、熟語の成立が元号からきているのかもしれませんが、文化、文明、天文といったいかにも明治維新後に盛んに使われた単語とは異なるようです。元号に関してはその他には創建された時代の元号を名前とした寺の名前がありますが、有名なところでは延暦寺、仁和寺、建長寺があります。延暦寺は788年、仁和寺は888年創建という事で、もしかすると8の数字の西暦に合わせたものであるのかもしれません。建長寺は1253年で北条執権5代時頼、建長5年、鎌倉5山の第一位という事で、まあ5に掛かっているのかもしれません。仁和寺には御室八十八ヶ所霊場というのもあるそうです。

そして平成につながる平の字の付く元号ですが奈良時代の天平、天平感宝、天平勝宝、天平宝字、天平神護とまあいわゆる聖武天皇に始まる東大寺大仏殿建立という時代で、日本の最も遺物が残る正倉院の宝物という時代なわけです。まあ確実にミトラ教やらゾロアスター教やらキリスト教、ユダヤ教、イスラム教と入っている時代なわけです。シンボリズムもあるのでしょうね。大化の改新の影響がこの交流となったのでしょうか。およそ100年の間があります。その後は平安時代の寛平かんぺい仁和5年4月27日
(889年5月30日)‐寛平10年4月26日(898年5月20日)で、宇多天皇、醍醐天皇の時代です。やや現代日本では気が抜ける印象となりますが、寛の字は元号として当時繰り返し使われた歴史があります。仏教の流行などとも関係するのではないでしょうか。桓武平氏の成立、仁和寺の建立、菅原道真による遣唐使の中止などがあるそうです。承平じょうへい、延長9年4月26日(931年5月16日)‐承平8年5月22日(938年6月22日)で、藤原時平、忠平らと菅原道真が権力闘争をした時代という事だそうです。平将門の乱などもあり、まあ権力とシンボリズムの関係という事で、わかりやすく自分の名前を元号に入れるという事もあるのでしょうね。康平こうへい天喜6年8月29日(1058年9月19日)‐康平8年8月2日(1065年9月4日)は後冷泉天皇の時代で前九年の役が終わるという事で、まあ後の鎌倉時代につながる東北征伐の一環があったという事です。今日では姓名の名前で男性で普通に認められる名前だと思います。仁平にんぺい久安7年1月26日(1151年2月14日)‐仁平4年10月28日(1154年12月4日)で近衛天皇の時代です。暴風や洪水での改元とのことだそうです。近衛天皇は16歳で亡くなられており、その死後保元の乱につながるそうです。ちなみに近衛は天皇の護衛の意味であり、在任中継続して鳥羽法皇の院政であったことを揶揄している追号のようです。平治へいじ保元4年4月20日(1159年5月9日)‐平治2年1月10日(1160年2月18日)は源平の合戦の平治の乱で有名な年号です。後白河上皇の院政の時代で、二条天皇の時代です。平清盛が台頭しました。信西の子の静賢の山荘で行われたという後の鹿ケ谷の陰謀が平家物語で有名ですが、信西、その子の静賢のどちらも後白河上皇の側近であったそうです。平治の乱のきっかけとなった信西は天文に通じていたそうで、その名前からもその当時の仏教の姿勢というものが感じられるでしょうか。その後は北朝の正平しょうへい興国7年12月8日(1347年1月20日)‐正平25年7月24日(1370年8月16日)で、前述した南海トラフ地震があったというシンボリズムです。太平記に記されているそうです。その後は平の付く元号はなく、また成の字も初めての元号での使用だそうです。
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さてまあ一気に読むとかなりくらくらするかと思われるこの内容ですが、歴代天皇125代と元号231代を全てその文字と時代と年月日でシンボリズムで語ろうとなるとどうしてもこうならざるを得ないわけで、それを踏まえた明治維新後の元号とさらに生前退位の話となるという事でしょうか。

あまりに長くなったのでこの後のキリスト教伝来後、正親町天皇以降は後編とします。
2016-09-09 06:26 | カテゴリ:日本
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2016-09-11 07:42 | カテゴリ:テレビ
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2016-09-16 18:50 | カテゴリ:中国
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