FREEMASONRY
Blue Lodge, Scottish Rite & York Rite in Japan
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まああまりに長すぎるので前後編に分けましたが、一応シンボリズムに則って9月11日に書ききるように設定しましたが、たぶん無理でしょう。
この間にシニム・ロッジでは113周年でインストレーションがあり、その前に横浜ロッジでは150周年で結構な人数が集まったようです。まあアイルランド系のスフィンクスロッジから起算して150周年という事で、出島のオランダ人のフリーメイスンを除けば、確実にロッジが集会を開いた記録という点では横浜が日本のフリーメイスンリーの最初であり、そこから大政奉還、明治維新への流れが定まり、キリスト教の日本での復活があり、日本の文明開化、近代化が始まったわけです。現在の天皇家にしてみれば、公的にも戦後のブラザー東久邇宮稔彦親王殿下がフリーメイスンであり、今上天皇陛下も昭和天皇の皇后の香淳皇后がブラザー東久邇宮の姪にあたることからかなり近い血縁関係という事で、まあ鳩山家などと同じく戦後にそろってフリーメイスンとなった、そういう認識でもまず間違いはないわけですが、実際に明治維新以降は神道の祭主としての行事を執り行っており、こういう点で、近代化としてのキリスト教信仰になりえないという宗教的問題があるかと思われます。まあ何をもってフリーメイスンと成すかというのは常にフリーメイスンリーの命題であり、それには時代と世の中の状況というものが必ず関係してきますので、まあそういう点を含めて、平成28年のこの時代に生前退位が話題になるというところで元号の点から見ていこうとなったわけです。
さてまあ実際の現代の日本のフリーメイスンリーの活動はさておき、このブログでは日本の天皇家のフリーメイスンリーとの接点、主に仏教やキリスト教を通してという事になるわけですが、その傍証としての日付と名前のシンボリズムを検証することをしているということになります。それで前編では1549年のザビエルの来日とキリスト教伝来までの後奈良天皇までの歴代天皇について、名前と元号のシンボリズム、平、光、明、そして生没年月日、即位と譲位の年月日をそれぞれ和暦と西暦についていわゆる数秘術とキリスト教の祝日の観点から見ていったわけです。結論としては日本では暦が成立した大化の改新直後から和暦、西暦ともに生没年月日、即位と譲位の年月日にシンボリズムを認め、それは常に仏教や陰陽道として様々に社会情勢に合わせて強められたり、弱められたりしながら、またシンボリズムとしても極めてキリスト教的なシンボリズムを時に認めつつ、それらがまた非常に非日本的であるというような反発を得て仏教への帰依や禅宗の広まりとともに、最終的にキリスト教の伝来を待つという形になったのかと思われます。歴史の必然としての日本へのキリスト教の伝来、それはもちろんフリーメイスンリー、キリスト教を知らないとなかなか反発があるわけですが、実際の世界情勢、キリスト教、フリーメイスンリーを詳しく知ると、それがまた必然であるというところがまた近代化や文明化という言葉でまとめられることになる、現実のキリスト教、フリーメイスンリーでもあるわけです。
さてまあ長々と前置きを書きましたが、9月はユダヤ教でも重要なヨム・キプル、スコットの月に後半が当たるという事で、9.11から始まって世の中の動きも急速な状況ですので、なるべく早く書き終えて平成28年の日本に為になるようなものとしたいと思っています。(今年のユダヤ暦の新年は10月3日から、ヨム・キプルは10月12日、スコットは10月17日18日だそうです。)
それでザビエルが献上物を捧げなかったために会えなかった後奈良天皇ですが、まあ応仁の乱などの状況でそういう懐事情もあったのかと思いますが、いわゆる戦国時代で比叡山延暦寺や高野山金剛峯寺、また鎌倉仏教後の本願寺、大徳寺、妙心寺といったいわゆる様々な権力や勢力を持った仏教集団が渦巻く京都御所であったわけで、まさに異教といえる、実は日本に伝来した仏教が常に教えとして求めていた可能性すらあるキリスト教、ユダヤ教を排斥する行動になったのはまあやむを得ないというかまさに無知蒙昧のなせる業であったのでしょうか。後奈良天皇の子供の正親町天皇106代天皇永正14年5月29日(1517年6月18日) - 文禄2年1月5日(1593年2月6日)在位:弘治3年10月27日(1557年11月17日) - 天正14年11月7日(1586年12月17日)はおおぎまちてんのうと読み、まあ即位のシンボリズムが和暦と西暦で交錯した形である程度で、没年月日はこれは公現祭に多少かかるのでしょうか。ザビエルが会えなかった後奈良天皇の没年月日が 弘治3年9月5日(1557年9月27日)で西暦で3の2乗と3の3乗のシンボリズムが認められ、後奈良天皇は伊勢神宮への宣命には皇室と民の復興を祈願したり、『般若心経』の奥書には自省の言を添えるなど、まあなかなかフリーメイスン的であるわけですが、その後の正親町天皇は実権を失っていたとはいえ、1565年にキリスト教宣教師の京都追放を命じたという事で、こちらはかなり浄土真宗の本願寺に頼ったり、のちには織田信長の上洛に頼ったりと、なかなか色々ある有名な状況でもあるわけです。後奈良天皇が60歳、正親町天皇が76歳とこの時代に天皇の寿命は飛躍的に伸びており、戦乱の中で天下人であった織田信長とかなり近しい関係になったり、その滅亡後も天下統一した豊臣秀吉に関白の権威を与えることで、皇室の尊厳がかなり高まったこともあり、また曲直瀬道三を始めとしたクリスチャンの新しい医療や健康法の導入が直接的に関係していることもありそうです。ちなみに歴代天皇でおおOOと発音する天皇はこの正親町天皇だけであり、オームの真言ではないですが、仏教系のそういう真言のシンボリズムと関係している可能性が高そうです。もちろんそれと対応して最初のキリシタン大名の大村氏があるという事でしょう。


この時代はもちろん家紋もそうですが、天下人となった織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の戦国三傑に極めて明確なシンボリズムを認める時代であり、それらが奈良時代、平安時代、鎌倉時代や南北朝時代のように仏教との関係からさらにその先に存在すると類推されるキリスト教などと考えられる時代と違い、明確にシンボリズムを重視するイエズス会を筆頭としたキリスト教宣教師の存在がありますので、それらの実際の活躍ととらえられることができるかと思います。
さてまあここから11/27以降に加筆しているわけですが、2か月の間を開けて書くというのもこのブログではかなり珍しいのですが、その間に三笠宮殿下も亡くなり、フィデル・カストロも亡くなり、アメリカ大統領がトランプ氏に決まったという事で、まあそんな感じなわけです。日本のキリスト教の歴史、天皇家の歴史は現代の国際政治にも関係しているのでしょうね。
さてさて嵐のような天皇誕生日となった12/23の本日なわけですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。まあブログの加筆もなかなか滞っている状況なわけですが、世の中の移りすぎるのは目まぐるしいわけで、そんな時代を感じる平成28年12月23日今上天皇陛下の83歳の天皇誕生日の本日に書き進めることとします。
まあいつの時代も天災やら人災やら、権力争いや仲間同士の争い、兄弟の争い、親子の争いと争い事や災害は尽きなかったわけですが、それらが日本史上特筆すべきものであったのがキリスト教伝来とその直後のまさに戦国時代であったわけです。フランシスコ・ザビエルがシンボリズムに基づいて日本で伝道を行った2年の後、真言のシンボリズムととらえられる大村氏や大友氏、大内氏といった大名とのキリスト教の関りや、近畿での権力争いに関する六角氏や三好氏、三好三人衆といった存在は数字のシンボリズムを思わせるものですし、管領家である細川氏のその後のキリスト教との接点などは細川の名前自体に恐らく何らかの音でのラテン語かポルトガル語やスペイン語でのシンボリズムがあるのではないかと思わされます。(ホセ・カワードになるようです。スペイン語のジョセフの名前のホセJosé、カワードは英語、ラテン語の臆病者の意味のcoward、一般に日本の濁らない音の川はcowardになるようです。卑怯者のジョセフ、そんな教訓的な意味の名前に響くようです。)そしてその混とんとした状況の中で現在の愛知県を中心とした地域から権力を手にする戦国の三英傑が出てくるわけですが、最終的に幕府を開いた徳川家康のイエズス会との名前の相似のシンボリズムと没年月日のシンボリズムがまあ改めて戦国時代の総括でもあるわけですが、それを踏まえて織田信長、豊臣秀吉についても見ていきましょう。
織田信長のエピソードとしては後見役の平手政秀の自決や桶狭間の合戦での神がかり的な成功、斎藤道三とのつながりとその後の斎藤家の調略、さらにその後は織田軍団を率いた各地での転戦と、仏教権力の弾圧、裏切りや調略といった軍団への統制と、安土城の建設から本能寺の変での裏切りでの死といったところだと思われます。生誕日についてはこれは城主の息子でありながらはっきりとはしないとして、この辺りが明確に旧暦の6月24日に生まれて死んだとされる加藤清正などとは異なることなわけですが、グレゴリウス暦で6月21日であるという説などもあるというようです。また死没年月日の本能寺の変は明確にグレゴリウス暦で1582年6月21日であって、これは3日ずれではあるかもしれませんが、明確なイエズス会が刻んだ夏至のシンボリズムなのだと思われます。平手政秀についても当時としては長命の62歳で自刃したことや、娘が織田有楽斎の妻であること、信長との不和の原因が五郎右衛門という息子のエピソードであったことなどから、名前も含めて、宣教師との接点がこの辺りである可能性があるでしょうか。熱田神宮との関わりや、兄弟間での凄惨な争いなどは、キリスト教でも旧約聖書のユダヤ人のエピソードを思わせる話であり、熱田神宮の御神体の草薙剣の逸話などもそれらを想起させるもののようです。織田信長は斎藤道三と舅関係でありましたが、斎藤道三ももともと僧侶の出身であるようで、名前の斎藤は自ら名乗ったもので、北条早雲のものと同じようなものであるようで、まあSaint、キリスト教の聖人のセイントとかかるのだと思われます。道三という名前も黒田如水のように、道教の思想と三位一体の融合であるようで、またドミニコ会を始めた聖ドミニコの名前に全体として相似となるようです。ドミニコ会は日本に伝道した修道会の三番目のもので、イエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会の順であり、中世のトマス・アクィナスを輩出し、キリスト教神学とギリシア哲学のアリストテレス哲学を融合した業績があるそうです。フリーメイスンリーのかつての守護聖人であった聖トマスの名前を冠した、キリスト教の聖人であり、その後のルネサンスの思想の中心となった人間中心主義ヒューマニズムの源流となるものかと思われます。斎藤道三は息子の義龍に戦いで敗れ63歳で亡くなり、その後斎藤義龍は織田信長に敗れ、稲葉山城は岐阜城と改められました。稲葉山城、現在の岐阜城の攻略において、木下藤吉郎が瓢箪の旗印を攻略の印として掲げ、その後より豊臣秀吉となる成功譚が始まるわけですが、この瓢箪のシンボルがホタテガイのシンボルと並んで、キリスト教の十二使徒の大ヤコブの巡礼者としてのシンボルであるそうです。またこの大ヤコブのカトリックの聖人暦が7月25日となっていて、真鶴の貴船神社で祝われる伝統的な貴船まつりの特定日の7月27日に近いものであるようです。大ヤコブの遺骸がレコンキスタの最中に発見されたとのことで、スペインの守護聖人とされるそうで、スペインバスク地方出身のイグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルを設立者とするイエズス会に結びつけて表されているようです。






(追記:2019/2/11 2番目の写真は大徳寺の秀吉が一周忌で作らせた総見院の織田信長像ですが、明らかに烏帽子のところに十字が刻まれていますね。この時期の秀吉が強くキリスト教に影響されていた証拠であり、かつ信長自身の運命がキリスト教の下にあったことを強く反映させているものと思われます。なかなか貴重な資料と思われます。)
さてこの間でほぼ一年近くたってしまったブログですが、皆さんお元気でしょうか。2017年6月24日の近代フリーメイスンリー結成300周年の今日なわけですが、こんなブログの加筆で良いでしょうか。日本におけるフリーメイスンリーのシンボリズム史といったテーマなわけですが、まあキリスト教伝道前とキリスト教伝道後、そしてフリーメイスンリー到来の明治維新後という形で3つに分けそうですが、元号も変わりそうな平成29年の完成を目指していこうかと思います。
さて戦国の三英傑とイエズス会の伝道といった話になるわけですが、現在の岐阜、愛知、静岡を拠点とした3人の天下統一を果たした日本史での超有名人ですが、どうも名前や生没年のシンボリズムから見る限り、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の順に天下を治めたのは全てイエズス会の差配の限りであった模様です。まあこういう事を言うと、キリスト教や当時のヨーロッパ、イエズス会の伝道についてある程度知っている人にとっては、まあ当たり前といえば当たり前の話であり、日本史の常識から言えば非常識であり、何を言っているのかという話になるわけですが、シンボリズムの観点から言うと、近代フリーメイスンリー結成の秘密ともいえる重要な出来事となるのだと思われます。
まただいぶ間が空いてしまいましたが、内容的にはイエズス会などの相当の文書を読まないと書けない内容になってしまっていて、時間がかかるのもしようがないのですが、そこまで一気に読むことはできないので、現在途中まで読んでいるところで、私のこのブログの内容と非常にリンクする内容の本という事で、以下のキリスト教、イエズス会の目線から見た安土桃山時代の日本のキリスト教史を記録から淡々と概説する内容の聖母文庫の高木一雄氏の「関西のキリシタン殉教地をゆく」を紹介します。
カトリックの本という事で、ほぼ正式にイエズス会の文書に準拠した内容になっているかと思います。これによると、織田信長の子供たちは皆キリスト教会に非常に心を寄せており、信長の死の19日前の自らを神とする布告のために本能寺の変で亡くなったとのことです。また秀吉は自ら教会に赴きキリスト教の洗礼を受けようとしたこともあり、また秀吉が禁教令に傾いた経緯も具体的に描かれており、朝鮮征伐の動機もかなりキリスト教が影響していたこともわかり、後の秀吉の老境での混乱の原因ともされる秀次もキリスト教にかなり同情的であったことなどが分かります。大谷吉継の洗礼なども書かれており、戦国武将のキリシタンの洗礼が分かりやすくなっています。また日本人にはなかなか分かりづらいイエズス会とその他の修道会、フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチノ会の関係が非常にわかりやすく書かれています。
イエズス会士は最大でも100人程度が日本にいたのみで、それでいかに日本にキリスト教が根付くかという試みと、最後まで武力による制圧を行わないという事を守り、1588年8月8日のスペイン無敵艦隊の敗北をきっかけとして、その後の流れをイギリス、オランダの新教国に引き継いでいくのが、まさにフリーメイスンリーへの転換であり、ユダヤの六芒星を作ったという、イエズス会のシンボリズムのエッセンスはそのままフリーメイスンリーへと受け継がれていったようです。そういう意味では日本では散々に異なる人物として描かれる、戦国の三英傑ですが、キリスト教、イエズス会からすれば本質的には同等で、まさに修道会を意味するオダのシンボリズムと、ヨシュアを隠すというヒデヨシのシンボリズム、そして最後に権力を掌握し、そのためにイエズス会の後のフランシスコ会と関りが深く、スペインとつながりを持った、名前はイエズス会のシンボリズムそのもののイエヤスと、それぞれ宗教的にはキリスト教徒とはなりえず、そしてその結果いずれもキリシタンに囲まれた中で落命することになったようです。家康に関しては、以前にも触れた没年が1616年6月1日と明確なシンボリズムが描かれるわけですが、その前兆ともいうべきヨーロッパのキリスト教の当時最新鋭の技術の粋である時計の贈与が1606年から何度か行われたようで、現在も久能山東照宮に残るゼンマイ時計なども、まさに砂時計や大鎌のシンボリズムと同じく、死の時を刻むシンボリズムそのものであるようです。
はてさて、これで何回目の加筆になるのかわかりませんが、長編小説のようになってきました。文豪谷崎潤一郎由来の土地に住んでその影響かもしれませんが、なかなかヨゼフ病院時代とは内容も書き方も変化が著しく、ブログとしてまとまりを維持するのが難しそうです。2017年平成29年10月8日の加筆という事で、この章を書き始めてから1年以上経ち、フリーメイスンリー300周年のUGLEのイベントである10月31日のロイヤルアルバートホールでの記念式典に間に合うように書くのが望ましいのでしょう。
このブログでのこの章の内容は、日本の歴史におけるフリーメイスンリーのシンボリズムを認める、主に歴代天皇や権力者の生没年月日や元号や名前のシンボリズムを取り上げて、考察するわけですが、同時に平成の天皇退位、元号変化の予定もありますので、それに合わせてのフリーメイスンリー的考察という事になるわけです。
それで、まあ仏教伝来が一つの日本の天皇家などでのフリーメイスンリーシンボリズムの表出の一つの要素であったわけですが、その後のより大きなフリーメイスンリーシンボリズムの現出のきっかけが、1549年8月15日のザビエルの来日でのキリスト教伝来であったわけです。まあもちろんその後は明治維新で、太平洋戦争の終戦となるわけですが、この章は3章に分けた真ん中のキリスト教伝来から明治維新までという事で、戦国三傑とキリスト教と、その後のキリスト教禁教時代の徳川幕藩体制と京都での天皇家に着目していくことになります。
さてここからはさらに平成30年12月16日の加筆という事で、ブログの1ページでありますが、2年の長きにわたっての推敲、加筆という事になりますでしょうか。新たに2冊の織田信長関連の本を読破して、まあイエズス会=フリーメイスンリーの生みの親としての論を強くしてなおかつ、ザビエル以降のシンボリズムの表出がキリスト教伝道に伴うものであり、戦国の三傑がイエズス会によって生み出されているという論を補強したというところです。
さてまあ信長公記を読んでみた率直な感想としては、織田信長は非常に非情な人であり、基本的に城攻めでは全滅戦であり、裏切りや降伏は一切許さず、部下にも一切の不服従を許さない、典型的な専制君主であり、裏切りや暗殺を試みられることたびたびで、そのたびに幼いころからの訓練の賜物の優れた武力と騎馬力で前線での戦いや危機を乗り切ってきていました。若いころから遠駆けや鷹狩が大好きで、相撲も好きであって、そのために腰に瓢箪をたくさんぶら下げていたという有名な描写もあり、スペインから来たイエズス会士には巡礼者の象徴として気に入られていたことが想像され、それを部下の木下藤吉郎が旗印に取り入れたことも納得しやすい部分ではないでしょうか。「信長と十字架」ではフロイスと信長の岐阜での面会が京都上洛後となっていますが、ザビエルの死と信長の父親の信秀の死がほぼ同時期であり、初期の段階でキリスト教の宣教師は日本全国を巡っており、織田order、修道会、秩序の発音に繋がる、この若者の事をイエズス会は把握していて、応仁の乱後の六角氏、三好三人衆といったシンボリズムの権力者での表出と、京都からの宣教師の追放令という日本の伝統勢力との対峙していた時期に、混乱から秩序をもたらすキリスト教布教に有力な人物として挙げられたことは想像に難くないと思われます。元服時の三郎信長の名前も、その後のキャッチフレーズの天下布武も、教育役であった平手政秀の自死後の後見人としての、京都妙心寺の僧宗恩沢彦の発案という事で、竜樹ナーガルージュのナーガ、蛇神、龍神の名が入っていて、これを信仰するという意味の名前であり、仏教的にインドの信仰に近づいたシンボリズムを含んだ名前という事が出来るかと思います。信長の近くには長良川という、これまた長の入った象徴的な地名もあり、当時の戦国時代には長尾景虎という、仏教を信仰した武将や、長続連といった、長そのものの武将もあり、これらもまた当時の仏教系のシンボリズムの流行であり、織田の家系が神社の神官の家系であったことと、宗教的にバランスをとるものがあったようです。ナーガのシンボリズムはイエズス会の本拠が長崎に置かれたことで最も強調され、オームの真言の大村氏が寄進したのですが、ナーガサック(Naga Sack or Sac)で恐らくナーガを治める袋という意味となり、聖書では蛇はアダムとイブに知恵を与えるものであり、楽園追放のきっかけを作った邪悪な存在であり、龍は中国皇帝の象徴で、聖グレゴリウスが退治する恐らくモンゴル人の象徴であり、フリーメイスンリーではグノーシスの象徴の尾を噛む循環する輪としての蛇となるのだと思いますが、ナーガ自体は恐らく男性器の象徴ととらえられ、生殖、繁殖の象徴として、黄色人種の旺盛な繁殖力を制御する、仏教に象徴されるインドから東アジアへのアジア人をキリスト教で制御するという意思の表れであったのかと思います。(ナーガサックNaga Sacでやはりナーガを生贄にするという意味にも取れるようです。)長崎の地名自体は半島の形からきているわけで、それは能登半島を治めた長続連の名前とも関係するでしょうし、現在に残る長野の地名の善光寺の門前中町の坂の地形からきているのと同様と思われます。シンボリズムから見る限り、織田信長を改宗させる意図はなく、織田信長にイエズス会が求めたものは仏教の秩序であり、それはまさに比叡山焼き討ち、本願寺討伐、恵林寺の焼き討ち、高野山への圧迫という、仏教勢力の弾圧であり、織田信長でOrder Noble Nagaまさに高貴なナーガの修道会という名前通りの働きとも言え、一方で伊勢地方の一向一揆を過酷に討伐し、伊勢神宮に盛んに寄進をして、武田討伐では諏訪大社は焼き討ちするという、明治維新後の国家神道の方針に似た、伊勢神宮重視の宗教政策であったのも、織田信長自身の出立のきっかけであった上京しての足利将軍の奉職を促した正親町天皇の宣旨をもたらした人々が、吉田神社の吉田神道につながる万里小路惟房と磯谷久次と立入宗継であったこともあるのだと思います。


立花京子氏の「信長と十字架」によれば、これら桶狭間の戦い後の信長に上京と足利義昭の将軍就任の補弼を促した、決勝綸旨という形の天皇宣旨を計画した人々は、清原マリアで知られる、吉田神道につながる、清原枝賢や吉田兼右らは姻戚であり、潜伏キリシタンであるとのことで、それらは結局イエズス会が計画して、それに天皇家や公家が乗る形で織田信長を操っていたという論になるようです。
さてまあまた繰り返しになり非常に読みづらい文章で恐縮ですが、織田信長のナーガのシンボリズムですが、これは同盟関係にあった妹のお市の方が結婚した浅井長政の改名後の名前の部分であり、また織田信長が集団戦で鉄砲の効果を知らしめた長篠の戦の地名でもあり、大規模な虐殺で有名な長島一向一揆の地名であり、浅井長政の姉妹にも京極マリアなどもおり、近江の琵琶湖の辺縁で、後の居城の小谷城は羽柴秀吉によって長浜城と改名されますが、そういうナーガのシンボリズム自体も仏教のリバイバルとして特に琵琶湖周辺で恐らく比叡山、三井寺の天台宗を中心として行われていて、結局のところ南蛮船の渡来によるキリスト教の伝来は同時にインド仏教、中国仏教の再興、インド文化、中国文化の流入を必然的に伴っていて、その中心にシンボリズムとともに選ばれた織田信長、豊臣秀吉、徳川家康がいたという事になるようです。(追記:長のつく名前では秀吉の妻の家系の浅野長政、浅野幸長、前田利長など秀吉の類縁とやはり琵琶湖周辺での経過と関わる戦国大名であり、それも一代目ではなく二代目以降で継続の意味も込められているのだと思いますが、そういう命名の傾向もあるようです。また日本史自体ではこの前の章では触れませんでしたが、藤原氏黄金時代の藤原道長がおり、これも仏教への帰依が強く、名前からは道教やキリスト教のミカエルの名前の意味も重なっているようであり、まあそういう道教、仏教、キリスト教の習合した黒田如水のようなシンボリズムもあるのかと思われます。日記を残しており、康保3年(966年)~万寿4年12月4日(1028年1月3日)という生没年月日であり、3日の死去というのは一応シンボリズムのようであります。長子の頼通が平等院鳳凰堂を建築して対称形の美を残し、世界遺産となっています。)
信長に関しては尾張での青年時代に蛇池神社での逸話も信長公記にはあり、織田信長の寄進した瓦塀も有名な熱田神宮の八岐大蛇に繋がる草薙の剣のご神体もあり、最終的には安土城での蛇石の崇拝が決定的で、密接にイエズス会と協力関係を築き、安土セミナリヨでカノンにつながるオルガンの音色も聴きながら、自らを神とする布告をもってイエズス会に見限られてその一生を全うしたという事になるようです。生年月日もほぼ西暦の6月24日近辺という事で、没年月日のグレゴリウス暦での6月21日というのも綿密にイエズス会のオルガンティーノ師を中心に練られた計画通りでしょうし、その直前に「信長と十字架」によれば織田信長が曲直瀬道三とともにグレゴリウス暦について検討していたというのも何ともイエズス会の与えた運命の皮肉という他ないわけですし、狩野永徳に書かせた安土城屏風がいまだ行方不明というのも、これまたカトリックという組織を説明する何よりの事象のように思われます。本能寺の変が法華宗の寺というのも33の観音のシンボリズムに極めて接していて、本能と理性という構図が、反乱者の明智光秀のシンボリズムに表れるというのも、これまた何とも織田信長を象徴する事例のようです。お市の方との関係や、その他尾張、美濃での同族を裏切っていく様子や家臣に対する対応など、そういう様子があり、武田攻め後の東海道帰還などでその様子は限界を呈していて、また楽市楽座の話や、琵琶湖の竹生島参り後の家臣や女房を殺した話や、評判が悪くなって城下の祭りで裸踊りをしたなどのエピソードや、浅井一族の髑髏の話なども、日本統一に関しては全く不可能という見解が朝廷、イエズス会共にあったのは確実かと思われます。特にキリスト教、ユダヤ教で重視する女性関係、斎藤道三の娘の帰蝶の正妻との関係、側室との関係、お市の方との関係、男色のことなどもあり、いずれにしてもナーガのシンボリズムに強烈に彩られた織田信長がイエズス会とほぼ行動を一にしながら天下統一の基礎を築き、豪華絢爛な安土桃山時代の文化の礎を築き、自らのアジアのシンボリズムのゆえに、創世記の蛇のように日本人に知恵を残して消えていったというのが、シンボリズム的な織田信長という事になるのでしょうか。恐らく認識の範疇では織田信長はキリスト教や西洋文明を把握、理解しながら、行動としてはそれらに準ずるようなものは無かったというのは、三英傑に共通する、当時の日本人の常識や認識の当然の帰結であったのではないでしょうか。



ちなみに羽柴秀吉は三木城や鳥取城攻めの前のあたりの中国攻めの時点で独自で和議を交わしての城攻めを行っており、そちらの方が明らかに統一に向けて合理的で、信長後の秀吉の天下統一の過程ではそれらが多数認められるわけですが、それに対して信長が激しく叱責して、その後の三木の干殺しや鳥取の渇え殺しに繋がる攻城戦となり、最終的に高松城での水責めの最中の本能寺の変というタイミングも、織田信長の武人としての限界もあるのだと思われます。また徳川家康との関係では明らかに桶狭間の戦いの際には松平元康の今川義元の陣の配置に関して裏切りが示唆され、それがどの程度のレベルであったかは不詳ですが、恐らくその事象からの織田信長との切れない縁となっているものと思われます。桶狭間の戦い後に松平元康から最初松平家康へと改名、その後徳川家康と改名するわけですが、最初の家康への改名は松平家を意識したものと思われ、恐らく偶然と信長のようにシンボリズムの必然があり、本人の意識としては完全に偶然にイエズス会に似たものとなったようです。その後の徳川への改名には近衛前久の助力があったとのことで、もともと時宗の僧であった松平家の系譜と、賀茂神社の末裔が多く占める三河武士の棟梁としての立場から、源氏の末裔としての格付けがなされ、この時点で天下統一への道が出来たと考えられるかと思います。(2023.3.13追記:時宗の僧が松平家の由来というのも宗教的にはイエズス会から支持されるシンボリズムの要素だと思われます。時宗開祖とされる一遍の生没年の鎌倉仏教でのシンボリズムは白眉です。)徳川でTのシンボリズムとなるのは、恐らくイエズス会にお目付け役としてフランシスコ会の修道会のものが入っていたと推測されることと、川の治水などの意味を込めたのではないでしょうか。鴨川や長良川、木曽川、揖斐川、利根川などの川全般の意味も込められているかと思います。朝廷的には関東域での開発において、治水が最も大事な公共事業であったと思われます。徳川家康と織田信長を比較すると、ヤコブの子ヨゼフの兄弟に捨てられながらも裏切らないエピソードなども思われ、イエズス会が人物選定の際の基準としていたことが強く認識されるかと思います。
またこの時期の特筆される事象として本能寺の変後6年で1588年8月8日のアルマダの海戦で新旧教国間で世界規模の決戦があり、英蘭軍が勝利して、世界はスペイン、ポルトガルのカトリック国による二分から大英帝国の時代と、フリーメイスンリーの時代に変化していくという事でしょうか。その最初のきっかけはキリスト教的な視点から見れば、これら織田信長の時代にあると言えるのかもしれません。その後の関ヶ原の戦い直前に三浦按針とヤン・ヨーステンらが日本に漂着し、大坂夏の陣などで決定的な役割を演じるのもご存知の通りかと思います。
ちなみに織田信長の石造技術としては、明らかに安土城は石垣山城の前身の技術であり、石垣山城では山頂付近に井戸を設けるというのがあるのに比べて、いわゆる乱積みともいわれる、野面積みであり、その多くが観音寺城からの石材の使用が想定され、それらではやはり安土のシンボリズムと同等で仏教、キリスト教双方の協力が考えられるかと思います。やはり石垣山城での石造技術が決定的にキリシタン主導で行われるものになったようです。石造技術とシンボリズムの表出、伝来の一致がまさにフリーメイスンリーといえるかと思います。ちなみに土のシンボリズムはやはり陰陽五行とともに、プラトンの四元素説が混じったものであると考えられ、十字も含まれていて、イエズス会のフリーメイスンリーにつながるシンボリズムが見て取れます。安の字に女性が含まれていることなどは信長の嗜好を思わせ、また安土自体が弓道場の築山であることなどもその嗜好を強く思わせるものかと考えます。(2023.3.13追記:信長の母である六角氏出身の土田御前の話が抜けていますね。安土城自体には実母である土田御前との関係が強く影響していると推測します。それ自体はカトリックでのマリア信仰に近いかもしれません。まあマザコンといえばいいのでしょうかね。)安土城の装飾や建築も、信長公記で読み解く範疇では、中国文化の道教や儒教の思想を強く反映したもので、仏教というよりは法華経のナーガのシンボリズムを強調したもののようで、信長自身の思想がフロイスの表現する通り禅宗に影響された無神論という通りなのではないかと思われました。アヅチの音に関しては恐らくアツタ神宮の影響が考えられ、アッツイのアイヌ語での海の表現に近づくのでしょう。近くの観音の音のカンノンが恐らくアイヌ語表現と関係することとも関係するようです。(追記:観音はカムイのという表現になるようです。カムイが直接的に観音になっているのでしょうかね。三浦半島では鴨居という地名と観音崎は近いのでわかりやすいですが、なかなか謎のようです。)最終的に本能寺の変の際に織田信雄がこれを爆発して燃やしてしまったというエピソードは、松永久秀の最後の話もありましたが、信雄は伊勢の一揆を鎮圧していて、信長が非常に叱責していた子供であり、親子関係の事もあり、キリスト教の洗礼も受けていたとのこともあり、安土城の屏風のエピソードと合わせて、まあキリスト教的な最後であったのだと思われます。織田信雄とその一族もそれぞれその時代としては長命であったこともキリスト教の洗礼と掛け合わせられるのだと思います。織田一族のほとんどがその後洗礼を受け、長寿であったというのも織田信長を考える上で重要な要素かと思われます。織田信雄の養子先の神戸家の名前が、その後の開港地の名前となって、現在まで続いているのも関係があるのかもしれません。

織田信長に関してのシンボリズムで追加するものとしては、琵琶湖に浮かべた大船の事があり、天正元年(1573年)に足利義昭を追放する直前に琵琶湖の周辺の平定のために丹羽長秀に作らせたものという事で、ローマ皇帝のカリグラを思わせるような事象であり、シンボリズムに平行して、イエズス会による影響もあるのではないかと思われます。この後には瀬戸内海と伊勢地方から軍船を派遣して、シンボリズムとしての意味合いが強かったと思われる大船は小舟の材料としたというのも、実用性を重視したという事で、そういうエピソードと思われます。また蜂屋頼孝という家臣がいて、信長時代に馬廻り衆から大名になっていて、その後秀吉配下となるも没落していくのが、同様な丹羽長秀や、柴田勝家と似ているところがあり、いずれもシンボリズムを認め、蜂、羽、柴となるわけですが、まあそれぞれシンボルとして成立するわけですが大丈夫でしょうか?養蜂に関しては記録としては日本書紀の時代からあることにはなっているそうですが、本格的な養蜂は江戸時代とのことで、砂糖菓子が大量に増えたイエズス会宣教後の状況と合わせて、養蜂技術に関しても宣教師が相当に関わっていることが、これら家臣名のシンボリズムからも推測されるかと思います。木下藤吉郎にまた初期のころから蜂須賀小六という部下がいたのも偶然ではなさそうです。また馬揃えの際に象徴的であったクジャクの羽もまた鳥のシンボリズムであり、三井寺で孔雀が現在も飼育されているのが、鳳凰への連想もありシンボリズムと考えられます。また天下布武の印の楕円も「信長と十字架」の説の通りシンボリズムと考えられます。信長に関しては刀剣を褒美として与えることが非常に多く、本人も収集して、積極的に作成させていて、もともと織田剣神社という由来もあり、まさに騎士団のシンボリズムとなります。




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織田信長の家臣で著名なキリシタンとしては、よくわからない理由で追放されたとされる佐久間信盛がおり、また後に羽柴秀吉傘下となる黒田如水や高山右近などが有名です。足利義昭と織田信長の間にたった、和田惟政もこの時期で顕著な没年月日のシンボリズムを認め、享禄3年(1530年)~元亀2年8月28日(1571年9月17日)であり、没年月日の対称形の71917の並びはこの時代この人唯一のものであり、和暦でのシンボリズムと合わせて、グレゴリウス暦の直前のユリウス暦の時代であり、キリスト教布教に協力した武将としてその影響が大きかったことが伺われます。(追記:姫路城を大規模改修した織田家重臣池田恒興の子供の池田輝政が永禄7年12月29日(1565年1月31日)~慶長18年1月25日(1613年3月16日)で、没年で明確な613316の対称形のシンボリズムを示していました。池田輝政のキリスト教との接点は摂津池田氏がキリスト教布教の一大地であったことと、家臣にいた同族の池田教正が有力なキリシタンであったことがあり、姫路城の十字の瓦の事もあり、クリスチャンに近かったのだと思われます。)没年月日のシンボリズムとしては、織田信長の上京や明智光秀の謀反に関わったとされる現在に繋がる熊本細川家の初代と目される細川幽斎と、吉田神道の始まりとされる吉田兼倶の孫である吉田兼見は従兄弟関係であり、同日慶長15年8月20日(1610年10月6日)に吉田神社の近傍で亡くなったとされることが、まあ具体的な本能寺の変から関ヶ原の戦いに至るまでの当時の日本政治の中枢にいた人物であったことの象徴と思われます。いずれも1と6にまつわるシンボリズムであるのも、2×3=6の数秘術となるようですが、その後の徳川家康の1616年6月1日の命日に繋がるようです。また吉田神社自体は6角形と8角形の社殿を1601年に建設しており、六角氏が6角形の社殿を元とすることと合わせて、その後の8角形が安土城でとられた形であることと、ハチの発音が蜂にもつながることや、蜂の巣が6角形であることなども併せて、イエズス会のもたらしたキリスト教と習合した日本神道の新たな形として、それは明治維新後にさらに復興することになるのだと思われますが、明確な没年月日のシンボリズムであると捉えられるようです。吉田は恐らくヨシュアとダルマJoshua Darmaの合成と捉えられ、細川は以前にも書いた通りホセ、カウアー Jose Cowardとなるのだと思われます。いずれも吉田茂や近衛文麿など太平洋戦争終戦時に同様に同じ苗字や末裔が活躍するのもペリー来航時の吉田松陰のように韻を踏んだような形になるようです。和田に関してはWar Darmaとなるのでしょうか。まあ日本人の名前のシンボリズムについては相当日本人にとっては理解しがたい部分があるようですが、キリスト教を主とする日本国外からの影響を考慮するとこういう様相になるのは当然でもあるようです。

さてでは次に三英傑二人目の豊臣秀吉になるわけですが、幼名は日吉丸という名が有名ですが、これは後から付けた可能性が高いとのことで、日吉神社が比叡山発祥の山王信仰に基づくもので、三位一体の形を漢字の形から含んでいるとのことで、信長の恐らくイエズス会主導であったろう比叡山焼き討ちの影響が垣間見えるというところでしょうか。もともと木下藤吉郎という名であるので、幼名も吉の字が入る可能性は高いようですが、名古屋の中村公園近くを出生地としているとあり、中村公園横の常泉寺にお手植えの柊があったりしましたが、まあどこまで本当かは全く不明ですが、出自がはっきりせず、織田信長後の後継者としてイエズス会に選ばれ、皇室や朝廷からはやや嫌われた感がありつつも全国統一して、関白就任し、朝鮮征伐をはっきりした理由不明に開始した経過を見るとやはり飛鳥、奈良時代以降の朝鮮からの渡来人家系であったことが最も考えられそうです。秀吉自体が父親の存在を嫌っていて、その存在自体を歴史上から消滅させた可能性が強いようです。秀吉の姉は長命で、息子たちを全てなくし、特に秀次は孫のほとんどを殺され、唯一秀勝の娘完子が九条家に嫁いで、その子孫が大正天皇の皇后である貞明皇后へと繋がり現皇室につながるようです。この朝鮮征伐の途中で亡くなった羽柴秀勝はキリシタンで洗礼を受けているそうです。また秀吉の妻の北政所の出身の木下家、浅野家はそれぞれ大名として江戸時代も存続したようです。北政所の侍女にはマグダレナという洗礼を受けたものがいたそうです。この木下家の木下長嘯子はキリシタンであったようです。秀吉の血縁者でのキリシタンと目される人物は淀殿の繋がりからの京極高次に嫁いだ浅井三姉妹の常光院や豊臣秀勝と徳川秀忠に嫁いだ崇源院がいて、崇源院の娘が上述の九条家に入った完子であり、崇源院はいわゆるお江として知られる女性で、娘や息子が千姫や徳川家光であり、千姫はその後豊臣秀頼と婚姻し、大坂夏の陣後は桑名藩の本田家に入りますが、姫路城に移ったのち生まれた子供たちも次々と亡くなり、江戸城に戻ったそうです。千姫と共に鎌倉東慶寺を支援したのが秀頼の側室の子供である天秀尼であり、東慶寺にイエズス会の紋の入ったキリシタン聖餅器があり、駆け込み寺として知られていますが、その周辺で江戸時代のキリシタンとしての接点があったようです。

まあいきなり血縁のキリシタンの話になってしまったわけですが、秀吉の場合は実子のうち成人したのが公的に秀頼しかいませんので、実際は全く似ていないという事もあり、秀吉がその他に数多くの女性関係がありながら子供がいないことなどからも、大野治長の子と考えられるようであり、実子についての話はないという事になるかと思います。秀吉自身が禿ネズミと信長に呼称される容姿で、右手に指が6本あったという人物であり、人たらしで知られる人格ではありますが、漢字の書の教養は一切ないという、日本史上今後も現れないであろうという、世界史上でもかなりまれな権力者となった農民階級の人物であり、その出自と幸運に恵まれたキリスト教布教の過程での優秀なキリシタン武将に囲まれての天下統一の過程で、三英傑の中で最もキリスト教に近づいたとされており、カトリック側によれば、自ら教会を訪れ、数多くの妻帯を認めれば入信してもよいと発言していたという事です。(追記:世界史中では農民階級から権力者となった人物としては中国の漢の劉邦や明の朱元璋が有名かと思います。いずれもその後の三国志のシンボリズムに繋がったり、明のシンボリズムにつながるなどシンボリズムとの関りはあるようで、特に朱元璋は天暦元年9月18日(1328年10月21日)~洪武31年閏5月10日(1398年6月24日)と没年で織田信長の如きシンボリズムを認めており、明の建国に明らかにその当時はキリスト教と思われますが、そういうヨーロッパの影響があったことが伺えます。朱元璋は白蓮教徒でしたのでそのためと思われます。ローマ帝国やヨーロッパの古王国でのシンボリズムについてはキリスト教関連ですのでこの場では考察しませんが、直接的に農民階級から権力者になった例は東ローマ帝国などで認めるようですが少ないようです。)立身出世の過程でも貪欲にシンボリズムを取り込んでおり、最初はイエズス会のスペインの巡礼者のシンボルとなる瓢箪を岐阜城攻略の際に旗印とし、織田信長の家臣筆頭であった丹羽長秀と柴田勝家から、その明らかな聖書に関わるシンボルの部分の名前を合成して羽柴と名乗り、秀吉としてHide Yoshuaとなる発音の名前を名乗るのは明らかに織田信長周辺にいたイエズス会と接点を持っていたことが想像され、それがまさに本能寺の変後の中国大返し、柴田勝家との決戦での賤ケ岳の戦いでの美濃大返しを可能にするキリシタンネットワークが想像され、また黒田官兵衛、高山右近、中川清秀といったキリシタンやその周辺の人々が配下で天下取りに大活躍し、後に浪人となった高山右近を保護した前田利家は柴田勝家を裏切って秀吉の勝利を決定的にした同盟者であり、一説にはオーギュスチンと洗礼を受けていたとの話もあり、秀吉自身も含めて、当時の日本のキリスト教全盛時代が伺われるでしょうか。




秀吉の時代は信長の時代と決定的に異なるのは、その関白就任を為した直後から大地震にたびたび見舞われていることであり、関白就任直後の天正13年11月29日(1586年1月18日)の天正の大地震が最初で、若狭湾に大津波があったそうですが、その翌年に秀吉は教会を訪れたとあり、地震とキリスト教を関連させていたとも考えられます。秀吉は賤ケ岳の戦い、小牧長久手の戦いを経て、紀州、四国を平定し、その後九州征伐に乗り出すわけですが、この際に日本準管区長ガスパル・コエリヨ神父と博多で面会した際に葡萄酒を飲みながら突然怒り出したとのエピソードが「関西のキリシタン殉教地をゆく」には描かれており、「川角太閤記」には長曾我部軍と毛利輝元軍と豊臣秀長軍などの間で兵糧などで連携がとれておらず、九州の地元の勢力に敗退し、その後に秀吉自身が九州に赴いて直接金を兵士に渡して兵士を鼓舞して島津を降伏させるまでに至る経緯が描かれており、その後の統治においても一揆が繰り返されて、黒田如水なども統治に苦労する様子が描かれています。九州でのキリスト教の布教の影響とそのための寺社仏閣の排斥や、奴隷貿易などの話、常に織田信長や豊臣秀吉の武器類の後援者であった大友宗麟の洗礼と、その後の耳川の戦いの敗北と、島津の九州統一への動きを鑑みて、キリスト教の受洗まで傾いていた天下人秀吉は布告のみであっても侍医の施薬院全宗の影響もあって、伴天連追放令の布告となり、直接的には高山右近の追放になったという事です。私はこの日本の歴史上かなり重要な判断は、様々な要素によって出来たものだと考えますが、当時すでに明制圧を構想していて、明や朝鮮にも使者を送り始めていた秀吉の海外に関する情報は多くがイエズス会によるものであったでしょうし、秀吉の日本統一の過程でも、その後の朝鮮討伐でもキリシタン大名と宣教師は兵士と共に行動しており、統一や占領の過程で現地の布教活動、その周辺の情報収集を行っていた形跡があり、秀吉の日本統一から朝鮮征伐に至るまでの征服活動の動機がそもそもキリシタンによる布教に随伴していたと思われる節があります。また秀吉と秀吉の周辺の親族や家臣らも本能寺の変後の出立の過程でキリスト教に理解を示していた状況があり、九州征伐で大友宗麟は島津に追い詰められて、秀吉の島津攻略の過程で亡くなるわけですが(追記:大友宗麟の没年月日は天正15年5月6日(1587年6月11日)でやはりここで6と1のシンボリズムが出るようです。)、恐らく本能寺の変の様々な実際の計画を構想した可能性が高いのが大友宗麟であろうし、そういう状況も秀吉が考慮したでしょうし、また伴天連追放令自体には大名がキリシタンであっても領民がそのまま全員キリシタンになるのは、信仰の問題でありおかしいので、自由にすべきであるという、人権宣言にも匹敵するような信仰の自由の発想があり、キリスト教そのものを否定する内容とはなっていないという部分があり、文章を考案した施薬院全宗自体も師の曲直瀬道三がクリスチャンであり、キリスト教の発想そのものから、本当の信仰とは現在の日本のキリシタンの状況ではないという、そもそもイエズス会が意図した内容ではないかと推測されるものがあるという事です。またこれはかなり飛躍した部分がありますが、その後の秀吉の心身の失調の過程が様々に読み取れる記述が残っている、家来の前で失禁したり、居眠りしてしまったりしたという伝承から考えると、九州征伐を行った50歳ころから、このコエリヨ神父と葡萄酒を一緒に飲んだりしている様子から類推して、イエズス会の差配であてがわれた、当時日本人にはほとんど未知の病気であった梅毒感染が成立していて、神経梅毒の症状を呈していて、判断力と共に心身機能の低下をみとめていたのではないかと想像されます。こういう神経梅毒と関連したと思われる誇大妄想や被害妄想的な独裁者の様子は近代ではドイツのヒトラーの疑惑や日本では明治天皇などがありますが、キリスト教布教の過程で明らかにイエズス会の体制とは矛盾する日本の独裁者の漁色の状況は明らかに自業自得の問題として、当時新大陸からコロンブス経由で世界に広がった梅毒を日本にもたらす可能性があるかと思われます。明治天皇に関しては秀吉が本拠とした伏見に御陵を造成するという共通点も存在します。秀吉の梅毒説は俗説としてありますが、ミイラ化した豊国廟の遺体の検査は公的には明らかにはなっていませんが、秀吉当時の日本においても十分な動機がない朝鮮征伐は厭戦気分が広がり、最終的には秀吉の死に繋がる原因ともなったとも思われ、この時期の秀吉の行動を説明する一つの理由として梅毒による影響は合理的ではないかと思われます。また秀吉は晩年には歯が全て抜け落ちてしまったとあり、これなどもイエズス会からもたらされる砂糖菓子などの影響なども推察され、獏の枕なども豊国神社にはおかれていましたが、様々な方法で秀吉を籠絡しつつ、それに対して秀吉が様々に対応した、そうした中での伴天連追放令というのがあったというのが、実際のキリスト教布教の過程での歴史なのではないかと思われます。

まあこの事を端的に要約すると、秀吉はその出立の過程で非常にキリスト教に近い心境を持っていたが、その行動からキリスト教徒たりえず、逆に伴天連追放令を布告し、その信仰を試すように高山右近を追放したが、積極的にキリシタンを圧迫することはせず、むしろ全国統一、朝鮮征伐などではキリスト教の布教に加担する結果となり、恐らく梅毒感染の心身の失調もあり、その後の後継ぎとされる子供の誕生などもあり、これまたキリスト教に近い考えであった秀次を殺し、はっきりした動機が不明な朝鮮征伐を続けて、厭戦気分の中で衰弱して死亡したという事になるのかと思われます。
それでまあ九州征伐の間に豊臣姓を賜り、九州征伐後に伴天連追放令、関東、奥州への惣無事令を発布し、刀狩令を発布して鶴松が誕生するわけです。豊臣姓については、源平藤橘と同じ本姓であるという事で、まあ苗字と異なるとかいろいろあるようですが、聖徳太子の別名である豊聡耳皇子からの引用とか豊原と中臣の合成であるとか、まあ豊川稲荷とかあったりしますが、説は色々あるようですが、いずれにしても現在の自動車メーカーのトヨタと音が近いなどあり、音だけで行くと徳川家康が支配していた遠江トオトウミに近い音になり、まあ何らかの関連があるのかもしれません。英語でいけば、To You To Meでしょうか。Hide Yoshuaと合わせれば、あなたにも私にもヨシュア(イエス)はいると、まさにキリスト教となりますが、いかがでしょうか。Tの頭文字はやはり徳川家康と同じで後に来る最大の修道会であるフランシスコ会のシンボルのタウ十字と関連するものと思われます。徳川はTalk Cowardでしょうかねえ。Coward自体で羊飼い由来の名前もあるそうですが、いかがでしょうかねえ。
それとまあ三英傑での家紋についても触れておきます。織田信長はご存知の通りの木瓜紋で良いかと思います。どの武将も名前もいくつもあったりしますが、家紋や旗印もいくつも使用しており、最終的な有名なもの一つという事でここでは考察します。木瓜紋は五芒星に近い形で良いかと思います。五瓜に唐花なんて正式名称で呼ぶようですが、まあそういう正式名称自体も本当に最近なんでしょうね。こういうのはネットの世界は学術という名の衒学があってダメですねえ。歴史学が歴史を尊重しないのは全く学問としてダメです。まあそういうのは置いといて、秀吉の紋は関白以降の現在でも政府の紋として使用される桐の紋で良いかと思います。これも五三とか七五とか格が色々あるという事ですが、桐の紋は共通して三位一体のクローバーの形が全体で含まれていて、奇数の繰り返しでキリスト教的な、フリーメイスンリー的なものとなるかと思います。秀吉で面白いのは自ら太閤桐という紋を考案していたそうで、これがまあ見ればわかるんですが、明らかにその花の部分がオリーブの葉の形になるんですね。おそらくオリーブの実物を見たことない時代だと思いますので、まあ宣教師が考案した形に近づいたのでしょうかね。(2019/9/7加筆:オリーブは宣教師が持ち込んで当時伊吹山などで栽培されていたようです。残ったものはないとされているそうです。記録ではオリーブの実とオイルは秀吉に進呈されているそうです。秀吉がオリーブの木の実物や絵を見た可能性は相当高いと思われます。)まあ国連のシンボルなどにも認められるオリーブの葉の形が秀吉考案という紋で現れるというのが安土桃山時代のようです。徳川家康は水戸黄門で有名な葵の家紋となるわけですが、これも三河武士で使用されていたという事で、菊の紋のように様々なバリエーションがあるわけですが、まあ基本的には南蛮由来の植物であるという事と、形が三位一体の形になることと、ハートやスペードの形に近づく、もちろんフリーメイスンリーではシンボルはハートの形になるわけですが、その起源が明確にイエズス会になるわけで、剣とハートでともに象徴される、騎士団のシンボルとなったりしますが、まさにそういう騎士団が強調された時代という事で、葵の葉の形はハートととらえるとわかりやすいのかと思います。(2023.3.13追記:立ち葵がヤコブの杖として瓢箪やホタテの貝殻と同様に巡礼者のシンボルなことがこの時点では把握されていません。)





それで九州征伐後は小田原征伐、奥州仕置となるわけですが、この端緒が猪俣邦憲による真田昌幸が守る沼田の名胡桃城を調略によって乗っ取った事で、秀吉の惣無事令に違反したとして、総勢10万以上での小田原征伐となるわけですが、まあ真田一族自体が、有名な真田幸村の真田信繁が洗礼を受けていたという説もあり、サナダ虫で名前の残る真田紐を売っていたという話もありますが、真田紐自体は千利休が使用するようになって普及したという事もあり、現在も茶道具の箱の結びに必ず使われていますが、結び目や縄もフリーメイスンリーのシンボルであり、縄や縄結びは海洋航行の必須の道具であり、キリスト教に関わる一つの道具の伝来の可能性があると思われます。猪俣邦憲もまた猪という名前から猪突猛進ではないですが、まさに謀略事件であったのかもしれません。まあいずれにしても北条氏討伐は必要絶対であったわけで、その9か月前に初代北条早雲の末子に当たる西国の事情に通じた北条幻庵が亡くなったとされており、まあこの辺は諸説あるようですが、当時相当長命の80才以上で亡くなった可能性があるという事で、いずれにしても九州征伐の過程を見れば、その後に関東、東北で全く同じようなことが行われることは自明であったわけで、様々な事前準備がなされたことは想像に難くないかと思われます。沼田の地自体も三浦氏の末裔が支配した土地とのことで、三浦氏は前北条氏と共に源頼朝の配下であったわけですが、室町幕府の事務方を取り仕切っていた伊勢氏に由来する後北条氏に再興した相模三浦氏が油壷で滅亡させられた歴史もあり、まあ様々な因果が働いた結果としての小田原攻めであったわけです。この頃には伴天連追放令後で表面上は棄教して如水に改名した黒田如水が交渉役や石垣山城の築城で活躍し、追放となっていて、後に金印の発見された志賀島や、現在はオリーブの最大の産地となっている小豆島を経て、金沢の前田利家の下で築城などを行っていた高山右近も最も凄惨な戦いであったという八王子城の戦いなどでも活躍したとあり、小田原城包囲の最中には細川忠興と蒲生氏郷と共に牛肉を食べたという逸話もあり、キリストに祈りを捧げなかったので牛肉を食べるのを止められたなどの話などもあるようです。




小田原征伐の際に具体的にキリスト教の宣教師がどういう働きをしたかは全く伝わっていませんが、千利休が茶の宗匠として秀吉に随伴しており、一番弟子であった破門した山上宗二が北条方に身を寄せており、秀吉に会って再び逆鱗に触れ、耳と鼻を削がれて亡くなるという事もあり、その後に千利休が息子の千少庵が名付ける「園城寺」の割れ竹の一輪挿しを北条早雲の影響の強かった韮山の竹から作るなどのエピソードもあり、その時同時に「音曲」「尺八」「夜長」という名の竹花入れを作ったとあり、千利休の弟子であった山上宗二から茶を教わったという、北条幻庵が一節切という尺八の一種に通じていて、北条幻庵は韮山の近くの修善寺に庵と菩提寺があり、そこで「滝落とし」という尺八の楽曲を作曲したというエピソードもあり、北条幻庵の本拠地は小田原城内の久野という地であり、観音やカノン、叶に通じる音であるわけですが、琵琶湖の南岸の大津にある比叡山延暦寺と長年敵対関係にあった園城寺、三井寺で出家した人物であり、千利休とも関係の深い大徳寺とも関係があったようで、まあそういう人物の生死が小田原征伐全体を左右したという軍師としてのエピソードであるのだろうと想像されます。つまり表向きの軍師として黒田如水や千利休や高山右近がいて、それをさらに左右していたのがイエズス会士であったのだろうという事です。小田原征伐は本能寺の変の西暦に対応してか、旧暦の6月24日周辺での3か月弱で建設された石垣山城の完成をもってして、松田憲秀の裏切りなどもあり北条氏政の切腹、北条氏直の高野山への追放をもってして、小田原城自体はほぼ無血開城の形で終戦となりました。松田憲秀の内応を勧めたとされる堀秀政は陣中で病没しています。



千利休によって大成させられたという日本の茶道ですが、「山上宗二記」によれば村田珠光が足利義政に茶の湯を教えたのがわび茶の始まりのようですが、茶の栽培と飲む習慣自体は古代の中国からあったようで、有名なところでは三国志の時代から薬としてあり、茶の飲み方や茶碗の置き方などでいろいろな意味を持たせるやり方も中国のフリーメイスンリーとされる洪門会などではあり、茶の種類も六大種類といわれ、青茶・黒茶・緑茶・紅茶・白茶・黄茶とあり、こうした中国の茶の文化が奈良、平安時代に貴族の間にもたらされ、日本に禅宗の臨済宗をもたらした栄西が茶の木を初めて九州にもたらし、その後の室町幕府で日明貿易において、唐物などの中国の茶器や茶道具がもたらされ、日本では主に緑茶の抹茶と煎茶であったようですが、朝廷、貴族、武士、豪商の楽しみとなったようです。ザビエルが来日して、1550年に堺で日比屋了珪の邸宅を南蛮寺とした際にも、茶室を設けて、茶席でのキリスト教の布教に利用したとされ、その後の京都や安土、高槻などのあらゆる南蛮寺で茶室は設けられていて、茶会や茶席のやり方が、キリスト教のミサの形式に似ていたり、禅宗の精神性と近いなどもあり、茶の医薬品としての効能効果もあり、また茶や茶道具の貿易自体も目的であったと思われますが、堺の豪商を中心にその後の日本の茶の湯が広がっていくのには、こうしたキリスト教布教に付随した影響が強くあったためです。千利休の師匠とされる武野紹鴎は堺出身のもともと連歌師で、一向宗であったそうですが茶の師匠となって弟子にやはり堺の豪商である今井宗久や津田宗久がいて、弘治元年閏10月29日(1555年12月12日)に急死したとあり、ザビエルの離日後4年であり、西暦による没年のシンボリズムと考えられます。






千利休はもともと田中与四郎といい、魚や(ととや)という魚問屋の子供であったようですが、田中も丸十字に似た形となり、与四郎の名前もヨシュアに近く、魚や(ととや)という屋号もキリスト教的なものとなり、師の武野紹鴎の白鷺のエピソードと近いものを感じさせます。父親も祖父も早く死に、その後に22歳で茶会を開き茶人となったとあり、利休の名は63歳の時に宮中の茶会に出席するために得た名という事で、恐らく信長が堺を直轄領とした1569年頃に千宗易という名前で信長の茶頭となったと思われます。千の字は数字ですが、明らかに十字に線を追加した形であり、カトリックの宗教画に多いINRI(IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM・ユダヤ人の王、ナザレのイエス)と書いた表札のかかるキリスト処刑の十字架の形をしていて、丸十字やシンプルな十字を強調するプロテスタントの十字との差異を強調する、キリスト教を意味する名前と考えられます。利休の名は「名利、既に休す」「利心、休せよ」という意味や、8世紀頃中国・唐で「茶経」を記した陸羽の名前と掛かっているなど言われますが、私は個人的に千利休の遺偈の「人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺 提ル我得具足の一ッ太刀 今此時ぞ天に抛 」という剣を強調したものから想像して、フリーメイスンリーのスコティッシュライト33階級で標語して取られている、イギリス王室のモットーでもある「God and My right, Deus Meumque Jus」「神と我が正義」をモットーとした第三回十字軍に参加したリチャード獅子心王のリチャードの愛称としてのリッキーに掛かっているのだと思いました。遺偈の力囲というのもリキイに掛かっていますし、恐らく本人もキリスト教布教のために十字軍的な役割をしていたことを自覚していたのだと考えられます。小田原征伐と奥州仕置において秀吉の直属の軍師としての役割を果たし、1591年3月3日(天正19年閏1月8日)の天正遣欧使節の9年にわたる旅からの帰国を聚楽第で迎えた直後に、天正19年2月28日(1591年4月21日)に大徳寺三門の自らの木像の下に秀吉をくぐらすという不敬を咎められて弟子に見守られて自死するわけですが、この門が金毛の獅子という禅語にかけて、金の字を瓦に使用しているのですが、まあこういう自らの似姿の木像を作ったりするやり方は、古くは唐招提寺の鑑真和尚があるわけですが、寺ではよくあるやり方で、そのルーツはやはりエジプト王国やローマ帝国の石造で王や皇帝の像を作るというものかと思われますが、キリスト教圏やフリーメイスンリーでも銅像や石像は本人の名誉の証として良くあるやり方であり、また金毛の獅子というのも、その後の伊達政宗の慶長遣欧使節団でも交渉の内容にありましたが、騎士団の創設や加入に関して日本の大名が望んでいた状況があり、最も格式ある騎士団としてヨーロッパには現存するものでガーター騎士団と金羊毛騎士団とあり、遺偈の騎士団の象徴としての刀と合わせて、慶長遣欧使節団の話としてそうした金羊毛騎士団の栄誉というに値するという内示のような話があり、それをさらにキリスト教に対して混乱した対応となっていた秀吉が聞くことで、戦国の習いで主君に対する不忠による自死という形の殉教となったのではないかと思われます。












さてまあ千利休には利休七哲と呼ばれる高弟がいたわけですが、蒲生氏郷、筆頭、細川忠興(三斎)、古田重然(織部)、芝山宗綱(監物)、瀬田正忠(掃部)、高山長房(右近/南坊)、牧村利貞(兵部)とあり、その他にも織田長益(有楽斎)、千道安(利休の実子)、荒木村重(道薫)を加えて十哲とか、千道安を除いて前田利長が入る、有馬豊氏や金森長近を加えるなど弟子は多数いたわけで、この中でも蒲生氏郷、高山右近、牧村兵部、織田有楽斎はキリシタンであり、その他の人もほぼキリシタンに準じて考えられるというのが上述の茶道の成り立ち、千利休の実像から実際かと思われます。小田原征伐の実際を考えると、そもそも徳川家康の江戸入りという前提条件があった上で、それに基づいての開戦があり、旧暦の天正18年4月1日の山中城の攻城から始まり、6月24日近辺での八王子城の終戦と石垣山城のわずか3か月弱での築城完成をもって、7月7日の小田原城の開城となるわけですが、これらが全て旧暦で進行しているというのも伴天連追放令後の状況であり、実際にはイエズス会が主導していることが明確であるわけです。今日残る秀吉時代の建築として、ほぼ自然な状態で放置され、関東最初の石垣の城として、戦国のピラミッドの如き異様を誇る石垣山城なわけですが、この城に移る前に早雲寺を本拠として秀吉は湯本の温泉に浸かり鶴松を生んだ後の淀殿を呼ぶなどし、石垣山城入城後は山頂で作らせた大井戸からの水で千利休に茶をわかさせ、能楽師、猿楽師を呼んで演芸をさせ、天皇の勅使を出迎え、千利休は韮山の竹で花入れを作り、それを岩槻城攻めなどで武将として戦っている弟子の古田織部に送るなどしています。この古田織部という武将ですが、もともと織田信長の家臣であり古田重然と称し、茶人の家系でもあったそうですが、中川清秀を義父とし、中川清秀は高山右近と従兄弟という関係であり、山崎の戦いでは秀吉方となり、賤ケ岳の戦いで中川清秀が亡くなると中川家の後見人となり、秀吉配下の武将として転戦し、秀吉が関白就任した際に織部助に任官して、自らは織部正と称していたそうです。今日では「へうげもの」という漫画でも有名になっていますが、古田織部はその苗字も十字を含み、王冠か十字の宝珠のような形と丸十字の形のようですが、織部の名前自体はやはりオリーブを意識したもののようで、その名前の残る自ら製作を指揮したとされる織部焼の釉薬の色はオリーブの葉の色の緑色となっています。また古田織部の音自体でポルトガル語、イタリア語でのオリーブのフルートという意味となり、当時キリスト教のセミナリヨではオルガンと共にヨーロッパ式の横笛であるフラウト・トラヴェルソ、現在のベーム式フルートになる前の指で穴を押さえるフルートが教えられており、主に木製であるわけですが、その材質として現在でもオリーブ製のものは神聖な木から出来たものとして貴重であり、音楽的にはやや硬めで澄んだ音となるのだと思いますが、そういう神聖な楽器の名前そのものに掛かった名前であるようです。楽器の教育自体が進んだ文化文明の証として直感的に伝わるものとして積極的に行われており、当時すでに現在に繋がる音階や音楽理論が成立していたヨーロッパの楽器は圧倒的なものであり、宗教的な神的なものとしていずれの文明においてもあり、象徴的であったのだと思われます。まあその古田織部が韮山の竹から出来た「音曲」という名の花入れを千利休からもらうのも、どちらもどこまでそれらを理解しているかは不明ですが、少なくともセミナリヨでフラウト・トラヴェルソを習っていたキリスト教徒からすればまさにキリスト教に関わる隠された逸話であり、この尺八や、笛といった管楽器は織田信長をはじめとした三英傑が皆所持した逸話があり、一節切では「乃可勢」、龍笛では「青葉の笛」が有名で上述の北条幻庵の逸話もありましたが、小田原城攻めでも籠城戦の最中に相手を幻惑したり妨害する目的でこうした笛や太鼓の楽器は使用されたはずであり、そういう意味でも小田原征伐の過程でその後の古田織部が千利休後の茶の宗匠となる道筋が出来たように思われます。古田織部の弟子としては小堀遠州、上田宗箇、徳川秀忠、伊達政宗、佐竹義宣、金森可重、佐久間将監、本阿弥光悦らがおり、江戸時代初期の政治文化に関わる人の多くであり、徳川幕府による切支丹弾圧が本格化する時期でもあり、そもそも政治的には弾圧する側になっている人が多く、どこまでそれらをキリスト教の信仰という基準で考えるかは難しいところだと思います。古田織部で最も有名なのは隠れキリシタン灯篭とされる織部灯篭であり、今日でも茶室の露地に数多く見受けられる石灯篭の形態の一種ですが、この中心部が横にわずかに膨らんでいる形を考案したのが古田織部とされ、これも様々な形態があり、中心部に漢字の辰とも読める、90度反転して書いたIhsとも読める印を彫る形式があり、これは明らかにイエズス会のモットーであるIHS(Iesus Hominum Salvator)の意味であると私は思いますが、まあ典型的な隠れキリシタンのシンボリズムとして日本では有名なものなのだと思います。ちなみに古の形の十字の宝珠もキリスト自身が宝珠を持つ場合は、西洋美術の図像学では「世界の救世主」(Salvator Mundi)として知られているとの事で、まあ古田織部の名前自体がそういうキリスト教のシンボリズムそのものであるという事は間違いないのだと思います。フリーメイスンリーとしてはその後のブラザーモーツァルトの最後のオペラ「魔笛」とベーム式フルートの完成という事に繋がるものだと思います。古田織部も師の千利休と同様に恐らく日本で最もキリスト教徒が増えた時代である大阪夏の陣の終戦直後の慶長20年6月11日(1615年7月6日)に徳川家康から責められ自死し、殉教という形となるのだと思われます。旧暦で6と1のシンボリズムとなり、その後ほぼ1年後に徳川家康が元和2年4月17日(1616年6月1日)の西暦の1と6のシンボリズムで亡くなるのと対応しているようです。



































さて茶人のところであまりに長くなり過ぎたわけですが、まあここが日本のフリーメイスンリーのポイントと言えるのかと思います。結局ザビエルの布教以後の、3英傑の3段階の時代を通ることで、キリスト教自体がどのように日本に定着するか、その試みがあり、結局宣教師の活動そのものは表立ってなくなっていき、その代わりにシンボリズムを頂いた日本人が、そういうキリスト教的なものを中心とした外来の事物や思想、生き方そのものと日本的なそれを融合させて新しい時代を作っていくわけです。
小田原征伐はシンボリズムで表現すると前北条氏の家紋を引き継ぐ後北条氏の家紋三つ鱗と豊臣秀吉の旗印、瓢箪と太閤桐に隠れたオリーブの葉の戦いでもあったわけです。そもそも三つ鱗の北条氏の家紋は、家紋という概念がなかった時代に源平の時代の後に鎌倉幕府の執権職を得た北条氏が政権を確立した時代に成立した、江の島の竜神の逸話などを起源とする、実際にははっきりした起源不明の三角形が3つ繰り返す形であり、大三角形の中に小さい逆三角形がある形とも見えるもので、恐らく仏教の胎蔵曼荼羅図の中心に位置する遍知院の一切如来智印の三角形を元に考案された、やはりキリスト教の三位一体の三角形と同じく、オームの真言由来のフリーメイスンリーの3の象徴と同じ意味から出来ていると思われます。3つの島を表現したとかいうのもありますが、フリーメイスンリーではもちろんギザの三大ピラミッドの図象化でしょうが、もちろん伝聞でそういう光景が伝わっていた可能性は否定できませんが、純粋に図形的な造形だと思われます。当時の仏教の知恵を全て結集したシンボルとも考えられ、同時期に権力として対峙した天皇家が仏教の蓮紋から派生した菊紋を成立させており、三つ鱗のシンボル自体が鎌倉武士、鎌倉仏教のシンボルと言え、それは東国武士であり、一旦は鎌倉での政権が成立したものの、結局京都での室町幕府となり、足利氏という、東国に発祥する、紋は二つ引であるそうですが、アソカの仏教のシンボリズムを含んだ政権となり、京都でのその後の応仁の乱の大混乱となって、キリスト教伝来を待って、室町幕府の内部の伊勢氏による三つ鱗の後北条氏の再興後、小田原征伐からの徳川家康の江戸入城となるわけです。かなり純粋にフリーメイスンリー的なシンボルである三つ鱗と極めてキリスト教的でカトリック的な瓢箪やオリーブのシンボルの対峙でキリスト教的な方が勝利するというのは、関ヶ原の戦いでの徳川家康と石田三成との戦いでも同じなわけですが、まあ色々な歴史解釈になるのだろうと思いますが、フリーメイスンリーの妙としか言いようがないのではないでしょうか。足利将軍家の末期の13代足利義輝、15代足利義昭は義輝はキリスト教布教に寛容であり、義昭は織田信長との関係もあり、追放後も長寿で最後は秀吉のお伽衆をしていたという事で、激動の時代なわけですが、権力者の立ち居振る舞いも人それぞれであったわけです。また信長公記には信長が安土城天主閣を完成した天正7年に二条晴良、烏丸光康、三条西実枝、山科言継、策彦周良ら要人が相次いで病死したとわざわざ書かれており、いずれも当時50~70歳代の長寿で日本の政治や文化の中枢にいた人々であり、北条幻庵の死と同様に時代の転換点にそういう社会の主要な中心人物の死があるのも世の常なのだと思われます。


小田原征伐のその後ですが、その後の奥州仕置もそうですが、九州征伐などと同じで、江戸時代の国替えなどと同じく、家臣団は浪人し、民衆は新しい領主とすぐに関係を構築するわけではないので、混乱が続いたと考えられます。風魔一族の江戸町内での狼藉の話などもありますが、武田の遺臣が多く徳川配下に召し抱えられたなどの事象もあり、様々な経過をたどったことは想像に難くないかと思います。現代に残る小田原征伐後の小田原地域での目に見える事象としては、石垣山城の石垣の採石に多くが始まる、その後の江戸城の天下普請に繋がる、石材業が早川から根府川、真鶴地域にかけてあり、当時は黒田如水の差配であったことは確実なわけですが、伴天連追放令後で表面上は棄教している状況であり、後に黒田藩領となって、最終的に幕府の直轄領となったわけですが、実際の採石現場では当時日本の最先端の技術である土木工事であったわけで、直接指導したのはイエズス会の宣教師であると思われ、確実に宣教師による布教があり、全て隠れキリシタン化したものと思われます。特に採石場としては石垣山城直下の早川からの採石が想定されていますが、船での運搬を考えると、根府川地域から真鶴三ツ石に至る採石と共に海水の浮力を利用できる場所からの採石が大量にあったと思われ、この地域は後の江戸城の天下普請でも海岸沿いに採石場が伊豆半島東岸全体で認められるようになるわけですが、そういう海沿いの山や海岸での採石のノウハウも観音寺城の築城から始まって、その後すぐ近くの安土城、そして石垣山城、大坂城、伏見城、姫路城と拡大し展開していく過程があったと思われ、特に石垣山城はその短期間さと、工事動員人数と、地域自体がもともと守備側の勢力範囲であったという事もあり、その特殊性が際立っていて、計画から実行までの全工程にわたってイエズス会士が全面的に指導したことが想像され、その後の天下普請においても、黒田如水が直接建築を差配したと想像される福岡城においてもそこまで切石積みでないのに関わらず、江戸城、名古屋城、大坂夏の陣後の大阪城は全て切石積みで、明確に数多くの刻印が認められることなどから、これは高山右近が建築したとされる高岡城や、金沢城に顕著なわけですが、高山右近近辺の宣教師に切石積みと刻印石の技術や知識を持った人がいた可能性が高いと考えられました。石垣山城で初めて可能になった大量の石の採石と運搬、輸送技術はすぐに同時期の建築の大坂城、伏見城、その他多くの秀吉時代の城、私の知る限りは浜松城や姫路城の部分などもそうですが、天下普請後の駿府城や大阪城の地下で発掘される秀吉時代の石垣は全て野面積みであり、その後の朝鮮征伐の拠点となった名護屋城、朝鮮半島の倭城なども石の量は極めて多量ですが全て野面積みであり、完全に石垣山城での築城のノウハウをそのままコピーしたものと考えられます。秀吉が亡くなり、関ヶ原の戦い後の徳川幕府開府後の天下普請では最初は琵琶湖沿岸の膳所城、彦根城などが、大坂城との距離が近いものから始められ、これらはやはり急造で天主閣などは移築で石垣は野面積みであるわけですが、その後の街道で重要な名古屋城、駿府城、江戸城は現在我々が城としてイメージする切石積みの城として典型であり、また数多くの刻印が認められるものであり、大坂夏の陣後の天下普請の大阪城がその最大のものであり、刻印の数が数限りなくあり、刻印自体の意味が大坂夏の陣によって高められる、鎮魂や宗教的な意味が確実に加わってきているのだと思われます。切石積み自体は早川採石場でその現場を確認することが現在もできますが、基本的に野面積みとは採石の時点から異なり、明らかに方形に近い形で採石する技術が必要で、運搬の過程でもその形を整えていく様子があり、採石の現場で刻印を刻むやり方もあり、明らかに切石積みの技術と刻印石のノウハウ、知識はリンクしており、それが始まったのが明確に徳川幕府の天下普請であり、それ以前では加賀の高山右近関連の金沢城くらいであり、加藤清正の建築とされる熊本城なども恐らく天下普請でその技術を吸収して、その技術が全国に広まったものと思われ、当時の徳川幕府には三浦按針、ウィリアム・アダムスや、ヤン・ヨーステンなどの英蘭の新教国の人物も相談役としていましたが、実際に切石積みと刻印石の技術を伝えたのはやはりイエズス会士かもしくはフランシスコ会修道士であったと思われます。天下普請の一つの駿府城の切石積みが相当立派で、刻印石も相当種類が多いことなどから、実際は三英傑のスタイルそのままに、家康も極めてイエズス会士と近い関係を最後まで持っていて、そこから情報を得たと考えるのが自然であり、その段階を追っての技術の進歩はそのままイエズス会の差配のままであったというのが真相かと思われます。




















石垣は言ってみれば唯一の日本の石造建築と言えるものですから、まさに日本の実務的メイスンリーの象徴であるわけですが、思索的メイスンリーではエジプトのギザの三大ピラミッドやエルサレムの嘆きの壁が象徴とされ、ヨーロッパではもちろんエディンバラ城やウィンザー城やザビエル城のような城もあるわけですが、平和の象徴としてはおもにゴシック建築の教会であったのに比べて、日本では江戸時代を平和に導いたのが象徴としての城の石垣の刻印石であったと思われ、キリスト教とは異なる思索的フリーメイスンリーの端緒となるには十分な建築の出来事であったのかと思われます。まあそうは言っても日本では隠れキリシタンという事で、小田原征伐後の影響と考えられる小田原周辺の隠れキリシタン関連のものについて紹介したいと思います。隠れキリシタンとは言っても、秀吉の時代には布教は日本二十六聖人の殉教を除いて、そもそも弾圧されたり、圧迫されることは全くなかったわけで、この後の奥州仕置においても津軽氏、伊達氏など東北の有力大名はキリシタンとなるかもしくは、それに準じる状況となっており、九戸政実の乱の鎮圧がありますが、その後の処分にしてもキリシタン大名である蒲生氏郷らが関わっていて、伴天連追放令後ではありますが、大坂冬の陣直前の高山右近のマニラ追放を伴う本格的なキリスト教弾圧までキリスト教徒は日本全国で増え続けていたものと思われます。
















石垣と茶道と隠れキリシタンとは日本のキリスト教やフリーメイスンリーを語る際には必須の内容と思われますが、まあいずれの専門家か、キリスト教、フリーメイスンリーに興味がなければいずれも全く関係性を認めないようなものではあるとは思いますが、まあフリーメイスンリーを標題としているブログなのでこのようになります。隠れキリシタンについては、その禁教の経緯の歴史についてやはりカトリックの高木一雄さんの本を読まれるのが良いかと思いますが、安土・桃山時代から江戸初期にかけての、イエズス会やフランシスコ会宣教師が布教して洗礼を受けた人々が、大阪の陣の直前に徳川家康が発布した直轄領と全国に対する禁教令後の、激しい弾圧の中での信仰を守った人々が生きた時代である、1620年の元和の大殉教や、1637年島原の乱の時代までの1650年くらいまでが、いわゆる実際に宣教師の洗礼や教えを受けた人々であり、それ以降の1700年代に入る頃には新井白石のシドッチ密航事件のキリシタン山屋敷などありますが、これも収容される人はいなくなり、実際上幕府の宗門改で長崎以外で日本人で問題になる人は無くなり、もちろん口伝で信仰は伝えられ、それは特に長崎など九州地方で明治維新後の潜伏キリシタンとしてカトリックの信仰に繋がるわけですが、教会や修道院という目立った形での信仰の集会所や、書物やはっきりとした十字架のような偶像はほぼなくなり、いわゆるカトリックではキリスト教とは認められないような、マリア観音や上述の織部灯篭のような、今日でも隠れキリシタン遺物として認められるような偶像が残り、そこに伴って伝承が残るという形であったようです。
隠れキリシタンとフリーメイスンリーの関連性としては、隠れキリシタンがキリスト教会から離れて、仏教や既存宗教と融合するような独自の信仰の形態を持っていることや、禁教下での内面の信仰の自由を追求したこと、前述のような石工の技術とキリスト教の伝来が一致していた関係上、実務的メイスンリーの信仰として考えられることなどが挙げられますが、実際上キリスト教の教義となるような聖書の内容からは明らかに離れており、現在ではカトリックが指摘するようなキリスト教に関連付けた信仰ではなく単なる茶席の灯篭としての織部灯篭が隠れキリシタン灯篭として売られているというのが、まあ中国の政府管理となっている中国のカトリック教会の事情とも絡んで実際の宗教的存在であり、まあ禁教令下でその信仰を守り続けた先祖がいて、その末裔が存在することは確かであっても、潜伏キリシタンのみ容認するというのがカトリックの対応なのだと思われます。つまり今日の状況で隠れキリシタンが存在するというのは、そういう九州などの状況以外では容認できず、それをキリスト教に関連する宗教とは認めがたいという事でしょう。まあそうはいっても日本全国に秀吉の日本統一に合わせて布教活動をした結果、日本国中にキリシタンが増えたのは間違いないわけで、それは徳川家康の弾圧後に激減するわけですが、明らかに西洋の進んだ技術革新や思想、科学技術などを伴っていた以上、宗教的に表立ってキリスト教について語ることは禁じられても、その明らかに進んだ技術や思想、発想などについて伝承し、広めていくことは確実なわけで、そういう影響を考慮すると、安土桃山時代から江戸初期にかけての、いわゆる絢爛豪華な安土桃山文化、慶長文化というもの自体がキリスト教の影響で出来ているといっても過言ではないわけであって、その後を継いだ江戸時代の戦国を経た平和な時代の文化そのものがキリスト教の影響によって出来たものであり、それを裏打ちするように存在したのが隠れキリシタンの存在と言えるわけで、隠れキリシタンの遺物自体は単なる江戸時代の禁制令のあだ花ではなく、江戸時代の文化、政治、社会制度、社会システムそのものを反映する大いなる裏打ちであったと考えられるかと思います。

江戸時代の文化、政治において、明らかにキリスト教の影響を受けたものであると断言できるようなものは、上述の実務的メイスンリーの作り上げた天下普請の石垣といったところくらいで、その後の街道整備や、江戸の都市としての発展、町民文化や、江戸時代の人々の習慣や文化といったところで挙げていくとこれは推測の範疇であるという事になるかと思います。まあ天下普請においては街道整備なども含まれていたわけで、東海道などの現在に残る国道の周辺に土手を作り松を植えた事は、松のマシューに繋がるキリスト教のシンボリズムがあったとしてもおかしくないと考えられます。江戸時代に完成する籠や飛脚、渡し船のシステムなどもそうした影響が考えられます。籠などは聖櫃を運ぶ様子のようでもあります。建築や建設全般には城郭の建築を始めとして、信長、秀吉周辺の安土桃山建築様式から始まって、明らかにキリスト教の影響が多々あったと考えられますので、一般民衆の建築としても長屋や橋や物見やぐらや井戸からやはりこうした建築の技術の影響があったものと思われます。瓦を大量に焼くようになったのもこの頃であり、それは陶磁器などの技術とリンクするわけですが、上述の茶道の需要からの陶磁器の窯が各地にできた影響もあるのではないかと考えられます。江戸の水道である玉川上水や、神田上水も名前などがシンボリズムと考えられ、またそれに伴って湯屋が発展したというのもローマの歴史を彷彿として、キリスト教の影響が伺われます。江戸時代の整然とした街並みはカトリック国である南欧の街並みを思わせるものですし、江戸時代の埋め立てによる水路などはまさにベニスといったヨーロッパの港町の水路と同じようなものであり、造船技術もイエズス会は秀吉に教えることを拒否したようですが、家康はウィリアム・アダムスから教わっており、その後の北前船、東廻海運、菱垣廻船、樽廻船の造船技術や航路、商売の方法、積み荷の種類などもキリスト教徒の影響が多分に考えられます。江戸時代の町人文化としては歌舞伎や人形浄瑠璃、落語などの見世物の発展があるかと思いますが、歌舞伎はもちろんキリシタンであったとする出雲阿国が起源とされ、傾奇者と語源が同じであり、まさに安土桃山文化の継承であり、それが江戸時代に女人禁制に制限されたというのも、宗教的な要素があるせいとも考えられます。人形浄瑠璃で有名な近松門左衛門などはやはり没年で(承応2年〈1653年〉 - 享保9年11月22日〈1725年1月6日〉)シンボリズムを認めており、もともと京極氏が治めた福井の出身で隠れキリシタンの系統であるとの話があります。落語とキリスト教のつながりはなかなか難しいですが、まあ神父の説教を意識したものでしょうか。江戸時代に大量に刷られた版画や書籍の印刷技術は明らかにもともとがイエズス会のセミナリヨで行われていた技術が広まったものと思われ、江戸時代の絵画そのものにもセミナリヨで伝えられた西洋画の要素が色濃く反映されており、その後の識字率の向上や儒教教育の浸透などにも、そもそも徳川家康が儒教教育を武士の家系として受けたのがそれの最初であったのだと考えられますが、湯島聖堂などの建築があり、日本人の今日の宗教観や社会を作り上げる元になったのに、そもそもキリスト教のセミナリヨのシステムが強く影響しているものと思われます。その他にも江戸時代に日本で急速に発達した技術、上述した養蜂や菓子、もちろん食品では、カステラや天婦羅ではその名をそのままポルトガル語で残すなどのものもあるわけですが、金平糖などもあり、野菜や果物についてもカボチャやスイカやサツマイモ、ニンジン、ジャガイモ、トウモロコシ、唐辛子、そういった従来日本の伝統野菜と考えられるものも多くがキリスト教徒によって伝来したことが分かっており、現在の日本の食文化に至る江戸時代の農業活動自体に大きく影響を与えたと考えられます。小麦粉やそば粉の生産をはじめとする素麺や饂飩や蕎麦の発展にも影響があった可能性があります。その他江戸時代の文化としては、風鈴や金魚、朝顔の栽培など有名ですが、そもそも植物や動物の掛け合わせによる遺伝子組み換え作業のようなものは聖書にも羊の良種の得かたなどで説明される、キリスト教・ユダヤ教に一般的な方法であり、江戸時代のこうした桜の接ぎ木や掛け合わせ自体にも大きくキリスト教が影響しているかと思われます。楽器ではセミナリヨではオルガンとフルートを教えたことが分かっていますが、その他にも大正琴のような楽器もあり、ハープも極めて当時普通の楽器でしたから、そうしたそもそも中国にあった琴とよく似た楽器が人々を刺激して、その後の再度の琴の伝来のきっかけとなった可能性があります。フルートは一般庶民の笛として、竜笛でない、能管や篠笛の普及のきっかけとなった可能性があるようです。小倉百人一首のカルタも細川藤孝が古今伝授をしたなどありましたが、最初のカルタはやはりザビエル渡来後の九州で作られたようで、もともと貝合わせの形であったものだそうですが、カルタの原型となるカードは当時の西洋人の航海に必須であったと思われる恐らくフリーメイスンリーに繋がる象徴に満ちたタロットカードであると思われ、そういう意味ではイエズス会士がタロットカードを行う姿はシンボリズムやその後のフリーメイスンリーへの流れを考えれば全く当然なんですが、なかなか意外な印象でしょうか。小倉百人一首はカルタになって庶民に普及する江戸時代を代表する日本文化を象徴する出来事のようです。同様のものが花札であり、こちらは忠実にタロットカードの小アルカナやトランプの原型の姿の枚数構成をしており、象徴としての日本の花鳥風月を取り入れたものであり、もともとトランプの形であったものが、禁制によって現在の形に変化して禁制を逃れたとの説があり、当時からキリシタン由来のものであるとの認識があった可能性があります。その他都市の行楽としての伊勢参りや、大山参りなどはそのまま聖地巡礼の導入であり、隠れキリシタンにとっても同様のものがあって、そもそもそちらの方が伊勢参りや大山参りの原型ではないかと考えられます。













































まあ江戸時代のキリスト教の影響を考えたらきりがないわけですが、その中でも直接的に残る小田原・湯河原・真鶴地域での隠れキリシタン関連の事象についてここで特別に挙げていくこととします。それらが単にキリスト教徒の歴史を語るだけのものではなく、日本の真実の歴史を語るものであり、身近にある本当の日本史の証拠となるものであると考えていただければと思います。まずは高木一雄さんの本で挙げられていた、真鶴の石切り場である御茶ノ水ですが、今日では恐らく十字が刻まれていたであろう場所は、直上にグーグルアースで見ると三角形の形をしたマンションが建築されている影響で、コンクリートで覆われた形となっていて、まあ昭和のバブル時代のいわゆるロータリークラブなどでの混乱した状況が垣間見られる、そうした隠れキリシタン遺物となっている礼拝所と思われる石切り場があります。真鶴には番場浦といわれる三ツ石が目の前に見られる場所から西側に明らかに教会の小部屋のような形に切り取った、礼拝所としても使用していた可能性が高いと思われる石切り場の跡が2-3か所はあり、いずれも十字の跡が刻まれているようなものはありませんが、恐らく隠れキリシタン時代には線刻画や十字架がきれいに刻まれ、マリア像などが置かれていた可能性が高いのではないかと思われました。当初石垣山城を建設した際には、三ツ石の元となる笠島などは舟に直接載せる方法がとられたと想像されるので、恐らく野面積みの元になる石の有力な採石地であったと思われ、その後の江戸城建築の際の天下普請で、切石積みの石を採石する際に、この番場浦の礼拝所のような四角い形の採石が進められたわけですが、その際に最初の採石場所であった今日の三ツ石を、象徴的な三つの岩山に加工したのも石工の信仰のなせる必然であったのだと思われます。この地域のものは江戸に近い場所であることもあり、明らかにキリスト教が一斉に隆盛した後で、徹底的に跡を消すべく破壊を行ったであろう形跡が残っていることが特徴でもあり、それが小田原征伐での3か月弱でのもともと北条氏支配地での採石の経過と、その後の徳川家康治下での天下普請の時代のキリスト教全盛時代と、恐らく江戸城がほぼ出来上がってからは真鶴伊豆方面の採石所のキリシタン熱があまりに過剰なために、礼拝所となっていた採石所を破壊した歴史の影響ではないかと思われました。この近くに昭和時代に水族館を営業していた跡地があり、その場所に内袋観音と呼ばれる石造彫刻があり、由来によれば明治から戦後までかけて掘られて完成したというものですが、恐らくキリスト教全盛時代にはこうした形のマリア像があって、完全に破壊されてしまったのを観音像で再現したものかと思われました。




(追記:真鶴の御茶ノ水の岩場のすぐ横の大浜海岸というところにYMCAのキャンプ地がかつてあり、この場所に巨大な十字架の彫刻があるそうです。

歴史的なものではなく、書いてある通りYMCAがキャンプ地に彫った十字架であるようです。まあ禁教令下の目立つものは全て消されたというのが日本の歴史という事です。)
真鶴には岩という地名のこちらが採石地として現在も本場の場所があり、その海岸のいわば石の積み出し港であった場所には大日如来を祀る洞窟があり、まあまさにキリスト教でいうところのリンボの窟(辺獄)といった場所であり、その周辺には天使とよく似た烏天狗の像や三猿や卍の刻まれた権現社があり、真鶴駅の北側にある西念寺には黒田長政の供養碑と共に織部灯篭がおかれており、そういうキリスト教全盛時代とその後の禁教令時代の隠れキリシタン化した経過が如実に感じ取れる遺物かと思われます。





湯河原も周辺の岩場は採石地であったと思われ、吉浜の海岸の丸石は後水尾天皇時代に仙洞御所建設に石を10万個以上わざわざ運んだといういわれもあるそうですが、この丸石も恐らく石垣用の石の採石の過程で生じた人工的な割れ石が川や波打ち際で長年かけて丸くなったものと思われ、そもそもそうした石工の労苦の結果生じたものに象徴的な意味を付加して御所の石としたのではないかと思われました。湯河原には奈良時代に渡来人系の人々によって開拓された歴史があるそうで、その時に出来たのが五所神社という神社であり、鎌倉時代には源頼朝を護衛してその後壇ノ浦の戦いなどで大将を務めている土肥氏の拠点となり、その後キリシタン全盛時代の頃に新しく、五所神社と東西で対称となる場所に五郎神社という神社が鍛冶屋という地域に出来ていて、それらが城山といわれるシンボル的な山頂と海岸近くの八幡神社と結んだ線とちょうど十字を刻むように配置されており、イエズス会の布教か、その後の隠れキリシタンが刻んだ地理のシンボルと思われます。もちろん両神社共通の五の音がGODに通じることと、五芒星や奇数であることの意味があるかと思われます。真鶴の貴船神社で毎年7月27日28日の定例日に催される貴船祭りもその中心となる石工の踊りとされる鹿島踊りでは、イエズス会が伝承したと思われる太陽と月のシンボルを中心として、3-3-10という人数の構成であり、3が強調されており、日付もイエズス会の出身者が多かったスペインの守護聖人の大ヤコブの日の7月25日に近く、727の対称形をしているという、極めてイエズス会の影響が強い隠れキリシタンの伝来の祭りと思われました。


この他にも湯河原周辺では千歳川沿いに温泉場に行く途中にある椿寺は日蓮宗の非常に新しい寺であるようですが、隠れキリシタン遺物と思われる母子観音像を置いてあったりして、その先に富士山が見える十国峠までつながる巡礼道と思しきハイキングコースもあり、江戸時代頃より、温泉場とその周辺の隠れキリシタンの巡礼道としての歴史があるように思われます。
小田原周辺の隠れキリシタン遺物としては検索すると出てくるのが、北条幻庵の地である久野の、豊臣秀次が陣としたという総世寺にあるという住職のブログなどがあったり、その南にあたる、北条氏の小田原城内にあたる部分であったところに、コスモスと号した寛政年間の住職の墓碑があるそうです。総世寺の近くには小田原フラワーガーデンがあり、非常に美しいバラ園が無料で楽しめます。早雲寺にも隠れキリシタンの墓と思しき卍が刻まれた墓があるとのことで、まあ小田原征伐時にもキリシタンの死者がいた可能性は否定できませんが、なかなか隠れキリシタンとなると本格的な禁制後ではないかと思われます。小田原には他に鴨宮と呼ばれる、酒匂川をはさんで、大磯寄りの曽我の手前の場所に、巡礼街道と呼ばれる、国道一号線と、JRと平行して走る一直線の江戸時代からあると思われる通りがあり、戦後の復興で最初に整備された道路であるそうですが、恐らく名前やその途中にある、順礼中里、美濃里橋などの名称と、江戸時代の道としては極めて珍しい平坦で一直線で、右前方にきれいに富士山が見える配置などから、もともとは小田原城攻めで籠城戦中の小田原城と対峙していた徳川軍の後方を支援するための戦略道路であって、小田原征伐後は勝福寺の巡礼道となったと思われます。しかしこの勝福寺がもともと南蛮寺であったのではないかと思われる節があり、本尊の十一面観音像もそうですが、本堂は1706年再建だそうで、だるま市が毎年定例日のクリスマスのちょうど1週間前の12月17・18日と決まっていて、真鶴の貴船祭りと似ていますが、その近くの飯泉イイイズミという地名も、イエズスや、イエヤスと似た響きがあり、まあキリスト教特有の戦後処理での全面的な歴史の書き換えがあるのではないかと想像されます。この周辺には恐らく後北条氏が整備した戦略道路と思われる田んぼの中を一直線に突っ切る鎌倉時代の鎌倉街道を思わせる幅狭の一本道が残っており、これに対応した徳川軍が整備した戦略道路の名残りではないかと思われ、現在のその通りで面白いのは、非常に多くのファミリーレストランのハンバーグやステーキハウス、焼き肉屋が偏って存在していて、その中でカレーライスの食べ放題が多くの店であるという事でしょうか。まあこれは本当に想像なんですが、現地のロータリークラブかライオンズクラブで、その地で高山右近が蒲生氏郷や細川忠興らと戦陣で牛肉を食べたという逸話に習って、行っているのではないかと思われ、カレーライスは右近にちなんだターメリックのウコンにかけているものだという想像があったりします。まあ近松門左衛門で有名になった曽我兄弟の討ち入りの曽我兄弟の出身地もすぐ近くという事で、小田原征伐のキリスト教関連の話は尽きないようです。小田原近辺の大きな寺としては大雄山最乗寺という曹洞宗の寺があり、天狗寺として有名ですが、高木一雄さんの本でもイエズス会士のフランシスコ・パシオ神父とハビアン不干斎が慶長十二年閏四月(1607年6月)にこの寺に寄り、開山了庵の弟子である怪力の道了が天狗となって寺の守護神になったという伝説について問答したと書かれており、恐らく天狗と天使の類似に基づくものなのだと思われます。初期の日本のキリスト教布教では悪魔のことを天狗と訳していたそうでもあります。




さてまあそろそろ本編というところで、小田原征伐を終えて秀吉は宇都宮で奥州仕置を行い、秀吉に恭順した東北の戦国大名は皆そろってキリスト教に興味を示したことは想像に難くないわけで、その後の九戸政実の乱での豊臣秀次を大将とした奥州再仕置では最後の九戸城攻めでは小田原征伐と異なり蒲生氏郷と浅野長政の策略で開城後に全員撫で切りにしたとあり、戦後に蒲生氏郷が福岡城と名付けたとありますが、なかなか戦国のならいであったようで、まさに十字軍という所業と言えるかもしれません。(追記:九戸という名前もフリーメイスンリーのシンボリズムとなるようです。小田原征伐でのミツウロコの家紋と同じく、そういうフリーメイスンリー対イエズス会のシンボリズムが一つのテーマかもしれません。逆に言うと共通のものという事が出来るのかもしれません。)福岡城の名前にあるように、今日福の名前のつく県なども福音の福の字と関連があると考えられるようです。蒲生氏郷の改修によって東北最初の野面積みの石垣が出来たと考えられます。

秀吉はこの時期に聚楽第の建築と大坂城の建築を始めており、後には伏見城の建築が始まるわけですが、それらの建築はほとんどが残されていないわけですが、石垣ではなく、それらの建築の建物部分を推測する今日に残された桃山建築を見ていくこととします。




これは横浜三渓園にある秀吉時代の建築の旧天瑞寺寿塔覆堂1591年(天正19年)建築です。秀吉が母の大政所の病気平癒を祈願して大徳寺子院の総見院西に1588年に創建した寺だそうです。小田原征伐、奥州仕置の翌年の建築という事で、まあいわゆる桃山建築で想像されるような着色や金箔の使用は無く、蓮華など仏教装飾にこだわった、彫刻はきらびやかですが、色彩は地味なものとなっています。後に納骨もされたとあって、まあ目的もそうだし、大政所の趣味もあったのだと思われます。聚楽第と共通するのはどちらも頭文字でジュとつくところでしょうか。もちろんキリスト教ではジューとなるわけですが、当時の布教していたイエズス会は英語ではジェズイットであり、まあそういうのを意識したところもあるのかなと思います。聚楽第に関しては完全に秀吉の造語だとのことです。建築で特徴的なのは正方形に近い形と完全な対称形でしょうか。
それで聚楽第の移築とされる大徳寺唐門があり、近年修復され当時の着色された状況が再現されて公開されています。






この二つの建築に共通するのは明らかに建築の対称性だと思われます。装飾の彫刻については対になって形の対称性は必ずしも守られないわけですが、それでも明らかな見るものに対称性を意識させる建築としてはキリスト教的な、秀吉の建築独特のものがあると感じられます。秀吉に関してはいわゆる北野大茶湯も1587年11月1日の諸聖人の日に開いたとあり、最後の醍醐の花見は招待客は秀頼・前田利家以外全員女性で、2回着替えさせて湯屋まで茶屋に付けたとあり、どれだけの漁色であったかが伺われますが、それ以外はほぼキリスト教徒であったようです。


まあ秀吉の個人的な宗教観は、その他の対外文書などにもかなり様々な内容が書かれているそうで、単純に一面的に語ることはできないわけですが、伏見に居城を定め、聚楽第に後継としての秀次を配置して、居城近くの伏見稲荷を整備したのは、最終的に京都の本能寺で宗教問題で裏切られて討ち死にした主であった織田信長を意識したからと言っても過言ではないかもしれません。稲荷が狐を主神として、信長が蛇を神としていたのも、恐らくイエズス会による様々な差配があったものと思われますが、聖書で狐はネヘミヤ記/ 03章 35節 アンモン人のトビヤはそばから言った。「できたとしても、そんな石垣など、狐が登るだけで崩れてしまうだろう。」 雅歌/ 02章 15節 狐たちをつかまえてください/ぶどう畑を荒らす小狐を。わたしたちのぶどう畑は花盛りですから。 哀歌/ 05章 18節 シオンの山は荒れ果て、狐がそこを行く。 マタイによる福音書/ 08章 20節 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」 ルカによる福音書/ 09章 58節 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」 ルカによる福音書/ 13章 32節 イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。 と6回出てくるわけですが、まあヨーロッパでの一般的な昔話のように、狡猾の象徴として、狼ほど狂暴ではない動物として、描かれることが多いわけですが、興味深いのはネヘミヤ記のエルサレムの石垣を再建する際の、石垣を堅固に建築しなければいけないとして、狐が昇るだけで崩れてしまうという意味は、そのままの意味と共に、間諜の意味もあるんだと思いますが、単なる建築の意味だけでなく、エルサレムの都市としてそういう防衛の機能を高めないといけないという意味もあると思われますが、まあ日本で本格的に石垣建築を始めた秀吉が具体的に距離的に接近した宗教が伏見稲荷であって、その主神が狐であったというのも、イエズス会の日本の宗教調査の結果であるのだろうと言わざるを得ないかと思われます。またマタイ福音書とルカ福音書の狐の穴の表現は、稲荷社自体がそういう穴に作られたという説があるというところなどもあり、秀吉の容姿も禿ネズミと呼ばれるものであったところなども、こうした稲荷信仰との接近が関係しているのかもしれません。雅歌ではキリスト教の信仰の象徴であるブドウを荒らす狐として表現されており、哀歌では信仰が荒れ果ててしまった聖地を獣が闊歩するという表現で使われていて、いわゆる狡猾な嘘つきという意味だと思われます。ルカ福音書の13章32節のものは、エルサレムのパリサイ人の事を表現していて、いわゆる狡猾なずる賢い嘘つきという意味だと思われます。稲荷信仰とINRIの関係など言われたりしますが、まあ京都周辺を開発した秦氏など渡来人系の信仰といっても、キリスト教にとってまさに異教として代表的なものという事なのだと思われます。




秀吉は天正遣欧使節団を迎えて、その後に千利休を死に追いやり、そして同時に朝鮮征伐を具体的に計画していくわけですが、時間的経過から言って、明らかにバチカンからの勅使として天正遣欧使節団とその随行の宣教師達を迎えて、新たに十字軍としての大陸の朝鮮、明、印度制圧を企図していたようで、もちろん印度などに送った文書では、キリスト教に布教されるよりも神道や仏教の方が正しいなどと述べていたそうですが、まあ様々に混乱していて、明確な意図はつかめないというのが真実だと思われますが、時間経過的にはそういう教皇からの直使によって、軍師として朝鮮征伐に明らかに反対するであろう千利休を処分して、自らのさらなる栄光のために大陸を目指したという、まあほぼ十字軍としての目的しかなかったのではないかと思われます。キリスト教的には恐らくそういうザビエルが為しえなかった中国布教の足掛かりとして、朝鮮半島の調査も兼ねていて、また日本国内では秀吉後の徳川政権への権力移譲もすでに十分考慮した上での、結果的にも徳川以外の西国大名の力を削ぐ意味を為した戦いであったのではないでしょうか。当時の後陽成天皇も朝鮮征伐には反対したとあり、結果的に秀吉の死によって即刻中止になった事を考えても、秀吉自身が自身の内面の信仰上の動機のみで開始して継続したのが朝鮮征伐であり、その信仰の対象であったのはイエズス会のキリスト教であり、イエズス会の目的としてはもちろん中国大陸での布教であり、石垣山城の建築などもその事前準備も兼ねていたという事になるのだと思われます。

秀吉の子供としては伝承としては石松丸秀勝という子供が長浜城時代にいたことになっていますが、まあ伝承の範疇とのことです。鶴松は小田原征伐の前年に浅井三姉妹の長女である側室の茶々が淀城で産んだ子という事で、そのことにより茶々は淀殿と呼ばれるようになったとのことです。もちろん淀という音はYod、Yodh、 י、いわゆるスコティッシュライト14階位として知られる Lodge of Perfection十全会の最高位としてのPerfect Elu, Grand elect, Perfect, and Sublime Mason完全なる被選抜者または完全にして崇高な石工の象徴としてのいわゆるYWHWיהוהの頭文字であり、ローマ字で行くとそのままYの意味なんだと思いますが、そういう千利休とか淀殿とか主要な登場人物にすぐスコティッシュライトなんてのが関係して出てくるというのが、豊臣秀吉というところで、しかも本人も三十三間堂に激しく興味を持っていて、その周辺に豊国神社と豊国廟を残すように遺志を残したといういわれがあるそうで、まあ激しくフリーメイスンリーに興味を持たれていたのかもしれません。鶴松という名前もTrue Mathewに繋がる音であることから、キリスト教的な意味が含まれているのかもしれませんが、その前の石松丸などの名前など見ても、松とMathewのシンボル繋がりはありそうで、その後の街道脇の松の整備に繋がったことはありそうです。鶴松が秀吉の実子であったかどうかは定かではありませんが、淀殿が秀吉の主家筋の血筋を引いた側室であり、その他に多数いた側室から一切姦通の子であっても子供の出産の話がありませんので、まあそもそも大野治長の子供であった可能性は高いのでしょうが、それを押し通すだけの性格と環境が淀殿にはあった可能性があるようです。大野治長の名前自体も真言のオオの音と、ナーガのシンボリズムが含まれており、まさに近江の琵琶湖近辺の仏教・キリスト教が混淆した環境のまさに発露のようでしょうか。大野治長は関ヶ原の戦いでは東軍として働きましたが、大坂の陣では秀頼の実父としての責任を取ってか、交渉役からそのまま大坂城側の実質的な指導者となり、最後は淀殿、秀頼母子と共に自害しています。実際に秀頼との血のつながりを秀吉がどのように考えていたかは不明ですが、明らかに実子として育てており、そのために一旦は後継に指名した秀次を自死に追い込んだ経緯もあり、内心は実子でないことを理解していたとすれば、それはまさにキリスト教でいうところの大工である義父ヨゼフの心境であり、まあイエズス会によってグランド・マスター、石工の長として秀吉が見られていたという事なのかもしれません。まあそういうキリスト教的なシンボリズムが理解されると、朝鮮の役から関ヶ原の戦い、大坂の陣という流れが理解され、大坂の陣での秀頼母子の存在の象徴性と、それに伴っての人々の殉教的な死とそれを見守る宣教師と、それによる徳川幕府による平和な時代の建立と新しい大坂城の象徴的な意味が出てくるわけだと思います。良き相談役であった豊臣秀長はナーガのシンボリズムを認めますが、ちょうどこちらは天正遣欧使節団が秀吉を訪れる1か月前に亡くなっており、こちらも千利休と同じく相談役で恐らく朝鮮の役のブレーキとなる人物であったと考えられます。






まあほとんどすべての忠告できるような人は全員反対した唐入り、朝鮮征伐であったわけですが、天正19年8月23日(1591年10月10日)に秀吉の本格的な唐入りの意思が諸大名に発表され、具体的に計画して、名護屋城を建築し、対馬の宗義調、宗義智やキリシタン大名の小西行長を使節として、一応交渉して恭順させる体裁を取ったわけですが、もちろん交渉にそもそもならず、そして母親である大政所が最終的には大反対で、1年延期されたそうですが、名護屋城は天正19年8月から建築開始を命令して、諸大名が到着したのが10月で、文禄元年3月に完成したそうで、まあ8か月かけて石垣山城の技術がここで再び実戦向けに活用されたわけです。この名護屋城という名前も、三英傑出身地の名古屋と音が同じであるわけですが、やはりフリーメイスンリー的には名はGodでありYWHWであるという音の意味になるというところなんだと思われます。宗教的なキリスト教とユダヤ教の融和というのが一つの宗教改革のテーマでもあったわけですが、対抗宗教改革の雄であるイエズス会のテーマも同じく合わせ鏡のようにそれであったわけであり、神の名としてのGodとYWHWというのは最も重要なテーマであり、それはまた生産性が高く、農民階級の文化の成熟が認められた濃尾平野の名古屋周辺での三英傑の出立というのもまたフリーメイスンリー的に必然であったのかと思われます。

文禄元年(=天正20年)4月12日(1592年5月23日)午前8時、日本軍の一番隊の宗義智と小西行長は700艘の大小軍船で対馬・大浦を出発し、午後2時過ぎに釜山に上陸したそうです。先陣がキリシタン大名であった小西行長で、次陣が戦国唯一の旧暦6月24日生まれ、その後旧暦の6月24日に亡くなる加藤清正、清正公であるわけですが、漢城、現ソウルの先陣争いなども有名ですが、加藤清正は秀吉の親戚で、そういう旧暦の洗礼者ヨハネの日の生まれという事もあり、生涯法華経の信仰を貫き通したわけですが、秀吉の出自と朝鮮征伐との絡みも想像され、キリスト教の信仰と、十字軍というのが朝鮮征伐の最大のテーマであった事がこの布陣から導き出されるわけです。小西行長も親の代からのクリスチャンで、洗礼名はアウグスティヌスで、後の関ヶ原の戦いの西軍の将として斬首されるのですが、子孫が島原の乱の天草四郎説もあるという、高山右近の次にキリスト教布教に貢献したキリシタン大名という事で、朝鮮征伐の際にも詳細な報告をする役目をしており、従軍宣教師グレゴリオ・デ・セスペデスと共に、布教こそしなかったようですが、朝鮮半島全体の状況の報告をイエズス会に詳細に行っていて、後の布教の材料となったようです。


いわゆる朝鮮征伐、文禄・慶長の役での日本軍の動員数は小田原征伐や奥州仕置と同程度で、関東や東北の軍、具体的には徳川家康の配下の軍は九州にとどまっていましたので、朝鮮半島に渡海した軍は15万~20万程度で、当時の日本の人口が2000万人程で、朝鮮半島が500万人程、中国大陸、明が1億2000万人程との事で、日本が戦国時代で100年近くの戦乱の歴史を経ていますので、その間にザビエルのキリスト教布教と火縄銃の伝来、そして上述の石垣城の建築技術と、度重なる戦いでの集団戦の戦術のノウハウがありますので、まあ朝鮮半島や中国大陸にはそれよりも大規模な周辺異民族との間や内戦の戦いの経験の蓄積と、大陸なので技術の恒常的な伝達があったわけではあるのですが、キリスト教伝来とそれに付随する火縄銃の技術や石垣城の技術の差が決定的であり、それに実戦の戦士の戦闘経験が相まっていて、基本的には戦闘自体では日本軍が数万人~5万人程度の主に補給が断たれることによる餓死や不意打ちによる死が多かったようですが、そういう戦役全体での死者数に対して、朝鮮半島全体での死者数は民間人、兵士全体で推計もない程であるようですが、およそ5倍から10倍ほどの死者であったようで、10万~50万程度の死者と見積もられるようで、特に襲来をほとんど予想していなかった当初の1週間から1か月程度は大虐殺の状況であったようで、数万人の死者が一方的に生じた侵略戦争であったようです。



文禄元年(=天正20年)5月1日~7日(1592年6月10日~6月16日)にかけて一番隊の小西行長隊を始めとして諸将が李氏朝鮮の首府であった漢城、現ソウルに入城し、李氏朝鮮の国王であった宣祖はすでに逃亡し明との国境近くまで移動していました。秀吉の朝鮮渡海などを待つなどの対応があり、しばらく漢城で留まって、その後小西行長隊は平壌に進みさらに明との国境付近まで進み、加藤清正隊は東北方面に進み、いわゆる虎退治などをしながら、その後の清王朝の元となる愛新覚羅族がいるオランカイまで侵攻しています。文禄元年(=天正20年)7月16日(1592年8月23日)に明軍が参戦し、平壌の小西行長軍を攻撃しますが、迎撃し、その後も明側に損害が多く、小西行長軍は平壌を守りますが、秀吉の朝鮮渡海は困難として、明との間に休戦交渉を行っています。この明の参戦直後の天正20年7月22日(1592年8月29日)に秀吉の母親の大政所が聚楽第で亡くなり、秀吉は名護屋城から京都に向けて出発していて、その途上で卒倒し、また「川角太閤記」によればその途中の瀬戸内海の航海で岩場に座礁し、秀吉一人が岩礁で助けを待つという状況もあったという事で、戦況の変化とともに秀吉の心境にも最大の影響を与える母親の死があり、そもそも秀吉の成功の過程におけるキリスト教ネットワークと共に、朝鮮半島系の渡来人のネットワークが想像されるのですが、朝鮮征伐でのこの明軍の参戦と大政所の死と秀吉の座礁のタイミングはまた日本における中国大陸由来の渡来人のネットワークが想像され、その後の沈惟敬との講和交渉と慶長伏見地震との関連などもありますが、秀吉の朝鮮征伐の東アジア全体を巻き込んだ影響と反応の大きさがうかがわれます。
文禄2年(1593年)1月6日(1593年2月7日)より平壌を取り囲んで明の大軍の攻撃が再開され、ポルトガルからもたらされた大砲なども使用され、小西行長軍は撤退し、その後漢城と平壌の間で野戦が行われ、明軍が敗退し、状況は膠着状況となり、文禄の役は休戦状態となります。日本軍は朝鮮南部に拠点となる倭城の建築を開始し、以後の慶長の役では主にこの石垣城を防衛拠点とする日本軍の防衛戦となります。この間秀吉と明との間の講和交渉となるわけですが、文禄2年8月3日(1593年8月29日)に大坂城二の丸で淀殿が秀頼(拾)を産み、関白である秀次が情緒不安定となり、文禄4年7月15日(1595年8月20日)に謀反の疑いで秀次が切腹となりその家臣や係累も皆斬首となりました。この秀頼誕生まで秀吉の後継と考えられていた、秀次とその兄弟たちの、豊臣秀吉の姉である瑞龍院日秀と三好一路の息子たちは、次男の秀勝が、これはキリスト教の洗礼を受けていたそうですが、文禄の役の最中に文禄元年9月9日(1592年10月14日)に巨済島で病気で急死し、三男の秀保は文禄の役の休戦中の文禄4年4月16日(1595年5月25日)に所領であった奈良、十津川で急死したとあり、秀吉の弟の秀長の終焉の地の大和郡山の近辺であったようですが、皆この頃に亡くなっており、秀吉の実子ではない可能性が高い秀頼の後継としての確実性の為の工作が疑われるようです。






日本と明の講和交渉の真っただ中の文禄5年閏7月9日(1596年9月1日)、慶長伊予地震が発生し、記録に残る日本初の中央構造線断層帯の地震であり、津波もあったとのことです。3日後の文禄5年閏7月12日(1596年9月4日)に慶長豊後地震が発生。地震と津波によって瓜生島と久光島の2つの島が沈んだとされますが、こちらがザビエルが1551年11月15日に離日した際の別府湾の島であったとの事で、ザビエルはその後中国布教のために一旦マラッカ、ゴアに戻ったのちに、1552年8月に現在の広東省の上川島(St. John's Island)に入り中国布教のために準備しますが、1552年12月3日熱病で亡くなりました。その後ザビエルの遺志は巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノからマカオで活動していたイエズス会士マテオ・リッチに引き継がれ、ちょうど朝鮮征伐の頃に中国布教に成功し、後の1601年から明の万暦帝の宮廷に入り、ユークリッド幾何学の漢文訳である『幾何原本』を発行したりして、中国明でキリスト教を布教しています。慶長豊後地震の翌日の文禄5年閏7月13日(1596年9月5日)(追記:完全な59695の対称形のシンボリズムになっているようです。)、慶長伏見地震(慶長伏見大地震)が発生し、ちょうど完成に向けて建築中であった伏見城の天守や石垣、方広寺の大仏が完全に倒壊し、死者多数で、いわゆる地震加藤の伝承がありますが、秀吉はちょうど明の使節が来る予定の6日前であったそうですが、何とか使節と面会したとのことです。またその慶長伏見地震の1か月後の文禄5年8月28日(1596年10月19日)にいわゆるサン=フェリペ号事件が発生し、主にフランシスコ会の宣教師と、アウグスティノ会とドミニコ会の宣教師が捕えられ積み荷を没収され、通訳を介したキリスト教宣教の目的が占領にあるという内容が秀吉を激怒させたとのことです。サン=フェリペ号の乗組員は追放されますが、文禄5年12月8日(1597年1月25日)に天正に続く禁教令が再び出され、京都や大坂にいたフランシスコ会のペトロ・バウチスタなど宣教師3人と修道士3人、および日本人信徒20人が捕らえられ、彼らは長崎に送られて慶長元年12月19日(1597年2月5日)処刑され、いわゆる日本二十六聖人の殉教となり歴史上最初の日本のキリスト教徒の殉教となりました。
またこの時代のローマ教皇はグレゴリオ暦で名前を残すグレゴリウス13世第226代ローマ教皇(在位:1572年 - 1585年)以降、シクストゥス5世第227代ローマ教皇(在位:1585年 - 1590年)、ウルバヌス7世第228代ローマ教皇(在位:1590年9月15日 - 9月27日)マラリアのため病没、グレゴリウス14世第229代ローマ教皇(在位:1590年 - 1591年)胆石が原因で死去、インノケンティウス9世 第230代ローマ教皇(在位:1591年10月29日 - 12月30日)病死、クレメンス8世第231代ローマ教皇(在位,1592年-1605年)と短期間で教皇が入れ替わる時期が続き、カトリック内部でも相当の方針を巡っての対立があった事が想像されます。またイエズス会総長は第三代がフランシスコ・ボルハ(1510年10月28日 - 1572年9月30日)で1565年にイエズス会総長となり、創設者であるイグナチオ・デ・ロヨラに並び称される貢献をしたとされ、地震の守護聖人とされています。出身家のボルジア家は教皇を輩出した名門で、ヨーロッパの各王家とも血縁があり、映画の「ゴッドファーザー」などでもバチカンの陰謀の代名詞として挙げられたりしているそうです。イエズス会総長には黒い教皇との呼び名もあり、スコティッシュライトのブラザーアルバート・パイクの黒い教皇との呼ばれ方と共通のものがあるようです。












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(マテオ・リッチの肖像ですが、四枚目のものは弟子の徐光啓とのものですが、徐光啓の後ろにフリーメイスンリーのシンボルマークの形に似た形があり興味深いでしょうか。マテオ・リッチは中国布教の過程で儒教を始めとした中国の歴史や伝統を尊重した適応方針である順応政策を行い、それは後にカトリック教会の内部での批判にあい、清の乾隆帝の治世で禁教となり中国でのキリスト教布教はいったん中断となっています。同時期に今日の中国の代表的なフリーメイスンリー的組織である洪門会が「反清復明」をモットーとして成立したとされるのが興味深いようです。英語版のウィキペディアではマテオ・リッチが元朝以来当地に存在した開封のユダヤ人コミュニティーの長老と面会し、ユダヤ人になるよう勧められたとのエピソードが描かれています。儒教は音的にはJewと同じようです。)(最後の二枚はイエズス会総長フランシスコ・ボルハの肖像です。最後のものはゴヤの絵です)
まあそんなこんなで和平交渉は打ち切られて、秀吉の慶長2年2月22日(1597年4月8日)の大号令で慶長の役が再開となるわけですが、大義無き侵略戦争であることは明らかで、戦地の荒廃も明らかで、現地民からの補給が受けられないことも明らかで、野戦であれば徹底したゲリラ戦の状況となるわけで、当初は朝鮮半島南部で同様の侵略を続けますが、最終的には石垣城を作っての形だけの侵略を続ける拠点防衛戦となります。秀吉はその後も大増援を送る計画を持っていたそうですが、慶長3年3月15日(1598年4月20日)醍醐の花見を行い、慶長3年5月15日(1598年6月18日)五大老、五奉行を指名した遺言書を作成し、豊国廟での埋葬を指示しています。その後信濃善光寺の本尊の移動などあったそうですが、慶長3年8月18日(1598年9月18日)に伏見城で亡くなります。もちろんこの秀吉の没年月日も和暦で818の回文数、西暦で989の回文数であると思われますが、まあその他の人の単純な6と1のものではないところが、この人の複雑な一生を物語っているというか、和暦で8の回文数になっているのは、まあ基本的には復活の8の数字という事で、キリスト教信仰と、本人がこだわった33の回文数にかけた、後白河法天皇の生没年月日の1127年10月18日(大治2年9月11日) - 1192年4月26日(建久3年3月13日)の3月13日から三十三間堂が残されたという話にまつわる、オームの真言の3から、復活の8にしたところで、88の回文数となるのでしょうが、まああえて八十八というと、これは日本では多分お茶やお米の漢字ではないですが、茶摘みとか稲作という話になるのだと思いますが、まあ茶道の成立や稲荷信仰に関わったというのが、こじつけで言えばそうなるのだと思います。989の回文数の意味はイエズス会的なものでしょうね。最後まで朝鮮征伐でもイエズス会の意向に従って動いていたという事が明確なのだと思います。まあここでも相当長きにわたって書いてきましたが、日本のキリスト教布教、イエズス会の活動自体に相当大きな影響を与え、与えられたのが三英傑二番目の太閤秀吉であり、その後も日本の中で太閤に例えられるような人物はあるわけですが、まあ本家が一番影響力が大きいという事だと思われます。
朝鮮征伐は秀吉の死ですぐに中止へ向かって動き出し、慶長3年10月15日(1598年11月13日)帰国命令が出され、小西行長を殿軍として、慶長3年11月25日(1598年12月23日)に撤退完了したとのことです。最後まで明・朝鮮軍は数では圧倒しながら、戦力的には日本軍が上回っていたとの事です。後の関ヶ原の戦いではこの朝鮮征伐での加藤清正を中心とする武断派と小西行長・石田三成を中心とする文治派の対立により生じたと解説されることがありましたが、現在ではあまり明確な説明ではないかと思われます。この朝鮮征伐による直接的な影響はやはり数万人の朝鮮人が捕虜として日本に送られ、朝鮮の文化を日本に直接伝えたという事があり、その最大のものは優れた朝鮮陶磁器の作成法であり、肥前伊万里焼、加賀九谷焼、そして織部焼とも表現される美濃焼とあり、それぞれがまた地域から隠れキリシタン文化とも密接に関連しているのが、朝鮮征伐の影響の特徴かと思われます。太平洋戦争開戦および終戦時の外務大臣の東郷茂徳の出身が薩摩の朝鮮人陶工集落であることが有名かと思います。また当時は朝鮮人の捕虜が奴隷としてヨーロッパまで売られている事例があったとの事で、日本人捕虜の南蛮貿易での奴隷売買の事例もありますが、戦国の習いとして普通に行われていたことの証左であるかと思われます。またジュリアおたあで知られる徳川家康の側室となったキリシタンなどもおり、徳川幕府以降での幕藩体制の中での儒教教育の浸透による庶民の識字率の向上などにも、こうした朝鮮人捕虜の影響や朝鮮征伐の影響が考えられ、儒教教育が盛んであった朝鮮半島の金属製活版印刷技術の伝来なども、その後の江戸時代の出版印刷技術の普及や、キリスト教のセミナリヨ教育の影響も相まって、今日の日本の倫理観や道徳観の基礎となる儒教教育の庶民への普及がなされたのかと思われます。それまでの日本の庶民では浄土宗や鎌倉仏教後での念仏仏教や一向宗が主であって、いわゆる倫理教育や道徳教育という、文字や文章による教育はもともと武家や公家の教育で主流であった儒教教育が江戸時代になって初めてセミナリヨ教育が寺子屋教育へと変化して可能になったのであり、儒教教育の浸透に朝鮮征伐の影響は大きかったと思われます。もちろん大陸への影響では、明の没落による清への王朝交代があり、マテオ・リッチによるイエズス会によるキリスト教の布教が可能となっており、イエズス会による中国政治への影響がなかったとは言えないと思われます。加藤清正が女真族のヌルハチと会戦し、その後後金を建国し、息子のホンタイジの時代に元の玉璽を手に入れ、中国大陸の異民族の王朝として清の国号を定めて、女真を満州と改め、その後のフリンの即位後明が滅亡し、中国大陸は清の時代となります。この明から清への国号の推移も、それ以前の元という異民族王朝の国号も、いずれもシンボリズムを認め、元はGenと音でGの音となり、これは同時期の源平の戦いの源氏などにも共通ですが、元にはネストリウス派キリスト教徒が随行したなどの説もあり、また明はマニ教の影響を受けた白蓮教徒の朱元璋が建国しており、太陽と月のシンボリズムはその後のイエズス会の布教と相まって隠れキリシタン化した日本でも普及した対称性を示すシンボリズムであり、今日の日本の伝統的な石灯籠のデザインとして良く取り入れられている灯篭の火袋の窓のシンボリズムです。明から清へ元号が変わったわけですが、その清も青と点が三つと、フリーメイスンリーのシンボリズムにつながるものと考えられ、その後イギリスではいわゆるピューリタンを表現するのに清教徒という訳が当てられたりしましたが、異民族の王朝という事で、イエズス会の布教があった時期であり、シンボリズムがあるのかと思われます。中国はその後キリスト教の禁教を経て、洪秀全による太平天国の乱後にブラザー孫文の中華民国が成立し、その後に日中戦争を経て、毛沢東による中華人民共和国の成立となって現在に至るわけですが、この間フリーメイスンリー的組織として洪門会が存在し、また毛沢東の発音のマオ・ツォートンなどもイエズス会の最初の布教者であるマテオ・リッチとMとTの音で一致しているなどもあり、また清朝の満州族への改名もMの音で共通するなど、Mのシンボリズムも考えられるかと思いました。またマテオ・リッチによる中国大陸への布教に伴って、伏羲と女媧の洪水型兄妹始祖神話と聖書の創世記の物語の類似などもあって、それらのシンボルである直角定規とコンパスが後のフリーメイスンリーのシンボルへと石工の道具との共通性から取り入れられていったと考えられるかと思います。元のGや創世記のGenesis、幾何学のGeometryの関連も全てシンボリズムへと還元されるようです。朝鮮征伐の結果可能となった中国大陸へのイエズス会の布教がユーラシア大陸の東と西の宗教や文化の共通項の探索となり、それが直接的に近代フリーメイスンリー結成の知識の裏付けの原動力となった可能性が高いようです。















三十三間堂や京都国立博物館が京都観光の中心であることは、その周辺に豊国神社や豊国廟、耳塚などがあり、特に明治になって復興されたことが、そういうキリスト教的なフリーメイスンリー的な評価と一致するところだと思われます。
この時代の日付のシンボリズムとしては、上述の日本二十六聖人の殉教の原因となったとされる、サン=フェリペ号事件が文禄5年8月28日(1596年10月19日)で、61019の回転対称形を為しているのが、まあ特記される事象だと思われます。その後の殉教者の聖人認定にも関わる転換点なんだと思われます。イエズス会が一旦は異端認定されるような遠因ともなるのだと思われます。またイエズス会士としてはやはりアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1539年2月15日 - 1606年1月20日)で没年月日が明確に16061とその時代の共通する1と6のシンボリズムを認めており、三英傑の織田信長、豊臣秀吉の時代の全てのストーリーに関わったのがこの人であろうと推測されます。また中国布教したマテオ・リッチ(1552年10月6日 - 1610年5月11日)の没年月日がシンボリズムとなっており、まあ他にも多数のイエズス会士がいたわけですが、シンボリズム的にはザビエルと共にこれらの人々が評価されるのだと推測されます。またこれらの人々の中心で動いていたと想像される、天正遣欧少年使節の主席正使である伊東マンショが(永禄12年(1569年)ごろ - 慶長17年10月21日(1612年11月13日))で没年月日にシンボリズムを認めるのが、やはりそういうものであるかと思われます。
この時代のキリシタンでない人で没年月日でシンボリズムを認める人で、秋月種実という大名がおり、天文17年(1548年)? - 慶長元年9月26日(1596年11月16日)と61116という、また特徴的な1と6のシンボリズムなわけですが、大友宗麟の傘下であって、その後反抗し、さらに秀吉の九州征伐にも島津勢として抵抗し、最終的には大友宗麟がムジカの地として制圧しようとしていた現在の宮崎県で小藩を存続したとの事で、名前も月や種が代々入るという、なかなかシンボリズムでもやや珍しいものであり、キリシタンであったかどうかは不明ですが、その関わりから強烈にキリスト教の影響を受けていると考えられ、九州での実際のキリスト教の影響という際に、非常に興味深いシンボリズムであるかと思われます。



まあ秀吉の死によって情勢は一気に秀吉後の政治に移っていくわけで、石田三成襲撃事件や、細川ガラシャの死、上杉景勝征伐から関ヶ原の戦いへといわゆる司馬遼太郎の小説や大河ドラマで非常に有名となったストーリーへ移っていくわけですが、まあ最終的には裏切りによる決着というところで、戦術や戦略、まあなかなか戦争の評価というところなのだと思いますが、三英傑の歴史としては具体的にどのように徳川家康に政権移譲していって、江戸を政治の中心地とするかという作業なんだと思われますが、まあその筋立てを全て考えたのは、シンボリズム的には現地のイエズス会の総責任者となるアレッサンドロ・ヴァリニャーノであり、その筋書き通りに進行していったのかと思われます。秀吉の死から約8か月後の慶長4年3月3日(1599年3月29日)に前田利家が亡くなり、同日深夜慶長4年3月4日(1599年3月30日)に石田三成襲撃事件が起こり、石田三成が佐和山城に隠居となります。この際に東軍の武将としていわゆる秀吉配下の七将が確定したとのことです。細川ガラシャの洗礼にも、朝鮮征伐で従軍宣教師として小西行長に随行したグレゴリオ・デ・セスペデスが関わったとあり、関ヶ原の戦いに至るまでの細かい情勢についても、本能寺の変以上にイエズス会の宣教師が関わっていることが推測されます。関ヶ原の戦いで興味深いのは、慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に戦いが起こるその約半年前の慶長5年3月16日(1600年4月29日)、いわゆるウィリアム・アダムス、三浦按針とヤン・ヨースデンを乗せたリーフデ号は豊後臼杵の黒島に漂着したとされることで、まあ実際は予定通りに寄港したという事のようですが、大友宗麟のキリスト教国である豊後の中心地であり、その後の江戸幕府開府から家康のフランシスコ会との関りと禁教から長崎でのオランダの貿易の独占、そして世界の大英帝国の繁栄と、近代フリーメイスンリーの成立と、オランダ出島でのブラザーイサーク・ティチングの来日など、カトリックからプロテスタント、フリーメイスンリーへバトンを受け継いでいく、まさにそういう作業が1600年という時代にあるというのが、西暦のシンボリズムであると思われます。



関ヶ原の戦いではキリシタン大名は東西どちらの軍にもいるわけですが、豊臣秀吉配下の武断派であった七将は東軍にいて、キリシタン大名で大藩の有力大名であったものは東軍にいる印象で、キリシタン大名で浪人に近いが有名であったり、小藩の大名であるものが西軍にいる形でしょうか。具体的には黒田長政 永禄11年12月3日(1568年12月21日)-元和9年8月4日(1623年8月29日)で、黒田孝高 天文15年11月29日(1546年12月22日)(グレゴリオ暦1547年1月1日)-慶長9年3月20日(1604年4月19日)の長男であり、いわゆる黒田官兵衛父子なわけですが、面白いのは、息子は明らかにフリーメイスンリーの守護聖人の聖トマスの日生まれであり、父親も1日ずれで、ユリウス暦の時代なわけですが、没年では黒田孝高の44と黒田長政では623829という3と8を同じとすると対称がやや出てくるかという、ちょっと複雑な感じがあります。(2023.3.14追記:黒田長政の生年月日は旧暦ですがザビエルの命日なのですね。なかなかカトリックとして高山右近なみに期待していた感じがするでしょうか。)また浅野幸長 天正4年(1576年)-慶長18年8月25日(1613年10月9日)や京極高次 永禄6年(1563年)-慶長14年5月3日(1609年6月4日)、京極高知 元亀3年(1572年)-元和8年8月12日(1622年9月17日)、田中吉政 天文17年(1548年)-慶長14年2月18日(1609年3月23日)、織田長益 天文16年(1547年)-元和7年12月13日(1622年1月24日)、筒井定次 永禄5年5月5日(1562年6月6日)-慶長20年3月5日(1615年4月2日)、寺沢広高 永禄6年(1563年)-寛永10年4月11日(1633年5月18日)が具体的に挙げられる東軍のキリシタン大名で棄教後の人もいるわけですが、一見して、あまりシンボリズムは没年でも少なく、浅野幸長の131や京極高次の96、京極高知の162291とちょっとこれはまた微妙なものであったり、田中吉政の609、323、織田長益の22、筒井定次の66、寺沢広高の33など、まああるといえばあるしというあまりはっきりしない、まあそもそも洗礼を受けているので、はっきりあると言えるのでしょうが、数字的にはそれほど特徴的でないシンボリズムとなるようです。実際にはその生前の様々な生き方を評価されての数字なのではないかと思われます。東軍のキリシタン大名以外では、もちろん前述の池田輝政 永禄7年12月29日(1565年1月31日)-慶長18年1月25日(1613年3月16日)が際立っているわけで、生年月日で15651、131、没年月日で613316とどちらも桁数の多い回文数が含まれていて、白鷺城として今日も世界遺産となる姫路城を現在の形に作ったことと、その子供たちが、備前岡山藩主、播磨赤穂藩主、播磨姫路藩主、弟が因幡鳥取藩主となって存続したことがあり、キリシタンでなくとも正妻も中川清秀の娘であり、ほぼキリシタン大名として大きな影響を残したことにあるようです。一方やはり前述の武断派の中心人物の加藤清正は永禄5年6月24日(1562年7月25日)-慶長16年6月24日(1611年8月2日)で、法華経に帰依して、和暦で生没年月日がどちらも6月24日であり、西暦では272、161、11とあるわけですが、まあ和暦のシンボリズムがあまりに強いので、西暦のそれはあまり意味がないのかとされるのかと思います。(2023.3.14追記:加藤清正は生年月日が西暦でヤコブの日ですね。スペインの守護聖人の日です。イエズス会を象徴する日であり、かなり重要と思われます。法華経に傾倒したのも、オルガンティノ師が法華経を研究したのと関連するのでしょう。)一方で武断派のもう一人の代表格である、キリスト教にも寛容でもあったとする福島正則 永禄4年(1561年)-寛永元年7月13日(1624年8月26日)で、624826とまあ対称形に近い形という、微妙な数字であり、改易されて大名としては断絶しており、まあシンボリズムはないという事なのでしょうか。細川ガラシャの夫である、細川幽斎の長男の細川忠興 永禄6年11月13日(1563年11月28日)-正保2年12月2日(1646年1月18日)と和暦でも西暦でも11や111や22が認められ没年月日では16461もあり、まあキリシタンではなくとも茶道家で利休七哲の一人であり、千利休の最後を見送った弟子であり、三斎流茶道の創始者であり、ガラシャの死によって、石田三成は人質を取りづらくなり、東軍の結束を高めたという経緯もあり、そういう評価なのだと思われます。生駒一正 弘治元年(1555年)-慶長15年3月18日(1610年5月11日)、藤堂高虎 弘治2年1月6日(1556年2月16日)-寛永7年10月5日(1630年11月9日)、加藤嘉明 永禄6年(1563年)-寛永8年9月12日(1631年10月7日)、山内一豊 天文14年(1545年)-慶長10年9月20日(1605年11月1日)、有馬豊氏 永禄12年5月3日(1569年5月18日)-寛永19年閏9月29日(1642年11月21日)といずれも没年月日で11のシンボリズムを認め、生駒一正は161とマテオ・リッチと同じ没年月日、山内一豊は111で諸聖人の日、有馬豊氏は生年月日で156951と中心が回転対称の対称と複雑ですが、没年月日では2112で回文数と色々プラスアルファがありますが、共通するのはいずれも築城して城が残っており、生駒一正は高松城、藤堂高虎は宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城・二条城を築城し、加藤嘉明は伊予松山城、山内一豊は高知城、有馬豊氏は久留米城を築城し、石垣や天守など多くが残存しているという共通点があります。

















東軍は後は徳川四天王がいますが、井伊直政 永禄4年2月19日(1561年3月4日)-慶長7年2月1日(1602年3月24日)、本多忠勝 天文17年2月8日(1548年3月17日)-慶長15年10月18日(1610年12月3日)、榊原康政 天文17年(1548年)-慶長11年5月14日(1606年6月19日)といった感じです。井伊直正の没年月日の232、本田忠勝の没年月日のザビエルの没日と一緒、101、榊原康政の606、66、619の回転対称でしょうか。それぞれ家紋がまあ隠れキリシタンなんだろうなという感じでしょうかねえ。江戸時代の幕開け=隠れキリシタンの時代というのが正しい歴史認識なんだと思われます。







それで西軍の武将ですが、キリシタンとしては大友義統 永禄元年(1558年)-慶長15年7月19日(1610年9月2日)、小西行長 永禄元年(1558年)-慶長5年10月1日(1600年11月6日)、織田秀信 天正8年(1580年)-慶長10年5月27日(1605年7月13日)、大谷吉継 永禄8年(1565年)-慶長5年9月15日(1600年10月21日)、毛利秀包 永禄10年1月18日(1567年2月26日)-慶長6年3月22日(1601年4月24日)といて、まあ単純に比較して、数でも質でも東軍の方が圧倒的にキリシタン大名は多かったようですが、何となくその後の大坂の陣のキリシタン浪人の活躍の印象などもあり、また石田三成と共に西軍の中心人物とされ、戦死したり斬首される大谷吉継や小西行長といった実際に戦った大名にキリシタンという印象が強いせいか、まあかなり均等にいて、実際にはその後の禁教令の影響などもあり西軍に多めにいるくらいの印象ですが、単純比較してまあ圧倒的に東軍に多いようです。またキリシタン大名としてや、大名として有名な大友宗麟や、織田信長、毛利元就の子供や孫がおり、キリシタンとしての系譜は非常に興味深いですが、実際の戦闘や政治能力としてはほとんどないと言えるのかもしれません。西軍の没年月日のシンボリズムとしては、圧倒的に石田三成、小西行長、安国寺恵瓊が斬首された慶長5年10月1日(1600年11月6日)の西暦の11と6の組み合わせであり、大友宗麟の死(天正15年5月6日(1587年6月11日))、秋月種実の死(慶長元年9月26日(1596年11月16日))、石田三成・小西行長の死(慶長5年10月1日(1600年11月6日))、イエズス会巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの死(1606年1月20日)、細川幽斎・吉田兼見の死(慶長15年8月20日(1610年10月6日))、古田織部の死(慶長20年6月11日(1615年7月6日))、徳川家康の死(元和2年4月17日(1616年6月1日))とこの時代にキリスト教や日本の政治の中枢にまつわる人々の死で、ほとんどが西暦ですが、一人古田織部のみ和暦で、6と1と一部0にまつわる特徴的な数字が出てきており、1600年という西暦が重要であったとは思われますが、そういう1と6にまつわるシンボリズムの主に西暦での残された印があり、それが一つのイエズス会が残した日本での活動の証であったのかと思われます。
関ヶ原の戦いの時代のイギリスはちょうどエリザベス王朝末期で、その後にスコットランド王であったジェームズ1世にイギリスが統一される時代であり、ジェームズ1世の時代の1611年にいわゆるフリーメイスンリーで標準とされる欽定訳聖書の成立があります。エリザベス朝時代からジェームズ1世の時代にかけていわゆるイギリス文学の成立といわれるクリストファー・マーロウやシェイクスピアの活躍があるわけです。フランシス・ベーコンの「知は力なり」などのイギリス経験主義、その後の百科全書派への流れへと繋がります。イギリスはその後清教徒革命を経て1666年の驚異の年から英蘭戦争、ロンドン大火となり、ブラザーニュートンのプリンキピアの発行に至り、その後名誉革命を経て、近代フリーメイスンリーの結成に繋がるわけです。まあ当時イギリスはユリウス暦であるという落ちもありますが。

それでまあ関ヶ原の戦いの核心にやっとたどり着くわけですが、裏切った武将ですね。吉川広家 永禄4年11月1日(1561年12月7日)-寛永2年9月21日(1625年10月22日)、小早川秀秋 天正10年(1582年)-慶長7年10月18日(1602年12月1日)、脇坂安治 天文23年(1554年)-寛永3年8月6日(1626年9月26日)、朽木元綱 天文18年(1549年)-寛永9年8月29日(1632年10月12日)とあるわけです。吉川、小早川、毛利と西軍は総大将が一応毛利輝元であって、その配下の武将が裏切り前提で西軍にいたというのがまあ関ヶ原の戦いであったわけですが、毛利、島津共に西軍に参加していながらも毛利はその後改易を受けて島津は徳川軍と交渉の末所領安堵され、いずれも江戸時代は有力外様大名として存続し、明治維新でいわゆる薩長同盟で明治政府の中核となり、今日に至るという歴史があります。どちらもザビエルの最初の濃厚な布教の地であり、列島の中で突端で海峡など地理的に重要な地であり、共にフリーメイスンリーのシンボルとなる家紋を頂くという共通点があります。また戦国時代に森や毛利の名前の武将が増えるわけですが、どちらもシンボリズムでは「死を想起せよ」のラテン語Memento moriの死にあたる音がモリでありそれと音が一緒で、恐らく三、六角、石、古田、千、蜂や羽、柴、織田のようにシンボリズムと思われます。


吉川広家は和暦の諸聖人の日生まれで、毛利元就の孫、吉川元春の子供ですが、秀吉の人質として秀吉の近くにいたものの、石田三成などに冷遇され、裏切りの原因となったとする説があるそうですが、そもそも毛利自体が半分裏切るつもりで最初からいたという組織的なものとしか考えられないかと思われます。吉川広家の所領は改易後で現在の岩国であり、明治維新まで続き、現在の米軍基地である岩国基地があり、錦帯橋があり、フリーメイスンリーロッジの錦帯ロッジがある土地となっています。関ヶ原の戦いの意味を考えると、基本的には豊臣から徳川への順当な政権の移行とそれに伴う豊臣旧臣の処分、具体的には石田三成の処遇であり、それに伴った大谷吉継や小西行長の死はやはり有力キリシタン大名の淘汰といったところがあるのではないかと思われます。徳川家康の時代になった場合に、恐らく最終的には秀吉と同じくキリシタン改宗は無く、禁教となるであろうし、日本の歴史、文化としてそれは妥当であり、その際に有力キリシタン大名が禁教令に抵抗して内戦となった場合には、再び戦国時代の再来もあり得るとすれば、豊臣から徳川へのほぼ順当な政権移行の際に、核となりうるような有力なキリシタン大名は淘汰して、キリシタンやキリスト教に非常に理解のある大名であっても、秀吉のように調整能力があって、日本の文化や歴史と適応を行ってその後の領地の運営をしうる人物を東軍として配置することで、その後の江戸時代のいわゆる隠れキリシタンの時代にキリスト教と日本の文化の融合が図れると考えたのではないでしょうか。この場合には石田三成という存在はまさにシンボリズムの塊であり、イエズス会に極めて近かった秀吉がそのシンボリズムゆえに重用し、日本二十六聖人の殉教の際にも執行者となったわけですが、大谷吉継や小西行長とは茶の繋がりもあり、来るべき徳川の江戸時代に向けた生贄としての礎石としてのシンボリズムの意味があるのかと思われます。裏切りで最も有名な小早川秀秋ですが、もともと秀吉の正室である北政所の兄の子供であり、木下家の五男という事で、長男はキリシタンでもある木下長嘯子であり、兄弟争いなどもあったようですが、次男と三男が小藩の大名として家が存続し、四男は西軍に与して改易され、七男が大坂の陣で豊臣家と共に散ったとの事で、小早川秀秋はその木下家の中では秀吉の養子となり、豊臣秀次に次ぐ、豊臣政権の後継者の地位にあったそうですが、秀次事件の際に小早川家に養子に出されて家督を継いで大藩の大名となっていたとのことです。養子や人質を経験した武将が裏切りの中核であったというのは、徳川家康が全国制覇を為す関ヶ原の戦いにおいて象徴的であり、そもそも徳川家康が松平元康であった時代に、人質として今川義元の下にあって、今川義元の上京の際に先鋒として尾張を攻撃した際に、実質的な裏切り行為をして、大将の今川義元がその後の徳川家康の切れない縁の盟友となる織田信長に桶狭間で討ち取られ、独立とともに徳川家康と改名して今川氏の旧領を得て大名となって出立したという当初の経験があり、吉川広家や小早川秀秋が関ヶ原の戦いの前哨戦でもある伏見城の戦いや安濃津城の戦いで西軍として奮戦しているのも、本戦の関ヶ原の戦いで適時に裏切りを行う最大の効果を上げるためであり、裏切り者の心理を最もつかむことができるのは裏切って成功した事があるものだけであり、まさに関ヶ原の戦いは徳川家康が天下を獲る為の戦いとしての演出は十全であったわけです。小早川秀秋は関ヶ原の戦い後裏切りを評価され加増となり55万石の大大名となりますが、その間重臣家老の出奔などもあるそうですが、上方から帰りの途中の鷹狩の最中に体調を崩して3日後に亡くなったそうです。酒色におぼれていたとか、世間の評判は悪かったとかあるそうですが、21歳の死という事で、慶長7年10月18日(1602年12月1日)で2121のシンボリズムという事で、その後の徳川家康と同じく毒殺なんだと思われます。ほぼ同時(慶長7年10月15日(1602年11月28日))に木下家の兄で四男の木下俊定も同地にいて病死しているそうです。もちろん小早川家という事で毛利の影響は強くあったものと思われます。




脇坂安治は没年月日で寛永3年8月6日(1626年9月26日)と626と626926とまた中心に回転対称の69を持つ対称なのだと思われますが、まあまた変な形なんですが、変な実験的なシンボリズムが戦国時代のイエズス会は多いんでしょうね。賤ヶ岳の七本槍の1人で関ヶ原の戦いではもともと徳川家康と内通していて、小早川秀秋の裏切りへの備えとして周辺に配置されていたというのですから、滅茶苦茶でしょうか。脇坂家はその後大洲藩、信濃飯田藩を経て、龍野藩で明治維新となったそうです。賤ヶ岳の七本槍は他にも片桐且元 弘治2年(1556年)-元和元年5月28日(1615年6月24日)、平野長泰 永禄2年(1559年)-寛永5年5月7日(1628年6月8日)と微妙にシンボリズムがあり、片桐且元は関ヶ原の戦いでは西軍に付きますが、戦後徳川と豊臣の調整役として活躍し、その後には家康の対豊臣に対する交渉役として働き、大阪の陣では徳川方として働き、大坂夏の陣後20日で60歳で亡くなったそうです。西暦の6月24日は本能寺の変がかなり近い6月21日でしたが、しっかりあるのはこの人の没月日のみと思われ、この人の存在が大坂の陣全般に関係し、その後の江戸時代の成立の基礎となった事を意味するかと思われます。平野長泰の868は微妙ですが、関ヶ原の戦いでは東軍に属し、その後の大坂の陣では豊臣方に付こうとしたが果たせず、江戸留守居とされ、その後明治まで大名として家は続いたそうです。7本槍というのは秀吉が考えたキャッチフレーズのようで、明確なものはないようですが、朝鮮征伐でも日本槍柱七本というのがあったそうで、恐らく北斗七星の7にもかけた、奇数の7のキリスト教では創世記の曜日の数字ですが、そういう皇室に配慮した数字のキャッチフレーズであったのかと思われます。朽木元綱は没年月日で寛永9年8月29日(1632年10月12日)とあり、21012という明確な回文数を認めるのですが、実際は関ヶ原の戦いに参加していないという説もあり、戦後に減封されたとの事もあり、関ヶ原の戦いでの動きは全く不明瞭ですが、本人は83歳まで長生きしたそうです。子孫も琵琶湖沿岸の朽木の地と共に福知山藩としても明治維新まで存続したそうです。シンボリズムを見る限り、かなり裏切りで決定的な役割を演じていそうです。長男が京極マリアの子供と結婚しているそうです。




まあ関ヶ原の戦いの武将の生没年月日であまりに細かくシンボリズム、西暦の年月日の聖人暦や回文数や回転対称数を見過ぎている感がありますが、それだけ没年月日の記録が残る時代となり、それ自体にキリスト教の影響があり、またその没年月日が当時の和暦を使用した時代で、完全にキリスト教徒のみに隠されたシンボリズムとなった事もあり、イエズス会の評価とも受け取れる数字の暗号のようなものが感じられ、興味深いという事かと思われます。まあこの日本の歴史に刻まれたキリシタンの暗号ともいうべきシンボリズムですが、こういうキリシタンの実験ともいえる日本でのシンボリズムの積み重ねが翻ってヨーロッパ大陸での近代フリーメイスンリーの成立を促し、近代の科学文明の成り立ちの一部となった可能性を考えるとなかなか感慨深いものがあり、日本人がその後の明治維新という本格的なフリーメイスンリーとの対峙の時に向けて、隠れキリシタンの時代を通して、日本人がどのようになっていくかを改めてシンボリズムの点から考察していくのは興味深いと思われます。
あまりに長くなったので、明治維新までとしていた表題を変更して、関ヶ原の戦いまでとして、ブログの章を改めて関ヶ原の戦い以後から現代までとして書き連ねることとします。
この間にシニム・ロッジでは113周年でインストレーションがあり、その前に横浜ロッジでは150周年で結構な人数が集まったようです。まあアイルランド系のスフィンクスロッジから起算して150周年という事で、出島のオランダ人のフリーメイスンを除けば、確実にロッジが集会を開いた記録という点では横浜が日本のフリーメイスンリーの最初であり、そこから大政奉還、明治維新への流れが定まり、キリスト教の日本での復活があり、日本の文明開化、近代化が始まったわけです。現在の天皇家にしてみれば、公的にも戦後のブラザー東久邇宮稔彦親王殿下がフリーメイスンであり、今上天皇陛下も昭和天皇の皇后の香淳皇后がブラザー東久邇宮の姪にあたることからかなり近い血縁関係という事で、まあ鳩山家などと同じく戦後にそろってフリーメイスンとなった、そういう認識でもまず間違いはないわけですが、実際に明治維新以降は神道の祭主としての行事を執り行っており、こういう点で、近代化としてのキリスト教信仰になりえないという宗教的問題があるかと思われます。まあ何をもってフリーメイスンと成すかというのは常にフリーメイスンリーの命題であり、それには時代と世の中の状況というものが必ず関係してきますので、まあそういう点を含めて、平成28年のこの時代に生前退位が話題になるというところで元号の点から見ていこうとなったわけです。
さてまあ実際の現代の日本のフリーメイスンリーの活動はさておき、このブログでは日本の天皇家のフリーメイスンリーとの接点、主に仏教やキリスト教を通してという事になるわけですが、その傍証としての日付と名前のシンボリズムを検証することをしているということになります。それで前編では1549年のザビエルの来日とキリスト教伝来までの後奈良天皇までの歴代天皇について、名前と元号のシンボリズム、平、光、明、そして生没年月日、即位と譲位の年月日をそれぞれ和暦と西暦についていわゆる数秘術とキリスト教の祝日の観点から見ていったわけです。結論としては日本では暦が成立した大化の改新直後から和暦、西暦ともに生没年月日、即位と譲位の年月日にシンボリズムを認め、それは常に仏教や陰陽道として様々に社会情勢に合わせて強められたり、弱められたりしながら、またシンボリズムとしても極めてキリスト教的なシンボリズムを時に認めつつ、それらがまた非常に非日本的であるというような反発を得て仏教への帰依や禅宗の広まりとともに、最終的にキリスト教の伝来を待つという形になったのかと思われます。歴史の必然としての日本へのキリスト教の伝来、それはもちろんフリーメイスンリー、キリスト教を知らないとなかなか反発があるわけですが、実際の世界情勢、キリスト教、フリーメイスンリーを詳しく知ると、それがまた必然であるというところがまた近代化や文明化という言葉でまとめられることになる、現実のキリスト教、フリーメイスンリーでもあるわけです。
さてまあ長々と前置きを書きましたが、9月はユダヤ教でも重要なヨム・キプル、スコットの月に後半が当たるという事で、9.11から始まって世の中の動きも急速な状況ですので、なるべく早く書き終えて平成28年の日本に為になるようなものとしたいと思っています。(今年のユダヤ暦の新年は10月3日から、ヨム・キプルは10月12日、スコットは10月17日18日だそうです。)
それでザビエルが献上物を捧げなかったために会えなかった後奈良天皇ですが、まあ応仁の乱などの状況でそういう懐事情もあったのかと思いますが、いわゆる戦国時代で比叡山延暦寺や高野山金剛峯寺、また鎌倉仏教後の本願寺、大徳寺、妙心寺といったいわゆる様々な権力や勢力を持った仏教集団が渦巻く京都御所であったわけで、まさに異教といえる、実は日本に伝来した仏教が常に教えとして求めていた可能性すらあるキリスト教、ユダヤ教を排斥する行動になったのはまあやむを得ないというかまさに無知蒙昧のなせる業であったのでしょうか。後奈良天皇の子供の正親町天皇106代天皇永正14年5月29日(1517年6月18日) - 文禄2年1月5日(1593年2月6日)在位:弘治3年10月27日(1557年11月17日) - 天正14年11月7日(1586年12月17日)はおおぎまちてんのうと読み、まあ即位のシンボリズムが和暦と西暦で交錯した形である程度で、没年月日はこれは公現祭に多少かかるのでしょうか。ザビエルが会えなかった後奈良天皇の没年月日が 弘治3年9月5日(1557年9月27日)で西暦で3の2乗と3の3乗のシンボリズムが認められ、後奈良天皇は伊勢神宮への宣命には皇室と民の復興を祈願したり、『般若心経』の奥書には自省の言を添えるなど、まあなかなかフリーメイスン的であるわけですが、その後の正親町天皇は実権を失っていたとはいえ、1565年にキリスト教宣教師の京都追放を命じたという事で、こちらはかなり浄土真宗の本願寺に頼ったり、のちには織田信長の上洛に頼ったりと、なかなか色々ある有名な状況でもあるわけです。後奈良天皇が60歳、正親町天皇が76歳とこの時代に天皇の寿命は飛躍的に伸びており、戦乱の中で天下人であった織田信長とかなり近しい関係になったり、その滅亡後も天下統一した豊臣秀吉に関白の権威を与えることで、皇室の尊厳がかなり高まったこともあり、また曲直瀬道三を始めとしたクリスチャンの新しい医療や健康法の導入が直接的に関係していることもありそうです。ちなみに歴代天皇でおおOOと発音する天皇はこの正親町天皇だけであり、オームの真言ではないですが、仏教系のそういう真言のシンボリズムと関係している可能性が高そうです。もちろんそれと対応して最初のキリシタン大名の大村氏があるという事でしょう。


この時代はもちろん家紋もそうですが、天下人となった織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の戦国三傑に極めて明確なシンボリズムを認める時代であり、それらが奈良時代、平安時代、鎌倉時代や南北朝時代のように仏教との関係からさらにその先に存在すると類推されるキリスト教などと考えられる時代と違い、明確にシンボリズムを重視するイエズス会を筆頭としたキリスト教宣教師の存在がありますので、それらの実際の活躍ととらえられることができるかと思います。
さてまあここから11/27以降に加筆しているわけですが、2か月の間を開けて書くというのもこのブログではかなり珍しいのですが、その間に三笠宮殿下も亡くなり、フィデル・カストロも亡くなり、アメリカ大統領がトランプ氏に決まったという事で、まあそんな感じなわけです。日本のキリスト教の歴史、天皇家の歴史は現代の国際政治にも関係しているのでしょうね。
さてさて嵐のような天皇誕生日となった12/23の本日なわけですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。まあブログの加筆もなかなか滞っている状況なわけですが、世の中の移りすぎるのは目まぐるしいわけで、そんな時代を感じる平成28年12月23日今上天皇陛下の83歳の天皇誕生日の本日に書き進めることとします。
まあいつの時代も天災やら人災やら、権力争いや仲間同士の争い、兄弟の争い、親子の争いと争い事や災害は尽きなかったわけですが、それらが日本史上特筆すべきものであったのがキリスト教伝来とその直後のまさに戦国時代であったわけです。フランシスコ・ザビエルがシンボリズムに基づいて日本で伝道を行った2年の後、真言のシンボリズムととらえられる大村氏や大友氏、大内氏といった大名とのキリスト教の関りや、近畿での権力争いに関する六角氏や三好氏、三好三人衆といった存在は数字のシンボリズムを思わせるものですし、管領家である細川氏のその後のキリスト教との接点などは細川の名前自体に恐らく何らかの音でのラテン語かポルトガル語やスペイン語でのシンボリズムがあるのではないかと思わされます。(ホセ・カワードになるようです。スペイン語のジョセフの名前のホセJosé、カワードは英語、ラテン語の臆病者の意味のcoward、一般に日本の濁らない音の川はcowardになるようです。卑怯者のジョセフ、そんな教訓的な意味の名前に響くようです。)そしてその混とんとした状況の中で現在の愛知県を中心とした地域から権力を手にする戦国の三英傑が出てくるわけですが、最終的に幕府を開いた徳川家康のイエズス会との名前の相似のシンボリズムと没年月日のシンボリズムがまあ改めて戦国時代の総括でもあるわけですが、それを踏まえて織田信長、豊臣秀吉についても見ていきましょう。
織田信長のエピソードとしては後見役の平手政秀の自決や桶狭間の合戦での神がかり的な成功、斎藤道三とのつながりとその後の斎藤家の調略、さらにその後は織田軍団を率いた各地での転戦と、仏教権力の弾圧、裏切りや調略といった軍団への統制と、安土城の建設から本能寺の変での裏切りでの死といったところだと思われます。生誕日についてはこれは城主の息子でありながらはっきりとはしないとして、この辺りが明確に旧暦の6月24日に生まれて死んだとされる加藤清正などとは異なることなわけですが、グレゴリウス暦で6月21日であるという説などもあるというようです。また死没年月日の本能寺の変は明確にグレゴリウス暦で1582年6月21日であって、これは3日ずれではあるかもしれませんが、明確なイエズス会が刻んだ夏至のシンボリズムなのだと思われます。平手政秀についても当時としては長命の62歳で自刃したことや、娘が織田有楽斎の妻であること、信長との不和の原因が五郎右衛門という息子のエピソードであったことなどから、名前も含めて、宣教師との接点がこの辺りである可能性があるでしょうか。熱田神宮との関わりや、兄弟間での凄惨な争いなどは、キリスト教でも旧約聖書のユダヤ人のエピソードを思わせる話であり、熱田神宮の御神体の草薙剣の逸話などもそれらを想起させるもののようです。織田信長は斎藤道三と舅関係でありましたが、斎藤道三ももともと僧侶の出身であるようで、名前の斎藤は自ら名乗ったもので、北条早雲のものと同じようなものであるようで、まあSaint、キリスト教の聖人のセイントとかかるのだと思われます。道三という名前も黒田如水のように、道教の思想と三位一体の融合であるようで、またドミニコ会を始めた聖ドミニコの名前に全体として相似となるようです。ドミニコ会は日本に伝道した修道会の三番目のもので、イエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会の順であり、中世のトマス・アクィナスを輩出し、キリスト教神学とギリシア哲学のアリストテレス哲学を融合した業績があるそうです。フリーメイスンリーのかつての守護聖人であった聖トマスの名前を冠した、キリスト教の聖人であり、その後のルネサンスの思想の中心となった人間中心主義ヒューマニズムの源流となるものかと思われます。斎藤道三は息子の義龍に戦いで敗れ63歳で亡くなり、その後斎藤義龍は織田信長に敗れ、稲葉山城は岐阜城と改められました。稲葉山城、現在の岐阜城の攻略において、木下藤吉郎が瓢箪の旗印を攻略の印として掲げ、その後より豊臣秀吉となる成功譚が始まるわけですが、この瓢箪のシンボルがホタテガイのシンボルと並んで、キリスト教の十二使徒の大ヤコブの巡礼者としてのシンボルであるそうです。またこの大ヤコブのカトリックの聖人暦が7月25日となっていて、真鶴の貴船神社で祝われる伝統的な貴船まつりの特定日の7月27日に近いものであるようです。大ヤコブの遺骸がレコンキスタの最中に発見されたとのことで、スペインの守護聖人とされるそうで、スペインバスク地方出身のイグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルを設立者とするイエズス会に結びつけて表されているようです。






(追記:2019/2/11 2番目の写真は大徳寺の秀吉が一周忌で作らせた総見院の織田信長像ですが、明らかに烏帽子のところに十字が刻まれていますね。この時期の秀吉が強くキリスト教に影響されていた証拠であり、かつ信長自身の運命がキリスト教の下にあったことを強く反映させているものと思われます。なかなか貴重な資料と思われます。)
さてこの間でほぼ一年近くたってしまったブログですが、皆さんお元気でしょうか。2017年6月24日の近代フリーメイスンリー結成300周年の今日なわけですが、こんなブログの加筆で良いでしょうか。日本におけるフリーメイスンリーのシンボリズム史といったテーマなわけですが、まあキリスト教伝道前とキリスト教伝道後、そしてフリーメイスンリー到来の明治維新後という形で3つに分けそうですが、元号も変わりそうな平成29年の完成を目指していこうかと思います。
さて戦国の三英傑とイエズス会の伝道といった話になるわけですが、現在の岐阜、愛知、静岡を拠点とした3人の天下統一を果たした日本史での超有名人ですが、どうも名前や生没年のシンボリズムから見る限り、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の順に天下を治めたのは全てイエズス会の差配の限りであった模様です。まあこういう事を言うと、キリスト教や当時のヨーロッパ、イエズス会の伝道についてある程度知っている人にとっては、まあ当たり前といえば当たり前の話であり、日本史の常識から言えば非常識であり、何を言っているのかという話になるわけですが、シンボリズムの観点から言うと、近代フリーメイスンリー結成の秘密ともいえる重要な出来事となるのだと思われます。
まただいぶ間が空いてしまいましたが、内容的にはイエズス会などの相当の文書を読まないと書けない内容になってしまっていて、時間がかかるのもしようがないのですが、そこまで一気に読むことはできないので、現在途中まで読んでいるところで、私のこのブログの内容と非常にリンクする内容の本という事で、以下のキリスト教、イエズス会の目線から見た安土桃山時代の日本のキリスト教史を記録から淡々と概説する内容の聖母文庫の高木一雄氏の「関西のキリシタン殉教地をゆく」を紹介します。
カトリックの本という事で、ほぼ正式にイエズス会の文書に準拠した内容になっているかと思います。これによると、織田信長の子供たちは皆キリスト教会に非常に心を寄せており、信長の死の19日前の自らを神とする布告のために本能寺の変で亡くなったとのことです。また秀吉は自ら教会に赴きキリスト教の洗礼を受けようとしたこともあり、また秀吉が禁教令に傾いた経緯も具体的に描かれており、朝鮮征伐の動機もかなりキリスト教が影響していたこともわかり、後の秀吉の老境での混乱の原因ともされる秀次もキリスト教にかなり同情的であったことなどが分かります。大谷吉継の洗礼なども書かれており、戦国武将のキリシタンの洗礼が分かりやすくなっています。また日本人にはなかなか分かりづらいイエズス会とその他の修道会、フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチノ会の関係が非常にわかりやすく書かれています。
イエズス会士は最大でも100人程度が日本にいたのみで、それでいかに日本にキリスト教が根付くかという試みと、最後まで武力による制圧を行わないという事を守り、1588年8月8日のスペイン無敵艦隊の敗北をきっかけとして、その後の流れをイギリス、オランダの新教国に引き継いでいくのが、まさにフリーメイスンリーへの転換であり、ユダヤの六芒星を作ったという、イエズス会のシンボリズムのエッセンスはそのままフリーメイスンリーへと受け継がれていったようです。そういう意味では日本では散々に異なる人物として描かれる、戦国の三英傑ですが、キリスト教、イエズス会からすれば本質的には同等で、まさに修道会を意味するオダのシンボリズムと、ヨシュアを隠すというヒデヨシのシンボリズム、そして最後に権力を掌握し、そのためにイエズス会の後のフランシスコ会と関りが深く、スペインとつながりを持った、名前はイエズス会のシンボリズムそのもののイエヤスと、それぞれ宗教的にはキリスト教徒とはなりえず、そしてその結果いずれもキリシタンに囲まれた中で落命することになったようです。家康に関しては、以前にも触れた没年が1616年6月1日と明確なシンボリズムが描かれるわけですが、その前兆ともいうべきヨーロッパのキリスト教の当時最新鋭の技術の粋である時計の贈与が1606年から何度か行われたようで、現在も久能山東照宮に残るゼンマイ時計なども、まさに砂時計や大鎌のシンボリズムと同じく、死の時を刻むシンボリズムそのものであるようです。
はてさて、これで何回目の加筆になるのかわかりませんが、長編小説のようになってきました。文豪谷崎潤一郎由来の土地に住んでその影響かもしれませんが、なかなかヨゼフ病院時代とは内容も書き方も変化が著しく、ブログとしてまとまりを維持するのが難しそうです。2017年平成29年10月8日の加筆という事で、この章を書き始めてから1年以上経ち、フリーメイスンリー300周年のUGLEのイベントである10月31日のロイヤルアルバートホールでの記念式典に間に合うように書くのが望ましいのでしょう。
このブログでのこの章の内容は、日本の歴史におけるフリーメイスンリーのシンボリズムを認める、主に歴代天皇や権力者の生没年月日や元号や名前のシンボリズムを取り上げて、考察するわけですが、同時に平成の天皇退位、元号変化の予定もありますので、それに合わせてのフリーメイスンリー的考察という事になるわけです。
それで、まあ仏教伝来が一つの日本の天皇家などでのフリーメイスンリーシンボリズムの表出の一つの要素であったわけですが、その後のより大きなフリーメイスンリーシンボリズムの現出のきっかけが、1549年8月15日のザビエルの来日でのキリスト教伝来であったわけです。まあもちろんその後は明治維新で、太平洋戦争の終戦となるわけですが、この章は3章に分けた真ん中のキリスト教伝来から明治維新までという事で、戦国三傑とキリスト教と、その後のキリスト教禁教時代の徳川幕藩体制と京都での天皇家に着目していくことになります。
さてここからはさらに平成30年12月16日の加筆という事で、ブログの1ページでありますが、2年の長きにわたっての推敲、加筆という事になりますでしょうか。新たに2冊の織田信長関連の本を読破して、まあイエズス会=フリーメイスンリーの生みの親としての論を強くしてなおかつ、ザビエル以降のシンボリズムの表出がキリスト教伝道に伴うものであり、戦国の三傑がイエズス会によって生み出されているという論を補強したというところです。
さてまあ信長公記を読んでみた率直な感想としては、織田信長は非常に非情な人であり、基本的に城攻めでは全滅戦であり、裏切りや降伏は一切許さず、部下にも一切の不服従を許さない、典型的な専制君主であり、裏切りや暗殺を試みられることたびたびで、そのたびに幼いころからの訓練の賜物の優れた武力と騎馬力で前線での戦いや危機を乗り切ってきていました。若いころから遠駆けや鷹狩が大好きで、相撲も好きであって、そのために腰に瓢箪をたくさんぶら下げていたという有名な描写もあり、スペインから来たイエズス会士には巡礼者の象徴として気に入られていたことが想像され、それを部下の木下藤吉郎が旗印に取り入れたことも納得しやすい部分ではないでしょうか。「信長と十字架」ではフロイスと信長の岐阜での面会が京都上洛後となっていますが、ザビエルの死と信長の父親の信秀の死がほぼ同時期であり、初期の段階でキリスト教の宣教師は日本全国を巡っており、織田order、修道会、秩序の発音に繋がる、この若者の事をイエズス会は把握していて、応仁の乱後の六角氏、三好三人衆といったシンボリズムの権力者での表出と、京都からの宣教師の追放令という日本の伝統勢力との対峙していた時期に、混乱から秩序をもたらすキリスト教布教に有力な人物として挙げられたことは想像に難くないと思われます。元服時の三郎信長の名前も、その後のキャッチフレーズの天下布武も、教育役であった平手政秀の自死後の後見人としての、京都妙心寺の僧宗恩沢彦の発案という事で、竜樹ナーガルージュのナーガ、蛇神、龍神の名が入っていて、これを信仰するという意味の名前であり、仏教的にインドの信仰に近づいたシンボリズムを含んだ名前という事が出来るかと思います。信長の近くには長良川という、これまた長の入った象徴的な地名もあり、当時の戦国時代には長尾景虎という、仏教を信仰した武将や、長続連といった、長そのものの武将もあり、これらもまた当時の仏教系のシンボリズムの流行であり、織田の家系が神社の神官の家系であったことと、宗教的にバランスをとるものがあったようです。ナーガのシンボリズムはイエズス会の本拠が長崎に置かれたことで最も強調され、オームの真言の大村氏が寄進したのですが、ナーガサック(Naga Sack or Sac)で恐らくナーガを治める袋という意味となり、聖書では蛇はアダムとイブに知恵を与えるものであり、楽園追放のきっかけを作った邪悪な存在であり、龍は中国皇帝の象徴で、聖グレゴリウスが退治する恐らくモンゴル人の象徴であり、フリーメイスンリーではグノーシスの象徴の尾を噛む循環する輪としての蛇となるのだと思いますが、ナーガ自体は恐らく男性器の象徴ととらえられ、生殖、繁殖の象徴として、黄色人種の旺盛な繁殖力を制御する、仏教に象徴されるインドから東アジアへのアジア人をキリスト教で制御するという意思の表れであったのかと思います。(ナーガサックNaga Sacでやはりナーガを生贄にするという意味にも取れるようです。)長崎の地名自体は半島の形からきているわけで、それは能登半島を治めた長続連の名前とも関係するでしょうし、現在に残る長野の地名の善光寺の門前中町の坂の地形からきているのと同様と思われます。シンボリズムから見る限り、織田信長を改宗させる意図はなく、織田信長にイエズス会が求めたものは仏教の秩序であり、それはまさに比叡山焼き討ち、本願寺討伐、恵林寺の焼き討ち、高野山への圧迫という、仏教勢力の弾圧であり、織田信長でOrder Noble Nagaまさに高貴なナーガの修道会という名前通りの働きとも言え、一方で伊勢地方の一向一揆を過酷に討伐し、伊勢神宮に盛んに寄進をして、武田討伐では諏訪大社は焼き討ちするという、明治維新後の国家神道の方針に似た、伊勢神宮重視の宗教政策であったのも、織田信長自身の出立のきっかけであった上京しての足利将軍の奉職を促した正親町天皇の宣旨をもたらした人々が、吉田神社の吉田神道につながる万里小路惟房と磯谷久次と立入宗継であったこともあるのだと思います。


立花京子氏の「信長と十字架」によれば、これら桶狭間の戦い後の信長に上京と足利義昭の将軍就任の補弼を促した、決勝綸旨という形の天皇宣旨を計画した人々は、清原マリアで知られる、吉田神道につながる、清原枝賢や吉田兼右らは姻戚であり、潜伏キリシタンであるとのことで、それらは結局イエズス会が計画して、それに天皇家や公家が乗る形で織田信長を操っていたという論になるようです。
さてまあまた繰り返しになり非常に読みづらい文章で恐縮ですが、織田信長のナーガのシンボリズムですが、これは同盟関係にあった妹のお市の方が結婚した浅井長政の改名後の名前の部分であり、また織田信長が集団戦で鉄砲の効果を知らしめた長篠の戦の地名でもあり、大規模な虐殺で有名な長島一向一揆の地名であり、浅井長政の姉妹にも京極マリアなどもおり、近江の琵琶湖の辺縁で、後の居城の小谷城は羽柴秀吉によって長浜城と改名されますが、そういうナーガのシンボリズム自体も仏教のリバイバルとして特に琵琶湖周辺で恐らく比叡山、三井寺の天台宗を中心として行われていて、結局のところ南蛮船の渡来によるキリスト教の伝来は同時にインド仏教、中国仏教の再興、インド文化、中国文化の流入を必然的に伴っていて、その中心にシンボリズムとともに選ばれた織田信長、豊臣秀吉、徳川家康がいたという事になるようです。(追記:長のつく名前では秀吉の妻の家系の浅野長政、浅野幸長、前田利長など秀吉の類縁とやはり琵琶湖周辺での経過と関わる戦国大名であり、それも一代目ではなく二代目以降で継続の意味も込められているのだと思いますが、そういう命名の傾向もあるようです。また日本史自体ではこの前の章では触れませんでしたが、藤原氏黄金時代の藤原道長がおり、これも仏教への帰依が強く、名前からは道教やキリスト教のミカエルの名前の意味も重なっているようであり、まあそういう道教、仏教、キリスト教の習合した黒田如水のようなシンボリズムもあるのかと思われます。日記を残しており、康保3年(966年)~万寿4年12月4日(1028年1月3日)という生没年月日であり、3日の死去というのは一応シンボリズムのようであります。長子の頼通が平等院鳳凰堂を建築して対称形の美を残し、世界遺産となっています。)
信長に関しては尾張での青年時代に蛇池神社での逸話も信長公記にはあり、織田信長の寄進した瓦塀も有名な熱田神宮の八岐大蛇に繋がる草薙の剣のご神体もあり、最終的には安土城での蛇石の崇拝が決定的で、密接にイエズス会と協力関係を築き、安土セミナリヨでカノンにつながるオルガンの音色も聴きながら、自らを神とする布告をもってイエズス会に見限られてその一生を全うしたという事になるようです。生年月日もほぼ西暦の6月24日近辺という事で、没年月日のグレゴリウス暦での6月21日というのも綿密にイエズス会のオルガンティーノ師を中心に練られた計画通りでしょうし、その直前に「信長と十字架」によれば織田信長が曲直瀬道三とともにグレゴリウス暦について検討していたというのも何ともイエズス会の与えた運命の皮肉という他ないわけですし、狩野永徳に書かせた安土城屏風がいまだ行方不明というのも、これまたカトリックという組織を説明する何よりの事象のように思われます。本能寺の変が法華宗の寺というのも33の観音のシンボリズムに極めて接していて、本能と理性という構図が、反乱者の明智光秀のシンボリズムに表れるというのも、これまた何とも織田信長を象徴する事例のようです。お市の方との関係や、その他尾張、美濃での同族を裏切っていく様子や家臣に対する対応など、そういう様子があり、武田攻め後の東海道帰還などでその様子は限界を呈していて、また楽市楽座の話や、琵琶湖の竹生島参り後の家臣や女房を殺した話や、評判が悪くなって城下の祭りで裸踊りをしたなどのエピソードや、浅井一族の髑髏の話なども、日本統一に関しては全く不可能という見解が朝廷、イエズス会共にあったのは確実かと思われます。特にキリスト教、ユダヤ教で重視する女性関係、斎藤道三の娘の帰蝶の正妻との関係、側室との関係、お市の方との関係、男色のことなどもあり、いずれにしてもナーガのシンボリズムに強烈に彩られた織田信長がイエズス会とほぼ行動を一にしながら天下統一の基礎を築き、豪華絢爛な安土桃山時代の文化の礎を築き、自らのアジアのシンボリズムのゆえに、創世記の蛇のように日本人に知恵を残して消えていったというのが、シンボリズム的な織田信長という事になるのでしょうか。恐らく認識の範疇では織田信長はキリスト教や西洋文明を把握、理解しながら、行動としてはそれらに準ずるようなものは無かったというのは、三英傑に共通する、当時の日本人の常識や認識の当然の帰結であったのではないでしょうか。



ちなみに羽柴秀吉は三木城や鳥取城攻めの前のあたりの中国攻めの時点で独自で和議を交わしての城攻めを行っており、そちらの方が明らかに統一に向けて合理的で、信長後の秀吉の天下統一の過程ではそれらが多数認められるわけですが、それに対して信長が激しく叱責して、その後の三木の干殺しや鳥取の渇え殺しに繋がる攻城戦となり、最終的に高松城での水責めの最中の本能寺の変というタイミングも、織田信長の武人としての限界もあるのだと思われます。また徳川家康との関係では明らかに桶狭間の戦いの際には松平元康の今川義元の陣の配置に関して裏切りが示唆され、それがどの程度のレベルであったかは不詳ですが、恐らくその事象からの織田信長との切れない縁となっているものと思われます。桶狭間の戦い後に松平元康から最初松平家康へと改名、その後徳川家康と改名するわけですが、最初の家康への改名は松平家を意識したものと思われ、恐らく偶然と信長のようにシンボリズムの必然があり、本人の意識としては完全に偶然にイエズス会に似たものとなったようです。その後の徳川への改名には近衛前久の助力があったとのことで、もともと時宗の僧であった松平家の系譜と、賀茂神社の末裔が多く占める三河武士の棟梁としての立場から、源氏の末裔としての格付けがなされ、この時点で天下統一への道が出来たと考えられるかと思います。(2023.3.13追記:時宗の僧が松平家の由来というのも宗教的にはイエズス会から支持されるシンボリズムの要素だと思われます。時宗開祖とされる一遍の生没年の鎌倉仏教でのシンボリズムは白眉です。)徳川でTのシンボリズムとなるのは、恐らくイエズス会にお目付け役としてフランシスコ会の修道会のものが入っていたと推測されることと、川の治水などの意味を込めたのではないでしょうか。鴨川や長良川、木曽川、揖斐川、利根川などの川全般の意味も込められているかと思います。朝廷的には関東域での開発において、治水が最も大事な公共事業であったと思われます。徳川家康と織田信長を比較すると、ヤコブの子ヨゼフの兄弟に捨てられながらも裏切らないエピソードなども思われ、イエズス会が人物選定の際の基準としていたことが強く認識されるかと思います。
またこの時期の特筆される事象として本能寺の変後6年で1588年8月8日のアルマダの海戦で新旧教国間で世界規模の決戦があり、英蘭軍が勝利して、世界はスペイン、ポルトガルのカトリック国による二分から大英帝国の時代と、フリーメイスンリーの時代に変化していくという事でしょうか。その最初のきっかけはキリスト教的な視点から見れば、これら織田信長の時代にあると言えるのかもしれません。その後の関ヶ原の戦い直前に三浦按針とヤン・ヨーステンらが日本に漂着し、大坂夏の陣などで決定的な役割を演じるのもご存知の通りかと思います。
ちなみに織田信長の石造技術としては、明らかに安土城は石垣山城の前身の技術であり、石垣山城では山頂付近に井戸を設けるというのがあるのに比べて、いわゆる乱積みともいわれる、野面積みであり、その多くが観音寺城からの石材の使用が想定され、それらではやはり安土のシンボリズムと同等で仏教、キリスト教双方の協力が考えられるかと思います。やはり石垣山城での石造技術が決定的にキリシタン主導で行われるものになったようです。石造技術とシンボリズムの表出、伝来の一致がまさにフリーメイスンリーといえるかと思います。ちなみに土のシンボリズムはやはり陰陽五行とともに、プラトンの四元素説が混じったものであると考えられ、十字も含まれていて、イエズス会のフリーメイスンリーにつながるシンボリズムが見て取れます。安の字に女性が含まれていることなどは信長の嗜好を思わせ、また安土自体が弓道場の築山であることなどもその嗜好を強く思わせるものかと考えます。(2023.3.13追記:信長の母である六角氏出身の土田御前の話が抜けていますね。安土城自体には実母である土田御前との関係が強く影響していると推測します。それ自体はカトリックでのマリア信仰に近いかもしれません。まあマザコンといえばいいのでしょうかね。)安土城の装飾や建築も、信長公記で読み解く範疇では、中国文化の道教や儒教の思想を強く反映したもので、仏教というよりは法華経のナーガのシンボリズムを強調したもののようで、信長自身の思想がフロイスの表現する通り禅宗に影響された無神論という通りなのではないかと思われました。アヅチの音に関しては恐らくアツタ神宮の影響が考えられ、アッツイのアイヌ語での海の表現に近づくのでしょう。近くの観音の音のカンノンが恐らくアイヌ語表現と関係することとも関係するようです。(追記:観音はカムイのという表現になるようです。カムイが直接的に観音になっているのでしょうかね。三浦半島では鴨居という地名と観音崎は近いのでわかりやすいですが、なかなか謎のようです。)最終的に本能寺の変の際に織田信雄がこれを爆発して燃やしてしまったというエピソードは、松永久秀の最後の話もありましたが、信雄は伊勢の一揆を鎮圧していて、信長が非常に叱責していた子供であり、親子関係の事もあり、キリスト教の洗礼も受けていたとのこともあり、安土城の屏風のエピソードと合わせて、まあキリスト教的な最後であったのだと思われます。織田信雄とその一族もそれぞれその時代としては長命であったこともキリスト教の洗礼と掛け合わせられるのだと思います。織田一族のほとんどがその後洗礼を受け、長寿であったというのも織田信長を考える上で重要な要素かと思われます。織田信雄の養子先の神戸家の名前が、その後の開港地の名前となって、現在まで続いているのも関係があるのかもしれません。

織田信長に関してのシンボリズムで追加するものとしては、琵琶湖に浮かべた大船の事があり、天正元年(1573年)に足利義昭を追放する直前に琵琶湖の周辺の平定のために丹羽長秀に作らせたものという事で、ローマ皇帝のカリグラを思わせるような事象であり、シンボリズムに平行して、イエズス会による影響もあるのではないかと思われます。この後には瀬戸内海と伊勢地方から軍船を派遣して、シンボリズムとしての意味合いが強かったと思われる大船は小舟の材料としたというのも、実用性を重視したという事で、そういうエピソードと思われます。また蜂屋頼孝という家臣がいて、信長時代に馬廻り衆から大名になっていて、その後秀吉配下となるも没落していくのが、同様な丹羽長秀や、柴田勝家と似ているところがあり、いずれもシンボリズムを認め、蜂、羽、柴となるわけですが、まあそれぞれシンボルとして成立するわけですが大丈夫でしょうか?養蜂に関しては記録としては日本書紀の時代からあることにはなっているそうですが、本格的な養蜂は江戸時代とのことで、砂糖菓子が大量に増えたイエズス会宣教後の状況と合わせて、養蜂技術に関しても宣教師が相当に関わっていることが、これら家臣名のシンボリズムからも推測されるかと思います。木下藤吉郎にまた初期のころから蜂須賀小六という部下がいたのも偶然ではなさそうです。また馬揃えの際に象徴的であったクジャクの羽もまた鳥のシンボリズムであり、三井寺で孔雀が現在も飼育されているのが、鳳凰への連想もありシンボリズムと考えられます。また天下布武の印の楕円も「信長と十字架」の説の通りシンボリズムと考えられます。信長に関しては刀剣を褒美として与えることが非常に多く、本人も収集して、積極的に作成させていて、もともと織田剣神社という由来もあり、まさに騎士団のシンボリズムとなります。




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織田信長の家臣で著名なキリシタンとしては、よくわからない理由で追放されたとされる佐久間信盛がおり、また後に羽柴秀吉傘下となる黒田如水や高山右近などが有名です。足利義昭と織田信長の間にたった、和田惟政もこの時期で顕著な没年月日のシンボリズムを認め、享禄3年(1530年)~元亀2年8月28日(1571年9月17日)であり、没年月日の対称形の71917の並びはこの時代この人唯一のものであり、和暦でのシンボリズムと合わせて、グレゴリウス暦の直前のユリウス暦の時代であり、キリスト教布教に協力した武将としてその影響が大きかったことが伺われます。(追記:姫路城を大規模改修した織田家重臣池田恒興の子供の池田輝政が永禄7年12月29日(1565年1月31日)~慶長18年1月25日(1613年3月16日)で、没年で明確な613316の対称形のシンボリズムを示していました。池田輝政のキリスト教との接点は摂津池田氏がキリスト教布教の一大地であったことと、家臣にいた同族の池田教正が有力なキリシタンであったことがあり、姫路城の十字の瓦の事もあり、クリスチャンに近かったのだと思われます。)没年月日のシンボリズムとしては、織田信長の上京や明智光秀の謀反に関わったとされる現在に繋がる熊本細川家の初代と目される細川幽斎と、吉田神道の始まりとされる吉田兼倶の孫である吉田兼見は従兄弟関係であり、同日慶長15年8月20日(1610年10月6日)に吉田神社の近傍で亡くなったとされることが、まあ具体的な本能寺の変から関ヶ原の戦いに至るまでの当時の日本政治の中枢にいた人物であったことの象徴と思われます。いずれも1と6にまつわるシンボリズムであるのも、2×3=6の数秘術となるようですが、その後の徳川家康の1616年6月1日の命日に繋がるようです。また吉田神社自体は6角形と8角形の社殿を1601年に建設しており、六角氏が6角形の社殿を元とすることと合わせて、その後の8角形が安土城でとられた形であることと、ハチの発音が蜂にもつながることや、蜂の巣が6角形であることなども併せて、イエズス会のもたらしたキリスト教と習合した日本神道の新たな形として、それは明治維新後にさらに復興することになるのだと思われますが、明確な没年月日のシンボリズムであると捉えられるようです。吉田は恐らくヨシュアとダルマJoshua Darmaの合成と捉えられ、細川は以前にも書いた通りホセ、カウアー Jose Cowardとなるのだと思われます。いずれも吉田茂や近衛文麿など太平洋戦争終戦時に同様に同じ苗字や末裔が活躍するのもペリー来航時の吉田松陰のように韻を踏んだような形になるようです。和田に関してはWar Darmaとなるのでしょうか。まあ日本人の名前のシンボリズムについては相当日本人にとっては理解しがたい部分があるようですが、キリスト教を主とする日本国外からの影響を考慮するとこういう様相になるのは当然でもあるようです。

さてでは次に三英傑二人目の豊臣秀吉になるわけですが、幼名は日吉丸という名が有名ですが、これは後から付けた可能性が高いとのことで、日吉神社が比叡山発祥の山王信仰に基づくもので、三位一体の形を漢字の形から含んでいるとのことで、信長の恐らくイエズス会主導であったろう比叡山焼き討ちの影響が垣間見えるというところでしょうか。もともと木下藤吉郎という名であるので、幼名も吉の字が入る可能性は高いようですが、名古屋の中村公園近くを出生地としているとあり、中村公園横の常泉寺にお手植えの柊があったりしましたが、まあどこまで本当かは全く不明ですが、出自がはっきりせず、織田信長後の後継者としてイエズス会に選ばれ、皇室や朝廷からはやや嫌われた感がありつつも全国統一して、関白就任し、朝鮮征伐をはっきりした理由不明に開始した経過を見るとやはり飛鳥、奈良時代以降の朝鮮からの渡来人家系であったことが最も考えられそうです。秀吉自体が父親の存在を嫌っていて、その存在自体を歴史上から消滅させた可能性が強いようです。秀吉の姉は長命で、息子たちを全てなくし、特に秀次は孫のほとんどを殺され、唯一秀勝の娘完子が九条家に嫁いで、その子孫が大正天皇の皇后である貞明皇后へと繋がり現皇室につながるようです。この朝鮮征伐の途中で亡くなった羽柴秀勝はキリシタンで洗礼を受けているそうです。また秀吉の妻の北政所の出身の木下家、浅野家はそれぞれ大名として江戸時代も存続したようです。北政所の侍女にはマグダレナという洗礼を受けたものがいたそうです。この木下家の木下長嘯子はキリシタンであったようです。秀吉の血縁者でのキリシタンと目される人物は淀殿の繋がりからの京極高次に嫁いだ浅井三姉妹の常光院や豊臣秀勝と徳川秀忠に嫁いだ崇源院がいて、崇源院の娘が上述の九条家に入った完子であり、崇源院はいわゆるお江として知られる女性で、娘や息子が千姫や徳川家光であり、千姫はその後豊臣秀頼と婚姻し、大坂夏の陣後は桑名藩の本田家に入りますが、姫路城に移ったのち生まれた子供たちも次々と亡くなり、江戸城に戻ったそうです。千姫と共に鎌倉東慶寺を支援したのが秀頼の側室の子供である天秀尼であり、東慶寺にイエズス会の紋の入ったキリシタン聖餅器があり、駆け込み寺として知られていますが、その周辺で江戸時代のキリシタンとしての接点があったようです。

まあいきなり血縁のキリシタンの話になってしまったわけですが、秀吉の場合は実子のうち成人したのが公的に秀頼しかいませんので、実際は全く似ていないという事もあり、秀吉がその他に数多くの女性関係がありながら子供がいないことなどからも、大野治長の子と考えられるようであり、実子についての話はないという事になるかと思います。秀吉自身が禿ネズミと信長に呼称される容姿で、右手に指が6本あったという人物であり、人たらしで知られる人格ではありますが、漢字の書の教養は一切ないという、日本史上今後も現れないであろうという、世界史上でもかなりまれな権力者となった農民階級の人物であり、その出自と幸運に恵まれたキリスト教布教の過程での優秀なキリシタン武将に囲まれての天下統一の過程で、三英傑の中で最もキリスト教に近づいたとされており、カトリック側によれば、自ら教会を訪れ、数多くの妻帯を認めれば入信してもよいと発言していたという事です。(追記:世界史中では農民階級から権力者となった人物としては中国の漢の劉邦や明の朱元璋が有名かと思います。いずれもその後の三国志のシンボリズムに繋がったり、明のシンボリズムにつながるなどシンボリズムとの関りはあるようで、特に朱元璋は天暦元年9月18日(1328年10月21日)~洪武31年閏5月10日(1398年6月24日)と没年で織田信長の如きシンボリズムを認めており、明の建国に明らかにその当時はキリスト教と思われますが、そういうヨーロッパの影響があったことが伺えます。朱元璋は白蓮教徒でしたのでそのためと思われます。ローマ帝国やヨーロッパの古王国でのシンボリズムについてはキリスト教関連ですのでこの場では考察しませんが、直接的に農民階級から権力者になった例は東ローマ帝国などで認めるようですが少ないようです。)立身出世の過程でも貪欲にシンボリズムを取り込んでおり、最初はイエズス会のスペインの巡礼者のシンボルとなる瓢箪を岐阜城攻略の際に旗印とし、織田信長の家臣筆頭であった丹羽長秀と柴田勝家から、その明らかな聖書に関わるシンボルの部分の名前を合成して羽柴と名乗り、秀吉としてHide Yoshuaとなる発音の名前を名乗るのは明らかに織田信長周辺にいたイエズス会と接点を持っていたことが想像され、それがまさに本能寺の変後の中国大返し、柴田勝家との決戦での賤ケ岳の戦いでの美濃大返しを可能にするキリシタンネットワークが想像され、また黒田官兵衛、高山右近、中川清秀といったキリシタンやその周辺の人々が配下で天下取りに大活躍し、後に浪人となった高山右近を保護した前田利家は柴田勝家を裏切って秀吉の勝利を決定的にした同盟者であり、一説にはオーギュスチンと洗礼を受けていたとの話もあり、秀吉自身も含めて、当時の日本のキリスト教全盛時代が伺われるでしょうか。




秀吉の時代は信長の時代と決定的に異なるのは、その関白就任を為した直後から大地震にたびたび見舞われていることであり、関白就任直後の天正13年11月29日(1586年1月18日)の天正の大地震が最初で、若狭湾に大津波があったそうですが、その翌年に秀吉は教会を訪れたとあり、地震とキリスト教を関連させていたとも考えられます。秀吉は賤ケ岳の戦い、小牧長久手の戦いを経て、紀州、四国を平定し、その後九州征伐に乗り出すわけですが、この際に日本準管区長ガスパル・コエリヨ神父と博多で面会した際に葡萄酒を飲みながら突然怒り出したとのエピソードが「関西のキリシタン殉教地をゆく」には描かれており、「川角太閤記」には長曾我部軍と毛利輝元軍と豊臣秀長軍などの間で兵糧などで連携がとれておらず、九州の地元の勢力に敗退し、その後に秀吉自身が九州に赴いて直接金を兵士に渡して兵士を鼓舞して島津を降伏させるまでに至る経緯が描かれており、その後の統治においても一揆が繰り返されて、黒田如水なども統治に苦労する様子が描かれています。九州でのキリスト教の布教の影響とそのための寺社仏閣の排斥や、奴隷貿易などの話、常に織田信長や豊臣秀吉の武器類の後援者であった大友宗麟の洗礼と、その後の耳川の戦いの敗北と、島津の九州統一への動きを鑑みて、キリスト教の受洗まで傾いていた天下人秀吉は布告のみであっても侍医の施薬院全宗の影響もあって、伴天連追放令の布告となり、直接的には高山右近の追放になったという事です。私はこの日本の歴史上かなり重要な判断は、様々な要素によって出来たものだと考えますが、当時すでに明制圧を構想していて、明や朝鮮にも使者を送り始めていた秀吉の海外に関する情報は多くがイエズス会によるものであったでしょうし、秀吉の日本統一の過程でも、その後の朝鮮討伐でもキリシタン大名と宣教師は兵士と共に行動しており、統一や占領の過程で現地の布教活動、その周辺の情報収集を行っていた形跡があり、秀吉の日本統一から朝鮮征伐に至るまでの征服活動の動機がそもそもキリシタンによる布教に随伴していたと思われる節があります。また秀吉と秀吉の周辺の親族や家臣らも本能寺の変後の出立の過程でキリスト教に理解を示していた状況があり、九州征伐で大友宗麟は島津に追い詰められて、秀吉の島津攻略の過程で亡くなるわけですが(追記:大友宗麟の没年月日は天正15年5月6日(1587年6月11日)でやはりここで6と1のシンボリズムが出るようです。)、恐らく本能寺の変の様々な実際の計画を構想した可能性が高いのが大友宗麟であろうし、そういう状況も秀吉が考慮したでしょうし、また伴天連追放令自体には大名がキリシタンであっても領民がそのまま全員キリシタンになるのは、信仰の問題でありおかしいので、自由にすべきであるという、人権宣言にも匹敵するような信仰の自由の発想があり、キリスト教そのものを否定する内容とはなっていないという部分があり、文章を考案した施薬院全宗自体も師の曲直瀬道三がクリスチャンであり、キリスト教の発想そのものから、本当の信仰とは現在の日本のキリシタンの状況ではないという、そもそもイエズス会が意図した内容ではないかと推測されるものがあるという事です。またこれはかなり飛躍した部分がありますが、その後の秀吉の心身の失調の過程が様々に読み取れる記述が残っている、家来の前で失禁したり、居眠りしてしまったりしたという伝承から考えると、九州征伐を行った50歳ころから、このコエリヨ神父と葡萄酒を一緒に飲んだりしている様子から類推して、イエズス会の差配であてがわれた、当時日本人にはほとんど未知の病気であった梅毒感染が成立していて、神経梅毒の症状を呈していて、判断力と共に心身機能の低下をみとめていたのではないかと想像されます。こういう神経梅毒と関連したと思われる誇大妄想や被害妄想的な独裁者の様子は近代ではドイツのヒトラーの疑惑や日本では明治天皇などがありますが、キリスト教布教の過程で明らかにイエズス会の体制とは矛盾する日本の独裁者の漁色の状況は明らかに自業自得の問題として、当時新大陸からコロンブス経由で世界に広がった梅毒を日本にもたらす可能性があるかと思われます。明治天皇に関しては秀吉が本拠とした伏見に御陵を造成するという共通点も存在します。秀吉の梅毒説は俗説としてありますが、ミイラ化した豊国廟の遺体の検査は公的には明らかにはなっていませんが、秀吉当時の日本においても十分な動機がない朝鮮征伐は厭戦気分が広がり、最終的には秀吉の死に繋がる原因ともなったとも思われ、この時期の秀吉の行動を説明する一つの理由として梅毒による影響は合理的ではないかと思われます。また秀吉は晩年には歯が全て抜け落ちてしまったとあり、これなどもイエズス会からもたらされる砂糖菓子などの影響なども推察され、獏の枕なども豊国神社にはおかれていましたが、様々な方法で秀吉を籠絡しつつ、それに対して秀吉が様々に対応した、そうした中での伴天連追放令というのがあったというのが、実際のキリスト教布教の過程での歴史なのではないかと思われます。

まあこの事を端的に要約すると、秀吉はその出立の過程で非常にキリスト教に近い心境を持っていたが、その行動からキリスト教徒たりえず、逆に伴天連追放令を布告し、その信仰を試すように高山右近を追放したが、積極的にキリシタンを圧迫することはせず、むしろ全国統一、朝鮮征伐などではキリスト教の布教に加担する結果となり、恐らく梅毒感染の心身の失調もあり、その後の後継ぎとされる子供の誕生などもあり、これまたキリスト教に近い考えであった秀次を殺し、はっきりした動機が不明な朝鮮征伐を続けて、厭戦気分の中で衰弱して死亡したという事になるのかと思われます。
それでまあ九州征伐の間に豊臣姓を賜り、九州征伐後に伴天連追放令、関東、奥州への惣無事令を発布し、刀狩令を発布して鶴松が誕生するわけです。豊臣姓については、源平藤橘と同じ本姓であるという事で、まあ苗字と異なるとかいろいろあるようですが、聖徳太子の別名である豊聡耳皇子からの引用とか豊原と中臣の合成であるとか、まあ豊川稲荷とかあったりしますが、説は色々あるようですが、いずれにしても現在の自動車メーカーのトヨタと音が近いなどあり、音だけで行くと徳川家康が支配していた遠江トオトウミに近い音になり、まあ何らかの関連があるのかもしれません。英語でいけば、To You To Meでしょうか。Hide Yoshuaと合わせれば、あなたにも私にもヨシュア(イエス)はいると、まさにキリスト教となりますが、いかがでしょうか。Tの頭文字はやはり徳川家康と同じで後に来る最大の修道会であるフランシスコ会のシンボルのタウ十字と関連するものと思われます。徳川はTalk Cowardでしょうかねえ。Coward自体で羊飼い由来の名前もあるそうですが、いかがでしょうかねえ。
それとまあ三英傑での家紋についても触れておきます。織田信長はご存知の通りの木瓜紋で良いかと思います。どの武将も名前もいくつもあったりしますが、家紋や旗印もいくつも使用しており、最終的な有名なもの一つという事でここでは考察します。木瓜紋は五芒星に近い形で良いかと思います。五瓜に唐花なんて正式名称で呼ぶようですが、まあそういう正式名称自体も本当に最近なんでしょうね。こういうのはネットの世界は学術という名の衒学があってダメですねえ。歴史学が歴史を尊重しないのは全く学問としてダメです。まあそういうのは置いといて、秀吉の紋は関白以降の現在でも政府の紋として使用される桐の紋で良いかと思います。これも五三とか七五とか格が色々あるという事ですが、桐の紋は共通して三位一体のクローバーの形が全体で含まれていて、奇数の繰り返しでキリスト教的な、フリーメイスンリー的なものとなるかと思います。秀吉で面白いのは自ら太閤桐という紋を考案していたそうで、これがまあ見ればわかるんですが、明らかにその花の部分がオリーブの葉の形になるんですね。おそらくオリーブの実物を見たことない時代だと思いますので、まあ宣教師が考案した形に近づいたのでしょうかね。(2019/9/7加筆:オリーブは宣教師が持ち込んで当時伊吹山などで栽培されていたようです。残ったものはないとされているそうです。記録ではオリーブの実とオイルは秀吉に進呈されているそうです。秀吉がオリーブの木の実物や絵を見た可能性は相当高いと思われます。)まあ国連のシンボルなどにも認められるオリーブの葉の形が秀吉考案という紋で現れるというのが安土桃山時代のようです。徳川家康は水戸黄門で有名な葵の家紋となるわけですが、これも三河武士で使用されていたという事で、菊の紋のように様々なバリエーションがあるわけですが、まあ基本的には南蛮由来の植物であるという事と、形が三位一体の形になることと、ハートやスペードの形に近づく、もちろんフリーメイスンリーではシンボルはハートの形になるわけですが、その起源が明確にイエズス会になるわけで、剣とハートでともに象徴される、騎士団のシンボルとなったりしますが、まさにそういう騎士団が強調された時代という事で、葵の葉の形はハートととらえるとわかりやすいのかと思います。(2023.3.13追記:立ち葵がヤコブの杖として瓢箪やホタテの貝殻と同様に巡礼者のシンボルなことがこの時点では把握されていません。)





それで九州征伐後は小田原征伐、奥州仕置となるわけですが、この端緒が猪俣邦憲による真田昌幸が守る沼田の名胡桃城を調略によって乗っ取った事で、秀吉の惣無事令に違反したとして、総勢10万以上での小田原征伐となるわけですが、まあ真田一族自体が、有名な真田幸村の真田信繁が洗礼を受けていたという説もあり、サナダ虫で名前の残る真田紐を売っていたという話もありますが、真田紐自体は千利休が使用するようになって普及したという事もあり、現在も茶道具の箱の結びに必ず使われていますが、結び目や縄もフリーメイスンリーのシンボルであり、縄や縄結びは海洋航行の必須の道具であり、キリスト教に関わる一つの道具の伝来の可能性があると思われます。猪俣邦憲もまた猪という名前から猪突猛進ではないですが、まさに謀略事件であったのかもしれません。まあいずれにしても北条氏討伐は必要絶対であったわけで、その9か月前に初代北条早雲の末子に当たる西国の事情に通じた北条幻庵が亡くなったとされており、まあこの辺は諸説あるようですが、当時相当長命の80才以上で亡くなった可能性があるという事で、いずれにしても九州征伐の過程を見れば、その後に関東、東北で全く同じようなことが行われることは自明であったわけで、様々な事前準備がなされたことは想像に難くないかと思われます。沼田の地自体も三浦氏の末裔が支配した土地とのことで、三浦氏は前北条氏と共に源頼朝の配下であったわけですが、室町幕府の事務方を取り仕切っていた伊勢氏に由来する後北条氏に再興した相模三浦氏が油壷で滅亡させられた歴史もあり、まあ様々な因果が働いた結果としての小田原攻めであったわけです。この頃には伴天連追放令後で表面上は棄教して如水に改名した黒田如水が交渉役や石垣山城の築城で活躍し、追放となっていて、後に金印の発見された志賀島や、現在はオリーブの最大の産地となっている小豆島を経て、金沢の前田利家の下で築城などを行っていた高山右近も最も凄惨な戦いであったという八王子城の戦いなどでも活躍したとあり、小田原城包囲の最中には細川忠興と蒲生氏郷と共に牛肉を食べたという逸話もあり、キリストに祈りを捧げなかったので牛肉を食べるのを止められたなどの話などもあるようです。




小田原征伐の際に具体的にキリスト教の宣教師がどういう働きをしたかは全く伝わっていませんが、千利休が茶の宗匠として秀吉に随伴しており、一番弟子であった破門した山上宗二が北条方に身を寄せており、秀吉に会って再び逆鱗に触れ、耳と鼻を削がれて亡くなるという事もあり、その後に千利休が息子の千少庵が名付ける「園城寺」の割れ竹の一輪挿しを北条早雲の影響の強かった韮山の竹から作るなどのエピソードもあり、その時同時に「音曲」「尺八」「夜長」という名の竹花入れを作ったとあり、千利休の弟子であった山上宗二から茶を教わったという、北条幻庵が一節切という尺八の一種に通じていて、北条幻庵は韮山の近くの修善寺に庵と菩提寺があり、そこで「滝落とし」という尺八の楽曲を作曲したというエピソードもあり、北条幻庵の本拠地は小田原城内の久野という地であり、観音やカノン、叶に通じる音であるわけですが、琵琶湖の南岸の大津にある比叡山延暦寺と長年敵対関係にあった園城寺、三井寺で出家した人物であり、千利休とも関係の深い大徳寺とも関係があったようで、まあそういう人物の生死が小田原征伐全体を左右したという軍師としてのエピソードであるのだろうと想像されます。つまり表向きの軍師として黒田如水や千利休や高山右近がいて、それをさらに左右していたのがイエズス会士であったのだろうという事です。小田原征伐は本能寺の変の西暦に対応してか、旧暦の6月24日周辺での3か月弱で建設された石垣山城の完成をもってして、松田憲秀の裏切りなどもあり北条氏政の切腹、北条氏直の高野山への追放をもってして、小田原城自体はほぼ無血開城の形で終戦となりました。松田憲秀の内応を勧めたとされる堀秀政は陣中で病没しています。



千利休によって大成させられたという日本の茶道ですが、「山上宗二記」によれば村田珠光が足利義政に茶の湯を教えたのがわび茶の始まりのようですが、茶の栽培と飲む習慣自体は古代の中国からあったようで、有名なところでは三国志の時代から薬としてあり、茶の飲み方や茶碗の置き方などでいろいろな意味を持たせるやり方も中国のフリーメイスンリーとされる洪門会などではあり、茶の種類も六大種類といわれ、青茶・黒茶・緑茶・紅茶・白茶・黄茶とあり、こうした中国の茶の文化が奈良、平安時代に貴族の間にもたらされ、日本に禅宗の臨済宗をもたらした栄西が茶の木を初めて九州にもたらし、その後の室町幕府で日明貿易において、唐物などの中国の茶器や茶道具がもたらされ、日本では主に緑茶の抹茶と煎茶であったようですが、朝廷、貴族、武士、豪商の楽しみとなったようです。ザビエルが来日して、1550年に堺で日比屋了珪の邸宅を南蛮寺とした際にも、茶室を設けて、茶席でのキリスト教の布教に利用したとされ、その後の京都や安土、高槻などのあらゆる南蛮寺で茶室は設けられていて、茶会や茶席のやり方が、キリスト教のミサの形式に似ていたり、禅宗の精神性と近いなどもあり、茶の医薬品としての効能効果もあり、また茶や茶道具の貿易自体も目的であったと思われますが、堺の豪商を中心にその後の日本の茶の湯が広がっていくのには、こうしたキリスト教布教に付随した影響が強くあったためです。千利休の師匠とされる武野紹鴎は堺出身のもともと連歌師で、一向宗であったそうですが茶の師匠となって弟子にやはり堺の豪商である今井宗久や津田宗久がいて、弘治元年閏10月29日(1555年12月12日)に急死したとあり、ザビエルの離日後4年であり、西暦による没年のシンボリズムと考えられます。






千利休はもともと田中与四郎といい、魚や(ととや)という魚問屋の子供であったようですが、田中も丸十字に似た形となり、与四郎の名前もヨシュアに近く、魚や(ととや)という屋号もキリスト教的なものとなり、師の武野紹鴎の白鷺のエピソードと近いものを感じさせます。父親も祖父も早く死に、その後に22歳で茶会を開き茶人となったとあり、利休の名は63歳の時に宮中の茶会に出席するために得た名という事で、恐らく信長が堺を直轄領とした1569年頃に千宗易という名前で信長の茶頭となったと思われます。千の字は数字ですが、明らかに十字に線を追加した形であり、カトリックの宗教画に多いINRI(IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM・ユダヤ人の王、ナザレのイエス)と書いた表札のかかるキリスト処刑の十字架の形をしていて、丸十字やシンプルな十字を強調するプロテスタントの十字との差異を強調する、キリスト教を意味する名前と考えられます。利休の名は「名利、既に休す」「利心、休せよ」という意味や、8世紀頃中国・唐で「茶経」を記した陸羽の名前と掛かっているなど言われますが、私は個人的に千利休の遺偈の「人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺 提ル我得具足の一ッ太刀 今此時ぞ天に抛 」という剣を強調したものから想像して、フリーメイスンリーのスコティッシュライト33階級で標語して取られている、イギリス王室のモットーでもある「God and My right, Deus Meumque Jus」「神と我が正義」をモットーとした第三回十字軍に参加したリチャード獅子心王のリチャードの愛称としてのリッキーに掛かっているのだと思いました。遺偈の力囲というのもリキイに掛かっていますし、恐らく本人もキリスト教布教のために十字軍的な役割をしていたことを自覚していたのだと考えられます。小田原征伐と奥州仕置において秀吉の直属の軍師としての役割を果たし、1591年3月3日(天正19年閏1月8日)の天正遣欧使節の9年にわたる旅からの帰国を聚楽第で迎えた直後に、天正19年2月28日(1591年4月21日)に大徳寺三門の自らの木像の下に秀吉をくぐらすという不敬を咎められて弟子に見守られて自死するわけですが、この門が金毛の獅子という禅語にかけて、金の字を瓦に使用しているのですが、まあこういう自らの似姿の木像を作ったりするやり方は、古くは唐招提寺の鑑真和尚があるわけですが、寺ではよくあるやり方で、そのルーツはやはりエジプト王国やローマ帝国の石造で王や皇帝の像を作るというものかと思われますが、キリスト教圏やフリーメイスンリーでも銅像や石像は本人の名誉の証として良くあるやり方であり、また金毛の獅子というのも、その後の伊達政宗の慶長遣欧使節団でも交渉の内容にありましたが、騎士団の創設や加入に関して日本の大名が望んでいた状況があり、最も格式ある騎士団としてヨーロッパには現存するものでガーター騎士団と金羊毛騎士団とあり、遺偈の騎士団の象徴としての刀と合わせて、慶長遣欧使節団の話としてそうした金羊毛騎士団の栄誉というに値するという内示のような話があり、それをさらにキリスト教に対して混乱した対応となっていた秀吉が聞くことで、戦国の習いで主君に対する不忠による自死という形の殉教となったのではないかと思われます。












さてまあ千利休には利休七哲と呼ばれる高弟がいたわけですが、蒲生氏郷、筆頭、細川忠興(三斎)、古田重然(織部)、芝山宗綱(監物)、瀬田正忠(掃部)、高山長房(右近/南坊)、牧村利貞(兵部)とあり、その他にも織田長益(有楽斎)、千道安(利休の実子)、荒木村重(道薫)を加えて十哲とか、千道安を除いて前田利長が入る、有馬豊氏や金森長近を加えるなど弟子は多数いたわけで、この中でも蒲生氏郷、高山右近、牧村兵部、織田有楽斎はキリシタンであり、その他の人もほぼキリシタンに準じて考えられるというのが上述の茶道の成り立ち、千利休の実像から実際かと思われます。小田原征伐の実際を考えると、そもそも徳川家康の江戸入りという前提条件があった上で、それに基づいての開戦があり、旧暦の天正18年4月1日の山中城の攻城から始まり、6月24日近辺での八王子城の終戦と石垣山城のわずか3か月弱での築城完成をもって、7月7日の小田原城の開城となるわけですが、これらが全て旧暦で進行しているというのも伴天連追放令後の状況であり、実際にはイエズス会が主導していることが明確であるわけです。今日残る秀吉時代の建築として、ほぼ自然な状態で放置され、関東最初の石垣の城として、戦国のピラミッドの如き異様を誇る石垣山城なわけですが、この城に移る前に早雲寺を本拠として秀吉は湯本の温泉に浸かり鶴松を生んだ後の淀殿を呼ぶなどし、石垣山城入城後は山頂で作らせた大井戸からの水で千利休に茶をわかさせ、能楽師、猿楽師を呼んで演芸をさせ、天皇の勅使を出迎え、千利休は韮山の竹で花入れを作り、それを岩槻城攻めなどで武将として戦っている弟子の古田織部に送るなどしています。この古田織部という武将ですが、もともと織田信長の家臣であり古田重然と称し、茶人の家系でもあったそうですが、中川清秀を義父とし、中川清秀は高山右近と従兄弟という関係であり、山崎の戦いでは秀吉方となり、賤ケ岳の戦いで中川清秀が亡くなると中川家の後見人となり、秀吉配下の武将として転戦し、秀吉が関白就任した際に織部助に任官して、自らは織部正と称していたそうです。今日では「へうげもの」という漫画でも有名になっていますが、古田織部はその苗字も十字を含み、王冠か十字の宝珠のような形と丸十字の形のようですが、織部の名前自体はやはりオリーブを意識したもののようで、その名前の残る自ら製作を指揮したとされる織部焼の釉薬の色はオリーブの葉の色の緑色となっています。また古田織部の音自体でポルトガル語、イタリア語でのオリーブのフルートという意味となり、当時キリスト教のセミナリヨではオルガンと共にヨーロッパ式の横笛であるフラウト・トラヴェルソ、現在のベーム式フルートになる前の指で穴を押さえるフルートが教えられており、主に木製であるわけですが、その材質として現在でもオリーブ製のものは神聖な木から出来たものとして貴重であり、音楽的にはやや硬めで澄んだ音となるのだと思いますが、そういう神聖な楽器の名前そのものに掛かった名前であるようです。楽器の教育自体が進んだ文化文明の証として直感的に伝わるものとして積極的に行われており、当時すでに現在に繋がる音階や音楽理論が成立していたヨーロッパの楽器は圧倒的なものであり、宗教的な神的なものとしていずれの文明においてもあり、象徴的であったのだと思われます。まあその古田織部が韮山の竹から出来た「音曲」という名の花入れを千利休からもらうのも、どちらもどこまでそれらを理解しているかは不明ですが、少なくともセミナリヨでフラウト・トラヴェルソを習っていたキリスト教徒からすればまさにキリスト教に関わる隠された逸話であり、この尺八や、笛といった管楽器は織田信長をはじめとした三英傑が皆所持した逸話があり、一節切では「乃可勢」、龍笛では「青葉の笛」が有名で上述の北条幻庵の逸話もありましたが、小田原城攻めでも籠城戦の最中に相手を幻惑したり妨害する目的でこうした笛や太鼓の楽器は使用されたはずであり、そういう意味でも小田原征伐の過程でその後の古田織部が千利休後の茶の宗匠となる道筋が出来たように思われます。古田織部の弟子としては小堀遠州、上田宗箇、徳川秀忠、伊達政宗、佐竹義宣、金森可重、佐久間将監、本阿弥光悦らがおり、江戸時代初期の政治文化に関わる人の多くであり、徳川幕府による切支丹弾圧が本格化する時期でもあり、そもそも政治的には弾圧する側になっている人が多く、どこまでそれらをキリスト教の信仰という基準で考えるかは難しいところだと思います。古田織部で最も有名なのは隠れキリシタン灯篭とされる織部灯篭であり、今日でも茶室の露地に数多く見受けられる石灯篭の形態の一種ですが、この中心部が横にわずかに膨らんでいる形を考案したのが古田織部とされ、これも様々な形態があり、中心部に漢字の辰とも読める、90度反転して書いたIhsとも読める印を彫る形式があり、これは明らかにイエズス会のモットーであるIHS(Iesus Hominum Salvator)の意味であると私は思いますが、まあ典型的な隠れキリシタンのシンボリズムとして日本では有名なものなのだと思います。ちなみに古の形の十字の宝珠もキリスト自身が宝珠を持つ場合は、西洋美術の図像学では「世界の救世主」(Salvator Mundi)として知られているとの事で、まあ古田織部の名前自体がそういうキリスト教のシンボリズムそのものであるという事は間違いないのだと思います。フリーメイスンリーとしてはその後のブラザーモーツァルトの最後のオペラ「魔笛」とベーム式フルートの完成という事に繋がるものだと思います。古田織部も師の千利休と同様に恐らく日本で最もキリスト教徒が増えた時代である大阪夏の陣の終戦直後の慶長20年6月11日(1615年7月6日)に徳川家康から責められ自死し、殉教という形となるのだと思われます。旧暦で6と1のシンボリズムとなり、その後ほぼ1年後に徳川家康が元和2年4月17日(1616年6月1日)の西暦の1と6のシンボリズムで亡くなるのと対応しているようです。



































さて茶人のところであまりに長くなり過ぎたわけですが、まあここが日本のフリーメイスンリーのポイントと言えるのかと思います。結局ザビエルの布教以後の、3英傑の3段階の時代を通ることで、キリスト教自体がどのように日本に定着するか、その試みがあり、結局宣教師の活動そのものは表立ってなくなっていき、その代わりにシンボリズムを頂いた日本人が、そういうキリスト教的なものを中心とした外来の事物や思想、生き方そのものと日本的なそれを融合させて新しい時代を作っていくわけです。
小田原征伐はシンボリズムで表現すると前北条氏の家紋を引き継ぐ後北条氏の家紋三つ鱗と豊臣秀吉の旗印、瓢箪と太閤桐に隠れたオリーブの葉の戦いでもあったわけです。そもそも三つ鱗の北条氏の家紋は、家紋という概念がなかった時代に源平の時代の後に鎌倉幕府の執権職を得た北条氏が政権を確立した時代に成立した、江の島の竜神の逸話などを起源とする、実際にははっきりした起源不明の三角形が3つ繰り返す形であり、大三角形の中に小さい逆三角形がある形とも見えるもので、恐らく仏教の胎蔵曼荼羅図の中心に位置する遍知院の一切如来智印の三角形を元に考案された、やはりキリスト教の三位一体の三角形と同じく、オームの真言由来のフリーメイスンリーの3の象徴と同じ意味から出来ていると思われます。3つの島を表現したとかいうのもありますが、フリーメイスンリーではもちろんギザの三大ピラミッドの図象化でしょうが、もちろん伝聞でそういう光景が伝わっていた可能性は否定できませんが、純粋に図形的な造形だと思われます。当時の仏教の知恵を全て結集したシンボルとも考えられ、同時期に権力として対峙した天皇家が仏教の蓮紋から派生した菊紋を成立させており、三つ鱗のシンボル自体が鎌倉武士、鎌倉仏教のシンボルと言え、それは東国武士であり、一旦は鎌倉での政権が成立したものの、結局京都での室町幕府となり、足利氏という、東国に発祥する、紋は二つ引であるそうですが、アソカの仏教のシンボリズムを含んだ政権となり、京都でのその後の応仁の乱の大混乱となって、キリスト教伝来を待って、室町幕府の内部の伊勢氏による三つ鱗の後北条氏の再興後、小田原征伐からの徳川家康の江戸入城となるわけです。かなり純粋にフリーメイスンリー的なシンボルである三つ鱗と極めてキリスト教的でカトリック的な瓢箪やオリーブのシンボルの対峙でキリスト教的な方が勝利するというのは、関ヶ原の戦いでの徳川家康と石田三成との戦いでも同じなわけですが、まあ色々な歴史解釈になるのだろうと思いますが、フリーメイスンリーの妙としか言いようがないのではないでしょうか。足利将軍家の末期の13代足利義輝、15代足利義昭は義輝はキリスト教布教に寛容であり、義昭は織田信長との関係もあり、追放後も長寿で最後は秀吉のお伽衆をしていたという事で、激動の時代なわけですが、権力者の立ち居振る舞いも人それぞれであったわけです。また信長公記には信長が安土城天主閣を完成した天正7年に二条晴良、烏丸光康、三条西実枝、山科言継、策彦周良ら要人が相次いで病死したとわざわざ書かれており、いずれも当時50~70歳代の長寿で日本の政治や文化の中枢にいた人々であり、北条幻庵の死と同様に時代の転換点にそういう社会の主要な中心人物の死があるのも世の常なのだと思われます。


小田原征伐のその後ですが、その後の奥州仕置もそうですが、九州征伐などと同じで、江戸時代の国替えなどと同じく、家臣団は浪人し、民衆は新しい領主とすぐに関係を構築するわけではないので、混乱が続いたと考えられます。風魔一族の江戸町内での狼藉の話などもありますが、武田の遺臣が多く徳川配下に召し抱えられたなどの事象もあり、様々な経過をたどったことは想像に難くないかと思います。現代に残る小田原征伐後の小田原地域での目に見える事象としては、石垣山城の石垣の採石に多くが始まる、その後の江戸城の天下普請に繋がる、石材業が早川から根府川、真鶴地域にかけてあり、当時は黒田如水の差配であったことは確実なわけですが、伴天連追放令後で表面上は棄教している状況であり、後に黒田藩領となって、最終的に幕府の直轄領となったわけですが、実際の採石現場では当時日本の最先端の技術である土木工事であったわけで、直接指導したのはイエズス会の宣教師であると思われ、確実に宣教師による布教があり、全て隠れキリシタン化したものと思われます。特に採石場としては石垣山城直下の早川からの採石が想定されていますが、船での運搬を考えると、根府川地域から真鶴三ツ石に至る採石と共に海水の浮力を利用できる場所からの採石が大量にあったと思われ、この地域は後の江戸城の天下普請でも海岸沿いに採石場が伊豆半島東岸全体で認められるようになるわけですが、そういう海沿いの山や海岸での採石のノウハウも観音寺城の築城から始まって、その後すぐ近くの安土城、そして石垣山城、大坂城、伏見城、姫路城と拡大し展開していく過程があったと思われ、特に石垣山城はその短期間さと、工事動員人数と、地域自体がもともと守備側の勢力範囲であったという事もあり、その特殊性が際立っていて、計画から実行までの全工程にわたってイエズス会士が全面的に指導したことが想像され、その後の天下普請においても、黒田如水が直接建築を差配したと想像される福岡城においてもそこまで切石積みでないのに関わらず、江戸城、名古屋城、大坂夏の陣後の大阪城は全て切石積みで、明確に数多くの刻印が認められることなどから、これは高山右近が建築したとされる高岡城や、金沢城に顕著なわけですが、高山右近近辺の宣教師に切石積みと刻印石の技術や知識を持った人がいた可能性が高いと考えられました。石垣山城で初めて可能になった大量の石の採石と運搬、輸送技術はすぐに同時期の建築の大坂城、伏見城、その他多くの秀吉時代の城、私の知る限りは浜松城や姫路城の部分などもそうですが、天下普請後の駿府城や大阪城の地下で発掘される秀吉時代の石垣は全て野面積みであり、その後の朝鮮征伐の拠点となった名護屋城、朝鮮半島の倭城なども石の量は極めて多量ですが全て野面積みであり、完全に石垣山城での築城のノウハウをそのままコピーしたものと考えられます。秀吉が亡くなり、関ヶ原の戦い後の徳川幕府開府後の天下普請では最初は琵琶湖沿岸の膳所城、彦根城などが、大坂城との距離が近いものから始められ、これらはやはり急造で天主閣などは移築で石垣は野面積みであるわけですが、その後の街道で重要な名古屋城、駿府城、江戸城は現在我々が城としてイメージする切石積みの城として典型であり、また数多くの刻印が認められるものであり、大坂夏の陣後の天下普請の大阪城がその最大のものであり、刻印の数が数限りなくあり、刻印自体の意味が大坂夏の陣によって高められる、鎮魂や宗教的な意味が確実に加わってきているのだと思われます。切石積み自体は早川採石場でその現場を確認することが現在もできますが、基本的に野面積みとは採石の時点から異なり、明らかに方形に近い形で採石する技術が必要で、運搬の過程でもその形を整えていく様子があり、採石の現場で刻印を刻むやり方もあり、明らかに切石積みの技術と刻印石のノウハウ、知識はリンクしており、それが始まったのが明確に徳川幕府の天下普請であり、それ以前では加賀の高山右近関連の金沢城くらいであり、加藤清正の建築とされる熊本城なども恐らく天下普請でその技術を吸収して、その技術が全国に広まったものと思われ、当時の徳川幕府には三浦按針、ウィリアム・アダムスや、ヤン・ヨーステンなどの英蘭の新教国の人物も相談役としていましたが、実際に切石積みと刻印石の技術を伝えたのはやはりイエズス会士かもしくはフランシスコ会修道士であったと思われます。天下普請の一つの駿府城の切石積みが相当立派で、刻印石も相当種類が多いことなどから、実際は三英傑のスタイルそのままに、家康も極めてイエズス会士と近い関係を最後まで持っていて、そこから情報を得たと考えるのが自然であり、その段階を追っての技術の進歩はそのままイエズス会の差配のままであったというのが真相かと思われます。




















石垣は言ってみれば唯一の日本の石造建築と言えるものですから、まさに日本の実務的メイスンリーの象徴であるわけですが、思索的メイスンリーではエジプトのギザの三大ピラミッドやエルサレムの嘆きの壁が象徴とされ、ヨーロッパではもちろんエディンバラ城やウィンザー城やザビエル城のような城もあるわけですが、平和の象徴としてはおもにゴシック建築の教会であったのに比べて、日本では江戸時代を平和に導いたのが象徴としての城の石垣の刻印石であったと思われ、キリスト教とは異なる思索的フリーメイスンリーの端緒となるには十分な建築の出来事であったのかと思われます。まあそうは言っても日本では隠れキリシタンという事で、小田原征伐後の影響と考えられる小田原周辺の隠れキリシタン関連のものについて紹介したいと思います。隠れキリシタンとは言っても、秀吉の時代には布教は日本二十六聖人の殉教を除いて、そもそも弾圧されたり、圧迫されることは全くなかったわけで、この後の奥州仕置においても津軽氏、伊達氏など東北の有力大名はキリシタンとなるかもしくは、それに準じる状況となっており、九戸政実の乱の鎮圧がありますが、その後の処分にしてもキリシタン大名である蒲生氏郷らが関わっていて、伴天連追放令後ではありますが、大坂冬の陣直前の高山右近のマニラ追放を伴う本格的なキリスト教弾圧までキリスト教徒は日本全国で増え続けていたものと思われます。
















石垣と茶道と隠れキリシタンとは日本のキリスト教やフリーメイスンリーを語る際には必須の内容と思われますが、まあいずれの専門家か、キリスト教、フリーメイスンリーに興味がなければいずれも全く関係性を認めないようなものではあるとは思いますが、まあフリーメイスンリーを標題としているブログなのでこのようになります。隠れキリシタンについては、その禁教の経緯の歴史についてやはりカトリックの高木一雄さんの本を読まれるのが良いかと思いますが、安土・桃山時代から江戸初期にかけての、イエズス会やフランシスコ会宣教師が布教して洗礼を受けた人々が、大阪の陣の直前に徳川家康が発布した直轄領と全国に対する禁教令後の、激しい弾圧の中での信仰を守った人々が生きた時代である、1620年の元和の大殉教や、1637年島原の乱の時代までの1650年くらいまでが、いわゆる実際に宣教師の洗礼や教えを受けた人々であり、それ以降の1700年代に入る頃には新井白石のシドッチ密航事件のキリシタン山屋敷などありますが、これも収容される人はいなくなり、実際上幕府の宗門改で長崎以外で日本人で問題になる人は無くなり、もちろん口伝で信仰は伝えられ、それは特に長崎など九州地方で明治維新後の潜伏キリシタンとしてカトリックの信仰に繋がるわけですが、教会や修道院という目立った形での信仰の集会所や、書物やはっきりとした十字架のような偶像はほぼなくなり、いわゆるカトリックではキリスト教とは認められないような、マリア観音や上述の織部灯篭のような、今日でも隠れキリシタン遺物として認められるような偶像が残り、そこに伴って伝承が残るという形であったようです。
隠れキリシタンとフリーメイスンリーの関連性としては、隠れキリシタンがキリスト教会から離れて、仏教や既存宗教と融合するような独自の信仰の形態を持っていることや、禁教下での内面の信仰の自由を追求したこと、前述のような石工の技術とキリスト教の伝来が一致していた関係上、実務的メイスンリーの信仰として考えられることなどが挙げられますが、実際上キリスト教の教義となるような聖書の内容からは明らかに離れており、現在ではカトリックが指摘するようなキリスト教に関連付けた信仰ではなく単なる茶席の灯篭としての織部灯篭が隠れキリシタン灯篭として売られているというのが、まあ中国の政府管理となっている中国のカトリック教会の事情とも絡んで実際の宗教的存在であり、まあ禁教令下でその信仰を守り続けた先祖がいて、その末裔が存在することは確かであっても、潜伏キリシタンのみ容認するというのがカトリックの対応なのだと思われます。つまり今日の状況で隠れキリシタンが存在するというのは、そういう九州などの状況以外では容認できず、それをキリスト教に関連する宗教とは認めがたいという事でしょう。まあそうはいっても日本全国に秀吉の日本統一に合わせて布教活動をした結果、日本国中にキリシタンが増えたのは間違いないわけで、それは徳川家康の弾圧後に激減するわけですが、明らかに西洋の進んだ技術革新や思想、科学技術などを伴っていた以上、宗教的に表立ってキリスト教について語ることは禁じられても、その明らかに進んだ技術や思想、発想などについて伝承し、広めていくことは確実なわけで、そういう影響を考慮すると、安土桃山時代から江戸初期にかけての、いわゆる絢爛豪華な安土桃山文化、慶長文化というもの自体がキリスト教の影響で出来ているといっても過言ではないわけであって、その後を継いだ江戸時代の戦国を経た平和な時代の文化そのものがキリスト教の影響によって出来たものであり、それを裏打ちするように存在したのが隠れキリシタンの存在と言えるわけで、隠れキリシタンの遺物自体は単なる江戸時代の禁制令のあだ花ではなく、江戸時代の文化、政治、社会制度、社会システムそのものを反映する大いなる裏打ちであったと考えられるかと思います。

江戸時代の文化、政治において、明らかにキリスト教の影響を受けたものであると断言できるようなものは、上述の実務的メイスンリーの作り上げた天下普請の石垣といったところくらいで、その後の街道整備や、江戸の都市としての発展、町民文化や、江戸時代の人々の習慣や文化といったところで挙げていくとこれは推測の範疇であるという事になるかと思います。まあ天下普請においては街道整備なども含まれていたわけで、東海道などの現在に残る国道の周辺に土手を作り松を植えた事は、松のマシューに繋がるキリスト教のシンボリズムがあったとしてもおかしくないと考えられます。江戸時代に完成する籠や飛脚、渡し船のシステムなどもそうした影響が考えられます。籠などは聖櫃を運ぶ様子のようでもあります。建築や建設全般には城郭の建築を始めとして、信長、秀吉周辺の安土桃山建築様式から始まって、明らかにキリスト教の影響が多々あったと考えられますので、一般民衆の建築としても長屋や橋や物見やぐらや井戸からやはりこうした建築の技術の影響があったものと思われます。瓦を大量に焼くようになったのもこの頃であり、それは陶磁器などの技術とリンクするわけですが、上述の茶道の需要からの陶磁器の窯が各地にできた影響もあるのではないかと考えられます。江戸の水道である玉川上水や、神田上水も名前などがシンボリズムと考えられ、またそれに伴って湯屋が発展したというのもローマの歴史を彷彿として、キリスト教の影響が伺われます。江戸時代の整然とした街並みはカトリック国である南欧の街並みを思わせるものですし、江戸時代の埋め立てによる水路などはまさにベニスといったヨーロッパの港町の水路と同じようなものであり、造船技術もイエズス会は秀吉に教えることを拒否したようですが、家康はウィリアム・アダムスから教わっており、その後の北前船、東廻海運、菱垣廻船、樽廻船の造船技術や航路、商売の方法、積み荷の種類などもキリスト教徒の影響が多分に考えられます。江戸時代の町人文化としては歌舞伎や人形浄瑠璃、落語などの見世物の発展があるかと思いますが、歌舞伎はもちろんキリシタンであったとする出雲阿国が起源とされ、傾奇者と語源が同じであり、まさに安土桃山文化の継承であり、それが江戸時代に女人禁制に制限されたというのも、宗教的な要素があるせいとも考えられます。人形浄瑠璃で有名な近松門左衛門などはやはり没年で(承応2年〈1653年〉 - 享保9年11月22日〈1725年1月6日〉)シンボリズムを認めており、もともと京極氏が治めた福井の出身で隠れキリシタンの系統であるとの話があります。落語とキリスト教のつながりはなかなか難しいですが、まあ神父の説教を意識したものでしょうか。江戸時代に大量に刷られた版画や書籍の印刷技術は明らかにもともとがイエズス会のセミナリヨで行われていた技術が広まったものと思われ、江戸時代の絵画そのものにもセミナリヨで伝えられた西洋画の要素が色濃く反映されており、その後の識字率の向上や儒教教育の浸透などにも、そもそも徳川家康が儒教教育を武士の家系として受けたのがそれの最初であったのだと考えられますが、湯島聖堂などの建築があり、日本人の今日の宗教観や社会を作り上げる元になったのに、そもそもキリスト教のセミナリヨのシステムが強く影響しているものと思われます。その他にも江戸時代に日本で急速に発達した技術、上述した養蜂や菓子、もちろん食品では、カステラや天婦羅ではその名をそのままポルトガル語で残すなどのものもあるわけですが、金平糖などもあり、野菜や果物についてもカボチャやスイカやサツマイモ、ニンジン、ジャガイモ、トウモロコシ、唐辛子、そういった従来日本の伝統野菜と考えられるものも多くがキリスト教徒によって伝来したことが分かっており、現在の日本の食文化に至る江戸時代の農業活動自体に大きく影響を与えたと考えられます。小麦粉やそば粉の生産をはじめとする素麺や饂飩や蕎麦の発展にも影響があった可能性があります。その他江戸時代の文化としては、風鈴や金魚、朝顔の栽培など有名ですが、そもそも植物や動物の掛け合わせによる遺伝子組み換え作業のようなものは聖書にも羊の良種の得かたなどで説明される、キリスト教・ユダヤ教に一般的な方法であり、江戸時代のこうした桜の接ぎ木や掛け合わせ自体にも大きくキリスト教が影響しているかと思われます。楽器ではセミナリヨではオルガンとフルートを教えたことが分かっていますが、その他にも大正琴のような楽器もあり、ハープも極めて当時普通の楽器でしたから、そうしたそもそも中国にあった琴とよく似た楽器が人々を刺激して、その後の再度の琴の伝来のきっかけとなった可能性があります。フルートは一般庶民の笛として、竜笛でない、能管や篠笛の普及のきっかけとなった可能性があるようです。小倉百人一首のカルタも細川藤孝が古今伝授をしたなどありましたが、最初のカルタはやはりザビエル渡来後の九州で作られたようで、もともと貝合わせの形であったものだそうですが、カルタの原型となるカードは当時の西洋人の航海に必須であったと思われる恐らくフリーメイスンリーに繋がる象徴に満ちたタロットカードであると思われ、そういう意味ではイエズス会士がタロットカードを行う姿はシンボリズムやその後のフリーメイスンリーへの流れを考えれば全く当然なんですが、なかなか意外な印象でしょうか。小倉百人一首はカルタになって庶民に普及する江戸時代を代表する日本文化を象徴する出来事のようです。同様のものが花札であり、こちらは忠実にタロットカードの小アルカナやトランプの原型の姿の枚数構成をしており、象徴としての日本の花鳥風月を取り入れたものであり、もともとトランプの形であったものが、禁制によって現在の形に変化して禁制を逃れたとの説があり、当時からキリシタン由来のものであるとの認識があった可能性があります。その他都市の行楽としての伊勢参りや、大山参りなどはそのまま聖地巡礼の導入であり、隠れキリシタンにとっても同様のものがあって、そもそもそちらの方が伊勢参りや大山参りの原型ではないかと考えられます。













































まあ江戸時代のキリスト教の影響を考えたらきりがないわけですが、その中でも直接的に残る小田原・湯河原・真鶴地域での隠れキリシタン関連の事象についてここで特別に挙げていくこととします。それらが単にキリスト教徒の歴史を語るだけのものではなく、日本の真実の歴史を語るものであり、身近にある本当の日本史の証拠となるものであると考えていただければと思います。まずは高木一雄さんの本で挙げられていた、真鶴の石切り場である御茶ノ水ですが、今日では恐らく十字が刻まれていたであろう場所は、直上にグーグルアースで見ると三角形の形をしたマンションが建築されている影響で、コンクリートで覆われた形となっていて、まあ昭和のバブル時代のいわゆるロータリークラブなどでの混乱した状況が垣間見られる、そうした隠れキリシタン遺物となっている礼拝所と思われる石切り場があります。真鶴には番場浦といわれる三ツ石が目の前に見られる場所から西側に明らかに教会の小部屋のような形に切り取った、礼拝所としても使用していた可能性が高いと思われる石切り場の跡が2-3か所はあり、いずれも十字の跡が刻まれているようなものはありませんが、恐らく隠れキリシタン時代には線刻画や十字架がきれいに刻まれ、マリア像などが置かれていた可能性が高いのではないかと思われました。当初石垣山城を建設した際には、三ツ石の元となる笠島などは舟に直接載せる方法がとられたと想像されるので、恐らく野面積みの元になる石の有力な採石地であったと思われ、その後の江戸城建築の際の天下普請で、切石積みの石を採石する際に、この番場浦の礼拝所のような四角い形の採石が進められたわけですが、その際に最初の採石場所であった今日の三ツ石を、象徴的な三つの岩山に加工したのも石工の信仰のなせる必然であったのだと思われます。この地域のものは江戸に近い場所であることもあり、明らかにキリスト教が一斉に隆盛した後で、徹底的に跡を消すべく破壊を行ったであろう形跡が残っていることが特徴でもあり、それが小田原征伐での3か月弱でのもともと北条氏支配地での採石の経過と、その後の徳川家康治下での天下普請の時代のキリスト教全盛時代と、恐らく江戸城がほぼ出来上がってからは真鶴伊豆方面の採石所のキリシタン熱があまりに過剰なために、礼拝所となっていた採石所を破壊した歴史の影響ではないかと思われました。この近くに昭和時代に水族館を営業していた跡地があり、その場所に内袋観音と呼ばれる石造彫刻があり、由来によれば明治から戦後までかけて掘られて完成したというものですが、恐らくキリスト教全盛時代にはこうした形のマリア像があって、完全に破壊されてしまったのを観音像で再現したものかと思われました。




(追記:真鶴の御茶ノ水の岩場のすぐ横の大浜海岸というところにYMCAのキャンプ地がかつてあり、この場所に巨大な十字架の彫刻があるそうです。

歴史的なものではなく、書いてある通りYMCAがキャンプ地に彫った十字架であるようです。まあ禁教令下の目立つものは全て消されたというのが日本の歴史という事です。)
真鶴には岩という地名のこちらが採石地として現在も本場の場所があり、その海岸のいわば石の積み出し港であった場所には大日如来を祀る洞窟があり、まあまさにキリスト教でいうところのリンボの窟(辺獄)といった場所であり、その周辺には天使とよく似た烏天狗の像や三猿や卍の刻まれた権現社があり、真鶴駅の北側にある西念寺には黒田長政の供養碑と共に織部灯篭がおかれており、そういうキリスト教全盛時代とその後の禁教令時代の隠れキリシタン化した経過が如実に感じ取れる遺物かと思われます。





湯河原も周辺の岩場は採石地であったと思われ、吉浜の海岸の丸石は後水尾天皇時代に仙洞御所建設に石を10万個以上わざわざ運んだといういわれもあるそうですが、この丸石も恐らく石垣用の石の採石の過程で生じた人工的な割れ石が川や波打ち際で長年かけて丸くなったものと思われ、そもそもそうした石工の労苦の結果生じたものに象徴的な意味を付加して御所の石としたのではないかと思われました。湯河原には奈良時代に渡来人系の人々によって開拓された歴史があるそうで、その時に出来たのが五所神社という神社であり、鎌倉時代には源頼朝を護衛してその後壇ノ浦の戦いなどで大将を務めている土肥氏の拠点となり、その後キリシタン全盛時代の頃に新しく、五所神社と東西で対称となる場所に五郎神社という神社が鍛冶屋という地域に出来ていて、それらが城山といわれるシンボル的な山頂と海岸近くの八幡神社と結んだ線とちょうど十字を刻むように配置されており、イエズス会の布教か、その後の隠れキリシタンが刻んだ地理のシンボルと思われます。もちろん両神社共通の五の音がGODに通じることと、五芒星や奇数であることの意味があるかと思われます。真鶴の貴船神社で毎年7月27日28日の定例日に催される貴船祭りもその中心となる石工の踊りとされる鹿島踊りでは、イエズス会が伝承したと思われる太陽と月のシンボルを中心として、3-3-10という人数の構成であり、3が強調されており、日付もイエズス会の出身者が多かったスペインの守護聖人の大ヤコブの日の7月25日に近く、727の対称形をしているという、極めてイエズス会の影響が強い隠れキリシタンの伝来の祭りと思われました。


この他にも湯河原周辺では千歳川沿いに温泉場に行く途中にある椿寺は日蓮宗の非常に新しい寺であるようですが、隠れキリシタン遺物と思われる母子観音像を置いてあったりして、その先に富士山が見える十国峠までつながる巡礼道と思しきハイキングコースもあり、江戸時代頃より、温泉場とその周辺の隠れキリシタンの巡礼道としての歴史があるように思われます。
小田原周辺の隠れキリシタン遺物としては検索すると出てくるのが、北条幻庵の地である久野の、豊臣秀次が陣としたという総世寺にあるという住職のブログなどがあったり、その南にあたる、北条氏の小田原城内にあたる部分であったところに、コスモスと号した寛政年間の住職の墓碑があるそうです。総世寺の近くには小田原フラワーガーデンがあり、非常に美しいバラ園が無料で楽しめます。早雲寺にも隠れキリシタンの墓と思しき卍が刻まれた墓があるとのことで、まあ小田原征伐時にもキリシタンの死者がいた可能性は否定できませんが、なかなか隠れキリシタンとなると本格的な禁制後ではないかと思われます。小田原には他に鴨宮と呼ばれる、酒匂川をはさんで、大磯寄りの曽我の手前の場所に、巡礼街道と呼ばれる、国道一号線と、JRと平行して走る一直線の江戸時代からあると思われる通りがあり、戦後の復興で最初に整備された道路であるそうですが、恐らく名前やその途中にある、順礼中里、美濃里橋などの名称と、江戸時代の道としては極めて珍しい平坦で一直線で、右前方にきれいに富士山が見える配置などから、もともとは小田原城攻めで籠城戦中の小田原城と対峙していた徳川軍の後方を支援するための戦略道路であって、小田原征伐後は勝福寺の巡礼道となったと思われます。しかしこの勝福寺がもともと南蛮寺であったのではないかと思われる節があり、本尊の十一面観音像もそうですが、本堂は1706年再建だそうで、だるま市が毎年定例日のクリスマスのちょうど1週間前の12月17・18日と決まっていて、真鶴の貴船祭りと似ていますが、その近くの飯泉イイイズミという地名も、イエズスや、イエヤスと似た響きがあり、まあキリスト教特有の戦後処理での全面的な歴史の書き換えがあるのではないかと想像されます。この周辺には恐らく後北条氏が整備した戦略道路と思われる田んぼの中を一直線に突っ切る鎌倉時代の鎌倉街道を思わせる幅狭の一本道が残っており、これに対応した徳川軍が整備した戦略道路の名残りではないかと思われ、現在のその通りで面白いのは、非常に多くのファミリーレストランのハンバーグやステーキハウス、焼き肉屋が偏って存在していて、その中でカレーライスの食べ放題が多くの店であるという事でしょうか。まあこれは本当に想像なんですが、現地のロータリークラブかライオンズクラブで、その地で高山右近が蒲生氏郷や細川忠興らと戦陣で牛肉を食べたという逸話に習って、行っているのではないかと思われ、カレーライスは右近にちなんだターメリックのウコンにかけているものだという想像があったりします。まあ近松門左衛門で有名になった曽我兄弟の討ち入りの曽我兄弟の出身地もすぐ近くという事で、小田原征伐のキリスト教関連の話は尽きないようです。小田原近辺の大きな寺としては大雄山最乗寺という曹洞宗の寺があり、天狗寺として有名ですが、高木一雄さんの本でもイエズス会士のフランシスコ・パシオ神父とハビアン不干斎が慶長十二年閏四月(1607年6月)にこの寺に寄り、開山了庵の弟子である怪力の道了が天狗となって寺の守護神になったという伝説について問答したと書かれており、恐らく天狗と天使の類似に基づくものなのだと思われます。初期の日本のキリスト教布教では悪魔のことを天狗と訳していたそうでもあります。




さてまあそろそろ本編というところで、小田原征伐を終えて秀吉は宇都宮で奥州仕置を行い、秀吉に恭順した東北の戦国大名は皆そろってキリスト教に興味を示したことは想像に難くないわけで、その後の九戸政実の乱での豊臣秀次を大将とした奥州再仕置では最後の九戸城攻めでは小田原征伐と異なり蒲生氏郷と浅野長政の策略で開城後に全員撫で切りにしたとあり、戦後に蒲生氏郷が福岡城と名付けたとありますが、なかなか戦国のならいであったようで、まさに十字軍という所業と言えるかもしれません。(追記:九戸という名前もフリーメイスンリーのシンボリズムとなるようです。小田原征伐でのミツウロコの家紋と同じく、そういうフリーメイスンリー対イエズス会のシンボリズムが一つのテーマかもしれません。逆に言うと共通のものという事が出来るのかもしれません。)福岡城の名前にあるように、今日福の名前のつく県なども福音の福の字と関連があると考えられるようです。蒲生氏郷の改修によって東北最初の野面積みの石垣が出来たと考えられます。

秀吉はこの時期に聚楽第の建築と大坂城の建築を始めており、後には伏見城の建築が始まるわけですが、それらの建築はほとんどが残されていないわけですが、石垣ではなく、それらの建築の建物部分を推測する今日に残された桃山建築を見ていくこととします。




これは横浜三渓園にある秀吉時代の建築の旧天瑞寺寿塔覆堂1591年(天正19年)建築です。秀吉が母の大政所の病気平癒を祈願して大徳寺子院の総見院西に1588年に創建した寺だそうです。小田原征伐、奥州仕置の翌年の建築という事で、まあいわゆる桃山建築で想像されるような着色や金箔の使用は無く、蓮華など仏教装飾にこだわった、彫刻はきらびやかですが、色彩は地味なものとなっています。後に納骨もされたとあって、まあ目的もそうだし、大政所の趣味もあったのだと思われます。聚楽第と共通するのはどちらも頭文字でジュとつくところでしょうか。もちろんキリスト教ではジューとなるわけですが、当時の布教していたイエズス会は英語ではジェズイットであり、まあそういうのを意識したところもあるのかなと思います。聚楽第に関しては完全に秀吉の造語だとのことです。建築で特徴的なのは正方形に近い形と完全な対称形でしょうか。
それで聚楽第の移築とされる大徳寺唐門があり、近年修復され当時の着色された状況が再現されて公開されています。






この二つの建築に共通するのは明らかに建築の対称性だと思われます。装飾の彫刻については対になって形の対称性は必ずしも守られないわけですが、それでも明らかな見るものに対称性を意識させる建築としてはキリスト教的な、秀吉の建築独特のものがあると感じられます。秀吉に関してはいわゆる北野大茶湯も1587年11月1日の諸聖人の日に開いたとあり、最後の醍醐の花見は招待客は秀頼・前田利家以外全員女性で、2回着替えさせて湯屋まで茶屋に付けたとあり、どれだけの漁色であったかが伺われますが、それ以外はほぼキリスト教徒であったようです。


まあ秀吉の個人的な宗教観は、その他の対外文書などにもかなり様々な内容が書かれているそうで、単純に一面的に語ることはできないわけですが、伏見に居城を定め、聚楽第に後継としての秀次を配置して、居城近くの伏見稲荷を整備したのは、最終的に京都の本能寺で宗教問題で裏切られて討ち死にした主であった織田信長を意識したからと言っても過言ではないかもしれません。稲荷が狐を主神として、信長が蛇を神としていたのも、恐らくイエズス会による様々な差配があったものと思われますが、聖書で狐はネヘミヤ記/ 03章 35節 アンモン人のトビヤはそばから言った。「できたとしても、そんな石垣など、狐が登るだけで崩れてしまうだろう。」 雅歌/ 02章 15節 狐たちをつかまえてください/ぶどう畑を荒らす小狐を。わたしたちのぶどう畑は花盛りですから。 哀歌/ 05章 18節 シオンの山は荒れ果て、狐がそこを行く。 マタイによる福音書/ 08章 20節 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」 ルカによる福音書/ 09章 58節 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」 ルカによる福音書/ 13章 32節 イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。 と6回出てくるわけですが、まあヨーロッパでの一般的な昔話のように、狡猾の象徴として、狼ほど狂暴ではない動物として、描かれることが多いわけですが、興味深いのはネヘミヤ記のエルサレムの石垣を再建する際の、石垣を堅固に建築しなければいけないとして、狐が昇るだけで崩れてしまうという意味は、そのままの意味と共に、間諜の意味もあるんだと思いますが、単なる建築の意味だけでなく、エルサレムの都市としてそういう防衛の機能を高めないといけないという意味もあると思われますが、まあ日本で本格的に石垣建築を始めた秀吉が具体的に距離的に接近した宗教が伏見稲荷であって、その主神が狐であったというのも、イエズス会の日本の宗教調査の結果であるのだろうと言わざるを得ないかと思われます。またマタイ福音書とルカ福音書の狐の穴の表現は、稲荷社自体がそういう穴に作られたという説があるというところなどもあり、秀吉の容姿も禿ネズミと呼ばれるものであったところなども、こうした稲荷信仰との接近が関係しているのかもしれません。雅歌ではキリスト教の信仰の象徴であるブドウを荒らす狐として表現されており、哀歌では信仰が荒れ果ててしまった聖地を獣が闊歩するという表現で使われていて、いわゆる狡猾な嘘つきという意味だと思われます。ルカ福音書の13章32節のものは、エルサレムのパリサイ人の事を表現していて、いわゆる狡猾なずる賢い嘘つきという意味だと思われます。稲荷信仰とINRIの関係など言われたりしますが、まあ京都周辺を開発した秦氏など渡来人系の信仰といっても、キリスト教にとってまさに異教として代表的なものという事なのだと思われます。




秀吉は天正遣欧使節団を迎えて、その後に千利休を死に追いやり、そして同時に朝鮮征伐を具体的に計画していくわけですが、時間的経過から言って、明らかにバチカンからの勅使として天正遣欧使節団とその随行の宣教師達を迎えて、新たに十字軍としての大陸の朝鮮、明、印度制圧を企図していたようで、もちろん印度などに送った文書では、キリスト教に布教されるよりも神道や仏教の方が正しいなどと述べていたそうですが、まあ様々に混乱していて、明確な意図はつかめないというのが真実だと思われますが、時間経過的にはそういう教皇からの直使によって、軍師として朝鮮征伐に明らかに反対するであろう千利休を処分して、自らのさらなる栄光のために大陸を目指したという、まあほぼ十字軍としての目的しかなかったのではないかと思われます。キリスト教的には恐らくそういうザビエルが為しえなかった中国布教の足掛かりとして、朝鮮半島の調査も兼ねていて、また日本国内では秀吉後の徳川政権への権力移譲もすでに十分考慮した上での、結果的にも徳川以外の西国大名の力を削ぐ意味を為した戦いであったのではないでしょうか。当時の後陽成天皇も朝鮮征伐には反対したとあり、結果的に秀吉の死によって即刻中止になった事を考えても、秀吉自身が自身の内面の信仰上の動機のみで開始して継続したのが朝鮮征伐であり、その信仰の対象であったのはイエズス会のキリスト教であり、イエズス会の目的としてはもちろん中国大陸での布教であり、石垣山城の建築などもその事前準備も兼ねていたという事になるのだと思われます。

秀吉の子供としては伝承としては石松丸秀勝という子供が長浜城時代にいたことになっていますが、まあ伝承の範疇とのことです。鶴松は小田原征伐の前年に浅井三姉妹の長女である側室の茶々が淀城で産んだ子という事で、そのことにより茶々は淀殿と呼ばれるようになったとのことです。もちろん淀という音はYod、Yodh、 י、いわゆるスコティッシュライト14階位として知られる Lodge of Perfection十全会の最高位としてのPerfect Elu, Grand elect, Perfect, and Sublime Mason完全なる被選抜者または完全にして崇高な石工の象徴としてのいわゆるYWHWיהוהの頭文字であり、ローマ字で行くとそのままYの意味なんだと思いますが、そういう千利休とか淀殿とか主要な登場人物にすぐスコティッシュライトなんてのが関係して出てくるというのが、豊臣秀吉というところで、しかも本人も三十三間堂に激しく興味を持っていて、その周辺に豊国神社と豊国廟を残すように遺志を残したといういわれがあるそうで、まあ激しくフリーメイスンリーに興味を持たれていたのかもしれません。鶴松という名前もTrue Mathewに繋がる音であることから、キリスト教的な意味が含まれているのかもしれませんが、その前の石松丸などの名前など見ても、松とMathewのシンボル繋がりはありそうで、その後の街道脇の松の整備に繋がったことはありそうです。鶴松が秀吉の実子であったかどうかは定かではありませんが、淀殿が秀吉の主家筋の血筋を引いた側室であり、その他に多数いた側室から一切姦通の子であっても子供の出産の話がありませんので、まあそもそも大野治長の子供であった可能性は高いのでしょうが、それを押し通すだけの性格と環境が淀殿にはあった可能性があるようです。大野治長の名前自体も真言のオオの音と、ナーガのシンボリズムが含まれており、まさに近江の琵琶湖近辺の仏教・キリスト教が混淆した環境のまさに発露のようでしょうか。大野治長は関ヶ原の戦いでは東軍として働きましたが、大坂の陣では秀頼の実父としての責任を取ってか、交渉役からそのまま大坂城側の実質的な指導者となり、最後は淀殿、秀頼母子と共に自害しています。実際に秀頼との血のつながりを秀吉がどのように考えていたかは不明ですが、明らかに実子として育てており、そのために一旦は後継に指名した秀次を自死に追い込んだ経緯もあり、内心は実子でないことを理解していたとすれば、それはまさにキリスト教でいうところの大工である義父ヨゼフの心境であり、まあイエズス会によってグランド・マスター、石工の長として秀吉が見られていたという事なのかもしれません。まあそういうキリスト教的なシンボリズムが理解されると、朝鮮の役から関ヶ原の戦い、大坂の陣という流れが理解され、大坂の陣での秀頼母子の存在の象徴性と、それに伴っての人々の殉教的な死とそれを見守る宣教師と、それによる徳川幕府による平和な時代の建立と新しい大坂城の象徴的な意味が出てくるわけだと思います。良き相談役であった豊臣秀長はナーガのシンボリズムを認めますが、ちょうどこちらは天正遣欧使節団が秀吉を訪れる1か月前に亡くなっており、こちらも千利休と同じく相談役で恐らく朝鮮の役のブレーキとなる人物であったと考えられます。






まあほとんどすべての忠告できるような人は全員反対した唐入り、朝鮮征伐であったわけですが、天正19年8月23日(1591年10月10日)に秀吉の本格的な唐入りの意思が諸大名に発表され、具体的に計画して、名護屋城を建築し、対馬の宗義調、宗義智やキリシタン大名の小西行長を使節として、一応交渉して恭順させる体裁を取ったわけですが、もちろん交渉にそもそもならず、そして母親である大政所が最終的には大反対で、1年延期されたそうですが、名護屋城は天正19年8月から建築開始を命令して、諸大名が到着したのが10月で、文禄元年3月に完成したそうで、まあ8か月かけて石垣山城の技術がここで再び実戦向けに活用されたわけです。この名護屋城という名前も、三英傑出身地の名古屋と音が同じであるわけですが、やはりフリーメイスンリー的には名はGodでありYWHWであるという音の意味になるというところなんだと思われます。宗教的なキリスト教とユダヤ教の融和というのが一つの宗教改革のテーマでもあったわけですが、対抗宗教改革の雄であるイエズス会のテーマも同じく合わせ鏡のようにそれであったわけであり、神の名としてのGodとYWHWというのは最も重要なテーマであり、それはまた生産性が高く、農民階級の文化の成熟が認められた濃尾平野の名古屋周辺での三英傑の出立というのもまたフリーメイスンリー的に必然であったのかと思われます。

文禄元年(=天正20年)4月12日(1592年5月23日)午前8時、日本軍の一番隊の宗義智と小西行長は700艘の大小軍船で対馬・大浦を出発し、午後2時過ぎに釜山に上陸したそうです。先陣がキリシタン大名であった小西行長で、次陣が戦国唯一の旧暦6月24日生まれ、その後旧暦の6月24日に亡くなる加藤清正、清正公であるわけですが、漢城、現ソウルの先陣争いなども有名ですが、加藤清正は秀吉の親戚で、そういう旧暦の洗礼者ヨハネの日の生まれという事もあり、生涯法華経の信仰を貫き通したわけですが、秀吉の出自と朝鮮征伐との絡みも想像され、キリスト教の信仰と、十字軍というのが朝鮮征伐の最大のテーマであった事がこの布陣から導き出されるわけです。小西行長も親の代からのクリスチャンで、洗礼名はアウグスティヌスで、後の関ヶ原の戦いの西軍の将として斬首されるのですが、子孫が島原の乱の天草四郎説もあるという、高山右近の次にキリスト教布教に貢献したキリシタン大名という事で、朝鮮征伐の際にも詳細な報告をする役目をしており、従軍宣教師グレゴリオ・デ・セスペデスと共に、布教こそしなかったようですが、朝鮮半島全体の状況の報告をイエズス会に詳細に行っていて、後の布教の材料となったようです。


いわゆる朝鮮征伐、文禄・慶長の役での日本軍の動員数は小田原征伐や奥州仕置と同程度で、関東や東北の軍、具体的には徳川家康の配下の軍は九州にとどまっていましたので、朝鮮半島に渡海した軍は15万~20万程度で、当時の日本の人口が2000万人程で、朝鮮半島が500万人程、中国大陸、明が1億2000万人程との事で、日本が戦国時代で100年近くの戦乱の歴史を経ていますので、その間にザビエルのキリスト教布教と火縄銃の伝来、そして上述の石垣城の建築技術と、度重なる戦いでの集団戦の戦術のノウハウがありますので、まあ朝鮮半島や中国大陸にはそれよりも大規模な周辺異民族との間や内戦の戦いの経験の蓄積と、大陸なので技術の恒常的な伝達があったわけではあるのですが、キリスト教伝来とそれに付随する火縄銃の技術や石垣城の技術の差が決定的であり、それに実戦の戦士の戦闘経験が相まっていて、基本的には戦闘自体では日本軍が数万人~5万人程度の主に補給が断たれることによる餓死や不意打ちによる死が多かったようですが、そういう戦役全体での死者数に対して、朝鮮半島全体での死者数は民間人、兵士全体で推計もない程であるようですが、およそ5倍から10倍ほどの死者であったようで、10万~50万程度の死者と見積もられるようで、特に襲来をほとんど予想していなかった当初の1週間から1か月程度は大虐殺の状況であったようで、数万人の死者が一方的に生じた侵略戦争であったようです。



文禄元年(=天正20年)5月1日~7日(1592年6月10日~6月16日)にかけて一番隊の小西行長隊を始めとして諸将が李氏朝鮮の首府であった漢城、現ソウルに入城し、李氏朝鮮の国王であった宣祖はすでに逃亡し明との国境近くまで移動していました。秀吉の朝鮮渡海などを待つなどの対応があり、しばらく漢城で留まって、その後小西行長隊は平壌に進みさらに明との国境付近まで進み、加藤清正隊は東北方面に進み、いわゆる虎退治などをしながら、その後の清王朝の元となる愛新覚羅族がいるオランカイまで侵攻しています。文禄元年(=天正20年)7月16日(1592年8月23日)に明軍が参戦し、平壌の小西行長軍を攻撃しますが、迎撃し、その後も明側に損害が多く、小西行長軍は平壌を守りますが、秀吉の朝鮮渡海は困難として、明との間に休戦交渉を行っています。この明の参戦直後の天正20年7月22日(1592年8月29日)に秀吉の母親の大政所が聚楽第で亡くなり、秀吉は名護屋城から京都に向けて出発していて、その途上で卒倒し、また「川角太閤記」によればその途中の瀬戸内海の航海で岩場に座礁し、秀吉一人が岩礁で助けを待つという状況もあったという事で、戦況の変化とともに秀吉の心境にも最大の影響を与える母親の死があり、そもそも秀吉の成功の過程におけるキリスト教ネットワークと共に、朝鮮半島系の渡来人のネットワークが想像されるのですが、朝鮮征伐でのこの明軍の参戦と大政所の死と秀吉の座礁のタイミングはまた日本における中国大陸由来の渡来人のネットワークが想像され、その後の沈惟敬との講和交渉と慶長伏見地震との関連などもありますが、秀吉の朝鮮征伐の東アジア全体を巻き込んだ影響と反応の大きさがうかがわれます。
文禄2年(1593年)1月6日(1593年2月7日)より平壌を取り囲んで明の大軍の攻撃が再開され、ポルトガルからもたらされた大砲なども使用され、小西行長軍は撤退し、その後漢城と平壌の間で野戦が行われ、明軍が敗退し、状況は膠着状況となり、文禄の役は休戦状態となります。日本軍は朝鮮南部に拠点となる倭城の建築を開始し、以後の慶長の役では主にこの石垣城を防衛拠点とする日本軍の防衛戦となります。この間秀吉と明との間の講和交渉となるわけですが、文禄2年8月3日(1593年8月29日)に大坂城二の丸で淀殿が秀頼(拾)を産み、関白である秀次が情緒不安定となり、文禄4年7月15日(1595年8月20日)に謀反の疑いで秀次が切腹となりその家臣や係累も皆斬首となりました。この秀頼誕生まで秀吉の後継と考えられていた、秀次とその兄弟たちの、豊臣秀吉の姉である瑞龍院日秀と三好一路の息子たちは、次男の秀勝が、これはキリスト教の洗礼を受けていたそうですが、文禄の役の最中に文禄元年9月9日(1592年10月14日)に巨済島で病気で急死し、三男の秀保は文禄の役の休戦中の文禄4年4月16日(1595年5月25日)に所領であった奈良、十津川で急死したとあり、秀吉の弟の秀長の終焉の地の大和郡山の近辺であったようですが、皆この頃に亡くなっており、秀吉の実子ではない可能性が高い秀頼の後継としての確実性の為の工作が疑われるようです。






日本と明の講和交渉の真っただ中の文禄5年閏7月9日(1596年9月1日)、慶長伊予地震が発生し、記録に残る日本初の中央構造線断層帯の地震であり、津波もあったとのことです。3日後の文禄5年閏7月12日(1596年9月4日)に慶長豊後地震が発生。地震と津波によって瓜生島と久光島の2つの島が沈んだとされますが、こちらがザビエルが1551年11月15日に離日した際の別府湾の島であったとの事で、ザビエルはその後中国布教のために一旦マラッカ、ゴアに戻ったのちに、1552年8月に現在の広東省の上川島(St. John's Island)に入り中国布教のために準備しますが、1552年12月3日熱病で亡くなりました。その後ザビエルの遺志は巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノからマカオで活動していたイエズス会士マテオ・リッチに引き継がれ、ちょうど朝鮮征伐の頃に中国布教に成功し、後の1601年から明の万暦帝の宮廷に入り、ユークリッド幾何学の漢文訳である『幾何原本』を発行したりして、中国明でキリスト教を布教しています。慶長豊後地震の翌日の文禄5年閏7月13日(1596年9月5日)(追記:完全な59695の対称形のシンボリズムになっているようです。)、慶長伏見地震(慶長伏見大地震)が発生し、ちょうど完成に向けて建築中であった伏見城の天守や石垣、方広寺の大仏が完全に倒壊し、死者多数で、いわゆる地震加藤の伝承がありますが、秀吉はちょうど明の使節が来る予定の6日前であったそうですが、何とか使節と面会したとのことです。またその慶長伏見地震の1か月後の文禄5年8月28日(1596年10月19日)にいわゆるサン=フェリペ号事件が発生し、主にフランシスコ会の宣教師と、アウグスティノ会とドミニコ会の宣教師が捕えられ積み荷を没収され、通訳を介したキリスト教宣教の目的が占領にあるという内容が秀吉を激怒させたとのことです。サン=フェリペ号の乗組員は追放されますが、文禄5年12月8日(1597年1月25日)に天正に続く禁教令が再び出され、京都や大坂にいたフランシスコ会のペトロ・バウチスタなど宣教師3人と修道士3人、および日本人信徒20人が捕らえられ、彼らは長崎に送られて慶長元年12月19日(1597年2月5日)処刑され、いわゆる日本二十六聖人の殉教となり歴史上最初の日本のキリスト教徒の殉教となりました。
またこの時代のローマ教皇はグレゴリオ暦で名前を残すグレゴリウス13世第226代ローマ教皇(在位:1572年 - 1585年)以降、シクストゥス5世第227代ローマ教皇(在位:1585年 - 1590年)、ウルバヌス7世第228代ローマ教皇(在位:1590年9月15日 - 9月27日)マラリアのため病没、グレゴリウス14世第229代ローマ教皇(在位:1590年 - 1591年)胆石が原因で死去、インノケンティウス9世 第230代ローマ教皇(在位:1591年10月29日 - 12月30日)病死、クレメンス8世第231代ローマ教皇(在位,1592年-1605年)と短期間で教皇が入れ替わる時期が続き、カトリック内部でも相当の方針を巡っての対立があった事が想像されます。またイエズス会総長は第三代がフランシスコ・ボルハ(1510年10月28日 - 1572年9月30日)で1565年にイエズス会総長となり、創設者であるイグナチオ・デ・ロヨラに並び称される貢献をしたとされ、地震の守護聖人とされています。出身家のボルジア家は教皇を輩出した名門で、ヨーロッパの各王家とも血縁があり、映画の「ゴッドファーザー」などでもバチカンの陰謀の代名詞として挙げられたりしているそうです。イエズス会総長には黒い教皇との呼び名もあり、スコティッシュライトのブラザーアルバート・パイクの黒い教皇との呼ばれ方と共通のものがあるようです。












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(マテオ・リッチの肖像ですが、四枚目のものは弟子の徐光啓とのものですが、徐光啓の後ろにフリーメイスンリーのシンボルマークの形に似た形があり興味深いでしょうか。マテオ・リッチは中国布教の過程で儒教を始めとした中国の歴史や伝統を尊重した適応方針である順応政策を行い、それは後にカトリック教会の内部での批判にあい、清の乾隆帝の治世で禁教となり中国でのキリスト教布教はいったん中断となっています。同時期に今日の中国の代表的なフリーメイスンリー的組織である洪門会が「反清復明」をモットーとして成立したとされるのが興味深いようです。英語版のウィキペディアではマテオ・リッチが元朝以来当地に存在した開封のユダヤ人コミュニティーの長老と面会し、ユダヤ人になるよう勧められたとのエピソードが描かれています。儒教は音的にはJewと同じようです。)(最後の二枚はイエズス会総長フランシスコ・ボルハの肖像です。最後のものはゴヤの絵です)
まあそんなこんなで和平交渉は打ち切られて、秀吉の慶長2年2月22日(1597年4月8日)の大号令で慶長の役が再開となるわけですが、大義無き侵略戦争であることは明らかで、戦地の荒廃も明らかで、現地民からの補給が受けられないことも明らかで、野戦であれば徹底したゲリラ戦の状況となるわけで、当初は朝鮮半島南部で同様の侵略を続けますが、最終的には石垣城を作っての形だけの侵略を続ける拠点防衛戦となります。秀吉はその後も大増援を送る計画を持っていたそうですが、慶長3年3月15日(1598年4月20日)醍醐の花見を行い、慶長3年5月15日(1598年6月18日)五大老、五奉行を指名した遺言書を作成し、豊国廟での埋葬を指示しています。その後信濃善光寺の本尊の移動などあったそうですが、慶長3年8月18日(1598年9月18日)に伏見城で亡くなります。もちろんこの秀吉の没年月日も和暦で818の回文数、西暦で989の回文数であると思われますが、まあその他の人の単純な6と1のものではないところが、この人の複雑な一生を物語っているというか、和暦で8の回文数になっているのは、まあ基本的には復活の8の数字という事で、キリスト教信仰と、本人がこだわった33の回文数にかけた、後白河法天皇の生没年月日の1127年10月18日(大治2年9月11日) - 1192年4月26日(建久3年3月13日)の3月13日から三十三間堂が残されたという話にまつわる、オームの真言の3から、復活の8にしたところで、88の回文数となるのでしょうが、まああえて八十八というと、これは日本では多分お茶やお米の漢字ではないですが、茶摘みとか稲作という話になるのだと思いますが、まあ茶道の成立や稲荷信仰に関わったというのが、こじつけで言えばそうなるのだと思います。989の回文数の意味はイエズス会的なものでしょうね。最後まで朝鮮征伐でもイエズス会の意向に従って動いていたという事が明確なのだと思います。まあここでも相当長きにわたって書いてきましたが、日本のキリスト教布教、イエズス会の活動自体に相当大きな影響を与え、与えられたのが三英傑二番目の太閤秀吉であり、その後も日本の中で太閤に例えられるような人物はあるわけですが、まあ本家が一番影響力が大きいという事だと思われます。
朝鮮征伐は秀吉の死ですぐに中止へ向かって動き出し、慶長3年10月15日(1598年11月13日)帰国命令が出され、小西行長を殿軍として、慶長3年11月25日(1598年12月23日)に撤退完了したとのことです。最後まで明・朝鮮軍は数では圧倒しながら、戦力的には日本軍が上回っていたとの事です。後の関ヶ原の戦いではこの朝鮮征伐での加藤清正を中心とする武断派と小西行長・石田三成を中心とする文治派の対立により生じたと解説されることがありましたが、現在ではあまり明確な説明ではないかと思われます。この朝鮮征伐による直接的な影響はやはり数万人の朝鮮人が捕虜として日本に送られ、朝鮮の文化を日本に直接伝えたという事があり、その最大のものは優れた朝鮮陶磁器の作成法であり、肥前伊万里焼、加賀九谷焼、そして織部焼とも表現される美濃焼とあり、それぞれがまた地域から隠れキリシタン文化とも密接に関連しているのが、朝鮮征伐の影響の特徴かと思われます。太平洋戦争開戦および終戦時の外務大臣の東郷茂徳の出身が薩摩の朝鮮人陶工集落であることが有名かと思います。また当時は朝鮮人の捕虜が奴隷としてヨーロッパまで売られている事例があったとの事で、日本人捕虜の南蛮貿易での奴隷売買の事例もありますが、戦国の習いとして普通に行われていたことの証左であるかと思われます。またジュリアおたあで知られる徳川家康の側室となったキリシタンなどもおり、徳川幕府以降での幕藩体制の中での儒教教育の浸透による庶民の識字率の向上などにも、こうした朝鮮人捕虜の影響や朝鮮征伐の影響が考えられ、儒教教育が盛んであった朝鮮半島の金属製活版印刷技術の伝来なども、その後の江戸時代の出版印刷技術の普及や、キリスト教のセミナリヨ教育の影響も相まって、今日の日本の倫理観や道徳観の基礎となる儒教教育の庶民への普及がなされたのかと思われます。それまでの日本の庶民では浄土宗や鎌倉仏教後での念仏仏教や一向宗が主であって、いわゆる倫理教育や道徳教育という、文字や文章による教育はもともと武家や公家の教育で主流であった儒教教育が江戸時代になって初めてセミナリヨ教育が寺子屋教育へと変化して可能になったのであり、儒教教育の浸透に朝鮮征伐の影響は大きかったと思われます。もちろん大陸への影響では、明の没落による清への王朝交代があり、マテオ・リッチによるイエズス会によるキリスト教の布教が可能となっており、イエズス会による中国政治への影響がなかったとは言えないと思われます。加藤清正が女真族のヌルハチと会戦し、その後後金を建国し、息子のホンタイジの時代に元の玉璽を手に入れ、中国大陸の異民族の王朝として清の国号を定めて、女真を満州と改め、その後のフリンの即位後明が滅亡し、中国大陸は清の時代となります。この明から清への国号の推移も、それ以前の元という異民族王朝の国号も、いずれもシンボリズムを認め、元はGenと音でGの音となり、これは同時期の源平の戦いの源氏などにも共通ですが、元にはネストリウス派キリスト教徒が随行したなどの説もあり、また明はマニ教の影響を受けた白蓮教徒の朱元璋が建国しており、太陽と月のシンボリズムはその後のイエズス会の布教と相まって隠れキリシタン化した日本でも普及した対称性を示すシンボリズムであり、今日の日本の伝統的な石灯籠のデザインとして良く取り入れられている灯篭の火袋の窓のシンボリズムです。明から清へ元号が変わったわけですが、その清も青と点が三つと、フリーメイスンリーのシンボリズムにつながるものと考えられ、その後イギリスではいわゆるピューリタンを表現するのに清教徒という訳が当てられたりしましたが、異民族の王朝という事で、イエズス会の布教があった時期であり、シンボリズムがあるのかと思われます。中国はその後キリスト教の禁教を経て、洪秀全による太平天国の乱後にブラザー孫文の中華民国が成立し、その後に日中戦争を経て、毛沢東による中華人民共和国の成立となって現在に至るわけですが、この間フリーメイスンリー的組織として洪門会が存在し、また毛沢東の発音のマオ・ツォートンなどもイエズス会の最初の布教者であるマテオ・リッチとMとTの音で一致しているなどもあり、また清朝の満州族への改名もMの音で共通するなど、Mのシンボリズムも考えられるかと思いました。またマテオ・リッチによる中国大陸への布教に伴って、伏羲と女媧の洪水型兄妹始祖神話と聖書の創世記の物語の類似などもあって、それらのシンボルである直角定規とコンパスが後のフリーメイスンリーのシンボルへと石工の道具との共通性から取り入れられていったと考えられるかと思います。元のGや創世記のGenesis、幾何学のGeometryの関連も全てシンボリズムへと還元されるようです。朝鮮征伐の結果可能となった中国大陸へのイエズス会の布教がユーラシア大陸の東と西の宗教や文化の共通項の探索となり、それが直接的に近代フリーメイスンリー結成の知識の裏付けの原動力となった可能性が高いようです。















三十三間堂や京都国立博物館が京都観光の中心であることは、その周辺に豊国神社や豊国廟、耳塚などがあり、特に明治になって復興されたことが、そういうキリスト教的なフリーメイスンリー的な評価と一致するところだと思われます。
この時代の日付のシンボリズムとしては、上述の日本二十六聖人の殉教の原因となったとされる、サン=フェリペ号事件が文禄5年8月28日(1596年10月19日)で、61019の回転対称形を為しているのが、まあ特記される事象だと思われます。その後の殉教者の聖人認定にも関わる転換点なんだと思われます。イエズス会が一旦は異端認定されるような遠因ともなるのだと思われます。またイエズス会士としてはやはりアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1539年2月15日 - 1606年1月20日)で没年月日が明確に16061とその時代の共通する1と6のシンボリズムを認めており、三英傑の織田信長、豊臣秀吉の時代の全てのストーリーに関わったのがこの人であろうと推測されます。また中国布教したマテオ・リッチ(1552年10月6日 - 1610年5月11日)の没年月日がシンボリズムとなっており、まあ他にも多数のイエズス会士がいたわけですが、シンボリズム的にはザビエルと共にこれらの人々が評価されるのだと推測されます。またこれらの人々の中心で動いていたと想像される、天正遣欧少年使節の主席正使である伊東マンショが(永禄12年(1569年)ごろ - 慶長17年10月21日(1612年11月13日))で没年月日にシンボリズムを認めるのが、やはりそういうものであるかと思われます。
この時代のキリシタンでない人で没年月日でシンボリズムを認める人で、秋月種実という大名がおり、天文17年(1548年)? - 慶長元年9月26日(1596年11月16日)と61116という、また特徴的な1と6のシンボリズムなわけですが、大友宗麟の傘下であって、その後反抗し、さらに秀吉の九州征伐にも島津勢として抵抗し、最終的には大友宗麟がムジカの地として制圧しようとしていた現在の宮崎県で小藩を存続したとの事で、名前も月や種が代々入るという、なかなかシンボリズムでもやや珍しいものであり、キリシタンであったかどうかは不明ですが、その関わりから強烈にキリスト教の影響を受けていると考えられ、九州での実際のキリスト教の影響という際に、非常に興味深いシンボリズムであるかと思われます。



まあ秀吉の死によって情勢は一気に秀吉後の政治に移っていくわけで、石田三成襲撃事件や、細川ガラシャの死、上杉景勝征伐から関ヶ原の戦いへといわゆる司馬遼太郎の小説や大河ドラマで非常に有名となったストーリーへ移っていくわけですが、まあ最終的には裏切りによる決着というところで、戦術や戦略、まあなかなか戦争の評価というところなのだと思いますが、三英傑の歴史としては具体的にどのように徳川家康に政権移譲していって、江戸を政治の中心地とするかという作業なんだと思われますが、まあその筋立てを全て考えたのは、シンボリズム的には現地のイエズス会の総責任者となるアレッサンドロ・ヴァリニャーノであり、その筋書き通りに進行していったのかと思われます。秀吉の死から約8か月後の慶長4年3月3日(1599年3月29日)に前田利家が亡くなり、同日深夜慶長4年3月4日(1599年3月30日)に石田三成襲撃事件が起こり、石田三成が佐和山城に隠居となります。この際に東軍の武将としていわゆる秀吉配下の七将が確定したとのことです。細川ガラシャの洗礼にも、朝鮮征伐で従軍宣教師として小西行長に随行したグレゴリオ・デ・セスペデスが関わったとあり、関ヶ原の戦いに至るまでの細かい情勢についても、本能寺の変以上にイエズス会の宣教師が関わっていることが推測されます。関ヶ原の戦いで興味深いのは、慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に戦いが起こるその約半年前の慶長5年3月16日(1600年4月29日)、いわゆるウィリアム・アダムス、三浦按針とヤン・ヨースデンを乗せたリーフデ号は豊後臼杵の黒島に漂着したとされることで、まあ実際は予定通りに寄港したという事のようですが、大友宗麟のキリスト教国である豊後の中心地であり、その後の江戸幕府開府から家康のフランシスコ会との関りと禁教から長崎でのオランダの貿易の独占、そして世界の大英帝国の繁栄と、近代フリーメイスンリーの成立と、オランダ出島でのブラザーイサーク・ティチングの来日など、カトリックからプロテスタント、フリーメイスンリーへバトンを受け継いでいく、まさにそういう作業が1600年という時代にあるというのが、西暦のシンボリズムであると思われます。



関ヶ原の戦いではキリシタン大名は東西どちらの軍にもいるわけですが、豊臣秀吉配下の武断派であった七将は東軍にいて、キリシタン大名で大藩の有力大名であったものは東軍にいる印象で、キリシタン大名で浪人に近いが有名であったり、小藩の大名であるものが西軍にいる形でしょうか。具体的には黒田長政 永禄11年12月3日(1568年12月21日)-元和9年8月4日(1623年8月29日)で、黒田孝高 天文15年11月29日(1546年12月22日)(グレゴリオ暦1547年1月1日)-慶長9年3月20日(1604年4月19日)の長男であり、いわゆる黒田官兵衛父子なわけですが、面白いのは、息子は明らかにフリーメイスンリーの守護聖人の聖トマスの日生まれであり、父親も1日ずれで、ユリウス暦の時代なわけですが、没年では黒田孝高の44と黒田長政では623829という3と8を同じとすると対称がやや出てくるかという、ちょっと複雑な感じがあります。(2023.3.14追記:黒田長政の生年月日は旧暦ですがザビエルの命日なのですね。なかなかカトリックとして高山右近なみに期待していた感じがするでしょうか。)また浅野幸長 天正4年(1576年)-慶長18年8月25日(1613年10月9日)や京極高次 永禄6年(1563年)-慶長14年5月3日(1609年6月4日)、京極高知 元亀3年(1572年)-元和8年8月12日(1622年9月17日)、田中吉政 天文17年(1548年)-慶長14年2月18日(1609年3月23日)、織田長益 天文16年(1547年)-元和7年12月13日(1622年1月24日)、筒井定次 永禄5年5月5日(1562年6月6日)-慶長20年3月5日(1615年4月2日)、寺沢広高 永禄6年(1563年)-寛永10年4月11日(1633年5月18日)が具体的に挙げられる東軍のキリシタン大名で棄教後の人もいるわけですが、一見して、あまりシンボリズムは没年でも少なく、浅野幸長の131や京極高次の96、京極高知の162291とちょっとこれはまた微妙なものであったり、田中吉政の609、323、織田長益の22、筒井定次の66、寺沢広高の33など、まああるといえばあるしというあまりはっきりしない、まあそもそも洗礼を受けているので、はっきりあると言えるのでしょうが、数字的にはそれほど特徴的でないシンボリズムとなるようです。実際にはその生前の様々な生き方を評価されての数字なのではないかと思われます。東軍のキリシタン大名以外では、もちろん前述の池田輝政 永禄7年12月29日(1565年1月31日)-慶長18年1月25日(1613年3月16日)が際立っているわけで、生年月日で15651、131、没年月日で613316とどちらも桁数の多い回文数が含まれていて、白鷺城として今日も世界遺産となる姫路城を現在の形に作ったことと、その子供たちが、備前岡山藩主、播磨赤穂藩主、播磨姫路藩主、弟が因幡鳥取藩主となって存続したことがあり、キリシタンでなくとも正妻も中川清秀の娘であり、ほぼキリシタン大名として大きな影響を残したことにあるようです。一方やはり前述の武断派の中心人物の加藤清正は永禄5年6月24日(1562年7月25日)-慶長16年6月24日(1611年8月2日)で、法華経に帰依して、和暦で生没年月日がどちらも6月24日であり、西暦では272、161、11とあるわけですが、まあ和暦のシンボリズムがあまりに強いので、西暦のそれはあまり意味がないのかとされるのかと思います。(2023.3.14追記:加藤清正は生年月日が西暦でヤコブの日ですね。スペインの守護聖人の日です。イエズス会を象徴する日であり、かなり重要と思われます。法華経に傾倒したのも、オルガンティノ師が法華経を研究したのと関連するのでしょう。)一方で武断派のもう一人の代表格である、キリスト教にも寛容でもあったとする福島正則 永禄4年(1561年)-寛永元年7月13日(1624年8月26日)で、624826とまあ対称形に近い形という、微妙な数字であり、改易されて大名としては断絶しており、まあシンボリズムはないという事なのでしょうか。細川ガラシャの夫である、細川幽斎の長男の細川忠興 永禄6年11月13日(1563年11月28日)-正保2年12月2日(1646年1月18日)と和暦でも西暦でも11や111や22が認められ没年月日では16461もあり、まあキリシタンではなくとも茶道家で利休七哲の一人であり、千利休の最後を見送った弟子であり、三斎流茶道の創始者であり、ガラシャの死によって、石田三成は人質を取りづらくなり、東軍の結束を高めたという経緯もあり、そういう評価なのだと思われます。生駒一正 弘治元年(1555年)-慶長15年3月18日(1610年5月11日)、藤堂高虎 弘治2年1月6日(1556年2月16日)-寛永7年10月5日(1630年11月9日)、加藤嘉明 永禄6年(1563年)-寛永8年9月12日(1631年10月7日)、山内一豊 天文14年(1545年)-慶長10年9月20日(1605年11月1日)、有馬豊氏 永禄12年5月3日(1569年5月18日)-寛永19年閏9月29日(1642年11月21日)といずれも没年月日で11のシンボリズムを認め、生駒一正は161とマテオ・リッチと同じ没年月日、山内一豊は111で諸聖人の日、有馬豊氏は生年月日で156951と中心が回転対称の対称と複雑ですが、没年月日では2112で回文数と色々プラスアルファがありますが、共通するのはいずれも築城して城が残っており、生駒一正は高松城、藤堂高虎は宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城・二条城を築城し、加藤嘉明は伊予松山城、山内一豊は高知城、有馬豊氏は久留米城を築城し、石垣や天守など多くが残存しているという共通点があります。

















東軍は後は徳川四天王がいますが、井伊直政 永禄4年2月19日(1561年3月4日)-慶長7年2月1日(1602年3月24日)、本多忠勝 天文17年2月8日(1548年3月17日)-慶長15年10月18日(1610年12月3日)、榊原康政 天文17年(1548年)-慶長11年5月14日(1606年6月19日)といった感じです。井伊直正の没年月日の232、本田忠勝の没年月日のザビエルの没日と一緒、101、榊原康政の606、66、619の回転対称でしょうか。それぞれ家紋がまあ隠れキリシタンなんだろうなという感じでしょうかねえ。江戸時代の幕開け=隠れキリシタンの時代というのが正しい歴史認識なんだと思われます。







それで西軍の武将ですが、キリシタンとしては大友義統 永禄元年(1558年)-慶長15年7月19日(1610年9月2日)、小西行長 永禄元年(1558年)-慶長5年10月1日(1600年11月6日)、織田秀信 天正8年(1580年)-慶長10年5月27日(1605年7月13日)、大谷吉継 永禄8年(1565年)-慶長5年9月15日(1600年10月21日)、毛利秀包 永禄10年1月18日(1567年2月26日)-慶長6年3月22日(1601年4月24日)といて、まあ単純に比較して、数でも質でも東軍の方が圧倒的にキリシタン大名は多かったようですが、何となくその後の大坂の陣のキリシタン浪人の活躍の印象などもあり、また石田三成と共に西軍の中心人物とされ、戦死したり斬首される大谷吉継や小西行長といった実際に戦った大名にキリシタンという印象が強いせいか、まあかなり均等にいて、実際にはその後の禁教令の影響などもあり西軍に多めにいるくらいの印象ですが、単純比較してまあ圧倒的に東軍に多いようです。またキリシタン大名としてや、大名として有名な大友宗麟や、織田信長、毛利元就の子供や孫がおり、キリシタンとしての系譜は非常に興味深いですが、実際の戦闘や政治能力としてはほとんどないと言えるのかもしれません。西軍の没年月日のシンボリズムとしては、圧倒的に石田三成、小西行長、安国寺恵瓊が斬首された慶長5年10月1日(1600年11月6日)の西暦の11と6の組み合わせであり、大友宗麟の死(天正15年5月6日(1587年6月11日))、秋月種実の死(慶長元年9月26日(1596年11月16日))、石田三成・小西行長の死(慶長5年10月1日(1600年11月6日))、イエズス会巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの死(1606年1月20日)、細川幽斎・吉田兼見の死(慶長15年8月20日(1610年10月6日))、古田織部の死(慶長20年6月11日(1615年7月6日))、徳川家康の死(元和2年4月17日(1616年6月1日))とこの時代にキリスト教や日本の政治の中枢にまつわる人々の死で、ほとんどが西暦ですが、一人古田織部のみ和暦で、6と1と一部0にまつわる特徴的な数字が出てきており、1600年という西暦が重要であったとは思われますが、そういう1と6にまつわるシンボリズムの主に西暦での残された印があり、それが一つのイエズス会が残した日本での活動の証であったのかと思われます。
関ヶ原の戦いの時代のイギリスはちょうどエリザベス王朝末期で、その後にスコットランド王であったジェームズ1世にイギリスが統一される時代であり、ジェームズ1世の時代の1611年にいわゆるフリーメイスンリーで標準とされる欽定訳聖書の成立があります。エリザベス朝時代からジェームズ1世の時代にかけていわゆるイギリス文学の成立といわれるクリストファー・マーロウやシェイクスピアの活躍があるわけです。フランシス・ベーコンの「知は力なり」などのイギリス経験主義、その後の百科全書派への流れへと繋がります。イギリスはその後清教徒革命を経て1666年の驚異の年から英蘭戦争、ロンドン大火となり、ブラザーニュートンのプリンキピアの発行に至り、その後名誉革命を経て、近代フリーメイスンリーの結成に繋がるわけです。まあ当時イギリスはユリウス暦であるという落ちもありますが。

それでまあ関ヶ原の戦いの核心にやっとたどり着くわけですが、裏切った武将ですね。吉川広家 永禄4年11月1日(1561年12月7日)-寛永2年9月21日(1625年10月22日)、小早川秀秋 天正10年(1582年)-慶長7年10月18日(1602年12月1日)、脇坂安治 天文23年(1554年)-寛永3年8月6日(1626年9月26日)、朽木元綱 天文18年(1549年)-寛永9年8月29日(1632年10月12日)とあるわけです。吉川、小早川、毛利と西軍は総大将が一応毛利輝元であって、その配下の武将が裏切り前提で西軍にいたというのがまあ関ヶ原の戦いであったわけですが、毛利、島津共に西軍に参加していながらも毛利はその後改易を受けて島津は徳川軍と交渉の末所領安堵され、いずれも江戸時代は有力外様大名として存続し、明治維新でいわゆる薩長同盟で明治政府の中核となり、今日に至るという歴史があります。どちらもザビエルの最初の濃厚な布教の地であり、列島の中で突端で海峡など地理的に重要な地であり、共にフリーメイスンリーのシンボルとなる家紋を頂くという共通点があります。また戦国時代に森や毛利の名前の武将が増えるわけですが、どちらもシンボリズムでは「死を想起せよ」のラテン語Memento moriの死にあたる音がモリでありそれと音が一緒で、恐らく三、六角、石、古田、千、蜂や羽、柴、織田のようにシンボリズムと思われます。


吉川広家は和暦の諸聖人の日生まれで、毛利元就の孫、吉川元春の子供ですが、秀吉の人質として秀吉の近くにいたものの、石田三成などに冷遇され、裏切りの原因となったとする説があるそうですが、そもそも毛利自体が半分裏切るつもりで最初からいたという組織的なものとしか考えられないかと思われます。吉川広家の所領は改易後で現在の岩国であり、明治維新まで続き、現在の米軍基地である岩国基地があり、錦帯橋があり、フリーメイスンリーロッジの錦帯ロッジがある土地となっています。関ヶ原の戦いの意味を考えると、基本的には豊臣から徳川への順当な政権の移行とそれに伴う豊臣旧臣の処分、具体的には石田三成の処遇であり、それに伴った大谷吉継や小西行長の死はやはり有力キリシタン大名の淘汰といったところがあるのではないかと思われます。徳川家康の時代になった場合に、恐らく最終的には秀吉と同じくキリシタン改宗は無く、禁教となるであろうし、日本の歴史、文化としてそれは妥当であり、その際に有力キリシタン大名が禁教令に抵抗して内戦となった場合には、再び戦国時代の再来もあり得るとすれば、豊臣から徳川へのほぼ順当な政権移行の際に、核となりうるような有力なキリシタン大名は淘汰して、キリシタンやキリスト教に非常に理解のある大名であっても、秀吉のように調整能力があって、日本の文化や歴史と適応を行ってその後の領地の運営をしうる人物を東軍として配置することで、その後の江戸時代のいわゆる隠れキリシタンの時代にキリスト教と日本の文化の融合が図れると考えたのではないでしょうか。この場合には石田三成という存在はまさにシンボリズムの塊であり、イエズス会に極めて近かった秀吉がそのシンボリズムゆえに重用し、日本二十六聖人の殉教の際にも執行者となったわけですが、大谷吉継や小西行長とは茶の繋がりもあり、来るべき徳川の江戸時代に向けた生贄としての礎石としてのシンボリズムの意味があるのかと思われます。裏切りで最も有名な小早川秀秋ですが、もともと秀吉の正室である北政所の兄の子供であり、木下家の五男という事で、長男はキリシタンでもある木下長嘯子であり、兄弟争いなどもあったようですが、次男と三男が小藩の大名として家が存続し、四男は西軍に与して改易され、七男が大坂の陣で豊臣家と共に散ったとの事で、小早川秀秋はその木下家の中では秀吉の養子となり、豊臣秀次に次ぐ、豊臣政権の後継者の地位にあったそうですが、秀次事件の際に小早川家に養子に出されて家督を継いで大藩の大名となっていたとのことです。養子や人質を経験した武将が裏切りの中核であったというのは、徳川家康が全国制覇を為す関ヶ原の戦いにおいて象徴的であり、そもそも徳川家康が松平元康であった時代に、人質として今川義元の下にあって、今川義元の上京の際に先鋒として尾張を攻撃した際に、実質的な裏切り行為をして、大将の今川義元がその後の徳川家康の切れない縁の盟友となる織田信長に桶狭間で討ち取られ、独立とともに徳川家康と改名して今川氏の旧領を得て大名となって出立したという当初の経験があり、吉川広家や小早川秀秋が関ヶ原の戦いの前哨戦でもある伏見城の戦いや安濃津城の戦いで西軍として奮戦しているのも、本戦の関ヶ原の戦いで適時に裏切りを行う最大の効果を上げるためであり、裏切り者の心理を最もつかむことができるのは裏切って成功した事があるものだけであり、まさに関ヶ原の戦いは徳川家康が天下を獲る為の戦いとしての演出は十全であったわけです。小早川秀秋は関ヶ原の戦い後裏切りを評価され加増となり55万石の大大名となりますが、その間重臣家老の出奔などもあるそうですが、上方から帰りの途中の鷹狩の最中に体調を崩して3日後に亡くなったそうです。酒色におぼれていたとか、世間の評判は悪かったとかあるそうですが、21歳の死という事で、慶長7年10月18日(1602年12月1日)で2121のシンボリズムという事で、その後の徳川家康と同じく毒殺なんだと思われます。ほぼ同時(慶長7年10月15日(1602年11月28日))に木下家の兄で四男の木下俊定も同地にいて病死しているそうです。もちろん小早川家という事で毛利の影響は強くあったものと思われます。




脇坂安治は没年月日で寛永3年8月6日(1626年9月26日)と626と626926とまた中心に回転対称の69を持つ対称なのだと思われますが、まあまた変な形なんですが、変な実験的なシンボリズムが戦国時代のイエズス会は多いんでしょうね。賤ヶ岳の七本槍の1人で関ヶ原の戦いではもともと徳川家康と内通していて、小早川秀秋の裏切りへの備えとして周辺に配置されていたというのですから、滅茶苦茶でしょうか。脇坂家はその後大洲藩、信濃飯田藩を経て、龍野藩で明治維新となったそうです。賤ヶ岳の七本槍は他にも片桐且元 弘治2年(1556年)-元和元年5月28日(1615年6月24日)、平野長泰 永禄2年(1559年)-寛永5年5月7日(1628年6月8日)と微妙にシンボリズムがあり、片桐且元は関ヶ原の戦いでは西軍に付きますが、戦後徳川と豊臣の調整役として活躍し、その後には家康の対豊臣に対する交渉役として働き、大阪の陣では徳川方として働き、大坂夏の陣後20日で60歳で亡くなったそうです。西暦の6月24日は本能寺の変がかなり近い6月21日でしたが、しっかりあるのはこの人の没月日のみと思われ、この人の存在が大坂の陣全般に関係し、その後の江戸時代の成立の基礎となった事を意味するかと思われます。平野長泰の868は微妙ですが、関ヶ原の戦いでは東軍に属し、その後の大坂の陣では豊臣方に付こうとしたが果たせず、江戸留守居とされ、その後明治まで大名として家は続いたそうです。7本槍というのは秀吉が考えたキャッチフレーズのようで、明確なものはないようですが、朝鮮征伐でも日本槍柱七本というのがあったそうで、恐らく北斗七星の7にもかけた、奇数の7のキリスト教では創世記の曜日の数字ですが、そういう皇室に配慮した数字のキャッチフレーズであったのかと思われます。朽木元綱は没年月日で寛永9年8月29日(1632年10月12日)とあり、21012という明確な回文数を認めるのですが、実際は関ヶ原の戦いに参加していないという説もあり、戦後に減封されたとの事もあり、関ヶ原の戦いでの動きは全く不明瞭ですが、本人は83歳まで長生きしたそうです。子孫も琵琶湖沿岸の朽木の地と共に福知山藩としても明治維新まで存続したそうです。シンボリズムを見る限り、かなり裏切りで決定的な役割を演じていそうです。長男が京極マリアの子供と結婚しているそうです。




まあ関ヶ原の戦いの武将の生没年月日であまりに細かくシンボリズム、西暦の年月日の聖人暦や回文数や回転対称数を見過ぎている感がありますが、それだけ没年月日の記録が残る時代となり、それ自体にキリスト教の影響があり、またその没年月日が当時の和暦を使用した時代で、完全にキリスト教徒のみに隠されたシンボリズムとなった事もあり、イエズス会の評価とも受け取れる数字の暗号のようなものが感じられ、興味深いという事かと思われます。まあこの日本の歴史に刻まれたキリシタンの暗号ともいうべきシンボリズムですが、こういうキリシタンの実験ともいえる日本でのシンボリズムの積み重ねが翻ってヨーロッパ大陸での近代フリーメイスンリーの成立を促し、近代の科学文明の成り立ちの一部となった可能性を考えるとなかなか感慨深いものがあり、日本人がその後の明治維新という本格的なフリーメイスンリーとの対峙の時に向けて、隠れキリシタンの時代を通して、日本人がどのようになっていくかを改めてシンボリズムの点から考察していくのは興味深いと思われます。
あまりに長くなったので、明治維新までとしていた表題を変更して、関ヶ原の戦いまでとして、ブログの章を改めて関ヶ原の戦い以後から現代までとして書き連ねることとします。
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