2017-06-18 08:57 | カテゴリ:日本
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2017-06-19 08:32 | カテゴリ:真鶴
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2017-06-24 12:00 | カテゴリ:イングランド
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2017-06-24 21:55 | カテゴリ:日本
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まああまりに長すぎるので前後編に分けましたが、一応シンボリズムに則って9月11日に書ききるように設定しましたが、たぶん無理でしょう。
この間にシニム・ロッジでは113周年でインストレーションがあり、その前に横浜ロッジでは150周年で結構な人数が集まったようです。まあアイルランド系のスフィンクスロッジから起算して150周年という事で、出島のオランダ人のフリーメイスンを除けば、確実にロッジが集会を開いた記録という点では横浜が日本のフリーメイスンリーの最初であり、そこから大政奉還、明治維新への流れが定まり、キリスト教の日本での復活があり、日本の文明開化、近代化が始まったわけです。現在の天皇家にしてみれば、公的にも戦後のブラザー東久邇宮稔彦親王殿下がフリーメイスンであり、今上天皇陛下も昭和天皇の皇后の香淳皇后がブラザー東久邇宮の姪にあたることからかなり近い血縁関係という事で、まあ鳩山家などと同じく戦後にそろってフリーメイスンとなった、そういう認識でもまず間違いはないわけですが、実際に明治維新以降は神道の祭主としての行事を執り行っており、こういう点で、近代化としてのキリスト教信仰になりえないという宗教的問題があるかと思われます。まあ何をもってフリーメイスンと成すかというのは常にフリーメイスンリーの命題であり、それには時代と世の中の状況というものが必ず関係してきますので、まあそういう点を含めて、平成28年のこの時代に生前退位が話題になるというところで元号の点から見ていこうとなったわけです。

さてまあ実際の現代の日本のフリーメイスンリーの活動はさておき、このブログでは日本の天皇家のフリーメイスンリーとの接点、主に仏教やキリスト教を通してという事になるわけですが、その傍証としての日付と名前のシンボリズムを検証することをしているということになります。それで前編では1549年のザビエルの来日とキリスト教伝来までの後奈良天皇までの歴代天皇について、名前と元号のシンボリズム、平、光、明、そして生没年月日、即位と譲位の年月日をそれぞれ和暦と西暦についていわゆる数秘術とキリスト教の祝日の観点から見ていったわけです。結論としては日本では暦が成立した大化の改新直後から和暦、西暦ともに生没年月日、即位と譲位の年月日にシンボリズムを認め、それは常に仏教や陰陽道として様々に社会情勢に合わせて強められたり、弱められたりしながら、またシンボリズムとしても極めてキリスト教的なシンボリズムを時に認めつつ、それらがまた非常に非日本的であるというような反発を得て仏教への帰依や禅宗の広まりとともに、最終的にキリスト教の伝来を待つという形になったのかと思われます。歴史の必然としての日本へのキリスト教の伝来、それはもちろんフリーメイスンリー、キリスト教を知らないとなかなか反発があるわけですが、実際の世界情勢、キリスト教、フリーメイスンリーを詳しく知ると、それがまた必然であるというところがまた近代化や文明化という言葉でまとめられることになる、現実のキリスト教、フリーメイスンリーでもあるわけです。

さてまあ長々と前置きを書きましたが、9月はユダヤ教でも重要なヨム・キプル、スコットの月に後半が当たるという事で、9.11から始まって世の中の動きも急速な状況ですので、なるべく早く書き終えて平成28年の日本に為になるようなものとしたいと思っています。(今年のユダヤ暦の新年は10月3日から、ヨム・キプルは10月12日、スコットは10月17日18日だそうです。)

それでザビエルが献上物を捧げなかったために会えなかった後奈良天皇ですが、まあ応仁の乱などの状況でそういう懐事情もあったのかと思いますが、いわゆる戦国時代で比叡山延暦寺や高野山金剛峯寺、また鎌倉仏教後の本願寺、大徳寺、妙心寺といったいわゆる様々な権力や勢力を持った仏教集団が渦巻く京都御所であったわけで、まさに異教といえる、実は日本に伝来した仏教が常に教えとして求めていた可能性すらあるキリスト教、ユダヤ教を排斥する行動になったのはまあやむを得ないというかまさに無知蒙昧のなせる業であったのでしょうか。後奈良天皇の子供の正親町天皇106代天皇永正14年5月29日(1517年6月18日) - 文禄2年1月5日(1593年2月6日)在位:弘治3年10月27日(1557年11月17日) - 天正14年11月7日(1586年12月17日)はおおぎまちてんのうと読み、まあ即位のシンボリズムが和暦と西暦で交錯した形である程度で、没年月日はこれは公現祭に多少かかるのでしょうか。ザビエルが会えなかった後奈良天皇の没年月日が 弘治3年9月5日(1557年9月27日)で西暦で3の2乗と3の3乗のシンボリズムが認められ、後奈良天皇は伊勢神宮への宣命には皇室と民の復興を祈願したり、『般若心経』の奥書には自省の言を添えるなど、まあなかなかフリーメイスン的であるわけですが、その後の正親町天皇は実権を失っていたとはいえ、1565年にキリスト教宣教師の京都追放を命じたという事で、こちらはかなり浄土真宗の本願寺に頼ったり、のちには織田信長の上洛に頼ったりと、なかなか色々ある有名な状況でもあるわけです。後奈良天皇が60歳、正親町天皇が76歳とこの時代に天皇の寿命は飛躍的に伸びており、戦乱の中で天下人であった織田信長とかなり近しい関係になったり、その滅亡後も天下統一した豊臣秀吉に関白の権威を与えることで、皇室の尊厳がかなり高まったこともあり、また曲直瀬道三を始めとしたクリスチャンの新しい医療や健康法の導入が直接的に関係していることもありそうです。ちなみに歴代天皇でおおOOと発音する天皇はこの正親町天皇だけであり、オームの真言ではないですが、仏教系のそういう真言のシンボリズムと関係している可能性が高そうです。もちろんそれと対応して最初のキリシタン大名の大村氏があるという事でしょう。
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この時代はもちろん家紋もそうですが、天下人となった織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の戦国三傑に極めて明確なシンボリズムを認める時代であり、それらが奈良時代、平安時代、鎌倉時代や南北朝時代のように仏教との関係からさらにその先に存在すると類推されるキリスト教などと考えられる時代と違い、明確にシンボリズムを重視するイエズス会を筆頭としたキリスト教宣教師の存在がありますので、それらの実際の活躍ととらえられることができるかと思います。

さてまあここから11/27以降に加筆しているわけですが、2か月の間を開けて書くというのもこのブログではかなり珍しいのですが、その間に三笠宮殿下も亡くなり、フィデル・カストロも亡くなり、アメリカ大統領がトランプ氏に決まったという事で、まあそんな感じなわけです。日本のキリスト教の歴史、天皇家の歴史は現代の国際政治にも関係しているのでしょうね。

さてさて嵐のような天皇誕生日となった12/23の本日なわけですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。まあブログの加筆もなかなか滞っている状況なわけですが、世の中の移りすぎるのは目まぐるしいわけで、そんな時代を感じる平成28年12月23日今上天皇陛下の83歳の天皇誕生日の本日に書き進めることとします。

まあいつの時代も天災やら人災やら、権力争いや仲間同士の争い、兄弟の争い、親子の争いと争い事や災害は尽きなかったわけですが、それらが日本史上特筆すべきものであったのがキリスト教伝来とその直後のまさに戦国時代であったわけです。フランシスコ・ザビエルがシンボリズムに基づいて日本で伝道を行った2年の後、真言のシンボリズムととらえられる大村氏や大友氏、大内氏といった大名とのキリスト教の関りや、近畿での権力争いに関する六角氏や三好氏、三好三人衆といった存在は数字のシンボリズムを思わせるものですし、管領家である細川氏のその後のキリスト教との接点などは細川の名前自体に恐らく何らかの音でのラテン語かポルトガル語やスペイン語でのシンボリズムがあるのではないかと思わされます。(ホセ・カワードになるようです。スペイン語のジョセフの名前のホセJosé、カワードは英語、ラテン語の臆病者の意味のcoward、一般に日本の濁らない音の川はcowardになるようです。卑怯者のジョセフ、そんな教訓的な意味の名前に響くようです。)そしてその混とんとした状況の中で現在の愛知県を中心とした地域から権力を手にする戦国の三英傑が出てくるわけですが、最終的に幕府を開いた徳川家康のイエズス会との名前の相似のシンボリズムと没年月日のシンボリズムがまあ改めて戦国時代の総括でもあるわけですが、それを踏まえて織田信長、豊臣秀吉についても見ていきましょう。

織田信長のエピソードとしては後見役の平手政秀の自決や桶狭間の合戦での神がかり的な成功、斎藤道三とのつながりとその後の斎藤家の調略、さらにその後は織田軍団を率いた各地での転戦と、仏教権力の弾圧、裏切りや調略といった軍団への統制と、安土城の建設から本能寺の変での裏切りでの死といったところだと思われます。生誕日についてはこれは城主の息子でありながらはっきりとはしないとして、この辺りが明確に旧暦の6月24日に生まれて死んだとされる加藤清正などとは異なることなわけですが、グレゴリウス暦で6月21日であるという説などもあるというようです。また死没年月日の本能寺の変は明確にグレゴリウス暦で1582年6月21日であって、これは3日ずれではあるかもしれませんが、明確なイエズス会が刻んだ夏至のシンボリズムなのだと思われます。平手政秀についても当時としては長命の62歳で自刃したことや、娘が織田有楽斎の妻であること、信長との不和の原因が五郎右衛門という息子のエピソードであったことなどから、名前も含めて、宣教師との接点がこの辺りである可能性があるでしょうか。熱田神宮との関わりや、兄弟間での凄惨な争いなどは、キリスト教でも旧約聖書のユダヤ人のエピソードを思わせる話であり、熱田神宮の御神体の草薙剣の逸話などもそれらを想起させるもののようです。織田信長は斎藤道三と舅関係でありましたが、斎藤道三ももともと僧侶の出身であるようで、名前の斎藤は自ら名乗ったもので、北条早雲のものと同じようなものであるようで、まあSaint、キリスト教の聖人のセイントとかかるのだと思われます。道三という名前も黒田如水のように、道教の思想と三位一体の融合であるようで、またドミニコ会を始めた聖ドミニコの名前に全体として相似となるようです。ドミニコ会は日本に伝道した修道会の三番目のもので、イエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会の順であり、中世のトマス・アクィナスを輩出し、キリスト教神学とギリシア哲学のアリストテレス哲学を融合した業績があるそうです。フリーメイスンリーのかつての守護聖人であった聖トマスの名前を冠した、キリスト教の聖人であり、その後のルネサンスの思想の中心となった人間中心主義ヒューマニズムの源流となるものかと思われます。斎藤道三は息子の義龍に戦いで敗れ63歳で亡くなり、その後斎藤義龍は織田信長に敗れ、稲葉山城は岐阜城と改められました。斎藤氏の末裔の稲葉氏はその後現在の皇統に連なる血縁となったそうです。INABAでINRIになるのでしょうかねえ。稲葉山城、現在の岐阜城の攻略において、木下藤吉郎が瓢箪の旗印を攻略の印として掲げ、その後より豊臣秀吉となる成功譚が始まるわけですが、この瓢箪のシンボルがホタテガイのシンボルと並んで、キリスト教の十二使徒の大ヤコブの巡礼者としてのシンボルであるそうです。またこの大ヤコブのカトリックの聖人暦が7月25日となっていて、真鶴の貴船神社で祝われる伝統的な貴船まつりの特定日の7月27日に近いものであるようです。大ヤコブの遺骸がレコンキスタの最中に発見されたとのことで、スペインの守護聖人とされるそうで、スペインバスク地方出身のイグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルを設立者とするイエズス会に結びつけて表されているようです。
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さてこの間でほぼ一年近くたってしまったブログですが、皆さんお元気でしょうか。2017年6月24日の近代フリーメイスンリー結成300周年の今日なわけですが、こんなブログの加筆で良いでしょうか。日本におけるフリーメイスンリーのシンボリズム史といったテーマなわけですが、まあキリスト教伝道前とキリスト教伝道後、そしてフリーメイスンリー到来の明治維新後という形で3つに分けそうですが、元号も変わりそうな平成29年の完成を目指していこうかと思います。

さて戦国の三英傑とイエズス会の伝道といった話になるわけですが、現在の岐阜、愛知、静岡を拠点とした3人の天下統一を果たした日本史での超有名人ですが、どうも名前や生没年のシンボリズムから見る限り、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の順に天下を治めたのは全てイエズス会の差配の限りであった模様です。まあこういう事を言うと、キリスト教や当時のヨーロッパ、イエズス会の伝道についてある程度知っている人にとっては、まあ当たり前といえば当たり前の話であり、日本史の常識から言えば非常識であり、何を言っているのかという話になるわけですが、シンボリズムの観点から言うと、近代フリーメイスンリー結成の秘密ともいえる重要な出来事となるのだと思われます。

まただいぶ間が空いてしまいましたが、内容的にはイエズス会などの相当の文書を読まないと書けない内容になってしまっていて、時間がかかるのもしようがないのですが、そこまで一気に読むことはできないので、現在途中まで読んでいるところで、私のこのブログの内容と非常にリンクする内容の本という事で、以下のキリスト教、イエズス会の目線から見た安土桃山時代の日本のキリスト教史を記録から淡々と概説する内容の聖母文庫の高木一雄氏の「関西のキリシタン殉教地をゆく」を紹介します。

カトリックの本という事で、ほぼ正式にイエズス会の文書に準拠した内容になっているかと思います。これによると、織田信長の子供たちは皆キリスト教会に非常に心を寄せており、信長の死の19日前の自らを神とする布告のために本能寺の変で亡くなったとのことです。また秀吉は自ら教会に赴きキリスト教の洗礼を受けようとしたこともあり、また秀吉が禁教令に傾いた経緯も具体的に描かれており、朝鮮征伐の動機もかなりキリスト教が影響していたこともわかり、後の秀吉の老境での混乱の原因ともされる秀次もキリスト教にかなり同情的であったことなどが分かります。大谷吉継の洗礼なども書かれており、戦国武将のキリシタンの洗礼が分かりやすくなっています。また日本人にはなかなか分かりづらいイエズス会とその他の修道会、フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチノ会の関係が非常にわかりやすく書かれています。

イエズス会士は最大でも100人程度が日本にいたのみで、それでいかに日本にキリスト教が根付くかという試みと、最後まで武力による制圧を行わないという事を守り、1588年8月8日のスペイン無敵艦隊の敗北をきっかけとして、その後の流れをイギリス、オランダの新教国に引き継いでいくのが、まさにフリーメイスンリーへの転換であり、ユダヤの六芒星を作ったという、イエズス会のシンボリズムのエッセンスはそのままフリーメイスンリーへと受け継がれていったようです。そういう意味では日本では散々に異なる人物として描かれる、戦国の三英傑ですが、キリスト教、イエズス会からすれば本質的には同等で、まさに修道会を意味するオダのシンボリズムと、ヨシュアを隠すというヒデヨシのシンボリズム、そして最後に権力を掌握し、そのためにイエズス会の後のフランシスコ会と関りが深く、スペインとつながりを持った、名前はイエズス会のシンボリズムそのもののイエヤスと、それぞれ宗教的にはキリスト教徒とはなりえず、そしてその結果いずれもキリシタンに囲まれた中で落命することになったようです。家康に関しては、以前にも触れた没年が1616年6月1日と明確なシンボリズムが描かれるわけですが、その前兆ともいうべきヨーロッパのキリスト教の当時最新鋭の技術の粋である時計の贈与が1606年から何度か行われたようで、現在も久能山東照宮に残るゼンマイ時計なども、まさに砂時計や大鎌のシンボリズムと同じく、死の時を刻むシンボリズムそのものであるようです。

はてさて、これで何回目の加筆になるのかわかりませんが、長編小説のようになってきました。文豪谷崎潤一郎由来の土地に住んでその影響かもしれませんが、なかなかヨゼフ病院時代とは内容も書き方も変化が著しく、ブログとしてまとまりを維持するのが難しそうです。2017年平成29年10月8日の加筆という事で、この章を書き始めてから1年以上経ち、フリーメイスンリー300周年のUGLEのイベントである10月31日のロイヤルアルバートホールでの記念式典に間に合うように書くのが望ましいのでしょう。

このブログでのこの章の内容は、日本の歴史におけるフリーメイスンリーのシンボリズムを認める、主に歴代天皇や権力者の生没年月日や元号や名前のシンボリズムを取り上げて、考察するわけですが、同時に平成の天皇退位、元号変化の予定もありますので、それに合わせてのフリーメイスンリー的考察という事になるわけです。
それで、まあ仏教伝来が一つの日本の天皇家などでのフリーメイスンリーシンボリズムの表出の一つの要素であったわけですが、その後のより大きなフリーメイスンリーシンボリズムの現出のきっかけが、1549年8月15日のザビエルの来日でのキリスト教伝来であったわけです。まあもちろんその後は明治維新で、太平洋戦争の終戦となるわけですが、この章は3章に分けた真ん中のキリスト教伝来から明治維新までという事で、戦国三傑とキリスト教と、その後のキリスト教禁教時代の徳川幕藩体制と京都での天皇家に着目していくことになります。

さてここからはさらに平成30年12月16日の加筆という事で、ブログの1ページでありますが、2年の長きにわたっての推敲、加筆という事になりますでしょうか。新たに2冊の織田信長関連の本を読破して、まあイエズス会=フリーメイスンリーの生みの親としての論を強くしてなおかつ、ザビエル以降のシンボリズムの表出がキリスト教伝道に伴うものであり、戦国の三傑がイエズス会によって生み出されているという論を補強したというところです。

さてまあ信長公記を読んでみた率直な感想としては、織田信長は非常に非情な人であり、基本的に城攻めでは全滅戦であり、裏切りや降伏は一切許さず、部下にも一切の不服従を許さない、典型的な専制君主であり、裏切りや暗殺を試みられることたびたびで、そのたびに幼いころからの訓練の賜物の優れた武力と騎馬力で前線での戦いや危機を乗り切ってきていました。若いころから遠駆けや鷹狩が大好きで、相撲も好きであって、そのために腰に瓢箪をたくさんぶら下げていたという有名な描写もあり、スペインから来たイエズス会士には巡礼者の象徴として気に入られていたことが想像され、それを部下の木下藤吉郎が旗印に取り入れたことも納得しやすい部分ではないでしょうか。「信長と十字架」ではフロイスと信長の岐阜での面会が京都上洛後となっていますが、ザビエルの死と信長の父親の信秀の死がほぼ同時期であり、初期の段階でキリスト教の宣教師は日本全国を巡っており、織田order、修道会、秩序の発音に繋がる、この若者の事をイエズス会は把握していて、応仁の乱後の六角氏、三好三人衆といったシンボリズムの権力者での表出と、京都からの宣教師の追放令という日本の伝統勢力との対峙していた時期に、混乱から秩序をもたらすキリスト教布教に有力な人物として挙げられたことは想像に難くないと思われます。元服時の三郎信長の名前も、その後のキャッチフレーズの天下布武も、教育役であった平手政秀の自死後の後見人としての、京都妙心寺の僧宗恩沢彦の発案という事で、竜樹ナーガルージュのナーガ、蛇神、龍神の名が入っていて、これを信仰するという意味の名前であり、仏教的にインドの信仰に近づいたシンボリズムを含んだ名前という事が出来るかと思います。信長の近くには長良川という、これまた長の入った象徴的な地名もあり、当時の戦国時代には長尾景虎という、仏教を信仰した武将や、長続連といった、長そのものの武将もあり、これらもまた当時の仏教系のシンボリズムの流行であり、織田の家系が神社の神官の家系であったことと、宗教的にバランスをとるものがあったようです。ナーガのシンボリズムはイエズス会の本拠が長崎に置かれたことで最も強調され、オームの真言の大村氏が寄進したのですが、ナーガサック(Naga Sack or Sac)で恐らくナーガを治める袋という意味となり、聖書では蛇はアダムとイブに知恵を与えるものであり、楽園追放のきっかけを作った邪悪な存在であり、龍は中国皇帝の象徴で、聖グレゴリウスが退治する恐らくモンゴル人の象徴であり、フリーメイスンリーではグノーシスの象徴の尾を噛む循環する輪としての蛇となるのだと思いますが、ナーガ自体は恐らく男性器の象徴ととらえられ、生殖、繁殖の象徴として、黄色人種の旺盛な繁殖力を制御する、仏教に象徴されるインドから東アジアへのアジア人をキリスト教で制御するという意思の表れであったのかと思います。(ナーガサックNaga Sacでやはりナーガを生贄にするという意味にも取れるようです。)長崎の地名自体は半島の形からきているわけで、それは能登半島を治めた長続連の名前とも関係するでしょうし、現在に残る長野の地名の善光寺の門前中町の坂の地形からきているのと同様と思われます。シンボリズムから見る限り、織田信長を改宗させる意図はなく、織田信長にイエズス会が求めたものは仏教の秩序であり、それはまさに比叡山焼き討ち、本願寺討伐、恵林寺の焼き討ち、高野山への圧迫という、仏教勢力の弾圧であり、織田信長でOrder Noble Nagaまさに高貴なナーガの修道会という名前通りの働きとも言え、一方で伊勢地方の一向一揆を過酷に討伐し、伊勢神宮に盛んに寄進をして、武田討伐では諏訪大社は焼き討ちするという、明治維新後の国家神道の方針に似た、伊勢神宮重視の宗教政策であったのも、織田信長自身の出立のきっかけであった上京しての足利将軍の奉職を促した正親町天皇の宣旨をもたらした人々が、吉田神社の吉田神道につながる万里小路惟房と磯谷久次と立入宗継であったこともあるのだと思います。
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立花京子氏の「信長と十字架」によれば、これら桶狭間の戦い後の信長に上京と足利義昭の将軍就任の補弼を促した、決勝綸旨という形の天皇宣旨を計画した人々は、清原マリアで知られる、吉田神道につながる、清原枝賢や吉田兼右らは姻戚であり、潜伏キリシタンであるとのことで、それらは結局イエズス会が計画して、それに天皇家や公家が乗る形で織田信長を操っていたという論になるようです。

さてまあまた繰り返しになり非常に読みづらい文章で恐縮ですが、織田信長のナーガのシンボリズムですが、これは同盟関係にあった妹のお市の方が結婚した浅井長政の改名後の名前の部分であり、また織田信長が集団戦で鉄砲の効果を知らしめた長篠の戦の地名でもあり、大規模な虐殺で有名な長島一向一揆の地名であり、浅井長政の姉妹にも京極マリアなどもおり、近江の琵琶湖の辺縁で、後の居城の小谷城は羽柴秀吉によって長浜城と改名されますが、そういうナーガのシンボリズム自体も仏教のリバイバルとして特に琵琶湖周辺で恐らく比叡山、三井寺の天台宗を中心として行われていて、結局のところ南蛮船の渡来によるキリスト教の伝来は同時にインド仏教、中国仏教の再興、インド文化、中国文化の流入を必然的に伴っていて、その中心にシンボリズムとともに選ばれた織田信長、豊臣秀吉、徳川家康がいたという事になるようです。

信長に関しては尾張での青年時代に蛇池神社での逸話も信長公記にはあり、織田信長の寄進した瓦塀も有名な熱田神宮の八岐大蛇に繋がる草薙の剣のご神体もあり、最終的には安土城での蛇石の崇拝が決定的で、密接にイエズス会と協力関係を築き、安土セミナリヨでカノンにつながるオルガンの音色も聴きながら、自らを神とする布告をもってイエズス会に見限られてその一生を全うしたという事になるようです。生年月日もほぼ西暦の6月24日近辺という事で、没年月日のグレゴリウス暦での6月21日というのも綿密にイエズス会のオルガンティーノ師を中心に練られた計画通りでしょうし、その直前に「信長と十字架」によれば織田信長が曲直瀬道三とともにグレゴリウス暦について検討していたというのも何ともイエズス会の与えた運命の皮肉という他ないわけですし、狩野永徳に書かせた安土城屏風がいまだ行方不明というのも、これまたカトリックという組織を説明する何よりの事象のように思われます。本能寺の変が法華宗の寺というのも33の観音のシンボリズムに極めて接していて、本能と理性という構図が、反乱者の明智光秀のシンボリズムに表れるというのも、これまた何とも織田信長を象徴する事例のようです。お市の方との関係や、その他尾張、美濃での同族を裏切っていく様子や家臣に対する対応など、そういう様子があり、武田攻め後の東海道帰還などでその様子は限界を呈していて、また楽市楽座の話や、琵琶湖の竹生島参り後の家臣や女房を殺した話や、評判が悪くなって城下の祭りで裸踊りをしたなどのエピソードや、浅井一族の髑髏の話なども、日本統一に関しては全く不可能という見解が朝廷、イエズス会共にあったのは確実かと思われます。特にキリスト教、ユダヤ教で重視する女性関係、斎藤道三の娘の帰蝶の正妻との関係、側室との関係、お市の方との関係、男色のことなどもあり、いずれにしてもナーガのシンボリズムに強烈に彩られた織田信長がイエズス会とほぼ行動を一にしながら天下統一の基礎を築き、豪華絢爛な安土桃山時代の文化の礎を築き、自らのアジアのシンボリズムのゆえに、創世記の蛇のように日本人に知恵を残して消えていったというのが、シンボリズム的な織田信長という事になるのでしょうか。恐らく認識の範疇では織田信長はキリスト教や西洋文明を把握、理解しながら、行動としてはそれらに準ずるようなものは無かったというのは、三英傑に共通する、当時の日本人の常識や認識の当然の帰結であったのではないでしょうか。
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ちなみに羽柴秀吉は三木城や鳥取城攻めの前のあたりの中国攻めの時点で独自で和議を交わしての城攻めを行っており、そちらの方が明らかに統一に向けて合理的で、信長後の秀吉の天下統一の過程ではそれらが多数認められるわけですが、それに対して信長が激しく叱責して、その後の三木の干殺しや鳥取の渇え殺しに繋がる攻城戦となり、最終的に高松城での水責めの最中の本能寺の変というタイミングも、織田信長の武人としての限界もあるのだと思われます。また徳川家康との関係では明らかに桶狭間の戦いの際には松平元康の今川義元の陣の配置に関して裏切りが示唆され、それがどの程度のレベルであったかは不詳ですが、恐らくその事象からの織田信長との切れない縁となっているものと思われます。桶狭間の戦い後に松平元康から最初松平家康へと改名、その後徳川家康と改名するわけですが、最初の家康への改名は松平家を意識したものと思われ、恐らく偶然と信長のようにシンボリズムの必然があり、本人の意識としては完全に偶然にイエズス会に似たものとなったようです。その後の徳川への改名には近衛前久の助力があったとのことで、もともと時宗の僧であった松平家の系譜と、賀茂神社の末裔が多く占める三河武士の棟梁としての立場から、源氏の末裔としての格付けがなされ、この時点で天下統一への道が出来たと考えられるかと思います。徳川でTのシンボリズムとなるのは、恐らくイエズス会にお目付け役としてフランシスコ会の修道会のものが入っていたと推測されることと、川の治水などの意味を込めたのではないでしょうか。鴨川や長良川、木曽川、揖斐川、利根川などの川全般の意味も込められているかと思います。朝廷的には関東域での開発において、治水が最も大事な公共事業であったと思われます。徳川家康と織田信長を比較すると、ヤコブの子ヨゼフの兄弟に捨てられながらも裏切らないエピソードなども思われ、イエズス会が人物選定の際の基準としていたことが強く認識されるかと思います。

またこの時期の特筆される事象として本能寺の変後6年で1588年8月8日のアルマダの海戦で新旧教国間で世界規模の決戦があり、英蘭軍が勝利して、世界はスペイン、ポルトガルのカトリック国による二分から大英帝国の時代と、フリーメイスンリーの時代に変化していくという事でしょうか。その最初のきっかけはキリスト教的な視点から見れば、これら織田信長の時代にあると言えるのかもしれません。その後の関ヶ原の戦い直前に三浦按針とヤン・ヨーステンらが日本に漂着し、大坂夏の陣などで決定的な役割を演じるのもご存知の通りかと思います。

ちなみに織田信長の石造技術としては、明らかに安土城は石垣山城の前身の技術であり、石垣山城では山頂付近に井戸を設けるというのがあるのに比べて、いわゆる乱積みともいわれる、野面積みであり、その多くが観音寺城からの石材の使用が想定され、それらではやはり安土のシンボリズムと同等で仏教、キリスト教双方の協力が考えられるかと思います。やはり石垣山城での石造技術が決定的にキリシタン主導で行われるものになったようです。石造技術とシンボリズムの表出、伝来の一致がまさにフリーメイスンリーといえるかと思います。ちなみに土のシンボリズムはやはり陰陽五行とともに、プラトンの四元素説が混じったものであると考えられ、十字も含まれていて、イエズス会のフリーメイスンリーにつながるシンボリズムが見て取れます。安の字に女性が含まれていることなどは信長の嗜好を思わせ、また安土自体が弓道場の築山であることなどもその嗜好を強く思わせるものかと考えます。安土城の装飾や建築も、信長公記で読み解く範疇では、中国文化の道教や儒教の思想を強く反映したもので、仏教というよりは法華経のナーガのシンボリズムを強調したもののようで、信長自身の思想がフロイスの表現する通り禅宗に影響された無神論という通りなのではないかと思われました。アヅチの音に関しては恐らくアツタ神宮の影響が考えられ、アッツイのアイヌ語での海の表現に近づくのでしょう。近くの観音の音のカンノンが恐らくアイヌ語表現と関係することとも関係するようです。最終的に本能寺の変の際に織田信雄がこれを爆発して燃やしてしまったというエピソードは、松永久秀の最後の話もありましたが、信雄は伊勢の一揆を鎮圧していて、信長が非常に叱責していた子供であり、親子関係の事もあり、キリスト教の洗礼も受けていたとのこともあり、安土城の屏風のエピソードと合わせて、まあキリスト教的な最後であったのだと思われます。織田信雄とその一族もそれぞれその時代としては長命であったこともキリスト教の洗礼と掛け合わせられるのだと思います。織田一族のほとんどがその後洗礼を受け、長寿であったというのも織田信長を考える上で重要な要素かと思われます。織田信雄の養子先の神戸家の名前が、その後の開港地の名前となって、現在まで続いているのも関係があるのかもしれません。
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織田信長に関してのシンボリズムで追加するものとしては、琵琶湖に浮かべた大船の事があり、天正元年(1573年)に足利義昭を追放する直前に琵琶湖の周辺の平定のために丹羽長秀に作らせたものという事で、ローマ皇帝のカリグラを思わせるような事象であり、シンボリズムに平行して、イエズス会による影響もあるのではないかと思われます。この後には瀬戸内海と伊勢地方から軍船を派遣して、シンボリズムとしての意味合いが強かったと思われる大船は小舟の材料としたというのも、実用性を重視したという事で、そういうエピソードと思われます。また蜂屋頼孝という家臣がいて、信長時代に馬廻り衆から大名になっていて、その後秀吉配下となるも没落していくのが、同様な丹羽長秀や、柴田勝家と似ているところがあり、いずれもシンボリズムを認め、蜂、羽、柴となるわけですが、まあそれぞれシンボルとして成立するわけですが大丈夫でしょうか?養蜂に関しては記録としては日本書紀の時代からあることにはなっているそうですが、本格的な養蜂は江戸時代とのことで、砂糖菓子が大量に増えたイエズス会宣教後の状況と合わせて、養蜂技術に関しても宣教師が相当に関わっていることが、これら家臣名のシンボリズムからも推測されるかと思います。木下藤吉郎にまた初期のころから蜂須賀小六という部下がいたのも偶然ではなさそうです。また馬揃えの際に象徴的であったクジャクの羽もまた鳥のシンボリズムであり、三井寺で孔雀が現在も飼育されているのが、鳳凰への連想もありシンボリズムと考えられます。また天下布武の印の楕円も「信長と十字架」の説の通りシンボリズムと考えられます。信長に関しては刀剣を褒美として与えることが非常に多く、本人も収集して、積極的に作成させていて、もともと織田剣神社という由来もあり、まさに騎士団のシンボリズムとなります。
650x_30722325.jpg800px-Hachiya_Yoritaka.jpg800px-Niwa_Nagahide2.jpg800px-Shibata_Katsuie_large.jpgHachisuka_Masakatsu_(Full).jpgb49_1.jpghistory_11.gifyjimage_20190122080423218.jpg
織田信長の家臣で著名なキリシタンとしては、よくわからない理由で追放されたとされる佐久間信盛がおり、また後に羽柴秀吉傘下となる黒田如水や高山右近などが有名です。足利義昭と織田信長の間にたった、和田惟政もこの時期で顕著な没年月日のシンボリズムを認め、享禄3年(1530年)~元亀2年8月28日(1571年9月17日)であり、没年月日の対称形の71917の並びはこの時代この人唯一のものであり、和暦でのシンボリズムと合わせて、グレゴリウス暦の直前のユリウス暦の時代であり、キリスト教布教に協力した武将としてその影響が大きかったことが伺われます。没年月日のシンボリズムとしては、織田信長の上京や明智光秀の謀反に関わったとされる現在に繋がる熊本細川家の初代と目される細川幽斎と、吉田神道の始まりとされる吉田兼倶の孫である吉田兼見は従兄弟関係であり、同日慶長15年8月20日(1610年10月6日)に吉田神社の近傍で亡くなったとされることが、まあ具体的な本能寺の変から関ヶ原の戦いに至るまでの当時の日本政治の中枢にいた人物であったことの象徴と思われます。いずれも1と6にまつわるシンボリズムであるのも、2×3=6の数秘術となるようですが、その後の徳川家康の1616年6月1日の命日に繋がるようです。また吉田神社自体は6角形と8角形の社殿を1601年に建設しており、六角氏が6角形の社殿を元とすることと合わせて、その後の8角形が安土城でとられた形であることと、ハチの発音が蜂にもつながることや、蜂の巣が6角形であることなども併せて、イエズス会のもたらしたキリスト教と習合した日本神道の新たな形として、それは明治維新後にさらに復興することになるのだと思われますが、明確な没年月日のシンボリズムであると捉えられるようです。吉田は恐らくヨシュアとダルマJoshua Darmaの合成と捉えられ、細川は以前にも書いた通りホセ、カウアー Jose Cowardとなるのだと思われます。いずれも吉田茂や近衛文麿など太平洋戦争終戦時に同様に同じ苗字や末裔が活躍するのもペリー来航時の吉田松陰のように韻を踏んだような形になるようです。和田に関してはWar Darmaとなるのでしょうか。まあ日本人の名前のシンボリズムについては相当日本人にとっては理解しがたい部分があるようですが、キリスト教を主とする日本国外からの影響を考慮するとこういう様相になるのは当然でもあるようです。
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さてでは次に三英傑二人目の豊臣秀吉になるわけですが、幼名は日吉丸という名が有名ですが、これは後から付けた可能性が高いとのことで、日吉神社が比叡山発祥の山王信仰に基づくもので、三位一体の形を漢字の形から含んでいるとのことで、信長の恐らくイエズス会主導であったろう比叡山焼き討ちの影響が垣間見えるというところでしょうか。もともと木下藤吉郎という名であるので、幼名も吉の字が入る可能性は高いようですが、名古屋の中村公園近くを出生地としているとあり、中村公園横の常泉寺にお手植えの柊があったりしましたが、まあどこまで本当かは全く不明ですが、出自がはっきりせず、織田信長後の後継者としてイエズス会に選ばれ、皇室や朝廷からはやや嫌われた感がありつつも全国統一して、関白就任し、朝鮮征伐をはっきりした理由不明に開始した経過を見るとやはり飛鳥、奈良時代以降の朝鮮からの渡来人家系であったことが最も考えられそうです。秀吉自体が父親の存在を嫌っていて、その存在自体を歴史上から消滅させた可能性が強いようです。秀吉の姉は長命で、息子たちを全てなくし、特に秀次は孫のほとんどを殺され、唯一秀勝の娘完子が九条家に嫁いで、その子孫が大正天皇の皇后である貞明皇后へと繋がり現皇室につながるようです。この朝鮮征伐の途中で亡くなった羽柴秀勝はキリシタンで洗礼を受けているそうです。また秀吉の妻の北政所の出身の木下家、浅野家はそれぞれ大名として江戸時代も存続したようです。北政所の侍女にはマグダレナという洗礼を受けたものがいたそうです。この木下家の木下長嘯子はキリシタンであったようです。秀吉の血縁者でのキリシタンと目される人物は淀君の繋がりからの京極高次に嫁いだ浅井三姉妹の常光院や豊臣秀勝と徳川秀忠に嫁いだ崇源院がいて、崇源院の娘が上述の九条家に入った完子であり、崇源院はいわゆるお江として知られる女性で、娘や息子が千姫や徳川家光であり、千姫はその後豊臣秀頼と婚姻し、大坂夏の陣後は桑名藩の本田家に入りますが、姫路城に移ったのち生まれた子供たちも次々と亡くなり、江戸城に戻ったそうです。千姫と共に鎌倉東慶寺を支援したのが秀頼の側室の子供である天秀尼であり、東慶寺にイエズス会の紋の入ったキリシタン聖餅器があり、駆け込み寺として知られていますが、その周辺で江戸時代のキリシタンとしての接点があったようです。

まあいきなり血縁のキリシタンの話になってしまったわけですが、秀吉の場合は実子のうち成人したのが公的に秀頼しかいませんので、実際は全く似ていないという事もあり、秀吉がその他に数多くの女性関係がありながら子供がいないことなどからも、大野治長の子と考えられるようであり、実子についての話はないという事になるかと思います。秀吉自身が禿ネズミと信長に呼称される容姿で、右手に指が6本あったという人物であり、人たらしで知られる人格ではありますが、漢字の書の教養は一切ないという、日本史上今後も現れないであろうという、世界史上でもかなりまれな権力者となった農民階級の人物であり、その出自と幸運に恵まれたキリスト教布教の過程での優秀なキリシタン武将に囲まれての天下統一の過程で、三英傑の中で最もキリスト教に近づいたとされており、カトリック側によれば、自ら教会を訪れ、数多くの妻帯を認めれば入信してもよいと発言していたという事です。立身出世の過程でも貪欲にシンボリズムを取り込んでおり、最初はイエズス会のスペインの巡礼者のシンボルとなる瓢箪を岐阜城攻略の際に旗印とし、織田信長の家臣筆頭であった丹羽長秀と柴田勝家から、その明らかな聖書に関わるシンボルの部分の名前を合成して羽柴と名乗り、秀吉としてHide Yoshuaとなる発音の名前を名乗るのは明らかに織田信長周辺にいたイエズス会と接点を持っていたことが想像され、それがまさに本能寺の変後の中国大返し、柴田勝家との決戦での賤ケ岳の戦いでの美濃大返しを可能にするキリシタンネットワークが想像され、また黒田官兵衛、高山右近、中川清秀といったキリシタンやその周辺の人々が配下で天下取りに大活躍し、後に浪人となった高山右近を保護した前田利家は柴田勝家を裏切って秀吉の勝利を決定的にした同盟者であり、一説にはオーギュスチンと洗礼を受けていたとの話もあり、秀吉自身も含めて、当時の日本のキリスト教全盛時代が伺われるでしょうか。

秀吉の時代は信長の時代と決定的に異なるのは、その関白就任を為した直後から大地震にたびたび見舞われていることであり、関白就任直後の天正13年11月29日(1586年1月18日)の天正の大地震が最初で、若狭湾に大津波があったそうですが、その翌年に秀吉は教会を訪れたとあり、地震とキリスト教を関連させていたとも考えられます。
2017-06-28 19:06 | カテゴリ:第3のY
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
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