FREEMASONRY
Blue Lodge, Scottish Rite & York Rite in Japan
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現在のWWW World Wide Webの基本となる、ハイパーテキストの元となる概念を最初に発表したのがブラザーヴァネヴァー・ブッシュで、マサチューセッツグランドロッジのM.I.T.ロッジ、Richard C. Maclaurin Lodgeに属するフリーメイスンであったそうです。
同ロッジは世界で最初のフリーメイスンリーに関するホームページを作ったそうです。
その発表された記事のアーカイブスとマサチューセッツグランドロッジの紹介サイトをリンクしておきます。

ハイパーテキストの概念自体にタルムードの影響があることが興味深いですね。マンハッタン計画を推進したのもブラザーヴァネヴァー・ブッシュだそうで、原爆投下とフリーメイスンリーとは切っても切れない繋がりです。日本の敗戦当時の1945年にインターネットの核となる概念が創造されているとは驚きですが、現代のインターネット社会にも旧敵国条項は生きていると考えないと駄目でしょうね。具体的には2発目の原爆が隠れキリシタンの聖地である長崎に8月9日に落ちた理由でしょうか。
元ネタはUGLEのfacebookの投稿記事です。
同ロッジは世界で最初のフリーメイスンリーに関するホームページを作ったそうです。
その発表された記事のアーカイブスとマサチューセッツグランドロッジの紹介サイトをリンクしておきます。

ハイパーテキストの概念自体にタルムードの影響があることが興味深いですね。マンハッタン計画を推進したのもブラザーヴァネヴァー・ブッシュだそうで、原爆投下とフリーメイスンリーとは切っても切れない繋がりです。日本の敗戦当時の1945年にインターネットの核となる概念が創造されているとは驚きですが、現代のインターネット社会にも旧敵国条項は生きていると考えないと駄目でしょうね。具体的には2発目の原爆が隠れキリシタンの聖地である長崎に8月9日に落ちた理由でしょうか。
元ネタはUGLEのfacebookの投稿記事です。
さて8年目の3月11日を経過して、日本の歴史に刻まれた主にキリスト教、仏教、フリーメイスンリーのシンボリズムを探す道程ですが、関ヶ原の戦いの中身についてもう少し付け加えようかと思います。
まず前哨戦としてある伏見城の戦いですが、後に裏切る小早川秀秋や吉川広家を攻城側に含んで、東軍は鳥居元忠が籠城して玉砕するも、10日程引き付けることで、西軍を不利にしたという説もあるそうですが、まあ鳥居という名前も神道のシンボリズムであり、鳥自体もフリーメイスンリーのシンボリズムですが、なかなかシンボリズム的な解釈は難しいですが、少なくとも宇喜多秀家や小西行長や大谷吉継と後に裏切る武将が共に攻城戦を戦う事で、裏切り自体の信憑性、西軍の武将同士の不信感は払拭されたのではないかと思われます。これは吉川広家を攻城側に含んだ後の安濃津城の戦いも同様にいえるかと思います。
伏見城の戦いと同時期に行われた田辺城の戦いでは、東軍の籠城側に細川幽斎がおり、古今伝授の名目でもって勅命で講和となり、西軍の1万5千名の大軍が関ヶ原の戦いの本戦に間に合わず釘付けになったそうで、これは実質的な朝廷の東軍への肩入れそのものであり、本能寺の変では明智光秀に肩入れしていた様子があったものの(追記:細川幽斎は本能寺の変の際も明智に加担するそぶりを見せつつ、最終的に出陣せず剃髪して家督を譲っており、この時と同じ対応といえるかもしれません。)、その後に羽柴秀吉が中国大返しで天下を獲り、シンボリズム的にはっきりした明智光秀が敗退したわけですが、関ヶ原の戦いの場合にはシンボリズム的にはっきりした石田三成の西軍側ではなく、当初より朝廷は徳川家康側を支援していたことが分かり、豊臣秀吉と徳川家康に対する朝廷の評価と、その後の江戸幕府の開府の流れと、当初よりの徳川家康への改名の時点からの朝廷の関与が分かるものかと思います。また朝廷が密接にイエズス会と関係を持っていたことから、明智光秀や石田三成のシンボリズムの意味を理解していて、さらにそこに重ねて聖書のシンボリズムである羽や柴といったそういうものが後からイエズス会によって徐々に秘密の伝授として朝廷側に教えられていった可能性が感じ取れるかと思います。当時の朝廷とキリスト教会の情勢分析に関する競い合いといったものが伺える事象でしょうか。


次がキリシタン大名である織田秀信が西軍として池田輝政の東軍と戦った岐阜城周辺の戦いですが、池田輝政が岐阜城城主であった事があり、地形を熟知していたことで1日で攻略され、戦況に影響を与えたとの事です。織田秀信は織田信長の嫡孫で、洗礼を受けたキリシタン大名であり、当時の岐阜には教会と司祭館・養生所が建設されていたとあり、その後池田輝政が大幅加増されて、慶長18年1月25日(1613年3月16日)という613316という桁数の多い回文数のシンボリズムで亡くなっていることを考えると、岐阜城の戦いがキリシタンや戦況に与えた影響は大きかったものと思われます。岐阜城の戦いの功績が直接的に没年月日のシンボリズムに繋がっているとも想像されます。

またキリシタン大名である京極高次が西軍から裏切って大津城に籠城した大津城の戦いでは開城したのが本戦の日であったとあり、これもまた西軍の15000人の兵士を引き付ける役割を行い、戦後に京極高次は大名として復帰して、その後加増されたそうです。関ヶ原の戦いはこれで終わりでしょうか。本戦は慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)の10時から12時ころまでの間に行われ、正確な死傷者は不明ですが、数万人の死傷があったとのことですが、まあ日本国内の戦いで、遺骨が大量に出ているわけでもないので、小田原城攻めなどと同じく死傷者は不明であり、前哨戦としての島左近の奇襲で約40人が東軍で亡くなったとされ、約2時間の戦闘で数万人死傷するというのもなかなか壮絶ですので、軽傷も含めて数万人死傷で、重傷、死亡者を想定すると数百人から数千人程度の重傷死傷者ではないかと想像されます。こういった大規模会戦が行われた理由としては、イエズス会による戦争のシミュレーションといった側面も大坂の陣も含めてあるものかと思われます。本戦の後、徳川家康は石田三成の居城である佐和山城の石田一族を攻め、内応などもあって、父親や兄弟の一族は自決、子供たちは生き残ったようです。大垣城も内応で開城しています。家康はその後大津城に入城して、小西行長、石田三成を捕縛して、それらを帯同してその後大坂城に入城し、毛利輝元が退去します。慶長5年10月1日(1600年11月6日)に小西行長、石田三成、安国寺恵瓊が六条河原で斬首されます。もう一人の首謀者格の宇喜多秀家は妻がキリシタンの豪姫でしたが、最初京都周辺に潜伏して、その後島津の薩摩へ逃亡し、その後久能山に幽閉されて、縁戚の前田利長の懇願などにより死罪は免れて、最終的には八丈島に流されて明暦元年11月20日(1655年12月17日)83歳で亡くなったそうです。家康はその後論功行賞を発表し、豊臣秀頼が222万石から65万石に減封となり、徳川家康が自身の領地を255万石から400万石へ増加させ、京都・堺・長崎を始めとする大都市や佐渡金山・石見銀山・生野銀山といった豊臣家の財政基盤を支える都市・鉱山も領地としたそうです。
本戦には参加しなかった古田織部の茶の弟子で、石田三成と親しかったらしい佐竹義宣(元亀元年7月16日(1570年8月17日)-寛永10年1月25日(1633年3月5日))は秋田へと転封となりました。没年で333のシンボリズムを認めます。また吉川広家の裏切りによって動きを封じられて、関ヶ原の合戦の本戦に参加できなかった長宗我部盛親(天正3年(1575年)-慶長20年5月15日(1615年6月11日))はその後改易され領地没収され、浪人し、大坂の陣に参加して夏の陣後捕縛され六条河原で切られています。土佐は長宗我部氏の後に山内一豊が引き継ぐこととなります。死没年月日に161と611のシンボリズムを認めています。



慶長8年2月12日(1603年3月24日)に伏見城で家康は征夷大将軍に任ぜられます。一応シンボリズムはあるようです。伏見城は関ヶ原の戦い後から二条城と共に再建され、慶長7年12月(1603年1月)頃に徳川家康は入城しているようです。慶長10年4月16日(1605年6月2日)に徳川秀忠に将軍職を譲り、徳川幕藩体制が確立されます。慶長11年(1606年)頃に徳川家康は駿府城に移り、大御所政治を行っています。大坂城の淀殿と秀頼は各地の直轄領を失って、大名の一人として存続していました。慶長11年~12年(1606年~1607年)にかけて江戸城が完成して、将軍秀忠はそこで政務を行っています。江戸城、駿府城が築城される頃にイエズス会巡察士アレッサンドロ・ヴァリニャーノはマカオで亡くなっています。徳川家康は1606年~1607年にかけてポルトガル人宣教師や朝鮮通信使から太陽と月のシンボリズムのある時計を贈与されているそうです。その頃長崎の恐らく旧イエズス会領地で時計製作が盛んに行われていたようです。和時計への技術の伝承もその頃に行われていったようです。久能山東照宮にある時計はその後スペインとの外交交渉の過程で、慶長14年9月3日(1609年9月30日)に現在の千葉県夷隅郡御宿町にフィリピン臨時総督を乗せたスペインのサン・フランシスコ号がアカプルコ航路の途中で座礁し、地元民に救助され、その後三浦按針が作った船・按針丸・サン・ブエナベントゥーラでアカプルコに帰還して、そのお礼として慶長16年4月29日(1611年6月10日)浦賀に2代目サン・フランシスコ号で上陸したセバスティアン・ビスカイノらが(追記:161161の回文数になっているようです。6月11日でもないところが絶妙な。アカプルコからの浦賀への直行航路らしいです。秀忠と面会したのが6月22日だそうです。)、慶長16年7月20日(1611年8月27日)に駿府城で家康に面会した際に送ったものであり、1581年スペインのマドリッドでハンス・デ・エバロが製作したものだそうです。


この頃になると金や銀の本格的な流通が始まりますが、そもそもザビエルが日本に布教に来たのもマルコ・ポーロの黄金の国ジパングの話の影響もあったと思われ、石見銀山のある大内氏の所領に布教して、その後陶晴賢の謀反によって毛利元就が銀山を掌握するのも、布教の影響があったのではないかと思われますが、鉛や水銀を使用した金銀の精錬法がエジプトやオリエントでは古代から行われていたそうですが、本格的に日本に伝わってきたのはこのザビエルの布教の頃からで、旧約聖書にも書かれている方法との事で、朝鮮由来とか中国由来とか説はあるそうですが、単純に宣教師由来である模様です。秀吉の時代には金細工師の後藤四郎兵衛家に作らせた天正大判が有名ですが、家康は秀吉の死からわずか3か月後の慶長3年11月(1598年12月)には三浦半島の浦賀にスペイン商船を寄港させるようにフランシスコ会宣教師ジェロニモ・デ・ジェズス(生年不詳 - 1601年10月6日)と交渉したとあり、関東を拠点とする家康がスペインのアマルガム法を入手して全国の金銀山の産出量を増加させようとしていたとの事です。そもそもサン・フェリペ号事件からフランシスコ会宣教師を磔にして日本26聖人殉教を行った秀吉であったわけですが、その秀吉の死後すぐに次の政権構想のために率直に動いてフランシスコ会に近づくイエズスの名前に近い家康が最初に接近したのがジェズスという名前の宣教師というのも、まさにキリスト教の修道会のシンボリズムという他ないわけですが、その交渉に適切な通訳がおらず、それにあたったのが、まさに関ヶ原の戦い直前に現れたイギリス人の三浦按針というのも出来過ぎた話のようです。ジェロニモ・デ・ジェズスの没年月日が関ヶ原の戦いの直後で601106と明確なシンボリズムを認めるのも、金銀の産出とその後の家康への政権移行が明確なキリスト教会の筋書きの通りに進んだ証拠かと思われます。アマルガム法による金銀の産出はその後1606年(慶長11年)頃より用いられていたようですが、その後一般的ではなくなったようです。水銀の害もあった模様です。家康の代では後藤四郎兵衛家による慶長大判、後藤庄三郎光次による慶長小判が有名で、さらにこれらの産出元の佐渡金山や石見銀山など全国の金銀山を統括していたのがもともと武田家の家臣であった大久保長安(天文14年(1545年)-慶長18年4月25日(1613年6月13日))であり、死後の不正蓄財が発覚して息子たちが切腹を命じられた大久保長安事件が起こっています。やはり没年月日に明確な対称形ではない西暦のシンボリズム613613という形を認めており、そもそも鎧などにも十字を認めており、キリシタンであった可能性があるようです。オークボで認めるオークはOak、コナラの木の意味となり、ヨーロッパで精霊の木としてあがめられ、船材としても最も使われたた歴史があり、シンボリズムと考えられます。フリーメイスンリーでもシンボリズムとなる木です。聖櫃や箱舟のArkとも発音が似ており、そういう意味でのシンボリズムもあるようです。もちろんオオ○○で真言の意味もあるのかとも思われます。やはり西洋と東洋の融合や折衷がテーマではあるのですね。







またこの時期の朝廷の事件として猪熊事件がありますが、これは公家の乱交による醜聞事件であり、後陽成天皇の側室も関係していて、天皇が激怒して、徳川幕府の京都所司代である板倉勝重によって調査され、関係者が捕えられ、死罪もしくは各地へ追放となっています。この中心人物であり死罪となった猪熊教利は天正11年(1583年)-慶長14年10月17日(1609年11月13日)と没年月日の16091の回転対称、111のシンボリズムを認め、蝦夷松前に配流された花山院忠長(天正16年(1588年)-寛文2年9月26日(1662年11月6日))は松前の地に京文化が伝わるきっかけとなったそうで、やはり同様に没年月日に66、11のシンボリズムを認めます。蹴鞠で有名な飛鳥井家の飛鳥井雅賢(天正13年(1585年)-寛永3年閏4月16日(1626年6月10日))は隠岐に配流され、微妙な没年月日の626、66のシンボリズムを認め、伊豆に配流された難波宗勝(天正14年12月6日(1587年1月14日)-慶安4年3月21日(1651年5月10日))は没年月日で515、151のシンボリズムを認めます。細川幽斎から古今伝授を受けていた烏丸光広(天正7年(1579年)-寛永15年7月13日(1638年8月22日))は蟄居後赦免されていますが、没年で88、22のシンボリズムを認めています。
この事件の意味ですが、慶長20年7月17日(1615年9月9日)の禁中並公家諸法度の制定に繋がったそうで、関係した公家の没年月日のシンボリズムは、そうした江戸幕府の政治体制の確立にキリスト教が大いに関係したことが伺えそうです。



またこの時期の家康のブレーンとして、林羅山(天正11年(1583年) - 明暦3年1月23日(1657年3月7日))がいて、その後の大坂の陣のきっかけとなる方広寺鐘銘事件などで意見したりしていますが、朱子学を基礎として徳川幕府の制度の基礎を作り、孔子廟を上野に作り、後の湯島聖堂の元になったようです。慶長11年(1606年)にはイエズス会の日本人修道士、イルマン・ハビアンと論争して、棄教させたりしているそうです。この日本人修道士イルマン・ハビアンはイソップ物語を翻訳したそうです。この林羅山は明暦の大火で家を焼かれて、4日後に亡くなったそうですが、没年月日に737のシンボリズムを認めます。林羅山を徳川家康に推挙した師の近世儒学の祖の藤原惺窩(永禄4年1月24日(1561年2月8日)-元和5年9月12日(1619年10月19日))が没年月日に明確な16191の回転対称と、161、191、91019の回文数のシンボリズムを認めています。弟子として小早川秀秋や石田三成兄弟、木下長嘯子も挙げられるようです。


家康は慶長12年(1607年)朝鮮通信使と謁見し、文禄・慶長の役以来断絶していた李氏朝鮮との国交を回復し、慶長14年8月17日(1609年9月15日)オランダ使節と会見し、オランダ総督マウリッツからの親書を受け取り、朱印状による交易と平戸にオランダ東インド会社の商館の開設を許可したそうです。慶長16年3月20日(1611年5月2日)に御三家の元となる息子たちを叙任したそうです。徳川家康の対外政策は極めて単純で、経済優先であり、布教に関しては否定的となっていて、側室にキリシタンとされる朝鮮人のジュリアおたあなどがいる時期もありましたが、信仰や思想的には基本的に儒教優先で、キリスト教の要素は名前以外ほとんどなかったようです。その後の東照宮の造営なども含めて、天下普請の切石積み石垣や方形の天守閣などからは、極めてキリスト教の教えの要素を含まないプラグマティズム、実用主義的な、フリーメイスンリー的な要素があったものと思われます。慶長16年7月20日(1611年8月27日)に駿府城でスペイン人探検家のセバスティアン・ビスカイノは家康に謁見し、フェリペ3世からの時計を贈りますが、その後は朱印状をもらい日本沿岸の測量を行い、慶長16年10月6日(1611年11月10日)に仙台で伊達政宗と謁見します。慶長16年10月28日(1611年12月2日)に三陸沖を測量中に慶長三陸地震に海上で遭遇し、本人たちの被害はありませんでしたが、津波の被害を確認しています。セバスティアン・ビスカイノはその後九州地方まで沿岸を測量し、慶長17年8月21日(1612年9月16日)に家康、秀忠の返書を受け取り、浦賀からメキシコに向けて出港しますが、暴風雨にあい慶長17年10月22日(1612年11月14日)に浦賀に戻り、その後慶長遣欧使節団のサン・フアン・バウティスタ号に同乗して慶長18年9月15日(1613年10月28日)に三陸海岸の月浦から出港して帰国しています。この時期の地震としては慶長9年12月16日(1605年2月3日)に起こった慶長地震の南海トラフ地震があり、津波被害での死者が多数であったそうですが、詳しくは分からないようです。その後は慶長16年8月21日(1611年9月27日)に会津地震がありました。会津は著名なキリシタン大名であった蒲生氏郷が奥州仕置後に入部して、会津若松城と共に城下町を整備しましたが、その子の蒲生秀行の時代に一旦宇都宮に転封され、関ヶ原の戦い後に再度入部して、その秀行の時代に地震にあい、その心労もあって翌年慶長17年5月14日(1612年6月13日)に30歳で亡くなったそうです。
慶長三陸地震は伊達政宗のその後の慶長遣欧使節団の大きな動機の一つともなった可能性があるようです。慶長遣欧使節団はフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使、支倉常長(キリスト教禁教後常長となったらしく、それ以前は長経であったそうです。ナーガのシンボリズムがあるようです。)を副使として、セバスティアン・ビスカイノが造船を指導して、1613年10月28日に牡鹿半島の月浦から出港し、東回りで太平洋を横断し、1614年1月28日アカプルコに入港したそうです。その後メキシコシティ、キューバのハバナを経由して、1614年10月5日スペインに到着し、マドリードに到着後、1615年1月30日フェリペ3世に謁見します。その後1615年2月17日支倉常長は洗礼を受け、1615年10月25日ローマに到着し、1615年11月3日ローマ教皇パウロ5世に謁見、1615年11月20日ローマ市民権証書を授与されています。1616年1月7日ローマを離れ、スペイン・セビリアに移動し、1617年7月4日スペインからメキシコに渡り、1618年4月2日に再びサン・フアン・バウティスタ号でアカプルコを出港し、1618年8月10日にフィリピン・マニラに到着しました。支倉常長は元和6年8月24日(1620年9月20日)に厳しい禁教下の日本へ帰国しました。ルイス・ソテロは元和8年9月18日(1622年10月22日)、マニラから密入国しようとしたが捕らえられ、寛永元年7月12日(1624年8月25日)大村で火刑により殉教したそうです。
慶長遣欧使節団についてはやはり高木一雄さんの「伊達政宗と慶長遣欧使節」が詳しいようです。教皇との書簡のやり取りの中で、伊達政宗が興味を持っていたと思われる騎士団の設立について触れている部分もあり、またフェリペ3世のことを、どん・ひりっぺと書かれていて、東北弁の世界ですから、こういうのも日本が鎖国になった一因でもあるのかなと思ったりしました。明らかに徳川秀忠とのやり取りを含んでいて、取次は伊達藩であったのでしょうが、幕府が綿密に関わっていたのが分かります。


慶長18年5月4日(1613年6月11日/ユリウス暦6月21日)に日本の平戸に到着したイギリス東インド会社のセーリスと慶長18年8月4日(1613年9月18日/ユリウス暦9月8日)に駿府城で徳川家康は謁見し、三浦按針が取り次いで翻訳し、慶長18年9月1日(1613年10月4日/ユリウス暦10月14日)には通商許可が出たとの事です。この当時イギリスはユリウス暦を使用しており、到着の日付がグレゴリウス暦6月11日の日付になっていることがシンボリズムのようです。シンボリズム的には明確にイギリスの行動はキリスト教会が規定しているのでしょうね。
またこの時期その後の徳川家康のキリスト教禁教のきっかけとなる事件として岡本大八事件がありました。岡本大八(生年未詳 - 慶長17年3月21日(1612年4月21日))は没年月日に明確な12421の対称のシンボリズムを認めますが、駿府で徳川家康の家臣の老中本多正純に仕えていた有力なキリシタン武将であり、恐らくキリシタン関係の事一切を取り仕切っていた模様で、同じく熱心なキリシタン大名であった有馬晴信がポルトガル船貿易の過程で、部下を数十人マカオでポルトガル人に殺され、その件に関して報復を考えた有馬晴信がマカオ総司令のアンドレ・ぺソアを最終的に長崎の船中に閉じ込め、攻撃して自決させ、これがノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件またはマードレ・デ・デウス号事件とされ、これを機にポルトガル船貿易は下火となります。この後に有馬晴信が徳川家康への取次として岡本大八と懇意になり、賄賂を贈って九州での旧領の回復を試みますが、それが露見して、二人とも死罪となり、岡本大八は駿府市中を引き回しの上火刑、有馬晴信は甲斐に流罪の後切腹となっています。岡本大八と有馬晴信は共に駿府にあった大久保長安邸で尋問を受けたとの事です。岡本と大久保と共にOakの音が入っているのは興味深いところです。有馬晴信の所領はその後島原の乱の中心地になったそうで、また有馬晴信が最終的に害意を抱いていたとする長崎奉行の長谷川藤広はイエズス会が中心のポルトガルから、ドミニコ会に接近していたとあり、全体的にシンボリズムに象徴されるようにキリスト教会の差配であったようで、この複雑な事件の様相から家康はキリスト教の禁教を考えたとあり、秀吉の際と同様にそれはキリスト教会の想定通りであったようです。岡本大八が火刑となった同日に家康は直轄領でのキリスト教の禁教令を発布し、ジュリアおたあは伊豆大島へ流され、原胤信などキリシタンの旗本は潜伏キリシタンとなりました。慶長18年2月19日(1613年4月9日)、幕府は禁教令を全国に拡大し、家康はさらに「伴天連追放之文」を起草させ徳川秀忠の名で発布させました。慶長19年7月(1614年8月)、有馬晴信の子供のキリシタンであった有馬直純はすでに棄教していましたが願い出て、日向国延岡藩に転封され、有馬の地は天領とされ、松倉重政・勝家の悪政後島原の乱が発生します。慶長19年10月1日(1614年11月2日)には家康の大坂城討伐の号令が出され、同時に高山右近をはじめ、修道会士や宣教師など主たるキリスト教徒をマカオやマニラに国外追放にしました。高山右近は慶長19年10月7日(1614年11月8日)長崎を出港し、1614年12月21日マニラに到着し、現地のフィリピン総督は日本侵攻を提言したそうですが、右近が拒絶して、1615年2月3日亡くなります。


大坂の陣のきっかけとなった方広寺鐘銘事件の経過ですが、そもそも関ヶ原の戦い後、徳川家康と豊臣秀頼は共に最終決戦に向けて軍備を整えていたようです。片桐且元が主にその間を取り持っていたわけですが、徳川家康の豊臣秀頼への通常の大名に対する対応をすることで淀殿への挑発が続き、その緩和の意味もあって、豊臣秀頼は家康の勧めで慶長19年(1614年)4月に方広寺を再建しており、慶長19年8月3日(1614年9月6日)に大仏殿の開眼供養を行うことにしていたそうです。その方広寺の鐘の銘文を考えたのが南禅寺の文英清韓であり、臨済宗の長老であったのですが、銘文中の「国家安康」と「君臣豊楽」の部分が特に問題にされましたが、そもそも家康の名前も、豊臣の名前も、意図的に組み込んでいたのは明らかであるようで、林羅山が激しく糾弾していますが、そもそも豊臣方に肩入れして、そういう呪詛とまでいかなくとも皮肉的な意味で組み込んでいるようで、そもそもそれを依頼したのが片桐且元であり、それらを問題としたのが以心崇伝であったとの説もあるようですが、以心崇伝も徳川幕府の有力なブレーンであり、永禄12年(1569年) - 寛永10年1月20日(1633年2月28日)と没年月日でシンボリズムを認め、「伴天連追放之文」「寺院諸法度」「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」を起草した人として徳川幕府の中枢で重要な人物であり、家康の亡くなった際には吉田神道の形式で神格化しようとして、南光坊天海(天文5年(1536年)? - 寛永20年10月2日(1643年11月13日))が新しく考えた山王神道の形式で神格化されて東照大権現が成立したとあり、その後徳川幕府は合議制に移っていったとあります。また「禁中並公家諸法度」の「勅許紫衣竝に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」に関して紫衣事件というのがあり、後水尾天皇が、寺僧に対して紫色の法衣を着ていい勅許を出す朝廷の権利を徳川秀忠が停止した事件で、大徳寺住職・沢庵宗彭(天正元年12月1日(1573年12月24日) - 正保2年12月11日(1646年1月27日))が抗議して流罪になったりしています。その後秀忠の死によって、沢庵和尚は家光に近侍して、家光は紫衣の勅許を元の通りに戻したとの事です。家光の名前も以心崇伝が決めたそうです。朱印船貿易の事務作業も一手に引き受け、黒衣の宰相とも呼ばれたそうです。金地院崇伝とも呼ばれました。日光山東照宮、上野寛永寺を発案した天台宗延暦寺で修業した南光坊天海も100歳以上の長寿といわれているそうですが、没年で明確な31113の回文数のシンボリズムを認めており、キリスト教の明確な影響が裏付けられます。沢庵漬けで有名な沢庵和尚も生年月日がクリスマスイブで、没年月日で16461の回文数を認めます。







この方広寺鐘銘事件の意義ですが、最終的には仲介にあたった片桐且元の豊臣秀頼による領地没収という改易により、片桐且元が大坂城を退去して、徳川家康の慶長19年10月1日(1614年11月2日)の豊臣秀頼への宣戦布告となり、開戦となるわけです。片桐という名前も、豊臣氏の家紋が桐となっており、半分豊臣という意味もかかってくるようです。片桐且元はもともと浅井長政の家来であったようで、浅井三姉妹や大野治長兄弟と共に小谷城落城で放浪しその後秀吉に仕官したそうです。シンボリズム的には鐘は平家物語の冒頭にもうたわれる通りに仏教のシンボルであり、古今東西で鐘の様式の楽器は宗教のシンボルであり、キリスト教でも教会のシンボルであります。当時の南蛮寺で使われたイエズス会のシンボルが刻印された鐘も妙心寺春光院には残されています。そのシンボルに刻印された文字の、特に三英傑の豊臣と家康の名前が刻まれて、それが問題とされたという事の意味は、明らかにこのブログで延々と語っている通り、それがシンボリズムを含んでいることを語っており、国家安康は国の安定を願う意味ですが、イエズス会やキリスト教の意味もそれであり、ヨシュアがイスラエル建国のために聖絶を行ったのもそのためであり、その同じ意味の名前のイエスが無報酬の愛を説いて、その上で多くの聖戦が行われたのも究極的には国や世界の平和と安定のためであるという意味であるかと思います。家康、イエズスの意味で考えると、それが分断されているのは、その当時のイエズス会の状況を示唆していて、結果的に同時にキリスト教禁教となり国外追放となった日本のキリスト教布教の状況を反映していそうです。家康自身のその後の運命を語っているともいえるかと思います。また君臣豊楽も朝廷から庶民まですべての人が豊かになるという意味であり、まさにそれは豊臣の英語の意味to you to me、すなわちあなたも私もで全てという意味だと思いますが、それがさかさまになっているのが、全ての人が豊かになるといっても、主に庶民や、朝廷の配下、この場合幕府や武士と考えられますが、そちらが先に豊かになるという意味になるのかもしれません。朝廷のその後を考えると、大坂の陣後は桂離宮や修学院離宮を建築して、江戸時代の中では最も富んだ時代と考えられ、豊臣が滅んで天皇がやや持ち直すという意味かもしれません。豊臣がさかさまになるという事で、単純に豊臣秀頼のその後の運命を語っているだけかもしれません。方広寺自体が、豊臣秀吉が大仏建造のために建立した寺であり、三十三間堂のすぐ横にあり、慶長伏見地震で大仏が崩壊した歴史があり、大仏の代わりに遷座した善光寺如来は秀吉の死亡する前日に呪いを恐れて甲斐に戻されたというものです。いずれにしても今日残されている主要な大坂の陣当時の遺物はこの方広寺の鐘が最大のものであり、それは大坂の陣の悲惨な戦いの始まりを告げる戦陣の鐘であり、またその後の平和な時代の始まりを告げる祇園精舎の鐘でもあることを後世に伝えています。

大坂の陣では構図は豊臣秀頼、淀殿母子のまさにキリスト教の聖母子像のような殉教の側と、さらにそこに義父となる構図の大野治長兄弟、実際は実父であったようですが、と対峙するイエズスの名前を冠する徳川家康軍、すでに全面的な禁教令を発布して、表立ってキリスト教の大名、武将は一人もいない軍の対決であり、キリスト教全盛時代の象徴ともいえる豊臣秀吉が建築した野面積みの大坂城があり、対峙する徳川家康はすでに天下普請にて江戸城、駿府城、名古屋城の三城を切石積みで真っ白な方形の天守閣を伴い、豊臣の大坂城を上回る規模で完成させており、勝負の行方自体は明白であり、構図としては秀吉の際の小田原城攻めに近いものがあるわけですが、幕府が既に明白にキリスト教禁教を打ち出していたために、キリシタンを含めたその時代を良しとする浪人が豊臣側の蓄積した金銀を求めて大坂城に集結し、結果として10万人ほどの大軍勢となったようですが、最終的には堀の無くなった丸裸の大坂城となった大坂夏の陣の際には8万人程度まで逃亡により減少したようです。いずれにしても豊臣恩顧の浪人が多数であったとはいえ、最初から決着はついているような戦であり、それも籠城戦であるという、全体に主君に殉ずるというよりは、その秀吉時代の安土桃山時代の下克上から天下統一への時代の精神に殉ずるといった色合いが濃いかと思われ、その後の同様の籠城戦による大量虐殺であった島原の乱も全く勝算がないままの殉教の大量死であった状況と似ているかと思われます。また大坂方の実質的な大将としては淀殿がおり、淀殿自身が浅井長政の長女として生まれながら、叔父である織田信長に小谷城で攻められて、命からがらに脱出して、その後織田信長に保護され、その後柴田勝家と再婚したお市の方に連れられて北ノ庄城に移るも、賤ケ岳の戦いでは秀吉に攻められて母親は自害し、秀吉の保護を受け、最終的に秀吉の側室となった運命の持ち主であり、大野治長とは乳母の子供として幼少時より共にいたとあり、大野治長は父親が秀吉の部下であったとありますが、片桐且元と同じく、浅井長政の小谷城落城の時点で織田家の秀吉の配下になったのかと思われます。つまり賤ケ岳の戦い後に乳母でつながる淀殿と大野治長の邂逅があった可能性があるでしょうか。いずれにしても戦を指揮したこともなければ、そもそも武士ですらない淀殿が実質的な大将としている大坂城での籠城戦であり、政治的駆け引きもなく、講和条件も無く、唯々秀吉時代の最高の城である大坂城にすがるか心中するかという、二度の敗戦による落城を経験して、手に入れた当時最高の城と我が子とその父と運命を共にするというのが淀殿の完結したストーリーであったようです。私も九州国立博物館で淀殿の直筆の手紙を見たことがありますが、秀吉もひらがなだけのなかなかの能筆家で名文家であるとの評判ですが、淀殿も文章が散り散りに飛んで、それが当時の女性の流行していたスタイルであったようですが、それの極致のような、内容をある程度予測できていないと読めない文章の書き方であって、なかなか当時にあっても秀吉同様相当特別な気性と性格と才気を持っていた女性であったようです。





(最初の手紙は秀吉から淀殿への直筆の手紙です。肖像画は一応大野治長らしい像です。残りは黒田家伝来の大坂夏の陣図屏風です。)
大坂の陣で有名なキリシタン武将は明石全登がいて、もともと宇喜多秀家の家臣で10万石を持っていたそうですが、関ヶ原の戦いで浪人となり、母親が明石氏であった黒田如水の庇護下にいましたが、その後長政の時代になって流浪し、大坂の陣で熱心なキリシタンであった事から、禁教制となった幕府に対抗する大坂方についたとの事です。大坂夏の陣後の生死は不明ですが、一説には伊達政宗の保護を受け、津軽に渡り、秋田地方に子孫が残ったとあり、元国際連合事務次長の明石康は明石全登の子孫と伝えられているそうです。木村清久という浪人もキリシタンであったようで、もともと秀吉の文書係であったようで、蒲生氏郷の配下でいたものの一揆がおきて改易され、その後豊後の1万4千石の大名となりますが、関ヶ原の戦いで西軍に参加して、戦後浪人となり大坂の陣に参戦して討ち死にしたそうです。大坂方で最も有名な真田幸村こと真田信繁がフランコの洗礼名を持つキリシタンであるという説がありますが、大坂の陣での活躍と、兄弟のその後の大名家としての存続を説明するのにキリスト教の信仰は支障はありませんが、イエズス会の文書からの推測のみとあり、洗礼の記録などはないようです。小笠原権之丞という武将は徳川家康の御落胤ともされ、駿府でキリシタンとして活動していたそうですが、禁教令後改易され浪人となり、大坂の陣に参加して天王寺の戦いで討ち死にしたそうです。細川忠興の次男である細川興秋はキリシタンであった可能性があるそうですが、大坂の陣に大坂方として参加して、夏の陣後父親に切腹を命じられ、伏見の稲荷山東林院で元和元年6月6日(1615年7月1日)に切腹しています。織田信長の弟の織田有楽斎ジョアンも息子と共に大坂冬の陣までは城内にいて中心的な役割をしていたそうですが、夏の陣の際には息子と共に大坂城を出ています。
淀殿と秀頼は必ずしもキリスト教に親和的であった事は無かったようですが、徳川軍を迎えた大坂城には宣教師が三名ほど入り、浪人に含まれた多くのキリシタンを鼓舞したり、新たに洗礼を授けたりしたそうです。また周囲には数名の宣教師がいて、戦況を最後まで見守りそれぞれ教会に報告したようです。

大坂冬の陣は慶長19年11月19日(1614年12月19日)、戦闘は木津川口の砦においてはじまりました。蜂須賀至鎮の抜け駆けだそうですが、どうも和暦でシンボリズムの形をしており、そういうシンボリズムの知識が当時あった可能性があるでしょうか。攻撃された側の明石全登は将が不在で壊滅したとあり、西暦でもそれなりの161、141、121と変な回文数の合成になっており、どうも意図的なもののようです。慶長19年12月2日(1615年1月1日)には大坂城を完全に包囲する形となっています。この時点では形としては小田原城攻めの包囲戦の形と全く同じになっています。この後石垣城攻めの為のオランダやイギリスから購入したカルバリン砲、セーカー砲、半キャノン砲などの大砲による大坂城の建物への砲撃が始まります。豊臣方は寄せ手に火縄銃が大量に配置してあって、攻め手の土手の陣地を構築されるまでは相当有効であったようです。武器の性質が相当変わることで、従来の兵糧攻めの持久戦の形ではなかったことが分かります。兵糧に関しても相当変化があるのかと思われます。本丸への砲撃による直撃で淀殿の侍女8人が死んだことで慶長19年12月16日(1615年1月15日)和議に応ずることを決めます。実質籠城していたのは2週間との事で、普通の人の限界であったのだと思われます。明確な西暦のシンボリズムを認めることから、正確な着弾によって、狙った射撃であった事が明確なようです。大坂夏の陣での軍師は明らかに三浦按針であり、その部下として先陣で働いていたのは片桐且元であったようです。


慶長19年12月18日(1615年1月17日)より京極氏の陣で和平交渉が行われ、豊臣方の使者としては淀殿の妹のキリシタンであった京極高次の正室の常高院であり、慶長19年12月20日(1615年1月19日)本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、惣構の南堀、西堀、東堀を埋めることで和議が成立します。淀殿と秀頼が最も拒否したのは関東への下向であって、暗殺の可能性があったのだと思われますが、なんとしても大坂城と最後まで共にするという一貫した姿勢があったように思われます。そしてその後有名な堀を全て埋められてしまうわけですが、まあ現代のウィキペディアでは和平条件に沿ったものであり、一次史料では堀の埋め立てに関して混乱が生じていた記録はないとあります。そもそも淀殿は天守閣と命運を共にする姿勢であったようです。徳川軍は一旦撤退しますが、慶長20年4月5日(1615年5月2日)大野治長の使者が名古屋にて徳川家康に移封、すなわち大坂城退去はできないと伝え、大坂夏の陣の開始が号令されます。大坂夏の陣は野戦で開始し、大野治房の部隊が慶長20年4月26日(1615年5月23日)に筒井定慶の守る大和郡山城を落とし、その後堺を焼き討ちにし、慶長20年5月6日(1615年6月2日)まで堺攻防戦を行いました。その後大坂城に向かって進撃する徳川軍に大坂方は野戦での襲撃を繰り返し、道明寺の戦い、八尾・若江の戦い、天王寺・岡山の戦いと慶長20年5月6日・7日の2日間に渡って激戦が行われ、数や兵装では圧倒的有利な徳川軍ではありましたが、完全に玉砕覚悟の大坂方は士気が高く、双方ともに多くの死傷者を生じ、当初は数百程度の戦死者でしたが、決戦の天王寺の戦いでは大坂方はほぼ玉砕の状況で2万人近くの首が討ち取られ、その後大坂から京都までの街道に並べられたと宣教師は報告したようです。徳川方ではいわゆる徳川四天王の本田忠勝の息子の、サン・フランシスコ号が座礁した場所の大多喜藩の本多忠朝が先鋒で毛利勝永に打ち取られ、その他に本多忠朝を救援に入った信濃松本藩の小笠原秀政と小笠原忠脩が亡くなっています。毛利勝永はその後敗走して大坂城で秀頼の介錯をしたそうです。シンボリズムはありそうです。いわゆる真田幸村が徳川家康の馬印を倒したとされる戦いです。その後敗走した大坂方は全員大坂城に収容されたとの事で、慶長20年5月7日(1615年6月3日)16時頃徳川軍全軍が取り囲み突入する中で、裏切りなどによって大坂城は内部から炎上し始め、千姫は大坂城を脱出し、淀殿と秀頼は毛利勝永に翌日介錯されて自害しました。秀頼の側室の子の豊臣国松は直前に城から脱出しますが、京都で捜索され捕縛され、慶長20年5月23日(1615年6月19日)に市中車引き回しの後、六条河原で斬首されました。長宗我部盛親は慶長20年5月11日(1615年6月7日)に京都八幡(京都府八幡市)付近の橋本の近くの葦の中に潜んでいたところを蜂須賀至鎮の家臣・長坂三郎左衛門に見つかり捕らえられ、伏見に護送され、その後、盛親は京都の大路を引廻され、そして慶長20年5月15日(1615年6月11日)に京都の六条河原で斬られたそうです。豊臣五奉行の一人増田長盛は盛次の罪を背負う形で関ヶ原の西軍で敗戦後の配流先の岩槻で元和元年5月27日(1615年6月23日)自刃しています。また古田織部は豊臣に内通したという疑いから京都所司代の板倉勝重に捕らえられ慶長20年6月11日(1615年7月6日)に自刃しています。






淀殿、秀頼の自刃の日の慶長20年5月8日(1615年6月4日)ですが、カトリックの聖日では聖フランシスコ・カラチョロ司祭(1563年-1608年)となっており、まだ聖日になっていないと思われ、カトリックのシンボリズムではなさそうです。6月24日の20日前にあたるわけですが、まあこれは大坂の陣の戦端である、慶長19年11月19日(1614年12月19日)木津川口の戦いにヒントがありそうです。いわゆる和暦でシンボリズムを刻むのは後白河天皇の没年月日の建久3年3月13日(1192年4月26日)からの三十三間堂の建立が日本史の中では最も際立っているわけですが、その他にも数多くの天皇の生没年月日で、和暦でのシンボリズムもあったわけですが、戦争の開始などイベントで日付が明確にわかる記録は日本史では少なかったわけで、小田原征伐での和暦での天正18年6月24日(1590年7月25日)近辺の石垣山城の完成が和暦と西暦のシンボリズムの交わったあたりであり、単純に和暦だけでは、松永久秀の東大寺大仏殿焼失永禄10年10月10日(1567年11月20日)の日付が、その後の松永久秀の謀反を起こしての信貴山城での爆死天正5年10月10日(1577年11月29日)が10月10日という事で純粋に和暦ですが、どちらも西暦で11月という事で、仏像を焼くという行為でもあり、むしろ西暦の方がシンボリズムであるのかもしれません。というわけで、1615年6月4日のシンボリズムの推測ですが、恐らく天台宗延暦寺開祖の最澄の和暦での没年月日弘仁13年6月4日(822年6月26日)に対応するのではないかと思われます。西暦と和暦の全く異なる暦の変換になるわけですが、比叡山焼き討ち(元亀2年9月12日(1571年9月30日))で有名な織田信長の仏教圧迫政策でしたが、そもそも大坂城の地は石山本願寺が元亀元年9月12日(1570年10月11日)から天正8年8月2日(1580年9月10日)までの10年の長きにわたって織田信長と抗争を繰り広げた地であり、その地で戦国時代の終焉を象徴する聖母子像に連なる親子が殉教の形で天守閣と運命を共にするというのは、まさにその後の厳しい禁教令の時代を象徴する出来事であり、それは比叡山焼き討ちによる日本の仏教勢力の被った痛手に対する明確な応酬のシンボリズムでもあったのかと思われ、またそれはキリスト教で明確であった暦のシンボリズム、さらにそれが太陽暦のグレゴリウス暦という最新の暦に乗る形での、最澄・空海の中国への留学の際に近傍にあったというキリスト教会の教えの伝承の意味も含まれているものかと思われます。いずれにしても日本史上最も悲惨な内戦といえる、大坂夏の陣の結末は、西暦というキリスト教が布教した最新の知見といえる暦に対して、日本仏教の頂点と言える天台宗の開祖の和暦での命日を重ねたものであったようです。(秀吉の没年月日である慶長3年8月18日(1598年9月18日)も最澄の生年月日神護景雲元年(767年)8月18日に重なるようです。和暦でのシンボリズムですが、死後に日吉丸の幼名が流布したこととも関係がありそうです。猿の異名も日吉大社の猿神と結びつけられて、その後の徳川家康の東照大権現の元になる山王一実神道に繋がるようです。天台宗系の仏教とキリスト教のシンボリズムの融合と考えられます。またこれに関して吉田神道の吉田兼右の次男で吉田兼見の弟の神龍院梵舜は生没年月日が天文22年(1553年) - 寛永9年11月18日(1632年12月29日)と和暦でシンボリズムを認め、豊国廟の別当となったそうですが、大坂の陣後豊国神社は破却され、その後の徳川家康の埋葬の際に吉田神道で進めますが、天海に論争で敗れ、山王一実神道となったそうです。山王一実神道は仏教の度合いの強い神道といった感じでしょうか。神龍院梵舜は全三十三巻の日記を残しているそうです。)


さてあまりに長くなり過ぎたので、ここで章を再び分けます。昭和・平成まで新元号発表までにはたどり着けそうにありませんね。
まず前哨戦としてある伏見城の戦いですが、後に裏切る小早川秀秋や吉川広家を攻城側に含んで、東軍は鳥居元忠が籠城して玉砕するも、10日程引き付けることで、西軍を不利にしたという説もあるそうですが、まあ鳥居という名前も神道のシンボリズムであり、鳥自体もフリーメイスンリーのシンボリズムですが、なかなかシンボリズム的な解釈は難しいですが、少なくとも宇喜多秀家や小西行長や大谷吉継と後に裏切る武将が共に攻城戦を戦う事で、裏切り自体の信憑性、西軍の武将同士の不信感は払拭されたのではないかと思われます。これは吉川広家を攻城側に含んだ後の安濃津城の戦いも同様にいえるかと思います。
伏見城の戦いと同時期に行われた田辺城の戦いでは、東軍の籠城側に細川幽斎がおり、古今伝授の名目でもって勅命で講和となり、西軍の1万5千名の大軍が関ヶ原の戦いの本戦に間に合わず釘付けになったそうで、これは実質的な朝廷の東軍への肩入れそのものであり、本能寺の変では明智光秀に肩入れしていた様子があったものの(追記:細川幽斎は本能寺の変の際も明智に加担するそぶりを見せつつ、最終的に出陣せず剃髪して家督を譲っており、この時と同じ対応といえるかもしれません。)、その後に羽柴秀吉が中国大返しで天下を獲り、シンボリズム的にはっきりした明智光秀が敗退したわけですが、関ヶ原の戦いの場合にはシンボリズム的にはっきりした石田三成の西軍側ではなく、当初より朝廷は徳川家康側を支援していたことが分かり、豊臣秀吉と徳川家康に対する朝廷の評価と、その後の江戸幕府の開府の流れと、当初よりの徳川家康への改名の時点からの朝廷の関与が分かるものかと思います。また朝廷が密接にイエズス会と関係を持っていたことから、明智光秀や石田三成のシンボリズムの意味を理解していて、さらにそこに重ねて聖書のシンボリズムである羽や柴といったそういうものが後からイエズス会によって徐々に秘密の伝授として朝廷側に教えられていった可能性が感じ取れるかと思います。当時の朝廷とキリスト教会の情勢分析に関する競い合いといったものが伺える事象でしょうか。


次がキリシタン大名である織田秀信が西軍として池田輝政の東軍と戦った岐阜城周辺の戦いですが、池田輝政が岐阜城城主であった事があり、地形を熟知していたことで1日で攻略され、戦況に影響を与えたとの事です。織田秀信は織田信長の嫡孫で、洗礼を受けたキリシタン大名であり、当時の岐阜には教会と司祭館・養生所が建設されていたとあり、その後池田輝政が大幅加増されて、慶長18年1月25日(1613年3月16日)という613316という桁数の多い回文数のシンボリズムで亡くなっていることを考えると、岐阜城の戦いがキリシタンや戦況に与えた影響は大きかったものと思われます。岐阜城の戦いの功績が直接的に没年月日のシンボリズムに繋がっているとも想像されます。

またキリシタン大名である京極高次が西軍から裏切って大津城に籠城した大津城の戦いでは開城したのが本戦の日であったとあり、これもまた西軍の15000人の兵士を引き付ける役割を行い、戦後に京極高次は大名として復帰して、その後加増されたそうです。関ヶ原の戦いはこれで終わりでしょうか。本戦は慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)の10時から12時ころまでの間に行われ、正確な死傷者は不明ですが、数万人の死傷があったとのことですが、まあ日本国内の戦いで、遺骨が大量に出ているわけでもないので、小田原城攻めなどと同じく死傷者は不明であり、前哨戦としての島左近の奇襲で約40人が東軍で亡くなったとされ、約2時間の戦闘で数万人死傷するというのもなかなか壮絶ですので、軽傷も含めて数万人死傷で、重傷、死亡者を想定すると数百人から数千人程度の重傷死傷者ではないかと想像されます。こういった大規模会戦が行われた理由としては、イエズス会による戦争のシミュレーションといった側面も大坂の陣も含めてあるものかと思われます。本戦の後、徳川家康は石田三成の居城である佐和山城の石田一族を攻め、内応などもあって、父親や兄弟の一族は自決、子供たちは生き残ったようです。大垣城も内応で開城しています。家康はその後大津城に入城して、小西行長、石田三成を捕縛して、それらを帯同してその後大坂城に入城し、毛利輝元が退去します。慶長5年10月1日(1600年11月6日)に小西行長、石田三成、安国寺恵瓊が六条河原で斬首されます。もう一人の首謀者格の宇喜多秀家は妻がキリシタンの豪姫でしたが、最初京都周辺に潜伏して、その後島津の薩摩へ逃亡し、その後久能山に幽閉されて、縁戚の前田利長の懇願などにより死罪は免れて、最終的には八丈島に流されて明暦元年11月20日(1655年12月17日)83歳で亡くなったそうです。家康はその後論功行賞を発表し、豊臣秀頼が222万石から65万石に減封となり、徳川家康が自身の領地を255万石から400万石へ増加させ、京都・堺・長崎を始めとする大都市や佐渡金山・石見銀山・生野銀山といった豊臣家の財政基盤を支える都市・鉱山も領地としたそうです。
本戦には参加しなかった古田織部の茶の弟子で、石田三成と親しかったらしい佐竹義宣(元亀元年7月16日(1570年8月17日)-寛永10年1月25日(1633年3月5日))は秋田へと転封となりました。没年で333のシンボリズムを認めます。また吉川広家の裏切りによって動きを封じられて、関ヶ原の合戦の本戦に参加できなかった長宗我部盛親(天正3年(1575年)-慶長20年5月15日(1615年6月11日))はその後改易され領地没収され、浪人し、大坂の陣に参加して夏の陣後捕縛され六条河原で切られています。土佐は長宗我部氏の後に山内一豊が引き継ぐこととなります。死没年月日に161と611のシンボリズムを認めています。



慶長8年2月12日(1603年3月24日)に伏見城で家康は征夷大将軍に任ぜられます。一応シンボリズムはあるようです。伏見城は関ヶ原の戦い後から二条城と共に再建され、慶長7年12月(1603年1月)頃に徳川家康は入城しているようです。慶長10年4月16日(1605年6月2日)に徳川秀忠に将軍職を譲り、徳川幕藩体制が確立されます。慶長11年(1606年)頃に徳川家康は駿府城に移り、大御所政治を行っています。大坂城の淀殿と秀頼は各地の直轄領を失って、大名の一人として存続していました。慶長11年~12年(1606年~1607年)にかけて江戸城が完成して、将軍秀忠はそこで政務を行っています。江戸城、駿府城が築城される頃にイエズス会巡察士アレッサンドロ・ヴァリニャーノはマカオで亡くなっています。徳川家康は1606年~1607年にかけてポルトガル人宣教師や朝鮮通信使から太陽と月のシンボリズムのある時計を贈与されているそうです。その頃長崎の恐らく旧イエズス会領地で時計製作が盛んに行われていたようです。和時計への技術の伝承もその頃に行われていったようです。久能山東照宮にある時計はその後スペインとの外交交渉の過程で、慶長14年9月3日(1609年9月30日)に現在の千葉県夷隅郡御宿町にフィリピン臨時総督を乗せたスペインのサン・フランシスコ号がアカプルコ航路の途中で座礁し、地元民に救助され、その後三浦按針が作った船・按針丸・サン・ブエナベントゥーラでアカプルコに帰還して、そのお礼として慶長16年4月29日(1611年6月10日)浦賀に2代目サン・フランシスコ号で上陸したセバスティアン・ビスカイノらが(追記:161161の回文数になっているようです。6月11日でもないところが絶妙な。アカプルコからの浦賀への直行航路らしいです。秀忠と面会したのが6月22日だそうです。)、慶長16年7月20日(1611年8月27日)に駿府城で家康に面会した際に送ったものであり、1581年スペインのマドリッドでハンス・デ・エバロが製作したものだそうです。


この頃になると金や銀の本格的な流通が始まりますが、そもそもザビエルが日本に布教に来たのもマルコ・ポーロの黄金の国ジパングの話の影響もあったと思われ、石見銀山のある大内氏の所領に布教して、その後陶晴賢の謀反によって毛利元就が銀山を掌握するのも、布教の影響があったのではないかと思われますが、鉛や水銀を使用した金銀の精錬法がエジプトやオリエントでは古代から行われていたそうですが、本格的に日本に伝わってきたのはこのザビエルの布教の頃からで、旧約聖書にも書かれている方法との事で、朝鮮由来とか中国由来とか説はあるそうですが、単純に宣教師由来である模様です。秀吉の時代には金細工師の後藤四郎兵衛家に作らせた天正大判が有名ですが、家康は秀吉の死からわずか3か月後の慶長3年11月(1598年12月)には三浦半島の浦賀にスペイン商船を寄港させるようにフランシスコ会宣教師ジェロニモ・デ・ジェズス(生年不詳 - 1601年10月6日)と交渉したとあり、関東を拠点とする家康がスペインのアマルガム法を入手して全国の金銀山の産出量を増加させようとしていたとの事です。そもそもサン・フェリペ号事件からフランシスコ会宣教師を磔にして日本26聖人殉教を行った秀吉であったわけですが、その秀吉の死後すぐに次の政権構想のために率直に動いてフランシスコ会に近づくイエズスの名前に近い家康が最初に接近したのがジェズスという名前の宣教師というのも、まさにキリスト教の修道会のシンボリズムという他ないわけですが、その交渉に適切な通訳がおらず、それにあたったのが、まさに関ヶ原の戦い直前に現れたイギリス人の三浦按針というのも出来過ぎた話のようです。ジェロニモ・デ・ジェズスの没年月日が関ヶ原の戦いの直後で601106と明確なシンボリズムを認めるのも、金銀の産出とその後の家康への政権移行が明確なキリスト教会の筋書きの通りに進んだ証拠かと思われます。アマルガム法による金銀の産出はその後1606年(慶長11年)頃より用いられていたようですが、その後一般的ではなくなったようです。水銀の害もあった模様です。家康の代では後藤四郎兵衛家による慶長大判、後藤庄三郎光次による慶長小判が有名で、さらにこれらの産出元の佐渡金山や石見銀山など全国の金銀山を統括していたのがもともと武田家の家臣であった大久保長安(天文14年(1545年)-慶長18年4月25日(1613年6月13日))であり、死後の不正蓄財が発覚して息子たちが切腹を命じられた大久保長安事件が起こっています。やはり没年月日に明確な対称形ではない西暦のシンボリズム613613という形を認めており、そもそも鎧などにも十字を認めており、キリシタンであった可能性があるようです。オークボで認めるオークはOak、コナラの木の意味となり、ヨーロッパで精霊の木としてあがめられ、船材としても最も使われたた歴史があり、シンボリズムと考えられます。フリーメイスンリーでもシンボリズムとなる木です。聖櫃や箱舟のArkとも発音が似ており、そういう意味でのシンボリズムもあるようです。もちろんオオ○○で真言の意味もあるのかとも思われます。やはり西洋と東洋の融合や折衷がテーマではあるのですね。







またこの時期の朝廷の事件として猪熊事件がありますが、これは公家の乱交による醜聞事件であり、後陽成天皇の側室も関係していて、天皇が激怒して、徳川幕府の京都所司代である板倉勝重によって調査され、関係者が捕えられ、死罪もしくは各地へ追放となっています。この中心人物であり死罪となった猪熊教利は天正11年(1583年)-慶長14年10月17日(1609年11月13日)と没年月日の16091の回転対称、111のシンボリズムを認め、蝦夷松前に配流された花山院忠長(天正16年(1588年)-寛文2年9月26日(1662年11月6日))は松前の地に京文化が伝わるきっかけとなったそうで、やはり同様に没年月日に66、11のシンボリズムを認めます。蹴鞠で有名な飛鳥井家の飛鳥井雅賢(天正13年(1585年)-寛永3年閏4月16日(1626年6月10日))は隠岐に配流され、微妙な没年月日の626、66のシンボリズムを認め、伊豆に配流された難波宗勝(天正14年12月6日(1587年1月14日)-慶安4年3月21日(1651年5月10日))は没年月日で515、151のシンボリズムを認めます。細川幽斎から古今伝授を受けていた烏丸光広(天正7年(1579年)-寛永15年7月13日(1638年8月22日))は蟄居後赦免されていますが、没年で88、22のシンボリズムを認めています。
この事件の意味ですが、慶長20年7月17日(1615年9月9日)の禁中並公家諸法度の制定に繋がったそうで、関係した公家の没年月日のシンボリズムは、そうした江戸幕府の政治体制の確立にキリスト教が大いに関係したことが伺えそうです。



またこの時期の家康のブレーンとして、林羅山(天正11年(1583年) - 明暦3年1月23日(1657年3月7日))がいて、その後の大坂の陣のきっかけとなる方広寺鐘銘事件などで意見したりしていますが、朱子学を基礎として徳川幕府の制度の基礎を作り、孔子廟を上野に作り、後の湯島聖堂の元になったようです。慶長11年(1606年)にはイエズス会の日本人修道士、イルマン・ハビアンと論争して、棄教させたりしているそうです。この日本人修道士イルマン・ハビアンはイソップ物語を翻訳したそうです。この林羅山は明暦の大火で家を焼かれて、4日後に亡くなったそうですが、没年月日に737のシンボリズムを認めます。林羅山を徳川家康に推挙した師の近世儒学の祖の藤原惺窩(永禄4年1月24日(1561年2月8日)-元和5年9月12日(1619年10月19日))が没年月日に明確な16191の回転対称と、161、191、91019の回文数のシンボリズムを認めています。弟子として小早川秀秋や石田三成兄弟、木下長嘯子も挙げられるようです。


家康は慶長12年(1607年)朝鮮通信使と謁見し、文禄・慶長の役以来断絶していた李氏朝鮮との国交を回復し、慶長14年8月17日(1609年9月15日)オランダ使節と会見し、オランダ総督マウリッツからの親書を受け取り、朱印状による交易と平戸にオランダ東インド会社の商館の開設を許可したそうです。慶長16年3月20日(1611年5月2日)に御三家の元となる息子たちを叙任したそうです。徳川家康の対外政策は極めて単純で、経済優先であり、布教に関しては否定的となっていて、側室にキリシタンとされる朝鮮人のジュリアおたあなどがいる時期もありましたが、信仰や思想的には基本的に儒教優先で、キリスト教の要素は名前以外ほとんどなかったようです。その後の東照宮の造営なども含めて、天下普請の切石積み石垣や方形の天守閣などからは、極めてキリスト教の教えの要素を含まないプラグマティズム、実用主義的な、フリーメイスンリー的な要素があったものと思われます。慶長16年7月20日(1611年8月27日)に駿府城でスペイン人探検家のセバスティアン・ビスカイノは家康に謁見し、フェリペ3世からの時計を贈りますが、その後は朱印状をもらい日本沿岸の測量を行い、慶長16年10月6日(1611年11月10日)に仙台で伊達政宗と謁見します。慶長16年10月28日(1611年12月2日)に三陸沖を測量中に慶長三陸地震に海上で遭遇し、本人たちの被害はありませんでしたが、津波の被害を確認しています。セバスティアン・ビスカイノはその後九州地方まで沿岸を測量し、慶長17年8月21日(1612年9月16日)に家康、秀忠の返書を受け取り、浦賀からメキシコに向けて出港しますが、暴風雨にあい慶長17年10月22日(1612年11月14日)に浦賀に戻り、その後慶長遣欧使節団のサン・フアン・バウティスタ号に同乗して慶長18年9月15日(1613年10月28日)に三陸海岸の月浦から出港して帰国しています。この時期の地震としては慶長9年12月16日(1605年2月3日)に起こった慶長地震の南海トラフ地震があり、津波被害での死者が多数であったそうですが、詳しくは分からないようです。その後は慶長16年8月21日(1611年9月27日)に会津地震がありました。会津は著名なキリシタン大名であった蒲生氏郷が奥州仕置後に入部して、会津若松城と共に城下町を整備しましたが、その子の蒲生秀行の時代に一旦宇都宮に転封され、関ヶ原の戦い後に再度入部して、その秀行の時代に地震にあい、その心労もあって翌年慶長17年5月14日(1612年6月13日)に30歳で亡くなったそうです。
慶長三陸地震は伊達政宗のその後の慶長遣欧使節団の大きな動機の一つともなった可能性があるようです。慶長遣欧使節団はフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使、支倉常長(キリスト教禁教後常長となったらしく、それ以前は長経であったそうです。ナーガのシンボリズムがあるようです。)を副使として、セバスティアン・ビスカイノが造船を指導して、1613年10月28日に牡鹿半島の月浦から出港し、東回りで太平洋を横断し、1614年1月28日アカプルコに入港したそうです。その後メキシコシティ、キューバのハバナを経由して、1614年10月5日スペインに到着し、マドリードに到着後、1615年1月30日フェリペ3世に謁見します。その後1615年2月17日支倉常長は洗礼を受け、1615年10月25日ローマに到着し、1615年11月3日ローマ教皇パウロ5世に謁見、1615年11月20日ローマ市民権証書を授与されています。1616年1月7日ローマを離れ、スペイン・セビリアに移動し、1617年7月4日スペインからメキシコに渡り、1618年4月2日に再びサン・フアン・バウティスタ号でアカプルコを出港し、1618年8月10日にフィリピン・マニラに到着しました。支倉常長は元和6年8月24日(1620年9月20日)に厳しい禁教下の日本へ帰国しました。ルイス・ソテロは元和8年9月18日(1622年10月22日)、マニラから密入国しようとしたが捕らえられ、寛永元年7月12日(1624年8月25日)大村で火刑により殉教したそうです。
慶長遣欧使節団についてはやはり高木一雄さんの「伊達政宗と慶長遣欧使節」が詳しいようです。教皇との書簡のやり取りの中で、伊達政宗が興味を持っていたと思われる騎士団の設立について触れている部分もあり、またフェリペ3世のことを、どん・ひりっぺと書かれていて、東北弁の世界ですから、こういうのも日本が鎖国になった一因でもあるのかなと思ったりしました。明らかに徳川秀忠とのやり取りを含んでいて、取次は伊達藩であったのでしょうが、幕府が綿密に関わっていたのが分かります。


慶長18年5月4日(1613年6月11日/ユリウス暦6月21日)に日本の平戸に到着したイギリス東インド会社のセーリスと慶長18年8月4日(1613年9月18日/ユリウス暦9月8日)に駿府城で徳川家康は謁見し、三浦按針が取り次いで翻訳し、慶長18年9月1日(1613年10月4日/ユリウス暦10月14日)には通商許可が出たとの事です。この当時イギリスはユリウス暦を使用しており、到着の日付がグレゴリウス暦6月11日の日付になっていることがシンボリズムのようです。シンボリズム的には明確にイギリスの行動はキリスト教会が規定しているのでしょうね。
またこの時期その後の徳川家康のキリスト教禁教のきっかけとなる事件として岡本大八事件がありました。岡本大八(生年未詳 - 慶長17年3月21日(1612年4月21日))は没年月日に明確な12421の対称のシンボリズムを認めますが、駿府で徳川家康の家臣の老中本多正純に仕えていた有力なキリシタン武将であり、恐らくキリシタン関係の事一切を取り仕切っていた模様で、同じく熱心なキリシタン大名であった有馬晴信がポルトガル船貿易の過程で、部下を数十人マカオでポルトガル人に殺され、その件に関して報復を考えた有馬晴信がマカオ総司令のアンドレ・ぺソアを最終的に長崎の船中に閉じ込め、攻撃して自決させ、これがノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件またはマードレ・デ・デウス号事件とされ、これを機にポルトガル船貿易は下火となります。この後に有馬晴信が徳川家康への取次として岡本大八と懇意になり、賄賂を贈って九州での旧領の回復を試みますが、それが露見して、二人とも死罪となり、岡本大八は駿府市中を引き回しの上火刑、有馬晴信は甲斐に流罪の後切腹となっています。岡本大八と有馬晴信は共に駿府にあった大久保長安邸で尋問を受けたとの事です。岡本と大久保と共にOakの音が入っているのは興味深いところです。有馬晴信の所領はその後島原の乱の中心地になったそうで、また有馬晴信が最終的に害意を抱いていたとする長崎奉行の長谷川藤広はイエズス会が中心のポルトガルから、ドミニコ会に接近していたとあり、全体的にシンボリズムに象徴されるようにキリスト教会の差配であったようで、この複雑な事件の様相から家康はキリスト教の禁教を考えたとあり、秀吉の際と同様にそれはキリスト教会の想定通りであったようです。岡本大八が火刑となった同日に家康は直轄領でのキリスト教の禁教令を発布し、ジュリアおたあは伊豆大島へ流され、原胤信などキリシタンの旗本は潜伏キリシタンとなりました。慶長18年2月19日(1613年4月9日)、幕府は禁教令を全国に拡大し、家康はさらに「伴天連追放之文」を起草させ徳川秀忠の名で発布させました。慶長19年7月(1614年8月)、有馬晴信の子供のキリシタンであった有馬直純はすでに棄教していましたが願い出て、日向国延岡藩に転封され、有馬の地は天領とされ、松倉重政・勝家の悪政後島原の乱が発生します。慶長19年10月1日(1614年11月2日)には家康の大坂城討伐の号令が出され、同時に高山右近をはじめ、修道会士や宣教師など主たるキリスト教徒をマカオやマニラに国外追放にしました。高山右近は慶長19年10月7日(1614年11月8日)長崎を出港し、1614年12月21日マニラに到着し、現地のフィリピン総督は日本侵攻を提言したそうですが、右近が拒絶して、1615年2月3日亡くなります。


大坂の陣のきっかけとなった方広寺鐘銘事件の経過ですが、そもそも関ヶ原の戦い後、徳川家康と豊臣秀頼は共に最終決戦に向けて軍備を整えていたようです。片桐且元が主にその間を取り持っていたわけですが、徳川家康の豊臣秀頼への通常の大名に対する対応をすることで淀殿への挑発が続き、その緩和の意味もあって、豊臣秀頼は家康の勧めで慶長19年(1614年)4月に方広寺を再建しており、慶長19年8月3日(1614年9月6日)に大仏殿の開眼供養を行うことにしていたそうです。その方広寺の鐘の銘文を考えたのが南禅寺の文英清韓であり、臨済宗の長老であったのですが、銘文中の「国家安康」と「君臣豊楽」の部分が特に問題にされましたが、そもそも家康の名前も、豊臣の名前も、意図的に組み込んでいたのは明らかであるようで、林羅山が激しく糾弾していますが、そもそも豊臣方に肩入れして、そういう呪詛とまでいかなくとも皮肉的な意味で組み込んでいるようで、そもそもそれを依頼したのが片桐且元であり、それらを問題としたのが以心崇伝であったとの説もあるようですが、以心崇伝も徳川幕府の有力なブレーンであり、永禄12年(1569年) - 寛永10年1月20日(1633年2月28日)と没年月日でシンボリズムを認め、「伴天連追放之文」「寺院諸法度」「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」を起草した人として徳川幕府の中枢で重要な人物であり、家康の亡くなった際には吉田神道の形式で神格化しようとして、南光坊天海(天文5年(1536年)? - 寛永20年10月2日(1643年11月13日))が新しく考えた山王神道の形式で神格化されて東照大権現が成立したとあり、その後徳川幕府は合議制に移っていったとあります。また「禁中並公家諸法度」の「勅許紫衣竝に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」に関して紫衣事件というのがあり、後水尾天皇が、寺僧に対して紫色の法衣を着ていい勅許を出す朝廷の権利を徳川秀忠が停止した事件で、大徳寺住職・沢庵宗彭(天正元年12月1日(1573年12月24日) - 正保2年12月11日(1646年1月27日))が抗議して流罪になったりしています。その後秀忠の死によって、沢庵和尚は家光に近侍して、家光は紫衣の勅許を元の通りに戻したとの事です。家光の名前も以心崇伝が決めたそうです。朱印船貿易の事務作業も一手に引き受け、黒衣の宰相とも呼ばれたそうです。金地院崇伝とも呼ばれました。日光山東照宮、上野寛永寺を発案した天台宗延暦寺で修業した南光坊天海も100歳以上の長寿といわれているそうですが、没年で明確な31113の回文数のシンボリズムを認めており、キリスト教の明確な影響が裏付けられます。沢庵漬けで有名な沢庵和尚も生年月日がクリスマスイブで、没年月日で16461の回文数を認めます。







この方広寺鐘銘事件の意義ですが、最終的には仲介にあたった片桐且元の豊臣秀頼による領地没収という改易により、片桐且元が大坂城を退去して、徳川家康の慶長19年10月1日(1614年11月2日)の豊臣秀頼への宣戦布告となり、開戦となるわけです。片桐という名前も、豊臣氏の家紋が桐となっており、半分豊臣という意味もかかってくるようです。片桐且元はもともと浅井長政の家来であったようで、浅井三姉妹や大野治長兄弟と共に小谷城落城で放浪しその後秀吉に仕官したそうです。シンボリズム的には鐘は平家物語の冒頭にもうたわれる通りに仏教のシンボルであり、古今東西で鐘の様式の楽器は宗教のシンボルであり、キリスト教でも教会のシンボルであります。当時の南蛮寺で使われたイエズス会のシンボルが刻印された鐘も妙心寺春光院には残されています。そのシンボルに刻印された文字の、特に三英傑の豊臣と家康の名前が刻まれて、それが問題とされたという事の意味は、明らかにこのブログで延々と語っている通り、それがシンボリズムを含んでいることを語っており、国家安康は国の安定を願う意味ですが、イエズス会やキリスト教の意味もそれであり、ヨシュアがイスラエル建国のために聖絶を行ったのもそのためであり、その同じ意味の名前のイエスが無報酬の愛を説いて、その上で多くの聖戦が行われたのも究極的には国や世界の平和と安定のためであるという意味であるかと思います。家康、イエズスの意味で考えると、それが分断されているのは、その当時のイエズス会の状況を示唆していて、結果的に同時にキリスト教禁教となり国外追放となった日本のキリスト教布教の状況を反映していそうです。家康自身のその後の運命を語っているともいえるかと思います。また君臣豊楽も朝廷から庶民まですべての人が豊かになるという意味であり、まさにそれは豊臣の英語の意味to you to me、すなわちあなたも私もで全てという意味だと思いますが、それがさかさまになっているのが、全ての人が豊かになるといっても、主に庶民や、朝廷の配下、この場合幕府や武士と考えられますが、そちらが先に豊かになるという意味になるのかもしれません。朝廷のその後を考えると、大坂の陣後は桂離宮や修学院離宮を建築して、江戸時代の中では最も富んだ時代と考えられ、豊臣が滅んで天皇がやや持ち直すという意味かもしれません。豊臣がさかさまになるという事で、単純に豊臣秀頼のその後の運命を語っているだけかもしれません。方広寺自体が、豊臣秀吉が大仏建造のために建立した寺であり、三十三間堂のすぐ横にあり、慶長伏見地震で大仏が崩壊した歴史があり、大仏の代わりに遷座した善光寺如来は秀吉の死亡する前日に呪いを恐れて甲斐に戻されたというものです。いずれにしても今日残されている主要な大坂の陣当時の遺物はこの方広寺の鐘が最大のものであり、それは大坂の陣の悲惨な戦いの始まりを告げる戦陣の鐘であり、またその後の平和な時代の始まりを告げる祇園精舎の鐘でもあることを後世に伝えています。

大坂の陣では構図は豊臣秀頼、淀殿母子のまさにキリスト教の聖母子像のような殉教の側と、さらにそこに義父となる構図の大野治長兄弟、実際は実父であったようですが、と対峙するイエズスの名前を冠する徳川家康軍、すでに全面的な禁教令を発布して、表立ってキリスト教の大名、武将は一人もいない軍の対決であり、キリスト教全盛時代の象徴ともいえる豊臣秀吉が建築した野面積みの大坂城があり、対峙する徳川家康はすでに天下普請にて江戸城、駿府城、名古屋城の三城を切石積みで真っ白な方形の天守閣を伴い、豊臣の大坂城を上回る規模で完成させており、勝負の行方自体は明白であり、構図としては秀吉の際の小田原城攻めに近いものがあるわけですが、幕府が既に明白にキリスト教禁教を打ち出していたために、キリシタンを含めたその時代を良しとする浪人が豊臣側の蓄積した金銀を求めて大坂城に集結し、結果として10万人ほどの大軍勢となったようですが、最終的には堀の無くなった丸裸の大坂城となった大坂夏の陣の際には8万人程度まで逃亡により減少したようです。いずれにしても豊臣恩顧の浪人が多数であったとはいえ、最初から決着はついているような戦であり、それも籠城戦であるという、全体に主君に殉ずるというよりは、その秀吉時代の安土桃山時代の下克上から天下統一への時代の精神に殉ずるといった色合いが濃いかと思われ、その後の同様の籠城戦による大量虐殺であった島原の乱も全く勝算がないままの殉教の大量死であった状況と似ているかと思われます。また大坂方の実質的な大将としては淀殿がおり、淀殿自身が浅井長政の長女として生まれながら、叔父である織田信長に小谷城で攻められて、命からがらに脱出して、その後織田信長に保護され、その後柴田勝家と再婚したお市の方に連れられて北ノ庄城に移るも、賤ケ岳の戦いでは秀吉に攻められて母親は自害し、秀吉の保護を受け、最終的に秀吉の側室となった運命の持ち主であり、大野治長とは乳母の子供として幼少時より共にいたとあり、大野治長は父親が秀吉の部下であったとありますが、片桐且元と同じく、浅井長政の小谷城落城の時点で織田家の秀吉の配下になったのかと思われます。つまり賤ケ岳の戦い後に乳母でつながる淀殿と大野治長の邂逅があった可能性があるでしょうか。いずれにしても戦を指揮したこともなければ、そもそも武士ですらない淀殿が実質的な大将としている大坂城での籠城戦であり、政治的駆け引きもなく、講和条件も無く、唯々秀吉時代の最高の城である大坂城にすがるか心中するかという、二度の敗戦による落城を経験して、手に入れた当時最高の城と我が子とその父と運命を共にするというのが淀殿の完結したストーリーであったようです。私も九州国立博物館で淀殿の直筆の手紙を見たことがありますが、秀吉もひらがなだけのなかなかの能筆家で名文家であるとの評判ですが、淀殿も文章が散り散りに飛んで、それが当時の女性の流行していたスタイルであったようですが、それの極致のような、内容をある程度予測できていないと読めない文章の書き方であって、なかなか当時にあっても秀吉同様相当特別な気性と性格と才気を持っていた女性であったようです。





(最初の手紙は秀吉から淀殿への直筆の手紙です。肖像画は一応大野治長らしい像です。残りは黒田家伝来の大坂夏の陣図屏風です。)
大坂の陣で有名なキリシタン武将は明石全登がいて、もともと宇喜多秀家の家臣で10万石を持っていたそうですが、関ヶ原の戦いで浪人となり、母親が明石氏であった黒田如水の庇護下にいましたが、その後長政の時代になって流浪し、大坂の陣で熱心なキリシタンであった事から、禁教制となった幕府に対抗する大坂方についたとの事です。大坂夏の陣後の生死は不明ですが、一説には伊達政宗の保護を受け、津軽に渡り、秋田地方に子孫が残ったとあり、元国際連合事務次長の明石康は明石全登の子孫と伝えられているそうです。木村清久という浪人もキリシタンであったようで、もともと秀吉の文書係であったようで、蒲生氏郷の配下でいたものの一揆がおきて改易され、その後豊後の1万4千石の大名となりますが、関ヶ原の戦いで西軍に参加して、戦後浪人となり大坂の陣に参戦して討ち死にしたそうです。大坂方で最も有名な真田幸村こと真田信繁がフランコの洗礼名を持つキリシタンであるという説がありますが、大坂の陣での活躍と、兄弟のその後の大名家としての存続を説明するのにキリスト教の信仰は支障はありませんが、イエズス会の文書からの推測のみとあり、洗礼の記録などはないようです。小笠原権之丞という武将は徳川家康の御落胤ともされ、駿府でキリシタンとして活動していたそうですが、禁教令後改易され浪人となり、大坂の陣に参加して天王寺の戦いで討ち死にしたそうです。細川忠興の次男である細川興秋はキリシタンであった可能性があるそうですが、大坂の陣に大坂方として参加して、夏の陣後父親に切腹を命じられ、伏見の稲荷山東林院で元和元年6月6日(1615年7月1日)に切腹しています。織田信長の弟の織田有楽斎ジョアンも息子と共に大坂冬の陣までは城内にいて中心的な役割をしていたそうですが、夏の陣の際には息子と共に大坂城を出ています。
淀殿と秀頼は必ずしもキリスト教に親和的であった事は無かったようですが、徳川軍を迎えた大坂城には宣教師が三名ほど入り、浪人に含まれた多くのキリシタンを鼓舞したり、新たに洗礼を授けたりしたそうです。また周囲には数名の宣教師がいて、戦況を最後まで見守りそれぞれ教会に報告したようです。

大坂冬の陣は慶長19年11月19日(1614年12月19日)、戦闘は木津川口の砦においてはじまりました。蜂須賀至鎮の抜け駆けだそうですが、どうも和暦でシンボリズムの形をしており、そういうシンボリズムの知識が当時あった可能性があるでしょうか。攻撃された側の明石全登は将が不在で壊滅したとあり、西暦でもそれなりの161、141、121と変な回文数の合成になっており、どうも意図的なもののようです。慶長19年12月2日(1615年1月1日)には大坂城を完全に包囲する形となっています。この時点では形としては小田原城攻めの包囲戦の形と全く同じになっています。この後石垣城攻めの為のオランダやイギリスから購入したカルバリン砲、セーカー砲、半キャノン砲などの大砲による大坂城の建物への砲撃が始まります。豊臣方は寄せ手に火縄銃が大量に配置してあって、攻め手の土手の陣地を構築されるまでは相当有効であったようです。武器の性質が相当変わることで、従来の兵糧攻めの持久戦の形ではなかったことが分かります。兵糧に関しても相当変化があるのかと思われます。本丸への砲撃による直撃で淀殿の侍女8人が死んだことで慶長19年12月16日(1615年1月15日)和議に応ずることを決めます。実質籠城していたのは2週間との事で、普通の人の限界であったのだと思われます。明確な西暦のシンボリズムを認めることから、正確な着弾によって、狙った射撃であった事が明確なようです。大坂夏の陣での軍師は明らかに三浦按針であり、その部下として先陣で働いていたのは片桐且元であったようです。


慶長19年12月18日(1615年1月17日)より京極氏の陣で和平交渉が行われ、豊臣方の使者としては淀殿の妹のキリシタンであった京極高次の正室の常高院であり、慶長19年12月20日(1615年1月19日)本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、惣構の南堀、西堀、東堀を埋めることで和議が成立します。淀殿と秀頼が最も拒否したのは関東への下向であって、暗殺の可能性があったのだと思われますが、なんとしても大坂城と最後まで共にするという一貫した姿勢があったように思われます。そしてその後有名な堀を全て埋められてしまうわけですが、まあ現代のウィキペディアでは和平条件に沿ったものであり、一次史料では堀の埋め立てに関して混乱が生じていた記録はないとあります。そもそも淀殿は天守閣と命運を共にする姿勢であったようです。徳川軍は一旦撤退しますが、慶長20年4月5日(1615年5月2日)大野治長の使者が名古屋にて徳川家康に移封、すなわち大坂城退去はできないと伝え、大坂夏の陣の開始が号令されます。大坂夏の陣は野戦で開始し、大野治房の部隊が慶長20年4月26日(1615年5月23日)に筒井定慶の守る大和郡山城を落とし、その後堺を焼き討ちにし、慶長20年5月6日(1615年6月2日)まで堺攻防戦を行いました。その後大坂城に向かって進撃する徳川軍に大坂方は野戦での襲撃を繰り返し、道明寺の戦い、八尾・若江の戦い、天王寺・岡山の戦いと慶長20年5月6日・7日の2日間に渡って激戦が行われ、数や兵装では圧倒的有利な徳川軍ではありましたが、完全に玉砕覚悟の大坂方は士気が高く、双方ともに多くの死傷者を生じ、当初は数百程度の戦死者でしたが、決戦の天王寺の戦いでは大坂方はほぼ玉砕の状況で2万人近くの首が討ち取られ、その後大坂から京都までの街道に並べられたと宣教師は報告したようです。徳川方ではいわゆる徳川四天王の本田忠勝の息子の、サン・フランシスコ号が座礁した場所の大多喜藩の本多忠朝が先鋒で毛利勝永に打ち取られ、その他に本多忠朝を救援に入った信濃松本藩の小笠原秀政と小笠原忠脩が亡くなっています。毛利勝永はその後敗走して大坂城で秀頼の介錯をしたそうです。シンボリズムはありそうです。いわゆる真田幸村が徳川家康の馬印を倒したとされる戦いです。その後敗走した大坂方は全員大坂城に収容されたとの事で、慶長20年5月7日(1615年6月3日)16時頃徳川軍全軍が取り囲み突入する中で、裏切りなどによって大坂城は内部から炎上し始め、千姫は大坂城を脱出し、淀殿と秀頼は毛利勝永に翌日介錯されて自害しました。秀頼の側室の子の豊臣国松は直前に城から脱出しますが、京都で捜索され捕縛され、慶長20年5月23日(1615年6月19日)に市中車引き回しの後、六条河原で斬首されました。長宗我部盛親は慶長20年5月11日(1615年6月7日)に京都八幡(京都府八幡市)付近の橋本の近くの葦の中に潜んでいたところを蜂須賀至鎮の家臣・長坂三郎左衛門に見つかり捕らえられ、伏見に護送され、その後、盛親は京都の大路を引廻され、そして慶長20年5月15日(1615年6月11日)に京都の六条河原で斬られたそうです。豊臣五奉行の一人増田長盛は盛次の罪を背負う形で関ヶ原の西軍で敗戦後の配流先の岩槻で元和元年5月27日(1615年6月23日)自刃しています。また古田織部は豊臣に内通したという疑いから京都所司代の板倉勝重に捕らえられ慶長20年6月11日(1615年7月6日)に自刃しています。






淀殿、秀頼の自刃の日の慶長20年5月8日(1615年6月4日)ですが、カトリックの聖日では聖フランシスコ・カラチョロ司祭(1563年-1608年)となっており、まだ聖日になっていないと思われ、カトリックのシンボリズムではなさそうです。6月24日の20日前にあたるわけですが、まあこれは大坂の陣の戦端である、慶長19年11月19日(1614年12月19日)木津川口の戦いにヒントがありそうです。いわゆる和暦でシンボリズムを刻むのは後白河天皇の没年月日の建久3年3月13日(1192年4月26日)からの三十三間堂の建立が日本史の中では最も際立っているわけですが、その他にも数多くの天皇の生没年月日で、和暦でのシンボリズムもあったわけですが、戦争の開始などイベントで日付が明確にわかる記録は日本史では少なかったわけで、小田原征伐での和暦での天正18年6月24日(1590年7月25日)近辺の石垣山城の完成が和暦と西暦のシンボリズムの交わったあたりであり、単純に和暦だけでは、松永久秀の東大寺大仏殿焼失永禄10年10月10日(1567年11月20日)の日付が、その後の松永久秀の謀反を起こしての信貴山城での爆死天正5年10月10日(1577年11月29日)が10月10日という事で純粋に和暦ですが、どちらも西暦で11月という事で、仏像を焼くという行為でもあり、むしろ西暦の方がシンボリズムであるのかもしれません。というわけで、1615年6月4日のシンボリズムの推測ですが、恐らく天台宗延暦寺開祖の最澄の和暦での没年月日弘仁13年6月4日(822年6月26日)に対応するのではないかと思われます。西暦と和暦の全く異なる暦の変換になるわけですが、比叡山焼き討ち(元亀2年9月12日(1571年9月30日))で有名な織田信長の仏教圧迫政策でしたが、そもそも大坂城の地は石山本願寺が元亀元年9月12日(1570年10月11日)から天正8年8月2日(1580年9月10日)までの10年の長きにわたって織田信長と抗争を繰り広げた地であり、その地で戦国時代の終焉を象徴する聖母子像に連なる親子が殉教の形で天守閣と運命を共にするというのは、まさにその後の厳しい禁教令の時代を象徴する出来事であり、それは比叡山焼き討ちによる日本の仏教勢力の被った痛手に対する明確な応酬のシンボリズムでもあったのかと思われ、またそれはキリスト教で明確であった暦のシンボリズム、さらにそれが太陽暦のグレゴリウス暦という最新の暦に乗る形での、最澄・空海の中国への留学の際に近傍にあったというキリスト教会の教えの伝承の意味も含まれているものかと思われます。いずれにしても日本史上最も悲惨な内戦といえる、大坂夏の陣の結末は、西暦というキリスト教が布教した最新の知見といえる暦に対して、日本仏教の頂点と言える天台宗の開祖の和暦での命日を重ねたものであったようです。(秀吉の没年月日である慶長3年8月18日(1598年9月18日)も最澄の生年月日神護景雲元年(767年)8月18日に重なるようです。和暦でのシンボリズムですが、死後に日吉丸の幼名が流布したこととも関係がありそうです。猿の異名も日吉大社の猿神と結びつけられて、その後の徳川家康の東照大権現の元になる山王一実神道に繋がるようです。天台宗系の仏教とキリスト教のシンボリズムの融合と考えられます。またこれに関して吉田神道の吉田兼右の次男で吉田兼見の弟の神龍院梵舜は生没年月日が天文22年(1553年) - 寛永9年11月18日(1632年12月29日)と和暦でシンボリズムを認め、豊国廟の別当となったそうですが、大坂の陣後豊国神社は破却され、その後の徳川家康の埋葬の際に吉田神道で進めますが、天海に論争で敗れ、山王一実神道となったそうです。山王一実神道は仏教の度合いの強い神道といった感じでしょうか。神龍院梵舜は全三十三巻の日記を残しているそうです。)


さてあまりに長くなり過ぎたので、ここで章を再び分けます。昭和・平成まで新元号発表までにはたどり着けそうにありませんね。
さて分割した章ですが、一応前の時代の1と6の没年月日と日付のシンボリズムのまとめです。回文数であったり、6と11の組合わせであったり、和暦であるなどいろいろありますが、大友宗麟の死(天正15年5月6日(1587年6月11日))、秋月種実の死(慶長元年9月26日(1596年11月16日))、石田三成・小西行長の死(慶長5年10月1日(1600年11月6日))、フランシスコ会宣教師ジェロニモ・デ・ジェズスの死(慶長6年9月11日(1601年10月6日))、イエズス会巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの死(慶長10年12月12日(1606年1月20日))、細川幽斎・吉田兼見の死(慶長15年8月20日(1610年10月6日))、2代目サン・フランシスコ号の浦賀上陸(慶長16年4月29日(1611年6月10日)、イギリス東インド会社のセーリスの平戸上陸(慶長18年5月4日(1613年6月11日))、古田織部の死(慶長20年6月11日(1615年7月6日))、長宗我部盛親の死(慶長20年5月15日(1615年6月11日))、徳川家康の死(元和2年4月17日(1616年6月1日))、花山院忠長の死(寛文2年9月26日(1662年11月6日))とあり、いずれもテーマとしては17世紀を象徴する1600年の西暦を基調とした、2×3の数秘術の因数分解の意味と、その時代を象徴する人々と出来事という事になるのだと思いますが、基本的にはキリスト教が暦のシンボリズムは通底しているというのが分かるかと思います。
それで淀殿が亡くなり、江戸時代が始まるという、明確なYodからYedoへの音の繋がりはあるわけですが、一応シンボリズムであるようです。
それでまあこの時代の中心テーマともいえる徳川家康の死なわけですが、元和2年1月21日(1616年3月8日)、鷹狩に出た先で倒れたとの事で、最初は脳卒中なんでしょうかね。元和2年4月17日(1616年6月1日)巳の刻(現在の午前10時頃)、家康は駿府城において75歳(満73歳4ヶ月)で死去しました。死因については、鯛をかやの油で揚げ、その上にすった韮をすりかけた天ぷらによる食中毒説が長く一般化されてきたとの事ですが、これを食べたのは最初の発作の際の1月21日の夕だそうで、現在の藤枝市にある田中城というところだそうで、鯛のてんぷらの話をしたのは京の豪商・茶屋四郎次郎の三代目の茶屋清次(天正12年(1584年) - 元和8年7月16日(1622年8月22日))であり、そもそもこの茶屋四郎次郎は代々の襲名であり、初代茶屋清延(天文14年(1545年) - 慶長元年閏7月27日(1596年9月19日))が京都の家康の御用商人であり、神君伊賀越えに協力して取り立てられたとあり、二代目茶屋清忠(生年不詳 - 慶長8年4月1日(1603年5月11日))が関ヶ原の戦いで協力し、京都の情報を提供して、京都所司代のきっかけを作ったとあり、いずれも初代が96、969、919のシンボリズム、二代目が511のシンボリズムを認め、その当事者の三代目が22822という回文数の桁数の大きいシンボリズムを認め、ちょうど京都は板倉勝重が後の「大岡政談」の三方一両損などの元ネタとなる「板倉政要」という判例集を作るなど、活躍している頃であり、時代的にはその後家康の死をきっかけなどとして、キリシタンの取り締まりが活発化していて、それに対する対応を最も行っていた時期にあたります。大鯛2枚・甘鯛(興津鯛)3枚を食べて腹痛に苦しんだとあり、記述通りだと脳卒中ではなさそうで、しかもその後腹のしこりがあって、寄生虫だと自己診断して、自分で調合した薬を飲んで効果なく亡くなったとあり、現代では胃がんではないかと考えられているそうですが、色々記述が異なるんだと思われます。経緯はどうあれ、家康のシンボリズムでの死は大事業であったと思われ、自然死でなかったことは明確かと思われます。


家康は久能山東照宮に埋葬されてから、その1年後に日光東照宮に葬られますが、この時の棺は空であったというのが現在の通説のようです。途中棺を置いたのが富士山麓の御殿場God and Ba‘alとの話ですが、聖櫃で十戒の石板を運んだ逸話に倣ったYedo遷都を為したYesusを新たな神Gongenとする儀式であったのでしょうね。久能山東照宮は日光東照宮と同じく、華麗な色彩の装飾がありますが、鳥の彫刻が多かったと思いますが、周囲にある植物ではやはり蘇鉄がいくつもあり、ルイス・ソテロの南蛮貿易が偲ばれます。日光東照宮では三猿、眠り猫が彫刻で有名ですが、三猿は近代フリーメイスンリーのイングランドグランドロッジの標語「Audi, Vide, Tace(, si vis vivere (remanere) in pace)」「Hear, see, be silent(, if you would live in peace.)」「聞いて、見て、沈黙せよ(、平和に暮らしたいのであれば)」というローマ帝国時代から伝わるとされることわざの変化であり、「悪い言葉を聞かない、悪い行いを見ない、悪い事をしゃべらない」という意味とされますが、いわゆる東と西の共通の道徳訓の一つとして、それでも全く一緒ではなく、東と西で似ていてもその差があるのがまた非常に興味深くはありますが、異文化間で共通のものとしてキリスト教徒、もしかすると三浦按針から教訓の一つとして示されたものかと思います。三猿自体は『論語』に「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、 非礼勿動」(礼にあらざれば視るなかれ、礼にあらざれば聴くなかれ、礼にあらざれば言うなかれ、礼にあらざればおこなうなかれ)という一節があり、一説に、こうした「不見・不聞・不言」の教えが8世紀ごろ、天台宗系の留学僧を経由して日本に伝わったそうです。三猿のモチーフは、庚申信仰の伝播とともに近世以降広く用いられるようになり、主尊の青面金剛を描く際、その足元に三猿が添えられた例が多いとのことです。また庚申塔にも多く三猿が彫り込まれています。天台宗は比叡山の鎮護社の日吉大社と密接な関係にあり、日吉大社を本尊とし、猿を神使とする山王信仰が、庚申信仰と習合した結果ともいわれています。眠り猫については裏面の雀のモチーフと合わせて、平和の象徴とされるようです。















それでまあ太平の江戸時代が始まるわけですが、キリシタンにとっては悲惨な弾圧の歴史の始まりでしかなかったわけです。基本的に日本人のキリスト教への改宗は多くが統治者である大名がその支配地でキリスト教を振興して、結果的にその地域の人々全員がキリスト教に改宗するという形がほとんどであったので、それ以外に、初期の布教で個人や集団で改宗したり、一族で改宗したりした人々は改宗した人々ががそのまま禁教後に表面上棄教したりして隠れキリシタンとなり、後に世代交代によってその信仰自体も薄れていってしまったようですが、地域として統治者の宗教に引きづられて改宗した地域は、案外色々なそもそもの封建制の政治形態自体の問題が生じてきますので、後の島原の乱のような一揆であったり、政治問題化する問題を世代間を越えて持ち続けることになるようです。基本的には宗教問題であり、内面の問題であるのですが、表面的なシンボルとなるものは全て徹底して取り締まられたわけですが、それ以上に幕府にとって問題であったのは、江戸時代初期の潜伏して布教する外国人宣教師とその支援者であり、結局個人の信仰を問題としたのではなく、それが影響を与えうる封建制を守ることが大事であったわけで、そのためにそれを脅かすキリスト教の教えを広める外国人宣教師を全員国外退去もしくは棄教または死刑とする必要があり、日本人で信仰を持つ人々も、その内面の信仰を伝えてそのまま布教したりして信者を増やして組織化することが問題であっただけであり、最終的に文化として日本の中に入った隠れキシリタンの信仰そのものを問題とはしていなかったようです。まあそうは言ってもこの時期秀忠に引き継いで早速主要都市の江戸、京都、長崎の宣教師を中心としてキリスト教の大弾圧と殉教が認められ、それに倣って、棄教した元キリシタン大名などでも領内で大弾圧を行い、いわゆるキリスト教徒の大弾圧が行われました。キリスト教会は京都大坂のものは秀吉の禁教令の時代に一旦破壊され、その後再興されましたが、再び家康の禁教令で破壊されていました。秀忠は家康の死についてキリシタンの関与を疑っていた可能性があり、家康の死の直後から大弾圧を行い、長崎での大弾圧は元和の大殉教と呼ばれています。



徳川家康は天文11年12月26日(ユリウス暦1543年1月31日)-元和2年4月17日(グレゴリウス暦1616年6月1日)と生年月日でもユリウス暦で3131のシンボリズムを認め、和暦でクリスマスの1日ずれでありそもそも生年月日がはっきりしている人も少ないので、この点でも天下統一への要素があったものと思われます。秀忠は天正7年4月7日(1579年5月2日)-寛永9年1月24日(1632年3月14日)とシンボリズムは認めず、あえて言うと生年月日が5月1日の1日ずれでしょうか。和暦で747、西暦で没年月日で323などありますが、まああまりはっきりはしません。家康の子供では長男の松平信康(永禄2年3月6日(1559年4月13日)-天正7年9月15日(1579年10月5日))は生母の築山殿(生年不詳- 天正7年8月29日(1579年9月19日))の殺害と同時期に家康から切腹させられています。また次男の結城秀康 (天正2年2月8日(1574年3月1日)-慶長12年閏4月8日(1607年6月2日))は福井で越前松平家宗家となり、北ノ庄藩藩主となっており、いずれもあまりシンボリズムは認めず、秀忠が三男であったというのがシンボリズムといえばシンボリズムのようです。名前ももちろんHide Tau Darmaの意味になるのでしょうが、フランシスコ会や禅宗といっても、もちろん関東でのキリスト教布教に何らかの影響はあったのだと思われますが、秀忠の治世自体は全面的なキリスト教大弾圧の時代であり、隠れキリシタン化して禅宗などの仏教となったといえばその通りだと思われます。大久保忠隣のみが老中として秀忠を家康の後継として推挙したとあり、その後大久保忠隣(天文22年(1553年)-寛永5年6月27日(1628年7月28日))は大久保長安事件の後で京都の南蛮寺を破却した後で改易されており、家康時代のキリスト教に対する対応と、その周囲の家臣達のまたキリスト教に対する対応の複雑さと、それを引き継いだ秀忠のキリスト教に対する対応としての大弾圧と52歳での死という家康に比べると比較的早世の死を考えると、家康時代の側近であった本多正信と大久保忠世の一族のその後なども居城が相模国の玉縄城と小田原城であったことも含めて興味深く思われます。家康の子供としては督姫(天正3年11月11日(1575年12月13日) - 慶長20年2月4日(1615年3月3日))がおり、最初北条氏直に嫁ぎますが、小田原征伐後、池田輝政に嫁いでその後の大名としての池田家の元となる子供たちを生んでいます。夫の池田輝政と同じく生年でも明確な和暦のシンボリズムを認め、西暦はサンタルチアの日ですが、シラクサのルチアは3-4世紀の人だそうで、12月13日がユリウス暦での冬至であったようで、シンボリズムのようです。没年は西暦で33となっています。紀州徳川家の初代の徳川頼宣(慶長7年3月7日(1602年4月28日)-寛文11年1月10日(1671年2月19日))は没年月日で和暦で1111のシンボリズムを認めています。







この時期の幕府によるキリスト教弾圧により殉教した人としては、カルロ・スピノラ(1564年 - 1622年9月10日)がおり、イタリア人のイエズス会士であり、グレゴリウス暦改暦委員会の中心人物であったイエズス会士のクリストファー・クラヴィウスに師事した数学者、天文学者であり、マテオ・リッチもクリストファー・クラヴィウスに師事していたそうです。カルロ・スピノラは元和の大殉教の際に火刑となっています。没年は22を中心とした162291の回転対称となる、なかなか典型的ではないシンボリズムとなるようです。原胤信(天正15年(1587年)-元和9年10月13日(1623年12月4日))は幕府旗本でしたが、家康の禁教令後に潜伏キリシタンとなり、藩主によってとらえられ棄教を迫られますが拒否し、激怒した家康の命によって額に十字の烙印を押され、手足の指全てを切断、足の筋を切られた上で追放されたそうです。その後も布教活動を続けたそうですが、密告によって捕らえられ江戸で火刑となっています。ルイス・ソテロ(1574年9月6日 - 1624年8月25日)はフランシスコ会修道士であり、伊達藩と幕府による慶長遣欧使節団の正使として支倉常長と共に三陸海岸からローマまで行き、その後ローマからフィリピンに戻った後で禁教令下の長崎に上陸して捕縛され、火刑で殉教しています。中浦ジュリアン(永禄11年(1568年)ごろ - 寛永10年9月20日(1633年10月21日))は天正遣欧使節の副使でイエズス会司祭であり、潜伏して布教活動を継続している中で捕らえられ、同じイエズス会士のクリストヴァン・フェレイラ師らと共に逆さづりの刑を受けて棄教を迫られますが、中浦ジュリアンは棄教せずそのまま殉教しました。ペトロ岐部(天正15年(1587年) - 寛永16年6月4日(1639年7月4日))は歩いてエルサレム、ローマまで旅して、現地でイエズス会司祭となり、帰国して禁教令下で潜伏して布教し、長崎から東北まで布教し、その後捕縛されて江戸で腹を火で炙られ殺されたそうです。幕府の執拗な拷問により転びキリシタンとなった宣教師としては、遠藤周作の「沈黙」のモデルとなったクリストヴァン・フェレイラ(1580年(天正8年)頃 - 1650年11月4日(慶安3年10月11日))、棄教後は沢野忠庵、がおり、天文学書や医学書を日本語で書き残しています。また同様に「沈黙」のモデルとなったジュゼッペ・キアラ(慶長7年(1602年) - 貞享2年7月25日(1685年8月24日))、棄教後は岡本三右衛門、もおり、「天主教大意」という日本語の書を残して、後にジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ(寛文8年(1668年) - 正徳4年10月21日(1714年11月27日))が最後の教皇使節として日本に来てキリシタン山屋敷に捕らえられて新井白石が取り調べを行った際には、この「天主教大意」に基づいてキリスト教についての問答を行ったそうです。転びキリシタンについては信仰自体は持ち続けていた可能性があるとの事です。新井白石(明暦3年2月10日(1657年3月24日)-享保10年5月19日(1725年6月29日))は将軍家宣、家継の時代の旗本であり、政権を担った幕閣であり儒学者ですが、生年月日が林羅山の没年月日とほぼ同時期であり、明暦の大火の時期であります。名前に明確なシンボリズムを認めます。殉教者の多くが火刑になったりしていて、最終的には火葬され、また転びキリシタンもほとんどが火葬されているわけですが、一方で徳川将軍家、天皇家が明確に土葬にされているのがこの時代の特徴かもしれません。
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徳川家光の時代は典型的な江戸幕府の制度が成立した時代として、参勤交代の成立と鎖国の成立があり、日光東照宮の大規模な改修などがあるわけですが、15代続く徳川将軍の3代目で光という最高のシンボリズムを仰ぐ名前という事で、生没年月日では慶長9年7月17日(1604年8月12日)-慶安4年4月20日(1651年6月8日)とあえて言うのであれば生年月日の和暦の717、没年月日の和暦の5の倍数程度という事になるようです。西暦であえて言うと、生年月日のイエズス会の結成日の3日ずれという事なんだと思います。光はフリーメイスンリーでは3つの光で有名ですが、創世記では「光あれ」とあり、そもそもの一神教の成り立ちのアテン神が光の意味であったとあり、明の太陽と月のさらに一神教を強調したようなシンボリズムが光となり、Gのシンボリズムに近いかもしれません。家光でイエズスにも半分かかっており、将軍家が諱で家を継いだのが、2代将軍秀忠、8代将軍吉宗、15代将軍慶喜以外全員であり、イエズス会の名前としての部分の家であり、またそれ以外の二人のヨシはもちろんヨシュアの名前であると思われ、明確にイエズス会が作り上げた徳川時代という象徴なのかと思われます。さてまあその家光時代なわけですが、何はともあれ鎖国という事で、島原の乱なわけです。上述のように幕藩体制維持のためにはキリスト教禁教が絶対的であったわけで、神君家康や天孫降臨や班田収授など様々な日本の逸話をもってしても、日本には王権神授説に相当するような、キリスト教と絶対王政や封建制を結びつける思想は無く、また吉田神道にしても比叡山延暦寺にしても、キリスト教のもたらした数々の知恵を習合して新たな日本の支配体制に結びついた教えとして改変することしかなかったわけで、現代のアメリカのもたらしたITの東アジアでの実際の運用と全く同じようなことがこの時代もあったわけであり、その帰結として多数の日本人潜伏キリシタンが残る時代には、外国人宣教師が予言していた、恐らく予定していて、計画されていた通りに、天草四郎時貞を中心とした島原の乱があったわけです。島原の乱で象徴的であるのは参加者全員が殺されて、唯一内通者であった南蛮絵師の山田右衛門作一人が生き残り城内の様子を全て伝えた事と、ポルトガル船の救援を待った乱軍に対してオランダ船が砲撃してその後のポルトガル船の来航が中止され、長崎出島でのオランダ商館での鎖国体制が成立したことで、この直後のカピタンに日本人妻を持ちオランダに亡命したフランス人ユグノー教徒のフランソワ・カロンが就任し、その後フランソワ・カロンがフランス東インド会社設立を依頼され長官となり、帰国の途上でポルトガル沖で沈没して亡くなったのが、まさにフリーメイスンリーへの流れを説明する逸話だと思われます。島原の乱は寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結とされていて、和暦での5の倍数の日付での開始や、終結の和暦での22、西暦での復活祭8日後の3の倍数など、シンボリズムはあるかと思いますが、その経過は全く大坂の陣と酷似しており、そもそももともとの統治者であった松倉重政は苛政を行う事のみならず、キリシタンの根拠地としてフィリピンマニラの遠征を計画していたとあり、もともと松倉家は筒井順慶の家臣であったとあり、筒井順慶が興福寺の門徒の武士化した戦国大名の家系であったそうで、そういう戦国時代から引き続く、織田信長の延暦寺焼き討ちや、松永久秀の東大寺大仏殿の焼き討ちといった、具体的な仏教寺院の破壊とも関連した宗教対立がそもそも根底にはあった可能性があります。いずれにしても小西家や有馬家の旧臣のキリシタンを含んだ、女性や子供を含む農民が中心の一揆軍の総勢37000人の全員が殺されたとあり、幕府軍の死傷者も数千人に及んだとあり、単純に合戦の形態や政治や権力の状況などを考慮せずとも、日本史上最大の内乱であることは間違いなく、その与えた影響は大きく、その後の幕府のキリシタン政策や、日本人の宗教観そのものにも最も影響を与えているかと思われます。島原の乱に関するフリーメイスンリー的な秘密の内容は私は全く知りません。ただ言えることは、ポルトガル船貿易から決定的にオランダの出島への貿易に変更されたのがこの事件であり、当時オランダはまだスペインやオーストリアと連合したハプスブルグ帝国の一部であり、カトリックからの自由を求めてカルバン派がオランダ独立戦争を継続している最中であり、ポルトガルはすでにスペインの一部となっている時代であり、島原の乱におけるポルトガル船に対する援助の期待と、オランダ船の砲撃の様子は完全にヨーロッパの政治としてはハプスブルグ帝国の内部の話であったわけで、まさに東洋の異教の中で独立を求めて闘争するカトリック教徒の集団は、逆にカトリック王国の中で独立を求めて戦うオランダと全く正反対であったわけで、カトリックが島原の乱に援助して、日本をカトリック国にする流れがあったのであれば、そもそもオランダが宗教改革で新教国となることはなかったわけで、それ自体がいわゆるカトリック→プロテスタント→フリーメイスンリーという歴史の流れそのものに逆行したものであるという話でしかないのだと思われます。ちなみにポルトガルは1640年の島原の乱から2年後にクーデターにより王政復古してスペインから独立し、その後の王となったジョアン4世は清教徒革命を為したイギリスのクロムウェルと条約を結んだりしています。明らかに日本でのキリスト教の布教はヨーロッパ大陸での政変を促し、カトリックからプロテスタント、フリーメイスンリーへの流れを後押ししているのですね。ちなみに島原の乱で天草四郎が軍旗として使用していたのが、いわゆる聖杯をモチーフとしたものであり、当時のヨーロッパでの聖杯伝説の高まり、テンプル騎士団からの近代フリーメイスンリー成立への流れを象徴しているものでもあります。もちろん直接的には聖体拝領の聖杯(カリス)を意味するものであり、ミサで神父が飲み干すワインのカップであり、イエスの血を皆がわけ与えられる盃の象徴です。天草四郎の性別などは関係なかったと思われますが、いわゆるダヴィンチ・コードでの子宮を意味するシンボリズムでしょうか。儀式を通してイエス・キリストの血と体を信徒が分け合う事を行うミサの象徴であり、島原の乱自体がそうしたキリスト教徒の殉教を通して、その死が後世に伝えられ、江戸時代の隠れキリシタンを含んだ民衆の生活の改善や向上が図られることを意図したものであったという意味なのだと思われます。






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島原の乱後は天草領には山崎家治が入部して三年後丸亀に移り、丸亀城を築城しています。天草領はその後天領となりました。雲仙地域ではその後雲仙の地獄炊きなど特に松倉氏の治世の時代の厳しいキリシタン取り締まりの逸話の伝承と考えられるものがありますが、キリシタン達の実力行使であった島原の乱以降は取締自体はあったようですが、内容は明らかにそれ以前から比べて緩くなり、隠れキリシタン自体はその後命脈を保ち、明治維新での隠れキシリタンの再発見に繋がるようです。新井白石によればこの時代のキリシタンの取り締まり自体で、約10-20万人のキリシタンが殺されたとあり、最盛期におよそ100万~200万人いたとされる日本人のキリスト教徒のうち1割ほどが殺されたと考えられ、その他の人々は隠れキリシタンとなり、その信仰は代々受け継がれて日本文化そのものとなり、明治維新で再び信仰の自由が保障されて潜伏キリシタンとしてカトリックやキリスト教に入信する子孫がいたり、そのままキリスト教自体が忘れられたものとなったりしているようです。雲仙地域では明治維新後はブラザーグラバーの子供である倉場富三郎が雲仙ゴルフ場を開設して、日本で二番目のカントリークラブとして現在まで存続しています。また平成時代では雲仙普賢岳の噴火がありました。現在島原城は隠れキリシタン時代の遺物を展示する博物館となっています。また天草切支丹館には上述の重要文化財である天草四郎陣中旗のレプリカが展示してあるそうです。





さて、日本のキリスト教伝道は島原の乱で一旦終息して、その後の時代は再びキリスト教の宣教師が直接関わったわけではないシンボリズムが認められるようになる、隠れキリシタンの時代となるわけですが、まあ実際上はイエズス会領であった時代から引き続いてオランダが領事館を置いた長崎出島が確固たるキリスト教、フリーメイスンリーの拠点となり、隠れキリシタンの時代からさらに明治維新へと時代を導いていくのかと思われます。それでまあ元号をテーマとして書いていてずっと放ってあった天皇家のシンボリズムについてですが、正親町天皇以降について見ていこうかと思います。後陽成天皇(第107代天皇1571年12月31日(元亀2年12月15日) - 1617年9月25日(元和3年8月26日))はちょうど豊臣秀吉の天下統一が一緒の時期であり、まあ世の中景気がいい時ではないですが、ご本人が色々画策したとかそういうことは少なかったようですが、朝廷権威は戦国時代に比べて格段に向上し、47歳とそれ以前とそれ以後に比べると比較的短命ではありますが、最後も火葬であったなどもありますが、子供は非常に多く、在位も天正14年11月7日(1586年12月17日) - 慶長16年3月27日(1611年5月9日)と和暦でシンボリズムを刻んであるようで、意図して和暦で行った時代なんだと思います。ただ生没年月日が西暦で大みそかと、3の二乗と5の二乗の日付になっているのは恐らくキリスト教的なシンボリズムと思われます。後水尾天皇(第108代天皇 1596年6月29日(文禄5年6月4日) - 1680年9月11日(延宝8年8月19日))は西暦で没年月日でシンボリズムを認め、生年月日の和暦の6月4日もまた延暦寺開祖の最澄の没月日であり、これもシンボリズムと思われます。在位も1611年5月9日(慶長16年3月27日) - 1629年12月22日(寛永6年11月8日)とまあ日付は選ぶわけですが、何より昭和天皇にコメントされた通り、歴代天皇の中で記録のある中で最長寿の84歳という事で、キリスト教伝道による最大の効果として天皇の寿命の延長を認めているものかと思われます。この時代は子女もとにかく多いこともそうなんですが、桂離宮(1615年頃-1662年、智仁親王の建設で始まる、後水尾天皇の叔父、その後後水尾法皇で完成)と修学院離宮(1653年- 1655年、後水尾上皇の時代に上皇の指示で建設)が建設されており、皇室の政治機能は江戸幕府によって失われているわけですが、文化活動としては比較的潤沢な予算があったと思われ、そうした今に残る王朝文化の建築が認められます。特に桂離宮は隠れキリシタン灯籠とされる織部灯篭の数も多く、キリシタンから伝来した文様とされる、白黒の市松模様や、船を模した茶室、島津氏より送られた蘇鉄、真行草とされる、三段階の踏み石の表現など、各所にキリシタン伝来のシンボリズムを元とした意匠が施されており、この時期の日本のキリシタン伝来のシンボリズムに基づいた王朝建築として白眉であると思われます。修学院離宮にはわざわざ湯河原吉浜の海岸の石が使われており、石垣山城建築と江戸城建築に関わった石工の由来に掛かっているものと思われます。まあこれだけ長生きの天皇も歴代いなかったわけで、時代も変化が大きかったことが伺えるわけですが、その後の明正天皇(第109代天皇1624年1月9日(元和9年11月19日) - 1696年12月4日(元禄9年11月10日))は後水尾天皇の第二皇女の女帝という事で、シンボリズムも和暦でかなりはっきりあり、91119と回文数であったりするわけですが、在位も1629年12月22日(寛永6年11月8日) - 1643年11月14日(寛永20年10月3日)と西暦でシンボリズムがあるようで、まあ島原の乱や激しいキリスト教徒の取り締まりの時代に、キリシタンの恩恵を受けて天皇家はキリシタン文化を享受していたというそういう様子の中で、政治的実権を持たないうっぷんもあって、徳川家の外孫にあたる7歳の娘に譲位したという話だそうで、日本史上では859年ぶりの女帝であったとの事です。即位しても何ら権限は持たないまま21歳でまた譲位したとの事で、その後出家して74歳まで生きたとあり、まあ色々政治と関わると大変のようです。元号としてはザビエル来日後から天文、弘治、永禄、元亀、天正、文禄、慶長、元和、寛永とあり、天のつくものは天守閣と同じで、天主につながるものと思われ、また天文自体はその後の天文学などとの関連で明らかにシンボリズムと思われます。弘法大師の弘やナガに繋がる永、長、仏教の心得に繋がるのか寛容の寛は仏教系のシンボリズムととらえられます。元は中国の元の建国もあり、Gにもかかるので一部キリスト教系のシンボリズムがあるものと思われます。























それで将軍家としては四代家綱(寛永18年8月3日(1641年9月7日)-延宝8年5月8日(1680年6月4日))の時代になるわけですが、あまり回文数のシンボリズムは認めず、40歳で急死したとあり、没年月日の西暦の6月4日はシンボリズムなんだと思われます。治世では由比正雪の乱などあったりしますが、シンボリズムを認めず、計画の段階で露見しているところなど見ると、キリシタンは関係なさそうです。最大の出来事は明暦の大火(明暦3年1月18日-20日(1657年3月2日–4日))と思われます。江戸城天守閣を焼き、その後再建なされなかったものであり、出火原因は不明ながら江戸の数か所から断続的に発火しており、放火の疑いが有力で、被害は数万人~10万人とあり、日本史上最大の災害となるようです。西暦の3月3日周辺であり、また明暦3年であることがシンボリズムのようです。その後9年で1666年にロンドン大火が起こっていることが、歴史の偶然ではなく必然であるようで、こちらは公式の死者は5人との事ですが、セントポール大聖堂が全焼して現在の形にブラザークリストファー・レンの設計で再建された、いわゆる「驚異の年」の出来事となります。明暦の大火については恐らく大坂夏の陣、島原の乱で数多く亡くなったキリシタンの復讐の意味もあるのではないかと思われます。将軍家綱の名前も、イエズスの家もあるわけですが、綱はやはりフリーメイスンリーのシンボリズムでもあるのですが、そもそも禁制前のフランシスコ会のキリスト教会の組織で「帯紐の組 Cofradía de Cordón」というのがあり、信徒の繋がりを示す紐なわけですが、この家綱、綱吉という第四代、第五代将軍はそういう、キリスト教のシンボリズムを強調した名前となります。五代綱吉(正保3年1月8日(1646年2月23日)-宝永6年1月10日(1709年2月19日))は生年月日で和暦で公現祭でしょうか。西暦の22のシンボリズムもあるようですが、没年月日がやはり和暦で611のようです。綱吉といえばなんといっても生類憐みの令なわけですが、そもそも舘林藩の大名をやっていて、兄の家綱の養子となってすぐに兄の急死で将軍となっており、まあ色々素質を認められて将軍となっている模様です。父親の家光に徹底的に儒学を叩き込まれていたため、文治政治と呼ばれる儒教道徳に基づいた政治を行い、新井白石や荻生徂徠(寛文6年2月16日(1666年3月21日) - 享保13年1月19日(1728年2月28日))という儒家を生み出しています。荻生徂徠は回文数での明確なシンボリズムを認めており、綱吉の側用人の柳沢吉保(万治元年12月18日(1659年1月10日)-正徳4年11月2日(1714年12月8日))に取り立てられたとあり、こちらもシンボリズムを認め、舘林藩でのキリスト教徒の関連があるのかと思われます。柳沢吉保の名前のYの字が多いのもシンボリズムかもしれません。綱吉の時代のシンボリズムの出来事と言えば最大のものがいわゆる大石内蔵助の討ち入りで知られる、忠臣蔵の赤穂事件であり、江戸城松の間での浅野内匠頭の吉良上野介への額への一太刀から始まる一連の赤穂浪士四十七士の討ち入りのクライマックスでの元禄15年12月14日 (1703年1月30日)の和暦の日付が、旧約聖書のエステル記のモルデカイが復讐する日であり、いわゆるユダヤ人絶滅をはかったペルシアの宰相のハマンがユダヤ人絶滅をはかろうとして逆に殺されてしまった日という事であり、その他にも旧約聖書由来と考えられる江戸時代の逸話としては大岡政談の子供を二人の母親が引っ張り合う、ソロモン王の逸話に由来する話が有名ですが、復讐の話として聖書には少ない日付の記述があるエステル記の逸話の日も江戸時代の復讐の実話の日に重ねあわされているようです。復讐法は古代バビロニア法の基本であり、聖書にも認められる基本的なものであり、その基本から発展したのが、キリストの愛であり、そういう教訓に基づく逸話なのだと思われますが、黒田如水などの由来も深い可能性がある赤穂藩という関連もあるものと思われます。黒田藩への何らかのメッセージとすれば、旧約聖書の原本なりが日本にあった可能性もあるかと思われます。「生類憐みの令」は儒教道徳に基づくものとの事ですが、聖書の由来はちょっとわかりませんが、フリーメイスンリーでもブラザーウィリアム・ホガースの絵などで、動物虐待の風刺画などがあり、人文主義の前提として動物愛護の精神の啓発というのが一つの手法としてあるようです。綱吉の時代にはその他にも現在の日本の伝統となる「七五三」の風習の成立などもあり、奇数の年齢の設定はキリスト教の数秘術に基づいているものと考えられ、特に先代の明暦の大火の3月3日の逸話に倣っていると考えられます。綱吉の治世後期は元禄地震(元禄16年11月23日(1703年12月31日)午前2時ごろ)、宝永地震(宝永4年10月4日(1707年10月28日))、富士山噴火(宝永4年11月23日(1707年12月16日))と天災と飢饉大火に見舞われたとの事です。宝永地震、宝永噴火の2年後の宝永6年1月10日(1709年2月19日)に成人麻疹(はしか)で64歳で亡くなったとの事です。宝永地震、宝永噴火は共に17071の回文数を認めます。綱吉の時代は元禄文化とも呼ばれる時代であり、松尾芭蕉の俳諧や井原西鶴の小説、近松門左衛門の歌舞伎・人形浄瑠璃の作品、歌舞伎の成立、人形浄瑠璃の成立、落語の成立、絵画では尾形光琳、土佐光起、菱川師宣、陶工の尾形乾山、円空仏の円空、色絵焼き物の野々村仁清、小石川後楽園や六義園、芝離宮や浜離宮、貝原益軒の養生訓、徳川光圀の大日本史などがあり、これらがこの時代のものだそうです。すなわち前々章でも触れたような江戸時代の隠れキシリタン文化の基礎はこの綱吉の時代に最初に花開いたものと思われます。













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さてここで長くなったのでまた章を切ります。現実社会ではもう平成の次の新元号も決まって発表を待っている段階のようですが、なかなか平成まで行き着きませんね。
それで淀殿が亡くなり、江戸時代が始まるという、明確なYodからYedoへの音の繋がりはあるわけですが、一応シンボリズムであるようです。
それでまあこの時代の中心テーマともいえる徳川家康の死なわけですが、元和2年1月21日(1616年3月8日)、鷹狩に出た先で倒れたとの事で、最初は脳卒中なんでしょうかね。元和2年4月17日(1616年6月1日)巳の刻(現在の午前10時頃)、家康は駿府城において75歳(満73歳4ヶ月)で死去しました。死因については、鯛をかやの油で揚げ、その上にすった韮をすりかけた天ぷらによる食中毒説が長く一般化されてきたとの事ですが、これを食べたのは最初の発作の際の1月21日の夕だそうで、現在の藤枝市にある田中城というところだそうで、鯛のてんぷらの話をしたのは京の豪商・茶屋四郎次郎の三代目の茶屋清次(天正12年(1584年) - 元和8年7月16日(1622年8月22日))であり、そもそもこの茶屋四郎次郎は代々の襲名であり、初代茶屋清延(天文14年(1545年) - 慶長元年閏7月27日(1596年9月19日))が京都の家康の御用商人であり、神君伊賀越えに協力して取り立てられたとあり、二代目茶屋清忠(生年不詳 - 慶長8年4月1日(1603年5月11日))が関ヶ原の戦いで協力し、京都の情報を提供して、京都所司代のきっかけを作ったとあり、いずれも初代が96、969、919のシンボリズム、二代目が511のシンボリズムを認め、その当事者の三代目が22822という回文数の桁数の大きいシンボリズムを認め、ちょうど京都は板倉勝重が後の「大岡政談」の三方一両損などの元ネタとなる「板倉政要」という判例集を作るなど、活躍している頃であり、時代的にはその後家康の死をきっかけなどとして、キリシタンの取り締まりが活発化していて、それに対する対応を最も行っていた時期にあたります。大鯛2枚・甘鯛(興津鯛)3枚を食べて腹痛に苦しんだとあり、記述通りだと脳卒中ではなさそうで、しかもその後腹のしこりがあって、寄生虫だと自己診断して、自分で調合した薬を飲んで効果なく亡くなったとあり、現代では胃がんではないかと考えられているそうですが、色々記述が異なるんだと思われます。経緯はどうあれ、家康のシンボリズムでの死は大事業であったと思われ、自然死でなかったことは明確かと思われます。


家康は久能山東照宮に埋葬されてから、その1年後に日光東照宮に葬られますが、この時の棺は空であったというのが現在の通説のようです。途中棺を置いたのが富士山麓の御殿場God and Ba‘alとの話ですが、聖櫃で十戒の石板を運んだ逸話に倣ったYedo遷都を為したYesusを新たな神Gongenとする儀式であったのでしょうね。久能山東照宮は日光東照宮と同じく、華麗な色彩の装飾がありますが、鳥の彫刻が多かったと思いますが、周囲にある植物ではやはり蘇鉄がいくつもあり、ルイス・ソテロの南蛮貿易が偲ばれます。日光東照宮では三猿、眠り猫が彫刻で有名ですが、三猿は近代フリーメイスンリーのイングランドグランドロッジの標語「Audi, Vide, Tace(, si vis vivere (remanere) in pace)」「Hear, see, be silent(, if you would live in peace.)」「聞いて、見て、沈黙せよ(、平和に暮らしたいのであれば)」というローマ帝国時代から伝わるとされることわざの変化であり、「悪い言葉を聞かない、悪い行いを見ない、悪い事をしゃべらない」という意味とされますが、いわゆる東と西の共通の道徳訓の一つとして、それでも全く一緒ではなく、東と西で似ていてもその差があるのがまた非常に興味深くはありますが、異文化間で共通のものとしてキリスト教徒、もしかすると三浦按針から教訓の一つとして示されたものかと思います。三猿自体は『論語』に「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、 非礼勿動」(礼にあらざれば視るなかれ、礼にあらざれば聴くなかれ、礼にあらざれば言うなかれ、礼にあらざればおこなうなかれ)という一節があり、一説に、こうした「不見・不聞・不言」の教えが8世紀ごろ、天台宗系の留学僧を経由して日本に伝わったそうです。三猿のモチーフは、庚申信仰の伝播とともに近世以降広く用いられるようになり、主尊の青面金剛を描く際、その足元に三猿が添えられた例が多いとのことです。また庚申塔にも多く三猿が彫り込まれています。天台宗は比叡山の鎮護社の日吉大社と密接な関係にあり、日吉大社を本尊とし、猿を神使とする山王信仰が、庚申信仰と習合した結果ともいわれています。眠り猫については裏面の雀のモチーフと合わせて、平和の象徴とされるようです。















それでまあ太平の江戸時代が始まるわけですが、キリシタンにとっては悲惨な弾圧の歴史の始まりでしかなかったわけです。基本的に日本人のキリスト教への改宗は多くが統治者である大名がその支配地でキリスト教を振興して、結果的にその地域の人々全員がキリスト教に改宗するという形がほとんどであったので、それ以外に、初期の布教で個人や集団で改宗したり、一族で改宗したりした人々は改宗した人々ががそのまま禁教後に表面上棄教したりして隠れキリシタンとなり、後に世代交代によってその信仰自体も薄れていってしまったようですが、地域として統治者の宗教に引きづられて改宗した地域は、案外色々なそもそもの封建制の政治形態自体の問題が生じてきますので、後の島原の乱のような一揆であったり、政治問題化する問題を世代間を越えて持ち続けることになるようです。基本的には宗教問題であり、内面の問題であるのですが、表面的なシンボルとなるものは全て徹底して取り締まられたわけですが、それ以上に幕府にとって問題であったのは、江戸時代初期の潜伏して布教する外国人宣教師とその支援者であり、結局個人の信仰を問題としたのではなく、それが影響を与えうる封建制を守ることが大事であったわけで、そのためにそれを脅かすキリスト教の教えを広める外国人宣教師を全員国外退去もしくは棄教または死刑とする必要があり、日本人で信仰を持つ人々も、その内面の信仰を伝えてそのまま布教したりして信者を増やして組織化することが問題であっただけであり、最終的に文化として日本の中に入った隠れキシリタンの信仰そのものを問題とはしていなかったようです。まあそうは言ってもこの時期秀忠に引き継いで早速主要都市の江戸、京都、長崎の宣教師を中心としてキリスト教の大弾圧と殉教が認められ、それに倣って、棄教した元キリシタン大名などでも領内で大弾圧を行い、いわゆるキリスト教徒の大弾圧が行われました。キリスト教会は京都大坂のものは秀吉の禁教令の時代に一旦破壊され、その後再興されましたが、再び家康の禁教令で破壊されていました。秀忠は家康の死についてキリシタンの関与を疑っていた可能性があり、家康の死の直後から大弾圧を行い、長崎での大弾圧は元和の大殉教と呼ばれています。



徳川家康は天文11年12月26日(ユリウス暦1543年1月31日)-元和2年4月17日(グレゴリウス暦1616年6月1日)と生年月日でもユリウス暦で3131のシンボリズムを認め、和暦でクリスマスの1日ずれでありそもそも生年月日がはっきりしている人も少ないので、この点でも天下統一への要素があったものと思われます。秀忠は天正7年4月7日(1579年5月2日)-寛永9年1月24日(1632年3月14日)とシンボリズムは認めず、あえて言うと生年月日が5月1日の1日ずれでしょうか。和暦で747、西暦で没年月日で323などありますが、まああまりはっきりはしません。家康の子供では長男の松平信康(永禄2年3月6日(1559年4月13日)-天正7年9月15日(1579年10月5日))は生母の築山殿(生年不詳- 天正7年8月29日(1579年9月19日))の殺害と同時期に家康から切腹させられています。また次男の結城秀康 (天正2年2月8日(1574年3月1日)-慶長12年閏4月8日(1607年6月2日))は福井で越前松平家宗家となり、北ノ庄藩藩主となっており、いずれもあまりシンボリズムは認めず、秀忠が三男であったというのがシンボリズムといえばシンボリズムのようです。名前ももちろんHide Tau Darmaの意味になるのでしょうが、フランシスコ会や禅宗といっても、もちろん関東でのキリスト教布教に何らかの影響はあったのだと思われますが、秀忠の治世自体は全面的なキリスト教大弾圧の時代であり、隠れキリシタン化して禅宗などの仏教となったといえばその通りだと思われます。大久保忠隣のみが老中として秀忠を家康の後継として推挙したとあり、その後大久保忠隣(天文22年(1553年)-寛永5年6月27日(1628年7月28日))は大久保長安事件の後で京都の南蛮寺を破却した後で改易されており、家康時代のキリスト教に対する対応と、その周囲の家臣達のまたキリスト教に対する対応の複雑さと、それを引き継いだ秀忠のキリスト教に対する対応としての大弾圧と52歳での死という家康に比べると比較的早世の死を考えると、家康時代の側近であった本多正信と大久保忠世の一族のその後なども居城が相模国の玉縄城と小田原城であったことも含めて興味深く思われます。家康の子供としては督姫(天正3年11月11日(1575年12月13日) - 慶長20年2月4日(1615年3月3日))がおり、最初北条氏直に嫁ぎますが、小田原征伐後、池田輝政に嫁いでその後の大名としての池田家の元となる子供たちを生んでいます。夫の池田輝政と同じく生年でも明確な和暦のシンボリズムを認め、西暦はサンタルチアの日ですが、シラクサのルチアは3-4世紀の人だそうで、12月13日がユリウス暦での冬至であったようで、シンボリズムのようです。没年は西暦で33となっています。紀州徳川家の初代の徳川頼宣(慶長7年3月7日(1602年4月28日)-寛文11年1月10日(1671年2月19日))は没年月日で和暦で1111のシンボリズムを認めています。







この時期の幕府によるキリスト教弾圧により殉教した人としては、カルロ・スピノラ(1564年 - 1622年9月10日)がおり、イタリア人のイエズス会士であり、グレゴリウス暦改暦委員会の中心人物であったイエズス会士のクリストファー・クラヴィウスに師事した数学者、天文学者であり、マテオ・リッチもクリストファー・クラヴィウスに師事していたそうです。カルロ・スピノラは元和の大殉教の際に火刑となっています。没年は22を中心とした162291の回転対称となる、なかなか典型的ではないシンボリズムとなるようです。原胤信(天正15年(1587年)-元和9年10月13日(1623年12月4日))は幕府旗本でしたが、家康の禁教令後に潜伏キリシタンとなり、藩主によってとらえられ棄教を迫られますが拒否し、激怒した家康の命によって額に十字の烙印を押され、手足の指全てを切断、足の筋を切られた上で追放されたそうです。その後も布教活動を続けたそうですが、密告によって捕らえられ江戸で火刑となっています。ルイス・ソテロ(1574年9月6日 - 1624年8月25日)はフランシスコ会修道士であり、伊達藩と幕府による慶長遣欧使節団の正使として支倉常長と共に三陸海岸からローマまで行き、その後ローマからフィリピンに戻った後で禁教令下の長崎に上陸して捕縛され、火刑で殉教しています。中浦ジュリアン(永禄11年(1568年)ごろ - 寛永10年9月20日(1633年10月21日))は天正遣欧使節の副使でイエズス会司祭であり、潜伏して布教活動を継続している中で捕らえられ、同じイエズス会士のクリストヴァン・フェレイラ師らと共に逆さづりの刑を受けて棄教を迫られますが、中浦ジュリアンは棄教せずそのまま殉教しました。ペトロ岐部(天正15年(1587年) - 寛永16年6月4日(1639年7月4日))は歩いてエルサレム、ローマまで旅して、現地でイエズス会司祭となり、帰国して禁教令下で潜伏して布教し、長崎から東北まで布教し、その後捕縛されて江戸で腹を火で炙られ殺されたそうです。幕府の執拗な拷問により転びキリシタンとなった宣教師としては、遠藤周作の「沈黙」のモデルとなったクリストヴァン・フェレイラ(1580年(天正8年)頃 - 1650年11月4日(慶安3年10月11日))、棄教後は沢野忠庵、がおり、天文学書や医学書を日本語で書き残しています。また同様に「沈黙」のモデルとなったジュゼッペ・キアラ(慶長7年(1602年) - 貞享2年7月25日(1685年8月24日))、棄教後は岡本三右衛門、もおり、「天主教大意」という日本語の書を残して、後にジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ(寛文8年(1668年) - 正徳4年10月21日(1714年11月27日))が最後の教皇使節として日本に来てキリシタン山屋敷に捕らえられて新井白石が取り調べを行った際には、この「天主教大意」に基づいてキリスト教についての問答を行ったそうです。転びキリシタンについては信仰自体は持ち続けていた可能性があるとの事です。新井白石(明暦3年2月10日(1657年3月24日)-享保10年5月19日(1725年6月29日))は将軍家宣、家継の時代の旗本であり、政権を担った幕閣であり儒学者ですが、生年月日が林羅山の没年月日とほぼ同時期であり、明暦の大火の時期であります。名前に明確なシンボリズムを認めます。殉教者の多くが火刑になったりしていて、最終的には火葬され、また転びキリシタンもほとんどが火葬されているわけですが、一方で徳川将軍家、天皇家が明確に土葬にされているのがこの時代の特徴かもしれません。
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徳川家光の時代は典型的な江戸幕府の制度が成立した時代として、参勤交代の成立と鎖国の成立があり、日光東照宮の大規模な改修などがあるわけですが、15代続く徳川将軍の3代目で光という最高のシンボリズムを仰ぐ名前という事で、生没年月日では慶長9年7月17日(1604年8月12日)-慶安4年4月20日(1651年6月8日)とあえて言うのであれば生年月日の和暦の717、没年月日の和暦の5の倍数程度という事になるようです。西暦であえて言うと、生年月日のイエズス会の結成日の3日ずれという事なんだと思います。光はフリーメイスンリーでは3つの光で有名ですが、創世記では「光あれ」とあり、そもそもの一神教の成り立ちのアテン神が光の意味であったとあり、明の太陽と月のさらに一神教を強調したようなシンボリズムが光となり、Gのシンボリズムに近いかもしれません。家光でイエズスにも半分かかっており、将軍家が諱で家を継いだのが、2代将軍秀忠、8代将軍吉宗、15代将軍慶喜以外全員であり、イエズス会の名前としての部分の家であり、またそれ以外の二人のヨシはもちろんヨシュアの名前であると思われ、明確にイエズス会が作り上げた徳川時代という象徴なのかと思われます。さてまあその家光時代なわけですが、何はともあれ鎖国という事で、島原の乱なわけです。上述のように幕藩体制維持のためにはキリスト教禁教が絶対的であったわけで、神君家康や天孫降臨や班田収授など様々な日本の逸話をもってしても、日本には王権神授説に相当するような、キリスト教と絶対王政や封建制を結びつける思想は無く、また吉田神道にしても比叡山延暦寺にしても、キリスト教のもたらした数々の知恵を習合して新たな日本の支配体制に結びついた教えとして改変することしかなかったわけで、現代のアメリカのもたらしたITの東アジアでの実際の運用と全く同じようなことがこの時代もあったわけであり、その帰結として多数の日本人潜伏キリシタンが残る時代には、外国人宣教師が予言していた、恐らく予定していて、計画されていた通りに、天草四郎時貞を中心とした島原の乱があったわけです。島原の乱で象徴的であるのは参加者全員が殺されて、唯一内通者であった南蛮絵師の山田右衛門作一人が生き残り城内の様子を全て伝えた事と、ポルトガル船の救援を待った乱軍に対してオランダ船が砲撃してその後のポルトガル船の来航が中止され、長崎出島でのオランダ商館での鎖国体制が成立したことで、この直後のカピタンに日本人妻を持ちオランダに亡命したフランス人ユグノー教徒のフランソワ・カロンが就任し、その後フランソワ・カロンがフランス東インド会社設立を依頼され長官となり、帰国の途上でポルトガル沖で沈没して亡くなったのが、まさにフリーメイスンリーへの流れを説明する逸話だと思われます。島原の乱は寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結とされていて、和暦での5の倍数の日付での開始や、終結の和暦での22、西暦での復活祭8日後の3の倍数など、シンボリズムはあるかと思いますが、その経過は全く大坂の陣と酷似しており、そもそももともとの統治者であった松倉重政は苛政を行う事のみならず、キリシタンの根拠地としてフィリピンマニラの遠征を計画していたとあり、もともと松倉家は筒井順慶の家臣であったとあり、筒井順慶が興福寺の門徒の武士化した戦国大名の家系であったそうで、そういう戦国時代から引き続く、織田信長の延暦寺焼き討ちや、松永久秀の東大寺大仏殿の焼き討ちといった、具体的な仏教寺院の破壊とも関連した宗教対立がそもそも根底にはあった可能性があります。いずれにしても小西家や有馬家の旧臣のキリシタンを含んだ、女性や子供を含む農民が中心の一揆軍の総勢37000人の全員が殺されたとあり、幕府軍の死傷者も数千人に及んだとあり、単純に合戦の形態や政治や権力の状況などを考慮せずとも、日本史上最大の内乱であることは間違いなく、その与えた影響は大きく、その後の幕府のキリシタン政策や、日本人の宗教観そのものにも最も影響を与えているかと思われます。島原の乱に関するフリーメイスンリー的な秘密の内容は私は全く知りません。ただ言えることは、ポルトガル船貿易から決定的にオランダの出島への貿易に変更されたのがこの事件であり、当時オランダはまだスペインやオーストリアと連合したハプスブルグ帝国の一部であり、カトリックからの自由を求めてカルバン派がオランダ独立戦争を継続している最中であり、ポルトガルはすでにスペインの一部となっている時代であり、島原の乱におけるポルトガル船に対する援助の期待と、オランダ船の砲撃の様子は完全にヨーロッパの政治としてはハプスブルグ帝国の内部の話であったわけで、まさに東洋の異教の中で独立を求めて闘争するカトリック教徒の集団は、逆にカトリック王国の中で独立を求めて戦うオランダと全く正反対であったわけで、カトリックが島原の乱に援助して、日本をカトリック国にする流れがあったのであれば、そもそもオランダが宗教改革で新教国となることはなかったわけで、それ自体がいわゆるカトリック→プロテスタント→フリーメイスンリーという歴史の流れそのものに逆行したものであるという話でしかないのだと思われます。ちなみにポルトガルは1640年の島原の乱から2年後にクーデターにより王政復古してスペインから独立し、その後の王となったジョアン4世は清教徒革命を為したイギリスのクロムウェルと条約を結んだりしています。明らかに日本でのキリスト教の布教はヨーロッパ大陸での政変を促し、カトリックからプロテスタント、フリーメイスンリーへの流れを後押ししているのですね。ちなみに島原の乱で天草四郎が軍旗として使用していたのが、いわゆる聖杯をモチーフとしたものであり、当時のヨーロッパでの聖杯伝説の高まり、テンプル騎士団からの近代フリーメイスンリー成立への流れを象徴しているものでもあります。もちろん直接的には聖体拝領の聖杯(カリス)を意味するものであり、ミサで神父が飲み干すワインのカップであり、イエスの血を皆がわけ与えられる盃の象徴です。天草四郎の性別などは関係なかったと思われますが、いわゆるダヴィンチ・コードでの子宮を意味するシンボリズムでしょうか。儀式を通してイエス・キリストの血と体を信徒が分け合う事を行うミサの象徴であり、島原の乱自体がそうしたキリスト教徒の殉教を通して、その死が後世に伝えられ、江戸時代の隠れキリシタンを含んだ民衆の生活の改善や向上が図られることを意図したものであったという意味なのだと思われます。






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島原の乱後は天草領には山崎家治が入部して三年後丸亀に移り、丸亀城を築城しています。天草領はその後天領となりました。雲仙地域ではその後雲仙の地獄炊きなど特に松倉氏の治世の時代の厳しいキリシタン取り締まりの逸話の伝承と考えられるものがありますが、キリシタン達の実力行使であった島原の乱以降は取締自体はあったようですが、内容は明らかにそれ以前から比べて緩くなり、隠れキリシタン自体はその後命脈を保ち、明治維新での隠れキシリタンの再発見に繋がるようです。新井白石によればこの時代のキリシタンの取り締まり自体で、約10-20万人のキリシタンが殺されたとあり、最盛期におよそ100万~200万人いたとされる日本人のキリスト教徒のうち1割ほどが殺されたと考えられ、その他の人々は隠れキリシタンとなり、その信仰は代々受け継がれて日本文化そのものとなり、明治維新で再び信仰の自由が保障されて潜伏キリシタンとしてカトリックやキリスト教に入信する子孫がいたり、そのままキリスト教自体が忘れられたものとなったりしているようです。雲仙地域では明治維新後はブラザーグラバーの子供である倉場富三郎が雲仙ゴルフ場を開設して、日本で二番目のカントリークラブとして現在まで存続しています。また平成時代では雲仙普賢岳の噴火がありました。現在島原城は隠れキリシタン時代の遺物を展示する博物館となっています。また天草切支丹館には上述の重要文化財である天草四郎陣中旗のレプリカが展示してあるそうです。





さて、日本のキリスト教伝道は島原の乱で一旦終息して、その後の時代は再びキリスト教の宣教師が直接関わったわけではないシンボリズムが認められるようになる、隠れキリシタンの時代となるわけですが、まあ実際上はイエズス会領であった時代から引き続いてオランダが領事館を置いた長崎出島が確固たるキリスト教、フリーメイスンリーの拠点となり、隠れキリシタンの時代からさらに明治維新へと時代を導いていくのかと思われます。それでまあ元号をテーマとして書いていてずっと放ってあった天皇家のシンボリズムについてですが、正親町天皇以降について見ていこうかと思います。後陽成天皇(第107代天皇1571年12月31日(元亀2年12月15日) - 1617年9月25日(元和3年8月26日))はちょうど豊臣秀吉の天下統一が一緒の時期であり、まあ世の中景気がいい時ではないですが、ご本人が色々画策したとかそういうことは少なかったようですが、朝廷権威は戦国時代に比べて格段に向上し、47歳とそれ以前とそれ以後に比べると比較的短命ではありますが、最後も火葬であったなどもありますが、子供は非常に多く、在位も天正14年11月7日(1586年12月17日) - 慶長16年3月27日(1611年5月9日)と和暦でシンボリズムを刻んであるようで、意図して和暦で行った時代なんだと思います。ただ生没年月日が西暦で大みそかと、3の二乗と5の二乗の日付になっているのは恐らくキリスト教的なシンボリズムと思われます。後水尾天皇(第108代天皇 1596年6月29日(文禄5年6月4日) - 1680年9月11日(延宝8年8月19日))は西暦で没年月日でシンボリズムを認め、生年月日の和暦の6月4日もまた延暦寺開祖の最澄の没月日であり、これもシンボリズムと思われます。在位も1611年5月9日(慶長16年3月27日) - 1629年12月22日(寛永6年11月8日)とまあ日付は選ぶわけですが、何より昭和天皇にコメントされた通り、歴代天皇の中で記録のある中で最長寿の84歳という事で、キリスト教伝道による最大の効果として天皇の寿命の延長を認めているものかと思われます。この時代は子女もとにかく多いこともそうなんですが、桂離宮(1615年頃-1662年、智仁親王の建設で始まる、後水尾天皇の叔父、その後後水尾法皇で完成)と修学院離宮(1653年- 1655年、後水尾上皇の時代に上皇の指示で建設)が建設されており、皇室の政治機能は江戸幕府によって失われているわけですが、文化活動としては比較的潤沢な予算があったと思われ、そうした今に残る王朝文化の建築が認められます。特に桂離宮は隠れキリシタン灯籠とされる織部灯篭の数も多く、キリシタンから伝来した文様とされる、白黒の市松模様や、船を模した茶室、島津氏より送られた蘇鉄、真行草とされる、三段階の踏み石の表現など、各所にキリシタン伝来のシンボリズムを元とした意匠が施されており、この時期の日本のキリシタン伝来のシンボリズムに基づいた王朝建築として白眉であると思われます。修学院離宮にはわざわざ湯河原吉浜の海岸の石が使われており、石垣山城建築と江戸城建築に関わった石工の由来に掛かっているものと思われます。まあこれだけ長生きの天皇も歴代いなかったわけで、時代も変化が大きかったことが伺えるわけですが、その後の明正天皇(第109代天皇1624年1月9日(元和9年11月19日) - 1696年12月4日(元禄9年11月10日))は後水尾天皇の第二皇女の女帝という事で、シンボリズムも和暦でかなりはっきりあり、91119と回文数であったりするわけですが、在位も1629年12月22日(寛永6年11月8日) - 1643年11月14日(寛永20年10月3日)と西暦でシンボリズムがあるようで、まあ島原の乱や激しいキリスト教徒の取り締まりの時代に、キリシタンの恩恵を受けて天皇家はキリシタン文化を享受していたというそういう様子の中で、政治的実権を持たないうっぷんもあって、徳川家の外孫にあたる7歳の娘に譲位したという話だそうで、日本史上では859年ぶりの女帝であったとの事です。即位しても何ら権限は持たないまま21歳でまた譲位したとの事で、その後出家して74歳まで生きたとあり、まあ色々政治と関わると大変のようです。元号としてはザビエル来日後から天文、弘治、永禄、元亀、天正、文禄、慶長、元和、寛永とあり、天のつくものは天守閣と同じで、天主につながるものと思われ、また天文自体はその後の天文学などとの関連で明らかにシンボリズムと思われます。弘法大師の弘やナガに繋がる永、長、仏教の心得に繋がるのか寛容の寛は仏教系のシンボリズムととらえられます。元は中国の元の建国もあり、Gにもかかるので一部キリスト教系のシンボリズムがあるものと思われます。























それで将軍家としては四代家綱(寛永18年8月3日(1641年9月7日)-延宝8年5月8日(1680年6月4日))の時代になるわけですが、あまり回文数のシンボリズムは認めず、40歳で急死したとあり、没年月日の西暦の6月4日はシンボリズムなんだと思われます。治世では由比正雪の乱などあったりしますが、シンボリズムを認めず、計画の段階で露見しているところなど見ると、キリシタンは関係なさそうです。最大の出来事は明暦の大火(明暦3年1月18日-20日(1657年3月2日–4日))と思われます。江戸城天守閣を焼き、その後再建なされなかったものであり、出火原因は不明ながら江戸の数か所から断続的に発火しており、放火の疑いが有力で、被害は数万人~10万人とあり、日本史上最大の災害となるようです。西暦の3月3日周辺であり、また明暦3年であることがシンボリズムのようです。その後9年で1666年にロンドン大火が起こっていることが、歴史の偶然ではなく必然であるようで、こちらは公式の死者は5人との事ですが、セントポール大聖堂が全焼して現在の形にブラザークリストファー・レンの設計で再建された、いわゆる「驚異の年」の出来事となります。明暦の大火については恐らく大坂夏の陣、島原の乱で数多く亡くなったキリシタンの復讐の意味もあるのではないかと思われます。将軍家綱の名前も、イエズスの家もあるわけですが、綱はやはりフリーメイスンリーのシンボリズムでもあるのですが、そもそも禁制前のフランシスコ会のキリスト教会の組織で「帯紐の組 Cofradía de Cordón」というのがあり、信徒の繋がりを示す紐なわけですが、この家綱、綱吉という第四代、第五代将軍はそういう、キリスト教のシンボリズムを強調した名前となります。五代綱吉(正保3年1月8日(1646年2月23日)-宝永6年1月10日(1709年2月19日))は生年月日で和暦で公現祭でしょうか。西暦の22のシンボリズムもあるようですが、没年月日がやはり和暦で611のようです。綱吉といえばなんといっても生類憐みの令なわけですが、そもそも舘林藩の大名をやっていて、兄の家綱の養子となってすぐに兄の急死で将軍となっており、まあ色々素質を認められて将軍となっている模様です。父親の家光に徹底的に儒学を叩き込まれていたため、文治政治と呼ばれる儒教道徳に基づいた政治を行い、新井白石や荻生徂徠(寛文6年2月16日(1666年3月21日) - 享保13年1月19日(1728年2月28日))という儒家を生み出しています。荻生徂徠は回文数での明確なシンボリズムを認めており、綱吉の側用人の柳沢吉保(万治元年12月18日(1659年1月10日)-正徳4年11月2日(1714年12月8日))に取り立てられたとあり、こちらもシンボリズムを認め、舘林藩でのキリスト教徒の関連があるのかと思われます。柳沢吉保の名前のYの字が多いのもシンボリズムかもしれません。綱吉の時代のシンボリズムの出来事と言えば最大のものがいわゆる大石内蔵助の討ち入りで知られる、忠臣蔵の赤穂事件であり、江戸城松の間での浅野内匠頭の吉良上野介への額への一太刀から始まる一連の赤穂浪士四十七士の討ち入りのクライマックスでの元禄15年12月14日 (1703年1月30日)の和暦の日付が、旧約聖書のエステル記のモルデカイが復讐する日であり、いわゆるユダヤ人絶滅をはかったペルシアの宰相のハマンがユダヤ人絶滅をはかろうとして逆に殺されてしまった日という事であり、その他にも旧約聖書由来と考えられる江戸時代の逸話としては大岡政談の子供を二人の母親が引っ張り合う、ソロモン王の逸話に由来する話が有名ですが、復讐の話として聖書には少ない日付の記述があるエステル記の逸話の日も江戸時代の復讐の実話の日に重ねあわされているようです。復讐法は古代バビロニア法の基本であり、聖書にも認められる基本的なものであり、その基本から発展したのが、キリストの愛であり、そういう教訓に基づく逸話なのだと思われますが、黒田如水などの由来も深い可能性がある赤穂藩という関連もあるものと思われます。黒田藩への何らかのメッセージとすれば、旧約聖書の原本なりが日本にあった可能性もあるかと思われます。「生類憐みの令」は儒教道徳に基づくものとの事ですが、聖書の由来はちょっとわかりませんが、フリーメイスンリーでもブラザーウィリアム・ホガースの絵などで、動物虐待の風刺画などがあり、人文主義の前提として動物愛護の精神の啓発というのが一つの手法としてあるようです。綱吉の時代にはその他にも現在の日本の伝統となる「七五三」の風習の成立などもあり、奇数の年齢の設定はキリスト教の数秘術に基づいているものと考えられ、特に先代の明暦の大火の3月3日の逸話に倣っていると考えられます。綱吉の治世後期は元禄地震(元禄16年11月23日(1703年12月31日)午前2時ごろ)、宝永地震(宝永4年10月4日(1707年10月28日))、富士山噴火(宝永4年11月23日(1707年12月16日))と天災と飢饉大火に見舞われたとの事です。宝永地震、宝永噴火の2年後の宝永6年1月10日(1709年2月19日)に成人麻疹(はしか)で64歳で亡くなったとの事です。宝永地震、宝永噴火は共に17071の回文数を認めます。綱吉の時代は元禄文化とも呼ばれる時代であり、松尾芭蕉の俳諧や井原西鶴の小説、近松門左衛門の歌舞伎・人形浄瑠璃の作品、歌舞伎の成立、人形浄瑠璃の成立、落語の成立、絵画では尾形光琳、土佐光起、菱川師宣、陶工の尾形乾山、円空仏の円空、色絵焼き物の野々村仁清、小石川後楽園や六義園、芝離宮や浜離宮、貝原益軒の養生訓、徳川光圀の大日本史などがあり、これらがこの時代のものだそうです。すなわち前々章でも触れたような江戸時代の隠れキシリタン文化の基礎はこの綱吉の時代に最初に花開いたものと思われます。













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さてここで長くなったのでまた章を切ります。現実社会ではもう平成の次の新元号も決まって発表を待っている段階のようですが、なかなか平成まで行き着きませんね。
改元のこの時期に江戸時代をフリーメイスンリーで見ていくというのもなかなかの内容なわけですが、まあキリスト教的にも日本の文化的にも、大いに意義深いわけですが、如何せん今流行の一次資料で見る近現代史でもないわけで、具体的に言うと元号と暦で見る数秘術の日本史とでもいった内容となるわけで、まあ良くて月刊「ムー」の記事といった内容と思われがちですが、まあ身近なフリーメイスンリーというところでは非常に意義深いかと思われ、継続していきます。
まあ将軍家は東照宮建築くらいがクライマックスで、後は怠惰と閉塞と淫蕩の封建制に入っていくという、カトリック的な展開を見守るオランダ商人という感じで、それに対して文化的に完全に隠れキリシタン化して雌伏する朝廷勢力といったところで、シンボリズム的には後者の方が明らかに際立つ江戸時代の天皇家を先に見ていくこととします。
明正天皇の次代が後光明天皇(1633年4月20日(寛永10年3月12日) - 1654年10月30日(承応3年9月20日)第110代天皇(在位:1643年11月14日(寛永20年10月3日) - 1654年10月30日(承応3年9月20日)))と後水尾上皇の院政時代なんですが、10歳で即位して21歳で天然痘で亡くなるという絵にかいたような傀儡で、まあ父親は84歳まで生きたとあり、追号で明確なシンボリズムなんですが、朝廷側の権力の衰退を象徴している状況でもあるようです。後西天皇(1638年1月1日(寛永14年11月16日) - 1685年3月26日(貞享2年2月22日)第111代天皇(在位:1655年1月5日(承応3年11月28日) - 1663年3月5日(寛文3年1月26日)))はかなり生没年月日のシンボリズムがはっきりしていて、何代というところもあるのかと思いますが、まあ子女は非常に多いわけですが、恐らく収入は旗本から小大名程度であったと思われ、離宮の建築などで多く支出して徐々に金銭的に困窮がはっきりしてくるような様子がうかがえる時期でしょうか。この天皇でやっと後水尾天皇の死後5年での没年月日との事で、崩御の死因はウィキペディアにはありませんが、和暦で2のシンボリズムが明確であり、47歳とありまあ政治がらみなんでしょうねえ。霊元天皇(1654年7月9日(承応3年5月25日) - 1732年9月24日(享保17年8月6日))第112代天皇(在位:1663年3月5日(寛文3年1月26日)- 1687年5月2日(貞享4年3月21日)))とここまで皆後水尾天皇の子女という事で、譲位が多いわけですが、78歳まで生きたとあり、とにかく子女は多く、キリスト教の布教によって生産性は一気に上がったんでしょうが、朝廷の政治体制自体は極めて旧体制を引きづっていて、その結果実権を失っていたため、急速に貧窮していったというのが分かる状況でしょうか。生年月日の和暦の5の倍数はカトリック的のようです。東山天皇(1675年10月21日(延宝3年9月3日) - 1710年1月16日(宝永6年12月17日))第113代天皇(在位:1687年5月6日(貞享4年3月25日) - 1709年7月27日(宝永6年6月21日)))の代で霊元天皇の子供となり、後水尾天皇の孫となって初めてやっと子女の数が減り、時代も宝永などあって、慶長文化の余韻が変わる感じでしょうか。朝儀復活や王政復古運動があったとあり、元禄文化に重なるわけですが、和暦の393のシンボリズムや没年月日の西暦の116などありますが、在位期間のシンボリズムが明確でないなど、キリスト教文化から明確に隠れキリシタン時代に入ったそういう変化があるようです。死因は天然痘で34歳であったとあり、明暦の大火後の封建制の時代というキリシタンを直接的に知らない時代という感じのようです。中御門天皇( 1702年1月14日(元禄14年12月17日) - 1737年5月10日(元文2年4月11日))第114代天皇(在位:1709年7月27日(宝永6年6月21日) - 1735年4月13日(享保20年3月21日)))は生年で114のシンボリズムで、没年では5の倍数であるなど何やらシンボリズムを感じさせますが、在位期間では和暦の3の倍数などとなっており、色々シンボリズムの試行錯誤が感じられるものですが、面白いのは在位中に将軍吉宗に献上されたベトナムの象を宮中で拝謁していることと、巳年生まれで、崩御したのが巳年巳月巳日巳刻であったという事で、いわゆる信長のところであった仏教のナーガのシンボリズムのリバイバルがあるという事でしょうか。中御門の中がナーガに掛かっているものと思われます。子女も少し増えた印象です。桜町天皇(1720年2月8日(享保5年1月1日) - 1750年5月28日(寛延3年4月23日))第115代天皇(在位:1735年4月13日(享保20年3月21日) - 1747年6月9日(延享4年5月2日)))は和暦で生年月日のシンボリズムがはっきりしていることと、それ以外はあまりない、退位が西暦で69くらいでしょうか。追号がその後引き続く、桃園、後桜町、後桃園と桃と桜の4代なわけですが、この時期の明確な政治の変化としては八代将軍吉宗による享保の改革があり、その主要な政策の一つに隅田川の桜に象徴される花見の為の桜の植樹があり、その影響があるものと思われます。脚気で30歳で亡くなったとあり、政務より蹴鞠を好んでいたとあり、まあ太平の世で隠れキリシタン文化も浸透し、鎖国の体制の一部見直しなどもあり、朝廷自体が没落貴族の様相を呈していた模様でしょうか。桃園天皇(1741年4月14日(寛保元年2月29日) - 1762年8月31日(宝暦12年7月12日))第116代天皇(在位:1747年6月9日(延享4年5月2日)- 1762年8月31日(宝暦12年7月12日)))は桜町天皇の第一子で生年月日に明確な41414という回文数のシンボリズムを認め、突然としてキリスト教に回帰したようなあれですが、6歳で譲位されて即位して、22歳で亡くなるというまあだいぶ過激な感じですが、在位中に朝廷で尊王論者が弾圧される宝暦事件というのがあったという事で、一方的に衰退の方向にあった朝廷側の明治維新に繋がる王政復古の運動がこの頃にはあったようで、そのきっかけがやはりこうした桃園天皇の明確なシンボリズムと関係あるようです。後桜町天皇(1740年9月23日(元文5年8月3日) - 1813年12月24日(文化10年閏11月2日)第117代天皇(在位:1762年9月15日(宝暦12年7月27日)- 1770年5月23日(明和7年4月28日)))は桜町天皇の第二皇女で、桃園天皇の宝暦事件の渦中での急死の後で急遽中継ぎとしてまたまた女帝として即位したそうで、江戸時代中の二度の女帝の即位は完全に幕府に対する宥和政策としての女帝であるようです。没年月日の西暦だけクリスマスイブと明確にシンボリズムが刻まれていて、73歳となかなかの長寿であるという事が、何とも際立つ感じでしょうか。上皇時代に天明の飢饉の際に御所の周囲に集まった人々に3万個の和リンゴを配ったとあり、没年月日のシンボリズムの由来のようです。後の尊王運動に繋がるようです。後桃園天皇(1758年8月5日(宝暦8年7月2日) - 1779年12月6日(安永8年10月29日)第118代天皇(在位:1770年5月23日(明和7年4月28日) - 1779年12月16日(安永8年11月9日)))は桃園天皇の第一皇子であり、11歳で即位しますが、病気がちであったとあり、幕府による朝廷による介入の安永の御所騒動などもあり、22歳で崩御しています。生年月日が西暦で明確な5885の回文数ですが、没年月日はシンボリズムを認めません。まあ江戸幕府開府以来一時的に強まった朝廷の権威も実権がないことから徐々に衰退して、享保の改革後は一方的に衰退している状況が明確かと思われますが、その一方で、時代は近代フリーメイスンリー結成の時代であり、後桃園天皇時代はすでにヨーロッパはブラザーモーツァルトの時代であり、桜や桃、リンゴなんてのがありましたが、明確な西暦でのシンボリズムが認められるようになっており、これには明確に長崎出島にカピタンとしてやってきていた歴代オランダ領事のブラザーイサーク・ティチング(1745年1月10日-1812年2月2日)らの影響が垣間見えるかと思われます。元号では正保、慶安、承応、明暦、万治、寛文、延宝、天和、貞享、元禄、宝永、正徳、享保、元文、寛保、延享、寛延、宝暦、明和、安永ととにかく改元が多く、シンボリズム的に明確なのが明暦くらいしかなく、明や天、暦、元といったシンボリズムに繋がるものが頻度が少ない感じでしょうか。隠れキリシタン文化の真骨頂ともいえますが、まあ時代的には表面上は仏教の時代なのですね。逆説的に言うとシンボリズムを意識していたので改元が多いともいえるのかもしれません。
















さてこの後が江戸時代の天皇家では最もシンボリズムが強いと思われる光格天皇(1771年9月23日(明和8年8月15日) - 1840年12月11日(天保11年11月18日)第119代天皇(在位:1780年1月1日(安永8年11月25日) - 1817年5月7日(文化14年3月22日))となります。第119代というのもポイントなのだと思われますが、生年月日の和暦の8月15日のイエズス会の結成日である聖母の被昇天の祝日というのもあるようです。やはりイエズス会の影響が大きいのですね。没年月日の和暦の天保11年11月18日というのも、すでにイルミナティ創設者のアダム・ヴァイスハウプトが1830年11月18日に亡くなっており、ちょうど10年後ですが、明暦の大火よろしくそれに合わせたシンボリズムで問題ないと思われます。明治維新のストーリーはすでにこの時点で始まっているとシンボリズムでは認めるわけです。69歳で亡くなり、ゴローニン事件にも関心が高く、終始朝儀の復興に熱心であったという事であり、追号のシンボリズムと生没年月日のシンボリズムが示す通り、将軍家の徳川家光に倣った江戸時代最後の孝明天皇の三代前の明治維新に繋がる王政復古前三代の天皇なのだと思われます。この時期の徳川将軍家の11代将軍徳川家斉(安永2年10月5日(1773年11月18日)-天保12年閏1月7日(1841年2月27日))の西暦での生年月日が11月18日であるのも何か関連がありそうです。仁孝天皇(1800年3月16日(寛政12年2月21日) - 1846年2月21日(弘化3年1月26日)第120代天皇(在位:1817年10月31日(文化14年9月21日) - 1846年2月21日(弘化3年1月26日)))は孝明天皇の父親で生年月日で和暦の12221のシンボリズムを認めますが、やはり和暦であるというのが光格天皇と共通であるようです。蘭学の隆盛などがあるわけですが、キリスト教自体が完全に禁制令の下で隠れキリシタンとなり西暦のシンボリズム自体が日本では失われてしまっていた、そういう印象でしょうか。シンボリズム自体の翻訳が行われているような感じだと思われます。そうはいっても、まあどちらも西暦でチラホラとシンボリズムは認めるのが、この日付のシンボリズムの妙ではあります。仁孝天皇の時代に学習院が創設されたそうです。そして幕末の動乱といえば孝明天皇(1831年7月22日(天保2年6月14日) - 1867年1月30日(慶応2年12月25日)第121代天皇(在位:1846年3月10日(弘化3年2月13日)‐ 1867年1月30日(慶応2年12月25日))というわけで、天然痘でまさに和暦のクリスマスに亡くなるという、明治維新の意義、それはまさに信教の自由の日本での保障であったという事なのだと思われますが、第一義的にそういう事であるというシンボリズムでしょうか。元号では天明、寛政、享和、文化、文政、天保、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応となじみのある元号が増えるわけですが、文化や天のつくもの、そして維新期に入って改元が連発するなども時代を反映しているものと思われます。



さてでは時代を再び遡って実権を持っていたとする将軍家の第6代将軍家宣(寛文2年4月25日(1662年6月11日)-正徳2年10月14日(1712年11月12日))ですが、生年月日で西暦で明確な611のシンボリズム、没年月日では西暦で21112と回文数のシンボリズムを認め、43歳で綱吉の養子となり、48歳で将軍に就任して、50歳で亡くなったそうで、6代という徳川幕府と縁のある6という数字の代でもあり、なかなかシンボリズムに富んだ、一般には綱吉の悪政を改めたとされることが多いややマイナーな将軍でありますが、5代というカトリック的なところからの反動的なフリーメイスンリー的なシンボリズムのようです。短い統治期間ですが側用人として間部詮房(寛文6年5月16日(1666年6月18日)-享保5年7月16日(1720年8月19日))、新井白石を登用して、主に正徳金銀の発行などの財政改革を行ったとあり、いわゆる貨幣の改鋳ですが、その際に勘定奉行として荻原重秀(万治元年(1658年) - 正徳3年9月26日(1713年11月13日))が重用されたとあり、まあ間部詮房などは名前でも曲直瀬道三以来のマナのシンボリズムなわけですが、生年月日が166661というなかなかすごい回文数であり、また新井白石に憎まれた貨幣改鋳を行った荻原重秀も没年月日で31113と明確な回文数を認めており、この時期に新井白石が1709-1714年と最後の教皇使節のジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティの取り調べを行っており、いかに金銀の貿易での流通が日本でのキリスト教布教の使命の一つであったかが伺われるシンボリズムの事例であり、オギワラの名前のシンボリズムはちょっとわかりませんが、貨幣改鋳によってインフレーションが発生して元禄文化は終焉したそうです。現代の日銀総裁のシンボリズムのようでもあります。(インフレによるか、デフレによるかの議論があるようです。)





7代家継(宝永6年7月3日(1709年8月8日)-正徳6年4月30日(1716年6月19日))になると生没年のシンボリズムはなかなか認めるわけですが、4歳で将軍になって、6歳で早世するという、まあ実権も何もないと、北条氏の執権職みたいな武家政権のいつもの形になっていて、間部詮房と新井白石がそのまま実権を握っていて、新井白石は荻原重秀の行った貨幣改鋳の是正を行って、まあ元禄文化の終焉となったとあり、バブル経済の総量規制みたいなものでしょうか。間部詮房は独身で大奥と関係が深かったとかあり、まあ貴族政ではないですが、朝廷と同じく将軍独裁ではなく、大奥や周辺の茶坊主など結局そういう権力周辺の合議制になっていくというのが、まあ封建制の政治形態なわけです。

それで合議制で大奥などの後押しで8代将軍に就任したのがかのテレビで有名な暴れん坊将軍こと徳川吉宗(貞享元年10月21日(1684年11月27日)-寛延4年6月20日(1751年7月12日))です。紀州徳川家2代の4男という事で、湯屋番の娘にお手付きして生まれた子供という事で、通常であれば藩主になる可能性すらないわけですが、父親も兄たちも皆早世して、22歳で運よく藩主となり、10年の地方藩主の経験を積み重ねて後の32歳の時点で、家継の急死で急遽運よく8代将軍になったという、まるで現代日本の地方知事から運よく首相になるようなそういう出来過ぎた話であるわけですが、明確なシンボリズムもなく、関西の高野山の麓であり、色々人間性で選ばれたというのが本当のようです。政治としては目安箱の設置や大岡忠相の任命、江戸火消しの設置や小石川養生所の設置など、いわゆる享保の改革としてテレビでも有名な政治を行い、その後1745年には息子の恐らく脳性麻痺であった家重(正徳元年12月21日(1712年1月28日)-宝暦11年6月12日(1761年7月13日))に将軍職を譲り、大御所政治を行っていましたが、翌年の1746年に脳卒中の発作を起こし、1751年には脳卒中の再発作で亡くなったとの事です。米将軍とも呼ばれ、米相場の安定を図り、倹約と増税を行って、農民一揆は頻発したとあり、必ずしも庶民にとって善政であったわけではなさそうですが、江戸町民の人気は高かったようで、ベトナムからの象ブームや花見の桜植樹、蘭学ブームなど、ブームを巧みに利用したようで、貨幣の改鋳などで好景気も演出したりと何やら現代政治に繋がるところも大いにありそうです。全体的には高野山真言宗の影響が強かったのでしょうねえ。吉宗という家のつかない名前がそれだったようです。8代の復活の数字と、八正道の交わりがそれなのでしょうねえ。小石川養生所などはキリスト教の主要な政策の徳川幕府での初めての実現ととらえることが出来そうです。
そしてこれは完全に追記ですが、享保の改革の頃に薩摩芋の普及を行い、甘藷先生と呼ばれた青木昆陽(元禄11年5月12日(1698年6月19日) - 明和6年10月12日(1769年11月9日))も生年月日で619の回転対称、没年月日で69の回転対称と9119の回文数を認めています。薩摩芋の日本での栽培についてはイギリス商館長のリチャード・コックスによる平戸での記録があるようです。





9代将軍家重は言語不明瞭で側用人の大岡忠光のみが言葉を聞き取れたとあり、長男の家治(元文2年5月22日(1737年6月20日)-天明6年8月25日(1786年9月17日))が聡明であったので、1760年に将軍職を譲って、一応大御所政治となったようです。頻尿で小便を漏らしていたとあり、遺骨も歯ぎしりの跡が明確であるなど、脳性麻痺の疑いが強いですが、この人の最大の功績は江戸時代中の悪名高き田沼意次(享保4年7月27日(1719年9月11日)-天明8年6月24日(1788年7月27日))を老中として取り立てた事であり、明確に生没年月日で西暦、和暦で1991、911、6月24日、7887、727のシンボリズムを認め、田沼意次の政治自体が長崎のオランダカピタンの意向を汲んだものであった可能性が高いと思われます。死因は排尿障害からの慢性腎不全ではないかと考えられているようです。10代将軍家治は田沼意次に政治を任せて、自身は将棋など趣味に傾倒していたようですが、田沼意次は印旛沼の干拓など行い、これはスコットランドのインバネスの地名にかけているのではないかとも思われますが、とにもかくにも記録のある来日した最初のフリーメイスンであるブラザーイサーク・ティチングと謁見したのが家治であるという事で、次代の家斉の時代の化政文化の元となる基盤を作ったわけであり、まあ無茶なことはしなかったという事だと思われます。家治の死と同時に田沼意次も失脚しますが、田沼意次の暗殺説もあるそうです。



11代将軍家斉(安永2年10月5日(1773年11月18日)-天保12年閏1月7日(1841年2月27日))はまあはっきりと西暦でシンボリズムを認めて、和暦でも5の倍数の生年月日と公現祭にあたる没年月日と、如何にもカトリックという感じのシンボリズムを認めるわけですが、イルミナティのアダム・ヴァイスハウプトは将軍就任時の1787年にも健在で、イルミナティの結成自体はアメリカ建国と同じ1776年ですので、まあ数秘術ありきで、家斉の様子はハプスブルク家のブラザーフランツ1世と同じようなものであったとか、色々あるのかもしれませんね。ちなみにハプスブルク家の全盛期を演出したマリア・テレジアの夫であるブラザーフランツ1世は生没年月日が1708年12月8日-1765年8月18日と何やら釈迦の成道会と最澄の生誕日と仏教の記念日二つと重なるようです。ヨーロッパの政治にイエズス会のキリスト教布教が影響を与えている様子がうかがえるでしょうか。御三卿の田安家から養子に出ていて将軍になれなかった白河藩の松平定信(宝暦8年12月27日(1759年1月25日)-文政12年5月13日(1829年6月14日))の寛政の改革が行われるわけですが、これは批判も多く5年程度で失脚したようですが、この時期にフランス革命が被ることから、オランダの勢力が弱まり、ロシアとの外交的緊張があったりしたそうです。家斉の治世では1828年にシーボルト事件があり、シーボルトが国外追放となっています。シーボルトもSieboldと綴り、アダム・ヴァイスハウプトと同じバイエルンの出身のドイツ人ですが、Sie boldであなたの大胆さという意味になるようで、四元徳のFortitudeの意味になるようです。その後天保の大飢饉があり大塩平八郎(寛政5年1月22日(1793年3月4日)-天保8年3月27日(1837年5月1日))の乱がありました。乱後に潜伏中に爆死した日が5月1日なわけですが、まあフランス革命後でイルミナティ結成後ですので、日本の義士による反乱であったわけですが、火事により多くの関係ない市民が亡くなったそうですが、まあイルミナティも関係してそうです。また同時期の1837年に浦賀にアメリカ商船のモリソン号が近づき、幕府の命令で砲撃して、追い払ったモリソン号事件があり、それに関連して開国を唱えるシーボルトに学んだ高野長英(文化元年5月5日(1804年6月12日) - 嘉永3年10月30日(1850年12月3日))とそれを支援した田原藩家老の渡辺崋山(寛政5年9月16日(1793年10月20日) - 天保12年10月11日(1841年11月23日))が自死に追い込まれる蛮社の獄が起きています。高野長英は名前などは完全に高野山系のシンボリズムですが、シーボルトに学んでピタゴラスからガリレオ・ガリレイまでの科学史をオランダ語の翻訳で講義していたというので、まあそういう動きなんでしょうね。没年月日がザビエルの聖祝日となっています。渡辺崋山は画家としての方が有名かもしれません。肖像画が多いわけですが、もちろん明らかに西洋画の手法が反映されているものと思われます。没年月日はやはり111のシンボリズムを認めます。まあこの家斉の治世の文化文政時代の文化を化政文化と言って、元禄文化と並ぶ江戸時代の町民文化の隆盛として挙げられるわけですが、元禄文化がそもそもの隠れキリシタン文化の発露であったわけですが、化政文化はアメリカ独立戦争後、フランス革命後のイルミナティ結成後ということで、以上の流れを考慮すると、隠れキリシタン文化の再来ではなく、蘭学の興隆を主とした、フリーメイスンリー、イルミナティ文化の最初の日本での興隆ととらえられるようです。そう考えると田沼意次のシンボリズムとその存在の影響が大きいことが分かるかと思います。この時期に活躍した文化人でシンボリズムが認められる人は、滑稽本作者の式亭三馬(安永5年(1776年) - 文政5年閏1月6日(1822年2月27日))がおり、生年がイルミナティ結成年となっていて、名前にも三が入っており、没年月日の西暦での2222はなかなかのシンボリズムでしょうか。「南総里見八犬伝」の作者で有名な曲亭馬琴(明和4年6月9日(1767年7月4日) - 嘉永元年11月6日(1848年12月1日))は生月日がアメリカ独立宣言の日で、そのおよそ10年前の生まれなわけですが、和暦で69の回転対称、西暦の767、77の回文数、没年月日の和暦の116、西暦の18481、121の回文数となかなか興味深いシンボリズムを認めます。かなりマイナーなようですが戯作者の柳亭種彦(天明3年5月12日(1783年6月11日)- 天保13年7月19日(1842年8月24日)は没年月日で西暦で42824の明確な回文数を認めています。また浮世絵師、美人画で有名な鈴木春信(享保10年(1725年) - 明和7年6月15日(1770年7月7日))は没年月日で西暦で77077とこれまた明確な回文数を認めており、作品もボストン美術館や大英博物館に多数収蔵されています。俳句で有名な与謝蕪村(享保元年(1716年) - 天明3年12月25日(1784年1月17日))も没年月日が和暦でクリスマスです。また小林一茶(宝暦13年5月5日(1763年6月15日)- 文政10年11月19日(1828年1月5日))も和暦でシンボリズムを認めています。ゴッホやモネにも影響を与えた、「東海道五十三次」を描いた有名な浮世絵師の歌川広重(寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日))も没年月日で西暦で18581の回文数を認めています。妖怪の図や、裸の人が集まって人間の顔を形作る、風変わりな浮世絵を残した歌川国芳(寛政9年11月15日(1798年1月1日 ) - 文久元年3月5日(1861年4月14日))も和暦、西暦ともに1115や11、1414といったシンボリズムを認めています。西洋画の影響もあったのかと思われます。円山応挙(享保18年5月1日(1733年6月12日)- 寛政7年7月17日(1795年8月31日))の高弟の長沢芦雪(宝暦4年(1754年) - 寛政11年6月8日(1799年7月10日))は没年月日で179971とかなり桁数の多い回文数を認めています。師の円山応挙も和暦で5月1日生まれで、717の回文数の没年月日とシンボリズムはあるようです。平賀源内(享保13年(1728年) - 安永8年12月18日(1780年1月24日))とつながりのある洋風画家の司馬江漢(延享4年(1747年) - 文政元年10月21日(1818年11月19日))は没年月日で18181と1119のシンボリズムを認めています。平賀源内は当時のオランダ商館を中心とした蘭学の流行のネットワークの中心にいたようです。名前の平やGの音などがシンボリズムのようです。和暦で没年月日が81218の回文数となるようです。解体新書の表紙絵を描いたとされる小田野直武(寛延2年12月11日(1750年1月18日) - 安永9年5月17日(1780年6月19日))は生年月日で西暦で118のシンボリズム、没年月日で619の回転対称のシンボリズムを認めるようです。琴の作曲家の八重崎検校(安永5年(1776年)頃 - 嘉永元年9月11日(1848年10月7日))は没年月日で18481と回文数を認めています。寛政の改革に影響を与えた儒学者として古賀精里(寛延3年10月20日(1750年11月18日) - 文化14年5月3日(1817年6月17日)がいて、生年月日で西暦で1118を認めています。また古賀精里と共に寛政の三博士と呼ばれた尾藤二洲(延享2年10月8日(1745年11月1日) - 文化10年12月4日(1814年1月24日))は西暦で諸聖人の日生まれとなっています。また儒学者で日米和親条約にも関り、孫娘が昭和の宰相の吉田茂の養母となった佐藤一斎(安永元年10月20日(1772年11月14日)- 安政6年9月24日(1859年10月19日))は生年月日で1114、没年月日で91019と回文数を認めています。やはり儒学者で、蛮社の獄では渡辺崋山の減刑を訴えた松崎慊堂(明和8年9月29日(1771年11月5日) - 天保15年4月21日(1844年6月6日))も生年月日で1771、111の回文数、没年月日で44,66の回文数を認めています。国学者で「古事記伝」の作者で有名な本居宣長(享保15年5月7日(1730年6月21日)-享和元年9月29日(1801年11月5日))は没年月日で111の回文数のシンボリズムを認めています。賀茂真淵(元禄10年3月4日(1697年4月24日)-明和6年10月30日(1769年11月27日))、本居宣長に学んだ国学者の加藤千蔭(享保20年3月9日(1735年4月1日) - 文化5年9月2日(1808年10月21日))は没年月日で18081の回文数を認めています。杉田玄白(享保18年9月13日(1733年10月20日) – 文化14年4月17日(1817年6月1日))と共に「ターヘル・アナトミア」を翻訳して「解体新書」を出版した前野良沢(享保8年(1723年) - 享和3年10月17日(1803年11月30日))は没年月日が西暦でスコットランドの守護聖人のセントアンドリューの日の11月30日であり、031130の回文数を認めます。杉田玄白・前野良沢の弟子である大槻玄沢(宝暦7年9月28日(1757年11月9日)- 文政10年3月30日(1827年4月25日))は生年月日で17571の回文数を認めます。大槻玄沢の後継者の宇田川玄真(明和6年12月28日(1770年1月24日) - 天保5年12月4日(1835年1月2日))の弟子の織田信長の7世の孫で、織田秀信の5世の孫の坪井信道(寛政7年1月2日(1795年2月20日)- 嘉永元年11月8日(1848年12月3日))は没年月日で西暦で18481の回文数と、ザビエルの聖祝日の没日となっています。数学者、経世家であった本多利明(寛保3年(1743年) - 文政3年12月22日(1821年1月25日))は没年月日で2112の回文数を認めています。儒家で経世家の海保青陵(宝暦5年(1755年) - 文化14年5月29日(1817年7月13日))は没年月日で1771の回文数を認めます。まあ全体的に蘭学と儒学と画家と作家など江戸時代のマスメディア関連が多いわけですが、社会に与える影響の度合いが強い仕事という事で、そういうところとシンボリズムの強弱があるという、フリーメイスンリーなんだと思われます。
































さてまあ蘭学の時代になって明らかに長崎出島のフリーメイスンリーロッジの影響が出てきたところで、歴代のカピタンでウィキペディアでわかる人に着目していこうかと思います。島原の乱後にオランダ商館長となった第8代オランダ商館長 フランソワ・カロン(1600年 - 1673年4月5日)については島原の乱のところで触れましたが、この時期のオランダ商館長はほぼ同時に台湾のオランダ領の長官となっていることが、フリーメイスンリー的には重要と思われます。いわゆる洪門会における鄭成功起源説の由来と思われ、明治維新後の日本の台湾併合から、第二次世界大戦後の国共内戦後の台湾の中華民国の成立でしょうか。第16代・第21代オランダ商館長のフレデリック・コイエット(1615年頃 - 1687年10月17日)は没年月日で71017の回文数のシンボリズムを認めるのですが、日本を訪れた最初のスウェーデン人との事で、まあ長崎のオランダ商館が現在のEUの出先機関のようであったという事が分かるかと思います。フレデリック・コイエットは複雑なヨーロッパの政治情勢もあって、マカオのポルトガル勢力と台湾の鄭成功の勢力と同時に対峙して、最終的に捕虜となりオランダに送還され、最後はオランダで亡くなりますが、スウェーデンの爵位も受けているそうです。また上述した亡命フランス人のユグノーであったフランソワ・カロンと義兄であったとの事で、いわゆる近代フリーメイスンリー結成前の実質的なフリーメイスンであるようです。第142代オランダ商館長のブラザーイサーク・ティチング(1745年1月10日-1812年2月2日)は清との交流も活発に行い、徳川家斉の岳父であった島津藩の島津重豪(1745年11月29日(延享2年11月7日)-1833年3月6日(天保4年1月15日))とも積極的に交流して、情報を収集していたそうです。島津重豪の没年月日には333のシンボリズムを認めます。ブラザーイサーク・ティチングはパリの多くのフリーメイスンが埋葬されているペール・ラシェーズ墓地に葬られていますが、墓は一部壊れてしまっているようです。(2023.3.16追記:写真で見ると壊れているのは隣の墓のようです。)もちろん生没年月日のシンボリズムも11、181、222と回文数で明確です。第156代オランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフ(1777年12月2日 - 1835年10月19日)はいわゆるヅーフ辞書で有名で、蘭学の普及に貢献したわけですが、その商館長の時代はオランダがフランス革命によりフランスに占領されていた時代で、その後イギリスの植民地接収を受け、イギリス船の圧力を受けていたそうです。フランスにより占領されていた時代にはアメリカとの契約により、アメリカ船をオランダ船に偽装して長崎に入港していたとあり、ペリー来航前の日本を巡る国際情勢は日本にとっては奇々怪々でしょうか。ヘンドリック・ドゥーフは日本人との間に子供もいたそうで、苗字は道富と当て字を使用したそうです。また最初に俳句を詠んだ西洋人だそうで、「春風やアマコマ走る帆かけ船」という句が残っているそうです。アマコマは何でしょうねえ。生没年月日は17771、22、101の回文数を認めます。ここまで挙げたカピタンはいずれも回想録や書簡集など記録を残しているようです。ヘンドリック・ドゥーフの次代の第157代オランダ商館長のヤン・コック・ブロンホフ(1779年8月5日-1853年10月13日)は没年月日で31013の回文数を認めますが、ヅーフ辞書に続き、日英辞書を作成したそうです。オランダ人ですが、プロイセンに亡命して、プロイセン軍としてイギリスに渡ったそうです。その後オランダに復帰して、出島の倉庫番になったという経歴です。一度はジャカルタでイギリスに捕まってイギリスに送り返されたところでオランダに引き渡され、その後オランダ人と結婚して今度は商館長として出島に来るも、妻と一緒に来たことで幕府が反発して、家族はオランダに帰されたそうです。徳川家斉とも謁見したそうです。最後のカピタン、第166代オランダ商館長(1813年4月21日 - 1879年11月27日)はヤン・ドンケル・クルティウスという方で、まあフリーメイスンだと思いますが、日本人最初のフリーメイスンとしてブラザー西周、ブラザー津田真道がライデン大学でフリーメイスンになった事ばかりが喧伝されて、それを斡旋したであろう長崎出島のフリーメイスンリーロッジについてはまあ触れられることはないわけですが、その責任者がこの方なんでしょうね。英米仏の華々しい外交とは一線を画して、ブラザーサーオールコックやブラザーペリー、ハリスやロッシュ、パークス、ブラザーグラバーなどとは注目の度合いも異なるわけですが、まあ長崎は日本のキリスト教史、フリーメイスンリー史の聖地であることは間違いないようです。











さてまあまた再び長くなったのでここで章を切ります。すでに新元号が発表されていますが、やっと次章で明治維新に入りそうです。
まあ将軍家は東照宮建築くらいがクライマックスで、後は怠惰と閉塞と淫蕩の封建制に入っていくという、カトリック的な展開を見守るオランダ商人という感じで、それに対して文化的に完全に隠れキリシタン化して雌伏する朝廷勢力といったところで、シンボリズム的には後者の方が明らかに際立つ江戸時代の天皇家を先に見ていくこととします。
明正天皇の次代が後光明天皇(1633年4月20日(寛永10年3月12日) - 1654年10月30日(承応3年9月20日)第110代天皇(在位:1643年11月14日(寛永20年10月3日) - 1654年10月30日(承応3年9月20日)))と後水尾上皇の院政時代なんですが、10歳で即位して21歳で天然痘で亡くなるという絵にかいたような傀儡で、まあ父親は84歳まで生きたとあり、追号で明確なシンボリズムなんですが、朝廷側の権力の衰退を象徴している状況でもあるようです。後西天皇(1638年1月1日(寛永14年11月16日) - 1685年3月26日(貞享2年2月22日)第111代天皇(在位:1655年1月5日(承応3年11月28日) - 1663年3月5日(寛文3年1月26日)))はかなり生没年月日のシンボリズムがはっきりしていて、何代というところもあるのかと思いますが、まあ子女は非常に多いわけですが、恐らく収入は旗本から小大名程度であったと思われ、離宮の建築などで多く支出して徐々に金銭的に困窮がはっきりしてくるような様子がうかがえる時期でしょうか。この天皇でやっと後水尾天皇の死後5年での没年月日との事で、崩御の死因はウィキペディアにはありませんが、和暦で2のシンボリズムが明確であり、47歳とありまあ政治がらみなんでしょうねえ。霊元天皇(1654年7月9日(承応3年5月25日) - 1732年9月24日(享保17年8月6日))第112代天皇(在位:1663年3月5日(寛文3年1月26日)- 1687年5月2日(貞享4年3月21日)))とここまで皆後水尾天皇の子女という事で、譲位が多いわけですが、78歳まで生きたとあり、とにかく子女は多く、キリスト教の布教によって生産性は一気に上がったんでしょうが、朝廷の政治体制自体は極めて旧体制を引きづっていて、その結果実権を失っていたため、急速に貧窮していったというのが分かる状況でしょうか。生年月日の和暦の5の倍数はカトリック的のようです。東山天皇(1675年10月21日(延宝3年9月3日) - 1710年1月16日(宝永6年12月17日))第113代天皇(在位:1687年5月6日(貞享4年3月25日) - 1709年7月27日(宝永6年6月21日)))の代で霊元天皇の子供となり、後水尾天皇の孫となって初めてやっと子女の数が減り、時代も宝永などあって、慶長文化の余韻が変わる感じでしょうか。朝儀復活や王政復古運動があったとあり、元禄文化に重なるわけですが、和暦の393のシンボリズムや没年月日の西暦の116などありますが、在位期間のシンボリズムが明確でないなど、キリスト教文化から明確に隠れキリシタン時代に入ったそういう変化があるようです。死因は天然痘で34歳であったとあり、明暦の大火後の封建制の時代というキリシタンを直接的に知らない時代という感じのようです。中御門天皇( 1702年1月14日(元禄14年12月17日) - 1737年5月10日(元文2年4月11日))第114代天皇(在位:1709年7月27日(宝永6年6月21日) - 1735年4月13日(享保20年3月21日)))は生年で114のシンボリズムで、没年では5の倍数であるなど何やらシンボリズムを感じさせますが、在位期間では和暦の3の倍数などとなっており、色々シンボリズムの試行錯誤が感じられるものですが、面白いのは在位中に将軍吉宗に献上されたベトナムの象を宮中で拝謁していることと、巳年生まれで、崩御したのが巳年巳月巳日巳刻であったという事で、いわゆる信長のところであった仏教のナーガのシンボリズムのリバイバルがあるという事でしょうか。中御門の中がナーガに掛かっているものと思われます。子女も少し増えた印象です。桜町天皇(1720年2月8日(享保5年1月1日) - 1750年5月28日(寛延3年4月23日))第115代天皇(在位:1735年4月13日(享保20年3月21日) - 1747年6月9日(延享4年5月2日)))は和暦で生年月日のシンボリズムがはっきりしていることと、それ以外はあまりない、退位が西暦で69くらいでしょうか。追号がその後引き続く、桃園、後桜町、後桃園と桃と桜の4代なわけですが、この時期の明確な政治の変化としては八代将軍吉宗による享保の改革があり、その主要な政策の一つに隅田川の桜に象徴される花見の為の桜の植樹があり、その影響があるものと思われます。脚気で30歳で亡くなったとあり、政務より蹴鞠を好んでいたとあり、まあ太平の世で隠れキリシタン文化も浸透し、鎖国の体制の一部見直しなどもあり、朝廷自体が没落貴族の様相を呈していた模様でしょうか。桃園天皇(1741年4月14日(寛保元年2月29日) - 1762年8月31日(宝暦12年7月12日))第116代天皇(在位:1747年6月9日(延享4年5月2日)- 1762年8月31日(宝暦12年7月12日)))は桜町天皇の第一子で生年月日に明確な41414という回文数のシンボリズムを認め、突然としてキリスト教に回帰したようなあれですが、6歳で譲位されて即位して、22歳で亡くなるというまあだいぶ過激な感じですが、在位中に朝廷で尊王論者が弾圧される宝暦事件というのがあったという事で、一方的に衰退の方向にあった朝廷側の明治維新に繋がる王政復古の運動がこの頃にはあったようで、そのきっかけがやはりこうした桃園天皇の明確なシンボリズムと関係あるようです。後桜町天皇(1740年9月23日(元文5年8月3日) - 1813年12月24日(文化10年閏11月2日)第117代天皇(在位:1762年9月15日(宝暦12年7月27日)- 1770年5月23日(明和7年4月28日)))は桜町天皇の第二皇女で、桃園天皇の宝暦事件の渦中での急死の後で急遽中継ぎとしてまたまた女帝として即位したそうで、江戸時代中の二度の女帝の即位は完全に幕府に対する宥和政策としての女帝であるようです。没年月日の西暦だけクリスマスイブと明確にシンボリズムが刻まれていて、73歳となかなかの長寿であるという事が、何とも際立つ感じでしょうか。上皇時代に天明の飢饉の際に御所の周囲に集まった人々に3万個の和リンゴを配ったとあり、没年月日のシンボリズムの由来のようです。後の尊王運動に繋がるようです。後桃園天皇(1758年8月5日(宝暦8年7月2日) - 1779年12月6日(安永8年10月29日)第118代天皇(在位:1770年5月23日(明和7年4月28日) - 1779年12月16日(安永8年11月9日)))は桃園天皇の第一皇子であり、11歳で即位しますが、病気がちであったとあり、幕府による朝廷による介入の安永の御所騒動などもあり、22歳で崩御しています。生年月日が西暦で明確な5885の回文数ですが、没年月日はシンボリズムを認めません。まあ江戸幕府開府以来一時的に強まった朝廷の権威も実権がないことから徐々に衰退して、享保の改革後は一方的に衰退している状況が明確かと思われますが、その一方で、時代は近代フリーメイスンリー結成の時代であり、後桃園天皇時代はすでにヨーロッパはブラザーモーツァルトの時代であり、桜や桃、リンゴなんてのがありましたが、明確な西暦でのシンボリズムが認められるようになっており、これには明確に長崎出島にカピタンとしてやってきていた歴代オランダ領事のブラザーイサーク・ティチング(1745年1月10日-1812年2月2日)らの影響が垣間見えるかと思われます。元号では正保、慶安、承応、明暦、万治、寛文、延宝、天和、貞享、元禄、宝永、正徳、享保、元文、寛保、延享、寛延、宝暦、明和、安永ととにかく改元が多く、シンボリズム的に明確なのが明暦くらいしかなく、明や天、暦、元といったシンボリズムに繋がるものが頻度が少ない感じでしょうか。隠れキリシタン文化の真骨頂ともいえますが、まあ時代的には表面上は仏教の時代なのですね。逆説的に言うとシンボリズムを意識していたので改元が多いともいえるのかもしれません。
















さてこの後が江戸時代の天皇家では最もシンボリズムが強いと思われる光格天皇(1771年9月23日(明和8年8月15日) - 1840年12月11日(天保11年11月18日)第119代天皇(在位:1780年1月1日(安永8年11月25日) - 1817年5月7日(文化14年3月22日))となります。第119代というのもポイントなのだと思われますが、生年月日の和暦の8月15日のイエズス会の結成日である聖母の被昇天の祝日というのもあるようです。やはりイエズス会の影響が大きいのですね。没年月日の和暦の天保11年11月18日というのも、すでにイルミナティ創設者のアダム・ヴァイスハウプトが1830年11月18日に亡くなっており、ちょうど10年後ですが、明暦の大火よろしくそれに合わせたシンボリズムで問題ないと思われます。明治維新のストーリーはすでにこの時点で始まっているとシンボリズムでは認めるわけです。69歳で亡くなり、ゴローニン事件にも関心が高く、終始朝儀の復興に熱心であったという事であり、追号のシンボリズムと生没年月日のシンボリズムが示す通り、将軍家の徳川家光に倣った江戸時代最後の孝明天皇の三代前の明治維新に繋がる王政復古前三代の天皇なのだと思われます。この時期の徳川将軍家の11代将軍徳川家斉(安永2年10月5日(1773年11月18日)-天保12年閏1月7日(1841年2月27日))の西暦での生年月日が11月18日であるのも何か関連がありそうです。仁孝天皇(1800年3月16日(寛政12年2月21日) - 1846年2月21日(弘化3年1月26日)第120代天皇(在位:1817年10月31日(文化14年9月21日) - 1846年2月21日(弘化3年1月26日)))は孝明天皇の父親で生年月日で和暦の12221のシンボリズムを認めますが、やはり和暦であるというのが光格天皇と共通であるようです。蘭学の隆盛などがあるわけですが、キリスト教自体が完全に禁制令の下で隠れキリシタンとなり西暦のシンボリズム自体が日本では失われてしまっていた、そういう印象でしょうか。シンボリズム自体の翻訳が行われているような感じだと思われます。そうはいっても、まあどちらも西暦でチラホラとシンボリズムは認めるのが、この日付のシンボリズムの妙ではあります。仁孝天皇の時代に学習院が創設されたそうです。そして幕末の動乱といえば孝明天皇(1831年7月22日(天保2年6月14日) - 1867年1月30日(慶応2年12月25日)第121代天皇(在位:1846年3月10日(弘化3年2月13日)‐ 1867年1月30日(慶応2年12月25日))というわけで、天然痘でまさに和暦のクリスマスに亡くなるという、明治維新の意義、それはまさに信教の自由の日本での保障であったという事なのだと思われますが、第一義的にそういう事であるというシンボリズムでしょうか。元号では天明、寛政、享和、文化、文政、天保、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応となじみのある元号が増えるわけですが、文化や天のつくもの、そして維新期に入って改元が連発するなども時代を反映しているものと思われます。



さてでは時代を再び遡って実権を持っていたとする将軍家の第6代将軍家宣(寛文2年4月25日(1662年6月11日)-正徳2年10月14日(1712年11月12日))ですが、生年月日で西暦で明確な611のシンボリズム、没年月日では西暦で21112と回文数のシンボリズムを認め、43歳で綱吉の養子となり、48歳で将軍に就任して、50歳で亡くなったそうで、6代という徳川幕府と縁のある6という数字の代でもあり、なかなかシンボリズムに富んだ、一般には綱吉の悪政を改めたとされることが多いややマイナーな将軍でありますが、5代というカトリック的なところからの反動的なフリーメイスンリー的なシンボリズムのようです。短い統治期間ですが側用人として間部詮房(寛文6年5月16日(1666年6月18日)-享保5年7月16日(1720年8月19日))、新井白石を登用して、主に正徳金銀の発行などの財政改革を行ったとあり、いわゆる貨幣の改鋳ですが、その際に勘定奉行として荻原重秀(万治元年(1658年) - 正徳3年9月26日(1713年11月13日))が重用されたとあり、まあ間部詮房などは名前でも曲直瀬道三以来のマナのシンボリズムなわけですが、生年月日が166661というなかなかすごい回文数であり、また新井白石に憎まれた貨幣改鋳を行った荻原重秀も没年月日で31113と明確な回文数を認めており、この時期に新井白石が1709-1714年と最後の教皇使節のジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティの取り調べを行っており、いかに金銀の貿易での流通が日本でのキリスト教布教の使命の一つであったかが伺われるシンボリズムの事例であり、オギワラの名前のシンボリズムはちょっとわかりませんが、貨幣改鋳によってインフレーションが発生して元禄文化は終焉したそうです。現代の日銀総裁のシンボリズムのようでもあります。(インフレによるか、デフレによるかの議論があるようです。)





7代家継(宝永6年7月3日(1709年8月8日)-正徳6年4月30日(1716年6月19日))になると生没年のシンボリズムはなかなか認めるわけですが、4歳で将軍になって、6歳で早世するという、まあ実権も何もないと、北条氏の執権職みたいな武家政権のいつもの形になっていて、間部詮房と新井白石がそのまま実権を握っていて、新井白石は荻原重秀の行った貨幣改鋳の是正を行って、まあ元禄文化の終焉となったとあり、バブル経済の総量規制みたいなものでしょうか。間部詮房は独身で大奥と関係が深かったとかあり、まあ貴族政ではないですが、朝廷と同じく将軍独裁ではなく、大奥や周辺の茶坊主など結局そういう権力周辺の合議制になっていくというのが、まあ封建制の政治形態なわけです。

それで合議制で大奥などの後押しで8代将軍に就任したのがかのテレビで有名な暴れん坊将軍こと徳川吉宗(貞享元年10月21日(1684年11月27日)-寛延4年6月20日(1751年7月12日))です。紀州徳川家2代の4男という事で、湯屋番の娘にお手付きして生まれた子供という事で、通常であれば藩主になる可能性すらないわけですが、父親も兄たちも皆早世して、22歳で運よく藩主となり、10年の地方藩主の経験を積み重ねて後の32歳の時点で、家継の急死で急遽運よく8代将軍になったという、まるで現代日本の地方知事から運よく首相になるようなそういう出来過ぎた話であるわけですが、明確なシンボリズムもなく、関西の高野山の麓であり、色々人間性で選ばれたというのが本当のようです。政治としては目安箱の設置や大岡忠相の任命、江戸火消しの設置や小石川養生所の設置など、いわゆる享保の改革としてテレビでも有名な政治を行い、その後1745年には息子の恐らく脳性麻痺であった家重(正徳元年12月21日(1712年1月28日)-宝暦11年6月12日(1761年7月13日))に将軍職を譲り、大御所政治を行っていましたが、翌年の1746年に脳卒中の発作を起こし、1751年には脳卒中の再発作で亡くなったとの事です。米将軍とも呼ばれ、米相場の安定を図り、倹約と増税を行って、農民一揆は頻発したとあり、必ずしも庶民にとって善政であったわけではなさそうですが、江戸町民の人気は高かったようで、ベトナムからの象ブームや花見の桜植樹、蘭学ブームなど、ブームを巧みに利用したようで、貨幣の改鋳などで好景気も演出したりと何やら現代政治に繋がるところも大いにありそうです。全体的には高野山真言宗の影響が強かったのでしょうねえ。吉宗という家のつかない名前がそれだったようです。8代の復活の数字と、八正道の交わりがそれなのでしょうねえ。小石川養生所などはキリスト教の主要な政策の徳川幕府での初めての実現ととらえることが出来そうです。
そしてこれは完全に追記ですが、享保の改革の頃に薩摩芋の普及を行い、甘藷先生と呼ばれた青木昆陽(元禄11年5月12日(1698年6月19日) - 明和6年10月12日(1769年11月9日))も生年月日で619の回転対称、没年月日で69の回転対称と9119の回文数を認めています。薩摩芋の日本での栽培についてはイギリス商館長のリチャード・コックスによる平戸での記録があるようです。





9代将軍家重は言語不明瞭で側用人の大岡忠光のみが言葉を聞き取れたとあり、長男の家治(元文2年5月22日(1737年6月20日)-天明6年8月25日(1786年9月17日))が聡明であったので、1760年に将軍職を譲って、一応大御所政治となったようです。頻尿で小便を漏らしていたとあり、遺骨も歯ぎしりの跡が明確であるなど、脳性麻痺の疑いが強いですが、この人の最大の功績は江戸時代中の悪名高き田沼意次(享保4年7月27日(1719年9月11日)-天明8年6月24日(1788年7月27日))を老中として取り立てた事であり、明確に生没年月日で西暦、和暦で1991、911、6月24日、7887、727のシンボリズムを認め、田沼意次の政治自体が長崎のオランダカピタンの意向を汲んだものであった可能性が高いと思われます。死因は排尿障害からの慢性腎不全ではないかと考えられているようです。10代将軍家治は田沼意次に政治を任せて、自身は将棋など趣味に傾倒していたようですが、田沼意次は印旛沼の干拓など行い、これはスコットランドのインバネスの地名にかけているのではないかとも思われますが、とにもかくにも記録のある来日した最初のフリーメイスンであるブラザーイサーク・ティチングと謁見したのが家治であるという事で、次代の家斉の時代の化政文化の元となる基盤を作ったわけであり、まあ無茶なことはしなかったという事だと思われます。家治の死と同時に田沼意次も失脚しますが、田沼意次の暗殺説もあるそうです。



11代将軍家斉(安永2年10月5日(1773年11月18日)-天保12年閏1月7日(1841年2月27日))はまあはっきりと西暦でシンボリズムを認めて、和暦でも5の倍数の生年月日と公現祭にあたる没年月日と、如何にもカトリックという感じのシンボリズムを認めるわけですが、イルミナティのアダム・ヴァイスハウプトは将軍就任時の1787年にも健在で、イルミナティの結成自体はアメリカ建国と同じ1776年ですので、まあ数秘術ありきで、家斉の様子はハプスブルク家のブラザーフランツ1世と同じようなものであったとか、色々あるのかもしれませんね。ちなみにハプスブルク家の全盛期を演出したマリア・テレジアの夫であるブラザーフランツ1世は生没年月日が1708年12月8日-1765年8月18日と何やら釈迦の成道会と最澄の生誕日と仏教の記念日二つと重なるようです。ヨーロッパの政治にイエズス会のキリスト教布教が影響を与えている様子がうかがえるでしょうか。御三卿の田安家から養子に出ていて将軍になれなかった白河藩の松平定信(宝暦8年12月27日(1759年1月25日)-文政12年5月13日(1829年6月14日))の寛政の改革が行われるわけですが、これは批判も多く5年程度で失脚したようですが、この時期にフランス革命が被ることから、オランダの勢力が弱まり、ロシアとの外交的緊張があったりしたそうです。家斉の治世では1828年にシーボルト事件があり、シーボルトが国外追放となっています。シーボルトもSieboldと綴り、アダム・ヴァイスハウプトと同じバイエルンの出身のドイツ人ですが、Sie boldであなたの大胆さという意味になるようで、四元徳のFortitudeの意味になるようです。その後天保の大飢饉があり大塩平八郎(寛政5年1月22日(1793年3月4日)-天保8年3月27日(1837年5月1日))の乱がありました。乱後に潜伏中に爆死した日が5月1日なわけですが、まあフランス革命後でイルミナティ結成後ですので、日本の義士による反乱であったわけですが、火事により多くの関係ない市民が亡くなったそうですが、まあイルミナティも関係してそうです。また同時期の1837年に浦賀にアメリカ商船のモリソン号が近づき、幕府の命令で砲撃して、追い払ったモリソン号事件があり、それに関連して開国を唱えるシーボルトに学んだ高野長英(文化元年5月5日(1804年6月12日) - 嘉永3年10月30日(1850年12月3日))とそれを支援した田原藩家老の渡辺崋山(寛政5年9月16日(1793年10月20日) - 天保12年10月11日(1841年11月23日))が自死に追い込まれる蛮社の獄が起きています。高野長英は名前などは完全に高野山系のシンボリズムですが、シーボルトに学んでピタゴラスからガリレオ・ガリレイまでの科学史をオランダ語の翻訳で講義していたというので、まあそういう動きなんでしょうね。没年月日がザビエルの聖祝日となっています。渡辺崋山は画家としての方が有名かもしれません。肖像画が多いわけですが、もちろん明らかに西洋画の手法が反映されているものと思われます。没年月日はやはり111のシンボリズムを認めます。まあこの家斉の治世の文化文政時代の文化を化政文化と言って、元禄文化と並ぶ江戸時代の町民文化の隆盛として挙げられるわけですが、元禄文化がそもそもの隠れキリシタン文化の発露であったわけですが、化政文化はアメリカ独立戦争後、フランス革命後のイルミナティ結成後ということで、以上の流れを考慮すると、隠れキリシタン文化の再来ではなく、蘭学の興隆を主とした、フリーメイスンリー、イルミナティ文化の最初の日本での興隆ととらえられるようです。そう考えると田沼意次のシンボリズムとその存在の影響が大きいことが分かるかと思います。この時期に活躍した文化人でシンボリズムが認められる人は、滑稽本作者の式亭三馬(安永5年(1776年) - 文政5年閏1月6日(1822年2月27日))がおり、生年がイルミナティ結成年となっていて、名前にも三が入っており、没年月日の西暦での2222はなかなかのシンボリズムでしょうか。「南総里見八犬伝」の作者で有名な曲亭馬琴(明和4年6月9日(1767年7月4日) - 嘉永元年11月6日(1848年12月1日))は生月日がアメリカ独立宣言の日で、そのおよそ10年前の生まれなわけですが、和暦で69の回転対称、西暦の767、77の回文数、没年月日の和暦の116、西暦の18481、121の回文数となかなか興味深いシンボリズムを認めます。かなりマイナーなようですが戯作者の柳亭種彦(天明3年5月12日(1783年6月11日)- 天保13年7月19日(1842年8月24日)は没年月日で西暦で42824の明確な回文数を認めています。また浮世絵師、美人画で有名な鈴木春信(享保10年(1725年) - 明和7年6月15日(1770年7月7日))は没年月日で西暦で77077とこれまた明確な回文数を認めており、作品もボストン美術館や大英博物館に多数収蔵されています。俳句で有名な与謝蕪村(享保元年(1716年) - 天明3年12月25日(1784年1月17日))も没年月日が和暦でクリスマスです。また小林一茶(宝暦13年5月5日(1763年6月15日)- 文政10年11月19日(1828年1月5日))も和暦でシンボリズムを認めています。ゴッホやモネにも影響を与えた、「東海道五十三次」を描いた有名な浮世絵師の歌川広重(寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日))も没年月日で西暦で18581の回文数を認めています。妖怪の図や、裸の人が集まって人間の顔を形作る、風変わりな浮世絵を残した歌川国芳(寛政9年11月15日(1798年1月1日 ) - 文久元年3月5日(1861年4月14日))も和暦、西暦ともに1115や11、1414といったシンボリズムを認めています。西洋画の影響もあったのかと思われます。円山応挙(享保18年5月1日(1733年6月12日)- 寛政7年7月17日(1795年8月31日))の高弟の長沢芦雪(宝暦4年(1754年) - 寛政11年6月8日(1799年7月10日))は没年月日で179971とかなり桁数の多い回文数を認めています。師の円山応挙も和暦で5月1日生まれで、717の回文数の没年月日とシンボリズムはあるようです。平賀源内(享保13年(1728年) - 安永8年12月18日(1780年1月24日))とつながりのある洋風画家の司馬江漢(延享4年(1747年) - 文政元年10月21日(1818年11月19日))は没年月日で18181と1119のシンボリズムを認めています。平賀源内は当時のオランダ商館を中心とした蘭学の流行のネットワークの中心にいたようです。名前の平やGの音などがシンボリズムのようです。和暦で没年月日が81218の回文数となるようです。解体新書の表紙絵を描いたとされる小田野直武(寛延2年12月11日(1750年1月18日) - 安永9年5月17日(1780年6月19日))は生年月日で西暦で118のシンボリズム、没年月日で619の回転対称のシンボリズムを認めるようです。琴の作曲家の八重崎検校(安永5年(1776年)頃 - 嘉永元年9月11日(1848年10月7日))は没年月日で18481と回文数を認めています。寛政の改革に影響を与えた儒学者として古賀精里(寛延3年10月20日(1750年11月18日) - 文化14年5月3日(1817年6月17日)がいて、生年月日で西暦で1118を認めています。また古賀精里と共に寛政の三博士と呼ばれた尾藤二洲(延享2年10月8日(1745年11月1日) - 文化10年12月4日(1814年1月24日))は西暦で諸聖人の日生まれとなっています。また儒学者で日米和親条約にも関り、孫娘が昭和の宰相の吉田茂の養母となった佐藤一斎(安永元年10月20日(1772年11月14日)- 安政6年9月24日(1859年10月19日))は生年月日で1114、没年月日で91019と回文数を認めています。やはり儒学者で、蛮社の獄では渡辺崋山の減刑を訴えた松崎慊堂(明和8年9月29日(1771年11月5日) - 天保15年4月21日(1844年6月6日))も生年月日で1771、111の回文数、没年月日で44,66の回文数を認めています。国学者で「古事記伝」の作者で有名な本居宣長(享保15年5月7日(1730年6月21日)-享和元年9月29日(1801年11月5日))は没年月日で111の回文数のシンボリズムを認めています。賀茂真淵(元禄10年3月4日(1697年4月24日)-明和6年10月30日(1769年11月27日))、本居宣長に学んだ国学者の加藤千蔭(享保20年3月9日(1735年4月1日) - 文化5年9月2日(1808年10月21日))は没年月日で18081の回文数を認めています。杉田玄白(享保18年9月13日(1733年10月20日) – 文化14年4月17日(1817年6月1日))と共に「ターヘル・アナトミア」を翻訳して「解体新書」を出版した前野良沢(享保8年(1723年) - 享和3年10月17日(1803年11月30日))は没年月日が西暦でスコットランドの守護聖人のセントアンドリューの日の11月30日であり、031130の回文数を認めます。杉田玄白・前野良沢の弟子である大槻玄沢(宝暦7年9月28日(1757年11月9日)- 文政10年3月30日(1827年4月25日))は生年月日で17571の回文数を認めます。大槻玄沢の後継者の宇田川玄真(明和6年12月28日(1770年1月24日) - 天保5年12月4日(1835年1月2日))の弟子の織田信長の7世の孫で、織田秀信の5世の孫の坪井信道(寛政7年1月2日(1795年2月20日)- 嘉永元年11月8日(1848年12月3日))は没年月日で西暦で18481の回文数と、ザビエルの聖祝日の没日となっています。数学者、経世家であった本多利明(寛保3年(1743年) - 文政3年12月22日(1821年1月25日))は没年月日で2112の回文数を認めています。儒家で経世家の海保青陵(宝暦5年(1755年) - 文化14年5月29日(1817年7月13日))は没年月日で1771の回文数を認めます。まあ全体的に蘭学と儒学と画家と作家など江戸時代のマスメディア関連が多いわけですが、社会に与える影響の度合いが強い仕事という事で、そういうところとシンボリズムの強弱があるという、フリーメイスンリーなんだと思われます。
































さてまあ蘭学の時代になって明らかに長崎出島のフリーメイスンリーロッジの影響が出てきたところで、歴代のカピタンでウィキペディアでわかる人に着目していこうかと思います。島原の乱後にオランダ商館長となった第8代オランダ商館長 フランソワ・カロン(1600年 - 1673年4月5日)については島原の乱のところで触れましたが、この時期のオランダ商館長はほぼ同時に台湾のオランダ領の長官となっていることが、フリーメイスンリー的には重要と思われます。いわゆる洪門会における鄭成功起源説の由来と思われ、明治維新後の日本の台湾併合から、第二次世界大戦後の国共内戦後の台湾の中華民国の成立でしょうか。第16代・第21代オランダ商館長のフレデリック・コイエット(1615年頃 - 1687年10月17日)は没年月日で71017の回文数のシンボリズムを認めるのですが、日本を訪れた最初のスウェーデン人との事で、まあ長崎のオランダ商館が現在のEUの出先機関のようであったという事が分かるかと思います。フレデリック・コイエットは複雑なヨーロッパの政治情勢もあって、マカオのポルトガル勢力と台湾の鄭成功の勢力と同時に対峙して、最終的に捕虜となりオランダに送還され、最後はオランダで亡くなりますが、スウェーデンの爵位も受けているそうです。また上述した亡命フランス人のユグノーであったフランソワ・カロンと義兄であったとの事で、いわゆる近代フリーメイスンリー結成前の実質的なフリーメイスンであるようです。第142代オランダ商館長のブラザーイサーク・ティチング(1745年1月10日-1812年2月2日)は清との交流も活発に行い、徳川家斉の岳父であった島津藩の島津重豪(1745年11月29日(延享2年11月7日)-1833年3月6日(天保4年1月15日))とも積極的に交流して、情報を収集していたそうです。島津重豪の没年月日には333のシンボリズムを認めます。ブラザーイサーク・ティチングはパリの多くのフリーメイスンが埋葬されているペール・ラシェーズ墓地に葬られていますが、墓は一部壊れてしまっているようです。(2023.3.16追記:写真で見ると壊れているのは隣の墓のようです。)もちろん生没年月日のシンボリズムも11、181、222と回文数で明確です。第156代オランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフ(1777年12月2日 - 1835年10月19日)はいわゆるヅーフ辞書で有名で、蘭学の普及に貢献したわけですが、その商館長の時代はオランダがフランス革命によりフランスに占領されていた時代で、その後イギリスの植民地接収を受け、イギリス船の圧力を受けていたそうです。フランスにより占領されていた時代にはアメリカとの契約により、アメリカ船をオランダ船に偽装して長崎に入港していたとあり、ペリー来航前の日本を巡る国際情勢は日本にとっては奇々怪々でしょうか。ヘンドリック・ドゥーフは日本人との間に子供もいたそうで、苗字は道富と当て字を使用したそうです。また最初に俳句を詠んだ西洋人だそうで、「春風やアマコマ走る帆かけ船」という句が残っているそうです。アマコマは何でしょうねえ。生没年月日は17771、22、101の回文数を認めます。ここまで挙げたカピタンはいずれも回想録や書簡集など記録を残しているようです。ヘンドリック・ドゥーフの次代の第157代オランダ商館長のヤン・コック・ブロンホフ(1779年8月5日-1853年10月13日)は没年月日で31013の回文数を認めますが、ヅーフ辞書に続き、日英辞書を作成したそうです。オランダ人ですが、プロイセンに亡命して、プロイセン軍としてイギリスに渡ったそうです。その後オランダに復帰して、出島の倉庫番になったという経歴です。一度はジャカルタでイギリスに捕まってイギリスに送り返されたところでオランダに引き渡され、その後オランダ人と結婚して今度は商館長として出島に来るも、妻と一緒に来たことで幕府が反発して、家族はオランダに帰されたそうです。徳川家斉とも謁見したそうです。最後のカピタン、第166代オランダ商館長(1813年4月21日 - 1879年11月27日)はヤン・ドンケル・クルティウスという方で、まあフリーメイスンだと思いますが、日本人最初のフリーメイスンとしてブラザー西周、ブラザー津田真道がライデン大学でフリーメイスンになった事ばかりが喧伝されて、それを斡旋したであろう長崎出島のフリーメイスンリーロッジについてはまあ触れられることはないわけですが、その責任者がこの方なんでしょうね。英米仏の華々しい外交とは一線を画して、ブラザーサーオールコックやブラザーペリー、ハリスやロッシュ、パークス、ブラザーグラバーなどとは注目の度合いも異なるわけですが、まあ長崎は日本のキリスト教史、フリーメイスンリー史の聖地であることは間違いないようです。











さてまあまた再び長くなったのでここで章を切ります。すでに新元号が発表されていますが、やっと次章で明治維新に入りそうです。
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