FREEMASONRY
Blue Lodge, Scottish Rite & York Rite in Japan
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アメリカの公共放送サービスのサイトにフィラデルフィアのメイスニックテンプルの紹介動画がありましたのでリンクします。建築がフィレンツェのヴェッキオ宮殿に似た形になっているのですね。なかなか様々な建築意匠を取り込んでいて、建築物としてもアメリカ建国のフリーメイスンリーの中心としても相当に興味深い建物のようです。
私はちょっとフィラデルフィアは行く機会を逸した経験がありますが、ロッキーの街で有名なようですが、ライオンズクラブのシンボルで有名な自由の鐘の街であり、アメリカ独立戦争期の中心となった街であり、ブラザーベンジャミン・フランクリンの地元であるようです。同名の都市が新約聖書にあり、トルコのローマ都市だそうです。
関東は生憎の雨で、明日は245年目のアメリカ独立記念日、バーバリアンイルミナティ発足から245年目となるわけですが(2021/7/9加筆:日本でのイエズス会宣教の過程での京都の南蛮寺建設が1576年8月15日ですので、そこからは約445年目となるようです。)、私が横須賀や三浦に来てからどうも7月4日は雨が多いような気もしますが、横須賀的には1年を占う1日のようですが、いかがでしょうか。
私はちょっとフィラデルフィアは行く機会を逸した経験がありますが、ロッキーの街で有名なようですが、ライオンズクラブのシンボルで有名な自由の鐘の街であり、アメリカ独立戦争期の中心となった街であり、ブラザーベンジャミン・フランクリンの地元であるようです。同名の都市が新約聖書にあり、トルコのローマ都市だそうです。
関東は生憎の雨で、明日は245年目のアメリカ独立記念日、バーバリアンイルミナティ発足から245年目となるわけですが(2021/7/9加筆:日本でのイエズス会宣教の過程での京都の南蛮寺建設が1576年8月15日ですので、そこからは約445年目となるようです。)、私が横須賀や三浦に来てからどうも7月4日は雨が多いような気もしますが、横須賀的には1年を占う1日のようですが、いかがでしょうか。
第一は関白が都に向かった事
第二は領主が朝鮮に行きいない事
蒲生飛騨守殿と全伊賀の絶対的領主の洗礼
関白とジュスト右近殿の和解
第三は長崎の修道院や教会の破壊による同情
殉教者ジョランのための荘厳ミサ
山の中の神学校の70人近い日本人司祭と四人の貴公子による楽器の教育

第二は領主が朝鮮に行きいない事
蒲生飛騨守殿と全伊賀の絶対的領主の洗礼
関白とジュスト右近殿の和解
第三は長崎の修道院や教会の破壊による同情
殉教者ジョランのための荘厳ミサ
山の中の神学校の70人近い日本人司祭と四人の貴公子による楽器の教育

さながら老い木に花が咲くごとく。
年々去来の花を忘れぬことだ。
強くたけだけしい芸をする時には、やわらかな心を忘れてはならない。
秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず。
因果の花を知ること、すなわち極意である。
ただ時の用に足りるもの、それを花と知るべきである。
「家はただ続くから家なのではない。継ぐべきものがあるゆえ家なのだ。人もそこに生まれただけでそこの人とはいえぬ。その家が守るべきものを知る者のみ、その家の人といえるのだ」

世阿弥 風姿花伝
年々去来の花を忘れぬことだ。
強くたけだけしい芸をする時には、やわらかな心を忘れてはならない。
秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず。
因果の花を知ること、すなわち極意である。
ただ時の用に足りるもの、それを花と知るべきである。
「家はただ続くから家なのではない。継ぐべきものがあるゆえ家なのだ。人もそこに生まれただけでそこの人とはいえぬ。その家が守るべきものを知る者のみ、その家の人といえるのだ」

世阿弥 風姿花伝
まあちょっとオリンピックともかかっていると思うんですが、読んでみたので感想というか相変わらずのフリーメイスンリー的な視点で書評をしてみようかと思います。
まあまずなんで読んでみたのかというところなのですが、特に宮本武蔵に興味があったわけでもなく、剣術や武術に興味があったわけでもなく、きっかけは人から勧められただけなわけですが、ちょうどキリスト教系の病院関連で勤めていて、おそらくフィレンツェでもあったプラトンの5つの正多面体のいわゆる映画にもなったフィフスエレメント、五大要素の関連なんだと思いますが、そういうまさにフリーメイスンリー的な動機での読書であったということだと思います。
さてまあ内容なんですが、表題は五輪書なんですが、特に五大要素と内容は一切関係なく、ただ五章にまとめたというだけで、一通り読むとよくわかるんですが、明らかに一人の武人が書いたようなものではなく、おそらく私の推測ではキリスト教関連の高度な知識を有した仏僧が集まって理念的な部分を武蔵とともに推敲し、武術の技術的な部分に関しては武蔵が書いたという内容だと思います。理念的な部分は明らかに中国の老荘思想、墨子の影響が濃く、特に大工の仕事に例えるところなどはまさに墨子と同じであったりして、おそらくそれらも中国布教をなしていたイエズス会との関連が直接的にあるのではないかと推測されました。まとめとしては般若心経的な空の思想で収斂するという、最終的には真言宗的な、五輪塔の仏塔の普及した鎌倉時代から慶長年間までの仏教の流行を象徴したものなのだと思いました。
まあ武蔵の生涯を考えると、キリスト教布教が濃厚であった播磨で生まれ、有名な決闘を続けながら、黒田官兵衛麾下として関ケ原の合戦を九州で迎え、最後は野人のような一切入浴しない生活であったそうですが、それで文人として小倉、熊本で剣術指南をしていたということで、姓は新免といい、相変わらずの南蛮解釈だとSin Menでしょうか、原罪のある男子、アダムのような意味になるのかもしれませんが、父親も鎖鎌の使い手の武術家であったようで、日本刀の使い手として極めた形がいわゆる二天一流であったのでしょう。武蔵という名前も、勝手に武蔵守と称したことから通称されているわけですが、当時新しく開かれた江戸幕府の中心であった武蔵国であり、またイスラム教でのモーゼの音やギリシアの文芸の女神の音と同じムーサであり、モーゼも日本刀のような杖を使用した逸話があり、禁教令前までカトリックの洗礼を受けていた、ジョシュア、黒田如水の配下の武士であったことで選ばれた結果なのでしょう。玄信(はるのぶ)という名前も風林火山で知られる、武田信玄晴信の音と一緒であり、有名な甲陽軍艦のもとである兵子の風林火山と五輪の意味である地水火風空とよく似た連想であることが考えられます。
さてまあ五大元素と全く関係ない五章と書いた本文ですが、それぞれの章を見ていきましょう。まず最初地の巻ですが、これは書き出しで序文ですね。武蔵の自己紹介と、10月10日の未明に書き出したなんていかにも野人のような、夜中のラブレターのような感じですが、その後の士農工商の例えと、武道を大工の棟梁の仕事に例えるあたりは、確実にプロデューサーであるキリシタンに通じた仏僧の存在をうかがわせます。いずれにしても武芸の鍛錬は単なる軍事訓練ではなく、実際社会の様々な多芸に通じる心身の鍛錬であるという、この書の作成の意義を強調している点で、戦国時代から関ヶ原の戦い、朝鮮征伐、大坂の陣、島原の乱と日本史上最大の大殺戮の時代を生き抜いた人々と、その後の太平の世を生きる人々との間での残すべき教え、教訓としてこの書があるということなのだと思われます。それは確実にキリスト教や南蛮文化と鉄砲伝来によって、弓矢や太刀や槍といった従来の鎌倉武士からの時代の戦い方から決定的に変わった時代であり、武芸が実戦での実用のものから身分社会での武士の嗜みになった事で生ずる型や概念、意味づけの必要性の結果でもあるのかと思われます。まあそういうわけで実戦を戦って生き抜いた宮本武蔵にすると武芸の理論書なんて言うのはちゃんちゃらおかしいわけですが、そういう人がそういう理論書を残す必然性があったということなのだと思います。ユダヤ戦記と新約聖書みたいな関係性ですね。でまあおそらくイエズス会の教育を受けたなり連絡手段を持った仏僧がこの章は考えたんだと推論しました。
次の水の巻なんですが、ここはいかにも武蔵が書いたと思われる章で、要するに五輪書の核なんですが、恐らく剣術の専門家もよくわからないんじゃないかと思う、達人の指導なんですね。バッティングの達人の指導の表現がよくわからないああいう感じで、最後は結局口伝で伝えるとか、要は型は無いんだということなんだと思うんですが、いろいろ型はあるけど、型にこだわるのは初心者でその型にもいろいろあるのが実戦で、結局は型なんてないという事なんだと思うんですが、まあそれをつらつらと書き綴っていて、いかにも形式ばって論理的に書こうとしていた地の巻とは対照的に、ほとんど口伝で説明を受けないとなんの意味も分からないという印象になっています。
まあまずなんで読んでみたのかというところなのですが、特に宮本武蔵に興味があったわけでもなく、剣術や武術に興味があったわけでもなく、きっかけは人から勧められただけなわけですが、ちょうどキリスト教系の病院関連で勤めていて、おそらくフィレンツェでもあったプラトンの5つの正多面体のいわゆる映画にもなったフィフスエレメント、五大要素の関連なんだと思いますが、そういうまさにフリーメイスンリー的な動機での読書であったということだと思います。
さてまあ内容なんですが、表題は五輪書なんですが、特に五大要素と内容は一切関係なく、ただ五章にまとめたというだけで、一通り読むとよくわかるんですが、明らかに一人の武人が書いたようなものではなく、おそらく私の推測ではキリスト教関連の高度な知識を有した仏僧が集まって理念的な部分を武蔵とともに推敲し、武術の技術的な部分に関しては武蔵が書いたという内容だと思います。理念的な部分は明らかに中国の老荘思想、墨子の影響が濃く、特に大工の仕事に例えるところなどはまさに墨子と同じであったりして、おそらくそれらも中国布教をなしていたイエズス会との関連が直接的にあるのではないかと推測されました。まとめとしては般若心経的な空の思想で収斂するという、最終的には真言宗的な、五輪塔の仏塔の普及した鎌倉時代から慶長年間までの仏教の流行を象徴したものなのだと思いました。
まあ武蔵の生涯を考えると、キリスト教布教が濃厚であった播磨で生まれ、有名な決闘を続けながら、黒田官兵衛麾下として関ケ原の合戦を九州で迎え、最後は野人のような一切入浴しない生活であったそうですが、それで文人として小倉、熊本で剣術指南をしていたということで、姓は新免といい、相変わらずの南蛮解釈だとSin Menでしょうか、原罪のある男子、アダムのような意味になるのかもしれませんが、父親も鎖鎌の使い手の武術家であったようで、日本刀の使い手として極めた形がいわゆる二天一流であったのでしょう。武蔵という名前も、勝手に武蔵守と称したことから通称されているわけですが、当時新しく開かれた江戸幕府の中心であった武蔵国であり、またイスラム教でのモーゼの音やギリシアの文芸の女神の音と同じムーサであり、モーゼも日本刀のような杖を使用した逸話があり、禁教令前までカトリックの洗礼を受けていた、ジョシュア、黒田如水の配下の武士であったことで選ばれた結果なのでしょう。玄信(はるのぶ)という名前も風林火山で知られる、武田信玄晴信の音と一緒であり、有名な甲陽軍艦のもとである兵子の風林火山と五輪の意味である地水火風空とよく似た連想であることが考えられます。
さてまあ五大元素と全く関係ない五章と書いた本文ですが、それぞれの章を見ていきましょう。まず最初地の巻ですが、これは書き出しで序文ですね。武蔵の自己紹介と、10月10日の未明に書き出したなんていかにも野人のような、夜中のラブレターのような感じですが、その後の士農工商の例えと、武道を大工の棟梁の仕事に例えるあたりは、確実にプロデューサーであるキリシタンに通じた仏僧の存在をうかがわせます。いずれにしても武芸の鍛錬は単なる軍事訓練ではなく、実際社会の様々な多芸に通じる心身の鍛錬であるという、この書の作成の意義を強調している点で、戦国時代から関ヶ原の戦い、朝鮮征伐、大坂の陣、島原の乱と日本史上最大の大殺戮の時代を生き抜いた人々と、その後の太平の世を生きる人々との間での残すべき教え、教訓としてこの書があるということなのだと思われます。それは確実にキリスト教や南蛮文化と鉄砲伝来によって、弓矢や太刀や槍といった従来の鎌倉武士からの時代の戦い方から決定的に変わった時代であり、武芸が実戦での実用のものから身分社会での武士の嗜みになった事で生ずる型や概念、意味づけの必要性の結果でもあるのかと思われます。まあそういうわけで実戦を戦って生き抜いた宮本武蔵にすると武芸の理論書なんて言うのはちゃんちゃらおかしいわけですが、そういう人がそういう理論書を残す必然性があったということなのだと思います。ユダヤ戦記と新約聖書みたいな関係性ですね。でまあおそらくイエズス会の教育を受けたなり連絡手段を持った仏僧がこの章は考えたんだと推論しました。
次の水の巻なんですが、ここはいかにも武蔵が書いたと思われる章で、要するに五輪書の核なんですが、恐らく剣術の専門家もよくわからないんじゃないかと思う、達人の指導なんですね。バッティングの達人の指導の表現がよくわからないああいう感じで、最後は結局口伝で伝えるとか、要は型は無いんだということなんだと思うんですが、いろいろ型はあるけど、型にこだわるのは初心者でその型にもいろいろあるのが実戦で、結局は型なんてないという事なんだと思うんですが、まあそれをつらつらと書き綴っていて、いかにも形式ばって論理的に書こうとしていた地の巻とは対照的に、ほとんど口伝で説明を受けないとなんの意味も分からないという印象になっています。
兵法家伝書 柳生宗矩
朝鮮役の 不調による 関白の名護屋の退去
ルソン島への 関白の 宣戦状
ルソン島からの フランシスコ会士の 来訪と遭難
ルソン島からの フランシスコ会士の 再度の来訪
フランシスコ会士の 都での 困窮と イエズス会の支援
ルソン壷を 求める 関白秀吉

ルソン島への 関白の 宣戦状
ルソン島からの フランシスコ会士の 来訪と遭難
ルソン島からの フランシスコ会士の 再度の来訪
フランシスコ会士の 都での 困窮と イエズス会の支援
ルソン壷を 求める 関白秀吉

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