FREEMASONRY
Blue Lodge, Scottish Rite & York Rite in Japan
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新年からUGLEのネタ投下ばかりで恐縮なんですが、またこの名簿の話です。
日本人はいないかと、Kenjiで検索したらいきなりヒットしました。
Name: Kenji Takaki
Gender: Male
Initiation Age: 22
Birth Year: abt 1882
Initiation Date: 18 Mar 1904
First Payment Year on Register: 1904
Year Range: 1887-1909
Profession: Medical
Lodge: Cheselden Lodge
Lodge Number: 2870
Folio Number: 229

まあ明治時代に詳しい人はTakakiと聞いてピンとくると思いますが、明治時代でタカキで一番有名な人は高木兼寛でしょうか。ウィキペディアでは海軍カレーの創始者なんてのも最初に出てきていますが、ブラザー・ウィリアム・ウィリスにも鹿児島で師事したとあり、いわゆる有名な森鴎外との脚気論争で、学会では説としては否定されたそうですが、海軍軍医総監として欧米風のタンパク質を重視した食事をとり、いわゆる海軍カレーを食べることで脚気を防いだという成果で知られる人物です。後のビタミンの発見につながる業績としても評価されているそうです。現在の東京慈恵会医科大学の創始者となります。この人の子供にブラザー高木兼二がおり、薩摩藩の高木兼寛の父親が高木喜助兼次というそうで、その名前の音が同じであるようです。皆イギリスロンドンに留学していたものと思われ、その際に入会したものと思われます。ピカデリーサーカスの近くにロッジとなるレストランがあったとあり、現在はフリーメイスンズホールに含まれるロッジであるようです。TakakiまたはTakagiで検索してもお兄さんの名前は出てこないので、弟だけが入会したようですが、誕生日など見ても、一族皆フリーメイスンと認識されているようです。お兄さんの高木喜寛さんは日本ラグビーフットボール協会初代会長も務めていて、奥さんが有島武郎、有島生馬、里見弴の兄妹という事だそうです。
まあ明治にきちんと種は撒かれているのでこの国に失望することは無いという、復活の8の年の光明でしょうか。そんな2018年1月18日美しい回文数の日のフリーメイスンリーブログでした。
検索して出てきた写真を載せておきます。

左が父親の高木兼寛さんです。

一番右上が高木喜寛さんです。

下段左から2人目がブラザー高木兼二です。お兄さんは外科医で弟は内科医であったようです。お父さんも内科で有名ですが、大隈重信が爆撃にあった直後に遭遇し、右足切断を決定したなんてエピソードもあるようです。
高木兼二で検索して出てきた経歴です。39歳で亡くなられたそうで、その翌年に父親も亡くなっています。
生年 明治14(1881)年
没年 大正8(1919)年5月3日
学位〔年〕 医学博士〔明治42年〕
経歴 渡欧して英国キングスカレッジおよびセントトーマス大学に学び、明治36年更にオーストリア、ドイツに留学して研究を続け、40年帰国。42年父たちが創立した東京慈恵医院の内科主任となり、東京慈恵医専教授を兼ねた。
名簿では1909年1月辞任と書いてあります。ちょうど内科主任教授として就任した年であり、博士号取得の年であるようです。帰国後も面倒をみていたという名簿の記録になるのでしょうか。東京でロッジに出席したのかもしれません。大隈重信のけがの事もあり、なかなかこれも明治の歴史のようです。
日本人はいないかと、Kenjiで検索したらいきなりヒットしました。
Name: Kenji Takaki
Gender: Male
Initiation Age: 22
Birth Year: abt 1882
Initiation Date: 18 Mar 1904
First Payment Year on Register: 1904
Year Range: 1887-1909
Profession: Medical
Lodge: Cheselden Lodge
Lodge Number: 2870
Folio Number: 229

まあ明治時代に詳しい人はTakakiと聞いてピンとくると思いますが、明治時代でタカキで一番有名な人は高木兼寛でしょうか。ウィキペディアでは海軍カレーの創始者なんてのも最初に出てきていますが、ブラザー・ウィリアム・ウィリスにも鹿児島で師事したとあり、いわゆる有名な森鴎外との脚気論争で、学会では説としては否定されたそうですが、海軍軍医総監として欧米風のタンパク質を重視した食事をとり、いわゆる海軍カレーを食べることで脚気を防いだという成果で知られる人物です。後のビタミンの発見につながる業績としても評価されているそうです。現在の東京慈恵会医科大学の創始者となります。この人の子供にブラザー高木兼二がおり、薩摩藩の高木兼寛の父親が高木喜助兼次というそうで、その名前の音が同じであるようです。皆イギリスロンドンに留学していたものと思われ、その際に入会したものと思われます。ピカデリーサーカスの近くにロッジとなるレストランがあったとあり、現在はフリーメイスンズホールに含まれるロッジであるようです。TakakiまたはTakagiで検索してもお兄さんの名前は出てこないので、弟だけが入会したようですが、誕生日など見ても、一族皆フリーメイスンと認識されているようです。お兄さんの高木喜寛さんは日本ラグビーフットボール協会初代会長も務めていて、奥さんが有島武郎、有島生馬、里見弴の兄妹という事だそうです。
まあ明治にきちんと種は撒かれているのでこの国に失望することは無いという、復活の8の年の光明でしょうか。そんな2018年1月18日美しい回文数の日のフリーメイスンリーブログでした。
検索して出てきた写真を載せておきます。

左が父親の高木兼寛さんです。

一番右上が高木喜寛さんです。

下段左から2人目がブラザー高木兼二です。お兄さんは外科医で弟は内科医であったようです。お父さんも内科で有名ですが、大隈重信が爆撃にあった直後に遭遇し、右足切断を決定したなんてエピソードもあるようです。
高木兼二で検索して出てきた経歴です。39歳で亡くなられたそうで、その翌年に父親も亡くなっています。
生年 明治14(1881)年
没年 大正8(1919)年5月3日
学位〔年〕 医学博士〔明治42年〕
経歴 渡欧して英国キングスカレッジおよびセントトーマス大学に学び、明治36年更にオーストリア、ドイツに留学して研究を続け、40年帰国。42年父たちが創立した東京慈恵医院の内科主任となり、東京慈恵医専教授を兼ねた。
名簿では1909年1月辞任と書いてあります。ちょうど内科主任教授として就任した年であり、博士号取得の年であるようです。帰国後も面倒をみていたという名簿の記録になるのでしょうか。東京でロッジに出席したのかもしれません。大隈重信のけがの事もあり、なかなかこれも明治の歴史のようです。
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