FREEMASONRY
Blue Lodge, Scottish Rite & York Rite in Japan
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金沢区のシンボルについて触れたので、一旦横須賀から離れて鎌倉にあるフリーメイスンリーのシンボルについて触れましょう。
八景島のシンボルについての話はまた後々話す事にします。
鎌倉といえば現在世界文化遺産登録に申請中の武家政権時代の中心地であったところです。
鎌倉のシンボルといえば一番に鶴岡八幡宮の銀杏の木が挙がったと思いますが、最近になって突風で倒れてしまったのは記憶に新しいところです。
その他には鶴岡八幡宮そのものや、段葛の桜並木、鶴岡八幡宮の鳥居や、鎌倉大仏、由比ヶ浜など観光地だけあって様々なものがシンボルとして思いつくと思います。
鎌倉駅そのものもシンボリックな時計塔の形をしていて、屋根がきちんとピラミッド型をしています。
私個人としては鎌倉のシンボルとしてはやはり鎌倉宮を挙げたいと思います。
鎌倉宮は南北朝時代に建武の新政をおこなった後醍醐天皇の皇子、護良親王が足利尊氏方に捕えられ幽閉されていた場所とされ、おどろおどろしい土牢跡が奥にありますが、実際のものではないそうです。大きな菊の御紋があり、七五三などで人気のようです。南朝の正統性など、明治天皇のお気に入りの逸話であったようで、明治維新後に復興されたり改変された神社の一つです。
同様のものに頼朝の墓の横にある大江広元の墓のさらに横にある島津と毛利の祖の墓があり、これらも明治維新後に改変されたようです。ネットで検索するとどちらも江戸時代の整備と強調してあります。私が以前訪問した際には横にある説明の石碑を直接削っている人がいてびっくりしたものでした。日本の史跡紹介の石碑の記録などはかなり怪しいものが多いですね。
さてこの他にも鎌倉には天皇家にまつわる地名が残されています。鎌倉の西口の江ノ電の乗り場がある方は小町通りとは逆側になり、若干さびれた感じとなっていますが、こちらの通りの名前は御成(おなり)通りといい、時期によっては武将の名前を書いたのぼりが電柱ごとに飾られたりとなかなか独特の雰囲気を醸し出しています。通りを過ぎると御成小学校という古めかしい門と体育館があるいかにも鎌倉らしい伝統を感じる鎌倉市立の小学校があったりします。この御成という地名なのですが、何も考えずにいると特に気付かないでいる地名ですが、実はそこに明治維新後から終戦まで天皇家の御用邸があったためについた名前と知るといかにもといった感じで納得がいきます。御成小学校の門や建物も部分的に御用邸のものを利用しているそうです。
鎌倉にはその他にも旧宮家の別荘や文人の住居、戦後の首相達の別荘などもあり、それらが現在は公開されているものや、料亭や文学館のような施設となっているなど様々なものがあり、細かく訪問するとそれぞれ現代につながる日本の歴史の多くの舞台と、その子孫の人々が多く現在も関わっている事を感じることができるので、鎌倉時代の歴史やそれ以前、それ以降のものと合わせて歴史そのものを勉強する事ができます。
ところでこのブログのテーマであるフリーメイスンリーのシンボルですが、鎌倉駅のそれもまた非常に気付きにくいものだと思いますが明らかにそういうものだと思われます。またその他にも非常に気付きにくく目立たない形で存在するのですが、それもまたこの鎌倉という日本の歴史上京都・奈良に続く古都として重要な存在である町の特徴なのだと思います。
フリーメイスンリーの歴史的には前回取り上げたブラザーキップリングが日本を訪問した際に鎌倉大仏を訪れ、それを記録しているので、ここに転載したいと思います。
「キプリングの日本発見」より
さて、横浜から田や畑を抜けて二十マイルばかり行ったところにある海に面した町、鎌倉のことを記そう。鎌倉には青銅で造った大きな仏像、すなわち鎌倉の大仏がある。大仏は幾百年もの歳月の過ぎゆく音に耳をかたむけつつ、海に向かって、じっと座っている。この大仏についてはこれまで多くの人が、その荘厳さと、世を超越したさま、その他もろもろの側面、たとえば像の内側にある灰色の小さな聖所、像の背後にある綺麗に刈り込まれた木々の茂る小高い丘などについて、繰り返し語ろうと試みてきた。そして大仏は今もなお昔と同様に、その姿を描写したいと願う人間の思いの届き得ない彼方に座しておられる。すっかり新しくなってしまった風景の中で、目に見える神として。
大仏の親指の爪の上に観光客が乗っている写真が絵葉書になって売られている。教養のない人間が男に限らず女も、この大仏を作り上げている巨大な青銅板の裏に、恥知らずにも自分の名前を落書きしている。考えても見たまえ、それがどんなに軽薄で、侮辱的な行為であるか!
古風な庭園を想像してほしい。そこでは、植木の枝はさっぱりと刈り込まれ、苔はつやつやと輝き、静かな池の面からは水蒸気が立ちのぼっている。雨の降ったあとに太陽が強く照りつけているからだ。そして青銅の緑色に身を包んだ、法の師である大仏は、香の煙の中に半分隠れるように、揺らめく空気の中に座っておられる。大仏にとってそのとき大地はそのまま香炉となる。何百万といる蛙どもは、その空気をどよめかせる。
あまりにも暑い日なので、わたしは何もせず、ただ石の上に座って大仏の目を見ている。大仏の目は伏し目である。それはすべてのものを見尽くした末に、もはや何も見ようとはしていない目で、頭は前に軽くうなだれ、単純な線の流れに表された巨大な衣の襞が、その腕と膝とを蔽っている。遠い昔、弟子の阿難陀が数々の問いを投げかけた時も、釈迦は今私が見ている姿と同じ姿勢で座っておられたはずである。その後におもむろに唇が動き始める。そしてその瞑想家はもっと遠い昔の日々のことを夢想し始める。仏典は「彼は語られた」と記すが、釈迦はきっとこのように夢想の後に語り始められたのだ。今も東洋の瞑想家たちはそのように語り出す。
「遠い昔、提婆達多がベナレスの王であった頃、徳の高い象と、邪な牡牛と、物分かりの悪い王が住んでいた――」、そして釈迦はこの話から、阿難陀に一つの教訓を引き出して諭されたあと、次のように締めくくられる。「さて、邪な牡牛とは、だれそれ、物わかりの悪い王とは、だれそれ、そして徳の高い象とは、阿難陀や、私のことなのだよ」
釈迦はその昔、このような話を竹の林の中でされたのだが、その竹の茂みは鎌倉に今もそのままある。青色や灰色や青味をおびた灰色の衣をまとった小柄な人々が今日もその蔭をよぎり、線香を数本買っては、聖所へと入っていき――その聖所とは大仏の身体の中の事だ――、しばらくするとにこにこしながらまた現れて、木立の向こうへ消えていく。池の中では、まるまると肥えた鯉が上から落ちてきた木の葉をぱくっと呑みこむ。まるで世の男がかわいい娘から接吻を盗むときのように邪な音を立てて。大地は静寂のなかで蒸されて、水蒸気をあげている。そこに、羽を広げると十五センチは優にあるような、絢爛たる巨大な蝶が一羽、極彩色の線をジグザグに描きながら、御仏の額のあたりに向かって、ひらひらと舞い上がっていく。
仏陀は言われた、すべてのものは仮象であると。光さえも、色さえも。幾星霜を経た青銅の大仏の青鈍色も、その背後にある松の濃い青緑色も、竹の淡いエメラルド色も、少女の着ている着物のシナモン色も、帯のレモン色も、その娘が髪に挿している髪飾りの珊瑚色も、その娘が寄りかかっている、風雨にさらされた石の色も、茶店の藁葺き屋根の蜂蜜色も、その店の畳の黄金色も、畳の上の瓶に挿してある一枝の躑躅の、血のような真紅の色も、仏陀によればすべて仮象なのだ。
たしかに、金銀への執着は、しばしば邪悪な思いを誘うこともあろうから、断ち切らねばなるまい。そのことは、わかる。しかし、人間の心を楽しませてくれる色、心を明るくしてくれる光、最も奥深い胸の憧れを満たしてくれる線の流れ、こうした目の喜びを、なぜ放棄しなければならないのだろうか。ああ、菩薩よ、あなたがご自身の姿を一度ご覧になるべきではないのですか!
庭の入り口には古びた立て札があって、そこには少しく悲壮感がただようが、なかなか堂々たる訴えの言葉が書いてある。それはこの寺の僧が書いたもので、この寺を訪れる観光客に向かって、仏像に対する敬意と良識ある振舞いを求めるものである。それを私は詩の形に直してみた。こんな具合に――。
トペテの谷の脇を抜け、最後の審判の日をめざし
細い道を行くきみたちよ
「異教徒」たちが鎌倉の御仏を拝んでも
寛容な心で見守ってほしい
れっきとした道にして、法――きみたちのとは違うだろうが
母なるマヤ夫人の懐にいたお方
お弟子アーナンダにとっては主、また菩薩
鎌倉の大仏はそのようなお方
自分は鎌倉の子らのごとく、罪人ではないと
きみがきみらの神に感謝しようと
御仏は憤りもなさらず
見ようとも、聞こうともなさらない
だが、西洋流の嘲笑だけはやめたまえ
鎌倉の御仏を拝む小さな人々の小さな罪が
線香によってよい香りのする煙へと
変わっていくのを見るとき
灰色の衣に、明るい色の帯を締めた人たちが
伏目の御仏の蔭を蝶のように行き来する
御仏は神秘の彼方に居ますお方だが
鎌倉の子らを愛しておられる
高慢という罪に捉われず
他の宗教の教義と僧侶を貶めない者なら
広い東洋を蔽う東洋の魂を
この鎌倉で、この御仏に感じることができよう
然り、アーナンダがその昔、主から聞いた物語
偉大なる師が、魚や獣や鳥の姿をかりて
この世での輪廻転生を経られたという物語を
暖かい風は鎌倉まで運んでくる
一緒に聞こえてくるのは
デーヴァダッタの支配力が強くならないうちにと
鎌倉で御仏を拝みながら、輪廻転生の梯子を
一段、また一段と上りつつある人々の魂の声
半眼の瞼は見ておられるようだ
遠いシュエ・ダゴンの黄金の塔の頂から
燃える炎が発して東方に向かい
ビルマから鎌倉までの道を渡ってくるさまを
濃密な空気は世界の果てから鎌倉までの隔たりを
越えて運んでくる
チベットの太鼓の響きと
ゆるやかな「蓮華のなかに宝珠がある」という呪文を
だがバラモンはいまだにベナレスを支配し
ブダガヤ丘の仏跡は荒れるがまま、そして
牛肉を貪り食う狂信者たちは
鎌倉へと迫り、御仏を脅かす
大仏などは観光用の見世物、たんなる伝説
黄金の剥げかかった青銅の塊
それだけ、いやそれ以下としか、きみたちには
鎌倉の意味は映らないのか
だが朝の祈りを終え
法外な儲けを狙う戦へと出かけて行く前に、考えてみたまえ
きみらが崇める神の子のほうが
鎌倉の大仏より身近だと、きみには確信できるのか
八景島のシンボルについての話はまた後々話す事にします。
鎌倉といえば現在世界文化遺産登録に申請中の武家政権時代の中心地であったところです。
鎌倉のシンボルといえば一番に鶴岡八幡宮の銀杏の木が挙がったと思いますが、最近になって突風で倒れてしまったのは記憶に新しいところです。
その他には鶴岡八幡宮そのものや、段葛の桜並木、鶴岡八幡宮の鳥居や、鎌倉大仏、由比ヶ浜など観光地だけあって様々なものがシンボルとして思いつくと思います。
鎌倉駅そのものもシンボリックな時計塔の形をしていて、屋根がきちんとピラミッド型をしています。
私個人としては鎌倉のシンボルとしてはやはり鎌倉宮を挙げたいと思います。
鎌倉宮は南北朝時代に建武の新政をおこなった後醍醐天皇の皇子、護良親王が足利尊氏方に捕えられ幽閉されていた場所とされ、おどろおどろしい土牢跡が奥にありますが、実際のものではないそうです。大きな菊の御紋があり、七五三などで人気のようです。南朝の正統性など、明治天皇のお気に入りの逸話であったようで、明治維新後に復興されたり改変された神社の一つです。
同様のものに頼朝の墓の横にある大江広元の墓のさらに横にある島津と毛利の祖の墓があり、これらも明治維新後に改変されたようです。ネットで検索するとどちらも江戸時代の整備と強調してあります。私が以前訪問した際には横にある説明の石碑を直接削っている人がいてびっくりしたものでした。日本の史跡紹介の石碑の記録などはかなり怪しいものが多いですね。
さてこの他にも鎌倉には天皇家にまつわる地名が残されています。鎌倉の西口の江ノ電の乗り場がある方は小町通りとは逆側になり、若干さびれた感じとなっていますが、こちらの通りの名前は御成(おなり)通りといい、時期によっては武将の名前を書いたのぼりが電柱ごとに飾られたりとなかなか独特の雰囲気を醸し出しています。通りを過ぎると御成小学校という古めかしい門と体育館があるいかにも鎌倉らしい伝統を感じる鎌倉市立の小学校があったりします。この御成という地名なのですが、何も考えずにいると特に気付かないでいる地名ですが、実はそこに明治維新後から終戦まで天皇家の御用邸があったためについた名前と知るといかにもといった感じで納得がいきます。御成小学校の門や建物も部分的に御用邸のものを利用しているそうです。
鎌倉にはその他にも旧宮家の別荘や文人の住居、戦後の首相達の別荘などもあり、それらが現在は公開されているものや、料亭や文学館のような施設となっているなど様々なものがあり、細かく訪問するとそれぞれ現代につながる日本の歴史の多くの舞台と、その子孫の人々が多く現在も関わっている事を感じることができるので、鎌倉時代の歴史やそれ以前、それ以降のものと合わせて歴史そのものを勉強する事ができます。
ところでこのブログのテーマであるフリーメイスンリーのシンボルですが、鎌倉駅のそれもまた非常に気付きにくいものだと思いますが明らかにそういうものだと思われます。またその他にも非常に気付きにくく目立たない形で存在するのですが、それもまたこの鎌倉という日本の歴史上京都・奈良に続く古都として重要な存在である町の特徴なのだと思います。
フリーメイスンリーの歴史的には前回取り上げたブラザーキップリングが日本を訪問した際に鎌倉大仏を訪れ、それを記録しているので、ここに転載したいと思います。
「キプリングの日本発見」より
さて、横浜から田や畑を抜けて二十マイルばかり行ったところにある海に面した町、鎌倉のことを記そう。鎌倉には青銅で造った大きな仏像、すなわち鎌倉の大仏がある。大仏は幾百年もの歳月の過ぎゆく音に耳をかたむけつつ、海に向かって、じっと座っている。この大仏についてはこれまで多くの人が、その荘厳さと、世を超越したさま、その他もろもろの側面、たとえば像の内側にある灰色の小さな聖所、像の背後にある綺麗に刈り込まれた木々の茂る小高い丘などについて、繰り返し語ろうと試みてきた。そして大仏は今もなお昔と同様に、その姿を描写したいと願う人間の思いの届き得ない彼方に座しておられる。すっかり新しくなってしまった風景の中で、目に見える神として。
大仏の親指の爪の上に観光客が乗っている写真が絵葉書になって売られている。教養のない人間が男に限らず女も、この大仏を作り上げている巨大な青銅板の裏に、恥知らずにも自分の名前を落書きしている。考えても見たまえ、それがどんなに軽薄で、侮辱的な行為であるか!
古風な庭園を想像してほしい。そこでは、植木の枝はさっぱりと刈り込まれ、苔はつやつやと輝き、静かな池の面からは水蒸気が立ちのぼっている。雨の降ったあとに太陽が強く照りつけているからだ。そして青銅の緑色に身を包んだ、法の師である大仏は、香の煙の中に半分隠れるように、揺らめく空気の中に座っておられる。大仏にとってそのとき大地はそのまま香炉となる。何百万といる蛙どもは、その空気をどよめかせる。
あまりにも暑い日なので、わたしは何もせず、ただ石の上に座って大仏の目を見ている。大仏の目は伏し目である。それはすべてのものを見尽くした末に、もはや何も見ようとはしていない目で、頭は前に軽くうなだれ、単純な線の流れに表された巨大な衣の襞が、その腕と膝とを蔽っている。遠い昔、弟子の阿難陀が数々の問いを投げかけた時も、釈迦は今私が見ている姿と同じ姿勢で座っておられたはずである。その後におもむろに唇が動き始める。そしてその瞑想家はもっと遠い昔の日々のことを夢想し始める。仏典は「彼は語られた」と記すが、釈迦はきっとこのように夢想の後に語り始められたのだ。今も東洋の瞑想家たちはそのように語り出す。
「遠い昔、提婆達多がベナレスの王であった頃、徳の高い象と、邪な牡牛と、物分かりの悪い王が住んでいた――」、そして釈迦はこの話から、阿難陀に一つの教訓を引き出して諭されたあと、次のように締めくくられる。「さて、邪な牡牛とは、だれそれ、物わかりの悪い王とは、だれそれ、そして徳の高い象とは、阿難陀や、私のことなのだよ」
釈迦はその昔、このような話を竹の林の中でされたのだが、その竹の茂みは鎌倉に今もそのままある。青色や灰色や青味をおびた灰色の衣をまとった小柄な人々が今日もその蔭をよぎり、線香を数本買っては、聖所へと入っていき――その聖所とは大仏の身体の中の事だ――、しばらくするとにこにこしながらまた現れて、木立の向こうへ消えていく。池の中では、まるまると肥えた鯉が上から落ちてきた木の葉をぱくっと呑みこむ。まるで世の男がかわいい娘から接吻を盗むときのように邪な音を立てて。大地は静寂のなかで蒸されて、水蒸気をあげている。そこに、羽を広げると十五センチは優にあるような、絢爛たる巨大な蝶が一羽、極彩色の線をジグザグに描きながら、御仏の額のあたりに向かって、ひらひらと舞い上がっていく。
仏陀は言われた、すべてのものは仮象であると。光さえも、色さえも。幾星霜を経た青銅の大仏の青鈍色も、その背後にある松の濃い青緑色も、竹の淡いエメラルド色も、少女の着ている着物のシナモン色も、帯のレモン色も、その娘が髪に挿している髪飾りの珊瑚色も、その娘が寄りかかっている、風雨にさらされた石の色も、茶店の藁葺き屋根の蜂蜜色も、その店の畳の黄金色も、畳の上の瓶に挿してある一枝の躑躅の、血のような真紅の色も、仏陀によればすべて仮象なのだ。
たしかに、金銀への執着は、しばしば邪悪な思いを誘うこともあろうから、断ち切らねばなるまい。そのことは、わかる。しかし、人間の心を楽しませてくれる色、心を明るくしてくれる光、最も奥深い胸の憧れを満たしてくれる線の流れ、こうした目の喜びを、なぜ放棄しなければならないのだろうか。ああ、菩薩よ、あなたがご自身の姿を一度ご覧になるべきではないのですか!
庭の入り口には古びた立て札があって、そこには少しく悲壮感がただようが、なかなか堂々たる訴えの言葉が書いてある。それはこの寺の僧が書いたもので、この寺を訪れる観光客に向かって、仏像に対する敬意と良識ある振舞いを求めるものである。それを私は詩の形に直してみた。こんな具合に――。
トペテの谷の脇を抜け、最後の審判の日をめざし
細い道を行くきみたちよ
「異教徒」たちが鎌倉の御仏を拝んでも
寛容な心で見守ってほしい
れっきとした道にして、法――きみたちのとは違うだろうが
母なるマヤ夫人の懐にいたお方
お弟子アーナンダにとっては主、また菩薩
鎌倉の大仏はそのようなお方
自分は鎌倉の子らのごとく、罪人ではないと
きみがきみらの神に感謝しようと
御仏は憤りもなさらず
見ようとも、聞こうともなさらない
だが、西洋流の嘲笑だけはやめたまえ
鎌倉の御仏を拝む小さな人々の小さな罪が
線香によってよい香りのする煙へと
変わっていくのを見るとき
灰色の衣に、明るい色の帯を締めた人たちが
伏目の御仏の蔭を蝶のように行き来する
御仏は神秘の彼方に居ますお方だが
鎌倉の子らを愛しておられる
高慢という罪に捉われず
他の宗教の教義と僧侶を貶めない者なら
広い東洋を蔽う東洋の魂を
この鎌倉で、この御仏に感じることができよう
然り、アーナンダがその昔、主から聞いた物語
偉大なる師が、魚や獣や鳥の姿をかりて
この世での輪廻転生を経られたという物語を
暖かい風は鎌倉まで運んでくる
一緒に聞こえてくるのは
デーヴァダッタの支配力が強くならないうちにと
鎌倉で御仏を拝みながら、輪廻転生の梯子を
一段、また一段と上りつつある人々の魂の声
半眼の瞼は見ておられるようだ
遠いシュエ・ダゴンの黄金の塔の頂から
燃える炎が発して東方に向かい
ビルマから鎌倉までの道を渡ってくるさまを
濃密な空気は世界の果てから鎌倉までの隔たりを
越えて運んでくる
チベットの太鼓の響きと
ゆるやかな「蓮華のなかに宝珠がある」という呪文を
だがバラモンはいまだにベナレスを支配し
ブダガヤ丘の仏跡は荒れるがまま、そして
牛肉を貪り食う狂信者たちは
鎌倉へと迫り、御仏を脅かす
大仏などは観光用の見世物、たんなる伝説
黄金の剥げかかった青銅の塊
それだけ、いやそれ以下としか、きみたちには
鎌倉の意味は映らないのか
だが朝の祈りを終え
法外な儲けを狙う戦へと出かけて行く前に、考えてみたまえ
きみらが崇める神の子のほうが
鎌倉の大仏より身近だと、きみには確信できるのか
――「鎌倉の大仏」
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