2019-03-12 20:22 | カテゴリ:明治・大正・昭和・平成
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さて8年目の3月11日を経過して、日本の歴史に刻まれた主にキリスト教、仏教、フリーメイスンリーのシンボリズムを探す道程ですが、関ヶ原の戦いの中身についてもう少し付け加えようかと思います。
まず前哨戦としてある伏見城の戦いですが、後に裏切る小早川秀秋や吉川広家を攻城側に含んで、東軍は鳥居元忠が籠城して玉砕するも、10日程引き付けることで、西軍を不利にしたという説もあるそうですが、まあ鳥居という名前も神道のシンボリズムであり、鳥自体もフリーメイスンリーのシンボリズムですが、なかなかシンボリズム的な解釈は難しいですが、少なくとも宇喜多秀家や小西行長や大谷吉継と後に裏切る武将が共に攻城戦を戦う事で、裏切り自体の信憑性、西軍の武将同士の不信感は払拭されたのではないかと思われます。これは吉川広家を攻城側に含んだ後の安濃津城の戦いも同様にいえるかと思います。
伏見城の戦いと同時期に行われた田辺城の戦いでは、東軍の籠城側に細川幽斎がおり、古今伝授の名目でもって勅命で講和となり、西軍の1万5千名の大軍が関ヶ原の戦いの本戦に間に合わず釘付けになったそうで、これは実質的な朝廷の東軍への肩入れそのものであり、本能寺の変では明智光秀に肩入れしていた様子があったものの(追記:細川幽斎は本能寺の変の際も明智に加担するそぶりを見せつつ、最終的に出陣せず剃髪して家督を譲っており、この時と同じ対応といえるかもしれません。)、その後に羽柴秀吉が中国大返しで天下を獲り、シンボリズム的にはっきりした明智光秀が敗退したわけですが、関ヶ原の戦いの場合にはシンボリズム的にはっきりした石田三成の西軍側ではなく、当初より朝廷は徳川家康側を支援していたことが分かり、豊臣秀吉と徳川家康に対する朝廷の評価と、その後の江戸幕府の開府の流れと、当初よりの徳川家康への改名の時点からの朝廷の関与が分かるものかと思います。また朝廷が密接にイエズス会と関係を持っていたことから、明智光秀や石田三成のシンボリズムの意味を理解していて、さらにそこに重ねて聖書のシンボリズムである羽や柴といったそういうものが後からイエズス会によって徐々に秘密の伝授として朝廷側に教えられていった可能性が感じ取れるかと思います。当時の朝廷とキリスト教会の情勢分析に関する競い合いといったものが伺える事象でしょうか。
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次がキリシタン大名である織田秀信が西軍として池田輝政の東軍と戦った岐阜城周辺の戦いですが、池田輝政が岐阜城城主であった事があり、地形を熟知していたことで1日で攻略され、戦況に影響を与えたとの事です。織田秀信は織田信長の嫡孫で、洗礼を受けたキリシタン大名であり、当時の岐阜には教会と司祭館・養生所が建設されていたとあり、その後池田輝政が大幅加増されて、慶長18年1月25日(1613年3月16日)という613316という桁数の多い回文数のシンボリズムで亡くなっていることを考えると、岐阜城の戦いがキリシタンや戦況に与えた影響は大きかったものと思われます。岐阜城の戦いの功績が直接的に没年月日のシンボリズムに繋がっているとも想像されます。
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またキリシタン大名である京極高次が西軍から裏切って大津城に籠城した大津城の戦いでは開城したのが本戦の日であったとあり、これもまた西軍の15000人の兵士を引き付ける役割を行い、戦後に京極高次は大名として復帰して、その後加増されたそうです。関ヶ原の戦いはこれで終わりでしょうか。本戦は慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)の10時から12時ころまでの間に行われ、正確な死傷者は不明ですが、数万人の死傷があったとのことですが、まあ日本国内の戦いで、遺骨が大量に出ているわけでもないので、小田原城攻めなどと同じく死傷者は不明であり、前哨戦としての島左近の奇襲で約40人が東軍で亡くなったとされ、約2時間の戦闘で数万人死傷するというのもなかなか壮絶ですので、軽傷も含めて数万人死傷で、重傷、死亡者を想定すると数百人から数千人程度の重傷死傷者ではないかと想像されます。こういった大規模会戦が行われた理由としては、イエズス会による戦争のシミュレーションといった側面も大坂の陣も含めてあるものかと思われます。本戦の後、徳川家康は石田三成の居城である佐和山城の石田一族を攻め、内応などもあって、父親や兄弟の一族は自決、子供たちは生き残ったようです。大垣城も内応で開城しています。家康はその後大津城に入城して、小西行長、石田三成を捕縛して、それらを帯同してその後大坂城に入城し、毛利輝元が退去します。慶長5年10月1日(1600年11月6日)に小西行長、石田三成、安国寺恵瓊が六条河原で斬首されます。もう一人の首謀者格の宇喜多秀家は妻がキリシタンの豪姫でしたが、最初京都周辺に潜伏して、その後島津の薩摩へ逃亡し、その後久能山に幽閉されて、縁戚の前田利長の懇願などにより死罪は免れて、最終的には八丈島に流されて明暦元年11月20日(1655年12月17日)83歳で亡くなったそうです。家康はその後論功行賞を発表し、豊臣秀頼が222万石から65万石に減封となり、徳川家康が自身の領地を255万石から400万石へ増加させ、京都・堺・長崎を始めとする大都市や佐渡金山・石見銀山・生野銀山といった豊臣家の財政基盤を支える都市・鉱山も領地としたそうです。
本戦には参加しなかった古田織部の茶の弟子で、石田三成と親しかったらしい佐竹義宣(元亀元年7月16日(1570年8月17日)-寛永10年1月25日(1633年3月5日))は秋田へと転封となりました。没年で333のシンボリズムを認めます。また吉川広家の裏切りによって動きを封じられて、関ヶ原の合戦の本戦に参加できなかった長宗我部盛親(天正3年(1575年)-慶長20年5月15日(1615年6月11日))はその後改易され領地没収され、浪人し、大坂の陣に参加して夏の陣後捕縛され六条河原で切られています。土佐は長宗我部氏の後に山内一豊が引き継ぐこととなります。死没年月日に161と611のシンボリズムを認めています。
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慶長8年2月12日(1603年3月24日)に伏見城で家康は征夷大将軍に任ぜられます。一応シンボリズムはあるようです。伏見城は関ヶ原の戦い後から二条城と共に再建され、慶長7年12月(1603年1月)頃に徳川家康は入城しているようです。慶長10年4月16日(1605年6月2日)に徳川秀忠に将軍職を譲り、徳川幕藩体制が確立されます。慶長11年(1606年)頃に徳川家康は駿府城に移り、大御所政治を行っています。大坂城の淀殿と秀頼は各地の直轄領を失って、大名の一人として存続していました。慶長11年~12年(1606年~1607年)にかけて江戸城が完成して、将軍秀忠はそこで政務を行っています。江戸城、駿府城が築城される頃にイエズス会巡察士アレッサンドロ・ヴァリニャーノはマカオで亡くなっています。徳川家康は1606年~1607年にかけてポルトガル人宣教師や朝鮮通信使から太陽と月のシンボリズムのある時計を贈与されているそうです。その頃長崎の恐らく旧イエズス会領地で時計製作が盛んに行われていたようです。和時計への技術の伝承もその頃に行われていったようです。久能山東照宮にある時計はその後スペインとの外交交渉の過程で、慶長14年9月3日(1609年9月30日)に現在の千葉県夷隅郡御宿町にフィリピン臨時総督を乗せたスペインのサン・フランシスコ号がアカプルコ航路の途中で座礁し、地元民に救助され、その後三浦按針が作った船・按針丸・サン・ブエナベントゥーラでアカプルコに帰還して、そのお礼として慶長16年4月29日(1611年6月10日)浦賀に2代目サン・フランシスコ号で上陸したセバスティアン・ビスカイノらが(追記:161161の回文数になっているようです。6月11日でもないところが絶妙な。アカプルコからの浦賀への直行航路らしいです。秀忠と面会したのが6月22日だそうです。)、慶長16年7月20日(1611年8月27日)に駿府城で家康に面会した際に送ったものであり、1581年スペインのマドリッドでハンス・デ・エバロが製作したものだそうです。
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この頃になると金や銀の本格的な流通が始まりますが、そもそもザビエルが日本に布教に来たのもマルコ・ポーロの黄金の国ジパングの話の影響もあったと思われ、石見銀山のある大内氏の所領に布教して、その後陶晴賢の謀反によって毛利元就が銀山を掌握するのも、布教の影響があったのではないかと思われますが、鉛や水銀を使用した金銀の精錬法がエジプトやオリエントでは古代から行われていたそうですが、本格的に日本に伝わってきたのはこのザビエルの布教の頃からで、旧約聖書にも書かれている方法との事で、朝鮮由来とか中国由来とか説はあるそうですが、単純に宣教師由来である模様です。秀吉の時代には金細工師の後藤四郎兵衛家に作らせた天正大判が有名ですが、家康は秀吉の死からわずか3か月後の慶長3年11月(1598年12月)には三浦半島の浦賀にスペイン商船を寄港させるようにフランシスコ会宣教師ジェロニモ・デ・ジェズス(生年不詳 - 1601年10月6日)と交渉したとあり、関東を拠点とする家康がスペインのアマルガム法を入手して全国の金銀山の産出量を増加させようとしていたとの事です。そもそもサン・フェリペ号事件からフランシスコ会宣教師を磔にして日本26聖人殉教を行った秀吉であったわけですが、その秀吉の死後すぐに次の政権構想のために率直に動いてフランシスコ会に近づくイエズスの名前に近い家康が最初に接近したのがジェズスという名前の宣教師というのも、まさにキリスト教の修道会のシンボリズムという他ないわけですが、その交渉に適切な通訳がおらず、それにあたったのが、まさに関ヶ原の戦い直前に現れたイギリス人の三浦按針というのも出来過ぎた話のようです。ジェロニモ・デ・ジェズスの没年月日が関ヶ原の戦いの直後で601106と明確なシンボリズムを認めるのも、金銀の産出とその後の家康への政権移行が明確なキリスト教会の筋書きの通りに進んだ証拠かと思われます。アマルガム法による金銀の産出はその後1606年(慶長11年)頃より用いられていたようですが、その後一般的ではなくなったようです。水銀の害もあった模様です。家康の代では後藤四郎兵衛家による慶長大判、後藤庄三郎光次による慶長小判が有名で、さらにこれらの産出元の佐渡金山や石見銀山など全国の金銀山を統括していたのがもともと武田家の家臣であった大久保長安(天文14年(1545年)-慶長18年4月25日(1613年6月13日))であり、死後の不正蓄財が発覚して息子たちが切腹を命じられた大久保長安事件が起こっています。やはり没年月日に明確な対称形ではない西暦のシンボリズム613613という形を認めており、そもそも鎧などにも十字を認めており、キリシタンであった可能性があるようです。オークボで認めるオークはOak、コナラの木の意味となり、ヨーロッパで精霊の木としてあがめられ、船材としても最も使われたた歴史があり、シンボリズムと考えられます。フリーメイスンリーでもシンボリズムとなる木です。聖櫃や箱舟のArkとも発音が似ており、そういう意味でのシンボリズムもあるようです。もちろんオオ○○で真言の意味もあるのかとも思われます。やはり西洋と東洋の融合や折衷がテーマではあるのですね。
300px-Tensho-hishi-obankin.jpg220px-Keicho_Oban_1601.jpg320px-Keicho-koban.jpgKeicho-1buban.jpgKeicho-chogin2.jpg大久保長安像fc2blog_20170830192738f9f.jpg
またこの時期の朝廷の事件として猪熊事件がありますが、これは公家の乱交による醜聞事件であり、後陽成天皇の側室も関係していて、天皇が激怒して、徳川幕府の京都所司代である板倉勝重によって調査され、関係者が捕えられ、死罪もしくは各地へ追放となっています。この中心人物であり死罪となった猪熊教利は天正11年(1583年)-慶長14年10月17日(1609年11月13日)と没年月日の16091の回転対称、111のシンボリズムを認め、蝦夷松前に配流された花山院忠長(天正16年(1588年)-寛文2年9月26日(1662年11月6日))は松前の地に京文化が伝わるきっかけとなったそうで、やはり同様に没年月日に66、11のシンボリズムを認めます。蹴鞠で有名な飛鳥井家の飛鳥井雅賢(天正13年(1585年)-寛永3年閏4月16日(1626年6月10日))は隠岐に配流され、微妙な没年月日の626、66のシンボリズムを認め、伊豆に配流された難波宗勝(天正14年12月6日(1587年1月14日)-慶安4年3月21日(1651年5月10日))は没年月日で515、151のシンボリズムを認めます。細川幽斎から古今伝授を受けていた烏丸光広(天正7年(1579年)-寛永15年7月13日(1638年8月22日))は蟄居後赦免されていますが、没年で88、22のシンボリズムを認めています。
この事件の意味ですが、慶長20年7月17日(1615年9月9日)の禁中並公家諸法度の制定に繋がったそうで、関係した公家の没年月日のシンボリズムは、そうした江戸幕府の政治体制の確立にキリスト教が大いに関係したことが伺えそうです。
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またこの時期の家康のブレーンとして、林羅山(天正11年(1583年) - 明暦3年1月23日(1657年3月7日))がいて、その後の大坂の陣のきっかけとなる方広寺鐘銘事件などで意見したりしていますが、朱子学を基礎として徳川幕府の制度の基礎を作り、孔子廟を上野に作り、後の湯島聖堂の元になったようです。慶長11年(1606年)にはイエズス会の日本人修道士、イルマン・ハビアンと論争して、棄教させたりしているそうです。この日本人修道士イルマン・ハビアンはイソップ物語を翻訳したそうです。この林羅山は明暦の大火で家を焼かれて、4日後に亡くなったそうですが、没年月日に737のシンボリズムを認めます。林羅山を徳川家康に推挙した師の近世儒学の祖の藤原惺窩(永禄4年1月24日(1561年2月8日)-元和5年9月12日(1619年10月19日))が没年月日に明確な16191の回転対称と、161、191、91019の回文数のシンボリズムを認めています。弟子として小早川秀秋や石田三成兄弟、木下長嘯子も挙げられるようです。
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家康は慶長12年(1607年)朝鮮通信使と謁見し、文禄・慶長の役以来断絶していた李氏朝鮮との国交を回復し、慶長14年8月17日(1609年9月15日)オランダ使節と会見し、オランダ総督マウリッツからの親書を受け取り、朱印状による交易と平戸にオランダ東インド会社の商館の開設を許可したそうです。慶長16年3月20日(1611年5月2日)に御三家の元となる息子たちを叙任したそうです。徳川家康の対外政策は極めて単純で、経済優先であり、布教に関しては否定的となっていて、側室にキリシタンとされる朝鮮人のジュリアおたあなどがいる時期もありましたが、信仰や思想的には基本的に儒教優先で、キリスト教の要素は名前以外ほとんどなかったようです。その後の東照宮の造営なども含めて、天下普請の切石積み石垣や方形の天守閣などからは、極めてキリスト教の教えの要素を含まないプラグマティズム、実用主義的な、フリーメイスンリー的な要素があったものと思われます。慶長16年7月20日(1611年8月27日)に駿府城でスペイン人探検家のセバスティアン・ビスカイノは家康に謁見し、フェリペ2世からの時計を贈りますが、その後は朱印状をもらい日本沿岸の測量を行い、慶長16年10月6日(1611年11月10日)に仙台で伊達政宗と謁見します。慶長16年10月28日(1611年12月2日)に三陸沖を測量中に慶長三陸地震に海上で遭遇し、本人たちの被害はありませんでしたが、津波の被害を確認しています。セバスティアン・ビスカイノはその後九州地方まで沿岸を測量し、慶長17年8月21日(1612年9月16日)に家康、秀忠の返書を受け取り、浦賀からメキシコに向けて出港しますが、暴風雨にあい慶長17年10月22日(1612年11月14日)に浦賀に戻り、その後慶長遣欧使節団のサン・フアン・バウティスタ号に同乗して慶長18年9月15日(1613年10月28日)に三陸海岸の月浦から出港して帰国しています。この時期の地震としては慶長9年12月16日(1605年2月3日)に起こった慶長地震の南海トラフ地震があり、津波被害での死者が多数であったそうですが、詳しくは分からないようです。その後は慶長16年8月21日(1611年9月27日)に会津地震がありました。会津は著名なキリシタン大名であった蒲生氏郷が奥州仕置後に入部して、会津若松城と共に城下町を整備しましたが、その子の蒲生秀行の時代に一旦宇都宮に転封され、関ヶ原の戦い後に再度入部して、その秀行の時代に地震にあい、その心労もあって翌年慶長17年5月14日(1612年6月13日)に30歳で亡くなったそうです。
慶長三陸地震は伊達政宗のその後の慶長遣欧使節団の大きな動機の一つともなった可能性があるようです。慶長遣欧使節団はフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使、支倉常長(キリスト教禁教後常長となったらしく、それ以前は長経であったそうです。ナーガのシンボリズムがあるようです。)を副使として、セバスティアン・ビスカイノが造船を指導して、1613年10月28日に牡鹿半島の月浦から出港し、東回りで太平洋を横断し、1614年1月28日アカプルコに入港したそうです。その後メキシコシティ、キューバのハバナを経由して、1614年10月5日スペインに到着し、マドリードに到着後、1615年1月30日フェリペ3世に謁見します。その後1615年2月17日支倉常長は洗礼を受け、1615年10月25日ローマに到着し、1615年11月3日ローマ教皇パウロ5世に謁見、1615年11月20日ローマ市民権証書を授与されています。1616年1月7日ローマを離れ、スペイン・セビリアに移動し、1617年7月4日スペインからメキシコに渡り、1618年4月2日に再びサン・フアン・バウティスタ号でアカプルコを出港し、1618年8月10日にフィリピン・マニラに到着しました。支倉常長は元和6年8月24日(1620年9月20日)に厳しい禁教下の日本へ帰国しました。ルイス・ソテロは元和8年9月18日(1622年10月22日)、マニラから密入国しようとしたが捕らえられ、寛永元年7月12日(1624年8月25日)大村で火刑により殉教したそうです。
慶長遣欧使節団についてはやはり高木一雄さんの「伊達政宗と慶長遣欧使節」が詳しいようです。教皇との書簡のやり取りの中で、伊達政宗が興味を持っていたと思われる騎士団の設立について触れている部分もあり、またフェリペ3世のことを、どん・ひりっぺと書かれていて、東北弁の世界ですから、こういうのも日本が鎖国になった一因でもあるのかなと思ったりしました。明らかに徳川秀忠とのやり取りを含んでいて、取次は伊達藩であったのでしょうが、幕府が綿密に関わっていたのが分かります。
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慶長18年5月4日(1613年6月11日/ユリウス暦6月21日)に日本の平戸に到着したイギリス東インド会社のセーリスと慶長18年8月4日(1613年9月18日/ユリウス暦9月8日)に駿府城で徳川家康は謁見し、三浦按針が取り次いで翻訳し、慶長18年9月1日(1613年10月4日/ユリウス暦10月14日)には通商許可が出たとの事です。この当時イギリスはユリウス暦を使用しており、到着の日付がグレゴリウス暦6月11日の日付になっていることがシンボリズムのようです。シンボリズム的には明確にイギリスの行動はキリスト教会が規定しているのでしょうね。
またこの時期その後の徳川家康のキリスト教禁教のきっかけとなる事件として岡本大八事件がありました。岡本大八(生年未詳 - 慶長17年3月21日(1612年4月21日))は没年月日に明確な12421の対称のシンボリズムを認めますが、駿府で徳川家康の家臣の老中本多正純に仕えていた有力なキリシタン武将であり、恐らくキリシタン関係の事一切を取り仕切っていた模様で、同じく熱心なキリシタン大名であった有馬晴信がポルトガル船貿易の過程で、部下を数十人マカオでポルトガル人に殺され、その件に関して報復を考えた有馬晴信がマカオ総司令のアンドレ・ぺソアを最終的に長崎の船中に閉じ込め、攻撃して自決させ、これがノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件またはマードレ・デ・デウス号事件とされ、これを機にポルトガル船貿易は下火となります。この後に有馬晴信が徳川家康への取次として岡本大八と懇意になり、賄賂を贈って九州での旧領の回復を試みますが、それが露見して、二人とも死罪となり、岡本大八は駿府市中を引き回しの上火刑、有馬晴信は甲斐に流罪の後切腹となっています。岡本大八と有馬晴信は共に駿府にあった大久保長安邸で尋問を受けたとの事です。岡本と大久保と共にOakの音が入っているのは興味深いところです。有馬晴信の所領はその後島原の乱の中心地になったそうで、また有馬晴信が最終的に害意を抱いていたとする長崎奉行の長谷川藤広はイエズス会が中心のポルトガルから、ドミニコ会に接近していたとあり、全体的にシンボリズムに象徴されるようにキリスト教会の差配であったようで、この複雑な事件の様相から家康はキリスト教の禁教を考えたとあり、秀吉の際と同様にそれはキリスト教会の想定通りであったようです。岡本大八が火刑となった同日に家康は直轄領でのキリスト教の禁教令を発布し、ジュリアおたあは伊豆大島へ流され、原胤信などキリシタンの旗本は潜伏キリシタンとなりました。慶長18年2月19日(1613年4月9日)、幕府は禁教令を全国に拡大し、家康はさらに「伴天連追放之文」を起草させ徳川秀忠の名で発布させました。慶長19年7月(1614年8月)、有馬晴信の子供のキリシタンであった有馬直純はすでに棄教していましたが願い出て、日向国延岡藩に転封され、有馬の地は天領とされ、松倉重政・勝家の悪政後島原の乱が発生します。慶長19年10月1日(1614年11月2日)には家康の大坂城討伐の号令が出され、同時に高山右近をはじめ、修道会士や宣教師など主たるキリスト教徒をマカオやマニラに国外追放にしました。高山右近は慶長19年10月7日(1614年11月8日)長崎を出港し、1614年12月21日マニラに到着し、現地のフィリピン総督は日本侵攻を提言したそうですが、右近が拒絶して、1615年2月3日亡くなります。
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大坂の陣のきっかけとなった方広寺鐘銘事件の経過ですが、そもそも関ヶ原の戦い後、徳川家康と豊臣秀頼は共に最終決戦に向けて軍備を整えていたようです。片桐且元が主にその間を取り持っていたわけですが、徳川家康の豊臣秀頼への通常の大名に対する対応をすることで淀殿への挑発が続き、その緩和の意味もあって、豊臣秀頼は家康の勧めで慶長19年(1614年)4月に方広寺を再建しており、慶長19年8月3日(1614年9月6日)に大仏殿の開眼供養を行うことにしていたそうです。その方広寺の鐘の銘文を考えたのが南禅寺の文英清韓であり、臨済宗の長老であったのですが、銘文中の「国家安康」と「君臣豊楽」の部分が特に問題にされましたが、そもそも家康の名前も、豊臣の名前も、意図的に組み込んでいたのは明らかであるようで、林羅山が激しく糾弾していますが、そもそも豊臣方に肩入れして、そういう呪詛とまでいかなくとも皮肉的な意味で組み込んでいるようで、そもそもそれを依頼したのが片桐且元であり、それらを問題としたのが以心崇伝であったとの説もあるようですが、以心崇伝も徳川幕府の有力なブレーンであり、永禄12年(1569年) - 寛永10年1月20日(1633年2月28日)と没年月日でシンボリズムを認め、「伴天連追放之文」「寺院諸法度」「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」を起草した人として徳川幕府の中枢で重要な人物であり、家康の亡くなった際には吉田神道の形式で神格化しようとして、南光坊天海(天文5年(1536年)? - 寛永20年10月2日(1643年11月13日))が新しく考えた山王神道の形式で神格化されて東照大権現が成立したとあり、その後徳川幕府は合議制に移っていったとあります。また「禁中並公家諸法度」の「勅許紫衣竝に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」に関して紫衣事件というのがあり、後水尾天皇が、寺僧に対して紫色の法衣を着ていい勅許を出す朝廷の権利を徳川秀忠が停止した事件で、大徳寺住職・沢庵宗彭(天正元年12月1日(1573年12月24日) - 正保2年12月11日(1646年1月27日))が抗議して流罪になったりしています。その後秀忠の死によって、沢庵和尚は家光に近侍して、家光は紫衣の勅許を元の通りに戻したとの事です。家光の名前も以心崇伝が決めたそうです。朱印船貿易の事務作業も一手に引き受け、黒衣の宰相とも呼ばれたそうです。金地院崇伝とも呼ばれました。日光山東照宮、上野寛永寺を発案した天台宗延暦寺で修業した南光坊天海も100歳以上の長寿といわれているそうですが、没年で明確な31113の回文数のシンボリズムを認めており、キリスト教の明確な影響が裏付けられます。沢庵漬けで有名な沢庵和尚も生年月日がクリスマスイブで、没年月日で16461の回文数を認めます。
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この方広寺鐘銘事件の意義ですが、最終的には仲介にあたった片桐且元の豊臣秀頼による領地没収という改易により、片桐且元が大坂城を退去して、徳川家康の慶長19年10月1日(1614年11月2日)の豊臣秀頼への宣戦布告となり、開戦となるわけです。片桐という名前も、豊臣氏の家紋が桐となっており、半分豊臣という意味もかかってくるようです。片桐且元はもともと浅井長政の家来であったようで、浅井三姉妹や大野治長兄弟と共に小谷城落城で放浪しその後秀吉に仕官したそうです。シンボリズム的には鐘は平家物語の冒頭にもうたわれる通りに仏教のシンボルであり、古今東西で鐘の様式の楽器は宗教のシンボルであり、キリスト教でも教会のシンボルであります。当時の南蛮寺で使われたイエズス会のシンボルが刻印された鐘も妙心寺春光院には残されています。そのシンボルに刻印された文字の、特に三英傑の豊臣と家康の名前が刻まれて、それが問題とされたという事の意味は、明らかにこのブログで延々と語っている通り、それがシンボリズムを含んでいることを語っており、国家安康は国の安定を願う意味ですが、イエズス会やキリスト教の意味もそれであり、ヨシュアがイスラエル建国のために聖絶を行ったのもそのためであり、その同じ意味の名前のイエスが無報酬の愛を説いて、その上で多くの聖戦が行われたのも究極的には国や世界の平和と安定のためであるという意味であるかと思います。家康、イエズスの意味で考えると、それが分断されているのは、その当時のイエズス会の状況を示唆していて、結果的に同時にキリスト教禁教となり国外追放となった日本のキリスト教布教の状況を反映していそうです。家康自身のその後の運命を語っているともいえるかと思います。また君臣豊楽も朝廷から庶民まですべての人が豊かになるという意味であり、まさにそれは豊臣の英語の意味to you to me、すなわちあなたも私もで全てという意味だと思いますが、それがさかさまになっているのが、全ての人が豊かになるといっても、主に庶民や、朝廷の配下、この場合幕府や武士と考えられますが、そちらが先に豊かになるという意味になるのかもしれません。朝廷のその後を考えると、大坂の陣後は桂離宮や修学院離宮を建築して、江戸時代の中では最も富んだ時代と考えられ、豊臣が滅んで天皇がやや持ち直すという意味かもしれません。豊臣がさかさまになるという事で、単純に豊臣秀頼のその後の運命を語っているだけかもしれません。方広寺自体が、豊臣秀吉が大仏建造のために建立した寺であり、三十三間堂のすぐ横にあり、慶長伏見地震で大仏が崩壊した歴史があり、大仏の代わりに遷座した善光寺如来は秀吉の死亡する前日に呪いを恐れて甲斐に戻されたというものです。いずれにしても今日残されている主要な大坂の陣当時の遺物はこの方広寺の鐘が最大のものであり、それは大坂の陣の悲惨な戦いの始まりを告げる戦陣の鐘であり、またその後の平和な時代の始まりを告げる祇園精舎の鐘でもあることを後世に伝えています。
南蛮寺鐘
大坂の陣では構図は豊臣秀頼、淀殿母子のまさにキリスト教の聖母子像のような殉教の側と、さらにそこに義父となる構図の大野治長兄弟、実際は実父であったようですが、と対峙するイエズスの名前を冠する徳川家康軍、すでに全面的な禁教令を発布して、表立ってキリスト教の大名、武将は一人もいない軍の対決であり、キリスト教全盛時代の象徴ともいえる豊臣秀吉が建築した野面積みの大坂城があり、対峙する徳川家康はすでに天下普請にて江戸城、駿府城、名古屋城の三城を切石積みで真っ白な方形の天守閣を伴い、豊臣の大坂城を上回る規模で完成させており、勝負の行方自体は明白であり、構図としては秀吉の際の小田原城攻めに近いものがあるわけですが、幕府が既に明白にキリスト教禁教を打ち出していたために、キリシタンを含めたその時代を良しとする浪人が豊臣側の蓄積した金銀を求めて大坂城に集結し、結果として10万人ほどの大軍勢となったようですが、最終的には堀の無くなった丸裸の大坂城となった大坂夏の陣の際には8万人程度まで逃亡により減少したようです。いずれにしても豊臣恩顧の浪人が多数であったとはいえ、最初から決着はついているような戦であり、それも籠城戦であるという、全体に主君に殉ずるというよりは、その秀吉時代の安土桃山時代の下克上から天下統一への時代の精神に殉ずるといった色合いが濃いかと思われ、その後の同様の籠城戦による大量虐殺であった島原の乱も全く勝算がないままの殉教の大量死であった状況と似ているかと思われます。また大坂方の実質的な大将としては淀殿がおり、淀殿自身が浅井長政の長女として生まれながら、叔父である織田信長に小谷城で攻められて、命からがらに脱出して、その後織田信長に保護され、その後柴田勝家と再婚したお市の方に連れられて北ノ庄城に移るも、賤ケ岳の戦いでは秀吉に攻められて母親は自害し、秀吉の保護を受け、最終的に秀吉の側室となった運命の持ち主であり、大野治長とは乳母の子供として幼少時より共にいたとあり、大野治長は父親が秀吉の部下であったとありますが、片桐且元と同じく、浅井長政の小谷城落城の時点で織田家の秀吉の配下になったのかと思われます。つまり賤ケ岳の戦い後に乳母でつながる淀殿と大野治長の邂逅があった可能性があるでしょうか。いずれにしても戦を指揮したこともなければ、そもそも武士ですらない淀殿が実質的な大将としている大坂城での籠城戦であり、政治的駆け引きもなく、講和条件も無く、唯々秀吉時代の最高の城である大坂城にすがるか心中するかという、二度の敗戦による落城を経験して、手に入れた当時最高の城と我が子とその父と運命を共にするというのが淀殿の完結したストーリーであったようです。私も九州国立博物館で淀殿の直筆の手紙を見たことがありますが、秀吉もひらがなだけのなかなかの能筆家で名文家であるとの評判ですが、淀殿も文章が散り散りに飛んで、それが当時の女性の流行していたスタイルであったようですが、それの極致のような、内容をある程度予測できていないと読めない文章の書き方であって、なかなか当時にあっても秀吉同様相当特別な気性と性格と才気を持っていた女性であったようです。
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(最初の手紙は秀吉から淀殿への直筆の手紙です。肖像画は一応大野治長らしい像です。残りは黒田家伝来の大坂夏の陣図屏風です。)
大坂の陣で有名なキリシタン武将は明石全登がいて、もともと宇喜多秀家の家臣で10万石を持っていたそうですが、関ヶ原の戦いで浪人となり、母親が明石氏であった黒田如水の庇護下にいましたが、その後長政の時代になって流浪し、大坂の陣で熱心なキリシタンであった事から、禁教制となった幕府に対抗する大坂方についたとの事です。大坂夏の陣後の生死は不明ですが、一説には伊達政宗の保護を受け、津軽に渡り、秋田地方に子孫が残ったとあり、元国際連合事務次長の明石康は明石全登の子孫と伝えられているそうです。木村清久という浪人もキリシタンであったようで、もともと秀吉の文書係であったようで、蒲生氏郷の配下でいたものの一揆がおきて改易され、その後豊後の1万4千石の大名となりますが、関ヶ原の戦いで西軍に参加して、戦後浪人となり大坂の陣に参戦して討ち死にしたそうです。大坂方で最も有名な真田幸村こと真田信繁がフランコの洗礼名を持つキリシタンであるという説がありますが、大坂の陣での活躍と、兄弟のその後の大名家としての存続を説明するのにキリスト教の信仰は支障はありませんが、イエズス会の文書からの推測のみとあり、洗礼の記録などはないようです。小笠原権之丞という武将は徳川家康の御落胤ともされ、駿府でキリシタンとして活動していたそうですが、禁教令後改易され浪人となり、大坂の陣に参加して天王寺の戦いで討ち死にしたそうです。細川忠興の次男である細川興秋はキリシタンであった可能性があるそうですが、大坂の陣に大坂方として参加して、夏の陣後父親に切腹を命じられ、伏見の稲荷山東林院で元和元年6月6日(1615年7月1日)に切腹しています。織田信長の弟の織田有楽斎ジョアンも息子と共に大坂冬の陣までは城内にいて中心的な役割をしていたそうですが、夏の陣の際には息子と共に大坂城を出ています。
淀殿と秀頼は必ずしもキリスト教に親和的であった事は無かったようですが、徳川軍を迎えた大坂城には宣教師が三名ほど入り、浪人に含まれた多くのキリシタンを鼓舞したり、新たに洗礼を授けたりしたそうです。また周囲には数名の宣教師がいて、戦況を最後まで見守りそれぞれ教会に報告したようです。
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大坂冬の陣は慶長19年11月19日(1614年12月19日)、戦闘は木津川口の砦においてはじまりました。蜂須賀至鎮の抜け駆けだそうですが、どうも和暦でシンボリズムの形をしており、そういうシンボリズムの知識が当時あった可能性があるでしょうか。攻撃された側の明石全登は将が不在で壊滅したとあり、西暦でもそれなりの161、141、121と変な回文数の合成になっており、どうも意図的なもののようです。慶長19年12月2日(1615年1月1日)には大坂城を完全に包囲する形となっています。この時点では形としては小田原城攻めの包囲戦の形と全く同じになっています。この後石垣城攻めの為のオランダやイギリスから購入したカルバリン砲、セーカー砲、半キャノン砲などの大砲による大坂城の建物への砲撃が始まります。豊臣方は寄せ手に火縄銃が大量に配置してあって、攻め手の土手の陣地を構築されるまでは相当有効であったようです。武器の性質が相当変わることで、従来の兵糧攻めの持久戦の形ではなかったことが分かります。兵糧に関しても相当変化があるのかと思われます。本丸への砲撃による直撃で淀殿の侍女8人が死んだことで慶長19年12月16日(1615年1月15日)和議に応ずることを決めます。実質籠城していたのは2週間との事で、普通の人の限界であったのだと思われます。明確な西暦のシンボリズムを認めることから、正確な着弾によって、狙った射撃であった事が明確なようです。大坂夏の陣での軍師は明らかに三浦按針であり、その部下として先陣で働いていたのは片桐且元であったようです。
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慶長19年12月18日(1615年1月17日)より京極氏の陣で和平交渉が行われ、豊臣方の使者としては淀殿の妹のキリシタンであった京極高次の正室の常高院であり、慶長19年12月20日(1615年1月19日)本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、惣構の南堀、西堀、東堀を埋めることで和議が成立します。淀殿と秀頼が最も拒否したのは関東への下向であって、暗殺の可能性があったのだと思われますが、なんとしても大坂城と最後まで共にするという一貫した姿勢があったように思われます。そしてその後有名な堀を全て埋められてしまうわけですが、まあ現代のウィキペディアでは和平条件に沿ったものであり、一次史料では堀の埋め立てに関して混乱が生じていた記録はないとあります。そもそも淀殿は天守閣と命運を共にする姿勢であったようです。徳川軍は一旦撤退しますが、慶長20年4月5日(1615年5月2日)大野治長の使者が名古屋にて徳川家康に移封、すなわち大坂城退去はできないと伝え、大坂夏の陣の開始が号令されます。大坂夏の陣は野戦で開始し、大野治房の部隊が慶長20年4月26日(1615年5月23日)に筒井定慶の守る大和郡山城を落とし、その後堺を焼き討ちにし、慶長20年5月6日(1615年6月2日)まで堺攻防戦を行いました。その後大坂城に向かって進撃する徳川軍に大坂方は野戦での襲撃を繰り返し、道明寺の戦い、八尾・若江の戦い、天王寺・岡山の戦いと慶長20年5月6日・7日の2日間に渡って激戦が行われ、数や兵装では圧倒的有利な徳川軍ではありましたが、完全に玉砕覚悟の大坂方は士気が高く、双方ともに多くの死傷者を生じ、当初は数百程度の戦死者でしたが、決戦の天王寺の戦いでは大坂方はほぼ玉砕の状況で2万人近くの首が討ち取られ、その後大坂から京都までの街道に並べられたと宣教師は報告したようです。徳川方ではいわゆる徳川四天王の本田忠勝の息子の、サン・フランシスコ号が座礁した場所の大多喜藩の本多忠朝が先鋒で毛利勝永に打ち取られ、その他に本多忠朝を救援に入った信濃松本藩の小笠原秀政と小笠原忠脩が亡くなっています。毛利勝永はその後敗走して大坂城で秀頼の介錯をしたそうです。シンボリズムはありそうです。いわゆる真田幸村が徳川家康の馬印を倒したとされる戦いです。その後敗走した大坂方は全員大坂城に収容されたとの事で、慶長20年5月7日(1615年6月3日)16時頃徳川軍全軍が取り囲み突入する中で、裏切りなどによって大坂城は内部から炎上し始め、千姫は大坂城を脱出し、淀殿と秀頼は毛利勝永に翌日介錯されて自害しました。秀頼の側室の子の豊臣国松は直前に城から脱出しますが、京都で捜索され捕縛され、慶長20年5月23日(1615年6月19日)に市中車引き回しの後、六条河原で斬首されました。長宗我部盛親は慶長20年5月11日(1615年6月7日)に京都八幡(京都府八幡市)付近の橋本の近くの葦の中に潜んでいたところを蜂須賀至鎮の家臣・長坂三郎左衛門に見つかり捕らえられ、伏見に護送され、その後、盛親は京都の大路を引廻され、そして慶長20年5月15日(1615年6月11日)に京都の六条河原で斬られたそうです。豊臣五奉行の一人増田長盛は盛次の罪を背負う形で関ヶ原の西軍で敗戦後の配流先の岩槻で元和元年5月27日(1615年6月23日)自刃しています。また古田織部は豊臣に内通したという疑いから京都所司代の板倉勝重に捕らえられ慶長20年6月11日(1615年7月6日)に自刃しています。
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淀殿、秀頼の自刃の日の慶長20年5月8日(1615年6月4日)ですが、カトリックの聖日では聖フランシスコ・カラチョロ司祭(1563年-1608年)となっており、まだ聖日になっていないと思われ、カトリックのシンボリズムではなさそうです。6月24日の20日前にあたるわけですが、まあこれは大坂の陣の戦端である、慶長19年11月19日(1614年12月19日)木津川口の戦いにヒントがありそうです。いわゆる和暦でシンボリズムを刻むのは後白河天皇の没年月日の建久3年3月13日(1192年4月26日)からの三十三間堂の建立が日本史の中では最も際立っているわけですが、その他にも数多くの天皇の生没年月日で、和暦でのシンボリズムもあったわけですが、戦争の開始などイベントで日付が明確にわかる記録は日本史では少なかったわけで、小田原征伐での和暦での天正18年6月24日(1590年7月25日)近辺の石垣山城の完成が和暦と西暦のシンボリズムの交わったあたりであり、単純に和暦だけでは、松永久秀の東大寺大仏殿焼失永禄10年10月10日(1567年11月20日)の日付が、その後の松永久秀の謀反を起こしての信貴山城での爆死天正5年10月10日(1577年11月29日)が10月10日という事で純粋に和暦ですが、どちらも西暦で11月という事で、仏像を焼くという行為でもあり、むしろ西暦の方がシンボリズムであるのかもしれません。というわけで、1615年6月4日のシンボリズムの推測ですが、恐らく天台宗延暦寺開祖の最澄の和暦での没年月日弘仁13年6月4日(822年6月26日)に対応するのではないかと思われます。西暦と和暦の全く異なる暦の変換になるわけですが、比叡山焼き討ち(元亀2年9月12日(1571年9月30日))で有名な織田信長の仏教圧迫政策でしたが、そもそも大坂城の地は石山本願寺が元亀元年9月12日(1570年10月11日)から天正8年8月2日(1580年9月10日)までの10年の長きにわたって織田信長と抗争を繰り広げた地であり、その地で戦国時代の終焉を象徴する聖母子像に連なる親子が殉教の形で天守閣と運命を共にするというのは、まさにその後の厳しい禁教令の時代を象徴する出来事であり、それは比叡山焼き討ちによる日本の仏教勢力の被った痛手に対する明確な応酬のシンボリズムでもあったのかと思われ、またそれはキリスト教で明確であった暦のシンボリズム、さらにそれが太陽暦のグレゴリウス暦という最新の暦に乗る形での、最澄・空海の中国への留学の際に近傍にあったというキリスト教会の教えの伝承の意味も含まれているものかと思われます。いずれにしても日本史上最も悲惨な内戦といえる、大坂夏の陣の結末は、西暦というキリスト教が布教した最新の知見といえる暦に対して、日本仏教の頂点と言える天台宗の開祖の和暦での命日を重ねたものであったようです。(秀吉の没年月日である慶長3年8月18日(1598年9月18日)も最澄の生年月日神護景雲元年(767年)8月18日に重なるようです。和暦でのシンボリズムですが、死後に日吉丸の幼名が流布したこととも関係がありそうです。猿の異名も日吉大社の猿神と結びつけられて、その後の徳川家康の東照大権現の元になる山王一実神道に繋がるようです。天台宗系の仏教とキリスト教のシンボリズムの融合と考えられます。またこれに関して吉田神道の吉田兼右の次男で吉田兼見の弟の神龍院梵舜は生没年月日が天文22年(1553年) - 寛永9年11月18日(1632年12月29日)と和暦でシンボリズムを認め、豊国廟の別当となったそうですが、大坂の陣後豊国神社は破却され、その後の徳川家康の埋葬の際に吉田神道で進めますが、天海に論争で敗れ、山王一実神道となったそうです。山王一実神道は仏教の度合いの強い神道といった感じでしょうか。神龍院梵舜は全三十三巻の日記を残しているそうです。)
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さてあまりに長くなり過ぎたので、ここで章を再び分けます。昭和・平成まで新元号発表までにはたどり着けそうにありませんね。
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