FREEMASONRY
Blue Lodge, Scottish Rite & York Rite in Japan
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さて分割した章ですが、一応前の時代の1と6の没年月日と日付のシンボリズムのまとめです。回文数であったり、6と11の組合わせであったり、和暦であるなどいろいろありますが、大友宗麟の死(天正15年5月6日(1587年6月11日))、秋月種実の死(慶長元年9月26日(1596年11月16日))、石田三成・小西行長の死(慶長5年10月1日(1600年11月6日))、フランシスコ会宣教師ジェロニモ・デ・ジェズスの死(慶長6年9月11日(1601年10月6日))、イエズス会巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの死(慶長10年12月12日(1606年1月20日))、細川幽斎・吉田兼見の死(慶長15年8月20日(1610年10月6日))、2代目サン・フランシスコ号の浦賀上陸(慶長16年4月29日(1611年6月10日)、イギリス東インド会社のセーリスの平戸上陸(慶長18年5月4日(1613年6月11日))、古田織部の死(慶長20年6月11日(1615年7月6日))、長宗我部盛親の死(慶長20年5月15日(1615年6月11日))、徳川家康の死(元和2年4月17日(1616年6月1日))、花山院忠長の死(寛文2年9月26日(1662年11月6日))とあり、いずれもテーマとしては17世紀を象徴する1600年の西暦を基調とした、2×3の数秘術の因数分解の意味と、その時代を象徴する人々と出来事という事になるのだと思いますが、基本的にはキリスト教が暦のシンボリズムは通底しているというのが分かるかと思います。
それで淀殿が亡くなり、江戸時代が始まるという、明確なYodからYedoへの音の繋がりはあるわけですが、一応シンボリズムであるようです。
それでまあこの時代の中心テーマともいえる徳川家康の死なわけですが、元和2年1月21日(1616年3月8日)、鷹狩に出た先で倒れたとの事で、最初は脳卒中なんでしょうかね。元和2年4月17日(1616年6月1日)巳の刻(現在の午前10時頃)、家康は駿府城において75歳(満73歳4ヶ月)で死去しました。死因については、鯛をかやの油で揚げ、その上にすった韮をすりかけた天ぷらによる食中毒説が長く一般化されてきたとの事ですが、これを食べたのは最初の発作の際の1月21日の夕だそうで、現在の藤枝市にある田中城というところだそうで、鯛のてんぷらの話をしたのは京の豪商・茶屋四郎次郎の三代目の茶屋清次(天正12年(1584年) - 元和8年7月16日(1622年8月22日))であり、そもそもこの茶屋四郎次郎は代々の襲名であり、初代茶屋清延(天文14年(1545年) - 慶長元年閏7月27日(1596年9月19日))が京都の家康の御用商人であり、神君伊賀越えに協力して取り立てられたとあり、二代目茶屋清忠(生年不詳 - 慶長8年4月1日(1603年5月11日))が関ヶ原の戦いで協力し、京都の情報を提供して、京都所司代のきっかけを作ったとあり、いずれも初代が96、969、919のシンボリズム、二代目が511のシンボリズムを認め、その当事者の三代目が22822という回文数の桁数の大きいシンボリズムを認め、ちょうど京都は板倉勝重が後の「大岡政談」の三方一両損などの元ネタとなる「板倉政要」という判例集を作るなど、活躍している頃であり、時代的にはその後家康の死をきっかけなどとして、キリシタンの取り締まりが活発化していて、それに対する対応を最も行っていた時期にあたります。大鯛2枚・甘鯛(興津鯛)3枚を食べて腹痛に苦しんだとあり、記述通りだと脳卒中ではなさそうで、しかもその後腹のしこりがあって、寄生虫だと自己診断して、自分で調合した薬を飲んで効果なく亡くなったとあり、現代では胃がんではないかと考えられているそうですが、色々記述が異なるんだと思われます。経緯はどうあれ、家康のシンボリズムでの死は大事業であったと思われ、自然死でなかったことは明確かと思われます。
家康は久能山東照宮に埋葬されてから、その1年後に日光東照宮に葬られますが、この時の棺は空であったというのが現在の通説のようです。途中棺を置いたのが富士山麓の御殿場God and Ba‘alとの話ですが、聖櫃で十戒の石板を運んだ逸話に倣ったYedo遷都を為したYesusを新たな神Gongenとする儀式であったのでしょうね。久能山東照宮は日光東照宮と同じく、華麗な色彩の装飾がありますが、鳥の彫刻が多かったと思いますが、周囲にある植物ではやはり蘇鉄がいくつもあり、ルイス・ソテロの南蛮貿易が偲ばれます。日光東照宮では三猿、眠り猫が彫刻で有名ですが、三猿は近代フリーメイスンリーのイングランドグランドロッジの標語「Audi, Vide, Tace(, si vis vivere (remanere) in pace)」「Hear, see, be silent(, if you would live in peace.)」「聞いて、見て、沈黙せよ(、平和に暮らしたいのであれば)」というローマ帝国時代から伝わるとされることわざの変化であり、「悪い言葉を聞かない、悪い行いを見ない、悪い事をしゃべらない」という意味とされますが、いわゆる東と西の共通の道徳訓の一つとして、それでも全く一緒ではなく、東と西で似ていてもその差があるのがまた非常に興味深くはありますが、異文化間で共通のものとしてキリスト教徒、もしかすると三浦按針から教訓の一つとして示されたものかと思います。三猿自体は『論語』に「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、 非礼勿動」(礼にあらざれば視るなかれ、礼にあらざれば聴くなかれ、礼にあらざれば言うなかれ、礼にあらざればおこなうなかれ)という一節があり、一説に、こうした「不見・不聞・不言」の教えが8世紀ごろ、天台宗系の留学僧を経由して日本に伝わったそうです。三猿のモチーフは、庚申信仰の伝播とともに近世以降広く用いられるようになり、主尊の青面金剛を描く際、その足元に三猿が添えられた例が多いとのことです。また庚申塔にも多く三猿が彫り込まれています。天台宗は比叡山の鎮護社の日吉大社と密接な関係にあり、日吉大社を本尊とし、猿を神使とする山王信仰が、庚申信仰と習合した結果ともいわれています。眠り猫については裏面の雀のモチーフと合わせて、平和の象徴とされるようです。
それでまあ太平の江戸時代が始まるわけですが、キリシタンにとっては悲惨な弾圧の歴史の始まりでしかなかったわけです。基本的に日本人のキリスト教への改宗は多くが統治者である大名がその支配地でキリスト教を振興して、結果的にその地域の人々全員がキリスト教に改宗するという形がほとんどであったので、それ以外に、初期の布教で個人や集団で改宗したり、一族で改宗したりした人々は改宗した人々ががそのまま禁教後に表面上棄教したりして隠れキリシタンとなり、後に世代交代によってその信仰自体も薄れていってしまったようですが、地域として統治者の宗教に引きづられて改宗した地域は、案外色々なそもそもの封建制の政治形態自体の問題が生じてきますので、後の島原の乱のような一揆であったり、政治問題化する問題を世代間を越えて持ち続けることになるようです。基本的には宗教問題であり、内面の問題であるのですが、表面的なシンボルとなるものは全て徹底して取り締まられたわけですが、それ以上に幕府にとって問題であったのは、江戸時代初期の潜伏して布教する外国人宣教師とその支援者であり、結局個人の信仰を問題としたのではなく、それが影響を与えうる封建制を守ることが大事であったわけで、そのためにそれを脅かすキリスト教の教えを広める外国人宣教師を全員国外退去もしくは棄教または死刑とする必要があり、日本人で信仰を持つ人々も、その内面の信仰を伝えてそのまま布教したりして信者を増やして組織化することが問題であっただけであり、最終的に文化として日本の中に入った隠れキシリタンの信仰そのものを問題とはしていなかったようです。まあそうは言ってもこの時期秀忠に引き継いで早速主要都市の江戸、京都、長崎の宣教師を中心としてキリスト教の大弾圧と殉教が認められ、それに倣って、棄教した元キリシタン大名などでも領内で大弾圧を行い、いわゆるキリスト教徒の大弾圧が行われました。キリスト教会は京都大坂のものは秀吉の禁教令の時代に一旦破壊され、その後再興されましたが、再び家康の禁教令で破壊されていました。秀忠は家康の死についてキリシタンの関与を疑っていた可能性があり、家康の死の直後から大弾圧を行い、長崎での大弾圧は元和の大殉教と呼ばれています。
徳川家康は天文11年12月26日(ユリウス暦1543年1月31日)-元和2年4月17日(グレゴリウス暦1616年6月1日)と生年月日でもユリウス暦で3131のシンボリズムを認め、和暦でクリスマスの1日ずれでありそもそも生年月日がはっきりしている人も少ないので、この点でも天下統一への要素があったものと思われます。秀忠は天正7年4月7日(1579年5月2日)-寛永9年1月24日(1632年3月14日)とシンボリズムは認めず、あえて言うと生年月日が5月1日の1日ずれでしょうか。和暦で747、西暦で没年月日で323などありますが、まああまりはっきりはしません。家康の子供では長男の松平信康(永禄2年3月6日(1559年4月13日)-天正7年9月15日(1579年10月5日))は生母の築山殿(生年不詳- 天正7年8月29日(1579年9月19日))の殺害と同時期に家康から切腹させられています。また次男の結城秀康 (天正2年2月8日(1574年3月1日)-慶長12年閏4月8日(1607年6月2日))は福井で越前松平家宗家となり、北ノ庄藩藩主となっており、いずれもあまりシンボリズムは認めず、秀忠が三男であったというのがシンボリズムといえばシンボリズムのようです。名前ももちろんHide Tau Darmaの意味になるのでしょうが、フランシスコ会や禅宗といっても、もちろん関東でのキリスト教布教に何らかの影響はあったのだと思われますが、秀忠の治世自体は全面的なキリスト教大弾圧の時代であり、隠れキリシタン化して禅宗などの仏教となったといえばその通りだと思われます。大久保忠隣のみが老中として秀忠を家康の後継として推挙したとあり、その後大久保忠隣(天文22年(1553年)-寛永5年6月27日(1628年7月28日))は大久保長安事件の後で京都の南蛮寺を破却した後で改易されており、家康時代のキリスト教に対する対応と、その周囲の家臣達のまたキリスト教に対する対応の複雑さと、それを引き継いだ秀忠のキリスト教に対する対応としての大弾圧と52歳での死という家康に比べると比較的早世の死を考えると、家康時代の側近であった本多正信と大久保忠世の一族のその後なども居城が相模国の玉縄城と小田原城であったことも含めて興味深く思われます。家康の子供としては督姫(天正3年11月11日(1575年12月13日) - 慶長20年2月4日(1615年3月3日))がおり、最初北条氏直に嫁ぎますが、小田原征伐後、池田輝政に嫁いでその後の大名としての池田家の元となる子供たちを生んでいます。夫の池田輝政と同じく生年でも明確な和暦のシンボリズムを認め、西暦はサンタルチアの日ですが、シラクサのルチアは3-4世紀の人だそうで、12月13日がユリウス暦での冬至であったようで、シンボリズムのようです。没年は西暦で33となっています。紀州徳川家の初代の徳川頼宣(慶長7年3月7日(1602年4月28日)-寛文11年1月10日(1671年2月19日))は没年月日で和暦で1111のシンボリズムを認めています。
この時期の幕府によるキリスト教弾圧により殉教した人としては、カルロ・スピノラ(1564年 - 1622年9月10日)がおり、イタリア人のイエズス会士であり、グレゴリウス暦改暦委員会の中心人物であったイエズス会士のクリストファー・クラヴィウスに師事した数学者、天文学者であり、マテオ・リッチもクリストファー・クラヴィウスに師事していたそうです。カルロ・スピノラは元和の大殉教の際に火刑となっています。没年は22を中心とした162291の回転対称となる、なかなか典型的ではないシンボリズムとなるようです。原胤信(天正15年(1587年)-元和9年10月13日(1623年12月4日))は幕府旗本でしたが、家康の禁教令後に潜伏キリシタンとなり、藩主によってとらえられ棄教を迫られますが拒否し、激怒した家康の命によって額に十字の烙印を押され、手足の指全てを切断、足の筋を切られた上で追放されたそうです。その後も布教活動を続けたそうですが、密告によって捕らえられ江戸で火刑となっています。ルイス・ソテロ(1574年9月6日 - 1624年8月25日)はフランシスコ会修道士であり、伊達藩と幕府による慶長遣欧使節団の正使として支倉常長と共に三陸海岸からローマまで行き、その後ローマからフィリピンに戻った後で禁教令下の長崎に上陸して捕縛され、火刑で殉教しています。中浦ジュリアン(永禄11年(1568年)ごろ - 寛永10年9月20日(1633年10月21日))は天正遣欧使節の副使でイエズス会司祭であり、潜伏して布教活動を継続している中で捕らえられ、同じイエズス会士のクリストヴァン・フェレイラ師らと共に逆さづりの刑を受けて棄教を迫られますが、中浦ジュリアンは棄教せずそのまま殉教しました。ペトロ岐部(天正15年(1587年) - 寛永16年6月4日(1639年7月4日))は歩いてエルサレム、ローマまで旅して、現地でイエズス会司祭となり、帰国して禁教令下で潜伏して布教し、長崎から東北まで布教し、その後捕縛されて江戸で腹を火で炙られ殺されたそうです。幕府の執拗な拷問により転びキリシタンとなった宣教師としては、遠藤周作の「沈黙」のモデルとなったクリストヴァン・フェレイラ(1580年(天正8年)頃 - 1650年11月4日(慶安3年10月11日))、棄教後は沢野忠庵、がおり、天文学書や医学書を日本語で書き残しています。また同様に「沈黙」のモデルとなったジュゼッペ・キアラ(慶長7年(1602年) - 貞享2年7月25日(1685年8月24日))、棄教後は岡本三右衛門、もおり、「天主教大意」という日本語の書を残して、後にジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ(寛文8年(1668年) - 正徳4年10月21日(1714年11月27日))が最後の教皇使節として日本に来てキリシタン山屋敷に捕らえられて新井白石が取り調べを行った際には、この「天主教大意」に基づいてキリスト教についての問答を行ったそうです。転びキリシタンについては信仰自体は持ち続けていた可能性があるとの事です。新井白石(明暦3年2月10日(1657年3月24日)-享保10年5月19日(1725年6月29日))は将軍家宣、家継の時代の旗本であり、政権を担った幕閣であり儒学者ですが、生年月日が林羅山の没年月日とほぼ同時期であり、明暦の大火の時期であります。名前に明確なシンボリズムを認めます。殉教者の多くが火刑になったりしていて、最終的には火葬され、また転びキリシタンもほとんどが火葬されているわけですが、一方で徳川将軍家、天皇家が明確に土葬にされているのがこの時代の特徴かもしれません。
徳川家光の時代は典型的な江戸幕府の制度が成立した時代として、参勤交代の成立と鎖国の成立があり、日光東照宮の大規模な改修などがあるわけですが、15代続く徳川将軍の3代目で光という最高のシンボリズムを仰ぐ名前という事で、生没年月日では慶長9年7月17日(1604年8月12日)-慶安4年4月20日(1651年6月8日)とあえて言うのであれば生年月日の和暦の717、没年月日の和暦の5の倍数程度という事になるようです。西暦であえて言うと、生年月日のイエズス会の結成日の3日ずれという事なんだと思います。光はフリーメイスンリーでは3つの光で有名ですが、創世記では「光あれ」とあり、そもそもの一神教の成り立ちのアテン神が光の意味であったとあり、明の太陽と月のさらに一神教を強調したようなシンボリズムが光となり、Gのシンボリズムに近いかもしれません。家光でイエズスにも半分かかっており、将軍家が諱で家を継いだのが、2代将軍秀忠、8代将軍吉宗、15代将軍慶喜以外全員であり、イエズス会の名前としての部分の家であり、またそれ以外の二人のヨシはもちろんヨシュアの名前であると思われ、明確にイエズス会が作り上げた徳川時代という象徴なのかと思われます。さてまあその家光時代なわけですが、何はともあれ鎖国という事で、島原の乱なわけです。上述のように幕藩体制維持のためにはキリスト教禁教が絶対的であったわけで、神君家康や天孫降臨や班田収授など様々な日本の逸話をもってしても、日本には王権神授説に相当するような、キリスト教と絶対王政や封建制を結びつける思想は無く、また吉田神道にしても比叡山延暦寺にしても、キリスト教のもたらした数々の知恵を習合して新たな日本の支配体制に結びついた教えとして改変することしかなかったわけで、現代のアメリカのもたらしたITの東アジアでの実際の運用と全く同じようなことがこの時代もあったわけであり、その帰結として多数の日本人潜伏キリシタンが残る時代には、外国人宣教師が予言していた、恐らく予定していて、計画されていた通りに、天草四郎時貞を中心とした島原の乱があったわけです。島原の乱で象徴的であるのは参加者全員が殺されて、唯一内通者であった南蛮絵師の山田右衛門作一人が生き残り城内の様子を全て伝えた事と、ポルトガル船の救援を待った乱軍に対してオランダ船が砲撃してその後のポルトガル船の来航が中止され、長崎出島でのオランダ商館での鎖国体制が成立したことで、この直後のカピタンに日本人妻を持ちオランダに亡命したフランス人ユグノー教徒のフランソワ・カロンが就任し、その後フランソワ・カロンがフランス東インド会社設立を依頼され長官となり、帰国の途上でポルトガル沖で沈没して亡くなったのが、まさにフリーメイスンリーへの流れを説明する逸話だと思われます。島原の乱は寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結とされていて、和暦での5の倍数の日付での開始や、終結の和暦での22、西暦での復活祭8日後の3の倍数など、シンボリズムはあるかと思いますが、その経過は全く大坂の陣と酷似しており、そもそももともとの統治者であった松倉重政は苛政を行う事のみならず、キリシタンの根拠地としてフィリピンマニラの遠征を計画していたとあり、もともと松倉家は筒井順慶の家臣であったとあり、筒井順慶が興福寺の門徒の武士化した戦国大名の家系であったそうで、そういう戦国時代から引き続く、織田信長の延暦寺焼き討ちや、松永久秀の東大寺大仏殿の焼き討ちといった、具体的な仏教寺院の破壊とも関連した宗教対立がそもそも根底にはあった可能性があります。いずれにしても小西家や有馬家の旧臣のキリシタンを含んだ、女性や子供を含む農民が中心の一揆軍の総勢37000人の全員が殺されたとあり、幕府軍の死傷者も数千人に及んだとあり、単純に合戦の形態や政治や権力の状況などを考慮せずとも、日本史上最大の内乱であることは間違いなく、その与えた影響は大きく、その後の幕府のキリシタン政策や、日本人の宗教観そのものにも最も影響を与えているかと思われます。島原の乱に関するフリーメイスンリー的な秘密の内容は私は全く知りません。ただ言えることは、ポルトガル船貿易から決定的にオランダの出島への貿易に変更されたのがこの事件であり、当時オランダはまだスペインやオーストリアと連合したハプスブルグ帝国の一部であり、カトリックからの自由を求めてカルバン派がオランダ独立戦争を継続している最中であり、ポルトガルはすでにスペインの一部となっている時代であり、島原の乱におけるポルトガル船に対する援助の期待と、オランダ船の砲撃の様子は完全にヨーロッパの政治としてはハプスブルグ帝国の内部の話であったわけで、まさに東洋の異教の中で独立を求めて闘争するカトリック教徒の集団は、逆にカトリック王国の中で独立を求めて戦うオランダと全く正反対であったわけで、カトリックが島原の乱に援助して、日本をカトリック国にする流れがあったのであれば、そもそもオランダが宗教改革で新教国となることはなかったわけで、それ自体がいわゆるカトリック→プロテスタント→フリーメイスンリーという歴史の流れそのものに逆行したものであるという話でしかないのだと思われます。ちなみにポルトガルは1640年の島原の乱から2年後にクーデターにより王政復古してスペインから独立し、その後の王となったジョアン4世は清教徒革命を為したイギリスのクロムウェルと条約を結んだりしています。明らかに日本でのキリスト教の布教はヨーロッパ大陸での政変を促し、カトリックからプロテスタント、フリーメイスンリーへの流れを後押ししているのですね。ちなみに島原の乱で天草四郎が軍旗として使用していたのが、いわゆる聖杯をモチーフとしたものであり、当時のヨーロッパでの聖杯伝説の高まり、テンプル騎士団からの近代フリーメイスンリー成立への流れを象徴しているものでもあります。もちろん直接的には聖体拝領の聖杯(カリス)を意味するものであり、ミサで神父が飲み干すワインのカップであり、イエスの血を皆がわけ与えられる盃の象徴です。天草四郎の性別などは関係なかったと思われますが、いわゆるダヴィンチ・コードでの子宮を意味するシンボリズムでしょうか。儀式を通してイエス・キリストの血と体を信徒が分け合う事を行うミサの象徴であり、島原の乱自体がそうしたキリスト教徒の殉教を通して、その死が後世に伝えられ、江戸時代の隠れキリシタンを含んだ民衆の生活の改善や向上が図られることを意図したものであったという意味なのだと思われます。
島原の乱後は天草領には山崎家治が入部して三年後丸亀に移り、丸亀城を築城しています。天草領はその後天領となりました。雲仙地域ではその後雲仙の地獄炊きなど特に松倉氏の治世の時代の厳しいキリシタン取り締まりの逸話の伝承と考えられるものがありますが、キリシタン達の実力行使であった島原の乱以降は取締自体はあったようですが、内容は明らかにそれ以前から比べて緩くなり、隠れキリシタン自体はその後命脈を保ち、明治維新での隠れキシリタンの再発見に繋がるようです。新井白石によればこの時代のキリシタンの取り締まり自体で、約10-20万人のキリシタンが殺されたとあり、最盛期におよそ100万~200万人いたとされる日本人のキリスト教徒のうち1割ほどが殺されたと考えられ、その他の人々は隠れキリシタンとなり、その信仰は代々受け継がれて日本文化そのものとなり、明治維新で再び信仰の自由が保障されて潜伏キリシタンとしてカトリックやキリスト教に入信する子孫がいたり、そのままキリスト教自体が忘れられたものとなったりしているようです。雲仙地域では明治維新後はブラザーグラバーの子供である倉場富三郎が雲仙ゴルフ場を開設して、日本で二番目のカントリークラブとして現在まで存続しています。また平成時代では雲仙普賢岳の噴火がありました。現在島原城は隠れキリシタン時代の遺物を展示する博物館となっています。また天草切支丹館には上述の重要文化財である天草四郎陣中旗のレプリカが展示してあるそうです。
さて、日本のキリスト教伝道は島原の乱で一旦終息して、その後の時代は再びキリスト教の宣教師が直接関わったわけではないシンボリズムが認められるようになる、隠れキリシタンの時代となるわけですが、まあ実際上はイエズス会領であった時代から引き続いてオランダが領事館を置いた長崎出島が確固たるキリスト教、フリーメイスンリーの拠点となり、隠れキリシタンの時代からさらに明治維新へと時代を導いていくのかと思われます。それでまあ元号をテーマとして書いていてずっと放ってあった天皇家のシンボリズムについてですが、正親町天皇以降について見ていこうかと思います。後陽成天皇(第107代天皇1571年12月31日(元亀2年12月15日) - 1617年9月25日(元和3年8月26日))はちょうど豊臣秀吉の天下統一が一緒の時期であり、まあ世の中景気がいい時ではないですが、ご本人が色々画策したとかそういうことは少なかったようですが、朝廷権威は戦国時代に比べて格段に向上し、47歳とそれ以前とそれ以後に比べると比較的短命ではありますが、最後も火葬であったなどもありますが、子供は非常に多く、在位も天正14年11月7日(1586年12月17日) - 慶長16年3月27日(1611年5月9日)と和暦でシンボリズムを刻んであるようで、意図して和暦で行った時代なんだと思います。ただ生没年月日が西暦で大みそかと、3の二乗と5の二乗の日付になっているのは恐らくキリスト教的なシンボリズムと思われます。後水尾天皇(第108代天皇 1596年6月29日(文禄5年6月4日) - 1680年9月11日(延宝8年8月19日))は西暦で没年月日でシンボリズムを認め、生年月日の和暦の6月4日もまた延暦寺開祖の最澄の没月日であり、これもシンボリズムと思われます。在位も1611年5月9日(慶長16年3月27日) - 1629年12月22日(寛永6年11月8日)とまあ日付は選ぶわけですが、何より昭和天皇にコメントされた通り、歴代天皇の中で記録のある中で最長寿の84歳という事で、キリスト教伝道による最大の効果として天皇の寿命の延長を認めているものかと思われます。この時代は子女もとにかく多いこともそうなんですが、桂離宮(1615年頃-1662年、智仁親王の建設で始まる、後水尾天皇の叔父、その後後水尾法皇で完成)と修学院離宮(1653年- 1655年、後水尾上皇の時代に上皇の指示で建設)が建設されており、皇室の政治機能は江戸幕府によって失われているわけですが、文化活動としては比較的潤沢な予算があったと思われ、そうした今に残る王朝文化の建築が認められます。特に桂離宮は隠れキリシタン灯籠とされる織部灯篭の数も多く、キリシタンから伝来した文様とされる、白黒の市松模様や、船を模した茶室、島津氏より送られた蘇鉄、真行草とされる、三段階の踏み石の表現など、各所にキリシタン伝来のシンボリズムを元とした意匠が施されており、この時期の日本のキリシタン伝来のシンボリズムに基づいた王朝建築として白眉であると思われます。修学院離宮にはわざわざ湯河原吉浜の海岸の石が使われており、石垣山城建築と江戸城建築に関わった石工の由来に掛かっているものと思われます。まあこれだけ長生きの天皇も歴代いなかったわけで、時代も変化が大きかったことが伺えるわけですが、その後の明正天皇(第109代天皇1624年1月9日(元和9年11月19日) - 1696年12月4日(元禄9年11月10日))は後水尾天皇の第二皇女の女帝という事で、シンボリズムも和暦でかなりはっきりあり、91119と回文数であったりするわけですが、在位も1629年12月22日(寛永6年11月8日) - 1643年11月14日(寛永20年10月3日)と西暦でシンボリズムがあるようで、まあ島原の乱や激しいキリスト教徒の取り締まりの時代に、キリシタンの恩恵を受けて天皇家はキリシタン文化を享受していたというそういう様子の中で、政治的実権を持たないうっぷんもあって、徳川家の外孫にあたる7歳の娘に譲位したという話だそうで、日本史上では859年ぶりの女帝であったとの事です。即位しても何ら権限は持たないまま21歳でまた譲位したとの事で、その後出家して74歳まで生きたとあり、まあ色々政治と関わると大変のようです。元号としてはザビエル来日後から天文、弘治、永禄、元亀、天正、文禄、慶長、元和、寛永とあり、天のつくものは天守閣と同じで、天主につながるものと思われ、また天文自体はその後の天文学などとの関連で明らかにシンボリズムと思われます。弘法大師の弘やナガに繋がる永、長、仏教の心得に繋がるのか寛容の寛は仏教系のシンボリズムととらえられます。元は中国の元の建国もあり、Gにもかかるので一部キリスト教系のシンボリズムがあるものと思われます。
それで将軍家としては四代家綱(寛永18年8月3日(1641年9月7日)-延宝8年5月8日(1680年6月4日))の時代になるわけですが、あまり回文数のシンボリズムは認めず、40歳で急死したとあり、没年月日の西暦の6月4日はシンボリズムなんだと思われます。治世では由比正雪の乱などあったりしますが、シンボリズムを認めず、計画の段階で露見しているところなど見ると、キリシタンは関係なさそうです。最大の出来事は明暦の大火(明暦3年1月18日-20日(1657年3月2日–4日))と思われます。江戸城天守閣を焼き、その後再建なされなかったものであり、出火原因は不明ながら江戸の数か所から断続的に発火しており、放火の疑いが有力で、被害は数万人~10万人とあり、日本史上最大の災害となるようです。西暦の3月3日周辺であり、また明暦3年であることがシンボリズムのようです。その後9年で1666年にロンドン大火が起こっていることが、歴史の偶然ではなく必然であるようで、こちらは公式の死者は5人との事ですが、セントポール大聖堂が全焼して現在の形にブラザークリストファー・レンの設計で再建された、いわゆる「驚異の年」の出来事となります。明暦の大火については恐らく大坂夏の陣、島原の乱で数多く亡くなったキリシタンの復讐の意味もあるのではないかと思われます。将軍家綱の名前も、イエズスの家もあるわけですが、綱はやはりフリーメイスンリーのシンボリズムでもあるのですが、そもそも禁制前のフランシスコ会のキリスト教会の組織で「帯紐の組 Cofradía de Cordón」というのがあり、信徒の繋がりを示す紐なわけですが、この家綱、綱吉という第四代、第五代将軍はそういう、キリスト教のシンボリズムを強調した名前となります。五代綱吉(正保3年1月8日(1646年2月23日)-宝永6年1月10日(1709年2月19日))は生年月日で和暦で公現祭でしょうか。西暦の22のシンボリズムもあるようですが、没年月日がやはり和暦で611のようです。綱吉といえばなんといっても生類憐みの令なわけですが、そもそも舘林藩の大名をやっていて、兄の家綱の養子となってすぐに兄の急死で将軍となっており、まあ色々素質を認められて将軍となっている模様です。父親の家光に徹底的に儒学を叩き込まれていたため、文治政治と呼ばれる儒教道徳に基づいた政治を行い、新井白石や荻生徂徠(寛文6年2月16日(1666年3月21日) - 享保13年1月19日(1728年2月28日))という儒家を生み出しています。荻生徂徠は回文数での明確なシンボリズムを認めており、綱吉の側用人の柳沢吉保(万治元年12月18日(1659年1月10日)-正徳4年11月2日(1714年12月8日))に取り立てられたとあり、こちらもシンボリズムを認め、舘林藩でのキリスト教徒の関連があるのかと思われます。柳沢吉保の名前のYの字が多いのもシンボリズムかもしれません。綱吉の時代のシンボリズムの出来事と言えば最大のものがいわゆる大石内蔵助の討ち入りで知られる、忠臣蔵の赤穂事件であり、江戸城松の間での浅野内匠頭の吉良上野介への額への一太刀から始まる一連の赤穂浪士四十七士の討ち入りのクライマックスでの元禄15年12月14日 (1703年1月30日)の和暦の日付が、旧約聖書のエステル記のモルデカイが復讐する日であり、いわゆるユダヤ人絶滅をはかったペルシアの宰相のハマンがユダヤ人絶滅をはかろうとして逆に殺されてしまった日という事であり、その他にも旧約聖書由来と考えられる江戸時代の逸話としては大岡政談の子供を二人の母親が引っ張り合う、ソロモン王の逸話に由来する話が有名ですが、復讐の話として聖書には少ない日付の記述があるエステル記の逸話の日も江戸時代の復讐の実話の日に重ねあわされているようです。復讐法は古代バビロニア法の基本であり、聖書にも認められる基本的なものであり、その基本から発展したのが、キリストの愛であり、そういう教訓に基づく逸話なのだと思われますが、黒田如水などの由来も深い可能性がある赤穂藩という関連もあるものと思われます。黒田藩への何らかのメッセージとすれば、旧約聖書の原本なりが日本にあった可能性もあるかと思われます。「生類憐みの令」は儒教道徳に基づくものとの事ですが、聖書の由来はちょっとわかりませんが、フリーメイスンリーでもブラザーウィリアム・ホガースの絵などで、動物虐待の風刺画などがあり、人文主義の前提として動物愛護の精神の啓発というのが一つの手法としてあるようです。綱吉の時代にはその他にも現在の日本の伝統となる「七五三」の風習の成立などもあり、奇数の年齢の設定はキリスト教の数秘術に基づいているものと考えられ、特に先代の明暦の大火の3月3日の逸話に倣っていると考えられます。綱吉の治世後期は元禄地震(元禄16年11月23日(1703年12月31日)午前2時ごろ)、宝永地震(宝永4年10月4日(1707年10月28日))、富士山噴火(宝永4年11月23日(1707年12月16日))と天災と飢饉大火に見舞われたとの事です。宝永地震、宝永噴火の2年後の宝永6年1月10日(1709年2月19日)に成人麻疹(はしか)で64歳で亡くなったとの事です。宝永地震、宝永噴火は共に17071の回文数を認めます。綱吉の時代は元禄文化とも呼ばれる時代であり、松尾芭蕉の俳諧や井原西鶴の小説、近松門左衛門の歌舞伎・人形浄瑠璃の作品、歌舞伎の成立、人形浄瑠璃の成立、落語の成立、絵画では尾形光琳、土佐光起、菱川師宣、陶工の尾形乾山、円空仏の円空、色絵焼き物の野々村仁清、小石川後楽園や六義園、芝離宮や浜離宮、貝原益軒の養生訓、徳川光圀の大日本史などがあり、これらがこの時代のものだそうです。すなわち前々章でも触れたような江戸時代の隠れキシリタン文化の基礎はこの綱吉の時代に最初に花開いたものと思われます。
さてここで長くなったのでまた章を切ります。現実社会ではもう平成の次の新元号も決まって発表を待っている段階のようですが、なかなか平成まで行き着きませんね。
それで淀殿が亡くなり、江戸時代が始まるという、明確なYodからYedoへの音の繋がりはあるわけですが、一応シンボリズムであるようです。
それでまあこの時代の中心テーマともいえる徳川家康の死なわけですが、元和2年1月21日(1616年3月8日)、鷹狩に出た先で倒れたとの事で、最初は脳卒中なんでしょうかね。元和2年4月17日(1616年6月1日)巳の刻(現在の午前10時頃)、家康は駿府城において75歳(満73歳4ヶ月)で死去しました。死因については、鯛をかやの油で揚げ、その上にすった韮をすりかけた天ぷらによる食中毒説が長く一般化されてきたとの事ですが、これを食べたのは最初の発作の際の1月21日の夕だそうで、現在の藤枝市にある田中城というところだそうで、鯛のてんぷらの話をしたのは京の豪商・茶屋四郎次郎の三代目の茶屋清次(天正12年(1584年) - 元和8年7月16日(1622年8月22日))であり、そもそもこの茶屋四郎次郎は代々の襲名であり、初代茶屋清延(天文14年(1545年) - 慶長元年閏7月27日(1596年9月19日))が京都の家康の御用商人であり、神君伊賀越えに協力して取り立てられたとあり、二代目茶屋清忠(生年不詳 - 慶長8年4月1日(1603年5月11日))が関ヶ原の戦いで協力し、京都の情報を提供して、京都所司代のきっかけを作ったとあり、いずれも初代が96、969、919のシンボリズム、二代目が511のシンボリズムを認め、その当事者の三代目が22822という回文数の桁数の大きいシンボリズムを認め、ちょうど京都は板倉勝重が後の「大岡政談」の三方一両損などの元ネタとなる「板倉政要」という判例集を作るなど、活躍している頃であり、時代的にはその後家康の死をきっかけなどとして、キリシタンの取り締まりが活発化していて、それに対する対応を最も行っていた時期にあたります。大鯛2枚・甘鯛(興津鯛)3枚を食べて腹痛に苦しんだとあり、記述通りだと脳卒中ではなさそうで、しかもその後腹のしこりがあって、寄生虫だと自己診断して、自分で調合した薬を飲んで効果なく亡くなったとあり、現代では胃がんではないかと考えられているそうですが、色々記述が異なるんだと思われます。経緯はどうあれ、家康のシンボリズムでの死は大事業であったと思われ、自然死でなかったことは明確かと思われます。
家康は久能山東照宮に埋葬されてから、その1年後に日光東照宮に葬られますが、この時の棺は空であったというのが現在の通説のようです。途中棺を置いたのが富士山麓の御殿場God and Ba‘alとの話ですが、聖櫃で十戒の石板を運んだ逸話に倣ったYedo遷都を為したYesusを新たな神Gongenとする儀式であったのでしょうね。久能山東照宮は日光東照宮と同じく、華麗な色彩の装飾がありますが、鳥の彫刻が多かったと思いますが、周囲にある植物ではやはり蘇鉄がいくつもあり、ルイス・ソテロの南蛮貿易が偲ばれます。日光東照宮では三猿、眠り猫が彫刻で有名ですが、三猿は近代フリーメイスンリーのイングランドグランドロッジの標語「Audi, Vide, Tace(, si vis vivere (remanere) in pace)」「Hear, see, be silent(, if you would live in peace.)」「聞いて、見て、沈黙せよ(、平和に暮らしたいのであれば)」というローマ帝国時代から伝わるとされることわざの変化であり、「悪い言葉を聞かない、悪い行いを見ない、悪い事をしゃべらない」という意味とされますが、いわゆる東と西の共通の道徳訓の一つとして、それでも全く一緒ではなく、東と西で似ていてもその差があるのがまた非常に興味深くはありますが、異文化間で共通のものとしてキリスト教徒、もしかすると三浦按針から教訓の一つとして示されたものかと思います。三猿自体は『論語』に「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、 非礼勿動」(礼にあらざれば視るなかれ、礼にあらざれば聴くなかれ、礼にあらざれば言うなかれ、礼にあらざればおこなうなかれ)という一節があり、一説に、こうした「不見・不聞・不言」の教えが8世紀ごろ、天台宗系の留学僧を経由して日本に伝わったそうです。三猿のモチーフは、庚申信仰の伝播とともに近世以降広く用いられるようになり、主尊の青面金剛を描く際、その足元に三猿が添えられた例が多いとのことです。また庚申塔にも多く三猿が彫り込まれています。天台宗は比叡山の鎮護社の日吉大社と密接な関係にあり、日吉大社を本尊とし、猿を神使とする山王信仰が、庚申信仰と習合した結果ともいわれています。眠り猫については裏面の雀のモチーフと合わせて、平和の象徴とされるようです。
それでまあ太平の江戸時代が始まるわけですが、キリシタンにとっては悲惨な弾圧の歴史の始まりでしかなかったわけです。基本的に日本人のキリスト教への改宗は多くが統治者である大名がその支配地でキリスト教を振興して、結果的にその地域の人々全員がキリスト教に改宗するという形がほとんどであったので、それ以外に、初期の布教で個人や集団で改宗したり、一族で改宗したりした人々は改宗した人々ががそのまま禁教後に表面上棄教したりして隠れキリシタンとなり、後に世代交代によってその信仰自体も薄れていってしまったようですが、地域として統治者の宗教に引きづられて改宗した地域は、案外色々なそもそもの封建制の政治形態自体の問題が生じてきますので、後の島原の乱のような一揆であったり、政治問題化する問題を世代間を越えて持ち続けることになるようです。基本的には宗教問題であり、内面の問題であるのですが、表面的なシンボルとなるものは全て徹底して取り締まられたわけですが、それ以上に幕府にとって問題であったのは、江戸時代初期の潜伏して布教する外国人宣教師とその支援者であり、結局個人の信仰を問題としたのではなく、それが影響を与えうる封建制を守ることが大事であったわけで、そのためにそれを脅かすキリスト教の教えを広める外国人宣教師を全員国外退去もしくは棄教または死刑とする必要があり、日本人で信仰を持つ人々も、その内面の信仰を伝えてそのまま布教したりして信者を増やして組織化することが問題であっただけであり、最終的に文化として日本の中に入った隠れキシリタンの信仰そのものを問題とはしていなかったようです。まあそうは言ってもこの時期秀忠に引き継いで早速主要都市の江戸、京都、長崎の宣教師を中心としてキリスト教の大弾圧と殉教が認められ、それに倣って、棄教した元キリシタン大名などでも領内で大弾圧を行い、いわゆるキリスト教徒の大弾圧が行われました。キリスト教会は京都大坂のものは秀吉の禁教令の時代に一旦破壊され、その後再興されましたが、再び家康の禁教令で破壊されていました。秀忠は家康の死についてキリシタンの関与を疑っていた可能性があり、家康の死の直後から大弾圧を行い、長崎での大弾圧は元和の大殉教と呼ばれています。
徳川家康は天文11年12月26日(ユリウス暦1543年1月31日)-元和2年4月17日(グレゴリウス暦1616年6月1日)と生年月日でもユリウス暦で3131のシンボリズムを認め、和暦でクリスマスの1日ずれでありそもそも生年月日がはっきりしている人も少ないので、この点でも天下統一への要素があったものと思われます。秀忠は天正7年4月7日(1579年5月2日)-寛永9年1月24日(1632年3月14日)とシンボリズムは認めず、あえて言うと生年月日が5月1日の1日ずれでしょうか。和暦で747、西暦で没年月日で323などありますが、まああまりはっきりはしません。家康の子供では長男の松平信康(永禄2年3月6日(1559年4月13日)-天正7年9月15日(1579年10月5日))は生母の築山殿(生年不詳- 天正7年8月29日(1579年9月19日))の殺害と同時期に家康から切腹させられています。また次男の結城秀康 (天正2年2月8日(1574年3月1日)-慶長12年閏4月8日(1607年6月2日))は福井で越前松平家宗家となり、北ノ庄藩藩主となっており、いずれもあまりシンボリズムは認めず、秀忠が三男であったというのがシンボリズムといえばシンボリズムのようです。名前ももちろんHide Tau Darmaの意味になるのでしょうが、フランシスコ会や禅宗といっても、もちろん関東でのキリスト教布教に何らかの影響はあったのだと思われますが、秀忠の治世自体は全面的なキリスト教大弾圧の時代であり、隠れキリシタン化して禅宗などの仏教となったといえばその通りだと思われます。大久保忠隣のみが老中として秀忠を家康の後継として推挙したとあり、その後大久保忠隣(天文22年(1553年)-寛永5年6月27日(1628年7月28日))は大久保長安事件の後で京都の南蛮寺を破却した後で改易されており、家康時代のキリスト教に対する対応と、その周囲の家臣達のまたキリスト教に対する対応の複雑さと、それを引き継いだ秀忠のキリスト教に対する対応としての大弾圧と52歳での死という家康に比べると比較的早世の死を考えると、家康時代の側近であった本多正信と大久保忠世の一族のその後なども居城が相模国の玉縄城と小田原城であったことも含めて興味深く思われます。家康の子供としては督姫(天正3年11月11日(1575年12月13日) - 慶長20年2月4日(1615年3月3日))がおり、最初北条氏直に嫁ぎますが、小田原征伐後、池田輝政に嫁いでその後の大名としての池田家の元となる子供たちを生んでいます。夫の池田輝政と同じく生年でも明確な和暦のシンボリズムを認め、西暦はサンタルチアの日ですが、シラクサのルチアは3-4世紀の人だそうで、12月13日がユリウス暦での冬至であったようで、シンボリズムのようです。没年は西暦で33となっています。紀州徳川家の初代の徳川頼宣(慶長7年3月7日(1602年4月28日)-寛文11年1月10日(1671年2月19日))は没年月日で和暦で1111のシンボリズムを認めています。
この時期の幕府によるキリスト教弾圧により殉教した人としては、カルロ・スピノラ(1564年 - 1622年9月10日)がおり、イタリア人のイエズス会士であり、グレゴリウス暦改暦委員会の中心人物であったイエズス会士のクリストファー・クラヴィウスに師事した数学者、天文学者であり、マテオ・リッチもクリストファー・クラヴィウスに師事していたそうです。カルロ・スピノラは元和の大殉教の際に火刑となっています。没年は22を中心とした162291の回転対称となる、なかなか典型的ではないシンボリズムとなるようです。原胤信(天正15年(1587年)-元和9年10月13日(1623年12月4日))は幕府旗本でしたが、家康の禁教令後に潜伏キリシタンとなり、藩主によってとらえられ棄教を迫られますが拒否し、激怒した家康の命によって額に十字の烙印を押され、手足の指全てを切断、足の筋を切られた上で追放されたそうです。その後も布教活動を続けたそうですが、密告によって捕らえられ江戸で火刑となっています。ルイス・ソテロ(1574年9月6日 - 1624年8月25日)はフランシスコ会修道士であり、伊達藩と幕府による慶長遣欧使節団の正使として支倉常長と共に三陸海岸からローマまで行き、その後ローマからフィリピンに戻った後で禁教令下の長崎に上陸して捕縛され、火刑で殉教しています。中浦ジュリアン(永禄11年(1568年)ごろ - 寛永10年9月20日(1633年10月21日))は天正遣欧使節の副使でイエズス会司祭であり、潜伏して布教活動を継続している中で捕らえられ、同じイエズス会士のクリストヴァン・フェレイラ師らと共に逆さづりの刑を受けて棄教を迫られますが、中浦ジュリアンは棄教せずそのまま殉教しました。ペトロ岐部(天正15年(1587年) - 寛永16年6月4日(1639年7月4日))は歩いてエルサレム、ローマまで旅して、現地でイエズス会司祭となり、帰国して禁教令下で潜伏して布教し、長崎から東北まで布教し、その後捕縛されて江戸で腹を火で炙られ殺されたそうです。幕府の執拗な拷問により転びキリシタンとなった宣教師としては、遠藤周作の「沈黙」のモデルとなったクリストヴァン・フェレイラ(1580年(天正8年)頃 - 1650年11月4日(慶安3年10月11日))、棄教後は沢野忠庵、がおり、天文学書や医学書を日本語で書き残しています。また同様に「沈黙」のモデルとなったジュゼッペ・キアラ(慶長7年(1602年) - 貞享2年7月25日(1685年8月24日))、棄教後は岡本三右衛門、もおり、「天主教大意」という日本語の書を残して、後にジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ(寛文8年(1668年) - 正徳4年10月21日(1714年11月27日))が最後の教皇使節として日本に来てキリシタン山屋敷に捕らえられて新井白石が取り調べを行った際には、この「天主教大意」に基づいてキリスト教についての問答を行ったそうです。転びキリシタンについては信仰自体は持ち続けていた可能性があるとの事です。新井白石(明暦3年2月10日(1657年3月24日)-享保10年5月19日(1725年6月29日))は将軍家宣、家継の時代の旗本であり、政権を担った幕閣であり儒学者ですが、生年月日が林羅山の没年月日とほぼ同時期であり、明暦の大火の時期であります。名前に明確なシンボリズムを認めます。殉教者の多くが火刑になったりしていて、最終的には火葬され、また転びキリシタンもほとんどが火葬されているわけですが、一方で徳川将軍家、天皇家が明確に土葬にされているのがこの時代の特徴かもしれません。
徳川家光の時代は典型的な江戸幕府の制度が成立した時代として、参勤交代の成立と鎖国の成立があり、日光東照宮の大規模な改修などがあるわけですが、15代続く徳川将軍の3代目で光という最高のシンボリズムを仰ぐ名前という事で、生没年月日では慶長9年7月17日(1604年8月12日)-慶安4年4月20日(1651年6月8日)とあえて言うのであれば生年月日の和暦の717、没年月日の和暦の5の倍数程度という事になるようです。西暦であえて言うと、生年月日のイエズス会の結成日の3日ずれという事なんだと思います。光はフリーメイスンリーでは3つの光で有名ですが、創世記では「光あれ」とあり、そもそもの一神教の成り立ちのアテン神が光の意味であったとあり、明の太陽と月のさらに一神教を強調したようなシンボリズムが光となり、Gのシンボリズムに近いかもしれません。家光でイエズスにも半分かかっており、将軍家が諱で家を継いだのが、2代将軍秀忠、8代将軍吉宗、15代将軍慶喜以外全員であり、イエズス会の名前としての部分の家であり、またそれ以外の二人のヨシはもちろんヨシュアの名前であると思われ、明確にイエズス会が作り上げた徳川時代という象徴なのかと思われます。さてまあその家光時代なわけですが、何はともあれ鎖国という事で、島原の乱なわけです。上述のように幕藩体制維持のためにはキリスト教禁教が絶対的であったわけで、神君家康や天孫降臨や班田収授など様々な日本の逸話をもってしても、日本には王権神授説に相当するような、キリスト教と絶対王政や封建制を結びつける思想は無く、また吉田神道にしても比叡山延暦寺にしても、キリスト教のもたらした数々の知恵を習合して新たな日本の支配体制に結びついた教えとして改変することしかなかったわけで、現代のアメリカのもたらしたITの東アジアでの実際の運用と全く同じようなことがこの時代もあったわけであり、その帰結として多数の日本人潜伏キリシタンが残る時代には、外国人宣教師が予言していた、恐らく予定していて、計画されていた通りに、天草四郎時貞を中心とした島原の乱があったわけです。島原の乱で象徴的であるのは参加者全員が殺されて、唯一内通者であった南蛮絵師の山田右衛門作一人が生き残り城内の様子を全て伝えた事と、ポルトガル船の救援を待った乱軍に対してオランダ船が砲撃してその後のポルトガル船の来航が中止され、長崎出島でのオランダ商館での鎖国体制が成立したことで、この直後のカピタンに日本人妻を持ちオランダに亡命したフランス人ユグノー教徒のフランソワ・カロンが就任し、その後フランソワ・カロンがフランス東インド会社設立を依頼され長官となり、帰国の途上でポルトガル沖で沈没して亡くなったのが、まさにフリーメイスンリーへの流れを説明する逸話だと思われます。島原の乱は寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結とされていて、和暦での5の倍数の日付での開始や、終結の和暦での22、西暦での復活祭8日後の3の倍数など、シンボリズムはあるかと思いますが、その経過は全く大坂の陣と酷似しており、そもそももともとの統治者であった松倉重政は苛政を行う事のみならず、キリシタンの根拠地としてフィリピンマニラの遠征を計画していたとあり、もともと松倉家は筒井順慶の家臣であったとあり、筒井順慶が興福寺の門徒の武士化した戦国大名の家系であったそうで、そういう戦国時代から引き続く、織田信長の延暦寺焼き討ちや、松永久秀の東大寺大仏殿の焼き討ちといった、具体的な仏教寺院の破壊とも関連した宗教対立がそもそも根底にはあった可能性があります。いずれにしても小西家や有馬家の旧臣のキリシタンを含んだ、女性や子供を含む農民が中心の一揆軍の総勢37000人の全員が殺されたとあり、幕府軍の死傷者も数千人に及んだとあり、単純に合戦の形態や政治や権力の状況などを考慮せずとも、日本史上最大の内乱であることは間違いなく、その与えた影響は大きく、その後の幕府のキリシタン政策や、日本人の宗教観そのものにも最も影響を与えているかと思われます。島原の乱に関するフリーメイスンリー的な秘密の内容は私は全く知りません。ただ言えることは、ポルトガル船貿易から決定的にオランダの出島への貿易に変更されたのがこの事件であり、当時オランダはまだスペインやオーストリアと連合したハプスブルグ帝国の一部であり、カトリックからの自由を求めてカルバン派がオランダ独立戦争を継続している最中であり、ポルトガルはすでにスペインの一部となっている時代であり、島原の乱におけるポルトガル船に対する援助の期待と、オランダ船の砲撃の様子は完全にヨーロッパの政治としてはハプスブルグ帝国の内部の話であったわけで、まさに東洋の異教の中で独立を求めて闘争するカトリック教徒の集団は、逆にカトリック王国の中で独立を求めて戦うオランダと全く正反対であったわけで、カトリックが島原の乱に援助して、日本をカトリック国にする流れがあったのであれば、そもそもオランダが宗教改革で新教国となることはなかったわけで、それ自体がいわゆるカトリック→プロテスタント→フリーメイスンリーという歴史の流れそのものに逆行したものであるという話でしかないのだと思われます。ちなみにポルトガルは1640年の島原の乱から2年後にクーデターにより王政復古してスペインから独立し、その後の王となったジョアン4世は清教徒革命を為したイギリスのクロムウェルと条約を結んだりしています。明らかに日本でのキリスト教の布教はヨーロッパ大陸での政変を促し、カトリックからプロテスタント、フリーメイスンリーへの流れを後押ししているのですね。ちなみに島原の乱で天草四郎が軍旗として使用していたのが、いわゆる聖杯をモチーフとしたものであり、当時のヨーロッパでの聖杯伝説の高まり、テンプル騎士団からの近代フリーメイスンリー成立への流れを象徴しているものでもあります。もちろん直接的には聖体拝領の聖杯(カリス)を意味するものであり、ミサで神父が飲み干すワインのカップであり、イエスの血を皆がわけ与えられる盃の象徴です。天草四郎の性別などは関係なかったと思われますが、いわゆるダヴィンチ・コードでの子宮を意味するシンボリズムでしょうか。儀式を通してイエス・キリストの血と体を信徒が分け合う事を行うミサの象徴であり、島原の乱自体がそうしたキリスト教徒の殉教を通して、その死が後世に伝えられ、江戸時代の隠れキリシタンを含んだ民衆の生活の改善や向上が図られることを意図したものであったという意味なのだと思われます。
島原の乱後は天草領には山崎家治が入部して三年後丸亀に移り、丸亀城を築城しています。天草領はその後天領となりました。雲仙地域ではその後雲仙の地獄炊きなど特に松倉氏の治世の時代の厳しいキリシタン取り締まりの逸話の伝承と考えられるものがありますが、キリシタン達の実力行使であった島原の乱以降は取締自体はあったようですが、内容は明らかにそれ以前から比べて緩くなり、隠れキリシタン自体はその後命脈を保ち、明治維新での隠れキシリタンの再発見に繋がるようです。新井白石によればこの時代のキリシタンの取り締まり自体で、約10-20万人のキリシタンが殺されたとあり、最盛期におよそ100万~200万人いたとされる日本人のキリスト教徒のうち1割ほどが殺されたと考えられ、その他の人々は隠れキリシタンとなり、その信仰は代々受け継がれて日本文化そのものとなり、明治維新で再び信仰の自由が保障されて潜伏キリシタンとしてカトリックやキリスト教に入信する子孫がいたり、そのままキリスト教自体が忘れられたものとなったりしているようです。雲仙地域では明治維新後はブラザーグラバーの子供である倉場富三郎が雲仙ゴルフ場を開設して、日本で二番目のカントリークラブとして現在まで存続しています。また平成時代では雲仙普賢岳の噴火がありました。現在島原城は隠れキリシタン時代の遺物を展示する博物館となっています。また天草切支丹館には上述の重要文化財である天草四郎陣中旗のレプリカが展示してあるそうです。
さて、日本のキリスト教伝道は島原の乱で一旦終息して、その後の時代は再びキリスト教の宣教師が直接関わったわけではないシンボリズムが認められるようになる、隠れキリシタンの時代となるわけですが、まあ実際上はイエズス会領であった時代から引き続いてオランダが領事館を置いた長崎出島が確固たるキリスト教、フリーメイスンリーの拠点となり、隠れキリシタンの時代からさらに明治維新へと時代を導いていくのかと思われます。それでまあ元号をテーマとして書いていてずっと放ってあった天皇家のシンボリズムについてですが、正親町天皇以降について見ていこうかと思います。後陽成天皇(第107代天皇1571年12月31日(元亀2年12月15日) - 1617年9月25日(元和3年8月26日))はちょうど豊臣秀吉の天下統一が一緒の時期であり、まあ世の中景気がいい時ではないですが、ご本人が色々画策したとかそういうことは少なかったようですが、朝廷権威は戦国時代に比べて格段に向上し、47歳とそれ以前とそれ以後に比べると比較的短命ではありますが、最後も火葬であったなどもありますが、子供は非常に多く、在位も天正14年11月7日(1586年12月17日) - 慶長16年3月27日(1611年5月9日)と和暦でシンボリズムを刻んであるようで、意図して和暦で行った時代なんだと思います。ただ生没年月日が西暦で大みそかと、3の二乗と5の二乗の日付になっているのは恐らくキリスト教的なシンボリズムと思われます。後水尾天皇(第108代天皇 1596年6月29日(文禄5年6月4日) - 1680年9月11日(延宝8年8月19日))は西暦で没年月日でシンボリズムを認め、生年月日の和暦の6月4日もまた延暦寺開祖の最澄の没月日であり、これもシンボリズムと思われます。在位も1611年5月9日(慶長16年3月27日) - 1629年12月22日(寛永6年11月8日)とまあ日付は選ぶわけですが、何より昭和天皇にコメントされた通り、歴代天皇の中で記録のある中で最長寿の84歳という事で、キリスト教伝道による最大の効果として天皇の寿命の延長を認めているものかと思われます。この時代は子女もとにかく多いこともそうなんですが、桂離宮(1615年頃-1662年、智仁親王の建設で始まる、後水尾天皇の叔父、その後後水尾法皇で完成)と修学院離宮(1653年- 1655年、後水尾上皇の時代に上皇の指示で建設)が建設されており、皇室の政治機能は江戸幕府によって失われているわけですが、文化活動としては比較的潤沢な予算があったと思われ、そうした今に残る王朝文化の建築が認められます。特に桂離宮は隠れキリシタン灯籠とされる織部灯篭の数も多く、キリシタンから伝来した文様とされる、白黒の市松模様や、船を模した茶室、島津氏より送られた蘇鉄、真行草とされる、三段階の踏み石の表現など、各所にキリシタン伝来のシンボリズムを元とした意匠が施されており、この時期の日本のキリシタン伝来のシンボリズムに基づいた王朝建築として白眉であると思われます。修学院離宮にはわざわざ湯河原吉浜の海岸の石が使われており、石垣山城建築と江戸城建築に関わった石工の由来に掛かっているものと思われます。まあこれだけ長生きの天皇も歴代いなかったわけで、時代も変化が大きかったことが伺えるわけですが、その後の明正天皇(第109代天皇1624年1月9日(元和9年11月19日) - 1696年12月4日(元禄9年11月10日))は後水尾天皇の第二皇女の女帝という事で、シンボリズムも和暦でかなりはっきりあり、91119と回文数であったりするわけですが、在位も1629年12月22日(寛永6年11月8日) - 1643年11月14日(寛永20年10月3日)と西暦でシンボリズムがあるようで、まあ島原の乱や激しいキリスト教徒の取り締まりの時代に、キリシタンの恩恵を受けて天皇家はキリシタン文化を享受していたというそういう様子の中で、政治的実権を持たないうっぷんもあって、徳川家の外孫にあたる7歳の娘に譲位したという話だそうで、日本史上では859年ぶりの女帝であったとの事です。即位しても何ら権限は持たないまま21歳でまた譲位したとの事で、その後出家して74歳まで生きたとあり、まあ色々政治と関わると大変のようです。元号としてはザビエル来日後から天文、弘治、永禄、元亀、天正、文禄、慶長、元和、寛永とあり、天のつくものは天守閣と同じで、天主につながるものと思われ、また天文自体はその後の天文学などとの関連で明らかにシンボリズムと思われます。弘法大師の弘やナガに繋がる永、長、仏教の心得に繋がるのか寛容の寛は仏教系のシンボリズムととらえられます。元は中国の元の建国もあり、Gにもかかるので一部キリスト教系のシンボリズムがあるものと思われます。
それで将軍家としては四代家綱(寛永18年8月3日(1641年9月7日)-延宝8年5月8日(1680年6月4日))の時代になるわけですが、あまり回文数のシンボリズムは認めず、40歳で急死したとあり、没年月日の西暦の6月4日はシンボリズムなんだと思われます。治世では由比正雪の乱などあったりしますが、シンボリズムを認めず、計画の段階で露見しているところなど見ると、キリシタンは関係なさそうです。最大の出来事は明暦の大火(明暦3年1月18日-20日(1657年3月2日–4日))と思われます。江戸城天守閣を焼き、その後再建なされなかったものであり、出火原因は不明ながら江戸の数か所から断続的に発火しており、放火の疑いが有力で、被害は数万人~10万人とあり、日本史上最大の災害となるようです。西暦の3月3日周辺であり、また明暦3年であることがシンボリズムのようです。その後9年で1666年にロンドン大火が起こっていることが、歴史の偶然ではなく必然であるようで、こちらは公式の死者は5人との事ですが、セントポール大聖堂が全焼して現在の形にブラザークリストファー・レンの設計で再建された、いわゆる「驚異の年」の出来事となります。明暦の大火については恐らく大坂夏の陣、島原の乱で数多く亡くなったキリシタンの復讐の意味もあるのではないかと思われます。将軍家綱の名前も、イエズスの家もあるわけですが、綱はやはりフリーメイスンリーのシンボリズムでもあるのですが、そもそも禁制前のフランシスコ会のキリスト教会の組織で「帯紐の組 Cofradía de Cordón」というのがあり、信徒の繋がりを示す紐なわけですが、この家綱、綱吉という第四代、第五代将軍はそういう、キリスト教のシンボリズムを強調した名前となります。五代綱吉(正保3年1月8日(1646年2月23日)-宝永6年1月10日(1709年2月19日))は生年月日で和暦で公現祭でしょうか。西暦の22のシンボリズムもあるようですが、没年月日がやはり和暦で611のようです。綱吉といえばなんといっても生類憐みの令なわけですが、そもそも舘林藩の大名をやっていて、兄の家綱の養子となってすぐに兄の急死で将軍となっており、まあ色々素質を認められて将軍となっている模様です。父親の家光に徹底的に儒学を叩き込まれていたため、文治政治と呼ばれる儒教道徳に基づいた政治を行い、新井白石や荻生徂徠(寛文6年2月16日(1666年3月21日) - 享保13年1月19日(1728年2月28日))という儒家を生み出しています。荻生徂徠は回文数での明確なシンボリズムを認めており、綱吉の側用人の柳沢吉保(万治元年12月18日(1659年1月10日)-正徳4年11月2日(1714年12月8日))に取り立てられたとあり、こちらもシンボリズムを認め、舘林藩でのキリスト教徒の関連があるのかと思われます。柳沢吉保の名前のYの字が多いのもシンボリズムかもしれません。綱吉の時代のシンボリズムの出来事と言えば最大のものがいわゆる大石内蔵助の討ち入りで知られる、忠臣蔵の赤穂事件であり、江戸城松の間での浅野内匠頭の吉良上野介への額への一太刀から始まる一連の赤穂浪士四十七士の討ち入りのクライマックスでの元禄15年12月14日 (1703年1月30日)の和暦の日付が、旧約聖書のエステル記のモルデカイが復讐する日であり、いわゆるユダヤ人絶滅をはかったペルシアの宰相のハマンがユダヤ人絶滅をはかろうとして逆に殺されてしまった日という事であり、その他にも旧約聖書由来と考えられる江戸時代の逸話としては大岡政談の子供を二人の母親が引っ張り合う、ソロモン王の逸話に由来する話が有名ですが、復讐の話として聖書には少ない日付の記述があるエステル記の逸話の日も江戸時代の復讐の実話の日に重ねあわされているようです。復讐法は古代バビロニア法の基本であり、聖書にも認められる基本的なものであり、その基本から発展したのが、キリストの愛であり、そういう教訓に基づく逸話なのだと思われますが、黒田如水などの由来も深い可能性がある赤穂藩という関連もあるものと思われます。黒田藩への何らかのメッセージとすれば、旧約聖書の原本なりが日本にあった可能性もあるかと思われます。「生類憐みの令」は儒教道徳に基づくものとの事ですが、聖書の由来はちょっとわかりませんが、フリーメイスンリーでもブラザーウィリアム・ホガースの絵などで、動物虐待の風刺画などがあり、人文主義の前提として動物愛護の精神の啓発というのが一つの手法としてあるようです。綱吉の時代にはその他にも現在の日本の伝統となる「七五三」の風習の成立などもあり、奇数の年齢の設定はキリスト教の数秘術に基づいているものと考えられ、特に先代の明暦の大火の3月3日の逸話に倣っていると考えられます。綱吉の治世後期は元禄地震(元禄16年11月23日(1703年12月31日)午前2時ごろ)、宝永地震(宝永4年10月4日(1707年10月28日))、富士山噴火(宝永4年11月23日(1707年12月16日))と天災と飢饉大火に見舞われたとの事です。宝永地震、宝永噴火の2年後の宝永6年1月10日(1709年2月19日)に成人麻疹(はしか)で64歳で亡くなったとの事です。宝永地震、宝永噴火は共に17071の回文数を認めます。綱吉の時代は元禄文化とも呼ばれる時代であり、松尾芭蕉の俳諧や井原西鶴の小説、近松門左衛門の歌舞伎・人形浄瑠璃の作品、歌舞伎の成立、人形浄瑠璃の成立、落語の成立、絵画では尾形光琳、土佐光起、菱川師宣、陶工の尾形乾山、円空仏の円空、色絵焼き物の野々村仁清、小石川後楽園や六義園、芝離宮や浜離宮、貝原益軒の養生訓、徳川光圀の大日本史などがあり、これらがこの時代のものだそうです。すなわち前々章でも触れたような江戸時代の隠れキシリタン文化の基礎はこの綱吉の時代に最初に花開いたものと思われます。
さてここで長くなったのでまた章を切ります。現実社会ではもう平成の次の新元号も決まって発表を待っている段階のようですが、なかなか平成まで行き着きませんね。
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