2019-03-30 16:07 | カテゴリ:明治・大正・昭和・平成
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
改元のこの時期に江戸時代をフリーメイスンリーで見ていくというのもなかなかの内容なわけですが、まあキリスト教的にも日本の文化的にも、大いに意義深いわけですが、如何せん今流行の一次資料で見る近現代史でもないわけで、具体的に言うと元号と暦で見る数秘術の日本史とでもいった内容となるわけで、まあ良くて月刊「ムー」の記事といった内容と思われがちですが、まあ身近なフリーメイスンリーというところでは非常に意義深いかと思われ、継続していきます。
まあ将軍家は東照宮建築くらいがクライマックスで、後は怠惰と閉塞と淫蕩の封建制に入っていくという、カトリック的な展開を見守るオランダ商人という感じで、それに対して文化的に完全に隠れキリシタン化して雌伏する朝廷勢力といったところで、シンボリズム的には後者の方が明らかに際立つ江戸時代の天皇家を先に見ていくこととします。
明正天皇の次代が後光明天皇(1633年4月20日(寛永10年3月12日) - 1654年10月30日(承応3年9月20日)第110代天皇(在位:1643年11月14日(寛永20年10月3日) - 1654年10月30日(承応3年9月20日)))と後水尾上皇の院政時代なんですが、10歳で即位して21歳で天然痘で亡くなるという絵にかいたような傀儡で、まあ父親は84歳まで生きたとあり、追号で明確なシンボリズムなんですが、朝廷側の権力の衰退を象徴している状況でもあるようです。後西天皇(1638年1月1日(寛永14年11月16日) - 1685年3月26日(貞享2年2月22日)第111代天皇(在位:1655年1月5日(承応3年11月28日) - 1663年3月5日(寛文3年1月26日)))はかなり生没年月日のシンボリズムがはっきりしていて、何代というところもあるのかと思いますが、まあ子女は非常に多いわけですが、恐らく収入は旗本から小大名程度であったと思われ、離宮の建築などで多く支出して徐々に金銭的に困窮がはっきりしてくるような様子がうかがえる時期でしょうか。この天皇でやっと後水尾天皇の死後5年での没年月日との事で、崩御の死因はウィキペディアにはありませんが、和暦で2のシンボリズムが明確であり、47歳とありまあ政治がらみなんでしょうねえ。霊元天皇(1654年7月9日(承応3年5月25日) - 1732年9月24日(享保17年8月6日))第112代天皇(在位:1663年3月5日(寛文3年1月26日)- 1687年5月2日(貞享4年3月21日)))とここまで皆後水尾天皇の子女という事で、譲位が多いわけですが、78歳まで生きたとあり、とにかく子女は多く、キリスト教の布教によって生産性は一気に上がったんでしょうが、朝廷の政治体制自体は極めて旧体制を引きづっていて、その結果実権を失っていたため、急速に貧窮していったというのが分かる状況でしょうか。生年月日の和暦の5の倍数はカトリック的のようです。東山天皇(1675年10月21日(延宝3年9月3日) - 1710年1月16日(宝永6年12月17日))第113代天皇(在位:1687年5月6日(貞享4年3月25日) - 1709年7月27日(宝永6年6月21日)))の代で霊元天皇の子供となり、後水尾天皇の孫となって初めてやっと子女の数が減り、時代も宝永などあって、慶長文化の余韻が変わる感じでしょうか。朝儀復活や王政復古運動があったとあり、元禄文化に重なるわけですが、和暦の393のシンボリズムや没年月日の西暦の116などありますが、在位期間のシンボリズムが明確でないなど、キリスト教文化から明確に隠れキリシタン時代に入ったそういう変化があるようです。死因は天然痘で34歳であったとあり、明暦の大火後の封建制の時代というキリシタンを直接的に知らない時代という感じのようです。中御門天皇( 1702年1月14日(元禄14年12月17日) - 1737年5月10日(元文2年4月11日))第114代天皇(在位:1709年7月27日(宝永6年6月21日) - 1735年4月13日(享保20年3月21日)))は生年で114のシンボリズムで、没年では5の倍数であるなど何やらシンボリズムを感じさせますが、在位期間では和暦の3の倍数などとなっており、色々シンボリズムの試行錯誤が感じられるものですが、面白いのは在位中に将軍吉宗に献上されたベトナムの象を宮中で拝謁していることと、巳年生まれで、崩御したのが巳年巳月巳日巳刻であったという事で、いわゆる信長のところであった仏教のナーガのシンボリズムのリバイバルがあるという事でしょうか。中御門の中がナーガに掛かっているものと思われます。子女も少し増えた印象です。桜町天皇(1720年2月8日(享保5年1月1日) - 1750年5月28日(寛延3年4月23日))第115代天皇(在位:1735年4月13日(享保20年3月21日) - 1747年6月9日(延享4年5月2日)))は和暦で生年月日のシンボリズムがはっきりしていることと、それ以外はあまりない、退位が西暦で69くらいでしょうか。追号がその後引き続く、桃園、後桜町、後桃園と桃と桜の4代なわけですが、この時期の明確な政治の変化としては八代将軍吉宗による享保の改革があり、その主要な政策の一つに隅田川の桜に象徴される花見の為の桜の植樹があり、その影響があるものと思われます。脚気で30歳で亡くなったとあり、政務より蹴鞠を好んでいたとあり、まあ太平の世で隠れキリシタン文化も浸透し、鎖国の体制の一部見直しなどもあり、朝廷自体が没落貴族の様相を呈していた模様でしょうか。桃園天皇(1741年4月14日(寛保元年2月29日) - 1762年8月31日(宝暦12年7月12日))第116代天皇(在位:1747年6月9日(延享4年5月2日)- 1762年8月31日(宝暦12年7月12日)))は桜町天皇の第一子で生年月日に明確な41414という回文数のシンボリズムを認め、突然としてキリスト教に回帰したようなあれですが、6歳で譲位されて即位して、22歳で亡くなるというまあだいぶ過激な感じですが、在位中に朝廷で尊王論者が弾圧される宝暦事件というのがあったという事で、一方的に衰退の方向にあった朝廷側の明治維新に繋がる王政復古の運動がこの頃にはあったようで、そのきっかけがやはりこうした桃園天皇の明確なシンボリズムと関係あるようです。後桜町天皇(1740年9月23日(元文5年8月3日) - 1813年12月24日(文化10年閏11月2日)第117代天皇(在位:1762年9月15日(宝暦12年7月27日)- 1770年5月23日(明和7年4月28日)))は桜町天皇の第二皇女で、桃園天皇の宝暦事件の渦中での急死の後で急遽中継ぎとしてまたまた女帝として即位したそうで、江戸時代中の二度の女帝の即位は完全に幕府に対する宥和政策としての女帝であるようです。没年月日の西暦だけクリスマスイブと明確にシンボリズムが刻まれていて、73歳となかなかの長寿であるという事が、何とも際立つ感じでしょうか。上皇時代に天明の飢饉の際に御所の周囲に集まった人々に3万個の和リンゴを配ったとあり、没年月日のシンボリズムの由来のようです。後の尊王運動に繋がるようです。後桃園天皇(1758年8月5日(宝暦8年7月2日) - 1779年12月6日(安永8年10月29日)第118代天皇(在位:1770年5月23日(明和7年4月28日) - 1779年12月16日(安永8年11月9日)))は桃園天皇の第一皇子であり、11歳で即位しますが、病気がちであったとあり、幕府による朝廷による介入の安永の御所騒動などもあり、22歳で崩御しています。生年月日が西暦で明確な5885の回文数ですが、没年月日はシンボリズムを認めません。まあ江戸幕府開府以来一時的に強まった朝廷の権威も実権がないことから徐々に衰退して、享保の改革後は一方的に衰退している状況が明確かと思われますが、その一方で、時代は近代フリーメイスンリー結成の時代であり、後桃園天皇時代はすでにヨーロッパはブラザーモーツァルトの時代であり、桜や桃、リンゴなんてのがありましたが、明確な西暦でのシンボリズムが認められるようになっており、これには明確に長崎出島にカピタンとしてやってきていた歴代オランダ領事のブラザーイサーク・ティチング(1745年1月10日-1812年2月2日)らの影響が垣間見えるかと思われます。元号では正保、慶安、承応、明暦、万治、寛文、延宝、天和、貞享、元禄、宝永、正徳、享保、元文、寛保、延享、寛延、宝暦、明和、安永ととにかく改元が多く、シンボリズム的に明確なのが明暦くらいしかなく、明や天、暦、元といったシンボリズムに繋がるものが頻度が少ない感じでしょうか。隠れキリシタン文化の真骨頂ともいえますが、まあ時代的には表面上は仏教の時代なのですね。逆説的に言うとシンボリズムを意識していたので改元が多いともいえるのかもしれません。
375px-Emperor_Go-Kōmyō375px-Emperor_Go-Sai.jpg1024px-Emperor_Reigen.jpg800px-Emperor_Higashiyama.jpg800px-Emperor_Nakamikado.jpgphoto_2.jpg800px-Emperor_Sakuramachi.jpg1280px-Sakuramachi_Emperor_Poems.jpgasukayama2.jpg6a00cd971aa3d04cd500cd971dd2134cd5.gif1024px-Emperor_Momozono.jpgEmpress_Go-Sakuramachi.jpgapple5.jpg800px-Emperor_Go-Momozono.jpgorandasyougatu2.jpg800px-Père-Lachaise_-_Division_39_-_Titsingh_02
さてこの後が江戸時代の天皇家では最もシンボリズムが強いと思われる光格天皇(1771年9月23日(明和8年8月15日) - 1840年12月11日(天保11年11月18日)第119代天皇(在位:1780年1月1日(安永8年11月25日) - 1817年5月7日(文化14年3月22日))となります。第119代というのもポイントなのだと思われますが、生年月日の和暦の8月15日のイエズス会の結成日である聖母の被昇天の祝日というのもあるようです。やはりイエズス会の影響が大きいのですね。没年月日の和暦の天保11年11月18日というのも、すでにイルミナティ創設者のアダム・ヴァイスハウプトが1830年11月18日に亡くなっており、ちょうど10年後ですが、明暦の大火よろしくそれに合わせたシンボリズムで問題ないと思われます。明治維新のストーリーはすでにこの時点で始まっているとシンボリズムでは認めるわけです。69歳で亡くなり、ゴローニン事件にも関心が高く、終始朝儀の復興に熱心であったという事であり、追号のシンボリズムと生没年月日のシンボリズムが示す通り、将軍家の徳川家光に倣った江戸時代最後の孝明天皇の三代前の明治維新に繋がる王政復古前三代の天皇なのだと思われます。この時期の徳川将軍家の11代将軍徳川家斉(安永2年10月5日(1773年11月18日)-天保12年閏1月7日(1841年2月27日))の西暦での生年月日が11月18日であるのも何か関連がありそうです。仁孝天皇(1800年3月16日(寛政12年2月21日) - 1846年2月21日(弘化3年1月26日)第120代天皇(在位:1817年10月31日(文化14年9月21日) - 1846年2月21日(弘化3年1月26日)))は孝明天皇の父親で生年月日で和暦の12221のシンボリズムを認めますが、やはり和暦であるというのが光格天皇と共通であるようです。蘭学の隆盛などがあるわけですが、キリスト教自体が完全に禁制令の下で隠れキリシタンとなり西暦のシンボリズム自体が日本では失われてしまっていた、そういう印象でしょうか。シンボリズム自体の翻訳が行われているような感じだと思われます。そうはいっても、まあどちらも西暦でチラホラとシンボリズムは認めるのが、この日付のシンボリズムの妙ではあります。仁孝天皇の時代に学習院が創設されたそうです。そして幕末の動乱といえば孝明天皇(1831年7月22日(天保2年6月14日) - 1867年1月30日(慶応2年12月25日)第121代天皇(在位:1846年3月10日(弘化3年2月13日)‐ 1867年1月30日(慶応2年12月25日))というわけで、天然痘でまさに和暦のクリスマスに亡くなるという、明治維新の意義、それはまさに信教の自由の日本での保障であったという事なのだと思われますが、第一義的にそういう事であるというシンボリズムでしょうか。元号では天明、寛政、享和、文化、文政、天保、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応となじみのある元号が増えるわけですが、文化や天のつくもの、そして維新期に入って改元が連発するなども時代を反映しているものと思われます。
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さてでは時代を再び遡って実権を持っていたとする将軍家の第6代将軍家宣(寛文2年4月25日(1662年6月11日)-正徳2年10月14日(1712年11月12日))ですが、生年月日で西暦で明確な611のシンボリズム、没年月日では西暦で21112と回文数のシンボリズムを認め、43歳で綱吉の養子となり、48歳で将軍に就任して、50歳で亡くなったそうで、6代という徳川幕府と縁のある6という数字の代でもあり、なかなかシンボリズムに富んだ、一般には綱吉の悪政を改めたとされることが多いややマイナーな将軍でありますが、5代というカトリック的なところからの反動的なフリーメイスンリー的なシンボリズムのようです。短い統治期間ですが側用人として間部詮房(寛文6年5月16日(1666年6月18日)-享保5年7月16日(1720年8月19日))、新井白石を登用して、主に正徳金銀の発行などの財政改革を行ったとあり、いわゆる貨幣の改鋳ですが、その際に勘定奉行として荻原重秀(万治元年(1658年) - 正徳3年9月26日(1713年11月13日))が重用されたとあり、まあ間部詮房などは名前でも曲直瀬道三以来のマナのシンボリズムなわけですが、生年月日が166661というなかなかすごい回文数であり、また新井白石に憎まれた貨幣改鋳を行った荻原重秀も没年月日で31113と明確な回文数を認めており、この時期に新井白石が1709-1714年と最後の教皇使節のジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティの取り調べを行っており、いかに金銀の貿易での流通が日本でのキリスト教布教の使命の一つであったかが伺われるシンボリズムの事例であり、オギワラの名前のシンボリズムはちょっとわかりませんが、貨幣改鋳によってインフレーションが発生して元禄文化は終焉したそうです。現代の日銀総裁のシンボリズムのようでもあります。(インフレによるか、デフレによるかの議論があるようです。)
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7代家継(宝永6年7月3日(1709年8月8日)-正徳6年4月30日(1716年6月19日))になると生没年のシンボリズムはなかなか認めるわけですが、4歳で将軍になって、6歳で早世するという、まあ実権も何もないと、北条氏の執権職みたいな武家政権のいつもの形になっていて、間部詮房と新井白石がそのまま実権を握っていて、新井白石は荻原重秀の行った貨幣改鋳の是正を行って、まあ元禄文化の終焉となったとあり、バブル経済の総量規制みたいなものでしょうか。間部詮房は独身で大奥と関係が深かったとかあり、まあ貴族政ではないですが、朝廷と同じく将軍独裁ではなく、大奥や周辺の茶坊主など結局そういう権力周辺の合議制になっていくというのが、まあ封建制の政治形態なわけです。
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それで合議制で大奥などの後押しで8代将軍に就任したのがかのテレビで有名な暴れん坊将軍こと徳川吉宗(貞享元年10月21日(1684年11月27日)-寛延4年6月20日(1751年7月12日))です。紀州徳川家2代の4男という事で、湯屋番の娘にお手付きして生まれた子供という事で、通常であれば藩主になる可能性すらないわけですが、父親も兄たちも皆早世して、22歳で運よく藩主となり、10年の地方藩主の経験を積み重ねて後の32歳の時点で、家継の急死で急遽運よく8代将軍になったという、まるで現代日本の地方知事から運よく首相になるようなそういう出来過ぎた話であるわけですが、明確なシンボリズムもなく、関西の高野山の麓であり、色々人間性で選ばれたというのが本当のようです。政治としては目安箱の設置や大岡忠相の任命、江戸火消しの設置や小石川養生所の設置など、いわゆる享保の改革としてテレビでも有名な政治を行い、その後1745年には息子の恐らく脳性麻痺であった家重(正徳元年12月21日(1712年1月28日)-宝暦11年6月12日(1761年7月13日))に将軍職を譲り、大御所政治を行っていましたが、翌年の1746年に脳卒中の発作を起こし、1751年には脳卒中の再発作で亡くなったとの事です。米将軍とも呼ばれ、米相場の安定を図り、倹約と増税を行って、農民一揆は頻発したとあり、必ずしも庶民にとって善政であったわけではなさそうですが、江戸町民の人気は高かったようで、ベトナムからの象ブームや花見の桜植樹、蘭学ブームなど、ブームを巧みに利用したようで、貨幣の改鋳などで好景気も演出したりと何やら現代政治に繋がるところも大いにありそうです。全体的には高野山真言宗の影響が強かったのでしょうねえ。吉宗という家のつかない名前がそれだったようです。8代の復活の数字と、八正道の交わりがそれなのでしょうねえ。小石川養生所などはキリスト教の主要な政策の徳川幕府での初めての実現ととらえることが出来そうです。
そしてこれは完全に追記ですが、享保の改革の頃に薩摩芋の普及を行い、甘藷先生と呼ばれた青木昆陽(元禄11年5月12日(1698年6月19日) - 明和6年10月12日(1769年11月9日))も生年月日で619の回転対称、没年月日で69の回転対称と9119の回文数を認めています。薩摩芋の日本での栽培についてはイギリス商館長のリチャード・コックスによる平戸での記録があるようです。
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9代将軍家重は言語不明瞭で側用人の大岡忠光のみが言葉を聞き取れたとあり、長男の家治(元文2年5月22日(1737年6月20日)-天明6年8月25日(1786年9月17日))が聡明であったので、1760年に将軍職を譲って、一応大御所政治となったようです。頻尿で小便を漏らしていたとあり、遺骨も歯ぎしりの跡が明確であるなど、脳性麻痺の疑いが強いですが、この人の最大の功績は江戸時代中の悪名高き田沼意次(享保4年7月27日(1719年9月11日)-天明8年6月24日(1788年7月27日))を老中として取り立てた事であり、明確に生没年月日で西暦、和暦で1991、911、6月24日、7887、727のシンボリズムを認め、田沼意次の政治自体が長崎のオランダカピタンの意向を汲んだものであった可能性が高いと思われます。死因は排尿障害からの慢性腎不全ではないかと考えられているようです。10代将軍家治は田沼意次に政治を任せて、自身は将棋など趣味に傾倒していたようですが、田沼意次は印旛沼の干拓など行い、これはスコットランドのインバネスの地名にかけているのではないかとも思われますが、とにもかくにも記録のある来日した最初のフリーメイスンであるブラザーイサーク・ティチングと謁見したのが家治であるという事で、次代の家斉の時代の化政文化の元となる基盤を作ったわけであり、まあ無茶なことはしなかったという事だと思われます。家治の死と同時に田沼意次も失脚しますが、田沼意次の暗殺説もあるそうです。
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11代将軍家斉(安永2年10月5日(1773年11月18日)-天保12年閏1月7日(1841年2月27日))はまあはっきりと西暦でシンボリズムを認めて、和暦でも5の倍数の生年月日と公現祭にあたる没年月日と、如何にもカトリックという感じのシンボリズムを認めるわけですが、イルミナティのアダム・ヴァイスハウプトは将軍就任時の1787年にも健在で、イルミナティの結成自体はアメリカ建国と同じ1776年ですので、まあ数秘術ありきで、家斉の様子はハプスブルク家のブラザーフランツ1世と同じようなものであったとか、色々あるのかもしれませんね。ちなみにハプスブルク家の全盛期を演出したマリア・テレジアの夫であるブラザーフランツ1世は生没年月日が1708年12月8日-1765年8月18日と何やら釈迦の成道会と最澄の生誕日と仏教の記念日二つと重なるようです。ヨーロッパの政治にイエズス会のキリスト教布教が影響を与えている様子がうかがえるでしょうか。御三卿の田安家から養子に出ていて将軍になれなかった白河藩の松平定信(宝暦8年12月27日(1759年1月25日)-文政12年5月13日(1829年6月14日))の寛政の改革が行われるわけですが、これは批判も多く5年程度で失脚したようですが、この時期にフランス革命が被ることから、オランダの勢力が弱まり、ロシアとの外交的緊張があったりしたそうです。家斉の治世では1828年にシーボルト事件があり、シーボルトが国外追放となっています。シーボルトもSieboldと綴り、アダム・ヴァイスハウプトと同じバイエルンの出身のドイツ人ですが、Sie boldであなたの大胆さという意味になるようで、四元徳のFortitudeの意味になるようです。その後天保の大飢饉があり大塩平八郎(寛政5年1月22日(1793年3月4日)-天保8年3月27日(1837年5月1日))の乱がありました。乱後に潜伏中に爆死した日が5月1日なわけですが、まあフランス革命後でイルミナティ結成後ですので、日本の義士による反乱であったわけですが、火事により多くの関係ない市民が亡くなったそうですが、まあイルミナティも関係してそうです。また同時期の1837年に浦賀にアメリカ商船のモリソン号が近づき、幕府の命令で砲撃して、追い払ったモリソン号事件があり、それに関連して開国を唱えるシーボルトに学んだ高野長英(文化元年5月5日(1804年6月12日) - 嘉永3年10月30日(1850年12月3日))とそれを支援した田原藩家老の渡辺崋山(寛政5年9月16日(1793年10月20日) - 天保12年10月11日(1841年11月23日))が自死に追い込まれる蛮社の獄が起きています。高野長英は名前などは完全に高野山系のシンボリズムですが、シーボルトに学んでピタゴラスからガリレオ・ガリレイまでの科学史をオランダ語の翻訳で講義していたというので、まあそういう動きなんでしょうね。没年月日がザビエルの聖祝日となっています。渡辺崋山は画家としての方が有名かもしれません。肖像画が多いわけですが、もちろん明らかに西洋画の手法が反映されているものと思われます。没年月日はやはり111のシンボリズムを認めます。まあこの家斉の治世の文化文政時代の文化を化政文化と言って、元禄文化と並ぶ江戸時代の町民文化の隆盛として挙げられるわけですが、元禄文化がそもそもの隠れキリシタン文化の発露であったわけですが、化政文化はアメリカ独立戦争後、フランス革命後のイルミナティ結成後ということで、以上の流れを考慮すると、隠れキリシタン文化の再来ではなく、蘭学の興隆を主とした、フリーメイスンリー、イルミナティ文化の最初の日本での興隆ととらえられるようです。そう考えると田沼意次のシンボリズムとその存在の影響が大きいことが分かるかと思います。この時期に活躍した文化人でシンボリズムが認められる人は、滑稽本作者の式亭三馬(安永5年(1776年) - 文政5年閏1月6日(1822年2月27日))がおり、生年がイルミナティ結成年となっていて、名前にも三が入っており、没年月日の西暦での2222はなかなかのシンボリズムでしょうか。「南総里見八犬伝」の作者で有名な曲亭馬琴(明和4年6月9日(1767年7月4日) - 嘉永元年11月6日(1848年12月1日))は生月日がアメリカ独立宣言の日で、そのおよそ10年前の生まれなわけですが、和暦で69の回転対称、西暦の767、77の回文数、没年月日の和暦の116、西暦の18481、121の回文数となかなか興味深いシンボリズムを認めます。かなりマイナーなようですが戯作者の柳亭種彦(天明3年5月12日(1783年6月11日)- 天保13年7月19日(1842年8月24日)は没年月日で西暦で42824の明確な回文数を認めています。また浮世絵師、美人画で有名な鈴木春信(享保10年(1725年) - 明和7年6月15日(1770年7月7日))は没年月日で西暦で77077とこれまた明確な回文数を認めており、作品もボストン美術館や大英博物館に多数収蔵されています。俳句で有名な与謝蕪村(享保元年(1716年) - 天明3年12月25日(1784年1月17日))も没年月日が和暦でクリスマスです。また小林一茶(宝暦13年5月5日(1763年6月15日)- 文政10年11月19日(1828年1月5日))も和暦でシンボリズムを認めています。ゴッホやモネにも影響を与えた、「東海道五十三次」を描いた有名な浮世絵師の歌川広重(寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日))も没年月日で西暦で18581の回文数を認めています。妖怪の図や、裸の人が集まって人間の顔を形作る、風変わりな浮世絵を残した歌川国芳(寛政9年11月15日(1798年1月1日 ) - 文久元年3月5日(1861年4月14日))も和暦、西暦ともに1115や11、1414といったシンボリズムを認めています。西洋画の影響もあったのかと思われます。円山応挙(享保18年5月1日(1733年6月12日)- 寛政7年7月17日(1795年8月31日))の高弟の長沢芦雪(宝暦4年(1754年) - 寛政11年6月8日(1799年7月10日))は没年月日で179971とかなり桁数の多い回文数を認めています。師の円山応挙も和暦で5月1日生まれで、717の回文数の没年月日とシンボリズムはあるようです。平賀源内(享保13年(1728年) - 安永8年12月18日(1780年1月24日))とつながりのある洋風画家の司馬江漢(延享4年(1747年) - 文政元年10月21日(1818年11月19日))は没年月日で18181と1119のシンボリズムを認めています。平賀源内は当時のオランダ商館を中心とした蘭学の流行のネットワークの中心にいたようです。名前の平やGの音などがシンボリズムのようです。和暦で没年月日が81218の回文数となるようです。解体新書の表紙絵を描いたとされる小田野直武(寛延2年12月11日(1750年1月18日) - 安永9年5月17日(1780年6月19日))は生年月日で西暦で118のシンボリズム、没年月日で619の回転対称のシンボリズムを認めるようです。琴の作曲家の八重崎検校(安永5年(1776年)頃 - 嘉永元年9月11日(1848年10月7日))は没年月日で18481と回文数を認めています。寛政の改革に影響を与えた儒学者として古賀精里(寛延3年10月20日(1750年11月18日) - 文化14年5月3日(1817年6月17日)がいて、生年月日で西暦で1118を認めています。また古賀精里と共に寛政の三博士と呼ばれた尾藤二洲(延享2年10月8日(1745年11月1日) - 文化10年12月4日(1814年1月24日))は西暦で諸聖人の日生まれとなっています。また儒学者で日米和親条約にも関り、孫娘が昭和の宰相の吉田茂の養母となった佐藤一斎(安永元年10月20日(1772年11月14日)- 安政6年9月24日(1859年10月19日))は生年月日で1114、没年月日で91019と回文数を認めています。やはり儒学者で、蛮社の獄では渡辺崋山の減刑を訴えた松崎慊堂(明和8年9月29日(1771年11月5日) - 天保15年4月21日(1844年6月6日))も生年月日で1771、111の回文数、没年月日で44,66の回文数を認めています。国学者で「古事記伝」の作者で有名な本居宣長(享保15年5月7日(1730年6月21日)-享和元年9月29日(1801年11月5日))は没年月日で111の回文数のシンボリズムを認めています。賀茂真淵(元禄10年3月4日(1697年4月24日)-明和6年10月30日(1769年11月27日))、本居宣長に学んだ国学者の加藤千蔭(享保20年3月9日(1735年4月1日) - 文化5年9月2日(1808年10月21日))は没年月日で18081の回文数を認めています。杉田玄白(享保18年9月13日(1733年10月20日) – 文化14年4月17日(1817年6月1日))と共に「ターヘル・アナトミア」を翻訳して「解体新書」を出版した前野良沢(享保8年(1723年) - 享和3年10月17日(1803年11月30日))は没年月日が西暦でスコットランドの守護聖人のセントアンドリューの日の11月30日であり、031130の回文数を認めます。杉田玄白・前野良沢の弟子である大槻玄沢(宝暦7年9月28日(1757年11月9日)- 文政10年3月30日(1827年4月25日))は生年月日で17571の回文数を認めます。大槻玄沢の後継者の宇田川玄真(明和6年12月28日(1770年1月24日) - 天保5年12月4日(1835年1月2日))の弟子の織田信長の7世の孫で、織田秀信の5世の孫の坪井信道(寛政7年1月2日(1795年2月20日)- 嘉永元年11月8日(1848年12月3日))は没年月日で西暦で18481の回文数と、ザビエルの聖祝日の没日となっています。数学者、経世家であった本多利明(寛保3年(1743年) - 文政3年12月22日(1821年1月25日))は没年月日で2112の回文数を認めています。儒家で経世家の海保青陵(宝暦5年(1755年) - 文化14年5月29日(1817年7月13日))は没年月日で1771の回文数を認めます。まあ全体的に蘭学と儒学と画家と作家など江戸時代のマスメディア関連が多いわけですが、社会に与える影響の度合いが強い仕事という事で、そういうところとシンボリズムの強弱があるという、フリーメイスンリーなんだと思われます。
1024px-Tokugawa_Ienari.jpg800px-Frans_I_von_Habsburg.jpgMatsudaira_Sadanobu.jpgシーボルト_川原慶賀筆1024px-Oshio_Heihachiro.jpgMorrisonShip.jpg800px-Takano_Tyouei.jpg800px-Watanabe_Kazan.jpg800px-Shikitei_Sanba.jpg800px-Kyokutei_Bakin.jpg800px-Ryutei_Tanehiko.jpg800px-Suzuki_Harunobu_001.jpgYosa_Buson.jpgKobayashi_Issa-Portrait.jpg800px-Memorial_Portrait_of_Hiroshige,_by_Kunisada800px-Self-portrait_of_the_shunga_album.jpg円山応挙_近世名家肖像Tigre_rosetsu.jpgA_Portrait_of_Kyūkei_Hiraga_croppedPortrait_of_Shiba_Kokan.jpgNaotake1.jpgKoga_Seiri.jpgEHIME_82_2_1_0_0_1.jpg800px-A_portrait_of_Satoh_Issai_by_Watanabe_Kazan.jpg松崎慊堂_近世名家肖像Motoori_Norinaga_self_portrait.jpg1024px-Kamo_no_Mabuchi.jpg1024px-Kato_Chikage.jpgSugita_Genpaku.jpgMaeno_Ryotaku.jpg大槻玄沢800px-TSUYAMA_ARCHIVES_OF_WESTERN_LEARNING04bs3840.jpg
さてまあ蘭学の時代になって明らかに長崎出島のフリーメイスンリーロッジの影響が出てきたところで、歴代のカピタンでウィキペディアでわかる人に着目していこうかと思います。島原の乱後にオランダ商館長となった第8代オランダ商館長 フランソワ・カロン(1600年 - 1673年4月5日)については島原の乱のところで触れましたが、この時期のオランダ商館長はほぼ同時に台湾のオランダ領の長官となっていることが、フリーメイスンリー的には重要と思われます。いわゆる洪門会における鄭成功起源説の由来と思われ、明治維新後の日本の台湾併合から、第二次世界大戦後の国共内戦後の台湾の中華民国の成立でしょうか。第16代・第21代オランダ商館長のフレデリック・コイエット(1615年頃 - 1687年10月17日)は没年月日で71017の回文数のシンボリズムを認めるのですが、日本を訪れた最初のスウェーデン人との事で、まあ長崎のオランダ商館が現在のEUの出先機関のようであったという事が分かるかと思います。フレデリック・コイエットは複雑なヨーロッパの政治情勢もあって、マカオのポルトガル勢力と台湾の鄭成功の勢力と同時に対峙して、最終的に捕虜となりオランダに送還され、最後はオランダで亡くなりますが、スウェーデンの爵位も受けているそうです。また上述した亡命フランス人のユグノーであったフランソワ・カロンと義兄であったとの事で、いわゆる近代フリーメイスンリー結成前の実質的なフリーメイスンであるようです。第142代オランダ商館長のブラザーイサーク・ティチング(1745年1月10日-1812年2月2日)は清との交流も活発に行い、徳川家斉の岳父であった島津藩の島津重豪(1745年11月29日(延享2年11月7日)-1833年3月6日(天保4年1月15日))とも積極的に交流して、情報を収集していたそうです。島津重豪の没年月日には333のシンボリズムを認めます。ブラザーイサーク・ティチングはパリの多くのフリーメイスンが埋葬されているペール・ラシェーズ墓地に葬られていますが、墓は一部壊れてしまっているようです。(2023.3.16追記:写真で見ると壊れているのは隣の墓のようです。)もちろん生没年月日のシンボリズムも11、181、222と回文数で明確です。第156代オランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフ(1777年12月2日 - 1835年10月19日)はいわゆるヅーフ辞書で有名で、蘭学の普及に貢献したわけですが、その商館長の時代はオランダがフランス革命によりフランスに占領されていた時代で、その後イギリスの植民地接収を受け、イギリス船の圧力を受けていたそうです。フランスにより占領されていた時代にはアメリカとの契約により、アメリカ船をオランダ船に偽装して長崎に入港していたとあり、ペリー来航前の日本を巡る国際情勢は日本にとっては奇々怪々でしょうか。ヘンドリック・ドゥーフは日本人との間に子供もいたそうで、苗字は道富と当て字を使用したそうです。また最初に俳句を詠んだ西洋人だそうで、「春風やアマコマ走る帆かけ船」という句が残っているそうです。アマコマは何でしょうねえ。生没年月日は17771、22、101の回文数を認めます。ここまで挙げたカピタンはいずれも回想録や書簡集など記録を残しているようです。ヘンドリック・ドゥーフの次代の第157代オランダ商館長のヤン・コック・ブロンホフ(1779年8月5日-1853年10月13日)は没年月日で31013の回文数を認めますが、ヅーフ辞書に続き、日英辞書を作成したそうです。オランダ人ですが、プロイセンに亡命して、プロイセン軍としてイギリスに渡ったそうです。その後オランダに復帰して、出島の倉庫番になったという経歴です。一度はジャカルタでイギリスに捕まってイギリスに送り返されたところでオランダに引き渡され、その後オランダ人と結婚して今度は商館長として出島に来るも、妻と一緒に来たことで幕府が反発して、家族はオランダに帰されたそうです。徳川家斉とも謁見したそうです。最後のカピタン、第166代オランダ商館長(1813年4月21日 - 1879年11月27日)はヤン・ドンケル・クルティウスという方で、まあフリーメイスンだと思いますが、日本人最初のフリーメイスンとしてブラザー西周、ブラザー津田真道がライデン大学でフリーメイスンになった事ばかりが喧伝されて、それを斡旋したであろう長崎出島のフリーメイスンリーロッジについてはまあ触れられることはないわけですが、その責任者がこの方なんでしょうね。英米仏の華々しい外交とは一線を画して、ブラザーサーオールコックやブラザーペリー、ハリスやロッシュ、パークス、ブラザーグラバーなどとは注目の度合いも異なるわけですが、まあ長崎は日本のキリスト教史、フリーメイスンリー史の聖地であることは間違いないようです。
Houckgeest.jpgFrederick_Coyett.jpgHendrik_Doeff_by_Charles_Howard_Hodges.jpgHendrikDoeffJapan.jpgDoeff-Halma_Dictionary001.jpg1920px-BlomhoffJapan.jpgJan_Cock_Blomhoff_1.jpgRolschildering-_Titia_Cock_Blomhoff,_de_bediende_Marateij,_het_zoontje_Johannes_Blomhoff_en_de_min_Petronella_Munts-_Stichting_Nationaal_Museum_van_Wereldculturen_-_RV-5824-17800px-Vase_with_picture_Titia_Bergsma.jpgJanus_Henricus_Donker_Curtius_(1813–1879)Uni-Leiden-seal.png
さてまあまた再び長くなったのでここで章を切ります。すでに新元号が発表されていますが、やっと次章で明治維新に入りそうです。
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