2019-04-01 19:50 | カテゴリ:明治・大正・昭和・平成
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さて新元号も発表されて、「令和」というものになったわけですが、これについては昭和、平成の後にフリーメイスンリー的解釈を披露しようかと思いますが、それはともかくブログの方の流れはまだ江戸時代の天保、天明時代という事で、激動の明治維新に取り掛かろうかと思います。
家斉は将軍でいたのが50年で生まれた子供が50人以上でそのうち半数が成人したとあり、江戸時代の一つの盛期ではあったわけですが、社会不安は増大し、大きな災害や戦乱が無い分庶民の生活が安定して自由を求める要求が大きくなる結果、蘭学の隆盛や体制や政治に対する批判が高まり、一方で安定により腐敗政治が広まるという、若干カトリック的な展開にフリーメイスンリーやイルミナティ的な社会変革運動が入るという、ヨーロッパのフランス革命を反映させた社会情勢となるようです。家斉は晩年の63歳の時点の天保8年(1837年)4月に家慶に将軍職を譲って大御所政治に入りますが、天保12年(1841年)閏1月7日に67歳で人知れず息を引き取ったという事で、最後は感染性胃腸炎からの腹膜炎の疑いという事で、現代でいうと90-100代の老衰に近い感染症の死という事でしょうが、権力の継承はあったものと思われます。
次代の第12代将軍 徳川家慶(寛政5年5月14日(1793年6月22日)-嘉永6年6月22日(1853年7月27日))というのが、日本史的には極めてマイナーで取り上げられることも少ない将軍なわけですが、それにはきちんとした理由があるわけです。生没年月日を見ると、西暦の6月22日生まれと、6月24日に近い徳川将軍という事で、これ自体かなり15代の中では珍しいことなわけですが、6月生まれでは第6代将軍家宣の6月11日と第10代将軍家治の6月20日があるわけで、やっと寄せて寄せて第12代将軍で6月22日と近づいたみたいな感じとなっています。織田信長が最初から6月23日頃なんてのと時間のスケールが違うんですね。また家慶は読みがそのままのイエズスのイエとヨシュアのヨシの合成になっていて、名前のシンボリズムも二重となっています。それで没年月日が和暦で6月22日とまあこれまたちょっと織田信長みたいになってくるわけです。それで家慶の時代に何があったかというとまず最初は腐敗した父親の時代の一掃のために天保の改革を行うわけです。1837年に45歳で将軍職を譲られており、それまで何をしていたかというと唯々将軍後継として江戸城でオットセイ将軍と呼ばれる父親の御相伴をしていたわけで、家斉が日蓮宗であったのに対して、家慶は浄土宗であったとあり、そもそも将軍が日蓮宗であることもかなり珍しいわけですが、40年以上の色々な鬱憤が一斉に父親の死によって出たというところがあるようですが、水野忠邦(寛政6年6月23日(1794年7月19日)-嘉永4年2月10日(1851年3月12日))によって推し進められた天保の改革は倹約や蘭学の抑制や緊縮財政といった時代に合わない政策であり、その上幕府直轄領を増やそうとして反発を食らうなど、いわゆる啓蒙専制君主の反動政策の様子と若干似ているところもありますが、そういう内政での失敗と、その後に幕末の井伊直弼までの間を老中阿部正弘(文政2年10月16日(1819年12月3日) - 安政4年6月17日(1857年8月6日))が取り仕切るわけですが、モリソン号事件(1837年(天保8年))やその後の蛮社の獄(1839年(天保10年))などで外圧による社会変革の流れが生じ、1846年(弘化3年)にはアメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルが浦賀へ来航して通商を求めたそうですが鎖国を理由に拒否し、最終的に1853年7月8日(嘉永6年6月3日)のブラザーマシュー・ペリーによる黒船来航となるわけです。事前にオランダカピタンのヤン・ドンケル・クルティウスによる来航の事前通告もあったそうです。幕末の老中阿部正弘の生誕日はザビエルの聖祝日のようです。1853年7月11日(嘉永6年6月6日)に恐らくブラザーマシュー・ペリーは江戸湾内の現在の八景島付近の測量と探索を行うとともに、独立記念日の祝砲と称して空砲を発射したようです。当時すでに徳川家慶は病床に臥せってしまっていて政治的判断ができる状況ではなかったそうで、幕府は黒船の威嚇の前に1853年7月14日(嘉永6年6月9日)に久里浜への上陸を許可しました。そこで各藩が警備にあたる中でブラザーペリーは浦賀奉行に大統領の国書を手渡して、1年後の再来を通告しました。その翌日には再び東京湾内を探索して、1853年7月17日(嘉永6年6月12日)に香港に向かって引き揚げたとの事です。徳川家慶はその10日後の嘉永6年6月22日(1853年7月27日)に恐らく食事が食べられない脱水症で亡くなったようです。この一連の事件を境に一気に日本は開国、尊王攘夷、公武合体、倒幕へと社会は動き始め、いわゆる明治維新といわれる時代に入るわけですが、その時の日本の最大の権力者であった徳川将軍は西暦での自らの誕生日であった数秘術を含んだ6月22日の和暦での日に亡くなっていたのでした。
1024px-Tokugawa_Ieyoshi.jpgMizuno_Tadakuni.jpgMasahiro_Abe.jpgCommodore_Matthew_Calbraith_Perry.pngUSS_Mississippi_1863.jpg
さて明らかに日本は国難の時代に入るわけですが、最高責任者は早々に亡くなり、その後継者になるわけですが、脳性麻痺の疑いもある、人前に出ることを憚る将軍という事で、側近の老中が非常に重要になるわけです。第13代将軍は徳川家定(文政7年4月8日(1824年5月6日)-安政5年7月6日(1858年8月14日))という事で、第8代将軍の吉宗が運よく将軍になったのとは反対に、国難の時代に英邁ではないが成人したのが20人以上いて1人だけと、なかなか完全に神の差配なのだと思われますが、最初から英邁の評判の高い一橋慶喜を後継に推す声があったとの事で、色々人材の評判は立っており、それに伴って明治維新という大事業に向けて適材適所で活躍の場があった模様です。嘉永7年1月16日(1854年2月13日)ブラザーペリーが再来日して嘉永7年3月3日(1854年3月31日)に日米和親条約が老中阿部正弘の主導の下で結ばれます。徳川家定の病状は進行して廃人同然であったとの事です。日米和親条約締結後の重大事件はなんといっても安政の大地震です。このブログのシリーズでは秀吉時代の文禄・慶長の役の間の慶長の大地震が最もそれに近いものでありますが、秀吉時代は明と朝鮮との外交、戦争中であったわけですが、幕末のこの時代は主にアメリカを中心とする、英仏蘭露といったヨーロッパ列強との外交交渉の真っただ中であったわけです。地震大国日本での特有の政治や外交と地震との関連を示す事象であるわけですが、ヨーロッパでも同様の地震と津波で有名なものがあって、それが1755年11月1日の大津波を伴ったリスボン地震であり、地震後にイエズス会が追放されたり、当時結成から40年程度のフリーメイスンリーがカトリックから弾圧されている地であった事などがあり、その後の啓蒙思想の展開に大きく影響したそうです。またイタリアでは何度も直下型地震に見舞われており、1908年12月28日のメッシーナ地震では地滑りによると考えられる津波を伴っていて大きな被害を出したそうです。安政大地震と一般には呼ばれますが、安政への改元は地震後であったとの事であり、当時の元号では嘉永であったようです。嘉永7年6月15日(1854年7月9日): 伊賀上野地震(安政伊賀地震)、嘉永7年11月4日(1854年12月23日): 安政東海地震(東南海地震含む)、津波でディアナ号遭難、嘉永7年11月5日(1854年12月24日): 安政南海地震、稲むらの火のモデル、嘉永7年11月7日(1854年12月26日): 豊予海峡地震と主に西暦で1854年のクリスマスイブの前後で日本全体に幅広く被害をもたらし、特に豊予海峡地震では、慶長豊後地震での津波被害もあった臼杵の地域も倒壊により被害にあったとの事です。下田にも津波被害があり、その2年後にハリスが領事として着任しています。地震の影響で嘉永7年11月27日(1855年1月15日)に安政に改元しています。しかしその後も地震は続き、安政2年10月2日(1855年11月11日): 安政江戸地震が起こり、小石川の水戸藩邸で藤田東湖・戸田蓬軒が圧死しています。これも明確な西暦での日付のシンボリズムを認め、この地震による水戸藩へのその後の政治的な影響は大きかったものと思われます。安政3年7月21日(1856年8月21日)タウンゼント・ハリス(1804年10月3日 - 1878年2月25日)が下田に着任し、幕府との交渉を開始します。安政4年6月17日(1857年8月6日)に老中阿部正弘が37歳で急死して、その後は佐倉藩藩主で蘭癖を言われた老中堀田正睦(文化7年8月1日(1810年8月30日)-元治元年3月21日(1864年4月26日))が引き継ぎます。老中阿部正弘の死因は不明だそうです。阿部正弘の11代前の初代の阿部正次は大坂冬の陣で大坂城に一番乗りをして、夏の陣後の天下普請後は大坂城代を長く勤め、大坂城で亡くなったそうです。堀田正睦の佐倉藩は蘭方医の佐藤泰然を招聘し、佐倉順天堂を開設し、そこから後にブラザー林董が出ています。アメリカ総領事タウンゼント・ハリスは幕府全権岩瀬忠震(文政元年11月21日(1818年12月18日)-文久元年7月11日(1861年8月16日))・井上清直(文化6年(1809年) - 慶応3年12月25日(1868年1月19日))と安政4年12月11日(1858年1月25日)から15回の交渉を行い、自由貿易を骨子とする条約内容に合意して、これを受け、老中首座堀田正睦は孝明天皇の勅許を得るために安政5年2月5日(1858年3月19日)に入京しましたが、天皇は3月20日(1858年5月3日)に勅許を拒否したそうです。一方幕府では、老中松平忠固(文化9年7月11日(1812年8月17日)-安政6年9月14日(1859年10月9日))が「朝廷に屈することは幕府権威の低下につながる」として、無勅許調印を強行に主張し、大老井伊直弼(文化12年10月29日(1815年11月29日)-安政7年3月3日(1860年3月24日))も最終的にこれに同意、無勅許のまま日米修好通商条約は調印されたとの事です。同年中に幕府はオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同内容の条約を結びました。これら条約に対しても勅許は得ておらず、朝廷側から見れば違勅の状態にあったとの事です。条約の正式名称と調印日は日米修好通商条約(安政5年6月19日(1859年7月18日))・日蘭修好通商条約(安政5年7月10日(1859年8月8日))・日露修好通商条約(安政5年7月11日(1859年8月9日)・日英修好通商条約(安政5年7月18日((1859年8月16日))・日仏修好通商条約(安政5年9月3日(1859年9月28日))だそうです。いわゆる不平等条約で、天皇の勅許が無かったことから、その後の尊王攘夷運動に繋がるわけですが、幕府の近代化政策の推進とも重なるようです。幕府はその後同様の条約をポルトガル、プロシア、スイス、ベルギー、イタリア、デンマークと結び、明治になってから、明治政府が同様の不平等条約をスペイン、スウェーデン・ノルウェー、オーストリア・ハンガリーと結び、それらはいわゆるその後の陸奥宗光(天保15年7月7日(1844年8月20日) - 明治30年(1897年)8月24日)の条約改正まで続くわけです。最初の日米修好通商条約に全権として参加した岩瀬忠震の西暦の生没年月日に81218と61816の回文数を認めます。岩瀬忠震は伊達政宗の子孫であるようですが、母方は林羅山の家系であるようです。安政の大獄で失脚して42歳で蟄居のまま亡くなっています。同様に全権であった井上清直も没年が旧暦でクリスマスとなっていて、実兄が川路聖謨で、大分県日田市の貧しい代官の家の出身との事です。ちなみに条約改正を行った陸奥宗光の生年月日も8448の回文数を認めます。
1024px-Tokugawa_Iesada.jpg800px-Tokugawa_Yoshinobu_with_rifle.jpgMasahiro_Abe_201904022009491fb.jpg1755_Lisbon_earthquake.jpgAnsei_Great_Earthquake_1854_1855.jpg藤田東湖800px-Toda_Chudayu.jpg800px-Townsend_Harris.jpgHotta.jpgIwase_Tadanari.jpg375px-Ii_Naosuke.jpgMunemitsu_Mutsu_2.jpg
日米和親条約締結後幕府は老中阿部正弘、老中堀田正睦の元で海軍を創設し、長崎海軍伝習所(安政2年ー安政6年(1855年-1859年)、後の長崎造船所の元)、築地軍艦操練所(1857年(安政4年)-大政奉還まで)を創設しています。これらは井伊直弼大老の時代に停止されました。その後将軍後継を巡る南紀派対一橋派の対立から安政の大獄が生じます。将軍家定は安政5年6月25日(1858年8月4日)、諸大名を招集して慶福(後の家茂)を将軍継嗣にするという意向を伝え、安政5年7月5日(1858年8月13日)に一橋派の諸大名の処分を発表するという異例の行動を見せたそうですが、発表した翌日安政5年7月6日(1858年8月14日)に34歳で急死します。この時処分されたのがいわゆる幕末の四賢候と呼ばれる福井藩第14代藩主松平慶永(春嶽)(文政11年9月2日(1828年10月10日)-明治23年(1890年)6月2日)、土佐藩第15代藩主山内豊信(容堂)(文政10年10月9日(1827年11月27日)-明治5年6月21日(1872年7月26日))、薩摩藩第11代藩主島津斉彬(文化6年3月14日(1809年4月28日)-安政5年7月16日(1858年8月24日))、宇和島藩第8代藩主伊達宗城(文政元年8月1日(1818年9月1日)-明治25年(1892年)12月20日)ですが、それに加えて慶喜の父であった常陸水戸藩の第9代藩主徳川斉昭(寛政12年3月11日(1800年4月4日)-万延元年8月15日(1860年9月29日))らの一橋慶喜を将軍後継と推す勢力であったわけです。家定の死によって将軍となった慶福(第14代将軍家茂)(弘化3年閏5月24日(1846年7月17日)-慶応2年7月20日(1866年8月29日))の下で大老井伊直弼と老中間部詮勝(文化元年2月19日(1804年3月30日)-明治17年(1884年)11月28日)は反対派の粛清を行います。いわゆる安政の大獄なわけですが、この中でもシンボリズムを認める人について見ていくこととします。橋本左内(天保5年3月11日(1834年4月19日) - 安政6年10月7日(1859年11月1日))は福井藩の藩医で適塾で学んだあと藩校である明道館で教師をしている時に捕縛され、伝馬町牢屋敷で25歳で斬首されています。和暦で生月日が311、西暦の没年月日が諸聖人の日となっています。経歴や年齢を見ても、安政の大獄自体が蘭学やそれにまつわる倒幕に繋がるネットワークへの弾圧、見せしめの意味があったのでしょうが、結果的にそういう反幕府の勢力が結集する一つのきっかけとなったというのが見方のようです。頼三樹三郎(1825年7月11日(文政8年5月26日) - 1859年11月1日(安政6年10月7日))は儒学者の頼山陽の三男として京都三本木に誕生した人で、江戸で遊学した際に尊王運動に感化されて寛永寺の石灯籠を破壊して退学処分となっていて、その後に各地を放浪し尊王攘夷運動を続け幕府に危険人物と目され捕縛され、斬首されています。やはり西暦で生月日が711、没年月日は橋本佐内らと一緒です。名前や生誕地の3のシンボリズム、国学者の頼山陽の尊王攘夷運動への影響などから、存在が象徴的であったようです。ちなみに頼山陽(安永9年12月27日(1781年1月21日) - 天保3年9月23日(1832年10月16日))自体も和暦で12月27日の福音記者ヨハネの聖祝日生まれとなっています。飯泉喜内(文化2年(1805年) - 安政6年10月7日(1859年11月1日))は三条実美(天保8年2月7日(1837年3月13日) - 明治24年(1891年)2月18日)の父親の三条実万(享和2年2月15日(1802年3月18日)-安政6年10月6日(1859年10月31日))の家士であったそうで、ブラザーペリー来航の際には「祈りの一言」という題名の建白書を三条実万に提出しているとあり、この辺りが明確に隠れキリシタンの系譜の可能性が疑われます。その後自宅から多数の志士との交流の手紙が出てきて、当初「飯泉喜内初筆一件」と呼ばれた安政の大獄のきっかけとなったそうです。それで諸聖人の日の斬首となっている模様でしょうか。飯泉と言えば、この時代の有名人である二宮尊徳(天明7年7月23日(1787年9月4日)-安政3年10月20日(1856年11月17日))出立のきっかけに小田原飯泉観音の願掛けがありましたが、二宮尊徳の没年月日も西暦で1117となっており、まあ一つの隠れキリシタンネットワークの象徴的な単語であったのかもしれません。そう考えると開国を求める動きの底流にはやはり江戸初期から続く隠れキリシタンネットワークがあったと考えられ、安政の大獄自体がそれに対する旧来からのキリシタン弾圧の流れの動きであったと考えられそうです。小林良典(文化5年3月28日(1808年4月23日) - 安政6年11月19日(1859年12月12日))こばやしよしすけと読むそうです。鷹司家の家来であったようで、尊王攘夷活動をしていて捕らえられ獄中死したそうです。和暦の没年月日で61119の回転対称の形になっています。日下部裕之進(天保7年(1836年) - 万延元年閏3月3日(1860年4月22日))は日下部伊三治(文化11年(1814年) - 安政5年12月17日(1859年1月20日))の長男で、父親も安政の大獄で獄中死していますが、息子もやはり獄死していて、和暦の33となっています。池内大学(1814年12月3日(文化11年10月22日)- 1863年3月11日(文久3年1月22日))は京都の商人の子供として生まれ、儒学で身を成し、徳川斉昭や三条実万と接して尊王攘夷活動を行いますが、安政の大獄の際には井伊大老に自首したことで減刑され、その後その事で疑われ人斬り以蔵(岡田以蔵)(天保9年1月20日(1838年2月14日)-慶応元年閏5月11日(1865年7月3日))に切られたとの事です。池内大学は西暦でザビエルの聖祝日生まれで、没年月日が西暦で3311となっています。岡田以蔵も西暦で生年月日がバレンタインデーとなっています。月照(文化10年(1813年)- 安政5年11月16日(1858年12月20日))は西郷吉之助(文政10年12月7日(1828年1月23日) - 明治10年(1877年)9月24日)と共に入水したことで有名ですが、没年月日は西暦で18581と22の回文数、和暦で1116となっています。万里小路正房(享和2年12月1日(1802年12月25日) - 安政6年10月22日(1859年11月16日))はその名字が信長の将軍補弼の宣旨で出てきた万里小路家なわけですが、この時代も朝幕関係で奔走し、公武合体を唱えたそうですが、武家伝奏となり、水戸藩への密勅降下にも関与して、徳川家茂への将軍宣下も行ったそうで、安政の大獄で処分されましたが武家伝奏を辞任していたため軽い処分であったそうです。恐らくマリアに掛かった名前ととらえられるのでしょうね。構図は信長時代と一切変わらないようです。生年月日が西暦でクリスマスであり、没年月日が西暦で91116の回転対称となっています。
Shungaku_Matsudaira.jpgYodo_Yamauchi.jpgNariakira_Shimazu.pngDate_Munenari.jpgb76de6b414a27e1786f4b104d3664da7-1.jpg220px-Tokugawa_Iemochi.jpgManabe_Akikatsu.jpg800px-橋本左内肖像画(佐々木長淳作)Rai_Mikisaburou.jpg800px-Portrait_of_Rai_Sanyo.jpgKobayashi_Yoshisuke.jpgfdbb4fbe6f839d5414d564e805bb9b67.pngGesho.jpg800px-Saigo_Takamori.jpg
そしてもちろん時代は凄惨な暗殺と戦闘の幕末、明治維新の風雲の時代になるわけですが、それを最初に告げるのはもちろん桜田門外の変であるわけですが、その前に横浜のフリーメイスンリーに関わる一つの事件があります。オランダ人船長殺害事件と呼ばれる日本史でもあまり語られない事件ですが、開港直後の横浜で起こった外国人襲撃事件であり、容疑者不詳のまま幕府が賠償金を払って解決したものです。開港直後の各国の領事館の様子は、アメリカ領事館のホームページによれば1859年1月19日(安政5年12月16日)ハリスは弁理公使に任命され、1859年7月にハリスは下田より江戸に入り幕府より貸与された麻布の善福寺(東京都港区元麻布1-6-21)に公使館と住居を移したそうです。1859年7月1日(安政6年6月2日)に横浜が開港し、1859年7月4日(安政6年6月5日)に横浜の本覺寺(神奈川県横浜市神奈川区高島台1-2)に領事館が開かれたそうです。アメリカ領事館の動きと同じくして1859年7月6日(安政6年6月7日)にブラザーサーラザフォード・オールコック(1809年5月 - 1897年11月2日)により高輪東禅寺に英国総領事館が開設されています。またフランス、オランダ領事館が同様に開かれており、現在の東神奈川周辺になります。その後1863年5月(文久3年4月)に善福寺の火事でアメリカ領事館は横浜の外国人居留地に移ったそうです。また英国領事館も文久元年5月28日(1861年7月5日)と文久2年5月29日(1862年6月26日)と二回の東禅寺事件があり、水戸藩浪士と松本藩士に襲われていて、その後横浜に移ったそうです。このような状況の中で、開港から8か月後の安政7年2月5日(1860年2月26日)午後7時頃、当時の目抜き通りである本町通り(本町4、5丁目付近)で、オランダ人船長のW・デ・フォス(Wessel de Vos, 1818年1月18日 オーデスチルト生まれ)と、商人J・N・デッケル(Jasper Nanning Dekker, 1810年7月31日 ジュトフェン生まれ)が何者かにより斬殺されたのがオランダ人船長殺害事件です。オランダは幕府に犯人の検挙と処刑を要求しましたが、犯人は捕まらず不明のままであったそうで、殺害された二人はフリーメイスンといわれ、葬儀にはメンバーが儀式用正装のエプロンを着用し参列して、日本の攘夷派への示威行為としたとの事です。二人の墓は横浜外国人墓地の最も古い区画である22区に建てられています。その約1か月後に、江戸に潜伏していた水戸藩浪士と元神官達が大老井伊直弼の籠を護衛する彦根藩士を襲ったのが桜田門外の変です。横浜等の鎖港は常に攘夷派によって議論されており、幕府の状況によっては反動もありうるものであったのです。またこの頃安政7年1月18日(1860年2月9日)~安政7年9月28日(1860年11月10日)にかけて福沢諭吉(天保5年12月12日(1835年1月10日) - 明治34年(1901年)2月3日)や勝海舟(1823年3月12日(文政6年1月30日)-1899年(明治32年)1月19日)、小栗上野介(文政10年6月23日(1827年7月16日)-慶応4年閏4月6日(1868年5月27日))やジョン万次郎(1827年1月27日(文政10年1月1日) - 1898年(明治31年)11月12日)を含む最初の遣米使節である万延元年遣米使節団が横浜からアメリカに渡って世界一周して帰国しています。また1859年9月19日(安政6年8月23日)にブラザートーマス・ブレーク・グラバー(1838年6月6日 - 1911年12月16日)はジャーディン・マセソン商会の社員として長崎に上陸しています。またグイド・フルベッキ(1830年1月23日 - 1898年3月10日)は1859年11月7日(安政6年10月13日)に、日本語習得のために長崎に上陸しています。キリスト教宣教師であるシモンズ、ブラウン、ヘボンらもこの頃横浜に来ています。そのような状況の中で安政7年3月3日(1860年3月24日)に桜田門外の変は起こります。18人の水戸藩の脱藩浪士を中心とした構成による刺客が、3月3日の雛祭の江戸城総登城の途上の大老井伊直弼の籠とそれを護衛する彦根藩士を江戸城桜田門のすぐ外で襲撃するわけですが、刺客の構成も実際には14人の水戸藩脱藩浪士と3人の常陸国元神官、1人の薩摩藩脱藩浪士と、尊王攘夷運動や水戸藩への密勅にまつわる神道における詔勅の問題を反映しており、3月3日の実行というのも明暦の大火の西暦での日付や、その後の5代将軍綱吉時代の七五三の成立、いわゆる雛祭の桃の節句の成立は天正年間程度だそうですが、いずれにしても3の聖なる数にまつわる神道における意味付けであったものと思われ、桜田門の場所もやはり桃と桜の、桃園天皇や桜町天皇といった追号とも関連した、当時の桜植樹の影響などもあるかと思われ、薔薇十字会のバラのように象徴としてのバラ科の日本の植物であったと思われ、その後のソメイヨシノの成立とも関連があるのかとも思われます。18名の刺客で大老を含んだ9名がその場で死に、8名が重傷、5名が軽傷で逃げのびその後切腹、残り5名がそのまま逃げてその後切腹という状況は、井伊大老が事前に襲撃の予兆の報告を受けていたにもかかわらず予定通り対応せずに動いていたこととも合わせて、全体として日本神道としてのシンボリズムを含んだ幕政の転換点としての象徴的な事件であったと思われます。井伊直弼の腹心で安政の大獄で指示していた長野主膳(文化12年10月16日(1815年11月16日)- 文久2年8月27日(1862年9月20日))は文久の改革後に井伊家に斬首されています。水戸藩には水戸光圀(寛永5年6月10日(1628年7月11日)-元禄13年12月6日(1701年1月14日))による「大日本史」の編纂の歴史があり、林羅山の系統を引く儒教の陽明学に基づいた、皇国史観でのいわゆる尊王思想が盛んで、織田信長の際の熱田神宮のような、常陸国の鹿島神宮が影響したかと思われますが、水戸藩邸があった小石川後楽園の彰考館を中心として、「大日本史」の編纂や尊王思想の研究が行われました。小石川後楽園の設計には明から招聘された朱舜水(万暦28年10月12日(1600年11月17日) - 天和2年4月17日(1682年5月24日))が関わっており、明月橋の名前や朱子学などに明の国名や建国者の朱元璋と朱子学の朱熹と朱舜水の朱の共通が認められます。異民族による王朝である清の国号の青を含んだシンボリズムとの対比が朱の赤となっているとも考えられます。朱舜水の日本への招聘には柳川藩の儒者の安東省菴(元和8年1月18日(1622年2月28日)-元禄14年10月20日(1701年11月19日))が関わっていて、いずれも生没年月日に西暦でシンボリズムを認め、江戸初期の儒学の興隆に隠れキリシタンネットワークが深くかかわっていることが示唆されます。小石川では5代将軍綱吉の時代に小石川御薬園が設立され、8代将軍吉宗の時代に小石川御薬園が拡張され、さらにその内部に小石川養生所が設立しており、青木昆陽による薩摩芋の試作もここで行われたそうです。いずれにしてもこれら井伊大老を襲撃した刺客を直接的に指示していたのは水戸藩そのものであり、薩摩藩も関与したとはいえ、その後の徳川斉昭(寛政12年3月11日(1800年4月4日)-万延元年8月15日(1860年9月29日))の半年後の急死は報復であった可能性は高いと思われます。没年月日が和暦でイエズス会の結成日、聖母被昇天の祝日であることもシンボリズムと思われます。彦根藩はもちろん徳川四天王の井伊直政の系譜を継ぐ譜代大名であり、佐和山城や安土城、観音寺城、長浜城、大津城を周辺とする彦根城を築城しており、井伊直弼は茶道にも精通しており、隠れキリシタンとしての系譜は明らかにあったと思われ、井の字の聖書での井戸の意味とミカエル十字の記号としてのシンボリズムを含んだ幕府の全権としての、水戸学の藩士の天皇の詔勅を伴った象徴を認めるシンボリズムの事件となります。刺客の現場での中心人物の関鉄之介(文政7年10月17日(1824年12月7日) - 文久2年5月11日(1862年6月8日))の生年月日は和暦で71017の回文数、没年月日の西暦では86268の回文数を認めます。歴代の彰考館総裁では、佐々宗淳(寛永17年5月5日(1640年6月24日) - 元禄11年6月3日(1698年7月10日))が水戸黄門の佐々木助左衛門のモデルとされ、生年月日が西暦で洗礼者ヨハネの日となっており、その同僚で水戸黄門の渥美格之進のモデルとされる、同僚の安積澹泊(明暦2年11月13日(1656年12月28日) - 元文2年12月10日(1738年1月29日))は和暦で1113や2121、西暦で16561と回文数をシンボリズムで認めるようです。鵜飼錬斎(慶安元年(1648年)-元禄6年4月11日(1693年5月15日))は没年月日が西暦でメルクリウスの日のようです。立原翠軒(延享元年6月7日(1744年7月16日) - 文政6年3月4日(1823年4月14日))は生年月日が西暦で174471の回文数になっています。青山延光(文化4年10月23日(1807年11月22日) - 明治4年9月29日(1871年11月11日))は桜田門外の変の際の彰考館総裁ですが、生没年月日で西暦で明確にシンボリズムを認めます。水戸藩はその後天狗党の乱などで藩内の派閥抗争が凄惨を極め、明治政府には多く人材を登用されなかったそうです。
(追記:桜田門外の変で、ちょうど桜の時期であったわけですが、桜のシンボリズムとして、生贄のsacrificeのsacri(聖なるもの)、袋のsac、エジプトの神のラーのRaの合成とも捉えられますが、また日本の象徴でもある太陽の日の丸の丸、circularサーキュラーの音ともとれるようです。グノーシスの円環の蛇や太極図、循環する円の象徴としての法輪、ロータリークラブの象徴などとも重なるようです。堀田正睦やブラザー林董の関係する佐倉藩の音とも同じでしょうか。)
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さてこの辺りから、現存する日本のフリーメイスンリーロッジへの影響もある話になってくるというところだと思いますが、要するに横浜ロッジや、兵庫大阪ロッジなど現在も引き続くフリーメイスンリーロッジの元となるロッジがこの頃外国人居留地で成立し、ちょうどそれはまた尊王攘夷の風が吹き荒れ、外国人襲撃事件が引き続く時代でもあるのです。基本的にこの時代の日本のフリーメイスンリーを統括していたのは明らかにブラザーサーオールコックでしょうし、それはオランダカピタンであるブラザーヤン・ドンケル・クルティウスから引き継いだものであり、その後もほぼ代々の駐日英国大使がその役職を担っていたと思われますが、戦後にブラザーマッカーサーによって再建されて、フィリピングランドロッジから分離独立するまでグランドマスターの存在はありませんので、所属するフリーメイスンの国籍もイギリス、アメリカ、フランス、イタリアなど外国に限定されたわけで、アメリカ大使館がアメリカ人のフリーメイスンリーロッジ、イギリス大使館がイギリス人のフリーメイスンリーロッジ、フランス大使館がフランス人のフリーメイスンリーロッジ、オランダ大使館がオランダ人のフリーメイスンリーロッジといったようになっていて、それに追加して、現地の外国人居留地に住んでいる人々向けに恒久的なイングランドグランドロッジやスコットランドグランドロッジからチャーターしたロッジが別個に開設されるという状況であったと思われます。さてまあそういうフリーメイスンリー対尊王攘夷派という構成であった明治維新なわけですが、そのうち重要な外国人襲撃事件について個別に見ていこうかと思います。それでまずブラザーサーラザフォード・オールコック(1809年5月 - 1897年11月2日)についてなわけですが、以前にもフリーメイスンリーの名簿の話で、ノーザンロッジオブチャイナという上海のロッジのチャーターメンバーとして名簿に名前があったわけですが、ブラザーサーラザフォード・オールコック自体はイギリス本国のBritannic Lodge現在No.33、1840年当時No.38でフリーメイスンになったようで、ノーザンロッジオブチャイナは1849年に恐らくブラザーサーオールコックが上海領事であった時代に、領事公邸の内部か併設した建物でロッジを開設していたようです。このノーザンロッジオブチャイナは1960年まで存続して、最終的に閉鎖になったそうです。シニムロッジはマサチューセッツ系ですが、そちらは上海から1952年に東京に移転して存続しています。また香港では現在までもイングランド系、スコットランド系、アイルランド系のロッジが存続しているそうです。中国でのフリーメイスンリーについてはこちらの論文がありました。まあそういうわけで、ブラザーサーオールコックはフリーメイスンとしてもかなり有力メンバーであり、個人的な論評することはなかなか僭越なわけですが、このブログでは触れないわけにはいきません。
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ブラザーサーオールコックはロンドンの西のイーリングというところでもともとジョン・ラザフォード・オールコックとして、外科医のトーマス・オールコックの子供として生まれたそうです。15歳から医師としての教育を受けていて、ウェストミンスター病院で教育を受け、19歳でパリに留学してフランス語やイタリア語を勉強して、さらに彫刻も習ったとの事です。その後ロンドンでウェストミンスター病院とウェストミンスター眼科病院で研修して、21歳で外科開業医の免許を取得したそうです。23歳から4年間はイギリス軍の軍医としてイベリア半島でカルリスタ戦争に従軍しています。そこでの過労がたたって、リウマチになったとの事で、27歳で外科医としてはリタイアしてしまったそうです。その後外交官となり1844年に35歳で福州領事となります。父親の名前や、外科医としての英才教育、ウェストミンスターでの研修など、明らかに父親もフリーメイスンであったと思われますが、その命名したジョンの名前をどの時点で捨てたのかは不明ですが、本人が捨てた模様で、恐らく、スペインでの従軍医師としての外科医としての過酷な業務の中で、信仰心などの関係でジョンの名前を捨てたのではないかと考えられます。いわゆるヨハネを意味する最もアングロ・サクソンでポピュラーな名前であり、フリーメイスンリーを象徴する名前でもあります。ラザフォードはもともとミドルネームであったようですが、スコットランドの地名由来であり、男性名としてもあるそうです。オールコックはやはりそのまま読むと全ての鶏や男性器の意味となるかと思い、男性の呼称として~コックというのが鳥の呼び名のようで広まったというのがあるそうで、まあちょうどフランスのフリーメイスンリーの啓蒙のシンボルとしての雄鶏と被るので、そこでパリ留学や、その後の中国や日本での活躍に繋がる模様です。オールコックの音で真言のシンボルともなるようです。全体として貴族や外交官の家系ではなかったので、普通のジョンという名前を使わないことで、特徴ある名前となり、外交官としては有利に働いたのかもしれません。中国では15年間福州、上海、広州で領事として働き、首相パーマストン子爵に清を武力制圧するように書簡を送り、1856年のアロー戦争を引き起こしたそうです。スペインのカルリスタ戦争は自由主義と保守主義の対決であったそうで、ブラザーネイサン・ロスチャイルドなどロスチャイルド家もスペイン王家に肩入れしていたそうです。カルリスタ側が赤いベレー帽をかぶっていたようで、その流れはその後フランコ政権に引き継がれていったようです。バスク地方を基礎としていたようです。カルリスタ戦争への従軍で恐らくカトリックやイエズス会の歴史を学び、その後の1840年のアヘン戦争でイエズス会の布教と異なって、東アジアでのフリーメイスンリーは最初から武力を使って中国の租界や租借地を得る方法を行っており、その中でブラザーサーオールコックは15年間中国という国で武力を前提としたフリーメイスンリーのロッジの開設や租界の拡大を行い、中国について知識を深め、その後に日英修好通商条約締結後に初代駐日英国総領事として1859年6月4日(安政6年5月3日)に長崎に入り、1859年6月26日(安政6年5月26日)に品川沖に入り、1859年7月3日(安政6年6月4日)に高輪の東禅寺に入っています。アヘン戦争は有名なジャーディン・マセソン商会のブラザージャーディンや、ブラザーサーマセソンが引き起こしたわけですが、第二次アヘン戦争とも呼ばれるアロー戦争はブラザーサーオールコックが引き起こしたとあり、アロー戦争では北京のイエズス会士が設計した円明園での略奪も行われ、現在復元されつつ保存されているそうです。ちなみにブラザーウィリアム・ジャーディンも外科船医であったそうです。イエズス会士では大分で最初に西洋医学を行ったルイス・デ・アルメイダが有名ですが、その後の戊辰戦争で活躍した従軍医師としてはイギリス人のブラザーウィリアム・ウィリスがいます。それでこれら2回の中国に対するいわゆる侵略戦争の結果、清の開港と租界地の成立、香港島や九龍半島の割譲と、その後の中国大陸への帝国主義諸国の進出が始まるわけですが、同時に日本では西洋諸国の脅威が叫ばれ、尊王攘夷運動から開国しての明治維新へと流れが決定していくわけであり、それはイエズス会の布教が武力を伴わず、最初に日本でザビエルが布教して、その後中国布教が出来ずに亡くなり、秀吉の朝鮮征伐をきっかけとして中国大陸へキリスト教を布教した経路と真逆の経過をとっており、310年前のザビエルの経路を参考として日本に上陸していることが伺えるでしょうか。アヘン戦争当初に中国人がマカオに避難したイギリス人を毒殺しようと井戸に毒を入れた話とも関係するようです。
1920westminsterhospial.jpgWestminster_Hospital_location_-_Stanford_map_of_London_1862.jpg250493.jpg_15656747_53e12c02.jpg06027902.jpgguerras_carlistas.jpgブルゴーニュ十字Imagen1.jpgLord_Palmerston_1863.jpgLord_Palmerston_Blue_Plaque.jpgViscount_Palmerston_statue.jpgWilliam_Jardine_in_Study.jpgJames_Matheson.jpg1280px-18th_royal_irish_at_amoy.jpg1280px-La_bataille_de_Palikiao.jpg10174500-3x2-xlarge.jpgahensenso.jpegmerlin_140068086_739566f5-b83c-4e8e-aa6a-558faec31a36-articleLarge.jpgOpium_Wars,_storming_of_the_Taku_Forts_by_British_troops,_1860opiumwars.jpgChina_1842.jpgOpium_War.jpgOpium-War-cartoon.jpgopium-war-map2-web.pngYuanmingyuan_haiyan.jpg1920px-Looting_of_the_Yuan_Ming_Yuan_by_Anglo_French_forces_in_1860.jpg1280px-Ruins_of_Dashuifa_20130126.jpg1280px-Yuanmingyuan_Haiyantang_20130126.jpgYuanmingyuan04.jpg1024px-Yuanmingyuan_before_the_burning,_Beijing,_6–18_October,_1860800px-Beijing_-_Monkey_head_of_the_old_summer_palace_-_reproduction.jpg800px-Beijing_-_Ox_head_of_the_old_summer_palace_-_reproduction.jpg800px-Beijing_-_Pig_head_of_the_old_summer_palace_-_reproduction.jpg800px-Beijing_-_Tiger_head_of_the_old_summer_palace_-_reproduction.jpg
ブラザーサーオールコックは日本に来てまず何をしたかというと、1859年8月30日(安政6年8月3日)にコレラになったそうです。1859年9月から10月にかけて、もう一つの開港地である函館へ旅行しているそうです。1860年1月29日(安政7年1月7日)にジョン万次郎のような漂流民で、ブラザーサーオールコックが1855年に広州領事に着任して以来通訳をしていた洋装の日本人として有名だった小林伝吉が東禅寺の門前で何者かに切られて亡くなっています。1860年2月10日(安政7年1月19日)今度は麻布善福寺に公使館を置いていたアメリカ総領事のハリスが病気になり、それをブラザーサーオールコックが見舞っています。1860年2月26日(安政7年2月5日)に上述のオランダ人船長殺害事件が発生しています。オランダ総領事の当時の手紙によれば、オランダ人船長殺害事件の犯人は水戸藩が疑われたそうです。1860年3月11日(安政7年2月19日)にアメリカ公使館で英米合同の日曜礼拝をおこなったそうで、その後1860年3月24日(安政7年3月3日)に上述の桜田門外の変が発生しています。ブラザーサーオールコックはその後1860年8月25日(万延元年7月9日)に将軍家茂と面会しています。1860年9月4日(万延元年7月19日)に富士登山のために神奈川を出発し、1860年9月11日(万延元年7月27日)に富士登山しています。頂上ではコーヒーを飲んで、シャンパンを空け、祝砲をあげたりしたそうです。帰りに熱海に寄って滞在し10日目の1860年9月23日(万延元年8月9日)に愛犬のトビーが間欠泉で火傷を負い死んでいます。警戒されない護衛であったのでしょう。ハリスの時の唐人お吉のような芸者遊びの誘いでもあったと思われます。1861年1月14日(万延元年12月4日)米国駐日公使タウンゼント・ハリスの通訳を務めていたヘンリー・ヒュースケン(1832年1月20日 - 1861年1月15日)が攘夷派に襲われ、翌日死去しました。シンボリズムを認めるようです。ヘンリー・ヒュースケンは日本の混浴入浴に興味を持って見に行ったなどあり、生涯独身を貫いたハリスの心証は良くなかったようです。この事件によって、江戸では安全が保障できないとブラザーサーオールコックは横浜に移動していますが、その後一か月で再び江戸に戻っています。当時は鉄道も電話線もありませんので、江戸と横浜では情報の格差がはっきりしていたのだと思われます。後に横浜をイギリス軍が港湾基地として利用して、薩英戦争や下関戦争を行い、イギリス軍が港の見える丘に駐留し、フリーメイスンリーの軍隊ロッジが香港から横浜に移動してくることを考えると、この頃から横浜を主にイギリスなどの外国人の為の要塞として構築していったことが伺われます。
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