2012-01-16 14:03 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
ウィリアム・アダムスという人を知っているでしょうか?

三浦按針というと知っている人は知っているかもしれません。
毎回ですがウィキペディアで調べてみましょう。

ウィリアム・アダムス(William Adams, 1564年9月24日 - 1620年5月26日(元和6年4月24日))は、江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイギリス人航海士・水先案内人・貿易家。日本名の三浦 按針(みうら あんじん)としても知られる。

按針の墓は長崎県平戸市の崎方公園にある。また神奈川県横須賀市西逸見(にしへみ)町の「塚山公園」には按針夫妻の慰霊碑があり、1923年3月7日、国の史跡に指定された。

イングランド南東部のケント州ジリンガムの生まれ。船員だった父親を亡くして故郷を後にし、12歳でロンドンのテムズ川北岸にあるライムハウスに移り、船大工の棟梁ニコラス・ディギンズに弟子入りする。造船術よりも航海術に興味を持ったアダムスは、1588年に奉公の年限を終えると同時に英国海軍に入り、フランシス・ドレークの指揮下にあった貨物補給船リチャード・ダフィールド号の船長としてアルマダの海戦に参加した。翌1589年にはメアリー・ハインと結婚し、娘デリヴァレンスと息子ジョンを儲けている。しかし、軍を離れてバーバリー商会ロンドン会社の航海士・船長として北方航路やアフリカへの航海で多忙だったアダムスは、ほとんど家に居つかなかったといわれている。

航海で共に仕事をする中でオランダ人船員たちと交流を深めたアダムスは、ロッテルダムから極東を目指す航海のためにベテランの航海士を探しているという噂を聞きつけ、弟のトマスらと共にロッテルダムに渡り志願する。航海は5隻からなる船団で行われることになっていた。
司令官のヤックス・マフはアダムスをホープ号の航海士として採用する。こうして1598年6月24日、船団はロッテルダム港を出航した。
だが航海は惨憺たる有様で、マゼラン海峡を抜けるまでにはウィリアムとトマスの兄弟はリーフデ号に配置転換されていたが、トマスが最初乗船していたトラウ号は東インド諸島でポルトガルに、フライデ・ボートスハップ号はスペインに拿捕され、1隻はぐれたヘローフ号は続行を断念してロッテルダムに引き返した。生き残った2隻で太平洋を横断する途中、ホープ号も沈没してしまい、極東に到達するという目的を果たしたのはリーフデ号ただ1隻となった。その上、食糧補給のために寄港した先々で赤痢や壊血病が蔓延したり、インディオの襲撃に晒されたために次々と船員を失っていき、トマスもインディオに殺害されてしまう。こうして出航時に110人だった乗組員は、日本漂着までには24人に減っていた。 
1600年4月29日(慶長5年3月16日)、リーフデ号は豊後の臼杵に漂着した。自力では上陸できなかった乗組員は、臼杵城主太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏んだ。太田は長崎奉行の寺沢広高に通報。寺沢はアダムスらを拘束し、船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収したのち、大坂城の豊臣秀頼に指示を仰いだ。この間にイエズス会の宣教師達が訪れ、オランダ人やイギリス人を即刻処刑するように要求している。
5月12日(慶長5年3月30日)、家康は初めて彼らを引見する。イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船だと思い込んでいた家康だが、路程や航海の目的、オランダやイギリスなど新教国とポルトガル・スペインら旧教国との紛争を臆せず説明するアダムスとヤン=ヨーステンを気に入って誤解を解いた。しばらく乗組員達を投獄したものの、執拗に処刑を要求する宣教師らを黙殺した家康は、幾度かにわたって引見を繰り返したのちに釈放し、城地である江戸に招く。

江戸でのアダムスは帰国を願い出たが、叶うことはなかった。代わりに家康は米や俸給を与えて慰留し、外国使節との対面や外交交渉に際して通訳を任せたり、助言を求めたりした。また、この時期に、幾何学や数学、航海術などの知識を家康以下の幕閣に授けたとも言われている。帰国を諦めつつあった彼は、1602年頃日本橋大伝馬町の名主で、家康の御用商人でもあった馬込勘解由の娘、お雪(マリア)と結婚した。彼女との間には、息子のジョゼフと娘のスザンナが生まれている。
やがて江戸湾に係留されていたリーフデ号が沈没すると、船大工としての経験を買われて、西洋式の帆船を建造することを要請される。永らく造船の現場から遠ざかっていたアダムスは、当初は固辞したものの受け入れざるを得なくなり、伊東に日本で初めての造船ドックを設けて80tの帆船を建造した。これが1604年(慶長9年)に完成すると、気をよくした家康は大型船の建造を指示、1607年には120tの船舶を完成させる(この船は1610年になって、房総の御宿海岸で遭難し地元民に救助された前フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベロに家康から貸し出され、サン・ブエナ・ベントゥーラ号と名付けられた)。

この功績を賞した家康は、更なる慰留の意味もあってアダムスを250石取りの旗本に取り立て、帯刀を許したのみならず相模国逸見(へみ)に采地も与えた。また、三浦 按針("按針"の名は、彼の職業である水先案内人の意。姓の"三浦"は領地のある三浦半島に因む)の名乗りを与えられ、異国人でありながら日本の武士として生きるという数奇な境遇を得たのである。のち、この所領は息子のジョゼフが相続し、三浦按針の名乗りもジョゼフに継承されている。
家康に信頼された按針だが、1616年(元和2年)4月に家康が亡くなり、後を継いだ徳川秀忠をはじめ幕臣たちの方針で貿易を平戸のみに制御し鎖国体制を敷いたため、按針の立場は不遇となった。以降の按針の役目は天文官のみとなり、幕臣や次期将軍候補の徳川家光らに警戒されながら、按針は憂鬱の状態のまま、1620年(元和6年)5月26日に平戸で没した。57歳であった。 


さて長々と転載いたしましたが、関連項目として以下のものがありましたのでこれも転載いたします。


ヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン(Jan Joosten van Loodensteijn , 1556年? - 1623年)は、オランダの航海士、朱印船貿易家。日本名は耶楊子(やようす)。

来歴
オランダ船リーフデ号に乗り込み、航海長であるイングランド人ウィリアム・アダムス(三浦按針)とともに1600年豊後に漂着。

徳川家康に信任され、江戸城の内堀内に邸を貰い、日本人と結婚した。屋敷のあった場所は現在の八重洲のあたりだが、この「八重洲」の地名は彼自身に由来する。「ヤン=ヨーステン」が訛って「耶楊子」(やようす)と呼ばれるようになり、これがのちに「八代洲」(やよす)となり、「八重洲」(やえす)になったのである。


さて長々とコピペしましたが、ウィキペディアは権利関係は大丈夫なんでしょうか。まあ悪意もあるわけでも商用目的でもないので大丈夫だとは思いますが、この内容のポイントがいくつかあります。まずイギリス人として初めて日本に上陸した記録の残る人物が彼であること。バーバリー商会に勤めていたこと。ドレーク船長麾下の半国軍の船であったこと。弟の名前がトマス、日本人妻の名前がマリア、子供の名前がヨセフとすべて新約聖書の重要人物の名前であること。激しい新教と旧教の対立が極東の日本でもあったこと。三浦半島に所領を与えられて住んだこと。家康死後は不遇の後に平戸で死亡し墓があることでしょうか。
また息子のジョセフについてもウィキペディアに項目があったのでこれも転載いたします。

ジョセフ・アダムズ / 三浦 按針(二代目)(Joseph Adams, /みうら あんじん、1605年 - 没年不詳)は、江戸時代初期に徳川秀忠、徳川家光に仕えた旗本(禄高は相模国三浦郡逸見250石)。

徳川家康・秀忠に外交顧問として仕えたイギリス人船員・ウィリアム・アダムス / 三浦按針(初代)の息子で、イギリス人(イングランド人)としては「ジョセフ・アダムズ」と名乗る。母は馬込勘解由の娘の雪。妹にスザンナがいる。また、父の故郷のイングランドのケント州ジリンガムには、義理の母のメアリー・ハインと、異母姉のデリヴァレンスと異母兄のジョンがいる。叔父はトマス・アダムスである。

慶長10年(1605年)ごろ生まれる。元和6年(1620年)5月16日、父が57歳で没すると家督と所領を相続し、名乗りを継いで二代目三浦按針となる。父からは佩刀の大半も相続した。ジョセフは父の手によって航海士としての訓練を施されており、船員として航海にも参加していた。 元和10年(1624年)と寛永12年(1635年)にはコーチシナへと航海している。

そのころには、海外貿易にも積極的だった家康が既に没し、消極的な秀忠の治世になっており、次代の家光に至っては排他的な鎖国主義者のために、朱印船貿易は徐々に制限が強化されるようになっていた。しかし、ジョセフは最後まで朱印状・奉書を給付され活動を保証されていた。寛永9年(1632年)まで貿易を行っていた記録が残り、また同13年(1636年)付けの棟礼が現存するといわれ、鎖国直前までは活動が確認できる。

その後の消息は定かでない。死後は領地の三浦に埋葬されたというが、詳しいことは不明である。

うーん。三浦に白人の血が残っているのでしょうかね。
いずれにしても安針塚という場所があります。そこがこの三浦按針の所領だったところ、逸見に当たるところです。

さて今回の場所はこの安針塚、塚山公園になるわけですが、三浦按針の逸話ですが、これにはいくつかの重要な要素が欠けています。彼が日本にたまたま来た時代はまさに1600年という日本史的に非常に重要な時代です。まさにこれから関ヶ原の合戦が始まろうと、石田三成以下西軍方と徳川家康以下東軍方で小早川秀秋に代表されるような裏切りと策謀の駆け引きが真っ最中の只中に放り込まれた訳です。この時世界はいわゆる大航海時代終盤であり、いわゆるポルトガルとスペインによる世界の分割がなされたのちに、イギリス海軍がスペイン海軍を破りエリザベス一世配下の海賊ドレーク船長が世界一周を成し遂げ、まさにその後の大英帝国の礎を築き始めたそんな時なのです。イエズス会の修道士たちは織田信長から豊臣秀吉、果ては豊臣家と徳川方との争いを全てを知りつくし、伊達や島津、琉球からフィリピン、上海、香港、インドまで全て知り尽くしていた状況です。そこにまさにウィリアム・アダムスは血気盛んな船乗りとして放り込まれるわけです。お気づきかもしれませんが、状況としては極めてジョン・万次郎に似ている感じですね。
按針という名前は水先案内人という意味とありますが、まさに羅針盤を操るコンパスを手にした人間ということです。当時はもちろんフリーメイスンリーのグランドロッジ結成前の時代で、ウィリアム・アダムスの経歴からいって、それ以前のロッジに加入するようなフリーメイスンである可能性はほとんどないわけですが、彼が行った行動、その他を見るに典型的なキリスト教精神に基づく不屈の精神で日本で生涯を全うしていることが分かると思います。彼らの存在により、今日に至るまで続くような日本の伝統宗教である仏教・神道とキリスト教との宗教対立のもとになるような江戸鎖国体制を促進した影響はあるものと思われます。

さてウィキペディアではあえて書かれていないのだと思いますが、この人の日本史史上の最大の功績はジェームズ1世に親書を送り、大阪冬の陣で徳川方にイギリス製の最新の大砲を売ったということでしょうか。この事はあまり日本史で述べられることはありませんが、実際には日本の歴史をほぼ決定するような重要な活躍をしたと言えると思います。彼の存在によって当時難攻不落を誇っていた大坂城が和睦に応じ、その後の大坂夏の陣での豊臣氏の滅亡につながり、徳川幕藩体制の確立につながるわけです。

これに関してと言ってはあれですが、実は豊臣氏の日本統一に関してもこれと似たような事例があります。豊臣氏の日本統一といえば一般には小田原城での北条氏の滅亡をもって全国統一とされていますが、実はこの時に籠城戦で小田原城は何年も持ちこたえる構造をしていました。小田原城はそもそも特産のかまぼこで知られるように相模湾の海流の関係で目の前の漁場が非常に豊かであり、また当時の戦国時代の築城技術の粋を集めていたために、広大な城の範囲と内部での耕作や井戸をもち合わせ、難攻不落というよりもいわゆるヨーロッパの城郭都市と同じ形で、内部で循環する経済があり長期戦を維持する補給があったのです。このためいくら籠城戦を戦おうともお互いに疲弊するのみで、いわゆる食料や水が足りなくなることが無いのでした。ただ籠城戦自体神経戦の部分が強く、籠城する側は圧倒的に不利であり、小田原城攻城はすでに北条氏が仲間が全くいない状態で、頼りの伊達氏や島津氏にも包囲されている状況だったので、落ちるのは時間の問題であったのです。その際に最後の決め手になったのが石垣山一夜城の出現であったといわれています。小田原城を見降ろす石垣山の頂上に、日本で最初の西洋流の石組をもった石垣城を建築し、一夜で建築したように隠していた幕を取って小田原城に見せつけることで、その築城技術や建築技術の高さを誇り、そこから弓矢や鉄砲を打ちおろすことで、完全に籠城方は戦意を失い当主が切腹することで敗北を決したということです。(4/1追記:北条氏と交渉にあたったのは後にこのブログでも取り上げた黒田官兵衛だそうです。)豊臣氏、徳川氏ともに天下統一の決定的な瞬間で宣教師や三浦按針がもたらした西洋の進んだ軍事技術が決め手となっているのが実は日本の戦国時代の真実なのです。(追記:石垣山一夜城については、ウィキペディアなどでも編集がすすんで、基本的には関東で最初の本格的な石組というところで落ち着いているようです。実際は豊臣秀吉は織田信長以来の宣教師との関係が密であり、安土城でも西洋建築の影響が大きく認められるところであり、この石垣山一夜城においてそういう西洋建築の影響が大きく認められ、それが威嚇効果を良くもたらした事は想像できます。なかなか日本史の常識は簡単には変わらないという一つの例だと思われます。)

石垣の技術なんていうとまさに石工の技術そのものであり、フリーメイスンリーの源流を感じさせる出来事だと思います。

次回はそのウィリアム・アダムスを記念した安針塚のある塚山公園の現在についてフリーメイスンリー的考察を加えます。

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