FREEMASONRY
Blue Lodge, Scottish Rite & York Rite in Japan
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これはまあ非常にマニアックなキリスト教の神学論なんですが、まあシンボリズムの話であり実際上の日本での隠れキリシタン系統のシンボリズムとしては重要なものであり、ここで論考することとします。
さてまあなんで瓢箪を取り上げたかというと、相変わらず横須賀の書店で以下の本を手に取って立ち読みしたからでした。
まあ立ち読みしただけなので、買って全部読んだわけではないのであれなんですが、その結果世界中で瓢箪を栽培する文化があり、シンボルとなるわけですが、この本の中では以前にこのブログでも取り上げたキリスト教での瓢箪のシンボリズムを一切触れていなかったわけでした。千利休とか秀吉とかも出てきてシンボリズムの話になっているわけですが、それらとイエズス会のつながりや巡礼者の象徴であるなどの話が一切なかったのですね。2015年出版ということで、まあさすがに著者の指向でキリスト教関連を知っていながらあえて無視したともちろん私は考えたわけですが、まあそれならどれだけシンボリズムとして瓢箪はキリスト教の関連であるのかという事を確認しないといけないなあと思い、こういう内容となったわけです。
もちろんフリーメイスンリーとして瓢箪はシンボルとしては一切出てきませんし、瓢箪が象徴的に表れるのは御存知の通り羽柴秀吉の旗印としてからであり、それがスペインの巡礼者の象徴であり、恐らくイエズス会の修道士が教えたのか、自然となったのかはわかりませんが、秀吉の出世のポイントとなったと書いてきました。それでまあキリスト教、ユダヤ教のシンボリズムといえば聖書という事で、聖書におけるひょうたんを探索することとします。
聖書本文検索でひょうたんで検索すると以下のページがヒットします。
1:列王記上/ 06章 18節
神殿の内部のレバノン杉には、ひょうたんと花柄の浮き彫りが施されていた。すべてがレバノン杉で、石材は見られなかった。
2:列王記上/ 07章 24節
縁の下にはひょうたんがその周囲を取り巻いていた。ひょうたんは、一アンマにつき十個の割合で「海」を取り巻いていた。ひょうたんは二列であったが、これは「海」の鋳造のときに鋳られたものである。
まあソロモン神殿の図柄なんですね。ユダヤ教的に瓢箪の意味というのが分かりませんが、KJVではknopsとされていて、まあわかりませんね。(追記:海はマリア信仰ともかかるのだと思います。海の表現の近くに瓢箪があるのは何かしらユダヤ教的に意味があるのだと思われます。乳房の連想や水分補給の関連の意味もあるのかもしれません。)瓢箪は英語ではgourdとcalabashという表記があり、ヘブライ語ではそれに対する訳がカボチャに行きついてしまうようでしたが、calabashの英語版ウィキペディアの項目にユダヤ教での意味が一部書かれていました。
Jewish culture
In the Safaradi Jewish culture, the gourd is eaten during Rosh Hashana (Jewish New Year’s Eve). According to the texts the gourd is eaten as a symbol of tearing apart the enemies who may come and attack. It is called Qaraa, which in Hebrew means “torn” קרע. “שיקרעו אויבנו מעלינו” meaning “may our enemies be torn apart over from us”.
ユダヤ文化
サファラディのユダヤ文化では、ひょうたんはロシュハシャナ(ユダヤ人の大晦日)に食べられます。テキストによると、ひょうたんは来て攻撃する可能性のある敵を引き裂く象徴として食べられます。それはカラアと呼ばれ、ヘブライ語で「引き裂かれた」קרעを意味します。 「שיקרעו אויבנו מעלינו」は、「私たちの敵が私たちから引き裂かれますように」という意味です。
グーグル翻訳をそのまま載せますが、まあなかなかアフリカでは打楽器としての利用が多いなどあり、ユダヤ教での意味はやはり神聖な意味があるようです。ローシュ・ハッシャーナーは大体スコットの前の期間で太陽暦の9月頃だそうです。カボチャとも似た意味になるようなので、ハロウィンの習慣にもかかっているのでしょうかね。
それと瓢箪はヨナ書の表記に繋がるようでした。新共同訳のヨナ書では瓢箪ではなくトウゴマと表記されているんですが、ヘブライ語聖書ではキカヨンというらしく、Kikayon (קִיקָיוֹן qîqāyōn) らしいのですが、まあちょっと難しいですね。KJVではgourdとあり、まあそのまま読めば瓢箪なんですが、あえて日本語ではトウゴマに変更されているようでした。どうもウィキペディアのキカヨンの項目を読むと、瓢箪に相当するヘブライ語が無いようなんですね。言葉が無いのに、ローシュ・ハッシャーナーで食べるとは何だと思うんですが、まあ何となく神聖な植物という感じがしてきます。
ええそいでいろいろ調べたらわかりました。ローシュ・ハッシャーナーで食べるものは有名なところでははちみつ漬けのリンゴとかザクロだとか色々あるわけですが、カラという植物だそうで、学名で調べたら夕顔で干瓢でした。夕顔=瓢箪と同じ種であるが、形が異なるわけで、瓢箪は変異種が広まったそうで、日本では夕顔も瓢箪もインドから伝わったとありますが、もちろん世界に広まる際にはもう変異していたのでしょうから遺伝子変異を調べたのでなければアフリカを出る際には分かれていたものと思われます。まあ考古学的には睡蓮なんかと一緒でアフリカ原産というのが最も考えやすいみたいですが、厳密には同定されていないようです。それでまあかなり最古の栽培植物であって、夕顔は食品として、瓢箪は水筒や楽器として古代より世界中に広まっていたようです。つる植物で栽培が容易なんでしょう。日本では夕顔は源氏物語でしょうか。干瓢は特産は古代は大阪であって現在は栃木とかありました。日本の歴史的には秀吉の旗印として瓢箪が出てきたのが最初で、それ以前にも織田信長は携帯用に使っていたそうで、日本の歴史上それ以前に明確に文献や物的証拠があるのは厳しいんじゃないでしょうか。日本語のウィキペディアでは明らかに夕顔と瓢箪を混同しており、貝塚で瓢箪の種子が発見されたとありますが、夕顔ではないでしょうかね。いずれにしても今世紀に瓢箪の遺伝子研究はアメリカなどを中心に盛んに行われ、恐らく日本に瓢箪が伝わったのはかなり遅いのではないかと私は考えています。まあ瓢箪の伝来で検索すると専門の研究者の方々のブログがたくさん見られ、上にあげた恐らく日本の第一人者の方の本がまた出てくるわけですが、まあそこでやっぱりそのアフリカ起源説とキリスト教、ユダヤ教で普遍的であって、それがいかに日本や太平洋文化地域で普遍的になったかがポイントであるようでした。まあ現在は新型コロナと同様にDNA検査で現代の品種も考古学上の品種も変異同定ができますので、ほぼ結論は出ているものと考えます。結局誰が瓢箪を日本に持ってきたかがポイントのようでした。まあなかなか瓢箪一つとっても難しいという事だと思います。
(追記:瓢箪が夕顔の原種であるようでした。毒素のある方が原種で、毒素が抜けたものが変異種のようです。ユダヤ教で古くから食べていたとすると変異種自体が食用として広まったと考えられるのでしょうか。まあ形にしろ毒素のあるなしにしろ変異種が多く派生しそれぞれ広まったと考えられると思います。)
(追記:品種でも見るとどうも一般的な瓢箪の形とされる上下に膨らみを持った瓢箪は日本では千成瓢箪のようですね。おそらくこの形の品種がキリスト教伝来とともに来たのではないでしょうか。それ以前も鶴首瓢箪のような形は存在して容器として利用されたようですが、恐らく紐をかける形ではないので携帯用での利用としては不十分だったのだと思われます。)
でまあ瓢箪といえば昔から形の良しあしで使いやすさや美的な価値を決めたりするのが栽培家の楽しみでもあったわけですが、この形がフリーメイスンリーのシンボルとしては涙型、ティアドロップとなるようです。瓢箪型の二重でなくとも尖った丸形で図形的にシンボルなんですね。フリーメイスンリー的には瓢箪は涙型の二重型で変形したシンボルという事になるようです。瓢箪自体はそういうわけで恐らくイエズス会宣教師が世界中に広めたんでしょう。こういうのを書いていると銀や金の精錬術や養蜂や石材加工技術などと一緒でまさにフリーメイスンリーの技術の伝来の一部であることが強く感じられる話でしょうか。


(追記:他のヒョウタン専門家の方の作った画像です。こうして俯瞰してみると明らかに千成瓢箪を代表として、イエズス会のキリスト教布教と一致して形の良い瓢箪がその地域に根付いているのがわかる感じでしょうか。その地域とフリーメイスンリーの発展が一致しているのもまた面白い限りです。専門家の方々の妙もそういうところにあるんだと思います。)
まあ二重の涙型という事でS字曲線の美が生じるわけですが、S字の美といえばブラザーホガースでもあり、巻貝の黄金比φとは異なる、一つの美の象徴でもあるかと思われます。まあ夕顔で瓢箪は作れないわけで、同様に瓢箪は食用にはならないわけで、その辺の遺伝子変異は明確なんでしょう。単なる形の差だけではないんですね。まあそういうところでこのつる植物というものの栽培の容易さからくる植物としての重要性がわかってくるのではないかと思います。ブドウがキリスト教の象徴というところも伊達ではないんですね。それでまあ重要であるがゆえにややこしくなるんですが、瓢箪の歴史でしたっけか。
(追記:豊臣秀吉の初出の名前が木下藤吉郎であり、食用ではありませんが日本の代表的なつる植物である藤が名前に認められます。木下で韓国名の朴をイメージすることもあるかと思いますが、朴氏は新羅の代表的な姓氏であり、その初代はヒョウタン型の卵から生まれた伝説なんてのもあるそうです。その後羽柴秀吉と改名して、明らかなシンボリズムを認めていくのも千利休と同様にイエズス会士の差配を感じさせます。またイエズス会にまつわるつる植物としては南米原産のパッションフルーツ、時計草があります。観賞用の植物としては代表的なイエズス会によるシンボリズムが徹底した植物のようです。やはりつる植物というところがブドウなどと共通するところでしょうか。以前も挙げましたが日本の代表的な歌人・俳人の正岡子規の鶏頭のシンボリズムとへちまのシンボリズムもこのウリ科の植物の共通だと思われます。)
まあシンボリズムの話をすると宗教や学術の専門の知識も必要になりややこしくなるわけですが、まあそれがまさにフリーメイスンリーであるわけです。それで瓢箪のシンボリズムなわけですが、これがまたややこしそうなんですが、キリスト教の新約聖書になるわけですね。ヨナ書を受けてのヨナのしるしとなるわけです。まあ新約聖書がユダヤ戦争後の意図をもって全人類的な汎民族的な宗教を目指したという事を理解すると分かりやすいわけですが、イエスがヨナのしるしといってまあ魚がキリスト教のしるし、シンボルになったというのがローマ帝国時代のイクトゥスの流れではあるわけですが、上述のように瓢箪も明らかにわかりやすいたとえのシンボルであり、まあそう考えると瓢箪も明らかにキリスト教のシンボルとなっちゃうわけですね。まあヨナ書の植物がトウゴマなのか瓢箪なのか、あるいは夕顔なのかというところがあるわけですが、もちろん可能性としてはユダヤ教であれば夕顔の可能性が高いわけですが、とにかくアフリカ原産であれば品種も多く、実用であったり食用であったりその他多数名称もあるという、この辺が秘密というところになるのだと思いますが、そういう文化文明の話であるわけです。でまあもちろんそういうわけで公式には瓢箪がキリスト教のシンボルとはならないわけですが、そういうわけで隠れキリシタンのシンボルとなったわけですね。まあインド洋、太平洋の世界ではご存知の通り魚ではキリスト教のシンボルたりえないということは明確だと思われます。
(2023.11.15追記:アルブレヒト・デューラーの版画の作品に書斎の聖ヒエロニムスというものがあり、そこに聖書を翻訳したヒエロニムスがヨナ記でのキリスト教のシンボルとなる植物の翻訳について聖アウグスティヌスと論争してラテン語でひょうたんと表記したというのがあるそうで、瓢箪が描かれています。

まあキリスト教的には瓢箪がキリスト教のシンボルとなるかというのはとても古くからの植物にまつわるシンボリズムの有名な話だという事なのでしょう。つる植物の成長の早さとヨシュア、イエスという聖書の中での役割の話でもあるようです。)
それでまあ隠れキリシタンのシンボルとしては良いのだと思いますが、それで千利休が花活けに利用したとか、千利休は竹も花活けにしたわけですが、そもそも日本では竹の水筒の方が一般的であったと思いますので、まあ瓢箪といえばお酒の入れ物で少し格上の水筒であったわけで、現代でいえばペットボトルか魔法瓶かというところですが、まあ陶器の器も瓶子であったわけでその後徳利になるわけですが、革袋もあったでしょうから、現代でいえばまさにそういうものであったわけでしょう。あの織田信長が利用していたわけですから使いやすかったわけです。千利休の弟子の古田織部はへうげものなんてのもあったりして、これも瓢げものだと分かれば、あの瓢げた水差しも瓢箪の形なんだと分かるわけで、まあそのまま隠れキリシタンのシンボル、キリスト教のシンボルなわけですね。



(追記:千利休の銘の瓢箪による花入れでは有名なもので顔回というものがありました。

こちらは瓢箪の上部を切ってしまっていて、そもそもの瓢箪の命名が孔子が論語の中で最も評価する顔回の質素な生活を表現して箪食瓢飲とした言葉からきているようで、子曰、賢哉回也。一簞食、一瓢飮、在陋巷。人不堪其憂。回也不改其樂。賢哉回也。の一文であるようですが、この文中の瓢はとくに瓢箪と限定した器ではなく、汁物の器の意味だそうです。おそらく千成瓢箪が普及する以前は瓢箪の器はこのように上部を切った形が多かったのでしょう。千利休の由来書きには巡礼者からもらったとかあるそうで、千利休ですからイエズス会修道士から巡礼者のシンボルであると聞いていた可能性は多々あるでしょう。)
まあそれで、キリスト教のシンボルとしての巡礼者の象徴としての瓢箪を見ていこうかと思います。サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路で検索すると日本語でもたくさん出てきて、熊野古道と世界遺産で一緒になってどんどん日本人も来なさいとキャンペーンがあるわけですが、まあその中で繰り返し出てくるのがホタテのシンボルと杖と瓢箪になるわけです。

まあ完全に巡礼を紹介する旅行会社のホームページからの無断借用なんですが、非常にわかりやすい写真だったので使わせていただきます。首からかけたポーチがスロンというそうですが、スコットランドの民族衣装でのスポーランというポーチとそっくりで、ケルト文化圏での相似を思わせます。杖もそのまま紋章にもなったりしているそうですが、瓢箪をぶら下げた形はフリーメイスンリーでの杖のシンボルであるトバルカインtubal-cainとよく似た形にもなるんですね。で、検索するとすぐわかるんですが、トバルカインのフリーメイスンリーでの初出がポルトガルのロッジらしく、さらにスペインにはトバルカインの伝説がある州もあるという事で、冶金学や鍛冶屋の最初という象徴になるようですが、巡礼者が用いる杖の象徴のシンボリズムが明らかにイベリア半島でフリーメイスンリーと結びついたという事のようです。シンボリズム自体がこうしたキリスト教、ユダヤ教の歴史の中で様々な民族や宗教の歴史と一体となって成立してきているという事がわかるかと思います。特にこの一般のキリスト教徒が見過ごしてしまいがちなアダムとイブからカインとアベルとセト、ノアとアブラハムとイサク、ヤコブ、ヨセフ、モーゼ、ヨシュア、ダビデ、ソロモンといった、ユダヤ教で大事にする旧約聖書の預言者の流れの中から象徴と教えをいただくというのは、そのまま新約聖書の教えの解釈に繋がりますし、それらがユダヤ教やキリスト教の本来の教えである自己の内省と日々の自己研鑽、まさに啓発であるという事なのだと思います。修行や巡礼という行為による啓発とロッジでの儀式による啓発という行為がリンクした、まさにユダヤ教とキリスト教とリンクしたフリーメイスンリーの象徴なのだと思います。


(杖の象徴から生じた聖ジェームズ十字はレコンキスタの歴史もあり剣の形になっているようです。巡礼者の杖の実用的な面として実際に武器でもあったという事だと思われます。またエルサレムがイスラム教徒に支配されている時代にはスペインでの巡礼は重要な巡礼であったようです。ただ第二次世界大戦後に廃れ、現在のような盛況になってきたのは1990年代のベルリンの壁崩壊以降であるようです。スペイン内戦からのファシズムと共産主義の歴史が偲ばれます。)
それで話が完全にフリーメイスンリーのトバルカインの象徴の方に移ってきたわけですが、まあこれについては上述した通りイベリア半島での巡礼の歴史が大事なのだと思いますが、フリーメイスンリーの象徴としてはヘブライ語のその音とハイラム=アビフ伝承から英語圏ではtwo ball caneの連想で、二つのボールと杖といかにも男性器の象徴の形になっています。また二つのボールが中に入った杖の形で示される時もあります。いずれもそういう鍛冶屋の連想からの木材加工になるんでしょうが、そういう杖の制作、道具の制作と、実際のイベリア半島での巡礼での杖にまつわる象徴の歴史、そして当然イベリア半島を中心とした大航海時代のイエズス会士の布教にともなった冒険や探検の歴史が積み重なるのでしょう。
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まあこうしてみると明らかにトバルカインの象徴がスペインの巡礼の象徴の杖の歴史をベースとしてその後に対応して作られたものがわかるわけですが、同様なヨーロッパの地の歴史を背景としたシンボルとしてはナチスの保健省の象徴でもあった勿忘草があるかもしれません。
杖のシンボリズムになってしまったんですが、このブログとしては瓢箪のキリスト教的なシンボリズムという事で、楕円とか魚型とか十字とかあるわけですが、二重楕円の連続ともいうのが瓢箪型であって、特徴的であるわけです。もちろんそれは女性の体形を象徴するとか乳房を連想させるとか、はたまた杖と結びつけば陰嚢の形を連想させるようでもあり、松笠の形の身体部分への類似性のような象徴性があるわけです。まあそういう図形的ないわゆるシンボルとしての基本的特徴を備えていて、またそれらが恐らく大航海時代のキリスト教徒たちによって携帯性が良い形のものが普及した結果、さらに道具として便利さを提供した結果、世界中の多くの地域でその形から愛玩されシンボルとして認められているのかと思います。ナーガのシンボリズム、龍のシンボリズムもそういう面もあり、一つの自然発生的なグノーシス的なものであるかと思われます。まあなかなかシンボルの歴史もそれ自体がシンボルとして成り立つ理由であり、たどっていくと難しいという事だと思われます。
さてそれでキリスト教社会での瓢箪のシンボリズムの実際なんですが、なかなか面白いのが英語のそれぞれGourdとCalabashで、この二つの単語の違いもよくわからないのですが(追記:difference between Gourd and Calabashで検索すると以下の辞書が出てきました。Gourd as a noun is any of the climbing or trailing plants from the family cucurbitaceae, which includes watermelon, pumpkins and cucumbers. while Calabash as a noun is a vine grown for its fruit, which can either be harvested young and used as a vegetable or harvested mature, dried and used as a container, like a gourd.多分翻訳してもあまりわからないとおもうんですね。まあやはりそれは文化であり文明でありそれだけ食用や実用として細分化しているからという事なんだと思います。)、人名ではカナダ出身のバッハの演奏で有名なピアニストの名前がグレン・ハーバート・グールドGlenn Herbert Gould 1932年9月25日 - 1982年10月4日で、RとLの綴りの違いはあるんですが、特徴的なピアノの弾き方と正確な運指の正統派の奏法のギャップが特徴でしょうか。命日はアッシジのフランシスコの聖日であり、アッシジのフランシスコもスペインの巡礼は行ったとかで、宗教的なバックグラウンドはあるものと思われます。あとは有名なカラバッジョ、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオMichelangelo Merisi da Caravaggio1571年9月29日 - 1610年7月18日はイタリア人で、カラバッジョ村が由来だそうですが、まあイタリア語では瓢箪はzuccaだそうですが、ラテン語ではcucurbitaで、スペイン語ではcalabazaであり、カラバッジョ村の村名の由来はカラヴァッジョのローマ名であるカラヴァギウムCaravagiumからであるということで、どうも特産品がウリ科のメロンということで、まあローマ時代からどうもメロンを食べていて、その名前なんじゃないかと推測します。実際は語源不明ということのようです。また天然温泉があり古代より巡礼地であったようです。まあ美という観点からは瓢箪の形というのは重要ではないかと思われますので、何かしら関連があるのかと思われました。時代的には織田信長から徳川家康の時代の人であり、絵画は主に聖書のテーマでレオナルド・ダヴィンチやラファエロの画題と共通のものが多いようでした。人物画に合わせた象徴画をよく描いていたようでした。また楽器の描写が多いのですが、瓢箪型をしたヴァイオリンの原型となる楽器の描写がいくつか認められました。影の感じなんかはのちのレンブラントやフェルメールに繋がる表現なんではないでしょうか。果物の表現ではイチジクやブドウが多く、特に瓜や瓢箪といったものは見当たりません。
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楽器はヴィオラ・ダ・ガンバとヴァイオリンが同時に描かれているのが当時の楽器開発の時代背景があるのでしょうか。また確か教科書的にはカラバッジョといえば最後のメデューサの顔であったと思いますが、ギリシア神話を題材とした絵は特に多くはないようでした。まあ瓢箪の英語名CalabashとCaravaggioが似ているよ、RとLが違う、BとVも違うけどというだけでよいのだと思われます。特にカタカナにすると似ているんですね。
あとは最近のITの動画配信サービスのHuluは中国語の瓢箪、日本語だとコロと発声するんだと思いますが、葫蘆の中国語での発声からきているそうです。また日本では上述の茶道や江戸時代の瓢箪の表現以外には、戦後のテレビ人形劇で記憶に新しいひょっこりひょうたん島でしょうか。
(追記:葫蘆コロに関しては日本だと長寿子供向け漫画雑誌としてコロコロコミックがあるでしょうか。ガンダムやドラえもんの雑誌だと思います。戦前だと少年倶楽部で戦後すぐが漫画少年とかだと思います。まあコロコロコミックまで瓢箪関連にするのはあれかもしれませんが、ドラえもんの道具でも瓢箪なんかはあるそうです。コロとまだ呼べた時代じゃないでしょうか。)
(追記:ヒョウタンに関する日本のことわざとしてはヒョウタンから駒が一番有名だと思います。こちらの語源としては中国の明代の小説の仙人の話と、日本の鎌倉時代の宇治拾遺物語の話が挙げられるようです。慣用句として使われるようになったのは明らかに江戸時代からなので、そういう点でも秀吉時代以降と考えられるようです。)
(追記:瓢箪で土産物は相当たくさんあると思いますか、有名な神社のものでは宇佐神宮のものがありました。私自身購入していました。もちろん大友宗麟の改宗後の影響と考えられますが、九州は島原の乱の土地ですから、まさに隠れキリシタンの象徴、九州の象徴であるわけですね。カトリックに改宗すれば潜伏キリシタンであるわけですが、まあ秀吉のキリスト教禁教令の土地でもあり、秀吉の旗印も瓢箪であったわけで、まさに現代でも隠れキリシタンの象徴と日本では表現する他ないわけです。織部灯籠と非常によく似たものかと思われます。)
まあ瓢箪のシンボリズム考でした。
さてまあなんで瓢箪を取り上げたかというと、相変わらず横須賀の書店で以下の本を手に取って立ち読みしたからでした。
まあ立ち読みしただけなので、買って全部読んだわけではないのであれなんですが、その結果世界中で瓢箪を栽培する文化があり、シンボルとなるわけですが、この本の中では以前にこのブログでも取り上げたキリスト教での瓢箪のシンボリズムを一切触れていなかったわけでした。千利休とか秀吉とかも出てきてシンボリズムの話になっているわけですが、それらとイエズス会のつながりや巡礼者の象徴であるなどの話が一切なかったのですね。2015年出版ということで、まあさすがに著者の指向でキリスト教関連を知っていながらあえて無視したともちろん私は考えたわけですが、まあそれならどれだけシンボリズムとして瓢箪はキリスト教の関連であるのかという事を確認しないといけないなあと思い、こういう内容となったわけです。
もちろんフリーメイスンリーとして瓢箪はシンボルとしては一切出てきませんし、瓢箪が象徴的に表れるのは御存知の通り羽柴秀吉の旗印としてからであり、それがスペインの巡礼者の象徴であり、恐らくイエズス会の修道士が教えたのか、自然となったのかはわかりませんが、秀吉の出世のポイントとなったと書いてきました。それでまあキリスト教、ユダヤ教のシンボリズムといえば聖書という事で、聖書におけるひょうたんを探索することとします。
聖書本文検索でひょうたんで検索すると以下のページがヒットします。
1:列王記上/ 06章 18節
神殿の内部のレバノン杉には、ひょうたんと花柄の浮き彫りが施されていた。すべてがレバノン杉で、石材は見られなかった。
2:列王記上/ 07章 24節
縁の下にはひょうたんがその周囲を取り巻いていた。ひょうたんは、一アンマにつき十個の割合で「海」を取り巻いていた。ひょうたんは二列であったが、これは「海」の鋳造のときに鋳られたものである。
まあソロモン神殿の図柄なんですね。ユダヤ教的に瓢箪の意味というのが分かりませんが、KJVではknopsとされていて、まあわかりませんね。(追記:海はマリア信仰ともかかるのだと思います。海の表現の近くに瓢箪があるのは何かしらユダヤ教的に意味があるのだと思われます。乳房の連想や水分補給の関連の意味もあるのかもしれません。)瓢箪は英語ではgourdとcalabashという表記があり、ヘブライ語ではそれに対する訳がカボチャに行きついてしまうようでしたが、calabashの英語版ウィキペディアの項目にユダヤ教での意味が一部書かれていました。
Jewish culture
In the Safaradi Jewish culture, the gourd is eaten during Rosh Hashana (Jewish New Year’s Eve). According to the texts the gourd is eaten as a symbol of tearing apart the enemies who may come and attack. It is called Qaraa, which in Hebrew means “torn” קרע. “שיקרעו אויבנו מעלינו” meaning “may our enemies be torn apart over from us”.
ユダヤ文化
サファラディのユダヤ文化では、ひょうたんはロシュハシャナ(ユダヤ人の大晦日)に食べられます。テキストによると、ひょうたんは来て攻撃する可能性のある敵を引き裂く象徴として食べられます。それはカラアと呼ばれ、ヘブライ語で「引き裂かれた」קרעを意味します。 「שיקרעו אויבנו מעלינו」は、「私たちの敵が私たちから引き裂かれますように」という意味です。
グーグル翻訳をそのまま載せますが、まあなかなかアフリカでは打楽器としての利用が多いなどあり、ユダヤ教での意味はやはり神聖な意味があるようです。ローシュ・ハッシャーナーは大体スコットの前の期間で太陽暦の9月頃だそうです。カボチャとも似た意味になるようなので、ハロウィンの習慣にもかかっているのでしょうかね。
それと瓢箪はヨナ書の表記に繋がるようでした。新共同訳のヨナ書では瓢箪ではなくトウゴマと表記されているんですが、ヘブライ語聖書ではキカヨンというらしく、Kikayon (קִיקָיוֹן qîqāyōn) らしいのですが、まあちょっと難しいですね。KJVではgourdとあり、まあそのまま読めば瓢箪なんですが、あえて日本語ではトウゴマに変更されているようでした。どうもウィキペディアのキカヨンの項目を読むと、瓢箪に相当するヘブライ語が無いようなんですね。言葉が無いのに、ローシュ・ハッシャーナーで食べるとは何だと思うんですが、まあ何となく神聖な植物という感じがしてきます。
ええそいでいろいろ調べたらわかりました。ローシュ・ハッシャーナーで食べるものは有名なところでははちみつ漬けのリンゴとかザクロだとか色々あるわけですが、カラという植物だそうで、学名で調べたら夕顔で干瓢でした。夕顔=瓢箪と同じ種であるが、形が異なるわけで、瓢箪は変異種が広まったそうで、日本では夕顔も瓢箪もインドから伝わったとありますが、もちろん世界に広まる際にはもう変異していたのでしょうから遺伝子変異を調べたのでなければアフリカを出る際には分かれていたものと思われます。まあ考古学的には睡蓮なんかと一緒でアフリカ原産というのが最も考えやすいみたいですが、厳密には同定されていないようです。それでまあかなり最古の栽培植物であって、夕顔は食品として、瓢箪は水筒や楽器として古代より世界中に広まっていたようです。つる植物で栽培が容易なんでしょう。日本では夕顔は源氏物語でしょうか。干瓢は特産は古代は大阪であって現在は栃木とかありました。日本の歴史的には秀吉の旗印として瓢箪が出てきたのが最初で、それ以前にも織田信長は携帯用に使っていたそうで、日本の歴史上それ以前に明確に文献や物的証拠があるのは厳しいんじゃないでしょうか。日本語のウィキペディアでは明らかに夕顔と瓢箪を混同しており、貝塚で瓢箪の種子が発見されたとありますが、夕顔ではないでしょうかね。いずれにしても今世紀に瓢箪の遺伝子研究はアメリカなどを中心に盛んに行われ、恐らく日本に瓢箪が伝わったのはかなり遅いのではないかと私は考えています。まあ瓢箪の伝来で検索すると専門の研究者の方々のブログがたくさん見られ、上にあげた恐らく日本の第一人者の方の本がまた出てくるわけですが、まあそこでやっぱりそのアフリカ起源説とキリスト教、ユダヤ教で普遍的であって、それがいかに日本や太平洋文化地域で普遍的になったかがポイントであるようでした。まあ現在は新型コロナと同様にDNA検査で現代の品種も考古学上の品種も変異同定ができますので、ほぼ結論は出ているものと考えます。結局誰が瓢箪を日本に持ってきたかがポイントのようでした。まあなかなか瓢箪一つとっても難しいという事だと思います。
(追記:瓢箪が夕顔の原種であるようでした。毒素のある方が原種で、毒素が抜けたものが変異種のようです。ユダヤ教で古くから食べていたとすると変異種自体が食用として広まったと考えられるのでしょうか。まあ形にしろ毒素のあるなしにしろ変異種が多く派生しそれぞれ広まったと考えられると思います。)
(追記:品種でも見るとどうも一般的な瓢箪の形とされる上下に膨らみを持った瓢箪は日本では千成瓢箪のようですね。おそらくこの形の品種がキリスト教伝来とともに来たのではないでしょうか。それ以前も鶴首瓢箪のような形は存在して容器として利用されたようですが、恐らく紐をかける形ではないので携帯用での利用としては不十分だったのだと思われます。)
でまあ瓢箪といえば昔から形の良しあしで使いやすさや美的な価値を決めたりするのが栽培家の楽しみでもあったわけですが、この形がフリーメイスンリーのシンボルとしては涙型、ティアドロップとなるようです。瓢箪型の二重でなくとも尖った丸形で図形的にシンボルなんですね。フリーメイスンリー的には瓢箪は涙型の二重型で変形したシンボルという事になるようです。瓢箪自体はそういうわけで恐らくイエズス会宣教師が世界中に広めたんでしょう。こういうのを書いていると銀や金の精錬術や養蜂や石材加工技術などと一緒でまさにフリーメイスンリーの技術の伝来の一部であることが強く感じられる話でしょうか。


(追記:他のヒョウタン専門家の方の作った画像です。こうして俯瞰してみると明らかに千成瓢箪を代表として、イエズス会のキリスト教布教と一致して形の良い瓢箪がその地域に根付いているのがわかる感じでしょうか。その地域とフリーメイスンリーの発展が一致しているのもまた面白い限りです。専門家の方々の妙もそういうところにあるんだと思います。)
まあ二重の涙型という事でS字曲線の美が生じるわけですが、S字の美といえばブラザーホガースでもあり、巻貝の黄金比φとは異なる、一つの美の象徴でもあるかと思われます。まあ夕顔で瓢箪は作れないわけで、同様に瓢箪は食用にはならないわけで、その辺の遺伝子変異は明確なんでしょう。単なる形の差だけではないんですね。まあそういうところでこのつる植物というものの栽培の容易さからくる植物としての重要性がわかってくるのではないかと思います。ブドウがキリスト教の象徴というところも伊達ではないんですね。それでまあ重要であるがゆえにややこしくなるんですが、瓢箪の歴史でしたっけか。
(追記:豊臣秀吉の初出の名前が木下藤吉郎であり、食用ではありませんが日本の代表的なつる植物である藤が名前に認められます。木下で韓国名の朴をイメージすることもあるかと思いますが、朴氏は新羅の代表的な姓氏であり、その初代はヒョウタン型の卵から生まれた伝説なんてのもあるそうです。その後羽柴秀吉と改名して、明らかなシンボリズムを認めていくのも千利休と同様にイエズス会士の差配を感じさせます。またイエズス会にまつわるつる植物としては南米原産のパッションフルーツ、時計草があります。観賞用の植物としては代表的なイエズス会によるシンボリズムが徹底した植物のようです。やはりつる植物というところがブドウなどと共通するところでしょうか。以前も挙げましたが日本の代表的な歌人・俳人の正岡子規の鶏頭のシンボリズムとへちまのシンボリズムもこのウリ科の植物の共通だと思われます。)
まあシンボリズムの話をすると宗教や学術の専門の知識も必要になりややこしくなるわけですが、まあそれがまさにフリーメイスンリーであるわけです。それで瓢箪のシンボリズムなわけですが、これがまたややこしそうなんですが、キリスト教の新約聖書になるわけですね。ヨナ書を受けてのヨナのしるしとなるわけです。まあ新約聖書がユダヤ戦争後の意図をもって全人類的な汎民族的な宗教を目指したという事を理解すると分かりやすいわけですが、イエスがヨナのしるしといってまあ魚がキリスト教のしるし、シンボルになったというのがローマ帝国時代のイクトゥスの流れではあるわけですが、上述のように瓢箪も明らかにわかりやすいたとえのシンボルであり、まあそう考えると瓢箪も明らかにキリスト教のシンボルとなっちゃうわけですね。まあヨナ書の植物がトウゴマなのか瓢箪なのか、あるいは夕顔なのかというところがあるわけですが、もちろん可能性としてはユダヤ教であれば夕顔の可能性が高いわけですが、とにかくアフリカ原産であれば品種も多く、実用であったり食用であったりその他多数名称もあるという、この辺が秘密というところになるのだと思いますが、そういう文化文明の話であるわけです。でまあもちろんそういうわけで公式には瓢箪がキリスト教のシンボルとはならないわけですが、そういうわけで隠れキリシタンのシンボルとなったわけですね。まあインド洋、太平洋の世界ではご存知の通り魚ではキリスト教のシンボルたりえないということは明確だと思われます。
(2023.11.15追記:アルブレヒト・デューラーの版画の作品に書斎の聖ヒエロニムスというものがあり、そこに聖書を翻訳したヒエロニムスがヨナ記でのキリスト教のシンボルとなる植物の翻訳について聖アウグスティヌスと論争してラテン語でひょうたんと表記したというのがあるそうで、瓢箪が描かれています。

まあキリスト教的には瓢箪がキリスト教のシンボルとなるかというのはとても古くからの植物にまつわるシンボリズムの有名な話だという事なのでしょう。つる植物の成長の早さとヨシュア、イエスという聖書の中での役割の話でもあるようです。)
それでまあ隠れキリシタンのシンボルとしては良いのだと思いますが、それで千利休が花活けに利用したとか、千利休は竹も花活けにしたわけですが、そもそも日本では竹の水筒の方が一般的であったと思いますので、まあ瓢箪といえばお酒の入れ物で少し格上の水筒であったわけで、現代でいえばペットボトルか魔法瓶かというところですが、まあ陶器の器も瓶子であったわけでその後徳利になるわけですが、革袋もあったでしょうから、現代でいえばまさにそういうものであったわけでしょう。あの織田信長が利用していたわけですから使いやすかったわけです。千利休の弟子の古田織部はへうげものなんてのもあったりして、これも瓢げものだと分かれば、あの瓢げた水差しも瓢箪の形なんだと分かるわけで、まあそのまま隠れキリシタンのシンボル、キリスト教のシンボルなわけですね。



(追記:千利休の銘の瓢箪による花入れでは有名なもので顔回というものがありました。

こちらは瓢箪の上部を切ってしまっていて、そもそもの瓢箪の命名が孔子が論語の中で最も評価する顔回の質素な生活を表現して箪食瓢飲とした言葉からきているようで、子曰、賢哉回也。一簞食、一瓢飮、在陋巷。人不堪其憂。回也不改其樂。賢哉回也。の一文であるようですが、この文中の瓢はとくに瓢箪と限定した器ではなく、汁物の器の意味だそうです。おそらく千成瓢箪が普及する以前は瓢箪の器はこのように上部を切った形が多かったのでしょう。千利休の由来書きには巡礼者からもらったとかあるそうで、千利休ですからイエズス会修道士から巡礼者のシンボルであると聞いていた可能性は多々あるでしょう。)
まあそれで、キリスト教のシンボルとしての巡礼者の象徴としての瓢箪を見ていこうかと思います。サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路で検索すると日本語でもたくさん出てきて、熊野古道と世界遺産で一緒になってどんどん日本人も来なさいとキャンペーンがあるわけですが、まあその中で繰り返し出てくるのがホタテのシンボルと杖と瓢箪になるわけです。

まあ完全に巡礼を紹介する旅行会社のホームページからの無断借用なんですが、非常にわかりやすい写真だったので使わせていただきます。首からかけたポーチがスロンというそうですが、スコットランドの民族衣装でのスポーランというポーチとそっくりで、ケルト文化圏での相似を思わせます。杖もそのまま紋章にもなったりしているそうですが、瓢箪をぶら下げた形はフリーメイスンリーでの杖のシンボルであるトバルカインtubal-cainとよく似た形にもなるんですね。で、検索するとすぐわかるんですが、トバルカインのフリーメイスンリーでの初出がポルトガルのロッジらしく、さらにスペインにはトバルカインの伝説がある州もあるという事で、冶金学や鍛冶屋の最初という象徴になるようですが、巡礼者が用いる杖の象徴のシンボリズムが明らかにイベリア半島でフリーメイスンリーと結びついたという事のようです。シンボリズム自体がこうしたキリスト教、ユダヤ教の歴史の中で様々な民族や宗教の歴史と一体となって成立してきているという事がわかるかと思います。特にこの一般のキリスト教徒が見過ごしてしまいがちなアダムとイブからカインとアベルとセト、ノアとアブラハムとイサク、ヤコブ、ヨセフ、モーゼ、ヨシュア、ダビデ、ソロモンといった、ユダヤ教で大事にする旧約聖書の預言者の流れの中から象徴と教えをいただくというのは、そのまま新約聖書の教えの解釈に繋がりますし、それらがユダヤ教やキリスト教の本来の教えである自己の内省と日々の自己研鑽、まさに啓発であるという事なのだと思います。修行や巡礼という行為による啓発とロッジでの儀式による啓発という行為がリンクした、まさにユダヤ教とキリスト教とリンクしたフリーメイスンリーの象徴なのだと思います。


(杖の象徴から生じた聖ジェームズ十字はレコンキスタの歴史もあり剣の形になっているようです。巡礼者の杖の実用的な面として実際に武器でもあったという事だと思われます。またエルサレムがイスラム教徒に支配されている時代にはスペインでの巡礼は重要な巡礼であったようです。ただ第二次世界大戦後に廃れ、現在のような盛況になってきたのは1990年代のベルリンの壁崩壊以降であるようです。スペイン内戦からのファシズムと共産主義の歴史が偲ばれます。)
それで話が完全にフリーメイスンリーのトバルカインの象徴の方に移ってきたわけですが、まあこれについては上述した通りイベリア半島での巡礼の歴史が大事なのだと思いますが、フリーメイスンリーの象徴としてはヘブライ語のその音とハイラム=アビフ伝承から英語圏ではtwo ball caneの連想で、二つのボールと杖といかにも男性器の象徴の形になっています。また二つのボールが中に入った杖の形で示される時もあります。いずれもそういう鍛冶屋の連想からの木材加工になるんでしょうが、そういう杖の制作、道具の制作と、実際のイベリア半島での巡礼での杖にまつわる象徴の歴史、そして当然イベリア半島を中心とした大航海時代のイエズス会士の布教にともなった冒険や探検の歴史が積み重なるのでしょう。
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まあこうしてみると明らかにトバルカインの象徴がスペインの巡礼の象徴の杖の歴史をベースとしてその後に対応して作られたものがわかるわけですが、同様なヨーロッパの地の歴史を背景としたシンボルとしてはナチスの保健省の象徴でもあった勿忘草があるかもしれません。
杖のシンボリズムになってしまったんですが、このブログとしては瓢箪のキリスト教的なシンボリズムという事で、楕円とか魚型とか十字とかあるわけですが、二重楕円の連続ともいうのが瓢箪型であって、特徴的であるわけです。もちろんそれは女性の体形を象徴するとか乳房を連想させるとか、はたまた杖と結びつけば陰嚢の形を連想させるようでもあり、松笠の形の身体部分への類似性のような象徴性があるわけです。まあそういう図形的ないわゆるシンボルとしての基本的特徴を備えていて、またそれらが恐らく大航海時代のキリスト教徒たちによって携帯性が良い形のものが普及した結果、さらに道具として便利さを提供した結果、世界中の多くの地域でその形から愛玩されシンボルとして認められているのかと思います。ナーガのシンボリズム、龍のシンボリズムもそういう面もあり、一つの自然発生的なグノーシス的なものであるかと思われます。まあなかなかシンボルの歴史もそれ自体がシンボルとして成り立つ理由であり、たどっていくと難しいという事だと思われます。
さてそれでキリスト教社会での瓢箪のシンボリズムの実際なんですが、なかなか面白いのが英語のそれぞれGourdとCalabashで、この二つの単語の違いもよくわからないのですが(追記:difference between Gourd and Calabashで検索すると以下の辞書が出てきました。Gourd as a noun is any of the climbing or trailing plants from the family cucurbitaceae, which includes watermelon, pumpkins and cucumbers. while Calabash as a noun is a vine grown for its fruit, which can either be harvested young and used as a vegetable or harvested mature, dried and used as a container, like a gourd.多分翻訳してもあまりわからないとおもうんですね。まあやはりそれは文化であり文明でありそれだけ食用や実用として細分化しているからという事なんだと思います。)、人名ではカナダ出身のバッハの演奏で有名なピアニストの名前がグレン・ハーバート・グールドGlenn Herbert Gould 1932年9月25日 - 1982年10月4日で、RとLの綴りの違いはあるんですが、特徴的なピアノの弾き方と正確な運指の正統派の奏法のギャップが特徴でしょうか。命日はアッシジのフランシスコの聖日であり、アッシジのフランシスコもスペインの巡礼は行ったとかで、宗教的なバックグラウンドはあるものと思われます。あとは有名なカラバッジョ、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオMichelangelo Merisi da Caravaggio1571年9月29日 - 1610年7月18日はイタリア人で、カラバッジョ村が由来だそうですが、まあイタリア語では瓢箪はzuccaだそうですが、ラテン語ではcucurbitaで、スペイン語ではcalabazaであり、カラバッジョ村の村名の由来はカラヴァッジョのローマ名であるカラヴァギウムCaravagiumからであるということで、どうも特産品がウリ科のメロンということで、まあローマ時代からどうもメロンを食べていて、その名前なんじゃないかと推測します。実際は語源不明ということのようです。また天然温泉があり古代より巡礼地であったようです。まあ美という観点からは瓢箪の形というのは重要ではないかと思われますので、何かしら関連があるのかと思われました。時代的には織田信長から徳川家康の時代の人であり、絵画は主に聖書のテーマでレオナルド・ダヴィンチやラファエロの画題と共通のものが多いようでした。人物画に合わせた象徴画をよく描いていたようでした。また楽器の描写が多いのですが、瓢箪型をしたヴァイオリンの原型となる楽器の描写がいくつか認められました。影の感じなんかはのちのレンブラントやフェルメールに繋がる表現なんではないでしょうか。果物の表現ではイチジクやブドウが多く、特に瓜や瓢箪といったものは見当たりません。
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楽器はヴィオラ・ダ・ガンバとヴァイオリンが同時に描かれているのが当時の楽器開発の時代背景があるのでしょうか。また確か教科書的にはカラバッジョといえば最後のメデューサの顔であったと思いますが、ギリシア神話を題材とした絵は特に多くはないようでした。まあ瓢箪の英語名CalabashとCaravaggioが似ているよ、RとLが違う、BとVも違うけどというだけでよいのだと思われます。特にカタカナにすると似ているんですね。
あとは最近のITの動画配信サービスのHuluは中国語の瓢箪、日本語だとコロと発声するんだと思いますが、葫蘆の中国語での発声からきているそうです。また日本では上述の茶道や江戸時代の瓢箪の表現以外には、戦後のテレビ人形劇で記憶に新しいひょっこりひょうたん島でしょうか。
(追記:葫蘆コロに関しては日本だと長寿子供向け漫画雑誌としてコロコロコミックがあるでしょうか。ガンダムやドラえもんの雑誌だと思います。戦前だと少年倶楽部で戦後すぐが漫画少年とかだと思います。まあコロコロコミックまで瓢箪関連にするのはあれかもしれませんが、ドラえもんの道具でも瓢箪なんかはあるそうです。コロとまだ呼べた時代じゃないでしょうか。)
(追記:ヒョウタンに関する日本のことわざとしてはヒョウタンから駒が一番有名だと思います。こちらの語源としては中国の明代の小説の仙人の話と、日本の鎌倉時代の宇治拾遺物語の話が挙げられるようです。慣用句として使われるようになったのは明らかに江戸時代からなので、そういう点でも秀吉時代以降と考えられるようです。)
(追記:瓢箪で土産物は相当たくさんあると思いますか、有名な神社のものでは宇佐神宮のものがありました。私自身購入していました。もちろん大友宗麟の改宗後の影響と考えられますが、九州は島原の乱の土地ですから、まさに隠れキリシタンの象徴、九州の象徴であるわけですね。カトリックに改宗すれば潜伏キリシタンであるわけですが、まあ秀吉のキリスト教禁教令の土地でもあり、秀吉の旗印も瓢箪であったわけで、まさに現代でも隠れキリシタンの象徴と日本では表現する他ないわけです。織部灯籠と非常によく似たものかと思われます。)
まあ瓢箪のシンボリズム考でした。
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