2012-08-18 09:14 | カテゴリ:シンボリズム
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
五稜郭は歴史的にもその規模や象徴性からいっても明らかにフリーメイスンリーのシンボルだと思われますが、どうもウィキペディアなどを見てもそういう明らかな接点は出てきません。
このブログの最初のヴェルニー公園の回で触れた、フランスフリーメイスンリーでのGのシンボルと対応する五芒星のシンボルを宇宙から見てもわかる形で作る程のシンボルになるのかと思いますが、なかなか明らかなフリーメイスンリーとの接点というのは見てとれません。

そういうわけで今回はこの五稜郭について建設と歴史的経緯、建設に関わった人々と時代状況、シンボルとしての象徴性について考察していこうかと思います。
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まずまあこのブログのパターンとしてウィキペディアに全面的に依拠するわけですが、そもそも建築の目的が日米和親条約での函館開港に伴う防衛力の強化であったようです。
とりあえず欧州の事情や世界の事情に現在から見れば明らかに疎かった江戸幕府は、ブラザーペリーが開国を迫ってきてとりあえず長崎オランダ商館から手に入れた書物をもとに防衛拠点を作らせた。(8/24追記:TBSの日本史ミステリーという番組でとりあげられていましたが、どうも原典は函館に来たフランス軍艦から渡されたフランス語の築城術について書かれた書物のようです。つまり蘭学者で一応ヅーフ辞書について勉強していたようですが、どの程度オランダ語として通用したのかというところはわかりませんが、とりあえずフランス語で書かれた書物の五稜郭の形をそのまままねて大砲などの近代戦に対応しようというつもり、結果的には単なる幕府と日本人の威信というところで、恐らくフランス人はフリーメイスンでその人の言葉はわからなくとも意図の通りに五稜郭というフリーメイスンリーのシンボルを建築したのが史実のようです。)というのが五稜郭建設の真相のようです。そしてそれらの中心となって活躍したのが武田斐三郎という、伊予出身の緒方洪庵の適塾出身のオランダ語に通じ、ブラザーペリーとの交渉で筆記のオランダ語での通訳をした人物のようです。面白いのがこの武田斐三郎と言う人が維新後の日本陸軍の中で唯一の幕臣として指導に当たったというところかと思います。この辺はウィキペディアが面白いのですが、そもそも甲斐武田氏の流れを汲み、漢方医であったそうですが、兄も優秀で孝明天皇の側近として仕えたという事で、緒方洪庵のもとで学んだ後は佐久間象山のもとで学び、この時に吉田松陰とともに浦賀に出向いたそうです。その後ロシアのプチャーチンとの交渉やブラザーペリーとの交渉にあたり、函館にとどまって日本最初の大学とも言える学校を作り、榎本武揚や前島密が学んだそうです。新島襄もこの学校を目指して函館に来たそうですが、英語が学べなかったので一カ月で函館を脱出してボストンに到達して、現地で学校に入ったそうです。新島襄の襄はジョーと愛称で呼ばれたのと、ジョセフと呼ばれた両方を取ったそうです。
さてまあ敗戦後の幻の北海道分割統治ではないですが、当時まだ江戸幕府の影響が小さかった蝦夷地は列強がかなりの興味を示していて、そういう中でその後のブラザークラークの赴任や蝦夷地開拓などの歴史を含めて、函館と下田の開港というのはそういう欧米列強の興味を反映した模様なのかと思われます。もちろんその後の井伊大老のもとで結ばれた日米修好通商条約でのいわゆる開港五港、横浜、神戸、長崎、新潟、函館において、その後の日本の港湾の発展が規定されたかと思われます。
さて武田斐三郎についてですが、戊辰戦争後は日本陸軍の創設でフランス軍事顧問団と折衝し、陸軍学校の教鞭をとり明治13年に亡くなったそうです。面白い事に日本フリーメイスンリーのグランドロッジがある港区の近くの芝公園にある東京芝東照宮に記念碑があるそうです。
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この一連の流れを見ていると、勝海舟などもそうですが、ヴェルニー公園に胸像のあるブラザーヴェルニーと小栗上野介の関係のようなものを思い出させます。小栗上野介にしても欧米を視察して十分に現地の事情に通じており、その後岩倉使節団を中心として明治政府の首脳も盛んに欧米に視察や留学を重ねるわけですが、戊辰戦争前の段階においては恐らく最も欧米について実態を知っていたのは幕府側の人物でしょうし、結果として英国が肩入れした薩長軍が錦の御旗のもと戊辰戦争を圧倒するわけですが、坂本龍馬が提案したという大政奉還と倒幕への一連の駆け引きと大勢はドラマチックで、フランス革命やイギリス名誉革命の舞台裏のごとき様々な人々の動きがあった事かと想像されます。南北戦争で使用された中古の武器をブラザーグラバーが輸入して薩長軍が使用したなど、開国して間もないとされる日本において壮大な世界市場での影響が早くも表れているという今と変わらぬ世界規模の情報と物の流れがある事がわかります。日章旗の話でも触れましたが、江戸幕府の幕臣たちが知恵を絞って選択した数々の出来事が結果として後々まで残るフリーメイスンリーを象徴するシンボルとして比較的自然なものとしてある事が、必然とはわかりながらもなかなかシンボリズムの妙として不可思議さを残して感じられます。
さてその中で武田菱の家紋で有名な甲斐武田氏、徳川氏の関東での優位を決定づけたともされる天下分け目の有名な長篠の戦いを分岐点とし、その甲斐武田氏の末裔である武田斐三郎という人物が、その徳川幕府の最期に幕臣として建築した恐らく日本最大のフリーメイスンリーを象徴する五芒星のシンボル、そしてその後の日本の命運を決したとも言える陸軍の徽章となる五芒星のシンボル、これらを結び付けるシンボルの三を名前に持つ人物の、フリーメイスンリーとの明らかな接点はブラザーペリーとの接見であり、適塾でのヅーフ辞書との接点であったようです(8/24追記:もちろん上述のフランス軍艦からのフランスの築城術の本と恐らくその際に渡した軍人がフリーメイスンであった事があります。)。もちろんその後榎本武揚らと行動を共にするラスト・サムライで有名になったブラザーブリュネとの接点ももちろんあったものかと思われます。なかなか五芒星、情熱の赤を革命のシンボルとするフランス大東社の一つの性向、ブラザーヴェルニーが最初に建設した観音崎灯台のように情熱と理性の到達点を最大にすることを最善とする情熱の神性とも言うべき哲学が感じられるものかと思われます。ブラザーブリュネは帰国後にレジオンドヌール勲章をもらっているそうです。
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日本における五芒星のシンボルの話でした。
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