2012-09-17 16:02 | カテゴリ:シンボリズム
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
これはどうしようか迷ったテーマなんですが、確実なシンボリズムの関連性が見当たらなかったので関連はあるのだとは思っていましたが書かないでためていました。
で、結局書き始めたという事は確実なシンボリズムの関連性が見当たったという事なので、それは最後に書く事にします。
さて以前もブログのヘッダーにいわゆる火の鳥の図を使ったりしたのですが、作品の中にも数多くシンボリズムに近いものが認められるのがこの方の傾向なのですが、いかんせんまさにフリーメイスンリーと言うものが無いのがまた一方で特徴とも言えるかと思います。この人のマンガについてもほぼ全て私は読んでいるので知っているものについてそれぞれ個別にフリーメイスンリーとの関連について考察していこうかと思います。
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さてまあその作品を全部読んでいる人であっても、ウィキペディアを読んでその生涯を俯瞰すると作品をいくら読んでもわからない事がたくさん書いてあるのがIT革命のすごいところと言いますか、21世紀の現実な訳ですが、あれだけあからさまに自由に伝記を書かれては「マンガの神様」も存在が危ういと思わざるを得ないのかなと思います。最近はほとんどマンガで手塚治虫がどうとか言われなくなり、私個人としては戦後のマンガ文化のもう一人のマンガの神様は赤塚不二夫であったと思うのですが、この方も無くなって久しいので、実質的には世界に売れるコンテンツなんて言っていた日本のマンガ文化はほぼ残りが無いのではないかと思っています。ワンピースなんてのが売れているそうですが、スカルアンドボーンズのシンボルを使っていたりするようで、私は全く読んだ事ありませんが、ドラゴンボールやキャプテン翼、キン肉マンといったいわゆる週刊ジャンプを象徴する世代としては、オンラインゲームのGREEやそれから派生した出会い系サイトの隆盛などがそういったマンガ文化、オタク文化の残骸の消費なのではないかと思います。

まあ現在のマンガ文化についてはともかく、いつもの通りにそれぞれ手塚治虫本人と個別の作品についてフリーメイスンリーと関係していそうなものについて考察していくこととします。

まず私個人が最初に手塚治虫作品で通して読んだものとしては「アドルフに告ぐ」があります。

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鉄腕アトム世代の方にすると完全に最晩年の作品となりますが、実際最初に読んだ作品はこれでした。当時はアドルフ・ヒトラーは実際にユダヤ人だったのと読後に思う程度の知識でしたが、いわゆるこれはシオニズムやヒトラーユダヤ人説を紹介する、いわばこのブログを書き始めて教えていただいた「赤間剛」氏の作品のマンガ版であったかと思います。途中神戸のユダヤ人の話など出てきたり、兵庫県宝塚で育った手塚治虫の神戸と本人との関連を考えさせられるものであったかと思います。もちろん前述の「赤間剛」氏も神戸出身であり、これらのネタ元に明治維新から存続している神戸のイングランド系ロッジ、スコットランド系ロッジの存在がある事はご理解いただけるのではないでしょうか。手塚治虫の大阪での空襲体験があり、この世代特有の染みついた反米感覚があるものかと思いますが、恐らくディズニーでアニメに興味を持って、ゲーテのファウストやドフトエフスキーを読んでいた手塚治虫はフリーメイスンリーの存在はもちろん知っていて、何らかの興味を持っていたものかと思われますが、その数多い作品群の中で直接フリーメイスンリーに関する知識を示したものはなさそうです。いわゆる手塚ワールドの固定の登場人物でデイブ・メイスンと言うアメリカの俳優をうつしたメイスンという固定キャラがあり、この元のメイスンさんは恐らくメイスンだと思いますが、これがはっきりとした関連かもしれません。
やはり戦中世代であり、ドイツやロシアに近しい感覚と言うものがあり、あこがれのブラザーディズニーとはニューヨークで一回だけ会ったそうですが、その後の接点は無かったようです。

さてまあ反米の内容と言えば戦後の混沌を描いた内容の「МW」や「奇子」というものがありますが、前者は特にシンボリズムを反映しているもので、内容的にも沖縄と毒ガスなど当時のベトナム戦争などの反戦運動と結びついた内容となっているのかと思いますが、特にフリーメイスンリー的な内容を示すものではなかったかと思います。後者は確か日本の村の庄屋に当たる家庭の因襲と差別、身分制に基づいた村社会の敗戦による変化を描いていたかと思います。国鉄の下村事件なども取り上げていたかと思い、基本的には反米の当時の一般人となる読者層の気分を多分に反映した内容であったかと思います。これらの当時の学生運動や反米思想の風潮を相克しようとしてしきれなかったものが、それらの時代と現代をタイムスリップする様子を描いた絶筆とされる「ネオファウスト」などになるのだと思います。また同じ絶筆として「ルードヴィッヒ」いわゆるベートーヴェンの生涯を描いたものですが、これはベートーヴェンがその生涯で苦しみながら作品を多く生み出し、最後までフリーメイスンとはならないながらも、その作品すべてにフリーメイスンリーの影響を認める生き方と似ているという、暗喩があるものかと思われます。

まあ夏目漱石などと同じく、日本を代表する近現代の表現家として同様に、死に近づくにつれフリーメイスンリーに近くなるという典型的なパターンが認められるのではないでしょうか。

手塚治虫の作品を概観した際に最も普通に言われるのが、いわゆる前半の鉄腕アトムやリボンの騎士を代表とする少年少女漫画とアニメへの傾倒、そしてその後のマンガが大衆文化として広まった後に社会派の内容を模索しつつ劇画と対峙して、元々の蘭方医の家系の知識を生かしたブラックジャックでの復活からの、生命やストーリーを重視した火の鳥の連作、三つ目が通るなどの少年漫画家としての経験を生かした大人でも楽しめる内容と言ったものを作る時代、そして上述した通り死の間際のいわゆるフリーメイスンリーにまつわるような昭和の時代の総括とも言うべき作品群の時代がそれぞれ挙げられるかと思います。
三つ目が通るも世界七不思議やテレパシー、超能力など魔術的な超科学の世界を一部描いており、鉄腕アトムの近未来SFの内容とはまた違った古代文明への興味を誘う内容であったかと思います。その後に中国を舞台としたもので、ユダヤ教のゴーレムなどという洗脳や催眠と言ったものにも触れており、これは確かほぼ最晩年の内容となっていたかと思います。

火の鳥のシンボリズムについては内容でそれらしいものは見た記憶はありませんが、ついこの間のロンドンオリンピックで閉会式で大々的に象徴とされていましたが、輪廻転生、永遠の生命の象徴として火の鳥が描かれており、これは魂の永遠、不死を教えるフリーメイスンリーの考え方が漠然とながら見えてくるものではないかと思われます。彼自身それほど読書量が多い方ではなかったようなので、恐らくそれらについてはほぼ戦後のマスメディアの常としてストーリーを提供する人々が数多くいたように思われます。

私自身は最も好きな作品は「きりひと讃歌」ですが、内容も世界的規模でなかなか筋が荒くなく(手塚治虫の長編は途中かなり筋が荒くなる事が良くあるように思います。)、本人は全くキリスト教について近くは無かったのかと思いますが、恐らくこれもストーリーを提供するのがあったのかと思いますが、かなりうまくまとめて完結した稀有の作品かと思いました。

特に最晩年の作品では「陽だまりの樹」は歴史に興味があった私にとっては白眉の作品であり、手塚治虫本人にしても曾祖父の歴史であり、死を前にして蘭方医の家系に生まれた医師のかたわれとして種痘という当時最新の知識を普及して人々を救う過程と、一方で時代の変化についていけないという理由だけでただ無駄死にに近い形で死んでいく人々を対比的に描いた、恐らく太平洋戦争に対する本人の率直な感想を投影した、昭和と言う時代が終わり、バブル崩壊後のオウム真理教などが現れる変化の時代を予兆するものなのではないかと思われました。現在も未だに維新や改革と言った言葉が飛び交っていますが、それだけ現代の変化、その最たるものは情報化社会、いわゆるインターネットの出現かと思いますが、その変化が激しいものであったのかと思います。

さて長々と個人的感想を羅列してきましたが、フリーメイスンリーのシンボリズムについてはそれぞれ個別の作品についてそれぞれ文庫本が安く売っているかと思いますのでこのブログの読者の方が購入して読まれてみてはどうかと思います。このブログを書く前に初めて知ったのが、実は手塚治虫の絶筆は上述の作品群だけではなく、(グリンゴだか日本人移民と南米のサラリーマンの話があったと思います。)私個人もあえて読まないでいた「聖書物語」が本当に最後に出版された作品であるようです。それ以前に創価学会系の潮出版社で出した「ブッダ」があり、これが一般的な日本人が唯一気軽に触れうる釈迦の一生の解説書であったかと思いますが、実際には彼自身は死の間際で聖書をマンガとして翻訳しつつ、外科医の流れでありながら胃癌で亡くなるという最後であったという事を知り、やはり昭和という時代を象徴する表現者の最期であり、美空ひばりなどとともに昭和天皇への殉死に近い形の死であったのかと思われました。

やはりそうなると平成と言う時代、それはタウ十字で象徴される旧約聖書の知恵と力が日本に付加される時代なのではないかと、そういう締めくくりで、この戦後を代表するある意味では文豪夏目漱石と比肩するマンガやアニメ文化の開拓者の典型的日本人のフリーメイスンリー的評価としようかと思います。(同時に一輝まんだらというのもありましたね。平成の名前を考えたのが某右翼(安岡正篤氏でしょうか)だということで、そういう接点もあったのかと思います。)

付け加えるとジャングル大帝の西武ライオンズへのシンボルマークの作成と、本家ディズニーのライオンキングでの逆襲などもなかなかフリーメイスンリーにまつわる逸話と言えるかと思います。本人はブラザーディズニーには一度会ったきりであったそうで、確実な記録に残るフリーメイスンとの接点はそこだけであったかもしれません。また手塚治虫は最晩年にみなとみらい地区の埋め立て地で行われた横浜博YES '89のマスコットも作成されているようです。その後の開港150年祭とも比較して興味深い流れです。

さて最後に秘密の伝授です。
手塚治虫のフリーメイスンリーの確実なシンボリズムは一体何でしょう。名前にもそれほど象徴的なものは無いようです。作品にも近いものはあってもベートーヴェンの作品で絶筆となっているような状況です。家系的には関西の医家の家系で、適塾出身者であり、父は法律家であったようで、なかなかの家系ですが、神戸の近くに住んでいたという以上のものはなさそうです。

それは彼の漫画家としての象徴的な風貌です。
ベレー帽と言えば手塚治虫ではないでしょうか。もともとバスク地方の民族衣装であったなどありますが、基本的に軍の制帽やボーイスカウトの制帽として普及したようです。
漫画家がベレー帽をかぶるのは恐らくそれ以前のパリ留学などした画家を真似したものかと思いますが、さてこのパリの画家がかぶるベレー帽は何でしょう?

まあここまでくればこのブログの読者はわかるかと思いますが、恐らくマリアンヌが被る自由を象徴するローマ帝国での解放奴隷の象徴であるフリジア帽のオマージュだと思われます。もちろんフランス大東社系の象徴となり得ますが、実際にはアメリカの州章などにも多く認め米仏のフリーメイスンリーに共通して認める象徴となります。
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ベレー帽の習慣は藤子・F・不二雄にも受け継がれたようですが、ドラえもんや一連の作品群でフリーメイスンリーとの関連は厳しそうです。唯一ジャイアンがネロ帝のオマージュであるなどでしょうか。その後のマンガ、アニメ文化では数多くフリーメイスンリーのシンボリズムが認められるようです。特に数が多いのは宮崎駿氏の出世作となるルパン三世カリオストロの城や天空の城ラピュタなどでしょうか。ガンダムも以前に触れましたが、そもそもそういうものを狙って作ったもののようです。いずれにしてもその後の流れを見ると、シンボリズムに頼った手塚氏の遺産を使い果たした商業的な成功の典型例というものであるかと思われます。昨今の日本のマスメディアや出版文化の流れは未だにこれらのシンボリズムの呪縛とも言うべき、単純な商業主義と結びついたシンボリズムが多いように思われます。上野で開催中のツタンカーメン展などもまさにその真骨頂といったところではないでしょうか。そういう安易な商業主義と結びついたシンボリズムの使用は必ずろくな結果とならない事はこのブログで何度も触れているところであり、それらが今日の日本のマスメディア、出版文化の現状に繋がっているようです。
(追記:ベレー帽の最初は「フクちゃん」の作者の横山隆一氏のようです。横山氏の鎌倉の旧宅は現在御成町のスターバックスとなっています。)
(2013/4/30追記:手塚治虫は生誕日が1928年(昭和3年)11月3日、亡くなったのが1989年(平成元年)2月9日という事で生誕日がまさにシンボリズムそのものなのですね。手塚治虫がフリーメイスンとなっていたらどれだけすさまじいフリーメイスンリー関連の作品を残していたかと思うと残念です。)
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