FREEMASONRY
Blue Lodge, Scottish Rite & York Rite in Japan
| ホーム |
ブラザー林董について日本人はどれほど知っているでしょうか。
日本人で最初にフリーメイスンとなったのはウィキペディアなどでもブラザー西周、ブラザー津田真道がライデン大学に留学中になったという事で有名ですが、どちらもオランダ語のレベルはかなり低く、留学先の教授の言うがままに入会の儀式を済ませたようです。その後の儀式や会合などへの参加はほとんどなかったようです。彼らは哲学や科学に関する基本的な考え方を日本に輸入し、その最大の業績は日本学士院につながる明六社の設立とされるようです。
ブラザー林董はいわゆる現在につながる日本の外務省方の英米方面のフリーメイスンリーの流れの源流を作った方かと思われます。簡単に言うと現在の日本の国際社会での立ち位置を決定した方かと思われます。
山手にあるFar East Lodge No.1のホームページのHistoryのサイトにブラザー林董についてBrother James L. Johnston
Past Grand Master, Japanが文章を載せていましたので、英文を翻訳しここに転載いたします。非常に拙い直訳で申し訳ありません。興味のある方は英文を直接お読みください。
青木周蔵さんというのはペルーの大使館立てこもりで有名になった青木盛久ペルー大使の曾祖父なのですね。その後のドイツとイギリスの関係を考えても興味深いエピソードですね。
ブラザー林がもし天皇の直接の相談役になっていたならば大正天皇も違った道を辿ったでしょうし、その後の日本もだいぶ違った事になっていたのでしょうね。人力車のエピソードも合わせて、葉山で没した事なども、様々に想像されます。最初に教わったヘボン医師が専門が眼科で、足切断手術を日本で行ったなどのエピソードも合わせると複雑さが増します。いずれにしても日露戦争とその後の第一次世界大戦、ロシア革命の歴史の壮大な流れの大きな一翼を担った人物であった事は間違いないでしょう。日露戦争後の東郷平八郎元帥の人生と比較するとフリーメイスンの生き方とは何かという事を感じさせてくれるかもしれません。私自身が気になったのは彼がキリスト教徒であったかという事です。恐らく五稜郭の戦いに参加したことも含めてそうではなかったのだと思います。明治のフリーメイスンの生き方は現代の日本人に直結する部分を感じます。キリスト教徒になった方も明治時代には多数いらっしゃいますが、フリーメイスンはそれとはまた違ったアプローチである所がまさに宗教とは異なるフリーメイスンリーなのだと思います。
いずれにしても彼のフリーメイスンとしての活動、語学力、日本人としてのブレの無さが結果として戦艦三笠が今日保存されるような日露戦争の勝利につながった事は、その後の東郷平八郎元帥の軍神としての評価などと絡めて、日本人が良く知っておくべき本当の歴史なのではないかと思います。
日本人で最初にフリーメイスンとなったのはウィキペディアなどでもブラザー西周、ブラザー津田真道がライデン大学に留学中になったという事で有名ですが、どちらもオランダ語のレベルはかなり低く、留学先の教授の言うがままに入会の儀式を済ませたようです。その後の儀式や会合などへの参加はほとんどなかったようです。彼らは哲学や科学に関する基本的な考え方を日本に輸入し、その最大の業績は日本学士院につながる明六社の設立とされるようです。
ブラザー林董はいわゆる現在につながる日本の外務省方の英米方面のフリーメイスンリーの流れの源流を作った方かと思われます。簡単に言うと現在の日本の国際社会での立ち位置を決定した方かと思われます。
山手にあるFar East Lodge No.1のホームページのHistoryのサイトにブラザー林董についてBrother James L. Johnston
Past Grand Master, Japanが文章を載せていましたので、英文を翻訳しここに転載いたします。非常に拙い直訳で申し訳ありません。興味のある方は英文を直接お読みください。
林董 イングランドのフリーメイスンとなった日本の外交官 By James L. Johnston PGM, Japan
様々に表現される偉大で、立派な外交官であり政治家であり、英国びいきの、世界的に有名な存在で、愛国的で、高潔なフリーメイスンリーの教えに従って生きた林董という男は、生涯にわたって普通でない専心と献身をもって日本に奉仕した。
彼は1850年2月22日に下総国(現在千葉県の一部)の佐藤家に幼名しんごろうとして生まれた。彼の父親は当時先進的だった蘭方医(西洋医学者)で指導もしていた。幼少期に彼は江戸(現在の東京)に住む代々将軍御典医の家である林家に養子に入った。彼はそのため林董と名乗った。
林は12歳で横浜のジェームス・C・ヘボン、医師・宣教師であり、日本語のローマ字綴りを作り、聖書を日本語に翻訳し、最初の和英辞書を作ったアメリカ人、のもとで英語を勉強するために送られた。ヘボン医師は日本人から「君子」、優れた人を意味する言葉、と言われていて、夫人と共に日本で最初の男女共学校を作った。ヘボンは林を彼の家族として受け入れ、それを通して彼は英語を徹底的に基礎から教え込まれた。
1866年―マシュー・C・ペリー提督(ニューヨーク市No.8オランダロッジのメンバー)が最初に日本に来てから13年後―林はロンドンで英語やイギリスの習慣を学ぶための14人の徳川将軍家の若者たちの留学生に選ばれた。最初に生徒たちは下宿に住み込んだが、林はこのやり方を好まなかった。(彼はヘボン家での経験があったため。)なぜなら彼らは皆大学の講義に出るときだけ英語を話しそれ以外では日本語しか話そうとしなかったからであった。彼は頼み込んでグループから分けてもらい、受け入れてくれた私的な家族と一緒に過ごした。
1868年になり徳川将軍家が大政奉還の過程に入ると、彼らは日本に戻された。林は榎本武揚提督によって編成された徳川幕府軍に参加し、北海道函館五稜郭の戦いで捕まり、多くの囚人が処刑された悪名高い東京日本橋伝馬町の監獄に収監された。ヘボン夫人は彼を訪れ、彼の釈放を請願し1870年になってようやく受け入れられた。
1871年に林はアメリカやヨーロッパの政治システムや物質的な文化を学ぶための岩倉使節団(世界史で最も注目すべき旅行の一つと考えられた)で第二秘書として通訳に選ばれた。使節団がロンドンに到着したとき、林は木戸孝允と共に日本に戻った。
陸奥宗光伯爵(後にアメリカ大使となり伊藤博文の下で外務大臣になった。)が林の大きな潜在性を認め、彼のその後の数年の官僚経験を行うのを助けた。林は工部省、宮内省事務局、逓信省、神奈川県知事、兵庫県知事に1888年と1889年に任命された。1891年頃彼は外務省の事務次官になった。この役職で林は三国干渉による遼東半島の放棄をうまく調整し、日清戦争を終結させた下関条約の締結に立ち会った。
林は中国公使に1895年に任命され、男爵を綬爵された。1897年に彼はスウェーデンとデンマークの公使となった。二年後に彼はロシア公使となり、ハーグ国際平和会議の使節となり、1900年に英国公使の任命を受けた。
林の仕事の中で最も重要なのは1902年に日英同盟に署名したことで、彼はその際に子爵に綬爵された。
彼はまた1905年に同盟の拡大更新に責を負った。1905年にロンドンの英国公使館が大使館に格上げされる際には、林は英王室裁判所に最初の日本の大使とされた。彼は英国と欧州の政治学と政治経済に関するいくつかの古典を日本語に訳したことと、「For His People」を英語で書いたことで、オックスフォードとケンブリッジの名誉学位を受けた。
1906年に林は日本に戻され外務大臣に着任し、満州、アメリカ移民問題、そして日露戦争に続く問題を手掛けた。彼はまたフランスとロシアとこのままの状態で維持する協定を結んだ。彼は1907年に公爵を綬爵された。1911年彼は引き続いて外務大臣を中間まで、その後逓信大臣となった。この頃までに林は急性の糖尿病になり1912年に彼の希望で辞任した。一般的な場合に対する例外的に、彼は他の政治家のような幸運を受けなかった。彼は東京の彼の家を売り、葉山に移り住んだ。1913年の間に林は人力車の事故で足を骨折し、切断が必要であった。彼は回復せず、7月10日に死亡した。日本政府は死後に彼に従二位を授け、五千円を彼の墓前に捧げた。(当時の非常に高価な額)
ブラザー林のフリーメイスンとしての経歴は実に立派なものであった。彼はロンドンE.C. No.2108エンパイアロッジで1903年2月24日に入会した。150人以上の出席者が儀式とその後に引き続いてあり、それにはグランドロッジの役員やロンドン市の使節、アイルランド、スコットランド、ウェールズ、チャンネル諸島の使節、多くの国会議員がいた。彼は3月24日に第一階級となり、5月29日に第二階級となり、1904年1月20日に第三階級となった。1905年に彼はもっとも尊崇すべきグランドマスター、コンヌート公にイングランド連合グランドロッジのパストシニアウォーデンの役職を授与された。彼は1907年にロッジを辞めた。彼のロンドン滞在中のフリーメイスンリーの活動によって、(元ロイター東京通信員A・M・プーリーによると)ブラザー林は彼の長年の功績に対する報酬として約束されていた枢密院議員、または天皇陛下の相談役から、青木周蔵と総理大臣桂太郎の政治的小細工によって締め出されてしまった。
明らかにブラザー林はフリーメイスンの先駆者であり、それは日本でのフリーメイスンリーへの加入が外国人に限られており、日本人が入らないとする紳士協定があったためである。今日、もし我々の尊敬するブラザー林が日本のフリーメイスンリーの集まりを訪問したならば、どんな事になるだろうか。フリーメイスンリーが抑圧されておらず、日本グランドロッジに全体として構成する一般ロッジが北海道から沖縄にまである事だけでなく、イングランド、スコットランド、マサチューセッツ、フィリピンを構成する一般ロッジがあることも知るだろう。彼はリチュアルや関連するものが日本語に翻訳されていて、何百人もの日本人がフリーメイスンになり、その中には総理大臣東久邇宮稔彦と鳩山一郎も含まれていると知るであろう。彼はフリーメイスンリーの付随組織や団体、それにはスコティッシュライト、ヨークライト、コンスタンティンの赤十字、イースタンスター、デモレー、レインボー、シュライン、そしてハイトゥエルブクラブが含まれる、これらの幅広い分布を知るであろう。彼は1984年のイングランド連合グランドロッジの前グランドマスターコーンウォリス卿が東京青山墓地の彼の墓を訪問し、現在の東京メソニックセンターを訪問しそこのロビーにある栄誉名簿に彼の名前を見たことを喜び名誉に思う事だろう。
青木周蔵さんというのはペルーの大使館立てこもりで有名になった青木盛久ペルー大使の曾祖父なのですね。その後のドイツとイギリスの関係を考えても興味深いエピソードですね。
ブラザー林がもし天皇の直接の相談役になっていたならば大正天皇も違った道を辿ったでしょうし、その後の日本もだいぶ違った事になっていたのでしょうね。人力車のエピソードも合わせて、葉山で没した事なども、様々に想像されます。最初に教わったヘボン医師が専門が眼科で、足切断手術を日本で行ったなどのエピソードも合わせると複雑さが増します。いずれにしても日露戦争とその後の第一次世界大戦、ロシア革命の歴史の壮大な流れの大きな一翼を担った人物であった事は間違いないでしょう。日露戦争後の東郷平八郎元帥の人生と比較するとフリーメイスンの生き方とは何かという事を感じさせてくれるかもしれません。私自身が気になったのは彼がキリスト教徒であったかという事です。恐らく五稜郭の戦いに参加したことも含めてそうではなかったのだと思います。明治のフリーメイスンの生き方は現代の日本人に直結する部分を感じます。キリスト教徒になった方も明治時代には多数いらっしゃいますが、フリーメイスンはそれとはまた違ったアプローチである所がまさに宗教とは異なるフリーメイスンリーなのだと思います。
いずれにしても彼のフリーメイスンとしての活動、語学力、日本人としてのブレの無さが結果として戦艦三笠が今日保存されるような日露戦争の勝利につながった事は、その後の東郷平八郎元帥の軍神としての評価などと絡めて、日本人が良く知っておくべき本当の歴史なのではないかと思います。
青山墓地 ブラザー林董の墓 フリーメイスンリーのシンボルは無いようです。
| ホーム |