FREEMASONRY
Blue Lodge, Scottish Rite & York Rite in Japan
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要するにオルセー美術館な訳ですが、やはり多いのは印象派です。
印象派は主にマネにルーツを置き、モネの第一回印象派展の「印象、日の出」の作品に由来する写実主義から脱した絵画独自の表現に徹した新しい表現法を追求した画家のグループであるということです。
ロンドンでブラザーウィリアム・ターナーの作品を見た直後だと明らかにその関連を感じるわけですが、画家や芸術アカデミー会員でセントポール大聖堂に葬られた方が多い事を知ると絵画芸術不毛の地イギリスでフリーメイスンリーによって追及された絵画の手法、象徴性と写実性が翻って芸術の都パリでそれらから脱して印象主義、よりリアルな漠然としたものとして新しい表現法として確立された事が理解されるかと思います。特に印象派の名前の由来ともなったモネが第一回印象派展の前にロンドンに滞在しその画風を確立した事と、ブラザーウィリアム・ターナーの画風を明らかに取り入れた事と、後にロンドンのウェストミンスター宮殿を印象派の画風で何度も書いている事がこれらの印象派のムーブメントを象徴する、すなわちジャポニズムなどとも絡めたフリーメイスンリーとの芸術の関連ではないかと思います。
さてまああまり素人が余計な事を言うと火傷をしますが、ワシントンナショナルギャラリー展のフィンセント・ファン・ゴッホの白バラで感じたフリーメイスンリーと印象派との関連に引き続いた現代における絵画芸術の理解について、フリーメイスンリーの最も盛んな都市であるパリのオルセー美術館で、ロンドンでの美術館巡りに引き続いて見学する事で思いを強くしたという事になるかと思います。
では実際に撮った写真です。オルセー美術館は内部は撮影禁止ですので絵画の写真は主にサルヴァスタイル美術館というサイトからお借りしています。あとはウィキペディアです。内部の様子を写したYouTubeの動画がありましたので参考にしてください。

セーヌ川沿いの道をエッフェル塔から戻ります。

ブルボン宮、国民議会の前のアンリ・フランソワ・ダゲッソーの像です。フリーメイスンと思われます。


オルセー美術館に到着します。少し人が集まっています。



待っている間に一気に晴れてきました。

中で撮った写真はこれだけです。鉄道駅であった名残の大時計です。
オルセー美術館は美術館として見てかなり変わった駅の再利用の美術館であり、ルーブル美術館と比べると大分変な感じです。それはそのまま上述した印象派が主にあるという事とも関連しているようですし、題名としたフランスの良き時代、ベルエポックの空気を反映しようとした感じかもしれません。日本で言うとバブル時代みたいな感じでしょうか。駅の再利用が美術館なんて言うのもそういう時代の空気を反映しているのではないでしょうか。
内部の動画です。絵画を見て回るには不釣り合いな開放的な空間ですが、唯一クールベの大作は映えていました。クールベはパリコミューンで美術大臣を務めたりした美術とともに社会的な活動家であり、フリーメイスンリーとは対極にいた人物かと思われます。セザンヌやミレー、マネ、モネといういわゆる印象派の巨匠たちは4階といった大時計の小部屋の方にあったのがまあそれなりかなといった感じでした。ファン・ゴッホやゴーギャンは右手の分けられた部屋の方にありました。作品もタヒチのものやファン・ゴッホは星月夜や教会のものなど強くフリーメイスンリーのシンボルを意識したものでした。オルセー美術館の位置づけとしてはロンドンのナショナルギャラリーに近いものなのかもしれません。
ではオルセー美術館で展示されている絵画の、ネット上で拾ってきた画像を並べます。

オルセー美術館の一階で最も目立つのはやはりルーヴル美術館でもそうですがドミニク・アングルの作品かと思います。聖餅の聖母(オスティアのマリア)といいラファエロの作品から着想を得た、カトリックの教義の象徴を印象的に配した絵です。アングルはフランスアカデミーの院長を務めており、師がブラザーダヴィッドでありフリーメイスンと思われます。

パフォスのヴィーナス

泉

ジャン=レオン・ジェロームの闘鶏です。ジャン=レオン・ジェロームは典型的なアカデミズム美術の中心的な存在であり、主にオリエンタルをテーマとした画題を描いたそうです。まさにグラントリアンのフランスフリーメイスンリーです。

トマ・クチュールの退廃期のローマ人達です。マネの師であり、サロンから徐々に離れていき批判する本を出版したそうです。

テピダリウム。テオドール・シャセリオーです。アングルの弟子でロマン主義に属し、やはりオリエンタリズムが認められます。

マクベス

サッフォー

ジュール・ジョゼフ・ルフェーブルの真実です。一人の女性を描いた絵を多く認め、アカデミーで教師を務めていたようです。この絵はフリーメイスンリーの第一階級で教わる三つの基本的な教えの兄弟愛、救済、真実の一つを示しているようです。

アレクサンドル・カバネルのヴィーナスの誕生。ブラザーナポレオン3世が購入したそうです。当時のフランス画壇でアカデミック絵画としてサロンの中心にいて教え子が多数いました。印象派達のサロンでの展示を拒否したため、結果として落選者の作品を集めた展覧会が評判となりサロンの評判は地に落ちたそうです。恐らく題材や正統派の写実性などからフリーメイスンと思われます。

カイン一族の逃亡。フェルナン・コルモンです。アレクサンドル・カバネルの弟子で、フランス芸術家協会会長を務めたそうです。新しい芸術にも寛容でファン・ゴッホやロートレックにも教えたそうです。1845年12月24日生まれだそうです。

バルブ・ドゥ・リムスキー=コルサコフ夫人の肖像、フランツ・ヴィンターハルターです。主に王侯貴族の肖像画を描き、特に美しい王女の肖像画で各国の美術館に作品が収蔵されています。はっきりした根拠はありませんが、当時の英仏独の王族は多くがフリーメイスンであったことからも、この画家もフリーメイスンであったのではないでしょうか。

象徴主義の画家であるギュスターヴ・モローのイアソンです。聖書や神話に題材をとった幻想的な作風で知られ、印象派と同時代の方ですが、フリーメイスンのようです。

ガラテイア(ガラテア)です。チェコのグランドマスターを務めたブラザーミュシャの作品を思わせます。

オルフェウスの首を運ぶトラキアの娘です。死したオルフェウスの顔面はルーヴル美術館収蔵のミケランジェロの彫刻作品瀕死の奴隷に基づいているそうです。

目を閉じて(閉じられた目、瞑目)、オディロン・ルドンです。象徴主義に分類される作家です。印象派と同時代の画家ですが、実際には独自の画風で孤高の画家のようです。当初建築家を目指していたり、All Seeing Eyeを思わせるモチーフの作品が認められたり、題材などからもフリーメイスンのようです。

アポロンの二輪馬車(アポロンの馬車と竜)

キリストの磔刑

エジプトへの逃避

仏陀

聖母の窓(ステンドグラス)

イエスの御心

エヴァ(イブ)

笑う蜘蛛

ポール・ゴーガンの肖像(ポール・ゴーギャンの肖像)

ギュスターヴ・クールベの代表作オルナンの埋葬です。3.1m×6.6mの大作です。実物を見ると圧巻でなんだか訳がわかりません。ただオルセー美術館の中での存在感は圧倒的です。実際は写真で見るほど写実的な印象を受けずただただ巨大な自我を印象付ける作品です。実物と写真の印象が全く異なるのが特徴かもしれません。

こちらも大作の画家のアトリエです。3.6m×6mです。クールベの作品は実物よりも写真写りが良い印象でしょうか。それだけ写真を意識したものであり、その結果として写真写りが良いのかもしれません。

嵐の海

リンゴの木の花

源泉

世界の起源

眠る子、ジュリエット・クールベの肖像

ピエール・ジョセフ・プロ―ドンの肖像

プレイシールの泉の流れの鹿の群れ

エトルタの崖、嵐のあと

隠れ沢
クールベの作品ではドレスデン爆撃で失われた石割人夫という作品があります。フリーメイスンリーにまつわるようなテーマですが、労働者を描いた社会主義的作品とされたようです。クールベは名声を得たのちに、普仏戦争後のパリコミューンの時にオペラ座の回で触れたようにヴァンドーム広場のアウステルリッツ戦勝記念柱の解体を提唱して結果として破産し、国外追放となったそうです。なかなかいわくが深いような石割人夫の画像はヘッダーに加えました。

アンリ・ファンタン=ラトゥールのドラクロワ礼賛(ドラクロワへのオマージュ)です。ラトゥールはクールベのアトリエで学び、サロンで活躍した画家です。後にアメリカ人画家のホイッスラーと親交を結んだそうです。印象派の絵画手法には否定的でありつつも、印象派の画家たちと知り合いで、ベルト・モリゾにマネを紹介して両者を引き合わせたそうです。恐らくフリーメイスンではないでしょうか。

バティニョールのアトリエです。当時のアカデミズムに挑戦的であったマネを中心としてオットー・ショルデラー、ルノワール、エミール・ゾラ、エドモン・メートル、フレデリック・バジール、クロード・モネを認めます。机の上には女神ミネルヴァの像を認めています。

デュブール家の人々

シャルロット・デュブール

ジェームズ・マクニール・ホイッスラーの灰色と黒のアレンジメント-母の肖像です。アンリ・ファンタン=ラトゥール、アルフォンス・ルグロと三人会を結成したそうです。イギリス美術家協会会長になっておりフリーメイスンと思われます。

ギュスターヴ・カイユボットの床削りの人々です。カイユボットは遺産を元に印象派の画家たちを支援しつつ自身も描いていて、1950年代になって初めて子孫が絵画を市場に売ったそうです。

エドガー・ドガのアプサントを飲む人(カフェにて)です。ドガは反ユダヤ主義者であったそうです。

ベレッリ家の肖像、ドガの初期の作品です。

舞台のバレエ稽古です。ガルニエ宮の様子だそうです。

アイロンをかける女たち

オペラ座の稽古場(ル・ペルティエ街のオペラ座のバレエ教室、踊りの審査)

オペラ座のオーケストラ

舞台の2人の踊り子

ダンス教室(バレエの教室)

浴盤(たらいで湯浴みする女)

エドゥアール・マネのバルコニーです。マネは印象派の先駆者として有名です。父は法務省の高級官僚でレジオンドヌール勲章をもらうブルジョア出身であり、両親の意向で海軍に入るところを受験で失敗し画家になったそうです。画題や活動などからもフリーメイスンと思われます。この絵ではマネの弟ウジェーヌと結婚したベルト・モリゾが描かれています。

胸をはだけたブロンドの娘

笛吹く少年

ガラス花瓶の中のカーネーションとクレマティス

草上の昼食

すみれのブーケをつけたベルト・モリゾの肖像(黒い帽子のベルト・モリゾ)

オランピア、様々な象徴を取り込みながら、娼婦を描いた事でスキャンダルになった作品だそうです。

エミール・ゾラの肖像、ゾラはマネやセザンヌなどの印象派の擁護者であった小説家ですが、後に彼らをモデルとした小説を書いて絶交しています。フランス文芸家会長も務めており、フリーメイスンと思われます。ドレフュス事件に絡んでロンドンに亡命し、帰国後に自宅で一酸化炭素中毒による不審死をしたそうです。ドレフュス事件は普仏戦争後のフランス軍の対独諜報活動におけるユダヤ人のスパイ冤罪事件であり、この事件をきっかけとしてフランス軍は決定的に弱体化したそうです。またユダヤ人差別が顕在化した事でシオニズム運動のきっかけともなったという事です。まあいわゆるフリーメイスンリーの陰謀でしょうか。

マネの弟子であるエヴァ・ゴンザレスによるオペラのロッジです。その名の通りというわけではありませんが、ロッジはオペラ座の特別席の事で、普通に見るとオペラ座の様子を描いているわけですが、もちろんオペラ座にもフリーメイスンリーのロッジがあったと思われ、女性の会員が存在した事を誇示している事と思われます。同じエヴァ・ゴンザレスの作品の秘密というものは白黒の服を着た女性がピアノを練習している図で、これはピアノ自体がフリーメイスンリーが開発した楽器でありその白黒の象徴性を秘密としている含意と思われます。本人の肖像画はロンドンのナショナルギャラリーにあるそうです。

マネの弟子でありモデルであったベルト・モリゾのゆりかごです。女性的な表現に満ちています。

蝶々捕りです。フリーメイスンリーを思わせる表現はありません。

睡蓮の池、バラ色の調和(太鼓橋)、クロード・モネの作品です。この辺りの印象派の作品はオルセー美術館の確か4階だったと思いますが、奥の方のエレベーターで昇る変な場所にある印象派の作品を集めたところにあります。非常に驚くほど有名な印象派の作品が美術館の構造上端っこの一番上に集められているので見逃すと大変です。モネは普仏戦争の兵役を逃れてロンドンでブラザーターナーの絵を学んだそうですが、その後ジャポニズムとの絡みからか良く睡蓮を題材としています。蓮の葉を東洋の仏教の思想の体現ととらえていたのでしょうか。マネを始めとしてフリーメイスンリーとの明らかなつながりが感じられるモネがどこまでフリーメイスンリーの影響があったかは解釈が分かれるところかもしれません。

アルジャントゥイユの鉄道橋(鉄橋)

舟遊び(ノルヴェジエンヌ号で)

戸外の人物習作(左向きの日傘の女)

睡蓮の池、緑の調和

戸外の人物習作(右向きの日傘の女)

サン・ラザール駅

かささぎ

モネの家の庭、アイリス

ロンドンの国会議事堂、霧を貫く陽光。ロンドンのナショナルギャラリーにも1871年のビッグベンを中心としたウェストミンスター宮殿の霧の中の構図があります。光の画家という呼び名はこの辺りからも求められるのでしょうか。

アルジャントゥイユのレガッタ

アルジャントゥイユの橋

ルーアン大聖堂、扉口とアルバーヌの鐘塔、充満する陽光

死の床のカミーユ・モネ、子宮癌で夭逝する妻を描いた作品ですが、この後にパトロンの妻であった女性と再婚します。モネは86歳まで生きますが、最後まで国家の要請によって白内障で視力を失いながらも睡蓮の絵を描き続けました。

カミーユ・ピサロの羊飼いの娘(小枝を持つ少女、座る農家の娘)です。カミーユ・ピサロは印象派の中で最も年長で、全ての印象派展に出品した印象派の中の中心的な人物でした。当時デンマーク領であった西インド諸島のサン・トマ島でスペイン系ユダヤ人(セファルディム)の父とその妻の間に生まれ、ほぼその島で育ったそうです。モネとともにロンドンでブラザーターナーについて学んだそうです。

白い霜

赤い屋根、冬の効果(赤い屋根の家々、村の一角、冬景色)。カミーユ・ピサロは1903年11月13日に73歳でパリで亡くなったそうです。墓を見るとちょっと特徴的ですがフリーメイスンかどうかは難しいです。

ピエール=オーギュスト・ルノワールの大きな裸婦です。ルノワールは日本では喫茶店で有名かと思います。労働者階級の出身でパトロンの好みに応じて作風を変化させていったそうです。幼少期にフリーメイスンと思われる作曲家グノーの元で聖歌隊をやっていたそうです。グノーもバッハの平均律にアヴェマリアの歌詞を載せたグノーのアヴェマリアで有名ですが、ファウストのオペラやバチカンの国歌、ロミオとジュリエットのオペラを作成しており、フリーメイスンのようです。ルノワールの作品においてもやはりオペラ座の桟敷席を描いた作品で女性が明らかに白黒を強調した服を着て、連れの男性があらぬ方向の恐らく女性をオペラグラスで覗いている興味深い画題があり、恐らくマネと弟子のエヴァ・ゴンザレス、もう一人の女性的な画家である弟の妻であるベルト・モリゾとの三角関係を揶揄したものではないでしょうか。彼自身も数多くのモデルの女性たちと恋仲であったようです。晩年にはリウマチ性関節炎を患います。ルノワールもフリーメイスンであったようです。

浴女たち(ニンフ)

ぶらんこ

アルジェのアラブの祭日(モスク)

フレデリック・バジールの肖像

絵筆を持つクロード・モネ

ピアノに寄る娘たち

陽光の中の裸婦(エテュード:トルソ、光の効果)

後ろ姿の横たわる裸婦

田舎のダンス

ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場

都会のダンス

少女アルフォンジン

草原の坂道(夏の田舎道)。やはり印象派コーナーではルノワールが最も華やかであるかと思います。それはまさにフランス大東社の華やかな雰囲気と労働者階級から芸術家になったルノワールのフリーメイスンリー的に理想的な明るさが好ましいものであったからではないでしょうか。

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックの踊るジャンヌ・アヴリルです。ロートレックは伯爵家の生まれであり、足の成長が止まる障害者でありましたが、ジャポニズムについての知識や、ムーランルージュでの生活など、フランス上流階級の人間でした。36歳で1901年9月9日亡くなったそうです。

ジュスティーヌ・ディール嬢

黒い羽毛のショールの女(黒いボアの女)

ベッド

女道化師シャ=ユ=カオ

赤毛の女(身繕い)

ひとり。ロートレックもかなりの変わりものであったようですが、クールベなどもそうですが、芸術家では個性が強い人物の方がやはり絵画も際立つものがあるようです。

ジャン=フランソワ・ミレーの落穂拾いです。落穂拾いは旧約聖書のユダヤ人の戒律において重要なテーマであり、土地を持てない同胞のために落穂は残さなければならないという戒律があり、それを示しているものと思われます。

晩鐘。敬虔なキリスト教徒の様子です。

羊飼いの少女。聖書のダヴィデなどの羊飼いに象徴される指導者、人間を導く神としての存在と、フランスの象徴であるマリアンヌを一致させているのかと思われます。

ポール・セザンヌのオーヴェール=シュル=オワーズの首吊りの家です。

リンゴとオレンジ

ギュスターヴ・ジェフロワの肖像、フリーメイスンなんだと思います。

台所のテーブル(籠のある静物)

カード遊びをする人々

青い花瓶

女とコーヒーポット(婦人とコーヒー沸かし)

水浴の男たち

画家アシル・アンプレールの肖像、セザンヌが非常に尊敬していたそうでフリーメイスンかもしれません。

マンシーの橋

牧歌(バルバリア河畔のドン・キホーテ)

モデルヌ・オランピア(近代のオランピア、新オランピア)
セザンヌはエミール・ゾラと同級生で友人であったそうです。彼に絵画の特に印象派の手法を伝えたのはカミーユ・ピサロであったそうです。皆フリーメイスンなのでしょう。
セザンヌの作品でフリーメイスンリー関連で特徴的なのがヘッダーにも利用しましたが、メメントモリを題材とした絵がある事と、いわゆるピエロ、アルルカンの絵がある事でしょうか。黒と赤の格子模様の服を着た道化師の様子はこのブログでもビリケンの解説で触れたスコティッシュライトの32階級で構成されるシュライナーズと同様の付帯組織であるRoyal Order of Jesters のシンボルであるという事になります。シンボリズムから推察してセザンヌもフリーメイスンであったと思われます。
彼の後進への手紙の中で「自然を円筒、球、円錐として捉えなさい」と書いた言葉がのちのキュビスムの画家たちに大きな影響を与えたそうです。

ジャン=バティスト・カミーユ・コローの鎧を着て座る男です。コローの作品は風景画などが多く、写実主義に分類されます。パリ万国博覧会でグランプリも取っているそうです。78歳まで長生きし生涯未婚であったそうです。1875年2月22日に亡くなっています。サロンでも人気でブラザーナポレオン3世の買い上げなどを受けています。作品の多くがルーヴル美術館にあるようです。ミレーと親交があったそうで彼もフリーメイスンと思われます。

網の引き上げ

朝、ニンフの踊り

ニンフと戯れるアムール

ポール・ゴーギャンの扇面のある静物です。ゴーギャンは神学校に通った後海軍に務めたそうです。その後証券会社の社員として働き5人の子供を持つ普通の勤め人でしたが、突然安定した生活を捨て画家となります。その後のファン・ゴッホとの共同生活やタヒチへの渡航などは有名かと思います。作品の評価は没後に高まったようです。他のフリーメイスンと思われる画家とのつながりからもフリーメイスンと思われますが、死後に高い評価を受けた画家です。旅人であった事は間違いなく、タヒチなど南の島の情景を色彩豊かな表現で哲学的なテーマで描いています。

白い馬

アレアレア

タヒチの女たち

自画像(1893年)

黄色いキリストのある自画像
ゴーギャンとファン・ゴッホの共通点は何と言っても元々神学校の出身で職業的な画家の訓練を受けていないというところだと思われます。彼らの存在が絵画文化の大衆化に大きく影響しているというところがあるかと思われます。

フィンセント・ファン・ゴッホのウジェーヌ・ボックの肖像です。ベルギー出身の職業画家を描いているそうです。オルセー美術館にあるファン・ゴッホの絵画は比較的シンボリズムが認められているものが多い印象でした。この絵も星を象徴として恐らくフリーメイスンを描いたものなのだと思われます。

アルルのファン・ゴッホの寝室(画家の寝室、ファン・ゴッホの部屋)

アルルのダンスホール

ポール・ガシェ医師の肖像(ガッシェ博士の肖像)

オーヴェールの教会、背景が青を強調しているのも一つの特徴かと思います。

アルルの女(ジヌー夫人)

自画像(渦巻く青い背景の中の自画像)

星降る夜、アルル
ファン・ゴッホはオランダの牧師の長男で神学校を卒業しており、十分な聖書の素養と新教国でのフリーメイスンリーの知識を有していたと思われますし、それらのシンボリズムが多く絵に反映されている事は明らかであり、ガシェ医師を始めとして、印象派やパトロンたちの数多くのフリーメイスンに囲まれていたと思われます。また彼自身の親戚や親たちを見てもオランダのプロテスタントの要職を務めており、多くがフリーメイスンであったようです。彼の死の直前に至るまでに完成されていく彼自身の独特の表現法とともにちょっとずつ示されるシンボリズムが彼のそうした素養から意識的にせよ無意識にせよ自然に表わされて、それが彼の絵画の隠された意味になるのかと思われます。
ちなみにファン・ゴッホの死は一般に自殺とされていますが、耳そぎ事件と同様に真相は不明です。ファン・ゴッホの死からわずか半年足らずで理解者であった弟テオは神経梅毒の診断で死んでいます。もちろんこのブログの読者の方は印象派のスターとも言えるファン・ゴッホの死が単なる悲劇であったと考える程単純ではないと思われます。

ジョルジュ・スーラのサーカスです。スーラは新印象派とも呼ばれ、アングルの弟子に学び、印象派のピサロとも出会い影響を与えたりしています。科学的手法を推し進めた点描の手法を美術学校中退後より作品として発表し、その後第8回目の最後の印象派展で大作を出品し注目されます。31歳の若さで感染症で亡くなりました。スーラの点描画に集約されるように実は印象派の絵画が実は極めて綿密に計算された絵画芸術の革命であった事を語る象徴的なものであるかと思われます。絵画芸術がモナリザの絵画に示される計算された美、黄金比に表されるような科学的な美である事を象徴する画家であるかと思われます。

ポール=タン=ベッサンの外港、満潮

ポール・シニャックの緑の帆船、ヴェネツィアです。スーラの亡き後の新印象派を継承した画家です。性格的にはスーラと正反対であったようです。スーラの死後ロンドンに渡りやはりブラザーターナーの絵画に影響を受けているそうです。シニャックは1863年11月11日生まれで、71歳で1935年8月15日にやはり感染症で亡くなっています。彼の書いた理論書は後のキュビズムなどの芸術家に影響を与えたそうです。

赤い浮標

井戸端の女たち(井戸端のプロヴァンス嬢)

レ・ザンドリー、河堤(プティ・タンデリの土手)

アンリ=エドモン・クロッスの夕方の大気(夕べのそよ風、夕風)です。スーラの死後にシニャックとともに新印象派を引き継ぎ、後のフォービズム(野獣派)と呼ばれるアンリ・マチスらへ影響を与えたそうです。

カーニュの糸杉

豊かな髪

女性の肖像

黄金島(金色の島)

午後の情景

アドルフ・モンティセリの白い水差しのある静物画です。アドルフ・モンティセリはファン・ゴッホやセザンヌに影響を与えたそうです。ファウストなどを画題に描いておりフリーメイスンかと思われます。

ウジェーヌ・ブーダンのトゥルーヴィルの海岸です。ウジェーヌ・ブーダンは元々絵画・画材店を経営していてミレーらと知り合い絵を教えられ、戸外制作についてモネに教えたそうです。

トゥルーヴィルの海岸

トゥルーヴィルの浜辺

アルマン・ギヨマンのアゲーの眺めです。アルマン・ギヨマンは労働者階級の出身で働きながら夜間に絵を描いていたそうです。当初は印象派展への参加を拒否されましたがピサロの擁護で参加できたそうです。後に宝くじに当選して画業に専念するようになり印象派の中では最長の86歳まで生きました。

雪の中の小道

イヴリーの夕暮れ

静物-花、陶器、書物

裸婦

ベルシー河岸-雪の印象

釣り人たち

アルフレッド・シスレーのモレジーの競艇です。アルフレッド・シスレーはフランス在住の裕福な商人のイギリス人の子供でクールベやコローに絵を学び印象派として活動しますが積極的に売り込まなかったそうで、後に父親の破産により経済的に困窮します。フランス国籍を申請して却下されたそうです。ピサロがマティスに典型的な印象派とは誰かと聞かれて挙げたのがシスレーだったそうで、まさに印象派とは英仏のフリーメイスンリーの合作による絵画芸術の革命であったようです。

アルジャントゥイユの広場

エミール・ベルナールの愛の森のマドレーヌ(ボワ・ダムールのマドレーヌ)です。エミール・ベルナールはゴーギャンとともに総合主義と呼ばれる象徴主義の一つを始めたそうですが、個性が強いようで後にゴーギャンとも絶交しているようです。ジャポニズム、現代で言うところのマンガの手法を絵画に導入したようです。

陶器と壷とリンゴのある静物

日傘をさすブルターニュの女たち

水浴する女たちと赤い雌牛

ピエール・ボナールの水の戯れ、旅です。ナビ派と呼ばれる後期印象派の後の画家で、セザンヌやジャポニズムの影響が強いそうです。

男と女

砂遊びをする子供

けだるさ(ベッドでまどろむ女、しどけない女)

ポール・セリュジエのにわか雨です。ナビ派をモーリス・ドニ、ピエール・ボナールらと共に結成しました。

護符(タリスマン、ポン・タヴェンの愛の森)

モーリス・ドニの天国です。モーリス・ドニは20歳のときに芸術論文に「絵画とは軍馬や裸婦、或いは何かの逸話である以前に、本質的には一定の秩序の上に集められた色彩で覆われる平面であることをまずは認識すべきである」という絵画理論を発表しその後のキュビズムやフォービズム、抽象絵画の理論的支柱となったそうです。フリーメイスンらしい逸話です。

ミューズたち(ムーサたち、公園、樹の下で)

セザンヌ礼賛(セザンヌ頌)。セザンヌとナビ派の画家とのフリーメイスンリーでの繋がりを端的に示した絵と思われます。

フェルディナント・ホドラーの木を伐る人です。フェルディナント・ホドラーはスイス人で象徴主義の画家とされます。パリとは直接関係ないようですが恐らくフリーメイスンなのでしょう。

アンリ・ルソーの戦争です。アンリ・ルソーは印象派と同時代の画家ですが素材派とも呼ばれ元々税関職員でほとんどの絵が退職後の50歳以降に描かれたそうです。ゴーギャンやピカソに影響を与えました。家庭生活ではあまり恵まれず二度目の妻がジョセフィーヌというそうですがこの方にも1903年に先立たれているそうです。1908年にピカソやミラボー橋の作詞したアポリネールらに茶化したようなパーティーを開かれたそうです。1909年には手形詐欺事件で拘留されたそうです。1910年に66歳で亡くなっています。作風はその後のキュビズムやシュルリアリスムを先取りしたといえる先進的なもので、もともと日曜画家でありながらその後の20世紀の芸術を示したものであったようです。

蛇使いの女

田舎の結婚式(婚礼)
さてこのブログ中最長の回になってしまったわけですが、印象派論としてフリーメイスンリーと若干絡めてなんとか形になったでしょうか。実際には大急ぎで上記のような知識も持たず1時間弱でオルセー美術館を周ったというのが現地での様子でした。まあ日本の美術館もそうですが美術館のカフェの客の方が展示場よりも多く客の滞在時間も長い時代ですので、オルセー美術館もそうした傾向にもれずカフェの方が人も多く充実している印象でしたが、少なくともここに書いたような事を知ってからオルセー美術館を訪問すると少し違った時間を得られるのかもしれません。
オルセー美術館は写真撮影禁止なので上記のような内容になりましたが、ルーヴル美術館は写真がありますのでそれに基づいたものとしようと思います。ルーヴル美術館の方がよりフランス全体の象徴という形になるのだと思いますが、フリーメイスンリーとの関係はさらに濃厚でありながらはっきりとはしないかと思います。
上記以外にもロダンの彫刻など多くの彫刻作品やその他の画家の作品が多数あります。詳細はカタログや実際に訪問して確認してください。(追記:オーギュスト・ロダンも神曲をテーマとした地獄の門を制作し、1840年11月12日に生まれ、1917年11月17日に亡くなったそうで、カミーユ・クローデルとの三角関係は有名と思われます。フリーメイスンだと思われます。ちなみに考える人はちょうど三角関係でどちらを選ぶか考えていた時に作られたそうです。)
YouTubeの音楽をクリスマスソングに全面的に変更しました。不評のようですが、クリスマス期間中は継続する予定です。
印象派は主にマネにルーツを置き、モネの第一回印象派展の「印象、日の出」の作品に由来する写実主義から脱した絵画独自の表現に徹した新しい表現法を追求した画家のグループであるということです。
ロンドンでブラザーウィリアム・ターナーの作品を見た直後だと明らかにその関連を感じるわけですが、画家や芸術アカデミー会員でセントポール大聖堂に葬られた方が多い事を知ると絵画芸術不毛の地イギリスでフリーメイスンリーによって追及された絵画の手法、象徴性と写実性が翻って芸術の都パリでそれらから脱して印象主義、よりリアルな漠然としたものとして新しい表現法として確立された事が理解されるかと思います。特に印象派の名前の由来ともなったモネが第一回印象派展の前にロンドンに滞在しその画風を確立した事と、ブラザーウィリアム・ターナーの画風を明らかに取り入れた事と、後にロンドンのウェストミンスター宮殿を印象派の画風で何度も書いている事がこれらの印象派のムーブメントを象徴する、すなわちジャポニズムなどとも絡めたフリーメイスンリーとの芸術の関連ではないかと思います。
さてまああまり素人が余計な事を言うと火傷をしますが、ワシントンナショナルギャラリー展のフィンセント・ファン・ゴッホの白バラで感じたフリーメイスンリーと印象派との関連に引き続いた現代における絵画芸術の理解について、フリーメイスンリーの最も盛んな都市であるパリのオルセー美術館で、ロンドンでの美術館巡りに引き続いて見学する事で思いを強くしたという事になるかと思います。
では実際に撮った写真です。オルセー美術館は内部は撮影禁止ですので絵画の写真は主にサルヴァスタイル美術館というサイトからお借りしています。あとはウィキペディアです。内部の様子を写したYouTubeの動画がありましたので参考にしてください。

セーヌ川沿いの道をエッフェル塔から戻ります。

ブルボン宮、国民議会の前のアンリ・フランソワ・ダゲッソーの像です。フリーメイスンと思われます。


オルセー美術館に到着します。少し人が集まっています。



待っている間に一気に晴れてきました。

中で撮った写真はこれだけです。鉄道駅であった名残の大時計です。
オルセー美術館は美術館として見てかなり変わった駅の再利用の美術館であり、ルーブル美術館と比べると大分変な感じです。それはそのまま上述した印象派が主にあるという事とも関連しているようですし、題名としたフランスの良き時代、ベルエポックの空気を反映しようとした感じかもしれません。日本で言うとバブル時代みたいな感じでしょうか。駅の再利用が美術館なんて言うのもそういう時代の空気を反映しているのではないでしょうか。
内部の動画です。絵画を見て回るには不釣り合いな開放的な空間ですが、唯一クールベの大作は映えていました。クールベはパリコミューンで美術大臣を務めたりした美術とともに社会的な活動家であり、フリーメイスンリーとは対極にいた人物かと思われます。セザンヌやミレー、マネ、モネといういわゆる印象派の巨匠たちは4階といった大時計の小部屋の方にあったのがまあそれなりかなといった感じでした。ファン・ゴッホやゴーギャンは右手の分けられた部屋の方にありました。作品もタヒチのものやファン・ゴッホは星月夜や教会のものなど強くフリーメイスンリーのシンボルを意識したものでした。オルセー美術館の位置づけとしてはロンドンのナショナルギャラリーに近いものなのかもしれません。
ではオルセー美術館で展示されている絵画の、ネット上で拾ってきた画像を並べます。

オルセー美術館の一階で最も目立つのはやはりルーヴル美術館でもそうですがドミニク・アングルの作品かと思います。聖餅の聖母(オスティアのマリア)といいラファエロの作品から着想を得た、カトリックの教義の象徴を印象的に配した絵です。アングルはフランスアカデミーの院長を務めており、師がブラザーダヴィッドでありフリーメイスンと思われます。

パフォスのヴィーナス

泉

ジャン=レオン・ジェロームの闘鶏です。ジャン=レオン・ジェロームは典型的なアカデミズム美術の中心的な存在であり、主にオリエンタルをテーマとした画題を描いたそうです。まさにグラントリアンのフランスフリーメイスンリーです。

トマ・クチュールの退廃期のローマ人達です。マネの師であり、サロンから徐々に離れていき批判する本を出版したそうです。

テピダリウム。テオドール・シャセリオーです。アングルの弟子でロマン主義に属し、やはりオリエンタリズムが認められます。

マクベス

サッフォー

ジュール・ジョゼフ・ルフェーブルの真実です。一人の女性を描いた絵を多く認め、アカデミーで教師を務めていたようです。この絵はフリーメイスンリーの第一階級で教わる三つの基本的な教えの兄弟愛、救済、真実の一つを示しているようです。

アレクサンドル・カバネルのヴィーナスの誕生。ブラザーナポレオン3世が購入したそうです。当時のフランス画壇でアカデミック絵画としてサロンの中心にいて教え子が多数いました。印象派達のサロンでの展示を拒否したため、結果として落選者の作品を集めた展覧会が評判となりサロンの評判は地に落ちたそうです。恐らく題材や正統派の写実性などからフリーメイスンと思われます。

カイン一族の逃亡。フェルナン・コルモンです。アレクサンドル・カバネルの弟子で、フランス芸術家協会会長を務めたそうです。新しい芸術にも寛容でファン・ゴッホやロートレックにも教えたそうです。1845年12月24日生まれだそうです。

バルブ・ドゥ・リムスキー=コルサコフ夫人の肖像、フランツ・ヴィンターハルターです。主に王侯貴族の肖像画を描き、特に美しい王女の肖像画で各国の美術館に作品が収蔵されています。はっきりした根拠はありませんが、当時の英仏独の王族は多くがフリーメイスンであったことからも、この画家もフリーメイスンであったのではないでしょうか。

象徴主義の画家であるギュスターヴ・モローのイアソンです。聖書や神話に題材をとった幻想的な作風で知られ、印象派と同時代の方ですが、フリーメイスンのようです。

ガラテイア(ガラテア)です。チェコのグランドマスターを務めたブラザーミュシャの作品を思わせます。

オルフェウスの首を運ぶトラキアの娘です。死したオルフェウスの顔面はルーヴル美術館収蔵のミケランジェロの彫刻作品瀕死の奴隷に基づいているそうです。

目を閉じて(閉じられた目、瞑目)、オディロン・ルドンです。象徴主義に分類される作家です。印象派と同時代の画家ですが、実際には独自の画風で孤高の画家のようです。当初建築家を目指していたり、All Seeing Eyeを思わせるモチーフの作品が認められたり、題材などからもフリーメイスンのようです。

アポロンの二輪馬車(アポロンの馬車と竜)

キリストの磔刑

エジプトへの逃避

仏陀

聖母の窓(ステンドグラス)

イエスの御心

エヴァ(イブ)

笑う蜘蛛

ポール・ゴーガンの肖像(ポール・ゴーギャンの肖像)

ギュスターヴ・クールベの代表作オルナンの埋葬です。3.1m×6.6mの大作です。実物を見ると圧巻でなんだか訳がわかりません。ただオルセー美術館の中での存在感は圧倒的です。実際は写真で見るほど写実的な印象を受けずただただ巨大な自我を印象付ける作品です。実物と写真の印象が全く異なるのが特徴かもしれません。

こちらも大作の画家のアトリエです。3.6m×6mです。クールベの作品は実物よりも写真写りが良い印象でしょうか。それだけ写真を意識したものであり、その結果として写真写りが良いのかもしれません。

嵐の海

リンゴの木の花

源泉

世界の起源

眠る子、ジュリエット・クールベの肖像

ピエール・ジョセフ・プロ―ドンの肖像

プレイシールの泉の流れの鹿の群れ

エトルタの崖、嵐のあと

隠れ沢
クールベの作品ではドレスデン爆撃で失われた石割人夫という作品があります。フリーメイスンリーにまつわるようなテーマですが、労働者を描いた社会主義的作品とされたようです。クールベは名声を得たのちに、普仏戦争後のパリコミューンの時にオペラ座の回で触れたようにヴァンドーム広場のアウステルリッツ戦勝記念柱の解体を提唱して結果として破産し、国外追放となったそうです。なかなかいわくが深いような石割人夫の画像はヘッダーに加えました。

アンリ・ファンタン=ラトゥールのドラクロワ礼賛(ドラクロワへのオマージュ)です。ラトゥールはクールベのアトリエで学び、サロンで活躍した画家です。後にアメリカ人画家のホイッスラーと親交を結んだそうです。印象派の絵画手法には否定的でありつつも、印象派の画家たちと知り合いで、ベルト・モリゾにマネを紹介して両者を引き合わせたそうです。恐らくフリーメイスンではないでしょうか。

バティニョールのアトリエです。当時のアカデミズムに挑戦的であったマネを中心としてオットー・ショルデラー、ルノワール、エミール・ゾラ、エドモン・メートル、フレデリック・バジール、クロード・モネを認めます。机の上には女神ミネルヴァの像を認めています。

デュブール家の人々

シャルロット・デュブール

ジェームズ・マクニール・ホイッスラーの灰色と黒のアレンジメント-母の肖像です。アンリ・ファンタン=ラトゥール、アルフォンス・ルグロと三人会を結成したそうです。イギリス美術家協会会長になっておりフリーメイスンと思われます。

ギュスターヴ・カイユボットの床削りの人々です。カイユボットは遺産を元に印象派の画家たちを支援しつつ自身も描いていて、1950年代になって初めて子孫が絵画を市場に売ったそうです。

エドガー・ドガのアプサントを飲む人(カフェにて)です。ドガは反ユダヤ主義者であったそうです。

ベレッリ家の肖像、ドガの初期の作品です。

舞台のバレエ稽古です。ガルニエ宮の様子だそうです。

アイロンをかける女たち

オペラ座の稽古場(ル・ペルティエ街のオペラ座のバレエ教室、踊りの審査)

オペラ座のオーケストラ

舞台の2人の踊り子

ダンス教室(バレエの教室)

浴盤(たらいで湯浴みする女)

エドゥアール・マネのバルコニーです。マネは印象派の先駆者として有名です。父は法務省の高級官僚でレジオンドヌール勲章をもらうブルジョア出身であり、両親の意向で海軍に入るところを受験で失敗し画家になったそうです。画題や活動などからもフリーメイスンと思われます。この絵ではマネの弟ウジェーヌと結婚したベルト・モリゾが描かれています。

胸をはだけたブロンドの娘

笛吹く少年

ガラス花瓶の中のカーネーションとクレマティス

草上の昼食

すみれのブーケをつけたベルト・モリゾの肖像(黒い帽子のベルト・モリゾ)

オランピア、様々な象徴を取り込みながら、娼婦を描いた事でスキャンダルになった作品だそうです。

エミール・ゾラの肖像、ゾラはマネやセザンヌなどの印象派の擁護者であった小説家ですが、後に彼らをモデルとした小説を書いて絶交しています。フランス文芸家会長も務めており、フリーメイスンと思われます。ドレフュス事件に絡んでロンドンに亡命し、帰国後に自宅で一酸化炭素中毒による不審死をしたそうです。ドレフュス事件は普仏戦争後のフランス軍の対独諜報活動におけるユダヤ人のスパイ冤罪事件であり、この事件をきっかけとしてフランス軍は決定的に弱体化したそうです。またユダヤ人差別が顕在化した事でシオニズム運動のきっかけともなったという事です。まあいわゆるフリーメイスンリーの陰謀でしょうか。

マネの弟子であるエヴァ・ゴンザレスによるオペラのロッジです。その名の通りというわけではありませんが、ロッジはオペラ座の特別席の事で、普通に見るとオペラ座の様子を描いているわけですが、もちろんオペラ座にもフリーメイスンリーのロッジがあったと思われ、女性の会員が存在した事を誇示している事と思われます。同じエヴァ・ゴンザレスの作品の秘密というものは白黒の服を着た女性がピアノを練習している図で、これはピアノ自体がフリーメイスンリーが開発した楽器でありその白黒の象徴性を秘密としている含意と思われます。本人の肖像画はロンドンのナショナルギャラリーにあるそうです。

マネの弟子でありモデルであったベルト・モリゾのゆりかごです。女性的な表現に満ちています。

蝶々捕りです。フリーメイスンリーを思わせる表現はありません。

睡蓮の池、バラ色の調和(太鼓橋)、クロード・モネの作品です。この辺りの印象派の作品はオルセー美術館の確か4階だったと思いますが、奥の方のエレベーターで昇る変な場所にある印象派の作品を集めたところにあります。非常に驚くほど有名な印象派の作品が美術館の構造上端っこの一番上に集められているので見逃すと大変です。モネは普仏戦争の兵役を逃れてロンドンでブラザーターナーの絵を学んだそうですが、その後ジャポニズムとの絡みからか良く睡蓮を題材としています。蓮の葉を東洋の仏教の思想の体現ととらえていたのでしょうか。マネを始めとしてフリーメイスンリーとの明らかなつながりが感じられるモネがどこまでフリーメイスンリーの影響があったかは解釈が分かれるところかもしれません。

アルジャントゥイユの鉄道橋(鉄橋)

舟遊び(ノルヴェジエンヌ号で)

戸外の人物習作(左向きの日傘の女)

睡蓮の池、緑の調和

戸外の人物習作(右向きの日傘の女)

サン・ラザール駅

かささぎ

モネの家の庭、アイリス

ロンドンの国会議事堂、霧を貫く陽光。ロンドンのナショナルギャラリーにも1871年のビッグベンを中心としたウェストミンスター宮殿の霧の中の構図があります。光の画家という呼び名はこの辺りからも求められるのでしょうか。

アルジャントゥイユのレガッタ

アルジャントゥイユの橋

ルーアン大聖堂、扉口とアルバーヌの鐘塔、充満する陽光

死の床のカミーユ・モネ、子宮癌で夭逝する妻を描いた作品ですが、この後にパトロンの妻であった女性と再婚します。モネは86歳まで生きますが、最後まで国家の要請によって白内障で視力を失いながらも睡蓮の絵を描き続けました。

カミーユ・ピサロの羊飼いの娘(小枝を持つ少女、座る農家の娘)です。カミーユ・ピサロは印象派の中で最も年長で、全ての印象派展に出品した印象派の中の中心的な人物でした。当時デンマーク領であった西インド諸島のサン・トマ島でスペイン系ユダヤ人(セファルディム)の父とその妻の間に生まれ、ほぼその島で育ったそうです。モネとともにロンドンでブラザーターナーについて学んだそうです。

白い霜

赤い屋根、冬の効果(赤い屋根の家々、村の一角、冬景色)。カミーユ・ピサロは1903年11月13日に73歳でパリで亡くなったそうです。墓を見るとちょっと特徴的ですがフリーメイスンかどうかは難しいです。

ピエール=オーギュスト・ルノワールの大きな裸婦です。ルノワールは日本では喫茶店で有名かと思います。労働者階級の出身でパトロンの好みに応じて作風を変化させていったそうです。幼少期にフリーメイスンと思われる作曲家グノーの元で聖歌隊をやっていたそうです。グノーもバッハの平均律にアヴェマリアの歌詞を載せたグノーのアヴェマリアで有名ですが、ファウストのオペラやバチカンの国歌、ロミオとジュリエットのオペラを作成しており、フリーメイスンのようです。ルノワールの作品においてもやはりオペラ座の桟敷席を描いた作品で女性が明らかに白黒を強調した服を着て、連れの男性があらぬ方向の恐らく女性をオペラグラスで覗いている興味深い画題があり、恐らくマネと弟子のエヴァ・ゴンザレス、もう一人の女性的な画家である弟の妻であるベルト・モリゾとの三角関係を揶揄したものではないでしょうか。彼自身も数多くのモデルの女性たちと恋仲であったようです。晩年にはリウマチ性関節炎を患います。ルノワールもフリーメイスンであったようです。

浴女たち(ニンフ)

ぶらんこ

アルジェのアラブの祭日(モスク)

フレデリック・バジールの肖像

絵筆を持つクロード・モネ

ピアノに寄る娘たち

陽光の中の裸婦(エテュード:トルソ、光の効果)

後ろ姿の横たわる裸婦

田舎のダンス

ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場

都会のダンス

少女アルフォンジン

草原の坂道(夏の田舎道)。やはり印象派コーナーではルノワールが最も華やかであるかと思います。それはまさにフランス大東社の華やかな雰囲気と労働者階級から芸術家になったルノワールのフリーメイスンリー的に理想的な明るさが好ましいものであったからではないでしょうか。

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックの踊るジャンヌ・アヴリルです。ロートレックは伯爵家の生まれであり、足の成長が止まる障害者でありましたが、ジャポニズムについての知識や、ムーランルージュでの生活など、フランス上流階級の人間でした。36歳で1901年9月9日亡くなったそうです。

ジュスティーヌ・ディール嬢

黒い羽毛のショールの女(黒いボアの女)

ベッド

女道化師シャ=ユ=カオ

赤毛の女(身繕い)

ひとり。ロートレックもかなりの変わりものであったようですが、クールベなどもそうですが、芸術家では個性が強い人物の方がやはり絵画も際立つものがあるようです。

ジャン=フランソワ・ミレーの落穂拾いです。落穂拾いは旧約聖書のユダヤ人の戒律において重要なテーマであり、土地を持てない同胞のために落穂は残さなければならないという戒律があり、それを示しているものと思われます。

晩鐘。敬虔なキリスト教徒の様子です。

羊飼いの少女。聖書のダヴィデなどの羊飼いに象徴される指導者、人間を導く神としての存在と、フランスの象徴であるマリアンヌを一致させているのかと思われます。

ポール・セザンヌのオーヴェール=シュル=オワーズの首吊りの家です。

リンゴとオレンジ

ギュスターヴ・ジェフロワの肖像、フリーメイスンなんだと思います。

台所のテーブル(籠のある静物)

カード遊びをする人々

青い花瓶

女とコーヒーポット(婦人とコーヒー沸かし)

水浴の男たち

画家アシル・アンプレールの肖像、セザンヌが非常に尊敬していたそうでフリーメイスンかもしれません。

マンシーの橋

牧歌(バルバリア河畔のドン・キホーテ)

モデルヌ・オランピア(近代のオランピア、新オランピア)
セザンヌはエミール・ゾラと同級生で友人であったそうです。彼に絵画の特に印象派の手法を伝えたのはカミーユ・ピサロであったそうです。皆フリーメイスンなのでしょう。
セザンヌの作品でフリーメイスンリー関連で特徴的なのがヘッダーにも利用しましたが、メメントモリを題材とした絵がある事と、いわゆるピエロ、アルルカンの絵がある事でしょうか。黒と赤の格子模様の服を着た道化師の様子はこのブログでもビリケンの解説で触れたスコティッシュライトの32階級で構成されるシュライナーズと同様の付帯組織であるRoyal Order of Jesters のシンボルであるという事になります。シンボリズムから推察してセザンヌもフリーメイスンであったと思われます。
彼の後進への手紙の中で「自然を円筒、球、円錐として捉えなさい」と書いた言葉がのちのキュビスムの画家たちに大きな影響を与えたそうです。

ジャン=バティスト・カミーユ・コローの鎧を着て座る男です。コローの作品は風景画などが多く、写実主義に分類されます。パリ万国博覧会でグランプリも取っているそうです。78歳まで長生きし生涯未婚であったそうです。1875年2月22日に亡くなっています。サロンでも人気でブラザーナポレオン3世の買い上げなどを受けています。作品の多くがルーヴル美術館にあるようです。ミレーと親交があったそうで彼もフリーメイスンと思われます。

網の引き上げ

朝、ニンフの踊り

ニンフと戯れるアムール

ポール・ゴーギャンの扇面のある静物です。ゴーギャンは神学校に通った後海軍に務めたそうです。その後証券会社の社員として働き5人の子供を持つ普通の勤め人でしたが、突然安定した生活を捨て画家となります。その後のファン・ゴッホとの共同生活やタヒチへの渡航などは有名かと思います。作品の評価は没後に高まったようです。他のフリーメイスンと思われる画家とのつながりからもフリーメイスンと思われますが、死後に高い評価を受けた画家です。旅人であった事は間違いなく、タヒチなど南の島の情景を色彩豊かな表現で哲学的なテーマで描いています。

白い馬

アレアレア

タヒチの女たち

自画像(1893年)

黄色いキリストのある自画像
ゴーギャンとファン・ゴッホの共通点は何と言っても元々神学校の出身で職業的な画家の訓練を受けていないというところだと思われます。彼らの存在が絵画文化の大衆化に大きく影響しているというところがあるかと思われます。

フィンセント・ファン・ゴッホのウジェーヌ・ボックの肖像です。ベルギー出身の職業画家を描いているそうです。オルセー美術館にあるファン・ゴッホの絵画は比較的シンボリズムが認められているものが多い印象でした。この絵も星を象徴として恐らくフリーメイスンを描いたものなのだと思われます。

アルルのファン・ゴッホの寝室(画家の寝室、ファン・ゴッホの部屋)

アルルのダンスホール

ポール・ガシェ医師の肖像(ガッシェ博士の肖像)

オーヴェールの教会、背景が青を強調しているのも一つの特徴かと思います。

アルルの女(ジヌー夫人)

自画像(渦巻く青い背景の中の自画像)

星降る夜、アルル
ファン・ゴッホはオランダの牧師の長男で神学校を卒業しており、十分な聖書の素養と新教国でのフリーメイスンリーの知識を有していたと思われますし、それらのシンボリズムが多く絵に反映されている事は明らかであり、ガシェ医師を始めとして、印象派やパトロンたちの数多くのフリーメイスンに囲まれていたと思われます。また彼自身の親戚や親たちを見てもオランダのプロテスタントの要職を務めており、多くがフリーメイスンであったようです。彼の死の直前に至るまでに完成されていく彼自身の独特の表現法とともにちょっとずつ示されるシンボリズムが彼のそうした素養から意識的にせよ無意識にせよ自然に表わされて、それが彼の絵画の隠された意味になるのかと思われます。
ちなみにファン・ゴッホの死は一般に自殺とされていますが、耳そぎ事件と同様に真相は不明です。ファン・ゴッホの死からわずか半年足らずで理解者であった弟テオは神経梅毒の診断で死んでいます。もちろんこのブログの読者の方は印象派のスターとも言えるファン・ゴッホの死が単なる悲劇であったと考える程単純ではないと思われます。

ジョルジュ・スーラのサーカスです。スーラは新印象派とも呼ばれ、アングルの弟子に学び、印象派のピサロとも出会い影響を与えたりしています。科学的手法を推し進めた点描の手法を美術学校中退後より作品として発表し、その後第8回目の最後の印象派展で大作を出品し注目されます。31歳の若さで感染症で亡くなりました。スーラの点描画に集約されるように実は印象派の絵画が実は極めて綿密に計算された絵画芸術の革命であった事を語る象徴的なものであるかと思われます。絵画芸術がモナリザの絵画に示される計算された美、黄金比に表されるような科学的な美である事を象徴する画家であるかと思われます。

ポール=タン=ベッサンの外港、満潮

ポール・シニャックの緑の帆船、ヴェネツィアです。スーラの亡き後の新印象派を継承した画家です。性格的にはスーラと正反対であったようです。スーラの死後ロンドンに渡りやはりブラザーターナーの絵画に影響を受けているそうです。シニャックは1863年11月11日生まれで、71歳で1935年8月15日にやはり感染症で亡くなっています。彼の書いた理論書は後のキュビズムなどの芸術家に影響を与えたそうです。

赤い浮標

井戸端の女たち(井戸端のプロヴァンス嬢)

レ・ザンドリー、河堤(プティ・タンデリの土手)

アンリ=エドモン・クロッスの夕方の大気(夕べのそよ風、夕風)です。スーラの死後にシニャックとともに新印象派を引き継ぎ、後のフォービズム(野獣派)と呼ばれるアンリ・マチスらへ影響を与えたそうです。

カーニュの糸杉

豊かな髪

女性の肖像

黄金島(金色の島)

午後の情景

アドルフ・モンティセリの白い水差しのある静物画です。アドルフ・モンティセリはファン・ゴッホやセザンヌに影響を与えたそうです。ファウストなどを画題に描いておりフリーメイスンかと思われます。

ウジェーヌ・ブーダンのトゥルーヴィルの海岸です。ウジェーヌ・ブーダンは元々絵画・画材店を経営していてミレーらと知り合い絵を教えられ、戸外制作についてモネに教えたそうです。

トゥルーヴィルの海岸

トゥルーヴィルの浜辺

アルマン・ギヨマンのアゲーの眺めです。アルマン・ギヨマンは労働者階級の出身で働きながら夜間に絵を描いていたそうです。当初は印象派展への参加を拒否されましたがピサロの擁護で参加できたそうです。後に宝くじに当選して画業に専念するようになり印象派の中では最長の86歳まで生きました。

雪の中の小道

イヴリーの夕暮れ

静物-花、陶器、書物

裸婦

ベルシー河岸-雪の印象

釣り人たち

アルフレッド・シスレーのモレジーの競艇です。アルフレッド・シスレーはフランス在住の裕福な商人のイギリス人の子供でクールベやコローに絵を学び印象派として活動しますが積極的に売り込まなかったそうで、後に父親の破産により経済的に困窮します。フランス国籍を申請して却下されたそうです。ピサロがマティスに典型的な印象派とは誰かと聞かれて挙げたのがシスレーだったそうで、まさに印象派とは英仏のフリーメイスンリーの合作による絵画芸術の革命であったようです。

アルジャントゥイユの広場

エミール・ベルナールの愛の森のマドレーヌ(ボワ・ダムールのマドレーヌ)です。エミール・ベルナールはゴーギャンとともに総合主義と呼ばれる象徴主義の一つを始めたそうですが、個性が強いようで後にゴーギャンとも絶交しているようです。ジャポニズム、現代で言うところのマンガの手法を絵画に導入したようです。

陶器と壷とリンゴのある静物

日傘をさすブルターニュの女たち

水浴する女たちと赤い雌牛

ピエール・ボナールの水の戯れ、旅です。ナビ派と呼ばれる後期印象派の後の画家で、セザンヌやジャポニズムの影響が強いそうです。

男と女

砂遊びをする子供

けだるさ(ベッドでまどろむ女、しどけない女)

ポール・セリュジエのにわか雨です。ナビ派をモーリス・ドニ、ピエール・ボナールらと共に結成しました。

護符(タリスマン、ポン・タヴェンの愛の森)

モーリス・ドニの天国です。モーリス・ドニは20歳のときに芸術論文に「絵画とは軍馬や裸婦、或いは何かの逸話である以前に、本質的には一定の秩序の上に集められた色彩で覆われる平面であることをまずは認識すべきである」という絵画理論を発表しその後のキュビズムやフォービズム、抽象絵画の理論的支柱となったそうです。フリーメイスンらしい逸話です。

ミューズたち(ムーサたち、公園、樹の下で)

セザンヌ礼賛(セザンヌ頌)。セザンヌとナビ派の画家とのフリーメイスンリーでの繋がりを端的に示した絵と思われます。

フェルディナント・ホドラーの木を伐る人です。フェルディナント・ホドラーはスイス人で象徴主義の画家とされます。パリとは直接関係ないようですが恐らくフリーメイスンなのでしょう。

アンリ・ルソーの戦争です。アンリ・ルソーは印象派と同時代の画家ですが素材派とも呼ばれ元々税関職員でほとんどの絵が退職後の50歳以降に描かれたそうです。ゴーギャンやピカソに影響を与えました。家庭生活ではあまり恵まれず二度目の妻がジョセフィーヌというそうですがこの方にも1903年に先立たれているそうです。1908年にピカソやミラボー橋の作詞したアポリネールらに茶化したようなパーティーを開かれたそうです。1909年には手形詐欺事件で拘留されたそうです。1910年に66歳で亡くなっています。作風はその後のキュビズムやシュルリアリスムを先取りしたといえる先進的なもので、もともと日曜画家でありながらその後の20世紀の芸術を示したものであったようです。

蛇使いの女

田舎の結婚式(婚礼)
さてこのブログ中最長の回になってしまったわけですが、印象派論としてフリーメイスンリーと若干絡めてなんとか形になったでしょうか。実際には大急ぎで上記のような知識も持たず1時間弱でオルセー美術館を周ったというのが現地での様子でした。まあ日本の美術館もそうですが美術館のカフェの客の方が展示場よりも多く客の滞在時間も長い時代ですので、オルセー美術館もそうした傾向にもれずカフェの方が人も多く充実している印象でしたが、少なくともここに書いたような事を知ってからオルセー美術館を訪問すると少し違った時間を得られるのかもしれません。
オルセー美術館は写真撮影禁止なので上記のような内容になりましたが、ルーヴル美術館は写真がありますのでそれに基づいたものとしようと思います。ルーヴル美術館の方がよりフランス全体の象徴という形になるのだと思いますが、フリーメイスンリーとの関係はさらに濃厚でありながらはっきりとはしないかと思います。
上記以外にもロダンの彫刻など多くの彫刻作品やその他の画家の作品が多数あります。詳細はカタログや実際に訪問して確認してください。(追記:オーギュスト・ロダンも神曲をテーマとした地獄の門を制作し、1840年11月12日に生まれ、1917年11月17日に亡くなったそうで、カミーユ・クローデルとの三角関係は有名と思われます。フリーメイスンだと思われます。ちなみに考える人はちょうど三角関係でどちらを選ぶか考えていた時に作られたそうです。)
YouTubeの音楽をクリスマスソングに全面的に変更しました。不評のようですが、クリスマス期間中は継続する予定です。
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