2012-02-11 08:20 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
横須賀唯一のパーフェクトアシュラーは夏島にあるとのことでした。

夏島の名前が出れば少し歴史に詳しい人であれば何がそれを意味するかはすぐにわかる事かと思われます。

本日2.11でさかのぼることちょうど123年前の1889年明治22年2月11日に日本では大日本帝国憲法が発布されたのでした。太陰暦から太陽暦に暦がかわり、旧暦の神武元年の1月1日が2月11日に当たる事から紀元節の祝日が始まりました。これについては当初は単純に旧暦の元旦を紀元節として1月29日にあてたそうですが、孝明天皇の命日が1月30日(旧暦12月25日)であった事からずらしたようです。孝明天皇の命日も旧暦ですがクリスマスなのですね。


夏島では123年前に発布された日本最初の憲法の草案が伊藤博文の別邸で作られ、それを記念して草案作成者の金子堅太郎、伊藤巳代治と有志によって大正15年に最初の記念碑が建てられました。


当初はこのような形で条文の数を表す76枚の御影石と、伊藤博文の別邸の間取り図を示した銅板が上部にあったようです。その後敗戦後には富士自動車の敷地内にあった記念碑は銅板がはぎ取られていたそうです。そのため富士自動車の社長達有志によって昭和26年2月11日に現在の姿に作り上げられたそうです。



碑文の内容は他のホームページに全文あげている人がいましたのでそのままコピペさせていただきます。
明治憲法草案起草の跡 金森徳次郎書
SITE OF ORIGINAL DRAFTING OF THE MEIJI CONSTITUTION
IN THE YEAR  MEIJI 20 ― AD.1887
    明治憲法起草遺跡記念碑
この記念碑は, 現在地から南方200メートルの場所に, 大正15年11月に建立されたものである。当時、明治憲法草案起草の関係者であり記念碑の建立発起人の一人であった金子堅太郎の言によれば, その場所は、 伊藤博文の別荘の草庵起草の室にあてられた12畳半の部屋であったという。記念碑は、太平洋戦争後荒廃していたが、当時この地で創業していた富士自動車株式会社の手によって、一部原形を変えて改修され昭和26年2月再度除幕された。このたび、元の位置を含む一帯が、日産自動車株式会社に帰属することとなったので同社と協議のうえ現在地に移設させ, 明治憲法草案起草の遺跡を示す唯一の記念碑として永く後世に伝えようとするものである。
ちなみに、この碑の外面は、76個の石からなるが、これは明治憲法の76箇条を意味し、基石の縦横各22尺2寸1分1厘の長さは、憲法発布の明治22年2月11日を示したものである。
昭和50年4月26日 横須賀市

金澤之爲地負山瀕海波光與嵐影相
映自古稱武相第一之名區伊藤春※   ※=「畝」の旁が「卜」 
公愛其勝構別墅於夏島将就此而審
議憲法典範之草案屋宇無輪奐之美
柱楹不加雕飾一棟六房纔凌風雨耳
明治二十年三月起工六月落之也公
乃徃焉陪従者三人予與金子堅太郎
寓東家井上毅別居公日夾臨東家從
事調査予專管機秘草案一夕有偸兒
入予室奪行李而去翌朝覺之百方捜
索偸兒唯取銭而棄行李干圃中草案
則幸無恙矣公乃命二人移居夏島島
孤懸干海心非※舟不可渡居此者宛   ※=「イ」+「就」
如謫客距島数百武有烏帽子巖巖以
形名焉時際盛夏晨夕討論之暇徃徃
游泳至巌下其快洵不可名状也顧夏
島既爲憲法發祥之處而物換星移今
則為海軍飛行場併烏帽子巖無復※   ※=「厂」+「示」
影滄桑之燮足喫一驚也於是刻文而
誌遺跡以告後人云
  大正十五年十月
  正二位勲一等伯爵伊東巳代治撰并書
  発起人               PROMOTORS  
内山岩太郎            IWATARO UCHIYAMA 
山本惣治              SOUJI YAMAMOTO 
メーヨー エス シルビー      MAYO S. SILVEY 
ジェームス エイチ ドローン   JAMES H. DRAUGHON 
  昭和26年2月11日 再建   REBUILT ON 11TH FEBRUARY 1951
   協賛
  神奈川県
  横浜市
  横浜商工会議所
  横須賀市
  横須賀商工会議所
  富士自動車株式会社

継ぎ目はあるもののほぼ完璧なパーフェクトアシュラーですね。恐らく記念碑としては日本にここだけなのではないかと思います。それだけ明治憲法を制定したという業績は確固たるものであり、日本で日本人による政治的偉業としてフリーメイスンリーとして最も評価されるものであったと考えられます。明治憲法制定については、草案作りに参加した中心人物として伊藤博文とさらにその他の3人の内金子堅太郎の経歴がフリーメイスンリーとして興味深いところです。さらにこの記念碑の発起人である山本惣治氏、内山岩太郎氏の関連も注目されます。

まず伊藤博文についてですが、こちらは初代内閣総理大臣、夏目漱石の前の旧千円札のお札の肖像に採用されていたことで有名です。ウィキペディアで見ると初代兵庫県知事をされています。いわゆる長州ファイブの一人としてブラザートーマス・グラバーの仲介でイギリスに留学し、下関戦争の前に帰国し、その後岩倉使節団の一員として海外を歴訪し、ブラザービスマルクとも面会しています。その後は憲法調査のためドイツに留学しました。彼について有名なのは妻も元芸者であったように芸者遊びが激しかったことで、明治憲法草案についてもなじみの芸者が経営する金沢八景にあった東屋で草案の盗難事件にあった逸話もあります。現在金沢文庫には当時の料亭の面影を残した唯一の老舗千代本が往時の雰囲気をわずかに残しています。彼はイェール大学の名誉博士号なども取っており、ブラザー林董も伊藤博文の指示でフリーメイスンリーに加入したという話もあるようですし、日露戦争に関わり様々な注目を集めていたと考えられます。結局韓国併合目前の1909年にカトリック教徒の安重根にハルビンで暗殺されるわけですが、この事も彼が女性関係も含めた素行の点で芳しくなかった事によるのかもしれません。ユダヤ教によれば人間の評価は食べ物と性的生活でなされるということです。長州出身のほぼ百姓の息子であった明治の元老伊藤博文と山縣有朋の二人の死に伴って政府での長州閥の影響は弱まり、東北出身の旧士族の子供たちである陸軍や海軍の軍人たちの影響が強くなっていくのです。明治憲法に示された天皇大権に基づく議会制は、大正天皇の死と軍閥の出現、統帥権の干犯や軍部大臣現役武官制などを通して当初の立憲政治は無視されるようになり、結局はテロリズムの嵐の中日本は軍国主義の道を進むようになるのですが、憲法の理念、伊藤博文らの啓蒙と立憲政治の思想が守られたなら明治維新の成果は太平洋戦争で残骸となることなく現在までより多く引き継がれていたかもしれません。いずれにしても伊藤博文の死と韓国併合への植民地への欲望がこれら維新当初の日本人による憲法の策定という功績を駄目にしてしまった事は歴史の教訓かと思われます。


金沢八景野島に復元された伊藤博文別邸 これは品川にあった下賜された邸宅を移築したものだそうです。夏島のものとは関係ないそうですが、当時のものを修復し再現していて、明治の元老の美意識を感じることができます。山縣有朋の別邸なども箱根にありますが、現代の日本人の美意識の琴線に通じるものがあるかと思います。お茶会など良くやっていますので一度訪問されることをお勧めします。


伊藤博文の直筆 達筆ですね。江戸時代末期の庶民の教育水準の高さがうかがわれます。人柄もあるのでしょうが、恐らく明治期の志士の中で最も達筆なのではないでしょうか。中国に留学して仏教の真髄を学び伝えた弘法大師の逸話を思い起こさせるものではないでしょうか。


別邸の中庭 山縣有朋も庭づくりで有名だったそうですが元老や皇室での競い合いを感じます。江戸初期の戦国武将たちの隠居後の庭づくりに通じるものもありそうです。


野島別邸からの八景島の景色 伊藤博文は何を思うでしょうか。

次に金子堅太郎についてです。彼は福岡出身で藩主の黒田長知に同行して團琢磨と共に岩倉使節団の一員としてアメリカに留学し、ハーバード大学のロースクールに在学しています。さらにそこでブラザーセオドア・ルーズベルトの知己を得て、その後ブラザーエドマンド・バーグの著作に親しむようになります。帰国後に「フランス革命の省察」を明治天皇に奉呈して、それの抄訳を作成しています。日露戦争後は日米協会の会長を務め、最後まで日米開戦を憂慮していて開戦前の5月に亡くなったそうです。「フランス革命の省察」はいわゆる保守主義のバイブルと呼ばれる名著であり、イギリス保守主義、伝統主義の真髄を表した著作と言われています。ブラザーバーグはアイルランドの生まれで父は国教徒、母はカトリックだったそうです。本人は国教徒となり、ダブリンのトリニティ―カレッジで美学について論文を出して注目されたそうです。その後政治家となり、フランス革命のさなかに熱狂的なフランス革命支持者のフランスの青年からの手紙に答える手紙をしたため、その中でフランス革命がいかに理念が先行し現実が伴わないものであるか、確実に失敗するであろう現実的な評価、形而上的な権利や理念を追い求めることの虚しさ、相続についての自然権について述べてイングランドにおける名誉革命の成果を継続することがイングランドにフランス革命を輸入しないための最重要の事であると説いています。わたしは邦訳をまだ3分の1ほどしか読めていませんが、内容は極めて難しくそれでいて現実の評価や論理は単純明快で簡潔であり、ただ革命や革新に情熱を持った若者の情熱を完全にさめさせるには確かに十分な説得力を持ったものであると感じられます。彼もグランドロッジのホームページに名前を挙げられる重要なフリーメイスンの一人であり、この著作は実質フランス大東社に対する正統派英米フリーメイスンリーの評価であるとも考えられます。一種の現代の政治論文の最重要のものであると考えられ、フランス革命や共和制、王制や天皇制を少しでも考えたい人はすべからく読むべき著作、むしろ読んでから発言すべき著作であると考えます。


ブラザーエドマンド・バーグの肖像画

さて金子堅太郎については出身地が福岡であることも一つのポイントであるかと思われます。これについては後に取り上げる予定です。


発起人の山本惣治氏についてはウィキペディアではもともと日産の社長で、その後富士自動車の社長となり、追浜工場で米軍の車両の修理など行っていたとあります。日産ではダットサンの設計開発など行い、富士自動車では三輪自動車フジキャビンなど開発したようです。恐らく黎明期の日本の自動車産業の開発主導の立役者となった方かと想像されます。アメリカでいうとタッカーとかそういうのではないでしょうか。山本氏の死後重機メーカーのコマツとなって事業は継続されているようです。コマツの商標にパーフェクトアシュラーを模した正方形を認めるのは関係あるのでしょうか。

またもう一人の日本人発起人の内山岩太郎氏は戦時中の外交官、戦後の神奈川県知事の方です。ウィキペディアでは戦後日本の国連加盟に当たってフィリピンとの関係を調整され尽力されたとあります。また神奈川県の鎌倉にある県立近代美術館の設立にも関係されたようです。フィリピンとの関係修復はそのまま日本のフリーメイスンリーにとってグランドロッジの設立にかかわる重要な功績であり、恐らくここに名前を残された四名の方はフリーメイスンであったかと思われます。本人はカトリック信者でありながらフィリピンの寺院の復興に個人的に尽力されるなどフリーメイスンリーの汎宗教性を感じさせる逸話だと思います。鎌倉、葉山にある県立近代美術館は前者は八幡宮境内にあり、後者は葉山御用邸と通路でつながる場所にあり、美術館でありながら様々な背景を感じさせる立地にあります。特に葉山のものは2003年に出来たもので直接の関係はないようですが、ユダヤ人芸術家のものなど近代美術でもこだわりのある展示を行っており、興味深いものがあります。建築自体は六本木にある国立新美術館の原型とも思われる形ではないかと思います。

ざっと概観しましたが恐らく年間100人も訪れないであろう夏島の現在日産自動車の敷地内にあるこの日本で唯一であろうパーフェクトアシュラーの記念碑は、横浜の港の見える丘の外国人墓地に匹敵する、日本におけるフリーメイスンリーの歴史の記念碑であり、横須賀における最高のフリーメイスンリーの象徴であるように思われました。多くの人に訪れていただき、フリーメイスンリーとは何かをその象徴から感じていただければこのブログの意味がわずかでもあるように感じられます。
(追記:ちなみに現在のブラザーマッカーサーの下でつくられた日本国憲法の公布日は明治天皇の誕生日の11月3日であり、施行した5月3日はポーランドでヨーロッパ初の成文憲法が成立した日であるようです。明治憲法の施行日の11月29日は元旦から333日目という事はあるようです。)


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