2012-02-12 10:57 | カテゴリ:神戸
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
日本でのゴルフ発祥の地を知っている人は少ないのではないでしょうか。
戦後に外国人が導入したように思いそうですが、実は明治時代にやってきています。
太平洋戦争のさなかでも近衛首相や天皇陛下はゴルフをしていたそうです。石川出身の某首相はそれで非難を浴びましたがまあ昔からあまり変わらないのですね。

さてテニスやゴルフ、ラグビーやサッカーなどイギリス発祥のスポーツは多いのですが、スポーツはそもそもオリンピックや世界大会に象徴されるように平和のための疑似戦争、一つの社交や外交の目的があります。その中でもゴルフはスコットランドの羊飼いが暇つぶしに始めたという起源もあるもので、ポロと並んでイギリス紳士の社交としての地位が高いかと思います。ゴルフの起源の地とされる全英オープン開催地のセント・アンドリュースはフリーメイスンリーのスコティッシュライトの29階位に聖アンドリューのスコットランド大騎士として認め、そもそも聖アンデレは12使徒の一人なわけですが、都市には美しい石造の建築が多く認められ、しかも現在は多くが廃墟になっているようですが、これらはスコットランド、イングランドが宗教や王権の争いの中で繰り返し激しい戦争が行われていた証しでもあり、またその中で実務的メイスンリー、いわゆる教会や城を建築する戦争や宗教の請負職人としての石工が活躍していた証しでもあります。



セントアンドリュースの風景 ウィキペディアよりそのまま借用です。

さて日本最初のゴルフコースですがそれは題名で示した通り神戸の六甲山中にあります。
作った方はアーサー・ヘスケス・グルームというイギリス人の方で、恐らくフリーメイスンだと思います。ブラザーグラバーの友人であったそうです。非常に興味深いので毎度毎度ですがウィキペディアを引用いたします。
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アーサー・ヘスケス・グルーム(Arthur Hesketh Groom、1846年9月23日 - 1918年1月9日)は、幕末から明治にかけて日本で活躍したイギリス出身の実業家。六甲山の開発と景観保護に力を注ぎ、「六甲山開祖」と呼ばれた。

経歴 
1846年9月22日、イギリスのロンドン郊外で生まれた。トーマス・ブレーク・グラバーとともにグラバー商会を設立した兄のフランシス・グルームの勧めで同商会に勤務することになり、訪日。長崎での勤務を経て1868年4月に支店を開設するための出張員として開場したばかりの神戸外国人居留地を訪れた。
1870年にグラバー商会は倒産し、グルームは元同僚と共同出資して居留地101番地にモーリヤン・ハイマン商会を設立。日本茶の輸出、中国紅茶の輸入などを手掛けた。1883年には横浜居留地へ移住し、生糸の輸出を行ったが業績が思わしくなく、10年ほどで神戸へ引き返し居留地内播磨町34・35番地に商社を構え茶の輸出を続けた。
1897年、神戸外国人居留地内にあったオリエンタルホテルをエドワード・ハズレット・ハンターらと共同で買収し、社長に就任した。1908年には居留地6番地に同ホテルの新館を建設。ゲオルグ・デ・ラランデの設計したこの新館は「東洋一の洋館ホテル」と呼ばれ、高級ホテルとして繁盛した。しかし同時期に起こった恐慌のあおりを受けてオリエンタルホテルの経営状態は悪化し、1916年に経営権を日本人実業家の浅野総一郎に売却した。
1917年末、神戸外国倶楽部(神戸倶楽部)で開かれたクリスマスパーティーに出席したグルームは泥酔して玄関の石段で転倒し、脳震盪を起こした。翌1918年1月2日、同じ神戸倶楽部で開かれた新年会に出席したグルームはまたもや泥酔した挙句玄関の石段で転倒し、頭部を強打。傷口から破傷風に感染したことが原因で9日に死亡した。遺言により葬儀は仏式(日蓮宗)の家族葬で営まれ、遺体は火葬されて春日野墓地にあった妻の実家・宮崎家の墓に葬られた。戒名は英知院具理日夢居士。

六甲山の開発
グルームは六甲山の開発に力を注いだ。きっかけとなったのは五男がろう者であったことを趣味の狩猟で多くの動物を殺した報いと感じ、罪滅ぼしに狩猟をやめ、動物が多く住んだ六甲山の自然を守ろうとしたことにあったとされる。
1895年、グルームは長男亀次郎の名義で六甲山上の1万坪あまりの土地を畑原村など3つの村から納涼遊園場敷地として借りた。グルームはまず三国池付近の45坪ほどの土地に自分の別荘を建て、その後別荘地を外国人に分譲した。グルームが建てた別荘は六甲山上に建てられた最初の人家であり、「101番屋敷」「百壱」と呼ばれた。
グルームはスポーツマンとして知られ、神戸外国人居留地内に発足したスポーツクラブ(神戸クリケットクラブ・神戸レガッタアンドアスレチッククラブ(KRAC)の設立に深く関与していた。グルームはKRACに高齢のメンバーを勧誘するため、土地の安い六甲山にゴルフ場を建設することを思い立った。工事は1898年頃に開始され、1901年に4ホールのコースが完成した。このコースをもとに1903年、会員制のゴルフ場神戸ゴルフ倶楽部が発足した。
グルームは植林や桟道の整備開発に私財を投じ、六甲山が避暑地・リゾート地として繁栄する礎を築いた。明治末には建てられた別荘は60戸、住人の外国人は100人以上を数え、別荘地一帯は「神戸外国人村」と呼ばれた。六甲山を開発した功績からグルームは「六甲市長」と呼ばれた。

逸話
六甲山を巡って、グルームにはいくつかの逸話が残されている。
白髭神社の狐 
ある日、グルームは猟師に追われ別荘の敷地へ逃げ込んできた狐を匿った。狐は付近に住みつくようになり、グルームの膝の上で眠るほどに懐くようになった。狐はグルーム以外にはまったく懐かず、グルームが死ぬと姿を見せなくなった。1919年、グルームに匿われた狐が乗り移ったという男が中山手通に住んでいた家族のもとを訪れた。この出来事をきっかけに家族は六甲山に祠を作って狐を祀ることにした。グルームが匿った狐の尾が白かったことから祠は白髭神社と名付けられた。この祠は現在六甲山ホテルの西にある。
グルーム地蔵 
グルームがゴルフ場の建設工事を行っていた頃、外国人の子供が建設予定地の近くにあった地蔵にいたずらをして首を折った。グルームはこの地蔵に新しい首をつけて別荘内に安置するとともに、新しい地蔵を作って元の場所に置いた。この地蔵はグルーム地蔵と呼ばれ、後に近くから出た湧水は味が良いと評判になった。この湧水はグルームの末期の水に用いられた。
記念碑 
1911年、グルームの六甲山開発における功績をたたえて記念碑を建てる計画が持ち上がった。グルームは「私は神様ではない。死んでからにしてくれ」と断ったが計画は実行に移され、高さ3メートルの石碑「六甲山開祖之碑」が後に記念碑台と呼ばれるようになる山上に設置された。この石碑は太平洋戦争中の1942年に「敵国人の顕彰碑」として軍部の手によって破壊されたが、終戦後の1955年に「六甲山の碑」として再建された。
家族
グルームは神戸を訪れて間もなく、下宿先であった善照寺の住職・佐々木先住の紹介で大阪玉造の士族の娘、宮崎直と結婚した。夫婦仲は娘の柳が「50年一日の如く、いたわり合い信じ合っていた」と振り返るほど良好で、グルームがオリエンタルホテルの経営で苦しんだ際に直は手持ちの資産をすべて提供した。
夫婦の間には15人の子供が生まれ(うち6人は早世)、全員が妻の実家である宮崎姓を名乗った。
長男:亀次郎(1872年(明治5年) - 1931年(昭和6年)、神戸生まれ)
長女:千代(1874年(明治7年) - 1937年(昭和12年)、神戸生まれ)
次男:米吉(1880年(明治13年) - 1944年(昭和19年)、横浜生まれ)
三男:末吉(1883年(明治16年) - 1952年(昭和27年)、横浜生まれ)
四男:久吉(1885年(明治18年) - 1952年(昭和27年)、横浜生まれ)
次女:花(1887年(明治20年) - 1960年(昭和35年)、横浜生まれ)
五男:英悟(1888年(明治21年) - 1960年(昭和35年)、横浜生まれ)
六男:鶴之助(1890年(明治23年) - 1964年(昭和39年)、神戸生まれ)
三女:柳(りう)(1894年(明治27年) - 没年不詳(昭和)、神戸生まれ)
長男亀次郎は昭和6年に死んだが、次男の米吉夫妻が中心となって、六甲山の開発で追われた鳥獣虫・草木の慰霊を願った父の志を継ぎ、三国池の横道を登りつめた丘の上に、法華経8巻を納めたグルームの宝塔を立てた。その他グルームに関係する史跡として、前述の白髭神社、グルーム地蔵、チェンバー標識石がある。

この中で出てくる神戸外国倶楽部と言うのが現存する神戸にあるフリーメイスンリーのロッジで、イングランド系のRising Sun Lodge No. 1401とスコットランド系の Hiogo and Osaka No. 498が使っているそうです。Rising SunというとEXILEの曲であったような気が。1872年と1870年に結成されたそうで戦時下では一旦引き揚げたそうですが、戦後に継続しているので連続したものとしては最古のものになるのかと思います。神戸は横浜と並んで明治維新後よりフリーメイスンリーの盛んな土地で、現在日本グランドロッジの管轄下のものは京都で無くなってしまったそうですが、関西地域で今後増えることも予想されます。その中でアーサー・ヘスケス・グルームの逸話は非常に重要なものになるのではないかと思われます。

私は神戸は二度しか行った事がありませんが、二度とも六甲山に登りました。関西自体その他に大阪、淡路島に一度しか行ったことが無く、京都は二度くらい行きましたがあまり関西について詳しく知っているとは言えません。ただまあ有馬温泉でダライ・ラマの夢まで見たのはいい思い出でしょうか。二度目に行った3日後にアキレス腱を切ってしまいイギリスとフランスのグランドロッジに訪問する機会を逸してしまいました。

とまあ色々逸話の多い関西地域のフリーメイスンリーの話です。孝明天皇の死にまつわる逸話もあり次回より写真と共に見聞録をまとめたいと思います。


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