2013-07-07 17:33 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さてさてなかなか読むだけでなく書くことになると相当面倒な話となってしまった、ブラザーデッカー司令官の回想録です。このブログをきっかけとして本を購入して全文を読む方が出てきていただければ幸いです。
一応このブログでは本文に沿って、その内容の要約とそれぞれについて私個人の感想や解説を加えていく形をとっていきます。文章や内容の多寡もあるかと思いますので一応現在は章ごとに分割していこうかと思いますが、それでも章だけでも15章あり、それも章ごとの注目度も特に前半部分が濃密だと思われますので、適当なところで切っていこうかと思っています。
最初のまえがきとプロローグのところは非常に短いので大丈夫かと思われます。

まずまえがきです。副題として横須賀海軍基地占領とあります。
横須賀海軍基地の歴史としてそもそも江戸幕府の小栗上野介とフランス公使ロッシュとの接点からフランソワ・レオンス・ヴェルニーが招聘されて横須賀製鉄所、横須賀造船所が建設され、後に横須賀海軍工廠となった歴史が簡潔に月日を示して著されています。その後関東大震災で打撃を受けましたが、太平洋戦争中は主要な空母の建造と世界最大の空母「信濃」の建造を行った港として、その巨大なドックの重要性が強調されています。

その後は米軍の横須賀基地の接収の模様です。荒れ果てていて衛生環境は劣悪であったことが初代から三代目までの前任司令官時代のレポートの形でまとめられています。特に強調しているのが時期から二代目の司令長官だと思われますが、離任の言葉としてそのまま「次のことを忘れてはならない。ジャップはちっとも変わっていない。奴らはいやらしく、卑劣で油断できない動物で、数週間前までは米兵を殺し、痛めつけることに必死だったのだ…」という発言ですが、まあブラザーデッカーは基本的にそれを反面教師として成功する横須賀基地司令官となったわけですが、まあどうなんでしょうか。内心本音がどちらかというとまあ恐らくこの発言の方がわかりやすく正直なのだと思いますが、それをそのまま捨て台詞にしてしまっては元も子もないのでしょうね。横須賀基地司令官の仕事は誰かがやらなければならない仕事であったのであり、そのままの態度では現実問題としてうまくいかなかったのでしょう。ブラザーデッカーは昭和21年4月10日から昭和25年6月30日の朝鮮戦争開戦5日後まで第4代米海軍横須賀基地司令官として在任し、その後故郷のサンディエゴで退役しレッドパス局という恐らく退役軍人を雇用する有志で出来た組織に所属して、ブラザーマッカーサー元帥の功績をたたえる講演を行っていたそうです。検索するとどうも自らの出自について本を書いていたようで、そもそもデッカー家の由来はオランダからの移民であるようです。

ここからプロローグとなります。ブラザーデッカー司令官が司令官となるまでのいきさつと、その際の横須賀の状況、また占領政策でお世話になった上官や妻への感謝の言葉が述べられています。また日本人では特に女性に対して占領に協力的であったことに対して感謝の言葉が述べられています。またアメリカ国民へのアピールとして自らが横須賀基地を整備して日米同盟の基礎を築いたことによって太平洋の平和が維持されたことが語られています。それでは内容について細かく見ていきます。
最初に副題として日本人は信頼できるとあります。これは興味深いのですが、なぜそれ以前の司令官と違って信頼できると思ったのかというのがあります。これについて解説すると色々な種明かしになり過ぎてしまいますし、この前のその1でも触れた部分となってしまうと思うので後々でやんわりと解説していくこととしようかと思います。ブラザーデッカーは基地司令官に任命された時ワシントン州シアトルに係留中の三隻の退役間近の戦艦の司令官という要するに完全に退役間近の仕事をしていて、ほぼ定年前の任期延長であったということかと思います。また好都合なことに最初乗り気でなかった仕事ですが、ちょうどたまたま偶然に二人の息子が日本で横須賀の状況を知っていて、詳しく知ることが出来、人生の挽回のチャンスと本人が非常に乗り気になるという経緯があります。もちろん、非常に誇り高いフリーメイスンですから本文には人生の挽回のチャンスなどとは書かれていませんが、実際はそのようなものであったようです。恐らく戦時戦中ではなく、戦後や戦争中でも前線ではない補給部隊の場面などでそれなりに特異な優秀な成果を挙げている実績があったものかと思われます。代々フリーメイスンであるというデッカー家の家系にもいろいろそれらを説明する要素がありそうですがネットで出てくる資料が非常に少ないので想像でしかありません。
横須賀基地と横須賀市周辺の軍事施設の恐らく任官前に与えられた情報などが示され、その中でも恐らく任地で最も印象深かったと思われる横須賀基地の防空壕の光景が描かれています。彼の仕事が主に荒廃した基地に残された廃棄物処理やその中で使えるものの分配、後はほぼ難民に近い現地の日本人に対する対応が仕事な訳ですが、それこそ燦々たる成果で飾られたアメリカ軍の上陸部隊の中で優秀な人はすぐに帰国する状況の中での現地赴任であったということで、非常に地味かつ軍人としての本分とはかけ離れたものではありますが、ブラザーデッカーは軍人としても人生の中でも最も幸せで充実した時間であったとしています。
また現地でやり取りした手紙がこの後の本文の多くを占めることになるわけですが、その手紙類も実は現地ではブラザーデッカーは処分するように妻に言っていたものが取り置きされていてそれを結局この回想録では引用したと書いてあり、その辺りにも夫婦の間合いというものが垣間見える形となっています。

まあそんなわけでこの様な形でブラザーデッカー司令官の回想録についてはまとめていくつもりです。面倒くさいなと思った方はすぐに直接本を購入して自分で読んでみてください。その上でまたブログを読んで対比するとさらに面白いかもしれません。

後は追記として恐らく横須賀の最近のヴェルニー公園やヴェルニーの水などの一連のブラザーヴェルニーの業績をたたえる活動の大元はこのブラザーデッカー司令長官が最初に赴任前に恐らく示された情報の内容からのこの表記に基づいているのではないかと想像しました。この後の1章にも出てきますが、横須賀基地をアメリカ軍が保持しなければならない至上命題としてブラザーヴェルニーが建設した横須賀ドックに引き続く、日本海軍が建築した空母信濃を建造した6号ドックの存在があったものと思われます。当時アメリカは太平洋に大量の空母を保持しており、空母の有用性がその後の太平洋、世界の海の覇権そのものであったことから、その後の原子力空母に繋がる世界戦略の一端として横須賀基地が現在の空母の母港として機能するように早期から基地機能の改善を目的としていたということがあります。そしてその回想録に繋がるブラザーデッカーの基地行政の成功の陰にそうした世界規模の意思が存在し、その礎石としてそもそもフリーメイスンであるブラザーデッカーがブラザーヴェルニーの成果である横須賀ドックの存在について触れそれを日本人が翻訳する事で再びブラザーヴェルニーの存在にスポットライトが当たったということになるのだと思われます。
800px-Yokosuka-dry_dock-1a.jpg300px-Yokosuka-dry_dock-2a.jpg800px-Yokosuka-dry_dock-3a.jpg800px-Yokosuka-dry_dock-6a.jpg800px-Japanese_aircraft_carrier_Shinano.jpgLeonce_Verny.jpg
当時の日本の様子がわかる動画をいくつか置きました。参照してください。







さらに追記ですが、現在ヴェルニー公園の三位一体を示す電灯とその周囲の電灯が消えてしまっています。西武グループのサーベラスの買収など様々な情勢がありますが、このブログの内容が改善にお役に立てば幸いです。

また追記です。終戦間際の横須賀基地の状況についてなかなか淡々とした記述の貴重なホームページを見つけました。文字のエンコードなどに問題がありそうですが、当時の実際の日本人の記憶だと思われ、リンクしておきます。特攻兵器海龍についてです。
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