2013-07-09 13:24 | カテゴリ:スコットランド
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さて皆さんいかがお過ごしでしょうか。盛りだくさんで経過してる当ブログですが、時間が経過するごとにその内容も膨大となり話題は等比級数的に増えていくのはこれは知識と科学の臨界点のようなもので、啓蒙運動の最大の目的はその生命活動には必ず限界点があるが、知識や科学技術の集積には限界点がないように無限に広がっていくという一種の科学万能主義の思想に基づいていて、その基本となるのが知ることによる無知からの脱出であり、その体験がまさに奇跡そのものであり理神論を形成する基本となったと考えられます。まあこのブログで少しでも新しい知識を獲得された方はそういう啓蒙主義、知性の信奉という近代科学万能主義の第一歩を踏み出した事になるのかと思われます。また聖書や宗教の話を通して、そうした近代科学の萌芽に当たって過去のキリスト教やユダヤ教、仏教やその他多くの宗教に共通する人が幸福に生きるためにはどうすればいいかという経験と知恵の集積があり、それらは常に同時進行で一体となっていたときにまさに世界の創造主の差配によってそこに光という進歩が生じるという一連の流れなのだと思われます。科学的知識や進歩はすぐに我々の生活を豊かにはしませんが、それらが真摯な宗教的態度や信仰と結びついたときには確実な豊穣を約束するというのがフリーメイスンリーで教えられるシンボリズムの中心的な概念であり、フリーメイスンリーで繰り返し求められる実践であるのかと思われます。今後もこのブログを中心として様々な情報発信や活動が続けられるかと思いますが、どうか皆さんにおいても継続したそうした啓蒙の活動、知的関心の喚起と実践を続けられて、実りある成果を確実なものとされることを期待します。
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さて前置きが長くなりましたが写真の方はエディンバラ城の中の展示です。実際は写真撮影禁止なのですが、私にとってあまりに興味深く撮影を止める係員もいなかったので撮影してしまいました。これは王の装身具を職人が作っている様子の蝋人形なのですが、Craft made Crown.と書いてあって、う~ん、なるほどな~という感じでしょうか。周りにはフリーメイスンリーのシンボルとなる道具がたくさん置いてありました。
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これは展示の額縁のデザインが菊の文様になっていたので撮ったのでした。ところどころこういうのが入っているのがイギリスの展示です。
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チャールズ1世の戴冠です。1633年6月18日となっています。まあシンボリズムなわけですがどうでしょう。英語版ウィキペディアではイングランド王の戴冠が1626年2月2日、スコットランド王が1633年6月18日となっています。洗礼者ヨハネの日の6日前ですね。チャールズ1世の誕生日は1600年11月19日亡くなったのが1649年1月30日です。日本語のウィキペディアではどうも誕生日や戴冠日が微妙にずれたりしています。面白いですね。父親がいわゆるジェームズ1世版聖書で知られるスコットランド女王メアリーの子供であるジェームズ1世です。ジェームズ1世はエリザベス1世の死去後にスコットランド王ジェームズ6世からイングランド王ジェームズ1世として戴冠しました。以後イングランドとスコットランドは連合王国となり、現在のウィンザー朝に繋がるスチュワート朝が始まります。チャールズ1世の時代に権利の請願があり、清教徒革命が始まりチャールズ1世は捕えられエディンバラ城に囚われます。最後はロンドンのブラザーイニゴー・ジョーンズが建設したバンケティング・ハウス前で処刑されました。
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チャールズ2世はチャールズ1世の子供で清教徒革命の間はフランスに亡命していて、清教徒革命に反対したスコットランドに上陸して1651年1月1日にいわゆる運命の石の上で戴冠しました。その後護国卿オリバー・クロムウェルに敗れ再びフランスに亡命します。クロムウェルの急死後に帰国を要請されイングランド王チャールズ2世として戴冠しました。この際にはオリバー・クロムウェルの遺体は掘り起こされ斬首され晒し首にされたそうです。その後カトリックのポルトガルの王女と結婚しインドのボンベイなどの植民地を得たそうです。チャールズ2世の時代には騎士議会が開かれていたそうですが、基本的には王に賛成する立場で、チャールズ2世は非常に艶福家で愛人が多数いたそうです。シティーや議会との対立が後の名誉革命の発端となったそうです。1666年はいわゆる驚異の年であり、第二次英蘭戦争のさなかにコレラの流行とロンドン大火があり、政権交替で政権を担っていた貴族が亡命し、その後の政権を担った5人の貴族の頭文字をとってCABAL政権(陰謀政権)と呼ばれたそうです。王はカトリック(臨終で改宗)で王位継承者のジェームズもカトリックであったので、国教会が優勢であったイギリス国内においてカトリックに寛容なチャールズ2世の政策は反対をもたらすようになります。チャールズ2世はスコットランドの長老派教会などを積極的に抑圧し大殺戮をもたらしますが、1685年に亡くなり、その後国王となったジェームズ2世はカトリック王として専制をしきますがわずか3年で名誉革命をもたらしフランスに亡命し、娘が結婚していたオランダ総督ウィリアム3世がイギリスに上陸し戴冠します。スチュワート朝はその後ジャコバイトの反乱などを制圧したりしながら、子供が出来なかったウィリアム3世夫妻の共同統治後に、やはりジェームズ2世の娘であるアン女王の死去後、ドイツからジョージ1世を招きハノーヴァー朝となります。名誉革命によって権利の章典が定められ王権の制限が確立され、国教会を中心としたプロテスタントによる統治が確立されます。オランダ総督が英国王となった事によって新教国としてのオランダの世界貿易の覇権がイギリスに移行していくこととなり、その後のハノーヴァー朝の下での議会制民主主義の発達のもとでの大英帝国の躍進がさらにアメリカ独立戦争や近代の植民地戦争や世界大戦へと繋がっていきます。
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これはスチュワート朝で同君連合となった後のスコットランド王国の象徴である王冠などがエディンバラ城の中に封印されたことを示しているのだと思います。ジャコバイトなど様々な不安定要素をもたらす可能性があったためそうされたのだと思います。それだけスコットランド王の地位はイギリス全体の重要なポジションを占めていたのですね。1707年だそうです。
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封印から111年後の1818年にブラザーサーウォルター・スコットがその封印を解いてスコットランド王冠を再発見したそうです。シンボリズムが踏襲されていますね。
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そしてそれが展示されているわけですが、これは係員がいて写真は撮れませんがネット上に写真がありました。いかにもブラザースコット好みの時代がかった歴史劇であり、まさにスコットランドフリーメイスンリーの真髄といったところでしょうか。
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そしてその伝説の王冠とともに展示されているのがいわゆる運命の石、スクーンの石とも言われるウェストミンスター寺院の戴冠式の椅子に格納されていたスコットランド伝統の石ですね。1296年にイングランド王のエドワード1世によってウェストミンスター寺院の椅子の下に持ち去られて以来700年間そこにあったのですが、1996年のトニー・ブレア政権時代にエディンバラ城に移されて展示されるようになったそうです。トニー・ブレアももちろんフリーメイスンなのでしょうね。
westminster stone
聖ヤコブとの関連も伝承されているそうなので、恐らくフリーメイスンリーでも螺旋階段で象徴されるヤコブの梯子の夢を見た際の石の枕のイメージなのではないでしょうか。アイルランドからもたらされたそうなので、その当時のアイルランドへの聖パトリックのカトリックの伝道のその後の影響なのでしょうね。
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エリザベス1世の跡を継いだジェームズ1世がスコットランド女王メアリーから生まれた場所です。1566年6月19日だそうです。亡くなったのが1625年3月27日だそうです。ジェームズ1世の父親は彼が1歳の時に不審な死を遂げ、母親はイングランドに亡命しその後19年軟禁状態で最後は処刑され亡くなったそうです。
スコットランド女王メアリーは生後6日でスコットランド女王となり、その後フランスの王太子と結婚して夫が14歳で即位後フランス王妃となりますが子供は出来ず夫が16歳で亡くなり、スコットランドに帰国しスチュワート家のダーンリーと再婚しますが、すぐに夫婦仲が冷め愛人に秘書のリッチオがなりますが、息子のジェームズ1世を妊娠中であった1566年3月9日にホリールード宮殿の夫の部屋の横のメアリー女王の目の前で愛人が貴族によって惨殺されたそうです。子供のジェームズ1世の父親もダーンリーであるかどうか疑われたそうですが、その後ダーンリーも新たな愛人となったボスウェル伯とメアリー女王によって謀殺されたそうで、メアリー女王はボスウェル伯と再婚しますが最後はイングランドに亡命し、軟禁状態ではあったものの自由な生活をしていましたが、たびたびエリザベス1世に対してイングランドの王位継承権を主張して反乱を画策し、最後は処刑されたそうです。
ジェームズ1世は13歳からホモセクシュアルであったそうで、愛人が出来た後に摂政を処刑し、またその後再び軟禁されますが脱走し、軟禁の首謀者を処刑し18歳で実権を握ったそうです。その後23歳で女性と結婚しますが、その直後に船で遭難しそうになり陰謀を疑って魔女狩りが行われたりしたそうです。1603年3月14日にエリザベス1世が無くなると37歳で後継者に指名され戴冠しスコットランド王ジェームズ6世からイングランド王ジェームズ1世となります。1605年には爆殺未遂事件もあったそうです。1611年にいわゆる欽定訳聖書を作成します。ユニオンフラッグもこの時代に出来たそうです。子供は3人が成人しますが、長男は18歳で死亡し、次男がチャールズ1世となり、長女がドイツに嫁ぎ、その孫が後のハノーヴァー朝のジョージ1世となります。
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ヘンリー8世、メアリー1世、エリザベス1世の三人が生まれたクイーンズハウスとはまた趣が異なりますが、これだけの因縁がある場所と知るとなかなかすさまじいですね。フリーメイスンリーのシンボリズムははっきりとは認めませんが、オベリスクのような装飾や3本のロウソクの光などを認めます。まあ解説しなくてもフリーメイスンリーの歴史上重要な場所であることは雰囲気でわかるかと思います。
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スコットランド王ジェームズ6世の紋章だそうです。
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なんだか変なデザインです。
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近くの小部屋の床は白黒になっていました。
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これはまた別の部屋で大ホールという名だそうです。
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そのステンドグラスです。シェブロンや碇、ライオン、星のシンボルなどがフリーメイスンリー関連で認められますが、もちろん貴族のシンボルでありみなフリーメイスンを輩出していると思われます。
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正面のところの床が少しモザイクになっています。Sの形にもなっているような感じでしょうか。
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武具が並べられているのはいざという時の武具庫という意味の騎士道精神なのでしょうね。
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誰を描いた絵かはわかりませんが、恐らくワーテルローの戦いを戦ったブラザーアーサー・ウェルズリーなのでしょうね。
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エディンバラ城の代々の責任者ですね。城主というべきなのかどうかなんでしょうが、恐らく責任者で良いのではないでしょうか。
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ここでいったん外に出ます。前にあるのがセントマーガレット教会堂でエディンバラ城の中で一番古い建物です。
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捕虜の牢獄として使われた部分の展示です。後で解説が出ますが、アメリカ独立戦争やフランス革命戦争などでのいわゆるイギリス軍に対抗する側の捕虜が捕えられ収容された場所として利用されたと説明されています。まあフリーメイスンも多く含まれていたということなのでしょうね。国際法やジュネーヴ条約もない時代の捕虜の取り決めは紳士協定に頼るしかなかったのでしょうが、まあそれらがその後の捕虜の取り扱いに関する世界的な取り決めの基本になったのだと思います。ドミノもチェスなどのようにフリーメイスンリーのシンボリズムが関係しているのでしょうか。
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収容された捕虜となる原因となる戦争が説明されています。まあ上官や重要な人物だけが収容されたのでしょうね。それ以外はまあ現地で殺されるか解放されたのでしょうね。
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非常にきれいです。
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第一次世界大戦で後に愚将と非難されたヘイグ将軍の像です。もちろんフリーメイスンでしょう。生前は国民的人気であったそうです。ちょうど戦法戦術が大幅に変わる時代であったのでしょうね。
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この後巡るイギリスのスコットランド連隊を称える展示があるのですが、その売店で売っていたチェスセットです。チェスももちろん白黒のチェッカー柄のチェス盤でフリーメイスンリーのシンボリズムがあるフリーメイスンリーの影響が色濃い知的ゲームです。チェスの駒はそれほどフリーメイスンリーのシンボリズムを反映していませんが、こういう場所で売っていることも一つのそういうアピールというか象徴であるかと思われます。フリーメイスンリーのシンボリズムをアピールしたチェスセットというのは実はなかなか無く、レア物のようです。ここで売られていたのは単に古い様式のチェスの駒の形をしたセットでした。チェスの特にチェッカーボードとフリーメイスンリーのシンボリズムとの関連について書かれた論文がありましたのでリンクしておきますが、ちょっとこじつけのような感じでしょうか。恐らくどこかの時点で正式にチェッカーボードをチェス盤として採用したのはフリーメイスンリーの影響があったものかと思われます。代表的なのがヘッダー画像でも利用しているサンクトペテルブルク近郊のピョートル大帝の離宮にあるチェス盤の山でしょうか。ちなみにmasonic chessで検索するとレンガ積みのようにチェスのマスが半分ずつずれた形の軍人将棋のような変則的なチェスの種類が出てきます。なかなかチェスとフリーメイスンリーの歴史も深そうです。
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