2013-12-02 21:18 | カテゴリ:横浜
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
新しいシリーズというか、金沢区のところでも触れた我が母校の事な訳ですが、まあ特に同窓会に許可を取ったとかそういう事はないわけですが、そもそも横浜ロッジに私が迎えられるきっかけとなったのが結局その私自身医学部大学生から研修医、大学院と計10年以上も通っていた横浜市立大学医学部とその附属病院、さらにそのうち関係が深いのが現在横浜市立大学附属市民総合医療センターという名前になっている南区にある附属病院がかつては横浜十全病院という名前で、どうもその名前の由来がフリーメイスンリーのスコティッシュライトの十全会、Lodge of Perfectionというところにあるようで、どうもそれらの名前を付けたと考えられる設立当初に診療を主導していたドクトルシモンズと呼ばれるDuan B. Simmonsデュアン・B・シモンズがフリーメイスンらしいというお話です。
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まあ要点を言ってしまうとそれまでなのですが、実際シモンズがフリーメイスンという証拠はなく、青山墓地にある墓を見ても明らかにオベリスクではありませんし、シンボルマークがあることもありません。
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晩年を三田で共に過ごした福澤諭吉による追悼文が書かれた追悼碑の形なのですね。良く見るとごつごつした灯籠とつるつるした灯籠がまるでパーフェクトアシュラーとラフアシュラーのような形となっていて、また二本の灯籠がヤキンとボアズの柱の形のようにもなっているというところが、もちろん福澤諭吉がそれを意識していたとか、福澤諭吉本人が考えてやったというところは想像しがたいわけですが、恐らく死後に彼の生前の様子を知っているブラザー達によって付け加えられたものなのだと思われます。

ブラザーシモンズがフリーメイスンであると考えたのは最初にこの墓を見たからではなく、そもそも大隈重信とブラザーフルベッキとの関わりと、ヘボンやブラザーフルベッキらの旧約聖書の翻訳作業の話や、また「石の扉」の作者でもあるブラザー加治将一の有名なフルベッキ写真というちょっとオカルト気味の話の元として、要するにブラザーフルベッキがフリーメイスンであったというところが青山墓地のオベリスクのお墓からも明確となってきて、さらに横浜市立大学のヘボンホールの名前や、ブラザー林董とヘボンとの関わり、またブラザーサーハリー・スミス・パークスやブラザーサーアーネスト・メイソン・サトウなどのいわゆる坂本龍馬との関係を書いたブラザー加治将一の「坂本龍馬の黒幕」の話、さらにブラザートーマス・ブレーク・グラバーとの関わりや、ブラザーレオンス・ヴェルニーを含めて灯台建設のブラザーリチャード・ブラントンなど当時のお雇い外国人や居留地の外国人がそのほとんどがフリーメイスンかそれに近い人物であったという事などが分かって来ると、自然と恐らくこの横浜市立大学医学部の源流となる横浜十全病院で働いていたというアメリカ人がフリーメイスンであっておかしくないなという確信が持てるようになりました。

結局それらを確信させたのは彼らの活躍について書かれた横浜市大OBによって書かれたブラザーシモンズについて書かれた本や横浜外国人墓地に葬られた居留地の外国人について横浜開港資料館の職員によって書かれた本での彼らについて書かれた内容からでした。

ドクトル・シモンズ―横浜医学の源流を求めてドクトル・シモンズ―横浜医学の源流を求めて
(2004/06/05)
荒井 保男

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横浜外国人墓地に眠る人々―開港から関東大震災まで横浜外国人墓地に眠る人々―開港から関東大震災まで
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斎藤 多喜夫

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これの特に下の横浜外国人墓地に埋葬されている人のそれぞれの解説をした本では横浜開港資料館の強みという事で、フリーメイスンでの活動なども詳しく触れられていて、結局最初にオランダ改革派教会の宣教師として来日した際のブラザーシモンズと一緒に来たブラザーサミュエル・ロビンス・ブラウンもフリーメイスンであると書かれていて、上記からブラザーグイド・フルベッキも確実にフリーメイスンであると思われ、いずれも日本到着後にフリーメイスンとなったようですが、一緒に来たブラザーシモンズも恐らくフリーメイスンであるに違いないというところだと思われます。
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ブラザーシモンズは当初は宣教師として来日したそうですが、どうも奥さんと共にかなり開港当初の横浜の外国人居留地の華やかな雰囲気に飲み込まれてしまって、宣教師としての資格を失ってしまって、結局医師としてヘボンと共に開業し、その後一旦アメリカに帰国して医学を勉強してきて数年後に医師として再来日するというかなり変わった経過をとっています。その他の二人の宣教師はそれぞれ優秀な働きをしてブラザーブラウンはいわゆる横浜バンドという日本のプロテスタントの源流となる教え子たちを教育し、後の明治学院大学の元となる学校を作り、ブラザーフルベッキに関しては大隈重信を始めとした肥前藩、佐賀県での藩校の致遠館での教育とその後の東京での明治政府の学校の教師や顧問を務め、やはり明治学院大学の教授を務めるなどしています。共に旧約聖書の日本語訳に関わり、ブラザーフルベッキに関しては明治政府の岩倉使節団の助言を行うなど、金沢区のシンボリズムの項目でも触れましたが、明治期の制度や地名の制定などに関してもかなり影響力をもった人であったようです。

まあ大体ブラザーシモンズがフリーメイスンであるという事に関しては分かったかと思いますが、色々ブラザーシモンズの活躍や、その他のフリーメイスンの関わりについて書いていくと相当長くなるので相変わらずの三分割にしようかと思いますので、今回はこの辺りでやめる事とします。
どうも2012年1月2日に始めたこのブログですがやはりこの辺りの記事はこのブログの主目的であるようで、ちょうど2013年12月2日とどうも色々数字のシンボリズムがあるような感じでしょうか。
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