2013-10-09 21:19 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
まあブログを読むのにお金も出したくない人が本を買って読むかというとあり得ないわけでして、結局そういう事にお金を出す人はどちらにしても出すようになるわけで、まあ悩ましいというか単純というか世の中そう簡単には思考と一緒で変わらないという話だと思われます。

で、恐らく横須賀で最も興味の度合いが高いかと思われるブラザーデッカー司令官の回想録についての解説ですが、ブログ一部が1000円だとすると明らかに本を買った方が安いわけですが、まあしょうがありませんね。結局そういう習慣を変える事が求められているわけですから。

まあ聞く耳が無い人にお説教をしてもしようがないわけで、意味があるのかないのか分かりませんがブログの方を続けることとします。(有料化中に書き出していたのですね。ご了承ください。)

第三章の題は横須賀復興に着手です。具体的には悲惨な日本人の衛生状態の改善と、復興の目玉である聖ヨゼフ病院の建設、栄光学園や清泉女学院、青山学院大学工学部などの現在まで残るキリスト教の病院や学校の建設が描かれて行きます。現在それらを利用する日本人もまさかこんな所までブラザーデッカー司令官が関係しているとは思わない人も多いかと思いますが、そういう部分では関与する日本人の数は相当多いものとなるかと思います。その他衣笠病院もその後にブラザーデッカーが直接建設に関与しており、関東学院についても六浦地区への移転に関与しているようです。

最初の章の副題はDDTの散布です。当時を生きていた方には良く懐かしいと思いだされる代表的な事例かと思われます。ハエ、カ、ノミの駆除のために撤退予定であった海兵隊航空攻撃群に依頼して谷戸の住居などめがけてDDTを散布する様子が描かれます。面白いエピソードとしてブラザーデッカー司令長官邸の3本の木の幹が大きな黒いハエで覆われてしまったというほどのハエの増加が描かれます。ネズミの駆除などはチフスを警戒していた事が書かれています。
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次は水の供給です。いわゆる一般的な防疫給水活動という事かと思われます。水圧が十分に上がらず汚水が混じるという水道管の水漏れが原因であったためおこる水不足の状態を改善し、基地内に24時間水が供給できるようになったのですが、市中への供給には問題があり、それもやっと解決したところで市が基地司令官に水道代を要求してきたという奇妙な事例が書かれています。恐らく回想録に描かれない水を巡る争いがあったものかと思います。結局水道施設の権限を全て市に与える事でこの話は落ち着いたようですが、731部隊の事例ではないですが、水の安定供給は部隊や市民の生活の基本でありその部分で駆け引きが相当あったことが示唆されますし、またその部分については描ききれないことが分かるかと思います。
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次は女性解放に取り組むです。ここでもまたブラザーデッカー司令官の独自の日本女性観が語られ、日本女性が基地行政の上で評価され非常に味方になるという視点が語られます。紫式部の「源氏物語」を挙げて評価したりしています。婦人会の設立でもやはり横槍で他のグループが男性が説得する形でやってきたりしたようですが、とにかくなんにつけても旧海軍の邪魔をする活動があったことがわかります。この点に関してはほとんど現在も横須賀は変わらないかと思われます。結局信頼していた英語が話せる高岡夫人を中心として婦人会が結成されるのですが当初200人という人数でこれでは少なすぎるという事でブラザーデッカー司令官は何と熱帯で腐りかけたり虫が食ったりしていたチョコレートを分け与える事で会員を最終的に横須賀市の主婦全員にしたと書いています。これはもちろんアメリカ国内向けに日本人に媚びたわけではないという部分もあるのだと思いますが、恐らく品質的にはかなり何とか食べられるチョコレートであったのだと思いますが、実際その当時の日本人がそういうチョコレートそのものに強烈に飢えていたという事でもあるのだと思われます。こういう嗜好品についてはブラザーナポレオン時代の大陸封鎖令下でのコーヒー豆の欠如からイタリアのエスプレッソが開発された事例にも繋がる人間の欲を利用した例かと思われます。前の部分の日本人女性に対する評価と実際のあしらいというか対応とのギャップがなかなかブラザーデッカー司令官の日本人女性に対する全体的な対応として興味深いですが、まあそれは当時のアメリカ人において一般的であったのだと思われます。
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規格外食糧です。なんだと思うかもしれませんが残飯の表現です。当初残飯の処理を市内の業者に頼んでいたそうですが、結局当時の日本の一番の問題が食糧であったので残飯を運ぶ他にプライドがあるので基地から食糧を盗んでいたそうです。そのためにその残飯の処理について信頼できる婦人会に頼んだそうですが、エドウィーナ夫人は残飯の呼び方を規格外食糧と呼ぶように主張したそうです。まああまりに悲惨な状況であったのだという事だと思われます。さらに婦人会は食器の洗浄をさせてくれと頼み、結局ブラザーデッカー司令官は魅力的な女性を食堂で働くようにしてこれに同意して、兵士たちが残飯を増やしたという話です。はっきり言って日本人としてこれ以上の悲しい話はありません。しかしその当時の状況がまさに餓死があるほどの状況であり、そうした残飯の配給が非常に重要であったことが語られます。その他に軍事食糧も余ったものを配給したことが書かれています。基地の兵士にとってはとてもじゃないが食べられない状況のものであっても、感謝こそされたものの文句は一切なかったそうです。この後はそれらに対する感謝の手紙です。
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感謝の手紙。感謝の手紙を上記の規格外食糧に対して山のように受け取ったそうです。一例のみ挙げられていますが、まさに含意のない賞賛のみの文章が挙げられているようです。その後に婦人会の感謝状も挙げられます。なかなか占領当初の日米の対立に日本女性が止むに止まれず身も心も捧げて尽力したことが思われます。
手紙
警察に靴を。いわゆる現在も多少はあるのでしょうが、米軍の放出品というやつです。米軍の使用しなくなった作業着や靴を日本人向けに小さく作り直した後警察で使用して見栄えが良くなったという話です。1950年にブラザーデッカー司令官が離任するまで使用されたそうです。
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警備員詰所の老警官。靴や作業着を与えて警察との関係が良好になった感じですが、司令長官官舎の警備員詰所に日本人の老警官が立っていて非常に心温まる友好的な挨拶であったという事です。辞めさせようとしても辞めさせることは難しいと海兵隊のウルフ大佐に説得されたとのことで、恐らくお互いに分かっていたと思いますが、司令長官の帰宅を確認する役割であったのだと思われます。
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婦人警察官。女性の社会進出を促す目的もあり、婦人警察官の制服をデザインして制度を作ったそうです。面白いことに成功したこの制度という事ですが、仕事に就いて一カ月もしないで結婚するものが多かったという事で補充する必要が多かったと書かれています。もちろん誇張でしょうが、ブラザーデッカー司令官自体こういうコスプレのような事を気に入っていたようです。
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軍医とコレラ。まだ聖ヨゼフ病院などを建設する以前は病院があったもののほとんどまともに機能する状況ではなく不衛生で問題があったことが書かれています。そのためコレラが大津地区で発生した際にはアメリカ軍の軍医が隔離と予防接種を行い早期に終息したと書かれています。まあ色々占領中であり様々な不満や問題提起があったのでしょうが、いずれにしてもその後の日本人医師を指導して早期に日本人自身での十分な医療環境の回復へ促す事のきっかけであった事はあるのだと思われます。有名な帝銀事件などの伏線になっているところもあるのかもしれません。
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民主主義はキリスト教で。占領政策にキリスト教の布教を利用する方針をブラザーデッカー司令官は立てます。日本を民主国家にするために占領軍はキリスト教布教の担い手であるという方針があったようです。カトリックの神父とプロテスタントの牧師に要請して可能な限り宣教師やキリスト教関係者を集めるように指示し布教を開始したそうです。
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聖ヨゼフ病院の誕生。かつてこのブログでも取り上げた横須賀米軍基地前にある象徴的な病院の成り立ちの話です。元々旧日本海軍の海仁病院として昭和11年に設立されたもので、戦後もすぐにアメリカ軍は接収せず放置していたようですが、日本海軍軍人が処分しようと動いているという話で、ブラザーデッカー司令官が対応します。トラック71台分のゴミで埋められていたそうですが、戦後は木賃宿として使用されていたそうで、旧日本海軍の将官が卒業証書を看護婦に渡している写真があったそうで、これなんかは私も働いたことがありますが、横浜南共済病院などと同じ海軍系の象徴であったのかと思われます。ブラザーデッカーは母親がカトリックであったためか、この象徴的な場所にある病院をカトリックの病院として運営する事を思いつき、結局福岡で病院を運営していたカトリック組織から日本に40年間在住する65歳であったフランス人の日本語が達者なブルトン司教を呼び寄せて運営させることとしました。ブルトン司教は非常に笑顔が素敵であったそうですが、好印象の人物であったそうで、聖ヨゼフ病院として名付けて運営すると言ったそうです。ブルトン司教の逸話として戦時中に日本軍に拘束された際には独房で讃美歌を歌って日本人が耐えられなくなって釈放したそうです。カトリックでありフランス人でもあったブルトン司教はフリーメイスンではなかったようですが、明らかにフリーメイスンであった当時のフランス大使のブラザーペシコフ仏大使がスコティッシュライトの帽子をかぶった状態でブルトン司教に勲章を捧げる様子の写真が載せられています。ブルトン司教の逸話として聖ヨゼフ病院を改修する際にペンキが必要になった際には天から白ペンキが届いたと言い、ペンキが足りなくなったら天と連絡が取れなくなったと言ったという話があります。まあいわゆるカトリックという感じでしょうか。病院が開業後は基地の米軍医が指導して医療水準の向上を図り、病院食を整え、注射針を交換するように指導し、麻酔を使うよう指導したそうです。恐らくフリーメイスンと思われますが、ジョン・Qという恐らく軍医でしょうが、この方に日本医師会を設立させて日本の医療水準を向上させたそうです。戦後の日本の医療はこの横須賀から始まったと言っても過言ではなかったのかと思われます。
また最後に他の病院、恐らくこのブログでも横須賀の某病院として取り上げた横須賀共済病院かと思われますが、その病院の患者の子供が氷が必要と言う事で基地の特別な氷を送ったところ医師と看護婦が使っていたので厳しく注意したという逸話が書かれています。まあその後の市民病院や衣笠病院の失火災害の伏線となる出来事であるかと思われます。
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栄光学園。カトリックの神父がイエズス会の神父を連れてきて栄光学園を開設する事になります。この際のフォス神父が後にも出てきますがどうもフリーメイスンであるようです。
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清泉女学院。長野県から修道女を連れてきて女学校である清泉女学院を設立します。非常にうまくいったという事です。修道女が最初はブラザーデッカー司令官の元によく来たのに来なくなったので、ブラザーデッカー司令官自らが犬の散歩を兼ねて訪れたという事です。鐘を鋳造し、将校クラブの近くにあったシスターを起こすために鳴らして、朝寝坊の将校たちを早起きさせたという事です。プロテスタントの組織は民主的に運営されていたので、カトリックのこれらの動きに比べて非常に動きが遅かったそうですが、それをフォス神父にプロテスタントはプロテスター(文句ばかり言ってまとまらない人たち)だ!と評されたそうです。なかなか面白い話ばかりです。
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田浦の基督教社会館。今度はプロテスタントのメソジスト派の話です。旧日本軍将校が使っていた田浦のキャバレー跡をキリスト教活動センターとしたそうです。そうする事でその当時田浦にもあった赤線地帯を廃止に追いやったそうです。イエズス会とプロテスタント教会で共同して抗議したそうです。まさにフリーメイスンリーの活動であったのでしょう。
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青山学院大学工学部開校と「君が代」斉唱。青山学院の工学部が基地内に開校したそうです。メソジスト派で6月28日と言う事です。米国国歌のあと日本国歌が歌われたそうです。その経緯としてブラザーマッカーサーが君が代の斉唱を禁止したとして地元の学校が校長の指示でインターナショナルを歌わせていたという事を聞いたからだそうです。このブログでも君が代のフリーメイスンリーのシンボリズムについて触れましたが、恐らくそれらをブラザーデッカー司令官は知っていたのかと思われます。君が代が戦後歌われたのはこれが初めてではないかと書いています。
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学校訪問。エドウィーナ夫人が横須賀市内の公立学校を視察した様子が描かれています。非常に不衛生な状況でしたが、先生と生徒の印象は良いようでした。共済病院にも訪問し、やはり不衛生な状況で空調もない状況であったようです。盲腸の手術をした状況であったそうです。
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病室で調理・洗濯。共済病院の実際の入院生活の様子を描いています。看護婦が実際には掃除婦としてしか動けず、実際の患者を見るのは家族で、食事は七輪で家族が作り、洗濯も家族が行っていたそうです。ゴム手袋もなく、ペニシリンや血漿もない状況であったそうです。かなり気がめいったそうですが、その後刑務所も訪問し、刑務所の方がずっとましだったそうです。警官にアメリカ人大尉が指導して待遇を改善し、市民の公僕としての自覚を教えたそうです。囚人への待遇も改善されていたそうです。
学校と病院と刑務所の様子を視察して、刑務所の様子が最も良かったという状況であったそうです。数日後にそれを聞いてブラザーデッカー司令官は警察本部と刑務所を視察して機嫌よく帰って来たそうです。
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さいか屋の白塗りに横ヤリ。戦時中に迷彩塗装してあったさいか屋の壁を社長が白く塗ろうとしたら日本の役人が途中で止めた話です。結局ブラザーデッカー司令官が再開させたのですが、誰がボスであるかという話であるようです。恐らくロータリークラブやライオンズクラブの話と共通なのでしょうが、こうした話を読んで日本でフリーメイスンが増えるでしょうか?
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孤児院。新生横須賀婦人会が戦争孤児院と老人ホームを設立しました。孤児院に併設して洗濯屋と石鹸工場を開業しました。
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空き缶からおもちゃ。ビールの空き缶を回収させておもちゃや台所用具、ちょっとした器具を作り、安い値段で売ったそうです。孤児院は自給自足できるようになったそうです。
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古紙再生工場。旧海軍が残した建造船の艦船の設計図の古紙が大量にあり、その古紙再生に日本人に工場を再開させたそうです。トイレットペーパーと包装紙を作ったそうです。日本人に運営を完全に任せたそうです。商工会議所が設立されて、工業倶楽部も力となったそうです。後の経団連でしょうか。家具工場と絹織物や木綿の紡績工場を作らせたそうです。
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海苔。海苔の養殖が廃油で妨害されることが起きたため、ワシントンに掛けあって廃油を捨てる事に罰金を掛けて投棄をやめさせたそうです。
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横須賀の奇跡。横須賀の工業再生化計画をまとめてGHQ経済科学局長マーカット陸軍少将に手渡したところ、若い民間人エコノミストを紹介され、そのエコノミストが横須賀を破壊するつもりなのかと言ってきたそうです。結局そんなつもりはないので、ブラザーマッカーサーに直接会うとブラザーデッカー司令長官がつっぱねて言うとそのエコノミストはマーカット少将に計画を承認するよう進言したそうです。まあ色々事業をやってみて最初は素人な感じであったのが徐々に本格的な行政運営になっていった過程でしょうか。
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これで第三章は終わりですが、この辺りからその後の性病の撲滅の辺りまでがこのブラザーデッカー司令官の回想録の横須賀市政に関する辺りの肝かと思われます。ブラザーデッカー司令官が行った事業はほとんどがそのまま現在まで横須賀の主要なものとして残っているかと思いますし、逆にその後に反省して手をつけられなかった事業と言うのがほぼまたそのまま残っているというのもまさに横須賀の創世記と言うほどの話ではないかと思われます。その他は大体日本の旅行やパーティー、GHQの内部の人間関係、フリーメイスンリーの活動などです。栄光学園のフォス神父の話などフリーメイスンリーの内部事情についてはかなり迫って出てきますので、日本人が書いた、資料にあたったフリーメイスンリーについての記述などより、こうした実際のロッジや直接ワシントンやアメリカとやり取りしていたフリーメイスンの活動の記録の方がはるかに具体性が高く参考になるものかと思われます。まあ実際横須賀市が翻訳に協力していたりして、この本を読む方はこれがフリーメイスンリー関連の一級の資料であるとは思わないと思われますが、間違いなく日本におけるフリーメイスンリーの一級の資料であると思われます。横須賀のバイブルと言う表現を行ったりしましたが、間違いなく日本で友愛団体に関わる人間であればまず読んでおいたほうが良い本であるかと思われます。
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