FREEMASONRY
Blue Lodge, Scottish Rite & York Rite in Japan
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フリーメイスンリーについてのブログなんですが、何度も言うとおりフリーメイスンリーについて調べれば調べるほどキリスト教やユダヤ教との繋がりは外せないものとなり、その中でもキリスト教は当初キリスト教徒のみで構成された歴史もあるほど欠かせないものであるのは何度も言って来た通りだと思われます。
まあその中で単なる聖書に描かれた神を盲目的に信じるのではなく、自らの理性の判断に基づいた世界の創造主としての至高の存在を信じるという共通の理念に基づいた信仰を確認する事をいわゆる英米系フリーメイスンリーは入会条件としていたわけですが、その際の唯一神の表現をGreat Architect of the Universe世界の偉大な創造主としたわけですが、実際にはGodやYHWHיהוהという表現が用いられることもそれはやはり聖書を読み込んだキリスト教徒やユダヤ教徒で構成された会であったわけで当然沢山出てくるのはかなり理解されるところかと思います。フリーメイスンリーのその他のシンボルであっても、石工の道具やAll Seeing Eyeのように汎宗教的なシンボルが認められることも多いわけですが、一方で碇や鳩や十字やイクトゥスと言った明らかに聖書やキリスト教徒の布教活動の中でシンボルと認められていったものが多いのもそういう歴史を鑑みれば当然な訳で、もちろん鳥居や仏像といった日本の伝統宗教のシンボルがフリーメイスンリーに採用されていくことも今後はありうるかとは思いますが、歴史や重要性、教えの要素を考えればそれらがあくまで局地的なもので留まるであろうことは容易に理解される所かと思います。仏教で普遍的であった卍がブラザーショーペンハウアーの研究などとも相まって、ナチスドイツが鍵十字として採用し今日世界的に使用が難しくなったことも一つの歴史の必然なのかと思われます。
まあその中で数字のシンボリズムとしての111の並びとキリスト教の繋がりをフリーメイスンリーからの視点で今回は取り上げていきたいかと思います。以前に11とユダヤ教の繋がりについてフリーメイスンリーからの視点で取り上げたわけですが、あの際はやはり聖書におけるヨセフの11男という数字や110歳という年齢やカバラの生命の樹の経路であるセフィラと隠されたダアトを合わせた数が11個あるというところで11という数字が関連があるという話としていました。もちろん数秘術として回文数であるとか10や12という完全数とされる数から1足りなかったり1多かったりする数という事で重要とされるのではないかという結論であったと思います。
11という数字はまた図形的にヤキンとボアズの二元性を示す柱とも形が似ているというところもあるのかと思われます。
そういうわけでまあなんとかキリスト教と111との繋がりを説明する事になるわけですが、そもそも三笠公園の噴水池の怪しげな半地下のパーフェクトアシュラーの謎解きから始まったこの数字のシンボリズムなわけですが、11のシンボリズムと同じくやはりキリスト教では明らかに日付の中で111のシンボリズムを認めます。
それが今日日本でも徐々に浸透してきた感のあるハロウィンに引き続いた万聖節、諸聖人の日と呼ばれる11月1日のカトリックの祝日であり、この起源はウィキペディアによれば8世紀ころであるそうです。ウィキペディアによればハロウィンと呼ばれるようなケルト人の祝祭日がそもそも10月31日に存在しそれにかぶせる形でカトリックが11月1日を取り上げたという事ですがどうもこれだと11月自体を特別視するような11月2日の死者の日や、アメリカの感謝祭11月の第4木曜日や11月30日の聖アンデレの祝日などを十分には説明できないと思われ、11の数字と111の数字にまつわる日付のシンボリズムであるというのが実際なんだと思われます。当ブログも去年の11月1・2・3日とロンドンのイングランド連合グランドロッジの訪問記を記事として、もちろん去年も成り行きで偶然そうなったわけですが、今年も成り行きで偶然スコットランドグランドロッジの記事がそこになりそうで、この後書き始めないといけない状況なんだと思われるという、まあ裏話に近いようなシンボリズムの話ですが、実際やはりキリスト教圏では11の数字や111の数字に対するシンボリズムのこだわりは強いようで、ヤキンとボアズの二本の柱の象徴性は挙げましたが、やはり3本の柱と言えば、フリーメイスンリーのロッジの目立つ3つの小さな光のシンボルであり、このブログでも最初の方で挙げた久里浜の3本の煙突などもこういう意味もあるのだなと考えています。

![ksvialtar[1]](http://blog-imgs-61.fc2.com/f/a/m/famkosuzumekyoku/20131028220525787s.jpg)




その他フリーメイスンリーでは3本の柱としてドーリア式、イオニア式、コリント式という建築オーダーの柱頭の様式を示してそれぞれ力、知恵、美という美徳と対応させるというシンボルもあり、そういう意味もあるのだと思われます。これには他にトスカナ式と複合式を合わせて5つで建築の基本オーダーという事で重要になるという事です。
まあ三本の柱が111に見えるようになるには時間がかかるわけですが、実際シンボリズムについて勉強して解釈を重ねていくとツインタワーも11やヤキンとボアズの柱に見えてきますし、三本の柱が111に見えてくるのもそれほど不思議な感じはありません。もちろん3の象徴という事で111そのものが三位一体を示すものであることも当初より説明した通りだと思われ、三位一体そのものは聖書から直接導き出されるものではありませんが、三角形の象徴と同じく幾何学の象徴であり、三角関数や直角三角形の法則といった建築と直接つながる実用的な数学の基本を示す図形、概念としての象徴なのだと思われます。第三の目という意味でAll Seeing Eyeなどと重ね合わせられるときは、理性の目や第三者の目、客観性の象徴としてあるのかと思われ、3という数字のシンボリズムともやはり重ねられている3=△=理性という繋がりなのだと思われます。
で歴史的に認められる111のシンボリズムですが、恐らくそれがカトリックの万聖節となる前から数秘術の中でそれは認識されていたのだと思われ、ユリウス・カエサルが制定したユリウス暦の暦を使用していたローマ時代から西暦は存在するわけなので、シンボリズムと実際の歴史が関係するかというところで西暦111年と西暦1110年に何が起こったかを検討する事とします。
西暦111年で検索しても特に何も出てこないのでその周辺を検索すると西暦110年代のウィキペディアではシンプルにローマ帝国の領土が最大に達した。とあり、トラヤヌス:ローマ皇帝とあります。ローマ帝国史のブラザーギボンによって五賢帝の最初とされる皇帝であり、最初の属州出身のローマ皇帝です。トラヤヌス帝と言えばこのブログでも何度も螺旋階段のある柱として出てきた113年に建設されたトラヤヌスの記念柱の皇帝であり、ルーマニアに名前を残す、ダキアと呼ばれる地方での遠征を凱旋する目的で作られた記念柱を作らせた皇帝です。この頃はまだキリスト教はローマ帝国全土に広がりながらも異教徒とされるミトラ教を信仰する皇帝によって弾圧されることもあった時代であり、その中ではトラヤヌス帝は後のキリスト教徒にも評価される程の寛容な皇帝であったようです。キリスト教はそのおよそ200年後の311年にガレリウス帝が大迫害の後に寛容令を出し、313年コンスタンティヌス1世とリキニウス帝によるミラノ勅令によって、他の全ての宗教と共に公認され、その後の国教化に繋がっていくそうです。
こうして見るとまあ単純に111がキリスト教のシンボルであるからその年にローマ帝国が最大版図であったとは考えられないわけですが、少なくともトラヤヌス帝の記念柱と合わせてそういう数字とローマ帝国とキリスト教の挙動がどうも色々関係していそうだというのはあって良いのかと思われます。ΧΡのシンボルと合わせていわゆるキリスト教の歴史の中でのシンボリズムなんだと思われます。


で、次の西暦1110年なわけですが、これも直接は何も出てこないので1110年代とその周辺で検索すると叙任権闘争といった話題が出てきます。いわゆるカノッサの屈辱などで代表される教皇権の拡大の時期ですね。でもう少し広げていくと12世紀は何があったかというとキリスト教圏では十字軍という事になります。十字軍のきっかけは東ローマ帝国がセルジューク朝イスラムに攻められてローマ教皇に救援を頼んだのが始まりであり、教皇ウルバヌス2世がクレルモン公会議で騎士達に十字軍の結成を呼び掛けたのが1095年だそうです。その後1096年には民衆十字軍が小アジアに達するも散り散りとなり、これと合流してエルサレム王国などいわゆる十字軍国家を建設するにいたった第一次十字軍が1099年まで続き、第一次十字軍の中心はフランスの諸侯であったようですが、彼らが聖遺物の発見や旧約聖書の奇跡のエピソードに合わせた宗教的情熱をもって聖地を奪回したそうです。つまり1110年というとそれら第一次十字軍が成功裡に終わり祖国に帰るものと現地で聖地の防衛についたものが分かれた時期であり、まさにテンプル騎士団やヨハネ騎士団が結成された時期です。それはその後にヴェネチアを中心とした地中海の交易ネットワークへと繋がり、その後に大航海時代に繋がるようなイスラム社会を中心とした東方世界への興味が拡大していくきっかけとなる時代であるかと思われます。



まあ長々と書きましたが、どうも印象として西暦111年頃にはローマ帝国が最大版図となり、西暦1110年頃には第一次十字軍が成功してエルサレム王国等が成立してテンプル騎士団やヨハネ騎士団が聖地防衛に結成されたという事になるかと思います。それらが全てキリスト教の宗教的情熱というわけではなく、またそもそもその数字に合わせて物事が動いていたわけではないでしょうが、結果としておよそ2000年の西暦の年代の中でその二回現れる111のシンボリズムの年の頃にそうした西欧社会を象徴する決定的な時代が重なっていたという事はそうした数字に対する何らかの力が働いたか、単なる偶然か、無意識の数字の作用かいずれかだと思いますが、少なくとも後世から見た際にはそうしたシンボリズムの何らかの関連があるようにも思われる所ではないかと思われます。まあ少なくとも1110年頃の第一次十字軍については奇跡や聖書の記述に対する宗教的情熱がピークの時代であり、なおかつすでに諸聖人の日も認められる恐らくシンボリズムも意識されていた時代だと思われますので、そうしたミレニアムのような数字に合わせた教皇権を中心とした計画が意識されていた事はありうるのではないかと想像します。現に第一次十字軍にはフランス王フィリップ一世は離婚問題で破門されて参加できず、教皇権が王権を完全に上回り、その裏付けが聖地奪還とシンボリズムの数字や奇跡や聖遺物といったキリスト教の権威であったのだと思われます。そうしたシンボリズムや宗教的情熱の知恵がまた東方社会のイスラム教の文化や知恵と融合してテンプル騎士団らの十字軍の帰還によってヨーロッパ全土にもたらされ、結果としてルネサンスや宗教改革の基礎として地方に根付き、最終的には近代フリーメイスンリーとして現れた際に再び1666年や1717年といった反キリストやユダヤ教といったシンボリズムで現れてくるのは非常に皮肉な事でありまた必然なのかと考えます。
いずれにしても現在もフリーメイスンリーの非常に印象的なシンボルとして認められる3つの光のような三本の柱のシンボルがその成立の歴史の中でローマ帝国の最大版図や十字軍の成功といったキリスト教社会の重大な歴史と関わった可能性があるとすると、フリーメイスンリーに内在するキリスト教やユダヤ教のシンボリズムの歴史が非常に重要とされることが理解されるのではないかと思われます。
(題名のところに記号や文字を入れて対称性を表現したのはちょっとシンボリズムを魔よけのように示して一見さん除けのようにしただけです。)
(10/31追記:ユリウス暦について書きましたが、西暦1年をキリスト生誕の年と決めた現在の西暦の始まりは10世紀ころからのようで、そうなると少なくとも西暦111年のシンボリズムについてはかなり怪しいか後付けの話という事になるようです。第一次十字軍の聖地奪回に関してはそれに合わせて行われ、それとトラヤヌス帝の逸話に合わせたという事は多分に可能性はあるのではないでしょうか。いずれにしても教皇権絶頂の時代の考えうるシンボリズムの実際の話であるかと思われます。)
まあその中で単なる聖書に描かれた神を盲目的に信じるのではなく、自らの理性の判断に基づいた世界の創造主としての至高の存在を信じるという共通の理念に基づいた信仰を確認する事をいわゆる英米系フリーメイスンリーは入会条件としていたわけですが、その際の唯一神の表現をGreat Architect of the Universe世界の偉大な創造主としたわけですが、実際にはGodやYHWHיהוהという表現が用いられることもそれはやはり聖書を読み込んだキリスト教徒やユダヤ教徒で構成された会であったわけで当然沢山出てくるのはかなり理解されるところかと思います。フリーメイスンリーのその他のシンボルであっても、石工の道具やAll Seeing Eyeのように汎宗教的なシンボルが認められることも多いわけですが、一方で碇や鳩や十字やイクトゥスと言った明らかに聖書やキリスト教徒の布教活動の中でシンボルと認められていったものが多いのもそういう歴史を鑑みれば当然な訳で、もちろん鳥居や仏像といった日本の伝統宗教のシンボルがフリーメイスンリーに採用されていくことも今後はありうるかとは思いますが、歴史や重要性、教えの要素を考えればそれらがあくまで局地的なもので留まるであろうことは容易に理解される所かと思います。仏教で普遍的であった卍がブラザーショーペンハウアーの研究などとも相まって、ナチスドイツが鍵十字として採用し今日世界的に使用が難しくなったことも一つの歴史の必然なのかと思われます。
まあその中で数字のシンボリズムとしての111の並びとキリスト教の繋がりをフリーメイスンリーからの視点で今回は取り上げていきたいかと思います。以前に11とユダヤ教の繋がりについてフリーメイスンリーからの視点で取り上げたわけですが、あの際はやはり聖書におけるヨセフの11男という数字や110歳という年齢やカバラの生命の樹の経路であるセフィラと隠されたダアトを合わせた数が11個あるというところで11という数字が関連があるという話としていました。もちろん数秘術として回文数であるとか10や12という完全数とされる数から1足りなかったり1多かったりする数という事で重要とされるのではないかという結論であったと思います。
11という数字はまた図形的にヤキンとボアズの二元性を示す柱とも形が似ているというところもあるのかと思われます。
そういうわけでまあなんとかキリスト教と111との繋がりを説明する事になるわけですが、そもそも三笠公園の噴水池の怪しげな半地下のパーフェクトアシュラーの謎解きから始まったこの数字のシンボリズムなわけですが、11のシンボリズムと同じくやはりキリスト教では明らかに日付の中で111のシンボリズムを認めます。
それが今日日本でも徐々に浸透してきた感のあるハロウィンに引き続いた万聖節、諸聖人の日と呼ばれる11月1日のカトリックの祝日であり、この起源はウィキペディアによれば8世紀ころであるそうです。ウィキペディアによればハロウィンと呼ばれるようなケルト人の祝祭日がそもそも10月31日に存在しそれにかぶせる形でカトリックが11月1日を取り上げたという事ですがどうもこれだと11月自体を特別視するような11月2日の死者の日や、アメリカの感謝祭11月の第4木曜日や11月30日の聖アンデレの祝日などを十分には説明できないと思われ、11の数字と111の数字にまつわる日付のシンボリズムであるというのが実際なんだと思われます。当ブログも去年の11月1・2・3日とロンドンのイングランド連合グランドロッジの訪問記を記事として、もちろん去年も成り行きで偶然そうなったわけですが、今年も成り行きで偶然スコットランドグランドロッジの記事がそこになりそうで、この後書き始めないといけない状況なんだと思われるという、まあ裏話に近いようなシンボリズムの話ですが、実際やはりキリスト教圏では11の数字や111の数字に対するシンボリズムのこだわりは強いようで、ヤキンとボアズの二本の柱の象徴性は挙げましたが、やはり3本の柱と言えば、フリーメイスンリーのロッジの目立つ3つの小さな光のシンボルであり、このブログでも最初の方で挙げた久里浜の3本の煙突などもこういう意味もあるのだなと考えています。

![ksvialtar[1]](http://blog-imgs-61.fc2.com/f/a/m/famkosuzumekyoku/20131028220525787s.jpg)




その他フリーメイスンリーでは3本の柱としてドーリア式、イオニア式、コリント式という建築オーダーの柱頭の様式を示してそれぞれ力、知恵、美という美徳と対応させるというシンボルもあり、そういう意味もあるのだと思われます。これには他にトスカナ式と複合式を合わせて5つで建築の基本オーダーという事で重要になるという事です。
まあ三本の柱が111に見えるようになるには時間がかかるわけですが、実際シンボリズムについて勉強して解釈を重ねていくとツインタワーも11やヤキンとボアズの柱に見えてきますし、三本の柱が111に見えてくるのもそれほど不思議な感じはありません。もちろん3の象徴という事で111そのものが三位一体を示すものであることも当初より説明した通りだと思われ、三位一体そのものは聖書から直接導き出されるものではありませんが、三角形の象徴と同じく幾何学の象徴であり、三角関数や直角三角形の法則といった建築と直接つながる実用的な数学の基本を示す図形、概念としての象徴なのだと思われます。第三の目という意味でAll Seeing Eyeなどと重ね合わせられるときは、理性の目や第三者の目、客観性の象徴としてあるのかと思われ、3という数字のシンボリズムともやはり重ねられている3=△=理性という繋がりなのだと思われます。
で歴史的に認められる111のシンボリズムですが、恐らくそれがカトリックの万聖節となる前から数秘術の中でそれは認識されていたのだと思われ、ユリウス・カエサルが制定したユリウス暦の暦を使用していたローマ時代から西暦は存在するわけなので、シンボリズムと実際の歴史が関係するかというところで西暦111年と西暦1110年に何が起こったかを検討する事とします。
西暦111年で検索しても特に何も出てこないのでその周辺を検索すると西暦110年代のウィキペディアではシンプルにローマ帝国の領土が最大に達した。とあり、トラヤヌス:ローマ皇帝とあります。ローマ帝国史のブラザーギボンによって五賢帝の最初とされる皇帝であり、最初の属州出身のローマ皇帝です。トラヤヌス帝と言えばこのブログでも何度も螺旋階段のある柱として出てきた113年に建設されたトラヤヌスの記念柱の皇帝であり、ルーマニアに名前を残す、ダキアと呼ばれる地方での遠征を凱旋する目的で作られた記念柱を作らせた皇帝です。この頃はまだキリスト教はローマ帝国全土に広がりながらも異教徒とされるミトラ教を信仰する皇帝によって弾圧されることもあった時代であり、その中ではトラヤヌス帝は後のキリスト教徒にも評価される程の寛容な皇帝であったようです。キリスト教はそのおよそ200年後の311年にガレリウス帝が大迫害の後に寛容令を出し、313年コンスタンティヌス1世とリキニウス帝によるミラノ勅令によって、他の全ての宗教と共に公認され、その後の国教化に繋がっていくそうです。
こうして見るとまあ単純に111がキリスト教のシンボルであるからその年にローマ帝国が最大版図であったとは考えられないわけですが、少なくともトラヤヌス帝の記念柱と合わせてそういう数字とローマ帝国とキリスト教の挙動がどうも色々関係していそうだというのはあって良いのかと思われます。ΧΡのシンボルと合わせていわゆるキリスト教の歴史の中でのシンボリズムなんだと思われます。


で、次の西暦1110年なわけですが、これも直接は何も出てこないので1110年代とその周辺で検索すると叙任権闘争といった話題が出てきます。いわゆるカノッサの屈辱などで代表される教皇権の拡大の時期ですね。でもう少し広げていくと12世紀は何があったかというとキリスト教圏では十字軍という事になります。十字軍のきっかけは東ローマ帝国がセルジューク朝イスラムに攻められてローマ教皇に救援を頼んだのが始まりであり、教皇ウルバヌス2世がクレルモン公会議で騎士達に十字軍の結成を呼び掛けたのが1095年だそうです。その後1096年には民衆十字軍が小アジアに達するも散り散りとなり、これと合流してエルサレム王国などいわゆる十字軍国家を建設するにいたった第一次十字軍が1099年まで続き、第一次十字軍の中心はフランスの諸侯であったようですが、彼らが聖遺物の発見や旧約聖書の奇跡のエピソードに合わせた宗教的情熱をもって聖地を奪回したそうです。つまり1110年というとそれら第一次十字軍が成功裡に終わり祖国に帰るものと現地で聖地の防衛についたものが分かれた時期であり、まさにテンプル騎士団やヨハネ騎士団が結成された時期です。それはその後にヴェネチアを中心とした地中海の交易ネットワークへと繋がり、その後に大航海時代に繋がるようなイスラム社会を中心とした東方世界への興味が拡大していくきっかけとなる時代であるかと思われます。



まあ長々と書きましたが、どうも印象として西暦111年頃にはローマ帝国が最大版図となり、西暦1110年頃には第一次十字軍が成功してエルサレム王国等が成立してテンプル騎士団やヨハネ騎士団が聖地防衛に結成されたという事になるかと思います。それらが全てキリスト教の宗教的情熱というわけではなく、またそもそもその数字に合わせて物事が動いていたわけではないでしょうが、結果としておよそ2000年の西暦の年代の中でその二回現れる111のシンボリズムの年の頃にそうした西欧社会を象徴する決定的な時代が重なっていたという事はそうした数字に対する何らかの力が働いたか、単なる偶然か、無意識の数字の作用かいずれかだと思いますが、少なくとも後世から見た際にはそうしたシンボリズムの何らかの関連があるようにも思われる所ではないかと思われます。まあ少なくとも1110年頃の第一次十字軍については奇跡や聖書の記述に対する宗教的情熱がピークの時代であり、なおかつすでに諸聖人の日も認められる恐らくシンボリズムも意識されていた時代だと思われますので、そうしたミレニアムのような数字に合わせた教皇権を中心とした計画が意識されていた事はありうるのではないかと想像します。現に第一次十字軍にはフランス王フィリップ一世は離婚問題で破門されて参加できず、教皇権が王権を完全に上回り、その裏付けが聖地奪還とシンボリズムの数字や奇跡や聖遺物といったキリスト教の権威であったのだと思われます。そうしたシンボリズムや宗教的情熱の知恵がまた東方社会のイスラム教の文化や知恵と融合してテンプル騎士団らの十字軍の帰還によってヨーロッパ全土にもたらされ、結果としてルネサンスや宗教改革の基礎として地方に根付き、最終的には近代フリーメイスンリーとして現れた際に再び1666年や1717年といった反キリストやユダヤ教といったシンボリズムで現れてくるのは非常に皮肉な事でありまた必然なのかと考えます。
いずれにしても現在もフリーメイスンリーの非常に印象的なシンボルとして認められる3つの光のような三本の柱のシンボルがその成立の歴史の中でローマ帝国の最大版図や十字軍の成功といったキリスト教社会の重大な歴史と関わった可能性があるとすると、フリーメイスンリーに内在するキリスト教やユダヤ教のシンボリズムの歴史が非常に重要とされることが理解されるのではないかと思われます。
(題名のところに記号や文字を入れて対称性を表現したのはちょっとシンボリズムを魔よけのように示して一見さん除けのようにしただけです。)
(10/31追記:ユリウス暦について書きましたが、西暦1年をキリスト生誕の年と決めた現在の西暦の始まりは10世紀ころからのようで、そうなると少なくとも西暦111年のシンボリズムについてはかなり怪しいか後付けの話という事になるようです。第一次十字軍の聖地奪回に関してはそれに合わせて行われ、それとトラヤヌス帝の逸話に合わせたという事は多分に可能性はあるのではないでしょうか。いずれにしても教皇権絶頂の時代の考えうるシンボリズムの実際の話であるかと思われます。)
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