FREEMASONRY
Blue Lodge, Scottish Rite & York Rite in Japan
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どうも2の倍数のシンボリズムのようで、本当は12月3日に書ける予定であったのですが、どうも無理のようでした。まあそういうわけで、実際このブログの日付のシンボリズムや内容との相関や、内容的にもなかなか興味深い刺激的な部分は個人の能力で湯水のごとくわいてくるのではなく、そういうのを手とり足とりアイディアを与える働きをするのがフリーメイスンリーの繋がりなのですね。過去のブラザートルストイやブラザードストエフスキーなどのあまりに内容に富んだ内容や聖書のようなものについても誰か一人がその全てを考えたり書いたりするわけではなく、社会と人類全体のその時の全体の意思や機会がたまたまそう作用するだけであって、それはまさに個人においては霊感であり、世界で見ると唯一神のおぼしめしというわけになるのだと思われ、それがまさに民主主義と個人主義を成り立たせる神髄でありフリーメイスンリーの汎神論であるのだと思われます。シンボリズムもまさにそれに付随する法則なのであり、それはまさに文字でもあるわけです。
題名も徐々に時代がかってきますが、それもこれもブラザーシモンズについて書かれた本の内容からです。
結局当時の明治維新の際に日本に来ていて活動していた外国人のほとんどがフリーメイスンかその周辺の人物であり、フリーメイスンであろうとなかろうとそれぞれ本人の意思と各国の派遣元の意向と明治政府と居留地の様々な事情に基づいて動いていたのは当然であり、その中でフリーメイスンリーがそれほど有利に働いたというわけではないでしょうが、恐らく様々な情報を得る手段としては参加者たちにとっては非常に有益でありまたそうしたフリーメイスンリーのキリスト教やユダヤ教、仏教など宗教を越えた考えはキリスト教に対して否定的であったり、植民地支配に警戒していた日本の人々にとっては単なるキリスト教の伝道よりは信頼が寄せやすいものであったのかと思われます。
ドクトル・シモンズという荒井保男さんという横浜市大医学部OBの方の書かれた本によると横浜十全病院でのブラザーシモンズの活動の記録を通して当時の明治維新における西洋医学の普及の仕方と当時の社会の医療の水準、また国や周囲がそれらをどのように評価していたかと、その結果生じたブラザーシモンズと福澤諭吉との交流を通してそれらがまた後の明治の時代に影響していったかを書いていて、現代の状況を顧みる素材ともなるようです。
まあ読んでもらうのが一番早いわけですが、私も横浜市立大学医学部に入学した際にそれらの本を頂いて一切読まなかった事が走馬灯のように思い出され、恐らく現在の学生たちもこれまでの多くの学生たちも同様であったのだろう事を思いますが、恐らくこのブログを読んでいるような方は手にとって読むこともあるのではないかと期待しています。
本の内容の要約については私もやっと今ブラザーシモンズの項目について読み終えたばかりのところなのでまとめるのがなかなか大変なのですが、どうも私も現役の医師なのですが様々な状況でやたらと読書の時間が増えて現在のような状況で、さらにオランダのブラザーにはアンダーソン憲章を早く翻訳するように促されるような状況な訳で、ブラザーダン・ブラウン以下このブログで取り上げた書籍の売り上げに貢献するばかりのような気がしているわけですが、まあ要約を書かないとこのブログ以外読まないブラザーデッカーの回想録のようにお話にならないというところがまあインターネットメディアの特性でもあるわけでして、前提としてネットにある情報以外摂取できないというのもまたブログ読者の傾向でもあるかと思われますので、要約をあげていくこととします。
まあ色々と臨床医学の内容と被るので細かく説明するのはちょっと憚られるのですが、基本的にブラザーデッカーの公衆衛生の話やこのブラザーシモンズの功績の話にしても医療というのは自らの功績や仕事について披歴するというのはそもそも医の倫理というところから言っても科学的な検討以外においては基本的にタブーであり、またそれは他の人の仕事についても業績を評価したり批評したりするのはタブーであるというのが基本的にあるものであり、そういう点においてはどれほどブラザーシモンズの経歴が異色のものであったり、当時の横浜外国人居留地とそれを取り巻く開国当初の日本の医療事情やまた明治期の世界の医療の進歩というものも現代とは大きく異なり想像をはるかに超えたものであることから、もちろん医師の仕事というものはどの時代にも不変のものがあるのは当然であるので、なかなかブラザーシモンズの業績について書いて行くのも難しいわけです。しかしながら基本的にこのブログはフリーメイスンリーとそれにまつわる視点から物事を論じてきているわけで、その中において医療やその対象とする病気や公衆衛生は非常に重要な部分を占めるものであり、そういう点においてブラザーシモンズやブラザーデッカーの仕事というのは非常に重要なものと評価されるのかと思いますので、あえて若干切り込んだ形でブラザーシモンズの業績というところを見ていくこととします。
医療として見ていく際にはどうしてもその人の医療人としての人格、傾向、性向が重要となるわけであり、それはどうしても要は全人格的な評価とも絡んでまさにフリーメイスンリー的なフリーメイスンか否かの評価ともかなり近づくというところがあるかと思います。そういう点においてはここまでの登場人物の中でのブラザー林董の師であるヘボンの評価はフリーメイスンではないのですが、横浜市立大学医学部のヘボンホールに名前を残し、明治学院大学にその銅像を残す通りにケチのつけようのないものであるのかと思われます。医師としては専門が眼科でありながら、糖尿病の足壊疽やその他外科の小手術を行ったなど現代では考えられない医療を行っているわけですが、それらについても大きな問題なくこなしており、また医療以外にも人格者として評判であり、また弟子が優秀な日本の外交官として日露戦争の立役者となるフリーメイスンであるなど、またヘボン式ローマ字や聖書の翻訳、円満な夫婦関係と長寿でありそれほど変遷の無い人生などまさに本人が加入の意思さえあればいつでもフリーメイスンとなったであろう人物であるかと思われます。恐らく信仰の部分、聖書の解釈や理解の部分でそういうところに達しなかったという事なのだと思われます。
ブラザーシモンズについて見ていくと重要なのが3点あるかと思われます。一つは宣教師として日本に来ながら結果的に医師となってその職業を全うしたこと。もう一つはその他に同じ教会より3人の宣教師として送られた残り二人のうち、ブラザーフルベッキは改宗ユダヤ人として佐賀県からその後東京に移り大隈重信を教え子として育て、もう一人のブラザーブラウンは日本におけるプロテスタントの伝道の最初となり数多くのクリスチャンを育てたことで、彼らとは終生日本において明らかにライバルとしても友としても交わっていたという事。最後がやはり福澤諭吉との宿命ともいえる臨終の際までの繋がりであり、それがまた日本人にとってのブラザーシモンズの役割というものを特別なものとしていることなのだと思われます。その他には私生活として見るとこれは私がフリーメイスンと断定した根拠ともなるのですが、一人息子のヒラムという名前の子が20歳前後で日本で死去し、それがために夫婦仲が難しくなってその後の妻をアメリカに残して母親を伴った再来日と福澤諭吉との新聞での日本文化に関わる論説発表と腎炎での死去に繋がるのかと思われます。
ブラザーシモンズの医療活動については相当色々評論するのに問題があって、要は彼自身がそもそも宣教師でありながら職業替えしてヘボンのもとで医師として働き、その後アメリカで即席の形で勉強してその後日本で先進の医師として勲章をもらうほど働いたというわけで、まあそれはもちろん色々良い評判だけではなく様々な評価があったかと思いますが、そんな状況の日本で専門の知識をもった欧米の腕利きの医師が日本人と極めて近づいた状況で日本人のために医療を行う事が当時なかなかありえないわけでして、戊辰戦争の当初の際にはやはりスコットランドエディンバラ大学で外科を学んだ恐らくかなり優秀な英国副領事でもあったブラザーウィリアム・ウィリスが官軍の支援に野毛山の軍陣病院で医療に当たったそうです。ほぼ同時期にエディンバラ大学の教授であったブラザーサージェームズ・シンプソンによるクロロホルムによる麻酔法が確立され、またブラザーリスターが教授を務めていたグラスゴー大学で消毒による外科手術法が確立された頃であり、それらを学んで実地に医療をイギリスで修めて日本で軍医として働いた副領事ですからまさに当時世界最先端の医療を行っていたのだと思われます。この際には大山巌や西郷従道、桐野利秋の治療も行ったとあり、またそれ以前には生麦事件の死者の治療や会津藩の負傷兵の治療も行っていたとありますから、この時に指揮をしていた大村益次郎が蘭学医でありながら戦争を指導し、後に暗殺され傷の化膿で亡くなったことなどを考えると、こういう医療における戦いともいえるものがすでに開国当初よりあったのかとも思われます。その他にもブラザーウィリアム・ウィリスにはイギリス公使館医師のシッドール(J. B. Siddal(釈迦の名前のシッダールタと被るので恐らく彼もフリーメイスンになったのではないかと思われます。))、ドングロイ、ジェンキンスらも働いていたという事で、彼らもフリーメイスンであった可能性があるかと思います。基本的にイギリス人で当時に日本に来ていた人はほぼフリーメイスンかそののちにフリーメイスンになっているかだと思いますし、それはオランダ人でもアメリカ人でもフランス人でもそれがほとんどだと思われます。当時の日本に来ていかに高給であるといえども指導的立場で生活して仕事をすることは現代はその差は非常にかつてに比べれば小さくなったとはいえ、その当時は非常に大変なことであった事は想像に難くなく、寿命を見ても短命な人が多いことからもフリーメイスンと認められる機会は明らかに本国よりは大きいのだと思われます。(ブラザーウィリアム・ウィリスは日本来航前に看護師と未婚のまま子供を作っていて、またアイルランド出身という事でカトリックの可能性があり、もしかするとそれらの関係でフリーメイスンではないかもしれません。ブラザーアーネスト・サトウともかなり親しかったようなので複雑です。亡くなったのが2月14日の聖バレンタインデーという事もカトリックを示すシンボリズムかもしれません。インターネットにアップロードされている教会の埋葬記録では2月15日のようです。)
まあ結局は大勢の影響によってその後ブラザーシモンズがアメリカでの医療の学習を終えて日本に戻った際に、明治新政府の中枢で顧問として活動していたブラザーフルベッキの知己のために東大前身の大学東校で教鞭をとることとなり、その際にももう一人のドイツ系のシモンズという人と混同されるなどいわゆるフリーメイスンリーっぽいやり取りがあったりします。このブラザーフルベッキとブラザーシモンズのやり取りが非常にその後も大きなわけですが、ブラザーフルベッキはモラヴィア出身の父親とイタリア出身の母親のもとでいわゆるユダヤ系の恵まれた家庭の子女として音楽や文学を教わる環境でオランダで成長し、その後アメリカに移って、さらに改宗ユダヤ人の宣教師として来日し、さらに三人の中で一人11月7日に長崎に降り立ちその半島の付け根であるかつての大村氏や龍造寺氏の支配地域、後の鍋島藩の領地であった佐賀藩で藩校を取り仕切ったというところがまあ当初より開港の中心地に降り立ったブラザーブラウンとブラザーシモンズとの運命の違いでもあるわけですが、この佐賀という地名もやはりゲームの名前でも有名となりましたが、アイスランドのノルマン民族の叙事詩であるサガとも重なり、それこそテンプル騎士団やバイキングの新大陸発見説にも繋がる、まあ恐らくコロンブスの新大陸発見の下地になるものと同じ音なのだと思われます。
そう考えるとその後のブラザーフルベッキが恐らく行ったであろうYの名前やカノンなど音と言葉のシンボリズムの影響が分かるのではないかと想像されます。
それで、まあブラザーフルベッキの恐らくユダヤ人としての血統の良さと教育の高さ、改宗ユダヤ人としての聖書、キリスト教、ユダヤ教への造詣の深さから彼の意見が明治政府の中での相当な重点を占めるようになり、それに従って日本の医療のイギリス医学からドイツ医学への転換が図られ、その中で恐らく相当に優秀であったブラザーウィリスらは中央から締め出され、なんと薩摩藩で医学校の校長となったそうで、戊辰戦争や薩英戦争で薩摩藩の戦力を評価したためによるその後の西南戦争に備えた配慮であったと想像されます。それでなんとか準備の整ったところで廃止となった横浜軍陣病院の後に慶応義塾で学んだ早矢仕有的がこれも恐らくフリーメイスンと思われる梅毒に対して治療を行っていたブラザーニュートンのもとで医療を学び、神奈川県令などに働きかけてブラザーシモンズを破格の待遇で雇い入れる事で横浜中病院、後に横浜共立病院、神奈川県立十全病院として病院ができたそうです。恐らくすでに最初の来日時にフリーメイスンとなっていたブラザーシモンズがその後に恐らく一斉に広まっていた上位位階のスコティッシュライトの位階のシンボルとして病院の名称となって本人もそこに収まったのだと思われます。ブラザーアルバート・パイクによるモラル・アンド・ドグマの出版が南北戦争(1861-1865)後の1871年明治3年であるそうなので、まさにフリーメイスンリーの新時代も開かれていたときであったようです。




(十字架というのもカトリックではキリストの磔像を重ねたりしますが、明らかに人間の四肢と頭を合わせた解剖学の基本の象徴なのでしょうね。レオナルド・ダ・ヴィンチのウィトルウィウス的人体図も明らかにラテン十字と太陽十字と人体の解剖を的確に重ね合わせた象徴と考えられます。もちろんエジプトのアンクも明らかに人体の形をしていますし、タウ十字はそこから頭部を取り除いた形でもあります。人型という生命の神秘と物質としての生体を重ね合わせた象徴なのだと考えられます。)
まあちょっと長くなりそうなのでこの辺りにして恐らく四分割となるのかもしれませんが、偶数回となりそうな気配です。次が具体的なブラザーシモンズの医療活動と福澤諭吉とその子息との交わり、最後にその他の十全病院やその他の横浜の病院で働いていた恐らくフリーメイスンと思われるイギリス海軍医のブラザーニュートン、ブラザーセジュイック、ブラザーヒル、ブラザーローレンソンとこれは外国人墓地について書かれた本でもフリーメイスンとある、十全病院で働いたブラザーウィーラー、ブラザーエルドリッジ、そしてオランダ人で恐らくフリーメイスンであったブラザーブッケマについて触れて終わりとしようかと思っています。
題名も徐々に時代がかってきますが、それもこれもブラザーシモンズについて書かれた本の内容からです。
結局当時の明治維新の際に日本に来ていて活動していた外国人のほとんどがフリーメイスンかその周辺の人物であり、フリーメイスンであろうとなかろうとそれぞれ本人の意思と各国の派遣元の意向と明治政府と居留地の様々な事情に基づいて動いていたのは当然であり、その中でフリーメイスンリーがそれほど有利に働いたというわけではないでしょうが、恐らく様々な情報を得る手段としては参加者たちにとっては非常に有益でありまたそうしたフリーメイスンリーのキリスト教やユダヤ教、仏教など宗教を越えた考えはキリスト教に対して否定的であったり、植民地支配に警戒していた日本の人々にとっては単なるキリスト教の伝道よりは信頼が寄せやすいものであったのかと思われます。
ドクトル・シモンズという荒井保男さんという横浜市大医学部OBの方の書かれた本によると横浜十全病院でのブラザーシモンズの活動の記録を通して当時の明治維新における西洋医学の普及の仕方と当時の社会の医療の水準、また国や周囲がそれらをどのように評価していたかと、その結果生じたブラザーシモンズと福澤諭吉との交流を通してそれらがまた後の明治の時代に影響していったかを書いていて、現代の状況を顧みる素材ともなるようです。
まあ読んでもらうのが一番早いわけですが、私も横浜市立大学医学部に入学した際にそれらの本を頂いて一切読まなかった事が走馬灯のように思い出され、恐らく現在の学生たちもこれまでの多くの学生たちも同様であったのだろう事を思いますが、恐らくこのブログを読んでいるような方は手にとって読むこともあるのではないかと期待しています。
本の内容の要約については私もやっと今ブラザーシモンズの項目について読み終えたばかりのところなのでまとめるのがなかなか大変なのですが、どうも私も現役の医師なのですが様々な状況でやたらと読書の時間が増えて現在のような状況で、さらにオランダのブラザーにはアンダーソン憲章を早く翻訳するように促されるような状況な訳で、ブラザーダン・ブラウン以下このブログで取り上げた書籍の売り上げに貢献するばかりのような気がしているわけですが、まあ要約を書かないとこのブログ以外読まないブラザーデッカーの回想録のようにお話にならないというところがまあインターネットメディアの特性でもあるわけでして、前提としてネットにある情報以外摂取できないというのもまたブログ読者の傾向でもあるかと思われますので、要約をあげていくこととします。
まあ色々と臨床医学の内容と被るので細かく説明するのはちょっと憚られるのですが、基本的にブラザーデッカーの公衆衛生の話やこのブラザーシモンズの功績の話にしても医療というのは自らの功績や仕事について披歴するというのはそもそも医の倫理というところから言っても科学的な検討以外においては基本的にタブーであり、またそれは他の人の仕事についても業績を評価したり批評したりするのはタブーであるというのが基本的にあるものであり、そういう点においてはどれほどブラザーシモンズの経歴が異色のものであったり、当時の横浜外国人居留地とそれを取り巻く開国当初の日本の医療事情やまた明治期の世界の医療の進歩というものも現代とは大きく異なり想像をはるかに超えたものであることから、もちろん医師の仕事というものはどの時代にも不変のものがあるのは当然であるので、なかなかブラザーシモンズの業績について書いて行くのも難しいわけです。しかしながら基本的にこのブログはフリーメイスンリーとそれにまつわる視点から物事を論じてきているわけで、その中において医療やその対象とする病気や公衆衛生は非常に重要な部分を占めるものであり、そういう点においてブラザーシモンズやブラザーデッカーの仕事というのは非常に重要なものと評価されるのかと思いますので、あえて若干切り込んだ形でブラザーシモンズの業績というところを見ていくこととします。
医療として見ていく際にはどうしてもその人の医療人としての人格、傾向、性向が重要となるわけであり、それはどうしても要は全人格的な評価とも絡んでまさにフリーメイスンリー的なフリーメイスンか否かの評価ともかなり近づくというところがあるかと思います。そういう点においてはここまでの登場人物の中でのブラザー林董の師であるヘボンの評価はフリーメイスンではないのですが、横浜市立大学医学部のヘボンホールに名前を残し、明治学院大学にその銅像を残す通りにケチのつけようのないものであるのかと思われます。医師としては専門が眼科でありながら、糖尿病の足壊疽やその他外科の小手術を行ったなど現代では考えられない医療を行っているわけですが、それらについても大きな問題なくこなしており、また医療以外にも人格者として評判であり、また弟子が優秀な日本の外交官として日露戦争の立役者となるフリーメイスンであるなど、またヘボン式ローマ字や聖書の翻訳、円満な夫婦関係と長寿でありそれほど変遷の無い人生などまさに本人が加入の意思さえあればいつでもフリーメイスンとなったであろう人物であるかと思われます。恐らく信仰の部分、聖書の解釈や理解の部分でそういうところに達しなかったという事なのだと思われます。
ブラザーシモンズについて見ていくと重要なのが3点あるかと思われます。一つは宣教師として日本に来ながら結果的に医師となってその職業を全うしたこと。もう一つはその他に同じ教会より3人の宣教師として送られた残り二人のうち、ブラザーフルベッキは改宗ユダヤ人として佐賀県からその後東京に移り大隈重信を教え子として育て、もう一人のブラザーブラウンは日本におけるプロテスタントの伝道の最初となり数多くのクリスチャンを育てたことで、彼らとは終生日本において明らかにライバルとしても友としても交わっていたという事。最後がやはり福澤諭吉との宿命ともいえる臨終の際までの繋がりであり、それがまた日本人にとってのブラザーシモンズの役割というものを特別なものとしていることなのだと思われます。その他には私生活として見るとこれは私がフリーメイスンと断定した根拠ともなるのですが、一人息子のヒラムという名前の子が20歳前後で日本で死去し、それがために夫婦仲が難しくなってその後の妻をアメリカに残して母親を伴った再来日と福澤諭吉との新聞での日本文化に関わる論説発表と腎炎での死去に繋がるのかと思われます。
ブラザーシモンズの医療活動については相当色々評論するのに問題があって、要は彼自身がそもそも宣教師でありながら職業替えしてヘボンのもとで医師として働き、その後アメリカで即席の形で勉強してその後日本で先進の医師として勲章をもらうほど働いたというわけで、まあそれはもちろん色々良い評判だけではなく様々な評価があったかと思いますが、そんな状況の日本で専門の知識をもった欧米の腕利きの医師が日本人と極めて近づいた状況で日本人のために医療を行う事が当時なかなかありえないわけでして、戊辰戦争の当初の際にはやはりスコットランドエディンバラ大学で外科を学んだ恐らくかなり優秀な英国副領事でもあったブラザーウィリアム・ウィリスが官軍の支援に野毛山の軍陣病院で医療に当たったそうです。ほぼ同時期にエディンバラ大学の教授であったブラザーサージェームズ・シンプソンによるクロロホルムによる麻酔法が確立され、またブラザーリスターが教授を務めていたグラスゴー大学で消毒による外科手術法が確立された頃であり、それらを学んで実地に医療をイギリスで修めて日本で軍医として働いた副領事ですからまさに当時世界最先端の医療を行っていたのだと思われます。この際には大山巌や西郷従道、桐野利秋の治療も行ったとあり、またそれ以前には生麦事件の死者の治療や会津藩の負傷兵の治療も行っていたとありますから、この時に指揮をしていた大村益次郎が蘭学医でありながら戦争を指導し、後に暗殺され傷の化膿で亡くなったことなどを考えると、こういう医療における戦いともいえるものがすでに開国当初よりあったのかとも思われます。その他にもブラザーウィリアム・ウィリスにはイギリス公使館医師のシッドール(J. B. Siddal(釈迦の名前のシッダールタと被るので恐らく彼もフリーメイスンになったのではないかと思われます。))、ドングロイ、ジェンキンスらも働いていたという事で、彼らもフリーメイスンであった可能性があるかと思います。基本的にイギリス人で当時に日本に来ていた人はほぼフリーメイスンかそののちにフリーメイスンになっているかだと思いますし、それはオランダ人でもアメリカ人でもフランス人でもそれがほとんどだと思われます。当時の日本に来ていかに高給であるといえども指導的立場で生活して仕事をすることは現代はその差は非常にかつてに比べれば小さくなったとはいえ、その当時は非常に大変なことであった事は想像に難くなく、寿命を見ても短命な人が多いことからもフリーメイスンと認められる機会は明らかに本国よりは大きいのだと思われます。(ブラザーウィリアム・ウィリスは日本来航前に看護師と未婚のまま子供を作っていて、またアイルランド出身という事でカトリックの可能性があり、もしかするとそれらの関係でフリーメイスンではないかもしれません。ブラザーアーネスト・サトウともかなり親しかったようなので複雑です。亡くなったのが2月14日の聖バレンタインデーという事もカトリックを示すシンボリズムかもしれません。インターネットにアップロードされている教会の埋葬記録では2月15日のようです。)
まあ結局は大勢の影響によってその後ブラザーシモンズがアメリカでの医療の学習を終えて日本に戻った際に、明治新政府の中枢で顧問として活動していたブラザーフルベッキの知己のために東大前身の大学東校で教鞭をとることとなり、その際にももう一人のドイツ系のシモンズという人と混同されるなどいわゆるフリーメイスンリーっぽいやり取りがあったりします。このブラザーフルベッキとブラザーシモンズのやり取りが非常にその後も大きなわけですが、ブラザーフルベッキはモラヴィア出身の父親とイタリア出身の母親のもとでいわゆるユダヤ系の恵まれた家庭の子女として音楽や文学を教わる環境でオランダで成長し、その後アメリカに移って、さらに改宗ユダヤ人の宣教師として来日し、さらに三人の中で一人11月7日に長崎に降り立ちその半島の付け根であるかつての大村氏や龍造寺氏の支配地域、後の鍋島藩の領地であった佐賀藩で藩校を取り仕切ったというところがまあ当初より開港の中心地に降り立ったブラザーブラウンとブラザーシモンズとの運命の違いでもあるわけですが、この佐賀という地名もやはりゲームの名前でも有名となりましたが、アイスランドのノルマン民族の叙事詩であるサガとも重なり、それこそテンプル騎士団やバイキングの新大陸発見説にも繋がる、まあ恐らくコロンブスの新大陸発見の下地になるものと同じ音なのだと思われます。
そう考えるとその後のブラザーフルベッキが恐らく行ったであろうYの名前やカノンなど音と言葉のシンボリズムの影響が分かるのではないかと想像されます。
それで、まあブラザーフルベッキの恐らくユダヤ人としての血統の良さと教育の高さ、改宗ユダヤ人としての聖書、キリスト教、ユダヤ教への造詣の深さから彼の意見が明治政府の中での相当な重点を占めるようになり、それに従って日本の医療のイギリス医学からドイツ医学への転換が図られ、その中で恐らく相当に優秀であったブラザーウィリスらは中央から締め出され、なんと薩摩藩で医学校の校長となったそうで、戊辰戦争や薩英戦争で薩摩藩の戦力を評価したためによるその後の西南戦争に備えた配慮であったと想像されます。それでなんとか準備の整ったところで廃止となった横浜軍陣病院の後に慶応義塾で学んだ早矢仕有的がこれも恐らくフリーメイスンと思われる梅毒に対して治療を行っていたブラザーニュートンのもとで医療を学び、神奈川県令などに働きかけてブラザーシモンズを破格の待遇で雇い入れる事で横浜中病院、後に横浜共立病院、神奈川県立十全病院として病院ができたそうです。恐らくすでに最初の来日時にフリーメイスンとなっていたブラザーシモンズがその後に恐らく一斉に広まっていた上位位階のスコティッシュライトの位階のシンボルとして病院の名称となって本人もそこに収まったのだと思われます。ブラザーアルバート・パイクによるモラル・アンド・ドグマの出版が南北戦争(1861-1865)後の1871年明治3年であるそうなので、まさにフリーメイスンリーの新時代も開かれていたときであったようです。




(十字架というのもカトリックではキリストの磔像を重ねたりしますが、明らかに人間の四肢と頭を合わせた解剖学の基本の象徴なのでしょうね。レオナルド・ダ・ヴィンチのウィトルウィウス的人体図も明らかにラテン十字と太陽十字と人体の解剖を的確に重ね合わせた象徴と考えられます。もちろんエジプトのアンクも明らかに人体の形をしていますし、タウ十字はそこから頭部を取り除いた形でもあります。人型という生命の神秘と物質としての生体を重ね合わせた象徴なのだと考えられます。)
まあちょっと長くなりそうなのでこの辺りにして恐らく四分割となるのかもしれませんが、偶数回となりそうな気配です。次が具体的なブラザーシモンズの医療活動と福澤諭吉とその子息との交わり、最後にその他の十全病院やその他の横浜の病院で働いていた恐らくフリーメイスンと思われるイギリス海軍医のブラザーニュートン、ブラザーセジュイック、ブラザーヒル、ブラザーローレンソンとこれは外国人墓地について書かれた本でもフリーメイスンとある、十全病院で働いたブラザーウィーラー、ブラザーエルドリッジ、そしてオランダ人で恐らくフリーメイスンであったブラザーブッケマについて触れて終わりとしようかと思っています。
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