2013-12-04 21:30 | カテゴリ:横浜
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
まあ色々と横浜ロッジの方面の話となるととにかくややこしいのと、ロータリークラブやライオンズクラブと違って人生を掛けた一生ものの話が多いのと、とにかく話がすぐに世界や日本全体レベルに広がるので重いわけですが、その分横須賀の人にしてみると気楽に聞けるという内容であるかもしれません。

ブラザーシモンズの医療的な業績の話になるわけですが、その前にシモンズという名前がそもそもサイモンアンドガーファンクルのサイモンと同じ系統のいわゆるシメオン族の末裔という意味であることからも、ブラザーシモンズも要するにルーツをたどればユダヤ系であろうという事になるわけですが、どうも伝記を読む限りは本人にあまりそういう自覚がなさそうなところと、恐らく宣教師をやめたりしている経緯からも聖書をきちんと読んだりなどの勉強を本腰を入れてやったタイプではなさそうというところがあります。そういう意味ではブラザーフルベッキの名前の意味は恐らく町の名前などだと思われますが、ユダヤ人としての自覚が強かったであろう人物がブラザーシモンズを意識する事は強かったと思われますし、またブラザーシモンズが医学を学んで再来日した際のドイツ人のシモンズさんとの混同の話は恐らくその後にそうした名前やヘブライ語表現にこだわっていくことになるブラザーフルベッキがユダヤ人では尊ばれると考えられる医師として再び現れたブラザーシモンズに対する気づきへの導きであったのかもしれません。
イスラエル部族
まあいずれにしても再来日後の神奈川県立十全病院に勤務し始めたブラザーシモンズは相当働いたようです。最初の活動としてはどうも伝染病予防法の元となる防恙法を建議したという事で、恙とはツツガムシの事で恙無くという言葉の元となる、日本やアジアに特異的な野原に住むダニの一種によって感染する寄生虫のようなリケッチア感染症の元となり、これはのちに福澤諭吉が感染して発疹チフスで生死の境をさまよった病気のことです。まあ名前は防恙法ですが、基本的には日本にかなり特異的な風土病であるツツガムシ病に感染しないような環境改善が必要であるという建議なのだと思われます。恐らくすでに日本に来た外国人の情報からツツガムシ病という恐ろしい病気があるという情報を知っていたのだと思われます。
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その次に行ったのがまたやはり法整備の要請で売薬取締法の建議だそうで、要は現在の医薬品販売に関わる薬事法の制定を要請したことで、これもやはり法整備する事で薬の貿易や輸入に関しての利益性もあったのでしょうし、実際怪しい薬での病気も相当数あったのではないでしょうか。
まあどうも明らかにフリーメイスンとして働き出したブラザーシモンズなわけですが、医療人として実際の活動のところもどうもフリーメイスンとしての活動のようでした。解剖を良く行っていたそうで、さらに脚気についての論文などを出したりして、その内容にドイツ留学中の森林太郎が反駁してドイツ語で反論したなどという複雑怪奇な後のブラザーシモンズと共に慈恵医科大学を創設した高木兼寛の脚気治療法の発見にも繋がるような伏線の話と思われますが、どうもそうした話を総合するとほぼ脚気の原因が日本の白米食にあった事はフリーメイスン達は分かっていたのかと思われます。
その後はやはりブラザーニュートンらが集中して対応していた梅毒の治療について引き継ぐのですが、どうも荒井保男さんの本によるとブラザーシモンズは梅毒の感染についての日本の性風俗について詳しかったという事のようで、どうもこの辺りにブラザーシモンズの宣教師失格の原因があり、その後の夫婦仲の悪化があり、また石灯籠の象徴にも繋がるものがあるような感じでしょうか。その辺りはブラザーデッカーはなんだかんだでうまい事やっている感じでしょうが、やはり子供が日本で死んでいるところは共通かもしれません。
その後のコレラの対応についてはかなりきわどい話があります。そもそもコレラの感染は幕末から明治にかけては頻発し、それが開港や開国に関連して生じたという話があるわけですが、どうもこのブラザーシモンズの関与した横浜のコレラ発生、その後日本全国に広がるほどの感染であったようですが、それは明らかに居留地のアメリカ館で入れたお茶であるそうで、それが毎回それであるようなので、まあまだコレラ菌の発見とか抗生剤とかない時代なので治療としてはなんとか消毒薬の入った水分をとる位しか無かったのだと思います。その対応としてすぐにブラザーシモンズは病者の隔離を横須賀の長浦、恐らく現在も貯油施設として使われている可能性の高い長浦の当時は半島に隔離したのだと思われますが、これは要するにほぼ隔離された人は死んでしまったのだと思いますので、まあインフェルノではないですが、そういうノロウイルスやO-157の話にも繋がるそれをはるかに超えた壮絶な社会現象であったのだと思われます。これはさすがに後々微妙な評判になる事は間違いないかと思われます。
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種痘に関してはもちろんブラザージェンナーが始めたワクチンの始まりであり、日本に伝えたオランダ人医師ももちろんフリーメイスンでしょうし、幕末では孝明天皇の死因が天然痘であるらしいことが有名かと思いますが、その後も種痘を行わなかった人々で盛んに天然痘の大流行があったそうで、種痘は非常に良く広まったのだと思われます。
寄生虫の虫下し薬がセメンエンというシモンズと似た名前で良く売れたという話も載っています。疥癬対策に薬用石鹸も販売し良く売れたそうです。さらに栄養の改善に牛乳を勧めたそうです。恐らく相当頑張っていたので医学校の設立の話も出たそうですが、東京大学医学部の元となる大学東校があることから十全病院の建て替えになったそうです。
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その後は非常に面白いエピソードとして福澤諭吉が明治3年5月5日に水天宮のお参りに行ったあとに発疹チフスになって、ヘボンが診察を断ってブラザーシモンズが50両を請求して治療にあたったことがあったそうです。基本的にツツガムシ病で発症する発疹チフスですが治療はテトラサイクリン系抗生剤かクロラムフェニコールしかないそうで、当時にそんな薬はありませんので、ブラザーシモンズはいわゆるキニーネやウイスキーなどの熱病に対する熱冷ましの治療を行ったようです。函館から取り寄せた氷や人工の氷でとにかく解熱を図ったそうです。この水天宮のお参りは非常に面白いエピソードで一緒に行った子供の一太郎と捨次郎は当時6歳と4歳であったようですが共に誕生日が11月22日と11月9日となかなかのシンボリズムで、後にブラザーシモンズのアメリカでの協力もあって留学もしているのですが、この水天宮というのもまた福岡久留米に総本宮がある神仏習合の神社なのですが、元々がバラモン教のヴァルナという最高神で、ゾロアスター教のアフラマズダと一致する神社だそうです。福澤諭吉自身も西暦で1月10日生まれ、旧暦で12月12日生まれという事で、まあ明らかにシンボリズムが認められました。中津藩の下級藩士の家に生まれ、儒学を修めてその後蘭学や英語を勉強して咸臨丸で欧米を巡り頭角を現していくわけですが、後に東京学士会院初代会長も務め、明六社ではブラザー西周やブラザー津田真道と共に名を連ねる啓蒙教育者であるわけですが、信仰という点においてはフリーメイスンのアメリカ人のブラザーシモンズやユニテリアンの伝道師との接触から一時期はユニテリアン(キリストを人間とするデイズムに近いキリスト教)に近い考えをもったそうですが、聖書を読んだ形跡はなく、ほぼ無宗教に近いながらも上記のように水天宮にお参りする日本人であったようです。それでこの水天宮のエピソードは恐らく彼の信仰を試す機会でもあったのではないかと思われます。
福澤諭吉の子供は9人いて皆成人しているようですが、その他にも誕生日のシンボリズムが認められる状況であり、彼の特筆すべき業績が以前も触れたかと思いますが、アメリカ独立宣言の最初の日本語訳であることは間違いないかと思いますので、早稲田大学の創始者である大隈重信と共に福澤諭吉がフリーメイスンになる可能性についても当時のフリーメイスン達が丹念に見守っていた様子がうかがえるかと思います。
ちなみに付け加えると曾孫の福澤武氏は幼少期に結核などされ苦労されたそうですが現在は三菱地所の会長をされていて、三菱地所と言えばテレビCMで特筆すべきセントポール大聖堂や横浜の三菱重工の造船ドックのフリーメイスンリーのシンボルを数々入れ込んだものを放映しており、フリーメイスンリーへの気付きは4代目にしてなされたのかもしれません。


またこの発疹チフスのエピソードで面白いのが病気をきっかけとして芝にあった慶応義塾と福澤邸は福澤諭吉がその場所を嫌って三田に移ったという事です。まあ場所のシンボリズムなわけですが、なんとその後にブラザーシモンズの再来日の際の住居であった築地の場所が旧福澤邸の庭の辺りであったそうで、福澤諭吉がそれについいて触れたりしていたそうです。なんとも水天宮にお参りしてツツガムシに刺されるという話と、防恙法の建議をした元宣教師の医師ブラザーシモンズとはまさになんとも不思議な取り合わせであったようです。

福澤諭吉はその後慶応義塾の中に医学校を作ったそうですが、結局一旦閉校となり、イギリス医学からドイツ医学への流れの中でそれに逆らうようにブラザーシモンズと共に高木兼寛を学長として後の慈恵医科大学の元となる成医会を作ったそうです。ブラザーウィリアム・ウィリスも大学東校で教鞭をとっていた関係でやはり東大医学部の祖とされるようです。まあ有名な大学は大概フリーメイスンとの関わりがあるのかと思われます。慶応大学の医学部は結局福澤諭吉の死後の大正時代にまさにドイツ医学を象徴する北里柴三郎を医学部長として開設されたそうです。ブラザー林董によって作られた日英同盟の流れは後にブラザーフルベッキ、ブラザージェイコブ・シフらのユダヤ系のフリーメイスンの意向もあってドイツ、イタリアとの三国同盟へと繋がったのかもしれません。

結局10年近く横浜十全病院で働いたブラザーシモンズは一人息子のヒラムが20歳前後で亡くなったことで一旦妻と一緒に帰国する事を決意し、日本政府に勲章をもらってアメリカに帰国し、その間に福澤諭吉の二人の息子の留学を世話していたそうです。ブラザーシモンズの息子の死については詳細は不明ですが、恐らく上記のようなブラザーシモンズの様々な活動などを考えると様々な恨みとまでは行かなくとも誤解や偏見はあったかと思いますので、そういう影響もあった時代なのではないかと思われます。それ以前の梅毒を治療していたブラザーニュートンも様々な毀誉褒貶を受けて長崎で客死したりしていますし、この時代のお雇い外国人による西洋医療の導入は眼科医であったヘボンの特異な例を除いて、かなりショック療法のごとき効果があり、本人も含めて様々な劇的な反応があったのではないかと思われます。
福澤諭吉は二人の息子の留学中に慶応義塾の拡充に務め、ハーバード大学から3人の教師を招聘したりしており、これなども恐らく当時の学長もフリーメイスンだと思われますし、来日した教師もフリーメイスンが含まれていたのかと思われます。

離日から5年後にブラザーシモンズは母親を伴って再来日します。この目的は一応日本文化の研究という事であったそうですが、夫婦仲が息子の死後かなり険悪となり恐らくアメリカでいたたまれなくなって母親を伴って出来る事なら日本人の後添えがあればというような発想があったのではないかと思われますが、全体としては福澤諭吉の論説が載った時事新報にいくつか日本の西洋化を批判する記事を書いて後に腎炎を発症して亡くなる経過を見ると死に場所を求めていたようにも思えます。80近くであった母親の動向は不明ですが、恐らく息子の死を看取ってアメリカに帰ったのかと思われます。荒井保男さんはえらくこのブラザーシモンズの日本の伝統文化を賞讃する論文や、日本の真の文明化を促す論文を良いものとしていますが、私としてはそのような背景と、最終的に腎炎となりかつて患者であった福澤諭吉の家のある三田で福澤諭吉に見守られて亡くなる経過は壮絶であり、なんともある意味ブラザーモーツァルトやブラザーロバート・バーンズのようなフリーメイスンの死を思わせる因縁に基づく象徴的な非業の死かと思われますが、腎炎もまたリウマチ熱などと同様に日本でありふれていた猩紅熱、β溶連菌による感染症をきっかけに生じるものであることを考えると水天宮での発疹チフスの意趣返しのようでもあり、なかなかその後の福澤諭吉の何度も発作を起こしながら脳卒中で無くなる経過ともあわせて明治の時代の啓蒙の夜明けの時代の壮絶な死を思わざるをえないかと思います。ブラザー林董のヘボンの治療を思わせる足壊疽からの死もまたそれら一連の出来事を連想させる出来事ではありますが、このブラザーシモンズの死もまたそうしたフリーメイスンの死を象徴する死であったかと思われます。ブラザーシモンズが最後の論文で日本女性の着物姿を西洋服姿と対照として西洋化を批判していたのがなんとも現代にも通じますがなんとも矛盾したフリーメイスンリーの日本でのありがちな活動として象徴的なものを感じました。
彼の墓碑を福澤諭吉が記し、その前にフリーメイスン達が二つの石灯籠を建てたのはまさに彼の日本での行動を象徴したフリーメイスンとしての象徴であるのかと思われます。
ブラザーブラウンの帰国に際しても膀胱結石の診断を膀胱鏡を行ってブラザーシモンズがしたようですし、一緒に来日した三人のフリーメイスンの縁は終始繋がっていたようです。ブラザーフルベッキはブラザーシモンズの死後9年たって自宅で心臓麻痺で突然死しています。ブラザーブラウンは自宅が火事になったり、教えていた校舎が火事になったりとして結局明治9年に帰国し明治13年にマサチューセッツ州マンソンで70歳で亡くなっています。やはり年齢が大分上だったのですね。ヘボンは96歳で亡くなる際には明治学院のヘボン館が同日に火事になることがあったそうです。
まとめると以下の通りです。
ブラザーグイド・フルベッキ         1830年1月23日-1898年3月10日
ブラザーデュアン・シモンズ         1834年 -           1889年
ブラザーサミュエル・ロビンス・ブラウン   1810年6月16日-1880年
ジェームス・カーティス・ヘボン               1815年3月13日-1911年9月21日
福澤諭吉                        1835年1月10日-1901年2月3日
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横浜市立大学医学部附属市民総合医療センターにあるブラザーシモンズの顕彰碑です。平成11年1月に作られたそうです。
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横浜市立大学医学部福浦キャンパスにあるヘボンホールの顕彰碑です。横浜市立大学の校章は何でしょうね。カエデかなんかの植物なんでしょうが、いずれにしても下向きの三角である事は確かなようです。シンボリズムではカトリックか女性のシンボルになるのでしょうかね。Yのシンボリズムもあるようです。平成17年に出来た新しいシンボルマークは明らかにGを意識しているようですが、まあYを強調しているようななんとも曖昧な感じでしょうか。
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明治学院大学にあるヘボンの胸像です。明治学院大学の中庭はユニオンフラッグの形となっています。長老派教会、いわゆる英国国教会の象徴なのですね。後はやや厳しいですが建物がMGの形になっているのだと思われます。明治学院大学はもちろん漢字でもシンボリズムがありますし、MG共にシンボリズムのローマ字ですね。
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一万円札で見なれた福澤諭吉の肖像です。慶応義塾大学のシンボルマークはペンは剣より強しを形にしたそうですが、明治18年ごろという事だそうです。これはフリーメイスンリーのセクレタリー秘書の記章と良く似ています。まあ偶然でしょうね。

最後は横浜外国人墓地のフリーメイスンに繋がる横浜十全病院で働いていたその他のフリーメイスンについてです。
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