2013-12-06 06:21 | カテゴリ:横浜
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
まあ四部構成というこのブログではかなり珍しいものですが、四元徳や四方位、四大元素などあり、はっきり言うとどんな数字にも意味があるというのがフリーメイスンリーであり数秘術なのがそれなのですが、それだけシンボルというものの意味にこだわるというのがまたフリーメイスンリーでもあります。

でまあ横浜市立大学医学部のもととなる横浜十全病院で働いたフリーメイスンについてなわけですが、それと4との関係というとなんとも辛いものがあるわけですが、病院で4というと未だに日本では死のイメージからその階が飛ばしてあるとか、部屋番号で無いとかそういう位しか思いつかないわけで、とにかく病院では4の数字というのは嫌われてほとんどの薬や何から4という数字は無いというのが日本では決まりとなっているわけです。もちろんフリーメイスンリーでは四元徳で特に現れる重要な数字でもあるわけですが、このブログでも触れた4福音書というのもあります。基本的に因数分解するので2×2で対称性を表すヤキンとボアズの柱のさらに対称性を持たせたり、2で日本の象徴というところのさらにそれを重ねるという意味にもなるのかと思われます。
あえてこの内容に合わせると横浜の頭文字が四にかかるかとか、浦舟町4丁目だとかそんな程度のダジャレくらいしか出てこないわけですが、まあそれくらいこの辺りの話がそもそも取り上げられるのも日本的なものであり、彼ら居留地のフリーメイスンリーにしても関東大震災や太平洋戦争で二度の中断を経験したものであり、現在の横浜ロッジも含めて横浜市立大学も私が大学院にいたときには外国人学長なんてのもあったりしましたが、大学を離れて大分経ちますが現在は恐らく相当に日本的な状況にあるという事なんではないかというところでそれが4という数字や偶数のシンボリズムに現れているという事で、ある意味安定や日本的、東洋的な調和を意味するものでもあるかと思われます。

というわけで本編の横浜十全病院で働いたフリーメイスンについて見ていくわけですが、まず確実にフリーメイスンと分かるのは横浜外国人墓地に眠る人々に書かれたお雇い外国人のブラザーウィーラーとブラザーエルドリッチだけなわけです。基本的にその他の医師であるイギリス人、アメリカ人、オランダ人についても横浜外国人居留地で当時はスフィンクスこそありませんが、豪華な列柱が並ぶ十字型の恐らく居留地で最も豪華な建築であったYokohama Masonic Hallがある時代であり、フリーメイスンリーについて知らない人はいないし医師や軍人であればまず所属しているであろう日本での安全保障の第一であったかと思われますので、これから挙げる主にイギリス人の医師についても皆所属していたものだと思われます。
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厳密には横浜ロッジの記録を調べないといけないわけですが、それには役員になってきちんとロッジの仕事としてまとめたり出版したりする作業が必要となるわけで、このブログはそれに準じる部分もあるのでしょうが、そこまでのものではないわけです。
それでまあ基本的に荒井保男さんによるドクトル・シモンズに書かれた内容に沿って解説していきます。
これはブラザーデッカーの回想録でも出てくる日本に来た外国人が江戸、明治、そして終戦後の昭和であっても非常に驚く事であったようですが、とにかく日本の性風俗は買売春に関しては非常におおらかで性感染症に対する予防意識が薄く、江戸から明治期にかけては一般庶民の成人であってもほぼ半分、専業者においてはほぼ100%何らかの性感染症をもっていたらしく、その中では梅毒は感染力が小さく感染率が低いとはいっても専業者で恐らく半分程、一般庶民であっても2-3割程の感染であったようです。これは昭和の終戦時であってもほぼ治療薬が無い状況と結局明治期にこれらのお雇い外国人が入ってきて公衆衛生や性感染症について主にキリスト教的価値観から啓蒙したとしてもほとんど変わらなかったと考えられ、むしろ食生活の改善やその他の衛生環境の改善などからさらに性風俗産業は活発となり、明治の元勲が伊藤博文や松方正義などかなり有名であった通りにいわゆる和魂洋才の行動規範はこういうところで顕著に認められていたようでした。
梅毒の感染確率は初期感染者との性的接触でほぼ2-3割で、それが潜伏感染者になるとさらに低くなることから、当時は不治の病であったこの病気は非常に蔓延しており、外国人居留地の横にすぐに売春街ができる構成であった当時としては居留地を管理する諸外国を代表するイギリスとしては性病感染を管理する必要があったのだと思われます。ブラザーウィリアム・ウィリスが慶応3年1867年に報告した「日本の梅毒」の抜粋を転載します。
「江戸では遊女の約十パーセントが梅毒にかかっているとみられるが、横浜ではこの病気の割合は少なくとも江戸より二倍も多い。……概して日本の田舎では梅毒はまれであるが、都市では三十歳の男の三分の一がそれに冒されている。日本の都市の街路で売春婦が大ぴらに客の袖を引く光景は少ないが、横浜ではその慣例が広く見かけられる。売春制度に関してわが国の外交部門や領事部門が日本の支配階級に有益な影響力を行使することができると思われる唯一の道は、開港場に日本政府が適当な病院を設立し、当分の間病気の女性の営業を強制的に禁止させることである。十分に資格のある人物が、少なくとも一週に一度、全ての売春婦を定期的に検査しなければならない。」
この方針に基づいて梅毒蔓延予防法が居留地に作られて、当時治外法権であった居留地で強制的に梅毒検査をするやり方で、ブラザーニュートンが本国から招かれて横浜梅毒病院を建設し梅毒予防のための梅毒の強制検査を行って梅毒罹患率を下げさせたそうです。記録によれば3800名中730名程の梅毒患者がおり、慶応3年1867年以前で80%の罹患率であったのが明治元年1868年で51%、明治二年には36%となったそうです。まあ当然確実な検査法の無い時代ですから、問診や視診で梅毒の診断を行っていたわけで、問診の程度が変わればその位の変化はあるわけで、要は感染率は当初の80%以上がそのまま続いたという事かと思われます。梅毒治療は主に薄めた水銀を飲ませるやり方であったので、後にノーベル医学賞を受賞するマラリアに強制感染させて高熱で梅毒を駆除して、キニーネでマラリアを治療するという命がけの治療以外抗生剤の発明まで公式には存在しないので、要は水銀治療もほとんど実際は治療できていなかったというのが現実であったのだと思われます。まあいずれにしても梅毒の診断がつけば遊女屋としては営業中止に追い込まれるのは必至であったわけで、避妊具もまともに無い時代にそれらの感染をそういう仕事で防ぐのは事実上ありえなかったという事で、ブラザーニュートンは次の長崎の赴任地で全面的な反発にあい、長崎のOccidental Hotelで41歳で客死してしまったそうです。横浜という土地のかなり軍隊から知事の権力までネットワークを張った環境と、かつてのカトリック布教の地であり、その後のフランス人神父によるキリスト教徒の再発見があった長崎ではイギリス人医師の活動に大きな違いがあった事は間違いないかと思われます。フリーメイスンリー的には単純にUnited Grand Lodge of EnglandとGrand Orient de Franceの対立関係という構図になってしまうかもしれません。ブラザージョージ・ニュートン、George Bruce Newtonは長崎市川上町外人墓地(旧大浦外人墓地)に葬られているそうです。忌日が1871年7月11日という事でシンボリズムを認めますが、墓の形を見る限りは単なるラテン十字でフリーメイスンらしさは無いようです。(階段状なのが若干ピラミッドに近いのかもしれません。)墓の写真のブログを見ると明らかにフリーメイスンを思わせるオベリスクの墓もやはりあるようですし、夭逝を示す折れた石柱の墓も認められ、ブラザーグラバーの他にも数多くのフリーメイスンがいたことがわかります。ユダヤ人達の墓もあることから、長崎にはキリスト教伝道の地という事でブラザーフルベッキも含めてキリスト教伝道の地としてユダヤ人家族がおり、キリスト教徒とユダヤ教徒との間でそれぞれやり取りがあったということが忌日のシンボリズムからは想像されます。恐らくそれが後の原爆投下の引き金になったこともあったのではないでしょうか。
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で、そういうちょっとすでに難が付いた梅毒病院事業であったわけですが、ブラザーニュートンの後任にブラザーセジュイックが付いたのですが半年で交代し、ブラザーヒルが着任します。この頃には梅毒病院の運営自体政府間同士の問題となる大問題となって来たようで、荒井保男さんはどうも中国人に肩入れが強かったこともあってか、やたら治外法権問題の日本の自治権を問題としますが、明らかに梅毒感染は日本は基本的に放置という姿勢が明確であり、ブラザーパークスの要請でブラザーヒルは一カ月交代で横浜、兵庫、長崎の梅毒病院を巡回するというところで落ち着いたのですが、とにかく神奈川県令から何からこの梅毒事業をやめたがっているのが明確でこのブラザーヒルの着任もとにかく早く辞めさせたがっていたようです。結局6年いて帰国した後にブラザーローレンソンが就任し、さらに三港の他に神奈川、藤沢、浦賀、横須賀、三崎の神奈川県内の遊郭の梅毒検査をも実施したそうです。要するに遊郭が拡大し梅毒感染者も増えたという事のようです。明治十四年になって日本人念願のブラザーローレンソンが帰国したところで外国人医師による管理を完全に排除して日本人医師による自主的な運営となる運びとなって、ブラザーデッカーの際の敗戦後の昭和20年の横須賀での一般市民の性病罹患率50%というところに結果的に繋がるようです。まあまさにユダヤ教の肝でもあるこういう性病罹患率というところに文明とは何かという要諦がある気がします。ブラザーニュートンは種痘事業も開始して死後は日本政府にも表彰されたそうです。こういうのが予防医学の難しいところですね。

ブラザーウィリアム・ウィリス、ブラザーニュートン、ブラザーシモンズと続き明らかに西洋医学とは如何なるものかというところで結局受診する側が慣れて来たというところで再び本国で専門教育を受けた医師が赴任する状況となったようです。
この後に出てくる二人のフリーメイスンのアメリカ人とイギリス人の医師、ブラザーエルドリッチとブラザーウィーラーは明らかに対照的な人物であり対照的な人生であり、フリーメイスンとしても非常に対照的であり、恐らく横浜外国人居留地の開国から関東大震災までの歴史の中でフリーメイスンリーと特に横浜十全病院を代表とする日本人に対する働きかけという点において特筆すべき人物であるかと思われます。

ブラザーエルドリッチはそもそも北海道の開拓使官となった黒田清隆、旧薩摩藩士で明らかなシンボリズムを認める第二代内閣総理大臣を務めた人ですが、この人が五稜郭での戊辰戦争終結後の北海道で医学校を開くための人材としてブラザーグラント大統領に直接ワシントンD.C.で会って依頼した結果派遣された医師であり軍人であり、そもそも軍人として南北戦争で北軍に従軍した後にワシントンD.C.で医学部に通って医師になったという人物であり、恐らくこのワシントンD.C.滞在中までにはフリーメイスンとなり恐らく創設まもないスコティッシュライトの教育も受けたのだと思われます。そもそも医師としての教育もそのフリーメイスンとしての教育の一環であった可能性もあります。要するにフリーメイスンとしても当時のアメリカにおけるエリート中のエリートであり、明治維新後の日本にはジャポニズムの影響もあり、明治維新の奇跡的な進行に伴ってフリーメイスンとしても非常に優秀な人が集まる時代であったようです。恐らく北海道は五稜郭の建設もフリーメイスンをひきつけるランドマークであったのかと思われます。
明治5年より函館医学校を病院内に作り意欲的に教育や診療を行ったそうですが、まあ明治5年の北海道なんて恐らく生きるだけで大変な環境であったと思われますので、一人でそれらすべてを行っていたのでかなり消耗したのだと思われます。明治6年には夫人が来日し同居したそうです。明治7年にはロシア人教師やドイツ領事の殺人の剖検を行っているそうです。まあなかなか厳しい現実であったのだと思いますが、任期満了という事で明治7年に横浜山手に移転して開業し、明治9年に山手のゼネラル・ホスピタルの院長になったそうです。現在もブラフ・クリニックという名前でその病院の系譜は続いているそうです。その後ヘボンの手伝いなどをしながら、明治17年に横浜十全病院でオランダ人医師ブラザーブッケマの後任として着任します。
このオランダ人医師ブラザーブッケマについてはオランダのグロニンゲン出身で明治4年に来日後に陸軍軍医学校などで講義を行っていたそうです。明治13年から十全病院で働き明治16年に長崎病院に医学校教師として転出し明治20年に帰国しハーグ病院に勤務したそうです。87歳まで長生きしたという事で明らかに他の人と比べてヘボンに近い無難なところを過ごしたような印象でしょうか。日本薬局方の制定にも力を尽くしたという事で恐らく薬学の知識が優れていたようです。オランダのフリーメイスンリーはフランスとイギリスの間を取り持つ形で、独特の要領の良いポジションを保っている印象であり、恐らく彼もフリーメイスンだと思われますが、目立たずに必要な情報を適切に収集し無駄なこだわりを持たずに帰国したというような印象でしょうか。やはりヨーロッパを代表する港と独特の低地を擁し、長崎出島を300年に渡って維持した新教国としてのオランダのポジションは日本にとってもかなり注目すべき存在なのだと思われます。
ブラザーエルドリッジはゼネラル・ホスピタルをも兼務していたそうです。明治33年には慈恵成医会の副会長に就任し、日本の医会の重鎮と目されていたそうです。弟子の六角健吉という方が通訳などをしていたそうです。居留地民の病気などについて本国でも報告したり、論文を残していて、居留地民の動脈瘤について報告したりしていて、恐らく梅毒感染の末期症状について暗に報告していたのだと思われます。このブラザーについては面白いエピソードが豊富でそれはとくに横浜外国人墓地に眠る人々に記載されています。
フリーメイスンリーの活動に関する記述があり、フランシス夫人は本人より30年以上長生きしたそうですが、女性のためのレディズ・ローン・テニス&クロッケー・クラブの有力メンバーであったという事で、恐らくイースタンスターのようなフリーメイスンの家族のための居留地でのスポーツと社交のクラブであったのだと思われます。ワシントンD.C.で恐らく優秀なフリーメイスンという事で名を馳せたためにやや派手好きの奥さんであったのでしょうか。国際婦人図書室の会長を務め、夫人慈善協会では副会長を15年、会長を20年務めていたそうです。
ブラザーエルドリッジ本人はハワイ王国の領事を務めた事と、日本アジア協会の会員だったことと、一時アマチュア・ドラマチック・クラブの役員を務めたことを除くと余業や娯楽にはあまり縁が無い人であったそうです。アマチュア・ドラマチック・クラブというのは字面から行くと演劇クラブなんでしょうかね。恐らくスコティッシュライトの演劇に通じるのだと思われます。日本アジア協会ではアイヌが毒矢に用いる毒の研究を発表しているとあって、いかにもフリーメイスンらしい研究でしょうか。アイヌというところが日本文化の深層を研究していそうな、また北海道を経験した人らしいところを感じます。その他に長老派教会の宣教医と一緒に良く富岡の慶珊寺を定宿として海水浴を行っていたそうです。まあ密談にもってこいの環境なんでしょうね。
フリーメイスンリーの活動としてはスコットランド系ロッジスターインザイーストNo.640のメンバーでスコティッシュライトに所属していて、Des Payenes Preceptoryでコマンダーであったそうです。日本管轄区のスコティッシュライトのグランドコマンダーというところでしょうか。結局スコティッシュライトの支部を上海に作るために移動中に神戸で体調を崩し1901年11月16日に横浜で亡くなったそうです。スコティッシュライトの管轄で何か色々背景があったのでしょうね。奥さんと子供は関東大震災をきっかけとして奥さんの本国であるイギリスに帰国したそうです。その曾孫の方がイギリスで一般内科医をされていて、玄孫に当たる御長男が日本人と結婚した際に来日され横浜市立大学医学部を訪問されたそうです。2001年11月10日に明治神宮で結婚式を挙げられたそうです。11月12日に横浜市立大学医学部で講義を行ったそうですが、わたしも学生であったようですが全く記憶にありませんでした。それらの様子がこの方のホームページに詳しく書かれていて、ブラザーエルドリッジの書簡についてもアップロードされていました。また有隣堂の広報にも載っていました。この方もブラザーロバート・バーンズの詩を載せていますので恐らくブラザーだと思われますが、メールでは今のところ反応ありませんでした。100年の時を越えて現在スコティッシュライトの中国での活動がまた正念場であるのかもしれませんね。(ブラザースチュアート・エルドリッジについて書いた英文のブログがありました。これによるとブラザースチュアート・エルドリッジの父親の名はレヴィ・エルドリッジというそうで、ユダヤ系であったようです。)
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もう一人の横浜十全病院で務めたブラザーウィーラーEdwin Wheelerはアイルランド出身であったそうです。宗教については分かりませんが、一般的にはカトリックが多数ですが、フリーメイスンであったことからもプロテスタント系であったようです。ブラザーウィーラーは明治3年に来日し公使館付医師として活躍し、翌年から工部省鉄道医となっています。日本の鉄道の開業はその翌年の明治5年で、それ以前に最初に鉄道建設を担当した横浜外国人墓地に葬られている恐らくフリーメイスンのエドマンド・モレルが激務のために明治4年に肺結核で30歳で亡くなっており、それらの関係がありそうです。鉄道建設は現在でも大事業であり土地取得や労働力など様々な周辺地域への影響があり、日本での代表的な死の病である肺結核にあまりに短い期間で感染し亡くなったことなどは、その当時の日本における文明開化の実際を伺う逸話だと思われます。ブラザーウィーラーはその後開業してゼネラル・ホスピタルでも働いていて、一旦ブラザーシモンズが辞めた後の横浜十全病院に勤めたそうですが二ヵ月半でブラザーブッケマに譲り、ゼネラル・ホスピタルの医師に戻ったそうです。明治16年にふたたびブラザーエルドリッジと共に横浜十全病院に務め、二年余りに渡って働いたそうです。医師としては「親切さ」と「誠実さ」によって居留地の誰からも愛されたという事だそうです。ブラザーウィーラーが取り上げた新生児は千人を越えたそうです。
フリーメイスンとしてはイングランド系横浜ロッジの会員で、日本地方本部ロッジ、いわゆる当時の日本グランドロッジの役員を務めていたそうです。関東大震災の直前に神戸と横浜でどちらに日本グランドロッジをおくかという事で問題となる綱引きがあったそうで、それらに直接かかわっていたのだと思われます。非常に活動的な人物でいわゆるYC&AC、現在の横浜ロッジの横にある横浜クリケット&アスレチック・クラブの創立時からの会員で、会長も務めていたそうです。モリー・ボーン号というヨットも所有していたそうです。ヨット製造で名高いウィットフィールドの建造になるもので、H・J・ゴーマンの操縦によりレースで何度も優勝したそうです。競馬にも情熱を注ぎ、日本レース・クラブの役員を何度も務めたそうです。来日間もない1871年明治4年に陸軍が招魂社(現靖国神社)で開催していた競馬でタイフーンという馬を見つけ、格安の値段で購入して本格的な競走馬に育てて、その年の11月に秋季競馬でデビュー戦を飾り、その後も優勝を何度も飾り48戦23勝の成績を飾ったそうです。夫人のメアリーもレディズ・ローン・テニス&クロッケー・クラブの有力メンバーで1877年から6年間会長を務めていたそうです。ブラザーウィーラーは横浜合唱協会の役員を務め、横浜文芸音楽協会でも合唱で活躍したそうです。一度も帰国することなく日本に滞在し、47年間横浜にいたそうです。クライスト・チャーチやヴィクトリア・パブリック・スクールの委員も務めたそうです。絵にかいたような名士であったようです。子供は長男と長女ともに横浜で夭逝しているようです。1922年大正11年9月1日に82歳で横浜で関東大震災で被災し自宅に帰る途上の谷戸坂上で亡くなったそうです。
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最後は最初に横浜外国人居留地にできた病院であるフランス海軍病院についてです。フランス海軍病院は現在のホテルニューグランドの辺りにあったそうで1864年に作られたそうです。生麦事件の2年後という事で、まあ何でもフランスは最初が多いんですね。もちろんそれらの中では公に横浜で最初のロッジとされるアイルランド系軍隊ロッジのスフィンクスロッジが上陸したのが1864年で1865年に初めての集会を開いたそうですが、恐らくそれ以前にこれだけの建物があるという事は現在のホテルニューグランドの場所においてグラントリアンの系列のロッジが会合を開いていたものかと思われます。この病院は横須賀のブラザーヴェルニーによる横須賀製鉄所とも連携しており、戊辰戦争の際には幕府軍の新撰組などの重傷者の治療を行ったそうです。この病院で活躍したのがブラザーポール・A・L・サヴァティエであったそうです。ウィキペディアでは植物学者として紹介されています。横須賀における最初の梅毒罹患率の検査を行ってほぼ100%であることを報告していると思います。帰国に際して明治天皇より勅語をもらっているそうです。フランス海軍病院は明治7年に火災で全焼し、明治8年にフランス駐留軍が引き上げて再建されなかったそうです。まるでそのままUGLEとGODFの関係をそのまま見るかのようなデジャヴでしょうか。
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さていかがでしょうか。長きに渡ったシリーズですが、関東大震災前の横浜居留地、横浜ロッジに関する予備知識としてはかなり十分な内容となったのではないでしょうか。今後はさらに横浜外国人墓地に眠る人々と英文の日本グランドロッジから日本のフリーメイスン100周年記念で出版されたMasonry in Japan THE FIRST ONE HUNDRED YEARS 1866 to 1966とさらに大澤鷺山著の日本に現存するフリーメーソンリー (1941年)(昭和16年11月15日発行)という、まあ特に最後のものは日米開戦の一カ月弱前に出版され、国務大臣企画院鈴木貞一推薦といういわくつきのものですが、明らかにどの時代の日本から出版されたフリーメイスンリー関連本よりも最も横浜ロッジの実際の活動について詳しく書かれた本であり、結局それが東條英機の1945年9月11日の逮捕に繋がり、東京裁判での死刑判決となり1948年12月23日の絞首刑に繋がったという本であるかと思われますが、それらについてまとめていこうかと思っています。鈴木貞一さんは東條英機のいわゆる三肝の一人でありながら唯一平成時代まで生き残ったA級戦犯として100歳で亡くなられたそうです。著者の大澤鷺山という人はちょっと検索しても出てきませんが、恐らくこの企画院の関連の方なのだと思います。企画院の関連としては有名な総力戦研究所の話がありますが、恐らくそれらの関連もあるのかと思われます。横浜ロッジに保存されている文書など特別なものがあるかもしれませんが、まあいずれにしても公開されているもの、開港資料館に保存されているものが過去の情報を繋げるためのほとんど全てだと思われますし、恐らくロッジに保存されているものは関連が全く不明であるような会議の議事録や会合の出席のサインではないかと思われます。そこまで至るのはまずこれら出版物やアンダーソン憲章、モラルアンドドグマの内容を把握してからなのだと思われます。
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