2017-06-24 21:55 | カテゴリ:日本
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
まああまりに長すぎるので前後編に分けましたが、一応シンボリズムに則って9月11日に書ききるように設定しましたが、たぶん無理でしょう。
この間にシニム・ロッジでは113周年でインストレーションがあり、その前に横浜ロッジでは150周年で結構な人数が集まったようです。まあアイルランド系のスフィンクスロッジから起算して150周年という事で、出島のオランダ人のフリーメイスンを除けば、確実にロッジが集会を開いた記録という点では横浜が日本のフリーメイスンリーの最初であり、そこから大政奉還、明治維新への流れが定まり、キリスト教の日本での復活があり、日本の文明開化、近代化が始まったわけです。現在の天皇家にしてみれば、公的にも戦後のブラザー東久邇宮稔彦親王殿下がフリーメイスンであり、今上天皇陛下も昭和天皇の皇后の香淳皇后がブラザー東久邇宮の姪にあたることからかなり近い血縁関係という事で、まあ鳩山家などと同じく戦後にそろってフリーメイスンとなった、そういう認識でもまず間違いはないわけですが、実際に明治維新以降は神道の祭主としての行事を執り行っており、こういう点で、近代化としてのキリスト教信仰になりえないという宗教的問題があるかと思われます。まあ何をもってフリーメイスンと成すかというのは常にフリーメイスンリーの命題であり、それには時代と世の中の状況というものが必ず関係してきますので、まあそういう点を含めて、平成28年のこの時代に生前退位が話題になるというところで元号の点から見ていこうとなったわけです。

さてまあ実際の現代の日本のフリーメイスンリーの活動はさておき、このブログでは日本の天皇家のフリーメイスンリーとの接点、主に仏教やキリスト教を通してという事になるわけですが、その傍証としての日付と名前のシンボリズムを検証することをしているということになります。それで前編では1549年のザビエルの来日とキリスト教伝来までの後奈良天皇までの歴代天皇について、名前と元号のシンボリズム、平、光、明、そして生没年月日、即位と譲位の年月日をそれぞれ和暦と西暦についていわゆる数秘術とキリスト教の祝日の観点から見ていったわけです。結論としては日本では暦が成立した大化の改新直後から和暦、西暦ともに生没年月日、即位と譲位の年月日にシンボリズムを認め、それは常に仏教や陰陽道として様々に社会情勢に合わせて強められたり、弱められたりしながら、またシンボリズムとしても極めてキリスト教的なシンボリズムを時に認めつつ、それらがまた非常に非日本的であるというような反発を得て仏教への帰依や禅宗の広まりとともに、最終的にキリスト教の伝来を待つという形になったのかと思われます。歴史の必然としての日本へのキリスト教の伝来、それはもちろんフリーメイスンリー、キリスト教を知らないとなかなか反発があるわけですが、実際の世界情勢、キリスト教、フリーメイスンリーを詳しく知ると、それがまた必然であるというところがまた近代化や文明化という言葉でまとめられることになる、現実のキリスト教、フリーメイスンリーでもあるわけです。

さてまあ長々と前置きを書きましたが、9月はユダヤ教でも重要なヨム・キプル、スコットの月に後半が当たるという事で、9.11から始まって世の中の動きも急速な状況ですので、なるべく早く書き終えて平成28年の日本に為になるようなものとしたいと思っています。(今年のユダヤ暦の新年は10月3日から、ヨム・キプルは10月12日、スコットは10月17日18日だそうです。)

それでザビエルが献上物を捧げなかったために会えなかった後奈良天皇ですが、まあ応仁の乱などの状況でそういう懐事情もあったのかと思いますが、いわゆる戦国時代で比叡山延暦寺や高野山金剛峯寺、また鎌倉仏教後の本願寺、大徳寺、妙心寺といったいわゆる様々な権力や勢力を持った仏教集団が渦巻く京都御所であったわけで、まさに異教といえる、実は日本に伝来した仏教が常に教えとして求めていた可能性すらあるキリスト教、ユダヤ教を排斥する行動になったのはまあやむを得ないというかまさに無知蒙昧のなせる業であったのでしょうか。後奈良天皇の子供の正親町天皇106代天皇永正14年5月29日(1517年6月18日) - 文禄2年1月5日(1593年2月6日)在位:弘治3年10月27日(1557年11月17日) - 天正14年11月7日(1586年12月17日)はおおぎまちてんのうと読み、まあ即位のシンボリズムが和暦と西暦で交錯した形である程度で、没年月日はこれは公現祭に多少かかるのでしょうか。ザビエルが会えなかった後奈良天皇の没年月日が 弘治3年9月5日(1557年9月27日)で西暦で3の2乗と3の3乗のシンボリズムが認められ、後奈良天皇は伊勢神宮への宣命には皇室と民の復興を祈願したり、『般若心経』の奥書には自省の言を添えるなど、まあなかなかフリーメイスン的であるわけですが、その後の正親町天皇は実権を失っていたとはいえ、1565年にキリスト教宣教師の京都追放を命じたという事で、こちらはかなり浄土真宗の本願寺に頼ったり、のちには織田信長の上洛に頼ったりと、なかなか色々ある有名な状況でもあるわけです。後奈良天皇が60歳、正親町天皇が76歳とこの時代に天皇の寿命は飛躍的に伸びており、戦乱の中で天下人であった織田信長とかなり近しい関係になったり、その滅亡後も天下統一した豊臣秀吉に関白の権威を与えることで、皇室の尊厳がかなり高まったこともあり、また曲直瀬道三を始めとしたクリスチャンの新しい医療や健康法の導入が直接的に関係していることもありそうです。ちなみに歴代天皇でおおOOと発音する天皇はこの正親町天皇だけであり、オームの真言ではないですが、仏教系のそういう真言のシンボリズムと関係している可能性が高そうです。もちろんそれと対応して最初のキリシタン大名の大村氏があるという事でしょう。
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この時代はもちろん家紋もそうですが、天下人となった織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の戦国三傑に極めて明確なシンボリズムを認める時代であり、それらが奈良時代、平安時代、鎌倉時代や南北朝時代のように仏教との関係からさらにその先に存在すると類推されるキリスト教などと考えられる時代と違い、明確にシンボリズムを重視するイエズス会を筆頭としたキリスト教宣教師の存在がありますので、それらの実際の活躍ととらえられることができるかと思います。

さてまあここから11/27以降に加筆しているわけですが、2か月の間を開けて書くというのもこのブログではかなり珍しいのですが、その間に三笠宮殿下も亡くなり、フィデル・カストロも亡くなり、アメリカ大統領がトランプ氏に決まったという事で、まあそんな感じなわけです。日本のキリスト教の歴史、天皇家の歴史は現代の国際政治にも関係しているのでしょうね。

さてさて嵐のような天皇誕生日となった12/23の本日なわけですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。まあブログの加筆もなかなか滞っている状況なわけですが、世の中の移りすぎるのは目まぐるしいわけで、そんな時代を感じる平成28年12月23日今上天皇陛下の83歳の天皇誕生日の本日に書き進めることとします。

まあいつの時代も天災やら人災やら、権力争いや仲間同士の争い、兄弟の争い、親子の争いと争い事や災害は尽きなかったわけですが、それらが日本史上特筆すべきものであったのがキリスト教伝来とその直後のまさに戦国時代であったわけです。フランシスコ・ザビエルがシンボリズムに基づいて日本で伝道を行った2年の後、真言のシンボリズムととらえられる大村氏や大友氏、大内氏といった大名とのキリスト教の関りや、近畿での権力争いに関する六角氏や三好氏、三好三人衆といった存在は数字のシンボリズムを思わせるものですし、管領家である細川氏のその後のキリスト教との接点などは細川の名前自体に恐らく何らかの音でのラテン語かポルトガル語やスペイン語でのシンボリズムがあるのではないかと思わされます。(ホセ・カワードになるようです。スペイン語のジョセフの名前のホセJosé、カワードは英語、ラテン語の臆病者の意味のcoward、一般に日本の濁らない音の川はcowardになるようです。卑怯者のジョセフ、そんな教訓的な意味の名前に響くようです。)そしてその混とんとした状況の中で現在の愛知県を中心とした地域から権力を手にする戦国の三英傑が出てくるわけですが、最終的に幕府を開いた徳川家康のイエズス会との名前の相似のシンボリズムと没年月日のシンボリズムがまあ改めて戦国時代の総括でもあるわけですが、それを踏まえて織田信長、豊臣秀吉についても見ていきましょう。

織田信長のエピソードとしては後見役の平手政秀の自決や桶狭間の合戦での神がかり的な成功、斎藤道三とのつながりとその後の斎藤家の調略、さらにその後は織田軍団を率いた各地での転戦と、仏教権力の弾圧、裏切りや調略といった軍団への統制と、安土城の建設から本能寺の変での裏切りでの死といったところだと思われます。生誕日についてはこれは城主の息子でありながらはっきりとはしないとして、この辺りが明確に旧暦の6月24日に生まれて死んだとされる加藤清正などとは異なることなわけですが、グレゴリウス暦で6月21日であるという説などもあるというようです。また死没年月日の本能寺の変は明確にグレゴリウス暦で1582年6月21日であって、これは3日ずれではあるかもしれませんが、明確なイエズス会が刻んだ夏至のシンボリズムなのだと思われます。平手政秀についても当時としては長命の62歳で自刃したことや、娘が織田有楽斎の妻であること、信長との不和の原因が五郎右衛門という息子のエピソードであったことなどから、名前も含めて、宣教師との接点がこの辺りである可能性があるでしょうか。熱田神宮との関わりや、兄弟間での凄惨な争いなどは、キリスト教でも旧約聖書のユダヤ人のエピソードを思わせる話であり、熱田神宮の御神体の草薙剣の逸話などもそれらを想起させるもののようです。織田信長は斎藤道三と舅関係でありましたが、斎藤道三ももともと僧侶の出身であるようで、名前の斎藤は自ら名乗ったもので、北条早雲のものと同じようなものであるようで、まあSaint、キリスト教の聖人のセイントとかかるのだと思われます。道三という名前も黒田如水のように、道教の思想と三位一体の融合であるようで、またドミニコ会を始めた聖ドミニコの名前に全体として相似となるようです。ドミニコ会は日本に伝道した修道会の三番目のもので、イエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会の順であり、中世のトマス・アクィナスを輩出し、キリスト教神学とギリシア哲学のアリストテレス哲学を融合した業績があるそうです。フリーメイスンリーのかつての守護聖人であった聖トマスの名前を冠した、キリスト教の聖人であり、その後のルネサンスの思想の中心となった人間中心主義ヒューマニズムの源流となるものかと思われます。斎藤道三は息子の義龍に戦いで敗れ63歳で亡くなり、その後斎藤義龍は織田信長に敗れ、稲葉山城は岐阜城と改められました。斎藤氏の末裔の稲葉氏はその後現在の皇統に連なる血縁となったそうです。INABAでINRIになるのでしょうかねえ。稲葉山城、現在の岐阜城の攻略において、木下藤吉郎が瓢箪の旗印を攻略の印として掲げ、その後より豊臣秀吉となる成功譚が始まるわけですが、この瓢箪のシンボルがホタテガイのシンボルと並んで、キリスト教の十二使徒の大ヤコブの巡礼者としてのシンボルであるそうです。またこの大ヤコブのカトリックの聖人暦が7月25日となっていて、真鶴の貴船神社で祝われる伝統的な貴船まつりの特定日の7月27日に近いものであるようです。大ヤコブの遺骸がレコンキスタの最中に発見されたとのことで、スペインの守護聖人とされるそうで、スペインバスク地方出身のイグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルを設立者とするイエズス会に結びつけて表されているようです。
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さてこの間でほぼ一年近くたってしまったブログですが、皆さんお元気でしょうか。2017年6月24日の近代フリーメイスンリー結成300周年の今日なわけですが、こんなブログの加筆で良いでしょうか。日本におけるフリーメイスンリーのシンボリズム史といったテーマなわけですが、まあキリスト教伝道前とキリスト教伝道後、そしてフリーメイスンリー到来の明治維新後という形で3つに分けそうですが、元号も変わりそうな平成29年の完成を目指していこうかと思います。

さて戦国の三英傑とイエズス会の伝道といった話になるわけですが、現在の岐阜、愛知、静岡を拠点とした3人の天下統一を果たした日本史での超有名人ですが、どうも名前や生没年のシンボリズムから見る限り、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の順に天下を治めたのは全てイエズス会の差配の限りであった模様です。まあこういう事を言うと、キリスト教や当時のヨーロッパ、イエズス会の伝道についてある程度知っている人にとっては、まあ当たり前といえば当たり前の話であり、日本史の常識から言えば非常識であり、何を言っているのかという話になるわけですが、シンボリズムの観点から言うと、近代フリーメイスンリー結成の秘密ともいえる重要な出来事となるのだと思われます。

まただいぶ間が空いてしまいましたが、内容的にはイエズス会などの相当の文書を読まないと書けない内容になってしまっていて、時間がかかるのもしようがないのですが、そこまで一気に読むことはできないので、現在途中まで読んでいるところで、私のこのブログの内容と非常にリンクする内容の本という事で、以下のキリスト教、イエズス会の目線から見た安土桃山時代の日本のキリスト教史を記録から淡々と概説する内容の聖母文庫の高木一雄氏の「関西のキリシタン殉教地をゆく」を紹介します。

カトリックの本という事で、ほぼ正式にイエズス会の文書に準拠した内容になっているかと思います。これによると、織田信長の子供たちは皆キリスト教会に非常に心を寄せており、信長の死の19日前の自らを神とする布告のために本能寺の変で亡くなったとのことです。また秀吉は自ら教会に赴きキリスト教の洗礼を受けようとしたこともあり、また秀吉が禁教令に傾いた経緯も具体的に描かれており、朝鮮征伐の動機もかなりキリスト教が影響していたこともわかり、後の秀吉の老境での混乱の原因ともされる秀次もキリスト教にかなり同情的であったことなどが分かります。大谷吉継の洗礼なども書かれており、戦国武将のキリシタンの洗礼が分かりやすくなっています。また日本人にはなかなか分かりづらいイエズス会とその他の修道会、フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチノ会の関係が非常にわかりやすく書かれています。

イエズス会士は最大でも100人程度が日本にいたのみで、それでいかに日本にキリスト教が根付くかという試みと、最後まで武力による制圧を行わないという事を守り、1588年8月8日のスペイン無敵艦隊の敗北をきっかけとして、その後の流れをイギリス、オランダの新教国に引き継いでいくのが、まさにフリーメイスンリーへの転換であり、ユダヤの六芒星を作ったという、イエズス会のシンボリズムのエッセンスはそのままフリーメイスンリーへと受け継がれていったようです。そういう意味では日本では散々に異なる人物として描かれる、戦国の三英傑ですが、キリスト教、イエズス会からすれば本質的には同等で、まさに修道会を意味するオダのシンボリズムと、ヨシュアを隠すというヒデヨシのシンボリズム、そして最後に権力を掌握し、そのためにイエズス会の後のフランシスコ会と関りが深く、スペインとつながりを持った、名前はイエズス会のシンボリズムそのもののイエヤスと、それぞれ宗教的にはキリスト教徒とはなりえず、そしてその結果いずれもキリシタンに囲まれた中で落命することになったようです。家康に関しては、以前にも触れた没年が1616年6月1日と明確なシンボリズムが描かれるわけですが、その前兆ともいうべきヨーロッパのキリスト教の当時最新鋭の技術の粋である時計の贈与が1606年から何度か行われたようで、現在も久能山東照宮に残るゼンマイ時計なども、まさに砂時計や大鎌のシンボリズムと同じく、死の時を刻むシンボリズムそのものであるようです。

はてさて、これで何回目の加筆になるのかわかりませんが、長編小説のようになってきました。文豪谷崎潤一郎由来の土地に住んでその影響かもしれませんが、なかなかヨゼフ病院時代とは内容も書き方も変化が著しく、ブログとしてまとまりを維持するのが難しそうです。2017年平成29年10月8日の加筆という事で、この章を書き始めてから1年以上経ち、フリーメイスンリー300周年のUGLEのイベントである10月31日のロイヤルアルバートホールでの記念式典に間に合うように書くのが望ましいのでしょう。

このブログでのこの章の内容は、日本の歴史におけるフリーメイスンリーのシンボリズムを認める、主に歴代天皇や権力者の生没年月日や元号や名前のシンボリズムを取り上げて、考察するわけですが、同時に平成の天皇退位、元号変化の予定もありますので、それに合わせてのフリーメイスンリー的考察という事になるわけです。
それで、まあ仏教伝来が一つの日本の天皇家などでのフリーメイスンリーシンボリズムの表出の一つの要素であったわけですが、その後のより大きなフリーメイスンリーシンボリズムの現出のきっかけが、1549年8月15日のザビエルの来日でのキリスト教伝来であったわけです。まあもちろんその後は明治維新で、太平洋戦争の終戦となるわけですが、この章は3章に分けた真ん中のキリスト教伝来から明治維新までという事で、戦国三傑とキリスト教と、その後のキリスト教禁教時代の徳川幕藩体制と京都での天皇家に着目していくことになります。
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