2013-11-01 01:11 | カテゴリ:スコットランド
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
スコットランドは第4回フリーメイスンリー歴史学会のために行ったわけでして、決してその前の観光は遊びではなく、全てスコットランドについて基本的なところを押さえていないと歴史も何も分からないという予習を兼ねてまわっていたわけで、数多くの博物館や美術館、有名なカフェやロッジなど限られた時間の中でいくつも見逃したものがあるわけですが、それもこれもきちんと学会のイベントに参加していたからなわけで、最後のランチのみをロンドンへの鉄道移動での時間のために早く引き揚げたのがスコットランドのかなり高齢のブラザーに残念がられたのが現在では若干悔やまれるところではありますが、それ以外は基本的に全てプレコンサートからディナーまで参加しましたので、一応参加するという意味での目的は達したと考えているところです。

というわけでプレコンサートから始まるInternational Conference on the History of the Freemasonryであったわけですが、これに関してはコンサートの様子は動画で撮ったものを以前に出していますので詳細が良く分かるかと思います。

今回ここに出すのはその際に撮ったスコットランドグランドロッジのメイン会場の写真です。まあ動画でも十分に雰囲気は分かるかと思うのですが、一応写真も撮りましたので出していきます。しかし2013年の11月というのがフリーメイスンリーにしてもキリスト教としてもかなりの重大なシンボリズムの月という事で、どうも予約投稿でも次々に話題が続くようなネタが溢れているような状況となり、シンボリズムの重要さが実感されています。ちょっと項目で書くほどではないですが伊勢丹三越のタータンチェックの紙袋の模様が新しくリニューアルしたなどもスコットランド関連の話であったのだと思われます。
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大分緊張して手ぶれしていますが、アイフォンのタッチ式のシャッターだと如実に緊張が手ぶれになってしまうのですね。このすかしガラスは良くできています。
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スコットランドグランドロッジの紋章です。二人の立ち方がフォートナム・アンド・メイソンなどと共通なのかもしれません。緑色がスコットランドの色でもあるのですね。紫もありました。恐らく二人とも直角定規をもっていると思われますが、様式が異なるのは意味がありそうです。
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紋章がたくさんあるのですが、恐らくパストグランドマスター達の紋章だと思っていたのですが詳しくは分かりません。恐らく聞けば教えてくれたのでしょうが、誰に聞いたらいいのかなども分かりませんし、そんな雰囲気でもありませんでしたのでとにかく写真をとっておきました。
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プレコンサートは一般にも開放されていたので夫婦連れも多かったです。大体こんな感じです。
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メイン会場はこんな感じです。壁面の輪っかが垂れさがっている意味はちょっと分かりませんが何か意味があるのだと思われます。基本的に紋章がたくさんある感じでしょうか。非常にシンプルな印象だと思われます。あまりフリーメイスンリーを強調した感じではなさそうです。正面の二本の柱と対応した四隅の柱がそういう雰囲気を少し出している感じでしょうか。まあスコットランド≒フリーメイスンリーの土地としてはあえてそういうシンボルを前面に出す必要はないという感じなのだと思われます。照明も印象的だと思いました。
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それでコンサートが終わったところで地下に移動して最初のディナーです。相席した世界各地のブラザー達と慣れない英語で必死に喋ったのですが、なんとも大変でした。オバマ大統領がフリーメイスンじゃないのはアメリカ的には問題なのではないかというような事をアメリカのブラザーに話したりしましたがそういうのが色々影響があるのかないのかは分かりません。まあとにかく料理を味わう余裕なんぞ無く、酔っ払わないようにいろんな訛りの英語に神経を集中させてお互いに恐らく初めての体験の状況の中で、世界各地にフリーメイスンリーは存在し、その中でやはりスコットランドはまさに発祥の地であり歴史学会が開かれるにふさわしい土地であるという事を確かめながら、各国の様々な違いと共通点に耳を傾けていました。

終わるとなんとかというところで明日からこれはいったいどうなるのかというところでジョージホテルへの帰途に着きます。
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帰りはジョージストリートではなく一本中に入ったパブが並ぶローズストリートを通って帰ります。緯度が高いので遅くまで夕方のような太陽が続いていて明るいです。ああバラはシンボルなんだなと確認します。
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まだ早かったのか、平日はあまり人がいないのか、フリーメイスンリーの学会のせいでいないのか全く良く分かりませんが、いわゆる飲み屋街という雰囲気ではないかと思います。整然とした飲み屋街という感じでいわゆるロッジも兼ねたパブが並んでいるのでしょうね。
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ヒースロー空港にもありましたが、この名前の日本料理店が多く見られました。食べはしませんでした。やっぱり石ともかけてるんでしょうね。
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これも単純に店の宣伝なんでしょうが、恐らくブラザーチャーチルの名前が出してあったりしてロッジなんでしょうね。
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こっちが店でしょうかね。
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なんか新市街の通りの成り立ちや王太子が恐らく酔っ払って何か酷い目にあったとかそういう通りにまつわる逸話が書かれているのかと思います。
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こういう飲み屋街でも計画して整然と建築するのが都市計画として組み込まれているのですね。まさに飲み屋から生まれたフリーメイスンリーの都市であります。街の東西の隅にフリーメイスンリーの名前を冠した、ブラザーアレクサンダー・グラハム・ベルのパブとブラザーサーアーサー・コナン・ドイルのパブがあったりします。しかしどこもかしこもフリーメイスンリーと言った感じでしょうか。

その2、その3も結局別の機会のグランドロッジの内装の写真ばかりです。学会の様子も一部ありますが、内容についてはアブストラクトの翻訳でそろそろこの11月にまとめて解説していく予定です。
2013-11-02 02:11 | カテゴリ:スコットランド
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さてまあこのブログの読者の方がスコットランドグランドロッジの内装について興味があるかどうかは分かりませんが、まあ日本グランドロッジと一緒で建築というのはその組織や集団を象徴するものでもありますので、一般に秘密結社と認識されているようなフリーメイスンリーの総本部ともいえるグランドロッジの建築を公開する事自体は広報としては意味があるのかもしれません。私にとっては単なる学会に参加して撮って来た写真が珍しいので公開しているという感覚ですが、フランスのグラントリアンのように訪問しても見られないこともありますので、それなりに珍しいものという事になるのだと思います。
まあそうは言っても学会もフリーメイスンの会合も何でもそうですが、どの場所で行ったという事よりもその場で誰が何を話し何について議論が行われたが最も重要なわけで、何はともあれその場に参加するというのがどんな会合でも大事なわけでして、参加はしても何を言っているかチンプンカンプンというのでは当然あまり意味は無いわけで、私の場合はほとんどその状態であったので、せっかく行ったのだからプログラムのアブストラクトを翻訳して勉強しなおそうというのがこのブログにおけるフリーメイスンリー歴史学会の内容を取り上げる目的というところかと思います。
現在並行してアンダーソン憲章の翻訳やその他の翻訳を掲げていますが、これについても内容を確認するとなんとも相当その周辺の知識が無いと理解しがたいものであり、またそれには様々な常識ともいえる強く意識しない記憶や認識というものも必要となるものであり、そういうものとしてはやはり場所の紹介というものも、また歴史学会の内容と言える雑多なフリーメイスンリーの細かい歴史というのも必要なものなのだと思われます。
イングランド連合グランドロッジの紋章一つとっても基本的に聖書を通読してユダヤ古代誌も通読していないと分からないレベルのいわゆる謎が込められているわけで、フリーメイスンリーとは何かを考える際に少なくとも最低限の常識と呼ばれるものがどこまで必要かについては謎と呼ばれるものをとにかく解いていくという他ないと思われ、グランドロッジの建築というものも一見しては意味が分からない謎が多く含まれているものでもあり、特にこのスコットランドグランドロッジでは恐らくパストグランドマスターのものと思われる胸像がいくつもあり、それらのブラザーについて一通り調べていくのは意義がある事になるのではないかと思われます。

というわけで、この回はプレコンサートの翌日の学会初日が始まった日の写真なわけですが、一度行ったので少し落ち着いて写真を撮っているのが分かるかと思います。実際それほど謎っぽいものはなくて、ただただ学会の英語が想像以上に聞き取りづらく、内容がチンプンカンプンで、最初は特に時差ボケもあって眠るのをこらえるのが相当大変であったというのがフリーメイスンリー歴史学会の正直な参加した感想で、色々途中刺激的な事はありましたが、とにかくスコットランド訛りというのが想像以上に存在しまた日本人が通常英語として考えているのがアメリカ英語だというのが強く強く認識されて、ほぼイギリス英語というものがそれ自体で暗号に近いのが実感なのだなと思ったところでもありました。

フリーメイスンリーでも用語というものが非常に大事で、それはしかもアメリカとイギリスとイギリスの中でもスコットランドとイングランドで異なり、またヨーロッパ大陸のフランスやドイツやオランダなどともまたそれぞれ異なり、それはそのまま言語の違いでもありまた歴史や関係性の違いでもあるところでもあります。日本語でもフリーメイスンリーとフリーメイソンリーとフリーメイソンとそれぞれ使い分けを行ったりしているわけですが、まあそういったものも含めて、それ以前に全く単語が聞き取れないというところでもあるわけですが、いずれにしても非常に難しかったという事です。

ボイスレコーダーも持っていたのですが、型式が古くてアイフォンのものを使えば良かったのですが、ふだん使い慣れないものを使ったせいで、録音したwaveデータを取り出す方法が無くてそのままとなっています。waveで取り出せたらアップする事があるかもしれません。当初は全部ビデオに撮って後で見直そうと思っていたんですが、最初の基調講演の途中で止められてしまったので後は一応ボイスレコーダーを使ったのですがそんな結果です。バイトの受付の女性にちょっとビデオについては笑われちゃいましたが、まあその子は学会の途中からいなくなっていました。

でまあまあばかりなわけですが、能書きはこれ位にして写真に行きます。
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この日はぶれていませんね。いかにも内側から撮ったという感じでしょうか。
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これが一番特徴的であったかもしれません。タータンチェックの敷物が階段にあるのですね。重厚な感じです。伊勢丹のチェック柄の更新もありましたが、そこにスコットランドの民族衣装の男性がいましたが、いきなりスカートはいた男の人を見ると日本人はそこには触れなくなりますね。
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これもやはりぶれていますが、最初に見るとやはりすぐにアイフォンはぶれてしまうんですね。飾り棚でやはり色々なロッジとの贈り物のやり取りのものや文書です。
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これはヘッダーにもしているガラスのドームですね。非常にきれいです。
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これは三階の会場だと思います。この部屋の内容が一番リラックスしたものでもあったようでしょうか。日本の新興宗教という興味深い演題も予定されていましたが結局演者が来られず中止となっていました。日本人というか東洋人は私だけであったので私向けであったのかもしれません。
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これはメイン会場の二階席から見下ろした写真です。とにかくほとんどがイギリス人かアメリカ人、後は英語の堪能なフランス人かオランダ、ドイツ人という事で盛んに英語で議論をしていました。まあとにかく私は参加している事にして記録をとっておこうという感じでしたかね。とりあえずこのブログに書いた位のスコットランドのフリーメイスンリーの歴史がなんとか感じられたというところが実際です。ロッジNo.2のセントメアリーロッジの集会に学会の全日程終了後に参加できるという特典もあったのですが、さすがに飛行機に乗り遅れるわけにはいかないので辞めました。セントメアリーロッジはセントクレア家に対するスコットランド王からのフリーメイスンリーのグランドマスターの認証状が残されているという格式高いロッジでありました。ヘッダーにも使っている六芒星にGを認めて周囲に魔法陣のようなアルファベットか記号のしるされたシンボルを入口の上に認めるロッジです。新市街のローズストリートと反対側にあるそうです。
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これはまた違う2階の部屋だと思います。あまり写真を撮っている人がいなかったので、私もあまり写真を撮っていません。グランドマスターの肖像なんでしょうか。この部屋はちょっと格調高い感じで、メイン会場の後の講演で最初にイングランドのフリーメイスンリーの戦場でのフリーメイスンリーという講演で、大学の学生や研究生、助教か講師位なこれからフリーメイスンになるかなったばかりか位の人の講演があり、どうも鼻息荒くイギリスの愛国心に満ちあふれた講演で、分かりやすかったと思ったらアブストラクトに書かれていないような日本軍のクワイ河渡河橋のあの有名な戦場に架ける橋の舞台での捕虜たちも過酷な環境の中でもフリーメイスンリーの集会を開いていたとか、なんかいかにもたった一人の日本人の私に向けた挑発のような内容があって、私は時差もあり英語の聞き取りづらさもありなんとも意識が遠のいた状況であったのですが精神的にガクンガクンな状況でありました。まあ色々あるのがフリーメイスンリーです。そういう意味でも貴重な体験であり、また国や集団、民族としても重要となるのがまたフリーメイスンリーの面白いところです。まあ相手のフリーメイスンとしてや研究者としての状況が何となく分かってしまうのも悲しい性みたいなところでしょうか。
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これはトイレとその洗面所ですね。イングランドグランドロッジもそうでしたが、イギリス、スコットランドではやはりフリーメイスンリーや公共の場でのトイレはデザインや使いやすさに感心させられました。日本はウォシュレットは便利ですが、それ以外のトイレのデザインや使いやすさはやはりイギリスの方がピカイチですね。100年前の建築という事ですが、恐らく水回りは改築しているのだと思われますが、こういうところはやはりローマ帝国から続く水洗方式の先進国の圧倒的な技術力なんだと思います。ちょっとデザインが違うだけなんですが使いやすいんですよね。後はやはり大理石の石の建築自体のふんだんな利用がまた利便性を向上しているんだと思います。まさに石工の神殿ですからね。
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階段がタータン以外にもウールの敷物がされています。非常に重厚な感じですね。靴でこれを踏んでいく感覚は特別ですね。
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これはまたメイン会場ですね。手ブレが減っているのでしょうかね。
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メイン会場での講演はこんな感じです。満員になるのは初日の基調講演位であったでしょうか。誰も眠る人はいませんでしたが、本当に研究者で難しい質問や同意する意見をいう人は数人でほとんどの人は一生懸命聞いているが詳しいことはちょっと分からないという感じであったと思います。私は英語も含めてスライドがあるような講演以外は用語もヒアリングもチンプンカンプンでした。さらにその上にニュアンスもあるとなれば全く分かりませんね。アメリカ英語のはそれに比べると分かりやすいのですが、そうなると非常に今度は基本的な内容であったりと、どうも伝える側の語り方にもよるようでした。
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これは3階の会場にあったロッジで主にセクレタリーが使うのだと思いますが、公式文書の証で使用するいわゆるシール封印ですね。その他のロッジで使用した装飾などもあるようです。色々ロッジも新しくできたり古いロッジが合併したり移動したり色々あるのでそういうのでいらなくなったのがグランドロッジに集められたりするのでしょうね。イングランドなどでは良くロッジファニチャーとしてオークションや中古で販売されていたりします。古いものを売って新しく新調したり色々なことがあるのだと思います。学校の卒業証書の校長印とかそんな感じでしょうか。そういうロッジの証明書の発行が非常に重要であったという意味で展示されているのだと思われます。古いものはeBayで売っていたりします。まあ実際の活動はそういうのからは想像しがたいのだと思いますが、いわゆる記録としては残るものという事なのでしょうね。
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それで初日も終わってブラザージョージ4世の後ろ姿です。非常に明るいですが7時位だと思います。まあ疲れたというよりもジトーッとした時差ボケもありの感じでしょうかね。とにかく内容は直接頭に入ってきていはいませんからそういう疲労というよりは明日もこれが続くのかというのと、記録がうまくとれなかったのとで、明日からどうやって記録や記憶を残そうかというところを考えていたと思います。
まあせめて学会前にこのブログの内容くらいと、アブストラクトの全訳位が頭に入っていればもう少し聞く内容も頭に入って色々考えられたと思うんですが、とにかくこのブログで勉強していくこととする他ないのだと思われます。
2013-11-03 03:11 | カテゴリ:スコットランド
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
まあ予定投稿でいくとスコティッシュライト33°の記事とかぶってしまうんですがしようがありません。
時間的には前後が逆になってしまいますがそれもこれもシンボリズムの経緯でしょうが無いでしょうかね。
その位11と3のシンボリズムが大事だという事で良いのではないでしょうか。
フリーメイスンリー歴史学会的にはプレコンサートを除いて2日目になるわけですが、なかなか内容は濃いところですね。写真を撮れるタイミングがたくさんあったのでほぼ目につくところ全てを写真を撮っています。ビデオカメラも置いてきたので写真に集中できたというところもあるかと思います。
まあしかし学会の内容に関しては相当勉強してからいかないと分かりませんね。このブログがそれこそ勉強の機会なんだと思います。
とりあえず写真をあげていきます。
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これはある発表の様子ですね。スライドはほとんどないのですが、あった際には写真を撮ったのですが、ほとんど写っていませんね。なかなか学会というのも難しいです。ビデオ撮影が可能であれば良かったのですが、まあフリーメイスンリーでビデオ撮影は基本的に厳しいですね。
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これはお土産用のロスリン聖堂とエディンバラ城の模式図ですね。良く見ると現地でしか買えないのかと思ったらそうではなくメール注文のみと書いてあります。グランドロッジのホームページから買えるようです。当時はロスリン礼拝堂についてダ・ヴィンチ・コードの観光地だとしか思っていなかったのでなんとも思いませんでしたが、今はちょっと面白いと思いますが、まあちょっと高いですね。グランドロッジのショップは以前私も購入したことがあるのですが、革靴が売っていてこれをこのときも履いたりしたのですが、どうもキルト(スコットランドのタータンチェックのスカートをはいた正装)に合わせた行進用の伝統的な革靴という事で、ひもも長くて足首に巻きつける結び方をして、靴裏にカチカチならせる金属が入っていて、石の上を歩くとカチカチ音が鳴って大変でした。知っている人が見るとかなりおかしな格好であったかもしれません。新しくスコットランドグランドロッジの紋章がすかしで入ったペーパーウェイトのピラミッドが売っていますが値段は聞いてくれと書いてあります。そういえばガラディナーで隣になったイタリアのブラザーはグランドロッジで勿忘草のシンボルが入ったカフボタンを買ったと見せていました。その後イタリアでもナチス党の話で色々ありましたね。
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これは5つの建築オーダーの柱頭を描いたイラストですね。特に教訓は書かれていませんが、思索的フリーメイスンリーと実務的フリーメイスンリーを繋ぐ直接的なシンボルという事で強調しているのかもしれません。
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これは動画でもあげたスコットランドのロッジで使われていた憲章を保存したという金庫の箱ですね。鍵が二つあってメンバーの二人で持ち合って同時に鍵を差し込むと開くという話でした。1600年代のロッジのものという事で価値は計り知れないという評価でしたが、実際どんなもんでしょうね。買う人がいるのかどうかというところかと思われます。装飾もそれほどないですしね。まあなんとも不思議な話ではありました。ロッジの聖櫃という事で、ユダヤ教のアークに通じるシンボルともなるのだと思われます。

動画もアイフォンで撮ったので音がやや小さいので大きくして聞かないと分からないと思いますが、録音を聞いても私は良く分かりません。確か上記のような解説をしていたと思います。
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これはトイレの前の唯一空いていた胸像置き用の台です。完全にトイレの前なので希望する人もいないでしょうが、実際には新たな胸像を置く余地はないのかもしれません。過去のパストグランドマスターに置き換わるほど何か認められる業績のある方という事になるのでしょうか。まあ何か教訓なのかもしれませんが、そういう事を感じさせないほどの名誉の紋章で溢れかえっていました。
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紋章なんですが、名前が読める方については触れていきます。一番右がブラザーデヴィッド・リデル・グレインガーです。母親が貴族の娘であったそうで、スコットランドの政治家という事で、エルサレムの聖ヨハネ騎士団の下部組織となる組織を作り、その後騎士団の騎士となったそうです。骨董協会の会員でもあったそうでいわゆるフリーメイスンですね。スコットランドのバーウィクシャー州の判事と副統監を務めたそうです。K.ST.J.がヨハネ騎士団を意味していて、D.L.が副統監、副知事を意味するものと思われます。背後に聖ヨハネ騎士団のマルタ十字が認められます。上部の標語がNIL DESPERANDUMで何事も絶望すべきではないという意味だそうです。ホラーティウスの『詩集』(1.7.27)に見られる表現だそうです。
ウィキペディアのList of Grand Masters of the Grand Lodge of Scotlandとも対応しており、パストグランドマスターの紋章が掲げられているのですね。日本でもグランドロッジのグランドマスターの部屋に写真が掲げられているのと対応するものと思われます。入り口に名前の刻印してあるかと思います。しかしあちらはほとんど全てのパストグランドマスターの項目がウィキペディアがあるようで、そういうのを整理している人がきちんといるようです。そういうのもやはり進んでいるんですね。
基本的に年代順のようです。その左にあるのはその前のパストグランドマスターのブラザーサーロナルド・アーキボルト・オーイング卿です。19世紀から始まった男爵家だそうです。父親と息子もグランドマスターに代々なっているそうです。やっぱり国ごとにフリーメイスンリーの様子は全然違いますね。上部の標語はAUDACITERで大胆にという意味だそうです。
一番左がブラザーブルース卿だそうです。スコットランドの生命保険組合の会長を務めたりしていたそうで、恐らく趣味だと思われますがスコットランドの王立自動車クラブの会長を務めていて、レーシングチームを持っていたそうです。ファイフ州の副統監や統監を務め、その後シスル騎士団にも選ばれているそうです。89歳で御健在のようです。ウィキペディアによるとフリーマンという表現になっていますが、欧米ではフリーマンという都市で行進をして良いという栄誉の表彰があるようです。
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これはピンボケなので名前の判別できる一番左の方だけ見ます。
ブラザーサーマルコム・バークレー・ハーベイで政治家で南オーストラリアの総督を1939年から1944年まで務めた方だそうです。南オーストラリアのグランドロッジののグランドマスターも務めていたそうです。やはりマルタ十字が後ろに見えますが、聖ヨハネ騎士団ではなく聖マイケル・聖ジョージ勲章を授与されているそうです。
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こちらの読める左から二番目のものはスコットランドグランドロッジの紋章で、グランドロッジの何らかの記念のようです。
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この辺は全部ピンボケですが、スタッフの方の視線がちょっと怪しいですね。恐らくグランドロッジではビデオを撮影して後で主要な人には配るのでしょうね。まあそういうのもフリーメイスンリーなんでしょうか。実地で参加できたんですがやっぱり語学が壁ですよね。それは普通のロッジにおいてもそうです。ニュアンスや語彙や言い回し、暗喩といったものがフリーメイスンリーでは最も必要とされる言葉の能力です。Grammar文法, Rhetoric修辞学, Logic論理学は基本の7学科でも示されるフリーメイスンに必要とされる能力です。そういう基準で行くとちょっと厳しいでしょうね。
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ブラザーアーキボルト・キャンベル卿です。軍人でありトーリー党の政治家であったそうです。アマチュア科学者であり金星周囲の大気を発見したり、ブラザーライト兄弟の飛行機の発明前にプロペラの研究を行っていたそうです。王立協会の会員にも選ばれているそうです。
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ブラザーフォックス・モール・ラムゼイ卿です。ホウィッグ党の政治家です。教会に関心が高く自由スコットランド教会を支援していたそうです。
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ブラザーサーアーキボルト・ドナルド・オーウィング卿で、先ほども出た男爵のオーウィング家の最も最近の第6代男爵のグランドマスターだそうです。期間をおいて二度グランドマスターになったのはこの方だけだそうで、その後スコットランド王立騎士団の団長になっているそうです。二度の結婚や子供の事など書いてあります。
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ブラザージェームズ・ホツィアー卿です。ほぼ英国外務省で働かれていた方のようで、外務大臣を務めているようです。
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ブラザーアレクサンダー・フレイザー卿です。特に生前の事についてはウィキペディアでは書かれていませんが、スコットランド貴族院議員という事だそうです。伯爵になるのだと思われます。
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ブラザーサーチャールズ・ダリンプル卿です。基本的に男爵以上の公爵、侯爵、伯爵は卿を付けて、一代貴族位である準男爵やナイト爵でサーを付けるという事になるようです。ウィキペディアのサーの項目を参照してください。基本的に爵位というのは長男にあたる一人が相続するので、それ以外の人は貴族の子供でも何らかの爵位を新しく貰うかしないと貴族にならないようです。この方は両親とも貴族の系統の方で、名字は母親の系統の貴族の名前を受け継いだようです。ダリンプル男爵位の一代目の方となるようです。
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ブラザージョージ・バイル・ハミルトン・アーデン卿です。スコットランド貴族院議員に生きている間に選ばれたようです。スコットランド貴族院議員と訳していますが、representative peer、Peerage of Scotlandとあり、いわゆる貴族院制の代議員としての貴族のようです。1999年から2000年にかけて貴族院制自体廃止されていっているようです。
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上で紋章をあげたブラザーアンドリュー・ブルース卿だそうです。爵位を二つ持っているんですね。やはりスコットランド貴族院議員だそうです。
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ブラザーウォルター・アースカイン卿です。やはりスコットランド貴族院議員だそうです。アンドで繋がるのは二つの爵位を持っているという意味だそうです。
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ブラザーサーミハエル・ショウ・スチュワート卿です。レンフルーシャーという庶民院の選挙区を代表する役職を務めていたそうです。詳しくは分かりませんが、イギリスの民主制の様々な仕組みの中で重要な役職であったのだと思われます。
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ブラザージョン・ホワイト・メルビルです。スコットランドの小説家、詩人という事だそうです。スポーツマンであったようで落馬して亡くなったそうです。
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ブラザーロバート・キング・スチュワートの紋章です。ウィキペディアの項目はないのですが、検索では同名のスコットランドのロッジが出てきて、設立の経緯の際のグランドマスターの名前として出てきます。
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ブラザーサーロバート・ギルモア・ゴードン卿の紋章です。特に詳しい解説はありません。
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ブラザーエドワード・ブルース卿の紋章です。スコットランド国立銀行の支配人であったようです。シスル騎士団の団員であり、聖ミカエル・聖ジョージ騎士団の団員であったそうです。
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ブラザージョン・ダルリンプル卿の紋章です。軍人であり保守党の政治家であったそうです。シスル騎士団の団員だそうです。
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ブラザーロバート・ウォルリッジ・ゴードンの紋章です。子供が保守党の政治家でウィキペディアに項目がありました。海軍の船長であったようですが詳細は分かりません。標語も良く分かりません。
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ブラザーサージェームズ・ウィルソン・マッケイの紋章です。エディンバラの市長であったようです。in service fulfillmentはサービスの実行でしょうか。選挙公約のようです。
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ブラザーアーキボルト・ダグラス卿の紋章です。ロイヤル・ヴィクトリア勲章を受勲されているそうです。
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ブラザーアレキサンダー・アーキボルト・ハガート・スペイアーズの紋章です。ウィキペディアに項目がありませんが、検索で出てきたページによると外科医でホメオパシー協会の会長であったようです。
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ブラザーロバート・ハミルトン・ウドニー卿の紋章です。インド帝国騎士団の団員でスコットランド貴族院議員で軍人であったそうです。
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ブラザーアレクサンダー・フレイザー卿の紋章です。父親の胸像が上にありました。親子でグランドマスターになっているのですね。ロスリン礼拝堂のシンクレア家が有名ですが、その他にも今回見ていた中で二家族は親子二代と三代でグランドマスターの家系がありました。
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ブラザーアーキボルト・モントゴメリー卿の紋章です。関連項目としてエリントン城の項目がありました。
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ブラザージョージ6世の紋章です。映画「英国王のスピーチ」のモデルとなった方です。スコットランドグランドロッジのグランドマスターはイギリス王室の関係者はいないので非常に珍しいケースであったのですね。イングランド連合グランドロッジのグランドマスターを見ると英王室の王族の方が20年以上務めるのが普通のようですので、色々と状況が異なるのですね。映画にもなっていたりかなり色々複雑ですね。
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プレコンサートの看板です。ブラザーデニス・タウンヒルについてはウィキペディアの項目がありました。訃報の記事もありました。セントポール大聖堂などのオルガン奏者であったようです。
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これはスコットランドグランドロッジの紋章を何度も撮っているのです。イングランド連合グランドロッジと同じく色々意味が込められているのだと思われます。緑色の意味と二種類の直角定規の意味でしょうかね。
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96の数字も反転できるというところなのでしょうね。3×2×2×2×2×2という数字になります。
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ジョージストリートの風景です。快晴です。これもやっぱり午後8時近くでしょうかね。
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これはフリーメイスンズホールと隣の建物との境のところに何か看板があったのですね。確かフリーメイスンズホールについての言葉であったと思うのですが、完全に手ぶれで読めません。
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北部灯台協会という訳になるのだと思いますが、スコットランドの灯台建設を主導した組合で、カールトン墓地に葬られたブラザーロバート・スティーブンソンの一家や明治時代の日本でブラザーヴェルニーとともに灯台建設を競ったブラザーリチャード・ブラントンが所属した団体です。ブラザーリチャード・ブラントンの当時の似顔絵の図でコンパスを手にしているものが観音崎灯台で公開されていました。
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三浦半島では剱埼灯台を建築しています。このブログでも取り上げています(横須賀の灯台)。
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これは良く分かりませんが近くの交差点のガラスにあったいたずら書きか演出で書かれたものか分かりませんが、ritualとあったので撮りました。なんか謎の単語ですね。
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でその辺りにあったのがこの番地表記でしょうか。おやおやっと。
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さらにその場所を見るとFRENCH CONNECTION。良くできています。
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その場所から見たエディンバラ城です。この後ガラディナーだったんですが色々トラブルがありまして大変でした。お土産を買ってホテルに帰ったら、その後の一泊を予約しそこなっていたんですね。違うホテルを手配してもらってそこに移動してそれから着替えて再びプリンスィズストリートに戻ってきてと大変でした。
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これは携帯電話会社らしいですね。まあそんな感じでかなり充実した感じでしたがその後ドキドキでした。そういう思い込みがあるのもまたフリーメイスンリーでしょうか。まあ個人的な失敗ですね。

しかし他所のグランドロッジのグランドマスターの紹介ばかりしていてもしようが無いので、以前のモーツァルトコンサートの際の写真や来年のコンサートの際にまた写真を撮ってきて、スコティッシュライトのメンバーの活動や日本のパストグランドマスターについてもそれなりに触れないといけませんね。
2013-11-03 03:33 | カテゴリ:スコットランド
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さてまあ予定投稿ばかりなわけですが、本日は横須賀は観音崎フェスタの日なのですね。
去年はイギリス訪問のブログを書いていて参加しなかったわけですが、今年は参加しないといけないとこの記事も予定投稿となるわけです。
観音崎フェスタはガリバーファンタジーという事でブラザージョナサン・スウィフトの作品であるガリバー旅行記を一つのテーマとして、米軍基地からもボランティアが参加してイベントを盛り上げているそうです。ガリバー旅行記において日本に上陸した場所がズモサキと言われる土地と描かれており、これが観音崎であるというのですがまあちょっと無理があるわけですが、実際にはガリバー旅行記の元ネタとしてこのブログでも取り上げている(ウィリアム・アダムスという存在安針塚 つづき)、安針塚で名前の残る三浦按針ウィリアム・アダムスの恐らく本国とのやり取りにおける詳細な記録があると思われ、イエズス会修道士のルイス・フロイスの「日本史」も史料として一級なわけですが、新教国のイギリスも同時代に同様の史料をやはりもっていたという事になるようであり、恐らくそれらの中で江戸周辺の土地として三浦半島の地理や日本全体の土地や文化、政治の状況などについて詳細な情報を送っていた可能性が高く、その中で観音信仰や観音崎について触れている事があるのかもしれません。
もちろん観音崎と言えばブラザーヴェルニーによる日本最初の西洋式灯台の建設があり、それらについてもこのブログで触れていますが(観音埼灯台、東叶神社建国記念日 走水神社の謎)、関東大震災にまつわる逸話もあり恐らくブラザーヴェルニーの建設した灯台が残っていれば確実に国宝となるようなフリーメイスンリー的にも非常に重要な建築であったわけですが、その第三代目の灯台がある場所という事で、日本におけるフリーメイスンリーの歴史の中で重要な土地という事になるのだと思われます。
もちろん戦前から戦中にかけては観音崎砲台の場所として東京湾防衛の要衝であり、現在もそれらの砲台跡の建築が横須賀美術館の裏庭から見学する事も出来る土地です。

さてそんな明治天皇の誕生日とされる文化の日11月3日のフリーメイスンリーのブログなわけですが、スコットランドの国際フリーメイスンリー歴史学会の途中という事なのですが、3度目のアーサーズシートの登坂を行った記録を記事にしてしまう事とします。もう動画にも出しているので大体分かってしまうと思うのですが、要は頂上で石を並べてScottish Rite 33°とスコティッシュライトをスコットランドの地元の人や観光客にアピールするというかなりヤバめなフリーメイスンリー活動を行っていて、その仕上げに行ったわけですね。そんな事をしてそれがフリーメイスンリー活動と言えるのかというところはありますが、学会で集まっていたわけで、スコティッシュライトがスコットランドの名前を広めてそれをきっかけとして私も初めてスコットランドを訪問したわけで、スコットランドエディンバラを象徴する場所に石で並べたそうした文字を残すことはすぐに消すこともできるものでもあり良い旅の象徴なのではないかと思い、フリーメイスンリーを象徴する3回目の登頂を行って仕上げるというのもまたフリーメイスンらしくて良いのではないかと思い記事としました。

虹のお返しと言ったところでしょうか。
まあそんなわけで再び朝早くからのテンションマックスで丘を登ります。
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北橋からのエディンバラ城ですね。良い天気ですねえ。こんなところに住みたいですねえ。観音崎フェスタのお天気はどうでしょうか。
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カールトンヒルからの朝日ですね。オベリスクが冴えています。横須賀でも汐入にオベリスクがあるように言いましたがやはり頂点が尖っていないんですね。やっぱり本物とはシンボルが違うんですね。
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これは前日のずらされちゃったScottish Rite 33°の並びを見ているんですね。本場でも一日でずらされちゃうんですから結局今頃は影も形もないでしょうね。Scが消されちゃってるんでしたかね。前回の完成図はこちらで確認してください。
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石を増やしてScを直して、Rをカリグラフィー風に足を延ばしたのですね。ちょっとロータリーっぽい感じになったでしょうか。スコティッシュライトを象徴するものとしてYodhיを付け加えました。スコティッシュライト14階級を象徴するユダヤ教の唯一神を意味するYHWHיְהֹוָהの最初の文字で、ヘブライ語では右から左に綴るのですね。良くYodと表現されますが、Yodは占星術でY字型という星同士の配置を意味する特殊な意味もあるようです。ヘブライ語でYadで手を意味してトーラーを読むときの指し示す指し棒を意味する言葉とも近いようです。恐らくロストシンボルで象徴的に右手が指し示す形があるのはこのYodの暗喩なのでしょうね。
(2013/11/6追記:ウィキペディアによると聖書においてヘブライ語のYHWHיְהֹוָהの表記は6859回出てくるそうです。素因数分解すると19×19×19だそうです。これは意図されていると見るかどうかは人によるんでしょうが、まあそういう数のシンボリズムは聖書由来であるようです。)
Scottish Rite33°の置き石についてはこれで終わりです。
動画も参照してください。

ちょうどカモメがいたりしますが、ずらした石で書かれた単語がちょっと分かりませんね。人の名前でしょうか。
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まあテンションを上げて再び学会に臨みます。これはアーサーズシートの麓にある観光案内所ですね。
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これがホリールード宮殿の門ですね。次回訪問時は行きたいですね。
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これはロイヤルマイルズのお土産屋さんでしょうか。Aの文字のカリグラフィーがフリーメイスンリーのシンボルと似ていて撮ったのですね。この形は結構どこでも認められるようです。まあここだとこれは恐らく店主はフリーメイスンなのでしょうね。
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これもパブなんですが、No.1を強調しています。No.1のセントメアリーロッジのメンバーなんだと思われます。
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これはRとKの足髭が伸びていました。まあここだとこれはロータリーの象徴ではなく恐らくフリーメイスンなんだと思われます。
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何度も出している北橋からの光景です。うーんまあすごい晴れです。フリーメイスンリーの聖地なのですね。
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再びのゴシックロケットのブラザースコット記念塔です。この後は再びフリーメイスンリー歴史学会です。
2013-11-24 10:53 | カテゴリ:スコットランド
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
Far East Lodge No.1のホームページにあるROBERT BURNS AND ADAM SMITH BY BRO. KOICHI TERASAWA Junior Warden, Square & Compass Lodge No. 3の邦訳です。それほど難しい用語や表現は無いので簡単に読めると思いますが、やはり日本語だと分かりやすいかと思います。

ロバート・バーンズとアダム・スミス ブラザー寺澤廣一 副監督官 スクエアコンパスロッジNo.3

ロバート・バーンズは1759年生まれで、エアシャーの吟遊詩人とか、スコットランドの最愛の息子、また時にはスコットランドの国民的吟遊詩人と呼ばれたりしている人物ですが、また同時に彼が1796年の6月21日に37歳で死ぬまで彼の人生の15年間に渡ってフリーメイスンとして活動していたことも良く知られています。

一方でアダム・スミスは1723年の6月5日にエディンバラの15㎞北にあるカークカルディーで生まれた(受洗した)とされ、67歳で1790年6月17日にエディンバラで亡くなりました。彼もまたスコットランドの有名な道徳哲学者であり、また政治経済学者の先駆けであり、1759年の「道徳情操論」と1776年のレッセ・フェーレ(自由放任主義)に基づく見えざる神の手の言葉の「国富論」の二冊の有名な著作があります。
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彼ら偉大な優れた二人のスコットランド人は同じ18世紀の後半の時代を生きました。バーンズが1786年に27歳の時に最初の彼の詩集である「おもにスコットランド方言による詩集(キルマーノック版)」を出版した時には、スミスは二冊の著作ですでに名声を得ており、スコットランドの税関局長のポストを約束されており、「エディンバラ王立協会」の創立メンバーの一人であり、エディンバラに母親とともに住んでいました。バーンズとスミスには何かつながりがあったのでしょうか。確かにありました。アダム・スミスはバーンズと直接会う機会が無かったのですが、彼が詩人として成功するのに重要であり必須な存在でした。

ロバート・バーンズは1759年の1月25日にスコットランド、グラスゴーの南西50㎞にある、エアシャー地方のエアの南にあるアロウェイの借地農家のウィリアム・バーンズの長男として生まれました。彼には3人の妹たちと3人の弟たちがいて、10代の間は彼の家族とともに農家としてすごしました。彼は1781年7月4日にターボルトンのセントデヴィッドロッジにブラザージョン・ランケンの紹介でフリーメイスンリーに入会し、そこで1781年10月1日に第二階級、第三階級となりました。ターボルトンのセントデヴィッドロッジは彼が入会した直後にターボルトン(キルウィニング)のセントジェームズNo.135ロッジに合併吸収し、彼はそこで1784年7月27日に彼がマスターメイスンとなって3年後に25歳で尊崇すべきマスターサー・ジョン・ホワイトフゥアドの元でロッジマスター代理に選出されました。彼はマスター代理として4年間1788年まで活動し、最高の指示でもって何度か顕彰されました。
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その時代には、ロッジマスターは単なる飾りであり、実際にはマスター代理がロッジの活動を取り仕切っていました。1784年のフリーメイスンリーの活動では彼は全てのロッジの会合に出席し、ロッジの活動に深く関わっていて、他のブラザーの第二階級や第三階級への昇級や通常のロッジの運営に関わる9回の会合に出席していました。

1785年の間にマスター代理として彼は彼の弟であるギルバート・バーンズを入会させて第二階級に昇級させ、1788年3月1日に彼は第三階級に昇級しています。彼はフリーメイスンリーに真に情熱を注いでいて、彼は真のフリーメイスンリーの友情はブラザー達の集まりの親密さを増し、ロッジルームから離れることは難しいと考え、数多くの会合が彼の指示の元に行われました。いくつかの記録によるとその他の時代のものよりもバーンズの時代のものが数多くの出席者が認められる会合が多かったとありました。彼は非常に人気があり非常に信頼されたエアシャー、ターボルトンのターボルトン(キルウィニング)セントジェームズロッジNo.135のマスター代理でした。

彼のフリーメイスンとしての最初のキルマーノック版の詩集「おもにスコットランド方言による詩集」が出版されたのは1786年の4月16日で彼がフリーメイスンリーに入会して5年後で彼がロッジのマスター代理であった時でした。620部が彼の最初のキルマーノック版では出版され、567部がエアシャーのフリーメイスン達に予約注文され、そのうち145部がロバート・アイケンという法律家、ガヴィン・ハミルトンという法律家が40部、ハミルトンの親戚のジョン・ケネディが20部、ハミルトンの友達のジョン・ローガンとデヴィッド・マクウィニーにそれぞれ20部ずつ、ロバート・ミュールが72部、ジョン・ウィルソンが70部、ターボルトン(キルウィニング)セントジェームズNo.135ロッジのマスターであるサージョン・フィットフールドが35部、その他のロッジのメンバーが75部、そしてギルバート・バーンズが70部注文し、彼の詩人としての才能の評価はフリーメイスンリーの友愛結社の繋がりを通してエディンバラを駆けめぐりました。バーンズは50ポンドをエディンバラへの出発前に印税として受け取りました。

バーンズの詩人としての人気はスコットランドでのフリーメイスンリーでの彼の昇進を助けました。1787年のエディンバラのセントアンドリューロッジNo.48の会合でスコットランドグランドロッジのグランドマスターが出席した際に、最も尊崇すべき兄弟フランシス・チャタリスグランドマスターによって乾杯されました。彼がエディンバラのロッジに迎えられたとき、彼の職業は詩人として記録されました。1787年初頭、彼はエディンバラのフリーメイスンリーの友愛組織によって祝宴を開かれました。バーンズの人生のエディンバラの時期にはバーンズの詩人としてのさらなる出版はエディンバラのフリーメイスン達による出資によるものが運命付けられており、それで彼の名声がスコットランド全体に広まり、次にはイングランドでさらに海外に広まることが確実なものとみなされました。

それでアダム・スミスとロバート・バーンズの関係はどんなものだったのでしょうか。彼についての通常の伝記では彼は既にスミスのグラスゴー大学での講義の「道徳情操論」を24歳になる前には読んでいて、恐らくそれは最も確実なのは17歳の時であって、彼はこの本から非常な影響を受けたと言っていました。彼は熱烈なアダム・スミスの崇拝者でした。バーンズが1786年の12月に初めてエディンバラに来た際には、スミスは既に政治経済学者の草分けとして有名であり、彼は「オイスタークラブ」という名のエディンバラの何人かの名士と共にきちんとした昼食会クラブを主宰していました。ほとんど全てのオイスタークラブの主要な会員がフリーメイスンであり、彼らはバーンズをフリーメイスンの友愛をもって支援しました。ジョン・マッケンジー、ベイシル・ウィリアム・ダグラス・ハミルトン(デール卿)、アダム・ファーグソン(エディンバラ大学教授)、ウィリアム・ロバートソン(エディンバラ大学学長、教授)、彼らは全てフリーメイスンであり、主要なオイスタークラブの活動会員であり、バーンズの「おもにスコットランド方言による詩集」(エディンバラ版と呼ばれている)の第二版の出版を支援しました。

スコットランドの有名な詩人であり作家でありフリーメイスンでもある、バーンズを敬愛するサーウォルター・スコット(1771‐1832)がバーンズと1788年にファーグソン教授の客間で彼が17歳の時に面会したというエピソードがあり、これはスコットがファーグソン教授の息子と級友で親しい友達であったからでした。
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アダム・スミス自身はそれらオイスタークラブの会員の活動には巻き込まれておらず、スミスは既にバーンズの才能について初版から知っており、エディンバラ版の「おもにスコットランド方言による詩集」の予約をしており、バーンズは強く彼に会いたがっていました。バーンズのスミスと面会したいという希望について考える際に、バーンズとスミスの間を取り持ったひとりの重要な女性、フランセス・アナ・ウォレス・ダンロップ夫人という女性がいます。彼らはキルマーノック版の詩集が出版されたのちの1786年には文通を始めていて、彼女はバーンズの支援者となっていました。彼女は1787年3月の手紙の中でバーンズにスミスと面会するよう助言していましたが、スミスは既にエディンバラを離れてロンドンに胃の治療のために移っており、バーンズは唯一の機会を逃してその後も二度と彼と会う事はありませんでした。

アダム・スミスの存在抜きにはロバート・バーンズの詩人としての成功はありえず、エアシャーの吟遊詩人やスコットランドの最愛の息子となる事は無かったでしょう。

アダム・スミスはフリーメイスンだったのでしょうか。彼のフリーメイスンとしての記録は確認されません。彼が1790年6月17日に67歳で亡くなった後にある理由で彼の個人的な私生活に関わるすべての書類と遺物は焼かれてしまい、またエディンバラ管区の中では彼がフリーメイスンであったという記録はロッジでは認められませんでした。それで恐らく彼はフリーメイスンではありません。例え彼の人生がフリーメイスンの人生そのものだったとしてもです。

1776年の「国富論」の出版後より、彼はスコットランド政府に表彰されて年600ポンドの生涯年金を受けていて、スコットランド税関局長としての給料と本の印税を含めて年収は900ポンドになっていました。この収入はその当時の通常の大学教授の収入の3倍から4倍のものでした。彼は結婚しておらずエディンバラで母親と同居して簡素な暮らしをしていました。彼の死後、彼は年収の9割を匿名でフィランソロフィーの慈善活動に寄付していた事が寄付された側により明らかにされました。彼はさらに有望な芸術家やオイスタークラブの奨学金受給者の研究者を支援していました。彼の人生は兄弟愛、救済、真実の信条に貫かれたまさにフリーメイスンのものと同じものでした。

18世紀の後半はヨーロッパの政治状況は混乱を極めていて、アメリカ独立戦争(1775-1783)、フランス革命(1789-1799)、英仏戦争(1793)などがあり、バーンズやスミスを含む知的階層の多くの人々はそれらの劇的な社会情勢にある程度巻き込まれていました。面白いことにそれらの知的階層の人々は興味の対象の分野が例えば詩や経済、政治、哲学、医学、法律など異なっていても、何らかの相互扶助の友愛団体の関係に結ばれていました。実際にアダム・スミスは高名なフリーメイスンであるベンジャミン・フランクリン(1706‐1790)やトーマス・ジェファーソンやその他のアメリカやフランスの指導者たちと繋がりをもっており、彼は非常に興味深いその時代のヨーロッパの学者であると同時にフリーメイスンと繋がりをもった、フリーメイスンになる可能性をもった人物でありました。

最後になぜロバート・バーンズはフリーメイスンとなり彼はフリーメイスンとしての人生をどのように過ごしたのでしょうか。

18世紀の後半は啓蒙の世紀でありまたアメリカ独立戦争やフランス革命などで混乱の時代でありました。ロバート・バーンズは詩人としてイギリスロマン主義の黎明期の詩人として非常に興味深い人生を過ごしました。

この時代には啓蒙運動はヨーロッパの国々を駆けめぐりました。例えばフランスではこの活動はフランス王ルイ16世による旧体制からの自由の獲得として政治活動となりましたが、イギリスよりは知識の普及という点に重きをおいたものでありました。これらは各国の状況の違いによるものでありました。

バーンズが詩人として世に現れたとき、彼は非常に貧しい農民の詩人としてなんら教育された背景を持たないというものでありました。確かに彼は非常に貧しかったのですが彼は大学を卒業していなくとも沢山の本を読んでいてそれらを完璧に理解していて、非常に多くの知識を持っていました。彼は既にアダム・スミスの「道徳情操論」を恐らく17歳頃に読んでいました。彼はまたジャン・ジャック・ルソー(1712‐1778)によって1754年に出版された「人間不平等起源論」を読んでいて大いに影響されていました。彼はそういった本を読みながら、農民として働く合間に詩を作り、さらに農民の仲間ができるだけ多くの本を読むように助けました。彼がフリーメイスンとなって7年後の1788年9月に「モンクランド友愛結社」を自営農家であったロバート・リデルと結成し、移動図書館の仕組みを発展させて地方でも農民が本を読めるようにして、彼はそれら下層階級の人々が啓蒙される事は社会にとっても個人としても重要であると考えていました。彼の啓蒙活動は彼個人のためではなく、彼の同胞たちのためでもあり、フランス革命で歴史的に背景となった自由・平等・博愛の精神に貫かれたフリーメイスンリーの精神によるものでありました。

一方で18世紀のその時代にはスコットランドとイングランドは政治的には一つのイギリスとして統合されていましたが、感情的な敵対心はまだ存在し、一つに精神的に団結するというところには至っていませんでした。バーンズは彼の詩を通して兄弟愛の精神に基づいて二つの国が団結するように促すよう唱えました。彼の慈善精神は十代に育まれ、彼の性格は自然とフリーメイスンリーへの道を導きました。フリーメイスンリー組織は当初は彼の詩作よりも彼の精神を大いに受け入れ、後に彼らは彼の非常な詩作の才能を知るようになり彼を支援するようになったのです。

ロバート・バーンズが偉大な抒情詩人であることは間違いありませんが、彼の初期の作品、キルマーノック版やエディンバラ版ではいわゆる抒情詩はわずか1割しかありません。彼は600以上の詩を37歳で死ぬまでのわずかな間に作っていますが、多くの彼の詩は人間の権利の重要性や平等の原則、慈善や兄弟愛についてで占められています。いくつかの詩では奴隷の解放についてや男女の平等性について触れられています。
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彼の姿勢の典型的な例はは1794年の6月25日に書かれた「ワシントン将軍の誕生日に寄せて」というジョージ・ワシントンの誕生日に彼を賞讃する詩に認められます。これは政治的な詩で彼のフランス革命の精神に対する同情の気持ちを示していて、イギリスにおける自由の抑圧を深く悲しむとともにワシントンが自由を勝ち取るために尽力していることを賞讃しています。

また1838年のエディンバラのチャンバース版として出された際にバーンズの死後40年たって初めて出された「自由の木」というフランス革命を賞讃した詩があります。それは彼の死から時間を経て発見され、彼の自筆では無かったため、それが彼の真作であるかどうかで激しい議論が続けられていて、現在も未だに議論のあるものです。トーマス・クロフォードらによる熱心な研究の結果として1960年にはそれが彼の真作であると知られるようになり、それからバーンズ全集に含まれるようになりました。その詩は1793年か1794年に書かれたものとされ、その間彼はいかなる政治的な詩も発表してはいけないとされていた時期で、それは彼の慈善と人間性の基本的な精神を示しています。

ロバート・バーンズは人間性と慈善に満ちた人物であり、彼の強い神への信仰と彼自身の考えと慈善の精神に基づいた自然な結果としてフリーメイスンとなりました。彼は600以上の詩を彼がフリーメイスンである15年間に作り、1796年の7月21日ににスコットランドのダムフライズで37年の生涯を終えました。

参考文献

岡地嶺 ロバート・バーンズ―人・思想・時代開文社 1989年
難波利夫 詩人ロバート・バーンズ伝 (1977年)東洋出版 1977年
ロバート・バーンズ研究会ロバート・バーンズ詩集国文社 2002年(2009年の新しいものをすでに挙げています。)
ジェームズ・ギブソン・ロックハートLife of Robert Burns Vol. I & II, published by Henry Young and Sons, Ltd. in 1914(アマゾンのものとは編が異なります。)
Web Site of Lodge Tarbolton (Kilwinning) St. James No. 135 (http://www.thefreemasons.org.uk/tarbolton135/)
ジェームズ・ギブソン・ロックハート、佐藤猛郎ウォルター・スコット伝彩流社
この記事は著者であるブラザー寺澤廣一の許可により再掲されています。
(翻訳については特に確認はとっていません。)

どうでしょうか。フリーメイスンによるフリーメイスンリーの歴史の細かい研究の成果を感じられる内容かと思います。ブラザー寺澤廣一氏については直接会ったことはありませんが、研究者としての専門は特にフリーメイスンリーの歴史についてではないそうですが、私の前にフリーメイスンリー歴史学会に参加されていたようです。フリーメイスンリーの歴史については深沢克己という方が著作を出されていて、この方はフリーメイスンかどうかは分かりませんがいくつか著作があるので読んだら触れていこうと思っています。このブログのブラザーロバート・バーンズの著作や周辺の記事と共に読むとさらにより深いフランス革命、アメリカ独立戦争、スコットランド啓蒙運動、フリーメイスンリー、スコットランドについて知識を深める事ができるのでは無いでしょうか。最後に挙げられたブラザーワシントンへ捧げる詩と自由の木の詩についても訳など出来ましたら記事としたいかと思っています。なかなか翻訳も大変ですが、有益な外国の情報をそのまま伝えるには最も良い手段であるかと思われます。現在ブラザーダン・ブラウンの新作「インフェルノ」の翻訳出版を待っているところですが、期待して待っているところです。
このブログではアンダーソン憲章とモラルアンドドグマを翻訳できればと考えています。
2013-11-30 03:11 | カテゴリ:スコットランド
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さて色々ややこしい感じになってブログも複雑な感じになっているところだと思いますが、まあこの時期の特有のものかと思われます。フリーメイスンリーもちょうど人事の時期なのですね。

まあちょっとなんだか分からなくなってくるかもしれませんが、本日11月30日はカトリックの定める聖アンデレの祝日という事で、いわゆる3と11のシンボリズムの日という事です。聖アンデレはもちろんスコットランドの守護聖人という事で、ほとんど内容をアップロードできていないフリーメイスンリー歴史学会のアブストラクトもあるわけですが、撮って来た写真としてはもうほぼ学会は終わりに近づいていて、学会二日目の終わりのニュークラブでのガラディナーでの写真です。歴史学会としては翌日の午前の半日の発表で予定は終了してランチで終わりなわけですが、なんと私はジョージホテルでの宿泊日を一日忘れていて、このガラディナーの日でチェックアウトの予定になっていて、ホテルにお土産を買って悠々と帰って来るとなんとも気まずい状況になっていて、かわいいホテルマンの女の子にかわいそうな目で見つめられてなんとか代わりのホテルを取ってもらって、タクシーを手配してもらって移動するというありさまでした。学会主催者の方にも大変ご迷惑をおかけして恐縮でした。まあこういうのがあるのがフリーメイスンリーなんでしょうね。一泊忘れるとは本当にありえないものでしたが、まああるんですね。まあはっきり言ってこういうのが本当に忘れられない思い出になります。

というわけで、かなりエディンバラの中心地の学会出席者という感じのホテルから突然歩いて30分ほどの住宅地の中のアパートの一室のようなホテルに移動して急いで蝶ネクタイをしてエディンバラプリンスィズストリートに面したところにあるガラディナーの場所のニュークラブに移動します。明るいので時間が遅い感じはしませんが、どうもエディンバラというところは飲み屋で騒いでいる人などは道からは見えない場所なので、いったいどんなところにこのニュークラブというのがあるのか全くわかりません。入口は完全に会員制の高級クラブという感じで、インターホンがあるだけの扉だったと思います。予定より30分遅れで着いたのでしたかね。入れないかと思いましたがなんとか入れてくれました。
グーグルアースであったニュークラブの入り口の様子を載せます。
ニュークラブ入り口
この場所に遅刻して入っていくのは勇気がいりますが、予約してあって帰るわけには行かないので学会出席者だと言うと開けてくれました。内部はとても緊張します。ああいうのは好きな人は好きなんでしょうね。
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まあまさにフリーメイスンリーの入会志願者の儀式そのものなわけですが、いわゆるロッジではなく会員制クラブというところでこういう形になったのはなんともフリーメイスンリーの入会儀式そのものな感じかもしれません。実はフリーメイスンリーの歴史学会には学会終了翌日にエディンバラのNo.1ロッジMary's Chapel Lodgeの第二階級の集まりにフリーメイスンが出席して良いという特典があったのですが、さすがに飛行機のチケットがあったのでそれは出来ませんでした。まあそういうのも予定に組める優雅なヨーロッパのフリーメイスンが優先的なシステムになっているのですね。一週間でエディンバラを歩きまわる英語の不自由なアジアのフリーメイスンでは当然やれることの差は歴然としてきます。
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何があるのか分からないので非常口を撮ったのでしょうか。やはり写真がぶれています。
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こういうときのシャンデリアは圧倒的ですね。エジプトの神殿の明かりのようでしょうか。
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クラブの歴代会長の名前でしょうか。どうも1787年に開業したようなのでこの位いるのかもしれません。日本で言うと料亭みたいな感じなんでしょうか。まあそもそもクラブなんで組合に近いかと思いますので料亭みたいなものと根本的に異なるかと思いますが、江戸時代から続く組合なんて言うと関西の経済団体とかでしょうか。まあ名誉なんでしょうが私には分かりません。
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完全に手ブレ写真ですが、恐らく王族か貴族の有力者のメンバーの肖像画だと思います。
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まあ写真を撮ってあるのは良いんですが、なんだか分からないと意味が無いですね。まあ上述のような状況で、写真を撮るだけでも精一杯であったのです。
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有力なフリーメイスンのブラザーなんでしょうね。
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これも分かりませんね。クラブの会則とかでしょうか。
中に入るとすでに30分遅れ位で最初のオードブルが終わっているところだったでしょうか。食事は正直それほどおいしくなかったでしたが、話が最大のご馳走なのだという意味なのだと思います。席は決まっておらずほぼ満席で、空いているところに飛び込んだのですが、正面にイングランド人の独身女性が参加していて驚きました。学会の運営というわけではなくなんだかフリーメイスンの知り合いに誘われて興味本位で参加したような話でした。日本に2週間位滞在して興味があるとかなんだかお見合いのようで困惑しましたが旧約聖書の話なんかをして煙に巻いてしまいました。周りのブラザーに話をして旧約聖書を読んだかどうか聞いたら誰も読んだような話はありませんでした。リチュアルは覚えていて日本のグランドロッジも訪問したというギリシアのブラザーがいたり、イタリアのブラザーはスコットランドグランドロッジで売っていた勿忘草のカフスボタンを見せてくれました。高齢のブラザーはスコティッシュライトの33階級のバッチを誇らしげに付けたりしていました。なんとも面白い雰囲気ではありました。オペラ歌手のような方の独唱でアメイジンググレイスなどを聞いた後に最後は皆で手を繋いでオールドラングザインの合唱でディナーは終わりになりました。その後12時~1時ころまで隣のバーで続きがあったわけですが、私はもうお腹一杯のビックリヘトヘトな感じで、ちょっとシニムロッジのユダヤ人のブラザーに声をかけてもらって一緒にいた若い二人のユダヤ人が日本を訪問した際の感想の話など聞いたりしていましたが、さすがにその後一緒にお酒を飲みながら優雅に人生を変えてしまうかもしれない話をするほどの余力はなく、ちょっとニュークラブの若い従業員には笑われたりしましたがタクシーを呼んでもらってそそくさとその慣れない新しい宿に11時30分ころにはニュークラブを裏口から出て帰らせていただきました。
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これはその時のチョコレートとプレカンファレンスディナーの際のスコッチウィスキーとガラディナーでのスコッチウィスキーです。アザミの花と枝でしょうかね。まあ飲んでる人もいましたが大体持ち帰っていました。まあ完全に記念品で保存用です。こういうのもフリーメイスンリーの貴重な体験だと思いますが、まあ付随的なものではありますが実際はロッジでの通常の会合も同じく、会合後の飲食会での話がメインであったりもしますし、ヨーロッパってのは良いなあというのを実感したというのが感想でしょうか。なんせ時差もほとんどなく、わずか数時間でこれだけの会合や観光や勉強ができる機会がそこらじゅうにあるのですから。これだけの貴重な機会をアジアで催すことはなかなか難しいのが現実だと思われます。
ジョージホテルでの朝食もまた様々なこういうフリーメイスン同士の機会でもあり面白いものがありました。まあとにかくなんだかフリーメイスンリーというのは面白いという事で良いでしょうか。
実際ヨーロッパのフリーメイスンでも旧約聖書はあまり読んでいない、それでもやっぱりキリスト教徒である、リチュアルを記憶はしているがなんともそこにあるユダヤ教や宗教改革の意味の理解はなかなか難しいというのがやはり現実なのですね。私も初めて実際のユダヤ人という方々と話をしましたが、やはり人種的にはヨーロッパの特にスコットランド人などから比べて東洋人に近く、また東洋や日本についても興味がある感じの印象を受けました。いわゆるハザール王国の末裔なのだと思いますが、実際会ってみてそういう実感を強く持ちました。キリスト教徒とユダヤ教徒というのが実際にあれだけ聖書という形で一体になっていても全く異なる存在としてヨーロッパやアメリカに存在し、表裏一体のような関係で、後々にフリーメイスンリーのような形で近代化の原動力となったという、そういう人種というものと文化と宗教が一体となったヨーロッパの一つの伝統的な形が一人のアジア人の前で表現されたような形で、ヨーロッパのフリーメイスンリーというものがどのようなものかという一つの現実を見せ付けられた印象であったかと思います。

皆さん是非日本語で良いですから旧約聖書から新約聖書まで一度通読してみてください。新しい世界がそこにあるかと思います。
2013-12-07 08:47 | カテゴリ:スコットランド
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
重い話題の後は相変わらずのスコットランド、エディンバラのフリーメイスンリー歴史学会の写真です。
まあイギリスでパブにヘリコプターの墜落なんてニュースもありましたが、世界のどこであっても人間社会というものは本質的に変わらないというのがフリーメイスンリーの教えでもあります。
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ガラディナーから新しいホテルに帰った後の窓から見た月でしょうか。
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翌日はそのホテルから歩いてエディンバラ中心部まで向かったのですが、途中に墓地がありました。やはりオールドカールトン墓地とは違います。ほとんどフリーメイスンを示すオベリスクは建っていませんでした。エディンバラといえどもやはりフリーメイスンであるという墓はほんの一部なのですね。
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交差点にあった方位を示すコンパスでしょうか。まあやっぱりエディンバラ中心部と周辺でそういうシンボリズムの境界があるようです。
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セントポールセントジョージ聖公会教会だそうです。
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その真向かいにあるのがブラザーサーアーサー・コナン・ドイルの名前のパブです。ちょうど反対側にあるブラザーサーアレクサンダー・グラハム・ベルの名前のパブと対をなしています。
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こちらはスコットランド国立肖像画美術館です。結局そこにある肖像画ほとんどがフリーメイスンが描いて、フリーメイスンを描いているという事で、要はフリーメイスンの紹介美術館であったようです。いつかはまた行きたいですねえ。
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これはもうジョージストリートのエディンバラ王立協会ですね。22の番地にあるのが一つのシンボリズムのようです。日本の2.11や2のシンボリズムも一つの学問の終着の地としての極東の地という意味であるのかもしれません。
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3日目は半日で終わり、ランチは切り上げて再びホテルに戻り、ウェイバリー駅からロンドンのキングス・クロス駅に向けて約5時間ほどであったでしょうか。わざわざ一等車で乗ったのですが、一等車は子供しかいませんでした。現地の大人は皆二等車に乗っているというまあなんだか今時は子供向きらしいイギリス鉄道の旅です。
2015-08-31 11:50 | カテゴリ:スコットランド
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2016-01-24 12:16 | カテゴリ:スコットランド
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2016-03-03 20:52 | カテゴリ:スコットランド
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まるで観光案内のようですが、まあ実際はこのブログのほとんどの目的はそっちであるという事で、再び色々あってのスコットランドの観光案内です。
まあハイランドダンスで検索していて、去年2015年8月のエディンバラのミリタリータトゥーの映像を見てなかなか面白かったので紹介します。

習近平国家主席の訪英前という事で、全面的に中国人民解放軍と提携した内容になっているわけですがいかがでしょうか。
いわゆる大陸中国、中華人民共和国も省や自治区といった行政区分が全て合わせると33地域あるという事で、スコティッシュライトの階級にかかっているわけではないでしょうが、まあ東京にあるシニムロッジのもともとの所在地でもあるという事で、なかなか面白い内容のエディンバラの夏の風物詩の光景という事で、私もいつか直に見てみたい観光名物でした。

(追記:全く上記の内容とは関係ありませんがフェイスブックで面白い投稿がありましたので付記します。イギリスの観光名所といえばロンドンのロンドン塔でしょうが、そこの石畳の中にハートの石ならぬ、フリーメイスンリーのシンボルのコンパスと直角定規の形をした石があるそうです。
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まさにロンドン塔の秘密でしょうが、ぜひ探してみてはいかがでしょうか?)
2016-08-28 10:05 | カテゴリ:スコットランド
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老中阿部の 作りし 五芒星
2016-08-31 14:25 | カテゴリ:スコットランド
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2016-11-08 08:07 | カテゴリ:スコットランド
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2019-04-28 06:25 | カテゴリ:スコットランド
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https://www.facebook.com/nasser.rohmerboufrioua/videos/2944238448934689/
Facebookの動画なのですぐに削除されてしまうかもしれませんが、GoogleEarthなどでも確認できる光景だと思います。
エディンバラにある現存するロッジで最古にして最初のロッジとされるスコットランドのNo.1ロッジです。
上部にある六芒星のシール(護符)が興味深いですね。名前といい、スコットランドの宗教戦争の歴史が偲ばれます。
Wikipediaもありましたのでリンクしておきます。公式ページへのリンクもWikipediaにありました。
2023-10-26 20:33 | カテゴリ:スコットランド
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Lodge Crest Website
カトリックの ジェームズ1世 7月25日戴冠
ガイ・フォークスの 陰謀 スペイン 三浦按針
徳川イエズスへの 望遠鏡と 金屏風と鎧のやり取り
フランシス・ベーコンの イギリス経験論と アリストテレス哲学
シェイクスピアと 欣定訳 聖書
英語の 国際化と ピルグリム・ファーザーズ
1566.6.19 1625.3.27 のちの1666年驚異の年
666は 皇帝ネロの ゲマトリア
スコットランド スクーンの石 ヤコブの石
大ヤコブ 聖ジェームズ スペインの守護聖人 福音記者ヨハネの兄
ヤコブ ヨセフの父 イサクの子供 小ヤコブ キリストの弟
ヤコブが モリヤ山で見た 天使の梯子 イスラム教 ユダヤ教 キリスト教の聖地 神殿の丘
2024-01-25 18:49 | カテゴリ:スコットランド
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2024-03-08 08:15 | カテゴリ:スコットランド
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