2016-03-03 20:52 | カテゴリ:スコットランド
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
まるで観光案内のようですが、まあ実際はこのブログのほとんどの目的はそっちであるという事で、再び色々あってのスコットランドの観光案内です。
まあハイランドダンスで検索していて、去年2015年8月のエディンバラのミリタリータトゥーの映像を見てなかなか面白かったので紹介します。

習近平国家主席の訪英前という事で、全面的に中国人民解放軍と提携した内容になっているわけですがいかがでしょうか。
いわゆる大陸中国、中華人民共和国も省や自治区といった行政区分が全て合わせると33地域あるという事で、スコティッシュライトの階級にかかっているわけではないでしょうが、まあ東京にあるシニムロッジのもともとの所在地でもあるという事で、なかなか面白い内容のエディンバラの夏の風物詩の光景という事で、私もいつか直に見てみたい観光名物でした。

(追記:全く上記の内容とは関係ありませんがフェイスブックで面白い投稿がありましたので付記します。イギリスの観光名所といえばロンドンのロンドン塔でしょうが、そこの石畳の中にハートの石ならぬ、フリーメイスンリーのシンボルのコンパスと直角定規の形をした石があるそうです。
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まさにロンドン塔の秘密でしょうが、ぜひ探してみてはいかがでしょうか?)
2016-03-05 20:12 | カテゴリ:シンボリズム
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
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昇梯子の具足
真田昌幸所用。胴の部分に梯子(はしご)が描かれていることから、昇梯子の具足といわれる。もとは全体が赤の漆で塗られていたらしい。『御武器帳』の引く外家箱(現存せず)の蓋の記には、二代藩主・信政も所用し、明和九年に江戸屋敷が類焼した際、この甲冑も焼失したため、文政八年に焼け残った金属をもって修復したとある。

天下のNHKの大河ドラマの内容ですがどうでしょうか。見事にヤコブの梯子です。
まあ大阪夏の陣もまさにキリシタン大名たちの最期の戦いというところが多々認められるようで、徳川イエズスを最後まで追い詰めたという伝説もその後の太平の江戸時代の始まりを告げる一つの伝説の創造であったようです。
ちなみに真田フランコというイエズス会の記述も残されているようで、そういうのがNTTのバチカン図書館でのスキャナー作業と相まって、大河の主題ともなっているようでしょうか。
2016-03-06 08:57 | カテゴリ:アメリカ
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
アルバート・パイク(Albert Pike、1809年12月29日 - 1891年4月2日)は、弁護士。フリーメイソン。南北戦争時の南部連合の将軍。

人物
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フリーメイソンの正装を着たパイク(1865-1880年頃)。
秘密結社フリーメイソンに所属していたと言われている。「メイソンの黒い教皇」とも呼ばれている。古代や東洋の神秘主義を研究して、構成員を増やした。オハイオ州シンシナティに本拠地にしていた「ゴールデン・サークル騎士団」の名前を変えたと言われる。また1871年、イタリアのフリーメイソンのジュゼッペ・マッツィーニ(イタリア建国の父)に送った手紙には、第一次世界大戦と第二次世界大戦、更に第三次世界大戦についての計画が記されていたという説が陰謀論者の間で広がっている。

ジュゼッペ・マッツィーニとアルバート・パイクの往復書簡
この往復書簡の内容は、主に陰謀論者達によって頻繁に引用されているが、その起源ははっきりとしない。
1870年1月22日にマッツィーニがパイクに宛てた手紙に対し、1871年8月15日にパイクがマッツィーニに返事を出したということになっている。
マッツィーニによるとされる手紙の内容は、エディス(イーディス)・スター・ミラー、クイーンボロ男爵夫人(Edith Starr Miller, Lady Queenborough, 1887年7月16日- 1933年1月16日)が1933年に出版した「オカルト神権政治」(Occult Theocracy)に収録されている。
パイクによるとされる返書の内容は、チリのサンティアゴの枢機卿、ホセ・マリア・カロ・ロドリゲス(José María Caro Rodríguez, 1866年6月23日- 1958年12月4日)が1925年に出版した「ベールを剥がされたフリーメイソンリーの密儀」(Mystery of Freemasonry unveiled)の中に収録されている。抄訳が、ウィリアム・ガイ・カー(William Guy Carr, 1895年6月2日- 1959年10月2日)が1955年に上梓した「ゲームの駒」(Pawns in the Game)第4版(1962年)に掲載された。

年譜
1809年12月29日 マサチューセッツ州ボストンにて誕生。
15歳でハーバード大学に入学。2年分の勉学を1年で済ませ、第三学年への進級資格を得るものの、大学側から飛び級分の授業料も払うよう要求され、経済的な理由から払えず、マサチューセッツ州を離れる。
一路西を目指し、オハイオ州シンシナティ、イリノイ州ケロー、ミズーリ州セント・ルイスを経由して、ニューメキシコ州サンタフェに到着。一年近く滞在。
ニュー・オーリンズを目指すも、最終的にアーカンソー州フォート・スミスに到着。教師としてアーカンソー州に定住。
地元の「リトル・ロック・アドヴォケート」紙に寄稿。後にこの新聞社を買収して経営に携わる。
ブラックストンの「英国法註解」を読破し、アーカンソー州の弁護士資格を取得。リトル・ロックで弁護士を開業。
1837年 アーカンソー州法の注釈書を執筆。
1840年代 オッド・フェローの自治結社に加入。
1846年~1848年 メキシコ戦争。志願兵を集めて騎兵連隊を結成し参加。
1849年 合衆国連邦最高裁判所で弁護士として活動する資格を認められる。
アメリカ先住民の弁護を一手に引き受けるようになり、先住民の言語にも通じ、先住民の信頼を集める。
1850年 メイソンとしての活動を開始。リトル・ロックの「西方の星ロッジ・第一」で参入儀礼を受ける。ヨーク儀礼への参加。
1851年 「ロイヤル・アーチ・メイソン」になる。
1852年 「地下洞メイソン」になる。
1852年~1853年 アーカンソー州大ロッジの大棟梁を務める。
1853年 「テンプル騎士」になる。
1853年3月 ニュー・オーリンズへ行き、南部管轄区最高評議会事務局長アルバート・ギャラティン・マッキー(Albert Gallatin Mackey)博士と面会。マッキーから、三日間の通達により、古代公認スコットランド儀礼の全位階を授けられる。
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アルバート・ギャラティン・マッキー(1807年3月12日- 1881年6月20日)
1855年 儀礼の式次第や内容を改訂する委員会のメンバーに任命される。
1856年 「南部大会」において奴隷貿易の再開に反対する。
1859年 「大長官」に出世。
1859年 チョクトー族に対して300万ドル弱もの資金を返還するよう連邦政府に命じる判決を勝ち取る。先住民の間で有能な弁護士との好評判が定着する。
1861年~1865年 南北戦争。南部連邦政府により、アメリカ先住民の各部族と協定を結ぶ交渉役に任命される。後、先住民の部隊を統率する准将となる。
1862年3月 「ピー・リッジの戦い」に参戦。パイクの部隊に所属していた一部の先住民が、投降した北部連盟の兵士達の頭皮を剥ぎ取る。
1862年7月 上記が原因で軍務を辞任。
1865年4月 南軍降伏。エイブラハム・リンカーン大統領に恩赦を申請。逮捕を免れるためカナダへ逃亡。
1865年8月 アンドリュー・ジョンソン大統領により恩赦。
1865年12月 帰国。合衆国に忠誠を誓う。
テネシー州メンフィスに短期滞在。弁護士として、また、「メンフィス・アピール」紙の編集者として働く。
1868年 ワシントンD.C.へ転居。
1868年 古代公認スコットランド儀礼の参入儀礼の改訂作業を完了。
1871年 上記の補足説明として「古代公認スコットランド儀礼の寓意と教理」(Morals and Dogma of the Ancient and Accepted Scottish Rite of Freemasonry)を発表。
1875年 スイスのローザンヌにて開催されたメイソンの最高評議会大会に参加。
1891年4月2日 ワシントンD.C.の古代公認スコットランド儀礼の本部にて死去。

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ブラザーアルバート・パイクの日本語版ウィキペディアが大幅に加筆されていたので転載しました。
スコティッシュライトの教科書は現在A Bridge to LightMorals and Dogmaです。どちらも英語版しかありませんが、いずれ邦訳が出るかと思います。Past Grand Commanderでは日米開戦について調査したブラザーヘンリー・クラウゼンなどもいます。スコティッシュライト全体については英語版ウィキペディアの概観が非常に適切かと思われます。双頭の鷲のシンボルからハプスブルク家の歴史についても知っておく事が重要と思われます。特に重要なのはマリア・テレジアの夫であった、ブラザーフランツ1世の存在で、彼がまさにスコティッシュライトでの期待される人物像ではないでしょうか。
2016-03-21 07:24 | カテゴリ:第3のY
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
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2016-03-21 07:26 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
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2016-03-26 09:10 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
まあだいぶ横須賀を離れて、数年たったわけですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。
ブラザーデッカー司令長官のこの回想録の邦訳も出版が平成23年の東北大震災の直後であったとあって、なかなか月日の流れるのが早いと感じるのと、様々なフリーメイスンリー関連の情報の集約点がまたあの地震の日であったという感も今になると余計するわけで、様々な思いが去来しつつも、全十五章のうちの七章目という事でこの横須賀で書き始めたブログの横須賀に関する話題のかなり中心的な内容という事で、横須賀に関するライフワークというわけではないですが、まあそれに近いものがあるという事で、念入りに書き進めることとします。

第七章の副題は京都、四国、広島、長野を巡るです。
最初の章は京都旅行です。横須賀の統治にも一定のめどが経ったというところで、このブログではないですが、フリーメイスンリーお決まりのご褒美というところで日本各地への旅行が催されます。GHQの統治下という事で、全て天皇陛下のご旅行に準じて特別列車で皇室の駅の応接室などを利用しつつの旅となります。最初に京都へ行って清水寺や京都御所、西陣織工場などをブラザーデッカー夫妻が巡り、その感想をエドウィーナ夫人が興味深く、非常に好意的に記しています。大阪、神戸で特に立ち止まらず、そのまま四国に行ってしまうのは、まあ関西特有のご愛敬でしょうし、神戸のフリーメイスンリーロッジとの関係もあるのではないでしょうか。
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高知、松山。京都の後が高知というのもなかなか、日本人にはちょっとわからないところかもしれませんが、このブログなんかも読んでいるとわかるかと思いますが、まあフリーメイスンリー的な選択なんですね。最初は高知の戦災と昭和南海地震で壊滅的な状況が描かれています。高知城の様子もあり、坂本龍馬を輩出した土佐藩の歴史にも思いが馳せる感じです。翌日松山の道後温泉に行きますが、地震の影響で温泉が干上がっていたという事で、やはり残念がっています。
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広島。翌日広島を巡っています。昭和22年の2月という事で、原爆投下から約1年半経っている状況なわけですが、惨状のようです。人影の写った橋が有名であったという事で、まああまり被爆に関する人的な惨状について終戦直後に戦勝国側の被爆調査ではない一般人が興味を持つという事は不可能なことではなかったかと想像されます。オバマ大統領が訪問という話もあるようですが、なかなか広島、長崎とフリーメイスンリーとは宿命の二本のきのこ雲のような感じのようです。
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松江、金沢。松江では松江城と小泉八雲の家を見学して泊まり、翌日に舞鶴で引揚者の状況を見学します。金沢で旅館に泊まり、芸者さんの踊りを見て、翌日絹織物と九谷焼の工房を見学しました。微妙にフリーメイスンリーとの当時の親和性をその土地での様子で見て取ることができる感じでしょうか。現在のロータリークラブや、ライオンズクラブがどこでも盛んな状況とはまた異なる、日本のまさに素に近いフリーメイスンリーの歴史であると思われます。
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長野。ここではフリーメイスンの妻らしく善光寺での仏教体験について詳しくエドウィーナ夫人が描写しています。尼僧の頭巾の表現がフェズ帽に似ているというのが、いかにもアメリカで最も有名なフリーメイスンリーといわれるシュライナーズを表した、まさにそういう素直なエドウィーナ夫人らしい表現という事になるのだと思われます。また仏教の数珠がカトリックのロザリオと似ているというのもまさにそういう表現ではないかと思われます。長野の善光寺を最後に横浜経由で横須賀に戻りました。その後3月になり中国人の報道陣をもてなしたことが書かれています。中華民国の報道陣なわけですが、これらの人々もまた戦争が終わった後の日本の支配を終えた後の朝鮮や、GHQ支配下の日本を取材したという事で、直前のブラザーデッカー夫妻の仏教の体験とも関係した、戦後の日本における宗教観や国家観とも関係した体験の記述であるかと思われます。
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県立横須賀高等女学校訪問。現在の神奈川県立横須賀大津高校が女学校であった際の3月11日の卒業式に臨席したエピソードが語られます。学徒動員で軍需工場で働いていた女学生も卒業できたという思いから卒業生全員が泣き出していたという事です。この卒業生も現在は69年たち、およそ87歳であるようです。
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シー・スカウトが横須賀へ初航海。3月15日に横浜に駐留する陸軍士官の10代の娘たちで組織されたばかりのグループ、シー・スカウトが初航海で横須賀に来たそうです。三笠や基地内の洞窟を案内したとあります。陸海軍の交流のようです。
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日本の春は梅から。2月の第1週には梅の花が咲いたという事で、梅は忍耐の象徴とされると解説されています。夫や指揮下の将兵を困難を乗り越える辛抱強さ、忍耐強さを持っているとして梅の花のようとしています。
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司令官就任1周年。4月10日に基地内の各クラブでブラザーデッカーの基地司令官就任1周年を祝うパーティーが開かれたそうです。ブラザーデッカーのスピーチの内容があり、その中で性病感染率が下がったことと、闇市での違法取引が少ないことを挙げています。30年後にこの回想録を書きながら、その時のメニューの表紙に書かれた夫の似顔絵をじっと見てエドウィーナ夫人は涙したとのことです。その後に蘭を5鉢も記念にもらったとのことです。蘭は種類にもよるかと思いますが、この場合は中国や東南アジアの象徴でしょうか。
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マッカーサー夫人の横須賀訪問。4月15日にブラザーマッカーサー夫人のジーン・マッカーサーが横須賀基地を視察し、士官用住宅を見学して、ブラザーデッカーの田戸台の司令長官官舎でパーティーをしたエピソードが書かれています。非常に丁寧に好意的に書かれていて、詳細はあまり伝わってきませんが、準備を十分した様子が描かれています。いずれにしてもGHQ内部で日本での住環境について様々な要望や待遇改善策があったことが伺われます。ブラザーマッカーサーの二番目の妻であるジーン・マッカーサーは銀行家の娘で相続によって結婚前に大富豪であったそうです。2000年1月22日に101歳で天寿を全うされたそうです。
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海軍施設の視察団来日。海軍作戦部長ルイス・デンフィールド大将とその幕僚が、陸上及び海上の海軍施設を視察するために来日されたとあります。統合参謀本部からの最初の指示による来日だそうです。アメリカがこの基地を維持すべきだとのブラザーデッカーの意見に好感をもち、賛同したという事です。いわゆる皆フリーメイスンというやつです。邦訳はデンフィールドとありますが、ルイス・デンフェルドのようです。
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鳥羽で真珠養殖を見学。陸軍のジェフ・バーネット大佐とハーバート・ホイーラー大佐とウィルソン大佐とともに英虞湾の御木本真珠の養殖場を訪れた様子が描かれています。海女さんのほとんど裸の様子に驚いたという事ですが、GHQの指示でスリップを着用するようになったとのことです。トーマス・エジソンから送られたダービー帽を愛用していた御木本翁の様子や、さらに新しくレスラー少将から送られた新しいダービー帽を身に着けている様子が描かれます。お土産に真珠と海女さんのからくり人形をもらったとのことです。NHKのあまちゃんでしょうか。
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名古屋で七宝焼を見学。戦災後の名古屋でノリタケ陶磁器工場と安藤クロワゾンヌ工房で七宝焼の制作過程を興味深く見学したそうです。市内は60%破壊されていたとあります。七宝焼の七宝がサンスクリット語の「セプタラトナ」、仏教経典に出てくる天上にある七つの宝、金、銀、エメラルド、めのう、珊瑚、水晶、真珠を再現しているとあります。細かく作成方法が書かれています。
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京都、奈良へ。京都について最初に林家で夕食をとったとありますが、こういうのもこのブログを読んできた方はフリーメイスンリーとはこういうものかとわかるかもしれません。翌日平安神宮、銀閣寺、二条城、川島織物の絹織物工場、西村漆工房を見学したそうです。奈良に移動して鹿にせんべいをあげ、春日大社、東大寺を参拝しています。春日大社でのツツジ、フジ、ミカン、サクラ、カエデ、ニワトコが接ぎ木された普遍性の象徴としての木があると書かれています。検索しても出てこないので、今はないのでしょうか。東大寺では有名な柱の穴について書かれています。そのあと法隆寺を参拝したそうです。その後横浜に戻ったそうです。
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高松宮殿下ご夫妻一行が横須賀訪問。1947年5月16日に高松宮紀仁親王殿下と妃殿下、島津忠承公爵、池田宣政侯爵が昼食に来たそうです。その際に日本海軍の芝大佐の未亡人であったお手伝いさんのチエ子さんに最初に声をかけられたとのことです。皇室外交という感じでしょうか。EMクラブで日本赤十字社横須賀支所の開所式を執り行ったそうです。この際には太田三郎横須賀市長夫妻、内山岩太郎神奈川県知事夫妻、日本赤十字社横須賀支所長の川畑夫人が同席したという事です。5月18日の日曜日はウィリアム・F・ウェッブ卿夫妻とプレイス陸軍少佐夫妻とカーテン大佐とともに昼食をとったという事です。20日にはアメリカ海兵隊のブレーク准将と参謀長のルーミス大佐とハッバード神父と夕食会を開いたそうです。アラスカのカラー映画を神父が見せてくれたそうです。翌日ブレーク准将を観光に連れて、久里浜からベリー上陸記念碑を過ぎて三崎の手前で引き返したそうです。皆フリーメイスンという事でしょうが、やはり今と同じで三崎は京都奈良よりも行きづらい場所のようです。
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栄光学園と清泉女学院の開校式。5月22日に横須賀のカトリック系男子校栄光学園の開校式が催されたそうです。ブルトン司教、ビター神父、フォス神父、在日ベルギー大使であるシュヴァルリー中将が列席したそうです。5月24日聖心侍女修道会の清泉女学院の開校式に招かれたそうです。アルゼンチン人のマザー・エルネスティーナが女子修道院長であったそうです。どちらもまだ横須賀市内にあったころの話です。清泉女学院は長野にもあるそうです。栄光学園は総理大臣経験者も輩出しています。どちらも現在はわが故郷大船の大船観音のふもとにあります。
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馬淵聾唖学校。森崎にある現在の横須賀市立ろう学校の前身となる馬淵聾唖学校を訪問した様子が描かれます。戦前に横須賀鎮守府庁舎などを建築請負した馬淵組の創業者が慈善事業で設立したそうです。経緯が書いてあるブログがありました。エドウィーナ夫人は戦前の設立であることを特異な存在といえると評しています。5月27日に高岡夫妻とともに高松宮殿下の邸宅で夕食会に招かれたそうです。豪華なフランス料理が出されたそうです。翌日輸送船で到着したクック中将の奥さんを出迎えて、サムナー・ウェルズ夫妻の義理の娘ベン・ウェルズ夫人とグリフィン中将夫妻、ブレッドソー少将夫妻とともに鎌倉のブレッドソー夫妻の自宅でパーティーをしたそうです。中国情勢が議論されたそうです。その後に馬淵家での6月7日の米海軍への報恩会への多治見一郎氏からのパーティーの招待状の文面がありますが、実際のパーティーの内容が全く書いてないところを見ると、前の二つから比べて書きたくない内容であったのでしょう。
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エドウィーナ石鹸。石鹸工場が稼働することになり、その石鹸にエドウィーナ石鹸と名前を付けさせてほしいという事です。またDDTのような殺虫剤をデッカーと命名したいと言われたとのことです。どちらも完全に横須賀的な海軍的な皮肉ですが、実際に命名されたものが販売されたかは不明です。まあ邦訳から読み解くとおそらく完全に皮肉と解釈して販売はされていないようです。横須賀基地内の無用の丘の話と同じような内容でしょうか。その夕に30人のお客を夕食でもてなして、その中に「少年の町」のフラナガン神父ジョージ・アッチンソン大使、駐朝鮮公使ジョージ・ジェイコブスがいたとあります。
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フラナガン神父、日本を去る。上述のフラナガン神父がアメリカに帰るのを惜しんでいます。栄光学園の設立にブラザーデッカーが尽力し、そこをフラナガン神父に案内したとあります。
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さてどうでしょうか。相当久々のブログの正典(カノン)の内容のようですがいかがでしょうか。横須賀の基地開放や再度のワシントン訪問などを経ての内容となっています。次章はまさに横須賀ロッジの由来となる、ブラザーデッカーの描く横須賀のフリーメイスンリーです。
2016-03-27 11:47 | カテゴリ:大磯
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2016-03-29 21:22 | カテゴリ:箱根
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