2012-01-02 15:56 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
大胆な改訂ですが表題も2015年10月10日をもってして変更としました。原文の印象が強いものと思いますが、その効果も狙って全面的な改訂とします。もちろんシンボリズム的にはカトリック、イルミナティの影響が濃いものとなっていますが、それが2017年の記念すべき年に向けての作業という事になるかと思われます。以前のキャッシュと比較しながら検討されればまた面白味もあるかもしれません。ロータリークラブのシンボリズム(2015/10/21追記:Ronaldで現在のスコティッシュライトのグランドコマンダーブラザーロナルド・シールと同じ名前となり、またRそのものでRegina、女王の意味ともなり、女王の紋章、の意味の暗喩ともなるかと思われます。ブラザーロナルド・シールの名前そのものが、女王の紋章の意味にかかっているのですね。もちろんブラザーロナルド・レーガンもスコティッシュライトの名誉表彰を受けています。)の入ったロナルド・レーガンの横須賀お披露目もあり、ブログも更新となります。

冒頭ですがフリーメイスンリーについての日本における基礎知識です。このブログを読まれる方は先にこれらすべての本を読まれることをお勧めします。

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(追記2013/3/15:上記5冊は付け加えました。後述のフリーメイスンリーの本について その2で解説しています。参照してください。)
(追記2013/4/30:さらに3冊付け加えました。)
さて横須賀のフリーメイスンリーのシンボルと言えばまずはなんと言ってもブラザーヴェルニー公園でしょう。
場所は京急だと汐入、JRでは横須賀駅から徒歩数分、ダイエーまたはショッパーズプラザと呼ばれる横須賀で最も大きな商業施設、ショッピングプラザの横にある米軍と自衛隊の駆逐艦、潜水艦が常時見られる公園です。もともとただの臨海公園だったそうですが、平成13年になってブラザーヴェルニー公園となったそうです。横須賀ドックを江戸時代に建設したフランス人ブラザーフランソワ・レオンス・ヴェルニーを記念した公園です。

$kosuzumekyokiuのブログ-夜のヴェルニー公園
夜のブラザーヴェルニー公園
$kosuzumekyokiuのブログ-赤いバラ
赤いバラ
$kosuzumekyokiuのブログ-黄色いバラ
黄色いバラ
$kosuzumekyokiuのブログ-ピンクのバラ
ピンクのバラ
$某秘密結社の横須賀での活動について-紫のバラ
紫のバラ
$某秘密結社の横須賀での活動について-白いバラ
白いバラ
$某秘密結社の横須賀での活動について-ブラザー鳩山一郎が愛したバラピース
ブラザー鳩山一郎が愛したバラ ピース

美しいバラ園になっていて時期は5-6月頃が一番よいかと思われます。
園内の中心にある日本でいうところの休みどころの形がまさにフランス様式のフリーメイスンリーのシンボル(アンティークエプロン参照)そのままの形です。近くに見晴らしの良いスターバックスカフェ等もありますのでぜひお立ち寄りの際は一服して開港から日米安保の現在までの歴史に思いをはせてはいかがでしょうか。
$某秘密結社の横須賀での活動について-フランスのアンティークエプロン
フランスのアンティークエプロン
$某秘密結社の横須賀での活動について-抹茶フラペチーノ
スターバックスからの光景、抹茶フラペチーノと駆逐艦
(追記:ブラザーヴェルニー公園の隣にある海上自衛隊の基地の入り口にも碇があります。碇はフリーメイスンリーのシンボルです。)

最近はバラもつる薔薇がかなり成長して、赤いバラの連なる部分もかなり見事に咲く状況のようです。赤いバラで日の丸のようでもあり、またスコティッシュライトのようでもあります。潮風でたびたび枯れてしまう部分もありなかなか安定しない生育状況もあるようです。

(2015/11/20追記:2015年11月15日にブラザーヴェルニー公園で横須賀製鉄所着工150周年を祝う式典が日仏関係者が集まり催されたそうです。パリでの同時多発テロの直後で、小雨の天気であったようですが、粛々と駐日大使なども祝辞を述べて祝われたという事です。関係記事のリンクを置きます。Yahoo!毎日市長ブログNHK
インターネットの横須賀地域の掲示板によると小泉元総理の自宅のある三春町の京急線の駅である、堀之内駅の駅前に横須賀メソニックセンターというおそらく横須賀の基地外ロッジができる状況であるようです。こちらも私は現在のところは詳しくは知りませんが、このブログの当初の主旨と一致した成果と考えることができるかと思います。パリでのテロという悲惨な事件の後ではありますが、日本のフリーメイスンリーの歴史としては極めて輝かしいマイルストーン、一里塚であるかと思われます。ぜひこのままフランス人住居の再建からメソニックロッジが活況を帯びる都市へと進展を遂げてほしいかと思います。猿島のオベリスクやYRP野比の観覧車など私の腹案もブログで披露できればと考えています。
堀之内もHoly Nouch聖なる宝飾または、聖なる否定的な感嘆という意味に、古語や感嘆句ではあるようですがなるようです。まあなかなかの土地ですがいかがになるでしょうか。かつてのブラザーデッカーの司令長官邸などもあったようですが。)

潮風に 揺れるバラの葉 春を待ち
2012-01-03 08:54 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー

ペリー公園

日本の開国といえばブラザーペリー来航ですが、実際には種子島にポルトガル船が来航して以来常に欧米諸国は江戸幕府を通じて接触を持っていました。和歌山県にもブラザーペリー以前にアメリカ人の日本への上陸がありオベリスクが建っているそうです。

ところで横須賀、三浦半島でのブラザーペリー上陸の地といえば浦賀が有名ですが、浦賀は奉行所があった場所で、現在は造船所の跡地がありますが、もともと天然の良港であり蒸気船が近付くのに適した場所でした。実際に上陸した場所は案外知られていませんが久里浜という砂浜です。
この辺のいきさつは来航から上陸までの様々な駆け引きがあり、またそこに至るまでの欧米諸国の情報交換や欧州での政治状況など様々な要素が絡み合い極めて複雑な情勢です。

少なくともマルコポーロのジパング伝説から始まって、東方に智恵や光を求める伝統をもったキリスト教、フリーメイスンリーでは鎖国した日本という国に対して想像以上の期待をしていたことは考えられます。

上の写真が久里浜のブラザーペリー公園です。伊藤博文公の達筆な記念碑の碑文があります。伊藤博文公の人物像もなかなか興味深いところですね。碑を取り囲むようにおかれた錨(碇)はフリーメイスンリーとキリスト教のシンボルであり、まさにこの地が日米の歴史上最初にがっちりと結びついた地であることを示していると思われます。

ペリー公園

いろいろな感情があるとは思われますが、下手ないたずらは品がありませんね。その後のペリー祭りの際には修正されていました。

奥にある列柱をもった建物がブラザーペリー記念館で来航時の解説が聞けます。ヴェルニー公園の休み処と似た作りになっていることに気づいていただけると少しありがたいのですが。
周辺は松林になっていて、松林は防砂林ということもあるのでしょうが、明治維新以降は一応天皇家の象徴ととらえて差し支えないのではないでしょうか。開国の経緯が様々に絡み合うものと思われます。まあこの辺はシンボリズムの絡みでなかなか難しいですね。
(2018/10/28追記:久里浜も発電所の3本の煙突が、建て直しで1本の煙突になるとのことですが、このブラザーペリー公園の松でも気づいたことがあったので追記します。松とブラザーペリーのファーストネームのマシューと駄洒落なんですね。まあアメリカンメイスンって感じです。四福音書最初のマタイ伝です。松の英語名pine, 学名pinusも樹脂から由来する、分泌するという意味を含んでいるようで、脳下垂体とも同じ語源となるようでなかなか象徴的であるようです。)

ペリー公園ラフアシュラー

戦後にブラザーペリーを記念して出身地から送られた石。
最近ではブラザーペリー提督がフリーメイスンであったことはテレビや専門書などでもよく言われているので、多くの人が知っていることだと思います。彼はそもそもアメリカ海軍の名門の出身で、兄弟が南北戦争での海戦で活躍したのでそちらがアメリカでは有名だそうです。彼が日本に来た時にはアメリカでは伝統の大統領選挙で政権交代がありブラザーペリーはかなり宙ぶらりんな立場になってしまったため、功を焦ってかなり強引な形で日本を開国させる形となったそうです。
そのためでしょうか、本来ならばフリーメイスンを象徴する立方体の磨かれた石(パーフェクトアシュラー)ではなく明らかにごつごつとした磨かれていない石(ラフアシュラー)で示されています。

これは一つのフリーメイスンに対するフリーメイスンたちの評価を現すシンボリズムであり、時代や歴史の正当な評価というものに極めて厳密な意味付けをするフリーメイスンリーのいわゆる秘密に相当する部分だと思われます。(追記2/19:このラフアシュラーの意味については色々あるかと思います。むしろざっくばらんなブラザーペリーの人間性や日本人の評価を反映したものかもしれません。なかなかラフアシュラーの意味も難しいですね。)ここは本当に難しいですね。

ブラザーペリーは蒸気船の中で徳川幕府の役人に船内で行っていたフリーメイスンリーの儀式を見学させたそうですが、徳川幕府のお侍さんにしたら西洋の黒魔術のように思われたのかもしれません。いずれにしてもワシントンへの訪問団も後に結成されていることですし、日米友好の懸け橋になったことは確かであり、功罪あるとはいえ偉大な業績であることは間違いないでしょう。

ブラザーペリー公園の目の前には久里浜海岸が広がりバーベキューをする人たちや釣りをする人などがいます。隣には黒船食堂という食事どころもありますが、なかなかこの場所はフリーメイスンリー的には極めて重要な場所なのですが、そもそも相当のどかな寒村であったと思われ現在の状況は複雑そうです。

東京電力久里浜発電所

久里浜の現在のシンボルと言えば東京電力の横須賀発電所の煙突です。
3本の煙突がフリーメイスンリーのロッジに常にある3つの小さな光を意味すると思われます。
意味は太陽と月と地球であるとか、様々に言われています。その他にも3つの列柱や3つの偉大な光など3で代表されるシンボルは多数ありますが、頂点が正三角形の配置にみえることからもシンボルとしては3つの小さな光ではないかと思います。ロッジで一番最初に目につくフリーメイスンリーのシンボルです。電力というブラザーペリーがもたらした文明の利器を象徴するのにふさわしいものではないでしょうか。

もちろんどこに行っても確かめようはないと思います。
その場に行き勉強してそれぞれの意味を考えたときに出る結論がそれぞれのシンボルなのです。

現在原発事故後の節電の影響で、営業停止予定であったものが再開され稼動しています。

久里浜自体には少し離れたところにあるごみ焼却場の熱を利用したプールや花の国という公園もあります。久里浜公園とあわせて家族連れが好ましいかもしれません。発電所のわきにはブラザーペリー通りもありますがなかなかこちらも雰囲気が複雑です。久里浜には現在も海上自衛隊の学校があり、過去には海軍の通信学校があり終戦間際には回天特別攻撃隊などの特攻訓練や様々な通信技術の訓練が行われていたようです。その事も現在の久里浜に様々に影響しているかもしれません。

ブラザーペリー来航で久里浜よりも有名な浦賀はかなり落ち着いた高齢者の多い街です。奉行所跡や渡し船、江戸時代の灯台跡などもあり、江戸の風情を現在に残し、かつ造船ドック跡と微妙にマッチしたこれもまた散策するには面白い町です。

日本の近代史を知るうえで知らないではいられないブラザーペリー来航の地久里浜、浦賀は是非一度は訪問して損はない土地だと思います。



最近は浦賀も久里浜もめったに行くことはなくなりましたが、なかなかブログの影響もあるでしょうし、できることなら記念碑的な建築が一層進行することが望ましいですがどうでしょうか。
(2016 2/20追記:最近は浦賀のキリスト教禁教以前のフランシスコ修道会の存在や徳川家康の関係などが具体的に日本で発表されているようです。浦賀での奇跡の海渡の話などはその関連のようです。なかなかドラマチックな話であります。詳細はリンクを参照してください。)
2012-01-04 09:55 | カテゴリ:全国の市章
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
横須賀市のネタを中心としたブログなのですが、あまりに横須賀のローカルな話ばかりだと日本全国の人に共有の話題を提供できないので、今回は横須賀市のシンボルそのもの、いわゆる市章についての話にします。

横須賀市章
いわゆる八芒星という形をしています。コンパス(方位磁針)を二つ重ねたようともとれるでしょうか。中の文字はヨコを組み合わせた形となっています。
コンパスの方位を示す形はフリーメイスンリーの建物などにも良く認められる一つのシンボルです。
英語でcompassを調べるとまず最初に①方位磁針、羅針盤②製図用のコンパス③境界、区域④声域などと出てきます。つまり羅針盤そのものでもいわゆるGeographyで大事なコンパスとしてのシンボルとなるのですが、綴りが同じでありCompassだけでもいわゆる製図用のコンパスと二重にシンボルとして掛かってくるということなのでしょう。
ヨコの形はいまいちよくわかりませんが、横浜市の市章ハマの形と対をなしているのかもしれませんね。
あとは八芒星の形というのは日本全国的にも他になく、8という数字が日本や東洋で吉兆とされる数字であること、星がフリーメイスンリーのシンボルであり、五芒星や六芒星がそれぞれにシンボルとして歴史があり様々な絡みがあるのに比べて、八芒星はBlazing Starとして適切でシンボリズムとして正当であると考えられます。以上からフリーメイスンリーのシンボルとして見た際にかなりシンボリズムを良く理解してうまく作られてまとめたものだと考えられます。
ヨコの形にしてもΛと∨の組み合わせに認められるように、いわゆる接合を意味するとも考えられ、ヨの形もシンボルの一つであるAnchor(碇)を横向きにした形にも認められなかなか良くできています。

またコンパスの北の位置にNの字があるのが通常ですが、横須賀市の市章では北の位置に小さな点があります。これは恐らく北極星に相当するのではないでしょうか。北極星に相当する日本でのシンボルは天皇陛下と思われます。これだけフリーメイスンリーのシンボルが目立つ中で小さな点一つで天皇の存在を誇示するところはなかなか優れたシンボルと思われます。

以上ですが、これらはすべて推測といえるものであり、市のホームページには説明として市章の中央は市名の頭文字「ヨコ」を三浦一族の家紋「丸に三つ引」風に抱き合せてあり、周囲は港を象徴して艦船の羅針盤をデザインしました。[明治45年(1912年)3月16日制定]、とあります。三浦一族の家紋ともかかっているのですね。なかなか市章も奥が深いです。

横浜市章

で、私の出身地横浜の市章ですが、ご存じのとおりハマのカタカナをひし形にしたものです。

菱の形もいろいろと意味があるのでしょうが、日本の伝統の文様としてかなり古くから存在する形のようです。Λと∨が重なり合う形は一つのシンボリズムのパターンだと思われます。

この形で重要なのはやはりアルファベットのGの形に模していることだと思われます。Gの頭文字はフリーメイスンリーのシンボルではかなり大事なもので、God(神)、Great Architect of the Universe(宇宙の偉大な創造主)、Geometry(幾何学)、Geography(地理学)、Gnosis(グノーシス主義)などの頭文字をあらわし、アメリカ系のフリーメイスンリーではコンパスと直角定規の中心にGの文字を入れるのがフリーメイスンリーの象徴とされています。

これについても横浜市のホームページでは横浜市き章は,明治42年の開港50周年を記念して,市民から募集してつくられたもので,ハマの2字をデザインしたものが採用されました公示は同年6月5日 地質は白,き章は赤です。と書かれています。

赤や青や白の色についてもそれぞれフランスの三色旗と同じくフリーメイスンリーのシンボルでは意味があるのですが、ここでは置いておきましょう。


さてここまで見てくると日本全国それぞれお住まいの場所の市章が気になってくることだと思います。


有名どころで気になる市章、県章などを挙げていきましょうか。あくまで個人の推察であり参考にしていただければ幸いというところですが。


やはり思い入れの強いところで横浜市のシンボルについて市章以外のものを見ていきましょう。

市の花はバラだそうです。

横浜市の花
これについてももうバラがフリーメイスンリーのシンボルとして重要なことはみなさん納得されると思われます。バラについては英国貴族のシンボルであったほか、ナポレオンの妻ジョセフィーヌが栽培に傾倒し現在の品種のもとになったそうです。日本でいうところの桜みたいなものでしょう。

横浜市の新しいシンボルマーク

横浜市新しいシンボル

これについては市のホームページでは2009年、開港150 周年という記念すべき年に、ヨコハマでは、市民同士が横浜の未来を語り合い、横浜の未来像を描く「市民参加型都市ブランド共創プロジェクト"イマジン・ヨコハマ"」が行われました。市民の想いを基に、「横浜の未来像」を表したステートメントと、未来像を短い言葉や図柄で表すスローガンとロゴマークが生まれました。開港200 周年に向けて市民の皆様と共有し様々な場面でご活用いただくとともに、国内外への横浜のイメージ発信に活用していきます。ステートメントに書かれている横浜に吹く自由で開放的な風をイメージし、風車の羽をモチーフにYOKOHAMAの「Y」を表したものです。3つの異なる四角形は、横浜の多様性を表しています。様々なヒト、モノが出会い、交差する場所。横浜のシンボル的な色である青を、3つの濃さで使用することで、マークに動きを与えています。とあります。


このシンボルはもう少しシンボリズムに詳しくないとちょっと分からない形なのですが、いわゆるピタゴラスの定理 直角三角形の二辺のそれぞれの二乗の和は斜辺の二乗の和に等しい というシンボルをあらわしています。 これはいきなり言われるとなんのこっちゃという感じでしょうが、図で表すとこんな感じです。

ピタゴラスの定理
この形はフリーメイスンリーの一つの重要なシンボルであり、マスターメイスンのシンボルの一つです。数秘術とも呼ばれる、数字にそれぞれ意味を込め、回文数や象徴的な数字に重要性を持たせるフリーメイスンリーでのピタゴラス学派や古代エジプトでの建築学への意味を込めたシンボルです。

ここまででだいぶみなさんおなかいっぱいと思われますが、ここから全国的な市章と県章などの話に移ろうと思います。

と思いましたがとりあえずここまでで本日はいったん終了とします。

シンボルについていろいろホームページから画像をお借りしました。問題あればご連絡ください。


2012-01-05 09:56 | カテゴリ:全国の市章
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さてでは日本の市章について特徴あるものについてフリーメイスン的考察を加えていきましょう。
まず良く挙げられるのが豊田市の市章ですが、私としては長崎市の市章から見ていきたいです。

全国の市章はYahoo Japanで市章を検索すると出てくるサイトなどで見ることができます。

長崎市の市章

長崎市市章
いわゆるペンタグラム 五芒星ですね。内部にペンタゴン 五角形を配置しています。五芒星はウィキペディアで調べると下向きに配置すると悪魔のシンボルだとか、安倍清明のシンボルだとかいろいろと書かれています。フィフスエレメントなんて映画もありましたが、そういうものの象徴というものもあります。ダヴィンチコードでも異教のシンボルとして解説されていました。さかさまに表記することで子宮を意味するとか、東方の星を意味するとかあったと思います。
フリーメイスンリーでは五芒星はまず思い浮かべるのがOrder of the Eastern Starといういわゆるフリーメイスンリーの付属組織としての女性団体の象徴です。さかさまの五芒星でそれぞれ5つの三角形に5つのGや5つのシンボルをあてはめて象徴としています。
正統派フリーメイスンリーでは五芒星はフリーメイスンリーの特定のシンボルではないとされ、Blazing Starの一つとされています。ただしフランスのGrand Orient系では五芒星はGに対応するシンボルとして良く認められ、エプロンやイラスト、ロッジの象徴として古いものや現在のものにも認められています。
長崎市の歴史をひも解くとキリシタン大名による開港から出島、大浦天主堂の建築、隠れキリシタンの歴史、グラバー邸、原爆投下とキリスト教や開国と密接にかかわっていて、その中でもカトリック、特に明治維新後はフランス系のカトリックとの関連が認められます。
五芒星自体はアメリカ星条旗や中国の紅色旗、ベトナムや北朝鮮、旧ソ連の国旗にも認められ、これらを押し並べて考えるとフランス大東社が建国に関与した国または共産主義国に共通するようでもあります。

ペンタゴンの中にある5つの市の形についてですが、おそらくキリスト教とフリーメイスンリーに共通するAnchor 碇の変形なのではないかと思われます。(2015/8/12追記:フルールドリス、フランス王家を象徴する百合の紋章の形ですね。伝統的なキリスト教を象徴する紋章です。五芒星と5の数字と合わせてフランス系カトリックの強調であるかと思われます。フルールドリスfleur-de-lis についてはいずれ記事に取り上げたいかと思います。)


一応長崎市のホームページの正式な解説は外形は草書の「長」をデザインし、鶴の港を象徴して折り鶴の形を星状に配しています。中の5つの市の字は、安政年間に開港した5港の一つであることを表わしています。とあります。

五芒星については特にフリーメイスンリーに興味のある一般人にとっては非常に普及したシンボルであり手軽に身につけることのできるものでしょうがそれらが普及した意味というものを考えるとやはりシンボルとして奥深いものがあります。日本の高齢者にとっては日本陸軍の徽章として有名で、これらについても後に解説しようと思いますが、日本陸軍がフランスの軍制を模倣したために導入されたものだと推測されます。

また星がシンボルとして重要であるのは、天文学や占星学が古代より極めて重要な学問であり、現代の物理学、科学、宗教の基礎となる体系であることからです。星や太陽、月の周回は暦や時間の概念のもととなるものであり、時間や空間を制御するものはすなわち神の存在を証明するものとして認識されていたと思われます。

シンボルについては一朝一夕の勉強では困難でこのブログではあくまで導入として個人的意見として書かせていただいていますので、興味ある方はさらに深く勉強されるのが良いと思いますし、間違いや異論がある方は率直にコメントしていただきたいと思います。

では次に長崎に近いところで横須賀と同じく米軍基地のある佐世保の市章について見たいと思います。

佐世保市市章
これはやはり菱のマークですね。菱のマークは古来皇室で伝統的に使われてきた装飾のシンボルであるそうです。片仮名のサセホの形になっているそうです。中心には十字架があり、キリスト教のシンボルになるのだと思われます。Λと∨が組み合わさる形は一つのシンボルの形です。
佐世保市のホームページを見ると明治44年制定と書いてあります。

明治44年とか明治45年頃の市章の制定が多いですね。大正初期も多いかと思いますが、市章の制定時期も時代背景として色々興味深いところです。坂の上の雲などあり、乃木将軍の殉死等ありますが、司馬史観で知られる司馬遼太郎も元陸軍であることを鑑みると日本の現代史を再考するきっかけともなりそうです。

星のマークの市章についていろいろ興味を持って見ていくとある傾向に気付くことと思います。
それについては次回にしたいと思います。

色々疑問や異論があることと思います。率直なコメントを期待していますのでよろしくお願いいたします。

2012-01-06 10:02 | カテゴリ:横浜
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
ディアブロ(Diablo)、ディアボロ(Diavolo, Diabolo)は、イタリア語で悪魔の意。ボローニャの方言はディアベル(Diavel)。
アサシン (Assassin) は、暗殺者、暗殺団、刺客という意味を指す英単語。語源は、ハシーシュ(大麻)、差別的に大麻中毒者、ハシシン老人、ハサス(原理)など諸説ある。語源については暗殺教団を参照。
元々の意味合いとしては重要な人物を殺害した人物または団体を指す言葉である。また歴史の文脈では the Assassins は11世紀から14世紀、大シリアにおいて十字軍やザンギー朝などの諸勢力に対し暗殺を一つの手段として勢力を築いたイスラム教ニザール派を指すが、これに伴う逸話はほとんどが誤解や偏見による伝説である。同義に assassinator 、動詞形に assassinate などがある。また assassin bug と言う言葉もあり、これは吸血昆虫のことを指す。
秘密結社としてのアサシンは、イスラム教イスマイル派から分離した分派である。ペルシアのコーラサン出身のハサン・サッバーフによって作られ、東方のイスマイル派と呼ばれた。
(2013/5/11追記:assasinというハンドルネームでコメントが付いたのでブログを書き始めた最初の頃だったのですごく過剰に反応してこの内容を転記したのでした。ご了承ください。内容は赤間剛氏の著作についての紹介であったと思います。赤間剛氏の著作も陰謀論ベースではありますが、その後の約20年間の日本人のフリーメイスンリー観を規定した方だと思われます。ところどころ非常に参考になる部分がありました。)
とりあえずコメントがついたはいいんですが、内容的にやはりかなりフリーメイスンリーの秘密に触れる部分が多く、現実問題として今市町村は民主主義の最小単位であり、大阪市や阿久根市の問題でも認められるとおり実際の日本の社会での民主主義は理念と実際に乖離や矛盾が多く認められ、なかなかこのような表現の場でも色々と難しいことがあると思われます。
みなさんが色々と考えたり勉強するきっかけになることを期待しています。
で、色々なフリーメイスンで検索して出てくるブログでこのページの宣伝をさせていただいた結果、壇原照和さんという作家の方のコメントをいただきました。http://yokohamamerry.jugem.jp/?eid=192#sequel そしてブログで横浜外国人墓地でのフリーメイスンリーのシンボルの入った墓碑について触れているのでここでも取り上げることとしましょう。

カトリック墓地の中のピラミッド
横浜外国人墓地カトリック墓地にあるピラミッド

外人墓地説明
フリーメイスンリーのシンボルの解説

外人墓地1
約2年前でしょうか 盛夏に訪問した際に最も新しく作られていた墓 まだ亡くなられていない方です。 
壇原照和さんのブログでは私の知らない新しいものもあり、かなりその後多くの墓もでききれいになったのではないでしょうか。

外人墓地2

オベリスクはフリーメイスンの墓として最もポピュラーな形です。オベリスクそのものでフリーメイスンの墓、記念碑を象徴します。

外人墓地4
ロータリークラブのシンボルと一緒に併記してあります。比較的新しいですね。

外人墓地3

オベリスクはメイスンです。手前の碇のシンボルはキリスト教とフリーメイスンリー共通のシンボルです。

外人墓地5

外人墓地7外人墓地6
かなりこの当時は草が生えて整備されていませんでした。ちょうど横で造園屋さんが草刈り機で整備していました。

外人墓地8

外人墓地10
墓地の下のほうに生麦事件の犠牲者二人のお墓もありました。これはフリーメイスンリーのシンボルはありません。薩英戦争のきっかけになった事件です。極めて興味深い維新の事件です。英海軍が実質敗北したのはこの戦争くらいしかないのではないでしょうか。

外人墓地9
変形オベリスクですね。

外人墓地11
十字の入ったものもあります。

外人墓地12
ピラミッドにより近い形もあります。

外人墓地13外人墓地14

外人墓地15外人墓地16

外人墓地17外人墓地18

外人墓地20外人墓地19

外人墓地21
おそらく日本全国でフリーメイスンリーのシンボルが最も認められるところだと思います。そこには横浜での開港以来のフリーメイスン達の歴史と思いがすべて集約されているわけで、彼らの生きた証しとしての墓石とシンボルがあるわけです。現在の横浜の状況はこれらの伝統と様々に絡み合い難しい状況にあることは確かだと思われます。当時の整備されていない状況は一つのそれらの表れだったと思います。
(追記:横浜外国人墓地の公式ホームページでオベリスクのいくつかは各国の代表のシンボルだということを確認しました。個人のものではないものがあります。また事前に許可を得ず使用したことをお詫びいたします。よろしくお願いいたします。各国の代表ということはグランドロッジのものということになるのでしょう。横浜外国人墓地のフリーメイスンリーにとっての重要さが改めて理解されました。オネイダ号事件というのもあったのだと知りました。)

外国人墓地の近くにはメンバーの経営するオシャレな飲み屋もあるのでぜひ探して立ち寄ってみてはいかがでしょう。

さて横浜といえばみなとみらい地区が現在最もオシャレで発展している場所だと思われますが、この場所での最近のフリーメイスンリーの象徴を見てみましょう。

横浜みなとみらい遠景1
横浜みなとみらいの象徴と言えば何といってもランドマークタワーと観覧車でしょう。インターコンチネンタルホテルの帆を模した形も際立っていますし、その後ろのクイーンズタワーの3つに連なる形も一つのシンボルでしょう。
観覧車は英語でFerris wheelといい、パリ万国博覧会でエッフェル塔に対抗するシンボルとしてジョージ・ワシントン・ゲイル・フェリス・ジュニアという方が現在の形で最初に作ったそうです。一つのシンボルだと思います。ドコモの電波塔もシンボルではないでしょうか。ドコモについてはYRP野比の関連で後に触れる機会があると思います。

横浜みなとみらい遠景2大桟橋
象の鼻パークの風景と、大桟橋ふもとの11枚の黒い壁
11という数字はユダヤ教関連で何か大事な数字のようです。ちょっとこれはよくわかりません。フリーメイスンリーのシンボルとはわかりませんでした。

たねまる
たねまるの石碑 黒い丸石は時々認められます。横須賀にもありますがシンボルとして教わった事はありません。これから教えてもらえるかもしれません。(追記:バロットの黒ボールかもしれませんね。これは個人的には由々しき事ですが。)


イベント会場用のベンチの石 これはよくあるラフアシュラーのシンボルですね。フリーメイスンでないまだ磨かれていない人間を示しています。


喜ばしい事にパーフェクトアシュラーのシンボルもありました。やはり日本の開国後のフリーメイスンリーの盛んな横浜ならではのシンボルだと思います。わずかに積み上げられているところが象徴的です。


象の鼻パークの形です。Gの形を模しているのですがわかるでしょうか。

なかなかフリーメイスンリーのシンボリズムは説明するのは非常に難しく、かつ勉強しなければいけないことが多々あるので私自身もなかなか大変でありますが、皆様のコメントや反響を糧として今後もできるだけ続けていきたいと思います。

問題や不備、間違いなどありましたら指摘してください。


2012-01-07 18:51 | カテゴリ:その他 雑記
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
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2012-01-08 11:39 | カテゴリ:横須賀
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 らせん階段というと何を思うでしょうか?

映画「らせん」なんてのもあった気がします。

とりあえずウィキペディアから引用しときましょうか。

象徴としての螺旋

 螺旋は、運動性や生命力を感じさせる面があるので、芸術作品などにおいては、様々な意味を込めた象徴、シンボルとして用いられることも多く、作品のタイトルとなっている例も多い。また、基本的には繰り返しの構造でありながら、同じ位置をたどらず、例えば無限に上昇する構造を歴史や生命になぞらえる例もある。

螺旋階段(らせんかいだん)は、階段の中でも特に回転形のものを指し、上部からみると円形になっており、中心の柱の回りを回転しながら上昇あるいは下降する構造の階段を特に螺旋階段と呼んでいる。

現代建築においては、多く取り入れられている。デザイン性に優れ、機能的でもあることから、最近は人気が高い。

らせん階段がシンボルとなることはウィキペディアにも書かれているとおりですが、フリーメイスンリーのシンボルとしては単なるらせん階段ではなく色々な条件や意味が込められています。

ヤコブのらせん階段

ウィリアム・ブレイク ヤコブの階段

ヤコブの梯子でピンと来る方は聖書をよっぽど良く読んでおられる方か、ユダヤ教の知識がある方、もしくはフリーメイスンリーについて勉強されている方だと思います。

そもそもヤコブって誰っていうのが普通の日本人だと思います。Jacobと書くので、英語ではジェイコブ、ハリウッドの俳優などでもいる名前だと思います。

ウィリアム・ブレイクをご存じの方もあまり日本人ではいないと思われます。

ウィリアム・ブレイク(William Blake, 1757年11月28日 - 1827年8月12日)は、イギリスの画家、詩人、銅版画職人。

ウィリアム・ブレイク
ウィキペディアにある作品をいくつか転載いたします。問題あれば教えてください。

ニュートン
ニュートン

日の老いたる者

日の老いたる者

作品を見ると一目瞭然だと思いますが、彼もフリーメイスンです。現在国立西洋美術館で、同館収蔵のブラザーウィリアム・ブレイク版画展2011年10月22日(土)~2012年1月29日(日)で開催中です。主にヨブ記のエッチングです。様々なご意見評価あると思いますが、貴重な実物が見られる機会であり是非ご覧になってはと思います。同時にプラド美術館所蔵 ゴヤ 光と影2011年10月22日(土)~2012年1月29日(日)も開催中です。貴重な作品群をご覧ください。

話がだいぶずれましたが、ヤコブの梯子というのは旧約聖書の創世記28章12節でヤコブが夢に見た、天使が上り下りしている、天から地まで至る梯子、あるいは階段とウィキペディアにあります。そもそもらせん階段ではなく梯子なんですね。
らせん階段は有名なところではローマにあるトラヤヌス帝の記念柱にありますが、西暦113年にできたそうで、私も実物は見たことないですが、その後にローマの建築法として広まったということです。
一応該当部分の旧約聖書を引用します。

ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」そして恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、その場所をベテル(神の家)と名付けた。ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた。ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神が私と共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主が私の神となられるなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたが私に与えられるものの十分の一をささげます。」

聖書を読んだことが無い人にとってはこれだけでもう勘弁という気持ちでしょう。
このブログの内容は戦時中であれば確実に発禁になるような内容だと思います。
念のために言いますが、わたしはキリスト教徒ではありませんし、教会に礼拝に行ったこともありません。神社に初詣に行くような典型的な日本人の宗教観を持っています。
基本的にフリーメイスンリーのシンボリズムは特に旧約聖書の世界からシンボルを道徳的教訓として抽出してきていることがほとんどなので、聖書の通読は深い理解のためには必ず必要となります。それは必ずキリスト教、ユダヤ教への理解とつながるのですが、日本人にとってそれらは歴史的にかなり困難な要求となることは確実なので、内容をおおざっぱであれ理解していれば十分かと思います。

さて旧約聖書の解説はここではかなり困難なので、一応アブラハムとかイサクとかヤコブとかそういうユダヤ人とかアメリカ人に多く認められる名前のいわゆるユダヤ人のご先祖とされる伝説的な人々の活躍が描かれていて、その中でユダヤ人が大きく発展するきっかけとなるときに夢というのが神様からのメッセージとして非常に重要であるという話があるということが分かればよいかと思います。
この場合の階段、梯子は天につながる上昇するものの象徴として描かれ、ピラミッドや塔が高みに登り天、神に近付くという事を概念的に目指すということと同じく、フリーメイスンリーでは道徳的、人間的に高みを目指すという事で様々な必要とされる知識や振る舞いを覚えて、試練や困難を日々乗り越えることで、着実に一歩一歩高みに近付いて行く象徴ということになるかと思います。
特にらせん階段となることで、日々同じ場所を同じペースで上っているといつの間にか高い場所に達するというらせんの心理的効果を反映し、毎日同じ様な事を繰り返していながらも道徳的に一歩一歩着実に必要とされる事をマスターしていくことで、いつの間にか高い所に達するという意味もあるのだと思われます。

長くなりましたが、これでもだいぶ端折ってわかりやすくしている訳で、実際にはそれぞれマスターすべき階段の学科(いわゆる自由七科、リベラルアーツ)をそれぞれ学習する事とか、学習すべき美徳と一致した階段を上る事とかそういうのがフリーメイスンリーでは人間的修養として必須とされるのです。

ここではとにかくらせん階段がフリーメイスンリーのシンボルとして良く認められるので、それがシンボルとしてどのような意味があるのかという事をわかりやすく概説するために要約しているわけで、さらに深い勉強をしたい方はそれぞれフリーメイスンリーの英語のホームページを読まれる事をお勧めします。

で、本題の横須賀に認められる象徴なわけですが、最初はおそらくだいぶ一部で有名になってきている感じがする横須賀美術館のそれです。

横須賀美術館1横須賀美術館2

横須賀美術館3横須賀美術館4
らせん階段でシンボリズムとして大事なのはやはり1階~2階~3階へつながる形で、これはフリーメイスンであれば当たり前の話なのですが、いわゆる3階級、Entered Apprentice(徒弟)第一階級、Fellow Craft(職人)第二階級、Master Mason(親方)第三階級というブルーロッジと呼ばれるフリーメイスンリーの最も基本的なロッジ(集会場、集団)での階級を示しています。
白い色はフリーメイスンリーではCandidate 入会希望者、EA(Entered Apprentice)徒弟を意味する色とされ純白、無垢などを意味し、白と黒の対比はロッジの床のタイルに使われるものですが、世の中が善と悪や男と女が混沌と混じり合って存在している象徴とされています。
円形の窓も円で象徴するものなのでしょうが、こちらはあまり詳しくありません。世の中のものには始まりも終わりもないという意味だとか、永遠を象徴するだとかあります。特にフリーメイスンリーに特徴的ではなく、日本の国旗などにも認められるもので、この円はフリーメイスンリー特有のものではないかと思われます。(2015/2/7追記:文章も分かりづらいものとなっていますが、円のシンボリズムがフリーメイスンリー特有のものではないのではないかという意味で書いているかと思います。後述するように円のシンボリズムは新字体の円の漢字自体がトリプルタウの象徴そのものですし、円環はグノーシスの象徴であり、またスコティッシュライトでも円は多角形で象徴される階級の最上位の33階級の象徴が下向きの三角形、または上向きの三角形または円環であるようです。まあ普通に考えてもコンパスで描ける最も基本的な図形であり、象徴学の基本であり、フリーメイスンリー特有ではないかもしれませんが、フリーメイスンリーの基本的で最も象徴的な形という事を言う事ができるでしょうか。まさにグノーシスだと思われます。)

個人的には二度ほど訪問し、二度目に訪問した時はサルバドール・ダリの奇妙なマネキンが展示してありました。シュールリアリズムもシンボリズムの一つの極致であり、ダリの作品にもフリーメイスンリーと関係するものがあります。興味があれば色々と調べられるのがよろしいかと思います。

横須賀の他の場所のらせん階段については次回お話しすることとして、今回はこれで終わりとします。

2012-01-09 08:54 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
引き続き横須賀のらせん階段の続きです

前回触れたのはらせん階段の象徴としての意味と、おそらく最も新しい建物であり1-2-3階と続く形の白と黒にコントラストされた典型的なフリーメイスンリーの象徴である横須賀美術館のらせん階段についてでした。

横須賀にはこの他にもらせん階段があり、おそらくライオンズクラブかロータリークラブの中で何か語り継がれているものがあるのではないかと推測されるような、極めて強いこのシンボルへのこだわりがあります。

横須賀にはいくつかシンボリックな山があります。
最も象徴的なのは衣笠山でしょうか。春には桜並木が満開となり花見客や出店で賑わう、三浦氏の往時の居城であり数々の伝説が残されています。

私はここは春に一回訪問しただけで、桜以外には海軍海堡の建築にかかわる明治頃の記念碑が認められるだけでこれといったフリーメイスンリーのシンボルを認めることはできませんでした。(Google Earthで確認したところ展望台が3階層になっていて、一番上に羅針盤の形の方位があるようでした。十分フリーメイスンリーのシンボルですね。)

横須賀にはフリーメイスンリーと直接関係ない形でも展望台や公園などのシンボリックな公共の建築物が多く、武山という低い山にも頂上に見晴らしの良いアザレアハウスという展望台があります。武山不動もあり鐘を突くこともできますが、アザレア=ツツジはフリーメイスンリーのシンボルではなく、アザレアで検索するとその名前のロッジが認められました。

さてらせん階段なのですが、ここまで来れば横須賀在住の方はすぐにわかるわけなのですが、横須賀の最も高い山である大楠山の山頂にそれはあります。

大楠山山頂
ホームページより無断借用です。問題あれば連絡ください。
かなり変形のらせん階段です。途中の分岐が3つあり、2階の展望デッキにもつながっており、形としては3階層でしょうか。軸が二本ある形になっているようです。この軸が二本というのも実は日本にかかった一つの象徴の形だと思われます。これは実は日本=二本=ツインタワーというすごいところにも繋がるのですが。。。。 ここまで来るとさすがに普通の人はどん引きですね。
ここでは日中必ず車で上がって番をしているおじさんがいて、カップヌードルや缶ジュースを売っています。そのおじさんに聞いたところ築50年程経っているそうで、かなりさびていて登るのはかなり恐ろしいです。頂上からの富士山の光景は絶景ですが、風をかなり感じるので天候状態により登るのを検討したほうがよいかと思われます。

大楠山からの富士山
大楠山から富士山

大楠山からの葉山方面
葉山方面

なかなかの絶景ですが、登り口から頂上まで徒歩で約40分はかかり、登り口までバスくらいしか移動手段がありません。頂上には駐車場もあり車で登ることもできますが途中はかなりの急勾配で一台しか通れない道が続いています。天気の良い日でも100~200人程度しか登らないと思われます。

大楠山の頂上にも方位を示すものはありましたが、特にコンパスや羅針盤の形はしていなかったと思います。まあこれだけらせんにこだわった展望台は日本全国他にないと思います。

さて大楠山なのですが実は最近下からこの山を見ていてある事に気付きました。

大楠山遠景
矢印は後から加工したものです。青矢印が気象庁のレーダー、白矢印がらせんの展望台、赤矢印がNTTドコモの電波塔です。らせんの展望台を中心としてきれいな対称を成しているのがわかるでしょうか。これは実はある建物から撮った写真なのですが、これも後に説明します。

この図を出すとフリーメイスンリーに詳しい方であればすぐに気付くと思われます。


フリーメイスンリーのEMBLEMATIC CHART
フリーメイスンリーのシンボルを図柄として配置しそれぞれの意味を確認する目的で作成されたポスターです。この図の中での左右の柱はヤキンとボアズといい聖書の中でソロモン宮殿を作った際に神殿の入り口の左右に配置した象徴的な柱とされています。

聖書の該当部分を引用してみましょう。列王記上7章より

ソロモンは十三年の年月をかけて宮殿を築き、その宮殿のすべてを完成させた。彼の建てた「レバノンの森の家」は、奥行きが百アンマ、間口が五十アンマ、高さが三十アンマで、レバノン杉の柱を四列に並べ、その柱の上にレバノン杉の角材を渡した。各列十五本、計四十五本の柱の上にある脇廊の上にもレバノン杉で天井を造った。三列の窓枠にはめられて、窓が三段に向かい合っていた。すべての扉と枠組みの柱は四角形であり、窓は三段に向かい合っていた。彼の建てた柱廊は奥行きが五十アンマ、間口が三十アンマであり、その前にも前廊があり、柱とひさしがあった。また、彼が裁きを行う所として造った「王座の広間」「裁きの広間」には、床全面にレバノン杉の板が張り詰められていた。彼が住居とした建物は、この広間の後方の別の庭にあり、これと同じ造りであった。またソロモンは妻に迎えたファラオの娘のために、この広間と同じ建物を造った。これらの建物はすべて内側も外側も、土台から軒まで、また外庭から大庭まで、寸法を合わせて石のみで切り整えられた貴重な石で出来ていた。土台には八アンマ、十アンマもある貴重で大きな石が用いられ、その上には、寸法に合わせて切り整えられた貴重な石とレバノン杉が用いられた。大庭の周囲にも、主の神殿の内庭や前廊と同様に、切り石を三列、レバノン杉の角材を一列重ねて据えた。ソロモンは人を遣わしてティルスからヒラムを連れて来させた。その母はナフタリ族出身でやもめであった。父はティルス人で青銅工芸の職人であった。ヒラムは智恵と洞察力と知識に満ち、青銅にかけてはどんな仕事にも通じていた。彼はソロモン王のもとに来て、ゆだねられたあらゆる仕事をした。彼は青銅の柱を二本作り上げた。一つの柱の高さは十八アンマ、周囲は十二アンマ、もう一つの柱の周囲も同様であった。柱の頂には、青銅を鋳て作った柱頭を据えた。一方の柱頭の高さが五アンマ、もう一方の柱頭の高さも五アンマであった。柱の頂にある柱頭に格子模様の浮き彫りを作り、網目模様の房を一方の柱頭に七つ付け、もう一方の柱頭にも七つ付けた。このように彼は柱を作ったが、柱の頂にある柱頭を覆う一方の格子模様の浮き彫りの周りにざくろを二列に並べた。もう一方の柱頭にも同じようにした。前廊の柱の頂にある柱頭はゆりの花の形になっていて、四アンマあった。二本の柱の上にある柱頭には、格子模様の浮き彫りの側面の膨らみより上にも、二百個のざくろが列をなして取り巻いていた。もう一つの柱頭も同様であった。この柱は外陣の前廊の前に立てられた。一本は南側に立てられて、ヤキンと名付けられ、もう一本は北側に立てられて、ボアズと名付けられた。ゆりの花の形が柱の頂に出来上がって、柱の製作は完了した。彼は鋳物の「海」を作った。直径十アンマの円形で、高さは五アンマ、周囲は縄で測ると三十アンマであった。縁の下をひょうたん模様が取り巻いていた。すなわち、「海」の周囲には、「海」と共に鋳造されたひょうたん模様が、一アンマにつき十の割合で二列に並べられていた。「海」は十二頭の牛の像の上に据えられていた。三頭は北を向き、三頭は西を向き、三頭は南を向き、三頭は東を向いて「海」を背負い、牛の後部はすべて内側を向いていた。「海」は厚さが一トファ、その縁は、ゆりの花がかたどって、杯の縁のように作られた。その容量は二千バトもあった。彼はまた青銅で十台の台車を作った。各台車の長さは四アンマ、幅は四アンマ、高さは三アンマであった。その構造は次のとおりである。台車には枠の横木の間に鏡板があり、その横木の間の鏡板には獅子と牛とケルビムが描かれ、上の横木にもそうされていた。また獅子と牛の下には唐草模様が彫りこまれていた。一つの台車に四つの青銅の車輪が付いており、車軸も青銅であった。また四つの脚があり、支えがそれに付いていて、支えは唐草模様の傍らで洗盤の下に鋳込まれていた。その口は冠の内にあって、そこから一アンマ高く出ており、その口は円形で同様の作りで一アンマ半であった。口の上にも彫刻がなされていた。鏡板は四角であって丸くはなかった。鏡板の下に四つの車輪があり、車軸が台車に取り付けられていた。車輪の高さはそれぞれ一アンマ半であった。車輪は戦車の車輪と同じ作りで、車軸も縁も輻も轂もすべて鋳物であった。それぞれの台車の四隅にある支えは台車と一体になっていた。台車の頂に高さ半アンマの輪があって、台車の頂でその支柱と鏡板は一体となっていた。その支柱の表面と鏡板にはケルビムと獅子となつめやしが、そのそれぞれに空間があれば周りに唐草模様が彫りこまれた。彼はこのように同じ鋳型で、同じ寸法、同じ形に台車十台を作った。彼はまた青銅の洗盤を十作った。容量はそれぞれ四十バト、直径は四アンマ。十台の台車それぞれに洗盤が一つずつ載せられていた。五台は神殿の右側に、五台は左側に配置し、「海」は神殿の右側、すなわち南東の方向に置いた。ヒラムは洗盤、十能、鉢を作って、ソロモン王のために主の神殿でしようとしたすべての仕事を終えた。彼の作ったものは、二本の柱、柱の頂にある柱頭の玉二つ、柱の頂にある柱頭の玉を覆う格子模様の浮き彫り二つ、格子模様の浮き彫り二つに付けるざくろの実四百、そのざくろの実は、柱の頂にある二つの柱頭の玉を覆う格子模様の浮き彫りのそれぞれに、二列に並べられていた。台車十台、台車に載せる洗盤十、「海」一つ、それを支える十二の牛の像、壺、十能、鉢。ソロモン王のためにヒラムが主の神殿で製作したこのすべての祭具は青銅製で、磨き上げられていた。王は、ヨルダンの低地、スコトとツァレタンの間の粘土の豊かな所でこれらを鋳造した。ソロモンがこの祭具のすべてを並べると、それはあまりにも多く、その青銅の重さは量ることができないほどであった。ソロモンは主の神殿に置くためのあらゆる祭具を作った‐‐金の祭壇、供えのパンを載せる金の聖卓、内陣の前に左右に五つずつ置かれる純金の燭台、金の花、ともし火皿、火ばし、純金の皿、芯切り鋏、鉢、柄杓、火皿、また神殿の奥の間すなわち至聖所の扉と外陣の扉のための金のちょうつがい。ソロモン王は、主の神殿で行われてきた仕事がすべて完了すると、父ダビデが聖別した物、銀、金、その他の祭具を運び入れ、主の神殿の宝物庫に納めた。

なぜこれだけ長い部分を抽出したかというと、ヤキンとボアズという柱の名前が出てくるのはこの部分の何百倍という内容がある聖書のたったこの場面だけなのですね。しかもフリーメイスンリーの柱では柱頭の上に天球儀と地球儀が載っているのですが、聖書に出てくるヤキンとボアズでは全く違うざくろの実の装飾と格子模様の浮き彫りが描かれていて、格子模様が天球儀とか地球儀とかいう事は全く出て来ないのです。しかもなぜ、この柱がヤキンとボアズという名前であるかは謎のままなのです。ヤキンと、ボアズという名前は人名として聖書の他の部分に出てくる事はあります。それらを検討するのはこれからになりそうです。しかしこのヤキンとボアズという柱の名前はフリーメイスンリーでは世の中の二元性、対称性を象徴する最も重要なシンボルであり、入会儀式の際のリチュアルにも認められるものなのです。(9/18追記:ヤキンが基礎、ボアズが力というヘブライ語の意味であるかと思います。そもそもユダヤ王国の繁栄を願っている言葉なのですね。)フリーメイスンリーにおける聖書研究の重要性を少しでも感じ取っていただければとこれだけの長い部分を抽出して、皆さんに聖書を読む体験を感じていただければと思ったわけです。

聖書の活版印刷がグーテンベルクによって始まり、ルネッサンスが始まったとは日本人の多くが高校の世界史で教わるおそらく常識のようなものでしょうが、果たしてなぜ聖書を皆が読むことでルネッサンスが始まるのかという所は多くの日本人が本質的には理解しがたい事なのではないかと思います。それはやはり聖書を読むことでしか体験できない、実感できないものなのではないかと思われます。

キリスト教やユダヤ教という宗教の枠を超えたところにフリーメイスンリーという教えがあり、それらは戦後の日本をとらえる上で非常に重要な考え方なのですが、果たしてキリスト教やユダヤ教への理解抜きで、日本の伝統宗教の教えを守ることでフリーメイスンリーの教えに行きつくかというと非常に疑問が多いところです。この点についてはまだまだ日本においては時間と労力が必要とされる部分だと思われます。

さて横須賀のシンボルとして多いらせん階段ですが、こんなものもありました。

大楠山低い展望台低い展望台階段
大楠山の気象庁の観測レーダーの横にキノコのような形の展望台がありますが、これもまた三階層の円形ではない方形のらせん階段でした。色々念が入ってますね。上部の傘は若干ですが蜂の巣を意識した形になってるのかわかりませんが、おそらくあまり意識的ではなくこの形になったのかもしれませんね。
まあこのあたりに入るとシンボリズムもほとんど意識下の世界に入るのかもしれません。
またこのようなものもありました。

らせん非常口1らせん非常口2らせん非常口3

これらは大楠山の近くにある某病院にあるらせん階段とらせんの非常口なのですが、ここまで来るとさすがにおみそれしますね。この某病院は市内の繁華街に近いところにあったものが昭和30年代に焼け出されこちらに移ってきたそうです。同時期には衣笠病院の火事や少し離れた聖母の園というカトリックの老人ホームでも火事があったもので、多くの人命が失われたそうです。なかなか戦後の横須賀の歴史というものは壮絶なものを感じます。

市民病院バラ園
中二階にバラ園があったのですが、現在はわずかにバラを残すのみで縮小しています。(追記2/10 らせん階段もほとんどが非常用で上から下にスルスルと滑り落ちる形なのですね。シンボリズムは奥が深いです。)

また私自身は行ったことないのですが田浦梅の里の展望台もらせん階段の構造をしているようです。


ブログより借用いたしました。問題あればお知らせください。


2012-01-10 10:25 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さて新年早々からかなりディープなネタを無料で提供してきたこのブログなわけですが。

さすがに疲れてきました。

基本的にフリーメイスンリーは砂時計や大鎌で象徴されるように、人生は短く常に全力で充実して生きることを目的とするのが基本なので、フリーメイスンリーの内容そのものでいくと結構疲れます。
フリーメイスンの人が書いた文章や、フリーメイスンの人と話すと常に頭の動きが普通の人の10倍くらいで動いている感じなので私なんかにとっては心地よくもありますが、やはり通常に比べると疲労が強いです。

みなさんの疲れも相当なものだと思います。
ブラザーモーツァルトが短命なのもむべなるかなと思います。そう思っていただければ十分だと思います。

さてそういうわけで、少しフリーメイスンリーからは離れた息抜きと言ってはあれですが、YRP野比という横須賀にあって横須賀らしくない日本の情報産業の研究のかなり重要な拠点らしいところについてフリーメイスン的考察を加えていきましょうか。

実はYRP野比は横須賀市の地理的にほぼ中心部にあるので近くなのですが、ほとんど用事がないのでめったに近寄ることはありません。しかしこういうブログも始めたので、日本の情報産業に深い関わりを持ってしまった素人としては一度は見ておこうと思いつい先日のみなさんがお休みの間に自主的に見学してきました。その時に思ったことなどを書こうかと思います。
YRP野比でウィキペディアやアンサイクロペディアなど見るとなかなか歴史もあるようで、一時代前のクリントン政権時代のIT革命とは何かと言っていたような時代が懐かしく思われる内容でした。


通研通りというまあまさに城下の桜並木の通りを登っていくとまさに現代のお城のごときNTTの通信研究所が見えてきます。お城という表現がまさにふさわしい作りとなっています。組織ができたのは電電公社時代だそうですが、バブル真っ盛りの時代に建物は出来たのでしょうか。実質的に日本のCIAやMI6のような感じでしょうか。桜並木に石垣で本丸という並びはおそらく江戸時代に出来た封建制の象徴なのでしょうが、日本人の平和ボケというかなんというか美意識というか、少なくとも合理的ではない事は確かだと思われます。ソメイヨシノの桜並木はバブル期に非常に日本的という事でもてはやされた一つの形ですが、果たしてどうなのでしょう。


テニスコートにつながるらせん階段。テニスコートといえばフリーメイスンリー的にはテニスコートの誓いは三部会結成で重要なシンボルでしょうね。もちろんフランス革命にまつわるものですから正統派フリーメイスンリーとは異なります。まあこのらせん階段にそこまでの意味があるとはどうでしょうか。


二の丸方向より見た本丸の景色。ランニングの中高年の方が多いですね。
まさにお城という格好でしょうか。しかし入り口からすぐに本丸で、二の丸三の丸が後ろに控えるおかしなお城ですね。


本丸の下にある控えの間でしょうか。All Seeing Eyeを模そうとしてなんだか分からなくなってしまった、日の丸の丸を象徴としているようななんだかぼやけた形です。
シンボルの木は一つの自然の象徴なのだと思います。フランス革命時のジャコバン派全盛期にロベスピエールが敢行した理性の祭典で一つのシンボルとされたのが自然の象徴としての樹木でした。

後ろに控える二の丸三の丸でしょうか。


ヨハネの黙示録1章8節 神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」
まあ最初という意味でしょうね。ヨハネの黙示録は聖書の聞きかじりの人はあまり気にしないほうがよいかと思います。黙示録文学というのはひとつの標語や目標のようなもので、がんばろう日本みたいなものです。


へんてこな形の三角形。ドコモに近付いてきます。


突然気の抜けた感じのバラの花壇が現れます。


オシャレなカフェも突然出てきます。Rose Cafeと名前もバラにかかっていますね。
このバラの感じはなかなかフリーメイスンリーの様々な勉強をしていないとわからないと思いますが、わたしがすぐ直感的に思いついたのはフィンセント・ファン・ゴッホの白バラです。国立西洋美術館にあるおそらく日本で日本人が一番実物を見ているファン・ゴッホの作品です。


いわゆる松方コレクションを代表するものとされるでしょうか。
ついこの前まで国立新美術館で行われていたワシントンナショナルギャラリー展で最後に置いてあったファン・ゴッホの白バラがこちらです。


ファン・ゴッホの作品といえばバブル期に史上最高値で大昭和製紙の会長が買い求めた医師ガシェの肖像が日本では有名でしょうか。


手に持つのはジギタリスですかね。
この先生がファン・ゴッホの最後を看取ることになるわけですが、彼はフリーメイスンだそうです。
ファン・ゴッホ自身もオランダのプロテスタントの牧師の長男として生まれ、牧師学校で語学が不得意で牧師の道を諦め画家を志したそうです。ファン・ゴッホの絵には多くに聖書の題材をモチーフとしたものがあります。
ファン・ゴッホのバラの絵はいくつかありますが、やはり白バラの絵が有名で数も多く、サン・レミの精神病院に入院する前後に多く描かれています。彼がその後にいわゆるファン・ゴッホの代名詞ともいわれる大胆な筆致のスタイルを確立していく転換期です。
そういえば最近でもオリンパスや大王製紙などで日本企業の世襲や内部監査が入りづらい体質などが問題となっていますね。ファン・ゴッホもキリスト教社会の伝統的な風習と生涯にわたって反目しあう運命にあった人生だったのでしょうか。

さて横須賀に戻ります。


中華料理の店もあります。光の丘にかけた名前なのでしょう。


白バラの中に紅い原種のバラも少しあります。ドコモのマークや日本の国旗にあわせているのでしょうか。


パナソニックの建物が一番近くにあります。その他富士通など携帯電話機のメーカーがあるようです。


奥に行くと散歩の人が多い水辺公園があります。光の丘という名前は光ファイバーの研究とかけた名前なのでしょうか。
光というとフリーメイスンリーでは創世記1章1節

初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

この天地創造の第一日の様子から転じて光を智恵や理性のきらめきととらえ、封建制や従属から離れた啓蒙や理性の象徴ととらえます。

さて水辺公園の様子です。


全体が龍の落とし子か小型犬のような形でしょうか。


冬なのであまり生き物の気配は多くないです。


ベンチに四つのラフアシュラーがありました。


春から秋にかけて奥まで開放されているようです。


水仙が咲いていました。根に毒があるのでしょうか。
ギリシア神話のナルシスの生まれ変わりともウィキペディアにはありました。

全体に極めて小雀公園と同じ感じになっていました。なかなかどうなんでしょうか。


管理事務所の上に島津の紋所がありました。キリスト教の十字というよりは薩摩島津の紋といった感じです。


フランス料理のラ・ルーヴルです。ルーヴルといえばルーヴル美術館の前庭にあるガラスのピラミッドの照明が東芝のLEDに変更されたとやっていましたね。またルーヴルといえばレオナルド・ダヴィンチのモナリザが有名ですが、これを題材としてダヴィンチ・コードでは最後の晩餐のΛ∨に込められた謎というテーマでした。なかなか面白いですね。

最後に反対側のトンネルを抜ける前にお稲荷さんがありました。横須賀はお稲荷さんがそこらじゅうにあります。やはり日本のアイヌ系の農村地帯にはお稲荷さんは欠かせません。未開の地で最後に頼りになるのは身近な家畜というのは世界共通でしょう。

日本の情報産業の中心地は一種の護送船団方式がそのままの形で残るものでもありました。横須賀には戦前にも海軍の通信学校があった伝統もあり、現在この地でも様々な教育が行われていると思います。シンボリズムとしてはかなりあいまいなフリーメイスンリーからは外れたものであったことがお分かりいただけたでしょうか。
この地でもやはり最も印象的だったのはラフアシュラーです。これはフリーメイスンリーのシンボリズムですが、以前にも示した通りあまり好ましいものではありません。今後もいくつもの場所で認められますが、是非ラフアシュラーとパーフェクトアシュラーの教えを良く理解してパーフェクトアシュラーとなるべく努力するのがフリーメイスンの日々の勤めでもあります。

シンボリズムはひとつの言葉の定義が文脈で変わるようなものと近いところもありますが、人によって解釈が異なるようなものからは遠いものです。あくまで厳密な一神教的なものに近いのです。恣意的な解釈や悪意が感じられるような言葉遊びのようなものではなく、フリーメイスンリーのプロヴィデンスの目に象徴されるような、どの時代、どの場所、どのような状況であっても同じ意味をもつようなものとして常にシンボルとして設定され選ばれているものなのです。

そのうえで見るとやはりYRP野比にあるようなシンボリズムもどきのようなものは情報産業がバブル期以降に発達の萌芽が認められる日本的な一種の言葉遊びのようなものでしょうか。それがまたシンボリズムとして印象派の絵画に似たものとなり、小雀公園を模倣したような中にラフアシュラーが自然とおかれてしまっているのは皮肉という他言いようがありません。
ただただそこを散歩する中高年の方々の時代を思う他に特に感想を抱きませんでした。
横須賀の戦後がそこにあるという感じでしょうか。横須賀中央公園も後に触れるつもりですが、似たものを感じました。バブルという時代、ラフアシュラーで象徴されるような時代でしょうか。

ご意見ご感想をお待ちしております。陰謀論は勘弁してください。

2012-01-11 09:39 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
題名の意味がわかるでしょうか。

ここまでも何度か出ていますが、フリーメイスンリーのシンボリズムは常にフリーメイスンリー的なものに対して、常に評価するものに対して記念碑としてシンボルを残すだけではないのです。

ラフアシュラーがその典型的なものであることはここまで読んでくださった方なら分かるはずと思います。


ラフアシュラーとパーフェクトアシュラー 左はフリーメイスンの道具 直角定規、水平儀、垂直儀、二十四インチ定規、コテ、ガベル

フリーメイスンリーは15~16世紀のスコットランド、イングランドでのいわゆる実務的メイスンリーの時代よりその起源をピラミッドやソロモン神殿の石工に求めることが多く、その際に最も役に立つ石としてパーフェクトアシュラーの形の切り石が重要な石材として象徴されたものと考えられます。
つまりラフアシュラーの形には原石、材料としての意味と、まだ建築材料として準備されていない段階であるという事、これらの事が意味として含まれ、また社会や全人類、およびフリーメイスンリーの歴史や営みを一つの建築途中の神殿とたとえ、そこに対して一つの建築材として必要な形に自らを整え、永遠の神殿の資材として奉仕することを十分に建築に準備された切り石として、パーフェクトアシュラーとして表現し評価するものなのです。

この事からも単純にフリーメイスンリー的でない、フリーメイスンリー的であるという表現は実際ではないのですが、シンボリズムとしてはやはりラフアシュラーとパーフェクトアシュラーに象徴されるようなフリーメイスンリー的であるかないかという価値観での、フリーメイスンリー的な評価になってしまうのがフリーメイスンリー的なシンボリズムです。

以上を踏まえてこれまで紹介しなかった横須賀におけるフリーメイスンリー的でないフリーメイスンリー的なシンボルを見ていきましょう。もちろん私自身の独断と偏見によるフリーメイスンリー的評価であり、それらが公的に日本グランドロッジのものであるとか、そういうものではない事は十分ご理解いただきたいところであります。


観音崎の横須賀美術館などから東京湾沿いに北上していくと走水の漁港があります。
走水は地元でもきれいな湧水がある場所として古くから有名らしく、湧水をタンクに入れられる場所もあるそうです。走水漁港自体も東京湾の海流が特徴な場所でアジなどの釣り船が有名です。

ここからさらに北上します。


街並みでわかりますでしょうか。ここ最近でとてもきれいに整備された馬堀海岸という場所です。
ここは来ると非常に驚きますが、車線が広くなっていてヤシの木みたいな木が大きく茂っていて、まるでカリフォルニアかハワイの海岸線のようです。一軒家の住宅街が続いていて、横須賀横浜道路の高速道路のインターも新しく接続し人気の住宅地であろうことがすぐにわかる感じです。

さてここの目玉の海岸線の遊歩道なのですが。こんな感じです。




これをラフアシュラーというのは何ともシンボリズムとしても大胆な解釈なのでしょうが、驚くほど大量のラフアシュラーという他に表現が無いのも事実で、あまりの壮大さに唖然としてしまうものです。大小様々な大きさの切り石というよりは岩石そのままという石が整然と美しい人工的な道路の脇に圧倒的な沈黙をもって並んでいました。

これをどう解釈するかは人それぞれになるのでしょうが、フリーメイスンリーとしてはラフアシュラーであり、大量のラフアシュラーなのです。今後パーフェクトアシュラーになるかどうかは別として、そこに数え切れぬほどのラフアシュラーがある。それがフリーメイスンリーとしてのシンボリズムの解釈として正しいのだと思いました。

日本におけるフリーメイスンリーの現実、それがある意味この表現であろうと、最も新しい横須賀のシンボリズムであろうこの海岸は私に教えてくれたと思います。

フリーメイスンリーのシンボリズムは常に過去、現在、未来にわたってそれを知ろうとする者に明快な解答をもって答えてくれます。しかしそれによって知る事実は恐ろしいほどの現実であり、トルーマン大統領の言葉のようにこの世が地獄と変わらぬものであるという事と同時にフリーメイスンリーの教えの変わらぬ正しさとフリーメイスンとしての生き方のみがその解決であるという変わらぬ真理を示しています。

シンボリズムについて学ぶ事はそういったフリーメイスンリーの智恵を身につけるための基本であり、生きていく上での重要な鍵となるものであります。

さてさらに北上して横須賀の中心部に入っていきましょう。


三春町にある釣り公園です。私も釣りは好きで三浦や佐島などで釣りをしたこともあるのですが、ここは回遊しているサバなどが結構釣れる人気の公園のようですが、人の多さに驚かされました。ほとんどの人が投げサビキかサビキ釣りで釣っている状況で、ほとんどパチンコ屋さんのお魚が景品みたいな感じでしょうか。

実は知っている人は知っていると思いますが、ここにもフリーメイスンリーの貴重なシンボリズムが隠されています。


クジラのオブジェです。その他にもいくつかのオブジェがありますがその中でも日本人に一番なじみが強く、愛嬌のある形で釣り公園にぴったりの形だと思います。この形のどこにフリーメイスンリーのシンボリズムがあるのでしょうか。


わかりますでしょうか。
ラフアシュラーがありますね。さらに噴水を模した形が重要です。

かなりはっきりとしたシンボリズムできれいな黒いピラミッドが完全に転倒した形となっています。

これは捕鯨とも一部かかっているのでしょうが、やはり日本の独特の文化という点でなかなか外国人が中心のフリーメイスンリーでは釣りや魚食や捕鯨の文化は非合理的であり受け入れがたいものになるのだと思います。私自身はこのオブジェを見て、また三浦半島での釣りの現状を鑑みて陸地からの釣りは特に神奈川県ではあまり積極的にやるのはやめようと思いました。
地球温暖化や気象変動のために魚自体の数が極めて減少している事と、海洋汚染が都市部の沿岸では極めて深刻である事、また積極的に船釣りで遠出するのに比べて陸からの釣りはまさにパチンコ屋でパチンコをやっているに等しい時間を浪費する作業である事を痛感したからです。
船釣りに関しては似たような事はあっても色々産業となっている事からそういう評価は少ないようです。そもそもフリーメイスンリーでは海釣りをやるような人は少数派のようです。

いずれにしても転倒したピラミッドというのは極めてまれですが、フリーメイスンリーのシンボルの中では特殊な極めて印象の悪いものであり、横須賀で他にピラミッドのシンボルが無い分強烈な印象を残すものでした。


2012-01-12 09:43 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
東と西、日本では東日本西日本という言い方をしますが、世界では洋の東西を問わずというように、主にユーラシア大陸の西岸側、東岸側で比較の対象とされるのだと思います。

ああ、東は東、西は西、二つが共に出会うことはない、/大地と空とが神の大いなる審判の座の前に立つに到るまでは。/しかし、東も西も、境も、人種も、生まれもない、/地のそれぞれの果てから来た二人の強者が顔を合わせるそのときには。--ラドヤード・キップリング「東と西のバラード」

Oh, East is East, and West is West, and never the twain shall meet,
Till Earth and Sky stand presently at God's great Judgment Seat;
But there is neither East nor West, border, nor breed, nor birth,
When two strong men stand face to face, though they come from the ends of the earth!

大英帝国絶頂期のノーベル賞作家、英文学を代表するJoseph Rudyard Kipling の詩です。インドのボンベイで育ち、清王朝の中国、明治初期の日本を経由してロンドンに戻り、その後インド時代の乳母の子守り話などをヒントにインドの伝承などを題材に小説を書き当時の人気作家となった方です。当時の、シルクハットをかぶりステッキを持った英国紳士にとって、明治維新から20年の着物に散切り頭で西洋風を気取った日本の様子などは、まさに東と西の違いをまざまざと感じさせずにはいられない光景だったと思われます。
彼もインドにあったフリーメイスンリーのロッジに、20代の若さで加わりフリーメイスンとなって、フリーメイスンリーにかかわる詩も多数残しています。

The Mother Lodge
抜粋~Outside -- "Sergeant! Sir! Salute! Salaam!"
Inside -- "Brother", an' it doesn't do no 'arm.
We met upon the Level an' we parted on the Square,
An' I was Junior Deacon in my Mother-Lodge out there!

ロッジの外では大英帝国の植民地での階級社会があり、役職や爵位で呼び合い、敬礼など面倒くさいやり取りがあるのに比べて、ロッジの中に入ればお互いを「ブラザー」と呼び合い、仲間となれるそういうフリーメイスンリーの交わりは、イギリスの植民地では息抜きや有効な現地に関する情報交換の場であり、また本国やその他の次に移動する場所などについての情報を容易に得られる場でもあったのだと思われます。

さて東と西についてはフリーメイスンリーでは良く知られるシンボルとしてこのようなものがあります。

双頭の鷲は古来シュメール文明にも認められるシンボルだそうで、主に東ローマ帝国で国章として採用され、その後ギリシャ正教会、神聖ローマ帝国、ハプスブルク家、ロシア帝国などにも使用され、現在ではアルバニア、セルビア、モンテネグロの国旗やロシアのシンボルとしても使用されています。もともと東ローマ帝国時代に東と西の支配権を意味して双頭であったそうですが、フリーメイスンリーではヨークライトと並ぶフリーメイスンリー内の最大の団体である多段階位団体である、スコティッシュライトのシンボルとして使用されています。

スコティッシュライトは、フランスにおいてフリーメイスンリーが流行した初期にいくつもの多段階位が生まれ、それらをアメリカにおいて統合し三十三階位のスコティッシュライトとしてまとめたもので、これを行ったのがネットの陰謀論では黒い教皇と呼ばれたり、第一次大戦から第三次大戦までを予言したとされるブラザーアルバート・パイクです。彼の主要な著書がいわゆる「Morals and Dogma」で、三十三階位までのそれぞれの階位の意義が説明されているそうです。私はこれはまだ詳しく読んでいませんが、ネットでもPhoenix Masonryなどで無料で読むことができると思います。どこかで読みましたが、三十三階位を授与されたフリーメイスンのほとんどがこの本を読んでいないし理解していないというフリーメイスンリーのネットでのフリーメイスンによる批評がありました。
33という数字は3がそもそもフリーメイスンリーでは三階級に示される象徴的な数字で、それらが組み合わさりなおかつキリストの生涯が33年であったとか、ソロモン神殿が33年間保たれた(2014/8/29追記:ソロモン宮殿は第1にしても第2にしても33年保たれたという事は無いようです。確か英語の文章の説明を訳したのだと思いますが、もしかするとユダヤ戦争の開始から神殿の破壊まで33年であるのかもしれません。)とかそういう聖書からの引用が関わっているそうで、いわゆるフリーメイスンリーの多段階位の中で、陰謀説などを絡めて多くの人の注目を集める物となっているものです。
下に書かれたラテン語のモットーはDEUS MEUMQUE JUSとあり、英語にするとGod and my rightだそうで、イングランドの王室軍のモットーに由来するそうで、リチャード獅子心王のノルマンディーでの戦いなどに関係するそうです。それぞれ深い逸話から道徳的な教訓を得るフリーメイスンリーの中のさらに深い部分のスコティッシュライトのシンボリズムであり、多くの英語の本を読みこなして理解されるシンボルなのだと思います。

さて導入として長くなりましたが、横須賀における東と西の邂逅を意味するシンボルはどんなものでしょうか。
それは何と三浦海岸にあるようです。


三浦海岸は厳密には横須賀ではなく三浦市ですが、三浦の中でももっとも横須賀寄りで、夏になるとかなりの数の海水浴客で賑わう砂浜です。湘南に比べて東京湾側といっても比較的きれいに保たれている海岸で、その他にも三浦には雰囲気のあるきれいな海水浴場が多いのですが、この海岸が最も人気があると思います。かなり道が混むので車で来る際は渋滞が必至です。 
三浦市にはここ以外にこれといったフリーメイスンリーにまつわるシンボルはわかりませんが、そもそも城ケ島灯台はヴェルニーが建設したものであり、剣崎灯台もお雇い外国人のリチャード・ブラントンが建設したものであり、関東大震災で台替わりしているとはいえ灯台そのもののシンボルとしての意味は変わらないと思われます。彼らがフリーメイスンであるかは現時点では私は知りませんが、同時期に日本にいた多くのお雇い外国人はフリーメイスンであったりフリーメイスンとかかわりのあった人々であり、フリーメイスンリーにかかわるシンボルと考えて差し支えないかと思っています。


さて東と西の邂逅ですが、トイレですね。
三浦という土地柄、市の端っこでトイレという形になるのは致し方ないことだと思います。私個人は三浦市はマグロもおいしいし、野菜もおいしいし、景色もいいし、良い場所だと思いますが、フリーメイスンリー的には横須賀に比べて格段に日本的で古い価値観の地域である事は否めないでしょう。
ピラミッドはルーブル美術館の前にあるものや日本の各地のバラ園のある場所や、色々なビルなどにシンボリックに建設されることが多いものですが、この頂点がずれた形のピラミッドは日本で数か所に認められるピラミッドとして特殊な変形のものです。
なぜ三浦海岸なのかというと色々諸事情があるのだと思われますが、本来は久里浜海岸が最も場所としては適していたと思われますが、人が多くあつまるこの地が選ばれたのかもしれません。もしかすると三浦海岸にペリー来航時に様々な逸話があるのかもしれません。
頂点のずれたピラミッドがなぜ東と西の邂逅を意味するかというと、これはこのシンボルを見たときの解釈というだけで、どこかに説明があったという事はありません。
ピラミッドのシンボリズムと頂点がずれた意味、久里浜海岸や三浦海岸の歴史的意味や現在の状況を考え、それが東と西がこの場所で結びついた事を象徴するという意味が解釈として現れるという事なのです。
ただどうしても西が上で東が下とかどっちの頂点がどっちを意味するとかいう事になるのだと思いますが、それはそれぞれ違いという意味であって、どちらが優劣という事ではないのだと思います。ブラザーキップリングが言うように「東は東、西は西」まさにそれをあらわしたのがこのピラミッドの形なのだと思います。

まあそれがトイレになるという所も現実的なメリットや情勢を踏まえるとそうなることなのだと思います。トイレとして使った事はありませんが、なかなかシンボリズムとして面白いと思います。


満月とピラミッドのトイレ
なかなかシュールな写真ですが、わたしは釣りをしたり城ケ島の様々な思い出もあり、三浦市は個人的になかなか思い入れもあるのでこうしたちょっと場違いな感じのシンボルも愛着を感じます。
あまり多くの人が気付く事は少ないタイプのシンボルではありますが、これを見つけた時の感じは平易な柔らかな感動を与えてくれるものです。

月もシンボルとして重要なものであることを付け加えておきます。

さて東と西の邂逅というテーマのシンボルですがこれには実は有名なものがあります。
横須賀では西武グループ関連の建築物に良く目立つシンボルが多いのですが、これは極めて有名なものです。シンボルとしてこのブログでいう事に問題があれば伝えてください。


ネット上からの無断借用です。問題あれば教えてください。
八景島シーパラダイスの水族館と富士山の夕景


八景島シーパラダイス水族館

手前の休み処もヴェルニー公園と似た作りになっていますね。
周囲の展望台やアトラクションもオベリスクを模したものとなっているかと思われます。
この地は実は金沢区の歴史などからわかるのは、ブラザーペリーが日本に来航し、徳川将軍あてに親書を黒船の船上で使節に手渡した後に、上陸に関して水深調査をボートを出して詳しく行っている際に、アメリカの独立記念日(7月4日)に江戸城に向けて空砲を撃った場所なのだそうです。つまり江戸湾、現在の東京湾で水深が最も深く保たれている内奥部という事なのです。(2013/11/4追記:これは独立記念日7月4日ではなく、ブラザーワシントンの誕生日であるグレゴリオ暦の2月22日であったようです。横浜市のホームページを参照しました。)

ブラザーペリーの日本上陸に関しては、それ以前にもアメリカ艦船の乗組員が和歌山県に上陸した事例があり、その近くでその後トルコ艦船の座礁遭難事故があり、その地には現在オベリスクが建っています。
Kushimoto-toruko-ireihi1.jpg
その地にある日米修好記念館の説明です。
1791年(寛政3年)、ブラザーペリーの黒船来航より62年も前のこと、レイディ・ワシントン号とグレイス号の2隻のアメリカ商船が大島に上陸しました。これが公文書に記録された初めての日米間の接触であるとされています。同館では、当時の様子を解説したジオラマや写真、船の模型などが展示されています。 

このように様々な形で徳川幕府と接触を繰り返していた欧米諸国は、この強引とも思われるブラザーペリーの外交によって、徳川幕府も開国やむなしと判断し、久里浜から上陸を許可し、ブラザーペリー一行は江戸城で将軍と謁見し、後に伊豆下田、神奈川、麻布十番に米国総領事を置き、日米和親条約での開港二港、さらに日米修好通商条約での開港五港と外国人居留が認められていったのです。

このブラザーペリーの上陸に関しては様々な江戸幕府による日本的な駆け引きがあり、最初は鎌倉の地に上陸を勧めたそうですが、ブラザーペリーは遠浅の海で黒船が座礁する事を見越しており、それを拒否したそうです。鎌倉由比ヶ浜の海には源実朝が大型船を建造し直接中国との通商を行おうとして、座礁してしまったという逸話もあります。そもそも金沢八景の地は鎌倉時代より武家政権の中心である鎌倉の港として機能し、千葉からの塩を運び入れたり、中国からの通商もこの地を通してなされたそうです。
すでにシーボルト事件などを通して伊能忠能の地図などがヨーロッパに流出していたと考えられ、綿密に計算された上でフリーメイスンとして使命を帯びてブラザーペリーは来航したのでしょう。

水族館に関しては最近全国にシンボリックな観光目玉として建設されていますが、この水族館もまさにシンボリックであり、同様に品川水族館なども建物の上にピラミッドが認められ、水族館の意味、維持管理にかかわる技術や水棲生物の研究やアミューズメント施設としての存在がシンボリックな位置づけとなっているのだと思われます。これらのルーツにもフリーメイスンが関わっている事が示唆されます。

さてこの八景島のシンボルについてですが、実は面白い秘密が隠されていますが、それは次回といたします。

2012-01-13 10:06 | カテゴリ:鎌倉
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
金沢区のシンボルについて触れたので、一旦横須賀から離れて鎌倉にあるフリーメイスンリーのシンボルについて触れましょう。

八景島のシンボルについての話はまた後々話す事にします。

鎌倉といえば現在世界文化遺産登録に申請中の武家政権時代の中心地であったところです。

鎌倉のシンボルといえば一番に鶴岡八幡宮の銀杏の木が挙がったと思いますが、最近になって突風で倒れてしまったのは記憶に新しいところです。
その他には鶴岡八幡宮そのものや、段葛の桜並木、鶴岡八幡宮の鳥居や、鎌倉大仏、由比ヶ浜など観光地だけあって様々なものがシンボルとして思いつくと思います。
鎌倉駅そのものもシンボリックな時計塔の形をしていて、屋根がきちんとピラミッド型をしています。

私個人としては鎌倉のシンボルとしてはやはり鎌倉宮を挙げたいと思います。
鎌倉宮は南北朝時代に建武の新政をおこなった後醍醐天皇の皇子、護良親王が足利尊氏方に捕えられ幽閉されていた場所とされ、おどろおどろしい土牢跡が奥にありますが、実際のものではないそうです。大きな菊の御紋があり、七五三などで人気のようです。南朝の正統性など、明治天皇のお気に入りの逸話であったようで、明治維新後に復興されたり改変された神社の一つです。

同様のものに頼朝の墓の横にある大江広元の墓のさらに横にある島津と毛利の祖の墓があり、これらも明治維新後に改変されたようです。ネットで検索するとどちらも江戸時代の整備と強調してあります。私が以前訪問した際には横にある説明の石碑を直接削っている人がいてびっくりしたものでした。日本の史跡紹介の石碑の記録などはかなり怪しいものが多いですね。

さてこの他にも鎌倉には天皇家にまつわる地名が残されています。鎌倉の西口の江ノ電の乗り場がある方は小町通りとは逆側になり、若干さびれた感じとなっていますが、こちらの通りの名前は御成(おなり)通りといい、時期によっては武将の名前を書いたのぼりが電柱ごとに飾られたりとなかなか独特の雰囲気を醸し出しています。通りを過ぎると御成小学校という古めかしい門と体育館があるいかにも鎌倉らしい伝統を感じる鎌倉市立の小学校があったりします。この御成という地名なのですが、何も考えずにいると特に気付かないでいる地名ですが、実はそこに明治維新後から終戦まで天皇家の御用邸があったためについた名前と知るといかにもといった感じで納得がいきます。御成小学校の門や建物も部分的に御用邸のものを利用しているそうです。

鎌倉にはその他にも旧宮家の別荘や文人の住居、戦後の首相達の別荘などもあり、それらが現在は公開されているものや、料亭や文学館のような施設となっているなど様々なものがあり、細かく訪問するとそれぞれ現代につながる日本の歴史の多くの舞台と、その子孫の人々が多く現在も関わっている事を感じることができるので、鎌倉時代の歴史やそれ以前、それ以降のものと合わせて歴史そのものを勉強する事ができます。

ところでこのブログのテーマであるフリーメイスンリーのシンボルですが、鎌倉駅のそれもまた非常に気付きにくいものだと思いますが明らかにそういうものだと思われます。またその他にも非常に気付きにくく目立たない形で存在するのですが、それもまたこの鎌倉という日本の歴史上京都・奈良に続く古都として重要な存在である町の特徴なのだと思います。

フリーメイスンリーの歴史的には前回取り上げたブラザーキップリングが日本を訪問した際に鎌倉大仏を訪れ、それを記録しているので、ここに転載したいと思います。


往時の鎌倉大仏

「キプリングの日本発見」より

 さて、横浜から田や畑を抜けて二十マイルばかり行ったところにある海に面した町、鎌倉のことを記そう。鎌倉には青銅で造った大きな仏像、すなわち鎌倉の大仏がある。大仏は幾百年もの歳月の過ぎゆく音に耳をかたむけつつ、海に向かって、じっと座っている。この大仏についてはこれまで多くの人が、その荘厳さと、世を超越したさま、その他もろもろの側面、たとえば像の内側にある灰色の小さな聖所、像の背後にある綺麗に刈り込まれた木々の茂る小高い丘などについて、繰り返し語ろうと試みてきた。そして大仏は今もなお昔と同様に、その姿を描写したいと願う人間の思いの届き得ない彼方に座しておられる。すっかり新しくなってしまった風景の中で、目に見える神として。
 大仏の親指の爪の上に観光客が乗っている写真が絵葉書になって売られている。教養のない人間が男に限らず女も、この大仏を作り上げている巨大な青銅板の裏に、恥知らずにも自分の名前を落書きしている。考えても見たまえ、それがどんなに軽薄で、侮辱的な行為であるか!
 古風な庭園を想像してほしい。そこでは、植木の枝はさっぱりと刈り込まれ、苔はつやつやと輝き、静かな池の面からは水蒸気が立ちのぼっている。雨の降ったあとに太陽が強く照りつけているからだ。そして青銅の緑色に身を包んだ、法の師である大仏は、香の煙の中に半分隠れるように、揺らめく空気の中に座っておられる。大仏にとってそのとき大地はそのまま香炉となる。何百万といる蛙どもは、その空気をどよめかせる。
 あまりにも暑い日なので、わたしは何もせず、ただ石の上に座って大仏の目を見ている。大仏の目は伏し目である。それはすべてのものを見尽くした末に、もはや何も見ようとはしていない目で、頭は前に軽くうなだれ、単純な線の流れに表された巨大な衣の襞が、その腕と膝とを蔽っている。遠い昔、弟子の阿難陀が数々の問いを投げかけた時も、釈迦は今私が見ている姿と同じ姿勢で座っておられたはずである。その後におもむろに唇が動き始める。そしてその瞑想家はもっと遠い昔の日々のことを夢想し始める。仏典は「彼は語られた」と記すが、釈迦はきっとこのように夢想の後に語り始められたのだ。今も東洋の瞑想家たちはそのように語り出す。
 「遠い昔、提婆達多がベナレスの王であった頃、徳の高い象と、邪な牡牛と、物分かりの悪い王が住んでいた――」、そして釈迦はこの話から、阿難陀に一つの教訓を引き出して諭されたあと、次のように締めくくられる。「さて、邪な牡牛とは、だれそれ、物わかりの悪い王とは、だれそれ、そして徳の高い象とは、阿難陀や、私のことなのだよ」
 釈迦はその昔、このような話を竹の林の中でされたのだが、その竹の茂みは鎌倉に今もそのままある。青色や灰色や青味をおびた灰色の衣をまとった小柄な人々が今日もその蔭をよぎり、線香を数本買っては、聖所へと入っていき――その聖所とは大仏の身体の中の事だ――、しばらくするとにこにこしながらまた現れて、木立の向こうへ消えていく。池の中では、まるまると肥えた鯉が上から落ちてきた木の葉をぱくっと呑みこむ。まるで世の男がかわいい娘から接吻を盗むときのように邪な音を立てて。大地は静寂のなかで蒸されて、水蒸気をあげている。そこに、羽を広げると十五センチは優にあるような、絢爛たる巨大な蝶が一羽、極彩色の線をジグザグに描きながら、御仏の額のあたりに向かって、ひらひらと舞い上がっていく。
 仏陀は言われた、すべてのものは仮象であると。光さえも、色さえも。幾星霜を経た青銅の大仏の青鈍色も、その背後にある松の濃い青緑色も、竹の淡いエメラルド色も、少女の着ている着物のシナモン色も、帯のレモン色も、その娘が髪に挿している髪飾りの珊瑚色も、その娘が寄りかかっている、風雨にさらされた石の色も、茶店の藁葺き屋根の蜂蜜色も、その店の畳の黄金色も、畳の上の瓶に挿してある一枝の躑躅の、血のような真紅の色も、仏陀によればすべて仮象なのだ。
 たしかに、金銀への執着は、しばしば邪悪な思いを誘うこともあろうから、断ち切らねばなるまい。そのことは、わかる。しかし、人間の心を楽しませてくれる色、心を明るくしてくれる光、最も奥深い胸の憧れを満たしてくれる線の流れ、こうした目の喜びを、なぜ放棄しなければならないのだろうか。ああ、菩薩よ、あなたがご自身の姿を一度ご覧になるべきではないのですか!

 庭の入り口には古びた立て札があって、そこには少しく悲壮感がただようが、なかなか堂々たる訴えの言葉が書いてある。それはこの寺の僧が書いたもので、この寺を訪れる観光客に向かって、仏像に対する敬意と良識ある振舞いを求めるものである。それを私は詩の形に直してみた。こんな具合に――。

トペテの谷の脇を抜け、最後の審判の日をめざし
細い道を行くきみたちよ
「異教徒」たちが鎌倉の御仏を拝んでも
寛容な心で見守ってほしい

れっきとした道にして、法――きみたちのとは違うだろうが
母なるマヤ夫人の懐にいたお方
お弟子アーナンダにとっては主、また菩薩
鎌倉の大仏はそのようなお方

自分は鎌倉の子らのごとく、罪人ではないと
きみがきみらの神に感謝しようと
御仏は憤りもなさらず
見ようとも、聞こうともなさらない

だが、西洋流の嘲笑だけはやめたまえ
鎌倉の御仏を拝む小さな人々の小さな罪が
線香によってよい香りのする煙へと
変わっていくのを見るとき

灰色の衣に、明るい色の帯を締めた人たちが
伏目の御仏の蔭を蝶のように行き来する
御仏は神秘の彼方に居ますお方だが
鎌倉の子らを愛しておられる

高慢という罪に捉われず
他の宗教の教義と僧侶を貶めない者なら
広い東洋を蔽う東洋の魂を
この鎌倉で、この御仏に感じることができよう

然り、アーナンダがその昔、主から聞いた物語
偉大なる師が、魚や獣や鳥の姿をかりて
この世での輪廻転生を経られたという物語を
暖かい風は鎌倉まで運んでくる

一緒に聞こえてくるのは
デーヴァダッタの支配力が強くならないうちにと
鎌倉で御仏を拝みながら、輪廻転生の梯子を
一段、また一段と上りつつある人々の魂の声

半眼の瞼は見ておられるようだ
遠いシュエ・ダゴンの黄金の塔の頂から
燃える炎が発して東方に向かい
ビルマから鎌倉までの道を渡ってくるさまを

濃密な空気は世界の果てから鎌倉までの隔たりを
越えて運んでくる
チベットの太鼓の響きと
ゆるやかな「蓮華のなかに宝珠がある」という呪文を

だがバラモンはいまだにベナレスを支配し
ブダガヤ丘の仏跡は荒れるがまま、そして
牛肉を貪り食う狂信者たちは
鎌倉へと迫り、御仏を脅かす

大仏などは観光用の見世物、たんなる伝説
黄金の剥げかかった青銅の塊
それだけ、いやそれ以下としか、きみたちには
鎌倉の意味は映らないのか

だが朝の祈りを終え
法外な儲けを狙う戦へと出かけて行く前に、考えてみたまえ
きみらが崇める神の子のほうが
鎌倉の大仏より身近だと、きみには確信できるのか
――「鎌倉の大仏」


抹茶アイスを食べるオバマ大統領

さてここからが本題のフリーメイスンリーのシンボルについてですが、鎌倉ライオンズクラブの記念碑が日野俊基の墓の近くの葛原岡神社にありました。源氏山公園の近くです。

これとは違うものですがかなり有名な場所にありました。

次回にしようと思います。


2012-01-14 08:30 | カテゴリ:テレビ
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
テレビの話などしましょうか。

最近はテレビCMでもフリーメイスンリーを意識したものが多いですね。
きゃりーぱみゅぱみゅとか非常に意識したPVみたいですね。
スズキの車の宣伝も非常に意識されているみたいです。ジャニーズは全体に意識が強いですね。

その他あまり気付く人は少ないかもしれませんが、住友林業のCMでもロゴが出る際に出る音がモーツァルトの魔笛の笛の音を意識されているようです。

年末も紅白やTV東京の歌番組などが強烈に意識したセットでしたが、
ダウンタウンのバラエティーも結構意識したもののようです。

フリーメイスンリーに関する知識はデザインやマスメディアの中では汎用されているのが実際なので色々知っていると様々な機会で気づかされる事があり、何かのきっかけになるかもしれませんね。

(追記2/21:高須クリニックのCMもヤキンとボアズの柱を意識してるみたいですね。まあ何なんでしょうか。)
2012-01-15 17:15 | カテゴリ:その他 雑記
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
いろいろ教えてくださった公園管理の方々ありがとうございます。
このブログを読んで全国から色々な人が来て質問するかもしれませんが申し訳ありません。
2chにブログの宣伝を書き込むと小学生から老人まで様々な人が見るようですが、
フリーメイスンリーは基本的にきちんと働いていて世間的に評判の良い成人男性に向けた存在です。
Wikipediaより抜粋します。
入会資格として何らかの真摯(しんし)な信仰を要求しており、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教(以上アブラハムの宗教)の信徒はもちろん、仏教徒などであっても入会できるが、無神論者、共産主義者は入会できない。たとえ信仰する宗教があったとしても、社会的地位の確立していない宗教(例として新宗教各派)である場合は入会できない。ただし、特定の宗教を信仰していなくても、神(あるいはそれに類する創造者)の存在を信じるものであれば、入会資格はある。これらの信仰を総称して、「至高の存在への尊崇と信仰」と呼ぶ。

そのほかの入会資格として、成年男子で、世間での評判が良く、高い道徳的品性の持ち主であり、健全な心に恵まれ、定職と一定の定収があって家族を養っていること、身体障害者でないことが求められる。

またロータリークラブ、ライオンズクラブとは直接の関係はありません。それらと関連したような建物にフリーメイスンリーの教えや考え方が反映されているというだけです。人類にはさまざまな育ちや環境、能力や宗教などがありますが、人類として共通の感情や理解、知性や理性をもちうる事もまた事実であります。個々人の能力や特性をお互いに向上しあう事で、それらをつなぎ人類共通の課題や問題に対して協力して取り組む事が出来るような洗練されたやり方、それの一つでありかつもっとも歴史的に古く、世界で最大のものがフリーメイスンリーだと思われます。よって日本ではさまざまな偏見や誤解が存在する事も事実でありますが、それに対して具体的に関心を持って正しい認識をもっていただくことはフリーメイスンリーにとってもそうでない人にとってもお互いにとって価値のある事だと思いこのブログを始めました。
さまざまな利害関係や権利関係がどの建物や作品群にも関係している事と思います。具体的に問題がある際にはいつでも連絡ください。


2012-01-16 14:03 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
ウィリアム・アダムスという人を知っているでしょうか?

三浦按針というと知っている人は知っているかもしれません。
毎回ですがウィキペディアで調べてみましょう。

ウィリアム・アダムス(William Adams, 1564年9月24日 - 1620年5月26日(元和6年4月24日))は、江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイギリス人航海士・水先案内人・貿易家。日本名の三浦 按針(みうら あんじん)としても知られる。

按針の墓は長崎県平戸市の崎方公園にある。また神奈川県横須賀市西逸見(にしへみ)町の「塚山公園」には按針夫妻の慰霊碑があり、1923年3月7日、国の史跡に指定された。

イングランド南東部のケント州ジリンガムの生まれ。船員だった父親を亡くして故郷を後にし、12歳でロンドンのテムズ川北岸にあるライムハウスに移り、船大工の棟梁ニコラス・ディギンズに弟子入りする。造船術よりも航海術に興味を持ったアダムスは、1588年に奉公の年限を終えると同時に英国海軍に入り、フランシス・ドレークの指揮下にあった貨物補給船リチャード・ダフィールド号の船長としてアルマダの海戦に参加した。翌1589年にはメアリー・ハインと結婚し、娘デリヴァレンスと息子ジョンを儲けている。しかし、軍を離れてバーバリー商会ロンドン会社の航海士・船長として北方航路やアフリカへの航海で多忙だったアダムスは、ほとんど家に居つかなかったといわれている。

航海で共に仕事をする中でオランダ人船員たちと交流を深めたアダムスは、ロッテルダムから極東を目指す航海のためにベテランの航海士を探しているという噂を聞きつけ、弟のトマスらと共にロッテルダムに渡り志願する。航海は5隻からなる船団で行われることになっていた。
司令官のヤックス・マフはアダムスをホープ号の航海士として採用する。こうして1598年6月24日、船団はロッテルダム港を出航した。
だが航海は惨憺たる有様で、マゼラン海峡を抜けるまでにはウィリアムとトマスの兄弟はリーフデ号に配置転換されていたが、トマスが最初乗船していたトラウ号は東インド諸島でポルトガルに、フライデ・ボートスハップ号はスペインに拿捕され、1隻はぐれたヘローフ号は続行を断念してロッテルダムに引き返した。生き残った2隻で太平洋を横断する途中、ホープ号も沈没してしまい、極東に到達するという目的を果たしたのはリーフデ号ただ1隻となった。その上、食糧補給のために寄港した先々で赤痢や壊血病が蔓延したり、インディオの襲撃に晒されたために次々と船員を失っていき、トマスもインディオに殺害されてしまう。こうして出航時に110人だった乗組員は、日本漂着までには24人に減っていた。 
1600年4月29日(慶長5年3月16日)、リーフデ号は豊後の臼杵に漂着した。自力では上陸できなかった乗組員は、臼杵城主太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏んだ。太田は長崎奉行の寺沢広高に通報。寺沢はアダムスらを拘束し、船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収したのち、大坂城の豊臣秀頼に指示を仰いだ。この間にイエズス会の宣教師達が訪れ、オランダ人やイギリス人を即刻処刑するように要求している。
5月12日(慶長5年3月30日)、家康は初めて彼らを引見する。イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船だと思い込んでいた家康だが、路程や航海の目的、オランダやイギリスなど新教国とポルトガル・スペインら旧教国との紛争を臆せず説明するアダムスとヤン=ヨーステンを気に入って誤解を解いた。しばらく乗組員達を投獄したものの、執拗に処刑を要求する宣教師らを黙殺した家康は、幾度かにわたって引見を繰り返したのちに釈放し、城地である江戸に招く。

江戸でのアダムスは帰国を願い出たが、叶うことはなかった。代わりに家康は米や俸給を与えて慰留し、外国使節との対面や外交交渉に際して通訳を任せたり、助言を求めたりした。また、この時期に、幾何学や数学、航海術などの知識を家康以下の幕閣に授けたとも言われている。帰国を諦めつつあった彼は、1602年頃日本橋大伝馬町の名主で、家康の御用商人でもあった馬込勘解由の娘、お雪(マリア)と結婚した。彼女との間には、息子のジョゼフと娘のスザンナが生まれている。
やがて江戸湾に係留されていたリーフデ号が沈没すると、船大工としての経験を買われて、西洋式の帆船を建造することを要請される。永らく造船の現場から遠ざかっていたアダムスは、当初は固辞したものの受け入れざるを得なくなり、伊東に日本で初めての造船ドックを設けて80tの帆船を建造した。これが1604年(慶長9年)に完成すると、気をよくした家康は大型船の建造を指示、1607年には120tの船舶を完成させる(この船は1610年になって、房総の御宿海岸で遭難し地元民に救助された前フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベロに家康から貸し出され、サン・ブエナ・ベントゥーラ号と名付けられた)。

この功績を賞した家康は、更なる慰留の意味もあってアダムスを250石取りの旗本に取り立て、帯刀を許したのみならず相模国逸見(へみ)に采地も与えた。また、三浦 按針("按針"の名は、彼の職業である水先案内人の意。姓の"三浦"は領地のある三浦半島に因む)の名乗りを与えられ、異国人でありながら日本の武士として生きるという数奇な境遇を得たのである。のち、この所領は息子のジョゼフが相続し、三浦按針の名乗りもジョゼフに継承されている。
家康に信頼された按針だが、1616年(元和2年)4月に家康が亡くなり、後を継いだ徳川秀忠をはじめ幕臣たちの方針で貿易を平戸のみに制御し鎖国体制を敷いたため、按針の立場は不遇となった。以降の按針の役目は天文官のみとなり、幕臣や次期将軍候補の徳川家光らに警戒されながら、按針は憂鬱の状態のまま、1620年(元和6年)5月26日に平戸で没した。57歳であった。 


さて長々と転載いたしましたが、関連項目として以下のものがありましたのでこれも転載いたします。


ヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン(Jan Joosten van Loodensteijn , 1556年? - 1623年)は、オランダの航海士、朱印船貿易家。日本名は耶楊子(やようす)。

来歴
オランダ船リーフデ号に乗り込み、航海長であるイングランド人ウィリアム・アダムス(三浦按針)とともに1600年豊後に漂着。

徳川家康に信任され、江戸城の内堀内に邸を貰い、日本人と結婚した。屋敷のあった場所は現在の八重洲のあたりだが、この「八重洲」の地名は彼自身に由来する。「ヤン=ヨーステン」が訛って「耶楊子」(やようす)と呼ばれるようになり、これがのちに「八代洲」(やよす)となり、「八重洲」(やえす)になったのである。


さて長々とコピペしましたが、ウィキペディアは権利関係は大丈夫なんでしょうか。まあ悪意もあるわけでも商用目的でもないので大丈夫だとは思いますが、この内容のポイントがいくつかあります。まずイギリス人として初めて日本に上陸した記録の残る人物が彼であること。バーバリー商会に勤めていたこと。ドレーク船長麾下の半国軍の船であったこと。弟の名前がトマス、日本人妻の名前がマリア、子供の名前がヨセフとすべて新約聖書の重要人物の名前であること。激しい新教と旧教の対立が極東の日本でもあったこと。三浦半島に所領を与えられて住んだこと。家康死後は不遇の後に平戸で死亡し墓があることでしょうか。
また息子のジョセフについてもウィキペディアに項目があったのでこれも転載いたします。

ジョセフ・アダムズ / 三浦 按針(二代目)(Joseph Adams, /みうら あんじん、1605年 - 没年不詳)は、江戸時代初期に徳川秀忠、徳川家光に仕えた旗本(禄高は相模国三浦郡逸見250石)。

徳川家康・秀忠に外交顧問として仕えたイギリス人船員・ウィリアム・アダムス / 三浦按針(初代)の息子で、イギリス人(イングランド人)としては「ジョセフ・アダムズ」と名乗る。母は馬込勘解由の娘の雪。妹にスザンナがいる。また、父の故郷のイングランドのケント州ジリンガムには、義理の母のメアリー・ハインと、異母姉のデリヴァレンスと異母兄のジョンがいる。叔父はトマス・アダムスである。

慶長10年(1605年)ごろ生まれる。元和6年(1620年)5月16日、父が57歳で没すると家督と所領を相続し、名乗りを継いで二代目三浦按針となる。父からは佩刀の大半も相続した。ジョセフは父の手によって航海士としての訓練を施されており、船員として航海にも参加していた。 元和10年(1624年)と寛永12年(1635年)にはコーチシナへと航海している。

そのころには、海外貿易にも積極的だった家康が既に没し、消極的な秀忠の治世になっており、次代の家光に至っては排他的な鎖国主義者のために、朱印船貿易は徐々に制限が強化されるようになっていた。しかし、ジョセフは最後まで朱印状・奉書を給付され活動を保証されていた。寛永9年(1632年)まで貿易を行っていた記録が残り、また同13年(1636年)付けの棟礼が現存するといわれ、鎖国直前までは活動が確認できる。

その後の消息は定かでない。死後は領地の三浦に埋葬されたというが、詳しいことは不明である。

うーん。三浦に白人の血が残っているのでしょうかね。
いずれにしても安針塚という場所があります。そこがこの三浦按針の所領だったところ、逸見に当たるところです。

さて今回の場所はこの安針塚、塚山公園になるわけですが、三浦按針の逸話ですが、これにはいくつかの重要な要素が欠けています。彼が日本にたまたま来た時代はまさに1600年という日本史的に非常に重要な時代です。まさにこれから関ヶ原の合戦が始まろうと、石田三成以下西軍方と徳川家康以下東軍方で小早川秀秋に代表されるような裏切りと策謀の駆け引きが真っ最中の只中に放り込まれた訳です。この時世界はいわゆる大航海時代終盤であり、いわゆるポルトガルとスペインによる世界の分割がなされたのちに、イギリス海軍がスペイン海軍を破りエリザベス一世配下の海賊ドレーク船長が世界一周を成し遂げ、まさにその後の大英帝国の礎を築き始めたそんな時なのです。イエズス会の修道士たちは織田信長から豊臣秀吉、果ては豊臣家と徳川方との争いを全てを知りつくし、伊達や島津、琉球からフィリピン、上海、香港、インドまで全て知り尽くしていた状況です。そこにまさにウィリアム・アダムスは血気盛んな船乗りとして放り込まれるわけです。お気づきかもしれませんが、状況としては極めてジョン・万次郎に似ている感じですね。
按針という名前は水先案内人という意味とありますが、まさに羅針盤を操るコンパスを手にした人間ということです。当時はもちろんフリーメイスンリーのグランドロッジ結成前の時代で、ウィリアム・アダムスの経歴からいって、それ以前のロッジに加入するようなフリーメイスンである可能性はほとんどないわけですが、彼が行った行動、その他を見るに典型的なキリスト教精神に基づく不屈の精神で日本で生涯を全うしていることが分かると思います。彼らの存在により、今日に至るまで続くような日本の伝統宗教である仏教・神道とキリスト教との宗教対立のもとになるような江戸鎖国体制を促進した影響はあるものと思われます。

さてウィキペディアではあえて書かれていないのだと思いますが、この人の日本史史上の最大の功績はジェームズ1世に親書を送り、大阪冬の陣で徳川方にイギリス製の最新の大砲を売ったということでしょうか。この事はあまり日本史で述べられることはありませんが、実際には日本の歴史をほぼ決定するような重要な活躍をしたと言えると思います。彼の存在によって当時難攻不落を誇っていた大坂城が和睦に応じ、その後の大坂夏の陣での豊臣氏の滅亡につながり、徳川幕藩体制の確立につながるわけです。

これに関してと言ってはあれですが、実は豊臣氏の日本統一に関してもこれと似たような事例があります。豊臣氏の日本統一といえば一般には小田原城での北条氏の滅亡をもって全国統一とされていますが、実はこの時に籠城戦で小田原城は何年も持ちこたえる構造をしていました。小田原城はそもそも特産のかまぼこで知られるように相模湾の海流の関係で目の前の漁場が非常に豊かであり、また当時の戦国時代の築城技術の粋を集めていたために、広大な城の範囲と内部での耕作や井戸をもち合わせ、難攻不落というよりもいわゆるヨーロッパの城郭都市と同じ形で、内部で循環する経済があり長期戦を維持する補給があったのです。このためいくら籠城戦を戦おうともお互いに疲弊するのみで、いわゆる食料や水が足りなくなることが無いのでした。ただ籠城戦自体神経戦の部分が強く、籠城する側は圧倒的に不利であり、小田原城攻城はすでに北条氏が仲間が全くいない状態で、頼りの伊達氏や島津氏にも包囲されている状況だったので、落ちるのは時間の問題であったのです。その際に最後の決め手になったのが石垣山一夜城の出現であったといわれています。小田原城を見降ろす石垣山の頂上に、日本で最初の西洋流の石組をもった石垣城を建築し、一夜で建築したように隠していた幕を取って小田原城に見せつけることで、その築城技術や建築技術の高さを誇り、そこから弓矢や鉄砲を打ちおろすことで、完全に籠城方は戦意を失い当主が切腹することで敗北を決したということです。(4/1追記:北条氏と交渉にあたったのは後にこのブログでも取り上げた黒田官兵衛だそうです。)豊臣氏、徳川氏ともに天下統一の決定的な瞬間で宣教師や三浦按針がもたらした西洋の進んだ軍事技術が決め手となっているのが実は日本の戦国時代の真実なのです。(追記:石垣山一夜城については、ウィキペディアなどでも編集がすすんで、基本的には関東で最初の本格的な石組というところで落ち着いているようです。実際は豊臣秀吉は織田信長以来の宣教師との関係が密であり、安土城でも西洋建築の影響が大きく認められるところであり、この石垣山一夜城においてそういう西洋建築の影響が大きく認められ、それが威嚇効果を良くもたらした事は想像できます。なかなか日本史の常識は簡単には変わらないという一つの例だと思われます。)

石垣の技術なんていうとまさに石工の技術そのものであり、フリーメイスンリーの源流を感じさせる出来事だと思います。

次回はそのウィリアム・アダムスを記念した安針塚のある塚山公園の現在についてフリーメイスンリー的考察を加えます。

2012-01-17 12:58 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
安針塚の続きです。


塚山公園は人がいません。


神奈川県民には懐かしい長洲一二さんの揮毫があります。


公園はこんな感じです。

海の見える丘からの風景はこんな感じです。金沢文庫方面


横須賀本港方面


久里浜方面 建物の上にらせんが見えますね。


見晴らし台からの金沢文庫方面


見晴らし台付近からの大楠山方面


園内の休み処


チェッカーの床と三角の椅子


保存会の看板


安針塚です。奥さんの墓と並んでいます。実際にはお骨は入っていないそうです。


戦前の漢文の石碑が見えない方向を向いていました。


坂を下りたところにある弘法大師の碑。荒れ放題でした。


とんがり屋根の民家。YRP野比のラ・ルーヴルそっくりです。


鹿島神社があります。


並んで浄土寺があります。


港の見える丘からの八景島方面。他のブログよりお借りしました。
綺麗に重なる角度で撮っていますね。実際にはここまで重なりません。
これが八景島のシンボルの秘密ですが、安針塚からみるとちょうどずれたピラミッドが重なるような角度になっています。安針塚から江戸を見た時にそれがちょうど東洋から西洋を見たようにウィリアム・アダムスが望郷の念を抱いたように、横須賀から東京を眺めるとそうなるのか、なかなか確実な説明はないでしょうが、ずれたピラミッドが一体に見える場所が安針塚であるという事は、歴史と共に我々に一つの答えを与えてくれるのではないでしょうか。東西の邂逅、それは偶然でもなく必然であり共に同じ形を作っていたのだということでしょうか。

三浦按針がフリーメイスンでないことは恐らく異論はないところだと思います。彼がフリーメイスンとして考えてふさわしいかどうか、それはこの公園に答えが一部あったのだと思います。
彼が実際には平戸に移り、そこで望郷の内に死亡し墓があることと、この安針塚が現在まで墓として奥さんの碑と共に横に並んで保存されている事は、蝶々夫人の逸話を見るまでもなく、東と西、この遠くて古い関係が現在に至るまで本質的には変わらずにあり続けるという事を端的にあらわしているのかもしれません。

神社と寺と碑の関係、および周辺の谷津の寒い環境なども日本の封建時代と現代の状況を鑑みるのに非常に示唆的なものだと思われます。日本の国際化、それを考える時、この三浦按針の足跡はわれわれ日本人に大きな教訓を与えてくれるものだと思います。

多くの方に訪問していただきたい場所ではありますが、周辺に駐車場などはあまりなく横須賀は駅からの徒歩が基本の場所が多いので、是非訪問する際はよく調べて来られることをお勧めします。

ウィリアム・アダムスは紀行記を本国に送っていて、それを基にしてガリバー旅行記の日本の部分は描かれたそうです。またガリバー旅行記で描かれたラピュータと呼ばれる天空に浮かぶ島の話はニュートンを代表とするフリーメイスンリーの啓蒙科学に対する批判のようです。天空の城ラピュタのもとになったお話ですね。「バルス」は特に秘密の暗号としては知りません。(2/13追記:ガリバー旅行記の作者はブラザースイフトでフリーメイスンです。)(4/1追記:バルスという呪文は恐らく昴とかかっているダジャレではないでしょうか。昴はプレアデス星団という肉眼で6-7の星が集まって見える星団で、集まるという意味で統べるという和語からすばるという名前が付いたようです。そういう意味でラピュタの映画は意味の解釈ができるのかと思います。日本のアニメも教訓的ですね。)

次回は鎌倉のフリーメイスンリーのシンボルをやります。


2012-01-18 10:24 | カテゴリ:鎌倉
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
鎌倉のフリーメイスンリーのシンボル

これを言われて想像がつく人はいるでしょうか。
前に鎌倉駅の時計台について触れました。あれもそれをフリーメイスンリーのシンボルと考える人はほとんどいないと思います。

それ以外でそれらしいものが鎌倉にあったでしょうか。

詳しい人は江の島の展望台や灯台がそうなのではないかと考えるのではないでしょうか。江の島の植物園はサムエル・コッキングさんというイギリスからの横浜外国人居留地の方が造られたそうです。奥さんが日本人で、フリーメイスンかどうかは全くわかりません。私はこの植物園は行ったことがありません。カナダ、ウィンザー市から送られたバラ園があるそうです。

しかし御存じのとおり江の島は藤沢市です。

明治天皇の歌碑がある場所があります。

明治天皇御製
新田義貞

投げ入れし剣の光あらわれて
千尋の海もくがとなりぬる

海軍大将岡田啓介謹書

他のブログからのコピペです。

鎌倉・南北朝時代の武将、新田義貞は、元弘三年(一三三三)五月、一族を集めて討幕の挙兵をし、
二十二日、干潟になった稲村ヶ崎の海岸線を突破して鎌倉になだれ込んだ。
鎌倉中が戦場と化し、幕府軍の善戦及ばず、東勝寺へ逃れた北条高時ら一門は自害し、幕府は滅亡した。
「太平記」(巻第十 稲村崎干潟と成る事)に次のように記されている。
げにもこの陣の寄手、かなはで引きぬらんも理なりと見給ひければ、義貞馬より下りたまひて、
冑を脱いで海上を遥々と伏し拝み、龍神に向かつて祈誓したまひける。
(略)みつから佩きたまへる金作りの太刀を抜いて、海中へ投げたまひけり。
まことに龍神納受やしたまひけん、その夜の月の入り方に、
先々さらに干る事も無かりける稲村崎にはかに二十余町干あがって、平沙渺々たり。
横矢射んと構へぬる数千の兵船も、落ち行く塩に誘はれて、遥かの沖に漂へり。不思議と云ふもたぐい無し。

実際には満潮干潮でそれほどの砂浜が出現することもなく、膝をつかりながら磯伝いに侵入は可能だが防御される可能性は高く、内通者や地元の人の手引きがあって山越えで突破したのではないかというのが事実みたいです。いずれにしても南朝びいきの明治天皇お気に入りの逸話であったようで、明治以降太平記の最も有名な部分として巷間に知れ渡っているエピソードだと思います。剣を投げ込んで海が割れたというと、聖書を知っているとすぐにモーセの出エジプトのエピソードに結び付くと思います。

出エジプトの該当部分を転載します。

出エジプト記14章
主はモーセに仰せになった。「イスラエルの人々に、引き返してミグドルと海との間のピ・ハヒロトの手前で宿営するよう命じなさい。バアル・ツェフォンの前に、それに面して、海辺に宿営するのだ。するとファラオは、イスラエルの人々が慌ててあの地方で道に迷い、荒れ野が彼らの行く手をふさいだと思うであろう。わたしはファラオの心をかたくなにし、彼らの後を追わせる。しかし、わたしはファラオとその全軍を破って栄光を現すので、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」彼らは言われたとおりにした。民が逃亡したとの報告を受けると、エジプト王ファラオとその家臣は、民に対する考えを一変していった。「ああ、我々は何ということをしたのだろう。イスラエル人を労役から解放して去らせてしまったとは。」ファラオは戦車に馬をつなぎ、自ら軍勢を率い、えり抜きの戦車六百をはじめ、エジプトの戦車すべてを動員し、それぞれに士官を乗り込ませた。主がエジプト王ファラオの心をかたくなにされたので、王はイスラエルの人々の後を追った。イスラエルの人々は、意気揚々と出て行ったが、エジプト軍は彼らの後を追い、ファラオの馬と戦車、騎兵と歩兵は、ピ・ハヒロトの傍らで、バアル・ツェフォンの前の海辺に宿営している彼らに追いついた。ファラオは既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、また、モーセに言った。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓が無いからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入ってきた。朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍はかき乱された。戦車の車輪をはずし、進みにくくされた。エジプト人は言った。「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」主はモーセに言われた。「海に向かって手を差し伸べなさい。水がエジプト軍の上に、戦車、騎兵の上に流れ返るであろう。」モーセが手を海に向かって差し伸べると、夜が明ける前に海は元の場所へ流れ返った。エジプト軍は水の流れに逆らって逃げたが、主は彼らを海の中に投げ込まれた。水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んだが、そのとき、水は彼らの右と左に壁となった。主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。

太平記の描写とそっくりなのがよくわかると思います。恐らく太平記の作者に聖書のこの話のアイディアが伝わったのではないでしょうか。明治天皇も明治維新後に欧州に留学したブラザー西周やブラザー津田真道らから聖書やユダヤ教、キリスト教について当時の日本における最新の知識を吸収していたことだと思われます。そして新たな明治維新で生まれた日本がキリスト教やユダヤ教における一神教を模した天皇を中心とした一神教的国家としてつくる際に、それら神の所業のいわれが日本の古典においても同様に認められ、どの時代、どの地域においても普遍的な歴史や宗教の伝承について統治者として啓蒙され、一種の啓蒙専制君主としてこのような歌碑を残したものと思われます。実際新田義貞の鎌倉攻めは極楽寺方面でも激烈で、十一人塚などの碑も残されていますが、鎌倉幕府の滅亡の戦いにおいて十一人の死者がポイントになったとすると、今の戦争や争いと比べると鎌倉時代のそれは相当に違ったものだったのだろうと容易に想像されます。

また内通者や、城攻めでの内部崩壊の話としてはやはり旧約聖書ではヨシュア(ジョシュア)記でのヨシュア(ジョシュア)がカナンの地に攻め上がる際にエリコの城壁の話が有名です。聖書の話ばかりでくどくなりますが、この辺は聖書を通読した人にとっては印象深い一つの重要なエピソードであり、これについても初めて知る人々のために転載することとします。

ヨシュア記6章
エリコは、イスラエルの人々の攻撃に備えて城門を堅く閉ざしたので、誰も出入りすることはできなかった。そのとき、主はヨシュアに言われた。「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。七日目には、町を七周し、祭司たちは角笛を吹きならしなさい。彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、その音があなたたちの耳に達したら、民は皆、鬨の声をあげなさい。町の城壁は崩れ落ちるから、民は、それぞれ、その場所から突入しなさい。」ヌンの子ヨシュアは、まず祭司たちを呼び集め、「契約の箱を担げ。七人は、各自雄羊の角笛を携えて主の箱を先導せよ」と命じ、次に民に向かって、「進め。町の周りを回れ。武装兵は主の箱の前を行け」と命じた。ヨシュアが民に命じ終わると、七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携え、それを吹き鳴らしながら主の前を行き、主の契約の箱はその後を進んだ。武装兵は、角笛を吹き鳴らす祭司たちの前衛として進み、また後衛として神の箱に従った。行進中、角笛は鳴り渡っていた。ヨシュアは、その他の民に対しては、「わたしが鬨の声をあげよと命じる日までは、叫んではならない。声を聞かれないようにせよ。口から言葉を発してはならない。あなたたちは、その後で鬨の声をあげるのだ」と命じた。彼はこうして主の箱を担いで町を回らせ、一周させた。その後、彼らは宿営に戻り、そこで夜を過ごした。翌朝、ヨシュアは早く起き、祭司たちは主の箱を担ぎ、七人の祭司はそれぞれ雄羊の角笛を携え、それを吹き鳴らしながら主の箱の前を進んだ。武装兵は、さらにその前衛として進み、また後衛として主の箱に従った。行進中、角笛は鳴り渡っていた。彼らは二日目も、町を一度回って宿営に戻った。同じことを、彼らは六日間繰り返したが、七日目は朝早く、夜明けとともに起き、同じようにして町を七度回った。町を七度回ったのはこの日だけであった。七度目に、祭司が角笛を吹き鳴らすと、ヨシュアは民に命じた。「鬨の声をあげよ。主はあなたたちにこの町を与えられた。町とその中にあるものは、ことごとく滅ぼし尽くして主にささげよ。ただし、遊女ラハブおよび彼女と一緒に家の中にいる者は皆、生かしておきなさい。我々が遣わした使いをかくまってくれたからである。あなたたちはただ滅ぼし尽くすべきものを欲しがらないように気をつけ、滅ぼし尽くすべきものの一部でもかすめ取ってイスラエルの宿営全体を滅ぼすような不幸を招かないようにせよ。金、銀、銅器、鉄器は全て主にささげる聖なるものであるから、主の宝物倉に納めよ。」角笛が鳴り渡ると、民は鬨の声をあげた。民が角笛の音を聞いて、一斉に鬨の声をあげると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした。ヨシュアは、土地を探った二人の斥候に、「あの遊女の家に行って、あなたたちが誓ったとおり、その女と彼女に連なる者すべてをそこから連れ出せ」と命じた。斥候の若者たちは行って、ラハブとその父母、兄弟、彼女に連なる者すべてを連れ出し、彼女の親族を全て連れ出してイスラエルの宿営のそばに避難させた。彼らはその後、町とその中のすべてのものを焼き払い、金、銀、銅器、鉄器だけを主の宝物倉に納めた。遊女ラハブとその一族、彼女に連なる者はすべて、ヨシュアが生かしておいたので、イスラエルのなかに住んで今日に至っている。エリコを探る斥候としてヨシュアが派遣した使者を、彼女がかくまったからである。ヨシュアは、このとき、誓って言った。「この町エリコを再建しようとする者は主の呪いを受ける。基礎を据えたときに長子を失い城門を建てたときに末子を失う。」主がヨシュアと共におられたので、彼の名声はこの地方一帯に広まった。

モーセの出エジプトやヨシュアのエリコ攻略に関して明治から現在に至るまでどれだけの日本人が知っていたでしょうか。少なくとも明治天皇は詳しく知っていたと思われます。

さて稲村ケ崎には他にも京都大学出身の日本の哲学の権威でもある西田幾多郎の碑もあります。この地で著作と家族との幸せな時間を過ごしたそうです。西田幾多郎といえば「絶対矛盾の自己同一」や京都の観光名所である哲学の道で有名です。わたしは詳しくは知りません。

また稲村ケ崎は白樺派で「一房の葡萄」で有名な有島武郎の作品の「溺れかけた兄妹」の舞台でもあります。彼の作品は一房の葡萄などの聖書の話をベースとしたものがあります。七里ガ浜~稲村ケ崎にはこうした関連でかキリスト教系の病院や教会や施設が多数あります。七里ガ浜には日本バレエ発祥の地として旧パブロワ記念館と記念碑も残っています。ここにも二つのアーチが残っています。

稲村ケ崎公園には明治天皇の歌碑のほか、逗子開成中学校のボート転覆事故を慰霊する銅像も建っています。恐らく有島武郎の「溺れかけた兄妹」を意識して作られたのだと思われます。

さてこのような稲村ケ崎なのですが、フリーメイスンリーのシンボルはどこでしょう。


西田幾多郎の記念碑





七里ガ浜にある日本バレエ発祥の地として旧パブロワ記念館と記念碑


逗子開成中学ボート遭難慰霊碑


実は最初のものは稲村ケ崎公園のすぐわきにある極楽寺川の橋と川の護岸です。
単に白黒のチェッカーになっているだけです。

この稲村ケ崎周囲は万葉集にも歌われていて、奈良時代より人々が住む地域であったことがわかります。

鎌倉の見越しの崎の岩崩えの君が悔ゆべき心は持たじ
ま愛しみさ寝に我は行く鎌倉の水無瀬川に潮満つなむか

さてこれだけではフリーメイスンリーのシンボルとはちょっと確信しがたいと思います。
稲村ケ崎公園を三段ある一番上まで登って行きましょう。


中央の休み処と手前の芝と石とのチェッカーがよくできています。
ヘキサゴンの形になっていて景色がよく見えます。

ここには「近代細菌学の祖」といわれるコッホと北里柴三郎が訪れたことを記念する碑があります。



コッホはフリーメイスンではないでしょうが、ここを訪れて二年後にドイツのバーデン・バーデンで66歳で死亡しました。

さてこの地の最大のフリーメイスンリーのシンボルは実は二本の松の木と借景でした。



二本の松の木がヤキンとボアズの柱、富士山が神様を意味する三角形、手前のベンチが祭壇altarで、その手前がわれわれ日本人としてのラフアシュラーでしょう。
二本の松の木は日本を象徴する意味でもかかっているのだと思います。それは極めて日本的で、極めて日本の象徴でありながら、フリーメイスンリーの象徴を自然と取り込み、しかしながらラフアシュラーで締めくくられるような、極めて鎌倉的なシンボルでありました。

この地では最近では姉歯設計事件に関して建築事務所の社長が自殺して流れ着くといういわくつきの有名な事件もありました。

[追記:恐ろしい話で終わりましたが、お詫びに非常にためになる情報を付け加えます。稲村ケ崎公園から歩いてすぐにイタリアンでとてもおいしく品があり比較的リーズナブルな店があります。ミシュランガイドにも出てきませんが、それはフランス料理の源流といわれるメディチ家伝来のイタリア料理を自負するが故でしょうか。


タベルナ・ロンディーノと言います。食べるなという意味ではなく、食堂という意味だそうです。ロンディーノはロンド調のとかいう意味だそうで、ロンギヌスの槍とは関係ありません。平日昼のランチコースが一番のおすすめです。駐車場は稲村ケ崎温泉の横の駐車場が提携しているそうです。]



2012-01-19 09:24 | カテゴリ:シンボリズム
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
日本と言えば富士山

しかしこれは関東山梨静岡あたりでの話であって、それ以外の地域ではほとんど見られないので実はそうではありません。
富士山は文献的には紀貫之とかその位から霊山としてあがめられてきたのか、主に東日本、もともとアイヌ民族の方での象徴であったのだと思われます。
日本の象徴とされてきたのはやはり静岡、駿府を拠点とした徳川家康の影響が大きいのでしょうか。

横須賀でも大楠山や荒崎公園、立石公園からの眺めは晴れていれば美しいですし、葉山は長者ヶ崎、国際村の給水塔の上や、鎌倉であれば稲村ケ崎公園、ちょっと変わったところでは安国論寺の富士見台などの絶景ポイントがあります。

東海道沿いでは北斎の冨嶽三十六景が構図としては有名でしょうか。江戸時代は東海道を整備して人の往来を盛んにし街道の経済を潤わせる効果があったのだと思われます。


冨嶽三十六景七里ガ浜


北斎の冨嶽三十六景と稲村ケ崎からの現在の富士山


明治期の富士山の写真 白黒に着色


横山大観の富士山
著作権の問題あれば教えてください。

日本のフリーメイスンリーでも富士山はグランドロッジのシンボルマークに取り入れられています。



もうひとつ日本の信仰の象徴としての鳥居ですが、これについてはいくつかのロッジで象徴として取り入れられているようです。


国際ロッジは座間基地の中にあるロッジです。名古屋のロッジは鳥居メソニック・ロッジという名前です。

富士山に関しては過去に大東亜戦争盛んなころに富士山に向けた直線の参道の都市計画(9/2追記:丹下健三氏の最初のコンペ受賞作品のようです。大東亜建設忠霊神域計画というそうで、参考となるホームページホームページ2がありましたのでリンクしておきます。丹下健三氏といえばこのブログでも横須賀の芸術劇場やフジテレビの本社社屋などフリーメイスンリーのシンボルとしての建築を行っている日本の代表的な建築家であり興味深い逸話だと思います。カトリックの洗礼を受けていて受洗名がマリアの夫の大工のヨセフだそうです。)や様々な逸話もあり、また米軍が本気で原爆を落とすことを考えたとかいう逸話も聞いたことがあります。最近でもオウム真理教が上九一色村にサティアンを築いたりということもありました。

フリーメイスンリー的には富士山は三角形の形に頂点付近で白く色が変わり、また頂点部分が若干欠けていることなどもピラミッドや、それをデザイン化したAll Seeing Eyeの図柄と似た形になることなどからもシンボルとして認められやすかったのだと思われます。


ギザの三大ピラミッド


スフィンクスとカフラー王のピラミッド

階段状ピラミッド


一ドル札の後ろのピラミッドとAll Seeing Eye


鳥居に関しては国家神道の象徴とされた歴史や、明治以降につくられた国家神道の疑似キリスト教の体系などからも、果たして万物に霊が宿るとするアニミズムの一つともいえるものがキリスト教やユダヤ教と比肩できる宗教たるのかといった議論などもあります。一般的には日本人の信仰の表れと認められますが、国家神道と絡んで異論があるのが現状です。


厳島神社の鳥居 明治期 白黒写真に着色


靖国神社の鳥居


鎌倉 熊野神社の鳥居


横須賀 長井の熊野神社の鳥居

鳥居は神社の神域に入る門としての象徴であり、パリの凱旋門に認められるように(追記:パリの凱旋門は明らかにフリーメイスンリーのシンボルです。)門自体もフリーメイスンリーに限らない象徴です。墓などで使われると天国への門という意味になるようです。


国立西洋博物館にあるダンテ「神曲」からのロダンの「地獄の門」(追記:「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」の銘文があります。神曲から由来するものと思われます。アウシュビッツ収容所の門の銘文とは異なるようです。)


その他私個人としては日本のフリーメイスンリーのシンボルとして是非菊紋を加えたいと期待するのですが、天皇陛下がフリーメイスンでない現状では不可能なものだと思われます。本来のフリーメイスンリーのあり方としてはそれがふさわしいのだと思われます。(2015/10/10追記:菊紋に関してはそもそもルーツがインド伝来の仏教由来の蓮華紋であり、それらのルーツがオリエントやエジプトでの普遍的な文様であったこともあり、また欧米ではそのまま薔薇紋と共通であることなどからなかなかシンボリズムとしてあえて天皇家のシンボル、日本のシンボルとして強調するのはどうかというところのようです。逆に言うと普遍的なシンボルであり、あえて強調する意味はないという事でもあるようです。)

さてシンボルとしての富士山ですが、都心からは常に見られるわけではありません。
で、車で近くまで行って思う存分眺めるのが良いと思いますのでお勧めのスポットをお知らせします。
それは西湘バイパスを超えて、現在無料化された箱根新道を越えて芦ノ湖湖畔に至り、芦ノ湖スカイライン(片道600円、途中でUターンで往復料金1200円)の途中にある三国峠です。


三国峠からの富士山


三国峠からの駿河湾、芦ノ湖
さてフリーメイスンリーのシンボリズムですが、こんなところにもあります。


All Seeing Eye


ぜひいらしてください。帰りは湯本で日帰りの湯でもサッと入れます。おいしいおそばや豆腐料理もいただけます。

2012-01-20 10:22 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さて横須賀のフリーメイスンリーのシンボルもそろそろネタが尽きて来る頃ですが、おそらくその最大のもので、市民であれば多くの人が最も横須賀の象徴と考えているであろう三笠公園に触れなかったので、ほぼ横須賀については最後に近いと思うのですがここで取り上げることにしましょう。

その他に横須賀でフリーメイスンリーについて最も考えたり触れることができるのは残りはベースの中ということになると思います。ベースの中には日本グランドロッジ管轄下のNo.20 Yokosuka Lodgeがあり、ホームページでも写真を豊富に掲載しており、ベースの市民開放の際には出店したりしています。

さて三笠公園ですが、横須賀在住の方は戦艦三笠の歴史や、三笠公園の歴史について私よりかなり詳しい部分もあるかと思います。私としてはフリーメイスンリーの視点から、具体的には三度の訪問のみでその他はウィキペディアやフリーメイスンリーの教えなどから学んだ知識に基づいて三笠公園の普通の人が謎に思われそうな事について論評していきたいと思います。

三笠公園はベースの横にあります。ベースと言うと横須賀以外の方は何だと思うかもしれませんが、横須賀では横須賀港にある米軍基地のことをベースと言います。恐らく米軍人がBaseというのをそのまま使用するのでしょう。ベースには日本側からの入り口が三つあるそうです。(三つ目の三笠公園内ゲートというのはよくわからなかったです。)一つはソロモン宮殿を模した形の芸術劇場側の大きな入り口で、目の前にはホテルの上に自由の女神のシンボルがある目立つところです。後ろにはドブ板通りの入り口があり、こちらにはエンパイアステートビルを模したものがあります。


米軍基地正面ゲート たくさんの外国人がいます。軍人さんに限らず、その家族や一般人も多いのでいろんな人が出入りしています。あまり写真を撮っている人はいないですね。日本の警官と米軍のSPがいます。


ホテルの自由の女神
ベースの中は一般の日本人は開放日でなければ基地の知り合いの人がいない限り入れません。
入り口で日本人の警官の方に優しく止められます。
どぶ板通りとその周辺には海軍カレーとネイビーバーガーの店がありますので勇気のある方は観光で食べていかれるとよいと思います。観光商品なので比較的高めの値段設定になっていますが、大きなコーラや英語とドルの料金表示が軽い海外旅行の気分にさせてくれます。ただしアメリカ人も現在は日本の文化に慣れているのがほとんどなので、以前よりも米兵のケンカや騒動は全然少ないようですし、怖い感じの雰囲気よりもSPが夜間も多い感じです。軍人さんも大変そうです。

さてベースの前を過ぎて少し日本的な雑然とした駐車場が多い方になってくると三笠公園入り口です。ここは緊張に耐えかねてちょっとご高齢の方がホッとしたついでにわめいていたりすることもあるので若干注意が必要です。


アーチはRoyal Arch MasonryというYork Riteの団体の一つにも認められる、フリーメイスンリーのシンボルです。Rainbowと共にキリスト教の一つの象徴から生まれたシンボルのようです。有名な所ではブラザー・ジョージ・ワシントンのエプロンなどにも認められます。ゲート、門自体も前回にも言ったとおりフリーメイスンリーに限らずシンボルであり、お墓などでは天国への門という意味になるようです。米軍基地の門としての意味と、三笠公園への入り口、日米協調、友愛、国際化社会への門としての意味がかかっているものと思われます。


ブラザー・ジョージ・ワシントンがブラザー・ラファイエットより贈られたエプロン。彼がYork RiteのRoyal Arch Masonryで活動していたことを強く意識してか二組の二柱に加えて大きなアーチが認められます。これはWashington D.C.近郊のAlexandriaにあるThe George Washington Masonic Memorial(ワシントン記念石塔)で見られるようです。私が訪問した際は時間が無く閲覧ツアーに参加できず見られませんでした。
Royal Arch Masonryはトリプルタウで象徴される団体で、York Riteなので基本的にキリスト教の団体で、タウ十字自体は旧約聖書に認められるシンボルなので六芒星もシンボルとなっています。テンプル騎士団(Knight Templar)やマルタ騎士団もYork Rite内の階級や団体として認められます。私自身はキリスト教徒ではないので詳しくはわかりません。York Riteのシンボルの斜めの十字自体は東京タワーの下のメソニックビルディングにも認められています。


トリプルタウ タウ十字はいわゆるTの形をとる

さていきなり物々しいフリーメイスンリーのシンボル三昧ですが、アメリカのシンボルなんだろうなーと平和にくぐれば問題ありません。
ベースの前には海軍基地の象徴で碇があります。もちろんフリーメイスンリーのシンボルです。


碇はお台場やその他色々な所にひっそりとフリーメイスンリーの足跡を示すシンボルとして置かれています。ベースに入らないようにしながら歩くと右手に駐車場、左手にカトリック教会や短大や歯科大が並び、歩道が広くなってきて三笠公園通りとなります。最初にあらわれるのがこれです。


ちょっと写真が悪いですが、駐車場などの建物の上から見るとすぐわかります。仏教の蓮の花、蓮華を象徴しているのですね。いわゆる南無妙法蓮華経、日蓮宗に代表されるような仏教の象徴です。カトリック教会と仏教の象徴、しかも日蓮宗となるとちょっと宗教的な対立を感じます。

奥に行くと横須賀学院の十字架も大きく認められています。学院なのでこちらはプロテスタント系と思われます。このプロムナードは水を基調として船にまつわるものが描かれていたりします。日本丸の復元かのマスト部分だけを切り取ったものも置いてあります。あまりベンチにいる人は多くありません。


三笠公園のホームページによると未来への六分儀と言うそうです。六分儀は一種のコンパスで、フリーメイスンリーを連想させますが、同時に実は六分儀では有名な話があります。六分儀のデザインが東ドイツの国旗に取り入れられています。

東ドイツの国旗 ハンマーと六分儀と麦の穂 良く六分儀とコンパスを混同してる事が多くありますが、コンパスと六分儀は全く異なり、いわゆる円を描くコンパスと、同じコンパスでも方位磁針と、さらに測量に用いる六分儀は皆似ている形だが事なるということが重要になってくるのです。
ちなみに東ドイツと言えば共産主義の優等生と呼ばれ、一党独裁でシュタージによる国民の相互監視国家であり、ベルリンの壁で分断されていたのが崩壊でソ連崩壊の呼び水を作った国というのは有名ですね。若干ながら横須賀をシンボライズするものとは感じられます。シンボルはそのもの自身からわずかにずれると正反対の意味にもなりうることもあるのです。フリーメイスンリーがリチュアルの正確な暗記や保存にこだわる理由がここにも認められると思います。

また上のオブジェは正方形であり、パーフェクトアシュラーも連想させますが、中身が空っぽで石材ではなく、また単純な正方形でもありません。


柱も若干ピラミッド型をしています。(追記:ピラミッドも11段の形になっていますね。11はこの公園ではどうもユダヤを象徴する数のように現れます。これについては具体的にはわからないのですが611のモーセのミツワーからきているのかもしれません。11とか111という数字が現れるようです。)良く見ると碇のマークと知っている人は知っている昔のテレビCMで良く見たシンボルの日本船舶振興会のマークみたいなのが見えてきます。笹川さんですね。


ちょん切られた日本丸の一部みたいなのが無造作にあります。恐らく日本の分断を象徴するのでしょうが、あまりに怖いのでよろしくありません。


これもパーフェクトアシュラーを意識した形になっていますが中身が空っぽです。金属製です。
徐々にいやな予感がしてくるところだと思います。それが横須賀のフリーメイスンリーの現実です。

まだ戦艦三笠に到達しませんが、次回にします。

[追記:周囲の状況のグーグルアースの画像を載せます。最初の小さな蓮華の形から大きな日本丸周囲の蓮華の一部へつながる形は小乗と大乗を意味するのでしょうか。

いずれにしても日本丸は分断されていて変な形です。間に三角があるのはフリーメイスンリーの意味でしょうか。何かしらの意味があるのでしょうがあまり喜ばしいものではなさそうです。恐らく現在の状況への示唆でしょう。]


2012-01-21 09:54 | カテゴリ:全国の市章
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
一旦やめにした全国の市章ですがこの辺でもう一度再開してみましょう。

以前取り上げたのは横須賀市、横浜市、長崎市、佐世保市でした。共通項は港でしょうか。
長崎市と横須賀市で認められたのは星のマークがフリーメイスンリーのシンボリズムだという事でした。さらに横浜市、佐世保市で認められたのはΛ∨の組み合わせが接合のシンボリズムの一つの形だという事、菱自体は古くからの日本の固有のシンボルである事、またGの形を模したものはフリーメイスンリーのシンボリズムである事でした。

これらの事を踏まえると自然といくつもの市章とフリーメイスンリーとの関係が浮かび上がってくるものと思います。シンボリズムは一種の数学であり、法則を発見する事で、多くのシンボルやデザインの中に法則を見出し、その作者の意図や歴史、共通性を導く事が出来るという事なのです。これがいわゆるフリーメイスンリーの秘密や暗号と呼ばれるもので、それらのシンボルの意味や歴史を知る事で身の回りの物事の意味や歴史を捉えなおし、さらにそれを最終的には自分自身の存在に置き換えていく事で、自らの人生の意味や歴史を捉えなおして生き方に反映するという事になっていくのです。

さてそれでは市章についてですが、まずは星のマーク、五芒星、六芒星について見ていきましょう。
五芒星(ペンタグラム)五角形(ペンタゴン)の市章の市

旭川市釧路市田辺市

芦別市貝塚市江別市

札幌市帯広市室蘭市

多治見市大垣市北九州市

日光市大野市

さてここまで見ていって気づくことはあるでしょうか。
次に六芒星(ヘキサグラム)六角形(ヘキサゴン)の市章の市

稚内市大牟田市西宮市

鹿沼市旧 萩市水戸市

和歌山市彦根市新庄市

近江八幡市宇都宮市松本市

豊田市高知市須坂市
歌志内市夕張市美濃市

根室市
どうでしょうか。六角形だけでなく、六分割の円まで最後は加えました。
全体に五芒星、六芒星、五角形、六角形の市章が北海道に多い事に気づかれましたでしょうか。
五稜郭、雪の結晶、石炭黒ダイヤなど色々な表現があるかと思いますが、この傾向はあるかと思います。
あとは県庁所在地や、シンボルとなる国宝の城がある市や世界遺産のある市、工業地域や創価学会が選挙で強い市などでしょうか。一概には傾向は言えないと思いますが、それなりに個性がある市が多いかと思います。
萩市の市章は変更されていてこれも興味深いのですが、新しいものは


城下町の壁の模様の様ですが、中国の中と読めますね。
また豊田市の市章がコンパスと直角定規とよく似てるのは良く言われますが、それと似たものが他にもあります。


沼津市の市章です。松葉を表現しているようです。沼津市にはスルガ銀行があるようです。

さてこの次はかなり直接的で内容も政治的なので問題がありそうですが、市章にGのシンボルを模した市が横浜市の他にもあります。見れば誰でも気づくのですがなかなか市章を見ないので知らない人が多いと思います。

苫小牧市能美市
いずれも総理大臣を輩出した選挙区なのですね。
(追記1/29、御殿場市もGの形そのものでした。

御殿場は岸信介元首相の別邸があったようですね。)
(追記2/21、倉敷市、大野市、美濃市の市章もGの形を含んでいるようです。


倉敷市 しかしこれはまだまだありそうですね。倉敷市、大野市は街並みが江戸時代の風情を残した都市、美濃市には三菱日立ホームエレベーターがあるようですがこれはどうなんでしょう。)


最後に他の星型の市章をあげます。

防府市盛岡市米子市
半田市蓮田市岡山市(追記2/21:アンク、エジプト十字と碇が中にあるようですね。)
青森市呉市福島市

何となく市章のイメージは出来たでしょうか。

北海道に星の市章が多いという事は一体どうしてなのでしょう。
北海道自体が明治時代に開拓された歴史がある事、榎本武揚らの幕府軍が明治維新で最後に五稜郭にとどまった事、クラーク博士などの影響でキリスト教の伝道が行われたためでしょうか。クラーク博士はマサチューセッツ出身でネットにはグランドマスターであったとか見たことはありますが、特にフリーメイスンリーから彼をフリーメイスンと特定している内容の情報はありませんでした。ただし彼の行った業績やその影響を考えてもそう考えて差し支えないかもしれません。また榎本武揚はブラザー西周やブラザー津田真道とともにオランダに留学しており、また幕府軍には後に日英同盟に尽力したブラザー林董も参加しており、またラスト・サムライで有名になったフランス人武官達もいました。彼らは蝦夷共和国を建設し日本で初の選挙によって統領を選んで政府を作ったそうです。
その他北陸地方は浄土真宗系の影響が強いなどあるのでしょうか。

さてその他に特徴的な市章として次のものがあります。

京都市
京都市はもともと戦前は車輪は無かったそうですが、戦後に付け加えたようです。
いずれにしてもそもそも車輪の形から六芒星型に抜き出したようでした。これはまた他のシンボルと類似しています。

国際ロータリークラブのシンボル

仏教のシンボルとしての法輪
六本なのでよりロータリークラブのシンボルに近いのだと思います。これに関してと言ってはあれですが、三笠公園の内容とも絡めて後々芥川龍之介の絶筆「歯車」について考察したいと思います。八本になると横須賀市の市章とも似てきます。八が仏教で重要とされる数字という事が連想されます。

さて最後ですが、市章のみでなく都道府県章についても考察したいと思います。
まず概観するとやはり北海道が最初に目につくと思います。

北海道章
七芒星は青森市の市章とともに珍しいです。フリーメイスンリーのBlazing Starの定義からするとシンボリズムとして正しい形になるのだと思います。星のシンボルにこだわる北海道らしいものとなるのだと思います。

京都府章
六芒星ですね。市章と同じく京の形をモチーフとしているようです。日本のシンボルの都市なのでさまざまな歴史があったと考えられます。

千葉県章
六芒星の北極星ですね。チバの重ね合わせとされています。横須賀市章を見ると良く似ている事がわかると思います。千葉はブラザー林董の出身地でもあります。現在の総理の出身地でもあるようです。

岩手県章
六芒星ですね。岩手は石川啄木や宮沢賢治の出身地でしょうか。平泉が世界遺産に指定されたのも記憶に新しいところです。小沢一郎さんの地元でしょうか。今回の東北大震災の被災地でもあります。

さて実はここまで来て市章、都章でフリーメイスンリーに極めて関わりが深くありながら、まだ出てきていない市、都があります。

東京市章
亀の子マークの六芒星に目玉印ですね。良く言うようにフジサンケイグループのマークのデザインの原型になったような形だと思われます。All Seeing Eyeをモチーフとしていると思われます。

東京都章
現在の東京都章です。TokyoのTをモチーフとしているようです。実はこれと近いものが市章であります。

神戸市章
こちらはカタカナのカウベのカをモチーフとしているそうです。神戸は市章山に碇山といって夜になると市章と碇のマークが山に映し出されるシンボルマーク好きな都市です。
さてこの二つの共通点はこのブログを最初から読まれている方はすぐわかると思います。
十字の原型と言われるタウ十字のTの字です。この部分の旧約聖書の引用は後々行いたいと思います。Tの字に関しては前述の榎本武揚に関してもう一つのシンボルのエピソードがあります。

郵便マーク
逓信省のテの字にかかっているようです。当初逓信省のTの字をそのまま使おうと公示したそうですが、数日後に一本線を加えた形の現在のものに変更されたそうです。ウィキペディアによると初代逓信大臣の榎本武揚が一本線を加えたという逸話が書いてありますが、果たして真相はどうなのでしょうか。小泉さんの郵政民営化などとも絡めるとなかなか面白いエピソードだと思います。逓信省はNTTのもとでもあるのですね。横須賀には近代郵便の祖と言われる前島密の墓があります。前島密はブラザー西周やブラザー津田真道らが結成した明六社、現在の日本学士院の祖、に参加していたそうです。明治という時代の文明開化、啓蒙運動を感じられるものがありますね。

日本という若い国に印された数多くの文明開化、啓蒙のシンボリズムが市章の話から感じられたでしょうか。色々現実の利害関係、さまざまな歴史や経緯がある事とは思いますが、シンボリズムに込められた理想への願いが現実のものとなる事を祈念します。

[追記:今話題の大阪市ですがここの市章はなかなかいわくが深く、他の市章と比べても特徴的なものです。現在の動きも考え合わせて何かあるとは思うのですがわかりませんでした。


もともとは船の標識としての澪つくしから採用したそうです。
澪つくしは私はお醤油の銘柄として知っていましたが、百人一首にこうあります。
わびぬれば今はたおなじ難波なるみをつくしても逢はむとぞ思ふ

さてこのシンボルですが、実はタウ十字の確認をしていて、こんなものを見つけました。

XP.png
ラバルムという十字の一種で、キリスト教をローマ帝国で公認したコンスタンティヌス帝が戦闘の途中で啓示を受けてΧριστος(キリストのギリシア語表記)の最初の二文字である「キー・ロー」XPを重ねたものだそうです。XPと言うと有名なのはWindowsXPでしょうか。実はこの神OSは現在のクラウドやらすなわち全てのコンピューターのネットワーク化を達成したOSでもあります。
澪つくしの海運の標識としての意味からも方位磁針としてのコンパスともかかっているものと考えられます。
京都の六芒星の形と組み合わせてなかなか深いものがあります。]


2012-01-22 08:56 | カテゴリ:その他 雑記
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
陰謀論は消え去ったでしょうか?
ユダヤ人は毎日勉強しています。
日本人も毎日勉強が必要でしょう。
光陰矢の如し 少年老い易く学成り難し
故きを温ねて新しきを知れば 以て師為るべし
2012-01-23 16:49 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さて三笠公園に入るとすぐ目につくのは東郷平八郎元帥の銅像と戦艦三笠です。


夏の三笠公園


冬の夕景の三笠公園


皇国の興廃この一戦にあり


お盆の時期で読経のテープが流れてお線香を燃やしてました。


戦艦三笠はあまり知られていませんがイギリス製なんですねえ。ヴェッカースという戦艦とか飛行機とかイギリスの軍需産業を一手に担っていた企業で造られたそうです。現在はロールスロイス社の傘下になっているそうです。いわばイギリスの半国営企業でしょうか。


主砲とはためく日章旗


夏の猿島


マスト


艦橋司令塔からの眺め


東郷平八郎元帥の直筆
鎌倉などにも多くの石碑が残されています。掛け軸なども現在も最も人気があるようです。
東郷平八郎元帥の墓は多摩墓地にあり、山本五十六元帥の墓の近くにあります。いわゆる軍神です。渋谷には東郷神社もあります。もともと薩摩藩加治木村の出身だったと思います。(2015/1/24訂正:加治木町ですね。西郷隆盛と同郷です。)(2015/8/7訂正:加治屋町です。)薩摩藩と言えば生麦事件と薩英戦争ですね。86歳まで生きたそうで当時の維新の人物の中では最長寿ではないでしょうか。日露戦争の講和条約を結んだアメリカのポーツマスは奇しくも東郷平八郎が留学したイギリスのポーツマスと同名なのでした。


明治天皇御製歌 東郷平八郎元帥筆
世の中の人におくれをとりぬべし すすまむときに進まざりせば


軍艦マーチが頭の中を鳴り響く感じでしょうか。


コンパスがありましたね。船自体もフリーメイスンリーではノアの箱舟にちなんでシンボルとなります。特に海に浮いていない状態になるとシンボルと認められるようです。

日露戦争に関しては日英同盟とポーツマス条約がフリーメイスンリーの話としては重要でしょうか。前回も話したブラザー林董、ブラザーセオドア・ルーズベルト、ブラザージェイコブ・シフでしょうか。日英同盟が日露戦争となり、ひいては第一次世界大戦からロシア革命となる壮大な世界の流れは、日本にとっては明治帝の死と大正デモクラシー、関東大震災、大正天皇の死と5・15事件、2・26事件と連なっていくわけです。

ちなみに最近までNHKでやっていた司馬遼太郎の坂の上の雲のドラマではドラマの最後のシーンで象徴的に海図とコンパス(筆記具)を映していました。(画像ありません)

これは非常にフェルメールの絵画と似ていました。


フェルメールは名誉革命前の新教国のオランダを代表する画家であり、フェルメールの絵画にはその後フリーメイスンリーで象徴として取り上げられるシンボルが様々な形で写りこんでいます。

当時のプロテスタントの国々でそういったシンボリズムと自由の考えが結びついて、新たな芸術や科学や思想の発達と結びついていった過程が見てとれます。
日本のマスメディアもまさにそのような時代なのかもしれませんね。
あのドラマももしかするとこのブログと連動しているのかもしれませんね。
さて三笠公園の謎ですが、戦艦三笠に謎はあるのでしょうか?
戦艦自体がノアの箱舟に象徴される充実した生活と十分地に足のついた希望だということでしょうか。恐らくそういうことだと思います。
次回は日英同盟に尽力したブラザー林董についてFar East Lodge No.1のホームページにあるBrother James L. Johnston Past Grand Master, Japanの英文を翻訳して紹介したいと思います。 


2012-01-24 09:36 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さて戦艦三笠にはあまりこれといった謎はなさそうでした。
間に怪しげなラフアシュラーの並ぶ水路があり、怪しげな半アーチのあるシンボルの橋を渡って隣の公園に行くとこんな感じです。


またアーチですねえ。どう見てもシンボルです。


そしてあからさまに重厚な石で造られた不可思議な幾何学構成の噴水の池。


こんな感じの音楽噴水をやっているそうです。怪しいですねえ。


正面がオリンピック競技場のスタンドのようになっています。怪しい壁画があります。
ほとんどの日本人は怪しさにあまり接近しませんね。
どう見ても石工の神殿ですからね。
しかしそれにしてもラフアシュラーが多すぎます。

かなり見事な噴水のコンピュータ制御です。音楽もなかなか音響が考えられていて聞こえない事はありません。しかしお金のかかっている公園の割にはあまりに怪しすぎて人気がありません。

謎めいています。

しかし暑い夏でしたね。


2012-01-25 09:26 | カテゴリ:横浜
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
ブラザー林董について日本人はどれほど知っているでしょうか。
日本人で最初にフリーメイスンとなったのはウィキペディアなどでもブラザー西周、ブラザー津田真道がライデン大学に留学中になったという事で有名ですが、どちらもオランダ語のレベルはかなり低く、留学先の教授の言うがままに入会の儀式を済ませたようです。その後の儀式や会合などへの参加はほとんどなかったようです。彼らは哲学や科学に関する基本的な考え方を日本に輸入し、その最大の業績は日本学士院につながる明六社の設立とされるようです。

ブラザー林董はいわゆる現在につながる日本の外務省方の英米方面のフリーメイスンリーの流れの源流を作った方かと思われます。簡単に言うと現在の日本の国際社会での立ち位置を決定した方かと思われます。

山手にあるFar East Lodge No.1のホームページのHistoryのサイトにブラザー林董についてBrother James L. Johnston 
Past Grand Master, Japanが文章を載せていましたので、英文を翻訳しここに転載いたします。非常に拙い直訳で申し訳ありません。興味のある方は英文を直接お読みください。


林董 イングランドのフリーメイスンとなった日本の外交官 By James L. Johnston PGM, Japan
様々に表現される偉大で、立派な外交官であり政治家であり、英国びいきの、世界的に有名な存在で、愛国的で、高潔なフリーメイスンリーの教えに従って生きた林董という男は、生涯にわたって普通でない専心と献身をもって日本に奉仕した。
彼は1850年2月22日に下総国(現在千葉県の一部)の佐藤家に幼名しんごろうとして生まれた。彼の父親は当時先進的だった蘭方医(西洋医学者)で指導もしていた。幼少期に彼は江戸(現在の東京)に住む代々将軍御典医の家である林家に養子に入った。彼はそのため林董と名乗った。
林は12歳で横浜のジェームス・C・ヘボン、医師・宣教師であり、日本語のローマ字綴りを作り、聖書を日本語に翻訳し、最初の和英辞書を作ったアメリカ人、のもとで英語を勉強するために送られた。ヘボン医師は日本人から「君子」、優れた人を意味する言葉、と言われていて、夫人と共に日本で最初の男女共学校を作った。ヘボンは林を彼の家族として受け入れ、それを通して彼は英語を徹底的に基礎から教え込まれた。
1866年―マシュー・C・ペリー提督(ニューヨーク市No.8オランダロッジのメンバー)が最初に日本に来てから13年後―林はロンドンで英語やイギリスの習慣を学ぶための14人の徳川将軍家の若者たちの留学生に選ばれた。最初に生徒たちは下宿に住み込んだが、林はこのやり方を好まなかった。(彼はヘボン家での経験があったため。)なぜなら彼らは皆大学の講義に出るときだけ英語を話しそれ以外では日本語しか話そうとしなかったからであった。彼は頼み込んでグループから分けてもらい、受け入れてくれた私的な家族と一緒に過ごした。
1868年になり徳川将軍家が大政奉還の過程に入ると、彼らは日本に戻された。林は榎本武揚提督によって編成された徳川幕府軍に参加し、北海道函館五稜郭の戦いで捕まり、多くの囚人が処刑された悪名高い東京日本橋伝馬町の監獄に収監された。ヘボン夫人は彼を訪れ、彼の釈放を請願し1870年になってようやく受け入れられた。
1871年に林はアメリカやヨーロッパの政治システムや物質的な文化を学ぶための岩倉使節団(世界史で最も注目すべき旅行の一つと考えられた)で第二秘書として通訳に選ばれた。使節団がロンドンに到着したとき、林は木戸孝允と共に日本に戻った。
陸奥宗光伯爵(後にアメリカ大使となり伊藤博文の下で外務大臣になった。)が林の大きな潜在性を認め、彼のその後の数年の官僚経験を行うのを助けた。林は工部省、宮内省事務局、逓信省、神奈川県知事、兵庫県知事に1888年と1889年に任命された。1891年頃彼は外務省の事務次官になった。この役職で林は三国干渉による遼東半島の放棄をうまく調整し、日清戦争を終結させた下関条約の締結に立ち会った。
林は中国公使に1895年に任命され、男爵を綬爵された。1897年に彼はスウェーデンとデンマークの公使となった。二年後に彼はロシア公使となり、ハーグ国際平和会議の使節となり、1900年に英国公使の任命を受けた。
林の仕事の中で最も重要なのは1902年に日英同盟に署名したことで、彼はその際に子爵に綬爵された。
彼はまた1905年に同盟の拡大更新に責を負った。1905年にロンドンの英国公使館が大使館に格上げされる際には、林は英王室裁判所に最初の日本の大使とされた。彼は英国と欧州の政治学と政治経済に関するいくつかの古典を日本語に訳したことと、「For His People」を英語で書いたことで、オックスフォードとケンブリッジの名誉学位を受けた。
1906年に林は日本に戻され外務大臣に着任し、満州、アメリカ移民問題、そして日露戦争に続く問題を手掛けた。彼はまたフランスとロシアとこのままの状態で維持する協定を結んだ。彼は1907年に公爵を綬爵された。1911年彼は引き続いて外務大臣を中間まで、その後逓信大臣となった。この頃までに林は急性の糖尿病になり1912年に彼の希望で辞任した。一般的な場合に対する例外的に、彼は他の政治家のような幸運を受けなかった。彼は東京の彼の家を売り、葉山に移り住んだ。1913年の間に林は人力車の事故で足を骨折し、切断が必要であった。彼は回復せず、7月10日に死亡した。日本政府は死後に彼に従二位を授け、五千円を彼の墓前に捧げた。(当時の非常に高価な額)
ブラザー林のフリーメイスンとしての経歴は実に立派なものであった。彼はロンドンE.C. No.2108エンパイアロッジで1903年2月24日に入会した。150人以上の出席者が儀式とその後に引き続いてあり、それにはグランドロッジの役員やロンドン市の使節、アイルランド、スコットランド、ウェールズ、チャンネル諸島の使節、多くの国会議員がいた。彼は3月24日に第一階級となり、5月29日に第二階級となり、1904年1月20日に第三階級となった。1905年に彼はもっとも尊崇すべきグランドマスター、コンヌート公にイングランド連合グランドロッジのパストシニアウォーデンの役職を授与された。彼は1907年にロッジを辞めた。彼のロンドン滞在中のフリーメイスンリーの活動によって、(元ロイター東京通信員A・M・プーリーによると)ブラザー林は彼の長年の功績に対する報酬として約束されていた枢密院議員、または天皇陛下の相談役から、青木周蔵と総理大臣桂太郎の政治的小細工によって締め出されてしまった。
明らかにブラザー林はフリーメイスンの先駆者であり、それは日本でのフリーメイスンリーへの加入が外国人に限られており、日本人が入らないとする紳士協定があったためである。今日、もし我々の尊敬するブラザー林が日本のフリーメイスンリーの集まりを訪問したならば、どんな事になるだろうか。フリーメイスンリーが抑圧されておらず、日本グランドロッジに全体として構成する一般ロッジが北海道から沖縄にまである事だけでなく、イングランド、スコットランド、マサチューセッツ、フィリピンを構成する一般ロッジがあることも知るだろう。彼はリチュアルや関連するものが日本語に翻訳されていて、何百人もの日本人がフリーメイスンになり、その中には総理大臣東久邇宮稔彦と鳩山一郎も含まれていると知るであろう。彼はフリーメイスンリーの付随組織や団体、それにはスコティッシュライト、ヨークライト、コンスタンティンの赤十字、イースタンスター、デモレー、レインボー、シュライン、そしてハイトゥエルブクラブが含まれる、これらの幅広い分布を知るであろう。彼は1984年のイングランド連合グランドロッジの前グランドマスターコーンウォリス卿が東京青山墓地の彼の墓を訪問し、現在の東京メソニックセンターを訪問しそこのロビーにある栄誉名簿に彼の名前を見たことを喜び名誉に思う事だろう。

青木周蔵さんというのはペルーの大使館立てこもりで有名になった青木盛久ペルー大使の曾祖父なのですね。その後のドイツとイギリスの関係を考えても興味深いエピソードですね。
ブラザー林がもし天皇の直接の相談役になっていたならば大正天皇も違った道を辿ったでしょうし、その後の日本もだいぶ違った事になっていたのでしょうね。人力車のエピソードも合わせて、葉山で没した事なども、様々に想像されます。最初に教わったヘボン医師が専門が眼科で、足切断手術を日本で行ったなどのエピソードも合わせると複雑さが増します。いずれにしても日露戦争とその後の第一次世界大戦、ロシア革命の歴史の壮大な流れの大きな一翼を担った人物であった事は間違いないでしょう。日露戦争後の東郷平八郎元帥の人生と比較するとフリーメイスンの生き方とは何かという事を感じさせてくれるかもしれません。私自身が気になったのは彼がキリスト教徒であったかという事です。恐らく五稜郭の戦いに参加したことも含めてそうではなかったのだと思います。明治のフリーメイスンの生き方は現代の日本人に直結する部分を感じます。キリスト教徒になった方も明治時代には多数いらっしゃいますが、フリーメイスンはそれとはまた違ったアプローチである所がまさに宗教とは異なるフリーメイスンリーなのだと思います。

いずれにしても彼のフリーメイスンとしての活動、語学力、日本人としてのブレの無さが結果として戦艦三笠が今日保存されるような日露戦争の勝利につながった事は、その後の東郷平八郎元帥の軍神としての評価などと絡めて、日本人が良く知っておくべき本当の歴史なのではないかと思います。


青山墓地 ブラザー林董の墓 フリーメイスンリーのシンボルは無いようです。 


2012-01-26 09:57 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さてでは三笠公園の謎ときを始めましょう。

まず最初のヒントになるのは何と言っても噴水池ですね。
基本的にフリーメイスンリーのシンボルでは最もわかりやすいのがラフアシュラーとパーフェクトアシュラー、そしてピラミッド、三の象徴になるわけですが、それらの内隠されているものと、あからさま過ぎて気づかないものとがあり、ほとんどの場合はあからさま過ぎて気づかないというのが秘密と呼ばれるものだという事はこのブログを読んできた方はわかっていると思います。

三笠公園では戦艦三笠がすごく目立っている訳ですが、それとセットの噴水池もなんだか意味がわからないので明らかに謎めいているのです。謎がここにあるよと主張しているような感じがわかると後は出された謎を解くためにはいろいろ細かく観察するだけという事になります。


まず水が池に流れる水路が八つあるのに気付いたでしょうか。八つあってそれぞれ違う形をしています。これは怪しい。


さてごてごてとしたラフアシュラーと半地下のパーフェクトアシュラー?の踏み石みたいなのが並んだ八個のいびつな形の水の流出口です。
まず最初に印象を抱くのはあまり美しくないという事。流出口が周囲に八個もある池というのはそもそも美的に言ってもあまりないと思います。それだけこの公園は八という数字にこだわっているという事なのでしょう。あまり美しくない。これは率直にフリーメイスンリー的でないという事でもあります。フリーメイスンリーでは良く知られた合い言葉にスコティッシュライトの十四階級でVirtus Junxit Mors Non Separabit(Whom virtue unites, death will not separate).美徳が結びつけた者たちを死が分かつことはない。とあり、美徳や美は基本的に建築や生き方として求められるものなのです。

ここでポイントになるのはカシオペア座と北斗七星を刻印された石が一つある事ですね。あとの星座はよくわかりませんが、恐らくこれが北極星を意味するものと思われます。

八つと北極星という事で、これは以前やった横須賀市の市章と対応するという事でシンボルで合致します。どうもこの大きな噴水で市章を意味させているらしいです。しかも北極星にポイントを置いているようです。どうにも天皇陛下を強調したいようです。シンボリズムについて良く勉強していながらも、八というフリーメイスンリーよりもアジア的な要素を強調し、しかも表現には適当さや無駄が垣間見れます。そんなプロファイリングができてきます。なんとなく仏教的ですね。

さて怪しい半地下のパーフェクトアシュラーはなんでしょう。

2012-01-27 10:01 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー


グーグルアースの音楽噴水池付近の衛星画像です。水の流れ込むところが四つ映っています。
これは季節や時間によって変更しているようであまり規則性は無いようです。
これと前回の写真を比較して、さらに現地で数を数えると流出口の半地下のパーフェクトアシュラーの数は以下のようです。段差によって桁を変える、大きいものも一とするといった数え方をしています。その他にもいくつにも数えるやり方はあるかと思います。色々やってみてください。

北極星と考えられる流出口から反時計回りに行きます。
122
1332
122
12322
22221
2251
1212
1213
となります。
これを見て思う所はあるでしょうか。ヒントはやはり北斗七星とカシオペア座にあります。

入り口のところで電柱のピラミッドが11段あり、それがユダヤを象徴するという所もヒントかと思います。ユダヤ教では特に11という数字が大事なわけではありませんが、最近の阪神淡路大震災1995年1月17日、アメリカ同時多発テロ2001年9月11日、郵政選挙2005年9月11日、そして記憶に新しい東北大震災2011年3月11日の11という並びからネット上などでも陰謀論の中では11がユダヤ教の特別なものと解釈されている傾向にあります。
フリーメイスンリーの数字のシンボリズムの項目を見ると大概10や12が完全数であるのに対して、11は時にマスターの数字、12時に足りない急がないといけない11時とか変な説明があったりとはっきりとはしませんが、あとは12に1足りない不安定な数字であり、罪な数字であるというのもありました。私の理解としてはフリーメイスンリーやユダヤ人の何か力を結集するための日時や数字のシンボリズムのようです。
11でウィキペディアで出てくるのが最初の回文数であること、第一次世界大戦が終わったのが1918年の11月11日午前11時であった事、フリーメイスンリー関連では自由の女神の台座が十一芒星である事などがあります。陰謀論では11でツインタワーを意味するなどもありました。
ユダヤ人の数字のシンボリズムでは11はヨセフの兄弟の数が11人で夢占いで11の星がヨセフに向かってひれ伏したとあります。これはヨセフの話はフリーメイスンリーでもユダヤ教でも極めて大事なもので、少し勉強するとこのヨセフという名前は何度も見ることになります。
また111はあえて調べると回文数であり、三位一体を象徴する数字であり、1から36までの数字を含む魔法陣で列の6個の数字を足すと111になるとありました。
いずれも3をかけて33や333となるとフリーメイスンリーの33階位や東京タワーの333メートルとなるなど重要な数字であるらしい事は感じられると思います。あえて言うと11がユダヤ教よりで、111がキリスト教カトリックよりなのでしょうか。

で、三笠公園の噴水池になるわけですが、こう解釈されます。
122=121+1=11*11+1
1332=1331+1=11*11*11+1
122=121+1=11*11+1
12322=12321+1=111*111+1
22221=・・・・
2251=・・・・
1212=・・・・
1213 =・・・・
ここでポイントになるのが北極星を示す石の北斗七星とカシオペア座以外の二つの星座のような形になり、これは星座を調べてもこの形のものは無いようです。
すなわち真と偽を示しているものと思われます。そして真の側、北極星の石も含めて右側四つに11と111の二乗、三乗に1を足した数、安定と真実、秩序を象徴し、その反対側四つに意味のない数四つを配置し不安定と虚偽、混沌を象徴させているのだと思います。
すなわち八つの方位を様々な形のラフアシュラーで象徴し、それが太極旗のごとく陰と陽、秩序と無秩序の存在が共存している世の中の象徴として、11と111の回文数とさらにそれプラス1で表現しているものと思われます。良く見れば周りの床石も白と黒の微妙なモザイクになっているのですね。
フリーメイスンリーではスコティッシュライトの言葉だと思うのですが、Ordo Ab Chao(Order from Chaos、混沌から秩序へ)というものがあります。
すなわちフリーメイスンリーで象徴される白黒タイルのモザイクを北極星と数字のシンボリズムで複雑にアジア的に表現したものかと思います。もしかすると天皇家の起源が太極旗に象徴される韓国にあるということも表現しているのかもしれません。

あとはメインの噴水は六角形の形になっていますね。
何とか説明できそうなのはその位でしょうか。池の形や植え込みの形など何かあるのかもしれませんがわかりません。(追記:池の形は木靴でしょうか?スリッパだとフリーメイスンリーでは友愛の象徴となるのですが、木靴だとアナーキスト(無政府主義者)のシンボルになるようです。木靴をフランス語でSabotといいサボタージュと似ているからのようです。やはり、フリーメイスンリーに指示されてサボりながらシンボルをアジア風に改変している光景が浮かんできます。)
いずれにしてもフリーメイスンリーのシンボリズムを知っていて、その上でそうではない八という数字にこだわった複雑な構成になっている池です。この八という数字なのですが、まず市章の話からも名古屋の市章を思い出しました。


変わった市章ですが、尾張のオハリのハを採ったとか書いてあります。
八というのがアジア的で良いという事なのだと思いますが、これも名古屋という土地柄、中日本の中心という事を考えると、東と西の邂逅、ずれたピラミッドのかなりくだけた図表の意味もあるのだと思われます。名古屋も鳥居メソニックロッジを含めてフリーメイスンリーが盛んですから。

さて八という数字はこの後も三笠公園で認められるのですが、果たして市章の八芒星の意味だけなのでしょうか。この強いこだわりを認めると他にも意味があると考えられます。
まず仏教系という事で八正道、四苦八苦など仏教の教えの表現と考えられます。特に八正道は仏教の修行における最も大事な教えであり、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定の、8種の徳とウィキペディアにあります。
しかしどうも北極星(天皇陛下)にもこだわるし、それがキーになっているので次に浮かぶのがこれです。


八紘一宇ですね。これもウィキペディアで調べると八方(世界)を一つにまとめるというまさに横須賀の市章と意味もシンボルも一致する言葉となってくるのです。入り口の蓮華の形とも合わさり、八紘一宇の思想自体も日蓮宗から出てきたもののようですし、戦時中も東北出身の日本陸軍の軍人を中心に日蓮宗は広がっていたようです。八紘一宇の塔と三笠公園の石の壁はなんとなく印象も似ているようです。


さてここまででだいぶフリーメイスンリーからは外れてきている感じですが、実際大意としてはそれほどずれていないものかと思って書いている訳ですが、明らかに間違っていたりするようであればご指摘をお願いします。


2012-01-28 09:33 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
この言葉で何を思い浮かべるでしょう。
このブログを最初から読んでいる人は「ローターリークラブのシンボル」と答えるかもしれません。

普通の人は機械を思い浮かべるでしょう。

文芸の世界では芥川龍之介の絶筆になると思います。

芥川賞が話題を提供する事に終始して作品は誰も読まないという時代が続いて久しいと思います。
芥川龍之介の絶筆は彼の最期が自殺であったことなどからも精神分析の対象ともなったりしています。彼の早すぎる死を悼んで友の菊池寛の呼びかけで芥川賞は設立されました。

さてこの歯車という作品。彼の姉の夫が列車への飛び込み自殺をしてから彼が自殺する直前までの、数多くの暗示、さまざまな周りの人たちとの華麗な交遊、そして最後は妻の呼びかけで終わるまさに神経症者の自殺までの過程がある程度リアルに描かれています。

芥川龍之介は母親が精神病院に入院していてそこで死んでいます。本人は養父母のもとに預けられ、そこで中国、日本の古典の素養を身につけ、その結果として羅生門や鼻、有名なところでは蜘蛛の糸などの短編小説を残しています。夏目漱石、森鴎外が明治の文豪で、彼らがいわゆるイギリスとドイツへの留学を通して学んだ小説という文化を日本にもたらしたわけですが、彼は夏目漱石に師事し、その後の大正デモクラシーの時代の空気を反映した、今でいえばエッセイストの様な短編小説で当時の世の栄光を勝ち得、その結果として自殺に到った、まさに日露戦争の勝利に沸く日本の空気をそのまま反映した作家と言えるのではないかと思います。

彼の作品には極めて強く東洋の古典の素養が反映されているわけですが、実は彼の実家自体が隠れキリシタンの家系であった話があるらしく、また将軍家のお茶や雑事を行う家柄であったそうで、彼自身も特に歯車の作品の中ではキリスト教への接近が感じられます。
彼の名前の龍之介は辰年の辰の日の辰の刻生まれに由来するそうで、十二支の唯一の神獣である辰に由来するまさに東を背負って小説という西欧からもたらされた文化を咀嚼しようとしていたものかと思われます。

彼と同時代の人では歯車にも出てくる「暗夜行路」の島崎藤村、白樺派の人々、そのうちには稲村ケ崎の話で触れた有島武郎などがいるでしょうか。いずれもキリスト教の影響が強く認められるのが大正時代の特徴ではないかと思います。

さてこの「歯車」という作品なのですが、小品なので一読されるとよいかと思われます。聖書よりはかなり読みやすいのではないでしょうか。気取った大正の空気が濃密に感じられ、現代の平成の世との強い相似を感じられれば十分なのではないかと思います。

この作品中にはさまざまな暗示、ほのめかしや繰り返される言葉が認められます。そしてそれらが神経症である作者を苦しめていると表現されています。もちろんそれは漱石やトルストイの長編小説の様な厳しさや平易な日常が描かれるような日常性は薄く、むしろ現代の都会的な浮ついた甘えたそれでいて無為で表面的な、大正時代の最先端の流行作家の内省に近い心模様が描かれています。それぞれの暗示やほのめかしについて全ての由来を述べることは難しそうですが、フリーメイスンリーに関係のありそうなものだけピックアップしていく事にしましょう。

まず題名の「歯車」ですが、これはあまり象徴的な光景ではなく、一種の片頭痛の前兆のような形で出現します。ただし題名にも歯車と採用され、その当時恐らく日本にあった彼が接近しうる一番のフリーメイスンリー関連の存在は歯車に象徴されるロータリークラブであった事は間違いないでしょう。京都の市章に象徴されるように、ロータリークラブの存在は日本の仏教や伝統とフリーメイスンリーをつなぐ歴史の上で重要な役割を果たしている事は疑う余地が無いようです。

スリッパが起きると無くなるという逸話があります。ホテルで寝ている間にスリッパの片方が無くなり、給仕に探してもらうとバスの部屋にあったという話です。これに彼は自身が夢遊病の様にギリシアの王子の逸話の様に自らが寝ている間に動いているのではと不安になるようです。これには後に大きなネズミが出てきてネズミが動かしたのではないかという答えの様な表現があります。
小説中では連関させていませんが、彼がそこまではっきりと認知していたかは不明です。その頃にはだいぶ多くの睡眠薬を飲んでいたようです。

スリッパは実はフリーメイスンリーの友愛の象徴です。実はこの作品中に認められる最大の象徴かもしれません。いずれにしても武家の家系に生まれた彼が流行作家になってホテルでスリッパをはいた生活をしているというのはまさに大正ロマンを感じさせる逸話だと思われます。

さて最初に義兄の死とレインコートの逸話などがあるのですが、これは直接はフリーメイスンリーのシンボルとは関係なさそうです。一つの死との関連の象徴かと思われます。ひげが父性との関連など精神分析学的にはいくつもの象徴が認められそうです。

フリーメイスンリー関連ではその後ナポレオンの話が出てきます。最後に幽閉されたセントヘレナ島の話が出てきます。またその後ベートーヴェンの話も出てきます。ベートーヴェンも痔で坐浴をしていたという話が出てきて、その直後にモールmoleもぐらという言葉が電話を通して語られます。
moleにはスパイという意味もあるそうすが、恐らくここはベートーヴェンの話の直後なのでモーツァルトだと思います。彼は結局モールからフランス語のラモールを連想し、死に近づいていきます。
彼の中ではアメリカ人、フランス人、ドイツ人、その他日本人の多くの人々がささやき、ほのめかし、彼を落ち着かせ不安にさせ、結局彼は死に近づく事になります。

後半になり彼は聖書会社の屋根裏に住む老人に近づき、一角獣と麒麟の相似を思います。自らが麒麟(坂本龍馬の逸話で有名ですね。)に例えられた話を思い出します。一角獣はオベリスクのモチーフでしょうか。彼は光と闇の話を老人とし、結局ドストエフスキーの罪と罰の作品を借りて帰ります。ドストエフスキーも恐らくフリーメイスンだと思われます。当時のロシアは知識階級や貴族階級はほとんどがフリーメイスンであったそうです。 文中引用すると、僕はこの屋根裏の隠者を尊敬しない訣には行かなかつた。しかし彼と話してゐるうちに彼も亦親和力の為に動かされてゐることを発見した。とあり、彼との出会いがフリーメイスンリーに関わるものであった事を彼自身自覚していたようです。結局この罪と罰の読み始めた項目はカラマーゾフの兄弟の乱丁で悪魔に苦しめられるイヴァンを描いた部分だったようでまた彼は苦しみます。彼はその後ウイスキーの銘柄のBlack and Whiteから白と黒のシンボルにとらわれます。これはもちろんフリーメイスンリーのシンボルですね。その後彼はストリントベリと同名のスウェーデン人が白と黒のネクタイをして居るのを見かけます。スウェーデンは有名なフリーメイスン国家です。これは鎌倉でしょうか。もしくは藤沢鵠沼かもしれません。恐らく鎌倉だと思われます。その前に喜雀堂に入るというのもあります。これは小雀局とは関係ないと思いますよ。

いずれにしても自ら選択した死を目前としたこの大正の文人の周囲に現れる事象や人々は非常に国際的であり、さまざまな暗示を投げかけ、彼自身がそれを悪魔や死として受け止め、自ら死を選択していくのです。最後には彼は妻に声をかけられ、お父さんは死にそうな気がすると言われ小説は終わります。彼の妻の父親は日露戦争で戦死した海軍軍人でした。

芥川龍之介は帝国大学卒業後三笠公園の隣にあった海軍機関学校で英語教師として就職し、そこで羅生門を出版し作家としてデビューしました。現在海軍機関学校跡は横須賀学院となっています。


Virtus Junxit Mors Non Separabit


2012-01-29 11:05 | カテゴリ:東京
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
昨日1月28日に東京タワーのふもとでブラザーモーツァルトのコンサートがあったので行ってきました。2年前に行けなかったので今回は楽しみにしていました。


コンサートチケット
一緒に来てた横浜ロッジのブラザーとはチケットの色がちょっと違いましたね。
場所は東京メソニックセンターの地下2階のスコティッシュライトホールです。
ブルーロッジの横にあるバンケットなどをやる広いところで、スコティッシュライトの双頭の鷲のシンボルが飾ってあります。
その手前のロビーにピンバッチとかエプロンの古いものが飾ってあるのですが、その中にブラザー林董の肖像画もありました。


ちょっとカメラが埃で曇ってますね。
デフォルメしている訳ではなく明治の日本人はこんな感じだったのだと思います。
コンサートはこんな感じです。


さすがに王子ホールに比べると音響はあまり良くありません。内装はロンドンのグランドロッジやフランスのグラントリアンのグランドロッジに比べるとさすがに近代的で、ネットの定礎の写真を見ると昭和56年出来たようで比較的新しい感じですが、特にスコティッシュライトホールは日本人のスコティッシュライトのメンバーが少ないこともあってか米軍のクラブ的な雰囲気が強い感じでしょうか。今回のコンサートは比較的日本人が多い感じでした。久々に会うロッジのメンバーがたくさんいたのでほとんどフリーメイスンリーの会合みたいな感じでした。
内容は歌劇「魔笛」より序曲K.620 二つのヴァイオリンのためのコンチェルトーネK.190 交響曲第40番ト短調K.550でした。大体三曲くらいなんですが選曲と並び、曲の紹介なんかが絶妙で毎回素晴らしいです。楽団との呼吸も素晴らしく、場所も今回は非常に良かったのですが、毎回素晴らしいコンサートです。この場所は普通の日本人にはなじみが薄く、周りも大使館があったりしていかつい警察官の警備があったりしますが、色々イベントがあるときには入る事ができるので興味があれば色々調べて予約を取って訪問してみてください。2月11日の建国記念日ももちつき大会をやるみたいです。恐らく前の駐車場でやるのだと思います。東京タワーが間近で見られるので家族連れに良いかと思います。


隣のブルーロッジの写真
ネット上で良く出てくる方ですね。こんな光ったヤキンとボアズの柱は見た事はありませんでした。
ここでは日本語で全て儀式を行う有名なNo.11東京友愛ロッジが儀式を行っています。ブラザー鳩山一郎がマスターをつとめたロッジの流れを受け継いでいると思います。


ホールのある地下二階のエレベーター前にかけてある墨跡 荘子の言葉「規矩準縄」(2016/5/6訂正:孟子ですね。検索した元もすべて訂正されているようです。)
意 味: 物事や行為などの標準となるもの。規準・法則のたとえ。
解 説: 「規」はコンパス、「矩」は物差し・定規のこと。「準」は水平器、水準器。「縄」は墨縄のこと。「規矩」「準縄」ともに規則、法則の意で、同じような語を重ねて、意味を強めた言葉。
四字熟語データバンクより
まさにフリーメイスンリーのシンボルを用いた言葉が中国古典にもあるのですね。日本グランドロッジらしいものかと思われます。


入り口付近にあるシンボルの彫刻
Gravestone Symbolismによりますと、Father Time and the Weeping Virginというフリーメイスンリー特有のシンボルで、折れた石柱は一般に夭逝を意味するのですが、それを嘆く乙女とそれを後ろから優しくなでる大鎌をもった天使という構図のようです。シンボルの説明は次の通りです。片手にアカシアをもち、もう一方に骨壷をもった処女が泣いていて、その前に折れた石柱があります。彼女の後ろに父なる時間がいて、彼女の巻髪を解こうとしています。これは全体として時間や忍耐や我慢することが全ての物事を達成するという象徴です。
物事を成すにはまず耐える事、我慢する事、そして時間が解決するという事なのでしょう。神様、天使を意味する男性の顔が幾分日本人らしいのがやはり日本グランドロッジらしいのだと思います。


ロシア大使館方面からみた東京タワー
外は寒いです。東京タワーはいつ見てもきれいでした。まだ先が曲がっているんですね。 
警備の警察官も大変そうでした。


2012-01-30 09:20 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さてでは池については大体検討したと思うのでそれ以外の所を見ていく事にしましょう。
間がちょっと空いたのでおさらいすると、八つの入水口がありそれらが横須賀の市章の八芒星に対応する事。一つが北極星を表し、八紘一宇の思想をあらわしている事。周囲のモザイクと、入水口の四角い石の数と合わせて秩序と無秩序、陰と陽、善と悪の二元対立をあらわしている事でしょうか。
11と111のユダヤ教やキリスト教の関連はあまり詳しくないのでほどほどにお聞きください。

次にやはり気になるのはパーフェクトアシュラーがどこかにないかという事になるかと思います。フリーメイスンリーのシンボリズムに詳しいのであればどこかに必ずパーフェクトアシュラーを示して、そこにフリーメイスンがいたよという証しを残すはずだからです。

パーフェクトアシュラーの例 日本グランドロッジのシンボル
そこで正方形に意識を集中して探すとありました。


スピーカーですね。またもや金属製で中身はスピーカーですが、まごうことなき正方形でラフアシュラーをあらわしているものと思われます。石じゃないから厳密にはシンボルではないのですが、ここまでの流れでわかると思いますが、ここ三笠公園は明らかにフリーメイスンが直接かかわったものではなく、フリーメイスンリーの知識を持った人が一部フリーメイスンリーに対抗意識というか共通点を見出だして作り上げたという感じなのだと思います。なのでむしろ八紘一宇を表現するラフアシュラーに重点を置き、この音楽噴水の主役ともいえるスピーカー群をパーフェクトアシュラーを示す正方形の金属で象徴しているのです。実はこの公園にはこの他にもパーフェクトアシュラーを示すものがあって、それが街灯なのです。


こちらもこった街灯が並んでいます。
スピーカーのパーフェクトアシュラーは数を数えると27個あります。
街灯は池の周囲で16本、途中の小さなアーチの周囲で5本、東郷平八郎元帥の銅像の周囲で一本に2個ついたものが8本、16個であります。

さて27という数字ですが、これは何を連想するでしょうか。説明しなくてもわかると思いますが、3×3×3で3^3ですね。東京タワーの高さが333メートルという所と深く関係するのではないでしょうか。光と音、電気によってもたらされるその部分にパーフェクトアシュラーを模した金属の正方形を配置し、それらがフリーメイスンリーがもたらした電気という文明の利器で供されている事を我々にそれとなく伝えているのだと思います。

さてこの27という数字はこの公園で他にも認められます。それはどこでしょう?


実は石の壁に上る左右の階段が下面の高さから一番上までちょうど27段なのですね。
スピーカーと階段で3つの27を表現しています。ちょっとくどいような感じですが、恐らく東京タワーの333メートルの意味から意趣返しみたいな感じではないでしょうか。昭和33年の現在の天皇陛下の誕生日12月23日に建設されたのですね。

さてその他にもこの公園には数にまつわる秘密があります。それはどこでしょう?
それはグーグルアースで良くわかるのですが、四角の模様ですね。


横須賀市の市章を模したものが池以外の流水口でも認められ、さらに池の左側の床にも認められます。そしてその他にいくつもの四角い模様が床にあるのですが、この数を数えると面白い数字が出てきます。
まず石の壁の上部の部分の床に12個あります。
そして池のまわりに左側に21個の四角と一個の市章のマークがあり、右側には四つの四角と一個の二重四角、二つの丸があります。これらは何を意味するのでしょうか?答えはやはり北極星と関係しています。

実はさらに怪しげな石の組が石の壁の前の池の中にあります。


この数を数えるとちょうど23個になるのです。
石の壁の上と組み合わせると12と23です。この数字で何を思い浮かべるでしょうか?
実はこの公園にはこの他にも12と23の数字の組み合わせがあります。


東郷平八郎元帥の銅像の周囲の四角の模様を数えると普通の四角が11個、二重の四角が12個、合計23個あるのですね。12と23、さらにユダヤ教の11でしたっけか。さてでは12と23は何を意味するのでしょうか?

だいぶくどい気がしますが、12月23日は平成の時代の今上天皇陛下の天皇誕生日ですね。
12月23日はその他にはA級戦犯の東条英機が絞首刑になった日でもあります。
さてそれでは池の周りの四角は何を意味するのでしょうか。二重四角一つに丸二つ、右と左を合わせると四角が25個です。これも自明だと思いますが12月25日はクリスマスですね。

さてこの辺から話が本題になってくるわけです。



2012-01-31 12:53 | カテゴリ:横須賀
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
さて佳境に入ってきた三笠公園の謎シリーズですが一応八紘一宇にあわせて八回で終わる予定です。

12月23日の天皇誕生日にまつわる数字の暗号ですが、果たしていかなるメッセージなのでしょうか。
まず仏教を象徴する8とキリスト教、ユダヤ教を象徴する111や11といった数字が認められることから、一つは平成の今上天皇陛下の誕生にまつわりキリストの生誕日とされる12月25日のクリスマスに合わせて必然的なめぐりあわせがあったように示唆しているというメッセージでしょうか。
これに関して明治維新以降の天皇家に関してキリスト教の祝祭日と天皇陛下の生誕、崩御の日が関連するものがあります。

まずキリスト教がかなり普及した大正時代の大正天皇ですが、崩御日は1926年12月25日のクリスマスの日で、生母である柳原愛子に抱かれた状態で葉山御用邸で亡くなられました。現在の皇太子ご夫妻の一人娘が愛子さまという名前であるのも関連があるのでしょうか。
また大正天皇に関しては誕生日が8月31日であったそうですが、この翌日のほぼ正午ちょうどに関東大震災は発生し東京は壊滅状態となりました。余談ですが大正天皇の陵墓は昭和天皇の陵墓とともに高尾山の麓にあります。昭和天皇の陵墓より一段高くなっているのが大正天皇に対する昭和天皇の一つの評価なのではないかと私は思っています。
昭和天皇は1989年1月7日に崩御されましたが、これはキリスト教で公現祭というキリストが神性をあらわした事を記念する日の翌日であり、公現祭自体はローマ帝国のオシリスの誕生日として祝われていたそうです。またこれはあまり日本では有名ではありませんが、8月15日の終戦記念日はカトリックの聖母被昇天の日とされ、カトリックの祝日です。終戦記念日となったことで日本ではあまり有名ではなくなったということだそうです。
ちなみに戦陣訓を作りながら自決に失敗しA級戦犯として巣鴨プリズンで絞首刑に処せられた東条英機は、1948年12月23日の平成の今上天皇陛下の誕生日に処刑されました。彼の誕生日は明治天皇が崩御した7月30日だそうです。彼が自決しようとした日は9月11日であったそうですがこれは深読みでしょうか。東条英機自体は巣鴨プリズンの中で浄土真宗に帰依して笹川良一と交友をもったそうです。彼が権力を握るに至った2.26事件や5.15事件のきっかけとなる日本陸軍(徽章は五芒星)の内部対立である皇道派と統制派の最初の出来事は第一次世界大戦後のドイツ留学中のバーデンバーデンの誓いと呼ばれるものでした。バーデンバーデンはモーツァルトの妻が療養に出かける有名な温泉保養地でありました。(3/3追記:モーツァルトの妻が療養に出かけたのはバーデン・バイ・ウィーンで別の療養地のようです。)
クリスマス自体がミトラ教の冬至を祝う祭日から転用した事は今日では有名な話だと思います。

フリーメイスンリーに関する日としては1717年にイングランド合同グランドロッジが結成した日が聖ヨハネの日6月24日です。ウィキペディアで見てもジャコバン憲法の発布くらいしか目立ったものはなさそうです。(追記2/19:夏至だそうです。もう一人の使徒ヨハネの日が冬至の12月27日に当たるそうです。)2月14日のバレンタインデーはローマ帝国時代のキリスト教迫害時代の伝説の司教である聖ヴァレンティアヌスの殉教日とされるようですが、これもクリスマスと同じく、もともとローマ帝国の女神の祝日であったようです。

さてでは三笠公園に戻るわけですが、結局12月23日の天皇誕生日とクリスマスとの関連を示唆することで天皇家(国家神道)、キリスト教、ユダヤ教、仏教との関連を示してそれらが皆究極的にはつながるという事を示しているのではないかと思われます。もちろん三笠公園が整備されたのが昭和62年でまだ昭和天皇が御健在であったことなどを考えると、笹川良一さん達の様々なメッセージも垣間見える事は出来るかと思います。ちなみに昭和62年5月24日、「三笠保存会」は公園の完成にあわせて、「日本海海戦80周年記念行事」を挙行したそうですが、この5月24日という日はウィキペディアで調べると1903年に日本初のゴルフ場・神戸ゴルフ倶楽部が開業とあります。この神戸ゴルフ倶楽部を作った人はトーマス・グラバーの友人のアーサー・ヘスケス・グルームという人で、六甲山を開発した神戸外国人居留地に居た方ですが、ウィキペディアを見ると最後は日蓮宗に帰依した珍しい人で、最後は転倒して頭を打って亡くなっており、様々な宗教的な逸話が書かれています。フリーメイスンであったかどうかは知りませんが、六甲山開発にまつわる逸話として非常に興味深い人物であり、三笠公園の話と絡めても非常に示唆的であるかと思います。

さてでは数字の日付にまつわる話以外の、その他のシンボルに話を移しましょう。


これはなかなか気づきづらいと思いますが、ヤキンとボアズの二本の柱ですね。恐らく作られた方は意識していないと思いますがフリーメイスンリーのシンボルですね。


横須賀のふるさとの音楽が流れる正三面体のピラミッド、上から見るとヘキサゴンになっていますが、正四面体ではなく正三面体です。ユダヤ教の本質が民族教、日本の郷土信仰と一緒だという事を示すのでしょうか。(追記:作曲者は團伊久磨さんで、三井の総裁に上りつめて血盟団事件で暗殺された團琢磨さんの孫だそうです。正三面体なのは恐らく三井を象徴する珍しいピラミッドではないでしょうか。横須賀と縁が深い三井系電気会社の東芝が関わっているのでしょうか。)この周辺は植木が5本であったり、戦艦三笠側と噴水側の間をつなぐ階段が8段であったり、街灯が5本であったり、床の正方形が5+3=8となっていたり、3,5,8という数字が繰り返されます。恐らく8は仏教、アジアの象徴、5は五芒星などからカトリック、キリスト教の象徴、3はフリーメイスンリーの象徴かと思われます。間にある小さなアーチはやはりRoyal Arch Masonryからもキリスト教のアーチの象徴かと思います。


シドニーのオペラハウスのような形をした舞台があります。これはよくわかりませんが、神戸にも似たようなものがあり象徴の一種なのかもしれません。(4/1追記:Gloryになるのかと思います。All Seeing Eyeの周囲でしょうか。)背中に3つのアーチがあります。三笠公園の入り口のアーチと、真ん中とこの後に紹介するアーチを意味するのではないかと思います。

ベンチに不思議な記号が書かれています。これはよくわかりません。配置も変わっています。
カシオペア座のように見えるものもあり、直角定規のようにも見えますがわかりません。配置も星座でしょうか?御前会議や何か意味するのでしょうか。屋根は上から見るとSの形のようです。(昭和天皇を意味するのでしょうか?笹川のSかもしれません。周囲のギリシア語のファイの字やその他の記号はちょっと意味がわかりません。わかりそうな方は教えてください。)(追記:カシオペアは北極星、天皇陛下を示すものと思います。隣のファイはギリシア語のφで黄金比を示すものらしく、黄金比=五芒星だと思われます。カトリック信仰なのだと思います。すなわちこのブログにある通り昭和天皇のカトリック信仰を示すのだと思います。)


アーチと舞台の間は三笠山をモチーフとしているのだと思います。奈良にある三笠山ですね。
天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも 阿倍仲麻呂


この公園のメインモニュメントであるアーチですね。
入り口、途中、最後にこのアーチで3つのアーチでキリスト教系のRoyal Arch Masonryの3つのシンボルとなるのだと思います。これはなかなか日本人には分かりません。


世界につながるという事を象徴しているのだと思います。
気づけば三笠公園の噴水池の石の壁の後ろには横須賀米軍基地の三つの入り口の一つの三笠口があります。2月には清掃のボランティアを募集していました。(追記5/20:横須賀米軍基地の入り口はダイエー口、正面ゲート、三笠口、三笠公園口と4つあります。3つではありません。)


三笠公園は特別に横須賀みかさライオンズクラブが関わっているのですね。All Seeing Eyeのようでもあります。横須賀みかさライオンズクラブと三笠記念会が具体的に建設に関わり、米軍を含めたフリーメイスンリーがそれを監督したのだと思います。全体にライオンズのLの形を象徴しているようです。