2013-11-24 10:53 | カテゴリ:スコットランド
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
Far East Lodge No.1のホームページにあるROBERT BURNS AND ADAM SMITH BY BRO. KOICHI TERASAWA Junior Warden, Square & Compass Lodge No. 3の邦訳です。それほど難しい用語や表現は無いので簡単に読めると思いますが、やはり日本語だと分かりやすいかと思います。

ロバート・バーンズとアダム・スミス ブラザー寺澤廣一 副監督官 スクエアコンパスロッジNo.3

ロバート・バーンズは1759年生まれで、エアシャーの吟遊詩人とか、スコットランドの最愛の息子、また時にはスコットランドの国民的吟遊詩人と呼ばれたりしている人物ですが、また同時に彼が1796年の6月21日に37歳で死ぬまで彼の人生の15年間に渡ってフリーメイスンとして活動していたことも良く知られています。

一方でアダム・スミスは1723年の6月5日にエディンバラの15㎞北にあるカークカルディーで生まれた(受洗した)とされ、67歳で1790年6月17日にエディンバラで亡くなりました。彼もまたスコットランドの有名な道徳哲学者であり、また政治経済学者の先駆けであり、1759年の「道徳情操論」と1776年のレッセ・フェーレ(自由放任主義)に基づく見えざる神の手の言葉の「国富論」の二冊の有名な著作があります。
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彼ら偉大な優れた二人のスコットランド人は同じ18世紀の後半の時代を生きました。バーンズが1786年に27歳の時に最初の彼の詩集である「おもにスコットランド方言による詩集(キルマーノック版)」を出版した時には、スミスは二冊の著作ですでに名声を得ており、スコットランドの税関局長のポストを約束されており、「エディンバラ王立協会」の創立メンバーの一人であり、エディンバラに母親とともに住んでいました。バーンズとスミスには何かつながりがあったのでしょうか。確かにありました。アダム・スミスはバーンズと直接会う機会が無かったのですが、彼が詩人として成功するのに重要であり必須な存在でした。

ロバート・バーンズは1759年の1月25日にスコットランド、グラスゴーの南西50㎞にある、エアシャー地方のエアの南にあるアロウェイの借地農家のウィリアム・バーンズの長男として生まれました。彼には3人の妹たちと3人の弟たちがいて、10代の間は彼の家族とともに農家としてすごしました。彼は1781年7月4日にターボルトンのセントデヴィッドロッジにブラザージョン・ランケンの紹介でフリーメイスンリーに入会し、そこで1781年10月1日に第二階級、第三階級となりました。ターボルトンのセントデヴィッドロッジは彼が入会した直後にターボルトン(キルウィニング)のセントジェームズNo.135ロッジに合併吸収し、彼はそこで1784年7月27日に彼がマスターメイスンとなって3年後に25歳で尊崇すべきマスターサー・ジョン・ホワイトフゥアドの元でロッジマスター代理に選出されました。彼はマスター代理として4年間1788年まで活動し、最高の指示でもって何度か顕彰されました。
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その時代には、ロッジマスターは単なる飾りであり、実際にはマスター代理がロッジの活動を取り仕切っていました。1784年のフリーメイスンリーの活動では彼は全てのロッジの会合に出席し、ロッジの活動に深く関わっていて、他のブラザーの第二階級や第三階級への昇級や通常のロッジの運営に関わる9回の会合に出席していました。

1785年の間にマスター代理として彼は彼の弟であるギルバート・バーンズを入会させて第二階級に昇級させ、1788年3月1日に彼は第三階級に昇級しています。彼はフリーメイスンリーに真に情熱を注いでいて、彼は真のフリーメイスンリーの友情はブラザー達の集まりの親密さを増し、ロッジルームから離れることは難しいと考え、数多くの会合が彼の指示の元に行われました。いくつかの記録によるとその他の時代のものよりもバーンズの時代のものが数多くの出席者が認められる会合が多かったとありました。彼は非常に人気があり非常に信頼されたエアシャー、ターボルトンのターボルトン(キルウィニング)セントジェームズロッジNo.135のマスター代理でした。

彼のフリーメイスンとしての最初のキルマーノック版の詩集「おもにスコットランド方言による詩集」が出版されたのは1786年の4月16日で彼がフリーメイスンリーに入会して5年後で彼がロッジのマスター代理であった時でした。620部が彼の最初のキルマーノック版では出版され、567部がエアシャーのフリーメイスン達に予約注文され、そのうち145部がロバート・アイケンという法律家、ガヴィン・ハミルトンという法律家が40部、ハミルトンの親戚のジョン・ケネディが20部、ハミルトンの友達のジョン・ローガンとデヴィッド・マクウィニーにそれぞれ20部ずつ、ロバート・ミュールが72部、ジョン・ウィルソンが70部、ターボルトン(キルウィニング)セントジェームズNo.135ロッジのマスターであるサージョン・フィットフールドが35部、その他のロッジのメンバーが75部、そしてギルバート・バーンズが70部注文し、彼の詩人としての才能の評価はフリーメイスンリーの友愛結社の繋がりを通してエディンバラを駆けめぐりました。バーンズは50ポンドをエディンバラへの出発前に印税として受け取りました。

バーンズの詩人としての人気はスコットランドでのフリーメイスンリーでの彼の昇進を助けました。1787年のエディンバラのセントアンドリューロッジNo.48の会合でスコットランドグランドロッジのグランドマスターが出席した際に、最も尊崇すべき兄弟フランシス・チャタリスグランドマスターによって乾杯されました。彼がエディンバラのロッジに迎えられたとき、彼の職業は詩人として記録されました。1787年初頭、彼はエディンバラのフリーメイスンリーの友愛組織によって祝宴を開かれました。バーンズの人生のエディンバラの時期にはバーンズの詩人としてのさらなる出版はエディンバラのフリーメイスン達による出資によるものが運命付けられており、それで彼の名声がスコットランド全体に広まり、次にはイングランドでさらに海外に広まることが確実なものとみなされました。

それでアダム・スミスとロバート・バーンズの関係はどんなものだったのでしょうか。彼についての通常の伝記では彼は既にスミスのグラスゴー大学での講義の「道徳情操論」を24歳になる前には読んでいて、恐らくそれは最も確実なのは17歳の時であって、彼はこの本から非常な影響を受けたと言っていました。彼は熱烈なアダム・スミスの崇拝者でした。バーンズが1786年の12月に初めてエディンバラに来た際には、スミスは既に政治経済学者の草分けとして有名であり、彼は「オイスタークラブ」という名のエディンバラの何人かの名士と共にきちんとした昼食会クラブを主宰していました。ほとんど全てのオイスタークラブの主要な会員がフリーメイスンであり、彼らはバーンズをフリーメイスンの友愛をもって支援しました。ジョン・マッケンジー、ベイシル・ウィリアム・ダグラス・ハミルトン(デール卿)、アダム・ファーグソン(エディンバラ大学教授)、ウィリアム・ロバートソン(エディンバラ大学学長、教授)、彼らは全てフリーメイスンであり、主要なオイスタークラブの活動会員であり、バーンズの「おもにスコットランド方言による詩集」(エディンバラ版と呼ばれている)の第二版の出版を支援しました。

スコットランドの有名な詩人であり作家でありフリーメイスンでもある、バーンズを敬愛するサーウォルター・スコット(1771‐1832)がバーンズと1788年にファーグソン教授の客間で彼が17歳の時に面会したというエピソードがあり、これはスコットがファーグソン教授の息子と級友で親しい友達であったからでした。
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アダム・スミス自身はそれらオイスタークラブの会員の活動には巻き込まれておらず、スミスは既にバーンズの才能について初版から知っており、エディンバラ版の「おもにスコットランド方言による詩集」の予約をしており、バーンズは強く彼に会いたがっていました。バーンズのスミスと面会したいという希望について考える際に、バーンズとスミスの間を取り持ったひとりの重要な女性、フランセス・アナ・ウォレス・ダンロップ夫人という女性がいます。彼らはキルマーノック版の詩集が出版されたのちの1786年には文通を始めていて、彼女はバーンズの支援者となっていました。彼女は1787年3月の手紙の中でバーンズにスミスと面会するよう助言していましたが、スミスは既にエディンバラを離れてロンドンに胃の治療のために移っており、バーンズは唯一の機会を逃してその後も二度と彼と会う事はありませんでした。

アダム・スミスの存在抜きにはロバート・バーンズの詩人としての成功はありえず、エアシャーの吟遊詩人やスコットランドの最愛の息子となる事は無かったでしょう。

アダム・スミスはフリーメイスンだったのでしょうか。彼のフリーメイスンとしての記録は確認されません。彼が1790年6月17日に67歳で亡くなった後にある理由で彼の個人的な私生活に関わるすべての書類と遺物は焼かれてしまい、またエディンバラ管区の中では彼がフリーメイスンであったという記録はロッジでは認められませんでした。それで恐らく彼はフリーメイスンではありません。例え彼の人生がフリーメイスンの人生そのものだったとしてもです。

1776年の「国富論」の出版後より、彼はスコットランド政府に表彰されて年600ポンドの生涯年金を受けていて、スコットランド税関局長としての給料と本の印税を含めて年収は900ポンドになっていました。この収入はその当時の通常の大学教授の収入の3倍から4倍のものでした。彼は結婚しておらずエディンバラで母親と同居して簡素な暮らしをしていました。彼の死後、彼は年収の9割を匿名でフィランソロフィーの慈善活動に寄付していた事が寄付された側により明らかにされました。彼はさらに有望な芸術家やオイスタークラブの奨学金受給者の研究者を支援していました。彼の人生は兄弟愛、救済、真実の信条に貫かれたまさにフリーメイスンのものと同じものでした。

18世紀の後半はヨーロッパの政治状況は混乱を極めていて、アメリカ独立戦争(1775-1783)、フランス革命(1789-1799)、英仏戦争(1793)などがあり、バーンズやスミスを含む知的階層の多くの人々はそれらの劇的な社会情勢にある程度巻き込まれていました。面白いことにそれらの知的階層の人々は興味の対象の分野が例えば詩や経済、政治、哲学、医学、法律など異なっていても、何らかの相互扶助の友愛団体の関係に結ばれていました。実際にアダム・スミスは高名なフリーメイスンであるベンジャミン・フランクリン(1706‐1790)やトーマス・ジェファーソンやその他のアメリカやフランスの指導者たちと繋がりをもっており、彼は非常に興味深いその時代のヨーロッパの学者であると同時にフリーメイスンと繋がりをもった、フリーメイスンになる可能性をもった人物でありました。

最後になぜロバート・バーンズはフリーメイスンとなり彼はフリーメイスンとしての人生をどのように過ごしたのでしょうか。

18世紀の後半は啓蒙の世紀でありまたアメリカ独立戦争やフランス革命などで混乱の時代でありました。ロバート・バーンズは詩人としてイギリスロマン主義の黎明期の詩人として非常に興味深い人生を過ごしました。

この時代には啓蒙運動はヨーロッパの国々を駆けめぐりました。例えばフランスではこの活動はフランス王ルイ16世による旧体制からの自由の獲得として政治活動となりましたが、イギリスよりは知識の普及という点に重きをおいたものでありました。これらは各国の状況の違いによるものでありました。

バーンズが詩人として世に現れたとき、彼は非常に貧しい農民の詩人としてなんら教育された背景を持たないというものでありました。確かに彼は非常に貧しかったのですが彼は大学を卒業していなくとも沢山の本を読んでいてそれらを完璧に理解していて、非常に多くの知識を持っていました。彼は既にアダム・スミスの「道徳情操論」を恐らく17歳頃に読んでいました。彼はまたジャン・ジャック・ルソー(1712‐1778)によって1754年に出版された「人間不平等起源論」を読んでいて大いに影響されていました。彼はそういった本を読みながら、農民として働く合間に詩を作り、さらに農民の仲間ができるだけ多くの本を読むように助けました。彼がフリーメイスンとなって7年後の1788年9月に「モンクランド友愛結社」を自営農家であったロバート・リデルと結成し、移動図書館の仕組みを発展させて地方でも農民が本を読めるようにして、彼はそれら下層階級の人々が啓蒙される事は社会にとっても個人としても重要であると考えていました。彼の啓蒙活動は彼個人のためではなく、彼の同胞たちのためでもあり、フランス革命で歴史的に背景となった自由・平等・博愛の精神に貫かれたフリーメイスンリーの精神によるものでありました。

一方で18世紀のその時代にはスコットランドとイングランドは政治的には一つのイギリスとして統合されていましたが、感情的な敵対心はまだ存在し、一つに精神的に団結するというところには至っていませんでした。バーンズは彼の詩を通して兄弟愛の精神に基づいて二つの国が団結するように促すよう唱えました。彼の慈善精神は十代に育まれ、彼の性格は自然とフリーメイスンリーへの道を導きました。フリーメイスンリー組織は当初は彼の詩作よりも彼の精神を大いに受け入れ、後に彼らは彼の非常な詩作の才能を知るようになり彼を支援するようになったのです。

ロバート・バーンズが偉大な抒情詩人であることは間違いありませんが、彼の初期の作品、キルマーノック版やエディンバラ版ではいわゆる抒情詩はわずか1割しかありません。彼は600以上の詩を37歳で死ぬまでのわずかな間に作っていますが、多くの彼の詩は人間の権利の重要性や平等の原則、慈善や兄弟愛についてで占められています。いくつかの詩では奴隷の解放についてや男女の平等性について触れられています。
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彼の姿勢の典型的な例はは1794年の6月25日に書かれた「ワシントン将軍の誕生日に寄せて」というジョージ・ワシントンの誕生日に彼を賞讃する詩に認められます。これは政治的な詩で彼のフランス革命の精神に対する同情の気持ちを示していて、イギリスにおける自由の抑圧を深く悲しむとともにワシントンが自由を勝ち取るために尽力していることを賞讃しています。

また1838年のエディンバラのチャンバース版として出された際にバーンズの死後40年たって初めて出された「自由の木」というフランス革命を賞讃した詩があります。それは彼の死から時間を経て発見され、彼の自筆では無かったため、それが彼の真作であるかどうかで激しい議論が続けられていて、現在も未だに議論のあるものです。トーマス・クロフォードらによる熱心な研究の結果として1960年にはそれが彼の真作であると知られるようになり、それからバーンズ全集に含まれるようになりました。その詩は1793年か1794年に書かれたものとされ、その間彼はいかなる政治的な詩も発表してはいけないとされていた時期で、それは彼の慈善と人間性の基本的な精神を示しています。

ロバート・バーンズは人間性と慈善に満ちた人物であり、彼の強い神への信仰と彼自身の考えと慈善の精神に基づいた自然な結果としてフリーメイスンとなりました。彼は600以上の詩を彼がフリーメイスンである15年間に作り、1796年の7月21日ににスコットランドのダムフライズで37年の生涯を終えました。

参考文献

岡地嶺 ロバート・バーンズ―人・思想・時代開文社 1989年
難波利夫 詩人ロバート・バーンズ伝 (1977年)東洋出版 1977年
ロバート・バーンズ研究会ロバート・バーンズ詩集国文社 2002年(2009年の新しいものをすでに挙げています。)
ジェームズ・ギブソン・ロックハートLife of Robert Burns Vol. I & II, published by Henry Young and Sons, Ltd. in 1914(アマゾンのものとは編が異なります。)
Web Site of Lodge Tarbolton (Kilwinning) St. James No. 135 (http://www.thefreemasons.org.uk/tarbolton135/)
ジェームズ・ギブソン・ロックハート、佐藤猛郎ウォルター・スコット伝彩流社
この記事は著者であるブラザー寺澤廣一の許可により再掲されています。
(翻訳については特に確認はとっていません。)

どうでしょうか。フリーメイスンによるフリーメイスンリーの歴史の細かい研究の成果を感じられる内容かと思います。ブラザー寺澤廣一氏については直接会ったことはありませんが、研究者としての専門は特にフリーメイスンリーの歴史についてではないそうですが、私の前にフリーメイスンリー歴史学会に参加されていたようです。フリーメイスンリーの歴史については深沢克己という方が著作を出されていて、この方はフリーメイスンかどうかは分かりませんがいくつか著作があるので読んだら触れていこうと思っています。このブログのブラザーロバート・バーンズの著作や周辺の記事と共に読むとさらにより深いフランス革命、アメリカ独立戦争、スコットランド啓蒙運動、フリーメイスンリー、スコットランドについて知識を深める事ができるのでは無いでしょうか。最後に挙げられたブラザーワシントンへ捧げる詩と自由の木の詩についても訳など出来ましたら記事としたいかと思っています。なかなか翻訳も大変ですが、有益な外国の情報をそのまま伝えるには最も良い手段であるかと思われます。現在ブラザーダン・ブラウンの新作「インフェルノ」の翻訳出版を待っているところですが、期待して待っているところです。
このブログではアンダーソン憲章とモラルアンドドグマを翻訳できればと考えています。
2013-11-24 16:22 | カテゴリ:東京
ジャンル:ニュース テーマ:フリーメイスンリー
とってつけたような突然の記事ですが、前二回を中途半端な形で終わってしまったので今回は訪問したわけではないのですが、見過ごしていたシンボルが多数ありましたのでこれは記事にしないとまずいという事で、東京オリンピックや猪瀬知事の事件など色々ありますが、そうしたものとも関係してそうな東京お台場のフリーメイスンリーのシンボリズムです。このブログでも東京オリンピックのシンボルマークについて一旦記事としましたが、ちょっと内容的に色々その後の経緯もあり十分ではないと削除しましたがそういう関係もありそうなところかもしれません。
で、以前は逆ピラミッドとしてスカイツリーとも絡めた東京ビッグサイトなんですが、なんとそのそばには正真正銘のフリーメイスンリーの象徴となるピラミッドがあるそうです。
お台場
のこぎりのオブジェと一緒にあり、のこぎり自体はフリーメイスンリーのシンボルとはちょっと聞いたことはありませんが、まあ明らかに大工や石工の道具である事は確かであり、ピラミッドと合わせてそういう建築を意識したシンボルなのだと思われます。
のこぎりのオブジェの作者の方はクレス・オルデンバーグというスウェーデン出身のアメリカ人の現代芸術家の方の作品で、出身や誕生日を見るとほぼフリーメイスンなんでしょうが、作品はすべてがフリーメイスンリーのシンボリズムというわけではなさそうです。また隣のピラミッドとの関連性は現地に行っていないので不明です。
紹介のページがあったので転載します。

オルデンバーグは 1929年1月28日、スウェーデン・ストックホルムで外交官をしていたスウェーデン人家庭で生まれました。 1936年、オルデンバーグ7歳の時にアメリカに移住。 家族の都合や学校の都合でニューヨーク、シカゴと移り住み、1946年からエール大学で彫刻や芸術に本格的に取り組むようになりました。

 1960年代にポップアートの世界に深く足を踏み入れ (この頃、最初の結婚をしています)、しばしば人々から嘲られたり笑われるような奇抜でチープなオブジェを次々と制作。 しかし大衆的で分かりやすくインパクトもある彼の作品は、徐々に受け入れられていきました。

 当初は布製のオブジェや空気を入れて膨らますようなおかしなオブジェも作っていましたが、1976年にオランダ出身の女流ポップアーティスト、コーシャ・ヴァン・ブリュッゲン (Coosje van Bruggen) と共同生活を営むようになり、翌 1977年に結婚。 それまでの作風や既存のポップアート運動を消化し取り入れ発展させるような作品をさらに意欲的に発表するようになります。

まあフリーメイスンリー国家であるスウェーデンの外交官の家に生まれて、1月28日のいわゆるユダヤ教の木の記念日の週間に生まれているわけですから、もうここまで条件がそろってくると本人がフリーメイスンを意識したりしなかったりすることはほとんど意味をなさないレベルなのだと思われます。
他の作品を見てみて明らかにフリーメイスンリー関連のものをあげます。
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まあその他は全然関係ないものがほとんどなんですが、その中では鋸はシンボルとはならないが明らかに大工道具という境界上のものをチョイスしているというところが面白い所でしょうか。
まあ上のビッグサイトのピラミッドの方は周囲に明らかにパーフェクトアシュラーを意識した柱も立っており、上向きの通常のピラミッドと下向きのビッグサイトのピラミッドで安定を意味するシンボルとなっているようです。なかなか侮れませんね。そのうち機会があればお台場のフリーメイスンリーグッズを売っているというストレンジラブなる店と一緒に見学してこようと思っています。
またちょうどこの辺りから見えた事で以前記事にした東京スカイツリーについても634メートルの意味というのが分かったのでここに書いておきます。
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まあ土地柄東京大空襲で最も被害が多かった場所でもあり巨大な仏塔であるという意味は良いと思うのですが、その高さの634メートルが武蔵にかけた語呂合わせと公式にはされています。で、この634という数ですが、素因数分解するとなんと素数である2×317の半素数なんですね。半素数というのは暗号作成に使われる鍵となる数という事で、まあ偶数の半素数では意味が無いわけですが、そういう可能性があるという事でしょうか。いずれスカイツリーを訪問した際にはその辺りを探ってこようかと思います。

で、後はお台場の近くのフリーメイスンリーのシンボルと言えば湾岸線からも良く見える晴海ふ頭のピラミッド型の屋根が目立つわけです。
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ここも訪問した事はないわけですが、画像を見るとどうもやはり下向きのピラミッドが多めに配置されている感じでしょうか。明らかにパーフェクトアシュラーのオブジェも認められるようです。恐らく東京が最もパーフェクトアシュラーの数では多いのでしょうね。下向きのピラミッドが多めなのはやはりカトリックとのバランスを示唆しているのだと思われます。めったに訪れる機会もないわけですが、東京港の歴史から言ってもこの晴海埠頭が最もフリーメイスンリーとしてのシンボリズムを設置するのに好適な場所であったという事はあるようです。恐らくフリーメイスンリーのシンボリズムとしては横浜の外国人墓地に匹敵するかそれ以上のものなのだと思われます。

まあなかなか2020年の東京オリンピックに向けて建築や政治の状況など色々と熱い感じになってきた東京湾岸地域であるかと思います。2020という数字も非常に切りが良いまた日本を象徴する数字でもあるかと思いますので、前回が1964年で8×8=64の数字という事もあり、まあそういう様々な要素を踏まえて、綺麗な東京湾と共に明るく平和な日本の未来を期待したいと思います。
お台場周辺
最後にこの地域のグーグルアースを見てみました。やはりタウ十字の形はTOKYOの頭文字とも相まってなかなか良い感じになっていますね。そこにはやはり太陽十字の結婚式場と自由の女神、東京タワーがポイントなのだと思われます。その他のところはやはりパリの都市計画などと比較するとまあいまいちですよね。門にこだわったゲートブリッジと、鳥居の象徴性は良いところですが、なかなか三角形も直角三角形や正三角形、二等辺三角形ともなっていない中途半端な感じでしょうか。この他東京タワー、東京スカイツリーを組み合わせてもいまいちな感じです。まあこの辺りが東京の問題でしょうかね。後はやはりバラ園ですかね。ヴェルニー公園もそうですが管理が大変そうですが。
(追記:いわゆるシュッとしたシンボルの細い曲線のモニュメントですが、あれはどうもロンドンでの1951年の英国祭のシンボルとして作られ、ミレニアム頃にも構想があったものを模したもののようです。現在のロンドンにはなかったと思いますが、そういうロンドンを象徴するもののようです。フランスとアメリカの象徴の自由の女神、東京タワー、凱旋門風の建築と対応しているのですね。まあ若干下向きのピラミッドと一緒でカトリックや大陸フリーメイスンリーに偏っているのがお台場のようです。でもまあポイントにそういうイングランドグランドロッジのフリーメイスンリーのシンボルを入れてあるのがフリーメイスンリーです。
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形は多分オベリスクに由来するのと、聖火の形なんではないかと思います。拝火教のゾロアスター教ですね。Vesica Piscisにもなっているのかと思われます。)
(スカイロンという名前で1951年の英国祭で建築されたモニュメントの形のようです。ミレニアムにも計画があったそうですが、結局ロンドンアイが建てられたそうです。詳細は図説 ロンドン 都市と建築の歴史 (ふくろうの本)です。)
製作者の人のインタビュー記事がありました。イクトゥスについて触れたりしていますので、基本的にやはりVesica Piscisの形のシンボルのようです。ご本人はロンドンのスカイロンについてはもちろん触れてはいません。意識していない可能性は高そうです。高さの27mというのはもちろん3×3×3のようです。)

あと東京と言えば現在も開催中の上野の東京都美術館のターナー展は最高でした。the Making of a Masterの副題が最も鮮烈でありました。あれは日本で開かれた一人の芸術家の展覧会としては最も良いものではないでしょうか。現地のテートブリテンで見たときより良く分かり良くできていた印象を受けました。東京都美術館はかなり良いものにターゲットを絞って開催しているのでコンセプトが非常に良い印象を受けています。また上野はその他にも国立博物館も改修中で東洋館の展示も良かったですし、国立西洋美術館が若干箱根のポーラ美術館に常設展示を貸し出し中という事でカトリックのフリーメイスンリーではないですがやや迷走している印象を受けましたが必ず良いものとなると信じております。
(追記:ターナー展については検索すると感想ブログの数がかつてないほど多量に溢れてくるのが興味深いです。また開催者の許可を得たという作品の写真の紹介が多数認められるのも興味深いです。なかなかインターネットを効率的に利用した宣伝効果を感じさせるものであるかと思います。まあ内容の評価について若干疑問符がつくのがこのブラザーターナーの絵なわけですが、それは生前も死後も変わらないのかと思われます。このブログでの紹介が相当の嚆矢なのでしょうが、イギリスとしては英国絵画として最高の評価をしている訳で、まあ印象派やジャポニズム、伝統的な東洋の水彩画による風景画の技法と絡めて今後も評価が待たれるところなのだと思われます。)

後は全く関係ありませんが、JRのスキーのポスターがピエロとなっているようですが、これは前にもビリケンのところで挙げたRoyal Order of Jestersのシンボルであるのでそういう目で見てください。
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シュライナーズの一部なんですが、基本的に33階級などと同じで招待制という事で、まあフリーメイスンリーは大概そうなんですが、なんだかJRの格が上がったという事で温かい目で見てくださるようお願いいたします。
(追記:SEKAI NO OWARIというバンドのメンバーのようです。まあRoyal Order of Jestersのアピールかもしれませんが、武田製薬やその他の日本の有力企業が色々外国人経営者としたり様々なアピールのある時代ですので良く分かりませんがそういう関連だと思われます。)